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February 26, 2013

アメリカ詣で

オバマ大統領にとって5人目の日本の首相が就任後の挨拶回りにやってきました。訪米前から日本側はメディアの報道も含めてTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉への参加問題こそが今回の首脳会談の主要テーマとしていましたが、それは結局はTPP参加に進むと心に決めている安倍がいかにオバマから「聖域あり」との(参院選に向けた、自民党の大票田であるコメ農家の反対をなだめるための)言質を引き出すかといった、安倍側のみの事情であって、米国側にとってはとにかくそんなのは参加を決めてくれない限り主要問題にもなりはしない、といったところでした。

その証拠に、首脳会談の最初の議題は東アジアの安全保障問題だったのです。TPPはその後のランチョンでの話題でした。

東アジアの安全保障とはもちろん北朝鮮の核開発の問題であり、そのための日韓や日中関係の安定化のことです。とにかく財政逼迫のアメリカとしては東アジアで何か有事が発生するのは死活問題です。しかも米側メディアは安倍晋三のことを必ず「右翼の」という形容詞付きで記事にする。英エコノミストも「国家主義的な日本の政権はアジアで最も不要なもの」と新年早々にこき下ろしました。NYタイムズも「この11年で初めて軍事予算を増やす内閣」と警戒を触れ回ります。同紙は河野談話の見直しなど従軍慰安婦問題でも「またまた自国の歴史を否定しようとする」と批判しており、米国政府としても竹島や尖閣問題で安倍がどう中韓を刺激するのか気が気ではない。まずはそこを押さえる、というか釘を刺しておかないことには話が進まなかった。

会談では冒頭、オバマの質問に応える形で安倍がかなり安保や領有問題に関して持論を展開したようではありますが、中国との均衡関係も重視するアメリカは尖閣の領有権問題では踏み込んだ日本支持を表明しなかったのです。なぜなら中国は単に米国にとっての最大の貿易相手というだけでなく、北朝鮮を押さえ込むための戦略的パートナーであり、さらにはイランやシリアと行った遠い中東での外交戦略にも必要な連携相手なわけですから。ただ、この点に関しては安倍自身も夏の参院選が終わるまではタカのツメを極力隠すつもりですから、結果的にはそれはいまのところは米国の希望と合致した形になって、今回の首脳会談でも大きな齟齬は表に出はしなかった。しかしそれがいつまで続くのかは、わからないのです。安倍は、アメリカにはかなり危ないやつなのです。

読売などの報道では日本政府筋は概ねこの会談を「成功」と評価したようですが、ほんとうにそうなのでしょうか。アメリカにとっては単に「釘を刺す」という意味で会談した理由があった、という程度です。メディアも「警戒」記事がほとんどで成果などどこも書いていません。そもそもここまで慣例的になっているものを「成功」と言ったところでそれに大した意味はありません。もし今回の日本側の言う「成功」が何らかの意味を持つとしたら、それは唯一TPP交渉参加に関して「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ約束することを求められるものではない」という共同声明をギリギリになって発表できたということに尽きます。

しかしこの日本語はひどい。一回聞いてもわからないでしょう? 安倍や石原らが「翻訳調の悪文」として“改正”しようとしている憲法前文よりもはるかにひどい。「一方的に」「全ての」「あらかじめ」「約束」「求められる」と、条件が5つも付いて、「関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に全ての関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ求められるものではない」でもありません。その「約束」を「求められるものではない」という五重の外堀に守られて、誰も否定はしないような仕掛け。それを示された米側が、しょうがねえなあ、と苦笑する姿が目に見えるようです。

これは国際的には何の意味もありません。ただただ日本国内および自民党内のTPP反対派に示すためだけに安倍と官僚たちが捩じ込んだ作文です。現に米国の報道は日本での「成功」報道とはまったく違って冷めたものでした。基本的にほとんどのメディアが形式的にしか日米首脳内談に触れていませんが、NYタイムズはそんなネジくれまくった声明文を「たとえそうであっても、この貿易交渉のゴールは関税を撤廃する包括的な協定なのである(Even so, the goal of the trade talks is a comprehensive agreement that eliminates tariffs)」と明快です。もちろん自民党内の反対派だってこんな言葉の遊びでごまかされるほどアホじゃないでしょう。TPP参加は今後も安倍政権の火種になるはずです。

というか、アベノミクスにしてもそれを期待した円安にしても株高にしても、実体がまだわからないものに日本人は期待し過ぎじゃないんでしょうか。TPPでアメリカの心配する関税が撤廃されて日本の自動車がさらに売れるようになると日本側が言っても、日本車の輸入関税なんて米国ではたった2.5%。為替レートが2〜3円振れればすぐにどうでもよくなるほどの税率でしかありません。おまけに日本車の70%が米国内現地生産のアメリカ車です。関税なんかかかっていません。

それにしても日本の首相たちのアメリカ詣でというのは、どうしてこうも宗主国のご機嫌取りに伺う属国の指導者みたいなのでしょう。それを慣例的に大きく取り上げる日本の報道メディアも見苦しいですが、「右翼・国粋主義者」とされる安倍晋三ですら「オバマさんとはケミストリーが合った」とおもねるに至っては、ブルータスよ、お前もかってな感じでしょうか。

まあ、日本っていう国は戦後ずっと自国の国益をアメリカに追従することで自動的に得てきたわけで、それを世界のリジームが変わっても見て見ない振りしておなじ鉄路を行こうとしているわけです。そのうちに「追従(ついじゅう)」は「追従(ついしょう)」に限りなく近づいていっているわけですが。

こうなると安倍政権による平和憲法“改正”の最も有力な反対はまたまたアメリカ頼みということにもなりそう。やれやれ。

February 19, 2013

暗殺の皇帝

24日にはアカデミー賞の発表です。ホメイニ革命後の79年に起きた在イラン米大使館人質事件での救出作戦を描いた『アルゴ』と、オサマ・ビン・ラーデン殺害作戦を描いた『ゼロ・ダーク・サーティ』とはともにCIAや軍の“活躍”の舞台裏を描いて、「ミッション・インポッシブル」や「007」みたいな派手なスパイものとは異なる現実を見せつけます。

両事件の間には30年あまりの時間差があります。が、CIAと米軍がいつの時代でも世界の最暗部で最も危険な諜報戦を繰り広げている事実は変わりません。しかしその戦法は先鋭化しています。1つは「水責め」尋問であり、もう1つは「ドローン」と呼ばれる無人機による敵の殲滅です。前者は30年前には違法でした。後者は技術的に存在しませんでした。

米議会では先日、そのCIA長官に新たに指名されたジョン・ブレナンと、CIAと密接に共同作戦を遂行する国防長官指名のチャック・ヘーゲルの承認公聴会が開かれました。2人とも議会承認は遅れています。

ブレナンはブッシュ政権下でCIA副長官でありテロリスト脅威情報統合センター(現在の国家テロ対策センターの前身です)の所長でした。『ゼロ・ダーク・サーティ』の冒頭で始まる水責め尋問シーンやビン・ラーデンの隠れ家に対しても検討された「無人機攻撃」の背後にいた人物の1人です。そして付いたあだ名は「暗殺の皇帝(The Assassination Czar)」

相手の首を水中にグイッと突っ込むのは息を止めて抵抗されたりしますが、水責め尋問は違います。相手の背中を板に固定して頭に布袋をかぶせて逆さ吊りにする。逆さまの状態で顔の部分に水を注ぐと、抵抗できないばかりか不随意の反射反応ですぐに水を肺に吸い込むことになって、「オレは溺死する!」という迫真の恐怖が襲うのだそうです。そうして容易に自白に至る。

しかし「その死の恐怖は錯覚である」というのが現在の米政府の主張です。錯覚なのでジュネーブ協約で禁じられている、実際に身体を傷つける「拷問とは違う」という論理。

しかしこれはベトナム戦争時の68年には違法とされました。それが対アルカイダ、対タリバンのテロ戦争で復活した。オバマ政権もそれを黙認・踏襲しているのです。

もう1つの無人攻撃機もやはり9・11以降のテロ戦争で実用化され、何千マイルも離れたネバダなどの空軍基地から遠隔操作されています。ビデオゲーム同様、自分の機が敵に撃ち落とされても操縦者は安全なモニターのこちら側にいます。

私はこの攻撃用無人機が心理的にも戦術的にも戦争の仕方を変えたと思っています。アフガニスタン戦争での昨年1年間の無人機攻撃は447回に及び、空爆全体の11.5%を占めるようになりました。前年の5%からの大きなシフトで、これは今後も拡大を続けるでしょう。

しかし無人機攻撃は大変な数の市民たちを誤爆してきました。死者のうちの20〜30%は一般市民で、高度な標的は殺害された者の2%に過ぎないという調査もあります。

このため、ブレナンの公聴会ではCODEPINKの活動家女性が米無人機攻撃で殺害されたパキスタン人の子供たちの名前のリストを掲げて抗議を行いました。独立系ニュースのデモクラシー・ナウ!は「無人機攻撃は単なる殺人ではない。そこに住むすべての人々を恐怖に陥れている。24時間絶え間なく遠鳴りの飛行音を聞き、学校や買い物や葬式や結婚式に行くにも怯えている。コミュニティ全体を混乱に陥れているのだ」とパキスタン現地の声を紹介しています。

思えば究極の戦略とは、「死」の格差を可能な限り広げることです。相手にはより大きな死の脅威を、味方にはより少ない死の怖れを。格差とはいま、富だけではなく命の領域にも及んでいる。「暗殺の皇帝」とはその格差の頂点に立つ者への尊称なのでしょうか、蔑称なのでしょうか。

オバマの2期目が始まっています。正義や人権を掲げる彼ですら、ブッシュ時代より暗くなった闇を背後に負っています。それにしてもCIA長官も国防長官も、自身の民主党ではなくて共和党からの人選だということに、オバマの逡巡が見て取れるのでしょうか? それとも汚いことは他人任せ、ということなのでしょうかね。そこにも政権を取った者の格差操作があるのかもしれません。

February 06, 2013

体罰という暴力

大阪・桜宮高校のバスケットボール部の主将が自殺して日本中での体罰蔓延がにわかに社会問題になっています。そこに女子柔道ナショナルチームの内部告発問題までもが持ち上がりました。

暴力監督・指導体制を告発した選手らの声は4カ月以上も封殺されていました。全日本柔道連盟も日本五輪委員会も、体罰問題から飛び火した自分たちのニュースに仰天してやっと動き出す堕落ぶりです。その前には五輪金メダリストが教え子柔道部員の女子大生をレイプした裁判、その前には大相撲の稽古名目の虐待、日本の体育界には暴力が横行しています。

一見無関係に見えますが、AKB48のメンバーが“禁止”されている男性との交際が発覚して頭をトラ刈りにしてビデオ謝罪する、という“事件”も起きました。これも髪を切るという体罰的な自傷行為が、なんらかの解決や決着に結びつくという美化された切腹文化が改めて確認・補強された形です。体育界といい芸能界といい、日本社会にいまも存在するプレモダンに関しては、前にも相撲界の八百長問題にからめて「近代と現代のガチンコ」というコラムに書きました。

体罰と言うとわからなくなります。体罰の本質は罰という力です。肉体的な力で相手を屈服させ、こちらの思うように行動させる。体罰肯定とはつまり私たちは、教育上の肉体的・物理的な力の行使は、時と場合によっては有効だと思っている、ということです。でも本当にそうなのでしょうか?

場合分けしなくてはなりません。1つは、本人がそれをしたい、上手くなりたい、向上したい、と思っているときの体罰です。いま1つは本人がそれをしたくない、サボりたい、と思っているときの体罰です。

前者はスポーツが好例です。勉強だって本来はそうだ。この場合は成果が上がらないからと言って体罰を振るうヒマがあったらもっと技術を、もっと情報を教えてもらいたいわけで、体罰など論外であることはすぐにわかります。にもかかわらず全日本女子柔道の監督は体罰を選んだ。肉体だけではなく精神的にも力を行使して、大人の選手たちの人格否定にまで踏み込んだ。

冷静に考えればそれが何の意味もない暴力であることは明らかです。世界の一流スポーツ界ではいま科学的・論理的な指導法しか採用されない。それには指導陣自身の弛まぬ勉強と努力が必要です。対してスポ根マンガ的精神論を説く体罰主義者は、単にそうした最新情報を勉強せず根性でどうにかできると妄信するバカな怠け者でしかない。罰を受けるべきはどちらなのでしょうか。

一方で後者は、やりたくない勉強、やりたくない活動をさせるための体罰です。これは難しい。

じつはいまから30年前、80年代前半に愛知県で「戸塚ヨットスクール事件」というのが起きました。児童・青少年向けのヨットスクールで参加していた青少年の死亡が相次ぎ、これは不登校などの情緒障害を抱える参加者に対する苛酷な暴行による“指導”が原因だったとして、校長の戸塚宏らコーチ陣15人全員が有罪になりました。

この時も日本中で体罰の是非が議論となりました。しかし結局、世間一般では「愛があれば体罰も時と場合によっては必要だ」というようななんとも情緒的な清算しか行われず、私たちはいまのいままで体罰に対する曖昧な態度に片をつけることもせずになんとなくやり過ごしてきたのです。そうするうちに戸塚宏は2006年に刑期満期で出所し、ヨットスクールを再開して、その直後から現在に至るまで同スクールはまたも1人の溺死者、3人の飛び降り自殺者を出している。そしていま全国の学校で、報道を契機にした今更ながらの体罰が「出遅れるな」とばかりに続々と名乗り出され、体罰による不登校や転校という、まさに本末転倒の事態が明らかになっている。

そこまで極端ではなくとも、たとえば「理性と知性を身につける前の子供の躾は動物の調教と同じでムチが必要なのだ」という説には私たちもついつい頷いてしまったりするのです。

「子供を叱りつけるのさえも精神に対する威圧と暴力であり、体罰がダメなら叱るのもダメということになる」にもなるほどなと思ったり。「体罰をしない先生は体罰をする先生の存在があるからこそ慕われて教育的指導ができる。体罰教師とは実は持ちつ持たれつなのだ。体罰禁止はそのバランスが崩れて生徒は誰の指導も真剣に聞かなくなる」と言われれば、ふうむ、そうかもしれないと考え込む。私の中学にもやたらとビンタをする体育教師がいて、おまけにそういう輩が「生活指導主任」だったりして、そうじゃない先生たちの優しさが身にしみた記憶があります。あのコントラスト。

でも、もう一度言います。本当にそうなのでしょうか? 本当にそんな「愛」や「力」や「愛と力のコントラスト」は必要なのでしょうか?

これもまた、2つ前の「実名報道」に関するコラムで書いたようにその人の人生の生き方に関係してくるのかもしれません。

私はたとえ理性も知性もない子供にでも、最初の理性と知性を与えるためのやさしい言葉を尽くしたい。なぜなら「言葉じゃないんだよ」と言う人で、本当に言葉を尽くして考えたと思われる人には出会ったことがないからです。自分が体罰という暴力を振るったときに、カッとしてなどいなかったと言い切れるほどの自信もないからです。そしてさらに言えば、冷静に暴力を振るえるほど不気味な人間にもなりたくないからですし、「力」を担保にした「愛」などは語りたくないからです。