体罰という暴力
大阪・桜宮高校のバスケットボール部の主将が自殺して日本中での体罰蔓延がにわかに社会問題になっています。そこに女子柔道ナショナルチームの内部告発問題までもが持ち上がりました。
暴力監督・指導体制を告発した選手らの声は4カ月以上も封殺されていました。全日本柔道連盟も日本五輪委員会も、体罰問題から飛び火した自分たちのニュースに仰天してやっと動き出す堕落ぶりです。その前には五輪金メダリストが教え子柔道部員の女子大生をレイプした裁判、その前には大相撲の稽古名目の虐待、日本の体育界には暴力が横行しています。
一見無関係に見えますが、AKB48のメンバーが“禁止”されている男性との交際が発覚して頭をトラ刈りにしてビデオ謝罪する、という“事件”も起きました。これも髪を切るという体罰的な自傷行為が、なんらかの解決や決着に結びつくという美化された切腹文化が改めて確認・補強された形です。体育界といい芸能界といい、日本社会にいまも存在するプレモダンに関しては、前にも相撲界の八百長問題にからめて「近代と現代のガチンコ」というコラムに書きました。
体罰と言うとわからなくなります。体罰の本質は罰という力です。肉体的な力で相手を屈服させ、こちらの思うように行動させる。体罰肯定とはつまり私たちは、教育上の肉体的・物理的な力の行使は、時と場合によっては有効だと思っている、ということです。でも本当にそうなのでしょうか?
場合分けしなくてはなりません。1つは、本人がそれをしたい、上手くなりたい、向上したい、と思っているときの体罰です。いま1つは本人がそれをしたくない、サボりたい、と思っているときの体罰です。
前者はスポーツが好例です。勉強だって本来はそうだ。この場合は成果が上がらないからと言って体罰を振るうヒマがあったらもっと技術を、もっと情報を教えてもらいたいわけで、体罰など論外であることはすぐにわかります。にもかかわらず全日本女子柔道の監督は体罰を選んだ。肉体だけではなく精神的にも力を行使して、大人の選手たちの人格否定にまで踏み込んだ。
冷静に考えればそれが何の意味もない暴力であることは明らかです。世界の一流スポーツ界ではいま科学的・論理的な指導法しか採用されない。それには指導陣自身の弛まぬ勉強と努力が必要です。対してスポ根マンガ的精神論を説く体罰主義者は、単にそうした最新情報を勉強せず根性でどうにかできると妄信するバカな怠け者でしかない。罰を受けるべきはどちらなのでしょうか。
一方で後者は、やりたくない勉強、やりたくない活動をさせるための体罰です。これは難しい。
じつはいまから30年前、80年代前半に愛知県で「戸塚ヨットスクール事件」というのが起きました。児童・青少年向けのヨットスクールで参加していた青少年の死亡が相次ぎ、これは不登校などの情緒障害を抱える参加者に対する苛酷な暴行による“指導”が原因だったとして、校長の戸塚宏らコーチ陣15人全員が有罪になりました。
この時も日本中で体罰の是非が議論となりました。しかし結局、世間一般では「愛があれば体罰も時と場合によっては必要だ」というようななんとも情緒的な清算しか行われず、私たちはいまのいままで体罰に対する曖昧な態度に片をつけることもせずになんとなくやり過ごしてきたのです。そうするうちに戸塚宏は2006年に刑期満期で出所し、ヨットスクールを再開して、その直後から現在に至るまで同スクールはまたも1人の溺死者、3人の飛び降り自殺者を出している。そしていま全国の学校で、報道を契機にした今更ながらの体罰が「出遅れるな」とばかりに続々と名乗り出され、体罰による不登校や転校という、まさに本末転倒の事態が明らかになっている。
そこまで極端ではなくとも、たとえば「理性と知性を身につける前の子供の躾は動物の調教と同じでムチが必要なのだ」という説には私たちもついつい頷いてしまったりするのです。
「子供を叱りつけるのさえも精神に対する威圧と暴力であり、体罰がダメなら叱るのもダメということになる」にもなるほどなと思ったり。「体罰をしない先生は体罰をする先生の存在があるからこそ慕われて教育的指導ができる。体罰教師とは実は持ちつ持たれつなのだ。体罰禁止はそのバランスが崩れて生徒は誰の指導も真剣に聞かなくなる」と言われれば、ふうむ、そうかもしれないと考え込む。私の中学にもやたらとビンタをする体育教師がいて、おまけにそういう輩が「生活指導主任」だったりして、そうじゃない先生たちの優しさが身にしみた記憶があります。あのコントラスト。
でも、もう一度言います。本当にそうなのでしょうか? 本当にそんな「愛」や「力」や「愛と力のコントラスト」は必要なのでしょうか?
これもまた、2つ前の「実名報道」に関するコラムで書いたようにその人の人生の生き方に関係してくるのかもしれません。
私はたとえ理性も知性もない子供にでも、最初の理性と知性を与えるためのやさしい言葉を尽くしたい。なぜなら「言葉じゃないんだよ」と言う人で、本当に言葉を尽くして考えたと思われる人には出会ったことがないからです。自分が体罰という暴力を振るったときに、カッとしてなどいなかったと言い切れるほどの自信もないからです。そしてさらに言えば、冷静に暴力を振るえるほど不気味な人間にもなりたくないからですし、「力」を担保にした「愛」などは語りたくないからです。
Comments
いつも興味深く読ませていただいています。オルバーマン翻訳などは大変勉強になりましたし、太宰をクイアに読むというお話もおもしろかったと記憶しております。
私自身は体罰の問題を非常に気にしておりました。桜宮高校と柔道、そしてAKBが同根であろうという見解に、私も賛成です。
私――今24歳です――は、小学一二年生のときに体罰を行う先生――女性でした――が担任だったことがあります。悪いことをした生徒に理由を述べた上で、教室の前に立たせて平手打ちをするのが一種の決まりでした。
当時、虐められていた私をしっかり守ってくれたのは一番にその先生でしたし、悪いことをしない限りは決して手を挙げない先生だったので、私はとても信頼していました。私自身も怒られて叩かれたことがありますが、反省することはあっても、理不尽だと感じたことはありませんでした。
私は体罰を容認すべきだという議論をしたいわけではない。そうではなくて、体罰が問題になるときには、必ずこういう意見――「体罰を受けたことがあるがむしろ感謝している」のような意見――が出てくることには、きっと理由があると思うのです。それなのに、少なくとも私が目にした報道では、その理由がきちんと説明されない。単に体罰は何が何でも悪いとか、指導方法として間違っていると言われているだけのように感じます。体罰肯定の意見は――何しろ実感が強いだけに――単に体罰を否定されるだけでは消えない。それが、体罰肯定の「情緒的な」議論が何となく勝ってしまう理由なのではないかと思います。
私自身の折り合いの付け方はこうです。一部の体罰は有効ですし、教育的効果もあります。これを認めなければ、私の実感が納得しません。しかし体罰の有効性は教師と生徒の信頼関係に掛かっている。おそらくもっとも重要なのは、体罰を受けた生徒が自分が受けた体罰を不当だと思わないこと、すなわち、自分が体罰を受けるだけの罪――意図的な悪行に限るべきです――を犯したと納得することでしょう。教師は、最後には生徒をその納得という状態へと導く必要がある。これが体罰の目的であるべきです。それゆえ、それが失敗するならば、体罰は単なる暴力に堕す。
実際のところは、教師が言う「体罰」が、自分の思い通りにならないときに生徒を殴るという最悪の暴力に至ることが多いのでしょう。一般に問題になっているのは、この「体罰」だと思います。でも、たまに上手く行った体罰が確かにあって、その区別をきちんしないまま論じると、体罰を受けてよかったという経験を持つ人が「体罰」の禁止を納得できない。
私は、受けた側が理不尽さを感じたなら、それは刑法の対象となるような暴力行為であるという規定で良いのではないかと思います。(セクハラの場合は、セクハラを受けたという「被害者」がいればそれはセクハラだという考えは、大変危険なので反対ですが。)体罰を納得させられるだけの信頼関係が築けないようでは最初から手を出すべきではないし、相手が理不尽に感じた時点でどのみち体罰は失敗だからです。実際の運用をこの規定でするのは厳しすぎる――失敗は許されないという規定だから――と思いますが、基本的な考え方はこれで良いのではないかと考えています。
すなわち、体罰は行い難し、というところです。少なくとも「一般に体罰を容認する」としたら、暴力が学校に蔓延してしまうと懸念を抱いてしまうほど、世の「教師」たちの多くを信頼できない私です。
以上、愚考を述べさせて頂きました。
Posted by: Kazu | February 8, 2013 06:14 AM
「なんで人を殴るのか」と問えば、「態度が悪いからだ」と答える。
相手が服従の態度を示さないところが、気に入らないのであろう。
当人は、やけっぱちになっている。
日本語には、階称 (言葉づかい) というものがある。
上と見るか、下と見るかの判断を迫る日本語を使えば、モノの上下に関する判断は常について回る。
この世俗的な上下感が日本人の判断を狂わせている。
下と見られたものは、上からの暴力に抗することも難しい。無防備状態になる。
上の者の声は、天の声のように聞こえるからである。
「下におれ、下におれ」の掛け声は、昔から続いた為政者の要求である。
理屈はない。ただ、指導者の要求のみがある。
世俗の上下制度が唯一の頼りとなっている。
暴力は、「がんばって」の掛け声のようなものか。
序列に基づく精神力で、大東亜戦争は勝てるのか。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
Posted by: noga | February 12, 2013 04:53 AM