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無理と道理

安保法制に関する安倍政権の国会答弁にあまりに呆れたり怒ったりでブログ更新も忘れていました。でもそろそろ書かねばなりません。何に怒っているのかというと、これまで築かれてきた立憲主義の道理が安倍政権によってことごとく無視されていることにです。

そもそも立憲主義=憲法とは時の政府の権力を制限し、国民の権利・自由を擁護するためのものです。なのに安倍首相は「それは王権が絶対権力を持っていた時代の考え方で古いものだ。憲法は国の形、理想と未来を語るものだ」と独自の見解を固持しています。王様の時代には憲法なんか存在すらしていなかったのに、です。

「独自」というか「勝手」は安倍政権のすべてを覆っています。集団的自衛権は日本に数多いる憲法学者のたった3人しか明確に合憲だと考えていないのに合憲だと言い張り、しかもその根拠はだれもが「?」な砂川判決だと言います。そんな無理な牽強付会がまかり通れば日本社会で道理が通じなくなります。

百田尚樹を招いての自民党若手の勉強会の問題でも同じです。安倍は「(自民に批判的な)マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなるのが一番」と発言した議員には「自民党は自由と民主主義の政党」「私的な勉強会」だからと謝罪を拒否、「沖縄の2紙は絶対に潰さなあかん」とした百田に関しても「その場にいないのに勝手におわびできない。発言した人だけができる」と他人事で済ませました。

こうした「無理」の背景はすべて、じつは自民党の「憲法改正草案」にあります。

「自民党草案」21条は言論・表現の自由を保障すると書きながら「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動(中略)は認められない」と但し書きを入れます。自民党の論理では「マスコミ」は「公益と公の秩序を害する」報道をしているのだから「懲らしめ」てよいことになる。テレ朝幹部を呼びつけて安倍政権を批判した報道番組に関して査問したのはつい先日です。

注目の9条はタイトルを「戦争放棄」から「安全保障」「平和主義」へと「改正」します。まるで今回の安保法制が「平和安保法制」となったのと同じ種類の改名です。改正草案では、武力の行使は「永久にこれを放棄する」という文言が消えているのにも関わらず。

自衛隊の活動拡大で懸念される徴兵制も、まるで国家的急務においてはOKとも読めるようになります。なにせ国民の権利が尊重されるのは憲法草案に頻出する「公益及び公の秩序に反しない限り」(13条)で、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚」するのが国民の責務(12条)なのですから。

もとより「憲法改正をするために政治家になった」と明言してきた首相です。その露払いたる解釈改憲での集団的自衛権の容認理由を、まるで降ってわいたように「日本を取り巻く安全保障環境が変わったからだ」とうそぶくのは、この「環境の変化」を奇貨としているというよりもむしろ、未必の故意の外交不在でわざと敵対環境を仕組んだのだと勘ぐられても仕方がないほどです。

昨今の自民党の「無理くり」ぶりは自分たちが常に「公」であるという「一強」の自信から来ています。安保法制やメディア弾圧に限りません。2520億円以上かかってなおも赤字な新国立競技場の計画を推進するのも政治的知性の劣化です。政権交代はそんな自民党システムの限界を多くが知ったから起きたのに、政権復帰後の自民党はそれを反省ではなく重篤化させているように思えてなりません。

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