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無私の精神

救急車がサイレンを鳴らして緊急走行をしているのに渋谷駅前のスクランブル交差点で横断者が一向に歩みを止めず、救急車が立ち往生するというビデオがYouTubeに投稿されて話題になっています。

友人たちに「どうして日本ではこういうことが起こるのか?」と訊かれて答えに窮しました。投稿ビデオには、救急隊員が「道を開けてください」と車内からスピーカーで叫んでいるのにも関わらず、無表情に交差点を渡り続ける大量の人の群れが映っています。ぞっとする光景です。

ニューヨークならどうなるか考えてみると、まずはだれかが必ず「ストップ、ストップ!」と大声を出しますよね。後方に控える大量の人の群れにも届くように。そうすると連鎖反応でその人の後ろの人もみんなで手を広げて後ろのひとを止めると思います。米国では公共の場で声を出して他の人に訴えるのは日常茶飯事ですから。

でも東京では滅多にそんなことは起こりません。東京の街角では大声を出しているのは右翼の街宣車か変な人と相場が決まっています。公共の場ではみんな人間をやめてしゃべらぬ芋に変身しするからです。そうじゃなきゃあのラッシュアワーの通勤電車の中、あんなに隣の人とくっつき合えない。隣の存在が個人の名前を持つ生々しい人間だと思ったらとてもじゃないけどウザいでしょう。芋だと思うからこそ芋洗い状態も我慢できるわけです。

そういえばアメリカではバスから見える通りの名前や地下鉄の駅名は、数字の丁目の名称以外は多くが人の名前です。公の場でも「個人」がどんどん登場します。マンハッタンの東を走る高速道路FDRはフランクリン・D・ルーズベルトですし、ダウンタウンを東西に横切るハウストン・ストリートは独立戦争時の大陸会議代議員だったウィリアム・ハウストンの名前から付けられました。ビレッジやトライベッカ地区などニューヨークのダウンタウンの通りはほとんどが歴史上の人物名ですし、有名なマディソン・アベニューも第4代大統領のジェイムズ・マディソンの名前です。

対して日本では、通りや橋に人の名前が付いていることはまれですよね。武士は戦場で名乗ってから戦いましたが、それ以外は周囲との調和のためか、「個」はほとんど前面には出てこない。出る杭は打たれる、というか、「我も我も」ははしたない生き方とされてきました。そのうちに個人を顕彰して善行を讃え奨励することもなんとなくなくなってきた。

でもそれはもともとは自己顕示欲を諌めたものであって、だから自分は隠れていて何をしないでもよい、というのとは違ったはずです。「私」を押し殺すのは「公」に尽くすためであり、私心や恥ずかしさなどを捨てて善行をなすことこそが「無私の精神」の顕われでした。小林秀雄も「実行するとは意識を殺す事である事を、はっきり知った実行家」こそが、数少なく貴重な「無私」の人物であると言っています。行動は、文化の東西を問わず重要不可欠なことなのです。

それがいまは「私」を守るために鉄の鎧で自分を被い、ひたすら「公」に対しても見て見ない振りをする。自分がその場にいない振りをする。「個」を捨て「私」を隠し、自分が存在し無いフリをして「公」も知らんぷり。それは「無私」ではなくて無視の精神だ、などとオヤジギャグみたいな駄洒落で済む話ではないのです。

都会化の流れと無縁ではないのでしょうが、いったい日本はいつからそんなふうになったんでしょうね。伝統曲解のそんな冷たい態度がいまの日本を席巻しているのかもしれません。

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