偽善vs露悪
初戦アイオワでのトランプの敗北は、トランプ人気が実は「面白がり屋」たちの盛り上がりで支えられているということなのかもしれません。選挙はやはりその土地で実際に歩き回る「どぶ板選挙」のような運動が下支えするのでしょう。もっとも、来週のニューハンプシャーなど、これ以降の州ではあいかわらずの強さを示しているようですが。
対して民主党の方はクリントンとサンダーズが事実上の引き分けです。当初は(社会主義者と自称するがゆえに)泡沫とみられていたサンダーズがここまで健闘する背景には、若者たちに広がる社会格差感が(社会主義的メッセージを必要と感じるほど)深刻だということなのかもしれません。サンダーズはニューハンプシャーではクリントンを破るだろうと予想されています。
それにしてもアメリカはどうしてこうも大統領選挙で盛り上がるのでしょうか? 4年に1度の政治的お祭り、と言うのはわかりますが、どうしてその「政治」イベントが「お祭り」のようになるのでしょう?
政治が盛り上がるのは、この国では人間が社会的存在として成立するからじゃないかと思います。「有権者=社会的人間」として「投票=社会的行動」するためにあちこちで「政治=社会的言説」を語る。社会的言説とは「建前=理想と正義」を語って他人と生き方を共有することです。すなわち「社会」を作ることです。アメリカの政治社会史とは、黒人の公民権運動をはじめとして女性の権利、性的少数者の権利など、一人一人が「公民」=社会的存在になるためのうねりだったのですね。
ですから、社会的言説(建前)が必要で、それにコミットしたいと思うのは、基本的にはマイノリティの心性なんです。私的で個人的な言説では埒があかないので、次元を上げて社会の在り方を問題にする。個人の好み(本音)だけではない、どんな社会を求めるべきかを語らねばならない、という自覚。
そう、アメリカの今はみんながどこかでマイノリティだと自覚している時代なのです。人種や性指向に限らず、社会的にも経済的にも、価値観が多様になればなるほどみんながそれぞれのマイノリティです。だからこそそれぞれの場所で社会的言説(建前)がさらに必要になる。
大統領選挙というのはまさにそんなおおっぴらな社会的言説(政治)が許される、奨励される場なんですね。それは盛り上がるはずです
対して昨今の日本社会はどうでしょうか? 私たちはいつの間にか建前(社会的言説)を語ることがとても格好悪いことだと思うようになってきました。本音で生きようよ、と。
そういえば同調圧力の強い日本ではみんなが自分をマジョリティだと思いたがる。マジョリティという安心感があれば、それ以上の建前はあまり必要ないんですね。「本音で生きよう」とはつまり、すべてを個人的な領域で片付けることです。正義と理想は、ナニ格好つけてんだよ、となる。それは「偽善」で、個人の好みをあけすけに語る「露悪」にこそ価値が置かれる。それは当然、社会的存在としての人間を「偽善」として忌避する傾向につながります。よって露悪趣味のネット右翼が声を張り上げる。
実はこれまでのトランプの主張もこの「露悪」を利用したものでした。「政治的正しさ(PC)」を「偽善」として叩き、人間の、生物としての防御本能や恐怖という「本音」を前面に押し出して「私的正しさ」を主張してきた。
その意味で、私は今回の大統領選挙を、まさにこの「建前=公民=PC=偽善」と「本音=私民=非PC=露悪」の戦いの最たるものとしても見ています。