現場と個人を潰す社会(前回の「ジョプリンと福島」改訂版)
前回のブログ、なんだか覚え書きのようにだらだら書き連ねていただけなので冗漫で重複の多い文章でしたよね。それに手を加えてまた書き直すのも何なんで、最初から書き直してみました。こっちのほうが簡潔に言いたいことがわかりやすいと思いまーす。つまり、こういうことなんですわ;
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◎現場と個人を潰す社会
ミズーリ州ジョプリンの竜巻は幅が1.2kmもあったというから驚きます。テレビで見る破壊の様子は、局地的とはいえあの東北の海岸沿いと同じ、家並みや木々が根こそぎかっさらわれて、まるで水のない津波被災地のようです。
被災者の悲嘆も行方不明の家族を探す人の必死さもみなあの東北の人々と同じです。でも1つ違うことがありました。それは当局者が必ず現地で、被災の現場で会見を開いていたことです。
日本では会見は概ね本社や中央官庁で行われ、現場で関係者に質問しても往々にして「それは上に聞いて」とあしらわれます。事件事故いずれの場合もそうです。今回の震災でも会見は東電本店や保安院や首相官邸ばかりですよね。これ見よがしに防災服を着ていたりしますが、クーラーの効いた東京の会見場でそんなもの着てて何になるんだろうって思ってしまいます。
アメリカでは現場責任者が現場で会見やインタビューに応じます。ジョプリンの竜巻の場合も連邦緊急管理庁(FEMA)や地元警察・消防などが被災現地で対応していました。ジャーナリストたちは現場が第一なので、当局としてもこうした体制を構築してこなければならなかったわけです。かくして現場を任された人は一般に、どの情報を開示すべきか自分で判断し、自分の責任で会見を仕切るのです。
それにしてもこれは教育の違いなのでしょうか? 会見者は米国ではじつに堂々としています。まっすぐに相手を見つめ、情報を伝えるのだという意気込みすら感じられます。個人の使命感が目に見えるのです。
対して日本では(というのもステレオタイプな比較で嫌なんですが、まあ、それは置いといて)保安院や東電に限らず一般にどうもおどおどしているか、さもなくば上手にはぐらかそうとするタイプに二分されます。で、極論を言えば、両者とも自分に責任が及ぶのを避けよう、言質を取られないようにしよう、出過ぎた杭にならぬようにしようと必死なふうなのです。で、けっきょく何のための会見なんだかよくわからなくなる。
会見ですらそうなのですから実際の行動指針も同じようです。好例、というか情けない例が先日の海水注入中断問題でした。津波にやられて電源が失われた原子炉は、注水で冷やし続けねばならなかったのに、菅首相の許可が取れていなかったためにその注水を一時中断していた、というのが東電側の発表でした。
この注水停止で原子炉がいっそう危機的状況になったのではという疑念が国会でも追及されたのですが、実はこの判断を現場で陣頭指揮を執る福島第一の吉田昌郎所長が一存で却下、注水は継続されていたとわかったのです。
そもそも東電本店でテレビ会議越しの高見の見物を決め込んでいるから何が重要なのかの生情報がわからなくなるのです。どうして原発の現場で記者会見をしないのか? まあ、テレビ局や新聞社では自社の記者たちに福島第一の50km圏内に入るなと言っているところがありますからね。癌にでもなったら労災認定で責任や面倒が生じますから。とはいえ、あろうことか、東電本店ではこの吉田所長を注水継続を報告しなかったかどで処分しようという動きもあるとか。
現場軽視もここに極まれリ、です。東京の報道各社も東電や政府の幹部もみんな現場に赴かない中、希望の光の「フクシマ50」として海外で英雄視される人々がこうして日本では蔑ろにされている。この場合、処分されるべきはむしろ、注水中断の流れに唯々諾々うなずいた東京の本店幹部のはずです。その連中が、自分たちの誤りの行き着く先の大惨事を最小限に抑えた功労者である吉田所長を処分する? これはいったいどういう笑劇なのでしょうか。
自らの責任で決断した者が、それが正しい行動だったとわかっても処分され、判断を他に委ねて責任を転嫁した者が、それが誤った対応だったと判明しても処分されない。だとしたら、東電も行政も恐ろしいほどに倒錯した組織です。いやむしろ、現場の個人の頑張りをこうして押しつぶそうとする日本社会が、そもそも倒錯しているのかもしれません。