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September 29, 2011

野田演説を書いたのはだれだ?

野田さんの首相としての外交デビューとなった今回の国連ニューヨーク訪問は、私の知る限り欧米メディアは一行もその中身を詳報しませんでした。原子力安全サミットでのスピーチも国連総会での演説も無視。かろうじて野田オバマ会談の内容がAPやAFP電などで型通りに伝えられただけです。

というのも、世界が注目している東電の原子力発電所事故の問題はすでに国会の所信表明などですでに伝えられていた内容だったし、冷温停止を年内に(2週間分だけだけど)前倒しするというのもこれにあわせたかのように細野原発相が直前に話していてすでにニュースではなかったからです。

それでも国連での第一声は震災支援への感謝と東電・福島第一原発事故の謝罪から始まりました。低姿勢なのは国会の所信表明と同じで、話し振りも真面目な人柄を表しているようでした。でも、震災から原発、金融危機回避の協調から、南スーダン国連PKOへの協力、中東やアフリカへの援助や円借款と種々多様なことを網羅して終わってみると、はて、何が言いたかったのか中心テーマが思い起こせない。

これは何なんでしょうか? 問題全般に配慮が行き届き、そつなくすべてに触れておく。どこからも文句の出ようのない及第点の演説テキスト。でも逆に、これだとすべての論点が相対化してしまって、主張も個性も埋没してしまう。なんだか「これもやりました、あれにも触れておきました」みたいな、学生の宿題発表みたいな印象だったのです。

総会演説は特にパレスチナの国家承認を訴えるアッバス議長、それに反対するイスラエルのネタニヤフ首相というアクの強い演説に挟まれて、さらには直後のブータンの仏教的幸福論にも高尚さと穏健さで負けて、これではニュースにしたのが日本からの随行記者たちだけというのも宜なるかな。まるでわざと、あまりニュースにならないように、目立たないように、と仕組んだみたいな演説構成だったのですから。

それを疑ったのが原発問題です。先に訪米した前原さんともども野田さんは「原子力発電の安全性を世界最高水準に高める」として、それを免罪符のように外国への原子力技術の協力や原発輸出を継続する考えもさりげなく表明したのです。でもこれって、欧米メディアで取り上げられていたら批判もかなり予想される発言じゃないですか?

考えても見てください。チェルノブイリ直後のゴルバチョフがそんなことを言っていたら世界はどう反応していたでしょう? 日本国内でだって、立派なはずのどっかの一流料亭が食中毒を起こして、それでも「これを教訓に安全面での最高水準を目指し、ご期待に沿うべく明日からすぐに弁当を売ります」などと言えますか?

だいたい日本の原発ってこれまでだって「世界最高水準の安全性」だったはず。にも関わらずこんな重篤な事故になり、だからこそ原発は危ないという話なのです。野田さんは「現在の放射性物質の放出量はいま事故直後の400万分の1」とさも自慢気でしたが、これだって事故後の放出が1週間で77万テラベクレル(テラは1兆)と天文学的ひどさなのに、それがたかだか400万分の1に減ったからと言って何の意味があるのか。おまけに累積残存放射性物質の問題はまるで片付いていないのですよ。

するってえと、野田演説は、誠実なのは話し振りだけで、肝心なところで実はチラチラとごまかしが仕込まれていたってことになります。しかも問題を指摘されそうな部分はみんな「演説全部をきちんと読んでもらえれば、それだけじゃないことも書いてある」「あくまで安全が徹底された上での話だ」という逃げができるように仕掛けられていました。こんな巧妙な、言質を取られないようにどうとでも読めるような、つまりはとても官僚的な演説を、いったい誰が考えたんでしょうね。

そうしたらこないだの毎日新聞、「野田佳彦首相が就任直後、政権運営について (1) 余計なことは言わない、やらない (2) 派手なことをしない (3) 突出しない、の「三原則」を側近議員らに指示していたことが分かった」と報じていました。これ、まさにそのままこんかいの国連演説にも言えることです。ということは、官僚的ながら、ひょっとすると自分で書いたのかもしれませんね。いやそれにしてもよくでき過ぎています。政権運営についても、だれか知恵のある官僚のアドバイスでもあったんじゃないかと勘ぐりたくもなります。

つまりはこの政権は既定路線からはみだそうとしない、波風立てずに長続きするように、という、ときどき爆発したり突出したりして官僚たちが右往左往した菅さんのときとはまた別の形の、官僚主導政治ってことでしょうか。民主党の拠って立つ政治主導はいったいどこに消えたんでしょうね。そりゃ難しいだろうけどさ。

オバマさんが「I can do business with him」と言ったそうですが、これを「彼とは仕事ができる」と日本語に訳してもちょっと意味が曖昧です。「仕事」っていろいろありますけど、ビジネスというのは、取引、商売のことです。ジョブやワーク(何かを為すため、作り上げるために動くこと)ではない。それもアメリカの企図している事業のための取り引きであって日本の都合は関係ありません。そんなビジネス、取引、契約の相手としてノダはふさわしいというニュアンスが窺えるのです。

選挙を控えて国の内外で問題山積の大統領は、安全牌のはずの日本にまで煩わされたくはない(鳩山さんのときには安全牌だったはずの日本にずいぶんと振り回されましたからね)。野田さんはまさに「米国の仕事上、もう煩う心配のない相手だ」という意味なのでしょう。そういや普天間やTPPでも米国の意向に沿って「宿題を1つひとつ解決していく」と表明していましたっけ。やれやれ。


【追記】というようなことをざっと先日のTBSラジオのdigなんかで話したのですが、途中、国連総会での野田演説がどうしてあの順番になったのか、パレスチナとイスラエルに挟まれてそこでも埋没しちまったみたいで、あれも仕組んだのかなんて勘ぐっちゃいましたが、いやそんなことはありませんでした。国連代表部に電話して訊いたら、そうそう、順番の決め方、思い出しました。あれは王様や大統領なんかの国家元首が最初にずらっと演説をするのですね。それから次に首相クラス、次に外相クラス、となる。

で、アッバスさんはパレスチナの暫定自治政府の大統領ながら、まだ国家として承認されていないので、最初の元首カテゴリーの最後に位置することになった。

次に首相クラスが来ます。ところでその前に、各国から国連事務局に、自国の代表が演説したい時間枠(何日目の午前か午後、という選択)というのを3つ提出するそうです。帰国日程もありますからね。

で、日本は初日は大統領クラスで埋まるので最初からそこの枠は選択せずに、2日目の午前が第1希望、3日目の午前が第2希望、2日目の午後を第3希望として出していました。「午後」というのは、みんな演説が長くなるので深夜になっちゃったりして大変だから午前を優先させたということです。で、結果、3日目の午前、アッバス大統領の後の、首相クラスのトップとして登場した、というわけです。

というか、同じ枠にイスラエルも希望してたんですね。国連事務局はそこで考えた。「パレスチナとイスラエルは同じ問題を話すだろうが、近すぎても刺激的過ぎる。で、そこに同じ枠希望の日本とブータンとをバッファーとして挿入しようと。日本は律儀に真面目な演説をするし15分の持ち時間を大きく越えるような真似もしたことがない。さらにブータンは仏教的平和国家で、緩衝剤としてはうってつけではないか」とまあ、この注釈は私の推測ですが、まあそんなところじゃないかなあ。

おかげでアッバスさんのときには満員だった総会場は野田さんのところでトイレタイムになっちゃって4割くらいまで聴衆は減りました(国連の日本代表部は、国連デビューの野田さんに、この順番なので聴衆は退席するかもしれないけれど、はんぶんも入っているのはいい方なのです、とガッカリしないよう説明していたそうです)。CNNも野田演説の前にカメラをスタジオに切り替えてアッバス演説の分析と解説の時間に使いました。で、次に総会場が映ったのはイスラエルのネタニヤフさんの演説だった、というわけです。あの人、そんなに演説はうまくないんだが、相変わらずドスが利いてましたね。もっとも、パレスチナの国家承認国連加盟に強硬に反対するネタニヤフさんでしたが、最新の世論調査では、69%ものイスラエル国民が「イスラエル政府は国連による独立パレスチナ国家承認を受け入れるべきだ」としているのです。調査はまた、占領地区に住むパレスチナ人の83%がこの国家承認の努力を支持していることも明らかにしています。

潮目は変わってきているのです。

September 13, 2011

「死の町」

実際、政治部や政治記者クラブには現役の大臣や首相が気に食わないと言って「絶対に辞めさせてやる」と豪語する“猛者”がいつの時代にも存在します。「産経新聞が初めて下野なう」「民主党さんの思い通りにはさせないぜ」(あ、これは社会部選挙班だったか)とか言ってしまう勘違い土壌が昔から延々と続いているのです。

朝日新聞のサイト(9日18時16分)によれば、鉢呂経産相の「死の町」発言は9日午前の閣議後記者会見で出てきたもので、前後の文脈まで入れると「残念ながら周辺町村の市街地は人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった。私からももちろんだが、野田首相から『福島の再生なくして、日本の元気な再生はない』と。これを第一の柱に、野田内閣としてやっていくということを、至るところでお話をした。」ということだったそうです。

これがどういう失言なのか、私にはわかりません。

でもそんな「問題」発言をしたから、フジテレビがその前夜にオフレコの囲み取材で出た、放射能をうつしてやる、という旨の発言をも“暴露”して「ほらこんなやつなんです」と視聴者に知らしめた。【追記:そうしたら13日時点でフジテレビの記者、じつはその囲み取材の中にもいなかった、という話が出てきました。最初に報じたフジも伝聞でやっちゃったわけ? へっ? そりゃ、なんじゃらほい?】

毎日サイト(10日2時31分)の神保圭作、高橋直純、田中裕之の3記者連名記事によると、この「『不用意』では済まされない発言」で、コメントを求めたフクシマ関係者は一様に「怒りをあらわにし」「あきれた様子だった」とか。産経(10日11時37分)に至っては「人間失格だ」とまで言わせています。

ふむ、百歩譲って「死の町」と表現することが住民たちの愛郷心や帰郷の希望を傷つけたとしましょう。でもだれがどう取り繕おうともフクシマ原発の周囲が現在「死の町」である現実は変わりません。あの、牛舎につながれたまま餓死し、文字どおり骨と皮だけになって累々と畳み重なるように死んでいた牛たち。その責任は「死の町」と呼んだ人にはありません。死の町にしてしまった人にあります。それをまるで「王様は裸だ」と言ってはいけないと、言論の雄たる報道メディアが事実を糊塗してどうするのか。ストロンチウム90やセシウム137を「死の灰」と言ってきたのは、それがまさにそうだからであり、ここを「死の町」と言わなければ、再出発も再興もうつろなごまかしです。

そこを「死の町」にしたのは東電や原発政策です。それらはいまも抜本的な責任を取らずに処分もありません。あれだけの大事故なのに東電には警察の捜査も入っていないんです。報道が責めるべきはそちらでしょう。

おまけに例の「放射能うつす」は毎日の記者への発言とされるものでした。囲み取材でも聞いていない記者がほとんど【前段の追記参照】。なのにフジが報じるや他紙他局もみんな伝聞でこれを記事にした。結果、時事は「放射能つけちゃうぞ」、朝日は「放射能をつけたぞ」、産経は「放射能をうつしてやる」、読売なんか「ほら、放射能」。テレビも「放射能をうつすという趣旨の発言」と濁していました。【追記2:視察から帰ってきて服も着替えていないと愚痴った鉢呂に、どこかの記者の方から「じゃあ、放射能ついてるんじゃないですか」と言われて、それに応じる形で「じゃあつけてやろうか」とすり寄った、という情報まで流通しているそうです。なんともはや……。だから伝言ゲームはダメなのです】

報道記者は、裏の取れない情報は、それがいかに重大でも泣く泣く捨てねばならないのです。もし政治家が図太い嘘つきだったら、言った言わないの水掛け論に持ち込むでしょう。そのときに傷つくのは歴代築き上げてきた報道への信頼です。いや逆に、報道した記者が冒頭の政治記者のようなやつだったらどうするのか? ジャーナリズムは体制の転換にまで影響を及ぼせます。だからこそ事実に謙虚でなければならないのに、発言の趣旨の確認や裏取りの基本も捨てたこのメディアスクラムは唖然以外の何物でもない。

鉢呂さんは原発慎重派でした。震災後には福島の学校を回ってクーラーをつける手配をしたり子供たちの年間被曝線量を20ミリシーベルトから1ミリに下げるのに尽力しました。大臣就任後はエネルギー審議会に原発慎重派を入れるべきと発言したり、将来の原発ゼロにも言及しました。

こんなに簡単に謝って辞任してしまう人が自説を貫いて官僚や原発推進派と渡り合えたかどうかはおぼつかないですが、日本の政治の機能不全の一因は、いまの政治報道にもあるのは確かでしょう。だいたい、毎日が「『不用意』では済まされない発言」と書いていたあの記事(産経もほとんど同じトーンです)、あれ、書き方が、典型的な作文記事の書き方なのです。筆が主観に走ってる走ってる。質問とその答えのコメントも誘導尋問のにおいがプンプンする。読んでいると、その浅ましさがわかっちゃうんですよね。よい記事は、ああは下品じゃないのです。

September 04, 2011

どぜう総理

すでに旧聞ですが海江田さんの演説はホントに下手クソでした。「修羅場をくぐって悔しい思いをした私だからできることがある」って言っておきながらそれが何かはパス。テレビからもはっきり「アガって頭の中真っ白」がわかりました。演説でその人の度量の幾ばくかがわかるのだとしたら、こんな人にはだれも投票したくないというレベルでした。

にしても、ドジョウってのもどうなんでしょうか。野田さんの演説も生い立ちだとか昔の話ばかり。とても日本的というか情緒的というか、この期に及んでコレかよという思いを禁じ得ませんでした。だいたい相田みつを的なもので政治を語るなんて、海外配信した外国人記者たちはどう翻訳したんでしょう。
 
いや、数多のファンがいらっしゃる相田センセをここで批判する気はありません。個人的に愛好している分には私が口を挟むスジでもありますまい。ただし、このドジョウも輿石さんを取り込むための布石だったとしたらこの人、けっこうやるかもしれませんね。

それでも、今度の所信表明演説はぜひ国際的にも通用するような言葉で語っていただきたい。なぜならいま放射性物質は日本を越えて世界に飛散流出しているのですし、環境破壊に対する国際的な批判にも応えねばならないのですから。それに円高や世界同時不況を避けるための国際協調も訴えなければなりません。そういう世界視点を持たないと政治はすでに立ち行かないのに、日本の政治家にはいまでも世界も聴いているのだと意識した演説があまりに少なすぎます。

各報道メディアで60%前後という高支持率は巷間言われる政権発足のご祝儀相場ではありません。ここには「ノーサイドで行きましょう」という口調に民主党の再建を託した人たち、輿石さんや山岡さんらを内閣に取り込んでの小沢さん支持者たちが含まれます。

その一方で、ご自身や前原さんら松下政経塾の保守路線を歓迎する自民党支持者たち、そして安住さんの財務相就任や元財務官僚の古川さんの入閣による財政再建派(つまりは増税派なんですが)、さらには原発を早く再稼働させてほしい産業界の思惑までが結集した数字です。

もちろん相田みつをの情緒的ファン層もいたでしょうが(しつこい)、本来の民主党支持者たちの大方と、逆にそれを取り壊したい自民党復権派とが一緒になっての数字なのです。それだけ国民の多くが、いまの日本の危機に政治が一丸となって対処してほしいと願っているということです。

もっとも、私は大連立には反対です。だいたい民主党だけでも舵取りができていないのに自公を加えて大連立をやって、そんな複雑な組み合わせを制御できる「頭」が存在しているとはとても思えません。わけがわからなくなって大政翼賛の単純思考に陥るか空中分解するかのどちらかです。

そもそも政権交代と大連立って理屈が正反対。こういうときこそ前に進んで事を処理しなければならないのに、どうも元のサヤに戻ればうまく行くと思ってしまう人が多いんですね。そりゃ「あのころはよかった」的な感慨を持つ人はいるでしょう。しかし官僚が箱ものを作っていればそれで社会が動いていた自民党下の成長時代はとうに終わったのです。

にもかかわらず今回の新政権で手腕を問われているのは野田さんではなく財務省だという揶揄もあります。慣行と現状にしがみつく官僚制度の手強さを、どうにか未来に向けて手なずけてくれれば、ドジョウだって相田みつをだって私は大歓迎なのですが。