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April 27, 2011

ニューヨークにて

前々回のこのコラムに書いたように、東電と政府の情報の小出し作戦は日本の国民に余計な混乱を引き起こさないことに成功しているようです。最初からこの福島第一の事故深刻度をチェルノブイリ並みのレベル7だと発表していたら大変な騒ぎになっていたことでしょう。最初から周囲20kmを立ち入り制限区域に指定していたら、周囲のパニックや風評被害ももっと拡大していたに違いありません。なかんづく、状況を先読みしてそんなことを“吹聴”していたりしたらとんだオオカミ少年かデマゴーグとしてバカにされていたはずです(じっさいそうでしたし)。

でも逆も考えられます。最初から最悪の事態を想定していたら原子炉建屋の水素爆発は防げたかもしれない。現在の制限区域の住民たちの避難生活にもより本格的な対応ができていたかもしれない。実のところ日本の国内世論にお構いなしの海外からは、そういうナマの情報がどんどん発信されています。かくして福島第一原発で実際に何が起きているのかは、欧米の分析を見ている方が明確に知れるという本末転倒が続いています。

たとえばウォールストリートジャーナルは、東電が放射性物質の外部放出を躊躇したために建屋内のガスが充満して水素爆発を招いたと先んじて明言しました。ニューヨークタイムズは6月に訪れる梅雨に触れ、これでさらに汚染水が周辺環境に流出する恐れをやはり日本のメディアより先に指摘し、さらにスリーマイル事故でさえ燃料棒抜き取りのためのクレーンを設置するのに5年かかったとして「福島に比べれば、スリーマイルの作業は公園を散歩するようなものだった」とする当時の除染作業員の言葉を紹介しました。

また、独シュピーゲル誌は日本の文科省が子供たちの許容放射線量を年間換算で20ミリシーベルトに設定したことをいち早く取り上げ、これはドイツでの成人の原発作業員の許容限度量と同じであると指摘した上で、「子供は大人以上に放射線に影響を受ける。日本政府は法的な基準を示したかったのだろうがこの数字は道徳的には許されないことだ」という専門家の非難を掲載しています。

いまの日本ではテレビにも新聞にも人の死体はほぼ登場しません。震災直後のあの大津波の生中継でも、動いている自動車や人が黒い津波に飲み込まれるさまは放送局の巧みなカメラのスイッチングでほぼ視聴者の目からは隠されました。福島第一の建家の水素爆発の映像も、海外メディアはいち早く放送しましたが日本では最初は確かNHKだけではなかったでしょうか。

国民一般に対するこうしたメディアの“思いやり”や政府の“おもんぱかり”によって、私たちはなんとなく安全な感じの日本を信じられています。震災直後、日本にいた人たちには国内よりも海外の友人たちの方からより多くのより大きな心配のメールや電話が寄せられたのも、じつは国内と海外での報道の違いに因るものがあったのだと思います。

そんな「安全な感じ」にいったいどういう裏付けがあるのか、あるいはないのか。それすらもよくわからない。でもそんな「感じ」が、私たちの未来に関する判断に何か決定的な勘違いをもたらしているかもしれないことをいまとても危惧しています。

April 05, 2011

宮城にて①

これまで取材したどんな被災地とも違っていました。戦火のボスニアにも行きましたが、戦地とも違う。敢えて言えば被災地は、延々と続く火のない爆撃地でした。ときおり火事のにおいが届きますが、引き波にそれでも残った破壊の痕はおびただしい家屋の残骸として生のまま散らばっていました。そこに十数メートルの防潮林の松の巨木が、根こそぎ、あるいは幹の途中で裂けながら、枝葉をもぎ取られた大きな生き物の死骸として横たわっている。

東北自動車道から入った仙台の街並みはほとんど無傷ですが、駅の裏側、東の海岸線へと向かうと一変しました。大津波が襲ったその刻々をTVヘリが生中継して見せたあの若林区。3週間経っても水は退いていませんでした。午前6時の朝ぼらけの大地はその水を鏡のように静謐に湛え、淡い青空と輝く雲はみごとにそこに映し出されていました。それはふと美しいと思うほどの光景でした。けれど、俯瞰や遠景では映画のように見えるものの残酷な細部の1つひとつが目の前にはありました。その鏡には折れた木材が突き刺さり、瓦礫の中にぽつんと取り残されたランドセルには、背当ての白部分にマジックで持ち主の名前が大書されていました。その「裕展」くんは無事なのだろうか。

40kmほど北東に行った石巻はまた様相を異にしました。海岸線は工業港から漁港へと巨大建造物、構築物が建ち並んでいます。その人工物がことごとく引き裂かれている。壮大な廃墟なのですが、廃墟と呼ぶにはすべてがまだ生々しすぎるのです。千トン級の船舶が陸地に乗り上げ、重要な産業だった紙パルプが臭い立ち、巨大な紙ロールが白く転がっている。タイヤの下では道路に垂れて横切る太い電線がゴツゴツと音を立て、コンクリートの電柱が赤く錆びた中の鉄筋を剥き出しにしながら折れ曲がっている。北に進むと漁港部分は水産加工場群が延々と腐った魚の臭いを漂わせていました。

ふつう、事件や事故や災害の現場は、そこから数ブロック離れると「日常生活」が展開していたりするものです。あの9・11ですら、ミッドタウンには「普通」があった。けれど、この東日本大震災はどこまで行っても「普通」がないのです。山間の高台を通るときだけ「普通」が垣間見えますが、それは次に続く谷間の無惨を際立たせるものでしかない。

女川町への曲がりくねった下り坂を進んだときに、それは息を飲む光景として飛び込んできました。思わず口から出たのは「何だ、これは」でした。それしか言葉がなかったのです。あとは「うわー、うわー」とうめくだけの。

女川は、海抜20mまでの家屋が壊滅していました。その20mの高台に建つ町立病院の敷地から見渡す町並みは、それ自体が産業廃棄物の不法な投棄場そのもののようになっていました。細くすぼんだ入り江から津波はものすごいスピードで殺到したと、生き残った老人が説明するともなく言いました。観光施設として町の象徴だった岸辺のマリンパル女川は足下がごっそりえぐられ、その横に、「どっから来たのかわかんねえ」と老人の言う4、5階建てのコンクリートのビルが、基礎ごとゴロリと横たわっていました。

4年前までニューヨークにいた私の友人、看護婦さんの小松恵さんは仙台の医療センターで不眠不休の治療に当たっていました。大地震直後には外科措置や検死で混乱することを覚悟してトリアージュの準備を進めていたそうです。ところが死者は1人も搬入されなかった。死者は海に流されるか、あるいは多過ぎて手が付けられなかったのでしょう。送られてくるのは泥だらけの、そしてさらに泥だらけの衣服を脱がされて震える真っ裸の人たちだけだったそうです。その時点でテレビを見ていなかった治療者たちは、地震ではなく津波がかくも激しく沿岸部を襲ったとは、即座にはイメージできなかったと言います。

「天罰だって言った人がいるそうだけど、あたしたち、そんな悪いことしてねえよ」と小松さんは言いました。

仙台に向かう途中、未明の国見SAの食堂にあった利用者用の雑記帳には3/18付けで「今から宮城県石巻に行って、じいちゃんを見つけて帰りたいと思っています。ガンバルゾー。スープごちそう様でした。」という書き込みが残されていました。横須賀から来たという中年男性2人と女性1人が、早く着きすぎた時間調整のためにもうもうたる喫煙室で煙草を吸っていました。何が必要かと聞き回って最後はボランティア・センターに行き着き、食べ物や水や下着や生理用品などの諸々の他に、いまは軍手やスコップなどの片付けの道具がほしいのだということがわかったそうです。あちこち手を回してそれらを自費で仕入れ、あと1年で車検切れのトラックに支援物資を満載にしてそのトラックごと避難所に渡してくるんだと言っていました。神戸から、寸胴とコンロなど道具食材一式を持ち込んで、小学校の避難所でラーメンを作ってやるんだという若者たちも来ていました。東北自動車道には「救援物資輸送中」と横断幕を貼ったトラックなどが爆走していました。路面は、隆起と沈降やひび割れを応急処置した段差が不気味に続いていましたが、むしろその復旧の早さに感謝の思いを強くしました。常磐道はまだ通行止めが続いていますが。

それが3週間余り経った被災地のほんのすこしの一面です。


***【付記】

第2段落冒頭で「東北自動車道から入った仙台の街並みはほとんど無傷ですが」と書きましたが、その後再び仙台入りして町を詳しく歩いて気づきました。無傷ではありませんでした。外壁がはがれて三越百貨店は営業を短縮して修復工事を行っていました。大きなガラスが割れたまま調達できないのでしょう、ゴミ袋や青いビニールシートで覆っているだけのところもありました。外見は無傷のようなビルでも中で柱が歪んだりドアが軋んだりしていました。歩道には陥没があり、段差が出来ていました。ガスはもちろん通っていないのは、目に見えないところでガス管の破壊があるからです。そして人々の心もまた傷ついていました。

ここに訂正して不用意な表現をお詫びします。4.8/2011

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