佐世保の少女
佐世保の女子高校生殺害事件で、加害少女が3月に父親をバットで襲った後に通院した精神科医が「このままでは人も殺しかねない」と児童相談所や当の父親に報告していたことがわかりました。地方の名士の家に生まれながらも複雑な家庭環境があり、それらがどう少女の心に影響したのか、などが取り上げられていますが、いま明らかになっている情報を精査してみると、私には少女は、社会的な善悪の基準を理解しない、罪悪感の欠落した行為障害(いわゆる反社会的人格障害、大人だとサイコパスと呼ばれる症状)なのだろうと思われるのです。
アメリカでは明確な精神医学会の診断基準があります。少女を診断した精神科医もおそらくそれらを基に「人を殺しかねない」と判断したのでしょう。それは「心の闇」と形容されて済むようなものではなく、歴とした「病気」なのです。
ところがTVでは加害少女の事件直前のそうした行動を「闇」として報道し、声優まがいの禍々しいナレーションや不吉な音楽がかぶせられます。これはドラマじゃありません。粛々たる現実なのに、どうしてそれを客観的に淡々と伝えられないのでしょう。そういうことをしてるからこのような事件を、わたしたちの社会はどこかよそごとの虚構としてしか認識しなくなる。というか、そういう「闇」として認識する方が、私たちの理解のパターンに添うために、受け入れやすい。たとえその「闇」の実態が知れなくとも、「心の闇」という定型句の中には収まってくれるからです。
でもそうではなく、これをまずは病気、精神障害としてとらえることが必要なのではないかと思います。「普通」の「私たち」にはとても理解できない「病気」。でも事実として存在する「病気」。ネットではそのことに関してもカミュの「異邦人」の「殺人」や、星新一の「暑さ」というショートショートにある物語と重ねて論じる向きも窺えます。わたしも最初はそれを考えてみました。でも、カミュの「太陽が圧倒的だったから」というのはあまりにロマン的に過ぎるし、「暑さ」の主人公の動機は「イライラ」と明快なのです。書かれたものは、すでに理解されたものなのです。佐世保の少女の場合、それはまだ書かれていないものです。
少女の症状が一種の行為障害だった場合、最も効果的な治療法はとにかくまずは危害の広がる一般の環境から引き離し、精神衛生施設や青少年用の保護施設など厳格に統制された環境の中で社会性の「規範」を知らせてゆくことなのだそうです。
いま残念なのは、せっかく関係者が少女の危険性に気づいたのに、そのことに具体的に対処しきれなかったことです。私たちは、カミュや星新一ではなく、すでに同じような現実をほんとうは知っていたのに。
1つは97年に数カ月にわたって計5人の小学生が殺傷された神戸連続児童殺傷事件、いわゆる酒鬼薔薇事件です。もう1つは2000年に「殺人の体験をしてみたかった」として愛知県の17歳の男子高校生が68歳の主婦を40カ所も刺して殺した豊川市主婦殺人事件です。他にもあるでしょう。
もちろん知ってはいても、実際は「そんな映画みたいな話が自分の周りで起きるはずはない」とふつうは思います。でも関係するプロは「起きるかもしれない」と警戒することが仕事です。
1980年代のエイズ禍の出現とともに、医療現場ではある概念が導入されました。「ユニバーサル・プレコーション(普遍的事前警戒)」、さらにはそれの発展形である「スタンダード・プレコーション(標準的事前警戒)」というものです。後者は日本語では「標準予防策」と訳されます。医療現場にあっては、感染がわかっていようとなかろうと、すべてが感染源かもしれないという前提で事前に警戒して取り扱う、という原則のことです。
この考え方が徹底されることで予防注射の針は使い捨てになり、歯医者でも患者ごとに十全に殺菌済みの器具を使用するようになった。病院では消毒法だけでなく患者に接する際の手袋やマスク、エプロンやガウン、さらにはゴーグルやフェイスシールドの着脱の順番まで細かく基準化(スタンダード化)されています。
「スタンダード・プレコーション」とはいわば「疑わしきは疑ってかかる」ことです。
でもこれを社会全般に適用するととんでもなくイヤな世界になってしまいます。例えばアルコールを提供する場所でのダンスは淫らな非行に通じるからと「事前警戒」して取り締まる社会。例えば漫画やアニメの「ある部分」が青少年の健全な精神育成に悪い影響を与えると「事前警戒」して規制に走る社会。あるいは幼い女の子の手を引いている男の人を見かけたら何か悪いことが起きる「事前」にすぐに警察に通報する社会。
そんな潔癖一辺倒で、なおかつ疑心暗鬼な社会はまっぴら御免でしょう。
エイズ禍でもそうでした。医療現場だけでなくコミュニティ全体にスタンダード・プレコーションが行き渡っても、それで人間関係がギスギスしてしまったら何のための安全かわかりません。なのでその場その場でのポイントを押さえ、スマートに事前警戒するしかないのです。そのためには1人ひとりの警戒の感度をレベルアップする必要がありました。それは、1人ひとりが知的に考えることでしか得られない社会的な安全保障のレベルアップでした。
では今回の佐世保の事件ではどうだったのでしょうか? この場合の事前警戒ポイントは精神科医と両親と児童相談所でした──少女に最も近しい者とプロフェッショナル。
せっかく事件直前にも少女の異状に気づきながら、その三者とも対応が一歩ずつ遅れた。医師は忙しく、児童相談所は時間外で、両親はまさか翌日に少女が同級生を殺すとは思っていなかった……不運というには残酷すぎる結末です。事前警戒のポイントで即応できるよういま一度、私たち自身の知的警戒の質をレベルアップしなくてはならない。こうした障害や病気があるのだという事実を、嫌悪感や処罰感情を除外して事実として学習しなければならないと思うのです。これは安っぽい事件ドラマではないのです。