一夜明けて
一夜明けたアメリカは、まるで会う人会う人意気消沈して地下鉄も通りもなんだかゾンビがたむろしているような活気のなさでした。それが夕方6時からユニオンスクエアでの反トランプ集会がFBなどで呼びかけられ、あっという間に数千人が集まって五番街を北上してミッドタウンのトランプタワー前を埋め尽くしました。ヒラリー支持者層の多い都市部での反トランプ抗議デモがそうやって深夜を回っても続いています。カリフォルニアでもフィラデルフィアでもボストンでもシカゴでも、10代の若者たちも多い彼ら彼女らが口々に唱えているのは「Not Our President, We Didn't Vote You!(お前は私たちの大統領ではない。お前には投票しなかった!)」だったり「Dump Trump!(トランプをゴミ箱へ!)」です。性差別主義者で人種差別主義者のトランプを自分達の代表であるとなんかどうしたって認めたくないのです。その気持ちはとてもわかります。この国の分断はいま、内戦でも始まりそうな気運です。
いろんな言説が渦巻いています。総得票数ではヒラリーがわずかですが上回っていることで、アメリカが「トランプランド」というわけではないのだ、とか。確かにトランプは前回の共和党候補ミット・ロムニーの得票数を下回りました。つまり、前回オバマに投票した民主党の支持者たちがヒラリーにはそれほど投票しなかったというのがトランプ勝利の原因だということです。とするとヒラリーの敗因はまさに民主党支持者たちのほうにあるのですが、デモ参加者はそれでも「投票者の過半数がトランプではなくヒラリーに入れたのに、トランプが大統領だなんて言わないでほしい」と訴えます。
怒り、恐れ、不安、絶望、反感……今日のデモに表れたそんな参加者たちと同じ大きさの感情を、しかしおそらくトランプに入れた6000万人の半分は、すでにじっくりと、ゆっくりと、何年もかけて侵食されるような速度で感じていたんだろうと思うのです。それはこの民主主義の国で、民主主義的ではない経済がはびこり、そのせいで民主制度の恩恵から外されてしまったオハイオなどのラストベルト、あるいは中西部や南部の白人労働者たちの重苦しいストレス感情でしょう。それも、黒人よりも白人の労働者たちの方が疎外感は強いはずです。もともと民主制度の内側にいなかった黒人よりも、いたはずなのに気づけば民主主義から外されてしまった、弾き出されてしまったような白人労働者たちの絶望感というのは、違う意味で強く、痛みを伴うものだったはずです。
一方でいまデモをしている者たちは、言葉を持つ者たち、そしてそれを表明するショーウィンドウの都会という場所を持っている人たちです。彼らはこうして都会で抗議と怒りの集会もデモもできる。でも他方で、言葉も、それから集まってデモンストレーションを見せることのできる都会という場所も持たなかった彼らは、これまでずっと鬱屈を募らせるしかなかったのです。今回の投票はそんな彼らの積年の怒りのデモ(発露)だったわけです。
もう一つ、「6000万人の半分」と言いました。では別の半分は誰か? それはいわゆる中流以上のトランプ支持者です。彼らのトランプ支持はどういうものだったかというと、経済の民主主義をさらに遠のけ、富裕層は富裕層として安穏に暮らすための政治体制を望む者たちです。映画「イリジウム」で描かれたような、富裕層が生き残るためだけのセーフヘイヴンを志向する既得権者たちです。まさにトランプのいう「メキシコ国境の壁」の地域版です。その壁はつまり、排外主義、人種差別、「クッキーを焼かない女」たちへの侮蔑と嫌悪の象徴です。たとえそれを口にしなくても、それが隠れトランプの意味です。
もっとも、そんなふうに前者と後者がくっきり色分けできるわけでもありません。前者の中にも排外主義者や差別主義者は少なからず混在し、後者の中にも民主的な経済体制の再構築を望む者もいるはずです。隠れトランプとは、公には口にはできない隠れ排外主義、隠れ人種差別、隠れ性差別主義者のことです。そして昨日のブログで書いたように、民主的な経済システムからいつの間にか疎外されてしまっていた層はまた、民主的な情報システムからも疎外され、何が政治的な正しさなのか、どうしてそれが政治的に正しくかつ口にしてはいけないことなのか、納得できるような情報教育からも長く除外されていた者たちなのです。差別主義者であるのはただ単にそういう境遇の結果だったりもするのでしょう。「男が男らしくして何が悪いのか!」のその「男らしさ」の誤りも弊害も知りもせず教えられもしなかった人生。
トランプに票を投じた6000万人のうち、どれだけの数が非民主的経済的システムの犠牲者なのか、どれだけが逆に非民主的な経済体制をさらに推進して儲けることを考えている亡者なのか、それはわかりません。言えることは、トランプ自身は、人種差別主義で排外主義で性差別主義の後者だということです。前者の鬱憤を票としてうまく利用した、後者の代表です。前者の怒りは非民主的な経済から発した怒りでしたが、実際は、トランプというさらに非民主的な経済の体現者、差別と偏狭さの促進者を求めてしまった。それは「皮肉」というレヴェルの話ではありません。悲劇です。
トランプ勝利後、ノースカロライナ州ダーナムの壁に大書された落書きは「BLACK LIVES DON"T MATTER AND NEITHER DOES YOUR VOTES(黒人の命は大事じゃない。黒人の票だって同じだ)」というものでした。それは英語の文法的には本当は「Neither DOES your votes」ではなくて「Neither DO your votes」とすべきところです。
その愚かしさの持つ悲しさ。そしてそれを「愚かしい」と指摘できてしまう「知」の「上から目線」が彼らを怒らせた原因でもあるという、堂々巡りの「鶏と卵」です。どちらもがどちらもの原因であり結果であるという、種としての人間の「知」の限界です。
内戦状態のようなこの分断は、実はそんな怒りと怒りのぶつかり合いでは解決しません。大切なのは、政治的な民主主義と釣り合う、何にも増しての民主的な経済、そして民主的な情報共有と理解だったのです。