戦場の狂気
ファーガソンからスタッテン島の事件まで、黒人に対する暴力警察への抗議が止みません。抗議マーチの人たちとダウンタウンを歩きながら、この人たちはこの社会は自分たちが作っているのだという思いがとても強いのだなと感じました。
これは「水戸黄門」を期待している人たちではありません。コミュニティから国家まで、問題には自分自身が立ち上がらねばと思う人たちです。そんな社会では「権利」の反対語は「義務」ではありません。「権利」の反対語は自分でやらねばという「責任」「責務」の気持ちなのでしょう。
警官側もじつはかつてのKKKのような差別意識丸出しの時代ではもうないのです。ただ、差別は意識していなくとも「黒人は恐い」という、無知の偏見と思い込みがある。なにせ奴隷時代から白人が抑圧者だった国です。彼らは白人に対して敵意を持っているはずだと先読みする。犯罪に対処する警官にとって、普段から警戒するに越したことはないのですから。
この「先読み」はそこでは「偏見」ではなく標準的な「事前警戒」として認識されます。警官はそうして予防的な正当防衛権を行使する。ブッシュ時代に広まったテロ危険国家に対する「予防的先制攻撃」の考え方と同じです。
黒人に対する「プロファイリング」も、人種偏見のバイアスがかかっていると問題になっています。こういう事件が続くとなおのこと、黒人にとっては警官が脅威です。だから逃げようとする。するとまた「止まれ!」と言われて発砲される。対して警官の方もだからいっそう慎重に取り締まる、とはなかなかならない。どうしてもいつ反撃に転じられるか戦々恐々となって、いっそう過剰に自分を守ろうとする。
それは実は戦場での心理です。イラク戦争から帰ってきた元海兵隊員ロス・カプーティーさんの証言があります。あの高遠菜穂子さんが日本各地で彼の講演会を開催して紹介しました。
「私の同僚はイラクでパトロール中、道端に立っている老人を発見し、武器を持っていると判断し即座に射殺しました。が、手にもっていたのはコーランでした」「ファルージャに入る直前に軍の弁護士から交戦規定に関して一度だけ説明があった。自分の身に危険を感じた時に規定を破っても正当防衛ということで軍が守ると言われた」「もし規定違反をしてしまったような場合は、とにかく『身の危険を感じたから』と言いなさいと言われた」
思えば、警官たちが立て続けに不起訴になっているのはこの戦場の論理です。周囲はみな敵かもしれないという疑心暗鬼。そして恐怖を盾にした過剰な暴力の発散。その典型例が1999年にニューヨークで起きたアマドゥ・ディアロさん射殺事件でした。
ディアロさんは自宅アパート前で職質に遭い、警官たちに動かないように言われたにも関わらずポケットに手を入れたために計41発も銃撃されて即死しました。警官4人が過剰防衛で裁判にかけられましたが全員無罪になりました──「41発」という狂気。ポケットには財布しか入っていなかったのに。
この悪循環を断ち切るにはシステムを変えるというハード面での規制も必要です。大統領が導入を発表した警官のボディカメラ装着はニューヨークではじき始まろうとしています。イラクやアフガンからの米軍撤退であぶれた軍用武器が払い下げられて警察の重武装化が進んでいるのも規制しなくてはなりません。警察自体の銃規制が必要なのです。とはいえ警官たちの心の中の、戦場の狂気こそが問題なのですが。