私怨と公憤
11月のパリ、12月のカリフォルニアのテロが象徴するように2015年は世界秩序が「イスラム国」に揺るがされた年でした。その反動でフランスでは移民排斥を謳う右翼政党「国民戦線」が大躍進し、米国でもイスラム教徒入国禁止をブチ上げたドナルド・トランプが共和党の大統領候補として相変わらず支持率トップを維持しています。2016年はどういう年になるのでしょうか。
「イスラム国」の惹き起こす各種の問題は今年も続くでしょう。「イスラム国」とは何かという問題に、私はこれは、私怨を公憤に簡単に変えてくれる「装置」なんじゃないかと感じています。
欧米でも「新住民」として定着しつつあるイスラム教徒は「旧住民」との間に様々な軋轢も持つでしょう。それは実は単に「新」と「旧」との軋轢に過ぎないのですが(日本でも新・旧住民間の軋轢は至る所で起きています)、それがここではキリスト教コミュニティとの宗教的軋轢として格上げされてしまう。
新住民たるイスラム教徒たちが「自分は疎外されている、いじめられている、仲間外れになっている」という鬱憤を抱くことはあるでしょう。これまでその鬱憤は私的なことでした。鬱憤を晴らすことも個人的な範囲で抑えられてきました。なのでそんな鬱憤には「晴らす」までに至らずさらに鬱積したものもあったでしょう。それはこの世の常です。それはまた様々な手段で解決していかねばならい。
ところがそこにいつの間にか「イスラム国」というお題目が与えられました。それを唱えるだけで、これは社会的な矛盾だ、キリスト教とイスラム教の宗教対決だ、思想戦争だという、なんだか大義名分のある(ような)鬱憤に格上げしてくれる。「イスラム教徒がいる場所がイスラムの国だ」という思想の下、単なる個人的な鬱憤だったものがなんだか偉そうな大問題に思えてくるのです。この短絡が成立すればもう際限がない。その鬱憤を晴らすことには大義がある。その大義のためには銃器を入手することも爆弾を作ることも人を殺すことも正しく思えてくるのです。
対してトランプが言ってることも同じです。彼の発言もとても個人的な敵対感情です。社会のこと、世界の仕組みのことなんか吹っ飛ばして、個人的な、私的な恐怖心を、大統領候補という大義名分のある地位で、なんだか公的なことのように言葉にする。いま起きていることはつまり、実は私怨と私怨のぶつかり合いなのです。なのにいつの間にか公憤、公の正義同士のぶつかり合いのようなものに、見かけ上は変貌している。
「驚愕反射テスト」というのがあります。突然大きな音を聴かせたり、感情をかき乱すような画像を見せたりする様々な「驚愕すること」に、どのくらい敏感に反応するかという検査です。その結果、保守派のほうがリベラル派よりも「ショックを受ける傾向」が強いという事実が「サイエンス」誌に発表されています。怖がりだとか臆病だとか、そういう生理的傾向が政治思想に影響するらしいのです。
強権主義だとか国家主義だとか男尊女卑だとかそういう強硬な「保守」思想が、結局はその人の性格の問題だなんてなんだかガッカリしますが、その意味では「恐怖をあおる」トランプの選挙手法は保守派の票の掘り起こしにはつながるのかもしれません。
でも、こちらの恐怖には相手側からも恐怖しか返ってきません。それが「公憤」を装う「私怨」同士の応酬につながっているのです。その傾向を、どうにか断ち切れないものかと考えあぐねる新年です。