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December 29, 2013

I am disappointed

クリスマスも終わってあとはのんべんだらりと年を越そうと思っていたのに、よいお年を──と書く前に驚かされました。安倍首相の靖国参拝自体にではなく、それに対して米国ばかりかヨーロッパ諸国およびEU、さらにはロシアまで、あろうことかあの反ユダヤ監視団体サイモン・ウィーゼル・センターまでもが、あっという間にしかも実に辛辣に一斉大批判したことに驚かされたのです。

中韓の反発はわかります。しかし英語圏もがその話題でもちきりになりました。靖国神社が世界でそんなに問題視されていることは、日本語だけではわからないですが外国に住んでいるとビシビシ刺さってきます。今回はさらにEUとロシアが加わっていることもとても重要な新たなフェイズと認識していたほうがよいでしょう。

こんなことは7年前の小泉参拝のときには起きませんでした。何が違うかと言うと、小泉さんについては誰も彼が国粋主義者だなんて思ってはいなかった。でも安倍首相には欧米ではすでにれっきとした軍国右翼のレッテルが張られていました。だって、3カ月前にわざわざアメリカにまで来て「私を右翼の軍国主義者だと呼びたいなら呼べばいい」と大見得を切った人です(9/25ハドソン研究所)。それがジョークとしては通じない国でです。そのせいです。

例によって安倍首相は26日の参拝直後に記者団に対し「靖国参拝はいわゆる戦犯を崇拝する行為だという誤解に基づく批判がある」と語ったとされますが、いったいいつまでこの「誤解」弁明を繰り返すのでしょう。特定秘密保護法への反発も「誤解」に基づくもの、武器輸出三原則に抵触する韓国への弾薬供与への批判も「誤解」、集団的自衛権の解釈変更に対する反対も「誤解」、この分じゃ自民党の憲法改変草案への反発もきっと私たちの「誤解」のせいにされるでしょう。これだけ「誤解」が多いのは、「誤解」される自分の方の根本のところが間違っているのかもしれない、という疑義が生まれても良さそうなもんですが、彼の頭にはそういう回路(など)の切れている便利な脳が入っているらしい。

果たしてニューヨークタイムズはじめ欧米主要紙の見出しは「国家主義者の首相が戦争神社 war shrine」を参拝した、というものでした。それは戦後体制への挑戦、歴史修正主義に見える。ドイツの新聞は、メルケル首相が同じことをしたら政治生命はあっという間に終わると書いてありました。英フィナンシャルタイムズは安倍首相がついに経済から「右翼の大義」の実現に焦点を移したと断言しました。

問題はアメリカです。クリスマス休暇中のオバマ政権だったにもかかわらず、参拝後わずか3時間(しかもアメリカ本土は真夜中から未明です。ケリー国務長官も叩き起こされたのでしょうか?)で出された米大使館声明(翌日に国務省声明に格上げされました)は、まるで親や先生や上司が子供や生徒や部下をきつく叱責する文言でした。だいたい「I am disappointed in you(きみには失望した)」と言われたら、言われたほうは真っ青になります。公式の外交文書でそういう文面だったら尚更です。

アメリカ大使館の声明の英文原文を読んでみましょう(ちなみに、米大使館サイトに参考で掲載されている声明の日本語訳はあまり日本語としてよくなくて意味がわかりづらくなっています)。

声明は3つの段落に分かれています。前述したようにこれはアメリカで人を叱りつけるときの定型句です。最初にがつんとやる。でも次にどうすれば打開できるかを示唆する。そして最後にきみの良いところはちゃんとわかっているよと救いを残しておく。この3段落テキストはまったくそれと同じパタンです。

第一段落:
Japan is a valued ally and friend. Nevertheless, the United States is disappointed that Japan's leadership has taken an action that will exacerbate tensions with Japan's neighbors.
日本は大切な同盟国であり、友好国である。しかし、日本の指導者が近隣諸国との関係を悪化させる行動を取ったことに、米国は失望している。

これは親友に裏切られてガッカリだ、ということです。失望、disappointedというのはかなりきつい英語です。
というか、すごく見下した英語です。ふつう、こんなことを友だちや恋人に言われたらヤバいです。もっと直截的にはここを受け身形にしないで、You disappointed me, つまり Japan's leadership disappointed the United States, とでもやられたらさらに真っ青になる表現ですが。ま、外交テキストとしてはよほどのことがない限りそんな文体は使わないでしょうね

ちなみに国連決議での最上級は condemn(非難する)という単語を使いますが、それが同盟国相手の決議文に出てくると安保理ではさすがにどの大国も拒否権を行使します。で、議長声明という無難なところに落ち着く。

第二段落;
The United States hopes that both Japan and its neighbors will find constructive ways to deal with sensitive issues from the past, to improve their relations, and to promote cooperation in advancing our shared goals of regional peace and stability.
米国は、日本と近隣諸国が共に、過去からの微妙な問題に対処し、関係を改善し、地域の平和と安定という我々の共通目標を前進させるための協力を推進する、建設的方策を見いだすよう希望する。

これはその事態を打開するために必要な措置を示唆しています。とにかく仲良くやれ、と。そのイニシアティブを自分たちで取れ、ということです。「日本と近隣諸国がともに」、という主語を2つにしたのは苦心の現れです。日本だけを悪者にしてはいない、という、これもアメリカの親たちが子供だけを責めるのではなくて責任を分担して自分で解決を求めるときの常套語法です。

そして第三段落;
We take note of the Prime Minister’s expression of remorse for the past and his reaffirmation of Japan's commitment to peace.
我々は、首相が過去に関する反省を表明し、日本の平和への決意を再確認したことに留意する。

これもあまりに叱っても立つ瀬がないだろうから、とにかくなんでもいいからよい部分を指摘してやろうという、とてもアメリカ的な言い回しです。安倍首相が靖国を参拝しながらもそれを「二度と戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくるという決意を伝えるため」だという意味をそこに付与したことを、われわれはちゃんと気づいているよ、見ているよ、とやった。叱責の言葉にちょいと救いを与えた、そこを忘れるなよ、と付け加えたわけです。

でも、それを言っているのが最後の段落であることにも「留意」しなくてはなりません。英文の構造をわかっている人にはわかると思いますが、メッセージはすべて最初にあります。残りは付け足しです。つまり、メッセージはまぎれもなく「失望した」ということです。

参拝前から用意していたテキストなのか、安倍首相はこの自分の行動について「戦場で散っていった方々のために冥福を祈り、手を合わす。世界共通のリーダーの姿勢だろう」と言い返しました。しかし、世界が問題にしてるのはそこじゃありません。戦場で散った人じゃなく、その人たちを戦場で散らせた人たちに手を合わせることへの批判なのです。これはまずい言い返しの典型です。この論理のすり替え、詭弁は、世界のプロの政治家たちに通用するわけがありません。とするとこれはむしろ、国内の自分の支持層、自分の言うことなら上手く聞いてくれる人たちに「期待される理由付け」を与えただけのことだと考えた方がよいでしょう。その証拠に、彼らは予想どおりこの文脈をそっくり使ってFacebookの在日アメリカ大使館のページに大量の抗議コメントを投げつけて炎上状態にしています。誘導というかちょっとした後押しはこれで成功です。(でも、米大使館のFB炎上って、新聞ネタですよね)

さてアメリカは(リベラルなコミュニティ・オルガナイザーでもあり憲法学者でもあるオバマさんは安倍さんとは個人的にソリが合わないようですが)、しかし日本の長期安定政権を望んでいるのは確かです。それは日本の経済回復やTPP参加で米国に恩恵があるから、集団自衛権のシフトや沖縄駐留で米国の軍事費財政赤字削減に国益があるからです。そこでの日本の国内的な反発や強硬手段による法案成立にはリベラルなオバマ政権は実に気にしてはいるのですが、それは基本的には日本の国内問題です。アメリカとしては成立してもらうに不都合はまったくない。もちろんできれば国民が真にそれを望むようなもっとよい形で、曖昧ではないちゃんとした法案で、解釈ではなくきちんと議論した上で決まるのが望ましいですが、アメリカとしては成立してもらったほうがとりあえずはアメリカの国益に叶うわけです。

しかしそれもあくまで米国と同じ価値観に立った上での話です。ところが、安倍政権はその米国の国益を離れて「戦後リジームからの脱却」を謳い、第二次大戦後の民主主義世界の成り立ちを否定するような憲法改変など「右翼の大義」に軸足を移してきた。

今すべての世界はじつは日本だけではなく、あの第二次世界大戦後の善悪の考え方基本のうえに成立しています。何がよくて何が悪いかを、そうやってみんなで決めたわけで、現在の民主主義世界はそうやって出来上がっているわけです。それが虚構であろうが何であろうが、共同幻想なんてみんなそんなものです。そうやって、その中の悪の筆頭はナチス・ファシズムだと決めた。だから日本でも戦犯なんてものを作り上げて逆の意味で祀りあげたのです。そうしなければここに至らなかったのです。それが「戦後レジーム」です。なのにそれからの「脱却」? 何それ? アメリカだけがこれに喫驚しているのではありません。EUも、あのプーチンのロシアまでがそこを論難した。その文言はまさに「日本の一部勢力は、第2次大戦の結果をめぐり、世界の共通理解に反する評価をしている」(12/26ロシア・ルカシェビッチ情報局長)。安倍首相はここじゃもう「日本の一部勢力」扱いです。

なぜなら、今回の靖国参拝に限ったことではなく、繰り返しますが、すでに安倍首相は歴史修正主義者のレッテルが貼られていた上で、その証左としてかのように靖国参拝を敢行したからです。そうとして見えませんものね。だからこそそれは東アジアの安定にとっての脅威になり、だからこそアメリカは「disappointed」というきつい単語を選んだ。

何をアメリカがエラそうに、と思うでしょうね。私も思います。

でも、アメリカはエラそうなんじゃありません。エラいんです。なぜなら、さっきも言ったように、アメリカは現在の「戦後レジーム」の世界秩序の守護者だからです。主体だからです。そのために金を出し命を差し出してきた。もちろんそれはその上に君臨するアメリカという国に累が及ばないようにするためですし、とんでもなくひどいことを世界中にやってきていますが、とにかくこの「秩序」を頑に守ろうとしているそんな国は他にないですからね。そして曲がりなりにも日本こそがその尻馬に乗ってここまで戦後復興してきたのです。日本にとってもアメリカは溜息が出るくらいエラいんです。それは事実として厳然とある。

それはNYタイムズが26日付けの論説記事を「日本の軍事的冒険は米国の支持があって初めて可能になる」というさりげない恫喝で結んでいることでも明らかです(凄い、というか凄味ビシバシ。ひー)。そういうことなのです。それに取って代わるためには、単なるアナクロなんかでは絶対にできません。そもそもアメリカに取って代わるべきかが問題ですが、独立国として存在するためには、そういうアナクロでないやり方がたくさんあるはずです。

それは何か、真っ当な民主主義の平和国家ですよ。世界に貢献したいなら、それは警察としてではなく、消防士としてです。アナクロなマチズム国家ではない、ジェンダーを越えた消防国家です。そうずっと独りで言い続けているんですけど。

いまアメリカは安倍政権に対する態度の岐路に立っているように見えます。「日本を取り戻す」のその「取り戻す日本」がどんな日本なのか、アメリカにとっての恩恵よりも齟齬が大きくなったとき、さて、エラいアメリカは安倍政権をどうするのでしょうか。

December 17, 2013

戦争のできる国

日本を「戦争のできる国にしようとしている」と安倍政権を批判する声があちこちで聞こえています。そのたびに本当にそうなのかなと思ってしまいます。

たしかに国家安全保障会議(NSC)やら特定秘密保護法やらと来て、次は集団的自衛権の解釈変更からやがては憲法改正まで照準に入れた安倍首相ですが、いかな諸外国から「国粋主義者」と罵られても、その国家運営の目的が「戦争するため」だなんて信じられません。そんなのは狂人です。安倍さんは頭は悪いかもしれませんが狂人には見えません。

じゃあなぜこうも強権的に日本の進路を変えようとしているのか? どうにか考えてみるとそれはどうもきっと日本を「美しい国」にするためです。「結果的に美しくなるんだから(多少ゴリ押しがあったって)いいじゃないか」というわけです。それが「決める政治」というわけです。

でも「美しさ」というのは人によって違います。安倍さんにとっての「美しさ」とは何なのでしょう? それを考えなければ安倍さんの意図するところはわからないままです。

自著「美しい国へ」から簡単に引用しましょう。

「個人の自由を担保しているのは国家なのである」
「自分の帰属する場所とは、自らの国をおいてほかにはない」
「(旅行先での外国人)は、わたしたちを日本人、つまり国家に帰属している個人であることを前提としてむき合っているのである」

──そう書いて、安倍さんは映画「三丁目の夕日」を例に挙げます。「みんなが貧しいが、地域の人々はあたたかいつながりのなかで、豊かさを手に入れる夢を抱いて生きていく」「いまの時代に忘れられがちな家族の情愛や、人と人とのあたたかいつながりが、世代を超え、時代を超えて見るものに訴えかけてきた」

ツッコミたいところは満載ですがまあそれは抑えて1つだけ。私は昭和30年代を知っていますが、それはあの映画に描かれたほど温かくも優しくもなかった。選挙違反は現金が動いて酷かったし、暴力団は幅を利かし、役人の賄賂や情実は横行していた。障害者は(今と同じく)差別され、女性は軽んじられ、親の命令は絶対だった。「三丁目の夕日」が描いた和やかさ、朗らかさの後ろには「生きる」(昭和27年公開ですが)で描かれたあのドブや掃き溜めの沼が偏在していたのです。だからこそひとびとはほんのちっぽけな幸せやささやかな喜びにでも大きくすがるようにして生きていたのです。

そんなひどい時代にそれでも「偉かった」のは「先生」と「親」でした。「先生」とは政治家や医者や弁護士や、とにかくそういう人たちすべて。「親」は会社の社長や暴力団の親分や町内会の会長やそういう身内的な偉い人も含みます。そう、あの時代は「社会」と「家」とが相似形に重なっているようで、「家父長」的な人たちの力が強かったのです。

「三丁目の夕日」が娯楽として存在するには、そんな「親」で「社長」の堤真一の役回りを徹底してコミカルに描くことが必要でした(吉岡秀隆はハナから権威とは無縁に描かれていました)。もちろん実際の昭和30年代にもああいうコミカルな人はいました。けれどその上にはコミカルではない社会が厳然として存在していたのです。

つまり「三丁目の夕日」は、そうした昭和30年代的な「権力」の絶対を相対化しなければ、あるいはその「権力」を存在しないものとしていなければ、あれほどに朗らかにはなれなかったのです。

そう、昭和30年代は強い父親がいてさまざまな困難にも即断対応しようとしていた、そんな時代の名残のような時でした。そんな伝統的な「家」を基本にした立派な国家の最後の光芒。それが60年安保(昭和35年)の学生運動やビートルズが来た1966年(昭和41年)あたりから揺らぎ始めるわけです。

世の中はそう単純じゃないとわかってきたのが昭和40年代からの日本でした。高度成長のせいもあっていろんな個人が自信を持ち始めたのかさまざまに勝手に声を出し始め、ゴチャゴチャうるさいことこの上ない。公共事業で道路つくって公民館つくって箱モノを与えてやればよいだけだった政治もだんだんそれだけじゃあ済まなくなった。ああ、美しくない。

そうやって考えた結果が、もう一回国家がしっかりすれば個人もしっかりするはずだという倒錯です。そして「ゴチャゴチャ国家」の元凶を現行憲法に求める。それは個人より公共、自由より秩序、権利より責務と明記されている自民党の憲法改正草案を見ると明らかです。

これってまさに伝統的な姿である家制度=父権主義=「父さんの言うことは黙って従いなさい」です。伝統的な家を基に国家を考えると、いまの自民党が夫婦別姓に反対するのも、嫡子差別を(違憲判決にも関わらず)当然と考えるのもわかります。それはとてもスッキリとわかりやすく、美しく見える。国家は父親なのです。国家は「国」と「家」とをつなげた概念なのです。

このときあるべき「父親」の姿が見えてきます。国民を守り、国民が帰属すべき国家。子供を守り、子供が帰ってくるべき家。安倍さんの「美しい国へ」にもそう書いてある。そしてそんな家の父親はもちろん押し売りや強盗という外患にも毅然と対応しなくてはならない。それは父親の男気です。誇るべき美しいマチズムです。だからこそ外国に行ったときに名乗るべき名前は、あなた個人を識別するファーストネームなんかよりも先に、あなたを庇護している「日本」という苗字であるべきなのです。

ああ、わかった。安倍さんを批判する「国家主義者」とか「戦争のできる国」とかいうのはまわり回ってそういうことなんだ。外患に対してバットを用意するマッチョな在り方の別名なんだ。安倍さんのすべては、この善意の「男性主義的家父長制国家」への、美しさの幻想から来ているのだ。あの人は男らしいのが好きなんだ。ただこの日本を「オトコらしい」「一丁前の」国家にしたいだけなんだ。「オトコらしい国」ってのがたまたま「戦争もできる国」ってことなんだ。その「オトコの美学」が「美しい国」ってのにつながってるんだ。

──と見切ったつもりでいたら12月14日、都内のホテルで開かれた安倍首相夫妻主催の東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳晩餐会、余興として登場したのはミニスカートの制服もまぶしいAKB48の面々でした。

ASEAN_AKB48.jpg

ごめんなさい。

延々と論を連ねて安倍さんの主義主張を家父長制度に根ざしたものだと言ってきたのに、それはじつは「男性主義」「父権主義」ではなくて単なる「オヤジ趣味」だったのかもしれません。

……ま、同じことかもしれませんが。

December 07, 2013

「臭いものに蓋」法

近代国家は国家機密に関するきちんとした法律を持っていければならないと思います。きちんとした特定秘密保護法案ならまったく反対しません。ところが衆参両院で強行可決された「特定秘密保護法」は、スパイ防止にならないばかりか単に官僚たちの「臭いものに蓋」としてしか機能しないだろうと強く懸念される。だからこの法に反対しているのです。国民の知る権利がどうだとかジャーナリズムがどうだとかそんな高尚な話ですらありません。法律として、また審議過程としてもボロボロだからです。

欧米の同様法は外国への機密漏洩を厳罰化しています。利敵行為への戒めです。対して日本のこれは誰にも喋ってはいけないという法律です。しかも秘密の範囲は漠として曖昧。公務員も何が秘密かわからず戦々恐々。つまり何であれ喋らぬに越したことはない。触らぬ神です。国民の代表である政治家たちにも明かせない。

すると政治家にとっても霞ヶ関の情報収集が従来のようにはいかなくなる上に、政策の立案も精度が落ちてきます。秘密を知る官僚だけが考えることになるのですから、じつは自民党は自分で自分の政治家としての首を絞めたのも同じです。

一方でこの法は官僚機構そのものの弱体化すら招きます。他人に説明しない=説明を怠る癖は、説明責任=論理構成力をも殺ぎ取ることにつながり、独善的なシステムを構築するに至る。それはつまり、官僚機構そのものの堕落に直結するのです。

日米双方の官公庁を取材して違うのは、日本の役所ではほとんどの情報がまずは「秘密」に設定されるということです。宣伝になること以外はこちらから突つかない限りはまず出てこない。資料を出すのを面倒くさがる。情報がみんなのものだという意識が低い。秘密保護法なんて必要ありません。そもそも最初からみんな秘密なんですから。

情報を持っているというのは力です。情報を秘密にすればそれは権力になる──例えば警察取材では日本の一年生記者は揉み手をし頭を下げて情報をもらいます。そこで先輩に「ご用聞きじゃないんだ!」と叱責されるのですが、全員がそんな立派なジャーナリストに育つわけでもありません。揉み手のクセが抜けない記者も多いのです。一方で警察は、いや普通の役所ですら、揉み手をしてにこやかに接してくれる新聞記者が心地よい。自分のところで情報を塞き止める「よかれと思ってする自己規制」「勝手な判断」がそうやって生まれもします。本来そもそも市民国民のための情報であるにも関わらず(主権在民とはそういうことです)、その情報を恣意的に自分の手で出し惜しみして末端の権力の味を味わうのが好きな小役人はどこにでも一定数存在するのです。

もう1つ、米国では政権交代のたびに官僚組織のトップが5000人とか7000人の単位でガラッと入れ替わります。すると党派的に都合の悪い秘密などは隠していた方がまずいことになる。「臭いものへの蓋」は政権交代ごとに開けられてしまうからです。そうやってバレたらなおさらまずいでしょう。だから「機密」は客観性の高いものにならざるを得ない。

対して日本の「秘密」とはそうした客観的にもおかしくはない国家機密のほかにも、その時点の国家機構や組織の弱点を隠すための秘密も含まれがちなのです。組織のトップが責任を問われずに済むように情報を隠しておく、だってそれが優秀な部下の務めでもあるわけですから。内部告発なんかとんでもない。そういうのは内部告発ではなくまずは内部処理です。それが日本的組織です。

しかも安倍政権はそんな秘密を「保存中に破棄することもある」とさえ閣議決定してしまった。シュレッダーに掛けちゃうというのです。そういうことをすると、秘密と権力だけが実体もなく延々と保全されることになります。保身の前には秘密の保全こそが重要であって歴史の保全などは二の次、むしろ邪魔っけな考え方なのです。

例えば国会審議の最中の12月2日、東海村の原子力機構で高レベルの廃液が未処理で残り水素爆発の恐れまであるという記事が出ました。これは日本の混乱を狙うテロリストには格好の情報たりうるでしょう。また森雅子担当相は「食の安全」もテロリストの脅迫材料になるから「特定秘密の可能性がある」と答弁しました。そうなると国民は食品の危険を知らされないおそれだってあるかもしれない。もちろん政府はそんなことはないと言うでしょうが、そうならそうできちんとそこを法律として規定しなければならない。時の政府の恣意的解釈ができないものでなくては法律とは言えないのです。

皮肉を言えば自民党は、「自分たち以外」の「危険な政府」が誕生するかもしれないことをまったく頭に入れていないのでしょうか? つまり絶対に政権はもう二度と誰にも渡さないぞ、という構えを強化するつもりなのでしょうか?

米国では国家機密も原則25年で公開です。日本では60年。これは事実上「公開されない」と同じです。だって60年って、関係者はみんな死んでしまっているのですよ。そう批判すると米国だって最長75年、英国では100年の秘密もある、という反論が返ってきます。でもそれは何が秘密かはわかるようになっているのです。保全途中での秘密裏の廃棄だってあり得ません。情報公開法だって素晴らしく機能しているのは日本の「秘密」が米国の情報公開で次々と明らかになっていることからもわかるでしょう。

そしてそれはどうして日本では秘密なのか、その理由さえよくわからないものばかり。日本政府もその理由を説明しません。なぜならそれは「秘密」だからです。キャッチ22ですか?

いま一度言いましょう。特定秘密保護法案という概念にはまったく反対じゃありません。賛成派はそんなものは当然の法律で反対する方がおかしいと言いますが、そうやって勝手に反対の理由を捏造しないでいただきたい。そんなことで反対してるんじゃない。反対なのは、あくまで強硬可決された「この特定秘密保護法」が、スパイ防止などではなくむしろ官僚制度や自民党の「臭いものに蓋」法として機能するしかないだろうからなのです。