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March 29, 2014

48年間の無為

48年という歳月を思うとき、私は48年前の自分の年齢を思い出してそれからの月日のことを考えます。若い人なら自分の年齢の何倍かを数えるでしょう。

いわゆる「袴田事件」の死刑囚袴田巌さんの再審が決まり、48年ぶりに釈放されました。あのネルソン・マンデラだって収監されていたのは27年です。放送を終えるタモリの長寿番組「笑っていいとも」が始まったのは32年前でした。

48年間も死刑囚が刑を執行されずにいたというのはつまり、死刑を執行したらまずいということをじつは誰もが知っていたということではないでしょうか? なぜなら自白調書全45通のうち44通までを裁判所は「強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの」などとして任意性を認めず証拠から排除しているのです。残るただ1通の自白調書で死刑判決?

また、犯行時の着衣は当初はパジャマとされていましたが、犯行から1年後に味噌樽の中から「発見」された5点の着衣はその「自白」ではまったく触れられていず、サイズも小さすぎて袴田さんには着られないものでした。サイズ違いはタグにあったアルファベットが、サイズではなく色指定のものだったのを証拠捏造者が間違ったせいだと見られています。

いずれにしてもその付着血痕が袴田さんのものでも被害者たちのものでもないことがDNA鑑定で判明し、静岡地裁は「捏造の疑い」とまで言い切ったのでした。

ところがその再審決定の今の今まで、権力の誤りを立ち上がって正そうとした者は権力の内部には誰ひとりとしていなかった。それが48年の「無為」につながったのです。(1審の陪席判事だった熊本典道は、ひとり無罪を主張したものの叶わず、半年後に判事を辞して弁護士に転身しました。そして判決から39年目の2007年に当時の「合議の秘密」を破って有罪に至った旨を明らかにし、袴田さんの支援運動に参加しました。ところが権力の内部にとどまった人たちに、熊本氏の後を追う者はいなかったのです)

こうした経緯を考えるとき、私はホロコースト裁判で「命令に従っただけ」と無罪を主張したアドルフ・アイヒマンのことを思い出します。数百万のユダヤ人を絶滅収容所に送り込んだ責任者は極悪非道な大悪人ではなく、思考を停止した単なる小役人だった。ハンナ・アーレントはこれを「悪の凡庸さ」と呼びました。

目の前で法や枠組みを越えた絶対の非道や不合理が進行しているとき、非力な個人は立ち上がる勇気もなく歯車であることにしがみつく。義を見てせざる勇なきを、しょうがないこととして甘受する。そうしている間に世間はとんでもない悪を生み出してしまうのです。その責任はいったいどこに求めればよいのでしょう?

ナチスドイツに対抗したアメリカは、この「悪の凡庸さ」に「ヒーロー文化」をぶつけました。非力な個人でもヒーローになれると鼓舞し、それこそが社会を「無為の悪」から善に転じさせるものだと教育しているのです。

こうして内部告発は奨励されベトナム戦争ではペンタゴンペーパーのダニエル・エルスバーグが生まれ、やがてはNSA告発のエドワード・スノーデンも登場しました。一方でエレン・ブロコビッチは企業を告発し、ハーヴィー・ミルクは立ち上がり、ジェイソン・ボーンはCIAの不法に気づいてひとり対抗するのです。

対して日本は、ひとり法を超越した「命のビザ」を書き続けた杉原千畝を「日本国を代表もしていない一役人が、こんな重大な決断をするなどもっての外であり、組織として絶対に許せない」として外務省を依願退職させ、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答し続けた。彼が再び「存在」し直したのは2000年、当時の河野洋平外相の顕彰演説で日本政府による公式の名誉回復がなされたときだったのでした。すでに千畝没後14年、外務省免官から53年目のことでした。

それは袴田さんの名誉が回復される途中である、今回の「48年」とあまりに近い数字です。

March 09, 2014

「一滴の血」の掟

アメリカ南部州にはかつてワンドロップ・ルール(一滴の血の掟)というのがあって、白人に見えても一滴でも黒人の血が混じっていたら「黒人」と定義されていた時代がありました。奴隷制度では白人たちは黒人を性的にも所有し、奴隷を増やすためにも混血は進んだのでしょう。もちろんそれだけではなく純粋に人種を越えた恋愛や結婚もあるわけで、いま「一滴の血」ルールを適用したらアメリカの白人の3人に1人は黒人になるとも言われます。

Jリーグの浦和vs鳥栖戦のあった3月8日の埼玉スタジアムで、浦和サポーター席入り口のコンコースに「JAPANESE ONLY」という横断幕が掲げられる“事件”が起こりました。浦和サイドはこれを問題視したサポーターからの通知で事を知りますが、どうすべきかわからずそのまま1時間ほど放置。一方では問題視したサポーター氏にその写真をネットにアップしないように要求。横断幕が撤去されたのは試合後しばらく経って、欧米系の観客が写真を撮って初めてスタッフが慌てて外したのだそうです。

右翼国粋主義と形容される安倍内閣から始まって嫌中嫌韓の見出し踊る週刊誌、そしてアンネの日記破損問題と、このところの日本社会はまさに「ナチスの手口にマネ」ているようです。で、今回の「日本人以外お断り」の横断幕。そしてそれに即応できない大のオトナの思考停止。

それにも増して意味不明なのは、この期に及んでこの「JAPANESE ONLY」を、浦和の8日の先発・ベンチ入り選手が全員日本人だったことから「日本人だけで戦う」だとか「日本人だけでもJリーグを盛り上げよう」だとかの意味だと言い張る“愛国”者たちがいることです。挙げ句の果てにこの横断幕の何が問題なのかわからない、という開き直り同然の差別主義者まで。

同じ言い逃れを、昨年12月の安倍靖国参拝の際の米国務省「失望」声明でも聞いたことがあります。例の「The United States is disappointed」を、いかにも英語通であるかのように「よくある表現で重大なことではない」などと勝手に講釈する右派評論家が後を絶ちませんでした。

今回も新聞やTVニュースの論調までもがどういうわけかこれを「差別」とは断定せず、「差別的な意味にも取れる」「差別的とも解釈されかねない」などと奥歯に物が挟まったような報道ぶりです。誰がどういう意図で書いたかは関係ないのです。表現とは、表現されたその「モノ」こそが自立した表現なのであって、「JAPANESE ONLY」は差別表現に他ならないのです。

「日本人」にワンドロップ・ルールを適用したら、古く縄文時代から続く中国・朝鮮半島からの渡来人との混血は限りなく「日本」人など1人もいなくなります。さらにはそもそもこの島国は大陸と陸続き。人種も民族もあったもんじゃありません。

ワンドロップ・ルールは、本来はそれによって白人の立場を死守しようとした人たちが作ったものですが、実際には逆に機能して、結果、白人という立場がいかに実体のないものかを浮き彫りにしてしまいました。同じように“チョン”だ“チュン”だと純血主義けたたましい人は、自分の血の一滴に気づいて自爆するしかないのです。生き残れるのはその決まりを唾棄できる者だけ。

この浦和での一件を知って、翌日のFC岐阜のサポーター席には「Say NO to Racism」の文字の横断幕が掲げられたそうです。偏狭な愛国心をあおるのもスポーツならば、それを糾弾するのもスポーツなのです。

後者のスポーツをこそプロモートしていかなくてはならないのに、それでもまだ「スポーツは信条表明の場ではない」などという人もいます。ねえ、友情とか、親交とか、差別反対とか、そういうのだって立派な「信条」なのです。どうしてそんなにみんな信条や思想を表明することにアレルギーを持つのでしょう? スポーツを、堂々と麗しき信条を表明する場にしてなにがいけないのでしょうかね。

March 04, 2014

太鼓持ちの善意

久しぶりの日本で、なんとなく確実に空気が変わってきていることを感じています。電車内の週刊誌の吊り広告では「嫌韓嫌中」見出しが踊り、まさに1月のこのブログ「爬虫類の脳」で指摘した「反知性主義」が大手を振っています。昨年7月末の麻生副総理の「ナチスの手口に学べ」発言は、その後の日本版国家安全保障会議の設置や特定秘密保護法の強行可決、さらには首相の靖国参拝やその周辺の歴史修正発言などで着実に実行に移されています。あのときはまさか本気ではなく失言の類いだろう程度に思っていたのですが。

この種の時代の動きをどう捉えればよいのでしょうか? かつてハンナ・アーレントは、ナチスドイツで数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に送ったアドルフ・アイヒマンを、怪物ではなく、職務を淡々とこなすだけの小役人的な思考停止の人物であったと結論し、それを「悪の凡庸さ」と呼びました。

私がこのところ気になっているのは、しかしその次の段階のことです。普通の人が、おそらくは“善意”で上層部の意向を汲み、決定や通達やそのときの政治的な空気を過度に忖度してそれ以上のことをやってしまう。そういう心づくしの先回り行為は、この「悪の凡庸さ」を超えて、社会学的にはどう考えられているのだろうか、ということです。

先日、東京都美術館が「憲法9条を守り、靖国参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止」などと書いた造形作品を「政治的」として撤去・手直しを求めていたことがわかりました。今週には護憲の立場を明確にしている哲学者の内田樹さんを招いた憲法集会を神戸市がやはり「政治的中立性を損なう」として後援拒否をしていたことが明らかになりました。これまではずっと後援してきたのに突然の断り。同じような集会は長野県千曲市でも後援が断わられたとか。東京新聞によると、千曲市の担当者は解釈改憲による集団的自衛権の行使容認を目指す安倍首相への配慮をほのめかしています。

私はこのメカニズムがとても恐ろしい。話は大きくなりますが、南京大虐殺も従軍慰安婦も実は同じようなことだったのではないかと思っています。真正の命令や強制の証拠がないということを根拠にこれらを否定する人たちがいますが、命令や強制などなくても人間は自ら進んで権力の“意向”を代行するのです。

この、言わば「太鼓持ちの善意」のようなものが、今の日本であちこち無批判に湧いてきているような気がします。いや、彼らは自分が太鼓持ちをしているなどとは思っていないのです。そこがさらに怖い。そして同時多発的なこの太鼓持ち的な動きの1つ1つが、その時の権力の意向をなんとなく社会に満たす役目を果たしている。かくしてそれが結果的にたとえ由々しき事態を招くことになっても、もちろん「上」は「そんな命令は出していない」「そこまで言っていない」とシレッとしていられる。

韓国人街で有名な新宿・大久保の街にいま「朝鮮人は帰れ」とかナチスの鉤十字のマークなどの落書きが溢れています。今月2日、ツイッターやフェイスブックなどの呼びかけで集まった人たち50人以上が「差別らくがき消し隊」を結成してその落書きを3時間にわたって消して回りました。中には岐阜や愛知からはるばるこのためにやってきた人もいました。

太鼓持ちではない「善意」も日本にはまだまだ溢れています。もっともその善意の彼らは、ネトウヨと呼ばれる人たちに氏名がわかると、職場や自宅に嫌がらせの電話がかかり、顔写真や素性をネット上で「指名手配リスト」として公開されているのだそうです。

いったい日本はどうなっているのでしょう?