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January 10, 2018

『火と憤怒 Fire and Fury』

そもそもどこの「精神的にとても安定した天才」が自分のことを「精神的にとても安定した天才だ」と言うだろうか、という疑義がまずあるものですから、この本自体の信憑性への細かな疑問がすっ飛ばされて、とにかく「さもありなん」で読み進んでしまうのがこの本の怖いところです。とにかくKindle版で購入して、ざっと一通り最後まで読んでみました。

いみじくもセクハラ辞任したFOXニュースの元CEOロジャー・アイルズがトランプに関して冒頭部分でこう語っています。「あいつは頭を殴られても、殴られたと分からずに攻撃し続ける」。アイルズはトランプのそんな「恥知らずさ」が好きなのだそうです。そう、この『火と憤怒』(もちろんこの題名はトランプによる北朝鮮への脅し文句から取っています)は、トランプの非常識と破廉恥と無知ぶりの暴露を欲している人々に、それらを惜しみなく与えるように書かれています。だから驚きよりも「やっぱり」と思ってしまう。だいたい、大統領になんかなりたくないんじゃないか、という話は選挙前にこのコラムでもさんざん書いてきましたし、政権発足後の政権内の人物関係の軋轢も、既に知っている文脈から外れていません。もっとも、この本には脚注も出典も引用元も書いていないので、まるで見ていたような描写は一体どういうものなのか引っかかりはするのですが。

著者のマイケル・ウルフはニューヨーク・マガジンやハリウッド・リポーター誌などで業界ウラ話的なコラムを書いていた人です。私の知人で出版事情に詳しい版権エージェントの大原ケイさんが、そのウルフが選挙期間中からやたらとトランプを持ち上げる記事を書くのを変だなあと思っていたそうです。それもこれも彼がトランプ政権に食い込むしたたかな作戦だったようで、実際、彼はそんな記事が気に入られてトランプと知り合い、ホワイトハウスでは大統領執務室のあるウエストウィングで「壁のハエ」になれるほどどこでも出入り自由、雑談自由だったと取材の舞台裏を明かしています。大原さんは、トランプ政権のスタッフにしても彼のことを知っていたらヤバイとわかりそうなものだけど、政権内で本を読むのはスティーブ・バノンぐらいだったから気づかれなかったのだろうと呆れています。

かくして暴露された内輪話は、数々の細かな事実誤認はあるものの、イヴァンカが解説したあの髪の秘密とか、メラニアを「トロフィーワイフ」と呼んではばからないとか、毒殺を恐れて歯ブラシには触らせないとかマクドナルドしか食べないとか、あるいは合衆国憲法のことも共和党下院議長だったジョン・ベイナーの名前も知らなかったとか、さらには友人の妻を寝取るためにわざとその友人と浮気話をして、それをその妻にスピーカーフォン越しに聞かせたとか、それはそれは唖然とする話ばかりです。

一方で反ユダヤのバノンがジャレッド・クシュナーとどう折り合っていたのかが不思議だったのですが、案の定ジャレッドとイヴァンカの夫婦を民主党支持のリベラルなバカだと非難して「ジャーヴァンカ」とまとめて呼んでいたとか、バノンがジョン・ケリーらを軍人官僚と呼んで毛嫌いしていたとか、政権スタッフたちのそれぞれの悪口の応酬も書かれていて、だから1年も経たないうちに主要スタッフの30%が辞めてしまうという機能不全状態なのだなと、妙に納得するようにもなっています。

政権としてもよほどこの本を恐れているのか、というか言い返せねば気が済まないトランプの性格を忖度してか、上級政策顧問スティーヴン・ミラーが先日、CNNに登場してこの暴露本を「ガーベージ作家によるガーベージ本」と呼んでヒステリックにトランプ擁護をまくし立てていました。ミラーのセリフは「24時間政権攻撃してるんだから3分だけこちらの言い分を話させろ」というものですが、その3分間は同じことの繰り返しで、結局司会のジェイク・タッパーにマイクを切られてしまいました。しかしそのまま番組が終了しても退席せず、結局セキュリティによって強制排除されたそうです。32歳で若いとはいえ、あまりにも拙く幼い。まあ、政治の素人みたいなもんで、政権がたち至らなくなったら自分の行く先も危うくなる身の上、必死であることはわかりますが。

けれどやや不可解なのはこの暴露本の主要部分を構成したスティーヴ・バノンです。発売から3日経ってやっと自分の話したことの「謝罪」と「後悔」を口にするのですが、部分的に誤った引用があるというもののデタラメだとは言わないのです。トランプがフェイク・ブックだとわめきたてても、このバノンの態度がこの本に一定のクレディビリティを持たせてしまっています。バノンは政権をクビになってからもトランプをは毎日連絡を取り合っているとか、100%支持しているとか、先月は日本に来てもそう言っていましたが、殊勝なふりをして実はこの暴露話は政権崩壊を狙っているのではないかとも勘ぐられるほどです。まあ、どうでもいいんですけど。

というか、バノン、このせいでブライトバートの資金スポンサーからも見限られ、あるいはブライトバート自体をも追われかねない状況です。政権崩壊よりも自らが崩壊しそう。

そのバノンがこの本の最後のところでも再び登場してきます。彼の見立てるトランプ政権の今後は、モラー特別検察官チームが弾劾に追い込む確率が33.3%、修正憲法25条、つまり職務遂行できない(精神の不安定?)として排除される前にトランプが自ら辞任する確率が33.3%、どうにか1期を終えるのが33.3%(しかし2期目はない)と見ている、とこの本は締めくくっているのです。

はてさてどうなることやらのトランプ政権2年目の新年の幕開けです。

January 04, 2018

性と生と政の、聖なる映画が現前する

新年最初のブログは、先日試写会で観てきた映画の話にします。『BPM ビート・パー・ミニット(Beat Per Minute)』。日本でも3月24日から公開されるそうです。パリのACT UPというPWH/PWA支援の実力行使団体を描いたものです。元々はニューヨークでエイズ禍渦巻く80年代後半に創設された団体ですが、もちろんウイルスに国境はありません。映画は昨年できた新作です。2017年のカンヌでグランプリを獲ったすごいものです。私も、しばらく頭がフル回転してしまって、言葉が出ませんでした。やっと書き終えた感想が次のものです。読んでください。そしてぜひ、この映画を観ることをお薦めします。

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冒頭のAFLS(AGENCE FRANCAISE DE LUTTE CONTRE LE SIDA=フランス対エイズ闘争局)会議への乱入やその後の仲間内の議論のシーンを見ながら、私は数分の間これはドキュメンタリー映画だったのかと錯覚して混乱していました。いや、それにしては画質が新しすぎるし、ACT UPミーティングのカット割りから判断するにカメラは少なくとも3台は入っている。けれどこれは演技か? 俳優たちなのか? それは私が1993年からニューヨークで取材していたACT UPの活動そのものでした。白熱する議論、対峙する論理、提出される行動案、そして通底音として遍在する生と死の軋むような鬩ぎ合い。そこはまさに1993年のあの戦場でした。

あの時、ゲイたちはばたばたと死んでいきました。感染者には日本人もいました。エイズ報道に心注ぐ友人のジャーナリストは日本人コミュニティのためのエイズ電話相談をマンハッタンで開設し、英語ではわかりづらい医学情報や支援情報を日本語で提供する活動も始めました。私もそれに参加しました。相談内容からすれば感染の恐れは100%ないだろう若者が、パニックになって泣いて電話をかけてくることもありました。カナダの友人に頼まれて見舞いに行った入院患者はとんでもなくビッチーだったけれど、その彼もまもなく死にました。友人になった者がHIV陽性者だと知ることも少なくなく、そのカムアウトをおおごとではないようにさりげない素振りで受け止めるウソも私は身につけました。感染者は必ず死にました。非感染者は、感染者に対する憐れみを優しさでごまかす共犯者になりました。死はそれだけ遍在していました。彼も死んだ。あいつも死んだ。あいつの恋人も死んだ。みんな誰かの恋人であり、息子であり、友だちでした。その大量殺戮は、新たにHIVの増殖を防ぐプロテアーゼ阻害剤が出現し、より延命に効果的なカクテル療法が始まる1995年以降もしばらく続きました。

あの時代を知っている者たちは、だからACT UPが様々な会合や集会やパーティーや企業に乱入してはニセの血の袋を投げつけ破裂させ、笛やラッパを吹き鳴らし、怒号をあげて嵐のように去って行ったことを、「アレは付いていけないな」と言下に棄却することに逡巡します。「だって、死ぬんだぜ。おまえは死なないからそう言えるけど、だって死ぬんだぜ」というあの時に聞いた声がいまも心のどこかにこびりついています。死は、あの死は、確かに誰かのせいでした。「けれどすべて政府のせいじゃないだろう」「全部を企業に押し付けるのも無理があるよ」。ちょっとだけここ、別のちょっとはこっち──そうやって責任は無限に分散され細分化され、死だけが無限に膨張しました。

誰かのせいなのに、誰のせいでもない死を強制されることを拒み、あるいはさらに、誰かのせいなのに自分のせいだとさえ言われる死を拒む者たちがACT UPを作ったのです。ニューヨークでのその創設メンバーには、自らのエイズ支援団体GMHCを追われた劇作家ラリー・クレイマーもいました。『セルロイド・クローゼット』を書いた映画評論家ヴィト・ルッソもいました。やるべきことはやってきた。なのに何も変わらなかった。残ったのは行動することだったのです。

そう、そんな直接行動主義は、例えばローザ・パークスを知らないような者たちによって、例えば川崎バス闘争事件を知らないような者たちによって、どの時代でもどの世界でも「もっと違う手段があるんじゃないか」「もっと世間に受け入れられやすいやり方があるはずだ」との批判を再生産され続けることになります。なぜなら、その批判は最も簡単だからです。易さを求める経済の問題だからです。ローザも、脳性麻痺者たちの青い芝の会も、そしてこのACT UPも、経済の話をしているわけではなかったのに。

「世間」はいちども、当事者だった例しがありません。

この映画には主人公ショーンとナタンのセックスシーンが2回描かれています。始まりと終わりの。その1つは、私がこれまで映画で観た最も美しいシーンの1つでした。そのシーンには笑いがあって、それはセックスにおいて私たちのおそらく多くの人たちが経験したことのある、あるいは経験するだろう笑いだと思います。けれどそれはまた、私の知る限りで最も悲しい笑いでした。それは私たちの、おそらく多くの者たちが経験しないで済ませたいと願うものです。それは、愛情と友情を総動員して果てた後の、どこにも行くあてのない、笑うしかないほどの切なさです。時間は残っていない。私たちは、その悲しく美しい刹那さと切なさとを通して性が生につながることを知るのです。それが政に及び、それらが重なり合ってあの時代を作っていたことを知るのです。

彼らが過激だったのはウイルスが過激であり、政府と企業の怠慢さが過激だったからです。その逆ではなかった。この映画を観るとき、あの時代を知らないあなたたちにはそのことを知っていてほしいと願います。そう思って観終わったとき、ACT UPが「AIDS Coalition to Unleash Power=力の限りを解き放つエイズ連合」という頭字語であるとともに、「Act up=行儀など気にせずに暴れろ」という文字通りの命令形の掛詞であることにも考えを及ばせてほしいのです。そうして、それが神々しいほどに愛おしい命の聖性を、いまのあなたに伝えようとしている現在形の叫びなのだということにも気づいてほしいのです。なせなら、いまの時代のやさしさはすべて、あの時代にエイズという禍に抗った者たちの苦難の果実であり、いまの時代の苦しさはなお、その彼ら彼女たちのやり残した私たちへの宿題であるからです。この映画は監督も俳優も裏方たちもみな、夥しい死者たちの代弁者なのです。

エンドロールが流れはじめる映画館の闇の中で、それを知ることになるあなたは私と同じように、喪われた3500万人もの恋人や友人や息子や娘や父や母や見知らぬ命たちに、ささやかな哀悼と共感の指を、静かに鳴らしてくれているでしょうか。

【映画サイト】
http://bpm-movie.jp/


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