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February 22, 2018

酒とワインと和食と洋食と

あのね、今日はちょっと蘊蓄を。NYに24年も住んでた身として、その間の日本の変わり具合もNYの変わり具合も、大変なものでした。で、何が変わったかというその1つが日本酒です。

これまでいろんな日本の醸造元の経営者たちともお会いする機会があって、そんで話してきたんですが、2000年以降ごろからでしょうかね、日本酒が欧米で飲まれるにはどうすればいいんでしょうね、ということをよく聞かれてたわけです。

かつてはジャパニーズ・レストランにしか、それもマスプロダクトの大衆酒しかなかった日本酒ですが、今ではすっかりNYに馴染んじゃって、和食店に行けば醸造元の大小を問わず様々な銘柄を見つけることができるし、フランス料理店でも珍しい日本酒を揃えるソムリエも増えました。まあ、結局日本酒はそうやって「欧米で飲まれる」ようにはなったのですが、ところが日本酒とワインでは本来、決定的、本質的に違うんです。

その違いというのは象徴的に、日本語で「酒を飲みに行こう」という言い方に表れています。「酒を飲む」といっても、「飲む」ためにはそのお店に様々な肴が用意されているのが普通です。ところが英語で「飲みに行こう」と言ったときにはだいたいはバーで、つまみはほとんどありません。あったとしてもバッファロー・ウィング(鶏の手羽元を揚げたり煮込んだりして酸っぱ辛く味付けた軽食)やフレンチフライくらいです。ナッツとかもあるけど。

日本では「酒を飲む」は「メシを食う」に通じます。つまり、そこでは料理は酒を飲むためにあります。それはご飯でも同じ。ご飯を食べるために他の料理がある。そして酒もご飯も「お米」です。様々な料理はその2つの「米」のために捧げられる。すべての料理は、お米を食べるためにこそ用意されるのです。そしてそのお酒、ご飯という2つの形態のお米は、自分のすぐ前、食卓の一番近いところに置かれます。それは紛うことなく、それこそが食事の主役だということです。

ところが西洋料理店で自分の一番前に置かれるのは、肉や魚やスープやサラダといった「他の料理」です。ご飯に当たるパンは左上ですし、お酒に当たるワインは右上です。これはどう見ても、その「料理」を食べるためのつなぎに、パンやワインが脇にある、という位置関係です。

つまりこういうことです。和食と洋食では、主客が逆転しているのです。日本では主食たる「お米」が目の前にある。西洋では主菜たる「料理」が目の前にある。ちなみに、欧米には「主食」という概念はありません。昔々、中学校で「私たち風には米を主食にしている」という日本語を英語にする例文があって、そこでは「We live on rice.」というふうに訳されていました。でもこれ、to live on って「主食」っていう意味じゃないですよね。 rice に乗っかって(頼って)生きている、という意味です。

でも、そんな感じの食べ物はアメリカにあるかなあ、何かなあ? と考えたのですが、それはパンじゃないし、肉でもない。主菜 main dish というのはあるけど、それはいつも食べる具体的な食材のことではないし、あくまで分類としての「主菜」です。日本語の「主菜」という言葉自体、これも「メイン・ディッシュ」からきた翻訳語でしょうね。日本だと「おかず」なんですけど、「おかず」に当たる「一汁一菜」はご飯をメインと考えた場合の、その添え物のことですから、日本の食卓では「主菜」にはなり得ないんですよね。「主菜」とは言っても、それは「おかず」の中でのメインであって、そもそも「おかず」ってのは「お数」のことであり、その他「数々」の副菜、ということで、「副菜」の中では「主=メイン」ではあっても、全体の食事の中の「主」というわけではないのです。格が違う。

「和食と洋食では主客が逆転している」と書きましたが、つまり和食の「主」はお米であるご飯やお酒。一方で洋食での「主」は数々の「おかず」で、そこでは酒類は「主」たるおかずをスムーズに楽しむためのお口潤しの添え物=「従」なる存在なのです。

ですので、日本酒が欧米でワインのように飲まれるためには、ワインのような「従」の地位に行かなければならなかった。つまり日本酒は「お米」=「主」であることをやめなければならなかったのです。

そのために日本酒はどんどんと精米を進め、お米を削りに削って吟醸、大吟醸へと変身しました。それは「お米」くささを捨て、「まるでワインのような」果実香を纏うことでした。つまり「お米」から「果実」に変わることで自ら主役の座を降り、その場所を「主菜」たちに明け渡したのです。それが今の海外での日本酒ブームの、あまり語られない、というかほとんど気づかれていない、舞台裏の謎解き物語です。

とは言え最近日本に帰ってきて気づいたのですが、そんな一時の大吟醸ブームの方向性に「日本酒らしさ」が失われていると感じた造り手が少なからずいたのでしょう、日本での日本酒はここ5年、10年で、海外での志向とは逆に再び「お米らしさ」を取り戻しているような気がします。雑味を消し去りながらもきちんと「日本酒」の日本酒らしさを取り戻した味のものが多くなっている。やはりいろんな酒がなくては面白くありませんからね。

もっとも、それが海外で浸透するためには、今度は本当にお酒が食卓での本来の位置、つまり「すぐ手前」に戻るような、飲み方、食し方自体の日本復帰を紹介することになるのかもしれません。そしてそれは、茶道のお茶が Tea ではなく日本のお茶として浸透しているように、きっと可能だと思います。

というわけでうんちく話は終わりますが、最後にもう1つお役立ち蘊蓄情報を。

先ほどパンは左上、ワインは右上と書きましたが、円卓で座っているとどちらが自分のパンかワインかわからなくなります。そんな時は左右の手でそれぞれ指を伸ばし、そこで親指と人差し指で丸を作ってください。左手は「b」の字、右手は「d」の字の形になりませんか? 「b」はブレッドの「b」、「d」はドリンクの「d」です。その手の先にあるのがあなたのパンとワインです。

February 21, 2018

不信と怯えの愚かしさ

大統領選を混乱させた罪などで13人のロシア人とロシアの3企業を起訴したことや、自分の選対副本部長を務めたリック・ゲイツがもうすぐ正式に司法取引に応じるだろうことが報じられ、トランプは先週末にまた怒涛の21連発癇癪ツイートを炸裂させました。さらにFBIを「ロシア疑惑に時間を使い過ぎ」てフロリダの高校乱射事件を防げなかったと批判するに至っては、当の高校の生徒の「FBIを責めるな。これはFBIの問題ではなく銃撃犯の問題だ。それにFBIの責任者はあなたではないか」という指摘で十分でしょう。

モラー特別検察官チームによるロシア疑惑を中心とする捜査は大統領選への選挙介入が今回初めて具体的な「罪状」として明らかになるなど、いろいろなことが同時進行していてついには今日は娘婿ジャレド・クシュナーのビジネスとの利益相反までもがニュースになっていました。いろいろ面倒なのでそれらはまとめて別の機会に書きます。今回はヴァレンタインズ・デーに起きたフロリダの乱射事件に関してです。

現場となったパークランドは州南東部、フォート・ローダーデイルに近い比較的リベラルな土地柄で、「フロリダで最も安全な街」のはずでした。その高校もマージョリー・ストーンマン・ダグラスという20世紀の偉大な環境保護家でジャーナリストかつフェミニストの名を冠した学校で、事件後の生徒たちの発言も実に知的で鋭い主張を含むものでした。彼らは3月24日にワシントンや全米大都市で大規模な銃規制デモを呼びかけるなど、全米ライフル協会(NRA)とその周辺政治家たちへ、高校生らしい直截的な正義感に溢れた厳しい批判を続けています。ちなみに大統領選ではNRAら銃ロビーはトランプ支援に3040万ドル(33億円)以上を費やしました。下院議長のポール・ライアンには17万ドル(1800万円)以上のカネが流れています。

何度も書いていますが、アメリカで銃規制が進まないのはこうしたNRAの政治圧力もありますが、その根幹には修正憲法第2条の「銃を持つ権利」の下に、国家への不信と、他者への怯えがあるからです。前者は建国の建前ですが、問題なのはむしろ、建国過程の本音とも言える後者の心理です。

アメリカは基本的に他者の土地を奪って作った国です。警察力もなく自分で守らねばならなかった家や命です。現在だって、中西部や南部の広大な田舎では自分の命は自分で守る、というか余所者は疑ってかかるのが普通でしょう。警察を呼んだってはるかかなたからいつ来てくれるかわからない。コミュニティが守ってくれるのを待つわけにもいかない。そうすると生き方の基盤に、どうしたって自分は自分で守る、という姿勢が染み付くのです。そこでは自分は銃と一体化しています。銃を持ってないと裸でいるみたいな気分だと聞いたこともあります。私たちに置き換えればさしずめ携帯電話とか財布を持たずに外出しちゃったような、そんな身近な、でも実に深刻な孤立無援の不安とでもいえばいいでしょうか?

銃社会に慣れるというのはそういうことなのかもしれません。そうやってアメリカには3億丁もの銃が溢れ、年間1万人以上が銃で死ぬのです。

ところで、ひとつ気づきませんか? アメリカでの銃の蔓延は実は世界の軍拡競争と同じ原理なのです。他国への不信と怯えとが基となっていくらでも軍備を拡大する。安全を求めながら結局は他者も鏡写しに同じ安全を求めて、結果、互いに武器を溜め込んで一触即発の破滅の危機を招いてしまう「安全保障のジレンマ」というやつです。軍備というものは需要と供給の法則に外れて、実際の需要ではなく恐怖の妄想で際限なく供給されるのです。そのうちに何百回も地球を破壊できるような核兵器が溜まってしまって、人類はやっと大型の戦略核だけでも減らそうという気になった。1990年代からのSTART(Strategic Arms Reduction Talks/Treaty=戦略兵器削減交渉/条約)というやつがそれです。

北朝鮮の核開発も、遅ればせながら同じ自分の安全を求める「不信と怯え」が動機なのです。銃を持つ権利を謳うアメリカ人が、北朝鮮におまえは武器を持つなと非難する資格は本当はありません。言えることはただ「むやみな不信と怯えは愚か者の落とし穴だ」という、アメリカ自らの現状を憂える自戒の言葉のはずです。

おかしなことが起きています。銃規制を進めようとしたオバマ政権下では、自分の銃が取り上げられてしまうと怯えた人たちがこぞって銃を購入して販売数はうなぎのぼりでした。ところがそれを引き継ぐはずのヒラリーではなくトランプ政権の誕生で人々は安心したのか、逆に(いつでも買える)銃を買わなくなってしまった。そんな時に世界で最も古い歴史を持つ銃器メーカーの1つ「レミントン」が破産申請をする予定だというニュースが伝わりました。今回の高校乱射事件の前日のことです。スミス&ウェッソンを抱えるアメリカン・アウトドア・ブランズやスターム・ルガーといった企業の競合するアメリカの銃器業界は、トランプの大統領就任決定以降、売り上げの低迷に直面しているのです。

この点でもアナロジーが成立します。軍備増強を進めるトランプ政権は国防費を当初予定よりも大きく7兆円(13%)ほども増やして70兆円規模(国防費だけで日本の国家予算にも匹敵する額です)にする計画です。軍拡を経済拡大と結びつける共和党の伝統的な手法ですが、アメリカが軍拡をすると同盟国は安心して防衛費の伸びを抑える傾向になる。それはまずいのでトランプはアメリカの武器兵器(日本では安倍政権下でこれを「防衛装備品」と呼ぶ詭弁を使うようになりました)を買ってくれと懸命に売り込んでいる。昨年の最初のアジア歴訪でも、トランプと各国首脳との会談の主題は「北朝鮮」を二の次にしてまずはアメリカの武器の売り込みでした。アメリカがレミントンのようになっては困るのです。

そうして際限なく世界中に「銃」が行き渡ることになるのです。

それでも人類はやっと戦略核の削減に動き出していると書きました。これは、銃規制でいえば強大銃器つまり攻撃用ライフルや自動小銃の規制に当たります。今回も使われたAR-15のような大型で強力な銃への規制です。そもそも、心に問題を抱えた19歳がそんな攻撃用ライフルを簡単に買えちゃうなんて、どうしたっておかしいでしょう、という話です。それを規制しよう、厳格化しようというのは実に真っ当な対応の仕方ではありませんか? ところがそれすらNRA周辺は蟻の一穴になると「怯え」るのです。そんなバカな、でしょう?

人類は戦略核の愚かさに気づいたのに、アメリカは分不相応な強大銃器の所持許容の愚かさに気づいていない。いや逆に8年ぶりの国防政策「核態勢見直し(Nuclear Posture Review)」で「使える核=低出力核兵器」を増強すると明言した大統領です。この力任せ、力自慢、威丈高の元を質せば、そこに北朝鮮と同じ、武器を誇示しなければ不安でしょうがないという「怯え」があることは明らかなのです。

私たちは、この「怯え」を克服しない限り軍縮はできません。銃規制もできない。「怯え」を克服するのはそして、理性と理性を基にした相手とのコミュニケーションに頼るしかないのです。そこに「怯え」に替わる新しい生き方の共通基盤を構築するしかないのです。それがなければ人間は常に「怯え」の下の「安全保障のジレンマ」に陥ることを繰り返すしかないのです。そんな無限ループが甚だしく愚かなことであるのはわかっているはずなのに、さて、人類はその呪縛を越えられるほどに賢いでしょうか?

少なくともマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校の生存者高校生たちは、そのループを断ち切るために賢くあろうと懸命に訴えているように見えます。