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April 29, 2012

NYタイムズの記事をご紹介

ずっと昔、10年以上前かな、ホモフォビアの強い学生たちとゲイでも全然だいじょうぶって言う学生たちの2つのストレート男子グループを集めておチンチンに計測器を装着し、ゲイのポルノを見させて反応を測るって実験があったことを紹介したことがあります。どこの大学の実験だったか、でもいずれにしてもすごい実験でしょ。そのときに、やはり、ホモフォビアの強い学生たちの方がおチンチンが大きくなって勃起したっていう結果が出たのです。じゃあ、ゲイたちによる反ゲイ主義者たちへの反撃は、所詮ホモ同士の諍いに過ぎなくなるのかっていう立論までして、いやそうじゃないんだ、ってことを書いた記憶があるのですが、その文章、どこに収録したか、ちょっとすぐには見つかりませんでした。この私のウェブサイトのどっかにあるはずなんですが……。

ま、それは置いといて、このニューヨークタイムズの投稿記事も、上記のが肉体的実証(とはいえやはり神経作用と結びつく脳や意識の問題なのですが)とすれば、今回のこれはより心理学的な実証でもあるようです。

興味深い話なので、ちょっと時間のあった土曜日の昼下がり、日本語に訳してみました。
どうぞお読みください。

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Homophobic? Maybe You’re Gay
同性愛が大嫌い? きっとそれはゲイだから

By RICHARD M. RYAN and WILLIAM S. RYAN
Published: April 27, 2012


WHY are political and religious figures who campaign against gay rights so often implicated in sexual encounters with same-sex partners?

ゲイの人権問題に反対の論陣を張る政界や宗教界の人たちがなぜこんなにもしばしば同性相手の性的経験に関係してしまうのか?

In recent years, Ted Haggard, an evangelical leader who preached that homosexuality was a sin, resigned after a scandal involving a former male prostitute; Larry Craig, a United States senator who opposed including sexual orientation in hate-crime legislation, was arrested on suspicion of lewd conduct in a men’s bathroom; and Glenn Murphy Jr., a leader of the Young Republican National Convention and an opponent of same-sex marriage, pleaded guilty to a lesser charge after being accused of sexually assaulting another man.

ここ数年だけで、同性愛は罪だと説教してきた福音派の指導者テッド・ハガードが元売春夫に関係するスキャンダルの後に辞職し、憎悪犯罪の法制化に際して性的指向をその対象に含めることに反対してきた米上院議員ラリー・クレイグは男性トイレでの猥褻行為の疑いで逮捕され、青年共和党全国大会の代表で同性婚への反対者であるグレン・マーフィー・ジュニアは男性に対する性的暴行の罪で司法取引に応じて、より微罪での自身の有罪を認めた。

One theory is that homosexual urges, when repressed out of shame or fear, can be expressed as homophobia. Freud famously called this process a “reaction formation” — the angry battle against the outward symbol of feelings that are inwardly being stifled. Even Mr. Haggard seemed to endorse this idea when, apologizing after his scandal for his anti-gay rhetoric, he said, “I think I was partially so vehement because of my own war.”

1つの説として、ホモセクシュアルな衝動は、恥や恐怖の思いで抑圧されてホモフォビア(同性愛嫌悪症)として発現し得るというものがある。フロイトの言った有名な「反動形成」の現れ方だ──心の中で窒息している感情が外に出るのを押しとどめようとする怒りに満ちた戦い。ハガード氏でさえこの考え方に賛同しているようだ。自身のスキャンダルの後でこれまでの反ゲイ・レトリックを謝罪したとき、彼はこう言っている。「私が公平さを欠いてああも(反ゲイで)激しかったのは、それは私自身の(内なる)戦争のせいだった」

It’s a compelling theory — and now there is scientific reason to believe it. In this month’s issue of the Journal of Personality and Social Psychology, we and our fellow researchers provide empirical evidence that homophobia can result, at least in part, from the suppression of same-sex desire.

これは説得力のある考え方だ──そしていまそれは信じるに足る科学的な根拠を得ている。今月号のJournal of Personality and Social Psychology(『人格と社会心理学ジャーナル』)で、私と同僚の研究者たちは、ホモフォビアが、少なくともある程度以上に、同性への欲望の抑圧の結果であるという検証結果を提示している。

Our paper describes six studies conducted in the United States and Germany involving 784 university students. Participants rated their sexual orientation on a 10-point scale, ranging from gay to straight. Then they took a computer-administered test designed to measure their implicit sexual orientation. In the test, the participants were shown images and words indicative of hetero- and homosexuality (pictures of same-sex and straight couples, words like “homosexual” and “gay”) and were asked to sort them into the appropriate category, gay or straight, as quickly as possible. The computer measured their reaction times.

我々の論文では784人の大学生の参加を得て米独両国で行われた6つの研究をまとめてある。実験参加者はまず自分の性的指向をゲイからストレートまでの10段階に分けて位置づける。それから今度は、明らかには現れていない潜在的な性的指向を計測するよう設計されたコンピュータ処理によるテストを受ける。同テストでは、参加者は異性愛もしくは同性愛のどちらかを表象するような画像や言葉(たとえば同性同士や異性カップルの写真、「ホモセクシュアル」や「ゲイ」といった言葉など)を見せられ、できるだけ素早く、それがゲイとストレートのどちらなのか分類するように指示される。コンピュータは彼らのその反応時間を計測するのである。

The twist was that before each word and image appeared, the word “me” or “other” was flashed on the screen for 35 milliseconds — long enough for participants to subliminally process the word but short enough that they could not consciously see it. The theory here, known as semantic association, is that when “me” precedes words or images that reflect your sexual orientation (for example, heterosexual images for a straight person), you will sort these images into the correct category faster than when “me” precedes words or images that are incongruent with your sexual orientation (for example, homosexual images for a straight person). This technique, adapted from similar tests used to assess attitudes like subconscious racial bias, reliably distinguishes between self-identified straight individuals and those who self-identify as lesbian, gay or bisexual.

ちょっと普通と違うのは、そうした言葉や画像が表示される前に、「自分(me)」「他人(other)」という単語が画面上に35ミリ秒(千分の35秒)だけフラッシュのように現れるということ──参加者にとってサブリミナル(意識下)ではその単語を処理できるが、意識上では見たとは感じられない長さだ。これは「意味的連想」として知られるもので、自分の性的指向を反映する言葉や画像(たとえば異性愛者の人にとっては異性愛を表象する言葉や画像)の前に「自分」という単語が現れたときには、そうしたものを、自分の性的指向と合致しない言葉や画像(たとえば異性愛者の人にとっては同性愛を表象する言葉や画像)の前に「自分」という単語が現れたときよりも、速い反応速度で正しいカテゴリーに分類できるという考え方に基づく。このテクニックは潜在意識における人種偏見の有無などを調べる同様のテストから応用したもので、ストレート(異性愛者)だと自認している人たちとレズビアンやゲイ、バイセクシュアルとして自認している人たちとをきちんと識別できるとされる。

Using this methodology we identified a subgroup of participants who, despite self-identifying as highly straight, indicated some level of same-sex attraction (that is, they associated “me” with gay-related words and pictures faster than they associated “me” with straight-related words and pictures). Over 20 percent of self-described highly straight individuals showed this discrepancy.

このやり方を使って私たちは参加者をもう1つ下位のグループに分類した。つまり自分ではとてもストレートだと自認しているにも関わらずなんらかの度合いで同性に惹かれる感情を示した集団だ。(つまり、「自分」という表示の後のゲイ関連の言葉や画像に、ストレート関連の言葉や画像に対してよりも、より速く正しい反応を示した人たち)。高度にストレートだと自認している人たちの20%以上に、この矛盾が見られたのである。

Notably, these “discrepant” individuals were also significantly more likely than other participants to favor anti-gay policies; to be willing to assign significantly harsher punishments to perpetrators of petty crimes if they were presumed to be homosexual; and to express greater implicit hostility toward gay subjects (also measured with the help of subliminal priming). Thus our research suggests that some who oppose homosexuality do tacitly harbor same-sex attraction.

ここで見落とせないのは、こうした「矛盾した」人たちは同時に、他の参加者たちよりもっと顕著に反ゲイの行動様式に賛同する傾向があるということだ;たとえば軽犯罪であってもその人が同性愛者だと推認されたらより著しく厳しい刑罰を与えようとしたり、またはゲイ的なものに対してより激しい隠然たる敵意を示したりする(これも潜在意識を刺激して反応を測る閾下プライミング法 subliminal priming を使って計測した)。結果、私たちの調査は、ホモセクシュアリティに反感を抱くある人々はひそかに同性に惹かれる心を宿していることを示したのである。

What leads to this repression? We found that participants who reported having supportive and accepting parents were more in touch with their implicit sexual orientation and less susceptible to homophobia. Individuals whose sexual identity was at odds with their implicit sexual attraction were much more frequently raised by parents perceived to be controlling, less accepting and more prejudiced against homosexuals.

何がこの抑圧へとつながるのだろうか? 私たちにわかったことは、いろいろと自分を励ましたり受け入れたりしてくれる親たちを持っていると言う参加者たちは、自分の潜在的な性的指向ともより折り合いがよく、ホモフォビアに染まることもより少なかったということだ。一方で、自認している自分の性的なあり方が潜在的に性的魅力を感じる対象と一致しない参加者は、ずいぶんと大きな確率で、支配的であまり言うこともすることも認めてくれない、そしてホモセクシュアルの人々により偏見を持つと認められる親たちによって育てられている傾向があった。

It’s important to stress the obvious: Not all those who campaign against gay men and lesbians secretly feel same-sex attractions. But at least some who oppose homosexuality are likely to be individuals struggling against parts of themselves, having themselves been victims of oppression and lack of acceptance. The costs are great, not only for the targets of anti-gay efforts but also often for the perpetrators. We would do well to remember that all involved deserve our compassion.

自明のことだが強調しておくことが重要だ;ゲイ男性やレズビアンに対して反対の論陣を張るすべての人々が秘密裏に同性に魅力を感じているわけではない。しかし少なくとも同性愛に反対する人々の何人かは、自分の中のある部分と苦闘している人、自分で重圧と受容の欠如の被害者になってきた人であることが多い。代償は甚だしいものだ。たんに反ゲイ行動の標的になる犠牲者たちにとってだけでなく、反ゲイ行動を行う加害者たちにとってもしばしば。憶えておいた方がいいのは、私たちはこの件に関するどちらもすべてに思いやりを持たねばならないということだ。

Richard M. Ryan is a professor of psychology, psychiatry and education at the University of Rochester. William S. Ryan is a doctoral student in psychology at the University of California, Santa Barbara.

リチャード・M・ライアンはロチェスター大学の心理学、精神医学、教育学教授。ウィリアム・S・ライアンはカリフォルニア大学サンタバーバラ校の心理学博士課程の学生。

April 28, 2012

ガラパゴスのいじめっ子たち

昨夏以来、米国では10代の少年少女たちの相次ぐいじめ自殺が社会問題化しています。米国では毎年、1300万人の子供たちが学校やオンラインや携帯電話や通学のスクールバスや放課後の街でいじめに遭っています。300万人がいじめによって毎月学校を休み、28万人の中学生が実際にけがをしています。しかしいじめの現場に居合わせていても教員の1/4はそれを問題はないと見過ごしてしまっていて、その場で割って入る先生は4%しかいません。

米国のこの統計の中には日本の統計には現れてこない要素も分析されます。いじめ相手を罵倒するときに最もよく使われる言葉が「Geek(おたく)」「Weirdo(変人)」そして「Homo(ホモ)」や「Fag(オカマ)」「Lesbo(レズ)」です。そのいじめの対象が実際にゲイなのかトランスジェンダーなのかはあまり関係ありません。性指向や性自認が確実な年齢とは限らないのですから。問題は、いじめる側がそういう言葉でいじめる対象を括っているということです。また最近はゲイやレズビアンのカップルの下で育つ子供たちも多く、その子たちが親のせいでいじめられることも少なくありません。LGBT問題をきちんと意識した、具体的な事例に対処した処方がいま社会運動として始まっています。

ところで日本のいじめ議論でいつも唖然とするのが「いじめられる側にも問題があるのでそれを解決する努力をすべきだ」という意見が散見されることです。この論理で行けば、だから「ゲイはダメだ」「同性婚は問題が多い」という結論に短絡します。「あいつはムカつく。ムカつかせるあいつが悪い。いじめられて当然だ」と言う論理には、ムカつく自らの病理に関する自覚はすっぽりと抜け落ちているのです。

問題はいじめる側にあるという第一の大前提が、どういう経緯かあっさりと忘れ去られてすり替えられてしまうのはなぜなのでしょう。先進国で趨勢な論理が日本ではなぜか共有されていないのです。

先日もこんなことがありました。あるレズビアンのカップルが東京ディズニーリゾートで同性カップルの結婚式が可能かどうかという問い合わせを行いました。なぜなら本家本元の米国ディズニーでは施設内のホテルなどで同性婚の挙式も認めているからです。ところが東京ディズニーの回答は同性カップルでも挙式はできるが「一方が男性に見える格好で、もう一方が女性に見える格好でないと結婚式ができない」というものでした。

これだとたとえば男同士だと片方がウェディングドレスを着なくちゃいけなくなります。それもすごい規定ですが、ディズニーの本場アメリカではディズニーの施設はすべてLGBTフレンドリーであることを知っていた件のカップル、ほんとうにそうなのかもう一度確認してほしいと要望したところ、案の定、後日、「社内での認識が不完全だったこともあり、間違ったご案内をしてしまいました」というお詫びが返ってきました。「お客様のご希望のご衣装、ウェディングドレス同士で結婚式を挙げていただけます。ディズニー・ロイヤルドリームウェディング、ホテル・ミラコスタ、ディズニー・アンバサダーホテルで、いずれのプランでも、ウェディングドレス同士タキシード同士で承ることができます」との再回答だったそうです。

米国ディズニーの方針に対して「社内での認識が不完全だった」。しかし今回はそうやって同性婚に関する欧米基準に日本のディズニー社員も気がつくことができた。しかし、ではいじめに関してはどうか? 他者=自分と異なるものに対する子供たちの無知な偏見が、彼らの意識下でLGBT的なものに向かうという事実は共有されているのでしょうか? どうして欧米では同性婚を認めようとする人たちが増えているのか、その背景は気づかれているのでしょうか? 議論を徹底する欧米の人たちのことです、生半可な反同性愛の言辞はグーの音も出ないほどに反駁されてしまうという予測さえ気づかれていないのかもしれません。

大統領選挙を11月に控え、米国では民主党支持者の64%が同性婚を支持しています。中間層独立系の支持者でも54%が支持、一般に保守派とされる共和党支持者ではそれが39%に減りますが、それでも10人に4人です。この数字と歴史の流れを理解していなければ、それは米国のいじめっ子たちと同じガラパゴスのレベルだと言ったら言い過ぎでしょうか。

April 16, 2012

無私の精神

救急車がサイレンを鳴らして緊急走行をしているのに渋谷駅前のスクランブル交差点で横断者が一向に歩みを止めず、救急車が立ち往生するというビデオがYouTubeに投稿されて話題になっています。

友人たちに「どうして日本ではこういうことが起こるのか?」と訊かれて答えに窮しました。投稿ビデオには、救急隊員が「道を開けてください」と車内からスピーカーで叫んでいるのにも関わらず、無表情に交差点を渡り続ける大量の人の群れが映っています。ぞっとする光景です。

ニューヨークならどうなるか考えてみると、まずはだれかが必ず「ストップ、ストップ!」と大声を出しますよね。後方に控える大量の人の群れにも届くように。そうすると連鎖反応でその人の後ろの人もみんなで手を広げて後ろのひとを止めると思います。米国では公共の場で声を出して他の人に訴えるのは日常茶飯事ですから。

でも東京では滅多にそんなことは起こりません。東京の街角では大声を出しているのは右翼の街宣車か変な人と相場が決まっています。公共の場ではみんな人間をやめてしゃべらぬ芋に変身しするからです。そうじゃなきゃあのラッシュアワーの通勤電車の中、あんなに隣の人とくっつき合えない。隣の存在が個人の名前を持つ生々しい人間だと思ったらとてもじゃないけどウザいでしょう。芋だと思うからこそ芋洗い状態も我慢できるわけです。

そういえばアメリカではバスから見える通りの名前や地下鉄の駅名は、数字の丁目の名称以外は多くが人の名前です。公の場でも「個人」がどんどん登場します。マンハッタンの東を走る高速道路FDRはフランクリン・D・ルーズベルトですし、ダウンタウンを東西に横切るハウストン・ストリートは独立戦争時の大陸会議代議員だったウィリアム・ハウストンの名前から付けられました。ビレッジやトライベッカ地区などニューヨークのダウンタウンの通りはほとんどが歴史上の人物名ですし、有名なマディソン・アベニューも第4代大統領のジェイムズ・マディソンの名前です。

対して日本では、通りや橋に人の名前が付いていることはまれですよね。武士は戦場で名乗ってから戦いましたが、それ以外は周囲との調和のためか、「個」はほとんど前面には出てこない。出る杭は打たれる、というか、「我も我も」ははしたない生き方とされてきました。そのうちに個人を顕彰して善行を讃え奨励することもなんとなくなくなってきた。

でもそれはもともとは自己顕示欲を諌めたものであって、だから自分は隠れていて何をしないでもよい、というのとは違ったはずです。「私」を押し殺すのは「公」に尽くすためであり、私心や恥ずかしさなどを捨てて善行をなすことこそが「無私の精神」の顕われでした。小林秀雄も「実行するとは意識を殺す事である事を、はっきり知った実行家」こそが、数少なく貴重な「無私」の人物であると言っています。行動は、文化の東西を問わず重要不可欠なことなのです。

それがいまは「私」を守るために鉄の鎧で自分を被い、ひたすら「公」に対しても見て見ない振りをする。自分がその場にいない振りをする。「個」を捨て「私」を隠し、自分が存在し無いフリをして「公」も知らんぷり。それは「無私」ではなくて無視の精神だ、などとオヤジギャグみたいな駄洒落で済む話ではないのです。

都会化の流れと無縁ではないのでしょうが、いったい日本はいつからそんなふうになったんでしょうね。伝統曲解のそんな冷たい態度がいまの日本を席巻しているのかもしれません。

April 15, 2012

バベルの日本

2月の帰米の飛行機の中で、メジャーの貧乏球団オークランド・アスレチックスがいかにしてプレーオフ常連チームになったかを描いた「マネーボール」という映画を見ました。日本語の吹き替え版で、最後近くで主演のブラッド・ピットが「野球にはやっぱりロマンがあるな」と呟く場面があります。なかなか泣かせる場面なのですが、こちらに戻ってから、はてさてあれはところで、どういう意味だったのだろうと気になってきました。

「野球にはロマンがある」──ロマンという言葉を聞くと私たちはついつい条件反射のように深くうなづいてしまうけれど、でもいったいどういう意味なんだ? 「夢」「憧れ」? おまけに「男のロマン」とは言うが「女のロマン」とはなかなか言わないと来ると余計わからなくなる。そもそも「男のロマン」ってのも何なんでしょう?

で、帰宅してからちゃんとした英語版をチェックしてみました。原語は「How can you not be romantic about baseball?」でした。なるほど、これならわかります。「野球を観てるとロマンティックな気分にならずにはいられない」。つまり「甘く優しく切ない気持ちになる」──これ、「野球にはロマンがあるな」とビミョーに違ってますよね。まあ、字幕や吹き替えは字数の問題もあるので誤訳とは言いません。むしろ日本語としては「してやったり!」という“名訳”かもしれません。

ここで問題にしたいのはしかし翻訳のことではありません。日本語で「ロマン」と聞くとわかったような気になるけれども、実は何も伝わってないんじゃないか。言葉の響きで納得したつもりでいるけれど、その実私たちは日ごろ、物事をきちんと言葉で考えることをしなくなっているのではないかということです。

そんな思いを強めたのは3月11日の震災1周年の時でした。日本のテレビは「つながろう」「心を1つに」という言葉で溢れていました。「絆」というのもそうです。でも、「心を1つにつながる」って、何でしょう? 「一緒だよ、絆だよ」と念仏でも唱えてろってことでしょうか?

折しも日本はさっぱり進まぬ瓦礫の処理問題や放射能汚染食物など、とても複雑な思考を要する問題で揺れています。そしてここにも人気タレントが「食べて応援!」と心地よいコピーを連呼していました。「本当に大丈夫なの?」はほったらかしにして。

思えばそういうのは確かにテレビCMの手法です。日本のCMは商品の具体的な性能や効能に触れずに漠然と心地よいイメージを喧伝することで価値以上の価値を生み出してきました。そこには本当に「違いのわかる男」はインスタントなど飲まないという事実も「オール電化」がとんでもない話だったという事実もなんとなく触れられず仕舞いで済んできた。かくしていまも日本では、論理的な説明もなく効くのかどうかまるで怪しい養毛剤や、老優が歌をうたいながら散歩するクスリでもない錠剤のCMでいっぱいです。

「絆」という言葉で、私たちはなんとなくわかった気分になって事足らしてはいないか? そんなとき、そんな日本語を英語に訳してみると正体が分かるときがあります。「絆」の持つニュアンスは英語では伝えられません。「ロマン」も英語になりません。英語にするとその言葉の周辺にある漠然とした装飾のようなものが取れて、なんとも情けない単語にしかならないのです。「つながろう」と「Get Connected」でも具体的な行動のイメージが違います。英語ではお題目ではなくなる感じがします。話は違うけど「ふれあい」って言葉もわけがわからんなあ。まあ、アメリカだって9.11の後のおかしなスローガン・ブームはありましたがね。そっか、CMコピーとスローガンは注意しなくちゃってことですな。

そういえばあと、日本の政治家の演説や挨拶もこんなに英語にしにくいものはありません。論理と具体に欠けて、むしろ言質を与えないように故意に曖昧な麗句を並べている感さえします。言葉は意味を伝えるためではなくむしろ真の意味を伝えないために機能している。

神話のバベルの塔は失敗します。私たちは、東北は、日本は、失敗するわけにはいかないのです。(うむ、私のこの文章もスローガンぽくなってきた……)