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September 22, 2015

最も偉大な愛国心

安倍政権の安保法制が可決しました。世界の反応として中韓以外の国々が多くこれを支持、歓迎していることを受け「ホラ見たことか、国際的にも支持されているじゃないか」と鬼の首でも取ったようにドヤ顔の人たちがいますが、それはそうでしょう。その国々はみな、これで日本が海を渡って自分の国を守りに来てくれると期待しているのですから。

なのでここは本来「あ、それはちょっと待ってください」と言うのがスジじゃないでしょうか? 「それは誤解です。自衛隊はアメリカや同じ目的行動をとる部隊しか助けないんです」と言わねば。

同じように、国内の街頭インタビューでも「日本を守ることは大切ですので賛成です」と言う人たちがいます。しかしこれも実は今法案論議の最初期に「そういうのは個別的自衛権だから、今回の集団的自衛権の法案とは直接関係がない」として片付いたものです。個別的自衛権とは国家固有の権利ですし、今以上に十全な自衛を追求するならむしろ武力だけでは賄えない部分をこそ万全にすべきというのが現在の常識です。そんな世界情勢の中で武力が挑発ではなく抑止になると考えるのはあまりに楽観的で単純すぎるでしょう。

国会での政府答弁も故意と勘ぐられるほどに核心を外していました。首相がイラストまで使って説明したあの日本人母子の乗る米艦防護にしても、後に「邦人が乗っているかどうかは絶対条件ではない」と撤回されました。唯一具体的な立法事実想定だったホルムズ海峡の機雷除去も「現在は想定していない」と首相自らが否定した。にもかかわらず追加の議論も説明もなしの強行採決でした。

よって、この法律に関する「違憲である」「立法事実がない」「歯止めがない」という三大瑕疵については、何の解決もないままです。そもそも武力行使要件の1つである「必要最小限の実力行使」という条項にしても、その「必要最小限」は、相手から一発タマが飛んでくるだけで「最小限」のレベルが対応的に変化するのは論理的にも当然なのですから。

ことほど左様にこの法案に関しては欠陥が多すぎる。しかし、とにかく日本が「70年の平和主義を放棄」(CNN)し「海外での軍事的役割拡大」(BBC)する方向で「立憲平和主義の終わり」(リベラシオン)を迎えたというメッセージだけは「既成事実」として発信されました。

首相はこの安保法制反対論にも「時間が経ていく中で間違いなく国民の理解は広がっていく」とうそぶいていますが、この論でいけば、首相が自信を持って進める全ての法案審議に国民の理解は無用であるということになります。法に則るのではなく、権力者の恣意に基づく政治を「独裁」と呼びます。

今回の法制可決で放棄されたのは日本の平和主義だけではありません。私たちの国はいま、法治主義でも立憲主義でもない国家になりました。法的安定性を放棄した今、法学は、日本ではなくどこかの別の国の法精神を語る夢語りに貶められました。

国家の安全保障はとても重要なものです。しかしそれは「愛国心」をまとったナショナリズムとは違います。私が今回の安保法制に反対しているのは、それが愚かなナショナリズムに支えられているというその一点から始まっています.

フランス自然主義の作家モーパッサンは「愛国心という卵から戦争が孵化する」と言っています.

アイルランド出身の劇作家バーナード・ショウは「愛国心とは、自分がそこに生まれたというだけの理由でその国が他より優っていると信じること」と言い捨てました.

同じく英作家のジュリアン・バーンズは「最も偉大な愛国心とは、あなたの国が不名誉で愚かで悪辣な行いをしているときにそれを指摘してやることである」と言っています。

September 08, 2015

安倍マクベス

国民の6割以上が今国会での成立を「拙速」と考えているのに、安倍政権は安保法案を来週16日に強行可決するそうです。自民党の高村副総裁は「国民のために必要だ。十分に理解が得られていなくても決めないといけない」と断じます。

成立への凄まじいまでのこの固執は、どこから来ているかより、どこへ向かおうとしているのかを考える方がわかりやすい。それは「私たち」の国ではなく「彼ら」の国家です。もちろん民主政治を指して「衆愚政治」と呼ぶことはあります。賢人がそんな衆愚を導くこともあるでしょう。

しかしいまは古代ギリシャではないし、「ナチスの手口に学べばいい」とか「立憲主義なんて聞いたことない」と言ってはばからない政府が「賢人」であるとはとても思えません。高村の言は単に、現在の一政権の命運だけを気にしているふうにしか聞こえない。

というのも、彼らが盛んに吹聴する「周辺環境の悪化」というのも、この法案を成立させるために小さな脅威を大きく見せつけているようにしか思えないからです。

「東シナ海のガス田開発で中国が新たに12基のプラットホームを新設している」というのは、今年の防衛白書では当初「施設建設や探査を行っている」との表現にとどまっていました。それが自民党で「表現が弱すぎる」とヤリ玉にあがり、急に「新たな建設」「一方的な開発」と付け加えられました。さらに中谷防衛相が国会でそれが軍事拠点化される「恐れ」があると強調した。

ところがこれは東シナ海で日本が主張する日中の「中間線」(中国の主張する目一杯こちら側に張り出した「中間線」ではなく、わが日本の主張する「中間線」です)に従った中国側経済水域内での経済活動であって、中国は別に日本の水域を侵しているわけではありません。文句のつけようはないのです。しかも軍事施設でもないのにそのように仮想してみせる。

中国の南沙諸島岩礁埋め立てにしても、海洋法条約では「人工島及び構築物はそれ自体の領海を有しない」と定めていてすぐにどうだという話じゃありません。そこに中国が「一方的に」埋立てや飛行場建設を行ったと騒がれていることについても、軍事評論家の田岡俊次さんはフィリピンはパグアサ島、ベトナムがチュオンサ島、マレーシアがラヤンラヤン島に、いずれも他国の了承なしに「一方的」に飛行場を建設し、一部では埋立ても行っていて、中国の行為だけを「一方的」と論じるのは公正ではないと説明します。

南シナ海で中国が支配権を握っているような報道も間違いで、12ある「島」はベトナム、フィリピン、台湾、マレーシアが支配していて中国の支配はゼロ。どこに喫緊の脅威があるのか?

安倍政権のこの前のめりぶりを見ていると、私はシェイクスピアの「マクベス」を思い出します。王を暗殺して自分が王になったマクベスは、自分の周囲にいる者たちをすべて脅威に感じて、自衛のために次々と先制的に友人や臣下を殺していくのです。それは自衛の妄想スパイラルです。

究極の自衛を考え詰めれば「攻撃は最大の防御である」に落ち着きます。9・11後のブッシュ政権はその妄想で誤った戦争を起こしました。

そんな「自衛の妄想スパイラル」に落ち込まないために日本は「専守防衛」という方策を育んできたのです。その70年分のクレジットを、今の一政権が、喫緊ではない「周辺環境の悪化」を煽り立ててかなぐり捨てようとしている。切迫した「脅威」といえば朝鮮戦争や中ソ対立の時の方がはるかにひどかったでしょうに、そんなことは思い出しもしない。

彼らはすでに妄想の領域に落ちているのかもしれません。

ちなみに今年、日本の演劇界が劇団の大小を問わずさまざまに「マクベス」を上演しています。流山児事務所もやりましたし、今度は蜷川マクベスも17年ぶりに再演となるそうです。これを、アベ政権に対する演劇界からのメッセージだと見るのは深読みに過ぎるでしょうか。