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June 22, 2014

永遠の記憶ゼロ

【以下の文章はこれまでも繰り返し言ってきたものですが、都議会性差別ヤジの一件に絡めて再構成してみます。なお、ここでは黒人、女性、同性愛者と書くのみですが、他の人種や性自認、性指向を排除しているものではありません。それらを含むともっと字数もいるので、これはモデル化した、きわめて単純化したエッセーだと考えてください(=表題含めて書き直しました)】


「おまえが早く結婚すればいいじゃないか」「産めないのか」。東京都議会で、妊娠、出産、不妊に悩む女性への支援の必要性を訴えた女性都議に対し、議場の自民党席からこんなヤジが飛びました。日本ではこれをセクハラと呼びますが、英米メディアは「セクシスト(女性差別)の暴言 sexist abuse」(英ガーディアン紙)などとより強い言葉で糾弾しています。

世界はつねに白人で異性愛者の男性によって語られ(決められ)てきました。彼らはすべての語りの「主語」でした。黒人も女性も同性愛者もその彼らによって語られる(決められる)「目的語」の位置にいました。

ところが米国では50年代あたりから黒人たちが、60年代から女性たちが、70年代から同性愛者たちが、下克上よろしく「主語」の地位を獲得しだします。するとどうなるか? 黒人たちが白人について、女性たちが男たちについて、同性愛者たちが異性愛者たちについて語りだす主客転倒が起こるのです。異性愛白人男性は急に自分たちが「語られ(自分の意に関係なく勝手に意味を決められ)」て、なんとも居心地の悪い受け身の状態に陥るわけです。今までは勝手に語ってきたのに、今度は勝手に言われる立場に逆転する。

一番の脅威は性的問題でした。黒人たちは性器の大きさを、女性は性交の巧拙を話題にする、極めつけは同性愛者たちで彼らは文字通り自分たちを「目的」にしている!(ような気がする)。

この「目的語」の恐怖は、彼らに2つの道を選択させます。1つは再びの絶対的主語奪還をはかるやみくもな実力行使です。さらなる男性至上主義、父権主義、セクシズムへの固執です。前提や環境が変わっていてすでに「絶対」は存在し得ないにもかかわらず、それを理解できないのです。

もう1つは主語と目的語の平準化、交換可能な交通化です。すなわち、主語でも目的語でもその間を自由に行き来して相対的な自我を意図的に(これは、わざとじゃないとなかなか出来ないことです)構築していく道です。ここでは世界の主語でないからと言って怯える必要はありません。

さてそこで例の都議会女性差別暴言ヤジ問題を考えてみましょう。当初この問題を取り上げたTVインタビューである自民党都議は「こんなヤジよくあること」と答えたのです。これはまさに50年代以前の、絶対的主語幻想が生きていた時代の言辞です。

ところが翌朝の新聞での自民党の反応は「まさか大ごとになるとは」。

これは自分たちが他の主語たちによって語られていることへの気づきと驚きです。自民党のセクシズムが世間の「目的語」として受け身にさらされるという、予期せぬことへの呆然です。だって今までの地方議会では「今日はパンツスーツだけど生理なの?」(千葉県我孫子市議会)「痴漢されて喜んでるんだろ」(2010年都議会)などと発言しても「よくあること」として問題視されなかったのですから。

さて、自民党はどちらの道に進むのでしょう? 再びの男性至上主義、セクシズムへの固執か、それとも……?

まあ、一番の可能性は遅ればせながら犯人のクビを差し出し、とりあえずは謝っておいて(週明けにでもそうなるでしょうかね)でも時間が経てばまた「なかったことにする」という記憶障害の再発でしょう。

ただしそれは自民党が知的鎖国状態にあることの証左であって、その限りでは今後も諸外国のメディアの、そして日本国内の、遅ればせながらいまとうとう主語の地位を獲得し始めた“元・目的語”の人たちの、批判対象、外圧対象であり続けるということです。それを逃れる道はなく、抜本的に脳髄を入れ替えないと永遠の記憶ゼロを繰り返さねばならぬはめになります。

June 16, 2014

6年後のニッポン

このところの日本のスポーツ報道の過剰な思い入れとか浪速節調などにちょっとした異和感を感じています。ソチ五輪のときもそうでしたが今回はもっとひどい。「今回」とはもちろんワールドカップのことです。

アメリカにいるとサッカー熱がそれほどでもないのでなおさら彼我の差として目につくのでしょう。いちばん気持ち悪かったのは朝日の本田圭佑の記事でした。「本当に大切なものは何か 自問自答した4年間」という見出しのこの読み物、まるで高校野球の苦悩のエースを取り上げたみたいな書き方でした。プロで莫大なカネを稼いでいるオトナに、「もともとはサッカーがうまくなりたいだけだったのに、ビジネスの要素が大きくなった。純粋な気持ちだけでサッカーをすることが難しくなった」と言わせる。「純粋な気持ちだけでは難しい」って、まるでプロを否定するようなこの切り口はないでしょう。

果たしてW杯予想でも初戦での日本の敗北をだれも口にできない幇間ぶり。大方が2−1での日本勝利予測で勝手に盛り上がり、こういうのを手前味噌というのではなかったか。こうしたうたかたの極楽報道は何かに似ているなと思ったら、そうそう、あの小保方さんの割烹着記事のニヤケ具合もこんな感じでした。

W杯報道はTVも新聞もみんな太鼓持ちになったみたいに総じて気持ち悪く進んでいます。

私は88年のソウル五輪を取材しました。事前の企画連載から本大会まで、ベン・ジョンソンの金メダル剥奪をスクープした東京新聞チームにいたのです。なのでいまもはっきり憶えています。あのころは「ニッポン、ニッポン」ばかりの報道は格好悪いから(どの社も)極力避けようと意識して報道していました。ちょうど国際化、グローバリゼーションなどという言葉が新聞にも登場し始めていたころです。いまのような「愛国」も「嫌韓」もありませんでした。

思えば88年というのはバブル経済真っ盛りのころでもあります。日本人には余裕というか、根拠のない自信もまた大いにあったのでしょうね。だから当時だっておそらくはいたはずのネトウヨ体質の人たちにしても、いまみたいに爬虫類よろしくすぐに噛み付いたりはしなかったのかもしれません。というか、政治的には圧倒的に少数派でしたから、いまの安倍のような守護神も集まる場もなくただただ逼塞するしかなかった。

あれから26年、「ニッポンすごい!」「ニッポン最高!」のしつこいほどの念押しが時代の様変わりを如実に示しています。背景にあるのは日本の余裕と自信のなさなのでしょう。だからいま改めて賛辞以外のいかなるメッセージも拒絶している。賛辞が聞こえない場合は自己賛辞で補填している。アメリカに住んでいると日本への賛辞はいろいろな機会に聞こえてくるので、そんなに不安になる必要はないと思うのですが、日本国内だと違うみたいですね。

おそらくもっと中立的、客観的な報道も出来るのでしょう。でも最も簡単でかつ喜ばれるのは読者・視聴者におもねるやり方です。だれもひとに嫌われたくなんかありませんし、とくにW杯みたいな「お祭り」ではそんなおべんちゃらもゆるされると思っているメディアの人間たちも多い。でもそれはジャーナリズムではありません。

この過剰な思い入れは戦争のときの高揚感に似ているのだと思います。中立でも客観でもなく、根拠もなく「イケる」と思ってしまう。まあ、そう思わない限り戦争なんか始められません。開戦というのはいつもそんな幻想や妄想と抱き合わせなのです。

不安の裏返しの「ニッポン最高!」の自己暗示。それは数多のJポップの歌詞に溢れる「自分大好き!」にも通底し、そこに愛国心ブームがユニゾンを奏でている──6年後の東京オリンピックではいったいどんなニッポンが現れているのでしょうね。