人生の目的
人がたくましく育つにはある程度の負荷が必要です。ですから日本式の入試制度も乗り越えるべき関門として存在意義はあるのかもしれません。けれども負荷ストレスが強すぎると、そこから入試さえ乗り切れば事は足れりと思うような本末転倒が起きもする。日本の今年の大学入試で、なんらかの携帯機器からウェブサイトに入試問題の解答を求めるような輩が出てきたのもその結果なのでしょう。
日本では昔から何度も入試改革が叫ばれていますが、「年に一度の一発勝負」という原則はほとんど変わっていません。対してアメリカではご存じのように一般的に日本の入試のようなものはなく、高校各科目の成績評価平均点(GPA)と、それだけでは学校間の格差が大きいので年数回、全米で同時実施される標準テスト(SATかACTの2種類)の点数などを提出して大学側が総合的に合否を判定するようになっています。
最も一般的なSATの試験は選択科目や小論文も含み年に7回も実施されていて、ある回で失敗しても何度も受け直していちばん良い成績だった回の点数を希望大学に提出することができます。なので一発勝負で合否が決まる日本式よりもこちらの米国式の方が学生のストレスはかなり少ないと思います。
ただし大学の授業は大変です。これもかなり格差はありますが、大学は勉学での鍛錬の場という意識が浸透しています。背景はもちろん米国が大変な学位・資格社会であるということ。学部を修了しただけでは一流企業ではあまり意味がなく、ビジネススクールやロースクールなど大学院を出ていなければプロフェッショナルなキャリアは獲得できないという、有名大学さえ出ていればよいどこかの国の単なる「学歴社会」よりはるかに厳しいものです。
おまけに現在の大学の学費はハーバードやコロンビアなどの一流大学では年4万ドル前後にも達しているようです。寮費や生活費を含めると年6万ドルほどになりましょう。しかも学生の多くはその費用の大部分を親掛かりではなく奨学金や貯金など自分で工面する。そこまでお金を払うのですから真剣にならざるを得ません。日米の大学生の質の差はそんな経済環境の差でもあります。
「入るのは簡単だが出るのは難しい」と言われる米国の大学システムはこうして確立されています。まあ、入るのだって有名大学では「簡単」というほど簡単ではありませんが。
今回のウェブサイト・カンニングに、日本の情報番組のコメンテーターたちは異口同音に「まじめに勉強してきた者がバカを見るようなことがあってはいけない」と怒ってみせています。一見正論ですが、このコメント、私にはなんだか違うような気がします。
どの時代にもカンニングはあり、今回はたまたまネットを利用した新種のものだから驚かれたり騒がれているだけです。言うべきは逆に「そんなカンニングによって、まじめに勉強している者がバカを見るようなことは絶対にない」と教えてやることではないのか?
ズルして大学に入った者はズルして大学を出てズルして社会で生きて行くでしょう。そんな人生は得でもなんでもありません。そんなものに比べて「まじめな者がバカを見た」と怒ってはいけない。それは逆に「カンニングして大学に入った者が得をした」と言うことと同じことだからです。「どんなことをしても大学に入った者が勝ち」という宣言。批判しているはずのコメントが、じつはカンニングを許す論理に手を貸してしまっている。「だからカンニングをしてでも大学に入るべし」という倒錯に通底しているのです。
大学に入ることは人生の手段の1つであって目的ではありません。一連のコメンテーターたちのコメントは、人生の目的を入試合格という手段に卑小化することに貢献するだけなのです。日本の大学入試の負荷ストレスが歪んでいるのは、そうした論理破綻を見逃している社会の浅薄さにもあるのでしょう。そういえば、相談サイトに投稿された問題の解答として「ベストアンサー」と示された英訳例の、何じゃこれ?具合を指摘できたコメンテーターもいなかったなあ。あれは「まじめに勉強してきたものがバカを見る」ような恐れのあるものですらなかった。むしろバカを見たのはそれを丸写しにしたかもしれないカンニング者だったでしょう。ね、「まじめに勉強している者がバカを見るようなことは絶対にない」のですよ。