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August 18, 2015

歴史を中和する試み

安倍首相の70年談話はとても見事な歴史講話となっていました。さてそこに透ける意図というのを紐解くのが私たち物書きの役目でもあります。

私が見たのは、安倍首相による「歴史のニュートラライゼーション(中和)」というものです。言い換えれば、安倍さんのいつもの「言い返し癖」を満足させるレトリックが、それとはあからさまには知れない形でちりばめられていたということです。

始まってすぐに指摘したのが「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が広がっていた」という事実です。そこから歴史をたどり、「欧米諸国が植民地経済を巻き込んだ経済のブロック化を進め」たために日本は「外交的、経済的な行き詰まりを力の行使によって解決しようと試みた」という第二次大戦への道のりです。これは「日本も悪かったが西洋諸国だって悪かったじゃないか」という指摘です。

それだけではありません。談話が「哀悼の誠を捧げ」たのはこれまでの「中国、東南アジア、太平洋の島々など」の戦場となった地の人々だけではなく、「国内外に斃れたすべての人々の命」です。「三百万余の同胞の命」「広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦など」で犠牲となった「たくさんの市井の人々」です。これもまた加害と被害を並列させた「歴史の中和」の試みです。

そうして出された結論が「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない」という、主語の示されない文でした。「日本が」ではなく、世界全般の真理として読める普遍的な願い。「いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としてはもう二度と用いてはならない」という言葉も、日本の姿勢とともにいまも武力での解決を図ろうとし続ける世界(あるいは中国)への言及です。

これに異議は挟めません。誰が見てもこれは「正しい」歴史認識です。学校の歴史の講義で使いたくなるくらいの。

ポイントはそこです。安倍首相は「歴史修正主義者」という批判をよほど気にしているのでしょう。なので歴史を書き換えて見せるのではなく、この談話では、謝罪してきた一方の「自虐史観」を、少なくとも「喧嘩両成敗」の「どっちもどっち」状態にまで中和させることに意を注いだ。しかもそこに、誰も異議を挟めない「自由、民主主義、人権といった基本的価値」を振りまいて。

これを最初に「見事な歴史講話」と書いたのは、これが歴史の授業での講師の歴史俯瞰およびその解説なら百点満点だということです。しかしこれは日本の国体の代表者でもある首相の「談話」です。「歴史講義」ではありません。そこには日本という主語がどういうふうに振る舞うのか、どういうふうに振るわねばならなかったのか、どういうふうに振る舞うべきではなかったのか、という責任論が付随するものなのです。

村山談話の2.5倍という3400字余りの字数を要したのは、まさにその責任を「丁寧」に回避し、「謝罪の歴史」を中和するためのレトリックが必要だったからです。これは実に高度な文章作法です。首相官邸のスピーチライターはなかなかの巧者です。

で、どうなったか? 朝日新聞が17日の紙面で「外務省のホームページから政府の歴史認識やアジア諸国への『反省とおわび』の記事が削除された」と報じました。「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」「痛切なる反省と心からのおわびの気持ちを常に心に刻み」などの記述がそっくりなくなっているのです。中和とは、それを装う修正と消去のこと……。

12日は日航ジャンボ御巣鷹山墜落から30年でした。日航の社長が「この30年十分に反省をし、事故対策を重ね安全運航に努めてきたので、もう謝罪はしない」と宣言したらどう思いますか? ドイツが「ナチスに関してはすでに謝罪は済んだ」と言い始めたらどう感じますか?

首相は「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とも述べました。日航の新たな若い社員が、ドイツの新しい世代が、「謝罪」するのはもとよりボランタリーなものです。彼らに謝罪の義務などない。しかしそれを社や国に代わって「謝罪」してあげている。それは自らの所属する全体の、肩代わりを具現しようという意思の行動です。それは「宿命」などと押し付けられたものではありません。

同様に、日本の戦後世代が「謝罪」の「宿命」を背負っていることなどはあり得ない。それは背負っているのではなく、この国を愛するが故の「引き受け」なのです。それを首相がおこがましくも「宿命を背負わせてはならない」とあたかも忌むべき義務のように宣言する。その宿命は、国民ではなく「首相」が背負っているものなのにもかかわらず。明確に言えば、安倍首相は、自分が「謝罪を続ける宿命を背負わせられてはたまりません」と宣言したいのでしょう。

この「歴史の中和」の先に何が用意されているのでしょう。それは新安保法案だけではなく、平和憲法そのものの改定であることはすでに明らかです。

August 03, 2015

真夏の錯乱

日本に来ています。いま安保法制に関する反対が各界各層から溢れ出ています。大学生らの抗議グループSEALDs(シールズ)に影響されてか、お年寄りたちの多い巣鴨ではOLDS(オールズ)という年配者たちのデモも行われました。先日は高校生たちが呼びかけたデモが気温35度という猛暑の渋谷で5000人を集めて行われ、「だれの子どもも殺させない」という切実なシュプレヒコールの続くママさんたちのベビーカー・デモもありました。

こんな現象は戦後70年で初めて見るものです。とにかく戦争はダメだという平和憲法の精神がいま危機感として噴出しています。

対して集団的自衛権の確立を訪米で公約してしまった安倍さん側はシンパたちが援護射撃に躍起です。

驚いたのはSEALDsについて、自民党の36歳という武藤貴也衆院議員が「彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせい」とツイートしたことです。この人は「基本的人権の尊重」を「これが日本精神を破壊した主犯だと考えている」と公式ブログで表明している人です。「この基本的人権の尊重という思想によって滅私奉公の概念は破壊されてしまった」とまで言いのける錯乱は、いったいどういう倒錯から生まれたのでしょう。

彼だけではありません。田村重信・自民党政務調査会調査役はSEALDsを「民青、過激派、在日、チンピラの連合軍」と呼びました。これがデマの吹聴であることに加え、問題はもう一つ、彼が明らかに「在日」を侮蔑語で使っていることです。自民党では50万人以上いる「在日韓国・朝鮮人」をそういうカテゴリーで見ているのでしょうか? ヤバいでしょう、それは。

援護射撃どころか自爆テロみたいになってしまっているのはこの安保法制を中枢で推進してきた礒崎首相補佐官の「法的安定性は関係ない」発言も同じです。これは法の支配そのものの否定だけではなく、「安保法制は違憲だけどそんなこと言ってられん」と具体的に白状したということですから、自民党にとっても本来は懲罰もんのはずです。しかしいま私たちが目撃してるのは、その暴走をまたネグろうとしてる権力の錯乱です。

日本はとてもおかしなことになっています。原爆の日の近い長崎では先月、老齢の被爆者を招いてのある公立中学での講話会で、話者が被爆体験の後にアジア侵略の写真などを示しながら日本の戦争責任や原爆と同じ放射線を出す原発の問題に触れたところ、校長が「やめてください!」と大声で遮ったそうです。まるで戦前の官憲による「弁士中止!」です。NHKニュースによると、その後に校長はこの老人を校長室に呼び「写真はでっちあげだ」とか「自虐史観だ」などと話したといいます。

この話にしてもSEALDsや高校生デモに関する誹謗中傷にしても、なぜ日本の権力は政治的な意見表明を抑制しよう、黙らせようと動くのでしょうか。

校長は「政治的中立性が守られない」と弁解したようですが、中立性を守るための対策は、それらの言論を封じる事なかれ主義ではなく、賛否両論の表明の保証、談論風発の奨励のはずです。

ちなみに最近の仰天ニュースは、日テレの「安倍首相批判の落書きが駅トイレで見つかった。警視庁が器物損壊容疑で捜査している」というものでした。ここは北朝鮮か旧ソ連かと、今度は私が軽い錯乱を覚えたほどです。