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孫子の兵法

シリアの首都ダマスカス近郊で毒ガス兵器による死者が1429人も出て(うち426人が子供だとケリー国務長官は言っています)、これを見逃すことは国際社会としてタブーである化学兵器、ひいてはイランや北朝鮮の核兵器開発をも見逃すという誤ったメッセージになる──これがオバマ大統領がシリア政府を攻撃しようとしている理由です。

もちろんこれ以上の一般市民の犠牲を防ぐという人道的な背景もありましょう。ですが国際的な軍事モラルとバランスの維持というのがアメリカにとっての第一の国益なのです。ええ、その「モラル」も「バランス」もアメリカにとっての、というのが国益の国益たる所以ですが、毒ガス兵器がむやみにテロリストやマフィアや犯罪組織に渡ったりするのは確かにまずい。

なのでシリアは(懲罰的にも、国際的な見せしめとして)叩かねばならない、というのが米政権の論理です。ところがアラブの春以来のこの2年半でシリアは内戦状態になり、しかも情勢は政府vs反政府勢力という単純な構図ではなくなっています。日本人ジャーナリストの山本美香さんも昨年8月、そんな混乱の中で政府軍に射殺されました。

反政府勢力の中にも民主化を求める市民勢力やアルカイダ系のイスラム原理主義集団、ジハード主義集団などが入り乱れていて、さらにそこにイランやロシアといった政府支援国、レバノンのヒズボラの参戦やトルコ、イスラエルといった敵対隣国の事情も絡み、国際社会もどう手をつけてよいかわからないのが現状です。

例えばオバマがトマホークを射ち込んで、シリア政府はどうするでしょう。シリアはロシアから地対空ミサイル防衛システムももらっています。報復としてアメリカではなくその同盟国のイスラエルにロシア製のスカッドミサイルを射ち込むということは大いに考えられます。その場合、それがまた化学兵器だったらそこから大変な戦端が開かれる恐れもあります。それを合図にレバノンもまたイスラエルを攻撃するでしょう。イスラエルはすでにそれに備えて「アイアン・ドーム」と呼ばれる防空システムを配備しています。アサド政権の後ろに控えるイランやロシアも黙ってはいないでしょう。アメリカではいま、サイバー・パールハーバー(コンピュータ戦争における真珠湾攻撃)も懸念されています。1週間前にニューヨークタイムズのサイトがハッキングされたのもシリア関連の攻撃だと言われているのです。なにより、個人の持ち込む兵器によるアメリカ本土でのテロも怖い。そんなことになる前にまずロシアと米国の反目が激化します。ロシアが動けばアメリカのソチ五輪ボイコットという事態もあるでしょう。

そしてそれらは、さらに先の、「ひいての」アメリカの国益につながるのだろうか?

その問題がオバマが今回の軍事介入をあくまで「限定的なもの」で「アサド政権の打倒を目指すものではない」として、慎重である理由です。トマホークを射ち込んでも次にどうなるのかが見えない。この軍事介入には「Bad ひどい」か「Worse よりひどい」か「Horrible とんでもなくひどい」の3つの選択肢しかないと言われる理由です。進むも地獄、進まぬも地獄……。

そこでオバマ政権の国防安保チームが知恵を絞ったのが今回の「軍事介入に当たって議会の承認を求める」でした。もちろん前週に英国議会がキャメロン内閣の軍事介入方針を否決した影響もあります。ただこれでオバマは、ブッシュのように猪突猛進はしないと宣言できました。なにせイラクもアフガンもリビアも、米国が軍事介入してうまく行った例はベトナム以降皆無なのですから、ノーベル平和賞受賞者としては1人で勝手にミサイルは射てません。でもこれで軍事介入の責任を議会にも分散させられる。リベラルの大統領としてはアリバイができる。

しかしその一方で東地中海のシリア沖に展開している5隻の駆逐艦、400基以上のトマホークはいまも待機状態で、いつ何時でも有事の際には攻撃できるようになっています。声明でも「司令官から常時報告を受けている。攻撃はいつでも可能。攻撃は一刻を争うもの(タイムセンシティヴ)ではなく、明日でも来週でも1カ月後でも有効だ」と断言しています。議会承認を求めると言う前にオバマがまずは「私は軍事介入を決心した」と明言したことも忘れてはいけません。

これはシリア政府に向けた恫喝です。アメリカの大統領は議会の承認を経ずに宣戦布告して60日間の軍事行動をとれます。つまり、議会の承認を求めるとは言ったものの、シリア政府軍に何か新たに不穏な動きがある際は火急の対応として攻撃できるんだ、とシリア側に宣告しているわけです。

これではシリア軍はなにもできません。いまシリアの司令本部や通信施設は攻撃を予測して移動し仮の状態です。兵器や部隊も分散させてシリア軍はいま本来の力を出せません。それが続く。つまり攻撃しないでも、軍事行動をとったに似た効果をもたらしている。これは孫子の兵法でいう「戦わずして人の兵を屈するは善の善」です。

もっともそれもかりそめのものです。9日以降の議会の承認審議は大揉めに揉めるでしょう。米国民の世論だって軍事介入にはもう乗り気ではない。もちろん介入が否決されてもオバマ大統領は次のシリアの出方でそれはまた変えることはできます。結局はやはり軍事介入、ということになる可能性も高い。シリア国内でも、アメリカの介入を求める人々が多く存在します。介入を求めない人々も多くいます。国際的にも賛否は真っ二つです。なにもしないでよいのかという人道的な憤りも加わって、アサド政権の非道さへの批判は高まる一方です。

しかし結局軍事介入することになっても、「その後」がわからないのはそのときも変わらないのです。そんなことも考えずに、アメリカよりも先に「アサド退陣」を求め、アメリカ国民よりも先に「アメリカ支持」方針を早々と打ち出してしまっている日本の安倍政権の不見識を、とても恥ずかしく思います。

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