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May 16, 2018

『君の名前で僕を呼んで』試論──あるいは『敢えてその名前を呼ばぬ愛』について

これは男性間の恋愛感情に関する映画です。その恋愛感情に対する是非はあらかじめ決まっていて、そこに向かって進んでゆくストーリーになっています。この映画は、その答えを提示したかったがための映画かもしれません。その答えというのは、最後に近い、エリオが一夏の別れを経た部分で、父親が彼に向けて説く「友情」あるいは「友情以上のもの」と呼んだこの恋愛感情への是認、肯定です。この映画の影の主人公は、その答えを差し出してくれるエリオのこの父親と言ってもよいかもしれません。

まだ原作を読んでいないのでこれが原作者の意図なのか、あるいは脚本を書いたジェイムズ・アイヴォリーの企図なのかじつは判断しかねるのですが、しかしいずれにしてもこれを映画の中でこういう形で提示しようとアイヴォリーが決めたのですから、アイヴォリーの思いであるという前提の上で考えていきましょう。この父親は、アイヴォリーです。だからこの映画の影の主人公も、じつはアイヴォリーなのです。

映画の設定は1983年の夏、北イタリアのとある場所。ご存知のようにJ.アイヴォリーは1980年代に『モーリス』という映画の脚本を書き、自ら監督しました。こちらはE.M.フォスターが1914年に執筆した同性愛小説が原作です。

片や1900年代初頭を舞台に1987年に製作された『モーリス』。
片や1983年を舞台に2017年に製作された『君の名前で僕を呼んで』。

この2つの時代、いや、正確には4つの時代は、とても違います。違うのは、先ほど触れた「男性間の恋愛感情」への是非の判断です。20世紀初頭は言うまでもなく男性間の恋愛は性的倒錯であり精神疾患でした。オスカー・ワイルドがアルフレッド・ダグラス卿との恋愛関係で裁判にかけられ、有罪になったのはつい20年ほど前、1895年のことでした。20世紀初頭、E.M.フォスターはもちろんそれを深く胸に(秘めたトラウマとして)刻んでいたはずです。一方で『モーリス』が作られた1980年代半ばはエイズ禍の真っ最中です。『モーリス』には、その原作年、製作年のいずれにおいても、男性間の恋愛を肯定的に描く環境は微塵もなかった。

対する『君の名前で〜』の1983年は、かろうじて北イタリアの別荘地にまでエイズ禍がまだ届いていなかったギリギリの時代設定です。聞けば原作では時代設定が1987年だったのを、アイヴォリーが83年に前倒ししたのだとか。男性間の恋愛が、秘めている限りまだ牧歌的でいられた時代。まさにエイズ禍の影を挿し挟みたくなかったがゆえの時代変更かもしれません。そして2017年という製作年は、もちろん欧米では同性婚も認められた肯定感のプロモーションの時代です(おそらく企画段階ではトランプの登場も予測されていなかったはずです)。

アイヴォリーは、この『君の名前で〜』によって、『モーリス』(の時代)には描けなかった「男性観の恋愛感情」への肯定感を、(『モーリス』製作の後でいつの間にかゲイだとカミングアウトしていた身として)自分の映画製作史に上書きした(かった)のだろうと思うのです。

もっとも、この映画には『モーリス』の上書き以上のものがあります。アイヴォリーは同性愛映画の名作の手法をさりげなく総動員させています。いたるところに散りばめられている『ブロークバック・マウンテン』へのオマージュ、そして『ムーンライト』のタイムライン。

アイヴォリーの(あるいは監督のルカ・ グァダニーノの)描いた「肯定感」の醸造法は『ブロークバック』からの借用です。『ブロークバック』ではエニス(ヒース・レッジャー)とジャック(ジェイク・ジレンホール)の逢瀬にはいつも水が流れていました。大自然の水辺という清澄な瑞々しさが彼らの関係を保障していたのです。一方でエニスとその妻アルマ(ミシェル・ウィルアムズ)の情交は常に埃舞うアメリカの片田舎での、軋むベッドの上でした。

それは『君の名前で〜』に受け継がれています。エリオとオリヴァーはいつも別荘のプールで泳ぎ、その脇で本を読み、思索をして過ごします。その水辺でエリオのオリヴァーに対する思いはスポンジのように(!)膨らみ、やがて初めて辿り着くキスはエリオが「秘密の場所」と呼ぶ清冽な池のほとりです。一方でエリオとマルシアの、成功した2度目の性交は使われていない物置部屋の、やはり埃舞い上がるマットレスの上でした。

それにしても男性観の恋愛への肯定感を醸成するために『ブロークバック』でも『君の名前で〜』でもこうして女性との関係性をそれとなく汚すのはたとえ対比とは言えなんとも不公平というかズルい気がするのですが……。

ズルいのはもう1つ、エリオの17歳という年齢です。男性なら(あるいは女性でも)わかると思いますが、17歳の男の子というのは頭の中まで精液が詰まっているような、身体中がそんな混乱した性の海に浸かっています。意識するしないに関わらず何から何までもが性的なものと関係していて、時に友情と友情以上のものとの狭間もわからなくなったりします。自分の欲望の指向するものがなんだかわからなくなって、その人が好きなのか、その人とのセックスが好きなのか、それともセックスそのものが好きなのかもわからなくなって、自分は頭がおかしいのかと本当に気が狂いそうになったりもするのです。

だって、アプリコットですよ。桃ほどに大きなアプリコットを相手に自慰をして(そしてそれは日本で巷間言われるコンニャクとか木の股とかとは違ってとてもお尻=肛門性交に似ているのです)、その後で眠ってしまった自分のおちんちんをフェラしてきたオリヴァーに「何をしたんだ?」と冗談混じりに訊かれるわけです。エリオは真剣に打ち明けます。「I am sick(僕はビョーキだ/頭がおかしい)」と。

もうそういう年齢を過ぎているオリヴァーはその告白の深刻さを真に受けません。「もっと sick な(気持ち悪い、頭の変な)ことを見せてあげる」と言ってそのアプリコットを食べようとまでする。そこでエリオは本当に泣くのです。「Why are you doing this to me?(なんで僕にそんなことをするんだ)」。それはオリヴァーにとってはお遊びですが、17歳の真剣に悩むエリオにとっては自分の「ビョーキ」を当てこする「辱め」「ひどい仕打ち」なのです。彼はそれほど自分のことがわからなくなっている。そしてオリヴァーの胸に顔を埋めながら(でしたっけ?)「I don't want you to go....(行かないで)」と絞り出すように呟くのです。

この「17歳」の告白を、性的混乱として受け取るのか、性的決定として受け取るのか、その選択をアイヴォリーは表向き、観客に委ねているように見えます。というのも、この年齢的な局面は『ムーンライト』(2016年)にも描かれていましたから。

『ムーンライト』はシャイロンという1人のゲイ男性の少年期、思春期、そして成年期の3部構成で描かれ、ティーネイジャーの第2部で描かれるシャイロンは同級生のケヴィンとドラッグをやりながら(これも海辺で)キスをし、ケヴィンから手淫を受けます。シャイロンはその優しいケヴィンとの思い出を胸に、以後、第3部で筋骨隆々のドラッグディラーとなってケヴィンと再会したその時まで、誰とも触れ合わず、誰とも抱き合いもせずに生きていたのです。

私たちは過去の何かから変化して大人になっていくのではありません。過去の何かは大人になってもいつも自分の中にあります。まるでマトリョーシュカ人形のように、過去の何かの上に新たな何かを作り上げ、それが以前の自分に覆い被さって大きくなっていくのです。シャイロンはゲイですが、ケヴィンはゲイではありません。大人になった2人には本来ならあの青い月明かりの海辺での、思春期の関係性は戻ってこないはずです。けれど、いまのシャイロンの筋骨隆々のあの肉体の下に、おどおどした十代のティーネイジャーのシャイロンも生きていて、同時にマイアミでダイナーのシェフとして働く様変わりしたケヴィンの中にもその皮膚の何層か下にあの海辺のケヴィンが生きていて、そのケヴィンはまるでマトリョーシュカの一番上から何個かの人形を脱ぎ捨てるようにして、逞しい今のシャイロンの下にいるひ弱なシャイロンを抱きしめるのです。そう、私たちは私たちの中に、今も17歳の自分を飼っている。

十代のそれらは性的混乱なのでしょうか? あるいはそれは思春期に起こりがちな性的未決定なままの性の(そしてその同義としての愛の)横溢だったのでしょうか? アイヴォリーがその判断を観客に委ねるふうに提示しているのは、私はズルいと思います。ここから例えば、「これはゲイ映画ではない」という言説が生まれてきます。「これはLGBTの話ではなく、もっと普遍的な愛の物語だ」という、お馴染みのあの御託です。

実際、3月初めの東京での『君の名前で〜』の試写会では、試写後に登壇した映画評論家らが「僕はこの作品を見て、LGBTを全く意識しませんでした。普通の恋愛映画と感じました」「ブロークバックマウンテンは気持ち悪かったけど、この映画は綺麗だったから観易かった」「この作品はLGBTの映画ではなく、ごく普通の恋人たちの作品。人間の機微を描いたエモーショナルな作品。(LGBTを)特別視している状況がもう違います」云々と話していた、らしい(ネット上で拾った伝聞情報です)。

それはどうなんでしょう? どうしてそこまで「ゲイでない」と言挙げするのでしょう? まるでそれを強調することが、より普遍性を持った褒め言葉であるかのように。

私はむしろ、「17歳」は「ゲイでもあるのだ」と捉える方が自然だと思っています。精液が爪先から頭のてっぺんにまで充満しているような気分の、そして知らないうちにそれが鼻血になってのべつまくなし漏れ出てしまうようなあの時代は、混乱とか未決定とかそういうものではなくむしろ、すべての(変てこりんさをも含んだ)可能性を持ち合わせた年齢だと見据える。そこでは友情すらも性的な何かなのです。そう捉えることこそがありのままの理解なのではないか? 社会的規範とか倫理観とか制約とか、そういうものに構築された意味を剥ぎ取ってみれば、それも「ゲイ」と呼ぶことに、何の躊躇があるのでしょう?

いま90歳のアイヴォリー自身に、そこまでの肯定感があるのかはわかりません。アイヴォリーの分身であるエリオの父親のあの長ゼリフは、自らはその肯定感を得る前に身を退いてしまった後悔とともに語られます。この映画自体、「未決定」で「混乱」するエリオの自己探索の、一夏の出来事のように(表向き)作られてはいるのですから。

自己探索──それは冒頭の、エリオが目を止めるオリヴァーの胸元の、ダヴィデの星、六芒星のペンダントによって最初に暗示されます。それは自らのアイデンティティの証です。そしてそのペンダントの向こうには胸毛の生えた大人の厚い胸があります。オリヴァーは知的で、自分が何者かを知っていて、しかも胸毛のある大人です。それらは今のエリオにはないものです。オリヴァーは到着した最初の日に疲れて眠りたくて夕食をパスするような、礼儀知らずの不遜なアメリカ人として描かれます。それもエリオが持ち合わせていないものです。なんだか気に食わないけれどとても気になる存在として、エリオはオリヴァーに憧れてゆく。「自己」をすでにアイデンティファイしている(と見える)24歳のオリヴァーに惹かれるのです。

そう、これはエリオにとっては自己探索の映画でもあります。けれど視点を変えれば、これは実は、オリヴァーにとってはとても苦しい言い訳の映画であることもわかってくるのです。

それを象徴するのが「Later(後で)」という彼の口癖の言葉です。

なぜか?

オリヴァーがエリオに「Grow up. I'll see you at midnight(大人になれ。今夜12時に会おう)」と告げたあの初夜のベッドで、この映画のタイトルにもなる重要な言葉、「Call me by your name, and I call you by mine(君の名前で僕を呼んで。僕は僕の名前で君を呼ぶ)」と提案したのが、エリオかオリヴァーか、どちらだったのか憶えていますか?

これを「2人で愛を交わし、お互いの中に自分を差し出した関係において、君は僕で、僕は君なのだ」というロマンティックな意味だと捉えることは可能でしょう。そしてエリオにとってはもちろんそうだった。エリオはそういう意味だと受け取ったのだと思います。けれどオリヴァーにとって、この呼称の問題はそんなに単純にロマンティックなものではないのです。

この呼称はオリヴァーからの提案です。そしてそのオリヴァーは、すでに自己探索を終えたクローゼットのゲイ男性なのです。

この映画の早い段階で、オリヴァーはエリオの危うい感情に気づいています。初夜の後でいみじくも告白したように彼はあのバレーボールのとき、半裸のエリオの肩を揉んで「リラックス!」と言ったときに、すでに彼に狙いをつけていたのでした。さらに2人で自転車で街に行って、第一次世界大戦のピアーヴェ川の戦いの戦勝碑のところでエリオに告白されようとしたとき、それが何かを聞く前に「そういうことは話してはいけない」とエリオを制したのです。さらにさらに、その後のエリオの「秘密の場所」への寄り道でキスをしたとき、それ以上のことを拒んで自分の脇腹の傷の化膿のことに話を逸らしました。これらは自制心の表れではありません。これらは、自制心を失ったらどうなるかを知っているクローゼットのゲイ男性の恐怖心です。クローゼットのゲイ男性として、彼はその種の決定をいつも「Later」と言って先送りにしてきたのです。

それらの伏線となるのが、ピアーヴェの直前のシーンの、エリオの母親の朗読による16世紀フランスの恋愛譚『エプタメロン』のストーリーです。ドイツ語版しか見つからなかったその本は、ルネサンス期に王族のマルグリット・ド・ナヴァルによって執筆された72篇の短編から成る物語で、母親はその中から王女と若きハンサムな騎士の物語を英語に訳しながら読み聞かせます。騎士と王女の2人は恋に落ちるのですが、まさにその友情ゆえに騎士は王女にそのことを持ち出して良いのかわからない。そして騎士は王女に問うのです。「Is it better to speak or to die? (話した方がいいか、死んだ方がいいか?)」と。エリオは母親に自分にはそんな質問をする勇気はないと言います。けれど横でそれを聞いていた父親は(ええ、あの父親です)エリオに「そんなことはないだろう」と後押しするのです。

ちなみにエリオの父親はエリオのオリヴァーに対する友情以上の感情を「母さんは知らない」と言うのですが、母親はもちろん知っています。すべての母親は、もちろん息子のそのことを知っているのです(笑)。

この母親による『エプタメロン』の朗読の力(to speak or to die=まるでシェイクスピアのセリフのような「話すべきか、死ぬべきか」の命題)で、その直後のエリオはあのピアーヴェの戦勝碑のところでオリヴァーに告白しようと勇気を振るうわけです。告白の決心とともに、カメラは一瞬、頭上の胸懐の十字架を見上げるエリオの視線をなぞるように映します。そうしてからオリヴァーに向き合うエリオに対し、ところがすでにその素振りを察知しているオリヴァーは「そういうことは話していけない」と制止するのです。また Later と言うかのように。

これは自制心ではなく恐怖心だと書きました。なぜか?

ここに繰り返し現れる「話す/話さない」という命題は、ゲイへの迫害の歴史を知っている者には極めて重要かつ明白なセンテンスを想起させるのです。それは先でも触れたオスカー・ワイルドの有名なフレーズ、「The love that dare not speak its name」です。「敢えてその名を言わぬ愛」──ワイルドは、ダグラス卿との男色関係を問われた1895年の裁判で自分たちの恋愛をそう形容し、結果、2年間の重労働刑に処せられたのでした(このことは結局、オスカー・ワイルドの名声を破壊し、彼は悲惨な晩年を送ることになるのです)。知的なオリヴァーがワイルドの人生の恐ろしい顛末を知らないはずがありません。しかも1983年は、北イタリアの別荘地でこそエイズの影はありませんが、オリヴァーのアメリカではすでにレーガン政権の下、エイズ禍の表面化と拡大と、それに伴う大々的なホモフォビア(同性愛嫌悪)が進行していました。ゲイであることはまさに「話すか、死ぬか」の二者択一でしかないほどの恐怖でした。彼がクローゼットである事実は、誰もがクローゼットに隠れていた時代を示唆しているにすぎません。「敢えてその名を言う」者とは、つまりクローゼットからカムアウトするゲイたちのことです。そしてあの時代、彼らはほぼ、「エイズ禍と闘う」という社会的な大義名分を盾としなければ敢えてその愛の名前など口にできなかったのです。

そう、「君の名前で僕を呼んで」と提案したのはオリヴァーです。それは実は「敢えてその名前を呼ばぬ愛」の方法なのです。相手の名前を呼べば、それが「同性愛」という名前のものだと知られてしまうからです。だから彼は自分の名前で相手の名前を代用させた……その底に流れているのは恐怖心なのです。エリオが母親から『エプタメロン』の話を聞かされたと話したときに、オリヴァーが、騎士が王女にその思いを話したのか話さなかったのか、その結果を妙に気にしたのもそのせいです。

ピアーヴェの戦勝碑のシーンから、エリオの心はオリヴァーに決めています。その時のエリオはいつの間にかオリヴァーのダヴィデの星のペンダントを自分のものにしています。自分のアイデンティティを選び取り、身に着けたのです。けれど肝心のオリヴァーがそこからビビり始める。だから「Trator! (裏切り者!)」と罵りたくもなるのです。なにせ、オリヴァーはエリオとの性的な場面ではまるで日常を転換するように普段は吸わないタバコを吸うのですから。あたかも酔わなければ性交できない弱虫のように。

ラストシーンに向かってまた『ブロークバック・マウンテン』が出てきます。ジャックが隠し持っていたエニスのシャツのように、エリオはオリヴァーが到着した初日に着ていた青いシャツも手に入れています。そしてとうとう帰米することになる前に、2人で旅行したベルガモでいっしょに緑濃い山に登るのです。そこには滝が流れてもいます。一心不乱にこの「ブロークバック・マウンテン」を駆け上がるエリオの後ろで、ところがオリヴァーは一瞬その足を止め、山と反対方向に向き直って遠くを見つめるのです。それが何を意味しているのか、そのとき彼が何を見ていたのか。もう言わなくてもわかりますよね。その年の冬、電話の向こうからオリヴァーはエリオに結婚することを告げます。彼女とはもう2年前から付き合っていたのだと。

そして最後の3分半の長回しがスタートします。エリオの顔には、彼が見つめている暖炉の炎の色が反射しています。それは赤く燃える彼の性愛の象徴です。その向こう、エリオの背後の窓の外には雪が降っています。そしてその雪とエリオの間に、ハヌカの食卓の支度をする家庭が介在しています。

この三層構造も、実は『ブロークバック』のラストシーンと呼応しています。時が経ち、老いたエニスのトレイラーハウスの中、そこにはエニスの性愛の象徴のブロークバック・マウンテンを写した絵葉書が貼ってありました。それが貼られているのはトレイラーハウスに置いたクローゼットの四角い扉でした。そしてクローゼットの横には窓があり、その窓からはうら寒い外の世界が見えていたのです。その三層構造。

エリオの見つめる炎、温かい室内、そして外の雪世界──アイヴォリーが提示したのは、『モーリス』で描けなかった肯定感だと最初に書きました。そのためにこの最後の三層構造は、『ブロークバック』のラストシーンの三層構造と1つだけ違っています。それは『ブロークバック』での「クローゼットの四角い扉」が、「温かい家庭」に置き換わっていることです。エニスの性愛を守ったのがクローゼットだったのに対し、エリオの性愛を守るのは家庭なのです。

『ブロークバック』のラストシーンは1983年の設定です。スタートは1963年でした。1963年からの20年間を引きずるエニスの破れなかった「クローゼット」。それをアイヴォリーはその同じ年の冬に「温かい家庭」に置き換えて、2017年からエリオを鼓舞しているのです。


****
註)まだ1回しかこの映画を観ていないので、記憶違いや細部に関して見逃している部分がいくつもあると思います。
例えば、半ばごろに登場するヘラクレイトスの『Cosmic Fragments』という本。これは福岡伸一さんも敷衍した「動的平衡」の考え方の土台である「万物は流転する」というテーゼの本です。「同じ川に2度と入ることはできない」という有名な譬え話に象徴されますが、これは私が持ち出した「マトリョーシュカ」の話と矛盾します。それはどう解決するのか、私にはまだわかりません。
もう1つ気になったのは、画面に何度か登場するハエです。あれは何なのでしょう? 確かエリオがオナニーをしようとするシーン、それと最後の長回しのシーンでもハエが映り込んでいました。あのハエに何か意味を持たせようとすると(いろんな可能性を考えて観ましたが、そのいずれも)変なことになります。その1つが迫り来るエイズ禍の影の象徴というものです。その読みは可能だけど、安易すぎるし表層的なホモフォビアにつながります。もしこのハエの映り込みが意図的ではないならば、あるいは意図的であったとしたらなおさらあれは無意味かつ有害ですので、事後の画像処理で消すべきじゃないかと強く思います。
あと、ヘーゲルの引用にどういう意味があるのかはまだ考えていません(笑)。

しっかし、本文には書かなかったけど、シャラメくん、あのオドオド感、行きつ戻りつ感、意を決した感、わけわかんなくなっちゃった感、こんなこと言っちゃった感、全てを自分の引き出しから出して、というか出せるんだから、すごい俳優だなあ。オスカーのノミネート宜なるかな、でありました。

January 10, 2018

『火と憤怒 Fire and Fury』

そもそもどこの「精神的にとても安定した天才」が自分のことを「精神的にとても安定した天才だ」と言うだろうか、という疑義がまずあるものですから、この本自体の信憑性への細かな疑問がすっ飛ばされて、とにかく「さもありなん」で読み進んでしまうのがこの本の怖いところです。とにかくKindle版で購入して、ざっと一通り最後まで読んでみました。

いみじくもセクハラ辞任したFOXニュースの元CEOロジャー・アイルズがトランプに関して冒頭部分でこう語っています。「あいつは頭を殴られても、殴られたと分からずに攻撃し続ける」。アイルズはトランプのそんな「恥知らずさ」が好きなのだそうです。そう、この『火と憤怒』(もちろんこの題名はトランプによる北朝鮮への脅し文句から取っています)は、トランプの非常識と破廉恥と無知ぶりの暴露を欲している人々に、それらを惜しみなく与えるように書かれています。だから驚きよりも「やっぱり」と思ってしまう。だいたい、大統領になんかなりたくないんじゃないか、という話は選挙前にこのコラムでもさんざん書いてきましたし、政権発足後の政権内の人物関係の軋轢も、既に知っている文脈から外れていません。もっとも、この本には脚注も出典も引用元も書いていないので、まるで見ていたような描写は一体どういうものなのか引っかかりはするのですが。

著者のマイケル・ウルフはニューヨーク・マガジンやハリウッド・リポーター誌などで業界ウラ話的なコラムを書いていた人です。私の知人で出版事情に詳しい版権エージェントの大原ケイさんが、そのウルフが選挙期間中からやたらとトランプを持ち上げる記事を書くのを変だなあと思っていたそうです。それもこれも彼がトランプ政権に食い込むしたたかな作戦だったようで、実際、彼はそんな記事が気に入られてトランプと知り合い、ホワイトハウスでは大統領執務室のあるウエストウィングで「壁のハエ」になれるほどどこでも出入り自由、雑談自由だったと取材の舞台裏を明かしています。大原さんは、トランプ政権のスタッフにしても彼のことを知っていたらヤバイとわかりそうなものだけど、政権内で本を読むのはスティーブ・バノンぐらいだったから気づかれなかったのだろうと呆れています。

かくして暴露された内輪話は、数々の細かな事実誤認はあるものの、イヴァンカが解説したあの髪の秘密とか、メラニアを「トロフィーワイフ」と呼んではばからないとか、毒殺を恐れて歯ブラシには触らせないとかマクドナルドしか食べないとか、あるいは合衆国憲法のことも共和党下院議長だったジョン・ベイナーの名前も知らなかったとか、さらには友人の妻を寝取るためにわざとその友人と浮気話をして、それをその妻にスピーカーフォン越しに聞かせたとか、それはそれは唖然とする話ばかりです。

一方で反ユダヤのバノンがジャレッド・クシュナーとどう折り合っていたのかが不思議だったのですが、案の定ジャレッドとイヴァンカの夫婦を民主党支持のリベラルなバカだと非難して「ジャーヴァンカ」とまとめて呼んでいたとか、バノンがジョン・ケリーらを軍人官僚と呼んで毛嫌いしていたとか、政権スタッフたちのそれぞれの悪口の応酬も書かれていて、だから1年も経たないうちに主要スタッフの30%が辞めてしまうという機能不全状態なのだなと、妙に納得するようにもなっています。

政権としてもよほどこの本を恐れているのか、というか言い返せねば気が済まないトランプの性格を忖度してか、上級政策顧問スティーヴン・ミラーが先日、CNNに登場してこの暴露本を「ガーベージ作家によるガーベージ本」と呼んでヒステリックにトランプ擁護をまくし立てていました。ミラーのセリフは「24時間政権攻撃してるんだから3分だけこちらの言い分を話させろ」というものですが、その3分間は同じことの繰り返しで、結局司会のジェイク・タッパーにマイクを切られてしまいました。しかしそのまま番組が終了しても退席せず、結局セキュリティによって強制排除されたそうです。32歳で若いとはいえ、あまりにも拙く幼い。まあ、政治の素人みたいなもんで、政権がたち至らなくなったら自分の行く先も危うくなる身の上、必死であることはわかりますが。

けれどやや不可解なのはこの暴露本の主要部分を構成したスティーヴ・バノンです。発売から3日経ってやっと自分の話したことの「謝罪」と「後悔」を口にするのですが、部分的に誤った引用があるというもののデタラメだとは言わないのです。トランプがフェイク・ブックだとわめきたてても、このバノンの態度がこの本に一定のクレディビリティを持たせてしまっています。バノンは政権をクビになってからもトランプをは毎日連絡を取り合っているとか、100%支持しているとか、先月は日本に来てもそう言っていましたが、殊勝なふりをして実はこの暴露話は政権崩壊を狙っているのではないかとも勘ぐられるほどです。まあ、どうでもいいんですけど。

というか、バノン、このせいでブライトバートの資金スポンサーからも見限られ、あるいはブライトバート自体をも追われかねない状況です。政権崩壊よりも自らが崩壊しそう。

そのバノンがこの本の最後のところでも再び登場してきます。彼の見立てるトランプ政権の今後は、モラー特別検察官チームが弾劾に追い込む確率が33.3%、修正憲法25条、つまり職務遂行できない(精神の不安定?)として排除される前にトランプが自ら辞任する確率が33.3%、どうにか1期を終えるのが33.3%(しかし2期目はない)と見ている、とこの本は締めくくっているのです。

はてさてどうなることやらのトランプ政権2年目の新年の幕開けです。

January 04, 2018

性と生と政の、聖なる映画が現前する

新年最初のブログは、先日試写会で観てきた映画の話にします。『BPM ビート・パー・ミニット(Beat Per Minute)』。日本でも3月24日から公開されるそうです。パリのACT UPというPWH/PWA支援の実力行使団体を描いたものです。元々はニューヨークでエイズ禍渦巻く80年代後半に創設された団体ですが、もちろんウイルスに国境はありません。映画は昨年できた新作です。2017年のカンヌでグランプリを獲ったすごいものです。私も、しばらく頭がフル回転してしまって、言葉が出ませんでした。やっと書き終えた感想が次のものです。読んでください。そしてぜひ、この映画を観ることをお薦めします。

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冒頭のAFLS(AGENCE FRANCAISE DE LUTTE CONTRE LE SIDA=フランス対エイズ闘争局)会議への乱入やその後の仲間内の議論のシーンを見ながら、私は数分の間これはドキュメンタリー映画だったのかと錯覚して混乱していました。いや、それにしては画質が新しすぎるし、ACT UPミーティングのカット割りから判断するにカメラは少なくとも3台は入っている。けれどこれは演技か? 俳優たちなのか? それは私が1993年からニューヨークで取材していたACT UPの活動そのものでした。白熱する議論、対峙する論理、提出される行動案、そして通底音として遍在する生と死の軋むような鬩ぎ合い。そこはまさに1993年のあの戦場でした。

あの時、ゲイたちはばたばたと死んでいきました。感染者には日本人もいました。エイズ報道に心注ぐ友人のジャーナリストは日本人コミュニティのためのエイズ電話相談をマンハッタンで開設し、英語ではわかりづらい医学情報や支援情報を日本語で提供する活動も始めました。私もそれに参加しました。相談内容からすれば感染の恐れは100%ないだろう若者が、パニックになって泣いて電話をかけてくることもありました。カナダの友人に頼まれて見舞いに行った入院患者はとんでもなくビッチーだったけれど、その彼もまもなく死にました。友人になった者がHIV陽性者だと知ることも少なくなく、そのカムアウトをおおごとではないようにさりげない素振りで受け止めるウソも私は身につけました。感染者は必ず死にました。非感染者は、感染者に対する憐れみを優しさでごまかす共犯者になりました。死はそれだけ遍在していました。彼も死んだ。あいつも死んだ。あいつの恋人も死んだ。みんな誰かの恋人であり、息子であり、友だちでした。その大量殺戮は、新たにHIVの増殖を防ぐプロテアーゼ阻害剤が出現し、より延命に効果的なカクテル療法が始まる1995年以降もしばらく続きました。

あの時代を知っている者たちは、だからACT UPが様々な会合や集会やパーティーや企業に乱入してはニセの血の袋を投げつけ破裂させ、笛やラッパを吹き鳴らし、怒号をあげて嵐のように去って行ったことを、「アレは付いていけないな」と言下に棄却することに逡巡します。「だって、死ぬんだぜ。おまえは死なないからそう言えるけど、だって死ぬんだぜ」というあの時に聞いた声がいまも心のどこかにこびりついています。死は、あの死は、確かに誰かのせいでした。「けれどすべて政府のせいじゃないだろう」「全部を企業に押し付けるのも無理があるよ」。ちょっとだけここ、別のちょっとはこっち──そうやって責任は無限に分散され細分化され、死だけが無限に膨張しました。

誰かのせいなのに、誰のせいでもない死を強制されることを拒み、あるいはさらに、誰かのせいなのに自分のせいだとさえ言われる死を拒む者たちがACT UPを作ったのです。ニューヨークでのその創設メンバーには、自らのエイズ支援団体GMHCを追われた劇作家ラリー・クレイマーもいました。『セルロイド・クローゼット』を書いた映画評論家ヴィト・ルッソもいました。やるべきことはやってきた。なのに何も変わらなかった。残ったのは行動することだったのです。

そう、そんな直接行動主義は、例えばローザ・パークスを知らないような者たちによって、例えば川崎バス闘争事件を知らないような者たちによって、どの時代でもどの世界でも「もっと違う手段があるんじゃないか」「もっと世間に受け入れられやすいやり方があるはずだ」との批判を再生産され続けることになります。なぜなら、その批判は最も簡単だからです。易さを求める経済の問題だからです。ローザも、脳性麻痺者たちの青い芝の会も、そしてこのACT UPも、経済の話をしているわけではなかったのに。

「世間」はいちども、当事者だった例しがありません。

この映画には主人公ショーンとナタンのセックスシーンが2回描かれています。始まりと終わりの。その1つは、私がこれまで映画で観た最も美しいシーンの1つでした。そのシーンには笑いがあって、それはセックスにおいて私たちのおそらく多くの人たちが経験したことのある、あるいは経験するだろう笑いだと思います。けれどそれはまた、私の知る限りで最も悲しい笑いでした。それは私たちの、おそらく多くの者たちが経験しないで済ませたいと願うものです。それは、愛情と友情を総動員して果てた後の、どこにも行くあてのない、笑うしかないほどの切なさです。時間は残っていない。私たちは、その悲しく美しい刹那さと切なさとを通して性が生につながることを知るのです。それが政に及び、それらが重なり合ってあの時代を作っていたことを知るのです。

彼らが過激だったのはウイルスが過激であり、政府と企業の怠慢さが過激だったからです。その逆ではなかった。この映画を観るとき、あの時代を知らないあなたたちにはそのことを知っていてほしいと願います。そう思って観終わったとき、ACT UPが「AIDS Coalition to Unleash Power=力の限りを解き放つエイズ連合」という頭字語であるとともに、「Act up=行儀など気にせずに暴れろ」という文字通りの命令形の掛詞であることにも考えを及ばせてほしいのです。そうして、それが神々しいほどに愛おしい命の聖性を、いまのあなたに伝えようとしている現在形の叫びなのだということにも気づいてほしいのです。なせなら、いまの時代のやさしさはすべて、あの時代にエイズという禍に抗った者たちの苦難の果実であり、いまの時代の苦しさはなお、その彼ら彼女たちのやり残した私たちへの宿題であるからです。この映画は監督も俳優も裏方たちもみな、夥しい死者たちの代弁者なのです。

エンドロールが流れはじめる映画館の闇の中で、それを知ることになるあなたは私と同じように、喪われた3500万人もの恋人や友人や息子や娘や父や母や見知らぬ命たちに、ささやかな哀悼と共感の指を、静かに鳴らしてくれているでしょうか。

【映画サイト】
http://bpm-movie.jp/


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August 09, 2017

遅ればせながら『この世界の片隅に』

映画『この世界の片隅に』が11日からニューヨークでもアンジェリカ・フィルムセンターなどで上映されます。ニューヨークだけではなく、サンフランシスコやロサンゼルスなどでも公開されるようですが、全米で何館での公開かはまだ定まっていないのか数字が出てきません。でも、イギリスの会社が欧米での配給権を買い取って、パリやロンドンでも映画祭などで好評を博しているようです。ニューヨークでも7月にジャパンソサエティで「Japan Cuts」という日本映画祭で最終日に上映され、260席が満席の人気だったと聞きました。アメリカで映画好きが参考にする映画評サイト「ロットゥン・トマト Rotten Tomato」では、評論家の評価総点が100%ポジティヴというものでした。何かしらネガティヴ評価があったりする中で、これはとても珍しいことです。

このアニメ映画は北海道に帰った今年初め、実は85歳になる母親を連れて雪の中を観に行ってきました。自称「老人性鬱病」の母親はこのところ外出もせず籠りがちで、戦争とはいえ主人公の「すずさん」と同じく自身の少女時代を描いた映画でも見せれば懐かしく元気になるのではないかと思ったのです。「すずさん」にはモデルがいて、その方は今もご存命で御年95歳と言いますから、母よりも10歳も年上ですが、母も13歳で終戦を迎えています。

ところで見終わった母の開口一番は「なんでこんなもの見なくちゃならないの」だったのでした。別につらい昔を思い出して不愉快だったという口調ではなく、ただアッケラカンと「ぜんぜん面白くなかった」と言うのです。「だって、みんな知ってる話なんだもの」と。

実を言うと私の感想も似たようなものでした。ものすごく評判の良いこの作品の、描かれるエピソードの一つ一つがすべて「知っていた話」でした。

戦死した遺体を回収できず、骨の代わりに石ころの入った骨箱だけが戦地から帰還してきたという話は、19歳の時に学生寮の賄いのおじさんに酒飲み話で聞かされて号泣しました。南方戦線でのジャングルの苛酷さやヒルの大きさは高校時代の友人のお父上から怪談のように聞かされ、防空壕での暗闇の生き埋めの恐怖や、特高や憲兵たちの人間とは思えぬ非情さは私の子供時代、トラウマになるほどに何度も何度も少年向け漫画やテレビで描かれていました。闇市や買い出し、食べ物の苦労は宴席で集まる親戚から笑い話のように聞かされましたし、米がなくて南瓜や豆や芋ばかり食べていたせいで、その3つは二度と口にしないと宣言していた年長の友人は4人はいます。大学で出てきた東京の池袋の駅には、あれは東口でしたか、いつも決まって片足のない傷痍軍人が白い包帯と軍服姿で通行人から援助を乞う姿がありました。いやそれ以前に、北海道の本家の玄関にもそんな人たちが何度も訪れてはお金を無心していたものでした。

戦争が狂気だという厳然たる事実は、そうして身にしみて思い知っていました。そんな狂気は何としてでも避けねばという平和主義はだから、理想論でも何でもなく戦後世代の私たちには確固たるリアリズムでした。

だから『この世界の片隅に』は、少なくとも母と私にはタネも仕掛けも知っている手品を見る思いでした。それをなぜ「世間」はかくも絶賛するのだろうかとさえ訝ったほどです。私が知らなかったのはただ、あの時の「呉」という軍港都市で、日本軍の撃った高射砲の砲弾がバラバラに砕けて再び地上の自分たちにピュンピュンと凶器となって降り落ちてきたという事実くらいでした。

そんなとき、3月21日のNYタイムズに「Anne Frank Who? Museums Combat Ignorance About the Holocaust(アンネ・フランクって誰? 博物館、ホロコーストの無知と戦う)」という長文記事が掲載されました。「若い世代の訪問者、外国からの客たちはホロコーストに関するわずかな知識しか持ち合わせていない。時にはアンネ・フランをまるで知らない者もいる」と。だから今、アムステルダムの「アンネ・フランクの家」などは今再び、あのホロコーストの地獄をどうにか手を替え品を替えて、若い世代に、戦争を知らぬ世代に伝え継ぐ努力を常に新たにしているのだ、と。

そのときに気づきました。ああ、あの映画は、あの時代の日常の物語というその一次情報の内容で絶賛されていると同時に、原作者のこうの史代さん(48)や映画版監督の片渕須直さん(57)ら製作陣の、その、すでに忘れられようとしている(私たちの世代にとっては当たり前の知識だった)その一次情報を、今再び伝え継ごうとする努力こそがまた絶賛の対象だったのだ、と。

戦争を生きた世代がどんどん亡くなって、彼らの話を聞いた私たち戦後第一世代は、直接自分が体験したわけではないそんな話を我が物顔で次の世代に語るのを、どこかでおこがましく感じていたのではないか? そんな我らのスキを衝いて、平和憲法を「みっともない憲法ですよ」と言ってのける人が総理大臣になっている時代なのです。

「アンネの日記」はかつて、誰もが知っている歴史的な共通認識でした。でもいまアンネ・フランクを知らない人がいる。広島や長崎も同じです。だから『この世界の片隅に』は、語り継ぐその内容だけではなく、語り継ぐその行為自体をも賞賛すべき映画なのです。語り継ぐことを手控えていた私(たちの世代)としては、代わりに語り継いでくれて本当にありがとうございますという映画、もう、ただ頭を下げて感謝するしかない映画なのです。

遅ればせながら『この世界の片隅に』

映画『この世界の片隅に』が11日からニューヨークでもアンジェリカ・フィルムセンターなどで上映されます。ニューヨークだけではなく、サンフランシスコやロサンゼルスなどでも公開されるようですが、全米で何館での公開かはまだ定まっていないのか数字が出てきません。でも、イギリスの会社が欧米での配給権を買い取って、パリやロンドンでも映画祭などで好評を博しているようです。ニューヨークでも7月にジャパンソサエティで「Japan Cuts」という日本映画祭で最終日に上映され、260席が満席の人気だったと聞きました。アメリカで映画好きが参考にする映画評サイト「ロットゥン・トマト Rotten Tomato」では、評論家の評価総点が100%ポジティヴというものでした。何かしらネガティヴ評価があったりする中で、これはとても珍しいことです。

このアニメ映画は北海道に帰った今年初め、実は85歳になる母親を連れて雪の中を観に行ってきました。自称「老人性鬱病」の母親はこのところ外出もせず籠りがちで、戦争とはいえ主人公の「すずさん」と同じく自身の少女時代を描いた映画でも見せれば懐かしく元気になるのではないかと思ったのです。「すずさん」にはモデルがいて、その方は今もご存命で御年95歳と言いますから、母よりも10歳も年上ですが、母も13歳で終戦を迎えています。

ところで見終わった母の開口一番は「なんでこんなもの見なくちゃならないの」だったのでした。別につらい昔を思い出して不愉快だったという口調ではなく、ただアッケラカンと「ぜんぜん面白くなかった」と言うのです。「だって、みんな知ってる話なんだもの」と。

実を言うと私の感想も似たようなものでした。ものすごく評判の良いこの作品の、描かれるエピソードの一つ一つがすべて「知っていた話」でした。

戦死した遺体を回収できず、骨の代わりに石ころの入った骨箱だけが戦地から帰還してきたという話は、19歳の時に学生寮の賄いのおじさんに酒飲み話で聞かされて号泣しました。南方戦線でのジャングルの苛酷さやヒルの大きさは高校時代の友人のお父上から怪談のように聞かされ、防空壕での暗闇の生き埋めの恐怖や、特高や憲兵たちの人間とは思えぬ非情さは私の子供時代、トラウマになるほどに何度も何度も少年向け漫画やテレビで描かれていました。闇市や買い出し、食べ物の苦労は宴席で集まる親戚から笑い話のように聞かされましたし、米がなくて南瓜や豆や芋ばかり食べていたせいで、その3つは二度と口にしないと宣言していた年長の友人は4人はいます。大学で出てきた東京の池袋の駅には、あれは東口でしたか、いつも決まって片足のない傷痍軍人が白い包帯と軍服姿で通行人から援助を乞う姿がありました。いやそれ以前に、北海道の本家の玄関にもそんな人たちが何度も訪れてはお金を無心していたものでした。

戦争が狂気だという厳然たる事実は、そうして身にしみて思い知っていました。そんな狂気は何としてでも避けねばという平和主義はだから、理想論でも何でもなく戦後世代の私たちには確固たるリアリズムでした。

だから『この世界の片隅に』は、少なくとも母と私にはタネも仕掛けも知っている手品を見る思いでした。それをなぜ「世間」はかくも絶賛するのだろうかとさえ訝ったほどです。私が知らなかったのはただ、あの時の「呉」という軍港都市で、日本軍の撃った高射砲の砲弾がバラバラに砕けて再び地上の自分たちにピュンピュンと凶器となって降り落ちてきたという事実くらいでした。

そんなとき、3月21日のNYタイムズに「Anne Frank Who? Museums Combat Ignorance About the Holocaust(アンネ・フランクって誰? 博物館、ホロコーストの無知と戦う)」という長文記事が掲載されました。「若い世代の訪問者、外国からの客たちはホロコーストに関するわずかな知識しか持ち合わせていない。時にはアンネ・フランをまるで知らない者もいる」と。だから今、アムステルダムの「アンネ・フランクの家」などは今再び、あのホロコーストの地獄をどうにか手を替え品を替えて、若い世代に、戦争を知らぬ世代に伝え継ぐ努力を常に新たにしているのだ、と。

そのときに気づきました。ああ、あの映画は、あの時代の日常の物語というその一次情報の内容で絶賛されていると同時に、原作者のこうの史代さん(48)や映画版監督の片渕須直さん(57)ら製作陣の、その、すでに忘れられようとしている(私たちの世代にとっては当たり前の知識だった)その一次情報を、今再び伝え継ごうとする努力こそがまた絶賛の対象だったのだ、と。

戦争を生きた世代がどんどん亡くなって、彼らの話を聞いた私たち戦後第一世代は、直接自分が体験したわけではないそんな話を我が物顔で次の世代に語るのを、どこかでおこがましく感じていたのではないか? そんな我らのスキを衝いて、平和憲法を「みっともない憲法ですよ」と言ってのける人が総理大臣になっている時代なのです。

「アンネの日記」はかつて、誰もが知っている歴史的な共通認識でした。でもいまアンネ・フランクを知らない人がいる。広島や長崎も同じです。

けれどこれは逆を言えば、アメリカではかつての世代では原爆は太平洋戦争を終結させるための必要悪だった、いや必要悪ですらなく、あれは善だった、という人々が圧倒的だったのでした。でも最近の世論調査では35歳以下では広島・長崎への原爆投下は実は不要だった、悪だった、と答える人たちが多数を占めるようになってきています。おそらくそんな世代へ、『この世界の片隅に』は新たに穏やかながら強い平和への訴えを届けるツールになるに違いありません。今回の北米都市部での上映にとどまらず、今後のネット配信やDVD化なども経て特になおさら、これから末長くゆっくりとけれど確実に、欧米のジャパニメーション世代に浸透してゆくと思います。

ですから『この世界の片隅に』は、語り継ぐその内容と同時に、語り継ぐその行為自体もまた賞賛すべき二段構えの映画なのです。語り継ぐことに気後れし、なんとはなしにそれを手控えていた私(たちの世代)としてはつまり、代わりに語り継いでくれて本当にありがとうございますという映画、もう、ただ頭を下げて感謝するしかない映画なのです。

February 16, 2016

映画『あん』を観て

帰国便の機内で河瀬直美監督の「あん」という日本映画を見ました。永瀬正敏演じる訳ありのどら焼き屋さんに、樹木希林演じるお婆さんが仕事を求めて訪れて、絶品のあん作りを伝授する、というお話です。

美しい桜の景色から始まる物語は淡々と、けれど着実に進んで行きます。なるほどよくあるグルメ映画かと思う頃に、最初に描かれたお婆さんの手指の変形という伏線が顔を出してきます。彼女はほど遠からぬ所にある「らい病」つまりハンセン病患者の施設(旧・隔離施設)から通っていることが明らかになり、その噂で客足も遠のくことになるのです。

心にしみる佳作です。お婆さんはその店でのアルバイトを辞して「園」に戻ります。映画は「世間」の偏見と無理解とに直接対峙するわけではありません。店主の無言の悔しげな表情と、そして常連だった女子中学生と2人しての「園」訪問と再会とが、かろうじてこの病気を取り巻く「差別」と「やるせなさ」の回収に機能します。そして映画は観客の心に何らかの種子を植え付けて終わるのです。

一人一人の心の底に染み渡りながら、しかしその「種子」が「私」の土壌から芽吹いて「公」の議論に花開くことはあるのだろうかと思ったのは、翻ってアメリカの大統領選挙のことを考えたからでした。米国では4年に1度、全国民レベルで「私」たちが「公」の議論を戦わせる大いなる機会があります。というよりむしろ米国という国家そのものが、「私」の領域を「公」の議論に移し替えて成立、発展してきたものでした。

黒人奴隷の問題は「私」的財産だった黒人たちが「公民権」という「公」の人間になる運動に発展しました。女性たちは60年代に「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを手にして社会的な存在になりました。そして同性愛者たちも「個人的な性癖」の問題ではなく人間全部の「性的指向」という概念で社会の隣人となり結婚という権利をも手にしました。

それらの背景には個人的な問題を常に社会的な問題に結びつけて改革を推し進めようという強い意志と、それを生み出し受け止める文化システムがありました。顧みれば社会問題に真っ向から取り組むハリウッド映画のなんと多いことよ。

人権や環境問題では地下水汚染の「エリン・ブロコビッチ」やシェールガス開発の裏面を描いたマット・デイモン主演の「プロミスト・ランド」がありますし、戦争や権力の非道を告発したものは枚挙にいとまがありません。ハンセン病に匹敵する「死病」だったエイズでもトム・ハンクスの「フィラデルフィア」などが真正面から差別を告発しています。今年のオスカーで作品賞などにノミネートされている「スポットライト」はカトリック教会による幼児虐待問題を真正面から追及するボストングローブの記者たちの奮闘を描いています。

映画としてどちらの方法が良いかという問題ではありません。アメリカはとにかく問題をえぐり出して目に見える形で再提出し、さあどうにかしようと迫る。彼我の差は外科手術と和漢生薬の違い、つまりは文化の違いなのでしょう。でも、後者は常に問題の解決までにさらなる回路を必要とするし、あるいは解決の先送りを処世として受け入れている場合さえあります。かくして差別問題は日本では今も多く解消されず、何が正義なのかという議論もしばしば敬遠され放置される……。

映画としての良し悪しではない。けれど社会としての良し悪しはどうなのでしょう? 個人の心に染み渡らねば問題の真の解決はないでしょう。しかし一方でそれを社会的な問題として言挙げしなければ、迅速な解決もない。その両方を使いこなす器量を、私たちはなぜ持ち合わせられないのかといつも思ってしまうのです。

July 08, 2014

勘三郎の感涙

勘三郎が亡くなったこともあって7年の間が空きました。平成中村座の3度目となるニューヨーク公演は、その勘三郎が平成に復活させ、亡くなる1年前に勘九郎(当時・勘太郎)に継がせた『怪談乳房榎(ちぶさのえのき)』でした。

初日を見てきました。自分の死を知っていたとは思いません。けれど04年の『夏祭浪花鑑』と07年の『法界坊』と、そして三遊亭円朝の怪談噺が原作の今回の演し物と、この手を替え品を替えの構成はまさに勘三郎の仕掛けた歌舞伎披露の壮大な計画だったように思えてなりませんでした。

最初の『夏祭浪花鑑』で、勘三郎(当時・勘九郎)は歌舞伎狂言の濃厚なダイナミズムを大捕り物に託して娯楽芸術の極みを提示してくれました。NYタイムズは「ハリウッド映画より刺激的で面白い」と絶賛しました。しかし次の『法界坊』で勘三郎はそんな芸術性への期待を見事に裏切ります。

このときのNYタイムズの事前記事で彼はこう説明しています。「能は時の権力者によってつねに保護されてきた。しかし歌舞伎は一般大衆が支えてきたものだ」。「ハイ・アート」を期待してきたニューヨーカーに彼は、歌舞伎はそんな気取ったもんじゃねえ、とばかりに猥雑な喜劇を見せつけたのです。

あのとき私の席の近くには10歳くらいの息子にタイとブレザーを着せた父親が座っていました。きっと「日本の歌舞伎という伝統芸術をこの機会だ、ちゃんと見ておきなさい」とでも言って連れ出してきたんでしょう。

でも幕が開いてやがて登場した笹野高史の「山崎屋勘十郎」、なんと美女「お組」を目にしてすぐにおニンニンをぴょこぴょことおっ勃てたわけです。袴がそれでぴょんぴょんはねる。禅と茶道と礼儀作法の国から「まさかこんな……」。あのお父さんも固まってしまっていました。

ただ、「猥雑」と言いましたがそれを表現する所作は見事に芸に裏打ちされた洗練の極みでした。法界坊のドタバタもじつにミニマルで流麗でまるでチャップリン。いやチャップリンの方が歌舞伎を真似ていたのか。

勘三郎は庶民のそんな野卑で生々しいエネルギーをもう一度現代の歌舞伎に注入したかったのでしょう。いつのまにか「優等生」扱いの歌舞伎に、原初的な破天荒さを取り戻す。その目論見は見事に勘三郎でした。

そして今回、私たちは勘三郎の“仕組んだ”歌舞伎そのものの力を目にすることになりました。勘九郎と獅童の若い2人の演技に勘三郎と橋之助の熟れと遊びを見ることはできません。けれど生真面目でまっすぐな勘九郎と獅童を、この芝居は「歌舞伎」という技術がしっかりと支える作りになっていたのです。それは前2回の作品とは異なる歌舞伎の形でした。

隣のアメリカ人カップルは勘九郎の早替わりのたびに、いやそれがどんどん増すごとに「おお」という感嘆の声を大きくしていきました。本来は数時間かかるこの大作を2時間半に刈り込んだ演出も切れの良い枠組みとして演技を支えました。それはまるで、勘三郎自体がこの舞台世界となって、その中で息子たちを動かしているような気がしたのです。いつしか私も身を乗り出して「おお」「おお」と声を出していました。

じつは私は勘三郎さんとは誕生日も9日違うだけの同い年でした。あのいたずら好きな、しかも計算しつくしたかのようなトリックスターだった勘三郎さんが、今日の息子さんたちを見て感涙にむせぶ姿を私はいま容易に想像できます。楽しかった。勘九郎さん、次回4回目のNY公演をまた楽しみにしていますよ。

February 19, 2013

暗殺の皇帝

24日にはアカデミー賞の発表です。ホメイニ革命後の79年に起きた在イラン米大使館人質事件での救出作戦を描いた『アルゴ』と、オサマ・ビン・ラーデン殺害作戦を描いた『ゼロ・ダーク・サーティ』とはともにCIAや軍の“活躍”の舞台裏を描いて、「ミッション・インポッシブル」や「007」みたいな派手なスパイものとは異なる現実を見せつけます。

両事件の間には30年あまりの時間差があります。が、CIAと米軍がいつの時代でも世界の最暗部で最も危険な諜報戦を繰り広げている事実は変わりません。しかしその戦法は先鋭化しています。1つは「水責め」尋問であり、もう1つは「ドローン」と呼ばれる無人機による敵の殲滅です。前者は30年前には違法でした。後者は技術的に存在しませんでした。

米議会では先日、そのCIA長官に新たに指名されたジョン・ブレナンと、CIAと密接に共同作戦を遂行する国防長官指名のチャック・ヘーゲルの承認公聴会が開かれました。2人とも議会承認は遅れています。

ブレナンはブッシュ政権下でCIA副長官でありテロリスト脅威情報統合センター(現在の国家テロ対策センターの前身です)の所長でした。『ゼロ・ダーク・サーティ』の冒頭で始まる水責め尋問シーンやビン・ラーデンの隠れ家に対しても検討された「無人機攻撃」の背後にいた人物の1人です。そして付いたあだ名は「暗殺の皇帝(The Assassination Czar)」

相手の首を水中にグイッと突っ込むのは息を止めて抵抗されたりしますが、水責め尋問は違います。相手の背中を板に固定して頭に布袋をかぶせて逆さ吊りにする。逆さまの状態で顔の部分に水を注ぐと、抵抗できないばかりか不随意の反射反応ですぐに水を肺に吸い込むことになって、「オレは溺死する!」という迫真の恐怖が襲うのだそうです。そうして容易に自白に至る。

しかし「その死の恐怖は錯覚である」というのが現在の米政府の主張です。錯覚なのでジュネーブ協約で禁じられている、実際に身体を傷つける「拷問とは違う」という論理。

しかしこれはベトナム戦争時の68年には違法とされました。それが対アルカイダ、対タリバンのテロ戦争で復活した。オバマ政権もそれを黙認・踏襲しているのです。

もう1つの無人攻撃機もやはり9・11以降のテロ戦争で実用化され、何千マイルも離れたネバダなどの空軍基地から遠隔操作されています。ビデオゲーム同様、自分の機が敵に撃ち落とされても操縦者は安全なモニターのこちら側にいます。

私はこの攻撃用無人機が心理的にも戦術的にも戦争の仕方を変えたと思っています。アフガニスタン戦争での昨年1年間の無人機攻撃は447回に及び、空爆全体の11.5%を占めるようになりました。前年の5%からの大きなシフトで、これは今後も拡大を続けるでしょう。

しかし無人機攻撃は大変な数の市民たちを誤爆してきました。死者のうちの20〜30%は一般市民で、高度な標的は殺害された者の2%に過ぎないという調査もあります。

このため、ブレナンの公聴会ではCODEPINKの活動家女性が米無人機攻撃で殺害されたパキスタン人の子供たちの名前のリストを掲げて抗議を行いました。独立系ニュースのデモクラシー・ナウ!は「無人機攻撃は単なる殺人ではない。そこに住むすべての人々を恐怖に陥れている。24時間絶え間なく遠鳴りの飛行音を聞き、学校や買い物や葬式や結婚式に行くにも怯えている。コミュニティ全体を混乱に陥れているのだ」とパキスタン現地の声を紹介しています。

思えば究極の戦略とは、「死」の格差を可能な限り広げることです。相手にはより大きな死の脅威を、味方にはより少ない死の怖れを。格差とはいま、富だけではなく命の領域にも及んでいる。「暗殺の皇帝」とはその格差の頂点に立つ者への尊称なのでしょうか、蔑称なのでしょうか。

オバマの2期目が始まっています。正義や人権を掲げる彼ですら、ブッシュ時代より暗くなった闇を背後に負っています。それにしてもCIA長官も国防長官も、自身の民主党ではなくて共和党からの人選だということに、オバマの逡巡が見て取れるのでしょうか? それとも汚いことは他人任せ、ということなのでしょうかね。そこにも政権を取った者の格差操作があるのかもしれません。

June 15, 2011

演劇もまた語れよ

今週発表されたトニー賞でベスト・プレイ賞を受賞した「ウォー・ホース(軍馬)」も、ベスト・リバイバル・プレイを獲った「ノーマル・ハート」も、見ていて考えていたことはなぜかフクシマについてでした。

ウォーホースは、第一次大戦中に英国軍の軍馬として戦地フランスに送られたジョーイと、その元々の飼い主アルバート少年の絆を描いた劇です。舞台上を動き回る実物大の模型の馬は人形浄瑠璃のように3人で操られるのですが、次第に操り師たちの姿が気にならなくなり、いつしかそんな馬たちに感情移入してすっかり泣いてしまいました。

それは、敵味方の区別なくひたすら人間に仕える動物の姿を通し、戦争という人間の罪業を描く試みでした。健気な馬たちを見ながら私がフクシマの何を思い出していたかというと、あの避難圏内に取り残された動物たちのことです。

荷物の取りまとめに一時帰宅を許された住民たちは、帰宅してすぐにペットフードを山盛りに与えて連れて行けない犬や猫をいたわります。それらを記録したTVドキュメンタリーでは、時間切れで再び圏外へと去ってゆく飼い主をどこまでも必死に追いかけ走る犬を映し続けていました。それが、劇中のジョーイのひたむきさに重なったのです。

ノーマルハートは80年代前半のエイズ禍の物語ですのでこれもまたぜんぜんフクシマと関係ないのですが、全編、無策な政治と無関心な大衆への怒りに満ちていて、あの時代の欺瞞を鋭く弾劾し検証する作品でした。それが、見ている私の中でまた原発を取り巻く同様の欺瞞と無為への怒りに転化していたのです。

エイズの話など、いまはぜんぜん流行らないのに、どうしてかくも力強くいまもまだこの劇が観客の心を打つのか、わかるような気がしました。それは演劇人の、時代を記すという決意のようなものに打たれるからです。

エイズ対策を求めてやっと市の助役とミーティングを持てた場面で、遅れてやってきた助役は主人公のネッドに「いちいち小さな病気の流行にまで我々がぜんぶ対応できるものではないんですよ」と言います。「それより、あなた、少しヒステリックになってるのを抑えてくださいな」

「わかった」とネッドは言います。「サンフランシスコ、ロサンゼルス、マイアミ、ボストン、シカゴ、ワシントン、デンバー、ヒューストン、シアトル、ダラス──このすべての街でいま新しい患者が報告されている。それはパリやロンドンやドイツやカナダでも発生している。でもニューヨークだ。おれたちの街、あんたが守ると誓った街が、それらぜんぶの半数以上の患者を抱えてる。1千人の半分だ。そのうちの半分が死んでいる。256人が死んでるんだ。そしてそのうちの40人は、おれの知ってるやつらだ。もうこれ以上死ぬやつを知りたくない。なのにあんたはこれっぽちもわかってない! さあ、おれたちはいつ市長に会えるんだ? ランチに出てます、ランチに出てますって、市長は14カ月もずうっとランチしてるわけか!」

ここにあるのは過ちと誤りの清算の試みです。時代に落とし前を付けてやるという気概です。演劇とは、それを通して自分たちで歴史の不正義を記録してゆくのだという、責任と覚悟の表明なのです。

そう思いながらこれを書いていると、HBOであのリーマンショック後の政財界の内幕を描いた「Too Big To Fail(破綻させるには大き過ぎる)」がウィリアム・ハートの主演で放送されていました。NYタイムズの記者によるノンフィクションを、こんな短期間で上質のドラマに仕上げた。

こういうのを見ると本当にかなわないなと思ってしまいます。 AKB48の「総選挙」を責めるわけじゃないけれど、あれをどの局もそろってニュースの一番手に持ってくるならその一方で、テレビも演劇もジャーナリズムも、もっともっと社会への取り組みがあってもいいじゃないかと思ってしまう。

東電と政府の欺瞞と怠慢とを、日本の演劇や映画やテレビは必ず作品に昇華してもらいたいと思います。どこでどういうウソがつかれ、どこでどういう悲劇が生まれたかを、ドラマもまた語ってほしいと切に願います。

ブロードウェイという華やかな娯楽の街で、拍手を忘れるほどの怒りが渦巻き、涙ながらの喝采が渦巻くのはなぜなのか? それは人間の言葉の力です。すべてを語ることで対処しようとする文化と、すべてまで語らぬことをよしとする文化の膂力の違いを、フクシマを前にした今ほど恨めしいと思ったことはありません。

でも恨めしく思っているだけでは埒も開かないので、とりあえず、私はこの「ノーマル・ハート」を翻訳してみようと思います。いつの日か日本で上演できることを画策しながら。

December 31, 2010

不思議な街

私が台本を翻訳したブロードウェイ・ミュージカルの東京公演が12月にあり、それを見るために一時帰国していたのですが、一通り用事を済ませて帰米する前夜に入った四谷・荒木町のお鮨屋さんで、隣に座ったのが鈴木大介さんというクラシック・ギタリストでした。なにやら鈴木さんも明日にニューヨークに飛ぶとか話してらして私もそうなんですと告げると、じつはカーネギーホールのザンケルホールで武満徹の生誕80年記念のコンサートを行う予定なのだとおっしゃる。私も武満は大好きな作曲家なので酒の席もあって話が弾み、鈴木さんがなんと私を招待してくれる運びになったのでした。

さてコンサートは帰米後2日目の夜でした。酷寒のニューヨーク、カーネギーの中ホールであるザンケルホールはほぼ満員でした。大ホールでは例の小澤征爾の復帰コンサートが中日の休みを迎えていた日です。「日本週間」の趣きの中、鈴木さんとクアルテットを組むのはジャズギターの渡辺香津美、アコーディオンのcoba、パーカッションのヤヒロトモヒロの面々。錚々たるもんでしょ。

武満は96年に亡くなりましたが、世界に誇る現代音楽の作曲家です。私は大江のエッセーで彼のことを知りました。高校か大学のころです。で、最初に聴いたのが「エクリプス」。たしかNHKで見たのです。ジャズしか聞いていなかったそのころの私に、それはなによりも先進的で衝撃的でした。エクリプスという言葉の意味も、そのときに辞書を引いて知って、それ以後、忘れられない単語になった。ディカプリオにもそんな映画があって、しかもベルレーヌとランボーですから、なんか、武満から運命的に教わった気さえしたほどです。

さて彼を難解だと敬遠する向きもありますが、ザンケルのこの日は「伊豆の踊り子」や「どですかでん」「他人の顔」などのわかりやすい映画音楽をおおいにアレンジしてたいへんに熱く鋭い演奏会となりました。

鈴木さんもクラシック・ギタリストとは思えぬノリようで、ストロークの音の切れること切れること。それまでテレビでしか知らなかった金髪のアコーディオニストのcobaさんは、テレビから受けた印象とは大違いで鬼気迫る見事な詠いようでした。私もまさかカーネギーで体を揺すり足を鳴らして音楽を聴くことになろうとは思ってもいませんでした。

予定の曲がすべて終了した後はアンコールですが、アメリカ人のクラシックファンをナメていたのか(笑)1曲しか用意していなかったようです。もちろん総立ちの観客はそれが終っても拍手を続けて帰ろうとはしません。その熱い反応に4人はものすごくうれしそうでした。

終演後の楽屋にもお邪魔すると、武満と親交のあった詩人の谷川俊太郎さんもいらしてました。帰宅後、谷川さんのツィッターを覗くと「カーネギーホールで(略)息の合った武満徹を聴いてホテルに戻ったところ、聴衆総立ち拍手鳴り止まず、武満に聴かせたかった。NYは零下、露出している顔が冷たいけど気持ちは元気です。 俊」と呟いていらっしゃいました。

ここは不思議な街です。
「ニューヨーク」という魔法の言葉が、日本の鮨屋でも私と鈴木さんを結びつけてくれました。このコンサートはあまり新聞に載りませんでしたが、私には2010年に出逢ったものの中でベスト3に入る名演奏でした。きっと、生涯でもトップ10に入るはずです。

November 04, 2010

田中ロウマ SHELTER ME

田中ロウマ、米国で頻発する十代のゲイの自殺、その予防呼びかけキャンペーン「It Gets Better」に寄せたPVっすよ。日本でも同じ状況はあるわけで、何で日本人アーティストが作ってはいけない理由があろうか、というわけでしょう。素人っぽいモデルの2人、急ごしらえ的な作りですが、逆にそれがリアリティを持ってるようでわたしにはとても微笑ましいかった。この2人、これに出ること自体、大変な勇気がいたと思います。まだまだそういう社会なのですから。

最後の最後にメッセージが出ます。
そう、必ずこれからよくなるから。
このPVを作った田中ロウマをわたしは誇りに思います。

この自殺問題、時間のあるときにまとめておきたいのですが。ああ、怠惰な自分。



shelter me
 シェルターになって
by ROMA Tanaka 田中ロウマ (訳詞はわたしのです。非公認ですけどw)



its raining out side 外では雨が降っている

can I come in just for a little while ちょっとだけ入っていいかな

inside me, there's a past I can't let go ぼくの中、忘れられない過去があって

and now consumes my soul

 それがぼくの魂を食い尽くす

you are everything I have always been waiting for きみはぼくがずっと待っていたもののすべて

and someone who'll tear down these walls この壁を壊してくれるだれか

will you show me how to love

 どうやって愛したらいいか教えてください

shelter me, comfort me
 シェルターになって 慰めて
all my scars have shown and I am here 傷をみんなさらけ出して ぼくはここにいる

ready to love 愛することを待ちながら

shelter me comfort my heart シェルターになって この心を慰めて

it's yearning for you and only you きみを きみだけを思ってるんだ

and this life I am ready to share
 この人生を 分かち合うのを待っている
through all my tears shed please be there 流れる涙すべてを越えて おねがい ここにいて



patiently you waited じっと長いこときみは

for the perfect moment to come steal my heart ぼくの心を奪いに来る最高の瞬間を待ってたんだね

like sun warms the spring air, your words, your touch
 ちょうど太陽が春の大気を暖めるように きみの言葉が、きみの指が
you fill me to the core

 きみがぼくを芯まで満たす

you are everything I have always been waiting for きみはぼくがずっと待っていたもののすべて

and someone who will stand with me ぼくの味方になってくれるだれか

never leave me with doubt ぼくを悩ませないだれか

shelter me, comfort me
 シェルターになって 慰めて
all my scars have shown and I am here 傷はみんなさらけ出して ぼくはここにいる

ready to love 愛することを待ちながら

shelter me comfort my heart シェルターになって この心を慰めて

it's yearning for you and only you きみを きみだけを思ってるんだ

and this life I am ready to share
 この人生を 分かち合うのを待っている
through all my tears shed please be there 流れる涙すべてを越えて おねがい ここにいて

I'm still healing ぼくの傷はまだ癒えてなくて

people telling me it's not the way to live そういう生き方はダメだよって言われるけれど

but we're not so different
 ぼくらそんなに違ってるわけじゃない
breaking down to the same sad love songs 同じ悲しいラブソングに泣いたりするし

they tell me I'm not broken ぼくはまだだいじょうぶだって言われる

I'm not broken まだだいじょうぶ

I'm here holding on to you だってここできみを掴んでいられるから



you are everything I have always been waiting for
 きみはぼくが待っていたもののすべて
and someone who'll tear down these walls
 この壁を壊してくれるだれか
so I'm asking you to だからお願い



shelter me, comfort me シェルターになって 慰めて

all my scars have shown and I am here 傷はみんなさらけ出して ぼくはここにいる

ready to love 愛することを待ちながら

shelter me comfort my heart シェルターになって この心を慰めて

it's yearning for you and only you きみを きみだけを思ってるんだ

and this life I am ready to share
 この人生を 分かち合うのを待っている
through all my tears shed please be there 流れる涙すべてを越えて おねがい ここにいて



I'll shelter you comfort you
 きみのシェルターになる きみを慰める
all your scars have shown and you are here
 きみの傷もみんな見たし きみはここにいる
and I'm ready to love きみを愛する準備はできてるんだ


I'll shelter you comfort your heart きみのシェルターになる きみを慰める

it's yearning for me and only me ぼくを ぼくだけを思ってくれてる

and our lives we are ready to share
 ぼくらの人生を 分かち合う準備はできている
through all our tears shed we'll still be there... すべての流れる涙を越えて ぼくらはずっとここにいる

October 28, 2010

中村 中「少年少女」

そりゃ私は中村中を応援してはいます。デビューしたのがなんだっけ、汚れた下着? 友達の詩? そんなことはどうでもいいんですが、とにかく、久しぶりに気骨というのかなあ、歌い手としてだけではなく、歌の作り手としても、ケッと言っても動じない、押されても倒れないやつとして、こういうやつがいるんだなあ、という印象を持った。てか、まあ、それは間違いかもしれないから、いまだから言えるみたいに、あるいは後づけとして言ってるんだけど。後出しジャンケンみたいにね。

そう、いつも人を賞賛したいときには前置きと言い訳が長くなる。素直に人を褒められない時代。褒めるのにも理由がいる時代。いや時代の所為にしちゃダメだよな。ってまたここでも長くなるわね。

本日はまたよい酒を飲んできた後で、なにかというと、尾瀬の雪解けの大吟醸、これ美味いんですよ。ちょいと乳酸っぽくて。それと、満寿泉の大吟醸をアンリ・ジローの樽に6カ月入れて熟成させたやつとか、こいつはもうすごい。まるでひれ酒のような旨味が横溢(マイナス魚臭さ)。そしてもちろん、その当のアンリ・ジローのトップラインの Cuvée Fut de Chene 2000 Ay Grand Cru とかも料理に合わせて飲んできたんです。これもすごいシャンパン。

ふむ、それは関係ないか。

そしていま、中村の「少年少女」を聞いている。「今夜も僕らは、なんとか生きている」とか歌われちゃってる。

私にとってこのアルバムは、なんだか知らんが、ジェフ・バックリー以来のヘビーローテーションです。つまり5年ぶりの、いつ終わるとも知れぬリピート聴取状態。NYの地下鉄でもずっとiPhoneで聞いている。さすがに聞き過ぎだな、と思って辻伸行くんのラフマニノフとか、パトリック・コーエンのサティとかも聞いたりしてるんだけど、ふと気づくと夜中に頭の中で「少年少女」の中の何かが渦巻いてる状態。

いま、ちょうど「ごめん、私は、喉をやられてる」って歌われてます。

最初のころは、そう、このね、何たっけ? そうそう、みんな絶賛の「戦争を知らない僕らの戦争」にやられたんですが、そのうちに、もっとさりげない、最初は聞き流していた歌ね、初恋とかさ、秘密だとかさ、ともだちになりたい、や、青春でした、だとかさ、そういうののメロディーまでもが浸食してくるんだ。

まあ、これこそヘビーローテーションの為せるわざですが。

技術的なことを言うと、曲作りがすごくうまくなった。とても自然になった。メロディーにおかしな力が入っていない。味わっていると旨味がじわじわと出てくる。なのでもう3週間くらい繰り返し聞いていても全然だいじょうぶ。ヘビロテに耐えうる。前のアルバムも褒めたけど、これとは違ってる。

でね、ちょうどこれを聞いてるのと平行して、アメリカでは、ゲイの十代の男のたちがどんどん嫌がらせやいじめに遭って自殺するという事件が続発しているのです。この2カ月くらいで8人かな。わかってるだけで。ルトガーズ大学の19歳は、寮の部屋で好きな男の子とキスやなんかしてるのをSkypeで自動中継されちゃって、ジョージ・ワシントン・ブリッジから投身自殺した。あの橋、すごく高い。そこから飛び降りるよりつらいことがあったということでしょう。考えるだけでまいっちゃいます。

ついこないだ、10月13日に自殺した子はカリフォルニア・ビバリーヒルズの高校生で、学校帰りに5人の他の生徒に殴る蹴るの暴行を受けた。そして家に帰って縊死した。「何よりもつらかったのは、肋骨を折ったことじゃない。ぼくの大事な人たちからもらったものを盗まれてしまったことだ。最悪の日だ」と遺書にあった。「カミングアウトと、(ボーイフレンドの)ダリックと幸せだったことが人生で最高のことだった。でも、それが自分の死につながるとは昔は知らなかった」とも。

そう、中村中の「少年少女」を聞いていて思うのは、これをいまの十代の子たちに聞いてほしいなあということです。聞いて、何?という子はいつの時代でもいるでしょうから、そういうのはどうでもいい。そうじゃなくて、聞いて、励まされる子たちが必ずいる。励まされる? ちゅーか、ああ、自分は1人じゃないって、そう感じる子が必ずいる。そういう子たちに聞いてほしい。いや、これは変な言葉遣いだ。そういう子たちが、たまたま聞いていてほしい。

いまや、年を取った私はこのアルバムを聴いてもこれっぽちの涙も表沙汰にはならないけれど、大脳皮質の地層の奥のどこかで、15のぼくがカッと赤く熱くなっているのがわかる。そう、じゅうぶんに時は隔てているけれど、15のぼくは1人じゃないって、おぢさん、思うよ、ってな感じ。

とてもたくさんのメッセージが込められたアルバムでも、でもさ、メロディーが付いてこないとこんなに長く繰り返し聞けない。なんだか、ちょうどいいあんばいで詩と曲が流れてる。ま、それも私の感性にとって、ということだけれど、それは信じてもらわねばしょうがない。

わたしのこのぶろぐに「少年少女」が訪れているとは考えられないけど、もし読んでいるなら、アルバム、聞いてごらん。もし、そんな少年少女を知っている人なら、さりげなくその子たちにこれらの曲を聴くよう仕向けてください。ただ1人でも、そんな子たちの命を救えるなら、いや、実際に死ぬ、生きるってな話じゃなくてもね、そうなら、単なるCDとしては儲けもんじゃないでしょうか。

またぐるっとまわって「独白」になった。
中村中のセリフが、ちょいと訛ってるのはどこの言葉? ま、愛嬌だけどね。

あ、そうそう、中ちゃん、この曲の最後、私はあれは違うと思います。
「わたしを愛してくれますか?」じゃないだろう。

あそこはさ、

「わたしを愛したり、できますか?」

あるいは、もっと直截に

「私を、愛せますか?」

っていう投げかけ、詰問じゃないか?

不満っていえばそれくらいでしょうか。

おやすみなさい。寝ます。

March 10, 2010

敢てイルカ殺しの汚名を着て

アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞に日本のイルカ漁を扱う「ザ・コーヴ」が選ばれ、案の定日本国内からは「食文化の違いを理解していない」「牛や豚の屠殺とどう違うんだ」「アメリカ人による独善の極み」と怒りの反応が出ています。あるいは「アカデミー賞も地に墜ちた」とか。

まあ、賞なんてもんは芥川賞だって日本レコード大賞だってトニー賞だってノーベル平和賞まで、そもそも販売促進、プロモーションから始まったもので、それにいかに客観性を持たせるかで権威が出てくるのですが、ときどき先祖返りしてお里が知れることもなきにしもあらずですから、まあここは怒ってもしょうがない。ヒステリックになるとあのシーシェパードと同じで、それじゃけんかにはなるが解決にはなりません。というか、このコーヴ、日本じゃ東京映画祭とかなんとかで上映したくらいでしょ? ほとんどのひとが見ていないはず。見ているひとは数千人じゃないのでしょうか? あるいは多く見積もっても数万人? うーむ、いや、そんな多くはないか……。

「ザ・コーヴ」は毎年9月から3月までイルカ漁を行う和歌山県太地町をリポートした映画です。とはいえ、イルカの屠殺現場は凄惨なので、これがどう描かれるか心配した地元側が撮影隊をブロックしました。そこで一行は世界中からその道のプロを集めて太地町を隠し撮りしたのです。

隠し撮りの手法というのは、ジャーナリスティックな意義がある場合は認めて然るべきものだと私は思います。でも、それ以外は米国ではじつはものすごく厳しい倫理規定があって、一般人を映画に撮影する場合は、道路を行く名もなき人々なんかの場合以外はかならずその映画のプロデューサー側がその人に、「編集権には口を挟まない」かつ「上映を承諾する」、という旨の書類にサインをもらうことになっています。そうじゃなきゃ、この映画気に食わない、といって自分が映っていることで上映差し止めを求める訴訟を起こされたりすることもあり得ますから。

で、このコーヴは、これは告発ドキュメンタリーだと位置づけているのでしょう。だから太地町の人たちにはサインを求めなかった。そしてドキュメンタリーだから映っている人たちの顔にボカシも入れなかった。この辺はなんでもボカシャいいと思ってる日本の制作サイドとは違います。ところが映画の作りはそれはもう大変なサスペンス仕立てで、太地町vs撮影隊、というこの対立構図がとてもうまく構成されているんですね。撮影クルーはなにしろ世界記録を持つ素もぐりダイバー夫婦だとか水中録音のプロだとか航空電子工学士だとかまで招集して、まるで「スパイ大作戦」に登場するような精鋭たち。隠しカメラを仕込んだ「岩」や「木」はあの「スターウォーズ」のジョージ・ルーカスの特撮工房が作り上げた模型です。それらを設置する真夜中の模様も暗視カメラで記録されて、まるで戦場映画のようなハラハラドキドキ感。なにせ町中の人間が彼らを監視し、警察までが「グル」なのですから、こんな演出が面白くないはずがない。

しかしそれは最後のシーンで衝撃に変わります。そこには、入り江(コーヴ)に追いやられた大勢のイルカたちが漁民たちのモリでズボズボと突かれ、もがきのたうつ彼らの血で海が真っ赤に染まるようすが映っているのです。これはサカナ漁ではない映像です。これは屠殺です。

じつは今回のオスカーにはもう1作「フード・インク」という、食品産業をめぐるおぞましいドキュメンタリーも候補に上っていました。こちらは米国の食ビジネスの大量生産工業化とそのぞっとする裏面を取り上げたもので、米国人の日常生活の根幹を揺るがすショッキングな食の事実が満載です。でもこれに賞をあげたら食関連のスポンサーがいっせいに退くだろうなあ、と思っていたらやっぱり取れなかった。もっとも、映画としてはコーヴの方が確かに面白いのですが。

「イルカの屠殺現場は凄惨なので」と最初に書きました。でも思えばすべての動物の屠殺現場はすべて凄惨です。はっきり言えば私たちはそんなものは見たくない。

コーヴの不快の本質はそこにあります。それは、生き物は他の生き物を殺して食べるしか生きられないという現実を、私たちがどこかで忌避しているからです。みんなそれをやってるが、だれもそれを語りたくない。その結果、近代社会では屠殺の現場をどんどん分業化し、工業化し、近代設備の清潔さの装いの向こう側に囲い込んで見えなくしていったのです。それは、生活の快適さ(のみ)を求める近代化の当然の帰結でした。私たちは牛や豚や鶏の屠殺の現場すら知らない。でもそれは言わない約束だったでしょ? でも、どうしてイルカだけ、こうして「言っちゃう」わけ? しかも「告発」されちゃうわけ? コーヴでは、こうしてそこに制作者側への「自分たちのことは棚に上げて」感という「目には目を」の反発が加わり、より大きな反感が生まれたわけです。そっちがそういうつもりなら、こっちにも考えがあるぞ、です。戦争って、国民の意識レベルでは往々にしてそうやって始まるんです。

そういうときに「日本人は食べ物を粗末にしない。いただきます、と感謝して食べている」という反論は効き目がない。しかもそれ、ウソですから。食品ゴミの量は人口差をならすと日米でほぼ変わりなく、両国とも世界で最も食べ物を粗末にする国なのです。日本じゃ毎年2200万トンの食品ゴミが出てるんですよ。カロリー換算だと食べ物の30%近くが捨てられている。また、「食文化の差」という反論もこれだけ欧米化している時代にそう説得力を持たない。「日本食」の3大人気メニューはカレーにハンバーグにスパゲティでしょ? 古い? あるいは牛丼、ホルモン、回転寿しか? いずれもイルカやクジラではないわけで、そういう中途半端な反駁はすぐにディベートの猛者であるアメリカ人に突っ込まれてグーの音も出なくなります。

もっとも、彼らの振り回す、よくある「イルカは知能が高いから殺すな」という論理には簡単に対抗できます。それはナチスの優生学のそれ(劣った人種は駆逐されるべき)と同じものだ、きみはナチスと同じことを言っているのだ、と言えばいいんです。これはナチス嫌いのアメリカ人への反駁の論理としてはとても有効です。

なんとなく整理されてきました。だとすると、この映画が提起する問題で本当に重要なのは、「イルカの肉に含まれる水銀量は恐ろしく多く、それを知らされずに食べている消費者がいる」という点だけ、だということです。

ところが、私の知る限り、これに対し日本のどこも反論のデータを教えてくれていない。

それは、怒り過ぎているからか、それとも怒りを煙幕に事実隠しをしているからか?

私にはそれだけが問題です。それに対して「水銀量は多くない」というデータで反証できれば、この「ザ・コーヴ」は、敢てイルカ殺しの汚名を着ても、なに後ろ暗いことなく、いや生きることにいままでどおりすこしは悲しい気持ちで、しかしそうではあっても別段これを機に気に病むこともなく、そしてなおかつそうカッカと怒らずでもよい映画である、と明言(ちょっとくどいけど)できるのですが。

January 12, 2010

二人で生きる技術

2人で生きる技術.jpg

よくわからないのですが、いわゆるハウツー本が本屋さんに並んでいたりするのを見るとなんとまあ恥ずかしいなあと思ってしまいます。コンピュータとかカメラとか、育児とか料理とか、そういうツールや技術系のハウツー本ならぜんぜんいいんですけどね。でも……と書いてみて、あら、本なんてみんなハウツーものみたいなもんかもしれないなと思ったりもします。そうだよね、こうやって書いていることも、結局は書き手が考えた答えを都合よく読み手に教えてるってことだもなあ、とかって……でも言いたいのは、なんというか、ほんとうはそういうのは手っ取り早く誰かの用意した答えを知るのじゃなくて、自分でちゃんと時間をかけて考えて答えを見つけていかなくちゃダメだろ、というような物事がこの世には確実にあるような気がするんですね。答えが大切なんじゃなくて、答えにいたるまでのプロセスが大切なのに、先に答えを聞いてしまってどうするんだ、ってことが。

太宰が、数学の教科書の後ろに問題の答が書いてあるのを見つけて、「なんと無礼な」か「失礼」だったか、そう思った、ってのがどっかにあったでしょ? あれなんだよね。あれを読んだからか、私は10代のころからレコードもベスト盤を買うのを恥ずかしいことだと思ってしまった。絶対に自分はベスト盤など買わないぞと誓った。で、中年になって、iTunesストアが出来て、往年のロックやジャズの懐かしい連中のコレクションを自分のMacに再収集しようとして、めくるめくほど数多のベスト盤の山を前に思わずその1つをポチってしまったとき、私はふと辺りを見回し、目撃者のいないことに軽く安堵しつつも激しく自らを恥じたものです。(でも1回ポチるともうあとは堰を切ったようにベスト盤の嵐でしたけど。ま、経済的にも全然安上がりですし、背に腹は変えられないという事情はありますな。年を取ると寛容になるもんです)

ハウツー本とベスト盤がどうして同じ次元で語られるのかってのは、つまり、ラクしていいとこ取りしようってことで、言い訳を言えば、わたしなんぞの、もうそうは新しいことなんか起きない年代の、しかも残された時間もそうない者にはそれでもぜんぜん大勢には影響がないってことなんだけど、これから人生を作っていく人たちが、対人関係とか仕事のしかたとか、恋愛とか人生とか、そういうもので教科書の後ろを見ちゃうみたいなやり方だと、それは本末転倒でしょーってことなんです。知ったふうなことばかり言って、その実ものすごく中身がなくて、ぜんぶどっかで聞いたようなことだけを題目のように繰り返して世を渡ってるような輩も(渡れてないか)けっこういます。話しててやになっちゃう。

だから、例えばジャーナリズム学科とかで勉強したって、それはちょっと違うんじゃないかって思う。火事や殺しや交通事故の現場でないと感じられないなにかがあって、それを書くことに苦悶して、そうやってからジャーナリズム学科でもういっかい勉強できるような、そんな環境やシステムが日本の職業ジャーナリストたちにも用意されていれば素晴らしいと思うけど、最初にジャーナリズム学科で技術を教わっても、まあ、人によるだろうけど、つまり、わかったふうに思っちゃいけないってことですわね。まあ、そうね、人によるか。ジャーナリスト学科で学んでも、知ったふうには思わないやつもいるもんね。技術はあるに越したことはないし、か。

そうですね。つまり、ハウツー本を読んで、知ったふうな口をきくやつがダメなんだ。だからといって「だからそれはハウツー本が悪いわけじゃない」ってわけじゃなくて、ハウツー本は九割がたそういう連中を確実に標的にして作られてるんだから、ダメに乗っかってカネ稼ぐための本だから、いわゆる故意の教唆だわね。ハウツー本もやっぱりダメなんだよ。

……といろいろと与太が長くなったですが、何が書きたいかというと、表題の本についてです。

年をまたいで「二人で生きる技術 〜幸せになるためのパートナーシップ」(ポット出版)を読んで、2010年のブログの最初のエントリーはこの本についてにしようと決めました。著者の大塚隆史さんは70年代後半にラジオ「スネークマンショー」で15分ほどの自身のコーナーを持ち、ゲイに関する幅広い話題を広く(多くゲイの)聴取者に語りかけていた人です。寡聞にして私はその当時そのラジオのことは知りませんでしたが、大塚さんにお会いした数年前、録音の残っていたものを集めたCDをいただいて、その話題の広さと深さにちょっと、というか、かなりショックを受けました。というのも、私が90年代から書いたり言ったりしていたことのほとんどは、すでに大塚さんがそのラジオ番組で10年以上前に言い尽くしていたことだったからです。はは、こりゃまいったね、というのが正直な感想でした。

「二人で生きる技術」はその大塚さんの、個人のパートナー史というべきものを通じて、パートナーであること、パートナーであろうとするというのはどういうことなのか、を示している本です。でも、これは教科書ではありません。ハウツー本でもありません。冒頭から多くを費やして、つまり私はそのことが言いたかったのです。

でね、ここで書かれるパートナー、「二人」というのは、男同士の二人です。で、だからこれはゲイのパートナーシップのためにだけに書かれた本かというと、じつはそうじゃない気がします。これは、同性間・異性間にかかわらず、最も困難な環境の1つにいる人たちが、どうやって伴侶を見つけ、どうやってその関係を続けるのかについての、普遍的な、かつとても個人的な努力の軌跡です。

私たちはここで「大塚隆史」というある個人の、パートナーを求めて止まない人生を覗き見ることになります。彼はこれまでに5人のパートナーと付き合っているのですが、彼の心にあったのはただ1つ、おとぎ話で結ばれたお姫さまと王子様がその後、「末長く幸せに暮らしました」という絶対命題でした。つまり彼にとっての傾注の対象は、物語の主要となるドラマティックな恋愛の部分が終わったあとの、「末長く」しかも「幸せ」な「暮らし」のことなのです。著者はこの「暮らし」のために懸命に精力を傾けます。これが「二人で生きる」ということであり、そのためには技術が必要なんだという気づきがあるんですが、でも、その技術がなんなのか、この本はハウツー本のように簡単にはそれを教えてはくれません。なぜなら、それは具体的には5人のパートナーそれぞれで違うことだったのですし、私たちはそのパートナーたちとの「暮らし」の丁寧で詳細な記述の各章を読み進めることで、筆者とそのパートナーの行った努力と獲得した技術とを追体験することになるのです。そうして、そうすることでしかわからないことというものがある。

男女の、あらかじめ当たり前として用意されている“ような”関係性とは違って、ゲイの男性(あるいは女性)2人の関係というのはなんとも手探りで、だれもの目に見えるロールモデル(理想のお手本)というのもそうあるわけではありません。男女の場合は恋愛のあとに結婚というものが控えているのを多くの人が認識しているでしょうが、日本のゲイの場合は結婚もシヴィルユニオンもドメスティックパートナーシップも現実問題として自らに引き寄せて考えている人はそう多くはないでしょう。すると勢い、状況的に、ゲイ男性カップルの関係性というのは恋愛の後は何なんだ、セックスの後は何になるんだろうということになります。

著者が行ったことは、まさにその「なにか」をハウツー本もなく自ら作り上げてゆくことでした。そしてそれのすべてをいま、身を以て示してくれることだったのです。彼以前にそれを作り上げた人はもちろんいたでしょうが、それを見せてくれた人はほとんど皆無だったからです。男女の恋愛を描いた小説や映画は数限りなくありますし、それこそ「その後」の「暮らし」を追ったドキュメンタリーもたくさんあります。でもそれらはほぼ、「二人で暮らす」ことをアプリオリな大前提として始めていて、そこを疑うことについて甘い。でも、ほんとうはそこから始めなくてはならないのではないか?

そう思ったとき、じつはそのことは男女のカップルにとってもほんとうは同じなのだということに気づくのです。恋愛ってそもそも自動的に始まってしまいます。恋愛の原動力はセックスへの希求(リビドー)なんですが、というかそれは主客転倒で、リビドーがセックスへと導く儀式としての恋愛を創造したんですが、自動的に始まる恋愛は自動操縦ではどうもうまく行かないほど複雑になってしまって、あるいはお見合いによるお付き合いでもいいんだけど、人間の私たちはいつの間にかそんな自動操縦のモードを手放さざるを得なくなってしまいました。

ところが恋愛(という捏造された儀式)の余勢をかって、なるがままに任せていればどうにかなるさと思っているカップルが多いのです。そもそもいろんな分野で自動操縦をやめてしまった人間たちが、どうして愛する人とだけは自動操縦で大丈夫だと思っていられるのか。

恋愛って、人生で何回も出来るもんじゃない。恋愛にベテランというのは存在しないのです。つまり、みんないくつになっても手探りで、素人なの。だから真剣にならないとすぐに失敗するのです。

「二人で生きる技術」に書かれている数多くの実際のエピソードは、読んでいて「他者」というものの発見に満ちています。人間って、みんな違うんだって改めて気づかされます。セックスの話も包み隠さず出てきます。エイズの話も、ウソの話も、浮気の話も出てきます。おそらく、多くの読者が泣くだろうエピソードも登場します。私も泣きました。そうして、他者というのは、改めてすごいなあと思った。自分の知らなかった他者たちをこうして知った「気づき」を、有り難く思うのです。

これは、自分の愛する女性との関係を当たり前と思っている男性たちに読んでもらいたい本です。あるいは愛する男性との関係で悩んでいる女性たちにも。関係性において、何事にも当たり前というのはありません。それは奇跡なのです。それが続くのは、さらにもっと大きな奇跡なのです。それを続けさせるための「技術」がこの本には書いてあります。最後の章にいくつか箇条書きにもなっています。でも、それは大した技術ではありません。いちばん重要なのは、そこまで読み進め、何かを読み取ろうとした努力に関係するものです。この本を読み進めたように、自分たちの関係を読解してみることがまず、そんな技術を体得するためのとっかかりだろうと思います。それは、関係を諦めない、おとぎ話を信じる力なのだと思います。

December 20, 2009

中村中〜阿漕な土産〜

渋谷CCレモンホールでの中ちゃんのコンサート、昨晩行ってきた。
アクースティック4人編成をバックのものだったが、中村中、この1年でずいぶんとすごくなった。まあ、声の出ること出ること。出だしはまだ緊張してるみたいだったけど、それがどんどん観客のエネルギーを吸い取るみたいにノリはじめ、ああいう状態は歌っている方もものすごくいい気持ちなんだろうなあと思うような歌になっていった。私も歌ってた頃があるから、なんとなくわかる。えー、こんなのも出るんだって、自分でもびっくりしちゃうくらいなときが訪れることがあるのだ。昨晩はきっとそんな感じだったんだろうって思う。

アクースティックだったから歌い方も変わったのかもしれない。ブレスの仕方が変わった。前回は4月に彼女のコンサートにいったんだが、まあ、ホールの大きさも違うし構成も違うから一概には断じられないけれど、前回はブレスまでをも効果音にしちゃうみたいな感じの歌い方。今回はもっとナチュラルなブレスだった。

そして、歌が確実にうまくなっていた。
だんだん、私の論評が届かないところにまで上がっていくような予感がする。

基本的に、ぼくはぼくが自分でできることと比べることでしか批評ができないのだ。

今年は彼女、事務所を変わったりでいろいろとあったみたいだけど、20代でいろいろと大変なことを経ていくのは彼女にとってきっと良いことなんだと思う。良いことにしていけなければ、もともとだめなんだとも思う。

いっしょに行ったトーちゃんとその夜遅く、さてそこで、プロデューサーとしていったいどういう道を彼女に用意すればよいののかということを考えた。ふうむ、と言ったきり、ふたりともその答えを言葉にすることはなかったけど、歌謡曲歌いの彼女としてと、歌謡曲作りの彼女としてと、どんな未来があるのだろうか。トーちゃんには先日からちあきなおみが頭の中に宿っていたせいもあって、なんとなく2人を比べているような節もあったのだが。

「友達の詩」は名作だが、これはできるべくしてできちゃった歌だろうから、そうじゃなくてモノ作りとして意識的に作り上げる歌がどういうものであるのか、ぼくにはまだ腑に落ちるものが聞こえていない。それは詩の問題だろうか? 彼女はもっともっと本を読むべきかもしれない。詩とか、俳句とか、短歌とかでもいい。寺山とか、ギンズバーグとか、そういう母恋いの詩とかも。そうして盗むところから再開してもいいと思う。

昨晩のコンサートを見ながら、彼女の40歳の、50歳のコンサートに行きたいとちらと思っていた。
それまで生きていようと思った。

November 13, 2009

宣伝──ヘドウィグ再降臨

考えてみたら、わたし、自分の本とか講演とかあんまりほとんど宣伝したことがないんだけど、山本耕史のヘドウィグはかなりプッシュしました。

へど2.jpg

まあ、ミュージカル(といってよいのかどうか、これはけっこう演劇とロックコンサートのコラボみたいなステージ)の翻訳はこの作品が最初だったせいもありますが、山本耕史のヘドウィグをやったのは、山本耕史という役者のすごさを知ったという点でもよかったです。この人の仕事ぶりのすごさは、テレビではなかなかわからんと思う。そこら辺のいい加減な兄ちゃんかと思ってたら大間違い。プロというのはすごいと彼と会って思ったもん。

ヘド3.jpg

というわけで、山本ヘドの再々演が今月末から始まります。
お勧めします。
今までヘドを見逃してきたなら、これを見逃すでありません。
今回は短期決戦。
なんか、衣裳とか、変えるとかって言ってるだけどどうなるんだろ。
じつは私もなにも聞いてない。
それに伴ってすこし演技も変わるのかしら? ちょっとたのしみ。

へど1.jpg

相手役のソムン・タクは、ジャニス・ジョプリンとグレース・スリックを足して2を掛けたような歌い方をします。たとえが古いといわれますが、現代の歌手でそいつらに匹敵するようなわかりやすい例は、あるんだろうか?

わたし、これを宣伝しても一銭にもなりませんが、お勧めします。

見なさい。見て、震えなされ。


詳細は以下にあります。

http://www.lovehed.jp

初めての方はぜひここでストーリーや歌詞の訳をおさらいしてから行った方がわかると思います。歌は字幕なしの英語で歌うの。


大阪はたった1回だけの公演。
前回、キャンセルになったからね。
11月27日(金)午後7時から、渾身の大阪厚生年金会館芸術ホール。

東京は12月2日(水) ~12月6日(日) ゼップ東京(お台場)
こちらは昼と夜の公演がいろいろ。

http://www.lovehed.jp/UserEvent/Detail/1

よろしく。


July 14, 2009

代弁者のいない死

死んだという事実すらもがなんだかステージ・パフォーマンスのようにメディアに横溢して、なにをどう考えればよいのかしばらくじっとしているしかなかった。それはまだ続いているけれど、さっきYouTubeでマドンナの欧州ツアーのステージを覗き見たらマイケルのそっくりさんの日本人パフォーマーが登場していて驚いた。そのうち、あ、こういうことなんだと気づいた。

ぼくは70年前後のスーパーハードなロックの時代に思春期を過ごしてきたせいで、80年代に入ってからのミーハーで商業主義なポップの時代にはほとんど同時代の音楽を聴かなくなった。それでもマイケルの「スリラー」のカセットテープ(!)はちゃんと買っていて、新人新聞記者としてかけずり回る中古車の中でほとんどエンドレスで繰り返し聞いていたものだ。なにせ世界で1億枚売れたんだから、ハードロックなぼくでさえその1人であってもおかしくはない。

でもだからといってMJに特別な思いがあったわけじゃなかった。みんながすごいすごいと言う「ビート・イット」にしても「バッド」にしても「ヒストリー」の短編映画にしても、コンセプトはこっぱずかしいくらいに子供っぽいし、そのうちにこの人の奇行ばかりがニュースを賑わし始めた。「キング・オブ・ポップ」だったMJは、次にどんな曲を出すのかよりも、次はどんな顔になっているのかのほうが話題になった。そうして例の男児性愛疑惑。MJは奇人変人の代名詞になった。彼のセックスにみんなが、というか、ぼくも思いを巡らせた。彼はゲイなのか、ペドフィリアなのか。まあ、それはそのうちぼくにとってはどうでもいいというか、きっと彼は性的少数者ですらなくて、少数者どころかひょっとしたら性的希有者、単独者かもしれない、とかまあ。

でもそれは社会的にはどうでもよいことではなくて、死んだ直後もテレビがそうしたゴシップをあえて無視するように彼を讃えれば讃えるほど、ぬぐい去れないスティグマ(穢れ)が影のように暗く向こうに佇んでいるような気がした。

でもさっき、現在進行中のマドンナの欧州ツアーで、マドンナの曲のメドレーの中で急にMJの「ビリー・ジーン」が流れ、日本人のMJソックリさんがそれを踊るのを見ていたら、ああ、マドンナはこうしてMJを追悼してるんだと思った。それでちょっと切なくなった。べつにマドンナもぼくにはお気に入りでもなんでもないのだが。

田村隆一はかつて「新しい家はきらい」だとしてその理由を「死者とともにする食卓もな」いからだと言った。詩人の谷郁雄はそれを引いて「詩人の仕事とは、生と死の間に境界線を引くことではなく、死者を日常の中に蘇らせることだ」と書いた。これは友人の張由起夫くんの指摘だ。

MJ以外にいま、世界中のどの世代も知っている「スター」はおそらくマドンナしか残っていない。MJもマドンナも、YouTubeもMP3もない「古い家」で育ってきた最後のスーパースターだ。マドンナはそんな同胞を「食卓」ならぬステージに蘇らせて追悼しようとしたのだろう、と張くんは言う。

YouTubeやオンライン市場はいま数限りない多くの才能に開放されているし、それらは実際に流通してもいる。でもその選択肢が多ければ多い分だけ、MJのような普遍的なスーパースターはもう誕生できない。MJですら、MJであることができない時代になっていたのだ。

オースン・スコット・カードの小説に「死者の代弁者」という長編がある。死者の思いを継ぐ者としての代弁者を描いた名作。でも、マイケルのような死者には代弁者もいない。だれが何と言おうと、あの歌と踊りは、彼以外にはできない。

代弁者のいない死。死の直前のリハーサルの動きを見て、本当にそう思った。彼は、永遠に喪われた唯一無二の何物かだったのだと今さらながら気づいた。それでいますこし、ぼくは立ちくらんでいるのだ。

March 20, 2009

ハートをつなごう

NHKの「ハートをつなごう」という番組のプロデューサーたちに先日の滞日の際にハーヴィー・ミルクの映画「ミルク」について寄稿を頼まれたのが出来ました。以下のリンクから、選んでください。

http://www.nhk.or.jp/heart-net/lgbt/kiji/index.html

どうぞご笑読を。

4月の公開が近づいたら、このページでまたいろいろとこの映画製作の舞台裏の話を掲載するつもりです。

わが尊敬する大塚隆史さんもおっしゃってましたが、この映画は、あの、やはりオスカーを受賞したすごいドキュメンタリー「ハーヴェイ・ミルク」と対を為すものですわね。これを機に、そっちもまた多くのひとが見ることになるといいと思います。私もじつは80年代の終わりに新宿ゴールデン街の飲み屋である映画関係の若い人にそのドキュメンタリーをビデオで渡されて推奨されるまで、ミルクという人物についてはほとんど知らなかったのです。てか、情報がなかったんだよね。

おもえばずいぶんといろんな情報がいろんな人の手によって紹介されるようになったもんです。たった20年ですが、隔世の感です。

February 25, 2009

「おくりびと」を見た

オフブロードウェイで上演中のミュージカル「アルターボーイズ」の台本と歌詞を翻訳したのですが、その公演のために日本に滞在中に「おくりびと」のアカデミー賞受賞がありました。アメリカでの公開はまだ先なので滞日中に見てしまおうと、さっそく受賞翌日の大混雑の映画館に出向いて見てきました。

なるほど受賞に相応しい、時に可笑しくも泣かせどころを知っている、じつによくできた映画でした。物語はオーケストラの解散で失職したチェロ奏者が妻とともに故郷に帰り、ひょんなことから求人広告の納棺師の職に間違って応募してしまうことから始まります。くすぐりや遊びも交えた小山薫堂の脚本で主役の本木雅弘はもちろん、山崎努もいい感じです。

日本のテレビや新聞は受賞後数日はその話題で持ち切りで、さまざまに受賞の理由を分析してもいました。納棺師という特殊な仕事を通しての日本人の死生観の描写や家族の再生の物語がアメリカ人審査員の琴線に触れたのは確かでしょう。ところがその前提として、5800人の審査員が同じようなアメリカのTVドラマを知っていたことが、「おくりびと」の印象に見事なコントラストを与えたのではないかと気づきました。

01年から05年にかけてアメリカで5シーズンにわたって人気を博した「シックス・フィート・アンダー」というドラマがありました。有料ケーブル局HBOで放送されていたいたこの番組のタイトルは、米国で棺を土葬する際に土を掘る、地下6フィート(約180cm)の深さのことを意味しています。毎回、冒頭で人が死ぬシーンから始まる1時間もののドラマで、その遺体は主人公の家業である葬儀屋に運び込まれるのです。

さまざまな商品見本の棺も並ぶロサンゼルス郊外のその葬儀屋の名は「フィッシャー&サンズ」(フィッシャーとその息子たち)。そこの家族たちの物語を描いたこのドラマにはヒスパニック系の遺体整復師も登場し、「おくりびと」同様に死者の顔に化粧をしてやったりもします。

つまり、背景となる舞台設定は「おくりびと」とほとんど同じなのです。ところが何が違うかというと、「シックス・フィート・アンダー」はそのフィッシャー家の人びとの浮気や不和や病気や死など、家族の機能不全と崩壊とを描いているのに対し、「おくりびと」は死を通じた家族の再生を描いてあくまでもやさしく温かい。ベクトルが逆なんですね。

この後者を見たときの人心地は、前者の存在を知っているアメリカ人の審査員たちにはすばらしく際立った、別の地平の癒しだったに違いありません。

オスカーの受賞作はいつもその時代の、その年の、雰囲気やら匂いみたいなものを反映しています。機能不全の高度金融資本主義社会、機能不全の地球環境、機能不全の家族。そうした重苦しさからの脱却と再生を謳うオバマ政権の誕生を背景に、アメリカ人はいま、あえて理念と理想を見ようとしているように思えます。「おくりびと」はまさにそこを衝いた。本命だったとされるイスラエル制作のレバノン戦争の映画をかわしたのは、そのせいだったんじゃないのか?

それは、インドのスラム街からの脱出と希望を描いて作品賞や監督賞など8冠に輝いた「スラムドッグ・ミリオネア」や、傑出した実在のゲイの政治家ハーヴィー・ミルクを描いた「ミルク」の主演男優賞と脚本賞の受賞にも如実に現れているように思えるのです。

February 05, 2009

アルターボーイズ

このところすっかりブログを更新せずになってました。
なんというか、多忙というほどでもないんだけれど、わたわたと気ぜわしいというか、気乗りがしないというか、だいたい、これとは別の「脂肪肝」ブログもなんだかねえ、どこのレストランに行っても、なんだかみんな同じだなあって感じが付いて回ってすっかりやる気がそげている状態です。

で、じつはいま東京にいます。
オフブロードウェイの人気ポップミュージカル「アルターボーイズ」というのをわたしが翻訳し、歌詞も当てはめ、すべてを日本語の台本にして、この10日から新宿FACEというところで公演するのです。18公演あります。おかげさまでチケットはだいたいはけてしまいました。

そんでこないだからその稽古場がよいをしているのです。
というのも、全12曲ある歌の歌詞がうまくメロディーにはまっているか、セリフが噛み合っているか、いいづらくはないか、これらはやはり現場で動いている俳優たちを見ながらでないと修正できないので、それをやっているのですね。

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登場人物は5人。カソリックの教会の、神の愛を伝えるボーイバンドが日本にもやってきて、コンサート会場のファンたちの迷える魂を浄化する、という設定です。この5人がそのボーイバンドのメンバーというわけです。

不勉強にしてわたし、この5人の俳優というかダンサーというか歌手というか、知っていたのは田中ロウマくんだけでした。リーダー役のマシューには東山義久くん、マーク役に中河内雅貴くん、ルーク役に田中ロウマくん、フアン(Juan)役に植木豪くん、そしてなぜかユダヤ人のアブラハム役に良知真次くんです。

で、こんなに大量のセリフと歌と踊りがあるのに、この5人の日本の若者たちは通常の演劇の準備期間と同じ1カ月の稽古(主催のニッポン放送がタカをくくってたんでしょう)で本番に臨むという、過酷な試練に現在へろへろながらも意気軒昂です。しかしすごい子たちなんだ、これが。

一昨日、初の通し稽古2回。
2回目は衣装やマイクなどを着けての本番さながらのもの。
2回は体力的にだって相当きつい。
なのにそれからセリフと歌と仕草とダンスのダメ出しで夜は10時にもなる。

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2回目の通しで、アブちゃん役の良知真次くんは最後に涙を流しながらセリフを言い、そのセリフを書いた私を泣かせました。うーん、物書き冥利に尽きる。
良知くんっていったい何者? と思ってグーグルしたら、いろいろホームページとかあるんですね。でも、この子は写真に写っている姿形より実物が100倍いい。オンラインにある写真の彼とはぜんぜん違う。その実物のよさをアピールできたら、彼は今後どんどん人気が出て来るんじゃないだろうかって思います。

マーク役の中河内くんはこれまたじつに面白い役者です。ちょいと訳ありな役どころなんですが、きちんと自分の個性の上にその役を載せようとしている。いまどきの男の子の、その「いまどき」な感じが、ステレオタイプに陥っているNY版のマークよりずっといい。キャラが立ってるっていうのですかね。なにより歌も踊りもすごく頑張っているのが、「いまどき」感とのギャップになってじつに興味深いのです。

フアン役の植木豪くんは、見事としか言いようのない体の動きでステージを支えています。演技はもちろんうまいし。5人の中でいちばん年上だというんですが、ときどき10代の男の子に見えたりする不思議な淡さがあるんですね。きっと性格がいいんだろうな。目が合うとニコッとして、おじさんはそういうのにも感動しています。しかし、あんなすごいダンスで、ケガしないかとわたしは気が気じゃありません。本人はいたって平常心なんですが。

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田中ロウマくんは「レント」に続いての(ほぼ休みなしでの)ミュージカルで、さすがな歌を披露してくれます。というか、ソロの部分はもちろん、バックコーラスが彼の存在によって堅固になっている。ありがたいことです。「レント」の時にも指摘したんだけれど、セリフ回しに彼の素の部分が入ってきて、それはアマチュアリスティックな要素ではあるんだけど、彼の場合はなにかそれがとてもいいんだね。これも植木くんと同じく彼自身の性格の素直さなんだと思う。

東山義久くんはこのボーイズバンドのリーダー役です。じっさい、稽古でもみんなにリーダーと呼ばれていて、現実に歌よし踊りよしのオールマイティなプレイヤー。グループのみんなに代わって演出や制作にいろいろ逆提案したりして、それもこれも彼のこれまでの経験がきちんと血肉となっているからなんでしょう。植木くんとはまたひとあじ違うとてもキレの良い踊りと、このミュージカルで最もセリフが多く最も重要な舞台回しを、しっかりとこなしています。プロだねえ。NY版のマシューより色気もあって、彼が日本版のアルターボーイズ全体の日本らしさを支えています。

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この5人、そしてなにより仲が良い。東山くんはみんなへのダメ出し役も買って出ているが、ほかの4人はそれを真剣に聞いているし、そうじゃないときはみんなでじゃれ合ってて、稽古場の雰囲気がすごくいいですね。

さあ、昨日からはバンドが入っての実際の音合わせに移りました。
こまかい遊びやおかずがこれから付け加えられていく。
本番まで、もうあまり時間がなくて、5人の疲労もピークだろうけど、これはなかなかいいステージになりそうです。


October 02, 2008

和田アキ子@アポロ?

先週末からまた日本に帰っております。

で、和田アキ子、アポロシアターで念願のコンサートってんで、日本の芸能リポーターたちがこぞって同行取材してるんだねえ、すげえなあ、って昨日のワイドショー(ってまだいうの?)見るとはなしに眺めてて思いました。昼のテレビはひとしきりその話題ですもの。で、みんなすごいすごいって賞賛してる。 賞賛? なに、それ?

まあ、芸能生活何周年? ちがうか、還暦記念なんだっけ? ま、どっちでもいいけど、それはがんばったんだねとは言えるかもしれないけれど、アポロシアターでコンサートをやったことがすごいってのは、ちょっと違うんじゃないだろうか。もう、そういう舶来ものってか、アメリカの本場のなんちゃらかんちゃらってのは、そりゃ、本人は感涙かもしれないが、あんなの、金払えばオレだってコンサート開けるんだよ。カーネギーホールだってそう。べつにコンサートやるのにオーディションあるわけでなし、まあ、書類審査くらいはするが、それだって申請手続きの問題。だいたいはホールが空いてればそれは貸すますわ。貸しホール業なんですからねえ。まあ、私が開いたところでそれは客が来ないってだけの話。

たとえば和田アキ子がね、NYの大R&B,あるいはソウルミュージック大会で、並みいる大御所に混じってゲスト出演とかオーディション受かって参加する、ともなれば話は違うかもしれない。しかし、プロモーターも日本人、バンドも日本人、おまけに観客だってNYの日本人および日系人コミュニティにチケット回して売ってもらったり無料で動員かけたりして、ですもん。私の知り合い、みんなチケットさばくのどうしようって困ってました。

だからこれ、べつにぜんぜん大したことない話でしょ。どうしてそこまでして和田アキ子に媚び売る必要あるのかしら。あるいは単なるネタですか?

日本のテレビ、おかしい。
勉強してないテレビタレントがニュース報道の司会してるし。「一般人の感覚でニュースを」ってのとも違う。
おまけに、うるさい。みんな、声、張り上げ過ぎ。
どうでもいい楽屋ネタでそんなに騒ぐな。
美味そうでもない普通の料理をあんなに美味そうに解説するな。
深刻ぶるだけがドラマの原動力みたいなドラマを作るな。
おじさん、腹が立ってきたぞ。

September 22, 2008

アルター・ボーイズの公演ですよ

今年2サイクル目のヘドウィグに続いて、来年2月にまたわたしの翻訳したオフブロードウェイのミュージカル『アルター・ボーイズ』公演が東京で行われます。

http://www.altarboyz.jp/

アルターボーイズ(altar boys)というのは、キリスト教会の礼拝儀式で司祭を助ける侍者の少年たちのことです。で、ミュージカルの中の物語は、このクリスチャンのアルターボーイたちが5人組ボーイバンド Altar Boyz を結成して、世界巡業で歌と踊りの公演布教活動をしているという設定。その旅公演の先々で、神の教えを説きながら聴衆の魂を救うというわけさ。まあ、だいたい全編ボーイバンドのコンサート仕立てですね。これがロックありポップありバラードありヒップホップありラテンありで楽しい楽しい。

で、これがオフブロードウェイ版のCM。

アメリカではボーイズバンドいまちょっと下火だけど、まあその辺も教会ってことでややズレ気味の流行っていう設定か。でも、韓国ではこの韓国版公演がかなりヒットしてたらしいです。あそこもいまボーイバンド全盛だしね。アメリカでもシカゴやLAなどでツアー大盛況、ヨーロッパにも飛び火して、なんとハンガリーとかでもやってるんだわね。その世界サークルの中にこんどは日本も加わる、というわけです。

さてそして、今度こそ、今回こそ、歌はぜんぶ日本語です(笑)。
私がニューヨークの深夜にひとり、毎夜このiMacのキーボードの前でオルターボーイズのオリジナルCDを聞きながら、メロディーとリズムに合わせて日本語の音韻を1つ1つ振り分け、しかもCDといっしょに自分で日本語で歌ってみもしながら、書いては直し歌っては直しして日本語に当てはめた歌詞です。大労作! はあ〜、疲れた。

いやしかし歌詞は難しいわ。英語と日本語では一音節の情報量がぜんぜん違うんだもん。でもそこはあーた、言語フェチのわたし。ほとんど情報をそっくり入れ込んで、なおかつ日本語にして無理のない歌詞に仕上げた。そのへん、適当なところで諦めて原語の意味をばっさり削ぎ落として“意訳+超訳+捏造”してしまうそこらの輩とはわけが違います。えへん。

で、出演者はこの5人。

やたらと脱いでしなってのはレスリー・キーがまたこの宣伝用の写真を撮ってくれたからです。レスリーはとてもいい。
でもおぢさん、正直いうと田中ロウマくんしか知りません……とほほ。
なんせ、NYに住んでるんで日本の芸能界知らないの。
しかしプロデューサーたちに聞いたところによれば、あまりテレビの露出はないけどステージで活躍してるダイヤモンドドッグスというグループのメインの子だとかもいて、なかなか伸び盛りの面白い才能たちらしい。もうすぐわたしも実際に彼らに会ってみます。若い才能が、またこのミュージカルをきっかけに新しく伸びていってほしいです。

ところで、「神の教えを説きながら聴衆の魂を救う」って紹介しましたが、わたしはこの「神」ってのがダメなのですね。まあ、赦してやってるけど。

そのわたしがなぜにこのような物語を翻訳したか、というと、まあ、これ、表向きはキリスト教を題材にしてるけど、随所にいろいろひねりがあって、わかるでしょ、ちょっと違うのです。不信心者の多いニューヨークでヒットしてるってのも、その証左ではありましょう。たとえば、この5人組の中にユダヤ人が1人いるんだよね。ユダヤ人ってのはキリスト教ではなくてユダヤ教なのだ、本来は。その彼が、歌詞を作る才能を買われてこのバンドにリクルートされてる。それからもう1つ、キリスト教といっても、アメリカはプロテスタントが多いんだが、この5人は少数派であるカトリックのボーイ・バンド。ね、ちゃんとマイノリティ問題が入ってるでしょ? そして、そうなれば言わずもがなですが、もちろん、ゲイのテーストも。すべてのマイノリティ問題がこれにかぶさって表現されるわけ。うふふ。キリスト教にはゲイってのはタブーなんだけど、いまどきのショーはTVも演劇も映画もミュージカルも、すべてこのゲイな感じが入らなければ成立しないのかもしれませんね。

いやしかしこれはキリスト教をおちょくったりしてるわけじゃありません。まじめに取り扱っています。でも、それをちゃんとショーにしてる。現代のエンターテインメントとして取り上げているわけで、やはり裏方はかなり知的なんだろうなって思います。まあ、日本ではその辺の宗教的背景も共有されていないから受け取り方もやや違うだろうけど、そのあたりはわたしの翻訳台本でまたちゃんとわかるようになっていますことよ。

まあ、ご覧あれかし。
公演間近になったらリマインダーとしてまた告知します。

July 10, 2008

石田衣良の「娼年」という小説

石田衣良という作家を論じるにこの「娼年」という作品を通じてでいいのか、これしか読んだことがないのでわたしはまったくわからないけれど、どうなんでしょうね。昨晩、地下鉄の中でこれを読み終えての感想は、うーん、なんというか、そつのなさで終わっちゃってるなあ、という感じのものでした。

ヘタクソじゃあまったくないんだけど、いやむしろ文章としてはいろいろと頑張って記述してるなという感じもあるのだが、いかんせん、主人公を20歳の男の子にして、それをずいぶんともったいつけて大人なふうにも描いているのにもかかわらずやはりしょせんはガキなんですね。「女もセックスも退屈でつまらない」といわせているんだけど、それもカッコつけだけみたいな感じがする。底が浅いんだ。

こういうとき、この主人公に、他のいろんな傑作の同じような年頃の男の子をぶつけてみるとわかることがあるの。たとえばこの主人公の「リョウ」くんに、大江のバードをぶつけてみる、とか。するとさ、「リョウ」くん、微塵もなくなるのよ。薄っぺらな仮面がはがれる。どうでもいいじゃん、そんなこと、ってなる。

じつはわたしもむかし20代の終わりに、こうした秘密売春クラブを描いた短編を「新潮」に発表したことがあって、そこでもやはり精一杯、主人公の男の子を大人びた人物に仕立て上げたのね。わたしのそれはたしかぜんぜんセックスを描かなかったんだけど、それはセックスをたいそうなものとは思ってない主人公だったからで、しかもそのセックスってのはほかの人にはたいそうなものだっていうのを利用して秘密クラブが運営されているってことに自覚的だったからなのです。

でね、その思いはいまも正しかったんじゃないかって思うのだ。セックスって、たいそうなものだって描くにはほんと、大江みたいに徹底しなきゃならんでしょ。でもそれは虚構の粋を極めて真実にたどり着く、みたいな方法なんですね。でも、いまも(あるいはいまになって)思うに、売春に罪悪感とかを感じるのって、ちょっとセックスを買いかぶり過ぎなんじゃないかって思うわけさ。

これを意識化できたのはハスラー・アキラの「売男日記」っていうジャーナルを読んでからなんだけど、売春夫にとってセックスってのは相手が売春セックスにどう罪悪感を持っていようが、清らかで生温かい癒しの商品だってことなんですね。

愛のないセックスって言うけど、セックスを生殖から独立させたら、セックスそのものがコミュニケーションの手段になり得る。愛がなくたって、というか、ときどき、セックスに愛が邪魔だったりしません? その辺の意識操作というか、そういうのを経てしまうと、セックスを、愛といっしょでないと成り立たないとする卑下から解放してあげることができるのだ。友情でするセックスってのも、またいいもんなんじゃないかって思ったりするのよ。もっとも、相手の気持ちもあるのでなかなかそういうのは難しかったりするけどね。

そういうところまで考えないと、小説として成立しないんじゃないのかなあ。セックスをそうたいそうなものとして描くのって、ちょっと違うような気がします。いや、この「娼年」に描かれるセックスはそれじたいとしてはいいんですが、それを「リョウ」くんが感心してしまってはお里が知れる。そういう印象。

石田衣良って、どうなんでしょう。
小説は予定調和的に上手な書き手だっていう印象を持ちました(さっきから言うようにこれ一冊しか読んでないんだけどね)。それに目線がとってもやさしいふう。てか、やさしいでしょうって言ってるようなふう。偏見ないよ、って。そして、いろんなことにちゃんと答えが出るふう。そんでもって、このそつのなさっぽさのせいで、なんとなくうさん臭い感じがするんだよね。なんでも教えてあげますよ、ってな感じが災いしてるみたいな気がするのですわ。

さて、わたしのこの勝手な読後印象、間違っているならごめんなさい。
もう1冊くらい読むべきかな。
ま、縁があったら……。
失礼しました。

April 22, 2008

ゲイのペンギンのカップルの絵本

次のような文章を、3年前に、いつか書くかもしれない小説かなんかの挿話として書き置いたことがあります(ってか、ずいぶんと小説、書こうという気が起きてないなあ)。その絵本を読んだいつかの幼稚園児が、いずれ時がたって次のように気づくことを願って。

 同性愛のひとのカップルをこの目で初めて見たとき、ぼくはなぜかペンギンのカップルの姿を連想をした。で、それからも彼らに会うたびにずっと二羽のペンギンの姿が頭に浮かんだ。なぜだったのか、それからしばらくしてからわかった。ずっとずっとまえ、幼稚園のときに見た絵本のせいだ。そこにはオス同士のペンギンのカップルが仲良く二羽で暮らして、捨てられた卵まで孵したっていう物語が描かれていた。

 そう思い出したとき、同性愛のひとのカップルを見たのは彼らが最初ではなかったんだと気づいた。あの幼稚園の園長先生と若先生、ナギ先生とかいったっけ、あの2人も、カップルだったんじゃなかったのかって。

 そのとき、ぼくの頭の中でなんだかいっせいに世界の見え方が変わった。吹雪の中でぴったり身を寄せて立ち尽くす、目に見えない牡ペンギンや牝ペンギンのカップルが、あちこちにいっせいに見えだしたような気がしたんだ。

そのエピソードはたしか、アメリカで次のような絵本が出版されたのに触発されて書いたもんだったんですね。
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その本は翌年2006年に、スペイン語にも翻訳された。
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それがいま、日本語にもなりました。

tango.jpg

この物語の基になってるのはじつは実話なんですね。あのころ、ニューヨークではセントラルパークの動物園やコニーアイランドの水族館でオス同士のペンギンカップルが大きなニュースになりました。まあ、自然界には、とくに鳥類には同性同士のカップルがよく見られているんですが(同性愛は反自然というテーゼはすでに科学的には破綻してるんです)、そのセントラルパークのペンギンカップル、ロイとシロが、卵によく似た石を何日も温めるので、見かねた飼育係が別に産み落とされて親ペンギンに捨てられてしまった卵を彼らの巣に入れたところ、ひな娘のタンゴが生まれたんです。「and Tango makes three」はつまり、It takes two to tango (タンゴを踊るには2人が必要)というフレーズがあるんだけど、そのタンゴを踊ったら3人になっちゃった、っていう意味なんですよね。ちょっといい話。

翻訳したのは去年の参院選に民主党から立候補した前大阪府議、尾辻かな子さんら。
出版社はポット出版。

アマゾンでも買えるよ。

http://www.amazon.co.jp/タンタンタンゴはパパふたり-ジャスティン-リチャードソン/dp/478080115X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1208797882&sr=8-1

また、東京・大阪で出版記念パーティーも予定されているようです。

◇【東京開催】━━━━━━━━━━━━━━
日時:2008年4月27日(日)17:00~19:00
会場:九州男(くすお)
   新宿区新宿2-17-1サンフラワービル3F  
   電話03-3354-5050
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇【大阪開催】━━━━━━━━━━━━━━
日時:2008年5月11日(日)15:00~17:00
会場:Village(ビレッジ)
   大阪市北区神山町14-3アド神山2F
電話 06-6365-1151
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

会費:3,000円(絵本+1ドリンクつき)
主催:尾辻かな子とレインボーネットワーク

翻訳の尾辻かな子、前田和男両氏の挨拶の他、ゲストを交えてのトークショーも予定しているらしいです。時間と興味があったらどうぞ。

April 21, 2008

東京湾景

日本に行ったことで中断していた「東京湾景」を読み終える。
吉田修一の、この、なんともいえない適度感というのは何なんだろう。
深みにはまっていかない。とはいえ軽いわけではない。
喫水線あたりで紡がれる物語。

この小説の収穫は、ここに描かれる「亮介」という肉体労働者だろうな。とはいえ、これも従来の小説に登場してきたような肉体労働者とは違って喫水線上の男。なんともヘテロセクシュアルなんだが、たしかにゲイ視線、オンナ視線、作者視線では面倒くさい頭を持ってない、「癪に触るけど惹かれちゃうんだよねえ」「いいよねえ、こういうの」という、愛玩物的、描き方。惚れられようがられまいがおれの知ったこっちゃねえ、という自意識の未分化的生物。

文学に弱点があるとしたら、それは、「書いてるやつは所詮、書けるやつじゃねえか」ということだと思っているのだが、こういう亮介みたいな、亮介自身は自身を書けない男、を提出されるとなるほどねえと納得してしまう。書き手というのは、だから必要なのだ、と。

終盤、というか終始、三文恋愛小説の装いを捨てないのでノルウェイの森なんかのことを思い出しもしたが、ノルウェイの森はぜんぜんわが琴線に触れなかったのは、そうね、みんな自意識ごっこやってたからか。

東京湾景、痛いセリフが出てくる。まるで読むのをいままで先延ばしにしていたのはそのせいだといわんばかりの。


「どうして? とつぜん別れてくれなんて残酷なこと、平気で言えるくせに、どうして二股かけるくらいのことができないのよ!」

「あんなに愛してたのに……、それでも終わったんだよ。人って何にでも飽きるんだよ。自分じゃどうしようもないんだよ。好きでいたいって思ってるのに、心が勝手に、もう飽きたって言うんだよ」

February 20, 2008

最高裁は失礼だ

ロバート・メイプルソープの写真集が「猥褻ではない」とのお墨付きを日本の最高裁からいただいて、そりゃそうだ当然だと反応するのはちょっと違うんでないかいと思います。

以下、朝日・コムから


男性器映る写真集「わいせつでない」 最高裁判決
2008年02月19日11時09分

 米国の写真家、ロバート・メイプルソープ氏(故人)の写真集について「男性器のアップの写真などが含まれており、わいせつ物にあたる」と輸入を禁じたのは違法だとして、出版元の社長が禁止処分の取り消しなどを国に求めた訴訟の上告審判決が19日あった。最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は「写真集は芸術的観点で構成されており、全体としてみれば社会通念に照らして風俗を害さない」とわいせつ性を否定。請求を退けた二審・東京高裁判決を破棄し、輸入禁止処分を取り消した。

 同じ作品を含む同氏の別の写真集について、最高裁は99年に「わいせつ物にあたる」として輸入禁止処分は妥当と判断していた。今回の判断には、わいせつをめぐる社会の価値観が変化したことが影響しているとみられる。

 堀籠幸男裁判官は「男女を問わず性器が露骨に、中央に大きく配置されていればわいせつ物だ。多数意見は写真集の芸術性を重く見過ぎている」との反対意見を述べた。

 訴訟を起こしていたのは東京都内の映画配給会社「アップリンク」の浅井隆社長(52)。99年に浅井さんがこの写真集を持って米国から帰国した際、成田空港の税関から関税定率法で輸入が禁じられた「風俗を害すべき書籍、図画」にあたるとされ、没収された。

 写真集は384ページに男性ヌードや花、肖像など261作品を収録。税関はこのうち計19ページに掲載され、男性の性器を強調したモノクロの18作品を「わいせつ」とした。

 この判断に対し、02年1月の一審・東京地裁判決は「芸術的な書籍として国内で流通している」と処分を取り消し、70万円の賠償を国に命じた。しかし、03年3月の二審・東京高裁判決は「健全な社会通念に照らすとわいせつだ」として原告の逆転敗訴としていた。

 第三小法廷は(1)メイプルソープ氏は現代美術の第一人者として高い評価を得ている(2)写真芸術に高い関心を持つ者の購読を想定し、主要な作品を集めて全体像を概観している(3)性器が映る写真の占める比重は相当に低い——などと指摘。作品の性的な刺激は緩和されており、写真集全体として風俗を害さないと結論づけた。

****

うーむ、アップリンクの浅井さんは、じつはこれを裁判を起こそうと思って仕組んだのですね。わざと国内での5年もの販売実績を作り、この写真集が公序良俗を紊乱していないという土台を築いてから外国に持ち出して再度入国した際にこれを摘発させるという手の込んだ作戦を練っていた。これは見事です。ですから、政治的にはこの最高裁の判断を導いた浅井さんには「でかした!」の賛辞を贈るにやぶさかではありません。

そのうえで、でも、本来は猥褻とはどういうものなのか、という点も浅井さんはわかっていらっしゃると思います。国家権力が定義するなんて、しゃらくせえ、って思ってらっしゃるわけだ。だから、これはあくまでも社会的な価値判断の変革を形にするための戦略的権謀術数なわけで。

では本質的にはどういうことなのか。
メイプルソープが、男性器とともに、どうしてああも多くの花の写真を撮ったか、というのは、それは美しいからです。
でも、花がどうして美しいのか?
それはあれが性器だからです。そう、最高裁まで争った人間の男性器と同じものなのですね。
あんなに卑猥な写真集はありません。まさに堀籠幸男裁判官がいうように「おしべめしべを問わず性器が露骨に、中央に大きく配置されていればわいせつ物だ。写真集の芸術性に誤魔化されてはいけない」のです。

ですからあれは、猥褻なものをそのまま提示して美しいと感じさせているのです。
メイプルソープは、猥褻なものを提示して、猥褻って、なんて美しいんだっていっているのです。
それを、「猥褻ではない」って、本来は、最高裁はじつに失礼じゃないか、ってことです。

メイプルソープは、花と同様に、男性器を猥褻で美しいと思った(あるいはその逆の順番か)。その美しさはもちろん彼のセクシュアリティに結びついている美しさの感覚です。もっといえば人間であることに関係する美への感覚です(犬は人間の性器を美しいとは思わないでしょうし)。さらによくある70年代的言い方でいえば、彼は己の猥褻さへの欲望を解放しようとした。彼の写真を見ていれば、いまにも彼があの男性器に触れたい頬ずりしたいキスしたい口に含みたい、でもその代わりに写真に撮った、他人と共有したというのが伝わってきます。一見無機質にも思えるあの黒い男性器の鉱物のような銀粉のような輝きを、彼がまんじりと視姦しているのがわかるのです。それは花への視線と同じです。

じつは、花が性器だと気づいたのは、不覚にも私も、大昔にメイプルソープの写真集を目にしてからでした。ほんと、ありゃ、思わずあちゃーとかひえーとか呻いてしまいそうな、ときには赤面するほどいやらしくもすごい写真集ですものね。一部をご覧あれ

そうですよ、みなさん。

「何かご趣味は?」
「ええ、ちょっとお花を」
「あら、まあ……」

爾来、上記の会話の意味は、私にとって永遠に変わってしまったわけです。
蘭を集めております、とか、よくもまあ羞ずかしげもなく公言できるもんだ、と。
少しは赤面しながらおっしゃいなさいな、と。

卑猥とは何か、猥褻とは何か。
劣情を刺激するものでしょうかね。
劣情という言葉自体、価値観の入ったものだからわけわかんないですけど。

むかしね、「エマニエル夫人」って映画あったでしょ。高校か大学時代だったよなあ、あれ。
ボカシがかかるでしょ。あのボカシほど劣情を刺激するものはありません。いったい何が映っているのか、気になって気になって妄想がふくれます。ああ、そうだ、あの「時計じかけのオレンジ」もそうでした。ボカシが気になって、性ホルモン横溢の、脳にまで精液が回ってるような年齢でしたからね、もうおくびにも出さなかったが悶々と妄想を重ねていた時期ですね。

で、仕事でハワイに行ったときにヒマ見つけて当時まだあったタワーレコードでビデオを買ったんですよ、昔年の妄想を解決するために。

そうして見てみた。
ああ、オレはこんなものに欲情していたんだ、って、もう、ほんと、がっかりするような、なさけないようなものしか映ってませんでした。オレの青春を返せ、ってな感じです。

何だったんでしょう、あの「劣情」は。
ボカシは、罪だと思います。健全な欲望を、淫らにひねりまくります。
もちろん、罪もまたちょっとソソルものでもあるのですがね。はは。

何の話でしたっけ?
ま、そういうこってすわ。
失礼しました。

January 26, 2008

クローバーフィールド

火曜日に、噂の映画「Cloverfield」を観に行った。
ら、風邪引いた。フルーかもしれないが、日本人の私には風邪とインフルエンザの違いがまったくわからない。
悪寒がし、薬を飲んで寝ることに決めたら、あっというまにいま土曜日の朝の6時過ぎである。丸3日以上、寝てた。
おかげで治ったようだ。まだ頭がかんぜんには活動していないが。

で、クローバーフィールドである。
うーむ、やられた。
感興もクソもないが、怖い、というか、ものすごくカネがかかってるC級映画というか、とグダグダ相反するコメントでしか表現できないような映画である。


巷間言われているように、これは「ブレアウィッチ・プロジェクト」の手法で「9.11」めいた出来事を映画にしたものだ。

つまり、カメラはハンディカメラ1個。すなわち、主観的な視点しかないので、何が起こっているのかまったくわからない。これは事件の現場に閉じ込められたときに起こることだ。取材においては現場主義とか言われるが、じつは現場にいてはなにもわからない。情報は統合されて初めて意味をなすのだが、現場では部分部分の積み重ねのその要素が断片としてしか示されない。したがって、つうじょうは、なにが起こっているのかいちばんよくわかるのは現場にいる人間ではなくて、テレビの前で解説を見ている人間だ。

クローバーフィールドは、本来ならこのテレビ画面(スクリーンでも可)の前にいるはずの観客を「現場」に縛り付ける。他の視点、他の情報はいっさいない。したがって情報は焦点を結ばない。この辺が恐怖映画としてじつにcleverである。だから、なんで自由の女神の首っ玉が飛んできたのか、なんでダウンタウンで爆発が起きているのか、あの不気味な鳴動音が何なのか、軍が何をどう展開してしているのか、観客はさっぱりわからないのだ(ほんとはわかるけどね)。 これは、正確には恐怖というよりも不安というか、混乱というか、そういうものの総体としての居心地の悪さに近い。stress, irritation, annoyance, upset....そういうものを恐怖にくっつけて提供するのさ。cleverです。

でも、cleverなのはそれだけで、あとはカネに任せたCG特撮で80分をしのぐ(正確には60分ほど)。脚本は、無理がある。なにせ、カメラは1個。そのカメラをずっと写し続けなければならないが、現場にいる人間はふつうはカメラを放り出して逃げるだろ。おまけに、カメラが一カ所にいたら物語は進まないので、やたらと主人公たちはマンハッタンの中を動くことになる。ふつうは足がすくんで動けないだろ。

しかし、主人公はやはりアメリカン。すなわちヒーローなのだ。それも、恋人を救うためだけという、じつにポストモダンなこじんまりとしたヒロイックな行動でカメラを移動させる。これがC級映画のC級たる所以である。

だが、9.11を知っているわれわれとしては、いや、胸が苦しくなる恐怖感。それは最後まで続く。

とはいえ(ほらまた相反するコメント)、この「最後」がじつはわかっているのである。それは、私はこの映画の最大の失敗だと断言するのだが、もう、最初の最初に、なんとテロップで、この「最後」を“予告”してしまっているのだ。これはなんとも興醒めではないか? しかも「Cloverfield」という謎の言葉まで、何かを明かしてしまっちゃうのよ! そんな、自分でネタバレさせてどーすんの、と私なんぞ、冒頭でカネ返せと思ってしまった(とまでは思わなかったが、後にそう思った)。

この最初のテロップは、もう最後の最後に持ってきてもなんの不具合もなかったはずである。いやむしろそうでなければならなかった(力、入ってるね)。

そうしてそのテロップの後に、私たちは初めてこの映画のテーマ音楽が劇場に流れるのを聞き、おおおおお、と震撼するのである──どうしてそうしなかったかなあ。それだったら最後にまたヒエーッとなって笑うしかなかったのに。

日本でも春に公開予定。みなさん、タイトルロールが流れても席を立たず、じっとその音楽を聴いて、制作者のオマージュの対象に思いを馳せるべし。そう、あの映画は、本来はこうやって撮られてこそアメリカ版だったのである。

うーん、映画としての点数は50点。
でも、見て損はなし、って感じ。
相反する評価ですが、そうとしか言えませ〜ん。

September 09, 2007

エディット・ピアフ〜愛の讃歌

9月29日から日本で公開される「エディット・ピアフ〜愛の讃歌」の試写会、8月の炎夏の東京で行って参りました。観ていて、最後のところで頭が爆発するかと思った。まいったね。

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この映画を観て思ったのは時間のむごさでした。いや、時間ではないな、なんだろう、歴史? うーん、そんな大層なものではなくて、運命? いや、事実、か。事実のむごさ。すでに起こった事実への、どうにもしようのなさにうちのめされるのです。

冒頭のシーンがそれを示します。最初にピアフの晩年の姿が映し出されるのです。ぼろぼろになって、ベッドチェアに座っている。そこで私たちはなんとなく気づく。あ、これはもうすでに起きてしまったことなんだ。換えようのない事実なんだ、と。これから始まる映画は、ここへ至る物語なんだ、ってね。もちろん、映画で描かれるのは虚構ではありますがね。

そのうちにその予感は確信へとかわっていきます。一つ一つのシーンがうねりながらあの冒頭のシーンへと雪崩れ込もうとするのです。それはもうどうしようもなく止めることのできない事実で、すでに決まっている、既定の道筋なのです。それ以外に逸れようもない運命なのです。伝記映画のむごさではありません。それは私たちに普遍の事実なのです。

その冒頭のシーンの直後から、時間は縦横無尽に飛び回りはじめます。ステージに、子供時代に、アマチュア時代に、幸せと不幸せが織物のように交錯して。

むごいなあ──と、そんな思いを植え付けられ通底させて、彼女の人生は語られていきます。でね、ピアフは交通事故後にモルヒネ中毒になるって示されるので、前半の時間のぶっ飛びは麻薬のフラッシュバックのようにも見えちゃいます。しかし後半にかけてはこれが、懐古というか、過去への望郷というか、楽しかった日々を思い出す彼女の意志的なイメージへとじつに自然に変化していくようなのです。

さて、「幸せと不幸せが織物のように交錯して」と書きましたが、ですからここにはもう一つ、交錯する二方向の時間の流れもあるのです。一つは最初に言った、結末へと、晩年へと止めどもなく押し寄せるベクトル。もう一つは、それに抗するかのように、彼女の頭の中での、過去へと遡ろうとするベクトル──ティティンとの生活、デビューの時、レコーディングの時、コンサートの時、デートリッヒとの邂逅、そしてマルセルとの恋。こうして物語は相反する二組の要素を絡ませ紡ぎながら、すでに定まっているもののどうしようもなさを積み上げていくのです。それは不可避と可避との格闘です。取り返しのつかないものへの、思い出の反逆です。もちろん、はなから勝者は決まっているのですが。

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それにしても、主演のマリオン・コティヤールはピアフの降臨のように見えます。というか、スクリーンに映る彼女の顔を、私はフェリーニの「道」のジュリエッタ・マシーナに重なるものとして見ていました。存在自体がしだいに悲しみそのものとなってゆく女性。映画史上、あのジェルソミーナ以外にそんな女性は見たことがなかったのに。

歌は多く吹き替えでしょうが、一つ、オランピア劇場のステージで倒れる直前の「パダン・パダン」は誰が歌ったのでしょう。あの「パダン・パダン」はすごいです。あれがコティヤールの歌なら、ピアフも彼女に演じられて本望だと思います。

もう一つ、ラストで歌われる歌は、日本語では「水に流して」というタイトルになっていますが、これはそんな甘っちょろい歌ではないんだって気づかされました。原題は「Non, Je ne regret」つまり「いいえ、私は後悔しない」という宣言です。水に流して、という、どうでもいい感じではない。むしろ「水に投げ捨てて」といったほうがよいような、強い意志なのです。そして繰り返される歌詞は「Non, rien de rien」。「rien de rien」は英語では「nothing」、つまり「なんにも」「決して」という単語を重ねたものです。まるでぜんぜん、これっぽっちも、という強調です。

私たち観客は、そうして最後の最後に、この歌によって救われるのです。観客だけは。ラストで。
ピアフは、救われたのでしょうか──そう思ったとき、私の頭は爆発しそうになった。

これはそういう映画です。まいりました。

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原題は「LA MÔME」。「女の子」という意味です。ピアフは身長、142cmしかなかったんですね。それでこのあだ名がついた。ちなみに「ピアフ Piaf」は「雀」の意味。美空ひばりの「ひばり」みたいなもんですね。それが英語のタイトルでは「La Vie En Rose」となり、日本の題では「愛の讃歌」となった。「愛の讃歌」は、映画の中で流れますが、ピアフが歌うシーンはありません。

August 30, 2007

北大路魯山人

じつは北大路魯山人についてはいろいろ思うところがあって、でも、思うところをそのまま書いてもそれは「魯山人」という現在の名声への対抗というバイアスを纏うところがあり、どうしたって中立的というかニュートラルな評価を下せないかもしれない恐れはつきまとうわけです。

で、日本橋三越、8月14日から10日間にわたる「北大路魯山人展」に行ってみて、まあ、これは「吉兆庵美術館蒐蔵」というわりとちゃんとしたものが出ていたショーなのではありますが、なかなかいいものでした。

魯山人という人は、いまでこそすごい「大家」としてかなりショーアップされてしまっている部分もあり、でも、そのショーアップの根本的な基盤は、おそらくその彼の文体だと思うのです。彼のテキストを読むと、これは洗脳の文体なのですね。というか、じつに自信にあふれた「オレについてこい」なわけです。おれの言うことを聞いていればよい、おれの言うことを憶えておけば恥はかかない、そういうことをサブテキストとして示している文体なんだなあ。

で、私は、べつに魯山人の言っていることがウソだと言いたいのではないのです。
魯山人先生の言うことはきわめて真っ当だし、ときには素晴らしい。

そうやって思っていつつ、でも、彼も作品としてはいつもいつも面白いものを作っていたわけではない。なかには面白いものもあるけど、それはテキストの重厚さとやや不整合だな、というのが兼ねてからの私の思い込みであったわけです。

そうして今回、三越に行ってまいりました。
私の思い込みは、そう間違ってもいないんじゃないか、というのが結論です。

魯山人を一言で言い表してよい、と言われたら、私は彼は「元祖ヘタウマ」だって感じがします。
これね、私の世界観なんですからどうしようもないんですが、美術工芸品のジャンルで、というよりもなによりも、私はとにかく「天才」ってもんにイーハンもリャンハンもあげちゃう質なんですね。たとえばピカソをやはり天才だと思う。彼は、ヘタウマではなく天賦の才能としての「上手ウマ」から始まるわけです。それはどうしたって拭い去ることのできない運命的なスタート地点なわけです。そうしながらもなおもヘタウマを目指していく。それがピカソなんですね。

ところが魯山人は、ヘタから始まるわけです。そんでどんどん上手くなる。晩年の備前なんかは、ほんと、素人じゃない。にもかかわらず、彼は「匠人」趣味に堕してはいけない、というわけです。つまり、ハイアートではなくて、つねに日常にとけ込んだアートを目指すべきだ、と。

まさにそれは文句の付けどころがない論点です。でも、ヘタウマなんだなあ。
ヘタウマの集大成のようなものに彼の真骨頂があります。たとえば5枚セットの手塩皿というのも何種か出ていましたが、その中の櫛目十文字の5人(5枚セット)なんてのは、すごく豪胆でシンプルで好きです。(彼の文体を使えば、「節目十文字手塩皿五人は、辿々しき日常の妙を得て愛すべき一品」、と断じるのね。)

乾山風中皿五人というのも、山の景色をうかがわせて好ましい。花が浮かんでいるような文様の黄瀬戸の菓子鉢も、藍を吹き付けたような吹墨向付の五人もよろしい。丈の高い草の文様のタタラ成形の志野若草四方平向付も思わず立ち止まりました。

ただ、書や篆刻は、むずかしいなあ。
画はね、野菜籠を描いたものやあさがお図なんか、うまいんだ。でも、それは天才というのとは違う。上手くなったんだなあ、という感じなのです。

つまりね、このひと、とびきりの特急のアマチュアだったんでしょうね。
すべての分野で。そういう印象なのです。
料理のことを書いてあるのも、そういう意味では文体が勝負なんだと思います。こればかりは書や絵や焼き物などと違って後世に残らないんでどうとでもわからんのですわけど、でもまあ、食い物の話に関してはなにも反論できません。いちいちお説ごもっともです。

で、言いたいことは何か?

魯山人は晩年、不遇だったようです。「海原雄山」とは違うのね。
文体に誤摩化されがちですが、すごいもひどいももっと構えずに評価をしてやれば魯山人も浮かばれるんじゃないかなあって思います。魯山人の究極の願いは、いってみれば「普段使い」なんですね。ですんで、魯山人先生もそんな崇め奉るってんじゃなくてさ、元祖ヘタウマにふさわしく普段使いの妙手として仲良くしてやればいいんじゃないかなあって、思います。

July 22, 2007

いよっ、中村屋!

このところ、翻訳の締め切りに追われて(ってか、もうとっくに追い越されてしまったんですが)ぜんぜんブログのアップデートをしてません。申し訳ない。

とはいえ、いろいろと人生は過ぎていくわけで、とりあえず今回は19日に見た、平成中村座のリンカーンセンター公園について書き留めましょう。

ええ、ええ、そうです。3年前の夏のあの素晴らしい舞台の印象を引きずりながら、今回も観に行ったわけです。いやはや見事なエンターテインメント。しかし、それ以上に、私はこの「法界坊」を演目に選んだ勘三郎の大胆さに畏敬すら覚えました。

破戒僧「法界坊」は米国人が、いや現代の日本人もがなんとなく歌舞伎に抱いている「芸術性」を真っ向から裏切る喜劇なんですね。幕が開いて間もなく、事前のNYタイムズの記事で勘三郎が能と歌舞伎の違いを「能は時の権力者によってつねに保護されてきたが、歌舞伎を支持してきたのは一般大衆だ」と断じていたのが思い出されました。

なんせ端から話題はセックスなわけです。
おいおい、リンカーンセンターでポルノかよ、です。まいっちゃいました。
ざっと登場人物と物語の背景を説明して芝居は始まるのですが、三枚目「山崎屋勘十郎」が登場早々美女「お組」を目にしたとたん、おにんにんをぴょこぴょことおっ勃てるわけですよ。袴がそれでぴょんぴょんはねる。私は隣の席に座る、十代の息子たちをネクタイとブレザー姿で連れて来ているいかにもお金持ちそうな家族連れのことが気になってしょうがありませんでした。このお父さん、きっと「日本の歌舞伎という伝統芸術をこの機会だ、ちゃんと見ておきなさい」とでも言って連れ出したんでしょうね。

ところがこれは(おにんにんぴょこんぴょこんは)、英語ではいわゆる「ヴァルガー(野卑、下品)」と言われる表現です。日本という禅と茶道と礼儀作法の国から、まさかこんな、ときっととなりのお父さんも思ったでしょう。会場にだって一種、どう反応したらよいのかわからない、しかしこれは400年も続く伝統芸能だと自分に言い聞かせる、キリスト教的ジレンマからの失笑というか微苦笑というか、とりあえずはスマイルね、というべきビミョーな感じが漂っていました。だってこれは、どうかんがえても、というか後半の刃傷沙汰に及ぶにつれ、なおさらに絶対「R指定」の芝居なのでした。

そのときもういちど「歌舞伎は大衆芸能」という勘三郎の言葉を思い出した、というわけ。これでガーンと一発やられたような気がしました。

だってそういえばこうした野郎歌舞伎は、それも「隅田川物」と呼ばれるこの世界は、ことに爛熟の江戸町民文化の中で奔放で雑多な庶民のエネルギーそのものを写し取ったものですわね。
色恋、嫉妬、痴話げんか、詐欺に間男、贋金、不貞、誘拐、人斬り、誤解に恨み、そして最後は幽霊の、復讐譚まで発展し(七五調ですけど、わかりました?)、そして大喜利、大団円。

盛り沢山とはこのことで、前回3年前の「夏祭浪花鑑」のようなドラマ性には欠けるものの、「歌」あり「舞」あり「伎」ありの3時間。「野卑」とは言いましたが、それを表現する所作は見事に芸に裏打ちされた洗練の極み。法界坊のドタバタもじつにミニマルで流麗でまるでチャップリンのそれにも通じていました。いや、チャップリンの方が歌舞伎を真似ていたのかね。

勘三郎は庶民のそんな猥雑で生々しいエネルギーをもう一度現代の歌舞伎にも注入したかったのでしょう。いつのまにか「ハイ・アート」のように振る舞っている優等生に、原初的な破天荒さを取り戻す。そうやって見ると、今回の舞台は女形がまさに女形であるジェンダー・ベンディングな歌舞伎本来のクイアさもより透けて見えるようでした。上澄みばかりが賞賛されている海外での日本文化ブームを、勘三郎は「ほらよっ、ならこれはどうでえ?」と混ぜっ返しているいたずらな確信犯、トリックスターにさえ見えます。ちょうどマグロやイカをマスターした鮨好きの外国人に、奥から酒盗やクサヤを出してくるみたいに。

英語での観客いじりはやや安易に流れた嫌いもありましたが、歌舞伎を通しての人間復興のような、勘三郎のそんな壮たる目論見も理解できる、アメリカ人だけではなく私たち日本人にとってもの日本ブームの重層的な第二幕がここから始まってほしいもんです。

しかし、勘三郎、どこまで計算してるんだろうね。プロテスタントのこのアメリカに、よりによって「法界坊」で乗り込むなんて。ますます彼が好きになったわ。

July 06, 2007

中村中「リンゴ売り」

リンゴ売り

別に好きでこんな服を着てるわけじゃない
別に好きでこんな顔をしてるわけじゃない

だって派手な衣装で隠さなきゃ
だって派手な化粧で隠さなきゃ
だって剥げた心を指差して
貴方たち笑うじゃないの

誰にだって優しい事を言いたいわけじゃない
誰にだっていい顔ばかりしたいわけじゃない

だけど軽い口調で流さなきゃ
だけど軽く笑顔で答えなきゃ
勝手な事 散々言っといて
貴方たち笑うじゃないの

私を買って下さい
一晩買って下さい

つまずくだけじゃ血も流れない
涙すら流れない

私を抱いて下さい
一晩抱いて下さい

淋しさだけじゃ夢も見れない
愛は在りませんか

私を抱いて下さい
いつまでも抱いてください

 「私を買って下さい」って、唄の中で言いのけたディーヴァというのはいままでいただろうか。藤圭子? 北原ミレイ? 浅川マキ? ちあきなおみ? 中島みゆき? 椎名林檎? みんな、なんとなく唄っていそうで、でも、中村中の「リンゴ売り」とはなんとなく違う。

 歴代の女唄というものにはだいたい恋い焦がれる相手が存在していて、恨みもツラミも愛も肉も怒りも、「わたし」と「貴男」という個々の関係性を糧に成立している。そのひとに向かって唄っている。あるいはそのひとを思って唄っている。あるいはそんな過去を思って唄っている。なのに、この「リンゴ売り」には誰もいない。いるのはリンゴ売りの前を通り過ぎる、誰とも知れない「笑う」「貴方たち」だけ。過去も未来もない、点でしかない時の消息。

 中村中の唄を聞くと、いつも「あらかじめ失われた恋人たち」というリルケの詩の一節を思い出している自分がいる。そしてそれはきっと、リルケが言ったよりもさらに深い意味で失われている。だからこれは、歴代のディーヴァたちの唄えなかったことじゃない。唄わなかったのは、唄う必要がなかったからだ。なぜなら、ディーヴァたちの唄う女唄には、あらかじめだれかがいたから。あらかじめ、だれかがいることを前提にできたから。あらかじめは、そんなに失われているわけじゃないから。でも中村の唄は、あらかじめ拠って立つ地面もない、女唄ですらない底なしの奈落に浮かんでいる孤独。

 思い溢れてシャープした最後の「私を抱いて下さい/いつまでも抱いて下さい」はなんだか、落下を支えて張り渡した命綱みたいだ。持てる声の種類すべてを動員して抗っている、そんな切羽。そしてそれはきっと、敬愛するディーヴァたちに突きつける、めいっぱいの彼女からのリンゴだ。

 思い出した。通底する歌詞を聞いたことがある。スティングの「Tomorrow We'll See」という唄。どこかの都会の街娼を唄った唄。街娼は「あたし」。でも英語の歌では、男が女唄を唄うことはぜったいにない。だから聞いているとわかってくる。この唄のストーリーは、主語がスティングなんだ。だからこれもじつは女唄ではない。「あたしの友だちは結局死んじゃって/彼のドレスは赤く染みになった/親戚も住所もなくて/この通りのもう1人の犠牲者/警察が彼を運び去れば/次の日には誰かが彼の場所に立っていた/感謝祭までには故郷に帰れるわね/生きてではないけれど」。そうしてスティングは言うのだ。「だれかがあたしのことを心配してくれるなんて/そんなのはあたしの計画にはない」「ねえ、ひとりにしないで、悲しくさせないで/いままでで最高の5分間をあなたにあげるから」って。

 この「あなた」も、誰でもない。この「あたし」も、あとにもさきにも誰かとの個々の関係性を「計画」しているわけではない。

 かつて寺山修司は、「悲しみは一つの果実てのひらの上に熟れつつ手渡しもせず」と歌った。きっと手渡しではなく、その果実は中村中の「リンゴ」にあらかじめ乗り移ったのだろうと思う。

March 30, 2007

オーディナリーという言葉

NHKで「夢見るタマゴ」って番組、ニューヨークでもTV Japanで放送されていて、例のあのダウンタウンの浜田が司会で、きのうは男性美容員っていう、デパートの化粧品売り場で客たちの化粧品相談やメーキャップ相談や実地をやってる男の子が出てきました。で、思ってたとおりの展開になるわけですね。つまり、浜田が「そっちのほうに間違えられへん? その世界、メケメケが多いやろ」ってなふうにいじって、あ〜あ、と思ってたら、その美容員も控えめながら「ぼく、あの、ノーマルです」って返事して、予定調和というか何というか sigh...。(この辺のノーマルのニュアンスへの引っかかりは、すでに10年近く前に書いたマジためゲイ講座の第一回目をご参考に)

まあ、きっと「ノーマル」という言葉は日本では外来語ボキャブラリーの偏狭さから「ストレート」という意味で使ってるんでしょうが、それでスタジオはまたパブロフの犬に成り果てたごとくお嗤いで反応して、いったいこの人たちっていつまでこういうことを続けてれば気づくんだろうとすでにパタン化した暗澹たる思いを横目に、そういやNHKだからってんで浜田もオカマを「メケメケ」と言い換えてるのか、その辺の放送コードはすでに確立してるのかねとか思うものの、言い換えててもけっきょくは同じだけどね、とか思いつつ、はたと膝を打ったのでした。

その膝を打ったことはあとで述べますので、まずは次のクリップを見てくださいな。
これは「2人の父親 Twee Vaders」ってタイトルの歌です。
どうもオランダのテレビ番組らしく、毎回、このKinderen voor Kinderen(子供たちのための子供たち?)という子供たちのグループが、いろんなメッセージソングを作って歌う番組らしい。


さて、英語の字幕によれば、歌の主人公の男の子はバスとディードリックという2人の男性カップルに1歳のときに養子にもらわれたと歌います。で、バスは新聞社で働く人で、ディードリックは研究所で働いてる人です。
歌詞は次のように続きます。

「バスはぼくを学校に送ってくれるし、ディードリックはいっしょにバイオリンを弾いてくれる。3人で家のTVでソープオペラを見たりもする。ぼくには2人の父さんがいる。2人の本物の父さんたち。2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、でもすごくうまくいってる。ぼくには2人の父さんがいる。2人の本物の父さんたち。で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる」

2番以降は以下のごとし。
**
ぼくがベッドに入るとき、
ディードリックが宿題をチェックしてくれる。
バスは食事の皿を洗ったり、洗濯をしてたり。
病気になって熱があるときなんか
ディードリックとバス以上に
ぼくのことを心配してくれる人なんかだれもいない。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、
でもすごくうまくいってる。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる。

ときどき学校でいじめられもする。
もちろんそんなことはイヤだけど。
おまえの親、あいつらホモだぞって。
それをヘンだって言うんだ。
そんなときはぼくは肩をちょっとすくめて
だから何だい? おれ、それでも父さんたちの息子さ。
そういうのはよくあることじゃないけど
ぼくにとってはぜんぜんオッケーさ。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、
でもすごくうまくいってる。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる。
**

これを見たあとでも浜田は「メケメケ」といって嗤えるんだろうか。(反語形)
ただたんに浜田は、このような情報を持っていなかったためにこういうことをお嗤いにしてしまえるのでしょう。(斟酌癖)
それを思うとそうした愚劣さを気づかずにさらしている彼が哀れでもありますが。(ちょっと本音)

さて、この歌詞の3番に、学校でおそらく浜田のようなガキどもから「あいつらホモだろ」といじられた主人公の少年が、「It's not ordinary」と述懐する部分があります。「But for me, it's quite ok」(でもぼくにとっちゃそんなのぜんぜんオッケーさ)と。

このオーディナリー、「それって普通じゃないけれど」と訳すとうまく伝えきれないものがあります。「普通」という言葉だと、多数決に基づく「正常さ、標準さ、規範的さ=ノーマル」という意味にもとられてしまうので。
で、ここはordinaryですので、日本語では「よくあること」と訳したほうがニュアンスが近い。
で、「はたと膝を打った」のは何かというと、父親が2人いることは「It's not ordinary」と歌うのを聞いてて、ああ、これ、使えるかも、と、さきほどの「ノーマル」に対比して思ったということなのです。

これから、ヘテロセクシュアルの人は、自分のことを「ノーマル」の代わりに「オーディナリー」です、って言えばいいんじゃないのかしら。(意地悪、入ってます)

で、ゲイはオーディナリーじゃないのね。
何か?

エクストローディナリー Extraordinary に決まってるんじゃないですか! (笑)

(付記)
じつは、この番組でプチッとキたのはほんとは上記の部分じゃなくて、「子供が言うことを聞かないときに浜田さんはどうしますか」という出演者からの問いに、浜田が「ぶん殴るよ、男だから」とかいうことを平気で口にして、それに合わせてスタジオのゲストの中尾彬だの加藤晴彦なのが「そうだそうだ」「すばらしい」と平気で賛成してたことでした。

いま日本のあちこちで頻発している児童虐待で死者まで出してることを、この人たち、どう思ってるのかなあ。そう言えば「オレの言ってる意味はぜんぜん違う」って返ってくるのは予測できるけれど、それとこれとが根でつながっていることには気づいていない。
ニュース見てないのかもしれないけど、ま、こういう輩はニュース見てても同じか、プライベートで言うことと、テレビでパブリックに言えることとの、場合分けがない。それは子供のすることです。まあ、「子供」とはいえ、上記ビデオで紹介した子供たちはそういうことはしないでしょうけどね。
だとすれば浜田以下のこの人たちは、きーきー騒いではしゃぐだけの猿と同じじゃねえか。
恥ずかしいなあ。

そしてもう1つ、こういうのを平気でオンエアーするのは、これが「将来の夢をひたむきに追いかける若者たちを紹介するバラエティー」と紹介しているように、なんでもありのジャンルの番組だというふうに思ってるからなのでしょうかね、NHK。
情けないことです。

追記)

しっかし、いまやってたんだけど、子供向けロボットドラマ「ダッシュマン」ってのでさ、悪者役の紫色の口紅塗ってる宇宙人みたいなのが、これまたオカマ言葉でしゃべってるのって、いったい何なのでしょう。

なんだかこれだけ続くとウンザリというか、ゲンナリというか。
いやがらせかよ、おい。
まいったなあ。

March 01, 2007

オオバケしてきたヘドウィグ

昨夜は公演後にFACE近くの飲み屋さんで30人ほどで「繰り上げ」の「打ち上げ」でした。舞台の場合は最終日は片付けとか忙しいのでこういう繰り上げての打ち上げ会はよくあるそうです。

もう夜10時近くなってからの、あまり打ち上げ感のない(まだ5回もステージが残ってるんですしね)始まりでしたが、徐々に話も弾み、わたしも山本君らといろいろ話をしました。もう、あのハイヒールがやはり大変らしく、おまけにあの絶唱です。この2日間は点滴をし注射をし鍼を打ちマッサージにいってフルコースで体調をハイにとめおくというすごさ。そのせいか、昨晩は資料用に撮っていたビデオスタッフが「山本耕史が命を削って演じている姿が撮れた」といったとか。こういう舞台は、商業的にはそんなに儲かるものでもなく、ギャラだってテレビに比べれば微々たるもの。でもヘドを演じたかったその時代の震えを、山本君も感じているようでした。尖っていたいんだなあ。

ヘド、ほんと、オオバケしてきています。歌とセリフが一体化してきて、セリフが歌詞のように聞こえている。わたしのゲネプロと初日からの予想が、こんなにも早く具現化するとは、ステージにはまさに魔物が棲んでいるのでしょうね。それを感じられる俳優の才能に幸あらんことを。

中村中ちゃんは打ち上げでもひとり懸命に明るく挨拶して回っていて、ほんと、かわいい子だわん。おじさん、なんだかちょっと緊張して小難しいこと口にしてた。うぅぅっ。もっとふつーにお話がしたいよーってときに限ってこうなってしまう不徳。とほほ。

ヘドヘッドの方からも、さいきん、お褒めのメッセージを頂くようになりました。最初は賛否両論というか、「否」のほうが表面化するのはまあ常のことですが、どんどんポジティブな反応が増えてきたのはやはりステージが深化してきているからでしょう。

わたしがあれを翻訳しながら思っていたことは、これはそう、どうしようもなくオキャマの劇なのだ、ということでした。ヘンタイたちの、フリークスの、オトコオンナの、ゲイの、トランスジェンダーの、ロック・ミュージカル。これをどこまで観客の女性たち男性たちが理解できているのかはわからないけれど、まあ、かんたんにわかってもらっても困るし、わかるものでもない。三上ヘドはノリノリであれはあれですごかったけれど、今度のヘドは、あの悲しみの根源に何があるのか、考えようと思えば答えは見つかる、そういう仕上げになっています。

英語の歌詞は、あれはぼくは、そんなヘンタイでもフリークスでもゲイでもオトコオンナでもトランスでもない観客たちへの、ひょっとしたら、理解へと進んでほしいための挑発として提示されたのかもしれないと思っております。ま、演出の鈴勝さんはそんな意地悪を意図したわけじゃないだろうけど、わたしとしては結果としてのそんなちょっとした挑発と宿題が、ありがたいと思ってる。 山本君はバリバリのストレートだけどね、彼もこのヘドウィグに「なる」ことで、きっとそのことを理解してきていると思います。ヘンタイと言われること、オトコオンナとからかわれること、オキャマと蔑まれること、その無意味さと獰猛な残酷さとを。そしてそれゆえの愛の非情と強さとを。ぼくはそれだけでもこの劇に加担してよかったと思っている。

わたしの帰米ももうすぐですが、4日の最終日までにもう一回は見に行きたいなと思っています。

February 17, 2007

ヘドウィグ訳詞集

M1 TEAR ME DOWN=あたしを倒してみるがいい

あたしを生んだのはあっち側よ
二つに裂かれた町のあっち側
それでもあの分断の壁を乗り越えて
あんたのとこに行くわ

敵やら何やら押し寄せて
よってたかって引き裂こうとするの
あたしがほしい? ベイビー、だったら
やってみてよ、引き倒してみてよ

あの医者の手術台から立ち上がったのよ
墓の穴から立ち上がったラザロみたいにね【訳注:イエスが死からよみがえらせた】
そしたら今度はみんなが立ち上がって
あたしをナイフで彫り込んだりするの

血と唾にまみれた落書きで

敵やら何やら押し寄せて
よってたかって引き裂こうとするの
あたしがほしい? ベイビー、だったら
やってみてよ、引き倒してみてよ

***

M2:愛の起源(THE ORIGIN OF LOVE)

地球がまだ平らで
雲は火でできていて
山が空に向かって背伸びして
ときには空よりも高かったころ
人間は地球をゴロゴロと
大きな樽みたいに転がってた
見れば腕が二組と
脚も二組あって
大きな頭には顔も二つ
付いていて
それであたりが全部見渡せて
本を読みつつ話もできて
そして愛については無知だった
愛がまだできる以前のこと

愛の起源

そしてそのころ性別は三つ
ひとつは男が二人
背中と背中でくっついたやつ
そいつらの名前は太陽の子たち
それと同んなじ形して
地球の子らというのもいたの
見た目は二人の女の子
それが一つになったもの
それから月の子供たち
ちょうどスプーンに挿したフォークみたいで
はんぶん太陽はんぶん地球
はんぶん娘ではんぶん息子

愛の起源

そのうち神々が怖れだした
人間の強さと不敵さに
それでトールがこう言った
「おれが皆殺しにしてやろう
このおれの大槌(おおづち)で
あの巨人どもを倒したときみたいに」
そしたらゼウスが言葉を継いで
「いやいやおれにやらせておくれ
この雷(いかづち)をハサミに使って
クジラの足をちょん切ったときみたいに
恐竜たちを小間切れトカゲに変えたときみたいに」
それからおもむろに稲妻をつかみあげ
一回、ガハハと笑ってから
いわく「おれがやつらをまっぷたつにしてやろう
上から下に引き裂いて半分にしてやろう」
そしたら頭上で嵐の雲がもくもくと
集まりやがて大きな火の玉

そこから炎が稲妻になって
真っ逆さまに落ちてきた
光はじけるナイフの
刃(やいば)
それが切り裂く
一直線の肉体
太陽の子ら
月の子供ら
地球の子供ら
そこにインドの神まで現れて
傷口を縫って寄せて穴にして
おなかの真ん中にもってきた
この罰の大きさを忘れないように
次にオシリスとナイルの神々が
雨風をまとめあげて
ハリケーンを巻き起こし
あたしら人間をちりぢりに吹き飛ばした
風と雨は荒れ狂い
高波までが襲ってきて
人間はもう流されバラバラ
それでもよい子にしてないと
またまたもっと切られてしまう
しまいにゃ一本足で飛び跳ねて
目玉一つで見なきゃならなくなる

このまえあなたを見たときは
あたしたちはちょうど二つに裂かれたばかり
あなたはあたしを見つめてて
あたしはあなたを見つめてた
なんだかすっごく懐かしい感じがしたけど
でもそれがなんだか分らなかった
だってあなたの顔は血みどろで
あたしの目にも血がしみて
でもぜったいに分ったの、あなたのその感じで
あなたの心の底にある痛みは
私のここにあるのと同じもの
この痛み
一直線の切り込みが
心臓をまっぷたつに貫いてる
それをあたしたち、愛と呼んだわ
だからたがいに腕をまわして
どうにか元どおりに一つになれないかと
けんめいに抱き合い愛を交わした
愛を交わした
冷たく暗い夜だった
もうあんなにむかし
ユピテルの無敵の手でもって
あたしたちがどうやって
二本脚のさみしい生き物になったのか
それは悲しい物語
それは愛の
起源の物語
それが愛の起源
愛の起源

***

M3 シュガーダディ

あたしはめっちゃ甘党で
リコリスドロップ、ジェリーロール、大好き
ねえ、シュガダディ
ハンセルはボウルにシュガーが欲しい
テーブルクロス敷いて上等の陶器を並べ
クローム銀器をこすってあげる【訳注:ベッドの上でのセックスを暗喩】
もしシュガーが手に入ったら
シュガダディ、あたしのとこまで持ってきて

黒くドロドロしたモラーシス(糖蜜)
あんたはあたしの蜂蜜クマさん
あたしにヴェルサーチのジーンズを買って
下着はデザイナーズの黒がいいな
ドレスはミラノやローマの
ディスコ狂いのジェット族ふうに【訳注:自家用ジェット機で遊び回る金持ち連中のこと】
もしシュガーが手に入ったら
シュガダディ、あたしのとこまで持ってきて

オー、人を操るスリル
ロックンロールの興奮と同じ
最高に甘い陶酔ね
だからがんばってよ、シュガダディ、持ってきて

ミツバチたちがお買い物
そいつは見もの
野の花たちに群がって
女王様のために蜜を集める
もらえるものなら何ででも
あたしは蜂蜜みたいにとろけちゃう
もしシュガーが手に入ったら
シュガダディ、あたしのとこまで持ってきて

オー、人を操るスリル
ロックンロールの電撃と同じ
最高に甘い陶酔ね
もしシュガーが手に入ったら、あたしのとこまで持ってきて
だからがんばってよ、シュガダディ、持ってきて

ウイスキーにフランス煙草
高速ジェットエンジン付きオートバイ
電動歯ブラシにフードプロセッサーも必要
それにアレルギー処理したわんちゃんも欲しい
現代の贅がすべて欲しい
リリアンヴァーノンの通販カタログ【訳注:家庭用品全般の通販ブランド】
全ページ全商品をあたしにちょうだい

ルーサー:「ベイビー、一つ考えた。おまえにバッチリ似合うはず。ヴェルヴェットのドレスにハイヒール、それにアーミンの毛皮のストールなんてどうだい?」

ハンセル:「オー、ルーサー、ダーリン。言っとくけど、ぼく、女の服なんか着たことないよ。たった一回、ママのキャミソールは着たことあるけど」

じゃあ男を本当に愛せるのは
女だけだっていうわけ?
じゃああたしにドレスを買ってよ
女以上になってやる
あんたみたいな男だっていちころ
チョコレートの貝殻に立ってるあんたのヴィーナスよ
マシュマロの泡々の上にあたしの姿よ
だからシュガーが手に入ったら
シュガダディ、あたしのとこまで持ってきて

人を操るのがあたしらの伝統
エリック・ホーネッカーやヘルムート・コール【訳注:前者は東ドイツの国家元首、後者は西ドイツの首相だった人】
ウクライナからローヌ地方まで
優しき祖国はすべてを支配する
主よ、あたしもいまその仲間!
だからさ、シュガダディ、あたしを祖国に連れ帰って!

***

M4 怒れる1インチ THE ANGRY INCH

あたしの性転換は大失敗
あたしの守護神は居眠りしちゃって見逃した
そんであたしのお股はバービーの穴なしお股
おまけに怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ
6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ

あたしの出身は嘆きの国
あたしはうんざり、ぜんぶを切り離したかった
そんであたしは名前を変えて変身を試した
そしたら怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ
6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
列車がもう来るっていうのにあたしは線路に縛られて
起き上がろうとするんだけどぜんぜん緩まない
だから怒れる1インチ、怒れる1インチ

母は粘土で乳首を作ってくれた
彼氏はあたしを連れ去ってくれると言った
そんであたしは医者に引きずって行かれ
けっきょく怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ
6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ

手短に話すわ
まんまの意味で
手術を終えて目覚めると
下のほうから血が出てた
お股のあいだの裂け目から血が出てた
あたしの最初の女の日が
いきなり初潮の日になった
でも二日したら
穴は閉じて
傷は治って
そしてあたしの
お股に1インチのお肉の突起
あたしのペニスがあったところ
あたしのワギナがないところ
お肉の1インチの突起、傷がズッパリ入ってて
まるで目のない顔の
そっぽを向いたしかめっ面みたい
ちょっぴり突起
それが怒りのアングリーインチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
列車がもう来るっていうのにあたしは線路に縛られて
起き上がろうとするんだけどぜんぜん緩まない
だから怒れる1インチ、怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
隠れてるんだ、夜が真っ暗になるまで
あたしには1インチ、攻撃準備完了
だから怒りのアングリーインチ、アングリーインチ

***

M5 箱の中のカツラ WIG IN A BOX

こんな夜には
世界もちょっとずれちゃって
明かりも消えて
真っ暗なトレーラーパーク
横になれば
だまされた感じがして
気が狂いそうになって
そのときタイムカードにパンチの時間
メークをして
テープを流して
そんでまたカツラを頭に戻す
はい、ミス中西部の出来上がり
真夜中のレジの女王
それが家に帰るまで
ベッドに潜るまで

出てきたところを振り返る
出来上がった女の自分を見ている
世にも奇妙なことが
いつかふとありきたりに変わる
ベルモットのオンザロックから目を上げれば
ギフトラップのまんまのカツラが
ヴェルヴェット模様のひょろ長い箱の中

お化粧をして
ラヴァーン・ベイカーをかけて【訳注:R&Bの歌手】
棚からカツラを引っぱり降ろしてくれば
はい、ミス・ビーハイブ1963年の出来上がり
目が覚めて我に返るときまで

普通の女の子ならお気楽に
好きなようにカツラをつける
フレンチカールで派手にして
香水付き雑誌も手に持って
かぶるのよ
載っけなさい
それがいちばんいい方法
すてきに見えるベストウエイ

メークをして
テープをかけて
棚からカツラを引っはりおろせば
はい、ミス・ファラ・フォーセットの出来上がり
テレビでおなじみ
目が覚めて
我に返るまで

シャギーカット、段カット、ボブヘア
ドロシー・ハミル・スタイル
ソーセージ巻き、チキンウィング結び
それもこれもあなたのため
ドライアーをかけて、フェザーバックにして
トニ・ホーム式ウェーブもかけて
フリップヘア、アフロヘア、ちりちりカール、フロップヘア
それもこれもあなたのため
それもこれもあなたのため
それもこれもあなたのため

メークをして
テープをかけて
棚からカツラを引っぱりおろせば
はい、パンクロックのスターの誕生
ステージや映画の
もう戻らない
あたしは前には戻らない

***

M6 邪悪なこの街 WICKED LITTLE TOWN

きみの瞳には太陽が宿る
ハリケーンも雨も
暗雲たれ込める空も

あの丘を駆け上がったり駆け下りたり
気分次第でノッたりダレたり
夢中になれるもんなんてここにない
落ち込む理由もないけど
ほかにしようがないなら
ぼくの声をたどればいい
暗がりの向こう側
邪悪なこの街の騒音を越えて

オー、レディー、運命がきみを連れてきた
やつらはひどくねじれてるから
きみをダメにしないか心配だ

信仰、憎悪、献身的
きみは裏返っちゃうまで客を取り
風は焼けるように冷たい
きみはやけくそ、くわえ回り
ほかにしようがないなら
ぼくの声をたどればいい
暗がりの向こう側
邪悪なこの街の騒音を越えて

運命は意地悪、冷酷至極
きみは覚えが悪いから願いは二つ使ってしまった
バカみたい

そのうちきみはきみでなくなる
ジャンクションシティは意味がなくなる
ソドムのロトの奥さんみたいに
振り返って塩の柱になっちゃったあの女みたいに
ほかにしようがないなら
ぼくの声をたどればいい
暗がりの向こう側
邪悪なこの街の騒音を越えて

***

M7 長いインチキ THE LONG GRIFT

あんたがしてくれたこと
このジゴロ野郎
あたしが惚れてたのを知ってるくせに、ハニー
知りたくなかった
あんたのクールな
そそられるセレナーデが
あんたの商売道具
だったなんて
くそジゴロ野郎

調べ上げた金持ち連中
巻き上げられるものみんな
つまりあたしってただの金づる
ずいぶん長いインチキだわね

あんたがしてくれたこと
このジゴロ野郎
またまたカモろうとしてるわけ
でも今度は知るべき
このカモはもう
意のままにはならない
あんたの商売道具
になんて、もう
くそジゴロ野郎

あたしはただの次の金づる
あんたのペテンの次のカモ
台本どおりのいちころのエサ
長い長い詐欺の手の中
あたしをとりこにした愛は
ただの長い長いペテン

***

M8 ヘドウィッグの悲嘆

あたしが生まれたのはあっち側
二つに裂かれた町のあっち側
どんなに懸命にがんばっても
傷と痣とで終わるだけ

あの手術台から立ち上がったの
心の一部をなくしながら
でもいまみんながナイフを手に
あたしをバラバラに切り刻む

かけら一つを母にあげた
かけら一つは男にあげた
かけら一つをロックスターにあげた
そしたら心も取られて逃げられた

***

M9 優美な屍骸

オー、神さま
あたしはつぎはぎだらけ
無情のメスの切り口
体中に傷の地図
その線をたどれば
惨めさの見取り図を越えて
あたしの体を横切る地図

コラージュ
つぎはぎだらけ
モンタージュ
つぎはぎだらけ

針と糸とのランダムパターン
病気の流行図と重なる道筋
竜巻模様の体を走り
手榴弾模様の頭にも
脚には恋人二人が絡み合う

中身は空っぽ
外身は紙の張り子
それ以外はぜんぶ幻想
意思と魂があるってのも
運命を操れるなんてのも幻想
混沌と混乱にゃお手上げよ

コラージュ
つぎはぎだらけ
モンタージュ
つぎはぎだらけ

オートマティストほぐれてく
世界のねじも緩んでく
時間がつぶれ空間もゆがみ
崩壊と廃墟が見えてくる
「だめだめだめだめ、
そんな優美な屍骸じゃダメ」

あたしはつぎはぎだらけ
無情のメスの切り口
体中に傷の地図
その線をたどれば
惨めさの見取り図を越えて
あたしの体を横切る地図

コラージュ
つぎはぎだらけ
モンタージュ
つぎはぎだらけ

***

M10 邪悪なこの街(再)

許して
知らなかったんだ
だってぼくはただのガキで
きみはずっと大きかった

神が意図したよりも大きく
女よりも男よりも大きかった
いまわかった、ぼくが盗んだものの大きさも
すべてが崩れ始めるいま
きみはそのかけらを地面からはがし
この邪悪な街に見せる
美しく新しいその何かを

運命がきみを
そこに置き去りにしたと思ってる
でもきっと空には
空気しかないんだ

神秘的なデザインもない
運命で結ばれた宇宙の恋人たちもいない
見つけられるものはない
見つけられないものもない
だって、きみのここまでの変化は
きみ自身がつねに他人だったってこと
またひとりぼっちの、新しい
この邪悪な街で

だから、ほかにしようがないなら
ぼくの声をたどればいいんだ
暗がりの向こう側
邪悪なこの街の騒音を越えて

オー、ここは邪悪な街
グッバイ、邪悪な街

***

M11 真夜中のラジオ MIDNIGHT RADIO

雨が強い
燃やしてく
夢を
歌を
そのせいできみが
期待しては打ちのめされた
ものたちを

息をして感じて愛して
自由を与えて
魂を探って
流れる道を知る血のように
心から頭まで
自分は一つだと知って

いまきみは輝いて
夜空の星みたい
トランスミッション
真夜中のラジオ
きみはくるくる回って
まるで45回転レコード
きみのロックに
合わせるバレリーナみたいに

パティ(スミス)のために
ティナ(ターナー)に
ヨーコ(オノ)に
アリサ(フランクリン)に
ノナに
ニコに
そしてあたしに
すべてのへんてこロックンローラーに
それでいいの、正しいの
だから手をつないで
今夜は歌い続けなきゃ

いまきみは輝いて
夜空の星みたい
トランスミッション
真夜中のラジオ

きみはくるくる回って
新しい45回転レコード
みんなはみ出しもの、落ちこぼれ
そうさ、だからみんなロックンローラー
回るんだ、自分のロックンロールに乗せて

手を掲げろ!

***
(All lyics are translated by Kitamaru Yuji)

(了)

February 15, 2007

いや、今度のヘドウィグは、よい!

ぼくは17のときにジーサス・クライスト・スーパースターをNYのブロードウェイで見て人生観を変えたってえ世代なんですよね、ぶっちゃけ。いや、それ以前にもいろいろほかにもファクターを得てはいました。ウッドストックもそうだし、コルトレーンはいたし、ジャニスもジミヘンも生きてたし。で、プロってもんの恐ろしさをそのときから知った、というか崇拝した。

で、です。そのときからプロじゃないものは見たくないと、いろんなものを見るたびにその思いが重なった。そんで、劇団四季のジーザス・クライストを見たときに、ものすごく怒ったわけですわ。ロンドン、ニューヨークでやったジーザス・クライストで世界中の劇団がこれを自分たちでもやりたいと思った。ところがどうだ、劇団四季のジーザス・クライストを見たら、世界中の劇団が、これはもう、どこでもやらなくてもよいと思うのではないか。

以来、基準にしたことがある。
自分の歌よりうまくないミュージカルは、見るべきではない。

わたし、じつはロック少年で、高校・大学までロックのバンドをやっていました。ドラムでしたがね。高音が出たんでバックコーラスというか、リード・ヴォーカルのラインから外れる部分をオレが歌う、みたいなこともやってたの。で、いまも、はは、ものすごく歌、うまいのよん。ハイウェイスター、歌えるんだぜ、へへ、みたいな。

また今回も前置き長いな。
本題に入ります。
もう昨日ですが、ヘドウィグのゲネプロ(舞台総練習)、見てきました。ええ、わたし昨日まで札幌でぎっくり腰で1週間寝てて、そんできょうやっと東京に着いたわけです。そんで最初のオーダーが、このゲネプロだったのです.

感想。
これは楽しみだ!

それじゃわからんな。まあつまりあのね、これは三上ヘドとはぜんぜん違います。三上のときは三上ですごかったけど、あれはいい意味でもそうでなくても三上のショウだった。彼の圧倒的なパワー。でも今度の山本ヘドは、山本だけのヘドではなく、中村中の絡むヘドであり、鈴かつさんのヘドであり、ジョン・キャメロン・ミッチェルの悲しみを背負ったヘドだったということだった。おまけにそれは日本のヘドだった。

しみじみするのはきっとセリフのせいでしょう(ちょっと自画自賛。えへへ)。
1つ1つのセリフがまるで詩のように響く。どうしてヘドウィグが書かれなければならなかったのか、それがわかる。ジョン・キャメロン・ミッチェルがなにを言いたかったのか、それが響いてくる。つまり、このヘドウィグは、悲しいの。これはショーじゃない。演劇なんだ。三上バージョンのように、ヘドウィグはオカマ笑いを笑いながら喋ったりはしない。酔っぱらって訥々と自分を語りだす。

で、なにはさておき、山本君、歌、うめえじゃないの、こいつ、って思いました。
中村中ちゃんはもちろん歌、うまいです。で、この2人の声のアンサンブルが、声質の差とその重なり具合がすごく気持ちいいんだなあ。そんでもって中村君のイツァークの出番、すごく工夫されていて、鈴木さん、これは考えたんですねー。ジョン・キャメロンがいまもう一度ヘドウィグをつくったら、やっぱりイツァークをこうするだろうって思った。いや、もっと正確に言うと、ジョン・キャメロンの気づかないイツァークを、鈴木さんはジョン・キャメロン本人に代わってジョン・キャメロン本人に気づかせてあげた、みたいな。こういうの、演出家やってて醍醐味だろうなあ。力量です。昨晩、初めてお会いしたけど、プロの顔をしてた。

でね、ヘドウィグの山本耕史、化粧その他、女装部分、すごいですわ。なんでこんな? って感じ。でも、言わせてください。ネタバレですけど。これが最後の転換ではじける。彼、すごく綺麗なの。
神々しいのでです。
うわ、芸能人って、こんなに綺麗なんだ、って、思ったです。
しかしなんであんな躯してるんだろ。ってか、あの肌。
思わず手を伸ばして、あ、すんません、ちょっと触っていいですか、ってお願いしたくなっちゃう。
それがわかるステージになってる。あの綺麗さにはひれ伏します。

でね、わたし、ゲネプロ見て、不覚にも左の目から涙が一粒こぼれました。
もう最後に近く、

(トミーの歌:)「LOOK WHAT YOU DONE. YOU MADE ME WHOLE. BEFORE I MET YOU, I WAS THE SONG. BUT NOW I'M THE VIDEO.(きみがしてくれたこと。ぼくを完全にしてくれた。きみ会う前、ぼくは歌でしかなかった。それがいまはビデオだ」

(ヘドウィッグの歌:)「LOOK WHAT I'VE DONE. I MADE YOU WHOLE. YOU KNOW THAT TOU WERE JUST A HAM. THEN CAME ME, THE DOLE PINEAPPLE RINGS...(あたしがやってあげたこと。あなたを完全にしてやった。ただのハムだったあなたのもとに、あたしが来たの、ドールのパイン缶の穴開きパインが)」

*****
ね、すごいでしょ。

悲しいヘドウィグを、ぜひ見てください。この劇が何を言おうとしていたのかを、山本君のことばで聞いてみてください。これは、おそらく、回を重ねるごとによくなってくるはずです。本日のこけら落とし、観客の入った中で山本、中村の2人が、どう化けるか、ものすごく楽しみです。この劇、翻訳してよかった、って昨晩、舞台を見ながら思いました。わたしの日本語がプロによってこなされ、配置され、語られるさまを見て、ゾクゾクしたもんね。はは。これは4月の新宿コマも見たくなってきた。そんときもまた日本に帰ってこようかしら。

****

で、ここで業務連絡。
あした金曜日の新宿FACEのチケットが何枚か別枠で出るそうです。
新宿FACE、ほんとは完売だったんですけど、十数枚かしら、会場の中央部分の席があるって。

わたしのこのブログで告知です。
早い者勝ち。
販売のサンライズ・プロモーション東京
0570-00-3337
ここに電話したら、買えるって。
16日のヘドウィグ、あるんですか? って電話で言ってみてください。

では、

November 02, 2006

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

一部スポーツ紙などですでに紹介記事が載りました=写真=が、NY発のグラムロック・ミュージカル「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」が来年2月15日から新宿歌舞伎町のライヴハウスFACE、および大阪、名古屋、仙台、福岡で再々上演されることになりました。

その公式サイトが昨日、オープンしました。
http://www.hedwig.jp/

わたしが原作の台本を歌詞まで含めてすべて忠実に、なおかつ発語してもリズムが乱れないよう語呂よく翻訳しました。ってか、舞台セリフなんでかなり難しいんで、日本語の脚本は演出家の鈴木勝秀さんに改竄自由に任せています。

昨年まで三上博史でパルコ劇場で2年続きで公演が行われていますが、今回はより若い、原作に近いヘドウィグをねらってるそうです。で、そのヘドウィグは山本耕史が半裸になってやるの。そのジェンダー混乱のパートナー、イツァークを中村中ちゃんが演じます。

まあ、原作は90年代初めのジェンダーベンディングの傑作。あの当時の時代性、政治性もおおいに感じる。東西分裂と男女分裂とその和解と融合と。つまりはすごく深読み(もちろんクイアリードですがね)もできる物語です。ミュージカルというより、ロックのライブコンサートに近い舞台構成ですんで、タテノリ好きのひともどーぞ。

チケットは今月18日から電子チケットぴあとかローソンとかで発売になるそうです。

ロッキーホラーショーじゃないけど、ヘドウィグ・フリークという大ファン層が日本にもすでに存在してるそうなんで、会場はきっと若い女の子が圧倒的でしょうけど、冬の寒いさなか、熱い狂乱のステージの炎をあなたの心に点してください。

September 23, 2006

ふたたび「友達の詩」について

いつか右手で書いていたものを左手に移し、右腕に筋肉をつけて左手をかばい、傷つきやすい心のかさぶたをはがしては心ではないところの皮膚を移植し、けんめいに、けんめいに、もう泣かないように、もう傷つかないように、もう死にたくならないように、いろんなものを弾き返せるように、鎧をまとい、剣を取って生きていく。おとななんてのも、一皮むけばそんなもんだ。

でも、土の中に埋めた、大昔の心のかけらの化石が、ときどき身を震わせて号泣したがる。
あのときの自分が、地層の奥で身悶えして泣きわめく。

そんなきっかけはいつもだいたいなにかの歌だ。

触れるまでもなく先のことが
見えてしまうなんて
そんなつまらない恋をずいぶん
続けてきたね

胸の痛み治さないで
べつの傷で隠すけど
かんたんにばれてしまう
どこからか流れてしまう

手をつなぐぐらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出来

忘れたころに
もいちど
会えたら
仲良くしてね

手をつなぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出来

手をつなぐぐらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な
人は友達くらいでいい
友達くらいがちょうどいい

中村中が15のときにかいたというこの詩は、おそらく、巧まざる心の動きのたぐいまれに巧みな描写だ。こうした複雑に折り畳まれた心象を、彼ら/彼女らはあらかじめ敷かれた鉄路のような強引さで運命的に手にしてしまう。そうした道筋しかないような袋小路。迷路とはいえしっかりと矢印の示されている十五夜。「先のことが見えてしまう」「そんなつまらない恋をずいぶん続けてきたね」と中村中は自分に向けてこともなげに言い切る。15歳の中村中の、「ずいぶん」とはどれほどの数を指すのだろうか。あるいはいまやっと21歳だという中村中の。

いやこれは、「触れるまでも」経験するまでもなく「先のことが見えてしまう」と知った15歳の中村中の、その15歳にとっての過去形ではなく、いずれの未来においてもこれからずっとすでに定まってしまっている先取りの過去のことなのだ。

誤読の罠にはまるのはそこばかりではない。

この詩で最も印象的なフレーズ、「手をつなぐくらいでいい」に耳を奪われ、わたしたちは中村中の、好きなひとへの最も適度な願いがまずどうしても、ふつうに考えれば最小限にささやかな願いと聞こえる、「手をつなぐ」ことだと言っているように読み取るのである。

だがこれは誤りである。
なぜなら、中村中は直後にその願いをさらに縮小し、望むことはじつは手をつなぐことではなく、ただたんに「並んで歩く」ことだと訂正するのだ。

そうしてそれすらもふたたび思い直す。
それすらも「危ういから」と、横に並び歩く距離ですらなく、はるかに遠い、ただ「見えてい」ることだけで満足するように、と、自分にとってはそれで「上出来」なのだ、と言い聞かせるのである。しかもそれもいまそこで具現している現実ではなく、「見えていれば」という形の、ここにいたってもまだあえかな希望としてのつつましやかな仮定法で。

接続詞のない、箇条書きのように並べられる3つの願い事はだから並列ではない。それはそっと提示された、譲歩と諦めと退却の、縮んでゆこうとする時系列だ。

だが、好きになればなるほど、その事実を思えば思うほど相手から遠く身を退かねばならない事情とはいったい何なのか。「並んで歩く」ことすら「危うい」状況とは何なのか。さらに続く、「忘れたころにもいちど会えたら、仲良くしてね」というさりげない謙譲は、何を忘れ、誰を主語とすることを前提としているのだろうか。

忘れることなど、じつはないのだ。なのに、「仲良く」というせめてもの願望は、忘れない限り成立し得ない。そうしてそれこそが、「友達」という中立性への、あらかじめ不可能な希求なのである。

その事情に共感できる経験を、わたしたちのだれが、どれほどが、共有しているのだろう。
「友達の詩」は、取っ付きやすいそのタイトルや、ともすればつねに微笑んでいるようにすら聞こえるその歌唱とは裏腹に、じつは安易な共感を求めていない。そんな有象無象を相手にしてはいない。「友達」へと向かうヴェクトルは、希望というよりもむしろ、退却しつづけた果ての絶望をあらかじめ先取りしたものだからだ。

大切な人が見えていれば、それだけでたしかに上出来だった。
そのひとはじつは「友達」ですらなかった。
「友達ぐらいでいい」のその「ぐらいで」とは、ただその程度を曖昧さで広げるものではなく、「ほんの〜だけで」「せめて〜ばかりで」とのニュアンスの、おおく自嘲的な否定さえ伴うむしろ小心な副助詞なのである。

中村中と、それらを共有する者たちはみな、そんな季節からの生き残りだ。
そうして肝心なことは、生き残りに恥じず、中村中の「友達の詩」はけっして嘆き節に陥らない、ということである。生き残るためにはつん抜けざるを得なかったようなその歌唱の決意的な明るさによって、いま、新しく生き残ろうとしている者たちは絶望を突きつけられつつもおそらくこれに励まされる。こんどこそこの詩を逆に、先取りの過去として嘆くのではなく消化するために。
中村中はこの絶望を消化して生き残った。だから、歌に凝結させ得た。このじじつは大切だ。
そこまで知ったとき、この詩を歌えるのは、おそらく中村中以外にはいないのだろうということにわたしたちは気づくのである。

中村中は、現代だ。
21歳にしての、この命の強さと美しさを、言祝がない手はない。

July 22, 2006

トランスアメリカ

日本でもついに公開になりましたね。「トランスアメリカ」。
これは、“父”と息子のアメリカ横断(トランスアメリカ)の物語と同時に、トランスセクシュアルを取り巻くアメリカ(トランスアメリカ)の現状と希望とを描いた佳作です。

transamerica-poster-1.jpg

監督のダンカン・タッカーに、この5月、日本公開に先駆けてマンハッタン・グリニッジヴィレッジの老舗カフェ「ラファエラ」でインタビューをしました。その内容をここで公開しますね。映画鑑賞の参考にしてください。

**

●赤ん坊が生まれるって?

DT そうエージェントを通して捜した代理母で。名前は知らされてない。もう38週目でいつ生まれてもおかしくない。生まれたって連絡が来たらすぐにカリフォルニアに飛ぶんだ。

●オープンリー・ゲイだって聞いたけど、赤ん坊って?

DT ゲイっていうか、ぼくはぼくに優しくしてくれる人とだったらだれとでも寝るよ(笑)。区別しないようにしてるのさ。この映画を作っていて学んだことの1つは、残忍性ってのは最近ではどの社会層にも見られるってことで、区別はない。男でも女でも保守派でもリベラルでも、黒人でも白人でも。人種って、アジア人とかヒスパニックのことも最近は話すけど、とにかくいろんな肌の色がある。セクシュアリティとかジェンダーってのも同じ数だけいろんな色があるんだってこと。ジェンダーって、ボートみたいなもんだと思う。ある人たちはボートの中心部に座っていて、真ん中だからあんまりボートも揺れない。でも縁の方にいる人たちにはボートは揺れてるんだ。すごく縁の人はそれで勢いあまってひっくり返って転げ落ちちゃうみたいにね。男も女もゲイとかストレートとか言ってるけど、そんな簡単なものじゃなくて、でも簡単に言っちゃえば僕らはただの性欲いっぱいのアニマルってことだよ。男で20歳だったりしたら、それこそ木の股とだってやれちゃうんだからね(笑)。
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●アメリカ人って、すぐにレーベル付けたがるからね。さて、赤ん坊に絡めて、もうすこし「家族」ってものについて話を聞かせて。これからあなたが持つ「家族」は一般に言う伝統的な「家族」とはちょっと違うでしょ?

DT たくさん親しい友だちがいて、彼らが家族を持っていて、あるいはいま付き合ったりしていて、そういうの見てて、このまま一人で待っていてもしょうがないなと思ったんだ。映画が出来上がって去年、マーケティングもとてもうまくいって、最後にはこうやって日本まで買ってくれたわけだしね、日本は最後の買い付け国の1つなんだよ。うれしかったね。で、映画がうまくいった。じゃあ次は何だってことになって。そうか、この映画で借金することもなくなったし、家も買えるし、子守りだって雇えるじゃないの、って気づいたわけ。で、ずっと長いこと自分の子供が欲しかったからね。よーしって。そんで、昨年の8月には代理母の女性が妊娠してくれたというわけ。

●この「トランスアメリカ」の制作自体が、家族を持とうと決心させてくれたというところもある?

DT その2つはいっしょだね。この映画、ずっと何年も作りたかった映画だし。

●ブロークバックマウンテンは7年かかってっていうのは有名だけど、この映画は?

DT 5年かな。で、いまでもまだこうしてインタビューで忙しくしてる(笑)。昨日なんて、カンヌでケヴィン・ジーガーが新人賞をもらったし、まだ続いてるものね。

●ケヴィン、よかったね。でも、とてもハンサムなんで、トビー役にはハンサムすぎて最初は採用しないつもりだったんだって?

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DT ああ、ほんとに彼は使うつもりじゃなかったんだ。彼はカナダのトロントの出身で、自分でこの役を取るためにリサーチをしてきてね、街に立つ若いハスラー(男娼)たちに話を聞いたりしたらしい。僕もこの役を作るためにいろんな若い連中に話を聞いたりしてたからね。で、リハーサルをやったんだけど、とにかく彼、あきらめないんだ。ダメだったらまた別のやり方を試すみたいな、全力で役作りをしてた。この役を取るという決心はすごいもんだったよ。で、彼に決めたんだ。

●あなた自身も、このニューヨークにある家庭や地元から疎外されたLGBTのための高校、ハーヴィー・ミルク・ハイスクールでリサーチをしたんでしょ?

DT いや、あそこはリサーチじゃなくて、あそこでボランティアで教えたりしてたんだよ。だからLGBTの若い子たちのことはわかる。それにあそこにはハスラーをやってる子がいるわけじゃないしさ。で、リサーチというか取材は別の場所でいろいろしたね。基本的にこれは、社会にミスフィットしてる人間を描いた映画なんだ。むかしジェイムズ・ディーンが「理由なき反抗」でやったのと同じなんだ。あれも社会に合わない、はじかれた若者の話だった。で、ジェイムズ・ディーンの役をもっとボリュームアップして、この「トランスアメリカ」のフェリセティ・ハフマンのブリーの役が、いまの社会の、べつの種類のだけど、ミスフィットということなんだよ。基本的に、このストーリーは、社会に誤解され、疎外されている人間が、いかに大人になるかを探す物語なんだよね。トランスセクシュアリティそのものが、いかに大人の自分に変身するかという問題だから。

●なるほど、そうか。性別適合手術までの話というのは、成長した自分になるための成長譚なんだ。

DT ぼくのいちばん好きな物語は何かというと、「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」なんだ。15歳のころに、あの本は7回も読んだ。で、自分の自由にできる予算内で「ロード・オブ・ザ・リング」を作るにはどうしたらいいかって考えたわけだ。そのためにはまず登場人物は、架空の存在じゃなくて実際の人間にしようと。で、それからそいつが探求の旅に出る。で、友だちに出遭い、敵に出遭い、故郷に帰ってきたときには別の人間に成長している。で、主人公は社会にミスフィットの存在で、どこにも自分が帰属していないと考えていて……そうやって組み立てていって、だからブリーとトビーは、どこかサムとフロドに似てるでしょ? ブリーはサムのように捨てにいく宝物を携えながら旅をしている。

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●ははあ、すごいなあ。で、トビーがブリーにセックスを提供しようとする場面も出てくるわけか。サムとフロドの2人の関係が、逆にトランスアメリカでは明示的にそこにかぶってくるね。面白いなあ。

DT トビーはセックスでしか他人と関われないからね。それ以外に方法を知らないんだ。

●あのシーンはどういうふうに演技指導したの?

DT ケヴィンにはとにかくシンプルに演じるようにって言った。「マイ・プライヴェート・アイダホ」で、リヴァー・フィニックスがキアヌに「I really love you, man」って言うシーンがあるだろ? あんなふうに、飾りのない、朴訥で裏のない正直な、まんまの感じで演じてくれっていったんだ。で、それがあのブリーに背を向けながら「It's like...I see you(見えるよ、本当のあんたが)」って言うシーンになった。

●あれはほんとうに胸がつぶれるシーンだった。

DT そう、あのシーンで、みんなに、居心地の悪さや悲しさや可笑しみや共感や、そうね、オエッていう感じとかも、そういうものすべてを同時に感じてほしかったんだ。肝心要のシーンだし。

●フェリシティ・ハフマンにしても、ブリーのこの役はまったく新しい経験だったんじゃないかな。

DT ホルモン剤の副作用でおしっこが近くなるせいで、夜に車を停めて路肩で用を足さなくてはいけなくなるシーンがある。道路を離れて草の生える場所でしゃがみ込んで用を足すにはヘビが恐くてダメ。で、やむなく立ち小便をするというシーンでね、これはいわば真実の暴露という場面で、いかに本物らしく撮るかがカギだと思って、医療用の模造ペニスを用意しようとしたら2万ドル(220万円)もするっていうんだ。それで12ドル95(1400円)で代用品を用意して小道具の人たちに中央に孔を通してプラスチックボトルからお湯が流れて出てくる仕組みにしたんだ。で、メイキャップの女性スタッフには本物らしく色を塗らせて、これは男性陣がボランティアでポーズをとってモデルになって(笑)。で、撮影の夜だったけど本番前にフェリシティがそれを付けるっていうんでトレイラーのトイレの中に入って、そうしたら蛍光灯の光ですっごく生々しく見えたんだそうだ。そえでフェリシティは「オー・マイ・ゴッド!」って言ってね、それで出てきて、泣き出したんだ。ただただ泣くだけだった。この映画の撮影はだいたい時系列に沿って順番に撮っていたから、彼女、そのころにはブリーにかなり自分をだぶらせていたんだと思う。で、そのとき初めてわかったんだって。ブリーがどんな荷物を抱えていたのか、ペニスを持っている女性が、どんなに辛い人生を送っているのかってことをね。ぼくはブリーを慰めるみたいにフェリシティを慰めてた。それからぼくらはもっと深い友だちになった。

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●トランスジェンダー、トランスセクシュアルの問題って、アメリカでもかなり最近になってやっと取り上げられてきたもので、LGBTコミュニティの中でも関心は90年代なんかぜんぜん高くはなかったよね。その意味では彼ら彼女たちはマイノリティの中のマイノリティでもある。

DT そうだね。ゲイ・コミュニティでもトランスジェンダー、トランスセクシュアルの人たちのことを理解していなかった。ものすごく極端なゲイな連中がトランスになるんだとか冗談みたいに言ったりしてた。彼らは心の中は本当の異性愛の男性と女性なんで、ゲイとは別の辛さがある。ゲイの人権運動の中でも救ってこなかった人たちだ。結婚しているせいで見えてこない人たちもいまもたくさんいるし。

●アメリカより先に、ベルギーとフランスだったか、ヨーロッパの映画で「ma vie en rose(ぼくのバラ色の人生)」というキュートな映画があったよね。ヨーロッパの方がこなれているというか寛容というか、同性婚の制度も進んでいるしそういう点では柔軟だなあと思う。

DT 「ぼくのバラ色の人生」に比べて、「トランスアメリカ」はもっと現実的でシビアで暗くてぐったりする映画だっていうわけじゃないよ。これは究極的にはコメディだし、人生を祝福する映画だと思う。泣いたり、いろんな感情も高まったりするかもしれないけれど、コメディというのは人びとに一体感を与え、希望を与えるものだ。差別されるマイノリティを描いた映画には古くは黒人差別の「アラバマ物語(To Kill a Mockinbird)」があり、最近では「ボーイズ・ドント・クライ」があるよね。「ボーイズ」はすごい映画だけど、異端者やはみ出し者は殺されるべきだと誤解される話だ。でも、この「トランスアメリカ」はアメリカで初めてトランスセクシュアルを主人公として、「死ぬ」のではなく「生きていく」話を提示した映画だよ。ハリウッド的なストーリー展開と冒険とコメディと、それからちょっと知的で人生の真実を伝える、自分が何ものかを教える、そんな要素とが融合した映画であってほしいと自分でも思ってるんだ。

●偶然だけど、ちょうど日本で、7歳の男の子が、自分が男の子であることを嫌がって女の子として小学校に通っているというニュースがあったんだよ。

DT ええ? それで、学校とか大人たちとかは受け入れてるの?

●学校はそのようだけど、周囲の大人たちにはそのことを知らない人もいて、匿名でのニュースだけど、こういうニュースになったらまたいろんな違った反応も出てくるかもしれない。

DT 日本の学校ってのは、とても画一的だって聞いたけど……。

●この映画の日本での公開がそういうところにもよい形で影響を与えてくれるといいなと思ってる。

DT あるトランスの人の話を聞いたんだけど、家族が10年以上も話をしてくれなかったんだって。でもこの「トランスアメリカ」を見てまた話をしてくれるようになったんだって聞いた。これはすごくいい話だと思う。ただ、言っておきたいけど、映画ってそれ自体はべつに「社会宣言」ではないんだから、それ自体に語らせるというかね。

●しかし、出来上がるまでが大変だったでしょう?

DT 永遠に出来ないんじゃないかと思った。借金は両親、兄弟、友人、クレジットカード会社と山のようにたまるし、これから10年はこの映画の借金返済に追われると思ってた。だれもこの映画が成功するなんて思ってなかったし、映画祭だってこれがコメディなのかドラマなのかわからないってなかなか受け付けてくれないし、そうしたらベルリン映画祭で賞をもらって、そこからバラエティ誌の映画評で褒められて、それからあれよあれよって間にみんなが注目ってことになってね。作り手側としてはね、アーティストとして俳優も撮影監督もメイキャップも衣装もほんとうに協力的でさ、給料を少なくしてもとにかく完成させようとして頑張ってくれたんだ。ただしビジネス側、制作陣、販売エージェントだとか配給会社だとか財務関係だとか、そっちはすごく保守的で偏狭で、大変だった。
ベルリンですらそうでね、「トランスアメリカ」は600席とか800席の会場で上映して、ベルリンの人たちで売り切れ状態だったんだけど、ハリウッドの関係者はだれも来なかった。たまたま知り合いのプロデューサーに会って聞いたら、「みんなトラニー(トランスセクシュアルへの蔑称)の映画なんて見ないんだよ。商売にならんから」と言うんだ。にもかかわらず賞をもらってバラエティに出たら掌を返したように殺到してきたってわけ。で、ビル・メイシー(エグゼクティヴ・プロデューサーでハフマンの夫)が「こいつらには見せるな。トライベッカ(NYで春に行われる映画祭)でやろう」って言ってきてね(笑)。で、トライベッカ映画祭でいくつかのオファーを獲得したんだ。だがまだそう大した数ではなかった。まあ、大都市でしか上映できないような映画だということで。ぼくとしては「愛と追憶の日々(Terms of endearment)」とか「黄昏(On Golden Pond)」とかを見て泣いたり笑ったりした家族層なんかもを狙って作ったつもりだったんだが、配給会社側も広告代理店側も、その辺がよくわかってなかったんだよね。だって、トビー役のケヴィン・ジーガーがいるんだぜ。こんなにきれいな男の子が出てて、女の子たちを初めとして女性層が来ないわけがない。ゲイだって来るさ。それにフェリシティ・ハフマンだよ、「デスパレート・ハウスワイブズ」の。ねえ、あんたらバカじゃないの、って言ってやったら、「でも、ストーリーがねえ」って言いやがってさ。

●そういう、性的少数者を描いた作品に対するマーケットの偏狭さってのは、そうすぐには変わらないかな?

DT これをやって気づいたことはね、ハリウッドでもどこでも、この世の中は政治だってことだね。ってことはまた、だれかひとりでもわかるやつがいれば、ルーズベルトでもチャーチルでもいいけど、大きく変わるチャンスもあるってことだ。ただ、なかなかそういう人物はいない。みんなわかってないんだ。この「トランスアメリカ」でゆいいつ、実際の人物をモデルにして描いた役柄がある。それはフィヌオラ・フラナガンが演じた、ブリーの母親役のエリザベス。ほんとに可笑しいしすごいキャラだし、最高。で、彼女は、実在する人物なんだ。でも、何人か評論家たちは「ありゃ,やり過ぎで、真実味がない」って言うんだよね。でも、あれは本当なんだ。ぼくの弟だって見たとたん「ダメだよ、ママを出しちゃ」って言ったくらいだから(笑)。

●この映画は、「家族」をもういちど作ろうとする映画でもあると思う。トビーは家族を知らない。ブリーは自分と家族を作り直そうとしている。あなたにとって、「家族」の定義って何です?

DT 家族って、だれもしないような世話をしてくれる人のこと。自分の欠けている部分を補ってくれる人。たとえば事故とかで手を失ったらさ、代わりにお尻を拭いてくれる人のことだよ(笑)。血とかじゃないね。そんなの、知らなければわからないもの。努力というか、コミットメントというか、自分を愛してくれていつも見ていてくれる人のことだな。

●次のプランは?

DT この夏にハリウッド・ミュージアムで「ブロークバック・マウンテン」と「トランスアメリカ」の両方のコスチュームを展示する展覧会があるんだ。フィヌオラとかトビーの服とか。それの運び出しを今週中にやらないと。

●映画は?

DT 赤ん坊が出来るから、1年は消えてるね。それで、本当にやりたい脚本を見つけてからだな。オファーはたくさんあるけど、やらなくちゃいけないってものはないから、まだ次のは考えてないよ。

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(了)

June 22, 2006

Summer Storm

アメリカのケーブルTVにはいま、3つのゲイチャンネルがあって、その1つに「here!」TVという有料局があります。VODの方式と24時間放送の2チャンネルで、有料といっても月に6ドルで見られるわけ。ブロックバスターで2本ビデオを借りる分で見放題だから、まあ悪くはないディールですわね。

で、今年の初めかな、NYのアート系のクアドシネマという映画館で公開していた2001年のドイツ映画「Summer Storm」が、早くもこのケーブル局に登場して、先日、見てみました。

よかったんですよ、これが、なかなかとても。
さてストーリーですが、高校のボート部の男女が合宿で郊外の川のほとりにキャンプを張るわけです。そん中のトビとアヒムという2人の男の子にはそれぞれガールフレンドもいて、彼女たちも女子部の方で練習をしてる。ところが、トビはなんとなくチームメートのアヒムがたまらなく好きになってしまう。そんで永遠の友情を誓い合いながらも、しかしアヒムは自分のガールフレンドといっしょにいる時間の方が長くなりがちになって、それでトビがみっともなくも嫉妬してしまう。で、無理にキスをしようとして拒絶され……。

まあ、こういうのはよくある設定、よくあるパタン。

でも、さすが21世紀の映画です。違う要素が入ってくるんですよ。いいなあ、こういうの。
そのキャンプ地に、他地区からゲイばっかりのボート部の高校生たちもやってくるんだけど、で、ここで挑発されるのはトビたち、“普通”の高校生たち。古い話だけど、「東京・府中少年の家」事件とは逆ですね。で、少年たちは、少年たち自らでreconcileの道を辿り始めるのです。

この辺の筋運びがきれいごとじゃなくてとても自然で清々しくて、こういう映画を見られるヨーロッパやアメリカの高校生たちは、ゲイでもゲイでなくとも、機会としてとても恵まれているなあと思いました。

物事には順番というものがあります。
日本のゲイシーンというのは、きちんと順番におさらいする教育的な基盤というものがなくて、いつも先鋭的なものを先取りして自慢するプロ仕様だけがちやほやされる異様なもののように映ったりします。そうして性的指向とか性的アイデンティティとかジェンダーとかで余計に混乱したりすることになる。

知るのに早すぎることはありません。だから、知る順番はどうとでもなりますが、知ったあとで遡及的にその「理」の成り立ちをたどることは必要でしょう。

BBMも好きな映画ですが、若い人たちには、性指向に関係なく万人に、むしろこの「Summer Storm」をこそ見てほしいと思います。新旧のゲイ・イッシューが、この映画の中に潮目のように存在して、そうして確実に未来へと流れていきます。

この7月、この映画は「サマー・ストーム〜夏の突風」というタイトルで東京のLG映画祭で青山のスパイラルホールで上映されるようです。12日(金)16時〜と14日(日)13時15分〜の2回。1300円。
それと、大阪では関西Queer (クイア)Film Festival で、24日(月)19時45分? HEP HALL(梅田・HEP FIVE 8階)=大阪市北区角田町5-15=だそうです。ドイツ語で日本語、英語字幕付き。1,600円とか。

お楽しみあれ。

June 13, 2006

ちょっとまずい本当の話

 サッカー、こっちでも生中継されていて、見ましたよ。ニホン、いやいや、こっちのアナウンサーまでも川口のあの同点ゴール直前のフリーキックの止め方なんか、「ワールドトップクラス!」なんて褒めちぎってから、あやや、危ねえなあ、こういうときにぽろっと入れられちゃうんだよって思ってたらあっというまに入れられました。ひー。で、その後はぼろぼろと逆転追加点。

 あれ、なんだかんだいっても体力差でしたね。後半のシュート数も負けていたし、というか、攻め込むんだけど最後のシュートにまでつながらない。へなへなでした。あれほど戻りの速かったディフェンスも同点にされてからは気ばかり焦って攻め込んでカウンターアタックに戻ってこられなかった。

 ああいうときはみんな、精神力だとか気力だとかいうけど、大いなる間違いでね、私もずっとサッカーをやっていたからわかるんだけど、気力ってのも体力の一部でして、躯が動かないと頭もぜんぜん働かないんですよ。肉体はつながっているわけです。躯が動いてるから気力ってのも間に合うわけで、だから、精神論をぶつスポーツコーチなんてのは信用できんの。それはあくまでフィジカルな力と技が土台にあってこそのお話です。

 まあ、ニホン全国、サッカー熱に浮かれているようですが、この敗戦ですこしは冷めてくれるといいのですが。サッカーなんか知らないって人もかなりいると思うんだけど、そういうところに目が行かずにワーってなっちゃうファッショがありますわよね。そういうの、アメリカって、まあサッカーはそんなに人気があるわけじゃないけど、野球だってバスケットだってアメフトだって、わーっとなるところはなってるけどなってないところはなってないって感じで、怒濤の熱狂というのがないところは何だろうねって思います。大人なんだろうか?

 って,ここまでが枕でして、本日のお話はそういうのとはぜんぜん違って、映画を見てきたって話です。
 巷で評判のアル・ゴア“主演”の「an Inconvenient Truth」ってやつです。地球温暖化のドキュメンタリー。で、ドキュメンタリーだって聞いてたからそのつもりで見始めたんだけど、ドキュメンタリーというよりはアル・ゴアの地球温暖化に関する講義を映した映画なんですね、これが。

 冒頭の、うららかな陽射しを浴びて川の流れるシーンのナレーションからしてアル・ゴアの声で、おっと、こりゃアル・ゴアのプロモーション映画かって思いました。まあ、そういういともあるのかもしれないけど、そのうちにそんなことがどうでもよくなるくらいに大変な事態が起きているのだって教えられる、そういう映画です。

 さまざまなものの歴史に転換点というものがあります。大規模な戦争ではヒロシマ・ナガサキがそうでしたし、テロリズムではもちろん9・11がそうでしょう。そんな中で昨年のハリケーン・カトリーナもまた、アメリカ人の意識を根幹から変えそうな“事件”だったんでしょう。というのも、地球温暖化とか環境保全とかは、カトリーナ以前に口にしてもどこか他人事でそう切実さはなかった。けれどいまはガソリン高騰も相俟って、あれほどCO2を放出しまくっていたアメリカ人でさえもちょっとこりゃまずいかなと思い始めているような気がします。

 前述したように、映画は温暖化に関するアル・ゴアの講義をそのままなぞるようにして進みます。講義の冒頭での自己紹介で、彼はまず自分の肩書きを「the Former Next President of the United States(前・次期合衆国大統領)」とイッパツ笑わせてから、地球温暖化の凄まじい推移と影響とを写真やグラフを多用して視覚的にわかりやすく解説してゆくわけです。

 その語り口は映画脚本顔負けにユーモアに富みかつ真剣で、途中、暗い映画館の中でわたしゃいま自分がノートを取っていないことを後悔したくらいです。そのくらいネタが満載。なかにはすでに知っていることもありますが、しかしこうまとめて編年体・紀伝体、時間の縦軸と横軸を切り取りながら目の前に提出されると、あらら、こりゃほんと、Inconvenient(まずい)だわ、って気持ちがどんどん募ってくる。

 どんなことが起きているか? 「キリマンジャロの雪」として有名だったあの雪はもうないのです。カナダやヨーロッパのあの美しい氷河はすでに多くが消えています。太陽熱の反射板の役目を果たしてきたそんな氷面が小さくなって海はますます加速的に水温を上昇させています。ですからカテゴリー4とか5とかの強力ハリケーンはこの30年で倍増しています。気温上昇で蚊がアンデスの中腹まで飛んでいけてマラリアの被害地域が広がっています。一方で内陸部は日照りで干ばつが続き、シベリアでは永久凍土層が融けて居住地が崩壊しているのと同時に、湖が次々に消滅しています。そしてなによりもぞっとするのは、そうして融けた陸地の淡水が大量に海に流れ込むことで、塩水濃度のバランスが崩れて太平洋や大西洋の大きな海流が迷走するか止まってしまいそうなのです。「カタストロフィーちょっと好き」の私ですが、やっぱ、ちょっとぞっとします。

 もちろんこれらは「警告」ですからショッキングに編集されているかもしれません。スクリーンで示されるグラフだって縦の軸の単位がよく見えないので変化の度合いが劇的に強調されているかもしれない。しかしたとえ話半分だとしても「話半分であってほしい」と思えるくらいにこれは、ちょっとインコンヴィニエントな話なのです。

 そういや富士山の万年雪も最近は夏は融けていますよね。

 なんともぐったりします。でも、とてもアメリカ人的というか、最後にきちんと「いま自分に出来ること」が示されます。普通の電球を蛍光灯に変えるとかリサイクルするだとか木を植えるだとか、そういう当たり前のことなんだけど、ってか、遅すぎるよ、あんたら、って感じもしないではないが、中には冷凍食品を買わない、肉食を減らす、可能ならハイブリッドカーを買う、なんてのもあります。そしてもちろん連邦議員に手紙を書くなんてのも。

 こりゃ、日本で公開されるんでしょうか? 公開されたら、ぜひご覧になることをお勧めします。下手なスリラーなんかよりずっとドキドキします。

 もしくは、大学とか市民団体とか、そういうところで自主上映界なんか企画してはいかがでしょうかね。きっと、そういう趣旨を伝えたら安く貸し出してくれるんじゃないでしょうか? えっと、ウェブサイトは次のとおりです。

An Inconvenient Truth Oficial Site


 ブッシュ政権のこの6年で疲弊したアメリカ人の理想主義が、11月の中間選挙にどう影響するのかにもこの映画は一役買いそうです。それは人気凋落の現大統領に、さらにちょっとまずい話ではありましょう。

April 11, 2006

「国家の品格」というジョーク本

 日本から来た若い友人が、どうぞ、とある新書を置いていきました。数学者藤原正彦さんがお書きになった「国家の品格」(新潮新書)という本でした。日本ではもう110万部も売れているのだそうです。ざっと通読後、私の尊敬する友人である若いお医者さんとかまでもが激賞しているのを知り、え、そんな感動するような本だったかしら? と思って、そりゃもういちど精読したほうがいいかなと思ってそうしたのですが、やはりこんども冒頭からつまずいてしまいました。
 こう書いてあるのです。「30歳前後のころ、アメリカの大学で3年間ほど教えていました」「論理の応酬だけで物事が決まっていくアメリカ社会がとても爽快に思えました。向こうではだれもが物事の決め方はそれ以外にないと思っているので、議論に負けても勝っても根に持つようなことはありません」

 おいおいちょっと待ってよ。アメリカでだって「論理の応酬」だけでなんか物事は決まらないし「議論に負けても根に持たない」という見方も単純すぎます。そんなロボットみたいな人間、いるわけないじゃないですか。ちょっと考えただけでもそのくらいはわかる。そんなのとっても中途半端なものの見方で、あまりに情緒的に過ぎませんか。

 首を傾げながら読み進めると、そんな筋運びばかりでした。欧米式の「論理」だけではダメだ、日本的な「情緒」と「形」こそが重要なのだという“論理”なのですが、「論理だけでは駄目だ」が、いつのまにか「論理は駄目だ」にすり替わって、その対極とする日本的「情緒」の価値を持ち上げる、という仕掛けでした。
 もっとも、ここで藤原さんがおっしゃる「情緒」というのは「喜怒哀楽のようなだれでも生まれつき持っているものではなく、懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるものです。形とは主に、武士道精神から来る行動基準」だそうなんですが。
 でもしかし、ふむ、ちょっとよくわからない。

 そもそも「論理」というのは方法・メディアであって日本的「情緒」という実体概念・共同幻想とは対にはならないでしょう。次元が違うのです。だって、情緒にだって論理はある。花伝書なんてその最たるものです。近松の虚実皮膜論だって見事なものだ。芭蕉にも種々の俳諧論があります。したがって日本的情緒の根源も論理で説明しようとする努力は歴史的にも否定されるものではありません。論理と情緒は敵対する水と油ではないのです。「論理」に対抗するのはこの本ではむしろ「形」の方でしょう。

 さてこうして筆者はゲーデルの「不完全性定理」まで持ち出してきて徹底的に「論理」を批判します。たとえば57ページには「風が吹けば桶屋が儲かる」という“論理”を、現実には桶屋は儲からない、と結論づけて、だから長い論理は危険だ、とわたしたちに言い含めます。
 ここでまたわからなくなる。
 だって、風が吹いてもじっさいには桶屋は儲からない、という結論自体もまた筆者の嫌う「(長い)論理」によって導かれた結論なのです。しかしそれには触れずに、つまり、論理はダメだということを論理によって説明しているのに、さらにつまり、筆者は論理の有効性を知ってそれを利用して結論づけてもいるのにもかかわらずそれには頬かむりして、だから論理はダメだ、だから情緒だ、と論を持っていくのです。

 もちろん筆者もバカじゃないですから(いやむしろかなり頭の良い方なんでしょうね)、何度も「論理を批判しているのではない」「論理だけでは駄目だといっているのだ」と断りを入れてはいるのですが、そういう「論理だけでは世界が破綻する」というきわめてまっとうな物言いを、ところが読者は限りなく「論理では世界が破綻する」という意味合いに近く誤読するよう誘導される書き方なのですね。
 これって、都合のよいところだけ論理的で、都合の悪いところはまるで手抜きの論証ではないか。いや、違う……都合の悪い部分は「論理」だと言って、都合の良い部分はそれは「情緒」だと依怙贔屓しているのか……。牽強付会は日本的情緒に最も反する行為なのに。

 先ほども言ったように「情緒」に対抗するものは「論理」ではありません。「情緒」に対して批判されるべきはむしろ「ゲーム」という概念です。藤原さんの厭うのは、「アメリカ化」が進んだ末の「金銭至上主義」による「財力にまかせた法律違反すれすれの」「卑怯」で「下品」な「メディア買収」に象徴される「マネーゲーム」だと、ご自身でもわかっていらっしゃるのに(p5)。この「ゲーム」の感覚に対抗するために、本来ならば「論理」を攻撃するのではなく、情緒と論理の2つの力を両輪にすべきなのに。

 さて先ほど、「論理」に対抗するのはこの本では「形」の方だ、とも書きました。
 藤原さんはそれに関していじめの例を引きます(p62)。武士道精神にのっとって「卑怯」を教えないといけない、と説くのです。
 「卑怯」というのは、「駄目だから駄目だ」らしい。それを徹底的に叩き込むしかない、という。「いじめをするような卑怯者は生きる価値すらない、ということをとことん叩き込むのです」とまで力説します。もっとも、何が「いじめ」かについては触れられません。そうしてこの「駄目だから駄目」「ならぬことはならぬのです」(p48)という武士道精神的「形」を子供にまず押し付けなければならないと言うわけです。
 それは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけにも同じだそうです。「駄目なものは駄目」「以上終わり」だ、と。

 ところで、武士道というのは「人を殺す」ための教えです。ここでまたまたわからなくなります。
 藤原さんの「なぜ人を殺してはいけないのか」への答えは、藤原さんの敬愛する「武士道」精神では「駄目なもの」ではない。いったい、その「駄目なもの」の基準はどこにあるのか。「いじめ」もそうですけれど、それは時代や文化や場所によって異なるものなのです。普遍的な基準などない。だから懸命にそれを考えるのです。

 「駄目なものは駄目」という話を聞くと私はいつも「廊下を走ってはいけません」という小学校のときの規則を思い出します。小学校の先生というのはあまり深いことを教えてくれません。なぜ廊下を走ってはいけないのか? それは規則だから。なぜ喧嘩をしてはいけないのか、それは規則だから。なぜ人を殺してはいけないのか、それは規則だから。
 で、友だちが大けがをして先生を呼びにいくときも、走らずに歩いていく子供が生まれるのです。「なぜ」という「論理」を考え続けない限り、そうしたやさしい日本的「情緒」の生まれる土壌さえ作れないのです。

 人を殺してはいけない、これは論理ではない、と藤原さんは言いますが、これだって論理です。なぜ人は殺してはいけないのか、という反語は「じゃあ、殺してやろうか?」という反問を有効にするからです。すると自分が殺されてもよい状況が生まれます。そのとき、その自分は殺されるので人を殺すことができなくなります。だから人殺しは不可能なのです。「なぜ人を殺してはいけないのですか」と質問されたら、ですから「じゃあ、殺してやろうか」という答えが,論理的に必然的に待っているのです。
 それから先の論理は自分で考えてもらいましょう。

 では、武士はなぜ人を殺してよかったのか? それはなぜなら、自分が殺されてもよかったからなのです。もちろんそれはある一面ではありますが、それでもこれは1つの論理の導く1つの結論です。武士道もまた、じつに武士道的に論理的なのです。

 「駄目なものは駄目」というのが、じつは私はとても苦手です。生理的に駄目なのです。そういう意味ではまことに「駄目なものは駄目」は駄目です。
 というのも、それを認めると「理不尽」が通されてしまうからです。こういうことを書いている本を、たとえば同性愛者の人がすこしでも評価するというのはいったいどういうことなのかと考えてしまいます。

 ええ、ゲイの若い人たちの中にもこの本を賞賛する人がいます。同じ論理が、いや、ここでは物言いと呼びましょうか、「ゲイ」と呼ばれる者たちに向けて公然と抑圧として発せられてきた歴史を知っているはずの彼らが、この記述をスルーするのはなぜなのでしょうか? 「駄目なものは駄目」「気持ち悪いものは気持ち悪い」「罪なものは罪」。問答無用。そんな物言いを、認めるのですか? 私にはそれはどうしてもできない。

 藤原さんのこの本にはじつは政治や経済に関するごく基本的なことに関しての誤解や誤謬も数多くあります。まあ数学者だからしょうがないのかもしれません。しかし、この「駄目なものは駄目」に象徴される論の運びは私には看過できない。

 どうして若い人たちがこの本をよいと言うのか、その辺を考えると、なんだか日本人としての自分のアイデンティティをくすぐられるという、そういう昔ながらのエサが随所にちりばめられているせいではないかとも思います。
 はかないものに美を感ずるのは日本人特有の感性だというドナルド・キーン(p101)。随筆「虫の演奏家」で日本人は庶民も詩人だと書いたラフカディオ・ハーン(p102)。日本の楓は欧米のと比べて非常に繊細で華奢で色彩も豊かだと気づいて感嘆したフィールズ賞も貰っているケンブリッジ大学の数学の教授(106P)等々。
 なるほどこういうのは日本人として読んでいて心地はよいですが、でもそういうのは欧米人特有のお世辞なんですよ。

 英語の「コンプリメント」は日本語のお世辞と違ってウソの要素はないですが、強いて美点を探し出してそれを強調するのが基本。その分を割り引かずに真に受けて鼻の穴を膨らませるのはあまりに子供っぽい反応でしょう。もちろんこちらとてそれらに関する矜持はありますけれど、それは西洋人にお墨付きを貰わなくともよい。ふむふむ、と聞いているくらいでよいのです。そんな世辞で夜郎自大にならないこと、それこそ謙譲の美徳というものです。

 総じてこの本は、日本という国にもっと誇りが持てるような、あるいは誇りを持つことを励ますような記述にあふれているのですが、思うに日本人ほど自分の国を特別な国だと思っている(思いたがっている)国民はほかにいないんじゃないでしょうか? 逆に言えばどうしてこうも情緒だもののあわれだ武士道だ、といつも確認していなければ自信を持てないのか。どうして特別だと思わなければやっていけないのか。そのへんの自意識のさもしさが,私には品格に欠けると思わざるを得ないのです。

 「虫」の音を「ノイズ」と呼ぼう(101P)が、「サウンド」と呼ぼうが、バッハやモーツァルトやベートーベンやチャイコフスキーを生んだ「西洋人」の音楽性を否定するわけにはいきません。虫の音をノイズと呼んだくらいで、日本人の音楽性やもののあわれのほうがすぐれているとは、論理的にいってわたしにはどうしたって断言できない。儚さを包み込んだラフマニノフのもののあわれは、じゅうぶんに紫式部とも張れるものだと思うし、秋の日のヴィオロンの溜め息の身に沁みて、と謳ったベルレーヌだって、じゅうぶんにもののあはれではないですか。

 この「おあいこ」の感じ、これを大切にしたいのです。日本だけが特別で、すごいのではない。いや、すごくて特別なところはもちろんありますよ。私はそれは密かに自負もしてます。言えといわれれば日本の特別で素晴らしいところなど10や20はすぐにでも言えます。でも言わない。かっこ悪いもの。それに、同じように諸外国にもすごくて特別なところがあるって知っているし。その畏れを大切にしたい。私たちはその国の人じゃないからそれを知らないだけなのです。詳しくも知らないし、その感覚の基となる気候や文化や歴史だってそこに生きている人ほどには知りようもない。次元は違うかもしれませんが、いろんな国の人がみな自分の国や文化をそう思っているのだと思いますよ。そんな他者への畏れを、私はいろんなところに行きいろんな人に出逢っていろんな話を聞いて、持つようになりました。ジャーナリストをしていてよかったと思うのはまずそこです。しかも会社の金で世界中の人たちと会えたし、はは。
 以前にも書きましたが、愛国心、祖国愛というのはどの人にもだいたい共通のものです。そうしてそれは論理的でなくなり、感情的になるときにイビキに変わる。自分のは気にもならないが、隣のヤツのはひどく耳障りになるのです。

 この「国家の品格」は一事が万事この調子でした。きっと「欧米人」が読めたらイビキとか歯ぎしりとかの類いにしか聞こえないような。論の大前提がとても単純化された虚構なのです。先ほども触れたように、さらには藤原さんもご存じのように(p122)、もともとは鎌倉武士の戦いの掟である「武士道」というものと新渡戸稲造の説いた「武士道」とは違うものです。新渡戸武士道が大いなる虚構だというのはいまや常識なのに、それを敢えて前提に持ってきたのは数学でいう「前提が偽なら結果はすべて真」という論理を拝借した結果なのでしょうか。

 武士道に絡めて、もう1つ言ってよろしいですか?
 新渡戸武士道の最高の美徳は「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」(p124)だそうなんです。そこで差別に関して、藤原さんは「我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠の情をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道精神の中軸です。人々に十分な惻隠の情があれば差別などなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」(p90-91)といっていますが、この「惻隠の情」、主語はだれなんでしょうか? そう、武士です。
 敗者、劣者、弱者という人々は惻隠の情を持ち得ない。あくまで、惻隠の情を持ってもらう,抱いてもらう立場のままです。

 この武士道精神は、藤原さんが「非道」(p21)と批判している帝国主義・植民地主義とまったく同じ思考方法です。おまけに「人々に十分な惻隠の情があれば差別などなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」と言うその同じ口で、その2ページ前と7ページ前に、「国民は永遠に成熟しない」「国民は賢くならない」とも断言しているのです。
 頭がこんがらがってきませんか? この「国民」と「人々」とは別な存在なのでしょうか? 「人々」とは武士的な人、のことなのでしょうか? まさに、選ばれてあることの恍惚。でもそこに不安はないようです。

 藤原さんの言い方では、武士だけが主語になれるのです。オンナ、コドモやオカマやカタワは常に「惻隠の情」の目的語の位置から逃れられない。そんな定型な「形」は、押し付けられても困ります。万物は流転するのです。日本的情緒の権化である鴨長明だってそういっている。

 私はいまの日本に欠けているのは(そしてこの本にも欠けているのは)むしろ丁寧な論理の紡ぎ方の教育だと思っています。だいたい論理というものが日本で人気のあったためしはありません。面倒くさいですからね。それに対して、情緒という言葉の響きの、なんと情緒的で安易なことか。受けるはずです。

 この本は、じつは第4章以降はまともすぎるほどにまともです。筆者の説く「徹底した実力主義は間違い」「デリバティブの恐怖」「小学生に株式投資や英語を教えることの愚劣さ」「ナショナリズムは不潔な考え」などの結論はまったくもって私の考えと同じです。
 ですがそこに辿り着くまでの論の運びは、私には大いなるブラックジョークとしか読めませんでした。もっとも、その一人漫才ぶりがこの本の売りなんでしょう。

 そういうことです。

 ずいぶん長く書きました。それもこれも、こんな本に簡単に感動しているきみに、私の思いを伝えたかったからです。この本は、ぜひジョークとしてお楽しみください。そうすればまあ可笑しいし、随所で何度かは吹き出したりもできます。
 以上、終わり。

April 10, 2006

DVD到着、BBM4回目鑑賞

DVD届きました。
いやこりゃいいわ。ヘッドフォンで聞いたら細かい囁きまでぜんぶ聞こえるし、おまけにキャプションを出したらセリフとぴったり。

画質も最高。2回目の夜のキスシーンでは、ふと顔を離したお2人の口のあいだに、唾液の糸がつーっと渡ってキラリと光ります。この夜、エニスはテントに帽子を脱いで入ってくるのですが、その帽子の様子は紳士が淑女にあらためてあいさつをするときのようでもあり、かつ、その帽子がジーンズの股間を覆うようにもなっているのでこれまたなにかの含意があるかのようにも受け取れます。そうしてたしかにエニスは「sorry」とつぶやいています。そうしてジャックが「It's allright...allright...」と応じる。なるほどねえ。あるよなあ、こういうやりとり。

4年ぶりのモテルのシーンでは、ジャックがあのルリーンと結婚する年にロデオで稼いだ金額が2000ドルと改変されていて、これは原作では3000ドルだったのですが、面倒な説明と誤読を避けるために2000ドルに引き下げてあまり金がなかったという筋運びにしたのが分かりました。それで資産家の娘であるルリーンと結婚した、というわけです。

この映画は、鑑賞者が勝手に読みを深めて栄養を与えて、各自で勝手に物語を膨らませてしまうように出来ています。そうすることをしない鑑賞者には、「なに、これ?」となるのでしょう。淡々と描いているブロークバック山での描写も見る人が見るとなにかの予兆にあふれて目が離せないけれど、そうじゃないと「なんにも筋がなくただただ冗漫」となる。

見る人の過去の記憶さえもが、この映画の伏線と化するわけです。病み付きになるはずです。だって、自分のことが描いてあるんだもんね。
すべてがスクリーン上で展開し、すべてがセリフで説明できる、隠し立てのない「クラッシュ」とは大違いの映画。

アルマもかわいそうだけど、アルマ以上に彼らはかわいそうだ。アルマがかわいそうだというのが第一義である感想は、アルマ以上にかわいそうな彼らをどう処理しているのでしょう。それが不思議です。彼ら以上にアルマがかわいそうなら、この映画は作られなかったはずですしね。つまりこの映画を、アルマがいちばんかわいそうな、性欲に駆られた男2人の不倫物語と評する人は、敢えてそういうふうに読もうとする、読みたいというバイアスにさらされているか、あるいはわざと人と違った感想を探しているか、のどちらかということになる。あるいはどんな映画を見ても間違えているのか。

誤解されるように書いちゃいましたが、ま、しかしこれはどっちがかわいそうか、という比較の問題ではないですね。ごめんごめん。むしろ、どちらのかわいそうさに着眼するか、という問題。かわいそうさ? 悲惨さ?

もちろんアルマはかわいそうです。そのかわいそうさがあるから、彼らのかわいそうさがなおさら引き立つ、という構造です。どっちのかわいそうさも外せない。そうしてそのかわいそうさの道筋の基本も外せない。その構造を知ったうえで、再度アルマとルリーンに目配せをする。そうしてクローゼットがすべての人々を失望させることに気づく、という展開が望ましい。なんちゃってね。

ヒース・レッジャーより、ジェイク・ジレンホールの方が演技はうまいな。というか、エニスって、難しいから、どうしてもヒースの演技のふとしたわざと臭さが垣間見えちゃうところがある。たとえばキャシーとのダンスのシーンは、ありゃ、ダンスのうまいヤツがわざとぎくしゃくやっているの図ですね。

しかし、まあ、また面白うございました。またも性懲りもなく泣きましたですし。うへー。

March 14, 2006

yes 創刊2号 本日発売


日本時間で本日15日発売(地方はちょっと遅れるかも)のタワーレコードの雑誌「yes」(880円)で、「ブロークバック・マウンテン」の小特集が組まれております。

ヒース・レッジャーのインタビュー、BBMの分析「ブロークバック山の案内図」、雑学情報集「ブロークバック付録袋(ふろくぱっく)」などが掲載されています。
一般書店、もしくはタワーレコード各店、あるいは以下のアマゾンでも買えます。

アマゾンに飛ぶにはここをクリック

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ヒース・レッジャーのインタビューのさわり

Q この映画がLGBTの観客にとっていかに大事な映画になるかということをあなたに言ってきたゲイの友人はいた? 「こいつは重要だぜ、失敗するなよ」って?

H そういうこと、友だちに言ってもらわなくてもわかるからね(笑)。これが重要な物語であるということは理解してたし、これまで正しく語られてきたことのない話であるということもわかってた。これをやることで責任が生じるということも知ってた。

Q この役を手にするってことについてはどう? この映画ならいろんな俳優がやりたがっただろうなって思うけど。

H 実際のところ、ちょっと変でもあった。台本を読んでこれはすごいと思ったんだ。こんなに美しい脚本を読んだことがなかった。ほんとにそう。おれのエージェントに「制作サイドがきみにやってもらいたいって言ってきてる」って言われてね。で、そのときは、おれの役はジャックの方だったんだよ。で言ったわけ。「いや、ジャックってのはどうやってやったらいいのかおれにはわかんないな。エニスだったらやれるけど。2人のうち、エニスの物語だったらできる」って。それからプロダクションは他の俳優を当たってたみたいで、しばらくおれもその話は忘れてたんだ。オーストラリアに帰って家族に会ったりとかしてね。そうしたらまたその話が来てさ、「きみの希望どおりにやってみるってさ。エニスがきみでジェイクがジャックをやるって案だ。アン(・リー監督)に会うかい?」って言うから「もちろん会いたい」って言って〜〜〜(続く)


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映画分析記事のさわり

 朝ぼらけのワイオミングの山あいの道路をトラックが行き、グスタボ・サンタオラヤのスチール弦が冷気を貫き、エニス・デル・マーが美しい八頭身でトラックから静かに降り立ったとき、その歓喜と悲劇の物語はすでにそこにすべてが表現されていた。歓喜は遠い山に、悲劇は降り立った地面と地続きの日常に、そうしてすべての原因は不安げに結ばれるエニスの唇と、彼を包む青白い冷気とに。

 「Love is a Force of Nature」というのがこの物語の映画版のコピーだ。「愛とは自然の力」。a force of nature は抗し難い力、有無をいわせずすべてを押し流してしまうような圧倒的な力のことだ。「愛とはそんなにも自然で強力な生の奔流。だからそれに異を唱えることはむなしい」──そのメッセージ。

 しかしここにはもう1つの意味が隠されてある。(中略)このコピーの二重性は象徴的である。〜〜(続く)

March 10, 2006

ブロークバックはただじゃ終わらない

オスカーに抗議して、「我々の作品賞はブロークバック・マウンテンです」という新聞一面広告=写真参照=を出そうという運動が始まりました。 「ありがとう;ブロークバック・マウンテン」という、ファンたち自身からの最優秀作品賞の授与ですね。

これがブログで紹介されるや、48時間で400人以上から17500ドル(200万円)が集まった。

呼びかけはアメリカでの熱狂的ファンサイト「the Ultimate Brokeback Forum」。落選の怒りをあたりかまわずぶちまけたりひたすら落ち込んだりという非生産的な行為の代わりに、この映画への制作陣への敬意と賞賛とを表明しようと新聞広告を打とうというわけです。画像にもあるように、2005年のベスト作品賞受賞映画賞を網羅して圧巻です。ただ1つ、オスカーだけがない。アカデミー会員のじいさんたちはこれをみて畏れ多くないか、ってわけですね。

言い出しっぺは私もこの欄とか自分のサイトとかでいろいろとネタ元にしていたDave Cullenくん。ふーん、本物だ、このブロークバック好きさ加減は。

こんなことはハリウッド映画史上かつてありませんでした。
面白いねえ。

ジャックとエニスの愛が社会によって否定されていたことに関する映画が、再び社会によって否定された(作品賞の落選)に我慢がならんというわけですね。アメリカ人の行動力って、ほんとこういうときに凄いと思います。

まずはハリウッドで最も読まれている映画関連新聞の「デイリーヴァラエティ」紙の本日10日付けで全面広告を打つとのこと。

さらに寄付を集めて他の雑誌や新聞にも、同様の広告を打つようです。
で、コピーは
「We agree with everyone who named 'Brokeback Mountain' best picture」
「わたしたちは、ブロークバック・マウンテンを最優秀映画賞に決めたすべての人々に賛同します」

で、日本からももちろん寄付できます。
http://www.davecullen.com/brokebackmountain/adcampaign.html
に行って、peypalのところをクリックして寄付が出来ます。
10ドルでもいいわけ。もちろん1ドルでもね。
でも、ビザかマスターカードを持ってないと難しいかも。

日本の新聞社にも教えましょうね。
こりゃぜったいに面白いネタだ。

March 08, 2006

ブロークバックの衝撃2

 今年のアカデミー賞は「クラッシュ」が作品賞を獲ったということより「ブロークバック・マウンテン」がそれを獲らなかったということのほうがニュースになっています。昨年12月の公開以来アメリカ社会にさまざまな「衝撃」を与えてきた「ブロークバック」ですが、作品賞を「クラッシュ」に横取りされた別の「衝撃」が返ってきちゃいました。記事の見出しも「アカデミー賞でのドンデン返し」とか「ブロークバックのバックラッシュ」とかですものね。

 アカデミー賞はその選考投票の内容を明らかにすることはありませんが、新聞各紙やロイターやAPなどがさまざまな見方を示しています。

 NYタイムズは作品賞を逃したことを;
 ブロークバックをだれも止められないと思っていた。だが最後に思わぬ事故(クラッシュ)が待ち受けていた。再びの屈辱的な教訓。アカデミーはだれかにどうこうすべきと言われるのが好きではないのだ。ジャック・ニコルソンが最後の封筒を開けたとき、すべての賭け金、一般の思惑、これまでの受賞暦が無に化した。「ホワー」とニコルソンは言った。

 たしかにニコルソンの反応は面白かった。「何たること!」という感じでしたものね。

 クラッシュはロサンゼルスのある交通事故が、いろんな場所のいろんな人々のいろんな話をない交ぜて思わぬ展開を見せていくというものです。そこには人種問題、貧富の問題、階級の問題、職業の問題、いろいろあって、オリジナル脚本賞も取っただけあってじつによく書けている。

 ところが、これが「今年の映画」かというと、正確にはアカデミー賞は去年の映画を対象とするのですが、その「いまのこの年の映画か」というと違うんじゃないか、というのが正直な印象です。「クラッシュ」のこの手法というのは「群像劇」の手法で、たとえばロバート・アルトマンの「ショートカッツ」(94年)なんかの手法なのです。またかよ、という感じ。

 さてそのうえで、NYタイムズとかAPでも共通しているブロークバックの敗因は、まず、ロサンゼルスという地の利/不利のことでした。NYタイムズの見出しは「ロサンゼルスがオスカーの親権を維持した」でしたし。
 つまりクラッシュはお膝元のロサンゼルスが舞台で、しかも登場するのはものすごい数の有名俳優たち。ブレンダン・フレイザーやサンドラ・ブロックの役などほんのちょいでなくてもかまわない、マット・ディロンもこれで助演男優賞候補?ってぐらいに出演時間もちょっと。そういう使い方をしてる。でもこれはハリウッドの俳優陣総出演というか、見事にむかしの東宝東映大映松竹オールスター大江戸花盛り、みたいな映画で、まさに化粧直しした新型ハリウッド映画なのです。対してブロークバックはカナダで撮影され、ロサンゼルス=西海岸資本が作った映画ではなくて、ニューヨーク=東海岸の資本が作った映画なんですね。これはいわばボクシング試合などのホームタウン・デシージョンではなかったか、そういう分析です。

 あるいはかねてから言われていたように、「ブロークバック」を、アカデミーの会員のご老人たちは観てもいないのではないか、という説。
 アカデミーというのは映画に関係するすべての職業の人から構成されていて、現在の会員は6000人くらい。そのうち投票するのは4500人とか5000人なんですが、ほかの賞のグループ、監督協会とか評論家協会とかよりも高齢化が進んでいて、そこに候補作品のDVDが送られてくるという仕組みです。それで自分で見る。日本にも何人も会員はいて、そこに字幕付きのも送られてます。
 だが、このカウボーイ同士のゲイの恋愛もの、そういうご年配の会員たちにとって、黙ってても観てくれる種類のものだろうかというと……。 「クラッシュは私たち自身が生きて働くこの業界をよく体現した映画だ( 'Crash' was far more representative of the our industry, of where we work and live)」とあるハリウッド関係者がNYタイムズの記事でコメントしています。対してブロークバックは「神聖なハリウッドのアイコン偶像に挑戦した、アカデミーのご年配方がそういうアメリカのカウボーイのイメージが壊れるのを観たいだろうかというと、答えは明らかだろう('Brokeback' took on a fairly sacred Hollywood icon, the cowboy, and I don't think the older members of the academy wanted to see the image of the American cowboy diminished.)」ということです。
 脚本を書いたラリー・マクマートリーもまた「Perhaps the truth really is, Americans don't want cowboys to be gay,(きっと真実はたぶん本当に、アメリカ人はカウボーイがゲイであってはほしくないということなんだろう)」と「bittersweet」なオスカーの夜を振り返っています。

 でも肝心なのはそれだけではないようです。
 クラッシュの配給会社は大手のライオンゲートですが、ここがクラッシュが候補に上ったとたん、じつはものすごいキャンペーンを展開したというんですね。というのも、その時点でもうクラッシュのアメリカでの劇場公開は終わっていて、DVDが発売されていた。このDVDを映画関係者に13万本以上もバラまいたというのです。対してブロークバックはDVDは市販用にはまだ出来ていない。だからバラまきようがない。13万本も作ったら破産してしまう。ふつう候補作は1万本とかが郵送されるようですが、クラッシュはその10倍以上です。ライオンゲートはほかの三流映画で稼いだお金をぜんぶつぎ込んでこのクラッシュをプロモートしました。何度も何度も、いろんな賞のたびに送るんです。そりゃ家に10本もたまったら観ますよね。クラッシュはこのプロモーションで数十万ドルつまり1億円近く使っています。そのほかにもパーティーはやるわ、贈り物はするわ、で、選挙運動じゃないですからそういうの、べつに逮捕されたりしませんからね。そういう背景があった。これはかつてあのイタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」のときに問題になったやり方です。あの映画もものすごいパーティーをやり、アカデミー会員に贈り物攻勢をかけ、あの主役のなんとかっていうコメディアンが愛嬌を振りまいた。で、オスカーを獲った。まるでオリンピックの招致合戦のような様相を呈しているわけですね。

 おまけに、クラッシュは「街の映画」でテレビ画面で見てもあまり印象は変わりませんが、ブロークバックは「山の映画」で、たとえ幸運に見てもらったとしても、あの広大な自然の美しさをバックに描かれる愛が、テレビの画面ではいまいち伝わらない。そういう不利もあったろう、と。

 つまり、今回の作品賞の顛末は、クラッシュが作品賞を獲る理由と、ブロークバックが作品賞を獲らない理由が、うまく二重合わせになった結果なのだろうということです。

 ま、しかし、冷静に考えるとBBMはいかにそれがエポックメーキングだとはいえ、アメリカ国内での興行成績はまだ8000万ドルに過ぎません。ゲイ関連の映画で、1億ドルを超えたのは過去にあのロビン・ウィリアムズの「バードケージ」(フランス版「ラ・カージュ・オ・フォー」のリメーク)だけなのです。BBMの観客数はこれまでで米国内1500万人くらいでしょうか。で、リピーターも多いから、つまりアメリカ人の95%以上はこの映画を観てもいないのですね。映画というのはそういう媒体です。テレビのヒット作なんか一日の1時間の番組で3000万人が見たりするのに。だから4200万人が視聴する中、94年4月にエレン・デジェネレスがテレビのコメディドラマでカムアウトしたときのほうがインパクトは強かったのかもしれない。

 あれから12年、時代の先端部分はたしかにBBMのような映画を作れるようにはなってきました。
 ただし、ジェイク・ジレンホールとヒース・レッジャーもインタビューで自分たちで言っていたように、「キスシーンでは最初、どうしても笑ってしまった」のですね。彼らですらそうなのですから、映画館であの男同士のキスシーンを見て笑ってしまわざるを得ない男たちというのはまだまだ相当数いるわけです。笑うだけではなく、「オーゴッド!」とか「カモン(やめてくれ)!」とか「グロース(キモイ)!」とか茶々を入れなきゃ見てられない連中だって。この映画を観た男性たちの中には、あえて「そんなに大した映画じゃなかった」という感想を、あえて表明しなければならない、というプレッシャーを感じている輩も多いのです。
 それはもちろんそういうホモセクシュアルな環境に耐えられない自分の中のホモセクシュアルな部分をごまかすためであり、あるいは一緒に映画を見ている仲のよい友人たちとの相互のピアプレッシャーでもあり、そういうのはさんざんわかっているのですが、やはりそういうのはまだ強い。ましてや、社会から隔絶して引退生活を送っているアカデミーの終身会員のお歴々がBBMに関して何を思っているのか、いや、なにも思っていない、ということは、つまりは見る必要性を感じない、というのは、ある意味当然ではあるのでしょう。

 歴史というのは、手強いのです。

 ただし、わたしには確実に空気が変わったのは感じられるのです。
 日本の配給会社ワイズポリシーの用意した掲示板に行ってみると(すこしでも映画にネガティブなことを書くと速攻で削除されるという恐ろしい掲示板らしいですが)、さまざまな人たちがゲイのことについて、あるいは自分はゲイであると明かして、さまざまに書き込みをしています。こういうことは「メゾン・ド・ヒミコ」でもあったようですが、あのときはオダギリ・ジョーのファンの女性たちに気圧されて掲示板でそう主人公にはなれなかった。でも、今回はBBMファンの女性たちと渡り合って余りある勢いや思いも感じられます。

 こういうのは「クラッシュ」には起きない。BBMの崇拝者は生まれていますが、クラッシュの崇拝者というのは聞いたことがない。
 ですんで受賞を逃したのはそれはそれでいいんじゃないかと。それが2006年という時代の断層なのではないかと思うわけです。BBMが、今後のハリウッド史の中で「アカデミーに作品賞を与えられなかったことが衝撃を与えた作品」として、長く語り継がれるだろう映画であることは間違いないのですから。

March 03, 2006

先行公開スタートですか?

 えっと、日本では4日に、渋谷だけなんでしょうか? ブロークバックの先行公開。
 で、一般のブログサーファーの方向けに、文章を書いてみます。こちらではこの日曜にアカデミー賞の発表および授賞式です。

 で、今年のアカデミー賞で最多8部門でノミネートされているのがその「ブロークバック・マウンテン」です。この映画はでも、オスカー云々以前、はるか12月初めの公開直後からアメリカではすでに社会現象になっていました、という話。というか、観てほしいのです。

 アメリカではすで公開から3カ月なんですが、この映画に関するブログやパロディサイトは数限りなく立ち上がり、新聞各紙は映画評から離れて「ガールフレンドにブロークバックを観に行こうと誘われて『いや』と応える男はクールじゃない」とかいう社会分析を載せたりしました。パーティーの席などで「ブロークバックは見た?」という会話は、自分がいかに差別や偏見を持たない人間であるかを示す格好のリトマス試験紙になっています。

 というのも、これは1963年から20年間にも及ぶ,米国中西部に生きるカウボーイ同士の恋愛の映画だからです。そう、男同士の愛。ただし、一般に信じられているステレオタイプの同性愛とは違いました。そこがミソだったのです。多くの人が知らなかった「愛」の、その愛の形と悲しみとがあらわになるこの映画で、「これが同性愛なら私はいままで大きな勘違いをしてきた」と思いはじめる人が出てきた。まるであの黒人差別をえぐったシドニー・ポワチエの映画「招かれざる客」のような真摯な議論を現代に持ち込んでいるのです。

 興味深いのはキリスト教右派とされる人たちの反応でした。欧州諸国やカナダなどの同性婚受容の動きの反動で、アメリカではいまこの同性間パートナーシップにあちこちで厳しい不寛容が表面化してきています。その不寛容の急先鋒である宗教団体の人たちまでも、ところが「この映画はとてもよい映画だけに、間違ったメッセージを送る恐れがある」となんとも及び腰の批判ぶりなのです。

 ここに至ってすでにゲイだなんだというのはあまり問題ではなくなりました。保守的とされる中西部や南部でさえもかなりの観客を動員しており、初めはプロモーションのために配給会社側もゲイ色を出さず「普遍的な愛の物語」と曖昧にプッシュしていたのですが、いまや観客のほうから「ゲイの恋愛だって普遍的なもの」との見方に自然にシフトしてきました。男性主義の米国社会にとって、それは実に衝撃的な問題提起なのでした。

 でも、一方でさきほど、こんなニュースを見つけました。

**
【第78回アカデミー賞】ミシェル・ウィリアムズ、“ゲイ映画”に出演したとして母校から縁を切られる

 アカデミー賞8部門でノミネートされている『ブロークバック・マウンテン』のミシェル・ウィリアムズが、映画の内容のせいで母校から縁を切られた。カリフォルニア州にあるウィリアムズの母校サンタフェ・クリスチャン・スクールの校長は、「卒業生がゲイをテーマにした映画で苦悩する女性を演じたのは非常に不快。彼女の行動は当校の価値観とは異なり、一切関わりは持ちたくない」とコメントしている。   (FLiX) - 3月3日13時19分更新

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 ふむ、「卒業生がゲイをテーマにした映画で苦悩する女性を演じたのは非常に不快」なわけなんですか?

 つまりゲイをテーマにした映画で、「そんなふうに苦悩してはいけません。それは世間では「ホモフォビア」といわれます。恐怖症という病気なのです」ってことなのかしら? でそれが「当校」の価値観とは異なる、というのでしょうか?

 ええ、わかってますよ。もちろんそうじゃない。はいはい。
 そう、つまり、いまになってもこうなんですから、それだけコントラヴァーシャルな、ってことですね。なんだかんだいっても、「ゲイだなんだというのはあまり問題では」まだ、やはり、あるわけです。だからこの映画が人口に膾炙するわけで。

 しかし時代の変わり目というのでしょうか、ブッシュ政権下での9.11やその後のイラク戦争など、このところずっと政治的に息苦しかった風潮を打破しようとする意志が、今年のオスカー候補の面々には感じられます。テロ(ミュンヘン)や人種軋轢(クラッシュ)、政治による言論弾圧(グッドナイト&グッドラック)や同性愛(ブロークバック、カポーティ)──政治的議論の噴出する話題を映画が再び語りはじめました。時代のこの潮目を、「ブロークバック・マウンテン」を観てぜひ日本でも感じ取ってください。また、その感想はぜひこの「コメント」のところにもどうぞお書き込みください。わたしもみなさんの意見が聴きたいです。

February 28, 2006

クラッシング・ザ・クラッシュ

いろいろ頼まれものの原稿のときには書けませんが、ここはブルシットなのでたまにはいいでしょ。いろいろ奥歯にモノの挟まったような言い方をしてきましたが、「クラッシュ」ははっきり申しますが、精密な解析に値しない映画です。そのまんまなのですから。スクリーン上に描かれていないものはない映画。その意味でとてもサービス精神にあふれた、怠け者でもわかる映画。アルトマンほどにも人間が絡まない、縺れない、からね。

つまり、ここだけの話、これは、頭の悪いやつにもわかる映画なんですわ。
簡単、単純、大げさ、わざとくささ。
前半、どんどん理不尽と恐怖とを盛り上げていき、あの車の炎上シーンからどんどんと偶然と善意とによってもたらされるカタルシスを注ぎ込んで消火作業に入って鎮火する。
マッチポンプの映画。

私くらいの年になると、先が見えちゃう。というか、伏線も何も、そんなあからさまでよろしいのか。エピソードの数々もぜんぶいつかどこかで聞いたことのある声高なゴシップ話レベル。こんなに予定調和! って感じ。会話も1つ1つが誇張されすぎで、まるで上質な振りをしたソープオペラ。いくらロサンゼルスでも、これじゃ可哀想。いまどきはアメリカのTVのプライム枠のシリアスドラマの方がもっと知的で深い(これ、ホント。けっこう面白いし、おまけに映画と違ってタダで見られるし)。

みんなが賞賛するのは、わかりやすいから。バカにもわかるようにできた大衆映画。で、たしかにハラハラしながらも安心して見ていられる娯楽映画。破綻がないのは、単純だから。人種衝突は、かくして娯楽に堕したわけ。つまり、パーティーでの5分間トークの寄せ合わせ。そういうの、やめてほしい(ってそこまで腹立つ映画ではぜんぜんないのは確かだけどね)。

べつに2005年の映画でなくても、10年前でも撮れたはず。新しいところは(見逃しがあるやも知れぬが)ないよなあ。

で、それで何が悪いの?
な〜んにも悪くありませ〜ん。
星を与えるとしたら、わたしだって5つ星のうち3つはあげます。

で、これに5つ☆を与えるやつは、30歳以下ならじゅうぶんに理解できます。
が、30以上なら(この数字は仮の目安ね。比喩よ)わたしとはちょっと面白い会話は成立しそうもない。ごめんなさい、という映画。この映画を見て、侃々諤々の議論は恥ずかしい、そういう映画。つまり、そのまんまの映画。あ、最初に戻った。

というわけで、終わり、という映画。

December 28, 2005

ブロークバック・マウンテンの衝撃

映画を見て、原作を読んで、もいっかい映画を見て、もいっかい原作を確認して、ああ、そうだったのね、と細かいところまでいちいち納得して、そんで思ったのは、これはマジでヤバい作品じゃないの、ということでした。こんなの作っていいのかい、という感じ。

最初のとっかかりは、ヒース・レッジャーやジェイク・ジレンホールのインタビューでした。彼らがことさら強調していたのは、これは「ゲイのカウボーイの恋愛映画ではないと思う」ということだったのです。つまり、「普遍的な純愛の話だ」という翻訳でした。

それは、いまだにホモセクシュアリティがタブーであるアメリカの一般社会を相手にしてのプロモーション上の、つまりは女性客を排除しないための、ある意味でじつにハリウッド的なホモフォビックな発言ではないか、と、あまりよい気はしなかったのです。なぜなら、これはどう考えても「ゲイのカウボーイの恋愛の話」なのですから。あるいは、「カウボーイのゲイ・ラヴ・ストーリー」といってもいいけれど。

でも、「これはゲイのカウボーイの恋愛映画ではない」という言い方は、ある意味、とても的を得ているのです。そして、その場合、とてもヤバいことになる。それはアメリカ文化をひっくり返す危険があるのです。

ゲイのカウボーイの恋愛映画ではないとしたら、これは、男たちはときにこんな陥穽にはまり込むことがあるということになる。

じっさい、こういう事例はつまり「男しかいない特殊状況の中での疑似恋愛/疑似性行為」としてながく範疇化されてきたものです。刑務所の中とか、軍隊とか、よくある話。でも、女のいる環境に戻ればそれは終わることになっていたのです。

ところが終わらない。終わらないなら、いまでも一般に広く流通している従来の概念ならば「真性のゲイ」ということです。だが、ブロークバックの2人は妻も子供も作る。そして20年間も(とは一っても年に1、2回ですが)釣りや狩りと称しての密会を重ねるのです。

こんなことは実際には起きないよな、とか、これはフィクションだ、とかいってしまうのは簡単ですけれど、この実世界、だいたいどんなことでも起きますからね。

つまり、どう見ても「真性のゲイ」ではない二人が、「真性のゲイ」の関係を持つ。そんなことがこの映画では起こるのです。

この映画のなかの世界の流れ方は、簡単に言えば、ホモソシアルな関係は、ホモセクシュアルな関係と等しいということなのです。その間にはこの現実世界では確固たる垣根があって、いろいろなタブーがその垣根を作ったり支えたりしているのですが、このブロークバック・マウンテンという山の上では、下界のタブーは通用しない。ジャックの妻がのちに回想するように「ブロークバック・マウンテンって、青い鳥が歌ってウイスキーが噴水になってるような夢の場所をいってたんじゃないかって、ね」なのです。

そして、男たちは、その思いを胸に20年間を過ごしてゆく。その思いが垣根を踏み越えさせている。

これは例えばこれまでのハリウッドの典型的なバディームーヴィーでも描かれてきた関係でした。
たとえばあの「ロード・オヴ・ザ・リング」のフロドとサムもそうです。あんなふうに信じ合い、あんなふうに命を掛け合ってまでともに旅をする2人の関係は、とても尋常な友情ではありません。
たとえばワイアット・アープとドク・ホリデーもそうでしょう。ドク・ホリデーは「荒野の決闘」では愛する女を捨ててワイアットのもとに助太刀に駆けつけ、そうして死んでいくのです。
新撰組だってそう。ヤクザ映画もそう。
それらはすべて、もちろんすごくホモソシアルな関係なのです。女は要らない男同士の濃密な関係性。そして、それをホモセクシュアルなのだと言い切ってしまったのがブロークバックなのです。

これはですから、「ゲイのカウボーイの恋愛映画」であるほうがじつは安全だったのです。
だって、ゲイだもの、仕方がないだろう、なんですから。

でも、二人はゲイではない。ジャックのほうは後にゲイセックスを求めてメキシコに行くのではありますが、「あそこじゃなにも(おまえに求めて得られたものは)手に入らなかった」とエニスにいいます。近くの牧場主との関係も示唆されるのですが、一般に思われているゲイのステレオタイプとはかけ離れている。
その意味で、ゲイじゃない男たちのゲイの関係なのです。(ま、それも私たちから見ればとてもゲイなんですけれどもね)

しかし「ゲイのカウボーイの恋愛映画ではない」「もっと普遍的なものだ」といえばいうほど、これは危険な映画になります。
インタビューに答えてそういっている監督のアン・リーや主役の二人は、そのことをいっているんでしょうか。これは危険な映画である、と。

彼らは、これはだれにでも起きることで、たまたまその2人が男だったというに過ぎない、という意味でいっているのでしょうけれど(その証拠に、映画のポスターには「Love is a force of nature」とあるのです。ことさらに、「自然の力」である、と)、これって逆に、すごく危険じゃないですか。
ヤバいなあ、と冒頭に書いたのは、そういうことです。

この映画を見て、ストレートとされる男たちの反応が知りたいです。
“普遍的”な、そんな関係性を、みんな私たちはある時期を境に封印して生きてゆきます。そうして女と結婚する。ふつうはそれで終わりです。それからは揺るがない。それを揺るがすようなトピックは,それ以後の状況も環境もあってなかなか起こらないからでもあります。

ところがこの映画を見て、男たちは自分にとってのブロークバック・マウンテンを思い出してしまうのではないか。封印してきたあの思いを、掘り起こされてしまうのではないか。封印する過去などないやつもたくさんいますけれどもね。

それはヤバいことです。

女性にしても、この映画を見たら自分のボーイフレンドに対する見方が変わってしまうのではないか。このひとにもひょっとしたら、わたしの知らないブロークバック・マウンテンがあるのかもしれない、と。

それは危険な気づきです。
世界は一変してしまう。

保守派たちが、この映画に対していっていることが気になります。
彼らは、これを出来の悪い映画ではないといっているのです。とてもよい出来の映画だと。だが、これは不貞を勧める映画だとして非難しています。妻を裏切り、結婚生活を裏切り、子供を裏切る不道徳者の映画だとして。

そういうのを聞けば聞くほど、ああ、こいつらは知ってるんだ、と思わざるを得ません。
こいつらは、男は男が好きなのだということを知っている。だからタブーにしたのだ、と。

こいつらが怖れているのは、女と寝るように、男とも寝る、ストレートの男たちの可能性のことなのです。

ストレートとゲイというのはこの場合は本質主義的な物言いですが、こうするとますます、旧約のレヴィ記にある「女と寝るように男と寝る者」への非難は、ゲイに対するものではなく、ストレートの男たちのその傾向への非難だったのだとわかります。

「ブロークバック・マウンテン」は、それを暴くからヤバいのです。
そう、もちろんこれは,単なる「ゲイのカウボーイの恋愛映画」では、いまや、あり得なくなっているのです。だれにでも起こりうる、性愛の話なのです。それは多くの観客にとって、初めての衝撃なのです。

December 20, 2005

千葉香奈子という売文奴

日刊スポーツ、12/20日付ハリウッド直行便に映画「ブロークバックマウンテン」のコラムが載っていました。

ゲイ恋愛映画がアカデミー賞本命に急浮上

千歳香奈子っていうロサンゼルスに住んでる自称「ライター」が、みすぼらしい文章をさらけ出しています。

たとえば、冒頭から
「いくつかの州では同性婚が認められており、日本に比べると同性愛がオープンなお国柄とは言え、「ゲイの恋愛」を真正面から描き、男性同士の濃厚ラブシーンもあるこのような作品が、アカデミー賞の本命となるのは少々驚きです。」

いくつかなんかありません。マサチューセッツ州だけです。「少々驚」いているヒマがあったら取材しなさい。プロなのですか、あなた、ほんとに。アルバイト気分でえらそうにコラムなんか発表していると怪我をしますよ。

さらにこれ、
「ゲイのカップルを演じるヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールは、共にもちろんストレート。」「しかし、作品の中での2人のラブシーンは、愛し合う恋人そのもの。ハリウッドにはゲイと噂される俳優も多いのですが、あえて完ぺきにストレートの2人をキャスティングしたことがうまく行ったように思います。もし、ゲイ疑惑のある俳優を起用すれば、観客は生々しさを感じ、思わずプライベートを想像してしまったことでしょう。」

ロサンゼルスに住んでるのに、「ギレンホール」って呼び間違えてはいけません。英語、話せるし、聞けるんでしょう? 毎日芸能ニュースで「ジレンホール」「ジレンホール」っていっているのを耳にしていないんですか? 日本で間違ってるのをそのまま使わないこと。正しく伝えることが物書きの第一歩。ほんとにあなた、LAで「ハリウッドスターのインタビューや映画情報を取材」してるのですか?
それと、「共にもちろんストレート」「完ぺきにストレート」って何でしょう、それ。ロック・ハドソンなんかも、あなたからいわせても「もちろん完ぺきにストレート」だったんです。で、この「もちろん」の自信は、取材の結果? それとも間接情報? 噂?  セクシュアリティに関するその揺るぎない自信はどこから来るのです? そもそもストレートって何? 知ってるの、その「完ぺきに」曖昧な定義を? 男なんてね、木の又とでもできるんだよ。ま、「完ぺきに」ストレートな連中だけど。
それとさ、もう、あいもかわらず「ゲイ疑惑」って何でしょう。耐震構造計算偽装疑惑じゃないんですから、「疑惑」って日本語、使えますか、こういうときに? 文筆業やってるんでしょ。恥ずかしいでしょ? わかりますか、いってること?
さらに、「思わずプライベートを想像してしまったことでしょう」ってさ、それ、あなた、下品というんですよ、そういうの。下司っていうんです(漢字、読めるかな?)。そういう人に限って、ゲイ「疑惑」なんかなくても、想像してるんです、スケベなこと。ま、スケベでもぜんぜんいいんですけどね、それをニヤけて書くのはとてもみっともない。人間の知性と品性の問題です。

おまけに、
「さらに、ヒースもジェイクもなかなか良い! 特にジェイクのヒースを見つめる目は、本当に恋する目をしているのです。うっとりとした目で互いを見つめあい、キスを交わす。純愛であり、儚い恋だけにその悲恋ぶりがたまらない。淡々と雄大な自然の風景と共に描く手法も、作品を清々しさを与えています。」 ときた。

ほら、やっぱり想像してる。これ、ボーイズラブとかやおいの感想文と同じ、「夢見る乙女文体」ですもんね。
エッチな純愛を想像してるから、「悲恋ぶり」と「清々しさ」って、それ、いってること、整合しないでしょ、あなた、頭ん中。困ったもんだ。

千歳さん、「1972年3月29日 札幌生まれ。92年に渡米」ってさ、きみ、なに13年間もアメリカで見てきたの? ゲイの友達、いないの? いる? いたら、あんた、この文章、そいつに読ませられるか?

恥を知りなさい。
物書きは売文業ではあっても、無神経でいいはずはないのです。

November 11, 2005

大江=顰蹙作家論

朝日の書評に高橋源一郎の大江の新作に関する書評が載っていて、以下引用。

さようなら、私の本よ! [著]大江健三郎著
[掲載]2005年11月06日
[評者]高橋源一郎
 大江健三郎は、現存する、最大の顰蹙(ひんしゅく)作家である、とぼくは考える。

 例えば、戦後民主主義へのナイーヴな信頼や、政治的アクションへの止(や)むことのない参加は、高度資本主義下の日本人の多数にとって、顰蹙ものである。

 さらに顰蹙をかうのは、その作品だ。

 外国の作家や詩人の引用ばかりじゃないか、自分と自分の家族や友人と自分の過去の作品について書かれても興味持てないんですけど——等々。

 だが、真に顰蹙をかうべきなのは、もっと別のことだ、とぼくは考える。

 この小説だけではなく、近作全(すべ)てで主人公を務める長江古義人は、ノーベル賞作家で、本ばかり読む人である。要するに、作者の大江健三郎にそっくりの人物だ。その、作者そっくりの人物のもとを訪ねた、幼なじみの、国際的名声を持つ建築家、椿繁は、「老人の最後の一勝負」として9・11同時多発テロに触発された東京の超高層ビル爆破計画を持ちかけ、そのあらましを、新しい小説として書くように要請するのだが——というのが、この小説の「あらすじ」だ。

 しかし、そんな「あらすじ」に従って「読まれる」ことを、この小説は拒否している。

 作中人物の一人は、主人公にその計画を「本気で受けとっていられたか」と訊(たず)ねる。「本気」があるのか。あるとしたら、それは何なのか、と。それは、作者自身が、読者になりかわって訊ねたことなのだ。この小説の「本気」は何か、と。

 この小説は、読者の前で揺れ動く。過激な煽動(せんどう)と真摯(しんし)な問いかけと悲痛な叫びに滑稽(こっけい)さ、そのどれが「本気」なのか、と読者を悩ませる。だが、小説とは、そういうものではないのか? 苦しみつつ、作品の解読を通して、作者さえ知らないものを見つけ出すのが、小説を読む、ということではないのか。だとするなら、小説への信だけは失わぬ大江健三郎は、世界がどのように変わっても、他の作家たちが小説を書かなくなったとしても、ただ一人、小説を書き続けるに違いない(なんと迷惑な!)。それ故に、ぼくは、彼を最大の顰蹙作家と呼ぶのである。

これ、両読みの出来る文章で、源一郎、ずるいわね。

大江はもともと顰蹙文学、というか文学なんてのは顰蹙装置なんだってことを武器にやってきた人で。だいたい、40年前でしたか? すでにそんときにきゅうりを肛門に突っ込んで頭を真っ赤に塗った縊死体を読者に提示するなんて、顰蹙以外の何ものでもない。

だから、源一郎のこれは、やつの大江への(顰蹙志向への)憤懣と(顰蹙志向への)畏敬とが綯い混じった文章で、どういうふうに読むべきか、よくわからん。というか、筆者自身がそこらへんを結論づけていない、そのままのまんま、書いたというもんなんでしょうな。そう、物書きというのは時々こういうずるいことをして知らんぷりしてる。

ということで、この正月に帰ったときに買ってみることにしまひょ。大江のその新たな顰蹙小説。

ふとそこで思い当たったんだが、いま三島の豊饒の海を読み直しているんですけど(地下鉄に乗るときぐらいしか読まないのでまだ終わらない)、三島も顰蹙作家に違いない。そうかんがえると、高橋和巳もそう。太宰だって大いにそう。ドスエフスキーちゃんもとんでもない顰蹙もんだ。堤令子(って漢字だっけ)っていう、とんでもない顰蹙おばちゃんの作品もあった。中上健次も顰蹙作家である。

でも、村上春樹って顰蹙作家じゃないんだよね。

最近の作家で、文学的顰蹙を醸しているやつって、だれだろねえ?

October 21, 2005

土の中の子供

創設70周年記念という芥川賞受賞作、中村くんというめんこい顔した男の子が書いた短編なんだけど、先日、読み終えて「????」。は? なんじゃらほい?

わからないというのではなくて、わかった上で、どうしてこれが受賞するのかがわからんのだ。子供の作文だぜ。何なんでしょう? みんな、孫引きの貰い受けの焼き直しの、つたなくおさないテキストだ。ぜ〜んぶ、どっかで聞いたようなことばかりの羅列なの。わかりましぇん。んで、選評読んでも選考委員は黒井千次しかまともには褒めてない。黒井千次だぜ、おいおい、内向の世代かよ! そういや連中の書いてたのもこんな類いのもんだったっけなあ。

こういうのはさ、習作としては自室にこもる学生時代に書きためるべき,自分を鍛えるために問いかける種類のテクストの1つかもしれんが、ひとさまに見せるべき商品じゃあねえわな。なんだっちゅーんでしょ。でも、なんで黒井しか褒めてないのが受賞するんだろう。あ、そうそう、石原都知事もなんか、買ってるような筆致。やっぱバカだ、あの政治家。

だれか、読んだっすか?
わたしはもうこの時代を読めなくなっているのでしょうか?
というか、これがいまの商品なんだかもなあ。

芥川賞って、「蛇にピアス」のときに、おれの高校時代からの友人の、かつて文学少女だったやつが言ったことを思い出してしまうんだわ。

「ねえ、太宰が獲れなかった賞よ。こういうので獲らしてもいいわけ?」

June 22, 2005

へなちょこでも弱虫でも

 じつは日本への一時帰国の飛行機で、偶然、同じテーマを扱った映画を見ました。「ミリオンダラー・ベイビー」と「海を飛ぶ夢」です。前者は今年のオスカーで圧倒的な受賞率だった佳作、後者も同じく今年度オスカーの外国語映画賞を受賞した力作です。(以下“ネタばれ”になりますのでこれからの方はご注意を)

 二つともが全身麻痺を患った人の、尊厳死を扱った映画でした。「ミリオンダラー・ベイビー」はボクシングで首の骨を折ってしまった女性。「海を飛ぶ夢」は、引き潮の海へダイブして海底でやはり首の骨を折った男性の話です。

 その二作で、全身麻痺の主人公たちは同じように自らの命を絶つことを望みます。前者の主人公はだれも自死を手伝ってくれないと知ると自分で舌を噛み切ったりします。後者の主人公は尊厳死を求めて裁判に訴えます。しかし聞き入れられず、ついには自ら青酸カリを飲めるように用意してくれる組織の手助けで命を絶つのです。

 両映画の中で何度も「生」の意味が問い返されます。それは重く説得力があるだけにとてもやるせない。その土台にあるのは「個人の尊厳」という考え方でしょう。「自分の人生は自分で決める」という強靭な意志こそが現代の欧米社会の成立の基盤になっている。そうした「強い個人」が尊ばれているのです。

 尊厳死の問題では米国では最近ではあのテリー・シャイボさんのすったもんだもありました。けっきょく彼女も「生前の希望だった」と夫が説く尊厳死を“選んだ”形で栄養供給装置がはずされ、餓死という結末を迎えました。

 「死」に際しても「強い意志」で「自分で決める」。それはとても立派で潔い半面、わたしなんぞから見るとなんだかすごく疲れる、というか、そこまで頑張らなくてもいいのに、という感じがしてしまうのです。

 介護する周囲の人びとへの思いもあるし、なによりそうした身動きならぬ自分への苛立ちや無辺の絶望もあるでしょうから、当事者ではないわたしがなにかいえるものではないかもしれません。ただこうも「尊厳死」を英雄的に描くと、逆に「尊厳死を選ばない尊厳」というものも描いてくれないと、ちょっとつらい思いをする人もいるだろうなあ、と思ったりするのです。そこまで「意志」を介在させなくてもいいのに、と。ある意味で、そんな「意志」尊重主義が逆に自分への苛立ちや絶望を加速させる部分だってあるだろうに、と。

 へなちょこで弱よわしくて「尊厳死」などとても選べずにただ生きるしかない、そんなだっていいじゃないか。意識の定まらない弟に付き添いながら、日々その思いが強くなります。

February 24, 2005

片腹痛し

ロイター電で、

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が22日に出版された自身の新刊の中で、同性婚は「新たな悪魔の思想」の一端であり、知らぬ間に社会を脅かしているとの見方を示した。同著では、同性婚以外にも中絶などの社会問題に触れ、20世紀に行われたユダヤ人などに対する撲滅行為にも匹敵する「合法的根絶行為」と言明。

なんて伝えられていて、まったく、病膏肓に入るとはこのことだと思いました次第。

ローマカトリックは、第二次大戦中、もちろんナチを支持していました。時のローマ法王はピウス12世です。ユダヤ人はカトリックの慈悲を受けない。彼はそう考えていた。同時にあの時代、LGBTたちはそのユダヤ人同様、ヴァチカンの戦況報告室で冷血に画策される虐殺の犠牲者だったわけでもあります。ピウスとは、ニュルンベルクが見逃した戦争犯罪人の名前なのです。

ローマンカトリックがそのことを謝罪したのはつい最近、1997年のことです。それまで頬っかむりをしてきた。それがどうでしょう、ピウスに連なるいまのヨハネ・パウロが、「ユダヤ人などに対する撲滅行為にも匹敵する」などとあたかも100年前からユダヤ人撲滅行為に反対していたかのような口ぶりでしれっとあらたな撲滅行為に加担する。歴史は繰り返す、というのは愚かしい彼のためにあるような成句です。恥を知っているなら、ふつうはそんな比喩は恐れ多くて口が腐ってもいえない。

かたはらいたし、とはこのことです。

いったい、この頑迷なる善意というのは、何に起因しているのでしょう。
こういうのは悪意より始末に悪い。

***
さらに再び

asahi.comから
***
 フジテレビジョンの村上光一社長は24日の定例記者会見で、ライブドアによるニッポン放送株の取得を巡る他の民放各局の報道について「あまりにも、ちょっと狂騒曲的。ニュースはただおもしろおかしくやればいいのではない」と批判した。もっともフジ自身が娯楽路線をとってきただけに「自省を込めて」とも前置きした。
 村上社長は「(他の民放の)報道番組を見ていると、あまりにもちゃらちゃらして『えーっ』と思う例が頻発していた。いかがなものか。(ライブドアに)テレビは公共の電波だと言っている時期だからこそ、きちっとやらなければいけない」と強調した。
***

おいおい、ニュース番組のタイトルからかつて「ニュース」という単語を外してみせたのはどこの局だったっけ? ニュースに効果音入れたりオドロオドロしい音楽をかぶせて視聴率稼ごうとしたのはどこの局だよ。声優使ってドラマ仕立てで報道して視聴者の劣情をあおってきたのはどこのどなたさまですかってんだ。

フジテレビが「公共の電波」っていうのは、日テレが「公共の電波少年」っていうくらいにコントラディクションじゃあありませんかえ? どの口からそんな言葉が出てくるんだろ。まったく、社長ってのはどこまで厚顔にならんとできないもんなのか。この世で一番恥ずかしいことは、恥を知らないということなのだ。

ふむ、「デイリー・ブルシット」のブルシット叩きらしくなってきましたな。

しかし、わたしは罵詈雑言がかなりきつい、ということをある人から指摘された。
叩くときは、けっこう、完膚なきまでに言葉を連ねる、しかも、かなり強烈なグサグサの感じがするらしい。

先日の「怠けもん」発言も、けっこう、本来の標的とは別のところでグサグサ刺された感じがするという人がいるようだし、そういえばその昔、金原ひとみの「蛇にピアス」を叩きのめしたら、思いもかけぬ方向にいたぼせくんから「そういう言い方はない」的な叱責をいただいた。こちとら、ゲイの視点からあえてだれも触れないでいる蛇ピアのぬぐい去り難いホモフォビアを指摘しただけだと思っていたんだが。反省。

悪口は自分に返ってくる、って、なんてったっけ? なんか、成句があったような気がするけど。

くわばらくわばら。

February 08, 2005

宮部みゆき「理由」

地下鉄に乗ったときだけちんたら読みつないでいた宮部みゆきの「理由」を読了。

感想は、おしゃべりな女だなあ、ってだけ。すっげえいろんなことがものすごくたくさん書いてあるんだけど、たいして意味ないおしゃべりに過ぎないようなエピソードばかり。冒頭のシーンはかなりぞくぞくしたけどね、あとはどんどんだらだらしていく。犯人はわかるし、犯人探しじゃないとしたらつまりこれは人間の様々な「理由」を書いているってことなのかしら? でもそれにしちゃ簡単に思いつくようなサイドストーリーをこれでもかってくらいの分量で詰め込んで、つまりは努力賞とか敢闘賞みたいな話なの、直木賞って?

ドキュメンタリータッチ、とあるが、あくまでドキュメンタリータッチを目指した小説であって、そのドキュメンタリータッチに失敗した小説ですな。どこを読んでも小説だもん。ノンフィクションの切実さはどこにもない。何が違うのかね? ノンフィクションって、インタビューアーの手の届かない部分、見聞きする範囲を超えた部分を、どうにかして埋めようという作業をするわけ。それは小説家のように、どこでもドアみたいな想像力とは違う、つまりは神の目とは違う人間の目の限界を知った書き方にならざるを得ない。そこから得られる切迫感というか、現実感なのだ。なのに、宮部みゆきちゃんは、このドキュドラマで、ほとんど小説家のように細部を知っちゃっているわけよ。で、嘘っぱちとなる。うそだと知っているから小説なのに、これはうそじゃないよ、という姿勢で書きはじめたらそりゃウソでしょ。

結果、100枚くらいで書けるんじゃないの、この小説?って思いました。それだったら大した話になったかもなあ。

わたし、インタビューの恐さというかすごさというか、長年やってきましたんで知ってるつもりなんです。多くのインタビューイーは、私の想像の及ばない答えを持っています。たかがこんな話だから、適当にこんな話を聞けばだいたいこんな答えが返ってくるだろうと思ってインタビューをやっては大間違い。他人って、すごいもんですよ。自分でもそれがすごいことだとは知らないすごい話を持っているんだ。それをいかに聞き出すか、ともに気づくか探し出すかが、インタビューの醍醐味です。

そんで、この「理由」には、「インタビュー」で明かされるそんな啓示が、一つもないの。それがたんなる「おしゃべりな小説」っていう一番の「理由」だと思います。

宮部みゆきって、読んだことないけど、時代物の人情もののほうがいいのかもな、って、このおしゃべり具合を見てて思いました。

December 10, 2004

アレキサンダー・ザ・ファビュラス

「アレキサンダー」を見てきました。
オリバー・ストーンは苦手な監督なのです。というより、いつも「オリバー・ストーン」が前に出てきすぎで、どうも好きになれない。ちょうどロバート・デニーロがいつも「ロバート・デニーロ」になっちゃうみたいに、きっと名人なんだろうけど、臭いんだよなあ、という感じ。

で、「アレキサンダー」です。
登場人物は多いし、おまけに英語の名前と教科書で習った名前と発音が違うものだからだれがだれなのか、一回見ただけでははっきりとはわからなかったんですが、いまさっきまで映画サイトで配役名をおさらいしていたらなんとなく記憶がつながりはじめ、やっとああそうだったかと全体像がわかりかけてきたところ。でもしかしだが、わたし、これ、オリバー・ストーンが何を作りたかったのか、いまでもわからないのです。何を映画にしたかったんだろう。「オリバー・ストーン」がわからないのです、この映画は。

というのも、これ、完全にホモセクシュアル映画なのです。
ギリシャの弁護士が「アレキサンダーはホモじゃない」って抗議して事前試写を要求したというニュースがあって、そんでそれを見た結果、「懸念していたようなきわどい性描写シーンはなかったとして、公開中止を求めるようなことはしないと発表を撤回」したらしいけど、「おまえらの目は節穴か!!!」って「!」が付くくらい、完璧にホモセクシュアル。基底音として全編を通じて流れている感性がずっとホモセクシュアルなのです。

ストーンはホモセクシュアリティを描きたかったのか?
うーん、そうじゃないんだろうなあ。ではアレキサンダーの人となり? あるいは偉業の裏の人間性?
何なんでしょう?
登場人物のだれもに対して、感情移入が難しい。
なんであんなにも無理してインドまで遠征したのか。どうしてあんなに人殺しをしたのか。一方でなぜああも被征服者たちに寛容で異人種間結婚をも奨励したのか。3時間弱の大作ですが、それでも描き切れていない……。

いや、そうじゃないのかもしれません。ひょっとするとこれは大変な傑作なのかもない。ハリウッドの文法を用いながらも、ミシェル・フーコーがやったように、史実を現代の文脈上でとらえようとすることを回避したら、こういう描き方しかできなくなるのかもしれません。ホモセクシュアリティも戦争も殺戮も侵攻も奸計も人の生き死にも、「それはそのようにして予め在った」という描き方なのかもしれない。フーコーはそこに降り立って解釈して提示してくれるけれど、ストーンは映画だから解釈なしに提示するしか方法がなかった、ということかもしれない。

ただね、わたしとしては「ハリウッドの文法を用いながら」そんなことが可能なのか、というところが引っかかっているのです。そう、いわば、どこまでハリウッドで、どこからが「零度」(by ロラン・バルト)の史実なのか、というところが気にかかっているのだと思います。で、ストーンは、どちらを、あるいはその「零度」と「ハリウッ度」のあいだのどこら辺を言いたかったのか、それがわからんのです。

殺戮とか、人殺しの意味なんて、いま私たちが感じることとはぜんぜん違ったんだということはフーコーの「監獄の誕生」なんかで明らかにされました。ホモセクシュアリティも、フーコーによって「ゲイ」とは違うって教わりました。で、ストーンの描くアレキサンダーとヘパイスティオンの「愛」は、ありゃ、ホモセクシュアルなのかゲイなのか、どっちなんだろう、なんて考えちゃうのですよ。

こないだ日本に帰る便でブラッド・ピットの「トロイ」をやっていて、あれを見ながら、いやあ、すごいソープオペラを作ったもんだと思いました。もともと「イリアス」自体がおバカな話で、あんなのトロイの王子パリスがスパルタの王妃ヘレネを不倫お持ち帰りしたことから始まっちゃう戦争の話で、まさにソープ好みなんですが、あちらは完璧なハリウッドで、ブラピのアキレスとパトロクロスは本当は恋人だったのに映画では従兄弟という設定に変えられていました。パトクロスがヘクトルに殺されちゃったんでアキレスがそのヘクトルを仇討ちするんですわね。あれは恋人を殺された男の復讐だったのに、それが映画では家族愛になっちゃってた。ブラピはどう見てもあの映画ではハリウッドの定番としてストレートの権化だったわけです。ロック・ハドソンのようにクローゼットですらないまっさらのヘテ公ですわ。

ところがこの「アレキサンダー」は違うのです。
父と息子の葛藤、母親と息子の愛情、父親と母親の確執、そういうオイデプスめいた描写がちょっとハリウッド臭くて言わずもがなでしたが、これはハリウッドの超大作で歴史上初めてホモセクシュアルのヒーローを登場させ、しかもその彼を臆面もなくホモセクシュアルに描いている映画なのです。なにがホモセクシュアルかって、カメラがホモセクシュアルなのですから確信犯ですよ。たとえば、コリン・ファレル登場のペルシャ遠征へ出かける前の宴のシーンで、戦に行く前に女とやれと囃されるアレキサンダーが困り顔で見つめた相手、それをカメラが追うと、ヘパイスティオンがいるんです。2人のそのときの視線の交錯がすごくホモセクシュアルなのです。また、アレキサンダーがペルシャを征服して、彼が側近たちとともにその王宮の側女たちのたむろする広間を訪れる場面があるのですが、色とりどりに着飾り化粧した女たちをカメラが舐めるように映し出していくその中でカメラがふと射止めるのは、美しい宦官たちの一群ですよ。ここでアレキサンダーは生涯のファックバディであるバゴアスに目を付ける、という場面です。このバゴアス、きれいです。その後の彼のダンスのシーンなんか、おいおい、そんなふうに踊ってきみの俳優生命、だいじょうぶなの、っていうくらいエッチでなまめかしい。ちなみに、この俳優、フランシスコ・ボッシュっていうらしいです。写真、張り付けようかな。

あと、美形ジョナサン・リース・マイヤーズが演じるカサンドロスも微妙な位置関係で、なんともおいしい。
コリン・ファレルのアレックスとヘパイスティオンの2人のキスシーンもセックスシーンもカットされたらしくて登場しては来ないのですが、しかしそのセリフたるや日本のやおいマンガならさもありなんと思われるようなガップリ四つです。「今夜は一緒にいてほしい」とか、「おまえは、私を私自身から救ってくれたんだ」とか、「もしおまえが殺されたら、たとえマケドニアが王を失うことになっても私はおまえのかたきを討つ」だとか、「死ぬときは一緒だ」とか、「最後までおまえだけを愛している」だとか、もう満載。そうそう、さっき書いたバゴアスに出会うシーンではペルシャの王妃が命乞いを兼ねて登場し、最初、このヘパイスティオンをアレキサンダーだと思って話しかける。みんなくすくす笑いをしてその勘違いを放っておくと、やがて王妃も間違いに気づくのですが、そのときに大王さまはその愛するヘパイスティオンを指して「いいのだ、そいつもまたアレキサンダーだから」なんてことを言うのですわ。

あまりにはっきりしすぎていて、クイアリーディングなどまったく必要じゃないくらいです。バゴアスとのベッドシーンではコリン・ファレルがバット・ネイキッドとなってベッドに入り、そんでバゴアスに右手を差し伸べ、夏木マリ真っ青の指先ドゥルルン呼び込みサインを行うといった具合。とてもじゃないが書き切れない、全編こればっかり。バイセクシュアルというより、ストーンはぜったいにホモセクシュアルとして描いているのです。セクシュアルじゃないときは戦争でスプラッターです。

そんでね、もう一つ特筆すべきことは、史実としてアレキサンダーってのはアリストテレスを家庭教師に育つんですが、ヘパイスティオンとの恋はギリシャのソクラテスも説いたものから見てちょっと違うんですね。ソクラテスはあれ、年下の男の子を年上の男たちが正しく導いてやるためにお付き合いしなくちゃならないんだっていってるんですが、アレキサンダーとヘパイスティオンは史実として同年齢の男同士、しかも身分も違わなく王族・貴族ということでタブー破りでもあったはずです。また、映画ではアレックスとヘパイスティオンのキスはないのですが、ほかには男同士のキスはかなりある。それも奴隷や年下ではなくけっこう同等の連中同士でのキスです。こちらは映画なので、史実かどうかはわからん。まあ、史実は「(無敵無敗の)アレキサンダーが唯一敗北したのは、ヘパイスティオンの太ももだ」という記述があるということですね。このへんの史実は、最近出た「Alexander the Fabulous」という本に詳しい。タイトルはもちろん大王を示す「Alexander the Great」のもじりですね。

もう一回見ないとわからんかなあ。セリフも聞き逃しがたくさんあったし。

制作費1億5500万ドルもかけて、でも、客はぜんぜん入ってませんでした。
映画評がみんなさんざんだったからかしら。
それとも、ホモのアレキサンダーなんてだれも見たくねえよってことなのでしょうか。
なんか、そんな気もしますね。あの大統領選挙やゲイ結婚禁止の州憲法改正住民投票で示されたのは、そういうことでしたからね。
なんかまたぐったりするような結語になってしまったなあ。

December 04, 2004

酷評

宮本亜門の「太平洋序曲」が時事では「NYタイムズも大絶賛」とかってなっていて、え? と思ってもういっかいタイムズを読んでみたんだけど、やっぱりどう読んでもこれは酷評です。時事の記者は最初の段落しか読んでないんだな。それで「絶賛」となったんだね。ところがその批評文はどんどん辛辣になっていって、最後にゃ、「断片断片をまとめあげ、ソンドハイムが喜ぶであろう筆舌に尽くしがたいハーモニーを作った瞬間はほんのわずかに過ぎない」と結んでいるのです。

で、時事はろくにタイムズの記事も読まずに

宮本亜門がブロードウェー征服」NYタイムズ大絶賛

 【ニューヨーク3日=時事】米紙ニューヨーク・タイムズは3日、ブロードウェーで始まった宮本亜門さん=写真=演出のミュージカル「太平洋序曲」について、「宮本亜門氏という日本人の演出家が米国、少なくともブロードウェーと呼ばれる小さいながらも華麗な街道を征服した」と絶賛した。
 同紙は、1976年に初演されたオリジナル作品と比較し、「西欧の帝国主義に対する外部者による冷静な視点を提供している」と解説。「宮本氏は、太平洋序曲のマジックを再び成功させる要素を持っている」と同氏の演出を評価した上で、「敬意の賛辞」を保証できる作品だと結論付けた。

でもって、共同通信は以下のように

亜門氏演出の「序曲」酷評 NYタイムズ紙

 【ニューヨーク3日共同】3日付の米紙ニューヨーク・タイムズは、日本人演出家としてブロードウェーに初進出した宮本亜門氏演出のミュージカル「太平洋序曲」を取り上げ、「太平洋を渡る飛行機で眠れず、時差ぼけに苦しむ人のような、かすんで混乱した」内容だと酷評した。
 同紙は、ステージ上には「自信喪失の危機」が漂っていると指摘。出演者が、優しく歌い愛想笑いを振りまいていても「わたしはここで何をしているのだろう」と自問しているかのように見える、と痛烈に批判。振り付けは「ぶざまに感じる」とこき下ろした。

まったく正反対の記事でしょ。
NYタイムズだけではなく、同じ日に配信されたAPの評も「太平洋で難破?」「粗雑」「不安定」「コミカルな部分ははずしっぱなしで犯罪的」とまでさんざん。昨年の日本語版では激賞されたのに、英語版でこうも違うのはどうしてなんでしょうね。

ジェンダーベンダーの要素もあると聞いていて、落ち着いたらこっそり見に行ってみようかなとも思っていたのですが、もういいっすわ。

しかし、なにより、なにが似合わないかって、宮本が自分のことを「オレ、オレ」とことさらに自称するのがひどく気持ち悪い。どーでもいいんですけど。

December 03, 2004

平井堅って

ニューアルバムのSENTIMENTALoversを聞いていたら、「鍵穴」でのけぞりました。
あまりにまんまで、もうちょっとひねればいいのに、とおもったけど、まあ、右曲がりってことでひねってるのかもね。

平井堅って、いろいろ縁があって、直接はまだ会ったことはないんだけど、彼のNYのアパートメントビルディングって私がいちばん初めに住んでいたところだったり、ビンビン話が入ってくる。まあ、どこまでほんとかは知らんが。

「鍵穴」でゆいいつ微妙なところは鍵穴を「新しい世界こじあけたい」「きみが隠してる鍵穴にジャックしたいな」と表現してるところでしょうか。女の子のカギ穴だったら、べつに「新しい世界」じゃないだろうし、「隠して」るわけじゃねえだろ、って感じの読みができる。でもまあ、まんまの解釈だからなあ、あんまり知的な重層性はないわけで。

平井堅の歌で面白いのは「even if」です。
あれ、カシスソーダとバーボンが出てきて、てっきり「ぼく」がバーボンを飲んでいて、終電で帰ってしまう「きみ」がカシスソーダを飲んでいると思ったら、最後の最後で、「残りのバーボンを飲み干して、時計の針を気にした」のは、「きみ」のほうなんです。逆なんですね。
これには、やられました。

そういうクイアリーディングができるのはあと、サザンの「恋のジャックナイフ」です。
これも、色濃くゲイです。桑田がこの曲を作った当時、やっぱりそういうLGBTへの応援歌を作ろうという時代の雰囲気があったんでしょうね。そういうものに、松任谷由実とか桑田とかはさすがに敏感なんだなあと思いました。

さて、例のジャーナリズムネットですが、またすこしメールが届いています。
うれしいことです。

そんな中、遅れていた今月のバディの原稿を昨日やっと出しました。
今回は、アメリカのジャーナリズムにおける最近のおかしな報道のありかたを取り上げました。

一つはマシュー・シェパード事件を先日、ABCの「20/20」が取り上げ直したその取材と報道の仕方についてです。「6年後の新事実」というその謳い文句のいい加減さについて書いています。
もう一つは同じく先日、ニューヨークタイムズが宮本亜門(こちらでいま「太平洋序曲」という彼による初の日本人演出ブロードウェイミュージカルが始まったところです)の人物紹介をやったその長文の記事の書き方のいやらしさについてです。

両方とも、なんともブッシュ再選以降のアメリカのジャーナリズムのろくでもなさを象徴するような報道でした。お読みくだされ

October 29, 2004

Shall We Dance?

リチャード・ギアの米国版を見てきました。なんとも、オリジナルの周防監督版にとても敬意を払ったつくり方で、しかもいい意味で米国映画で、とてもよかったです。

周防版を見たときにどこかに書いたのですが、この「Shall We ダンス?」はじつは本質的にカミングアウト映画でした。社交ダンスをやっていることが恥ずかしいことでどうしても周りにいえない。それをそんなことはない、恥ずかしいなんていうのは変だ、とだんだんと自信を持ってくる。そうして最後の大団円、大カムアウトへと向かうわけですね。カムアウトというのが、英語では社交界へのデビューという意味があるのも面白い符合ですが、まあ、それは周防さんの意図したところではないでしょうけれど。

さて、アメリカ版はおそらくそのカムアウトの部分を腑分けしたのだと思います。社交ダンスが、そんなに日本ほどは恥ずかしいものではない環境で、これはカミングアウト映画というよりラブストーリーにする必要があった。そこで、カミングアウトの部分はしっかりとゲイの伏線、といいますか、ゲイのサイドストーリーを用意してそれに任せることにして、主たるストーリーラインはリチャード・ギアと奥さん役のスーザン・サランドンの結婚生活を基盤にして進めて行く、いや、というより、最終的に結婚生活にフォーカスするように進めて行く、という感じです。

アメリカ映画ですから、日本映画にあった言葉ではないニュアンスのやりとりはより明確に言葉や態度や行動でスクリーン上に示されるようになります。それでとてもメリハリの利いた映画になりました。

それでいて全体の雰囲気は周防版とそっくりなのです。なにせリチャード・ギアだって役所広司に似ている。いっしょにダンスを習う、なんでしたっけ、あの濃い俳優、そうそう、竹中直人、それにおでぶちゃんのコメディアンがやった役も、渡辺えり子の役もそっくりアメリカ版で取り入れられています。ダンス教室のオーナーのおばちゃん先生もなんだか不思議に似ています。草刈民代はジェイ・ローに置き換わっていて、あ、これはイメージが違うなと思っていたのですが、そのジェイ・ローがずいぶんと抑えた演技をしていて、これもなかなかよかった。

私立探偵に夫の素行調査を依頼するスーザン・サランドンが「人はどうして結婚するのか知ってる?」と自問するくだりがあります。そのセリフを聴いていて泣けてしまいました。そうだよなあ、と、ざらついた心を反省したい、そんな感じ。

ひとを、ながく好きでいたいと思わせてくれるような映画ですよ。
ひとを信じられなくなったときは、プロザックよりもこういう映画がいいですね。

October 20, 2004

ブッカー賞

アラン・ホリングハーストちんが英国文学の権威であるブッカー賞をとうとう受賞してしまいました。「スイミングプールライブラリー」でサマセット・モーム賞、次作の「フォールディングスター」でブッカー賞候補、そんで、一個、「スペル」っていう作品が入って、そんで今回の四作目での受賞。アランちゃんとはスイミングプールの翻訳のときにNYでお会いしました。ベジタリアンで、一緒に行くレストラン選びが大変だった。せっかく選んだインド料理屋がまたマンハッタンらしくにぎやかで騒がしくて、そんでアランは太い低い声でいらして、おまけにイングランド英語なものですから、わたしゃあのときゃほとんどやつが何言ってるのかわかりませんでしたね。おれのこと、あいつ、バカだと思ったと思うわ。ま、スイミングプールの翻訳は素晴らしいということになってるから、それは伝わってるだろうけど(でも、一個だけ、痛恨の誤訳があるの……内緒)。

以下、共同配信
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ホリングハースト氏が受賞 英ブッカー賞

 【ロンドン20日共同】英国で最も権威がある文学賞「ブッカー賞」の今年の受賞作品に19日、英国の作家アラン・ホリングハースト氏(50)の小説「ザ・ライン・オブ・ビューティー」が選ばれた。賞金は5万ポンド(約980万円)。
 受賞作は、主人公のゲイの若者を通じ、サッチャー保守党政権下の1980年代の英国を皮肉を込めて描いた作品。英PA通信などによると、ゲイを扱った小説が同賞の受賞作になるのは初めてという。
 ロンドン在住の同氏は英南西部グロスター州出身でオックスフォード大卒。94年の作品「ザ・フォウルディング・スター」ではブッカー賞の候補に上りながら受賞を逃した。他に英国のゲイ社会を扱った「スイミングプール・ライブラリー」(88年)など。

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「フォウルディングスター」は早川書房が私に翻訳を依頼しておきながら、編集者が変わっちゃって、翻訳を終了しても出版不況とゲイブームが去ったと言って本にしていない作品。これで出版の運びになるなんてことが起きてくれないかしらむ。しかし、こいつのはほんと、翻訳が大変なんだ。今度のブッカー賞のも訳してみたいが、文学翻訳って、しかもこの難物の翻訳となるとなおさらコストパフォーマンスがひどく悪い。

早川との頓挫によってその後はアランちんには最近、目配せしてなかったけど、まあ、読むだけ読んでみましょうか。

September 29, 2004

ハルジオン

日本から買って帰ってきた英田大輔「ハルジオン」(リトルモア刊)読了。

この人、20代のほんとの初めから触ると痛いゲイ小説を「バディ」に発表していて、その当初からあややと思ってた。文章のリズムがいいんだ。このリズム感はもちろん学び得た部分もあるんだろうが天性だろうな。そうじゃなきゃ書けない。書く言葉も吉田修一なんかよりずっとうまい、というかヒリヒリしている。読み進みながら、ときおり吉原幸子の詩を思い出しちゃった。

「新しい言葉」が好きだね。わたしも、同性愛者よりも異性愛者のあり方のほうに関心が移っているので、こんな小説書かれると、やられたなあって思っちゃいました。「新しい言葉」ね。せつないなあ、このタイトル、というかキーワードも。目のつけどころだなあ。
それにしても、この本が出たのがほぼ2年前でしょ。ということはつまり、これ自体、2000年ごろの作品でしょう。いやはや。まいりました。

収録三編はたしかにいずれもゲイの置かれた状況という点で2000年前後までの時代性を感じさせますが、英田さんはことし30歳。
彼の下の世代に「ぼせ」さんという20代半ばでゲイ小説を書く人もいるのだけれど、また違うんですね、作品との距離感が。まあ、年齢の差だけではないのでしょうが、英田さんにはぼせさんの小説にはある(というか彼の小説に特徴的な)心地よい「ゆるさ」というのがない。くそっ、きついんだよ、ってな感じ。

英田さんのその後の近作をぜひ読みたいですなあ。どうしたら読めるんだろうか。金を払う価値はあります。

ちなみに、2篇目の「光彩」で、「呟く」が「眩く」と数カ所誤植のママなのが気になりました。この人、バディで掲載されてたときも誤植や行落ちが多くてかわいそうだったなあ。テラ出版、その罪滅ぼしで彼のバディ時代の短篇をぜんぶまとめて本にしてくれないかなあ。2000円で買うぞ、おれは。

あ〜あ、睡眠障害が続いている。
時差ボケともいうが。

March 11, 2004

やっぱりそうでした「パッション・オブ・ザ・クライスト」

 メル・ギブソンの「パッション・オブ・ザ・クライスト」を見てきましたよ。観客層が老若男女いろいろとばらけていましてね、ラテン系のおじちゃんとかおばちゃんとか、映画館ではふだんあまり見かけないような感じの人たちも多い。まあね、この人たちは教会に集まる人たちと同じなんでしょうね。

 映画はまさしく、聖書を知らない人には何が何だかわからない作りでした。見ている人はみなさんキリストがどういうふうに死んだかを前もって知っている、背景も押さえている、人物関係も名前も頭に入っている。そういう前提のもとに、物語はゲッセマネの祈りの最中にキリストが捕らえられる場面から唐突に始まります。

 結論を言っちゃえば、そもそもこれは“一般”公開する映画ではないなというのが感想でした。一種の“ホーム・ムービー”なのね。ものすごい内輪映画。すべてが「キリスト者」という仲間内の了解事項に拠りかかって作られていて、それ以外の人のことなど、ギブソンの頭にはなかったのだろうなあと思いました。身内さえわかればいいのです。

 映画の内容は「それ以外の人」であるわたしにはすっかりSM映画でした。寄ってたかるユダヤ人たちが大衆心理として、ローマ人たちが肉体行為として、両面からキリストに対しサディズムの極致を尽くすのです。「聖書に忠実」とかって言いますけど、あーた、あんなにしたら、ありゃ、死ぬよ、普通。なにが「客観的」なものかえ。

 ところが、キリストを信じる人にはこれこそが「パッション=受難」なんですね。彼の受けるすべての傷に意味がある。血の滴り一つ一つが「われらが身代わりの羊」というわけです。宗教ってのはどんなことがあっても負けないよう解釈出来るようになってるんだわ。ずるいっしょ。

 ポルノまがいのサディズムと、陶酔を誘う至高の犠牲−−このとんでもない理解のギャップを、この映画はしかし、いささかも埋めようとはしていませんの。

 宗教的メッセージとは別の次元で、「わからんやつはわからんで結構。とにかくおれたちはこれだ」というこの映画の態度が、わたしにはまるっきりいまの米国の雰囲気を象徴しているような気がしてなりませんでしたね。ほら、昨今のネオコンの米国一国主義がそれに重なるでしょ。それに、あそこでキリストを殺せと叫んでるユダヤ人たちの興奮と陶酔とが、ホモは殺せ、ユダヤは殺せ、イスラムは敵だとすっごい形相で叫び上げるいま現在のキリスト教原理主義者たちの姿に重なってしょうがないんですわ。原理主義者の監督さんはまったく逆のことを言いたかったのでしょうが、そういうのにも気づかないほど入っちゃってたのかしらねえ。

 前回に書いたようにギブソンちゃんもブッシュどんも若いころに酒や遊びでかなり生活がメチャクッてたのをキリスト教で救われたと言っている人たちです。「わからないやつはわからなくて結構」とばかりに有無を言わせない態度というのは、じつはご自身のそんな自信のなさの裏返しですわね。ほんと、予想したとおりの単純さでした。拍子抜けするくらい簡単な図式です。

 世界最大の国家と世界最大の宗教がこれほどまでに自己完結的で排他的に提示される情況ってのは、そもそもこの二人に共通するインセキュアさという個人的な要因なんだわねえ。怖いわあ。

February 19, 2004

蛇にピアスのホモフォビア

いま「蛇ピア」読んでみました。文芸春秋、こっちの紀ノ国屋書店で買ったら14.50ドルもするんだよ。ちょっと取り過ぎだよねえ、倍以上だなんて。

ところでその「蛇ピア」ですが、読み始めて、また新たな地平を指し示してくれるのかなあ、なんて期待させる感じでしたんですけどね、なんだか読み進むうちに字面とはぜんぜん違ってずいぶんとまた古風な作品だわなあーと思えてきちゃうのですよ。ピアスだの入れ墨だのと日本の若者にとっての道具立てがじつに“ナウイ”だけで、あの主人公の女の子も、じつに古風な反抗の仕方と古風な人の愛し方をしていて、なるほど、この子(作者)はいい子なんだなあ、と思えちゃいました。だいたい、いい子じゃないとこういう小説は書かない。ほんとうに怖い女の子は『パルタイ』なんていう題の小説を書くもんです。

小説としてどうか。

わたしは、買わないなあ。前述のとおり、ぜんぜん新しくない、というのが一つ。おまけに作り過ぎで、伏線も幼くて、思惑が透けて見えてしまう。

それに、こんなの書いて賞を穫らせたら、欧米では必ずボイコット運動が起きます。作家はもちろんですが、選考委員会にも抗議が行くでしょう。何かと言うとね(ネタバレですから読んでいない人はゴメンです)こういうホモフォビックなものを無自覚に書けてしまう作家は、たとえ幼いのだとしてもまずはダメなんだよって言ってやらねばならんのだと思うわけですよ。クィアを犯人に仕立てあげちゃいけないというのではありません。しかし、もうこの時代、そうしたいならばそういう綿密な知的な詰めの作業が必要なのですよ。70年代じゃないんだからね。変質者が殺人を犯すのは当然だろうってな無自覚を拠り所にして表現なんかできないっしょ。両性愛者を犯人に仕立て上げたいならば、それはもうどこから攻められても対処できるような、確信犯的な伏線の積み上げが必要なわけです。ガキの作文じゃないんだからね、もう。権力なんだもん。

肛門にキュウリ突っ込んで首つり自殺するのと、チンポコの尿道口にお香のスティック入れられたまま殺されるのと、その二つはまるで違う。こんなにも文学は後退してしまってよろしんでしょうか? そういうことに気づかない、あるいは気づいていても問題としない芥川賞の選考委員会ってのは、なんじゃらほい? 詠美ちゃんも龍ちゃんも、おまけにわが尊敬する池澤夏樹先生も、どうしちゃったんでしょうね。些末なことなのかしら? 違うんですよ、それは。

December 15, 2003

ラストサムライ

なんだかせわしない。
来週あたりからみんな休みに入るので、いろいろ仕事が今週に重なって大変っす。そういうわけで今週はあまり更新できないかも。
アメリカではフルーがはやっているようですが、ま、外に出る暇もないので大丈夫でしょうな。

といいながら、昨日、「ラストサムライ」を見てきました。ハリウッド、という次元で、これはなかなかいい映画でした。というか、外国映画の中の日本人を見て「いいなあ」と思ったのはこの映画が初めてなんですね。だからいい映画に思えるのかもしれないけど。

劇場内のあちこちですすり泣きが聞こえていました。なんというかまあ、「ダンス・ウィズ・ウルブス」とか「ラストモヒカン」とか、そういうたぐいのたいそうな叙事詩+メロドラマで、トム・クルーズはこれでオスカーを取るでしょう。なんといっても、トム・クルーズが、この映画ではトム・クルーズを演じていないというのがよろしかった。ちゃんと劇中のオルグレンになっていました。
渡辺謙も最優秀助演賞ですね。というか、渡辺謙が主役の映画みたいなもんでしたから。うちのキョンはもう渡辺謙にめろめろでした。ま、あいつはたいした役者です。ぼくはフジテレビ系の、なんだっけ、「斬九郎」の時代劇、あれ見て、うめえなあ、こいつって思ってました。昔の大河ドラマのときもよかったけど、病気して力抜けて、鬼気の迫り方にもふっと抜ける人間くささがある。そういえば奥さんの借金問題、どうしたんだろ?

でもわたしは、これを見ながら、ひょっとしてこれってイラク戦争かもな、との思いが浮かぶのを止められませんでした。西欧化と、それに抗する旧体制。イスラムの戦士たちの中には、これをほんとうにジハードと信じている人たちもいるはずでしょう。後世、彼らがフィクションの中ででも、あらたなコンテキストとともに「勝元(渡辺謙の役)」として描かれることはあるのだろうか、と。

映画から一夜明けたらサダム・フセインが捕まってましたけど。

ラストサムライのストーリーはすべてフィクションですが、一番のフィクションは、この泣かせる「日本人」像なのかもしれません。あんな日本人、いるかよ、って、そんなふうに思ってしまう情けない日本に、複雑な心境です。

October 30, 2003

世界の中心で平和を叫んだ獣

地下鉄に乗るたびに文春文庫で出てる吉本隆明と大塚英志の対談集「だいたいでいいじゃない」を読んでるんですけどね、で、大塚英志が「サブカルチャーがナショナリズムに崩れていく、あるいは志向していく」ことの方向性を小林よしのりが象徴していた事実を指摘しているんです。あるいは「ナショナリズムがサブカルチャー化している」ことをサッカーの応援で振られる日の丸に見て取るとかね。

どうも、巷ではすでにこの日本の選挙、どうも自民党の安泰は変わらないというふうに(新聞社裏情報ですが)聞こえてきてます。

先の謂いですが、大塚くんいわく、「「政治」とはまったく関係ないつもりでやってきたこのジャンル(サブカルチャーのことです=筆者注;そういえば、大塚ってのは漫画評論や原作から出てきた人だそうです)が一気にナショナリズムみたいなものに向かっていったように見えます」。そしてそれを「サブカルチャーの右傾化とか保守化ではなくナショナリズムの質的変化ではないでしょうか」と反語しているわけ。続けて「すでにそれをナショナリズムと呼んでいいかどうかわからないという状況の中にいま君が代、国歌の問題があるんじゃないでしょうか」

彼の目の付け所はとてもよいと思います。ですが、腰が弱いというか、そのあとでさらに向こう側に寄り添って解釈しようとするから方向性があいまいになるんですよ、この人。引用した部分でいえば、「ナショナリズムの質的変化」とか「ナショナリズムと呼んでいいのか」とかの部分です。
方向性など、主体的な選択でよいのです。つねに権力の磁場が働いているこの世界で、権力にすくい取られないようにするにはつねに主体的で臨機応変な自己の選択を主体的に選択することしかありません。なぜなら、サブカルチャーは権力を獲得したことがなかったけれど、ナショナリズムはつねに権力とともにあったからです。そういうことであるにもかかわらず、ナショナリズムが変容したのかもしれないとサブカルチャーと同じ次元で交換可能に言ってしまうのは、あまりにナイーブな(=子供っぽい)、あるいは奇をてらった言い方でしかありません。

物事を日本だけで考えるからこんな渋谷少年少女の現象的なものだけを取り上げて悩んだり嬉々としてひけらかしたりできるのです。そうして渋谷少年少女たちには倫理など通用しないと言ってのける連中まで出てきてしまう。それは知の怠慢であり、傲慢です。渋谷少年少女たちは、イラクの爆弾一発で変わります。いやいや、爆弾落とせばいいと言ってるわけではないですよ。ただし、そういう変化の可能性をすでに内包してしまっている存在としてあるわけですわ。もっと簡単に交通事故で友だちが無防備に死んだりすることだけでも変わるでしょう。それはなぜかというと、そういうときに彼らは言葉を持ち始めるからです。そうして、言葉とはつねに、いつも落としどころを模索するように志向するものなのですよ。落としどころとは何か。それはね、じーんとするところですよ。寂しいとか悲しいとか、そういうものから派生するところです。けっして楽しいところからは言葉は出ないし、帰っても行かない。楽しいときは言葉は要らないの。どうでもいいときも言葉は要らない。でも、そういうところでは人生は進んでいかないのよ。そういう事実を見ないで、この倫理の空洞はかつてないことだと面白がっていてもしょうがないでしょ。現場の生き物は、おそらく、そういう立ちすくむ知を嗤うだけだ。くたばれ、ですよ。そんなもの。ファック・イットっすよ。

わたしゃあね、28年前にTVゲーム文化が始まったときにさ、宇宙でいろんな連中が集まって、さ、あなたがあなたであることを見せてください、とみんなに言われたときに、わたしの十八番はこれですって、インベーダーゲームで100万点を取って見せて、さあ、どうするんだって、思いました。あるいはこの時代のぼくらは、老人ホームに入ってよれよれになったあるとき、木漏れ日の車寄せに停車したトラックの荷台から年代物のやはりインベーダーゲームのまさにあのテーブル型のゲームマシンが降ろされるのを見て、懐かしさにいっぱいになって涙を見せながらも50年返しの条件反射で親指と人差し指をはやくもぴくぴくさせてしまっているのか、ってね。

そりゃね、小咄としては面白いが、そういうところではひとは生きてけない。そういうのを見て面白がっている知の小売人がいるなら、もっと別のものを売ってほしいと思いますよね。あるいは、宇宙人たちのまっただなかで、愛を叫ぶことだって、独りよがりだが、所詮は独りよがりなんだから、好きな、自分でかっこよいと勝手に選択した独りよがりの愛を叫べばいいんですよ。

しかし、それにしても吉本隆明のボケぶりはどうしようもないです。このひと、この本の中で「精神的エイズ」だとかって、ワケのワカランことをとうとうと話し出す。おまけにテメエがいちばん男の論理を振りかざしていたくせに、急に江藤淳がいちばんの男性・父性だとか言い出す。彼の若いときに私は彼の書くものを読んで「まいった」と思いましたが、いまふたたび「まいったね」と思っています。