ジョプリンと福島
アメリカで大きいのは人や車だけじゃありません。野菜も大きいし、びっくりしたのは雪の結晶までが大きいのです。なんと直径で5mmほどもあって、虫眼鏡も必要なく肉眼ではっきりとあのきれいな結晶が見えてしまうのです。
そういうこととも関係しているんでしょうか、春から初夏にかけてアメリカの中部・南部を襲う竜巻も、日本とは比べものにならないくらい巨大なものです。5月22日夕方にミズーリ州ジョプリンで発生したのは幅1.2kmにも及ぶ巨大竜巻でした。それが長さ6km以上にわたって街の中心部を吹き飛ばしたのです。風速は秒速90m近く。時速でいうと新幹線よりも速い320kmです。
こうなると地上のものは木からビルから根こそぎ持っていかれます。なので竜巻多発地域に住む人々は住宅に必ず避難用の頑丈な地下室を作っています。
ジョプリンの竜巻現場は、見覚えのある津波被害の東北の光景そのもので、まるで水のない津波に襲われたかのようにどこもかしこもあるべきものがごっそりと持ち運ばれています。これを書いているのは竜巻3日後の25日ですが、死者は125人、負傷者750人、瓦礫の下に埋まっている人や風にさらわれてしまって行方不明の人は1500人を数えています。
今年は竜巻の当たり年のようで、4月下旬の3日間にもアラバマ州やミズーリ州などで305個もの竜巻が地表にタッチダウンし、340人以上が亡くなりました。年間を通しても平均1000個の竜巻が起きますが、今年はすでにその数を越えてしまっています。
と、ここまでが日本時間で昨日深夜のTBSラジオ「dig」で話したことです。時間がなくなって話せなかったことがあります。TVニュースは盛んに救助作業の進展を伝えていてこれも震災の東北で見覚えのある光景なんですが、しかし1つ、決定的に違うことがあるのです。それはアメリカでは当局者が必ず被災現場でインタビューに応じ、記者会見を開くということです。ジョプリンの場合は連邦政府から緊急管理庁(FEMA)というのが災害対策に入っていて、そこのナンバー2が、ジョプリンの市の当局者や消防や警察・保安官らとともに必ず現場で、それも被災した野外で定時に会見を開いています。
さすがに福島では屋外というわけには行かないでしょうが、東北の被災現場から現場の対策責任者が記者会見やインタビューに応じているという絵はなかなか日本ではお目にかかりません。というのも日本では現場では往々にしてなにも情報が入ってこないことが多くて、新聞記者やテレビ記者もあまり現場では当局情報を当てにしていないのです。つまり、記者発表は現場ではなく中央官庁で行われることが多いというのが既定の事実になっているので、みんな期待すらしていないんですね。
でもこれは考えたらおかしなことで、事件や事故で現場リポートをするテレビのリポーターは、実は情報は現場で得ているのではなくて中央の本社管轄の省庁、あるいは支局管轄の地方官庁で集めた情報をもう一度現場に送ってもらってそれを再構築し、まるでその場で得られた情報のように報告するのです。現場で入手できる情報は、そうしてほとんど地取りの情報、近所の人たちの話や周辺の様子といった、本筋とはほど遠い枝葉のネタでしかないのが実情なのです。
それはなぜかというと、日本では公式発表というのはいったんすべて上部(本社や上級官庁や本部)に上げられて発表するかしないか精査された情報で行われるからです。ほんとうは現場こそがいちばんナマの情報に溢れているのに、情報の混乱があってはまずい、情報の錯綜があってはまずい、情報の誤りがあってはまずい、ということで上部に上げてそれを整理してから発表する、というのが建前です。
でも実は、それは、下手にしゃべってしまって責任を取らされたらまずい、情報を得ていることを自慢げにしゃべっていると思われたら嫌だ、というとても日本的な社会文化背景があるのではないかと疑っています。
というのも、アメリカではよほどのことがない限り情報は現場責任者が自ら判断してなるべく公開するのが基本姿勢です。現場にはそういう権限が与えられています。現場情報に混乱や誤報があるのは当然です。それは織り込み済みで、しかし現場でしかわからない情報がある。そういう情報を報道関係者は現場で厳しく当局者・担当者に要求します。事件事故の当局や当事者はその厳しさに対応しなければなりません。そこを避けてなんでもすべて本社で本部で中央官庁で会見というのは許されないのです。もちろん中央での会見はありますが、それは別の次元での情報公開で、現場会見とは意味合いが違います。
そうして鍛えられているせいか、そういうもんだという覚悟が出来ているせいか、アメリカの事故・事件現場の責任者たちの会見の受け答えは往々にしてとても見事なものです。なんというか、話し慣れているというか、言えないことは言えないと言うし、質問をはぐらかすこともありません。これは子供のころからの教育のせいなんでしょうか、とにかく日本では絶対にお目にかかれない種類の対応の仕方なのです。
対してなんでもない情報まで一度本部に上げてからでないと言えない、ノーコメント一点張りの木で鼻をくくったような対応が目立つ日本は、それは勢いハンカチ落しみたいな発表責任の順送りということでしかありません。それはけっきょくは情報の抑制だけにに働いて、時間が経つと情報の経緯自体がわからなくなるのです。現場での喫緊の情報はいつのまにか切迫感のない数字に置き換えられ、塩漬けになってしまう。
それが福島原発の東電や保安院のあり方です。何が重要かを個人で判断できない、いや、個人で判断する責任を負わない。だから、とりあえず発表しないでおく。それが一番。あの、津波直後に「メルトダウン」の可能性を指摘した人は、いまいったいどこにいるのでしょう。それすら開示されないのです。それが国民にとってとても不幸なことなのは、いまの放射能汚染の真実がどこにあるのかみんなが疑心暗鬼になってしまっていることでも明らかでしょう。原発以前に、日本人の何かが壊れているような気がします。