« February 2015 | Main | May 2015 »

April 28, 2015

舌をまくほどにお見事!

日米の防衛協力ガイドラインが18年ぶりに改定されました。とはいえこれは国会で話し合われたわけでもなく、今回の安倍訪米に合わせてバタバタと日米両政府間で合意したのです。これで自衛隊は「周辺事態」を越えて世界規模で活動することができるようになる。集団的自衛権容認の閣議決定からこの方、安倍政権は思うがままに日本を変えています。

「え? オバマ政権ってそういう日本の軍事拡大を警戒してたんじゃないの?」と思う人もいるでしょう。

オバマ政権だけでなく欧米諸国およびその報道メディアはいまでも安倍首相の国家主義的な歴史認識を懸念しています。なぜなら彼の歴史修正の方向性は(「イスラム国」と同類の)第二次大戦以降の国際秩序への挑戦だからです。

NYタイムズは安倍訪米に先立って論説室の名前で今回の訪米の成否は「首相が戦争の歴史を直視しているかどうかにかかっている」と断言し、さらに別の記事でも「政府による報道機関の政権批判抑え込みが功を奏している」と批判の度合いを高めています。フォーブス誌に至っては首相の上下両院合同会議での演説はカネで買ったようなもんだというコラムを掲載するし、ウォールストリート・ジャーナルも首相は「歴史に関する彼の見解がかき立てた疑念」を抑止する必要があると指摘しました。英ガーディアンも安倍演説に先立ち「日本の戦時の幽霊がまだ漂っている」と警告していたのです。

けれど、安倍訪米団の最初の仕事であった防衛協力ガイドライン合意の際の相手方、ケリー国務長官の満面の笑みは、まるでそんな懸念など関係ないかのようでした。なぜか?

ちょっとおさらいしましょう。

オバマ政権はアフガン・イラク戦争からの撤退で「世界の警察」の地位から下りることを志向しました。これは何度も書いてきたことです。何千人もの若者たちの命と何億ドルもの軍事費を費やしても地域紛争は果てることなく続き、米国の介入が逆に恨みを買うことも少なくない。ならばその地域の安全保障はその地域で担ってもらおう、という方向転換でした。その中に「東アジア・太平洋地区のリバランス」というものも含まれています。

ここに安倍政権は乗ってきた。取り直しの形で登場してきた第二次安倍政権は、第一次で手もつけられずに退陣した悔しさからか平和憲法の改変と「美しい国」という家父長制国家の復活を明確に押し出してきました。しかしそれは2013年12月、靖国参拝を敢行することで米国の異例の「失望」表明を招き、失敗します。なぜなら日本の存在する東アジア「地域」では、それが中国と韓国を挑発して却って「地域」の安全保障を毀損するからでした。それはリバランスの目論見も崩れて米国の方針に叶わなかったからです。

そこで安倍政権は軌道修正をしました。靖国は参拝しない。ハドソン研究所での演説のような「私を軍国主義者と呼びたければどうぞ」的な無用な国粋主義発言も控える。今回の訪米での厚遇を目指して、安倍政権はこの1年ひたすら米国の歓心を買うためにそうやって数々の布石を打ってきたのです。

昨年7月の集団的自衛権の容認も米国支援を名目に憲法の実質的改変を含んで一石二鳥でした。従軍慰安婦問題については「人身売買」だったとの表現で主語を曖昧にしたまま反省の雰囲気を醸し出しました。先日のバンドン会議では中国の習近平主席と2度目の会談を実現させて「地域」の緊張緩和を演出し、「侵略戦争はいけない」という、これまた主語の違う一般論で先の大戦を反省したような演説も行った。

米政権が懸念するのは米国の安全保障政策に則らない他国の軍事拡大です。その意味で安倍政権は、中国の海洋進出などの脅威増大を背景に実に周到に米国に取り入った。これだけ上げ膳据え膳の「お土産」をもらって喜ばない政府はないし、その菓子箱の底に首相の恣意的な理想国家実現のプロジェクトを忍び込ませたわけです。

なんとも舌を巻くほどに見事な権謀術数ではないですか。

April 01, 2015

文明との衝突

日本でも「イスラム国」という呼び方をやめて「IS」や「ISIS」「ISIL」などと呼び変えるようになりました。「イスラム」という呼び名を避けたのは「イスラム教との戦い」だというニュアンスを消して世界中の穏健なイスラム教徒への差別や偏見を助長しないようにとの配慮です。

同じ理由でこれを「文明の衝突」と呼ぶのも間違いだと言われます。サミュエル・P・ハンティントンが20年近く前に記したこの言葉は、西欧文明とイスラム教圏とがやがて衝突するという予告のことでしたが、今回の「IS」との戦闘はそれとは無関係だというわけです。なぜなら多くのイスラムの国々もまた「IS」に対抗する有志連合としてともに戦っているからです。

しかし、ではいったいシリアとイラクを中心に展開しているこの戦いは何と何が衝突しているのでしょうか?

「IS」は昨年6月、カリフ(預言者ムハンマドの後継者=イスラム共同体の最高権威者)制イスラム国家の樹立と、そのカリフに指導者アブ・バクル・アル=バグダディが即位したことを宣言しました。そしてその国家「IS」は、世界秩序を国家を単位として築くという、現在の主権国家の共存体制を確立した17世紀のウエストファリア協定を否定し、現在の国境や国民の定義も越えて、アッラーを信じる者がいる場所はすべて「イスラムの国」なのだという「神の国」を企図しています。

ここからは私の仮説です。これは「文明の衝突」ではなく「文明そのものとの衝突」なのではないかということです。

宗教はこれまで、時代に合わせてどんどん世俗化してきました。そして絶対的だった神が、どんどん相対的な存在になってきました。それは神聖vs世俗、原理主義vs修正主義の対立を呼びます。神への疑問は人間の傲慢です。けれど神への疑問はじつは人間の知性の表れでした。この知によって、神はどんどんと神聖さを剥ぎ取られてきたのです。

世界はずっとこの神と知の齟齬を棚上げしてきました。ガリレオが地動説を唱えて異端審問にかけられたのも、科学が神に反したものだったからです。でもいつの間にか神は科学と棲み分けするようになりました。さらに人間は神を政治から忌避して政教分離を果たし、神授された王権から離れて民主制度を作り出しました。異教徒を奴隷にすることもやめ、女性たちにも人権を認め、同性婚すら知性の力で認めようというところまで来ました。

しかしそういう民主主義も人権主義も、神から見たらとんでもない俗化であり堕落です。そんなことはユダヤ教、キリスト教、イスラム教のどの教えにもそぐわない。でもそれはいま、つまり神と俗とは、この世界で棲み分けて共に存在しています。それは神を如何ともしがたい、ある意味で人間たちの大人の対応というものでした。

それでもそれを理解できない者たちがいる。神にすがりたい人たちがいる。人間という相対に耐えられずに神という絶対を欲しがり、修正の煩わしさに原理を盲信し、全ては構築された存在であるという複雑さに倦んで本質論の容易さに固執する。「俗」という言葉の持つあらかじめの汚名は、なぜなら「聖」という言葉の持つあらかじめの神々しさの影だからです。それは「悪」という言葉そのものと同じくらい脱構築の困難な価値です。

すなわち「IS」にとっては、知によって世俗化したこの文明世界そのものが堕落した「悪」なのでしょう。だからそんな文明世界を、絶対的な「善」である「神の国」に置き換えようとしている。

西欧の民主主義国家への移民家族のもとに生まれ、そんな世俗な社会制度に、資本主義文明に、聖と俗との齟齬を永遠に棚上げして誤魔化している大人の「知恵」に、育てられながらもしかし結局は常に差別され疎外されてきた若者たちが「IS」に答えを見つけようとするのも、そういうことなのだと思います。

しかしそれは、「神」の歴史を知らずにいまもまだ答えが「絶対神」にあると思っている、あまりに安易な無知に起因しています。いやむしろ彼らはそんな無「知」をこそ志向しているのかもしれません。

なぜなら現在の文明世界の全ての根源に人間の「知」があるからです。

それを神は何と呼んだのだったか? 「リンゴ」です。「原罪」と呼んだのです。つまり「無知」を志向するということは、「無罪」を志向するということなのです。

だとすると「知」から逃れられない私たちはいま再び「知」を「原罪」と呼びなし排除しようとする「無知」に、つまりは「神」に、ケリをつけなければならないはずです。論理的にはそれしかないのです。生きよ、堕ちよ。坂口安吾の先にあるのはそういうことなのです。

しかし、それはあまりに知的に過ぎる作業です。おそらく人類は、種としてはそこまで強くない。人間の、神から見た原罪ではなく人間としての原罪は、だとするとリンゴを一齧りしたことではない。リンゴを一齧りしかしなかったことなのかもしれません。