ニューヨークにて
前々回のこのコラムに書いたように、東電と政府の情報の小出し作戦は日本の国民に余計な混乱を引き起こさないことに成功しているようです。最初からこの福島第一の事故深刻度をチェルノブイリ並みのレベル7だと発表していたら大変な騒ぎになっていたことでしょう。最初から周囲20kmを立ち入り制限区域に指定していたら、周囲のパニックや風評被害ももっと拡大していたに違いありません。なかんづく、状況を先読みしてそんなことを“吹聴”していたりしたらとんだオオカミ少年かデマゴーグとしてバカにされていたはずです(じっさいそうでしたし)。
でも逆も考えられます。最初から最悪の事態を想定していたら原子炉建屋の水素爆発は防げたかもしれない。現在の制限区域の住民たちの避難生活にもより本格的な対応ができていたかもしれない。実のところ日本の国内世論にお構いなしの海外からは、そういうナマの情報がどんどん発信されています。かくして福島第一原発で実際に何が起きているのかは、欧米の分析を見ている方が明確に知れるという本末転倒が続いています。
たとえばウォールストリートジャーナルは、東電が放射性物質の外部放出を躊躇したために建屋内のガスが充満して水素爆発を招いたと先んじて明言しました。ニューヨークタイムズは6月に訪れる梅雨に触れ、これでさらに汚染水が周辺環境に流出する恐れをやはり日本のメディアより先に指摘し、さらにスリーマイル事故でさえ燃料棒抜き取りのためのクレーンを設置するのに5年かかったとして「福島に比べれば、スリーマイルの作業は公園を散歩するようなものだった」とする当時の除染作業員の言葉を紹介しました。
また、独シュピーゲル誌は日本の文科省が子供たちの許容放射線量を年間換算で20ミリシーベルトに設定したことをいち早く取り上げ、これはドイツでの成人の原発作業員の許容限度量と同じであると指摘した上で、「子供は大人以上に放射線に影響を受ける。日本政府は法的な基準を示したかったのだろうがこの数字は道徳的には許されないことだ」という専門家の非難を掲載しています。
いまの日本ではテレビにも新聞にも人の死体はほぼ登場しません。震災直後のあの大津波の生中継でも、動いている自動車や人が黒い津波に飲み込まれるさまは放送局の巧みなカメラのスイッチングでほぼ視聴者の目からは隠されました。福島第一の建家の水素爆発の映像も、海外メディアはいち早く放送しましたが日本では最初は確かNHKだけではなかったでしょうか。
国民一般に対するこうしたメディアの“思いやり”や政府の“おもんぱかり”によって、私たちはなんとなく安全な感じの日本を信じられています。震災直後、日本にいた人たちには国内よりも海外の友人たちの方からより多くのより大きな心配のメールや電話が寄せられたのも、じつは国内と海外での報道の違いに因るものがあったのだと思います。
そんな「安全な感じ」にいったいどういう裏付けがあるのか、あるいはないのか。それすらもよくわからない。でもそんな「感じ」が、私たちの未来に関する判断に何か決定的な勘違いをもたらしているかもしれないことをいまとても危惧しています。