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July 19, 2014

中古(ちゅうぶる)の大切さ

CNNとニューズウィーク・ジャパンがそろって先日、建て替えられる東京のホテル・オークラ本館を惜しむ記事を掲載しました。老朽化が進み,20年の東京五輪を前に建て替えてしまえというものですが、CNNは「時代の中に取り残されたような趣きが魅力だったタイムカプセル的ホテル」と重要性を強調し、ホテルの保全運動を支持しています。

こういうのを読むにつけ、私たちはどうしていつも外国人の指摘で日本のよいものに気づくのだろうと思います。

思えば世界無形文化遺産に登録された和食だって、私が日本を離れた20年前にはだれも騒いでいませんでした。だいたい懐石・会席料理だって料亭になんか一般人が入ることはまずなかった。政治家とか経済界の重鎮たちが行く密室料理のことだったのです。

それが急にロビュションやらデュカスやらが日本料理に注目しだして、そこに菊乃井の村田さん辺りが和食の普及に奮闘し、世界ばかりか日本国内に向けても同時売り出しをしたわけです。それまでは、日本では何かの折りの豪勢な食事と言えば中華やフレンチだったのですから。

遡れば桂離宮だって昭和8年に来日したブルーノ・タウトが「これは凄い」って言ったというので日本人も「ああ、そうなのか」と気づいた。京都そのものだってかつては単なる修学旅行の場所でした。それが世界中から観光客が溢れもてはやしてやっとふつうの日本人も広く「そうだ、京都に行こう」となった。

ニューズウィークにオークラを惜しむエッセイを書いたのはレジス・アルノーさんというフランス人なんですが、この人、六本木ヒルズや計画される新国立競技場も大嫌い。スカイツリーは東京の衰退の象徴とバッサリ。東京駅と東京ステーションホテルも「改装前の面影はほとんどなく、東京ディズニーランド駅だ」と情け容赦ない。

対してオークラは「最先端のホテルではない。『古風』と言ってもいい。だが、ホテルオークラのロビーは戦後の日本の卓越した力強さを見事に映し出している」とべた惚れ。CNNも「セイコーの時計が入った世界地図には今でもレニングラード(現サンクトペテルブルク)の時刻が表示される。バー『ハイランダー』では世界各地でとうに姿を消したカクテルが注文できる」「何でも取り壊して大きく作り直すのが主流のアジアにあって、ホテルオークラはかつて素晴らしかったものへの敬意を思い起こさせる存在だった」

世界にはものすごく古いものと、ものすごく新しいものが混在しています。その中間にオークラのようなものが存在している。この、中くらいに古いものがどうして大切かというと、これ、生きている人間たちの記憶だからです。生きてきた時代の記憶なのです。つまりノスタルジアの源だということです。

でもこの「中くらいに古いもの」、言葉を換えれば「中古」「中ブル」です。その重要性を敢えて意識していなければすぐに「建て替え」「買い替え」の対象です。

いま生きている日本人の大多数にとってはそれは「昭和」のことなんでしょう。オークラも前回の東京五輪前の昭和37年に開業しました。そうした昭和の記憶とノスタルジアとが、とても古いものととても新しいものとの橋渡し役を担っているのですが、私たちはついそのことを忘れがち。じつはこの中くらいに古いものが庶民の文化のカギを握っているのです。それがなければ歴史は脈絡を失ってバラバラにほどけてしまうのですから。それを、外国人に指摘されないまでも意識していたいと思うのですが。

July 08, 2014

勘三郎の感涙

勘三郎が亡くなったこともあって7年の間が空きました。平成中村座の3度目となるニューヨーク公演は、その勘三郎が平成に復活させ、亡くなる1年前に勘九郎(当時・勘太郎)に継がせた『怪談乳房榎(ちぶさのえのき)』でした。

初日を見てきました。自分の死を知っていたとは思いません。けれど04年の『夏祭浪花鑑』と07年の『法界坊』と、そして三遊亭円朝の怪談噺が原作の今回の演し物と、この手を替え品を替えの構成はまさに勘三郎の仕掛けた歌舞伎披露の壮大な計画だったように思えてなりませんでした。

最初の『夏祭浪花鑑』で、勘三郎(当時・勘九郎)は歌舞伎狂言の濃厚なダイナミズムを大捕り物に託して娯楽芸術の極みを提示してくれました。NYタイムズは「ハリウッド映画より刺激的で面白い」と絶賛しました。しかし次の『法界坊』で勘三郎はそんな芸術性への期待を見事に裏切ります。

このときのNYタイムズの事前記事で彼はこう説明しています。「能は時の権力者によってつねに保護されてきた。しかし歌舞伎は一般大衆が支えてきたものだ」。「ハイ・アート」を期待してきたニューヨーカーに彼は、歌舞伎はそんな気取ったもんじゃねえ、とばかりに猥雑な喜劇を見せつけたのです。

あのとき私の席の近くには10歳くらいの息子にタイとブレザーを着せた父親が座っていました。きっと「日本の歌舞伎という伝統芸術をこの機会だ、ちゃんと見ておきなさい」とでも言って連れ出してきたんでしょう。

でも幕が開いてやがて登場した笹野高史の「山崎屋勘十郎」、なんと美女「お組」を目にしてすぐにおニンニンをぴょこぴょことおっ勃てたわけです。袴がそれでぴょんぴょんはねる。禅と茶道と礼儀作法の国から「まさかこんな……」。あのお父さんも固まってしまっていました。

ただ、「猥雑」と言いましたがそれを表現する所作は見事に芸に裏打ちされた洗練の極みでした。法界坊のドタバタもじつにミニマルで流麗でまるでチャップリン。いやチャップリンの方が歌舞伎を真似ていたのか。

勘三郎は庶民のそんな野卑で生々しいエネルギーをもう一度現代の歌舞伎に注入したかったのでしょう。いつのまにか「優等生」扱いの歌舞伎に、原初的な破天荒さを取り戻す。その目論見は見事に勘三郎でした。

そして今回、私たちは勘三郎の“仕組んだ”歌舞伎そのものの力を目にすることになりました。勘九郎と獅童の若い2人の演技に勘三郎と橋之助の熟れと遊びを見ることはできません。けれど生真面目でまっすぐな勘九郎と獅童を、この芝居は「歌舞伎」という技術がしっかりと支える作りになっていたのです。それは前2回の作品とは異なる歌舞伎の形でした。

隣のアメリカ人カップルは勘九郎の早替わりのたびに、いやそれがどんどん増すごとに「おお」という感嘆の声を大きくしていきました。本来は数時間かかるこの大作を2時間半に刈り込んだ演出も切れの良い枠組みとして演技を支えました。それはまるで、勘三郎自体がこの舞台世界となって、その中で息子たちを動かしているような気がしたのです。いつしか私も身を乗り出して「おお」「おお」と声を出していました。

じつは私は勘三郎さんとは誕生日も9日違うだけの同い年でした。あのいたずら好きな、しかも計算しつくしたかのようなトリックスターだった勘三郎さんが、今日の息子さんたちを見て感涙にむせぶ姿を私はいま容易に想像できます。楽しかった。勘九郎さん、次回4回目のNY公演をまた楽しみにしていますよ。