2013年プライド月間
私が高校生とか大学生のときには、それは1970年代だったのですが、今で言うLGBTに関する情報などほとんど無きに等しいものでした。日本の同性愛雑誌の草分けとされる「薔薇族」が創刊されたのは71年のことでしたが、当時は男性同性愛者には「ブルーボーイ」とか「ゲイボーイ」とか「オカマ」といった蔑称しかなくて、そこに「ホモ」という〝英語〟っぽい新しい言葉が入ってきました。今では侮蔑語とされる「ホモ」も、当時はまだそういうスティグマ(汚名)を塗り付けられていない中立的な言葉として歓迎されていました。
70年代と言えばニューヨークで「ストーンウォールの暴動」が起きてまだ間もないころでした。もちろんそんなことが起きたなんてことも日本人の私はまったく知りませんでした。なにしろ報道などされなかったのですから。もっともニューヨークですら、ストーンウォールの騒ぎがあったことがニュースになったのは1週間も後になってからです。それくらい「ホモ」たちのことなんかどうでもよかった。なぜなら、彼らはすべて性的倒錯者、異常な例外者だったのですから。
ちなみに私が「ストーンウォール」のことを知ったのは80年代後半のことです。すでに私は新聞記者をしていました。新聞社にはどの社にも「資料室」というのがあって、それこそ明治時代からの膨大な新聞記事の切り抜きが台紙に貼られ、分野別、年代別にびっしりと引き出しにしまわれ保存されていました。その後90年代に入ってそれらはどんどんコンピュータに取り込まれて検索もあっという間にできるようになったのですが、もちろんその資料室にもストーンウォールもゲイの人権運動の記録も皆無でした。
そのころ、アメリカのゲイたちはエイズとの勇敢な死闘を続けていました。インターネットもない時代です。その情報すら日本語で紹介されるときにはホモフォビアにひどく歪められ薄汚く書き換えられていました。私はどうにかアメリカのゲイたちの真剣でひたむきな生への渇望をそのまま忠実に日本のゲイたちにも知らせたいと思っていました。
私がアメリカではこうだ、欧州では、先進国ではこうだ、と書くのは日本との比較をして日本はひどい、日本は遅れている、日本はダメだ、と単に自虐的に強調したいからではありません。日本で苦しんでいる人、虐げられている人に、この世には違う世界がある、捨てたもんじゃない、と知らせたいからです。17歳の私はそれで生き延びたからです。
17歳のとき、祖父母のボディガード兼通訳でアメリカとカナダを旅行しました。旅程も最後になり、バンクーバーのホテルからひとり夕方散歩に出かけたときです。ホテルを出たところで男女数人が、5〜6人でしたでしょうか、何かプラカードを持ってビラを配っていたのです。プラカードには「ゲイ・リベレーション・フロント(ゲイ解放戦線)」と書いてありました。手渡されたビラには──高校2年生の私には書いてある英語のすべてを理解することはできませんでした。
私はドキドキしていました。なにせ、生身のゲイたちを見るのはそれが生まれて初めてでしたから。いえ、ゲイバーの「ゲイボーイ」は見たことがあったし、その旅行にはご丁寧にロサンゼルスでの女装ショーも組み込まれていました。でも、普通の路上で、普通の格好をした、普通の人で、しかも「自由」のために戦っているらしきゲイを見るのは初めてだったのです。
私はその後、そのビラの数十行ほどの英語を辞書で徹底的に調べて何度も舐めるほど読みました。そのヘッドラインにはこう書かれてありました。
「Struggle to Live and Love」、生きて愛するための戦い。
私の知らなかったところで、頑張っている人たちのいる世界がある。それは素晴らしい希望でした。そのころ、6月という月がアメリカ大統領の祝福する「プライド月間」になろうとも想像だにしていませんでした。
オバマが今年もまた「LGBTプライド月間」の宣言を発表しました。それにはこうあります。
「自由と平等の理想を持続する現実に変えるために、レズビアンとゲイとバイセクシュアルとトランスジェンダーのアメリカ国民およびその同盟者たちはストーンウォールの客たちから米軍の兵士たちまで、その歴史の次の偉大な章を懸命に書き続けてきた」「LGBTの平等への支持はそれを理解する世代によって拡大中だ。キング牧師の言葉のように『どこかの場所での不正義は、すべての場所での正義にとって脅威』なのだ」。この全文は日本語訳されて米大使館のサイトにも掲載されるはずです。
この世は、捨てるにはもったいない。今月はアメリカの同性婚に連邦最高裁判所の一定の判断が出ます。今それは日本でもおおっぴらに大ニュースになるのです。思えばずいぶんと時間が必要でした。でも、それは確実にやってくるのです。