男の美学
骨董などの査定をする「なんでも鑑定団」が好きで島田紳助のしゃべくりの妙にいつも感心していました。なので彼の引退会見を見て、とても残念な気分になりました。残念だったのは引退ではありません。彼の認識についてです。
芸能界が興行の出自としてそのスジの人たちと無縁ではないことは知っています。それは相撲界も同じ。文化というものはどこか薄暗さを伴って初めて厚みを増すし、現代社会が近世近代のいかがわしさを一掃して清潔一辺倒になるのもなんとも味気ない。
そんなこともあってかこの突然の引退に「犯罪や事件を起こしたわけでもないのに潔い」だとか「男の美学だ」とかいう反応もありました。私もどちらかというと「付き合いは大切にする」派なので、紳助もそんな人付き合いの義理を理解せずにうるさいことを言う吉本にキレて「なら辞めちゃる!」となったのかな、とも思ったのです。
ところがよく聞くと話に出てくるAさんBさんというのが恐喝未遂で上告中の元ボクサー渡辺二郎被告と山口組ナンバー4の筆頭若頭補佐で極心連合会の橋本博文会長。付き合いの発端は十数年前に関西テレビの自分の番組で右翼の街宣車をおちょくり、それに怒った稲川会系の右翼団体が連日同局に街宣車で乗り付ける騒ぎとなって、その解決を渡辺被告経由で橋本会長に依頼したということのよう。
紳助は会見で「僕の中ではセーフだと思っていた」「この程度で引退しないといけない。芸能人は注意してほしい」と呼びかけていましたが、これって本当に「セーフ」で「この程度」と言うべき話なのでしょうか?
ヤクザには美談がつきものです。曰く、終戦直後の混乱期に誰も相手にしてくれなかった孤児の自分に「坊主、これで飯でも食えや」と優しくしてくれたのはあのヤーさんだけだった、とか、阪神・淡路や東日本大震災でもいち早く炊き出しをしてくれたとか問題を解決してくれたとか、確かに義理堅い任侠心に溢れているふうに見える人もいるでしょう。でも、彼らの義侠を支えるそのカネはいったいどこから出ているのでしょう。
紳助が橋本会長に口利きしてもらって解決した稲川会系右翼の問題だって、これはつまりは山口組と稲川会の貸し借りの話。言ってみればグル、仲間内の出来レースです。そんなものに恩義を感じているのだとすれば、それはあまりにナイーブに過ぎる。
会見では「Bさん」に言及するときの紳助の実に丁寧な言葉遣いが耳につきました。それを見ながら私が思い出していたのは故人、伊丹十三のことでした。
『ミンボーの女』(92年)で伊丹は日本映画でタブーだった暴力団批判を真っ向から展開しました。もちろん彼一流のウィットとともに。
結果、彼は暴力団に付け回され、映画公開直後に自宅近くで5人組に襲撃されて顔や両腕を切られる重傷を負いました。これはやはり山口組系後藤組の犯行でした。その後も彼は別の映画のスクリーンを切り裂かれたり数々の脅迫や嫌がらせを受け続けました。しかし彼は「私はくじけない。映画で自由を貫く」と宣言してどこのだれにも口利きを依頼したりはしませんでした。
「潔さ」とか「男の美学」とか言うならこの伊丹十三の方であって、島田紳助ではないでしょう。伊丹十三とは私はなんの面識もありませんが、エッセーや映画からは多くを学びました。私からの一方的な友誼ながら、その故人との付き合いを裏切らないためにも、私は今回の紳助引退にはいっさいの同情をしないと決めます。