「優生思想」という詭弁
『アルジャーノンに花束を』という、いまから50年も前に書かれた世界的なベストセラーがあります。開発されたばかりの脳手術を受けた、知的障害を持つチャーリイ・ゴードンの一人称で書かれるこの物語は、IQ68から数カ月後にIQ185という天才になる青年の知の遍歴の喜びと悲しみと孤独とを綴っていきます。ですが、その知の絶頂にあって、先行した動物実験で同じく驚異的な能力を獲得したハツカネズミの「アルジャーノン」が、やがてその能力や知力をことごとく失っていく様を目の当たりにするのです。徐々に失われていく知能の中で彼自身、自らの退行を押しとどめる技術を研究するのですが、それも空しくやがて彼もまた元の知的障害者に戻っていく……そして最後の一文が、タイトルの言葉に重なってくるのです。
神奈川県相模原の障害者施設で今からちょうど1カ月前の7月26日に起きた、元職員の男性(26)による入所者19人の刺殺、26人への傷害事件が頭を去りません。そしてつらつら思い出していたのがこの小説でした。容疑者は重度の障害者は社会や周囲の人間を不幸にするだけで生きる価値がないとして、「善行」でも施すかのように次々と凶行に及んだのでした。
これをナチスの優生思想として言葉の上で断罪するのは簡単ですが、果たして私たちの社会はその詭弁をきちんと論破し片を付けてきたのだったか?
この事件報道では被害者の名前が遺族の意向で公表されていません。遺族の一人はその理由を「この国には優生思想的な風潮が根強くあり、すべての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではないので、とても公表することはできません」「事件の加害者と同じ思想を持つ人間がどれだけ潜んでいるのだろうと考えると怖くなります」と不公表の苦渋の選択を説明しています。カミングアウトのジレンマがここにも存在しています。カミングアウトしなければ誤解が解けない、誤解が解けないうちはカミングアウトは不可能だ……。
実際、そんな誤解の愚かさを私がツイッターでその旨をつぶやいたところ、「ではあなたは、子供がみな重度の障害者で生まれてもこの社会は大丈夫だと思っているのですか?」とまで言ってくる輩がいました。私にはむしろ、生まれてくる子がみなこの人のようであることのほうが恐ろしい。基本的にこの人は、いろんな人が生まれてくるのが社会であるという多様性の原理を理解していないのです。ほうれん草は葉っぱだけで生まれるわけではありません。根があり茎があり葉があり虫食いがあり傷つく部分もある。それらが全部でひとつです。根の赤い部分が嫌いだ、虫食い部分が嫌だ、と言って除外すれば、茎も葉も育たないし、代わりにまた別の部分が虫に食われるだけです。
障害者は、障害を持っているのではありません。社会の方に、障害者が生きていく上での障害が存在しているのです。だから私たちの社会はその障害を一つ一つ取り除いてきました。バスには車椅子リフトがあり、駅のホームにはエレベーターが設置され、バリアフリーの住宅も増えて、まだまだとは言え今は昭和の時代よりもずっと「障害」が少なくなりました。社会はそのために発展していると言ってもいい。人間みんなが幸せに生きられるために、です。
それは人間が、弱肉強食の世界ではすべて弱者であり、だからこそ社会全体が多様な生き方を保持したまま共生してゆくことが最も有利な生き残り策だとわかったからです。上っ面の損得以上の利益が多様性の中に潜んでいるからです。さらにまた私たちは「障害者」でなくともみな子供時代は「障害」を持ち、老人になればまた「障害」を引き受けざるを得ないからです。「障害者」を邪魔者として「殺す」のが正当化されるなら、老人や働けない者を邪魔者として「殺す」社会との差がなくなるからです。それはつまり、誰もが障害者として排除され得る社会です。
そう考えたとき、冒頭の『アルジャーノン』の物語は実は、幼さという「障害」と老いという「障害」との間を経巡る、他ならぬ私たち自身の物語だったのだと気づくのです。