断言の条件
物事は、知れば知るほど断言することが難しくなります。情報が多ければ多いほど判断がつかなくなる。他人に非難されるようなことになった友人を、それでも私たちがなかなか断罪できないのは、友情と同時に、その彼/彼女のいろんな事情を、つまりは情報をたくさん知っていて一概に、一面的に、簡単に断ずることがはばかれるからです。
ニューヨーク在住の複数の関係者に、あるテレビ番組の下請け会社から問い合わせのメールが届いています。年末の番組で特集をしたいので「海外にある日本文化の勘違い料理店やカルチャースクールを探しております」というのです。なので知っていたら教えてほしい、と。
昨今の海外での日本ブーム、クールジャパン展開もあります。その中で「勘違いのニッポン」を探すのは、敢えて予断で言えば、それは日本国内で「嗤い合う」ためでしょうか? それとも10年近く前に農水省がやろうとして「そんな上から目線で」と批判されて方向転換した「寿司ポリス」みたいな「正しいニッポン普及」の話なんでしょうか?
そのメールが「勘違いニッポン」の具体例として挙げているのは「日本料理として奇想天外なメニュー」「日本文化とは思えぬ内装」「間違い日本語による接客や変な日本語店名」「日本文化を間違っている空手師範」「日常では使わなさそうな例文を教える日本語教室」などでした。
こういう話はいくらテレビ番組側の事情を知っていてもなんだかいやな感じがします。日本の「洋食」の無国籍ぶりやフレンチやイタリアンのメニュー誤表記、変な英語Tシャツなどは、それこそ日本国内で枚挙にいとまがない「どっちもどっち」な話でしょうに。
そういえば「寿司ポリス」の話が持ち上がった当時も、あるニュースサイトは米国にある日本食レストランで「日系人オーナーの店は10%以下」「経営者の多くは中国や韓国、ベトナムなどのアジア系」「つまり『ニセ日本食』の提供者は中国人や韓国人、ベトナム人だったわけだ」と書いていました。またその話をぶり返したいわけなのでしょうか?
そのころからです。日本社会がやたら「嫌韓」「嫌中」に傾き、「ニッポンすごい」「ニッポン最高」を連呼するようになったのは。そうそう、「国家の品格」などという根拠の曖昧なニッポン文化礼賛本が発売されたのも10年前でした。
そんな風潮は10年を経てさらに攻撃的で断罪口調になり、いまでは安倍政権を批判するとすぐに「おまえは朝鮮人だろ」「中国政府からいくらもらってる」というような罵倒が飛んでくるようになりました。そしてあろうことか安保法制反対のあの学生組織SEALDsの奥田愛基さんとその家族へ、殺害予告が届くまでに悪化しています。
何気ない揶揄や嘲笑が巡り巡って殺害予告にまでたどり着く。自国礼賛とゼノフォビア(外国嫌悪)が容易に結びつくことは歴史が証明しています。冒頭に書いたように、諸外国の人々や文化を嫌ったり排除したりすることは、他者への一面的な理解しか持っていないことの反映です。むしろ持っていないからこそ断言口調になれる。
そう書くと「おまえはいつも断言口調じゃないか」と言われそうです。まあそうですね。情報を集めて集めて、それでも断じなければいけない時があります。私はそんな時に、批判の対象が権力を持っているかどうかを常に考えるようにしています。持っていなければ批判はしません。私のその断言が正しいかどうかは、あとは読者諸氏の断じるところです。