緊急避難としての原発
5月5日、日本国内にある原子力発電所がすべて稼働を停止しました。マスメディアの一分には「全電源の3割が失われる異常事態」「今夏の電力需給逼迫が懸念される」とするものもありますし、民主党の仙石由人はこれを「集団自殺」とまで形容しました。
原子力発電はあんなことでも起きない限りおそらく十分に安全なものなのでしょう。だから「即時脱原発は短絡的な考え方」という意見も多い。日経は社説で「電力供給への不安」で「企業は国内の設備投資をためらわざるを得」ず「原発停止の穴を埋める石油や天然ガスの調達増加」で「年間2兆円を超える国富が余分に海外へ流出」「電力料金の上昇」など「景気や雇用に影響が及」ぶ、と心配しています。
でも本当に短絡的なのでしょうか?
原発の是非に関する議論には昔から奇妙なねじれがあります。反対派はかねてから使用済み核燃料再処理などでの長期的な非採算性や環境汚染を問題視しています。反原発運動の最初期にはいずれ勃発するかもしれない第三次世界大戦ではまず最初に原発が狙われるから危険だ、という深謀遠慮までありました。戦争のみならず、もちろん地震や自然災害の心配もありました。そこに実際に福島東電事故が起きて、私たちはかつての「杞憂」どおりにごく長期的に国土の一部を失い、事故終息までの費用も国家予算の数倍も掛かることを知ったのです。
これら長期的かつ広範・多次元な損害を考慮してのかねてよりの脱原発論を、原発推進・容認派は「短絡」と呼び、「今夏を乗り切る」「電力不足は待ったなし」と短期決戦を煽る人々を「長期的経済戦略上重要な考え方」と讃えるのです。なんだか逆だと思いませんか?
私もじつは今夏の電力不足が心配です。節電に律儀なお年寄りたちが昨夏は冷房を遠慮して多く亡くなるという痛ましいことも起きました。計画停電で経営が行き詰まった中小企業も少なくなかったでしょう。なので緊急避難的なバックアップとしての一時的な原発再稼働はむしろ準備しておくべきだと思います。
しかし、そのためには長期的で確固たる脱原発の道筋が担保されていなくてはならない。
ところが聞こえてくる原発再稼働の訴えは「喫緊の電力不足」を人質にした、その実、単に今後も長期的に原発を稼働させたいという経済的な利得主義が見え隠れする浅薄な主張にしか聞こえないのです。「とにかくこの夏だ」と言っている間にいつしか「先の話はまたいずれ」ということになっている、みたいな。
原発の特異性は、原発事故に保険がかかっていないことにも明らかです。そんな愚かな保険会社は存在しません。なのでその部分の保険はすべて免責なのです。しかも原発はいまや建設費高騰や投資遅延で手をつけたくない産業になりつつあります。原発が世界の第一次エネルギーに占める割合は5%に過ぎず、しかもそれも減り続けている。時代遅れの技術になりつつあるのです。
一方で再生可能エネルギーは、世界自然エネルギー白書によれば風力エネルギーだけでもあと3年で原発の総設備容量(3億7000万kW)を超えるそうです。原発とはむしろ人類の技術史的に見ても、石油エネルギーから自然エネルギーに至るまでの暫定的な、一時しのぎの緊急避難だったと位置づけられるべきなのではないか? もちろん一時しのぎにしてはこれまでに莫大なおカネを注ぎ込んできたし、利権構造まで育ち上がった巨大な産業体になってしまったのですが。そしてその産業構造の維持こそが、じつは原発再稼働の目的であるように見えるのです。そこにあるのは原発に依存したエネルギー戦略の維持と発展でしかありません。
私は、原発再稼働派の人たちからこそ長期的な視点を持ったエネルギー戦略を聞いて説得されたい。でも残念ながら、聞こえてくるのは短絡的で近視眼的な話をいつまでも積み重ねて行く結果としての展望ばかりで、問題を解決しようという営みがどこで目に見えて来るのか、これもまた「先の話はまたいずれ」ということにしか見えないのです。
そもそも野田佳彦は「次の世代に借金を残してはいけない」というもっともらしい論理でもって消費増税を必要不可欠なものと位置づけています。これをエネルギー行政に転換すれば同じく「次の世代に課題を残してはいけない」と言って当然なのに、その2つの考え方の齟齬は気づかないのか気づいても無視するしか能がないのか、下手くそな比喩を考えては気が利いていると誤解している暇があったらまっすぐに自分の矛盾に比喩なしで向き合うべきなのです。
それにしてもこの原発再稼働、自民党なら強行してただろうことを野田政権はやらなかった。それが変革の熱意、民意の勝利のせいではなく、たんに行政能力の欠如のせいだというのが情けない話です。さらに言えば、消費増税もTPPも共謀罪復活も秘密保全法も、その阻止が彼らの能力の欠如、機能不全頼みだというのがもっと情けないのではありますが。