男性主義の政治という遺物
明日は自民党が290議席、あるいは300議席をも窺うという勢いだそうです。もっとも、どこに投票するかわからないと答える人も全体で40%以上、女性だけだと50%以上もいるようで、民意は単純に「自民復権」を望んでいるわけではないような気もします。
というのも、「わからない」人たちは今回はむしろ、浮動層というよりは「民主党には裏切られたが、かといって自民党には投票したくない」と逡巡している層を多く含むと疑われるからです。その未回答層が結果的にどこに投票するのか、その動向はこれまでの選挙世論調査の常識とは違うような気がしないでもありません。まあ、でも実際は「自民党対それ以外」という選挙動向上の仕組みでは、多党乱立の「反自民勢力」は票が分散して不利になってしまうのでしょうが。
でもいったい今回の総選挙はどういう選挙なのか、少し考えてみてもよいかと思います。3.11後初めてとなるこの選挙を、ある人は「生命vs経済」の戦い、「善悪vs損得」の戦いだと呼びます。でも大方の関心事は原発問題よりも経済・景気のことで、すでに首相気分の安倍・自民党総裁は日銀法改正、金融緩和、公共事業と大風呂敷を広げています。
原発も重大、景気も重要、善悪も損得もともに大切なことです。だからどこに入れてよいかわからない、という人が多いのでしょう。でもその中で、目を付けるべき何かが欠けている。いま日本にいてこの選挙戦を目の当たりにしながら、私はずうっと日本の政治と言論とに奇妙な違和感を感じています。その根が何なのか、安倍晋三や石原慎太郎や橋下徹らキーパーソンの言葉を聞いていてなんとなくわかってきたような気がします。
この3人は簡単に言えば男性至上主義者です。男性主義というのは父権主義のことです。停滞する政治への不信を募らせる民衆が強い指導者像を求めて父権政治にあこがれを抱く、というのは「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」の社会です。
欧米はこの「父権」を超克あるいは脱構築しながら現代社会を形成してきました。その過程では「父権」だけでなく「男性性」そのものも超克されてきました。それは50年代からの黒人解放で「白人」が、60年代からの女性解放で「男性」が、70年代からの同性愛者解放で「異性愛者」が解体されてきた歴史に裏打ちされます。オバマvsロムニー、ウォール街占拠運動vsティーパーティー運動は一方でそういう戦いでもあったのです。
ところが日本ではこうしたイケイケどんどんの「男性主義政治」に対するアンチがそう明示されません。そもそもそれが父権政治=強権政治=国粋主義であるという批評が存在せず、逆にイケイケどんどんが「強いリーダーシップ」という美辞にすり替えられてしまうのです。その状況下で安倍は国防軍を強調し、石原は徴兵や核武装を唱え、橋下は仮想敵を量産してはそれらを叩き潰して見せることでヒーローを気取る。ナチスに関する総括もできていない、なんと雄々しい「男」たちでしょうか。
そういえば自民党の憲法改正草案は「基本的人権」以上に「公益及び公の秩序」を強調し、国民を「市民 citizen」であるよりも「臣民 subject」であるかのように描いています。自民党に投票しようという人たちは、しかしそれを望んでいるわけではないでしょう。そうじゃなくて単に民主党より前の方がよかった、という印象で投票しようとしているのかもしれません。いや、態度を決めかねている40%を鑑みれば、自民党圧勝の読みの背景の支持者の数字は、前回の選挙で自民党に入れた人たちとそう変わっていない。そうすると、民意はどこにあるのか? ほんとうに「300議席」という単純な議席数に置き換えて測ってはいけないのではないか、という気がするのです。
「生命vs経済」「善悪vs損得」の二者択一ならばどちらを取るか決断しかねます。両方とも大切だからです。がしかし、他者を「対象 subject」としか捉えない雄々しい男性主義か、それに対抗する反・男性主義か、となれば私の選択は明らかです。なぜなら国家の機能不全は、すでにジョン・ウェイン的な人物の解決できる次元を越えているからです。
バットマンもジェイムズ・ボンドも悩み傷つき涙を見せる時代です。どうしてそれに気づかないのか? 男性主義的な政治は日本国内だけを見ていれば一時的には有効かもしれません。しかしそれは国際的には必ず破綻する。尖閣をめぐる安倍や石原の発言が現実の政治の上ではまったく無効なばかりか有害ですらあったように。女性たちの50%以上が投票先を決めかねている現実は、いまも続くそんな日本の男性主義の胡散臭さに気づき始めたからではないかと願うのです。