本当に男らしい唯一の方法
オバマ大統領の2期目がスタートしました。2回目の就任演説は、もう選挙の心配をする必要がないせいか同性愛者の平等や気候変動、移民・人種など議論のある問題にも触れたオバマらしいものでした。
2期目の最大の課題はもちろん経済や財政の再建ですが、もう1つ、大統領選挙のときには話題にもならなかった銃規制にも踏み込まねばなりません。もちろん児童ら26人が犠牲になった昨年12月のコネティカット州ニュータウンの小学校乱射事件の影響です。
オバマは議会に対して軍用兵器並みの半自動ライフルや11発以上の連射が可能な高容量弾倉の販売禁止、私的売買での身元調査の義務化などの連邦法の制定を求めましたが、この提案に対して、全米ライフル協会(NRA)をバックにした共和党は武器を所持する権利を認めた合衆国憲法修正第2条に抵触すると即座に反発。同党のマルコ・ルビオ上院議員は「大統領の提案のうち、乱射事件を防止できた可能性のあるものは1つもない」「こうした暴力の陰にある真の原因に真剣に対処していない」と批判しています。
私もじつはこのルビオ議員の考えと同じ意見です。オバマ提案は摘出の必要なガンに絆創膏で対処するようなもので、「真の原因に対処していない」と。
乱射事件が起きるのは手の届くところに銃があるからです。理由のはっきりしない大量殺人の衝動を持ってしまう人は、社会のストレスの度合いなどでも違うでしょうがどの国でも存在してしまう。そのときに銃があるかナイフしかないかで被害を受ける人数の規模は違ってきます。そしてアメリカの場合は、そこに銃が、しかもけっこうな性能の最新銃器がそろっています。
銃規制反対派はそういう事情を知っています。そういう危険を取り除かない限り、自分を守る権利は譲れません。ところがそういう危険を取り除くことは可能なのでしょうか? 日本では秀吉の時の刀狩りがありました。明治政府になってからの廃刀令がありました。時の権力が一般の人々の武器所有を力で封じたのです。
対してアメリカは「時の権力」より先に個人が自ら危険に対処しながら国を広げていきました。当時の敵は野生動物や夜陰に乗じて襲ってくるかもしれない「インディアン」たちでした。その危険に対処する術が銃でした。おまけに独立戦争です。自国軍が整備されていない時代では、自分たちが軍に代わって英国軍と戦わねばならない時もある。その必要性が憲法修正第2条で「規律ある民兵は自由な国家の安全保障にとって必要であるから、市民が武器を保持する権利は侵してはならない」と明文化されたのです。
そうして当然のようにそのまま銃器が手許に残り、現在では民間に3億丁近くも出回る社会になってしまいました。特にこうも乱射事件が多発すると人々が疑心暗鬼になるのももっともです。いや乱射事件じゃなくても年間3万人以上が銃で死ぬ社会。自宅だけではなく学校内も銃で自衛したいと思う人がいても当然でしょう。当然、NRAの乱射事件に対する公式見解はそうしたものです。
規制反対派は銃マニアなどではなくじつはそういった「自衛」主義者なのです。全国民が対象の「銃狩り」が行われれば事情も変わるでしょうが、権力が個人の自衛権を力づくで剥奪するなんてまったくアメリカ的じゃありません。銃規制反対派は、その矛盾を知っている。
銃規制の最大の欺瞞はそれが規制であって禁止ではないということです。対して、規制反対派の最大の欺瞞は権利保持に忙しいあまりに自らの「恐怖」の根本原因に目をつぶっていることです。前者ははなから根本解決を諦めており、後者はほとんど中毒症状です。
銃を持つのは周囲に対する「恐怖」「小心」という実に非“男性”的な理由なのです。それを銃によって自らこの国を切り拓いたというとても“男性”的な「自負」や「矜持」に置き換えて、しかもそれを「それこそがアメリカ文化だ」とする自己同一性で補強する。この欺瞞の論理に自覚的になり、かつそれを克服するとなれば、目指すべきは銃器の一斉放棄でしかありません。
それこそが最も「男らしい方法なのだ」と規制反対派に持ちかければ、話し合いの端緒は生まれるでしょうか? うーむ、彼らにそれはちょいと面倒臭すぎる論理でしょうね。