映画『あん』を観て
帰国便の機内で河瀬直美監督の「あん」という日本映画を見ました。永瀬正敏演じる訳ありのどら焼き屋さんに、樹木希林演じるお婆さんが仕事を求めて訪れて、絶品のあん作りを伝授する、というお話です。
美しい桜の景色から始まる物語は淡々と、けれど着実に進んで行きます。なるほどよくあるグルメ映画かと思う頃に、最初に描かれたお婆さんの手指の変形という伏線が顔を出してきます。彼女はほど遠からぬ所にある「らい病」つまりハンセン病患者の施設(旧・隔離施設)から通っていることが明らかになり、その噂で客足も遠のくことになるのです。
心にしみる佳作です。お婆さんはその店でのアルバイトを辞して「園」に戻ります。映画は「世間」の偏見と無理解とに直接対峙するわけではありません。店主の無言の悔しげな表情と、そして常連だった女子中学生と2人しての「園」訪問と再会とが、かろうじてこの病気を取り巻く「差別」と「やるせなさ」の回収に機能します。そして映画は観客の心に何らかの種子を植え付けて終わるのです。
一人一人の心の底に染み渡りながら、しかしその「種子」が「私」の土壌から芽吹いて「公」の議論に花開くことはあるのだろうかと思ったのは、翻ってアメリカの大統領選挙のことを考えたからでした。米国では4年に1度、全国民レベルで「私」たちが「公」の議論を戦わせる大いなる機会があります。というよりむしろ米国という国家そのものが、「私」の領域を「公」の議論に移し替えて成立、発展してきたものでした。
黒人奴隷の問題は「私」的財産だった黒人たちが「公民権」という「公」の人間になる運動に発展しました。女性たちは60年代に「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを手にして社会的な存在になりました。そして同性愛者たちも「個人的な性癖」の問題ではなく人間全部の「性的指向」という概念で社会の隣人となり結婚という権利をも手にしました。
それらの背景には個人的な問題を常に社会的な問題に結びつけて改革を推し進めようという強い意志と、それを生み出し受け止める文化システムがありました。顧みれば社会問題に真っ向から取り組むハリウッド映画のなんと多いことよ。
人権や環境問題では地下水汚染の「エリン・ブロコビッチ」やシェールガス開発の裏面を描いたマット・デイモン主演の「プロミスト・ランド」がありますし、戦争や権力の非道を告発したものは枚挙にいとまがありません。ハンセン病に匹敵する「死病」だったエイズでもトム・ハンクスの「フィラデルフィア」などが真正面から差別を告発しています。今年のオスカーで作品賞などにノミネートされている「スポットライト」はカトリック教会による幼児虐待問題を真正面から追及するボストングローブの記者たちの奮闘を描いています。
映画としてどちらの方法が良いかという問題ではありません。アメリカはとにかく問題をえぐり出して目に見える形で再提出し、さあどうにかしようと迫る。彼我の差は外科手術と和漢生薬の違い、つまりは文化の違いなのでしょう。でも、後者は常に問題の解決までにさらなる回路を必要とするし、あるいは解決の先送りを処世として受け入れている場合さえあります。かくして差別問題は日本では今も多く解消されず、何が正義なのかという議論もしばしば敬遠され放置される……。
映画としての良し悪しではない。けれど社会としての良し悪しはどうなのでしょう? 個人の心に染み渡らねば問題の真の解決はないでしょう。しかし一方でそれを社会的な問題として言挙げしなければ、迅速な解決もない。その両方を使いこなす器量を、私たちはなぜ持ち合わせられないのかといつも思ってしまうのです。