« July 2014 | Main | September 2014 »

August 30, 2014

氷のビショービショ

友人からチャレンジされて私もアイスバケットの氷水をかぶりました。筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病の支援を目的に7月末から始まったこのキャンペーンは有名人を巻き込んであっというまに300万人から計1億ドル以上を集めました(8月末現在)。昨年の同じ時期に米国ALS協会が集めた募金は280万ドルだったといいますから、このキャンペーンは大成功です。

フェイスブックやツイッターで映像画像を公開しているみなさんは嬉々として氷水をかぶっているようですが、スティーヴン・ホーキング博士も罹患しているこの病気はじつはとても悲惨なものです。四肢から身体全体にマヒが広がり、最後に残った眼球運動もできなくなると外界へ意思を発信する手段がなくなります。意識を持ったまま脳が暗闇に閉じ込められるその孤独を思うと、氷水でも何でもかぶろうという気になります。

啓発のためのこういうアイディアは本当にアメリカ人は上手い。バカげていても何ででも耳目を集めればこっちのもの。こういうのをプラグマティズムと呼ぶのでしょうね。もちろんチャレンジされる次の「3人」も、「幸福の手紙」みたいなチェーンメール方式と違って断る人は断ってオッケー、その辺の割り切り方もお手の物です。

レディ・ガガにネイマール、ビル・ゲイツやレオナルド・ディカプリオといった世界のセレブたちが参加するに至って案の定、これはすぐに日本でも拡散しました。ソフトバンクの孫さんやトヨタの豊田章男社長といった財界人から、ノーベル生理学・医学賞の山中教授、そして田中マー君も氷水をかぶりました。

ところがあるスポーツタレントがチャレンジの拒否を表明して、それが世間に知られると「エラい」「よく言った」と賞讃の声がわき起こったのです。ある意味それはとても「日本」らしい反応でした。その後ナインティナインの岡村隆史も「(チャリティの)本質とはちょっとズレてきてるんちゃうかな」と口にし、ビートたけしも「ボランティアっていうのは人知れずやるもの」と発言しました。こうした批判や違和感の理由は「売名行為」「一過性のブーム」「やっている人が楽しんでるだけで不謹慎」「ただの自己満足」といったものでした。

日本にはどうも「善行は人知れずやるもの」というストイックな哲学があるようです。そうじゃないとみな「偽善的」と批判される。しかし芸能人の存在理由の1つは人寄せパンダです。何をやろうが売名であり衆人環視であり、だからこそ価値がある。ビートたけしの言い分は自己否定のように聞こえます。

私はこれは日本人が、パブリックな場所での立ち振る舞いをどうすべきなのかずっと保留してきているせいだと思っています。公的な場所で1人の自立した市民として行動することに自身も周囲も慣れていない。だからだれかがそういう行動を取ると偽善や売名に見える。だから空気を読んで出しゃばらない。そんな同調圧力の下で山手線や地下鉄でみんな黙ってじっとしているのと同じです。ニューヨークみたいに歌をうたったり演説をする人はいません。

そういう意味ではアイスバケット・チャレンジはじつに非日本的でした。パブリックの場では大人しくしている方が無難な日本では、だから目立ってナンボの芸人ですら正面切っての権力批判はしない。むしろ目立つ弱者を笑う方に回る。

私は、偽善でも何でもいいと思っています。その場限りも自己満足も売名も総動員です。ALSはそんなケチな「勝手」を飲み込んであまりに巨大なのですから。

August 10, 2014

コピペ首相

6日の広島平和記念式典、9日の長崎平和祈念式典、双方で安倍首相の読み上げた「あいさつ」文が昨年の「あいさつ」とほぼ同一の文言が多かったことから、ネット上で「昨年のコピペ」「首相は被爆者をナメてる」「平和軽視の証拠だ」と大炎上になりました。コピペとは「コピー&ペースト」。小保方論文や学生のリポートでも問題となっている「引き写し」のことです。

広島では冒頭が「69年前の朝、1発の爆弾が十数万になんなんとする、貴い命を奪いました」。昨年はこれが「68年前」で、それ以外は2段落分が一字一句同じ。長崎でも「本日、被爆69周年〜」で始まる最初の段落と2段落目は、年数を示す文言以外同一文章。3段落目の「一度ならず、二度までも被爆の辛酸をなめた」もまったく同じ表現でした。

問題は2つあると思います。1つは、こういう全国放送もされる式典などでのスピーチは政治家が自らの「政治の言葉」をフルに発信できる絶好の機会です。それは「言葉の力」で民衆に感動や納得や賛同を植え込む好機です。その檜舞台をコピペ演説で浪費するなんて、政治家ならそれだけで失格です。

少なくともアメリカ大統領の年恒例の演説で前年のスピーチからのコピペはあり得ません。地方遊説で同じスピーチを使い回すことはあっても、それは聴衆が違うからで年一度の大イベントでのコピペはあり得ない。

ならばやはり安倍首相は広島・長崎を舐めてかかったのでしょうか。このところ2年続きで同じ首相が「あいさつ」することがあまりなかったので小泉純一郎まで遡ってみると、さすがに6年も同じ「あいさつ」をしているので内容も似通っているものの、むしろ話の順序を入れ替え、細かい表現を取ったり加えたりと、同じにならないような何らかの工夫が為されていました。安倍首相のコピペとは違ったのです。

しかし加藤官房副長官は安倍コピペを「特段の問題があるとは考えておりません」。首相周辺によれば、こうした式典の挨拶は頻繁に変えるべきではないとして、敢えて同じ言葉を選んでいると言うのです。

なるほどそこが問題の2点目です。官僚的には政府見解の整合性、連続性、統一性こそが重要なのであって、それは首相「あいさつ」にも当てはまるという論理です。

もっともコピペはかなり情緒的な表現部分で行われていて、こうした整合性で問題となる肝心の状況認識とか政治的意義付けの部分ではありません。むしろコピペしたような情緒部分こそスピーチライターの腕の見せ所だったはずです。

ただし問題はそこではありません。整合性というならば問題はむしろコピペじゃなく、コピペ「しなかった」部分にこそある。つまり従来の「あいさつ」を踏襲しなかった部分です。それは「憲法を守る」という表現の欠落でした。

じつは06年まで、自民党の歴代首相は「日本国憲法を守る」「平和憲法を遵守する」と「あいさつ」してきました。それが07年の第1次安倍内閣では「憲法の規定を遵守する」と、なんとなく形式が変わった。そして次の福田、麻生内閣で初めて憲法への言及が消えたのです。

次の民主党政権3年度にわたる「あいさつ」では再び「日本国憲法を遵守する」が復活しましたが、第2次安倍内閣の翌13年と今回14年ではまた憲法への言及が省かれていたのです。

「首相周辺」の論理で行けば、コピペではない部分こそがメッセージの変更です。だとすれば戦後憲法、平和憲法からの「脱却」の試みは、すでにとっくに始まっていたのかもしれません。

August 07, 2014

佐世保の少女

佐世保の女子高校生殺害事件で、加害少女が3月に父親をバットで襲った後に通院した精神科医が「このままでは人も殺しかねない」と児童相談所や当の父親に報告していたことがわかりました。地方の名士の家に生まれながらも複雑な家庭環境があり、それらがどう少女の心に影響したのか、などが取り上げられていますが、いま明らかになっている情報を精査してみると、私には少女は、社会的な善悪の基準を理解しない、罪悪感の欠落した行為障害(いわゆる反社会的人格障害、大人だとサイコパスと呼ばれる症状)なのだろうと思われるのです。

アメリカでは明確な精神医学会の診断基準があります。少女を診断した精神科医もおそらくそれらを基に「人を殺しかねない」と判断したのでしょう。それは「心の闇」と形容されて済むようなものではなく、歴とした「病気」なのです。

ところがTVでは加害少女の事件直前のそうした行動を「闇」として報道し、声優まがいの禍々しいナレーションや不吉な音楽がかぶせられます。これはドラマじゃありません。粛々たる現実なのに、どうしてそれを客観的に淡々と伝えられないのでしょう。そういうことをしてるからこのような事件を、わたしたちの社会はどこかよそごとの虚構としてしか認識しなくなる。というか、そういう「闇」として認識する方が、私たちの理解のパターンに添うために、受け入れやすい。たとえその「闇」の実態が知れなくとも、「心の闇」という定型句の中には収まってくれるからです。

でもそうではなく、これをまずは病気、精神障害としてとらえることが必要なのではないかと思います。「普通」の「私たち」にはとても理解できない「病気」。でも事実として存在する「病気」。ネットではそのことに関してもカミュの「異邦人」の「殺人」や、星新一の「暑さ」というショートショートにある物語と重ねて論じる向きも窺えます。わたしも最初はそれを考えてみました。でも、カミュの「太陽が圧倒的だったから」というのはあまりにロマン的に過ぎるし、「暑さ」の主人公の動機は「イライラ」と明快なのです。書かれたものは、すでに理解されたものなのです。佐世保の少女の場合、それはまだ書かれていないものです。

少女の症状が一種の行為障害だった場合、最も効果的な治療法はとにかくまずは危害の広がる一般の環境から引き離し、精神衛生施設や青少年用の保護施設など厳格に統制された環境の中で社会性の「規範」を知らせてゆくことなのだそうです。

いま残念なのは、せっかく関係者が少女の危険性に気づいたのに、そのことに具体的に対処しきれなかったことです。私たちは、カミュや星新一ではなく、すでに同じような現実をほんとうは知っていたのに。

1つは97年に数カ月にわたって計5人の小学生が殺傷された神戸連続児童殺傷事件、いわゆる酒鬼薔薇事件です。もう1つは2000年に「殺人の体験をしてみたかった」として愛知県の17歳の男子高校生が68歳の主婦を40カ所も刺して殺した豊川市主婦殺人事件です。他にもあるでしょう。

もちろん知ってはいても、実際は「そんな映画みたいな話が自分の周りで起きるはずはない」とふつうは思います。でも関係するプロは「起きるかもしれない」と警戒することが仕事です。

1980年代のエイズ禍の出現とともに、医療現場ではある概念が導入されました。「ユニバーサル・プレコーション(普遍的事前警戒)」、さらにはそれの発展形である「スタンダード・プレコーション(標準的事前警戒)」というものです。後者は日本語では「標準予防策」と訳されます。医療現場にあっては、感染がわかっていようとなかろうと、すべてが感染源かもしれないという前提で事前に警戒して取り扱う、という原則のことです。

この考え方が徹底されることで予防注射の針は使い捨てになり、歯医者でも患者ごとに十全に殺菌済みの器具を使用するようになった。病院では消毒法だけでなく患者に接する際の手袋やマスク、エプロンやガウン、さらにはゴーグルやフェイスシールドの着脱の順番まで細かく基準化(スタンダード化)されています。

「スタンダード・プレコーション」とはいわば「疑わしきは疑ってかかる」ことです。

でもこれを社会全般に適用するととんでもなくイヤな世界になってしまいます。例えばアルコールを提供する場所でのダンスは淫らな非行に通じるからと「事前警戒」して取り締まる社会。例えば漫画やアニメの「ある部分」が青少年の健全な精神育成に悪い影響を与えると「事前警戒」して規制に走る社会。あるいは幼い女の子の手を引いている男の人を見かけたら何か悪いことが起きる「事前」にすぐに警察に通報する社会。

そんな潔癖一辺倒で、なおかつ疑心暗鬼な社会はまっぴら御免でしょう。

エイズ禍でもそうでした。医療現場だけでなくコミュニティ全体にスタンダード・プレコーションが行き渡っても、それで人間関係がギスギスしてしまったら何のための安全かわかりません。なのでその場その場でのポイントを押さえ、スマートに事前警戒するしかないのです。そのためには1人ひとりの警戒の感度をレベルアップする必要がありました。それは、1人ひとりが知的に考えることでしか得られない社会的な安全保障のレベルアップでした。

では今回の佐世保の事件ではどうだったのでしょうか? この場合の事前警戒ポイントは精神科医と両親と児童相談所でした──少女に最も近しい者とプロフェッショナル。

せっかく事件直前にも少女の異状に気づきながら、その三者とも対応が一歩ずつ遅れた。医師は忙しく、児童相談所は時間外で、両親はまさか翌日に少女が同級生を殺すとは思っていなかった……不運というには残酷すぎる結末です。事前警戒のポイントで即応できるよういま一度、私たち自身の知的警戒の質をレベルアップしなくてはならない。こうした障害や病気があるのだという事実を、嫌悪感や処罰感情を除外して事実として学習しなければならないと思うのです。これは安っぽい事件ドラマではないのです。