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January 29, 2013

実名報道とは何か

日本では匿名報道とかボカシ報道が広がっています。読者・視聴者はそうして現場のナマの個人の証言や現実を知らずに済んでいます。アルジェリアの天然ガス施設の人質事件でも「実名にしなくとも」とか「遺族が可哀相」という反応が多くありました。

私は元新聞記者として実名報道こそが基本だと教わってきました。実名がわからないと取材元がわからない。取材できないと事実が確認できない。大袈裟な話をすれば、事実確認できない状態では権力が都合の悪い事実を隠蔽したり別の形に捏造する恐れがある。すべてはそこにつながるが故の、実名報道は報道の基本姿勢なのです。

しかし昨今の被害者報道を見ていると「実名」を錦の御旗にした遺族への一斉取材が目に余る。メディアスクラムというやつです。遺族や関係者だって心の整理がついていない時点での取材は、事実に迫るための手法とは確かに言い難いでしょう。

ただ、それを充分承知の上で、日本社会が「なにも実名にしなくとも」という情緒に流れるのには、なにか日本人の生き方に密接に関わっていることがあるからではないかと思っています。

苛酷な事件や事故で自分が死亡したとき、自分の死に様を報道してほしいかどうかはその人本人にしか決められないでしょうし、そのときの状況によっても違う。

それは人生の生き方、選び方なのでしょう。実際、苛酷で悲惨なドキュメンタリーや報道を好まない人もいるでしょうしその人はそういう現実になるべく心乱されない人生を送りたいのかもしれません。しかしそれでも誰かがその悲惨と苛酷とを憶えていなければならない。それも報道の役割の1つです。

記録されないものは歴史の中で存在しないままです。「存在しないままでいいんです」という人もいます。でも、その「存在しないままでいいと言う人たち」の存在も誰かが記録せねばならない。それは報道の大きな矛盾ですが、それも「書け」と私たちは教わってきました。なぜならそれは事実だからです。

「そんなことまで書くなんて」とか「遺族が可哀相」とか言っても、同時に「そこまで書かねばわからなかったこと」「別の遺族がよくぞ書いてくれたと思うこと」もあります。どちらも生き残った者たちの「勝手」です。私たちはその勝手から逃れられない。そのとき私たちは「勝手」を捨てて書く道を選ぶ。

それは、今の生存者たちだけではなく未来の生存者たちに向けての記録でもあるからです。スペイン戦争でのロバート・キャパの(撮ったとされる)あの『兵士の死』は、ベトナム戦争のエディ・アダムズのあの『サイゴンでの処刑』は、そういう一切の勝手な思いを超えて記録されいまそこにあります。それは現実として提示されている。

匿名でいいんじゃないか、遺族が悲しむじゃないか、その思いはわかります。実際、処刑されるあのベトコン兵士に疑われた男性の遺族は、あの写真を見たらきっと泣き叫ぶ。卒倒する。でも同時に、もしあの写真がなかったら、あの記事がなかったらわからなかった現実がある。反戦のうねりも違っていたでしょう。

解釈も感想も人それぞれに違う。そんなとき私たちは読み手の「勝手」を考えないように教えられた。それはジャーナリストとしての、伝え手としての「勝手」にもつながるからです。そうではなく、書く、写す、伝える、ように。なぜならそれは「勝手」以前の事実・現実だからだと教わったのです。そして読者を信じよ、と。

「読者を信じよ」の前にはもちろん、読者に信じられるような「書き手」であることが大前提なのですが。

日揮の犠牲者については、報道側もべつに「今すぐに」と急ぐべきではないと思います。こういう事態は遺族や企業の仲間の方々にも時間が必要です。今は十全に対応できないのは当然です。むしろ報道側には、ゆっくりじっくりと事実を記録・検証する丁寧さが必要とされている。1カ月後、半年後、10年後も。

大学生のときに教えていた塾の教材でだったか、ずいぶんと昔に目にした、(死者は数ではない、だから)「太郎が死んだと言え/花子が死んだと言え」という詩句がいまも忘れられません。誰の、何という詩だったんだろう──そうツイッターでつぶやいたら、ある方が川崎洋さんの『存在』という詩だと教えてくれました。

「存在」  川崎 洋

「魚」と言うな
シビレエイと言えブリと言え
「樹木」と言うな
樫の木と言え橡(とち)の木と言え
「鳥」と言うな
百舌鳥(もず)と言え頬白(ほおじろ)と言え
「花」と言うな
すずらんと言え鬼ゆりと言え

さらでだに

「二人死亡」と言うな
太郎と花子が死んだ と言え

January 22, 2013

本当に男らしい唯一の方法

オバマ大統領の2期目がスタートしました。2回目の就任演説は、もう選挙の心配をする必要がないせいか同性愛者の平等や気候変動、移民・人種など議論のある問題にも触れたオバマらしいものでした。

2期目の最大の課題はもちろん経済や財政の再建ですが、もう1つ、大統領選挙のときには話題にもならなかった銃規制にも踏み込まねばなりません。もちろん児童ら26人が犠牲になった昨年12月のコネティカット州ニュータウンの小学校乱射事件の影響です。

オバマは議会に対して軍用兵器並みの半自動ライフルや11発以上の連射が可能な高容量弾倉の販売禁止、私的売買での身元調査の義務化などの連邦法の制定を求めましたが、この提案に対して、全米ライフル協会(NRA)をバックにした共和党は武器を所持する権利を認めた合衆国憲法修正第2条に抵触すると即座に反発。同党のマルコ・ルビオ上院議員は「大統領の提案のうち、乱射事件を防止できた可能性のあるものは1つもない」「こうした暴力の陰にある真の原因に真剣に対処していない」と批判しています。

私もじつはこのルビオ議員の考えと同じ意見です。オバマ提案は摘出の必要なガンに絆創膏で対処するようなもので、「真の原因に対処していない」と。

乱射事件が起きるのは手の届くところに銃があるからです。理由のはっきりしない大量殺人の衝動を持ってしまう人は、社会のストレスの度合いなどでも違うでしょうがどの国でも存在してしまう。そのときに銃があるかナイフしかないかで被害を受ける人数の規模は違ってきます。そしてアメリカの場合は、そこに銃が、しかもけっこうな性能の最新銃器がそろっています。

銃規制反対派はそういう事情を知っています。そういう危険を取り除かない限り、自分を守る権利は譲れません。ところがそういう危険を取り除くことは可能なのでしょうか? 日本では秀吉の時の刀狩りがありました。明治政府になってからの廃刀令がありました。時の権力が一般の人々の武器所有を力で封じたのです。

対してアメリカは「時の権力」より先に個人が自ら危険に対処しながら国を広げていきました。当時の敵は野生動物や夜陰に乗じて襲ってくるかもしれない「インディアン」たちでした。その危険に対処する術が銃でした。おまけに独立戦争です。自国軍が整備されていない時代では、自分たちが軍に代わって英国軍と戦わねばならない時もある。その必要性が憲法修正第2条で「規律ある民兵は自由な国家の安全保障にとって必要であるから、市民が武器を保持する権利は侵してはならない」と明文化されたのです。

そうして当然のようにそのまま銃器が手許に残り、現在では民間に3億丁近くも出回る社会になってしまいました。特にこうも乱射事件が多発すると人々が疑心暗鬼になるのももっともです。いや乱射事件じゃなくても年間3万人以上が銃で死ぬ社会。自宅だけではなく学校内も銃で自衛したいと思う人がいても当然でしょう。当然、NRAの乱射事件に対する公式見解はそうしたものです。

規制反対派は銃マニアなどではなくじつはそういった「自衛」主義者なのです。全国民が対象の「銃狩り」が行われれば事情も変わるでしょうが、権力が個人の自衛権を力づくで剥奪するなんてまったくアメリカ的じゃありません。銃規制反対派は、その矛盾を知っている。

銃規制の最大の欺瞞はそれが規制であって禁止ではないということです。対して、規制反対派の最大の欺瞞は権利保持に忙しいあまりに自らの「恐怖」の根本原因に目をつぶっていることです。前者ははなから根本解決を諦めており、後者はほとんど中毒症状です。

銃を持つのは周囲に対する「恐怖」「小心」という実に非“男性”的な理由なのです。それを銃によって自らこの国を切り拓いたというとても“男性”的な「自負」や「矜持」に置き換えて、しかもそれを「それこそがアメリカ文化だ」とする自己同一性で補強する。この欺瞞の論理に自覚的になり、かつそれを克服するとなれば、目指すべきは銃器の一斉放棄でしかありません。

それこそが最も「男らしい方法なのだ」と規制反対派に持ちかければ、話し合いの端緒は生まれるでしょうか? うーむ、彼らにそれはちょいと面倒臭すぎる論理でしょうね。

January 09, 2013

2013年を日本で迎えて

久しぶりに日本で新年を迎えました。帰国するとその間の日本社会のちょっとした変化に気づいたりします。今回はテレビ画面の右下に小さく現れる「CM上の演出です」というテロップでした。1つはキムタクが出ている宝くじのCMで、彼が手筒花火をぶっ放しているものです。もう1つは乗用車が迷路を疾駆している車のCM。ほかにもありました。で「CM上の演出です」と来る。これって前からありましたっけ? 今回初めて気づいたんですが。

以前から「これは個人の感想です」とやるカンキローやコージュンやセサみんやクロズやなんかのインフォマーシャルはありました。が、今度は「これはCM上の演出です」って、いくらなんでもそんな言わずもがなのことを、わざわざ断らなければならない事情はいったいなぜなんでしょう。そもそも演出のないCMなど存在しないって、常識ではないのでしょうか?

こういうテロップはすべて視聴者からの苦情に対する予防措置なんですね。「こんなことを真似して事故を起こしたらどうする?」。なので前もって警告しておく、あるいは断り書きをしておく。でも健全な社会には「こんなことは安易に真似しない」というもう1つの予防教育があるはずです。あるいは「これは演出だ」と判断できる常識的な知力も。

日本はクレイマー社会だという説もあります。しかしこうした断りはもともとは米国のテレビで始まりました。「これはPaid Advertisementです」からそのつもりで見てください、という。苦情はアメリカ社会のほうがずっと厳しく多い。モンスターペアレンツだってきっとアメリカの方が手強い。

でも何が違うかと考えると、アメリカ社会は苦情にも簡単に謝らない。毅然と対処(あるいは理不尽なほどにも反論)する。対して日本社会は謝罪するんですね。謝罪することがあらかじめ当然のように期待されている。身分制度の名残が売り手と顧客の関係にも影響しているのしょうか? 日本語の「客」は確かに「カスタマー」や「ゲスト」やはてさて「神様」までをも取り込んだ強力な概念ですし。

でも、そうやって何か悪いことが起こらないようにと事前警戒ばかりして予防線を張り巡らす社会というのは、みんなとても窮屈でヘマをしないようにおどおどビクビクしている社会に見えてしまいます。さらにそれが何かの際に、人々を発作的な激高に煽ってしまうような、そんな悪循環。

かくして日本では普通のニュース映像でも通行人の顔や事件現場の背景のことごとくにボカシが入って、万が一のプライバシー上の苦情にも万全の予防措置を講じています。事故を目撃した人の証言までその人の足しかテレビには映っていない。もちろん背景には例の個人情報保護法みたいなものがあるのですが、それは見ていてあまりにパラノイア的ですらあります。

私がニューヨークに来て最初に気づいたことの1つは、地下鉄の駅に時刻表がないという事実でした。さらにはちゃんとしたアナウンスもなく勝手に駅を飛ばしたりルートを変更したりする。でも利用者たちはそれでも平然としてるし、そのうちに私も「ああ人間社会ってこんなもんなんだ」と思うようになってきました。あるいは近所のスーパーやファストフード店でも客あしらいがとんでもなくぞんざいで、あるいは商品だっていい加減で、トマトだってブドウだって下の方がつぶれていたり腐っていたり、まあ、そんなことに腹を立ててもしょうがない。自分でどうにかするしかない。だいたい、ニコニコと平身低頭な店員や時刻表通りに運行される列車なんて、世界中で日本くらいにしか存在しないんだと妙に得心している次第です。

ただしアメリカだってもちろんテロ警戒は空港に行くたびに物凄いですし、重要施設の入館チェックも神経質すぎると感じるほど厳重です。ただ、社会全体としては事前警戒と事後対処の覚悟のバランスが取れている。何がおかしいかって、「携帯電話は他の人に迷惑です」と言っていながら東京の地下鉄では現在、携帯の電波が走行中でも通じるようにどんどん工事が進んでいるんですよ。ま、データ通信やテキスティングのためでしょうけど。

「何か悪いことが起きないように」という心配や警告はいまやだれもが気づいているように「悪いことが起きてもこちらの責任が回避できるように」という言い訳になっています。リスク管理上それらも必要なことではあるでしょう。ただし、いくら事前警告していてもそれでも何か悪いことは起きるものです。その場合に「だから言っていたでしょう」という言い訳は責任回避のなにがしかを担うかもしれませんが、問題の解決には何の役にも立ちません。

リスク管理の成否とはむしろ、問題が起きたその際にどう毅然と対処できるか、ということに掛かっていると思います。予防教育と常識の強化ではなく事前警戒の責任回避のみに執心している社会は、肝心の時の対処に必ず抜かりを生じるのではないかと、新年早々、日本社会を見ていてとても心配なのです。

ちなみにこれは「個人の感想です」。