ガラパゴスのいじめっ子たち
昨夏以来、米国では10代の少年少女たちの相次ぐいじめ自殺が社会問題化しています。米国では毎年、1300万人の子供たちが学校やオンラインや携帯電話や通学のスクールバスや放課後の街でいじめに遭っています。300万人がいじめによって毎月学校を休み、28万人の中学生が実際にけがをしています。しかしいじめの現場に居合わせていても教員の1/4はそれを問題はないと見過ごしてしまっていて、その場で割って入る先生は4%しかいません。
米国のこの統計の中には日本の統計には現れてこない要素も分析されます。いじめ相手を罵倒するときに最もよく使われる言葉が「Geek(おたく)」「Weirdo(変人)」そして「Homo(ホモ)」や「Fag(オカマ)」「Lesbo(レズ)」です。そのいじめの対象が実際にゲイなのかトランスジェンダーなのかはあまり関係ありません。性指向や性自認が確実な年齢とは限らないのですから。問題は、いじめる側がそういう言葉でいじめる対象を括っているということです。また最近はゲイやレズビアンのカップルの下で育つ子供たちも多く、その子たちが親のせいでいじめられることも少なくありません。LGBT問題をきちんと意識した、具体的な事例に対処した処方がいま社会運動として始まっています。
ところで日本のいじめ議論でいつも唖然とするのが「いじめられる側にも問題があるのでそれを解決する努力をすべきだ」という意見が散見されることです。この論理で行けば、だから「ゲイはダメだ」「同性婚は問題が多い」という結論に短絡します。「あいつはムカつく。ムカつかせるあいつが悪い。いじめられて当然だ」と言う論理には、ムカつく自らの病理に関する自覚はすっぽりと抜け落ちているのです。
問題はいじめる側にあるという第一の大前提が、どういう経緯かあっさりと忘れ去られてすり替えられてしまうのはなぜなのでしょう。先進国で趨勢な論理が日本ではなぜか共有されていないのです。
先日もこんなことがありました。あるレズビアンのカップルが東京ディズニーリゾートで同性カップルの結婚式が可能かどうかという問い合わせを行いました。なぜなら本家本元の米国ディズニーでは施設内のホテルなどで同性婚の挙式も認めているからです。ところが東京ディズニーの回答は同性カップルでも挙式はできるが「一方が男性に見える格好で、もう一方が女性に見える格好でないと結婚式ができない」というものでした。
これだとたとえば男同士だと片方がウェディングドレスを着なくちゃいけなくなります。それもすごい規定ですが、ディズニーの本場アメリカではディズニーの施設はすべてLGBTフレンドリーであることを知っていた件のカップル、ほんとうにそうなのかもう一度確認してほしいと要望したところ、案の定、後日、「社内での認識が不完全だったこともあり、間違ったご案内をしてしまいました」というお詫びが返ってきました。「お客様のご希望のご衣装、ウェディングドレス同士で結婚式を挙げていただけます。ディズニー・ロイヤルドリームウェディング、ホテル・ミラコスタ、ディズニー・アンバサダーホテルで、いずれのプランでも、ウェディングドレス同士タキシード同士で承ることができます」との再回答だったそうです。
米国ディズニーの方針に対して「社内での認識が不完全だった」。しかし今回はそうやって同性婚に関する欧米基準に日本のディズニー社員も気がつくことができた。しかし、ではいじめに関してはどうか? 他者=自分と異なるものに対する子供たちの無知な偏見が、彼らの意識下でLGBT的なものに向かうという事実は共有されているのでしょうか? どうして欧米では同性婚を認めようとする人たちが増えているのか、その背景は気づかれているのでしょうか? 議論を徹底する欧米の人たちのことです、生半可な反同性愛の言辞はグーの音も出ないほどに反駁されてしまうという予測さえ気づかれていないのかもしれません。
大統領選挙を11月に控え、米国では民主党支持者の64%が同性婚を支持しています。中間層独立系の支持者でも54%が支持、一般に保守派とされる共和党支持者ではそれが39%に減りますが、それでも10人に4人です。この数字と歴史の流れを理解していなければ、それは米国のいじめっ子たちと同じガラパゴスのレベルだと言ったら言い過ぎでしょうか。