Main

April 02, 2019

「令和」の裏で

新元号の事前のウラ話題はそこに「安」の字が入るかどうかでしたw。反安倍政権の著名人たちはツイッターなどで盛んにその"懸念"を先取り表明し(私もですがw)、朝日新聞には「新元号安晋だけはご勘弁」なんぞという読者川柳まで掲載されました。

まあ「安」は安倍晋三の「安」じゃなくとも普通に使われそうな「良い字」ですから、「元号の私物化」をことさらに言い立てるのもジョークみたいなものだったのですが、何しろNHKを始めとした忖度によるメディアの"私物化"や官僚の"私物化"、果ては自民党や各種諮問委員会の"私物化"までが喧伝されるこの長期政権のこと、冗談にかこつけて「事前予想されたものは候補から外れる」という慣例を盾に「安久」だの「安武」だの、ひいては夫人の名前まで持ち出して「安恵」だのと散々予防線を張ったのでしょう。

で、フタを開けると「令和」──「レイワ」という響きの麗々しさもあって概ね評判は上々です。しかも出典が「万葉集」と説明されて、安倍首相も「いかに時代がうつろうとも日本には決して色あせることのない価値があると思います。今回はそうした思いの中で、歴史上初めて、国書を典拠とする元号を決定しました」と「美しい国」論者の面目躍如と相成りました。

もっとも、ここにも大変興味深い「裏話」があります。「初春令月、気淑風和」という万葉集の引用部分は、実はさらに「仲春令月、時和気清(仲春の令月、時は和し気は清む)」という、中国の詩文集『文選』に収録されている後漢の科学者・張衡の詩「帰田賦」の一部を踏まえているのです。「文選」というのは周〜梁時代の千年にわたる百人以上の詩・散文八百余を収録したもので、漢文の素養が必須だった奈良・平安期の貴族にとっては基本のキの教養書でした。

つまり、この「令和」は「国書」から取るという革新的な一手を装い(国粋主義者たちを満足させ)ながら、その実、日本の元号の伝統たる中国の漢籍に大元の根を持つ(ことで保守派も満足させる)という、二重の出自を備えたなんとも巧みな選択なわけです。というかあの時代、文章は全て漢文か万葉仮名でしたから、漢字文化圏としては国書を漢籍から分けること自体が無理な話なのですが。

さてこの「帰田賦」、その題からも分かるように「官職を辞して田舎に帰る」という詩です。作者の張衡は時の皇帝に召されて役人になるのですが、その皇帝は側近たる宦官の専横を許して政治が腐敗、後漢滅亡の端緒となるのです。だから「こんな治世は嫌だ、(令月の、時候も和やかな)田舎に帰るぞ」となるわけです。

で、ここからがネットで一部拡散されている「説」なのですが、その悪政の皇帝の名前がなんと「安帝」だという、あまりにも出来すぎな話です。これを基に「令和」を考案した選定委員の学者さんはかなりの切れ者で、ダビンチ・コード顔負けの政権批判の暗号をこの元号に忍ばせた策士である、との"解説"も一人歩きしています。

事実は、張衡が「帰田賦」を書いたのは安帝の息子の順帝の時代、西暦138年のことです。宦官政治は先代の安帝から続くものではあるのですが、張衡の批判は直接的には順帝に向けられていて、安倍憎しの余りの「安帝」持ち出しは水をそちらに引っ張りすぎでしょうね。

ところで日本政府はこの「令和」の通知を諸外国にファックスで送ったそうです。そして公文書には今後も元号と印鑑で対応せねばならない──グローバル化が始まった昭和から変わらず続くその辺りの非効率性は、せっかくの新時代もまだ続くようです。

January 30, 2019

大坂なおみという「窓」

昨秋の全米に次いで全豪オープンでも優勝という快挙、そして世界ランキング1位という大坂なおみ選手に日本中が湧いています。一方で、彼女が「国際」的になればなるほど彼女を「日本人」として持ち上げる日本のメディアの「非・国際」的あり方が異様に映ることにもなっています。

その一例が彼女のスポンサーでもある日清食品のネットアニメCMでした。そこで描かれた彼女の容姿が肌も白く髪の毛もふんわりしていて「大阪選手に見えない」との声が挙がり、それを欧米メディアが「ホワイトウォッシュ(白人化)」として取り上げたことで、日清側が急きょこのCMを公開中止にするという事態にもなりました。

まあ、アニメに描かれるキャラクターというのはだいたいが「非・日本人」的に目が大きかったり髪が黒じゃなかったりほぼ無国籍化しているんですが、日清側=アニメ作家側が彼女をどう見ても「非・大坂なおみ」的に「白く」変身させてしまった理由は何だったのでしょう? ともすると「黒く」描くことが逆に失礼に当たると"斟酌"した? だとすれば、それこそ「ホワイトウォッシュ」を肯定する大きな考え違いです。

日本の世間はどうも人種問題やそれに絡む人権問題については何周も遅れてしまっていて、自分たちが今どこにいるのかさえ考えていないようです。なので相変わらずコントなどでは黒人の役で顔を黒塗りにする「ブラックフェイス」が行われたり、黒人役のセリフが田舎弁だったりします。

60年代の黒人解放運動を通して「Black is Beautiful」と自尊を訴え、70年代にはアリサ・フランクリンが「I'm Gifted and Black(私は才能があって黒人)」と歌った意味を、日本社会では知る必要がなかった。対してハイチの父と日本の母の間に生まれた大阪選手は自分が白く描かれたことに関して「なぜみんなが怒っているのかはわかる」と、もちろん理解していました。

実はもう一つ、人種問題ではなく女性問題でも大阪選手は日本の世間の周回遅れを炙り出しています。それはやはり優勝記者会見で、日本のTVリポーターが対戦相手の感想を「日本語でお願いします」と求めた時のことです。

大阪選手は日本語では表現し切れないと思ったのでしょう、「英語で話します」と言ってクビトバ選手が2年前に強盗に利き手を刺される重傷を負ったこと、それを克服して決勝で戦ったことを称える立派なコメントをしました。

ところでなぜ「日本語でお願いします」と求められたのでしょう?

おそらくこれは、大阪選手のたどたどしく可愛らしい日本語を聞くことで、日本の視聴者とともに彼女を「カワイイ〜」と言って微笑ましく言祝ごうという企図だったのだろうと思います。それは無意識にであっても女子選手に、いや女子たち全般に、「可愛らしく微笑ましい」存在であることを強制する仕草になります。それは、日本ではあまり意識されませんが「国際的に」は明確に男性目線のセクシズムです。

しかも彼女の優勝以来、日本のTVのワイドショーでは大阪選手がいかに「日本人」らしいか、いかに「日本の誇り」かの話題を続けています。彼女が頭角を現してきた1年前には、彼女の褐色の肌やチリチリの髪を見て「日本人には見えないよなあ」と言っていた人も少なくなかった日本の世間が、いまは手のひらを返して「日本人」を強調するのです。

そんなとき私はいつも歌人枡野浩一さんの「野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない」という短歌を思い出します。

大阪選手が、世界が日本を見る窓になっています。私の願いは、彼女が同時に、日本から世界を見る窓になってくれることです。もちろんそれは彼女の仕事ではなく、私たち日本に住む日本人の仕事です。

September 19, 2018

「幇間稽古」

『鬼平』と並ぶ池波正太郎の代表作に『剣客商売』があります。その中の「井関道場・四天王」という一編は、四天王とされる4人の高弟から井関道場の後継者を選ぶという話題から始まります。相談を受けた主人公の老剣客・小兵衛が、道場を覗き見して4人各々の稽古づけの品定めをします。その中の一人、後藤九兵衛を見たときに、小兵衛は「あ……こいつはだめだ」と直感します。

この後藤九兵衛、どんな指導法かというと「そこ、そこ。もうすこしだ」とか「残念。いま一歩踏み込みを厳しく」とか「それだ。その呼吸だ」とか「一人一人へうまいことをいってやるもの」で、これでは「十の素質がある門人でも三か四のところで行き止まり」になる「幇間稽古」だと小兵衛は断じるのです。門人の心身を鍛えるのではなく、自分の剣法を売って名声と地位を得んとする道場主の典型タイプ、と斬って捨てて容赦ない。

ふうむ、そうか、小兵衛は「褒めて育てる」タイプではダメだと言っているのか──。

ただ、これは作者池波正太郎の普遍的な判断なのか、それとも江戸時代を背景にした小兵衛の思いなのか、その辺はよくわかりません。けれど、私の大好きな「小兵衛」の話です、そう言われれば確かに褒めて甘やかして育てて、そのまま甘ちゃんになる「やればできるんだけどしないだけ、と言って慢心している」タイプが多かったりするなあ、とも思ってしまうのです。あるいは「厳しくすればするほど傑出してくるタイプ」と「褒められることでぐんと伸びるタイプ」と、その見極めに応じて稽古づけの方法を変えるのが最もよいのかもしれないなあ、とか。

だって、テニスで全米オープン優勝という前代未聞の快挙を果たした大坂なおみには、「幇間稽古」の権化のようなサーシャ・バインというコーチが付いていたんですよ。彼のコーチングは、徹底して「さっきちょっとだけ前向きになるって約束しただろ? 大丈夫。キミならできる。キミならできるよ」とか、「ポジティブになれ。人生はこんなに楽しい。天気もいい。さあ集中しろ」とか、彼女をひたすら励まし褒めることだったのです。彼によって大坂なおみは「三か四」止まりだったかもしれない素質の発露を「十」あるいは十二分に引き上げられたのです。

ここは小兵衛、どう言うか?

さて、ここのところ日本で問題になっているのがスポーツ指導者による、練習の名を借りた異常なパワハラと暴力です。厳しければいいというもんではすでにありません。大相撲では死者まで出ましたし、今年になっても女子レスリングの伊調選手へのいじめや日大アメフト部での反則強要や無理強い、ボクシング連盟での忖度判定やワンマン体制、女子体操、重量挙げ、日体大陸上部駅伝などでの暴力指導と、どこもかしこも立て続けに殴ったり蹴ったりいじめたり排除したり恫喝したりのオンパレード。まるでどこかの専制恐怖政治の国のような在りようです。いったいこれは何なのでしょう?

スポーツ庁の鈴木大地長官はこれらを受けて「スポーツ界の悪い伝統を断ち切る意味でチャンス」と言います。いみじくも彼が公的に認めたように、言われるまでもなく私たちはみな学校の部活動などから経験的に日本のこの「悪い伝統」のことを知っています。だから大坂なおみのあの快挙の後ろに「褒めて育てる」サーシャ・バインのコーチングがあったことを知って、あんなに強権的に怒られたり殴られたりしなくても成功できる道があるじゃないか、と思い始めている。

この「悪い伝統」は軍隊から来ていると言われます。力による徹底支配、絶対の上下関係、自律や思考を許さない命令系統──それは日本の軍隊に限ったことではありません。

そう言われて思い出すのがリチャード・ギアが主演した『愛と青春の旅立ち』(82年)という映画です。リチャード・ギアをはじめとした多く白人の士官候補生を徹底的に、ときには人種的な意趣返しかと思うほど理不尽に絞りあげる教官の黒人軍曹フォーリーは、サディストかと思うほどに容赦ありません。彼は絶対に褒めそやしたりはしない。まさに『剣客商売』の小兵衛の精神です。

そう思ったときに気づきました。ああ、剣客も兵隊も、待っているのは文字通り生死をかけた戦場なのだ。稽古をしなければたちどころに殺されてしまう。鍛錬を通過できないような輩は戦場ですぐに死んでしまう。そればかりか他人をも危険に道連れにすらする。そんなやつらをしごき落としてやることが稽古・訓練の使命なのか、と。ならばそれはむしろ、彼らを死なせないための優しさなのか、と。そのとき、小兵衛とフォーリーは「死」の厳しさの前に同等となる。

第二次大戦の日本軍は兵士たちに「死ぬな」という訓練ではなく、次第に「死んでこい」という狂気を教えるようになりました。しかも戦死者よりも餓死者の方が多いという指揮系統のデタラメぶりを放置しながら。

日本のスポーツ界がいま問題視されているのは、「死ぬ気で戦え」という狂気の精神論と、その精神論に従わぬ選手を「飢えろ」とばかりに排除してザマアミロとばかりに北叟笑む、日本軍ばりの腐った男性性の、いじましくも理不尽な伝統なのです。

剣客や兵士と違って直截的な死が待っているわけではないスポーツ選手に必要なのは、「戦い」という形を取るものが潜在的に持つそんな「死」の厳しさを疑似的な仮説とできる知性と、その「仮説の死」を乗り越えるための科学的な技術論と、そしてその「仮説の死の厳しさ」を克服するための、ときに「幇間」的ですらあってもいい、選手一人一人に寄り添う論理的かつ人間的な「生」の言葉なのでしょう。

そこは小兵衛だってフォーリーだって、ちゃんと頷いてくれるはずだと思いますよ。──ああ、よかった。

August 20, 2018

LGBTバブルへの異和感

私がこれから書く異和感のようなものは、あるいは単なる勘違いかもしれません。

現在のいわゆるLGBT(Q)ブームなるものは2015年の渋谷区での同性パートナーシップ制度開始の頃あたりからじわじわと始まった感じでしょうか。あるいはもっと以前の「性同一性障害」の性別取扱特例法が成立した2003年くらいにまで遡れるのでしょうか。とはいえ、2003年時点では「T」のトランスジェンダーが一様に「GID=性同一性障害」と病理化されて呼称されていたくらいですから、「T」を含む「LGBT」なる言葉はまだ、人口に膾炙するはるか以前のことのように思えます。

いずれにしてもそういう社会的事象が起きるたびに徐々にメディアの取扱量も増えて、25年前は懸命に当時勤めていた新聞社内で校閲さんに訴えてもまったく直らなかった「性的志向/嗜好」が「性的指向」に(自動的あるいは機械的に?)直るようにはなったし(まだあるけど)、「ホモ」や「レズ」の表記もなくなったし、「生産性がない」となれば一斉に社会のあちこちから「何を言ってるんだ」の抗議や反論が挙がるようにもなりました。もっとも、米バーモント州の予備選で8月14日、トランスジェンダーの女性が民主党の知事候補になったという時事通信の見出しはいまも「性転換『女性』が知事候補に=主要政党で初-米バーモント州」と、女性に「」が付いているし、今時「性転換」なんて言わないのに、なんですが……。

そんなこんなで、ここで「LGBTがブームなんだ」と言っても、本当に社会の内実が変わったのか、みんなそこに付いてこれているのか、というと私には甚だ心もとないのです。日本社会で性的指向や性自認に関して、それこそ朝のワイドショーレベルで(つまりは「お茶の間レベル」で)盛んに話題が展開された(そういう会話や対話や、それに伴う新しい気づきや納得が日常生活のレベルで様々に起きた)という記憶がまったくないのです。それは当時、私が日本にいなかったせいだというわけではないでしょう。

そんなモヤモヤした感じを抱きながら8月は、例の「杉田水脈生産性発言」を批判する一連のTVニュースショーを見ていました。そんなある時、羽鳥さんの「モーニングショー」でテレ朝の玉川徹さんが(この人は色々と口うるさいけれどとにかく論理的に物事を考えようという態度が私は嫌いじゃないのです)「とにかく今はもうそういう時代じゃないんだから」と言って結論にしようとしたんですね。その時に私は「うわ、何だこのジャンプ感?」と思った。ほぼ反射的に、「もうそういう時代じゃない」という言葉に納得している人がいったい日本社会でどのくらいいるんだろうと思った。きっとそんなに多くないだろうな、と反射的に突っ込んでいたのです。

私はこれまで、仕事柄、日本の様々な分野で功成り名遂げた人々に会ってもきました。そういう実に知的な人たちであっても、こと同性愛者やトランスジェンダーに関してはとんでもなくひどいことを言う場面に遭遇してきました。40年近くも昔になりますが、私の尊敬する有名な思想家はミシェル・フーコーの思索を同性愛者にありがちな傾向と揶揄したりもしました。国連で重要なポストに上り詰めた有能な行政官は20年ほど前、日本人記者たちとの酒席で与太話になった際「国連にもホモが多くてねえ」とあからさまに嫌な顔をして嗤っていました。いまではとてもLGBTフレンドリーな映画評論家も数年前まではLGBT映画を面白おかしくからかい混じりに(聞こえるような笑い声とともに)評論していました。私が最も柔軟な頭を持つ哲学者として尊敬している人も、かつて同性愛に対する蔑みを口にしました。今も現役の著名なあるジャーナリストは「LGBTなんかよりもっと重要な問題がたくさんある」として、今回の杉田発言を問題視することを「くだらん」と断じていました。他の全てでは見事に知的で理性的で優しくもある人々が、こと同性愛に関してはそんなことを平気で口にしてきました。ましてやテレビや週刊誌でのついこの前までの描かれ方と言ったら……そういう例は枚挙にいとまがない。

それらはおおよそLGBTQの問題を「性愛」あるいは「性行為」に限定された問題だと考えるせいでしょう。例えば先日のロバート・キャンベル東大名誉教授のさりげないカムアウトでさえ、なぜそんな性的なことを公表する必要があるのかと訝るでしょう。そんな「私的」なことは、公の議論にはそぐわないし言挙げする必要はないと考えるでしょう。性的なことは好き嫌いのことだからそれは「個人的な趣味」とどう違うのかとさえ考えるかもしれません。「わかってるわかってる、そういうのは昔からあった、必ず何人かはそういう人間がいるんだ」と言うしたり顔の人もいるはずです。

でも「そういうの」ではないのです。けれど、「『そういうの』ではない」と言うためのその理由の部分、根拠の空間を、日本社会は埋めてきたのか? 「ゲイ? 私は生理的にムリ」とか「子供を産めない愛は生物学的にはやはり異常」だとか「気持ち悪いものは気持ち悪いって言っちゃダメなの?」とか、「所詮セックスの話でしょ?」とか、そういう卑小化され矮小化され、かつ蔓延している「そこから?」という疑問の答えを詰めることなく素通りしてきて、そして突然黒船のように欧米から人権問題としてのLGBTQ情報が押し寄せてきた。その大量の情報をあまり問題が生じないように処理するためには、日本社会はいま、とりあえず「今はもうそういう時代じゃないんだから」で切り抜けるしかほかはない。そういうことなんじゃないのか。

「生産性発言」はナチスの優生思想に結びつくということが(これまでの戦後教育の成果か)多くの人にすぐにわかって、LGBTQのみならず母親や障害者や老人や病人など各層から批判が湧き上がりました。それは割と形骸化していなくて、今でもちゃんとその論理の道筋をたどることができる。数学に例えれば、ある定理を憶えているだけではなくてその定理を導き出した論理が見えていて根本のところまで辿り帰ることができる。けれど「生理的にムリ」「気持ち悪い」「所詮セックス」発言には、大方の人がちゃんと言い返せない。そればかりか、とりあえず本質的な回答や得心は保留して「でも今はそういう時代じゃないんだ」という「定理」だけを示して次に行こうとしている。でも、その定理を導き出したこれまでの歴史を知るのは必要なのです。それを素通りしてしまった今までの無為を取り戻す営み、根拠の空白を埋める作業はぜったいに必要。けれどそれは朝の情報番組の時間枠くらいではとても足りないのです。

この「とにかく今はもうそういう時代じゃないんだから」は、私が引用した玉川さんの言とはすでに関係ない「言葉尻」としてだけで使っています。前段の要旨を言い換えましょう。この言葉尻から意地悪く連想するものは「LGBTという性的少数者・弱者はとにかく存在していて、世界的傾向から言ってもその人たちにも人権はあるし、私たちはそれを尊重しなくてはいけない。それがいまの人権の時代なのだ」ということです。さらに意訳すれば「LGBTという可哀想な人たちがいる。私たちはそういう弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている。そういう時代なのだ」

近代の解放運動、人権運動の先行者であるアメリカの例を引けば、アメリカは「そういう弱者をも庇護し尊重する時代」を作ってきたわけではありません。これはとても重要です。

大雑把に言っていいなら50年代からの黒人解放運動、60年代からの女性解放運動、70年代からのゲイ解放運動(当時はLGBTQという言葉はなかったし、LもBもTもQもしばしば大雑把にゲイという言葉でカテゴライズされていました)を経て、アメリカは現在のポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=PC)の概念の土台を築いてきました(80年代を経るとこのPCは形骸的な言葉狩りに流れてしまいもするのですが)。

それはどういう連なりだったかと言うと、「白人」と「黒人」、「男性」と「女性」、「異性愛者」と「同性愛者(当時の意味における)」という対構造において、その構造内で”下克上"が起きた、"革命"が起きたということだったのです。

「白人」の「男性」の「異性愛者」はアメリカ社会で常に歴史の主人公の立場にいました。彼らはすべての文章の中で常に「主語」の位置にいたのです。そうして彼ら「主語」が駆使する「動詞」の先の「目的語(object=対象物)」の位置には、「黒人」と「女性」と「同性愛者」がいた。彼らは常に「主語」によって語られる存在であり、使われる存在であり、どうとでもされる存在でした。ところが急に「黒人」たちが語り始めるのです。語られる一方の「目的語=対象物」でしかなかった「黒人」たちが、急に「主語」となって「I Have a Dream!(私には夢がある!)」と話し出したのです。続いて「女性」たちが「The Personal is Political(個人的なことは政治的なこと)」と訴え始め、「同性愛者」たちが「Enough is Enough!(もう充分なんだよ!)」と叫び出したのです。

「目的語」「対象物」からの解放、それが人権運動でした。それは同時に、それまで「主語」であった「白人」の「男性」の「異性愛者」たちの地位(主格)を揺るがします。「黒人」たちが「白人」たちを語り始めます。「女性」たちが「男性」を語り、「同性愛者」が「異性愛者」たちをターゲットにします。「主語(主格)」だった者たちが「目的語(目的格)」に下るのです。

実際、それらは暗に実に性的でもありました。白人の男性異性愛者は暗に黒人男性よりも性的に劣っているのではないかと(つまりは性器が小さいのではないかと)不安であったし、女性には自分の性行為が拙いと(女子会で品定めされて)言われることに怯えていたし、同性愛者には「尻の穴を狙われる」ことを(ほとんど妄想の域で)恐れていました。それらの強迫観念が逆に彼らを「主語(主格)」の位置に雁字搦めにして固執させ、自らの権威(主語性、主格性)が白人男性異性愛者性という虚勢(相対性)でしかないことに気づかせる回路を遮断していたのです。

その"下克上"がもたらした気づきが、彼ら白人男性異性愛者の「私たちは黒人・女性・同性愛者という弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている」というものでなかったことは自明でしょう。なぜならその文章において彼らはまだ「主語」の位置に固定されているから。

そうではなく、彼らの気づきは、「私たちは黒人・女性・同性愛者という"弱者"たちと入れ替え可能だったのだ」というものでした。

「入れ替え可能」とはどういうことか? それは自分が時に主語になり時に目的語になるという対等性のことです。それは位置付けの相対性、流動性のことであり、それがひいては「平等」ということであり、さらには主格と目的格、時にはそのどちらでもないがそれらの格を補う補語の位置にも移動可能な「自由」を獲得するということであり、すべての「格」からの「解放」だったということです。つまり、黒人と女性とゲイたちの解放運動は、とどのつまりは白人の男性の異性愛者たちのその白人性、男性性、異性愛規範性からの「解放運動」につながるのだということなのです。もうそこに固執して虚勢を張る必要はないのだ、という。楽になろうよ、という。権力は絶対ではなく、絶対の権力は絶対に無理があるという。もっと余裕のある「白人」、もっといい「男」、もっと穏やかな「異性愛者」になりなよ、という運動。

そんなことを考えていたときに、八木秀次がまんまと同じようなことを言っていました。勝共連合系の雑誌『世界思想』9月号で「東京都LGBT条例の危険性」というタイトルの付けられたインタビュー記事です。彼は都が6月4日に発表した条例案概要を引いて「『2 多様な性の理解の推進』の目的には『性自認や性的指向などを理由とする差別の解消及び啓発などを推進』とある。(略)これも運用次第では非常に窮屈な社会になってしまう。性的マイノリティへの配慮は必要とはいえ、同時に性的マジョリティの価値が相対化される懸念がある」と言うのです。

「性的マジョリティの価値が相対化される」と、社会は窮屈ではなくむしろ緩やかになるというのは前々段で紐解いたばかりです。「性的マジョリティ(及びそれに付随する属性)の価値(権力)が絶対化され」た社会こそが、それ以外の者たちに、そしてひいてはマジョリティ自身にとっても、実に窮屈な社会なのです。

ここで端なくもわかることは、「白人・男性・異性愛者」を規範とする考え方の日本社会における相当物は、家父長制とか父権主義というやつなのですね。そういう封建的な「家」の価値の「相対化」が怖い。夫婦の選択的別姓制度への反対もジェンダーフリーへのアレルギー的拒絶も、彼らの言う「家族の絆が壊れる」というまことしやかな(ですらないのですが)理由ではなく、家父長を頂点とする「絶対」的秩序の崩れ、家制度の瓦解を防ぐためのものなのです。

でも、そんなもん、日本国憲法でとっくに「ダメ」を出されたもののはず。ああ、そっか。だから彼らは日本国憲法は「反日」だと言って、「家制度」を基盤とする大日本帝国憲法へと立ち戻ろうとしているわけなのですね。それって保守とか右翼とかですらなく、単なる封建主義者だということです。

閑話休題。

LGBTQに関して、「わかってるわかってる、そういうのは昔からあった、必ず何人かはそういう人間がいるんだ」と言うのは、この「わかっている」と発語する主体(主語)がなんの変容も経験していない、経験しないで済ませようという言い方です。つまり「今はもうそういう時代じゃないんだから」と言いながらも、「そういう時代」の変化から自分の本質は例外であり続けられるという、根拠のない不変性の表明です。そしてその辻褄の合わせ方は、主語(自分)は変えずに「LGBTという可哀想な人たちがいる。私たちはそういう弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている」という、「LGBTという可哀想な人たち」(目的語)に対する振る舞い方(動詞)を変えるだけで事足らせよう/乗り切ろう、という、(原義としての)姑息な対処法でしかないのです。

これはすべての少数者解放運動に関係しています。黒人、女性、LGBTQに限らず、被差別部落民、在日韓国・朝鮮人、もっと敷衍して老人、病者、子供・赤ん坊、そして障害者も、いずれも主語として自分を語り得る権利を持つ。それは特権ではありません。それは「あなた」が持っているのと同じものでしかありません。生産性がないからと言われて「家」から追い出されそうになっても、逆に「なんだてめえは!」と言い返すことができる権利です(たとえ身体的な制約からそれが物理的な声にならないとしても)。すっかり評判が悪くなっている「政治的正しさ」とは、実はそうして積み上げられてきた真っ当さの論理(定理)のことのはずなのです。

杉田水脈の生産性発言への渋谷駅前抗議集会で、私は「私はゲイだ、私はレズビアンだ、私はトランスジェンダーだ、私は年寄りだ、私は病人だ、私は障害者だ;私は彼らであり、彼らは私なのだ」と話しました。それはここまで説明してきた、入れ替え可能性、流動性の言及でした。

ところで"下克上""革命"と書いたままでした。言わずもがなですが、説明しなくては不安になったままの人がいるでしょうから書き添えますが、「入れ替え可能性」というのはもちろん、下克上や革命があってその位置の逆転がそのまま固定される、ということではありません。いったん入れ替われば、そこからはもう自由なのです。時には「わたし」が、時には「あなた」が、時には「彼/彼女/あるいは性別分類不可能な三人称」が主語として行動する、そんな相互関係が生まれるということです。それを多様性と呼ぶのです。その多様性こそが、それぞれの弱さ強さ得意不得意好き嫌いを補い合える強さであり、他者の弱虫泣き虫怖気虫を知って優しくなれる良さだと信じています。

こうして辿り着いた「政治的正しさ」という定理の論理を理解できない人もいます。一度ひっくり返った秩序は自分にとって不利なまま進むと怯える人もいます(ま、アメリカで言えばトランプ主義者たちですが)。けれど、今も"かつて"のような絶対的な「主語性」にしがみつけば世界はふたたび理解可能になる(簡単になる)と信じるのは間違いです。「LGBTのことなんかよりもっと重要な問題がある」と言うのがいかに間違いであるかと同じように。LGBTQのことを通じて、逆に世界はこんなにも理解可能になるのですから。

さて最後に、「ゲイ? 私は生理的にムリ」とか「子供を産めない愛は生物学的にはやはり異常」だとか「気持ち悪いものは気持ち悪いって言っちゃダメなの?」とか、「所詮セックスの話でしょ?」とか、そういう卑小化され矮小化され、かつ蔓延している「そこから?」という疑問の答えを、先日、20代の若者2人を相手に2時間も語ったネット番組がYouTubeで公開されています。関心のある方はそちらも是非ご視聴ください。以下にリンクを貼っておきます。エンベッドできるかな?

お、できた。



August 19, 2018

匿名のQ

8月16日、全米の新聞社の3割にあたる300社とも400社とも言われる新聞媒体がトランプの一連のメディア攻撃を批判する社説を一斉に掲載しました。ことあるごとに自分の意に沿わないニュースを「フェイク・ニュース!」と断じ、7月20日のNYタイムズのA.G.ザルツバーガー発行人(38)との会談では「フェイク・ニュース」ジャーナリストを「国民の敵 Enemy of the People」とまで言ったトランプに対し、ボストン・グローブ紙が呼びかけたこの対抗運動のSNS上でのハッシュタグは「#EnemyOfNone(誰の敵でもない)」です。

こうしてジャーナリズムが自らを「敵ではない」と言わなければならないのは、合衆国憲法の初っぱなの修正第1条で「表現の自由」「報道の自由」を謳うような国で、その報道が具体的な暴力の対象になりかねない危機感を現場ジャーナリストたちが抱き始めているからです。

その兆候が7月31日のフロリダ・タンパでのトランプのMAGA(Make America Great Again)集会でした。そこでCNNのホワイトハウス担当キャップであるジム・アコスタが現場リポートをしようとしたところ、その中継が「CNN SUCKS(CNNは腐ってる)」の罵声で囲まれました。「FUCK the MEDIA(メディアをやっつけろ)」のTシャツを着た人、「Tell the truth!(本当のことを言え!)」と叫ぶ人たちの中で「Q」という文字の付いたキャップやTシャツを着ている人たちも目立ちました。中には大きく「Q」と切り抜いたプラカードを掲げている人もいました。

「Q」は昨年10月に「4chan(日本の2ちゃんねるに相当)」という電子掲示板に現れた匿名の人物(集団?)です。匿名=Anonymous を意味する「Anon」を付けて「QAnon(キュー・エイノン)=匿名のQ」と呼ばれてもいます。「Q」は米政府の極秘情報へのアクセス権を持つ政府高官だと信じられています。「Q」はその後、「4chan」が汚染されたとして投稿の場を「8chan」に変えましたが、今もまるでノストラダムスの予言めいた直接的には意味不明の暗号めいた情報の断片を投稿してはフォロワーたちをその解読に夢中にさせています。なぜなら「Q」の使命は、トランプとともに「ディープ・ステート」の企みを暴くことだからです。

「ディープ・ステート」は予てからある陰謀論の1つで、オリジナルは17世紀にも遡ります。現在のアメリカでは共和・民主の党派に関係なくいわゆるエスタブリッシュメントの政治家や官僚、財閥・銀行、CIAやFBI、メディアまでを含む、既得権益を握る「影(裏、闇)の国家(政府)」のことで、ロスチャイルド家だとかイルミナティーだとかフリーメイソンだとかのお馴染みの名前が出てきます。「Q」の説ではトランプはこの「ディープ・ステート」と戦うために軍部に請われて出現した大統領なのです。

「Q」によれば、金正恩はトランプを攻撃したいCIAの操り人形・手先です。ヒラリー・クリントンやオバマやジョージ・ソロスらはトランプ政権の転覆を画策しつつ一方で国際児童売春組織のメンバーです。モラー特別検察官はトランプのロシア疑惑捜査をしているフリをして実は民主党のそんな不正を捜査しています。トム・ハンクスやスピルバーグら民主党支持のハリウッドスターたちは、この小児性愛者のネットワークに所属しています。

笑い話ならそれでよいのですが、大統領選挙期間中の「ピザゲート」事件ではそんな陰謀論を信じた男が武器を持ってワシントンDCのピザ店を襲撃して発砲しました。その陰謀論の流れは今も脈々と続いており、そこに「Q」が現れた。荒唐無稽すぎて「QAnon」一派は最初は共和党の中の実に瑣末な一部に過ぎなかったのですが、ここ数ヶ月で一気にトランプ支持層の大きな本流へと成長してきているのです。ジョージア州などには「QAnon」と大書したビルボードが幹線道路脇に建ち、今年6月15日のネヴァダ州のフーバーダム近郊ではこの「QAnon」の"情報"を信じたフォロワーの男が司法省に対し陰謀資料を公表しろと90分にわたりハイウェイをAR-15や拳銃持参で武装封鎖して逮捕されました。彼らは大手メディアのニュースを「フェイク・ニュースだ!」と連呼するトランプの言を信じています。ワシントン・ポスト紙のマーガレット・サリヴァン記者は7月31日のタンパでの集会が、まるでこの「QAnon」支持者=陰謀論者たちの「カミングアウト・パーティーだった」とツイートしていました。

こんなにあちこちで破綻している陰謀論がどうしてこうも広くトランプ支持者の間で信じられているのか、よく理解できない人が多いでしょう。でも、トランプは選挙前から、少なくともこの3年にわたってこの根拠のない嘘話を数々と繰り出し吹聴してきた。選挙期間中から「バラク・オバマはアメリカ生まれではない」と何度も何度も繰り返しているうちにトランプ支持者たちはそれを信じました。大統領就任式に集まった群衆はメディアによって不当に矮小化されたと繰り返しているうちにトランプ支持者たちはそれを信じました。ヒラリー・クリントンの私的メールサーヴァー捜査も不正を隠蔽していると言い続けるうちに彼女はすっかり「crooked(詐欺師で)」「criminal(犯罪者」になった。これまで何百とファクトチェックで「嘘」と断じられたトランプの虚言も、そのファクトチェックすらメディアの「フェイク・ストーリー!」だと繰り返すことで真実になっている。思い返せば就任2日目に例の就任式の参加者数に関してケリーアン・コンウェイが用いた言葉「オルタナティヴ・ファクツ(もう一つの事実)」が、この政権を支えてきたのです。その積み重ねが大きな「QAnon」を作り上げてしまった。米タイム誌は6月末の号で、「Q」をインターネット上で最も影響力のある25人のうちの1人に挙げました。

ジャーナリズムへのこの執拗な攻撃、政権による特定メディアへの名指しの非難。なんだか日本でも同じことが起きているので気持ち悪くなるのですが、そういえば2016年11月、トランプ当選が決まってすぐにトランプタワーに彼を表敬訪問した安倍首相、自分とトランプとの共通点だとして言ったセリフが「あなたはNYタイムズに徹底的にたたかれた。私もNYタイムズと提携している朝日新聞に徹底的にたたかれた。だが、私は勝った…」でした。大統領首席戦略官となるスティーヴ・バノンは安倍を指して「Trump before Trump(トランプが登場する前のトランプ」と形容したそうです。

さてこうした「匿名のQ」への支持拡大で困るのは(日米で共通して)議論の土台が崩壊してしまうことです。私たちの「知」が拠って立つ共通の事実がなくなることです。でも「Q」の支持者たちは頑なに「Q」を信じる。なぜならトランプその人が「Q」の存在をほのめかすようなことを言ったりするからです。例えば何の脈絡もなく「17」という数字を持ち出してくるとか……例のタンパでの集会でもトランプは大統領就任前にワシントンDCに訪れたのは「17回だ」と4回も演説で触れていました。アルファベットで、Qは17番目の文字なのです。

タンパ・ベイ・タイムズ紙の演説書き下ろしによるとそれは次のような、文脈不明の「17」の羅列でした。
You know(なあ), I told the story the other day(この話は前にもしたんだが), I was probably in Washington in my entire life 17 times(人生でワシントンに言ったのは多分17回だ). True(マジで), 17 times(17回). I don’t think I ever stayed overnight(泊まったことはないと思うが)… Again(もう一度言うが), I’ve only been here about 17 times(17回だ、あそこに行ったのは=【訳注:タンパにいるのにワシントンのことを here って、「ここはどこ?」状態なんでしょうか?】). And probably seven of those times was to check out the hotel I’m building on Pennsylvania Avenue(で、おそらくその中の7回はペンシルベニア・アベニューに建てているホテルの様子を見に行ったんだ=【訳注:これも時制がおかしいわ】) and then I hop on the plane and I go back(行ってもすぐに飛行機に乗って帰ったがな=【訳注:同前】). So I’ve been there 17 times(だから、行ったのは17回だ), never stayed there at night(泊まったことは一度もない). I don’t believe(ないと思う).

何なんでしょう、この演説は? ただしこれは「Q」支持者にとっては、トランプが明らかに「17」を通して「Q」と「Q」支持者を意識している、という暗号になるわけです。

さて、ところでいったい「Q」は誰なのか? 

大手メディアでニュースとして取り上げられるようになったこの「Q」に関して、ハッカー集団「アノニマス」が8月に入って宣戦布告をしました。彼らのハッキング技術を駆使して、必ずや「Q」の正体を暴き出してやる、と表明したのです。

昨年2017年にアメフトの全米選手権を制したアラバマ大のチームがホワイトハウスに表敬訪問した際、トランプに贈ったユニフォームの背番号が「17」でした。これが「Q」支持者の間でいまさら話題になっています。その「17」こそが「Qの存在を証明する暗号だったから」というのです。そして、それが彼らに意味したのは、トランプこそが「Q」その人なのかもしれない、ということなのです。おお。

ちなみにNYタイムズによれば、同じくアラバマ大が全米選手権で優勝してオバマを表敬した際は、贈呈されたユニフォームの背番号は「15」でした。2015年度の優勝だったからです。

August 08, 2018

「生産性」という呪縛

安倍首相自らのリクルートによって比例代表で当選した自民党の杉田水脈衆院議員が「LGBTは子供を作らない。つまり『生産性』がない」と「新潮45」に寄稿して大きく物議を醸しています。少子化対策という大義名分に照らしても「そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と反語で疑問を呈していて、この発言はインディペンダントやガーディアン、CNNなどの海外ニュースでも問題視されています。その中でも最も厳しい論調だったのが、若者に人気のある米国のニュースサイト「Daily Beast デイリービースト」のTOKYO発8月4日付の記事でした。

JAKE ADELSTEINとMARI YAMAMOTOの共同執筆となるそれは、見出しからして「Ugly, Ignorant, Pathological Anti-LGBT Prejudice Reigns in Japan's Ruling Party(醜悪で無知で病的な反LGBT偏見が日本の支配政党に君臨する)」とかなりキツイ。そして「日本の、そう自由でもそう民主的でもない自由民主党が、2012年の安倍政権発足以来、ヘイトスピーチで問題になっている。ここ何年もの間、日本の問題は少数派の「在日韓国・朝鮮人」へ向けられてきたが、ここ数週間で、出生率の低下や社会問題の新しいスケープゴートが生まれた。LGBTコミュニティである」と書き始めます。

注目すべきは、日本のメディアではほとんど指摘されていませんが、ここではすぎた発言を明確に「ヘイトスピーチ」と断じている点です。これは国際基準でいえば明らかに憎悪発言であり、政治家ならば一発でアウトの事例です。もっとも、トランプ時代のアメリカにあってはその大前提も揺らいではいますが。

記事はそこから、安倍首相自らがリクルートして自民党に入った杉田議員の今回の発言内容を紹介します。しかし問題の核心は杉田個人の発言にとどまりません。まさに彼女を許してきた自民党だと切り込みます。

For weeks, Sugita’s party seemed to condone her views. But the Japanese people and even the self-censoring media are not letting this one slide, and now even within the LDP there have been angry and pointed exclamations of disgust.
「杉田の党は数週間にわたって彼女の見解を問題視しないでいたが、日本人およびセルフセンサリング・メディア(政権批判を自己検閲する日本のメディア)も今回は見逃さなかった。自民党の内部ですらも怒りと非難の声が上がった」

But were any lessons learned?
「しかし、教訓は学ばれたのか?」

杉田議員はこの寄稿の中で「リプロダクティヴィティ(生殖・再生産性)」を「プロダクティヴィティ(生産性)」と故意か無学か混同し、論理を飛躍させているのですが、言うまでもなく人間を「生産性」で語ることは、ナチスの優生思想です。アウシュビッツなどの強制収容所では連行したユダヤ人を「手に職を持つ者」と「持たない者」に分け、後者は「ノミ・シラミを洗い落とすためのシャワー室」という名のガス室に送り込みました。そこには当然、老人や病人や女・子供が含まれます。

同時に杉田議員の言う通り、ナチスは「生産性のない」身障者や同性愛者(当時はLGBTという細分化した言葉がなく、みなホモセクシュアルで一緒くたにされていました)たちをも数十万人規模で"処理"したのです。

デイリービーストは性的少数者を取り巻く日本での現状も説明します。

Currently, roughly 8 percent of the population identify themselves as LGBT. While Japan does not legally recognize same-sex marriage at a national level, local governments, including the Shibuya and Setagaya wards of Tokyo, have used ordinances to recognize same-sex partnerships. Other prefectures are taking similar measures.
「自らをLGBTとする人々は現在およそ8%だが、日本では同性婚は法的に認められず、渋谷や世田谷などの地方レベルで同性パートナーシップが条例で認知されるだけだ」

Beverage maker Kirin, e-commerce giant Rakuten, and some other Japanese corporations are moving ahead with policies to provide the same paid leave for marriage, childbirth, and other life-changing events to same-sex couples. (Note that even Japan’s stodgy corporations are able to conceive something that LDP politicians can’t seem to grasp: yes, even same-sex couples can have children.)
「キリンや楽天など日本の大企業には同性カップルの従業員にも結婚・出産やその他人生の大事なイヴェントにおける有給休暇など福利厚生を拡大している。(注:日本の野暮な企業でさえ自民党の政治家が考えられないこうした事例を考えつける。そう、もちろん同性カップルでも子供を持つことは可能だから)」

その上で国際アムネスティの言葉を借りて、「日本でLGBTピープルは家庭内、職場、教育現場、医療サービスで差別を受けている」「政治家や政権幹部が公の場で極めてホモフォビックな発言をしさえする」と紹介。それを安倍総裁率いる自民党の体質として次のように分析しています。

興味深いのは今回の杉田寄稿文は朝日新聞攻撃の文章だと説明してからの安倍首相の人物像です。

The Asahi Shimbun is one of the more liberal newspapers in the country and has been compared to the New York Times. The Asahi is strongly disliked by Prime Minister Abe, who has publicly attacked the paper, and who has in his meetings with President Donald Trump told him, “I hope you can tame the New York Times the way I tamed the Asahi.”  Long before Trump was calling the press, “the enemy of the people,” Abe was making effective use of that tactic. (When Steve Bannon called Abe, “Trump before Trump” he wasn’t far off the mark.)
「朝日はニューヨークタイムズに例えられる日本のリベラル紙だ。安倍首相にひどく嫌われている新聞で、彼はこれまでも公然と同紙を攻撃してきた。トランプとの最初の会談【訳注:2016年11月の、当選直後のトランプタワーでの会談】で彼は「私が朝日新聞を飼いならしたようにあなたもニューヨーク・タイムズを飼い慣らせるよう望んでいる【訳注:正確には「あなたはニューヨーク・タイムズに徹底的にたたかれた。私も朝日新聞に叩かれたが勝った。あなたもそうしてくれ」と言ったとされる】」と伝えた。。トランプがメディアを「国民の敵」と呼ぶようになるずっと以前から、安倍はこの戦略を有効に使ってきたのだ。スティーブ・バノン(元大統領首席戦略官)は実際、安倍を『トランプ以前のトランプ』と呼んでいた。その言いはそう間違ってはいない」

デイリービーストはここから「同性婚を認めたら兄弟婚や親子婚、ペット婚まで行くかもしれない。海外ではそういう人も現れている」という杉田の発言を詳報して、そこにネット上で反対の声に火がつき、さらにそれに反対するネトウヨの自民党支持者が参戦してきた様子を紹介する。7月27日夜に行われた自民党本部前での大抗議集会の様子も描写し、若い女子大生ら参加者の声も拾っています。つまりこれは自民党自体の体質への、LGBTのみならず広い層からの異議申し立てなのだということにまで踏み込むのです。

Mio Sugita, who was not available for comment, is, like many female politicians welcomed into the LDP, an extreme right-winger and fiercely loyal to Abe. This is important to understand because she is a microcosm of the few women that manage to gain power within the LDP, which has more or less been ruling Japan since the party was founded in 1955. Even when LDP lawmakers are female in gender they are rarely feminists and often echo the sexist and extremist views of Nippon Kaigi, the right-wing Shinto cult, or are members of it. This group helped Abe stage a political comeback after his bumbling exit from power in 2007; most of his handpicked cabinet members belong to the group.
「杉田はコメントを出していないが、自民党に歓迎されて入った多くの女性政治家たちと同様、極端な右翼思想の持ち主で安倍に強烈な忠誠を尽くす。ここを理解することが重要だ。なぜなら彼女は、自民党で権力を握る少数の女性たちのマイクロコズム(小宇宙=縮図)だからだ。自民党の女性政治家たちはジェンダーこそ女性だが、フェミニストであることはまずなく、むしろしばしば性差別主義者で日本会議や神社本庁などの極端な右翼の声を反映し、あるいはそのメンバーであったりする。これらの組織が安倍のカムバックを演出し、安倍は彼らのメンバーから閣僚人事を行っている」

The tone-deaf attitude towards the LGBT community by Japan’s ruling party is part of a pattern of picking on the weak in society, blaming them for being weak and then for society’s wider problems. When people dare to assert they have rights, the LDP pushes back even harder, whether against LGBT people, or foreign workers, or women, or third-generation Korean-Japanese, or the press –– when things go wrong the minorities get blamed.
「日本の支配政党のLGBTへのこの無知な=音が聞こえていない=態度は、日本社会の弱い者いじめ、弱者攻撃のパターンの一部だ。その弱者、少数者たちがより広い社会問題の元凶だと非難するのだ。そういうグループが果敢に権利を主張すれば、自民党の反撃はさらに酷いことになる。LGBTだけでなく、外国人労働者、女性、在日韓国人朝鮮人三世、そして報道機関にすらもそれは向けられる。よくないことが起きればそれはマイノリティのせいなのだ」

Partially blaming LGBT for Japan’s declining birth-rate is not as difficult as addressing the real reasons people don’t have children: a lack of real job opportunities for women, gender inequality, single-parent poverty, the destruction of labor laws so that lifetime employment is a pipe-dream, endemic overtime resulting in (karoshi) people working to death, sexual harassment on the job, maternity harassment. The wealthy old men who run the party don’t have any conception of working hours so long and wages so low that dating is difficult, getting married a challenge, and raising children is impossible. All of this while there is rising poverty as Abenomics fizzles out.
「日本の出産率低下でLGBTを攻撃するのは、子供を持たない本当の理由を解決するよりも簡単だからだ。日本では女性たちの仕事の機会が欠けている。男女格差、性差別、シングルペアレントの貧困、終身雇用制の崩壊、過労死、職場のセクハラ、マタハラ。この政党を運営する裕福な老人男性たちは、労働時間がひどく長くて賃金がひどく低くてデートすることも難しく結婚することはチャレンジで子供を育てることが不可能だということをさっぱり理解していない。これら全てがアベノミクスが立ち消えになろうとする中、立ち現れる貧困の一方で起きていることだ」

そして、結語が次の一文です。

It’s a lot easier to wage a war on LGBT people than it is to wage a genuine war on poverty.
「貧困問題に本当の戦争を仕掛けるよりも、LGBTを叩いている方がずっと簡単なのだ」

デイリービーストは報道と同時にオピニオン誌の傾向も強いのは確かです。しかし、杉田発言への今回のこの抗議のかつてない盛り上がりは確かに、LGBTのみならず、不妊の夫婦や障害者や病人や老人を含めた多くの「生産性がない」とされる人々を巻き込んでいること、そしてその背景に日本の自民党が見逃している、あるいは故意に見捨てている大きな政治的空白が存在していることを指摘するこの記事は、かなり正鵠を射ていると思います。自民党とその周辺の日本のオトコ社会だけを見ていたら、これほどの抗議拡大の理由はわからないままなのです。

June 13, 2018

凡庸な合意

「歴史的瞬間」というのは何を指して言うのでしょう? 米朝首脳会談の合意文書を読む限り、ここには何ら新しいことはなく、曖昧な約束だけが並んでいました。主要4項目はクリントン時代の94年の米朝枠組み合意とそっくりです。ならば前例のない「歴史的瞬間」と言うのは、北朝鮮の指導者と米国大統領が会って握手した、ツーショット写真を撮った、ということなのでしょう。

ちなみに、94年の米朝枠組み合意のテキストはこうでした。

・双方とも、政治的・経済的関係の完全な正常化に向けて行動する。
・アメリカは、その保有する核兵器を北朝鮮に対して使用せず、脅威も与えないと確約する。
・北朝鮮は、1992年の朝鮮半島の非核化に関する共同宣言を履行する手段をとる

今回の合意骨子はこうです。

・米国と北朝鮮は、平和と繁栄を求める両国民の希望通りに、新たな米朝関係の構築に向けて取り組む。
・米国と北朝鮮は、朝鮮半島での恒久的で安定的な平和体制の構築に向け、力を合わせる。
・北朝鮮は、4月27日の「板門店宣言」を再確認し、朝鮮半島の完全な非核化に向け取り組む。

これに遺骨返還が加わるわけですが、ほとんど同じでしょう? いやいや実は、94年合意の方には他にも「北朝鮮は核拡散防止条約に留まる」とか「凍結されない核施設については、国際原子力機関 (IAEA) の通常および特別の査察を再開する」「北朝鮮が現在保有する使用済み核燃料は、北朝鮮国内で保管し、再処理することなく完全に廃棄する」などの具体的項目が入っているので、むしろ今回の合意文書は中身のないスカスカな後退の表れと受け取られてもやむなしなのです。

前回のブログエントリー「予測可能大統領」で、6月12日の会談は「具体的な結論には至らぬ見通し」「壮大な政治ショーとしてとりあえず世界を煙に巻く算段」と書きました。なぜなら、金正恩の呼びかけに応じた3月初めからの準備期間「3カ月」はあまりに短かったからです。今回の合意文書はまさにその具現でした。トランプは「外交」というものをナメていたのでしょう。

非核化に関して行程表も示せず何も詰められず、結果、政治的成果を焦るトランプの前のめりのパフォーマンスと批判されてもしょうがありません。案の定、文書署名後の記者会見では具体性に欠ける合意ということで集中砲火を浴びていたのです。

その時のトランプは、なんだか初めて壮大な理想論を語っていたような印象です。米国大統領は国民に向けて大いなる理想を提示するのが常ですが、トランプの記者会見は朝鮮半島の統一とか平和的解決とか、ま、理想論というよりは希望的観測といったほうがいいのかもしれません。

結果、唯一具体的に形になったのは、前述の「会った、握手した、ツーショット」という、第一に北が望んでいた「米国大統領を使った金正恩の箔付け」だけです(歴代の米国政府はそれをこそ忌避して、協議を遠くから差配していた)。しかも今回は、大変なカネの節約になるからとトランプは朝鮮半島での米韓軍事演習の取り止めや、在韓米軍の撤退の見通し、さらにはそう遠くない制裁解除の話まで会見で披露しました。外交プロトコルを無視したこうした発言に至っては、「トレメンダス・サクセス(途轍もない成功)」というトランプの自画自賛の常套句は、現時点では金正恩にとっての言葉です。

いえ、しかしそれでもいいのです。今年初めの時点では、この5〜6月というのはともすると朝鮮戦争再開の、まさに「今そこにある危機」を予想されていたのですから。それが回避されたのは何よりです。まずはそれを寿ぎたい。

「外交プロトコルなんてクソくらえ、慣習なんて関係ない。オレはオレ流で誰もできなかったことをやり遂げるのだ」と言うトランプに99%の懐疑を抱きながらも、じつは瓢箪から駒でなんらかの成果が得られるのではないか、と、そしてその場合は、トランプに対する評価の根本のなにがしかを変えねばならないなと、1%の希望を持っていたことは否定しません。

しかし今回改めてわかったことは、トランプは脅しとハッタリの取り引きが得意なディーラーかもしれないが、緻密で理詰めな交渉が出来るネゴシエーターではないということです。そして「外交」というのはまさに、ディールではなくネゴシエーションなのです。

交渉というものは時にカッコ悪い自分をさらさねばならないけれど、ナルシストの彼はそれが出来ない。アメリカに住んで、日本とは違って何度も多くの議論の場に立ち会いました。その中でトランプのような人に何度も出食わしました。強面でぶつかりながらも、実際に一対一で対峙すると、面と向かっては自分の嫌なことは言えない、言うとちっちゃな人間だと思われるのが嫌な、徹底した「いいカッコしい」が結構いるのです。だからそんな局面に至らぬうちにディールをかけようとするのです。

トランプはそういう人物です。脅しとハッタリのディールは得意かもしれないが、理詰めの緻密な交渉は苦手なのです。非核化のプロセスとはまさにその理詰めの交渉に他なりません。そしてそれを「外交」と呼ぶ。記者会見で妙に饒舌だったトランプは、私には雄弁なだけのとても凡庸な交渉人に見えました。

問題はしかしこれからです。クリントンもブッシュも、24年前の枠組み合意や11年前の6カ国協議で今回のトランプと金正恩が「合意」したような、この地点までは来ていました。その「約束」を具体化するときに金正日に裏切られたのです。

トランプは別に特別な大統領ではありません。外交となればクリントン、ブッシュが直面した同じ困難に直面するのです。しかし「今回はその二の舞にならない」と言っているのだとしたら、トランプ政権はこれから彼らとは違う何が出来るのか? 前二者が言わなかった「体制保証」を示したのだから今度は裏切らないはず、というのはさすがにナイーヴすぎましょうから。

「CVID(完全で検証可能かつ不可逆的な非核化)」は実に困難です。なにせ核弾頭が何個あるのかもわからない。核関連施設は400カ所とも言われ、1カ所に1週間かければ8年かかります。

私はCVIDは不可能だと思っています。しかしそんなことは現実世界ではままあることです。ならば北が核を隠し持っても使わせないようにすることです。もちろん公式にはそんなことは言えませんが、同じく朝鮮半島の非核化を望む中ロの思惑も取り込んで、そういう包囲網を作る。いったん世界経済の仕組みの中に取り込めば、経済的繁栄をかなぐり捨ててまでも世界のならず者国家に逆戻りすることは難しい。私たちがもう昭和30年代に戻れないのと同じです。北朝鮮を、金正恩をそういう状況に誘導することが、片目をつぶって偉業を成す現実的政治家の本領だと思っています。

もっとも、その場合はトランプは(遠くて関係ないと思えるのにカネばかりがかかる)東アジアのことなどどうでもよくなる。米国の安全保障体制も変わるでしょう。日本のことだってどうでもいい、となる。その時、常に「100%アメリカとある」アベちゃんはどうするんでしょうね。

June 05, 2018

予測可能大統領

就任直後から何をするか予測不能と言われていたトランプ大統領が、最近はその行動パタンが見え見えで、こんなに予測可能な大統領はいないんじゃないかと思えてきました。米朝首脳会談中止の書簡は、見る人には交渉途中のブラフでしかなかったし、案の定、来週12日のシンガポール会談は壮大な政治ショーとしてぶち上げ、とりあえず世界を煙に巻く算段です。

トランプの行動パタンははっきりしています。すでに多くの人が言うように、自分が主演のテレビ番組をセルフプロデュースしているというのが当たっています。まず自分が目立つこと。ディールと称してハッタリをかますこと。次にそのハッタリを本物かのように装うこと。その後で辻褄が合わなくなり、ウヤムヤな着地点を探すのですが、その時点ではすでに視聴者(支持者)には何かすごいことをやったかのように印象付けているのです。つまり「大言壮語」をあたかも「有言実行」であるかのように仕組むパタンです。

メキシコの壁然り。パリ協定やTPP脱退宣言然り。現時点でハッタリ段階の関税戦争もこれから同じパタンをたどるはずです。

「6月12日」も同じ。3月初めの金正恩の呼びかけに即座に応答したことで、世界はこれで武力衝突が回避できると歓迎しました。「さすがトランプだ、因習に縛られずに自ら動いた」と。ところが派手に「5月中」と予告した日取りではとても詰め切れない。「6月12日」にずらしたのはよしとして、問題はそれでも具体的な結論には至らぬ見通しなので、その後も第2回、第3回と会談を継続させることです。

行動パタンは書きました。ここで、トランプの行動指針が明らかになります。

目下の課題は8月か9月に弾けるかもしれないとされるロシア疑惑捜査をどう躱すかです。6月2日付のNYタイムズが、トランプ弁護団からモラー特別検察官に当てた書簡をスッパ抜きました。弁護団はロシア疑惑に関して「大統領は、訴追されても自分を恩赦する権利を持つ」と、かねてより噂されていたトンデモ論理をやはり持ち出してきました。さらには「大統領に司法妨害はあり得ない。なぜなら大統領は司法のトップであり、いつでも捜査を中止できるのだ」とまで言うわけです。その後のトランプのツイートはまたこの件で狂乱状態です。まあ、大統領は訴追されないという慣行があるので、恩赦云々は世間向けの虚勢であると同時に、いかにトランプ陣営が切羽詰まっているかを表する証左ということです。ただし、モラーは弾劾を下院に提起できる。そして弾劾はもちろん恩赦の埒外です。

もう1つの行動指針は11月の中間選挙での勝利です。これは上記の弾劾にも関わる死活問題です。全員改選となる下院は民主党が有利と言われ、多数を獲得されれば弾劾に弾みがついてしまいます。だから何がなんでも勝たねばならない。

そのためには、北との関係は「6月12日」でファンファーレ高らかに前奏曲、それから「成功」を小出しにつなげながら11月以前にクライマックスへ到達するようにした方が良いかもしれない、とトランプが考えても不思議ではありますまい。しかし「始める前から決裂」は最もマズいので、トランプは北の非核化は段階的でもいいと会談実現にハードルを下げたのです。

ところで段階的非核化の容認とは、実は94年の米朝枠組み合意や03〜07年の6カ国協議での取り決めと同じです。その何れもが北朝鮮の約束反故で破綻し、トランプはそうやって失敗した2人の大統領、クリントンとジョージ・W・ブッシュを口汚く嘲り非難してきたはずです。なのにまた自分も同じことをしようとしている。何が違うのでしょう。

メディアはもちろんその点を鋭く衝いています。だからマティス国防長官やクドロー国家経済会議議長が「制裁解除は北朝鮮の非核化の最後のプロセス」と、クリントンやブッシュの時とは違うと強調しているのですが、おかしなことにここ最近のトランプ自身は制裁解除については言及しなくなっている。会談実現と非核化プロセスに関する発言だけなのです。

これも大言壮語の陰で「ウヤムヤな着地点を探す」という行動パタンです。表立っての経済制裁解除は難しいでしょうが、トランプのことです、金正恩に、このところ急接近の中国とロシアの制裁逃れ支援は目こぼしするくらいのことは言うかもしれません。

何れにしても再びの対話路線回帰で「対話は無意味」と言い続けてきたどっかの首相は梯子を外された格好ですが、トランプは圧力一辺倒の前言との齟齬を取り繕おうと、さらに踏み込んで朝鮮戦争の終戦宣言から平和協定締結という大団円を演出したいようです。もっとも、それこそが北朝鮮の思うツボなのですが、ノーベル賞がちらつく彼にはそこはどうでもいいのです。

我田引水、牽強付会、曲学阿世、傲岸不遜……たとえ今回も過去と同じ「対話のための対話」だったとしても、とりあえず武力行使が回避されたのは喜ばしいことです。が、トランプ流の行き着く先に待つ世界を思うと、暗澹たる気分は続いています。

April 25, 2018

告発の行方

セクハラの裏には必ずパワハラがくっついています。「おっぱい触っていい?」「手ぇ縛っていい?」と言われても相手に自分に関係する何の権力も持っていなければ「バァカ!」の一言で済みます。

こちらが記者で相手が政治家や幹部官僚、あるいは取材対象の警察官なら話は違います。常識はずれの深夜に呼び出されても私だってノコノコと出向いて行くでしょう。ウォーターゲート事件のディープスロートとは言いませんが、ジャーナリストなら万が一の「何か」を求め暗い地下駐車場でも深夜の飲み屋にでも行く。相手が断らないと知っているからこそ、福田次官だって彼女を呼び出したのです。

彼女がその場で強く非難しなかったことも、報告を受けた上司が事を荒立てない方向に動いたのも確かです。しかしがんじがらめの男社会の中、告発が恐らくは直ぐにどこかへと吸収されて消えてなくなり、どこにも届かないばかりか声を出した方こそが"非常識な"ことをしたかのように疎んじられる「空気」がその理由であることは、昨年からの#MeToo運動での欧米女性たちの後悔からも明らかです。

その上で私はまず、テレ朝のセクハラ発表の1つの項目が気になりました。テレ朝は「社員が取材活動で得た情報を第三者に渡したことは報道機関として不適切な行為で遺憾」としました。

これは、このセクハラに社として対応出来なかった結果、「社員が取材活動で得た情報を第三者(週刊新潮)に渡さざるを得ないような状況を作ったことは報道機関としても不適切な行為で遺憾」とすべきではないのか。さらに言えば、このセクハラの録音データは「取材活動で得た情報」ではありません。週刊新潮に渡したのは、取材活動の際にたまたま録音された「不適切行為の記録」なのです。

それでも中には録音を告げずに録音したのは記者倫理にもとる、と言う人もいます。それも違うと考えます。福田次官はかねてより同様の発言を繰り返していた。今回の録音はちょうど「ここではよくチカンやスリが起こるので防犯カメラを設置したら案の定その犯罪現場が録画された」というのと同じことです。その情報を放置したらそれこそ社会正義にもとる行為でしょう。それは「公益通報」といいます。

しかしそれ以上に、その後に出て来た安倍政権の言葉のひどさに辟易としています。中でも任命責任者の麻生財務大臣の妄言。テレ朝の対財務省抗議文には「もう少し大きな字で書いてもらった方が見やすいなと思った程度に読んだ」。次官のセクハラ認定には「(告発者)本人が出てこなければどうしようもない」「(次官が)はめられて訴えられているんじゃないかとか、ご意見はいっぱいある」と、公平さを装ってその実は脅しているという、この政治家の底意地の悪さが透けている。

この麻生大臣に呼応して、次官なき後のトップである矢野康治財務省官房長も「その方が弁護士さんに名乗り出て、匿名でおっしゃるということが、そんなに苦痛なことなのですか」と実に「(セクハラ認識が)相当高い」と自称する答弁を財務金融委員会で行い、下村元文科相も麻生発言のコピーのように「隠しテープで録って週刊誌に売ること自体、はめられていますよね。ある意味で犯罪だ」と演説する始末です。これらはけれど、SLAPP訴訟(社会的地位や経済的余裕のある比較強者が、比較弱者を被告にして恫喝的に起こす訴訟)の脅しの論理と同じものなのです。

案の定、麻生大臣は「(セクハラだと騒ぐなら)次官の番記者を男に変えれば済む話だろ?」とも言った。その愚劣な顔に向け、誰か「逆に次官を女に変えるというのも一策だぜ」と返してやれば良かったのにと思わざるを得ません。ほんと、麻生に対してはメディア側はもっと即応できるへらず口の質問者を用意すべきですね。

1つ言っておきましょう。セックスのことばかり口にして「女好きのスケベ」と評判の男は総じてミソジニスト(女嫌い)です。性的対象(獲物?)の枠組みからはみ出す「人格を持った女」が大嫌い。だからセクハラをするのです。思い当たる男たちがウンザリするほどたくさんいます。

閑話休題。

テレ朝は「女性社員を守る」と言いました。「守る」というのはどういうことなのでしょうか? 彼女は財務省担当を外されないか? 経済部から異動されないか?

聞けば彼女の「上司」も女性だそうです。その「上司」もおそらく同じようなセクハラ体質の男性主義社会を生き延びて来たと思います。その上司も守らなければなりません。

もしこの「騒動」でメディア側が教訓を得るならば、それは、こういう場合の対応をマニュアル化するかルール化して機械的に決めてしまうことです。様々な忖度はその都度、その個別のケースでそれぞれに働きましょう。でもその基盤に、例えば「即刻抗議する」「抗議に正しい対応がなければそれを報道する」「事前に記者クラブへ抗議への協力を要請する」「当該被害者は希望がない限り現状の職務を保障する」などのスタンダードを決めておけば、現場が迷うことはありません。

実は取材記者たちへのセクハラのケースは中央省庁よりも、地方支局の記者1年生、2年生のまだ何もわからない、取材とはこういうものなのかとすぐに思い込んでしまうかもしれない若手記者に対しての、警察官によるものが多いと聞きます。ちなみに、新人記者は警察担当から始まります。地方支局なら、その町(普通は支局のある県庁所在地)の警察署の事件・事故担当です。そして四六時中警察署およびその県内の各警察署に詰めたり通ったりすることになる。その警察社会もまた極端な男社会です。セクハラというより、取材警官による性的虐待(Sexual Abuse)、性的攻撃(Sexual Agression)、あるいはレイプ未遂という明確な犯罪行為もあると聞きます。

となるとこれはメディア一社の問題ではなく、当該官庁の記者クラブ全体の、あるいは報道機関全体、日本新聞協会、日本民放連、日本記者クラブなどの全体組織で取りまとめるスタンダードであるべきかもしれません。さて、テレ朝以外の報道各社はいま現在、このジャーナリズム界の#MeTooの動きに呼応する態勢になっているのでしょうか?

March 22, 2018

より高い忠誠

勤続20年、満50歳の退職年金を満額で受け取れるそのわずか25時間前の3月16日午後11時に懲戒免職するというのは、一体どういう懲罰なんでしょう。アンドルー・マッケイブFBI副長官へのトランプ大統領の仕打ちがそれでした。
 
目の敵である「ヒラリー・クリントン」絡みの偏向だと色々と理由を並び立てていますが、いずれも訴追に足る証拠があるわけでもなく、そもそもがトランプがあのコミー長官を「FBIを統率できていなかった」としてクビにした時にマッケイブが「いや、コミー長官は全職員から信頼されていた」と真っ向から議会で反論したのがきっかけなのです。

トランプに反論した輩はみんなクビ。北朝鮮への軍事攻撃の選択肢はないと言ったバノンやティラーソンもクビ、ロシアの選挙介入はあったと言ったマクマスター補佐官のクビも危ういのです。

一方で安倍政権も大変です。こちらも森友問題で佐川前理財局長官が「文書はない」と答弁しながら、その「文書」が「ない」ように削除・改竄された形で出てきて、首相や首相夫人をめぐる官僚の「忖度」と「共謀」の関係が問われています。

そもそも森友学園に対する国有地売却価格がなぜ9割にも相当する8億円も引き下げられたのか。その理由を記したはずの記録を佐川さんは破棄したと国会で答えたのですが、実はそれは破棄されていずに出て来た。価格などを含め森友側と事前に一切交渉してはいない、とも証言したのに、それも価格を含めて学園側と交渉していた録音データが残っていた。なんなんでしょう、この文書記録の扱われ方、事実を捻じ曲げよう、あるいはなかったものにしようとする改竄・修正主義は?

その点、アメリカはフェイク・ニュースだ、ポスト・トゥルースだとかまびすしいですが、まだ記録だけは記録として手を触れてはならないという"原則"が(相対的に)生きているような気がします(わからんですけどね、権力内部でどんな作為が働くのかは)。文書・記録を扱う官僚たち、その現状は、アメリカではトランプというとんでもない大統領に対峙する官僚という構図なのに対して、日本では安倍というとんでもない政権に寄り添う官僚という、まるで正反対の構図です。そもそも官僚たちの人事権を内閣が一手に掌握して、一元的に官僚システムを管理しようという安倍政権下での内閣人事局の創設は、2000〜3000という上級官僚の指名を一手に握るアメリカの大統領制度を真似したものなのですが、この違いはどこから生じるものなのでしょう。

佐川さんは恐らく退職金や次の職を得るために、問題が大きくならないうちに自ら辞職した(あるいはその方が世間からの炎上を防げると自身あるいは誰かが判断した)。ところが、麻生財務大臣がここにきて「サガワが、サガワが」と連呼するに至って全ての罪を着せられてしまいそうな哀れさになってしまっている。3月27日の証人喚問ではさて、それでも刑事訴追されないよう(つまりは冒頭のマッケイブのように遡っての懲戒免職とならないよう)ほとんどの質問に回答を拒むのでしょうか?

しかし日米双方とも、どうして"部下"たちがこんなにも政治にいじめられなければならないのでしょうか。突ランプの顔色を窺わない者はティラーソン同様、マクマスターにしろジョン・ケリー首席補佐官にしろ、機を見ていずれはクビです。マッケイブのクビを告げたセッションズ司法長官だって、モラー特別検察官のロシアゲート捜査から自ら身を引いたことでトランプに無用扱いされているわけです。それもトランプがいずれはモラーのクビを狙っているからに他ならない。

ひどい仕打ちはマッケイブに限りません。コミーはカリフォルニア出張の時にTVニュースで自分の解雇を見て最初は冗談だと思った。同じようにティラーソンはトランプのツイッターでそれを知った。

エクソンモービルの会長は日本で言えば経団連会長クラスの重鎮。ポッと出の不動産屋のトランプはそのコンプレックスもあって目の上のタンコブの彼を排除したんでしょうが、こんなにひどい話は聞いたことがない。

トランプはいま、はっきり言ってその精神状態がとんでもない領域に入ってきているように映ります。政権1年を経てまるで図に乗って、国をまるで自分の会社のようにワンマン経営できると妄想している。自分より頭のいいやつ、上から目線で意見するやつ、バカにするやつはすべて排除。これは国家が、それもアメリカというスーパー国家が、愚かでわがままな、けれど一部では熱狂的に歓迎されるソシオパスによってどう変質するのかという壮大で危険な実験を目の当たりにしているような気がするのです。

日本も似ています。ワンマン安倍首相を擁護するあまり、自民党議員の和田政宗が太田理財局長に「あなたは民主党政権時代の野田総理の秘書官。安倍政権を陥れるために変な答弁をしているのではないか?」と質問した。太田さんは「さすがにいくらなんでも、そんなつもりは全くありません。それはいくらなんでも、それはいくらなんでもご容赦ください」ととても苦しそうでした。

そこまで言われて、日本の官僚は怒らないのでしょうか? もっとも、この発言は国会議事録から削除されるそうです。ここでもまた、自民党政権は自党に都合の悪い記録をなかったものにしようとするのです。この国会議事録からの削除というのは、それこそ歴史の改竄であり黒塗りであり検閲であるわけで、歴史修正主義の所業に他ならない。

一方のアメリカでは官僚たちはそこまでの仕打ちをされて、例えばFBIはいまトランプ政権に対して反乱を起こそうとしています。その1つが4月17日に発売予定のコミー前長官の「A Higher Loyalty」という本だろうと思われます。

内容はどこもまだ事前入手していないらしく不明ですが、タイトルの「より高い忠誠」とはまさに、トランプに「私に忠誠を誓うか?」と問われたコミーの経験から取っているのでしょう。そして「より高い Higher」とは、そんな大統領への忠誠以上に、アメリカという国や国民のための忠誠をこそ重んじたという、そういう意図なのではないかと推測するのです。さあ、日本の官僚たちは、さて、何/誰への忠誠をモットーとしているのでしょうか。

March 13, 2018

覚書──森友近畿理財局文書削除問題

近畿理財局の決済文書書き換え問題、通常の役所文書というのはあれほどまで詳細に政治家の名前や交渉経緯を書いたりはしない。詳しく残すことで突っ込まれることも増えるからだ。しかし森友との土地売買の経緯は微に入り細に入り記録されてあった。

すなわりこの理財局の決済公文書改竄問題は、後から削除し改竄し言い繕ったことの責任というよりも、それ以前、改竄前のテキストの異常なまでの詳細さ、特例的な措置の理由を記録するという内幕の暴露(告発)が、省内的かつ政府内的に重大な叱責懲戒事由になることを恐れての削除かつ自殺だったのかと思われる。

近畿理財局の、森友決済の経緯を詳細に記した改竄前文書はつまり、文科省の前川さんが行ったと同質の、時の政治権力の圧力によって行政が歪められていることの詳細な告発(仄めかし)文書であるということだ。財務省かつ安倍政権にとって、それがまずいとわかったから告発部分を消させたわけだ。

そんな文書を理財局が各責任者印を全部押して決済したということは、これは財務省本省に対する近畿理財局の不服文書だったってことじゃないか。それを糊塗した本省は、その糊塗がバレることで本来の告発を浮き彫りにしてしまった。これは二重仕掛けの時限爆弾だ。文書作成者、よくやったと思う。

この文書問題で、「書き換えるなんてありえない」として日本の官僚の劣化が批判されているけれど、いやむしろ、その文書に、書き換えさせなければならないほどの告発を忍ばせた官僚の正義感を、誇らしく思うべきところなのかもしれない。

March 07, 2018

電撃訪朝を狙うトランプ?

「北朝鮮危機」は平昌パラリンピックも終わってしまう3月末から4月だとずっと言ってきました。トランプ政権はそれに向けて主体的にも、かつ状況的にも、かつ必然的なようにも動いていました。

まず、対話路線=外交を司る国務省が北朝鮮対応を進めるどころかどんどんと主役の座から離れていっていました。空席のままの駐韓大使に検討され、韓国政府からアグレマン(同意)まで得ていたジョージタウン大学教授のビクター・チャは対北軍事攻撃に抑制的である発言を続けてトランプの不興を買い、1月末の時点で大使候補から外されました。G.W.ブッシュ政権下で北朝鮮の核問題を巡る6カ国協議次席代表を務めた人物で、本来は対北強硬策を唱えていた人物です。その人までがトランプ政権のイケイケ路線には異議を唱えた。そこでチャに代わって名前が挙がっている人物の1人は、2010年の対北軍事作戦計画「5029」の策定に関わった元在韓米軍司令官のウォルター・シャープです。

国務省本庁でも北朝鮮を含む東アジア・太平洋問題で実務を担当する次官補がまだずうっと決まっていません。次官補代行のスーザン・ソーントンという中国の専門家が昨年12月19日に代行から正式に次官補へと指名されたのですが、議会承認がまだなのです。

そんな時に3月2日付で、北朝鮮担当特別代表だったジョセフ・ユンが「個人的な決断」で退任してしまいました。韓国生まれのユンはオバマ政権で北朝鮮担当特別代表に就任し、国連駐在の北朝鮮代表部次席大使パク・ソンイルを介しての、所謂「ニューヨーク・チャンネル」を稼動して米朝間の直接対話を模索してきました。北朝鮮に拘束されて意識不明に陥ったアメリカの大学生オットー・ワームビアさん(帰米後に死亡)を解放するためにも活躍しました。

対北対話路線勢力はトランプ政権内で圧倒的に力を失っていたのです。そして平昌が終わり、モラー特別検察官のロシア疑惑捜査がじわじわと迫る中、全てをちゃぶ台返ししてしまうような対北軍事行動が懸念されていたわけです。

実はそれもトランプにとって、日米韓というか全世界にとっても、後は野となれ山となれ式のひどい結末しか見えないトンデモ選択なのは明らかでした。なのにトランプはやるかもしれなかった。

そんな時に平昌五輪の余勢を駆って今回の南北会談での「非核化言及」と「南北首脳会談開催合意」です。もちろん在韓米軍撤退だとか時間稼ぎの恐れとか、色々と面倒くさい話がついていますが、そんなことより何より、これで3月末から4月にかけての「北朝鮮危機」はとにかく完全に吹っ飛んだと考えてよいということなのです。

さてそれで、いま誰が一番喜んでいるのかというと、それはもちろんトランプです。金正恩もとりあえずは米軍による攻撃が回避されることで一安心ですが、経済制裁はまだ続きますから「喜んでいる」というわけではありますまい。対してトランプはアルミと鉄鋼の高関税措置で経済担当トップのゲリー・コーン経済評議会議長は辞めるは、国家安全保障担当のマクマスター補佐官の不仲辞任説は止まないは、ジョン・ケリー首席補佐官による娘と婿のイヴァンカ&ジャレッド・クシュナー排除の動きは急だは、不倫疑惑で13万ドル(1380万円)も払って口止めしたつもりのポルノ女優が、いや、性的関係はあったと顔出し発言して口止め契約無効の訴訟は起こすは、ケリーアン・コンウェイ上級顧問が去年12月のアラバマ上院議員補欠選挙で自分の公職の地位を利用してテレビで散々共和党のあのセクハラ候補ロイ・ムーアを公然と推したのはハッチ法違反だと特殊検察官局(OSC: 倫理違反を監視する政府機関)に指摘されるは、北朝鮮をどうこうするような余裕もないくらいに政権が混乱しているのです。

そんな時に北朝鮮があたかも軟化したかのような対応を見せた。なんとラッキーなのでしょう。

これに喰らいつかない手はありません。トランプは6日のスウェーデン首相との共同記者会見の最中、朝鮮半島の緊張緩和の理由を問われ「Me(自分のおかげ)」と冗談めかして答えていました。もっともすぐさま「いや、誰にもわからない」と"修正"していましたが。

確かに制裁は効いているようです。ところがここでにわかに現実味を帯びているのが、アメリカも北朝鮮も、この両国は現在、全てがトップ2人の気ままな決断でどうにでもなっているということがより如実になって、ひょっとしたら1972年のニクソンの電撃訪中みたいなことがまた起きるかもしれない、いやむしろトランプは対北軍事行動とは真逆の電撃訪朝によって、モラー特別検察官チームによるロシア疑惑捜査からの目逸らしという、ちゃぶ台返しと同じ効果を狙ってくるに違いない、ということです。

これはかなりあり得ると思います。実はアメリカ大統領の直接訪問による、北朝鮮の核問題解決を狙った米朝首脳会談というのは、かつてビル・クリントン政権の任期最後の2000年に検討されたことがありました。クリントン政権は1993年の発足後すぐに北朝鮮の核開発とミサイル、テロ支援の問題に直面しました。大統領最後の仕事として、彼はまずニクソン訪中の時のキッシンジャーよろしく2000年10月にマデリン・オルブライト国務長官を電撃訪朝させ、大統領親書を渡してクリントン訪朝の根回しをしたのです。もしこれが実現すれば、北朝鮮は金正日の画期的な決断で当時まだ持っていなかった核兵器や長距離ミサイルの開発放棄の道を進んでいたかもしれません。

ところがその訪朝は突然中止されます。クリントン民主党政権の後継のはずだった副大統領のアル・ゴアが、11月6日の大統領選挙で共和党のジョージ・W・ブッシュに逆転負けを喫したのです。クリントンが訪朝してもその後が続かない。金正日との首脳会談の意味がなくなったのです。

いつも言っていますが、その後のブッシュ政権(2001〜2008年)は、9.11後の中東対応とチェイニー、ラムズフェルドのネオコン強行路線で北朝鮮との対話をすっかりやめてしまいました。すなわち、北の現在の核兵器と大陸間弾道弾の開発は、「対話路線」の失敗ではなく、「対話路線の中断」による失敗だったのです。

さてトランプです。「ディール」の"天才"と自負する彼は、とにかく自分が直接出て行って直談判すれば誰でもみんな折れてくると思っています。北朝鮮の若造を相手に、それは赤子の手をひねるようなものだと思っているはずです。これは全く私の推測ですが、ホワイトハウスは彼の号令の下、すでに北朝鮮への電撃訪問と具体的な「ディール」内容の提示を検討していると思います。それで成功すれば(というか成功を確信して)「ほらオレは安定したディールの天才だ」とまた自慢できると思っているのですから。

そこで日本です。安倍政権はどうするつもりでしょう?

韓国嫌いでウジウジとアメリカの「100%」のお追従をするばかりだった日本は、韓国は自由陣営だからこちらの仲間だという前提を根拠もなく拠り所にしていたのですが、蓋が開いてみると北朝鮮と韓国は本来は同じ民族、いわば縒りを戻そうとする夫婦みたいなものです。日本などお構いなしでどんどんと接近してしまう。「それは罠だ、これまでと同じく時間稼ぎだ」と”警告”しても、「他人のお前が余計なお世話だ」と聞いてもらえません。そうやって事態は蚊帳の外でどんどん進みます。そのうちにニクソン=毛沢東の時のように頭越しにトランプ=金正恩会談が実現するかもしれない。これまで「強硬策」一本でおだてられて木にも上がったのに、急に梯子を外されてしまうかっこ悪さに繋がるかもしれません。

そういうかっこ悪さを避けるためにも、そしてどうにか拉致された人たちを日本に戻すためにも、この南北急接近にもかっこよく対応できる外交的立ち位置のオプションを用意しなくてはなりません。それは何か? それはこの問題で、自分は韓国、アメリカ、中国に次ぐ4番目の国に過ぎないということを自覚して、外交の主問題ではあくまでも補佐役、橋渡し薬、まとめ役に徹することなのです。余計な口出しではなく、とにかく拉致問題に限っては堂々たる当事者だという振る舞いに徹することなのです。もうすでに最初のボタンから勘違いしているから、そういう対応にはやや遅すぎるかもしれませんが、拉致被害者のことを考えれば、かっっこ悪いところからでも始めなければならないはずです。それだけが残された、選択し得るかっこよさなのだと思います。

January 04, 2018

性と生と政の、聖なる映画が現前する

新年最初のブログは、先日試写会で観てきた映画の話にします。『BPM ビート・パー・ミニット(Beat Per Minute)』。日本でも3月24日から公開されるそうです。パリのACT UPというPWH/PWA支援の実力行使団体を描いたものです。元々はニューヨークでエイズ禍渦巻く80年代後半に創設された団体ですが、もちろんウイルスに国境はありません。映画は昨年できた新作です。2017年のカンヌでグランプリを獲ったすごいものです。私も、しばらく頭がフル回転してしまって、言葉が出ませんでした。やっと書き終えた感想が次のものです。読んでください。そしてぜひ、この映画を観ることをお薦めします。

***

冒頭のAFLS(AGENCE FRANCAISE DE LUTTE CONTRE LE SIDA=フランス対エイズ闘争局)会議への乱入やその後の仲間内の議論のシーンを見ながら、私は数分の間これはドキュメンタリー映画だったのかと錯覚して混乱していました。いや、それにしては画質が新しすぎるし、ACT UPミーティングのカット割りから判断するにカメラは少なくとも3台は入っている。けれどこれは演技か? 俳優たちなのか? それは私が1993年からニューヨークで取材していたACT UPの活動そのものでした。白熱する議論、対峙する論理、提出される行動案、そして通底音として遍在する生と死の軋むような鬩ぎ合い。そこはまさに1993年のあの戦場でした。

あの時、ゲイたちはばたばたと死んでいきました。感染者には日本人もいました。エイズ報道に心注ぐ友人のジャーナリストは日本人コミュニティのためのエイズ電話相談をマンハッタンで開設し、英語ではわかりづらい医学情報や支援情報を日本語で提供する活動も始めました。私もそれに参加しました。相談内容からすれば感染の恐れは100%ないだろう若者が、パニックになって泣いて電話をかけてくることもありました。カナダの友人に頼まれて見舞いに行った入院患者はとんでもなくビッチーだったけれど、その彼もまもなく死にました。友人になった者がHIV陽性者だと知ることも少なくなく、そのカムアウトをおおごとではないようにさりげない素振りで受け止めるウソも私は身につけました。感染者は必ず死にました。非感染者は、感染者に対する憐れみを優しさでごまかす共犯者になりました。死はそれだけ遍在していました。彼も死んだ。あいつも死んだ。あいつの恋人も死んだ。みんな誰かの恋人であり、息子であり、友だちでした。その大量殺戮は、新たにHIVの増殖を防ぐプロテアーゼ阻害剤が出現し、より延命に効果的なカクテル療法が始まる1995年以降もしばらく続きました。

あの時代を知っている者たちは、だからACT UPが様々な会合や集会やパーティーや企業に乱入してはニセの血の袋を投げつけ破裂させ、笛やラッパを吹き鳴らし、怒号をあげて嵐のように去って行ったことを、「アレは付いていけないな」と言下に棄却することに逡巡します。「だって、死ぬんだぜ。おまえは死なないからそう言えるけど、だって死ぬんだぜ」というあの時に聞いた声がいまも心のどこかにこびりついています。死は、あの死は、確かに誰かのせいでした。「けれどすべて政府のせいじゃないだろう」「全部を企業に押し付けるのも無理があるよ」。ちょっとだけここ、別のちょっとはこっち──そうやって責任は無限に分散され細分化され、死だけが無限に膨張しました。

誰かのせいなのに、誰のせいでもない死を強制されることを拒み、あるいはさらに、誰かのせいなのに自分のせいだとさえ言われる死を拒む者たちがACT UPを作ったのです。ニューヨークでのその創設メンバーには、自らのエイズ支援団体GMHCを追われた劇作家ラリー・クレイマーもいました。『セルロイド・クローゼット』を書いた映画評論家ヴィト・ルッソもいました。やるべきことはやってきた。なのに何も変わらなかった。残ったのは行動することだったのです。

そう、そんな直接行動主義は、例えばローザ・パークスを知らないような者たちによって、例えば川崎バス闘争事件を知らないような者たちによって、どの時代でもどの世界でも「もっと違う手段があるんじゃないか」「もっと世間に受け入れられやすいやり方があるはずだ」との批判を再生産され続けることになります。なぜなら、その批判は最も簡単だからです。易さを求める経済の問題だからです。ローザも、脳性麻痺者たちの青い芝の会も、そしてこのACT UPも、経済の話をしているわけではなかったのに。

「世間」はいちども、当事者だった例しがありません。

この映画には主人公ショーンとナタンのセックスシーンが2回描かれています。始まりと終わりの。その1つは、私がこれまで映画で観た最も美しいシーンの1つでした。そのシーンには笑いがあって、それはセックスにおいて私たちのおそらく多くの人たちが経験したことのある、あるいは経験するだろう笑いだと思います。けれどそれはまた、私の知る限りで最も悲しい笑いでした。それは私たちの、おそらく多くの者たちが経験しないで済ませたいと願うものです。それは、愛情と友情を総動員して果てた後の、どこにも行くあてのない、笑うしかないほどの切なさです。時間は残っていない。私たちは、その悲しく美しい刹那さと切なさとを通して性が生につながることを知るのです。それが政に及び、それらが重なり合ってあの時代を作っていたことを知るのです。

彼らが過激だったのはウイルスが過激であり、政府と企業の怠慢さが過激だったからです。その逆ではなかった。この映画を観るとき、あの時代を知らないあなたたちにはそのことを知っていてほしいと願います。そう思って観終わったとき、ACT UPが「AIDS Coalition to Unleash Power=力の限りを解き放つエイズ連合」という頭字語であるとともに、「Act up=行儀など気にせずに暴れろ」という文字通りの命令形の掛詞であることにも考えを及ばせてほしいのです。そうして、それが神々しいほどに愛おしい命の聖性を、いまのあなたに伝えようとしている現在形の叫びなのだということにも気づいてほしいのです。なせなら、いまの時代のやさしさはすべて、あの時代にエイズという禍に抗った者たちの苦難の果実であり、いまの時代の苦しさはなお、その彼ら彼女たちのやり残した私たちへの宿題であるからです。この映画は監督も俳優も裏方たちもみな、夥しい死者たちの代弁者なのです。

エンドロールが流れはじめる映画館の闇の中で、それを知ることになるあなたは私と同じように、喪われた3500万人もの恋人や友人や息子や娘や父や母や見知らぬ命たちに、ささやかな哀悼と共感の指を、静かに鳴らしてくれているでしょうか。

【映画サイト】
http://bpm-movie.jp/


bpm-beats-per-minute.jpg

December 15, 2017

告発の行方

アメリカのような「レディー・ファースト」の国でどうしてセクハラが起きるんですかと訊かれます。セクハラは多くの場合パワハラです。それは「性」が「権力」と深く結びつくものだからです。「性」の本質はDNが存続することですが、そのためには脳を持つ多くの生き物でまずはマウンティングが必要です。それは、文字どおり、かつ、比喩的にも、「権力の表現形」なのです。

なので、権力がはびこるところではセクハラも頻発します。個人的な力関係の場合も社会的な権力の場合もあります。男と女、年長と年少、白人と黒人、多数派と少数派──パワーゲームが横行する場所ではパワハラとセクハラ(あるいは性犯罪)は紙一重です。

この騒動の震源地であるハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴィー・ワインスティンや、オスカー俳優ケヴィン・スペイシーへの告発は以前から噂されていました。トランプは大統領になる前はセクハラを自慢してもいました。けれど告発が社会全体の問題になることはほとんどありませんでした。結果、これまではコメディアンのビル・コスビーやFOXニュースのビル・オライリーなど、ああ、1991年、G.W.ブッシュが指名した最高裁判事ののクラレンス・トーマスへのアニタ・ヒルによる告発の例もありましたね、でもいずれも個人的、散発的な事件でしかありませんでした。それがどうして今のような「ムーヴメント」になったのか。

私にはまだその核心的な違いがわかっていません。女性たち、被害者たちの鬱積が飽和点に達していた。そこにワイントンポストやNYタイムズなどの主流メディアが手を差し伸べた。それをツイッターやフェイスブックの「#MeToo」運動が後押した……それはわかっていますが、この「世間」(アメリカやヨーロッパですが)の熱の(空ぶかしのような部分も含めて)発生源の構成がまだわかり切らない。わかっているのは、そこにはとにかく物事を表沙汰にして徹底的に正しく解決しようという実にアメリカ的な意志が働いていることです。ヒステリックな部分もありますが、恐らくそれもどこかふさわしい共感点へたどり着くための一過程なのでしょう。

   *

日本でもそんなアメリカの性被害告発の動きが報道されています。ところが一方で、TBSのTV報道局ワシントン支局長だった男性のレイプ疑惑が、国会でも取り上げられながらも不可解なうやむやさでやり過ごされ、さっぱり腑に落ちないままです。

同支局での職を求めて彼と接触したジャーナリスト伊藤詩織さんが、就労ビザの件で都内で食事に誘われた際、何を飲まされたのか食事後に気を失い、激しい痛みで目を覚ますとホテルの一室で男性が上に乗っていたというこの件では、(1)男性に逮捕状が出ていましたが執行直前に警視庁から逮捕中止の指示が出たこと、(2)書類送検されたがそれも不起訴で、(3)さらに検察審査会でも不起訴は覆らず、その理由が全く不明なこと。そしてそれらが、その男性が安倍首相と公私ともに昵懇のジャーナリストであることによる捜査当局の上部の「忖度」だという疑い(中止を指示したのも菅官房長官の秘書官だった警視庁刑事部長)に結びついて、なんとも嫌な印象なのです。

性行為があったのは男性も認めているのに、なぜ犯罪性がないとされたのか? 何より逮捕状の執行が直前で中止された事実の理由も政府側は説明を回避しています。言わない理由は「容疑者ではない人物のプライバシーに関わることだから」。

しかし問うているのは「容疑者でない」ようにしたその政府(警察・検察)の行為の説明なのです。アメリカの現在のムーヴメントには「物事を表沙汰にして徹底的に正しく解決しよう」という気概があると書きましたが、日本ではレイプの疑惑そのもの以前の、その有無自体を明らかにする経緯への疑義までもが「表沙汰」にされない。ちなみに、当の刑事部長(現在は統括審議官に昇進)は「2年も前の話がなんで今頃?」と週刊誌に答えています。「(男性が)よくテレビに出てるからという(ことが)あるんじゃないの?」と。

   *

折しも12月12日はアラバマ州での上院補選でした。ここでも40年前の14歳の少女への性的行為など計8人の女性から告発を受けた共和党のロイ・ムーアの支持者たちが、「なぜ40年前の話が選挙1カ月前になって?」と、その詩織さん問題の元刑事部長と同じことを言っていたのです。性犯罪の倫理性には時効などないし、しかも性被害の告訴告発には、普通と違う時間が流れているのです。

しかしここはなにせアラバマでした。黒人公民権運動のきっかけとなった55年のローザ・パークス事件や、65年の「血の日曜日」事件も起きたとても保守的な土地柄。白人人口も少なくなっているとはいえ70%近く、6割の人が今も定期的に教会に通う、最も信仰に篤いバイブル・ベルトの州の1つ。ムーアも強硬なキリスト教保守派で州最高裁の判事でした。そして親分のトランプと同じように、彼自身も性犯罪疑惑などという事実はないの一点張りの強硬否定。性被害を訴えるウェイトレスたちのダイナーの常連だったのにもかかわらず、その女性たちにはあったこともないと強弁を続けました。
 
案の定、告発そのものをフェイクニュースだと叫ぶ支持者はいるし「ムーアの少女淫行も不道徳だが、民主党の中絶と同性婚容認も同じ不道徳」「しかもムーアは40年前の話だが、民主党の不道徳は現在進行形だ」という"論理"もまかり通って、こんな爆弾スキャンダルが報じられてもこの25年、民主党が勝ったことのない保守牙城では、やはりムーアが最後には逃げ切るかとも見られていました。おまけにあのトランプの懐刀スティーブ・バノンも乗り込んで、民主党候補ダグ・ジョーンズの猛追もせいぜい「善戦」止まりと悲観されていたのです。

それが勝った。

トランプ政権になってからバージニアやニュージャージーの州知事選などで負け続けの共和党でしたが、その2州はまだ都市部で、アラバマのような真っ赤っかの保守州での敗北とはマグニチュードが違います。

バイブル・ベルトとラスト・ベルト──支持率30%を割らないトランプ政権の最後の足場がこの2つでした。アラバマの敗北はその1つ、バイブル・ベルトの地盤が「告発」の地震に歪んだことを意味します。来年の中間選挙を考えると、共和党はこうした告発があった場合に、否定一本で行くというこれまでの戦略を変えねばならないでしょう。とにかくいまアメリカはセクハラや性犯罪に関しては「被害者ファースト」で社会変革が進行中なのです。

December 01, 2017

フリン危機

感謝祭(23日)の深夜にニュースが飛び込んできました。ロシア疑惑に関連して2月に辞任した元大統領補佐官マイケル・フリンの弁護士団が、トランプ側の弁護士団に「今後は情報共有を中止する」と通告してきたというのです。これは、逮捕・起訴が近いとされるフリンがこれから、モラー特別検察官チームと司法取引をして捜査協力に転じることを示唆しています。つまり情報共有を続ければ今後は捜査情報を漏らすことになるのでもうできない、という意味です。

フリンは就任前にロシアの経済制裁解除をめぐり駐米ロシア大使と事前接触したことに関連して辞任しました。このフリンと一緒になって動いていたのがトランプの娘婿ジャレッド・クシュナーや長男ドナルド・トランプJr、そしてペンス副大統領です。もしフリンが知っていることを洗いざらい話したら、政権中枢やトランプ家族を巻き込む強制捜査へと進むかもしれない、とSNS上では今トランプ大嫌い派が期待に浮かれています。

ロシアゲート捜査の大変な火の粉をかわすために、トランプ側にはいま大きく2つの方途があると思われます。

1つは彼が「本当のロシア疑惑」と呼ぶものに別の特別検察官を立て、そちらに目を転じさせることです。これはヒラリー・クリントンが国務長官だった時代に、ロシアへのウラン大量売却契約が結ばれ、その見返りとして巨額の金がロシア側からクリントン財団に寄付された、という疑惑です。ロシアゲートからは自分が関係している恐れがあるために捜査に関与しないことを宣言しているセッションズ司法長官が、これに関しては特別検察官の任命が適切か検討するとコメントしていますが、これは一時的な目くらましにしかならないでしょうし、これはこれ、ロシアゲートはロシアゲートですから、このことで痛み分けにはならないでしょう。だいたい、見え見えの戦略にアメリカの世論が騒がないわけがない。

もう1つは北朝鮮カードです。トランプはアジア歴訪直前で北朝鮮へのツイートの言葉を随分と軟化させていて、これは何かあったかと思ったのですが、それは習近平が親書を持たせた特使を北に送るつもりだとトランプ側に伝えていたからだったと後になってわかりました。けれどその特使は金正恩に面会を拒絶され、思惑は失敗に終わります。するとトランプ政権はすぐに北朝鮮へのテロ支援国家再指定を行いました。

北朝鮮問題はロシア疑惑と何の関係もありません。このテロ支援国家の再指定も実は次に何かあった時、あるいは何も進展のなかった場合の既定路線上のさらなる制裁策でした。けれどこれがロシアゲート捜査の目くらましになることは間違いありません。この国の大統領は支持率が極端に落ち込む時は戦争でそれを解決するのです。あのビル・クリントンさえ、1998年のモニカ・ルインスキー事件で弾劾裁判まで受け、支持率ジリ貧の時にアフガニスタンやスーダンへの爆撃を行ったのです。

そう、戦争の火蓋が切られたらロシア疑惑など吹き飛んでしまいます。戦争をしている大統領は辞めさせにくい、辞めさせられない。

まさかそんなことのために、とは思いますが、この大統領は「まさかそんなこと」を次々とやってのけてきている人です。ただし北朝鮮に対する軍事行動に踏み切るのはそれなりの理由づけが必要。そんな理由を手にするために、トランプが奇妙に意識的にさらなる挑発を続けるかどうか、それを見ていれば彼の次の行動が予測できます。もっとも、現時点では在韓や在日米軍に増派などの大きな動きは起きていませんし、韓国や日本にいるアメリカ人への退避勧告もありませんから、喫緊に大変なことになるというわけではありません。

そんな中で北朝鮮は米国東部時間28日の午後1時過ぎに新型とされるICBMを発射しました。実はちょうど1ヶ月前の10月28日に北は「我々の国家核戦力の建設は既に最終完成目標が全て達成された段階」と表明していました。つまり「もう実験も必要なくなった」という「理由」を作って9月15日からこの2カ月半ほどミサイルも撃っていなかったのです。それが、今週初め27日あたりに北朝鮮軍幹部が「(次回の)7回目の核実験が核武力完成のための最後の実験になる」と語ったということがニュースになっていて、なるほど、テロ支援国家再指定の報復の意味も込めてこの75日ぶりのミサイル(核)実験となったのでしょう。しかしこれも、ではもう表立ったミサイル発射や核爆発実験もとうとう必要なくなって打ち止めなのかということになります。

日本ではこれをいつもどおり北の「挑発行動」と呼んで大騒ぎしているのですが、これを「挑発」と呼ぶには無理があります。いくら金正恩の気質に問題があるとしても、北朝鮮が体制崩壊、国家滅亡につながる米国先制攻撃に踏み切ることは考えられません。つまり繰り返されるミサイル発射実験と核実験は、「我々にはこれだけの武器があるのだから軽々に攻撃するな」という「示威行動」「デモンストレーション」なのです。「挑発」してアメリカが(というかトランプが)それに乗ってしまったら元も子もない。挑発なんかしていないのです。

同時に、北にとってこの「核」は交渉でどうにかできる取引材料でもありません。それを取引なんかして失ったらたちどころに攻め込まれて命がなくなってしまう死活的な最後の「宝刀」なのです。核放棄なんてあり得ない。あるとしたら米朝の平和条約締結しかない。そしてアメリカ側は、核を保有したままの平和条約など、世界の核不拡散体制を崩壊させるものとしてこれもやはり到底受け入れられるものではないのです。

かくして現在、この問題は米朝中、そして日韓も含めて三すくみ、五すくみの状況です。二進も三進も行かない。

そこで今度は、トランプの気質問題が出てきます。国内政治情勢もままならず、国際政治でも英国の極右団体代表代行の反ムスリムツイートをリツイートしたり、何をやってるのか支離滅裂なこの大統領は、こんな北朝鮮の閉塞状況にしびれを切らすのではないか? そしてそこにもしロシアゲートが弾けて、どうしようかと辺りを見回した時にこの「北朝鮮カード」があった場合、この人は北の恐らくはまだ続いているであろう「示威行動」を「米本土に対する明確な脅威」とこじつけてあの9.11以降のアメリカのブッシュ・ドクトリンと呼ばれる「正当防衛的」な(しかしその本当の目的は別のところにある)「予防的先制攻撃」に打って出るのではないか? 

前段で書いた「フリン危機」がロシアゲートから北朝鮮問題に飛び火することは、そうなるとあり得ないことではない。アメリカは、戦争をするとなったら同盟国にだって知らせずに開戦します。北への攻撃は、実際に実行される場合、日本政府へはたった15分前に通告するだけなのです。

そんなトランプ政権を「100%支持する」と繰り返す安倍首相は、本当に開戦となったらわずか数日で数百万人の犠牲者が出るかもしれないという事態に、いったいどういう責任を取れるのでしょうか。

いま開戦を阻止できるのは、11月18日に「大統領が核攻撃を命令しても「違法」な命令ならば拒否する」と発言した米軍核戦略トップのジョン・ハイテン戦略軍司令官(空軍大将)ら、正気の現場の軍人たちだけかもしれません。こんな時、文民統制ではなく軍人統制に頼りたいと願ってしまう倒錯的な異常事態がいまアメリカで続いているのです。

November 08, 2017

おもてなし外交のウラ事情

ビル・マーというコメディアンが面白おかしく且つ辛辣に政治批評を展開する「Real Time with Bill Maher」というHBOの人気番組があります。先週末のその冒頭は、拍手喝采の中で登場したその彼が「いや、みんななんでそんなにご機嫌なのかわかってるって。ついさっきトランプがアメリカから出てったからね」と口火を切りました。ハワイとアジア歴訪に旅たった大統領を揶揄したものです。「ずいぶん気が楽になった。子供たちをサマーキャンプに送り出した親の気分だ」と。

軽口はまだ続きます。
▼12日間のアジア旅行。トランプに、あんたがいなくなったら一体この国の面倒は誰が見るんだと誰かが聞いたらしいんだが、トランプが言うには「誰だっけ? 俺がいる時には?」
▼訪れるのは中国、日本、フィリピン、ヴェトナム、韓国......トランプの「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」の帽子を作ってる国だ。
▼中でも中国は重要だよ。トランプはあそこに壁を視察に行くわけだから。あの壁(万里の長城=the Great Wall)のおかげで、あそこでメキシコ人の姿はもうずっと見ていない。あの壁はすごい。
▼それからヴェトナムだね。彼が昔、徴兵逃れで行かなかった国。それで今度はやっと大統領として行けたわけだ。誰だっけ、ドジャーズが負けたって言ったのは? (ドジャーズは「身をかわす人たち」の意味。つまり「徴兵回避の人たち」。ナショナルリーグの優勝決定戦で負けてワールドシリーズに行けなかったドジャーズに掛けて、実世界のドジャー=徴兵逃れのトランプはちゃっかり負けていないという皮肉)
▼ハロウィーン、子供たちに何を配ったかは知らんが、ロバート・モラーの家では起訴状が配られたね。
▼ニューヨークのテロ。トランプが即座にツイートしてた。「バカで弱腰の大統領のせいでこうなるんだ。あ、ちょっと待て、今の大統領は俺だった」
▼ツイッターの従業員が退職最後の日にトランプのツイッターアカウントを11分間、消した。まあ色々あるが、私はその彼に言いたい。「Thank you for your service! (お務め、ありがとう!)」

その話にもあったロシアゲートですが、今週はマナフォートの次にあのマイケル・フリンが息子ともども逮捕・起訴されるという観測が出ました。ワシントン・ポストはトランプ周辺の計9人が選挙中及び就任移行期間中にロシアと接触したと報じ、大統領は大変な不機嫌の中で旅立ったとされています。そのせいか、エアフォース・ワンの中での同行記者の質問「今や中国の中で権力基盤を固めた習近平は世界で最も力のあるリーダーではないかと言われるが?」に、トランプはムッとしたのか「So am I(オレも同じだ)」と答えたそうです。常に誰かと比較して自分を位置付ける、そういう性格なのでしょう。

そんな中での日本の「おもてなし」でした。イヴァンカへの歯の浮くようなチヤホヤした日本のTVカヴァレッジはアメリカでも報道されましたから父親も知っていたでしょう。とにかく日本はこの親子に対してとても気分がいいようです。世界で日本だけです。ゴルフ接待もそうでしたが、安倍=トランプの個人的な蜜月ぶりをことさら強調してウキウキしている国は。昨年11月の当選後真っ先にトランプ・タワーを訪れた安倍首相一行にしても、実はトランプ陣営もそんなに早く来るとは思っていず「慌てて断ろうとしたがすでに機上の人でキャンセルできなかった」というエピソードをトランプ自身がジョークとして披露するくらい"ブッチャケた"仲なのです。

それはいずれおそらくは米国務省の対日外交にも影響し、「大統領とアベがああも仲がいいのだから」と、日本にそうはきつい政策は取らないでおこうとの「忖度」が働くかもしれません。しかしそれは今回はまだ十分ではなかったようです。

2日間にわたる会談を終えて共同記者会見に臨んだトランプは日本の経済を称賛し、そこでアドリブに転じて「I don’t know if it’s as good as ours. I think not, okay?(だが我々の経済ほどいいかはわからない。私は違うと思うよ、オーケイ?)」とすかさず自国民へのメッセージに変えました。

ワシントン・ポストはこの「オーケイ?」をまるで子供にウンと言わせる時の親の口調、と評しています。「And we’re going to try to keep it that way. But you’ll be second.(我々はずっとそのまま(1位)でいるつもりだが、でもキミたちが2番手なのは確かだ)」とトランプは続けました。安倍首相は隣でニヤニヤと曖昧に笑っていました。

もう1つ、この仲の良さの歪つさが垣間見られた時がありました。トランプが「アベ首相が米国からより多くの兵器を購入すれば、北朝鮮のミサイルを上空で撃ち落とせるだろう」と言った時です。「重要なのは米国から大量の兵器を買うことだ。そうすれば米国で多くの雇用が生まれ日本には安全をもたらすだろう」と。

今夏の北のミサイルの日本"上空"通過の際に「日本はなぜ撃ち落とさなかったのか」とトランプが言っていた、と報じられたのはこの伏線だったのでしょう。もちろん高度3500kmは「上空」でも「領空」でもない宇宙空間で、撃ち落とす権利や能力はどの国にだってありません。けれど安倍は「日本の防衛力を拡充していかなければならない。米国からさらに購入していく」と鸚鵡返しに応じました。それはまさに「100%共にある」と言った日本の首相の言葉通りの姿勢であり、それが米国民向けのプロパガンダであることも容認するお追従ぶりです。

もちろんそれには裏事情があります。日本の保守や右翼が純粋な国家主義と親米という相矛盾するねじれた2本柱で成立しているのは、戦後日本で民主的で平和的でリベラルの象徴のような憲法を作りながら一方で冷戦の暗雲が立ち込めた時にそのアメリカ自身が戦前戦中の守旧派政治家や軍人や右翼フィクサーを「復活」させた「大恩人」だったからです。戦後の民主平和国家は、一方で防共の砦として右翼と保守とが政治の表と裏の両方の舞台に配置された国へと変貌させられていたのです。岸信介や児玉誉士夫のことを思えばそれは容易に得心できるでしょう。

そんなねじれが安倍首相に見事に受け継がれています。どんなことがあってもアメリカの機嫌を損ねたら自分の権力が危ないことを、彼はまさに岸信介から教わったのです。たとえそれが彼の被害妄想であったとしても、その彼が今の日本の最高権力者。最高権力者の妄想は最高に強いのです。

こんなにおカネを使って「おもてなし」をしたのはそういう事情です。売り込みに当たっては日本の都合など斟酌せずにどんどん「アメリカ・ファースト」で押し通すのがトランプの勝手な「国益」だと重々知っていても、それを隣でニヤニヤ笑って受け止めるしかない。それでもせめてもどうにか”ご斟酌”していただきたいと、「お土産外交」「おもてなし外交」を懸命に展開しているわけです。外交というゴリゴリにパブリックな交渉を、プライベートな場に引き込んでどうにかできると考えるのはあまりに日本的でナイーブな話なのですが、安倍サイドにはそれしかすがるものがないのでしょう。実際、共同記者会見の二人を見ていて、私はついひと月余り前の米自治領プエルト・リコの知事とトランプの共同会見を思い出していました。

9月20日のハリケーン・マリアの上陸で甚大な被害を受け全島停電にまで陥り、すがるものと言ったら米国大統領だけという悲惨な状況の中、知事はそれでも2週間経ってやっとやってきたトランプを歓迎し窮状を訴えました。けれどかの島は今も復旧ままならず、今も停電下の生活を強いられている住民は多く、劣悪な生活環境は続いています。トランプは、自らに関係のないことにはかくも無頓着かつ他人事の対応しかしない。あるいは、自分に都合が悪くなると「友情」であってもなんであって、さっさと排除してしまうことは、これまでにクビを切られた(そしてこれからクビを切られる)異様な数の閣僚たちのことを思い出せば明らかでしょう。

NYタイムズはタクシーの後部座席から運転手の安倍首相に拡声器でバンバン命令するトランプ大統領の風刺画を載せましたが、欧米メディアにはなべて日本が米国の従順で都合の良い下僕のように映っている。それは今回の訪日でほぼ確定した日本像、安倍政権像となりました。イメージ戦略として失敗ですが、それもしょうがない。レッテル貼りだ、印象操作だ、などと抗弁しようにも関係ありません。そしてその間もホワイトハウスからはロシア疑惑や歴史的低支持率を吹き飛ばしてしまおうという「北への武力行使準備」のキナ臭い情報が聞こえ続けているのです。デビュー間もない村上龍が著した『海の向こうで戦争が始まる』という小説の題名が、私の頭のどこかで微かに明滅しています。

October 09, 2017

ティラーソン解任?

先週、ティラーソン国務長官に関するニュースがいくつもメディアに登場しました。7月に囁かれたティラーソン辞任説に関してNBCが再調査し、彼がトランプを「モロン(低脳)」と呼んだと報じたのが端緒でした。7月のボーイスカウトの全国大会のスピーチでトランプが場違いにも「フェイク・メディア」やオバマケアをこきおろしたりワシントンの政界を「汚水場」呼ばわりしたりする政治発言を続けたので、ボーイスカウトの全米総長でもあったティラーソンが激怒して「モロン」発言につながったというわけです。ティラーソンって人は少年時代からボーイスカウトに参加してイーグルスカウトにもなったことを誇りに思っている人です。そんな場に政治を持ち込むこと、しかも自分の自慢ばかりするような政治演説をしたことが赦せなかったのでしょう。

息子の結婚式でテキサスに行っていたティラーソンはもうワシントンに戻らないと伝えます。この時はマティス国防長官や現首席補佐官のジョン・ケリーが「ここであなたが辞任するような政権混乱はどうしたってまずい」と慰留に成功しはしたのですが、さて今になってまたティラーソンが辞めるのでは、あるいは解任されるのではという観測が持ち上がっているのです。

特に4日、乱射事件のラスベガスに訪問してワシントンに戻ったトランプが自分のニュースを期待してテレビを見たら、そこではティラーソンの「モロン」発言で持ちきり。トランプは激怒し、それをなだめるためにケリーは予定の出張をキャンセルして対処したとか。しかしティラーソンはその後の"釈明"の記者会見でも大統領を「スマートな(頭の良い)人」と言っただけで「モロン発言」自体は否定はしませんでした。ホワイトハウス内の情報源によれば、2人の間はもう修復不可能だというのです。

報道はそれにとどまりません。ニューヨーカー誌はティラーソンの長文の人物伝を掲載。これまでの輝かしい経歴からすれば彼が「今やキレる寸前」でもおかしくないと思わせる感じの評伝でした。さらにはティラーソンとマティス、そして財務長官のムニュチンが3人で「suicide pact(スーサイド・パクト)」を結んでいるという報道もありました。3人の中で誰か1人でも解任されたらみんな揃って辞任するという「心中の約束」のことです。6日にはAXIOSというニュース・サイトで、トランプがティラーソンの後任に福音派の共和党右派政治家であるポンペオCIA長官を当てようとしているという報道がありました。

ちなみにポンペオは全米ライフル協会の終身(生涯)会員で銃規制に反対、オバマ・ケアにも強く反対ですし、オバマ政権がCIAの”水責め”などの拷問(強化尋問)を禁止したことに対しても、拷問をおこなったのは「拷問者ではなく、愛国者だ」と発言するほどの反イスラムの「トランプ的」人物です。

こんなにまとまってティラーソン国務長官のことがいろんな角度で報じられるというのは、メディアがいま彼の辞任・解任に備えて伏線作り、アリバイ作りをしているという兆候にも見えます。

そうなると問題の1つは北朝鮮です。表向き「核を放棄しない限り対話はない」と強硬姿勢一枚岩だったトランプ政権ですが、その実、ティラーソンの国務省が北朝鮮側と様々なチャンネルで対話の機会を探っていることが最近明らかになっていました。それに対してトランプが7日、「25年間の対話や取引は無に帰した。アメリカの交渉は馬鹿にされている」「残念だが、これをどうにかする道は1つしかない」とツイート。軍事行動を暗示して「今は嵐の前の静けさ」とも言ったのです。

私はこれまで、トランプ政権が「グッド・コップ、バッド・コップ(仏の刑事、鬼の刑事)」を演じ分けて北朝鮮をどうにか交渉の席につかせようとしているのではないかと、希望的に願ってきました。けれどこうしてティラーソンとトランプの不仲が表面化してみると、本当にカッカして北を潰そうと言うトランプを国務長官、国防長官、首席補佐官がマジになだめ抑えている、という構図が本当だったかもしれないと思い始めています。上院外交委員長でもある共和党コーカー議員がトランプを激しく批判しているのも、そんなティラーソンの国務省の姿勢と符合しています。

彼はNYタイムズの電話インタビューに「ホワイトハウスが今毎日毎日トランプを抑え込むのに苦労していることを知っている」などと語ったのですが、そもそも攻撃したのはトランプの方が先でした。コーカーはティラーソンに関して「国務長官はとてつもなく腹立たしい立場に立たされている」「国務長官は得るべき支援を得られていない」と擁護したのです。上院外交委員長として国務長官(外務大臣)を思いやるのは当然の話ですが、例によってトランプはコーカーへのツイート攻撃を開始したのです。まるで坊主憎けりゃ袈裟まで、みたいな攻撃性です。

ティラーソンが解任されたら北への軍事攻撃の恐れが一気に現実味を帯びます。北は自滅につながる先制攻撃を絶対に仕掛けません。けれどトランプは単に自分のやり方じゃないといって予防的な先制攻撃を仕掛けるかもしれない。そのとき日本はどうするのか? いや、その前に日本は何もしないのか?

22日の総選挙はそんな「兆し」だけでも大きく安倍自民党に有利に動くかもしれません。まさかそれを見越して安倍は「対話は何も役に立たない」とトランプをけしかけていたわけじゃないでしょうが。

September 05, 2017

横綱の折伏

北海道南端を超えてのミサイル発射、1年ぶりの地下核実験、立て続けに示威行為を繰り返す北朝鮮は9日の建国記念日にも今度は射程のうんと長いICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射実験に踏み切ると言われています。その度に米韓日では新たな脅威が増大したと大騒ぎになるのですが、何度も言うようにこれは「新たな」脅威ではなく、ずっと以前から織り込み済みの北側の既定の挑発路線です。

織り込んでいなかったのはその早さです。本当はもっと時間がかかるはずだと思っていたICBMへの小型核弾頭の搭載が、ともすると直近に迫ってきているかもしれない。そしてそれはアメリカ政府の「レッドライン(踏み越えてはならない一線)」と言われてきたものなのです。

なのでトランプ政権の対北朝鮮の空気がやや変わってきました。朝鮮半島では禁じ手である武力行使に踏み切るかもしれないという嫌な感じが漂っています。何せ「核保有」は体制の必要条件であり、制裁があろうがなかろうが絶対に手放さないと決めている金正恩と、それに屈する形での「核保有」は核保有の連鎖を生むために絶対に認められないアメリカとの間で、解決策はどこにも見当たらないという感じになっているからです。この手詰まり感、「後手後手」感……。

北朝鮮に対しては米国は「圧力」「対話」「軍事行動」という3つの選択肢があると言われています。軍事行動は23年前の第1次北朝鮮核危機に際してクリントン政権が「韓国側の死者が100万人、米軍が10万人」という国防長官の報告を受けて断念、その後もブッシュ政権が02年に先制打撃を検討しましたが実行に至りませんでした。二の足を踏んだ理由である米国同盟側の損害の甚大さ予測は、北の軍事力の増強と比例して現在はさらに拡大し、三の足も四の足も踏むような状況です。

そこで米国は国連の場で北への経済制裁を呼びかけ、中露を巻き込んで「圧力」を強めるやり方に出ているのですが、それが功を奏するには時間がかかる。その間に北は核ミサイル開発を進める算段ですし、実際にこれまでもそうしてきました。

では「対話」はどうか?

米国にとってはこれは実は「対話」ではありません。これは「折伏(しゃくぶく)」なのです。金正恩に、その路線を進めるとどう転んでも自滅になると、詰め将棋のように理路を示し、折伏させる以外の場ではありません。

ところがいまトランプ政権は、国務省の東アジア担当の国務次官補は「代理」職で、しかもロシアが専門のスーザン・ソーントンです。国家安全保障会議にはマシュー・ポッティンジャーというアジア担当上級部長がいますが、彼も中国が専門。ニューヨーク・チャンネルで北朝鮮から例の脳障害の拘束大学生オットー・ワームビア(帰国直後に死亡)を連れ戻した国務省のジョセフ・ユン北朝鮮担当特別代表はあくまで実務担当で政治判断はできない。そればかりか国務省自体が予算と人員の大幅削減を強いられ、アジア担当の数百人のポストが空席のままなのです。つまり「対話」にしろ「折伏」にしろ、その場に出ていける人間がいないわけです。トランプ政権はそもそもやる気がないのか総身に知恵が回っていないのか。

「圧力」の効果は時間がかかり、「対話=折伏」には人材がいないしそもそも態勢も整えていない。ならば残されているのは再び元に戻って、先制打撃という「軍事力行使」でしかないのでしょうか?

アメリカは本来は土俵の中央でどっかと構え、北朝鮮に対して四つに組んでやるべきなのです。相手が猫だましをしてこようが蹴たぐりをかまそうが慌てる必要はない。そうして四つに組んでやって、相手が右に動けばそちらにちょっと動いて見せても結局は倒れず、左に引いても崩れず、さらにちょいと力を加えて相手の膝を折るぐらいのことはしてみせても決して倒したり土俵の外に投げたりはしない。何故なら土俵際の砂かぶりには韓国や日本や中国がいて、下手に投げ飛ばそうものなら彼ら全部が大怪我をするからです。なので土俵真ん中で「絶対に負けることはない」という横綱相撲を取り続けるのです。相手の面子を立てて「勝つ」ことはせずとも、そのうちに相手は疲れ、持っている技は使えず、横綱の「勝ち」は誰の目にも明らかになります。そしてそこで疲れ果てている相手の耳元に諄々と「自滅はやめろ」と説くのです。

それが北の核保有を認めるでも使わせるでもなく、しかも現状維持や凍結でもない「折伏」の道です。

それしか道がない。けれどこの横綱相撲の比喩を、それに似たソリューションを、トランプ政権は思いつくでしょうか? それより先に、国務省の予算削減と裏腹に国防総省予算の増大がここに来て嫌な感じの伏線になりそうな気までしています。そしてもう1つ、そこに追い討ちをかけるような北朝鮮によるEMP(電磁パルス)攻撃の脅しです。

電磁パルス攻撃によるアメリカの軍事インフラ、経済インフラ、生活インフラの破壊が、巷間言われるほどにとんでもないものなら、アメリカがこれを機に予防的先制攻撃に出るのは火を見るよりも明らかになります。それはロバの背を折る最後の1本の藁だからです。EMP攻撃被害の精確なアセスメントが急がれることになるでしょう。

August 30, 2017

米朝の詰め将棋

早朝6時前に発射されて北海道"上空"を超えて2700km飛んだという北朝鮮のミサイルのことで、28日の日本は朝から大騒ぎでした。TVでは「そうじゃない」と沈静化を図る専門家もいたですが、司会者が妙に気色ばんで番組を進行させるので、急ごしらえの台本がやはり危機を煽る安易な方向付けだったのでしょう。まあ、それ以外にどう番組を作れというんだ、という話でもありますが。なにせ首相声明だって「我が国に北朝鮮が弾道ミサイルを発射し、我が国の上空を通過した模様」ですから。

北朝鮮は「我が国」に向けて発射したんじゃありません。それに550kmの「上空」ってのはすでに宇宙であって、スペースシャトルの浮かんでいる400kmよりもはるか上です。万が一間違って何かの部品が落ちてきたって真っ赤に燃え尽きます。しかも日本をまたいで北のミサイルが飛んだのは98年にもあって新たな脅威ですらない。政府はなぜ慌てたフリをするのでしょう。「全国瞬時」という緊急警報「Jアラート」を鳴らしても具体的には「頑丈な建物に逃げて頭抱えてかがみなさい」ですから、まるで大戦末期の竹ヤリ訓練みたいな話です。

ともあれ、今回のミサイルからは、実は脅威というよりも次のような興味深い事実をこそ読み取るべきなのです。
すなわち;

(1)北の相手はこれからもこれまでも常に第一義的にはあくまでも「アメリカ」であって韓国や日本ではない

(2)にもかかわらず今回のミサイルは攻撃すると脅していた「グアム」ではなくアサッテの方角の北海道の南部通過の方向に飛んだ

(3)飛距離の2700kmというのもグアムまでの3300kmより微妙に短い

──つまりこれらは、アメリカを脅そうにも脅しきれない金正恩の心理を表しているのです。

金正恩はいま、混乱を極めるトランプ政権のその混乱をこそ実は恐れているのだと思います。それは格好良く言えばトランプの「予測不能性」の賜物なのですが、ロシアゲートで追い詰められ支持率最低でどん詰まりの彼に起死回生の一手があるとすればそれは北への軍事行動です。さらに、おおっぴらな戦争とともに「斬首作戦」までが吹聴されている。それは恐い。
 
金正恩はそれを回避させるためにのみミサイルと核の開発に邁進してきました。ところがそれが父・金正日の時代にはなかった反応を誘引してしまった。こちらが強く出れば向こうは退く、という期待は誤りです。強い作用は強い反作用を生む。これは物理の法則です。金正恩は強い兵器を所有して、それに見合う強い反発を受けてしまったのです。そんな自明にいまさらたじろいだところで遅いのですが。

そこに先日の国連の新たな制裁決議が追い打ちをかけました。中国やロシアも反対しなかったことで、さらには中国が、北による対米先制攻撃で米国の反撃を受けた場合には中朝同盟の義務を行使(すなわち加勢)しないとも示唆したことで、北は確実に追い詰められました。そんな時に自分から実際に攻撃することは蛮勇以外の何物でもありません。

ではどうなるのか? だからと言って北は核を手放すことは絶対にしません。そして米中も、北の核保有を認めることはメンツの点からいっても地政学的にいっても絶対にない。

ではどうするか? このチキンレースをあくまで論理の上で、詰め将棋のように推し進めることです。米韓はミサイル防衛網をより進化させ、北のミサイルの脅威を限定的なものに封じ込めます。すると米韓の反撃がより現実味を帯びることになる。もとより北朝鮮には第二段攻撃の能力などないのですから、北の戦略はそこで出口を失う自殺行為になります。

要は金正恩に、彼自身が生き延びる道はこのチキンレースを止めること以外にないといかに折伏するかなのです。さもなくば米中暗黙の合意の上での「斬首作戦」の道を探るしかなくなる──もちろんそれはすでに、並行して秘密裏に進んでいるのでしょうが。

August 09, 2017

遅ればせながら『この世界の片隅に』

映画『この世界の片隅に』が11日からニューヨークでもアンジェリカ・フィルムセンターなどで上映されます。ニューヨークだけではなく、サンフランシスコやロサンゼルスなどでも公開されるようですが、全米で何館での公開かはまだ定まっていないのか数字が出てきません。でも、イギリスの会社が欧米での配給権を買い取って、パリやロンドンでも映画祭などで好評を博しているようです。ニューヨークでも7月にジャパンソサエティで「Japan Cuts」という日本映画祭で最終日に上映され、260席が満席の人気だったと聞きました。アメリカで映画好きが参考にする映画評サイト「ロットゥン・トマト Rotten Tomato」では、評論家の評価総点が100%ポジティヴというものでした。何かしらネガティヴ評価があったりする中で、これはとても珍しいことです。

このアニメ映画は北海道に帰った今年初め、実は85歳になる母親を連れて雪の中を観に行ってきました。自称「老人性鬱病」の母親はこのところ外出もせず籠りがちで、戦争とはいえ主人公の「すずさん」と同じく自身の少女時代を描いた映画でも見せれば懐かしく元気になるのではないかと思ったのです。「すずさん」にはモデルがいて、その方は今もご存命で御年95歳と言いますから、母よりも10歳も年上ですが、母も13歳で終戦を迎えています。

ところで見終わった母の開口一番は「なんでこんなもの見なくちゃならないの」だったのでした。別につらい昔を思い出して不愉快だったという口調ではなく、ただアッケラカンと「ぜんぜん面白くなかった」と言うのです。「だって、みんな知ってる話なんだもの」と。

実を言うと私の感想も似たようなものでした。ものすごく評判の良いこの作品の、描かれるエピソードの一つ一つがすべて「知っていた話」でした。

戦死した遺体を回収できず、骨の代わりに石ころの入った骨箱だけが戦地から帰還してきたという話は、19歳の時に学生寮の賄いのおじさんに酒飲み話で聞かされて号泣しました。南方戦線でのジャングルの苛酷さやヒルの大きさは高校時代の友人のお父上から怪談のように聞かされ、防空壕での暗闇の生き埋めの恐怖や、特高や憲兵たちの人間とは思えぬ非情さは私の子供時代、トラウマになるほどに何度も何度も少年向け漫画やテレビで描かれていました。闇市や買い出し、食べ物の苦労は宴席で集まる親戚から笑い話のように聞かされましたし、米がなくて南瓜や豆や芋ばかり食べていたせいで、その3つは二度と口にしないと宣言していた年長の友人は4人はいます。大学で出てきた東京の池袋の駅には、あれは東口でしたか、いつも決まって片足のない傷痍軍人が白い包帯と軍服姿で通行人から援助を乞う姿がありました。いやそれ以前に、北海道の本家の玄関にもそんな人たちが何度も訪れてはお金を無心していたものでした。

戦争が狂気だという厳然たる事実は、そうして身にしみて思い知っていました。そんな狂気は何としてでも避けねばという平和主義はだから、理想論でも何でもなく戦後世代の私たちには確固たるリアリズムでした。

だから『この世界の片隅に』は、少なくとも母と私にはタネも仕掛けも知っている手品を見る思いでした。それをなぜ「世間」はかくも絶賛するのだろうかとさえ訝ったほどです。私が知らなかったのはただ、あの時の「呉」という軍港都市で、日本軍の撃った高射砲の砲弾がバラバラに砕けて再び地上の自分たちにピュンピュンと凶器となって降り落ちてきたという事実くらいでした。

そんなとき、3月21日のNYタイムズに「Anne Frank Who? Museums Combat Ignorance About the Holocaust(アンネ・フランクって誰? 博物館、ホロコーストの無知と戦う)」という長文記事が掲載されました。「若い世代の訪問者、外国からの客たちはホロコーストに関するわずかな知識しか持ち合わせていない。時にはアンネ・フランをまるで知らない者もいる」と。だから今、アムステルダムの「アンネ・フランクの家」などは今再び、あのホロコーストの地獄をどうにか手を替え品を替えて、若い世代に、戦争を知らぬ世代に伝え継ぐ努力を常に新たにしているのだ、と。

そのときに気づきました。ああ、あの映画は、あの時代の日常の物語というその一次情報の内容で絶賛されていると同時に、原作者のこうの史代さん(48)や映画版監督の片渕須直さん(57)ら製作陣の、その、すでに忘れられようとしている(私たちの世代にとっては当たり前の知識だった)その一次情報を、今再び伝え継ごうとする努力こそがまた絶賛の対象だったのだ、と。

戦争を生きた世代がどんどん亡くなって、彼らの話を聞いた私たち戦後第一世代は、直接自分が体験したわけではないそんな話を我が物顔で次の世代に語るのを、どこかでおこがましく感じていたのではないか? そんな我らのスキを衝いて、平和憲法を「みっともない憲法ですよ」と言ってのける人が総理大臣になっている時代なのです。

「アンネの日記」はかつて、誰もが知っている歴史的な共通認識でした。でもいまアンネ・フランクを知らない人がいる。広島や長崎も同じです。だから『この世界の片隅に』は、語り継ぐその内容だけではなく、語り継ぐその行為自体をも賞賛すべき映画なのです。語り継ぐことを手控えていた私(たちの世代)としては、代わりに語り継いでくれて本当にありがとうございますという映画、もう、ただ頭を下げて感謝するしかない映画なのです。

遅ればせながら『この世界の片隅に』

映画『この世界の片隅に』が11日からニューヨークでもアンジェリカ・フィルムセンターなどで上映されます。ニューヨークだけではなく、サンフランシスコやロサンゼルスなどでも公開されるようですが、全米で何館での公開かはまだ定まっていないのか数字が出てきません。でも、イギリスの会社が欧米での配給権を買い取って、パリやロンドンでも映画祭などで好評を博しているようです。ニューヨークでも7月にジャパンソサエティで「Japan Cuts」という日本映画祭で最終日に上映され、260席が満席の人気だったと聞きました。アメリカで映画好きが参考にする映画評サイト「ロットゥン・トマト Rotten Tomato」では、評論家の評価総点が100%ポジティヴというものでした。何かしらネガティヴ評価があったりする中で、これはとても珍しいことです。

このアニメ映画は北海道に帰った今年初め、実は85歳になる母親を連れて雪の中を観に行ってきました。自称「老人性鬱病」の母親はこのところ外出もせず籠りがちで、戦争とはいえ主人公の「すずさん」と同じく自身の少女時代を描いた映画でも見せれば懐かしく元気になるのではないかと思ったのです。「すずさん」にはモデルがいて、その方は今もご存命で御年95歳と言いますから、母よりも10歳も年上ですが、母も13歳で終戦を迎えています。

ところで見終わった母の開口一番は「なんでこんなもの見なくちゃならないの」だったのでした。別につらい昔を思い出して不愉快だったという口調ではなく、ただアッケラカンと「ぜんぜん面白くなかった」と言うのです。「だって、みんな知ってる話なんだもの」と。

実を言うと私の感想も似たようなものでした。ものすごく評判の良いこの作品の、描かれるエピソードの一つ一つがすべて「知っていた話」でした。

戦死した遺体を回収できず、骨の代わりに石ころの入った骨箱だけが戦地から帰還してきたという話は、19歳の時に学生寮の賄いのおじさんに酒飲み話で聞かされて号泣しました。南方戦線でのジャングルの苛酷さやヒルの大きさは高校時代の友人のお父上から怪談のように聞かされ、防空壕での暗闇の生き埋めの恐怖や、特高や憲兵たちの人間とは思えぬ非情さは私の子供時代、トラウマになるほどに何度も何度も少年向け漫画やテレビで描かれていました。闇市や買い出し、食べ物の苦労は宴席で集まる親戚から笑い話のように聞かされましたし、米がなくて南瓜や豆や芋ばかり食べていたせいで、その3つは二度と口にしないと宣言していた年長の友人は4人はいます。大学で出てきた東京の池袋の駅には、あれは東口でしたか、いつも決まって片足のない傷痍軍人が白い包帯と軍服姿で通行人から援助を乞う姿がありました。いやそれ以前に、北海道の本家の玄関にもそんな人たちが何度も訪れてはお金を無心していたものでした。

戦争が狂気だという厳然たる事実は、そうして身にしみて思い知っていました。そんな狂気は何としてでも避けねばという平和主義はだから、理想論でも何でもなく戦後世代の私たちには確固たるリアリズムでした。

だから『この世界の片隅に』は、少なくとも母と私にはタネも仕掛けも知っている手品を見る思いでした。それをなぜ「世間」はかくも絶賛するのだろうかとさえ訝ったほどです。私が知らなかったのはただ、あの時の「呉」という軍港都市で、日本軍の撃った高射砲の砲弾がバラバラに砕けて再び地上の自分たちにピュンピュンと凶器となって降り落ちてきたという事実くらいでした。

そんなとき、3月21日のNYタイムズに「Anne Frank Who? Museums Combat Ignorance About the Holocaust(アンネ・フランクって誰? 博物館、ホロコーストの無知と戦う)」という長文記事が掲載されました。「若い世代の訪問者、外国からの客たちはホロコーストに関するわずかな知識しか持ち合わせていない。時にはアンネ・フランをまるで知らない者もいる」と。だから今、アムステルダムの「アンネ・フランクの家」などは今再び、あのホロコーストの地獄をどうにか手を替え品を替えて、若い世代に、戦争を知らぬ世代に伝え継ぐ努力を常に新たにしているのだ、と。

そのときに気づきました。ああ、あの映画は、あの時代の日常の物語というその一次情報の内容で絶賛されていると同時に、原作者のこうの史代さん(48)や映画版監督の片渕須直さん(57)ら製作陣の、その、すでに忘れられようとしている(私たちの世代にとっては当たり前の知識だった)その一次情報を、今再び伝え継ごうとする努力こそがまた絶賛の対象だったのだ、と。

戦争を生きた世代がどんどん亡くなって、彼らの話を聞いた私たち戦後第一世代は、直接自分が体験したわけではないそんな話を我が物顔で次の世代に語るのを、どこかでおこがましく感じていたのではないか? そんな我らのスキを衝いて、平和憲法を「みっともない憲法ですよ」と言ってのける人が総理大臣になっている時代なのです。

「アンネの日記」はかつて、誰もが知っている歴史的な共通認識でした。でもいまアンネ・フランクを知らない人がいる。広島や長崎も同じです。

けれどこれは逆を言えば、アメリカではかつての世代では原爆は太平洋戦争を終結させるための必要悪だった、いや必要悪ですらなく、あれは善だった、という人々が圧倒的だったのでした。でも最近の世論調査では35歳以下では広島・長崎への原爆投下は実は不要だった、悪だった、と答える人たちが多数を占めるようになってきています。おそらくそんな世代へ、『この世界の片隅に』は新たに穏やかながら強い平和への訴えを届けるツールになるに違いありません。今回の北米都市部での上映にとどまらず、今後のネット配信やDVD化なども経て特になおさら、これから末長くゆっくりとけれど確実に、欧米のジャパニメーション世代に浸透してゆくと思います。

ですから『この世界の片隅に』は、語り継ぐその内容と同時に、語り継ぐその行為自体もまた賞賛すべき二段構えの映画なのです。語り継ぐことに気後れし、なんとはなしにそれを手控えていた私(たちの世代)としてはつまり、代わりに語り継いでくれて本当にありがとうございますという映画、もう、ただ頭を下げて感謝するしかない映画なのです。

June 08, 2017

「内心の自由」

コミーFBI長官を辞めさせたことで却ってロシア疑惑が深まり窮地に陥っているトランプ大統領。前川文科省事務次官の引責辞任から全く別筋と思われた加計学園の「総理のご意向」問題が火を噴いている安倍首相。

日本ではトランプ政権の破茶滅茶を笑う人が多いのですが、なんのなんの、この2人は"covfefe”や"unpresident"といった英語のミスと「云々(でんでん?)」といった漢字の誤読まで含めて実はとてもよく似ています。だって、身内びいき、マスメディア攻撃、御用メディアの多用、大統領令と閣議決定の多発、「フェイクニュース!」や「印象操作!」といった金太郎アメ反論、歴史の捏造と歴史の修正、「文書は確認できない」といったオルタナファクトに基づいた政権運営──ほら、ほとんど相似形でしょ? しかも磐石な支持層はオルトライト・白人至上主義団体とネトウヨ・日本会議というところまで合致している。

似ていないのは、トランプ政権の方は司法長官の辞任話やコミー証言なども出てきて今やもうメタメタなのに対し、安倍首相の方は今も国会無視の強気の政権運営を続けられていることです。その差異はおそらく政権の長に対する日米の議会と司法の独立性、そしてジャーナリズムの力の違いを背景にしているのでしょう。

なんとも情けない話ですが、さっきCNNで中継されていた上院情報委員会公聴会での委員(上院議員)たちと証人(アンドリュー・マッケイブFBI長官代理、ロッド・ローゼンスティン司法副長官、ダン・コーツ国家情報局長、マイケル・ロジャーズ国家安全保障局長)たちとの丁々発止のやり取りを見ていると、そもそも議論とか質疑応答というものに対する熱量というか、対応の真剣さがまるで違うんですね。ああ言えばこう言うの応酬で、この公聴会ではトランプと彼らの間で交わされた/交わされなかった会話の内容はほとんど明らかにされなかったですが、その「明らかにされなかった」具合の攻防が、ディベイトとはかくあるものかというほどに青白く燃え盛っていました。

一方、そんなアメリカを尻目に安倍政権はいま着々と「共謀罪」の強行採決に向けて進んでいます。共謀罪は過去3回も廃案になった無理筋の法案です。なのに今回は「五輪を前にしたテロ対策だ」という名目で再提出されました。テロ対策なら必要じゃないか、という世論が圧倒的ですが、「テロ等準備罪」という看板を掲げたものの当初は法案内に「テロ」という文言さえ存在しなかった代物なのです。しかも「この法律がなければ国連組織犯罪防止条約(TOC条約)を批准できず国際的批判を受け、オリンピックも開けない」という政権側の説明は「虚偽」。さらにこの条約は金銭目的の組織犯罪に対するもので、「テロ」とは無関係ということもわかってしまいました。


テロと関係ないなら現行法で既に対応できています。おまけに「花見客が双眼鏡を持っていたらテロの下見かもしれない」といったアホみたいな答弁を繰り返す法務大臣が管轄する案件とあって、国会審議は全く噛み合っていないどころか、そもそもまともな説明も回答も皆無なのです。

嘘や説明回避を繰り返しながらのこの前のめりは、いったい何が目的なのでしょう?

ロシアに亡命中のあのエドワード・スノーデンが日本向けに「これは政府の大衆監視をさらに容易にするための法律だ」と説明しています。なぜ監視しなければならないのか? その方が政権運営が簡単だからです。特に警察の活動が容易になります。そしてこれで公安警察の予算がまた増える。1980年以降、どんどん減っている公安警察の活動の場が、これでまた増えることになります。

社会正義と秩序のためにも警察には大いに活躍してもらいたい。それは当然でしょう。しかしその一方で公安警察が、社会正義と秩序を旗印にとんでもない国民弾圧をしてきた歴史も厳然と存在しています。共謀罪と同じような治安維持法で、拷問や冤罪や政治の政権に都合の悪い「一般人」たちへの「予防的な排除」がなされてきました。

警察組織の性格というのは、じつは世界中で今も同じです。だって「今月はスピード違反検挙率が悪いから、ちょっとネズミ捕りやって増やそうか」という「警察の性格」は私たちの誰もが経験的に知っているはずじゃないですか。それが交通警察なら罰金や免停で済みます(それだって酷い話ですが)、それが刑事警察や公安警察の場合だったら、話は取り返しもつかず人生に関わってきます。交通警察と刑事・公安警察の差は、その警察活動が目に見えてわかるかどうか、の違いだけです。どちらにしても警察組織の胸三寸で容赦なく検挙できます。

共謀罪では「内心の自由」が侵される、と心配されています。実際の「内心」など誰にもわかるはずないから、それが直接的に侵されるはずもない、杞憂だよ、と言う人もいるでしょう。けれど問題は、その知られるはずもない「内心」の中身を、自分が決めるのではなく他人が勝手に判断するという点なのです。

「内心」を他人に勝手に決め付けられない権利を「内心の自由」と言います。だから「自分は(共謀罪の対象になるような)そんな恐ろしい反社会的なことは考えないから大丈夫」という問題ではありません。共謀罪の恐ろしさは「あなたは(共謀罪の対象になるような)そんな恐ろしい反社会的なことを考えた」と他人から決め付けられることなのです。

April 11, 2017

予測不能な2つの要素

オバマがシリアの化学兵器使用に軍事介入を模索した2013年から14年にかけ、当時のドナルド・トランプは武力攻撃に反対するツイートを19回も繰り返していました。それが今回、なぜ急に方向転換して60発ものトマホークを射ち込んだのでしょう?

ホワイトハウスの伝えたかった物語は「大統領は犠牲となった子供たちの姿を見て決断した」というものでした。トランプ自身はさらに「アサドのこの残虐行為はオバマの弱腰と優柔不断のせいだ」ともツイートして相変わらずのオバマ責め。でも自らの過去との矛盾には頰かむりを決め込んでいます。

子供たちは毎日、世界中で殺されています。アメリカ大統領が人間味溢れた優しい人物だというのは好ましいことですが、ならば大統領を動かすには彼に悲惨な動画を見せればよいということになります。そんなことはない。そこにはもっと政治的な判断が働いているはず、いや、働いていなければなりません。

タイムラインで確認しましょう。シリアで化学兵器が使われたのは米国東部時間で3日深夜のことでした。やがて全米にもその悲惨な状況が放送され始めます。

4日午前10時半、情報当局による定例ブリーフィングで大統領は女性や子供たちが犠牲になったという情報をビデオや写真付きで知らされたということになっています。トランプはここで何らか軍事行動を決心したようで、同日中にさらに国家安全保障会議(NSC)が招集され米国が取り得る選択肢を検討するよう指示しています。

5日はヨルダン国王との面会がありました。午後1時にホワイトハウスで共同会見があり、そこでトランプは「シリアは一線を超えた。レッドラインを超えた」と発言。すでに軍事行動の腹を決めていたと窺えます。NSCはその日、具体的な軍事作戦の絞り込みを行いました。そこで決まったのが必要最小限のピンポイント攻撃。戦線は拡大させないということです。

そして6日は最大のイベント、フロリダの例のマール・ア・ラーゴで2日間の米中首脳会談が始まる日でした。一方で午後4時、トランプはシリア空軍基地へのミサイル攻撃にゴーを出します。発射時刻は首脳会談の会食もデザートにさしかかろうとする午後7時40分。そうしてその時がやってきて、トランプは習近平にシリア攻撃を報告しました。

ところでトランプ政権はその前週に、アサド退陣は優先事項ではないとしてオバマ時代からの政策の転換を発表していました。シリア内のISIS(イスラム国)駆逐はアサドとロシアにやってもらうという計画。これはロシアゲートで失職したあのマイケル・フリン安保担当補佐官と"影の副大統領"とも言われたスティーヴ・バノン主席戦略官らの「アメリカ第一主義」一派の戦略でした。

その舌の根も乾かぬうちのアサドへの攻撃。米国はまた「世界の警察」に戻るのか、とも言われています。

いえ、そんなことはありません。これはすべて6日の習近平との会談に向けての行動だったのだと踏んでいます。なぜならシリア攻撃は、アサド政権が本当にサリンを使ったのかを確認してからでも遅くはなかった。むしろその方が国際社会(国連)をも納得させられました。なんといってもシリアは化学兵器を全廃したと国際機関(OPCW)によってお墨付きを得ていたはずなのですから。

しかしトランプ政権は攻撃を急ぎました。この性急な行動はいかにもトランプらしい交渉術に見えます。交渉に入る前に、相手にイッパツかましたのです。北朝鮮問題で、習近平との交渉で「北に対してもやるときはやる。だから速やかにかつ強力に働きかけを行え」という暗黙の、かつ強烈なメッセージを大前提として臨むためです。首脳会談の本題はその翌日に話し合われる予定でした。

トランプは支持率36%という異例の不人気にあえいでいました。不人気の米国大統領は支持率回復のために軍事行動に打って出るというのが常です。トランプはそこでずっと、まずは北朝鮮への軍事行動を仄めかしてきました。

ところが北朝鮮への武力行使はソウルと東京がミサイルの標的になる。難民は押し寄せ韓国のGDPはゼロになる。クリントン政権の1993年から検討されている攻撃計画はリスクが多くて実行不能というのが、この24年間変わらぬ結論です。だから北への強硬手段は、実はブラフでしかない心理戦なのです。

しかしそこに降って湧いたようにシリアの化学兵器使用疑惑が起きたのでした。おそらくトランプはこれで「物怪の幸い」とばかりにシリア叩きをひらめいたのでしょう。シリアはすでに紛争国で、ミサイルを射ち込んでも北朝鮮のようなドバッチリは少ない。おまけに米中首脳会談で中国による「北への圧力」の圧力にもなる。ひいてはシリアの向こうにいるロシア・プーチンに対しても、やるべき時にはやるという自分の毅然さを国内に示すことができて、それはロシアゲートの目くらましにもなるだろう。さらには「化学兵器」「赤ん坊殺し」というキーワードは民主党も反対できない絶対的な不正義だから国内の支持も多いはずだ。ヒラリーでさえニュースを受けてシリア攻撃を要求したのだから……と。

それが今回のトマホーク攻撃でした。結果、攻撃を支持する国民はCBSの調査で57%と過半数。政権支持率も微増したようです。

もう一つ、見逃せない変化があります。トマホーク攻撃までの3日間で、トランプ政権内で重大な人事の変更がありました。白人至上主義者でフェイクニュースでの情報操作も厭わぬスティーヴ・バノンがNSCから外れたという5日付けのニュースです(なんと、私は前回の2月のブログエントリーで、次に辞めるのはスパイサーかケリーアンかバノンかって呟いてるんですな、いや我ながら慧眼慧眼)。そこに本来のメンツであったはずの統合参謀本部議長のダンフォードと国家情報長官のコーツが加わることになりました。これを主導したのがフリンの後任に2月に安保担当補佐官となったマクマスター陸軍中将です。トランプに示した後任就任の条件がまさにこのNSC人事を主導することでしたから。

これはイスラム圏からの入国禁止やオバマケアの撤廃という選挙公約を画策したバノンや、反PC(政治的正しさ)路線の若きスピーチライター、スティーヴ・ミラー補佐官らの白人至上主義かつ反グローバリズムかつ破壊主義的ハチャメチャ一派がいま、トランプの娘イヴァンカとその夫ジャレッド・クシュナー、さらにその2人とつながるマクマスター、ジェイムズ・マティス国防長官、ダンフォードらの軍人閣僚に政権運営の主導権を奪われつつあるということです(実はその奥にもう一つ、国務長官のティラーソンや商務長官のウリルバー・ロス、財務長官のムニューチン、国家経済会議議長のゲーリー・コーンといった産業・金融界人脈が控えているのですが)。

さて、シリア攻撃を終えて現在、トランプは朝鮮半島周辺にカール・ビンソン、ロナルド・レーガンという空母2隻を展開させるなど、いまにも北朝鮮を攻撃するようなシフトを敷き始めました。

軍人というのは実戦の厳しさを知るので実は戦争を嫌います。北への攻撃など頭がおかしくなければできない、というのが24年変わらぬ結論であるということは先に述べました。おまけに北の軍事施設はこの間に地下に潜って攻撃困難となり、瞬時の無力化はまずもって不可能です。つまりアメリカによる平壌への先制攻撃は、次にソウルと東京にミサイルが飛んでくるという展開になります。東京ではそのとき国会、霞が関周辺で42万人が犠牲になります。

だからこそ戦争は、より無理になっているという状況は変わらないのです。

ただしそこでこれまでと変わったことが2つだけあります。それがトランプと金正恩という、2人の予測不能な指導者の登場です。お互いに頭がおかしいと思っているであろうその相手の出方を、お互いが読み間違える恐れはなきにしもあらず。トランプ政権内の軍人閣僚たちに期待するのは、そんな時の正気の状況分析と抑制力なのです。

February 15, 2017

対米追従外交

日米首脳会談に関して官邸や自民党は「満額回答」と大喜びです。安倍首相も帰国後のテレビ出演でトランプがゴルフで失敗すると「悔しがる、悔しがる」とまるでキュートなエピソードでもあるかのように嬉々として紹介していました。でも、これ、アメリカ男性にはよくある行動パタンなんですよね。「少年っぽくてキュートでしょ」と思わせたいというところまで含んだ……。

「満額」とされる日米の共同声明は日本政府がギリギリまで文言を練ってアメリカ側に提起したものでした。安保条約による尖閣防衛などに関してはすでにマティス国防長官の来日時に言質を取っていたものの、外交というものはとにかく「文書」です。文字に記録しなければ覚束ない。

対するトランプ政権はアジア外交の屋台骨もまだ定まっていませんでした。日本の専門家もいません。そこに日本の官邸と外務省が攻め込み、まんまと自分たちの欲しかったものの文書化に成功したわけです。

でも、その共同声明の中にひとつ気になる文言があります。

「核及び通常戦力の双方によるあらゆる種類の軍事力を使った日本の防衛に対する米国のコミットメントは揺るぎない」

日本政府は米国の核抑止力に依存していることは認めています。しかしここにある「核を使って」とまで踏み込んだ発言を、これまで日本はしていたでしょうか? 「抑止力」とは核を実際には使わずに相手の攻撃を防ぐ効果を上げる力のことです。でも、その「核」を「使う」と書いた。これは大きな転換ではないのでしょうか? どの日本メディアもその点について書いていないということは、私のこの認識が違っているのかもしれませんが。

いずれにしてもアベ=トランプの相性は良いようで、産経新聞によると安倍首相は「あなたはニューヨーク・タイムズに徹底的にたたかれた。私もNYタイムズと提携している朝日新聞に徹底的にたたかれた。だが、私は勝った…」と言って、「俺も勝った!」と応じたトランプの歓心を得たとか得ないとか。

ただですね、報道メディアを攻撃するのはヒトラーの手法です。歴史的には褒められたもんじゃ全くないのですよ。

さて、マール・ア・ラーゴでの2日目のテラス夕食会で「北朝鮮ミサイル発射」の一報がホワイトハウスからトランプのもとに飛び込んできて、前菜のレタスサラダ、ブルーチーズドレッシング和えを食そうとした時にテーブルは慌ただしく緊急安保会議の場と化したんだそうです(CNNの報道)。その時の生なましい写真が会食者のフェイスブックにアップされて、一体こういう時の極秘情報管理はどうなんているんだと大問題になっています。安全保障上の「危機」情報がどうやって最高司令官(大統領)に届くのか、それがどう処理されるのか、というプロトコルは最高の国家機密です。つまりはアジア外交どころか絶対にスキがあってはいけない安保関連ですら、トランプ政権はスカスカであることを端なくも明らかにしてしまったわけです。大丈夫か、アメリカ、の世界です。

そこには血相を変えたスティーブ・バノン首席戦略官とマイケル・フリン安保担当大統領顧問も写り込んでいました。そしてそれから2日も経たないうちにそのフリンが辞任するというニュースも飛び込むハメと相成りました。

フリンはそもそもオバマ政権の時に機密情報を自分の判断で口外したり独断的で思い込みの激しい組織運営のために国防情報局(DIA)局長をクビになった人物です。当時のフリンを has only a loose connection to sanity(正気とゆるくしか繋がっていない)と評したメディアがあったのですが、事実と異なる情報を頻繁に主張したり、確固たる情報を思い込みで否定することが多く、そういうあやふやな情報は職員からは「フリン・ファクツ Flynn Facts」と呼ばれていました。まさに今の「オルタナティブ・ファクツ(もう一つ別の事実)」の原型です。

そんなフリンが昨年12月、オバマ大統領によるロシアの選挙介入に対する制裁があった際に、その解除についていち早く駐米ロシア大使と電話で5回も話し合っていたというのが今回の辞任の「容疑」です。そもそも彼は「宗教ではなく政治思想だ」と主張するイスラム教殲滅のためにロシアと手を組むべしという考えを持っていた人です。そのためにオバマにクビになってからはロシア政府が出資するモスクワの放送局「ロシア・トゥデイ」で解説役を引き受けたりもしていました。ロシアとはそもそも縁が深い。

今回の辞任は民間人(当時)が論議のある国の政府と交渉して、政府本来の外交・政策を妨害してはいけないというローガン法という決まりがあって、それに違反していると同時に、政策に影響を与えるような偽情報を副大統領ペンスに与えていた(ペンスには当初「制裁解除の交渉はしていない」と報告したそうですが、その後にその話は「交渉したかどうか憶えていない」と変わり、ならばそんな記憶力のない人物に安全保障担当は任せられないという話にもなりました。要は、法律違反、利敵行為、情報工作、職務不適格)という話です。まあしかし、それもフリンのそんな電話会議のことをペンスが承知の上だったなら副大統領までローガン法違反の”共犯”ということになりますから、それはそう言わざるを得ないのかもしれませんし。

つまり疑惑は辞任では収まらないということです。疑惑はさらに(1)こんな重要案件でフリンが自分一人の判断でロシア大使と会話したのか(2)その交渉情報は本当にトランプやペンスらに伝わっていなかったのか(3)ロシアとは他に一体何を話し合っていたのか、と拡大します。おまけにトランプ本人の例の「ゴールデンシャワー」問題もありますし。

実はトランプ陣営でロシア絡みで辞任したのは選挙期間中も含めこれでポール・マナフォート、カーター・ペイジに次いで3人目です。ここでまた浮かび上がるのがトランプ政権とロシアとの深い関係。だってトランプ自身も昨年7月の時点ですでにクリミア事案によるロシアへの制裁解除を口にしていたのですよ。この政権がロシアゲートで潰れないという保証はだんだん薄く、なくなってきました。

ところでそんな懸念はどこ吹く風、ハグとゴルフでウキウキのアベ首相は3月に訪独してメルケルさんに「トランプ大統領の考えを伝えたい」とメッセンジャー役を買って出る前のめりぶりです。トランプ政権の誕生で戦後日本の国際的な位置付けや対米意識により独立的な変化が訪れるのではないかと期待した向きもありますが、自民党政権によるアメリカ・ファーストの追従外交には、今のところまったく変化はないようです。

ところでこの「追従」って、世界的には「ついじゅう」と「ついしょう」の両方で捉えられています。就任1カ月もたたないうちにメキシコ大統領と喧嘩はする、オーストラリア首相とは電話会談を途中で打ち切る、英国では訪英したって議会演説や女王表敬訪問などとんでもないと総スカンばかりか英国史上最大の抗議デモまで起きるんじゃないかと言われている次第。こうして西側諸国から四面楚歌真っ最中のトランプ大統領が、アベ首相をキスでもしそうなくらいにハグし歓待したのも、そういう状況を考えると実に頷けるわけであります。

さあトランプ政権、次は誰が辞めさせられるのか? ショーン・スパイサーか、ケリーアン・コンウェイか、はたまたスティーヴ・バノンか──この3人が辞めてくれればトランプ政権もややまともになるとは思うのですが、しかしその時はトランプ政権である必要がなくなる時でもあります。アメリカは今まさに「ユー・アー・ファイアード」のリアリティ・ドラマを地で行っているような状況です。

January 15, 2017

不名誉な情報

トランプ記者会見は日本ではとても奇妙な報道のされ方をしました。トランプにとって「不名誉な情報」のニュースが日本ではほとんど報道されないままだったので、彼と記者たちがなぜあそこまでヒートアップしているのかがまるでわからなかったのです。

で、彼の興奮は例によっていつもと同じメディア攻撃として報じられ、速報では「海外移転企業に高関税」とか「雇用創出に努力」とかまるで的外れな引用ばかり。NHKに至っては「(トランプは)記者たちの質問に丁寧に答えていた」と、一体どこ見てるんだという解説でした。

日本のメディアのこの頓珍漢は、米国では報じられていた「モスクワのリッツ・カールトンでの売春婦相手の破廉恥な性行為」が事実かどうか、裏が取れなかったことに起因しています。

日本のTVってそれほど「裏取り」に熱心だったでしょうか。例えば最近の芸能人らの麻薬疑惑。逮捕されれば即有罪のように断罪口調で飛ばし報道するのに、結果「検尿のおしっこがお茶だった」となると急に手のひら返しで「さん付け」報道。つまりはお上のお墨付き(逮捕)があれば裏は取れたと同じ、お上がウンと言わねば報じもしないというへなちょこでは、権力監視のための調査報道など、いくら現場の記者たちが頑張ったとしてもいつ上層部にハシゴを外されるか気が気じゃありません。

しかも今回のCNNの報道は、未確認情報を真実として報道したのではありません。CNNが報じたのはその未確認情報を米情報当局がトランプ、オバマ両氏へのロシア選挙介入のブリーフィングにおいて2枚の別添メモで知らせた、という事実です。これはトランプが指弾したような「偽ニュース」などではありません。しかもそれが大変な騒ぎになることは容易に予想できたのに日本のメディアはその事情すら報じ得なかった。

一方「バズフィード」はその「不名誉な情報」を含むロシアとの長期に渡る関係を記したリポート35枚をそのままサイトに掲載してしまいました。「米政府のトップレベルにはすでに出回っていた次期大統領に関する未確認情報を、米国民自らが判断するため」という理由です。

こちらは難しい問題です。「噂」を報じて国民をミスリードする恐れと、情報を精査して真実のみを伝えるジャーナリズムの責務と、精査できるのはジャーナリズムだけだというエリート主義の奢りと、そしてネット時代の情報ポピュリズムの矛盾と陥穽と。

いずれにしても日本のメディアは丸1日遅れで氏の「不名誉な情報」に関しても報道することになりました(裏取りは吹っ飛ばして)。その間にTVは勝手な憶測でトランプ氏を批判したり援護したりしていました。しかもCNNを排除した次の質問者の英BBCを、氏が「That's another beauty(これまた素晴らしい)」と言ったのを皮肉ではなく「ほめ言葉」として解説するという誤訳ぶり。BBCが「これまた素晴らしく」トランプ氏に批判的であることを彼らは総じて知らなかったわけです。

いや問題はそんなことではありません。問題の本質は、トランプがプーチン大統領に弱みを握られているのかどうか、米国政治がロシアに操られることになるのか、ということです。

真偽はどうあれ、今回の「暴露」でその脅迫問題云々がこの新大統領にずっと付きまとうことになります。いや、いっそのこと、「ああ、やりましたがそれが何か?」と開き直っちゃえばいいのにとさえ思います。そもそも女性器をgropingしたとかおっぱいを鷲掴みにしたとかしないとか、そんな山のような女性醜聞をモノともせずに当選したのです。「ゴールデンシャワー」など、脅しのネタなんかに全然ならないはずですからね。

November 01, 2016

「女嫌い」が世界を支配する

投票日11日前というFBIによるEメール問題の捜査再開通告で、前のこの項で「勝負あったか?」と書いたヒラリーのリードはあっという間にすぼみました。州ごとの精緻な集計ではまだヒラリーの優位は変わらないとされますが、フロリダとオハイオでトランプがヒラリーを逆転というニュースも流れて、なんだかまた元に戻った感じでもあります。

だいたい今回のメール問題の捜査対象は、ヒラリーの問題のメールかどうかもわかっていません。ただFBIがまったくの別件で捜査していたアンソニー・ウィーナーという元下院議員の15歳の未成年女性を相手にしたエッチなテキストメッセージ(sexting)問題で彼のコンピュータを調べたところ、中にヒラリーのメールも見つかったので、それをさらに捜査しなくてはならない、というだけの話なのです。もっと詳しく言えばそのウィーナーのコンピュータは彼が妻と強要していたもので、かつその妻がヒラリーの側近中の側近として働いてきたフーマ・アベディンという、国務長官時代は補佐官を務め、今は選対副本部長である女性なんですね。ということで、そのアベディンのメールも調べることになっちゃう。だからその分の捜査令状もとらなくちゃならない、ということで、「ヒラリーのメール問題」とすること自体もまだはばかられる時点での話なのです。

つまりそのメールが私用サーバーを使った国家機密情報を含んでいるものとわかったわけでもなんでもないのですが、とにかくFBIのジェイムズ・コミー長官は自分の机の上に10月半ばまでに「ヒラリーのメールがあった」という書類が上がってきたものだから、これはこのまま黙殺はできない。捜査はしなくてはならないが、捜査のことを黙っていたりその情報自体を黙殺でもしたら後で共和党陣営にヒラリーをかばうためだったと非難されるに決まっている。しかしだからと言って捜査を開始したと言ったら選挙に影響を与えてしまうとして民主党側からも非難される。どっちが自分のためになるか、おそらく彼は苦渋の決断をしたんだと思います。その辺のジレンマの心境は実は彼がFBIの関係幹部に当てた短文のメールが公表されているのでその通りなんでしょう。でも、それは保身のための決断だった印象があります。

そもそもFBIの捜査プロトコルでは、捜査開始のそんな通告を議会に対して行う義務はないし、むしろ選挙に関係する情報は投票前60日以内には絶対に公表しないものなのです。つまり彼はヒラリーの選挙戦に悪影響を及ぼしても自分が職務上行うことを隠していたと言われることを避けた。そちらの方がリスクが高いと判断したんでしょう。つまりリスクの低い道を選んだわけです。誰にとってのリスクか? そりゃ自分にとってのリスクです。つまり保身だと思われるわけです。

で、週末にかけて、アメリカのメディアはコーミーのそんな保身を責めたり、いや当然の対応だと擁護したりでこの問題で大騒ぎです。

ところが問題はもう1つ別のところにあります。

8年前のヒラリー対オバマの大統領選挙の時も言ってきましたが、なぜヒラリーはかくも嫌われるのか、という問題です。なぜ暴言の絶えないトランプが支持率40%を割ることなく、2年前には圧勝を噂されたヒラリーが最終的にかくも伸び悩むのか?

この選挙を、「本音」と「建前」の戦いだと言ってきました。「現実」と「理想」とのバトル。そしてその後ろで動いているのが、もう明らかでしょう、実はアメリカという国の、いや今の世界のほとんどの国の、拭いがたい男性主義だということです。これまでずっとアメリカという国の歴史の主人公だった白人男性たちが今や職を奪われ、家を失い、妻や子供も去って行って、残ったのが自分は男であるという時代錯誤の「誇り」だけだった。いや、職も家も妻子も奪われていなくとも、もうジョン・ウェインの時代じゃありません。当たり前と思ってきた「誇り」は今や黒人や女性やゲイたちがアイデンティティの獲得と称してまるで自分たちの所有する言葉のように使っています。そこで渦巻くのは、アイデンティティ・ポリティクスに乗り遅れた白人男性たちの、白人(ヘテロ)男性であることを拠り所とした黒人嫌悪であり女性嫌悪でありゲイ嫌悪です。ヒラリーに関してもこの女嫌いが作用しているのです。

マイケル・ムーアの新作映画『Michael Moore in Trumpland』で、彼も私と同じことを言っていました。ムーアは昨年、映画『Where to Invade Next?』を撮るためにエストニアに行ったそうです。かの国は出産時の女性の死亡率が世界で一番少ない国です。なぜか? 保険制度が充実しているからです。アメリカでは年間5万人の女性が死んでいるのに。

そこの病院を取材した時にムーアは壁にヒラリーの写真が飾ってあることに気づきます。彼女もまた20年前に同じ目的で同じ病院に来ていたのです。国民皆保険制度を学ぶために。一緒に写る男性を20年前の自分だと言う医師がムーアに言います。「そう、彼女はここに来た。そして帰って行った。そして誰も彼女の話を聞かなかった。それだけじゃない。彼女を批判し侮辱した」

20年前、国民皆保険導入を主導したヒラリーは一斉射撃を浴びました。「あなたは選ばれてもいない、大統領でもない。だから引っ込んでいろ」と。それから20年、アメリカでは保険のない女性が百万人、出産時に亡くなった計算です。保険制度を語る政治家は以来、オバマまで現れませんでした。

ムーアは言います──ヒラリーが生まれた時代は女性が何もできなかった時代だった。学校でも職場でも女性が自分の信じることのために立ち上がればそれは孤立無援を意味した。だがヒラリーはずっとそれをやってきた。彼女はビルと結婚してアーカンソーに行ってエイズ患者や貧者のための基金で弁護士として働いた。で、ビルは最初の選挙の時に負けた。なぜか? 彼女がヒラリー・ロドムという名前を変えなかったから。で、次の選挙でヒラリーはロドム・クリントンになった。で、その次はロドムを外してヒラリー・クリントンになった。彼女は高校生の頃から今の今までそんないじめを生き抜いてきたのだ、と。

そんな彼女のことを「変節」と呼ぶ人たちが絶えません。例えば2008年時点で同性婚に反対していたのに今は賛成している、と。でも08年時点で同性婚に賛成していた中央の政治家などオバマをはじめとして1人としていなかったのです。

マザージョーンズ誌のファクトチェッカーによればヒラリーは米国で最も正確なことを言っている主要政治家ランキングで第2位を占めるのですが、アメリカの過半が彼女を「嘘つきだ」と詰ります。トランプは最下位ですが、どんなひどい発言でも「どうせトランプだから」の一言で責めを逃れられています。同ランク1位のオバマでさえ再選時ウォール街から記録破りの資金提供を受けていたのに、企業や金融街との関わりはヒラリーに限って大声で非難されます。大問題になっているEメールの私用サーバー問題だってブッシュ政権の時も同様に起きていますが問題にもなっていません。クリントン財団は18カ国4億人以上にきれいな飲み水や抗HIV薬を供与して慈善監視団体からA判定を受けているのに「疑惑の団体」のように言われ、トランプはトランプ財団の寄付金を私的に流用した疑惑があってもどこ吹く風。おまけにこれまで数千万ドル(数十億円)も慈善団体に寄付してきたと自慢していたトランプが実は700万ドル(7億円)余りしか寄付をしてこなかったことがわかっても、そんなことはトランプには大したことではないと思う人がアメリカには半分近くいるのです。

これは一体どういうことなのでしょう? よく言われるようにヒラリーが既成社会・政界の代表だから? 違います。だって女なんですよ。代表でなんかあるはずがない。

嫌う理由はむしろ彼女が女にもかかわらず、代表になろうとしているからです。ヒラリーを嫌うのは彼女が強く賢く「家でクッキーを焼くような人間ではない」からです。嫌いな「女」のすべてだからです。「女は引っ込んでろ!」と言われても引っ込まない女たちの象徴だからです。違いますか?

日本では電車の中で化粧する女性たちを「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」と諌める"マナー"広告が物議を醸しています。みっともないと思うのは自由です。でもそれを何かの見方、考え方の代表のように表現したら、途端に権力になります。この場合は何の権力か? 男性主義の権力です。男性主義を代表する、男性主義の視線そのものの暴力です。「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」は、どこをどう言い訳しても、エラそうな男(的なものの)の声なのです。

ヒラリーが女であること、そしてまさに女であることで「女」であることを強いられる。それはフェアでしょうか?

この選挙は、追いやられてきた男性主義がトランプ的なものを通して世界中で復活していることの象徴です。私が女だったら憤死し兼ねないほどに嫌な話です。そしてそれはたとえ7日後の選挙でヒラリーが勝ったとしても、すでに開かれたパンドラの箱から飛び出してきた「昔の男」のように世界に付きまとい続けるストーカーなのです。

September 10, 2016

いつか来た道

北朝鮮の核実験やミサイル発射でこのところ日米韓政府がにわかに色めき立って、韓国では核武装論まで出ているようです。日本での報道も「攻撃されたらどうする?」「ミサイル防衛網は機能するのか?」と「今ここにある危機」を強調する一方で、どうにも浮き足立っている感も否めません。

でも少し冷静になれば「攻撃されたらどうする?」というのは実はこれまでずっと北朝鮮が言ってきたことなのだとわかるはずです。戦々恐々としているのは北朝鮮の方で、彼らは(というか"金王朝"は)アメリカがいつ何時攻め込んできて体制崩壊につながるかと気が気ではない。何せ彼らはイラクのサダム・フセインが、リビアのカダフィが倒されるのをその目で見てきたのです。次は自分だと思わないはずがありません。

そこで彼らが考えたのが自分たちが攻撃されないための核抑止力です。核抑止力というのは敵方、つまり米国の理性を信じていなければ成立しません。理性のない相手なら自分たちが核兵器を持っていたら売り言葉に買い言葉、逆に頭に血が上っていつ核攻撃されるかわからない。しかし金正恩は米国が理性的であることに賭けた。

実はこれはアメリカと中国との間でかつて行なわれた駆け引きと同じ戦略なのです。冷戦下の米国は、朝鮮戦争時の中国への原爆投下の可能性を口にします。その中で中国が模索したのが自国による核開発でした。米ソ、中ソ、米中と三つ巴の対立関係の中で、核保有こそが相手側からの攻撃を凍結させる唯一の手段だと思われたのです。

そうして60年代、中国はロケット・ミサイルの発射実験と核爆発実験とを繰り返し、70年から71年にかけて核保有を世界に向けて宣言するわけです。それこそがどこからも攻め込まれない国家建設の条件でした。

慌てたのはアメリカです。どうしたか? 71年7月、ニクソン政権のキッシンジャー大統領補佐官が北京に極秘訪問し、それが翌72年のニクソン訪中へと発展するのです。米中国交正常化の第一歩がここから始まったのです。

今の北朝鮮が狙っているのもこれです。北朝鮮という国家が存続すること、つまりは金正恩体制が生き延びること、そのために米国との平和協定を結び、北朝鮮という国家を核保有国として世界に認めさせること。おまけに核兵器さえ持てば、現在の莫大な軍事費を軽減させて国内経済の手当てにも予算を回すことができる。

もちろん中国とは国家のスケールが違います(実際、アメリカが中国と国交を回復したのはその経済的市場の可能性が莫大だったせいでもあります)が、北朝鮮の現在の無謀とも見える行動は、アメリカに中国との「いつか来た道」をもう一度再現させたいと思ってのことなのです。

そんなムシのよい話をしかし米国が飲むはずもない。けれどいま米韓日の政府やメディアが声高に言う「北朝鮮からいまにも核ミサイルが飛んでくるかもしれない」危機、というのもまた、あまりにも短絡的で無駄な恐怖なのです。そんな話では全くないのですから。

さてではどうするか? 国連による経済制裁も実は、北朝鮮と軍事・経済面でつながりを持つアフリカや中東の国々では遵守されているとは言いがたく、そんな中での日本の独自制裁もそう圧力になるとは思えません。たとえ制裁が効果を持ったとしても国民の窮乏など核保有と国家認知の大目的が叶えばどうにでもなる問題だと思っている独裁政権には意味がないでしょうし、中国も手詰まりの状態です。なぜなら金正恩は金正日時代の条件闘争的な「瀬戸際外交」から、オバマ政権になってからの放置プレイにある種覚悟を決めた「開き直り外交」にコマを進めたからです。「いつか来た道」の再現には「この道しかない」わけですから。

金正恩の一連の行動は全て、動かないオバマの次の、新たなアメリカ大統領に向けてのメッセージなのだと思います。さて、彼女は/彼は、どう対応するのでしょう。

August 27, 2016

オルトライト?

大統領選はどんどんうんざりする方向に進んでいます。ここでもトランプvsクリントンの選挙戦を何度も「本音と建前の戦い」と説明してきましたが、このトランプ勢力の本音主義、白人男たちの言いたい放題の感情主義を具現する集団を、クリントンがとうとう「オルトライト(alt-right)」と名指しして批判しました。

「オルトライト」とは「オルタナティヴ・ライト Alternative Right」つまり「もうひとつ別の右派」「伝統的右翼とは違う右翼」のことで、本当は右翼かどうかも疑わしいのですが、この5〜6年、自分たちでそう呼んでくれと自称していた人たちのことです。トランプと同じく「政治的正しさ(Political correctness)なんか構ってられない」と、あるいはアメリカの主人公だった白人男たちの特権を取り戻せと、つまり「アメリカを取り戻す!(Make America Great Again!)」と言っている人たちです。

右翼とは本来、保守、愛国、国家主義を基盤としていますが、この「オルトライト」たちには今のアメリカ国家は関係ありません。白人のアメリカだけが重要なのです。したがって「黒人や有色人種はDNAからいって劣っているから差別されて当然」「移民・難民とんでもない」。それだけだと昔からある白人至上主義と似ていますが、彼らは女性差別も当然だと言ってはばからない。反フェミニズム、男性至上主義も取り込んでいるのです。

なにせ、彼らの理想の国は「女性が従順な日本や韓国」なのだそう。それだけではありません。ツイッターなど彼らのSNS上のアイコンはなぜか日本のアニメの女の子であることが多く、しかも日本のネット掲示板「2ちゃんねる」を真似た「4チャンネル」なる掲示板を作って好き勝手な差別的方言暴言で盛り上がっています。新作の女性版「ゴーストバスターズ」の映画で、ヒロインの1人の大柄な黒人コメディエンヌ女優の容姿をさんざんな悪口で侮辱、罵倒して、彼女がツイッターをやめると言うまでに追い込んだ輩たちもこの「オルトライト」たちです。

こういうと何か連想するものはありませんか? そう、日本でさまざまな差別的ヘイト・スピーチを繰り返す「ネトウヨ」と呼ばれる連中のことです。「ネット右翼」=匿名をいいことにネットを中心に辺り構わず差別的言辞を繰り返し、標的のSNSアカウントを「炎上」させては悦に入っている輩ども。

こちらも「右翼」という名が付いてはいるものの、本来の「保守」主義からは程遠く、「反日」「愛国」と叫びはしますが平和を唱える今上天皇をも「反日」認定したりと、まったく支離滅裂。むしろそういう真面目な主義主張や信条をからかうこと自体を面白がる傾向すらあります。

実際、「オルトライト」の名付け親とも言われる人物は、今回クリントンが名指しで批判したことに対して「やっと大統領候補みたいな大物政治家にも存在を認められた」と言って喜ぶのですからどうしようもありません。

反知性主義、排他主義、男性主義、そういうものが世界中で同時発生的に増殖しています。30年前のネオナチから続く流れにポップカルチャーが混じり込み、それにネットメディアが「場」を与えたのかもしれません。そのせいで今、アメリカの共和党が崩壊の危機にあります。

今回の大統領選挙は、そんな傾向に対抗する言説がどれだけ有効かを見る機会かもしれません。ただ、それにしてはクリントンの好感度がどんどん下がって、対抗言説どころの話ではなくなっているのが冒頭の「うんざり」の原因なのですが。

August 26, 2016

「優生思想」という詭弁

『アルジャーノンに花束を』という、いまから50年も前に書かれた世界的なベストセラーがあります。開発されたばかりの脳手術を受けた、知的障害を持つチャーリイ・ゴードンの一人称で書かれるこの物語は、IQ68から数カ月後にIQ185という天才になる青年の知の遍歴の喜びと悲しみと孤独とを綴っていきます。ですが、その知の絶頂にあって、先行した動物実験で同じく驚異的な能力を獲得したハツカネズミの「アルジャーノン」が、やがてその能力や知力をことごとく失っていく様を目の当たりにするのです。徐々に失われていく知能の中で彼自身、自らの退行を押しとどめる技術を研究するのですが、それも空しくやがて彼もまた元の知的障害者に戻っていく……そして最後の一文が、タイトルの言葉に重なってくるのです。

神奈川県相模原の障害者施設で今からちょうど1カ月前の7月26日に起きた、元職員の男性(26)による入所者19人の刺殺、26人への傷害事件が頭を去りません。そしてつらつら思い出していたのがこの小説でした。容疑者は重度の障害者は社会や周囲の人間を不幸にするだけで生きる価値がないとして、「善行」でも施すかのように次々と凶行に及んだのでした。

これをナチスの優生思想として言葉の上で断罪するのは簡単ですが、果たして私たちの社会はその詭弁をきちんと論破し片を付けてきたのだったか?

この事件報道では被害者の名前が遺族の意向で公表されていません。遺族の一人はその理由を「この国には優生思想的な風潮が根強くあり、すべての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではないので、とても公表することはできません」「事件の加害者と同じ思想を持つ人間がどれだけ潜んでいるのだろうと考えると怖くなります」と不公表の苦渋の選択を説明しています。カミングアウトのジレンマがここにも存在しています。カミングアウトしなければ誤解が解けない、誤解が解けないうちはカミングアウトは不可能だ……。

実際、そんな誤解の愚かさを私がツイッターでその旨をつぶやいたところ、「ではあなたは、子供がみな重度の障害者で生まれてもこの社会は大丈夫だと思っているのですか?」とまで言ってくる輩がいました。私にはむしろ、生まれてくる子がみなこの人のようであることのほうが恐ろしい。基本的にこの人は、いろんな人が生まれてくるのが社会であるという多様性の原理を理解していないのです。ほうれん草は葉っぱだけで生まれるわけではありません。根があり茎があり葉があり虫食いがあり傷つく部分もある。それらが全部でひとつです。根の赤い部分が嫌いだ、虫食い部分が嫌だ、と言って除外すれば、茎も葉も育たないし、代わりにまた別の部分が虫に食われるだけです。

障害者は、障害を持っているのではありません。社会の方に、障害者が生きていく上での障害が存在しているのです。だから私たちの社会はその障害を一つ一つ取り除いてきました。バスには車椅子リフトがあり、駅のホームにはエレベーターが設置され、バリアフリーの住宅も増えて、まだまだとは言え今は昭和の時代よりもずっと「障害」が少なくなりました。社会はそのために発展していると言ってもいい。人間みんなが幸せに生きられるために、です。

それは人間が、弱肉強食の世界ではすべて弱者であり、だからこそ社会全体が多様な生き方を保持したまま共生してゆくことが最も有利な生き残り策だとわかったからです。上っ面の損得以上の利益が多様性の中に潜んでいるからです。さらにまた私たちは「障害者」でなくともみな子供時代は「障害」を持ち、老人になればまた「障害」を引き受けざるを得ないからです。「障害者」を邪魔者として「殺す」のが正当化されるなら、老人や働けない者を邪魔者として「殺す」社会との差がなくなるからです。それはつまり、誰もが障害者として排除され得る社会です。

そう考えたとき、冒頭の『アルジャーノン』の物語は実は、幼さという「障害」と老いという「障害」との間を経巡る、他ならぬ私たち自身の物語だったのだと気づくのです。

August 07, 2016

第二の「人間宣言」

「社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、(中略)私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います」と「天皇」が切り出したとき、私はほとんどめまいのような感覚に襲われました。「天皇」は「個人」としても「天皇」なのであり、存在そのものが一体である象徴だと(なんの根拠もなく)思っていた自分に気づかされたからです。

それが、ある「個人」が存在して、その人が「天皇」という「務め=機能」について話をしている。では、私の目の前にいる「この人」はいったい「誰?」なのだろうという一閃の疑問がよぎったのでした。そのとき、「天皇」の「お気持ち」表明のこのビデオ・メッセージは実は、「天皇」の新たな、第二の「人間宣言」なのだと気づかされたのです。

日本のメディアは奥歯に物が挟まったような表現しかしていませんが、NYタイムズなど海外メディアの論調は「リタイアメント=引退」という直接表現でこのメッセージを解説していました。あれは確かに「生前退位したい、それが合理的だ」という訴えでした。

生前退位がなぜこんなにも問題になるのか?──それは主に
(1)退位後の上皇、法王化で権威の二重化が起こる恐れがある
(2)退位したいというご自身の意向を装って強制退位させられる恐れも生じかねない
(3)恣意的な退位が可能になれば象徴天皇としての権威が薄れる
(4)皇室典範を変えなければならないので、生前退位を言うこと自体が(違憲の)政治行為になる
──ということでしょう。

これは今の天皇がそうだ、ということではなく、普遍一般の話で、あくまでも様々な「恐れ」を想定した法律論議とならざるを得ないのです。

今上天皇は、15年前には世の嫌韓ブームの走りを察してか自ら「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と話されたり、太平洋戦争での激戦地に慰霊の旅を続けられたりと、とても目配りの利かれた、いまの日本で最大の平和主義者であり、かつ現行憲法の見事な体現者であると感得しています(なんといっても、「天皇」もまた人間的な「個人」であると気づかせてくれているのですから)。

そんな方が上皇になって憲法の制約を離れ、ビシバシ政治的発言をなさるとは思いませんし、今回の「お気持ち」に「陰謀」が仕組まれているとも思いません。今回の「お気持ち」の核はあくまでも82歳という年齢のこと、健康のことなのだと推察します。そしてその「意向」が最初にNHKから報じられ、直後に宮内庁がその「意向」の事実を完全否定したのも、前掲の(4)の政治行為を疑われてはならないという、深慮の末の当然のシナリオだったのだと思います。

さてここでやはり日本のメディアが指摘しない重要な視点が欧米主要紙によって明らかにされています。それは「時代遅れ」と批判される皇室典範の改正で退位が実現すれば、皇室の戦後の大転換として女性天皇容認論議も再燃する可能性がある、ということです。これは10年前にも起きた論議ですが、あの時は安倍首相を含む自民党保守派が、そしてその背後にいるいま話題の「日本会議」が強く反対した経緯があります。そしてそれが、現政権の憲法改定路線にどう関わってくるのか?──もっとも、国民の7割が理解を示す生前退位にも、元号や退位後の地位や住居まで、法整備の問題は山積していて、実現はなかなか難しいのも確かなのですが。

July 12, 2016

生ぬるさの裏側で

「改憲勢力が3分の2議席」という今回の参院選の結果を、NYタイムズはアメリカの大統領選やイギリスのEU離脱国民投票とは異なって「ポピュリズムの激しい感情のうねりを必要とせずに達成された。日本の選挙は現状への諦めを反映しているようだ」と論評しました。「大衆はハッピーじゃない。けれど投票で何かが変わるとも思っていない。自民党への支持はせいぜい生ぬるい程度のものでしかない」というテンプル大学アジアン・スタディーズ部長ジェフ・キングストン教授のコメントも合わせて。

この「生ぬるさ」を、高知新聞が興味深いアンケートで裏打ちしています。高知市内で100人に質問したところ、今回の参院選での「3分の2議席」の意味を83人までの人が知らなかったというのです。

「3分の2」というはもちろん憲法改定の是非を国民投票にかけるために必要な議席数です。自民、公明を中心とした改憲派が3分の2を占めたのがこの参院選でもあったのですが、その一方で憲法を変えることに賛成の人はアンケートの100人中35人、反対の人は51人ですから、憲法改定には漠然とでも抵抗がある。けれど「3分の2」のことは気にしていなかったというわけです。

今回から始まった18歳選挙権にしても、蓋を開ければ18、19歳の投票率は45%そこそこ。全体よりも9ポイント以上低いものでした。

どうしてかくも政治への関心が「生ぬるい」のか? ロイターは「人口減少、社会保障制度の先細り、生まれてからずっと停滞している経済まで、日本の若者は不満の種に事欠かないのに」といぶかります。そして「日本の若者は、学校でほとんど政治に触れていない。政治活動のイメージを悪くさせた1960年代の暴力的な学生デモが残した『遺産』なのかもしれない」と推測します。

その「学校」のことで、自民党のウェブサイトが参院選のさなかに「教育現場の中には『教育の政治的中立はありえない』あるいは『子供たちを戦場に送るな』と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいる」として、「政治的中立を逸脱するような不適切な事例を具体的(いつ、どこで、だれが、何を、どのように)に記入してください」と〝タレ込み〟〝密告〟を促す書き込み欄を設けていたことが明らかになりました。

「子供たちを戦場に送るな」が「中立を逸脱した教育」なのか、という激しい反論がネット上で渦巻いて、自民党は即刻この文言だけは削除しましたが、「密告の勧め」はまだそのまま残っています。この後味の悪さは実は今の教育現場では「後味」ではなく今も舌の上で続く味なのかもしれません。

さらには都知事選に出馬しようとした石田純一さんに対し、政治的行動をしたことでのCMや番組出演に関する違約金が「数百、数千万円」に上るという芸能界の「非政治」圧力もまた、アメリカから見ていると本当に不思議な現象なのです。「日頃から政治に関心を持ちなさい」という時間をかけた〝教育〟が、こういう現象で一気に否定される「反政治」社会を見ていれば、若い人たちが「触れぬ〝政治〟に祟りなし」と感じるようになるのは至極当然なことに思えます。実際、学校で政治のことを話したりすれば生徒や学生同士で「意識高い系」として敬遠される風潮はずっと以前から続いていて(生徒会の会長選にだって立候補者がいないという状況はかねてより指摘され続けてきたことです)、昨年来の学生たちによるあの「SEALDs」運動も、そんな圧倒的な現状への異議を申し立てようというささやかな胎動でした。

もっとも、大人社会でできないことが、若者社会ならできるというのは青春というものへの淡い妄想で、この親にしてこの子ありなのはいつの時代もどの世界でも同じなのかもしれません。

ただ、もう一つ、いつの時代もどこの世界でも共通していることがあります。

それは、政府の言うことは常に「政治的中立」で、それ以外は「中立性を欠く」と言うのは、独裁国家の物言いだ、ということです。それを通用させるには、その前にまず「政治を語らない、関心がない」という世間一般の「生ぬるさ」が必要だということもです。なぜならいつの時代でもどこの世界でも、権力は常にそんな「生ぬるさ」の裏側で策動しているのですから。

June 07, 2016

置き去りの心

日本に戻って北海道・駒ヶ岳の男児置き去り"事件"に関するテレビの騒ぎ方や親御さんへのSNS上の断罪口調を見ていて、改めて世間の口さがなさを思い知っています。今朝退院したそうの大和くんはテレビで見る限りすっかり元気で、ほんと無事でよかったなあ、でいいはずなんですが、その後も教育論だのしつけ論などがなんともかまびすしいこと。

こういう問題はとても難しくて、この子に通じる「論」が他の子に通じるとは限らないし、例えば私も北海道民でしたが、子供のころはよく「そんなことしてたら置いてきぼりにするよ!」と叱られたものです。

実際に田舎の道端に置いてきぼりにされたこともあって、「しかし今思えばそうやって泣きながらサバイバルできる子供に育ったんだなあ」とふとツイッターでつぶやいたら、「そんなことしたら大阪ならすぐに人さらいに遭う」と本気か冗談かわからないリプライをくれる人や、中には「それは体罰だ。子供が取り返しのつかない心の傷を受けるのがわからんのか」とこれまたご自身の経験からか反発なさる方もいて(ある人には「普段はリベラルなふりをしてこういう時にマッチョなミソジニーが馬脚を露わす」なんていうふうに罵倒されました。すごい洞察力だこと……。)、全くもってこの件に関しては「物言えば唇寒し」の感が強いのです。

私はもちろん体罰の完全否定派ですから、体罰だとの指摘はちょいと応えました。ただ、子供のころにその心に何らかの負荷を与えられることは(その子が耐えられる負荷の多寡は斟酌しなくてはなりませんが)、その心の成長のためには絶対に必要なことだと思っています。それがトラウマになるかどうか、そのトラウマを経てさらに強くなれるかどうか、あるいはさらに優しくなれるか否かも、その子その子によって違うので見極めは実に難しいでしょうが。

もしアメリカで「置き去り」なんかしたら親は逮捕されます。自宅に子供を一人置いて出掛けることさえ時には逮捕の対象ですから。子供は親の所有物ではない、という思想もあります。社会全体の宝物だという考え方においては、親の身勝手な"しつけ"は許されません。でも、一方で「置き去り」の気分というのは味わっておいた方がいいとも思う自分がいます。

例えばある種の文学作品は、まるで体罰のように若く幼い私を打ち据えました。実際に殴られ血を流してはいずとも心はズタズタになった頃があります。死んでいたかもしれません。それは、体罰以上に過酷な刑罰でした。でも、誰もそのことを体罰だとは言わなかったし、禁止もしないどころかむしろ読書は奨励されていたのです。そこで暴かれる罪にどんな罰が待っているかも教えないままに。

そう考えると、私は大和くんが親に"置き去り"にされたことと、自分がある種の文学作品によって"置き去り"にされたこととの、その暴力性の違いがよくわからなくなるのです。どうやってそこから生き延びたのかも。

かろうじて今わかっていることは、幼い頃に叱られて置いてきぼりにされた時も、泣いている私を親たちは必ず私の見えないところからじっと見ていたのだろうということです。ちょうど、大和くんの親がすぐに彼の様子を見に、車でそっと戻ったように。

誰かがそっと見守っていてくれる。視点を変えれば、自分がそっと見守り続ける──それが(独りよがりの見守り方もあるでしょうが)暴力と鍛錬との分かれ目かもしれません。打ちのめされた若い私にも、思えばそっと見守ってくれていた友人や先生や親がいましたっけ。

大和くんは、おそらくそんな風にすでに親御さんとの関係性においてサバイバルの力を培っていたのかもしれません。もちろん、そんなことは穿った見方でほんとはまったく関係ないかもしれません。なので、私たち大和くん一家を知らない者たちによる一般論とその敷衍はあまり意味がないことなのです。だから、この話はそれでもういいじゃないですか。(とまあ、ツイッターで言いたかったことはそういうことでした)

May 24, 2016

広島と謝罪と「語られていない歴史」

共同通信のアンケートで、広島や長崎の被爆者の8割近くの人たちがオバマ大統領に原爆投下への謝罪を求めないと答えました。「謝罪しろと言ったら来ないだろうから」と言う人もいました。確かに原爆ドームや展示館は、「来る」だけで何らかの思いを強いるものでしょう。

日本人は原爆を落とされた後の「結果」を見る。アメリカ人は原爆を落とす前の「原因」を見る。で、今も原爆投下を日本の早期降伏のために必要だったと考える人はアメリカに今も56%います。

でも同じアメリカ人でも44歳以下では投下を正しくなかったと答える人の方が多くなってきました。そんな世論と世代の変化を背景にオバマ大統領が広島で犠牲者を追悼します。これはアメリカ(大統領)が、原爆を落とした「結果」について触れる初めてのことでもあります。

もっとも、アメリカは第二次大戦前も今も同じ国体を保っています。同じ「国」が、自分の過去を謝罪することは、そこから続く現在の国のあり方を謝罪することにもなって論理的に難しい。1945年の前と後では国体の異なる今の日本が、違う国だったあの「大日本帝国」の慰安婦問題やバターン死の行進、南京虐殺を謝罪するのとは意味が全く違うわけです。

さて、それでもオバマ大統領が広島訪問にこだわったのは、もちろん就任直後に核廃絶を謳った09年のプラハ演説(ノーベル平和賞を受賞したきっかけです)の締めくくりを任期最後の年に行いたいという思いがあったのでしょう。でもこの間、世界の事情は大きく変わりました。「イスラム国」の台頭で核兵器は米ロ中といった国家間での交渉だけの問題ではなくなりました。世界の核管理の問題がより複雑になり、そこに北朝鮮やイランなどの不確定要素も加わって、核廃絶の道は遅々として進まないままです。

日本の事情もありました。鳩山政権時の09年にオバマ大統領が広島訪問を日本側に打診した際には、当時の藪中外務次官がルース駐日大使に「反核団体」や「大衆」の「期待」を「静めなければならない」ため「時期尚早」と自ら断っていたのです。民主党政権の得点になるようなことを、一官僚が個人的な忖度で回避したのだという見方もあります。

その後もオバマ大統領は広島訪問を探りますが、やがて与党に返り咲いた自民党・安倍首相が靖国参拝を断行したりハドソン研究所で「私を軍国主義者と呼びたい人はどうぞ」とスピーチしたりで日米関係は最悪になります。

それでもオバマ政権の嫌悪感をよそに憲法改定への道を探りたい安倍首相は、集団的自衛権の容認及び法制化で、米国(特に国防省)に擦り寄る作戦に出ました。同時に米国(これは国務省です)の強い要請のあった懸案の韓国との表面上の和解も果たして、外交的にも鎮静化を図ります。そうして伊勢・志摩サミットの開催で、オバマ広島訪問のお膳立てがそろったのです。

米側、というよりも任期最後の大統領の個人的な思いと、安倍首相の狙う平和憲法改定へ向けての参院選挙あるいは衆参同時選挙のタイミングが、ここで合致します。そこで広島の平和記念碑の前で日米トップのツーショットが世界に発信されるのです。この辺の安倍政権の算段は、偶然もありましょうが実に見事と言わねばなりません。

***

実は71年前の原爆投下の後で、7人いるアメリカの5つ星元帥及び提督の6人までが(マッカーサーやアイゼンハワー、ニミッツらです)原爆は軍事的に不必要で、道徳的に非難されるべきこと、あるいはその両方だと発言しています。その中の1人、ウィリアム・リーヒー提督は、原爆使用は「"every Christian ethic I have ever heard of and all of the known laws of war.(私の聞いたすべてのキリスト教的倫理、私の知るすべての戦争法)」に違反していると指摘し、「The use of this barbarous weapon at Hiroshima and Nagasaki was of no material assistance in our war against Japan. In being the first to use it we adopted an ethical standard common to the barbarians of the dark ages.(この野蛮な兵器を広島・長崎で使用したことは、日本に対する我らの戦争において何ら物理的支援ではなかった。これを使用する最初の国になることで、我々は暗黒時代の野蛮人たちに共通する倫理的基準を採用したのだ」とまで言っています。

これらはアメリカン大学のピーター・カズニック教授の「The Untold History of US War Crimes」(米国の戦争犯罪に関する語られない歴史)というインタビュー記事に中に出ています。

それによれば、戦争末期には日本の暗号はすべて米側に解読されていて、日本の軍部の混乱がつぶさにわかっていたのです。マッカーサーは「日本に対し、天皇制は維持すると伝えていたら日本の降伏は数ヶ月早まっていただろう」と発言しています。実際、1945年7月18日の電報傍受で、トルーマン大統領自身が「the telegram from the Jap emperor asking for peace.(日本の天皇=ジャップ・エンペラーからの和平希望の電報)」のことを知っていました。トルーマンはまた、欧州戦線の集結した1945年2月のヤルタ会談で、スターリンが3か月後に太平洋戦争に参戦してくるのに合意したと知っていました。その影響の大きさも。4月11日の統合参謀本部の情報部の分析報告ではすでに「If at any time the USSR should enter the war, all Japanese will realize that absolute defeat is inevitable. ソ連の参戦は、日本人すべてに絶対的な敗北が不可避であることを悟らせるだろう」と書いてあるのです。

さらに7月半ばのポツダムで、トルーマンはソ連の参戦を再びスターリンから直に確認しています。その時のトルーマンの日記は「Fini Japs when that comes about. そうなればジャップは終わり」と書いてあって、翌日には家で待つ妻宛の手紙で「We'll end the war a year sooner now, and think of the kids who won't be killed. 今や戦争は一年早く終わるだろう。子供達は死なずに済む」と書いていました。もちろん、日本の指導者達はそのことを知らなかったのです。

そして広島と長崎の原爆投下がありました。マッカーサーは広島の翌日に自分のパイロットに怒りをぶつけているそうです。そのパイロットの日記に「General MacArthur definitely is appalled and depressed by this Frankenstein monster. マッカーサー元帥は本当にショックを受けていて、このフランケンシュタインの怪物に滅入っていた」と記されていました。「フランケンシュタインの怪物」とは、人間の作ってしまったとんでもないもの、つまりは原爆のことです。

ただし、原爆が日本の降伏を早めた直接の契機ではなかったのです。46年1月、終戦直後の米戦争省の報告書は(最近になってワシントンDCの米海軍国立博物館が公式に見つけたものです)"The vast destruction wreaked by the bombings of Hiroshima and Nagasaki and the loss of 135,000 people made little impact on the Japanese military. However, the Soviet invasion of Manchuria … changed their minds."(広島と長崎の爆弾投下によってもたらされた広範な破壊と13万5千人の死は日本の軍部へ少ししか衝撃を与えなかった。しかし、満州へのソビエトの侵攻こそが彼らの意見を変えた)として、日本の降伏を早めたのは原爆ではなくてソ連の満州侵攻だったのだと分析しています。

あの当時、戦争の現場にいて原爆の非情な威力を目の当たりにした軍部のトップ達はおそらく自分たちの軍が犯したその行為の「結果」に、恐れをなしたのだと思います。それはしかし、取り返しも何もつくものではなかった。だから歴史を「語り直す」作業がそこから始まったのでしょう。「日本は原爆によって降伏を早めたのだ」と。「日本の本土決戦で奪われたであろう50万人のアメリカ兵の命と、やはり犠牲になったであろう数百万人の日本人自身の命をも救ったのだ」と。

***

今は語られていないその歴史も、「戦争」を冷静に見ることのできる世代が育ち上がればやがて米国の正史になるかもしれません。それはひょっとすると数年先のことかもしれません。

でもその前に、次に安倍首相が真珠湾で謝罪し、さらに「トランプ大統領」が回避されれば、という条件が必要でしょうが。

April 20, 2016

個人的なことは政治的なこと

ニューヨークの予備選では「勝ち方」が問題でした。クリントンもトランプも有利が伝えられていましたから、あとはどのくらいの差で勝利するかだけがポイントでした。特に両候補とも直前の他州での”負け方”が気になっていたので、トランプはこのままでは7月の党大会の前に大議員数で過半数に達しないのではという懸念が生まれていたのでなおさらです。

民主党のクリントンとサンダーズの場合は得票率の差が二桁になるか一桁になるかがカギでした。十数%ポイントならクリントンの強さが示されて指名獲得へやっと最終ストレッチに入ることになります。逆に10%ポイント以下ならサンダーズの強さが改めて示され、まだもつれる可能性がありました。開票直後のCNNは独自の出口調査からかその差が開いていないとしてクリントンに当確を打つのをためらっていたから、クリントン陣営はヒヤヒヤだったでしょう。もっとも、結果はCNNの出口調査を全く裏切る15%ポイント差と、予想以上の大差でしたが。

一方の共和党はさすがに「ニューヨークの価値観」を非難した宗教右翼クルーズを選ぶわけにもいかず、トランプ以外に投票する積極的な動機はなかったのでしょう。かろうじてケイシックが2位につけたのはニューヨークの”良心”だったでしょうか。しかし60%もの得票率でNY州代議員95人をほぼ総取りできたのは、危ぶまれた指名獲得を引き戻した感もあります。

IMG_1331 (1).jpg


それにしても今回の選挙で思うのは人々の個人的な本音の思いの強さです。ロングアイランドシティ、イーストリバー沿いのサンダーズの集会に行って話を聞くと、みんな口々に「政治的革命だ」と言います。「解決策(リゾルーション)がないなら革命(リボリューション)だ」というTシャツのアフリカ系の女性もいました。「クリントンはウォール街から巨額の選挙資金を受け取っているから金持ち優遇を止められるはずがない」と吐き捨てる黒人男性もいました。確かに1回の講演料が20万ドルとか30万ドルとか言われ、昨年から3回講演したゴールドマン・サックスでは計60万ドル(現レートで6600万円)が支払われたというので「こりゃダメだ」と思ったかつての支持者たちのサンダーズ流れが加速してもいるのでしょう。

上位1%の富裕層が世界全体の富の半分以上を所有していると言われます。先日、ボストン大学で講演してきましたが(私の講演料は数百ドルですw)、そこで聞いたのは米国の大学の授業料はいまや年間6万ドルもして、学生たちには卒業時には10万ドル台のローンがのしかかっているという話でした。聴衆の学生たちは中国の富裕層の子女もかなり目立ちました。講演が終わって雑談や立ち話になって、その中の1人の女子学生がニューヨークでいちばんの日本レストランはどこかと聞いてきました。私が「東京レベルの素晴らしい店もあるけど、すごく高いよ」と応えると、「大丈夫、お父さんに頼むから」と言われました。

若者たちにさえそんな歴然とした格差が存在する。そしてそれは米国内だけではなく世界単位で進んでいます。私たちを取り巻くそんな現状にはもう処方箋など残っていず、「革命だ」と叫ぶ以外にないような気がするのはわかります。

IMG_12411.jpg

何度も言いますが、米国はそうした個人の本音を公的な建前に昇華して歴史を作ってきた国です。黒人奴隷の問題は「私」的財産だった黒人たちが公民権という「公」の人間になる運動に発展しました。女性たちは60年代に「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを手にして社会的な存在になりました。そして同性愛者たちも「個人的な性癖」の問題ではなく人間全部の「性的指向」という概念で社会の隣人となり結婚という権利をも手にしました。

それらの背景には私的な問題を常に社会的な問題に結びつけて改革を推し進めようという強い意志と、それを生み出し受け止める文化システムがありました。「私」と「公」の間に回路が通っている。そうでなければ「本音」はいつまでたってもエゴイズムから旅立てません。その双方向の調整装置が最大に稼働するのがこの4年ごとの大統領選挙なのでしょう。

日本ではなかなかこの私的な「本音」が公的な「建前」に結びつきません。「建前」はいま「偽善」だとか「嘘」だとかという意味が付随してしまって、人々から軽んじられ、嫌われ、疎まれてさえいる。

しかし考えてもみてください。理想、理念はすべて建前の産物です。「人権」も建前、「差別はいけない」も建前、「平等」も「公正」も「正義」もみんな建前を追求して獲得してきたものです。ところがそういうもの一般が、日本ではあまり口にされない。口にする人間はいま「意識高い系」と呼ばれて敬遠されさえします。だから問題を言挙げすると「我慢している人もいるのに自分勝手だ」「目立てばなおさら事態が悪くなる」と足を引っ張る。そうして多くの個々人が感じている不具合は、公的に共有され昇華されるより先に抑圧される。

日本をより美しくするにはこの「私」と「公」とをつなぐ回路を作らねばなりません。「個人的なことは政治的なこと The Personal is Political.」という50年も前の至言を知らねば、いまアメリカで起きているこの「革命」めいた混乱を理解することもできないのだと思います。

February 23, 2016

丸山発言のヤバさ

CNNが「日本の国会議員が『黒人奴隷』発言で謝罪」という見出しで報道した自民党の丸山議員の発言は、大統領=オバマ=黒人=奴隷という雑な三段(四段?)論法(というか単純すぎる連想法)が、人種という実にセンシティブな、しかも現在進行形の問題で応用するにはあまりにもお粗末だったという話です。たとえ非難されるような「意図」はなかったとしても、そもそも半可通で引き合いに出すような話ではありません。とにかく日本の政治家には人種、女性、性的マイノリティに対するほとんど無教養で無頓着な差別発言が多すぎます。

この人権感覚のなさ、基準の知らなさ具合というのは、何度もここで指摘しているようにおそらく外国語情報を知らない、日本語だけで生きている、という鎖国的閉鎖回路思考にあるのだと思います。日本では公的な問題でもみんな身内の言葉で話すし、そういう状況だと聞く方も斟酌してくれる、忖度してくれる→そうするとぶっちゃけ話の方が受けると勘違いする→すると決まって失言する→がその何が失言かも勉強しないまましぶしぶ謝罪して終わる→自分の中でうやむやが続く、という悪循環。そういう閉鎖状況というのは昭和の時代でとっくに終わっているはずなのに、です。

かくして丸山発言は当事者の米国だけではなく欧州、インド、ベトナム、アフリカのザンビア等々とにかく全世界で報じられてしまいました。

このところこのコラムで何度も繰り返している問題がここにもあります。日本では本音と建前の、本音で喋るのが受けるという風潮がずっと続いています。建前は偽善だ、ウゾっぽい、綺麗事だ、とソッポを向かれます。だから本音という、ぶっちゃけ話で悪ぶった方がウケがいい。

しかし世界は建前でできています。綺麗事を目指して頑張ってるわけです。綺麗事のために政治がある。そうじゃなきゃ何のために政治があるのか。現状を嘆きおちょくるだけの本音では世界は良くなりはしない。

まあ、トランプ支持者にはそういう綺麗事、建前にうんざりしている層も多いのですが、CNNはじゃあこの丸山議員はわざと建前を挑発して支持者を増やそうとする「日本のトランプなのか?」と自問していて、しかし、そうじゃない、単に「こうした問題に無関心かつ耳を傾けないこの世代を象徴する政治家だ」と結論づけているのです。

さてしかし私は、今回のこの丸山発言、問題は報道されたその部分ではなくて実はその前段、「日本がアメリカの51番目の州になり、日本州出身の大統領が誕生する」と話した部分なんだと思います。

発言はこうです。日本が主権を放棄して「日本州」というアメリカの「51番目の州」になる。すると下院では人口比で議員数が決まるからかなりの発言力を持つし、上院も日本をさらに幾つかの州に分割したらその州ごとに2人が議員になれるから大量の議員役も獲得できる。さらに大統領選出のための予備選代議員もたくさん輩出するから「日本州出身大統領」の登場もおおいにあり得るぞという話。そこでこの「奴隷でも大統領になれる国」という発言が飛び出すのです。

日本がアメリカの属国状態だというのは事実認識としてわかりますが、しかし「日本が主権を放棄する」って「売国」ですか? いやもっと言えば、売国するフリしてアメリカを乗っ取ってしまおう、って話じゃありませんか?

これはヤバいでしょ。しかしそこはあまり問題にならないんですね(日本のメディアが詳報しないんで外国通信社もそこを報道しないため気づかれていないということなんでしょうが)。ま、日本のメディアが報道しないのは、そういうのはどうせ居酒屋談義だと知ってるからでしょうけど、政治がこういう居酒屋談義、与太話で進んでいる状況というのはいかがなんでしょうか。そして何より、この丸山発言に対して、当の自民党が総裁を始め幹部一同まで明確にはたしなめも断罪もしないという状況が、対外的メッセージとしてはそれを容認しているということになってしまって(まあ、事実そうなんですけど)さらにヤバいと思うのですが。

February 16, 2016

映画『あん』を観て

帰国便の機内で河瀬直美監督の「あん」という日本映画を見ました。永瀬正敏演じる訳ありのどら焼き屋さんに、樹木希林演じるお婆さんが仕事を求めて訪れて、絶品のあん作りを伝授する、というお話です。

美しい桜の景色から始まる物語は淡々と、けれど着実に進んで行きます。なるほどよくあるグルメ映画かと思う頃に、最初に描かれたお婆さんの手指の変形という伏線が顔を出してきます。彼女はほど遠からぬ所にある「らい病」つまりハンセン病患者の施設(旧・隔離施設)から通っていることが明らかになり、その噂で客足も遠のくことになるのです。

心にしみる佳作です。お婆さんはその店でのアルバイトを辞して「園」に戻ります。映画は「世間」の偏見と無理解とに直接対峙するわけではありません。店主の無言の悔しげな表情と、そして常連だった女子中学生と2人しての「園」訪問と再会とが、かろうじてこの病気を取り巻く「差別」と「やるせなさ」の回収に機能します。そして映画は観客の心に何らかの種子を植え付けて終わるのです。

一人一人の心の底に染み渡りながら、しかしその「種子」が「私」の土壌から芽吹いて「公」の議論に花開くことはあるのだろうかと思ったのは、翻ってアメリカの大統領選挙のことを考えたからでした。米国では4年に1度、全国民レベルで「私」たちが「公」の議論を戦わせる大いなる機会があります。というよりむしろ米国という国家そのものが、「私」の領域を「公」の議論に移し替えて成立、発展してきたものでした。

黒人奴隷の問題は「私」的財産だった黒人たちが「公民権」という「公」の人間になる運動に発展しました。女性たちは60年代に「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを手にして社会的な存在になりました。そして同性愛者たちも「個人的な性癖」の問題ではなく人間全部の「性的指向」という概念で社会の隣人となり結婚という権利をも手にしました。

それらの背景には個人的な問題を常に社会的な問題に結びつけて改革を推し進めようという強い意志と、それを生み出し受け止める文化システムがありました。顧みれば社会問題に真っ向から取り組むハリウッド映画のなんと多いことよ。

人権や環境問題では地下水汚染の「エリン・ブロコビッチ」やシェールガス開発の裏面を描いたマット・デイモン主演の「プロミスト・ランド」がありますし、戦争や権力の非道を告発したものは枚挙にいとまがありません。ハンセン病に匹敵する「死病」だったエイズでもトム・ハンクスの「フィラデルフィア」などが真正面から差別を告発しています。今年のオスカーで作品賞などにノミネートされている「スポットライト」はカトリック教会による幼児虐待問題を真正面から追及するボストングローブの記者たちの奮闘を描いています。

映画としてどちらの方法が良いかという問題ではありません。アメリカはとにかく問題をえぐり出して目に見える形で再提出し、さあどうにかしようと迫る。彼我の差は外科手術と和漢生薬の違い、つまりは文化の違いなのでしょう。でも、後者は常に問題の解決までにさらなる回路を必要とするし、あるいは解決の先送りを処世として受け入れている場合さえあります。かくして差別問題は日本では今も多く解消されず、何が正義なのかという議論もしばしば敬遠され放置される……。

映画としての良し悪しではない。けれど社会としての良し悪しはどうなのでしょう? 個人の心に染み渡らねば問題の真の解決はないでしょう。しかし一方でそれを社会的な問題として言挙げしなければ、迅速な解決もない。その両方を使いこなす器量を、私たちはなぜ持ち合わせられないのかといつも思ってしまうのです。

February 02, 2016

偽善vs露悪

初戦アイオワでのトランプの敗北は、トランプ人気が実は「面白がり屋」たちの盛り上がりで支えられているということなのかもしれません。選挙はやはりその土地で実際に歩き回る「どぶ板選挙」のような運動が下支えするのでしょう。もっとも、来週のニューハンプシャーなど、これ以降の州ではあいかわらずの強さを示しているようですが。

対して民主党の方はクリントンとサンダーズが事実上の引き分けです。当初は(社会主義者と自称するがゆえに)泡沫とみられていたサンダーズがここまで健闘する背景には、若者たちに広がる社会格差感が(社会主義的メッセージを必要と感じるほど)深刻だということなのかもしれません。サンダーズはニューハンプシャーではクリントンを破るだろうと予想されています。

それにしてもアメリカはどうしてこうも大統領選挙で盛り上がるのでしょうか? 4年に1度の政治的お祭り、と言うのはわかりますが、どうしてその「政治」イベントが「お祭り」のようになるのでしょう?

政治が盛り上がるのは、この国では人間が社会的存在として成立するからじゃないかと思います。「有権者=社会的人間」として「投票=社会的行動」するためにあちこちで「政治=社会的言説」を語る。社会的言説とは「建前=理想と正義」を語って他人と生き方を共有することです。すなわち「社会」を作ることです。アメリカの政治社会史とは、黒人の公民権運動をはじめとして女性の権利、性的少数者の権利など、一人一人が「公民」=社会的存在になるためのうねりだったのですね。

ですから、社会的言説(建前)が必要で、それにコミットしたいと思うのは、基本的にはマイノリティの心性なんです。私的で個人的な言説では埒があかないので、次元を上げて社会の在り方を問題にする。個人の好み(本音)だけではない、どんな社会を求めるべきかを語らねばならない、という自覚。

そう、アメリカの今はみんながどこかでマイノリティだと自覚している時代なのです。人種や性指向に限らず、社会的にも経済的にも、価値観が多様になればなるほどみんながそれぞれのマイノリティです。だからこそそれぞれの場所で社会的言説(建前)がさらに必要になる。

大統領選挙というのはまさにそんなおおっぴらな社会的言説(政治)が許される、奨励される場なんですね。それは盛り上がるはずです

対して昨今の日本社会はどうでしょうか? 私たちはいつの間にか建前(社会的言説)を語ることがとても格好悪いことだと思うようになってきました。本音で生きようよ、と。

そういえば同調圧力の強い日本ではみんなが自分をマジョリティだと思いたがる。マジョリティという安心感があれば、それ以上の建前はあまり必要ないんですね。「本音で生きよう」とはつまり、すべてを個人的な領域で片付けることです。正義と理想は、ナニ格好つけてんだよ、となる。それは「偽善」で、個人の好みをあけすけに語る「露悪」にこそ価値が置かれる。それは当然、社会的存在としての人間を「偽善」として忌避する傾向につながります。よって露悪趣味のネット右翼が声を張り上げる。

実はこれまでのトランプの主張もこの「露悪」を利用したものでした。「政治的正しさ(PC)」を「偽善」として叩き、人間の、生物としての防御本能や恐怖という「本音」を前面に押し出して「私的正しさ」を主張してきた。

その意味で、私は今回の大統領選挙を、まさにこの「建前=公民=PC=偽善」と「本音=私民=非PC=露悪」の戦いの最たるものとしても見ています。

December 08, 2015

排除と防衛の本能

6日に行われたフランスの地方選で極右政党の「国民戦線」が記録的な支持を集めました。得票率は全体の28%。5年前の前回選挙では11%でしたから2倍半にも増えました。全13の選挙区のうち半分近い6選挙区で首位、しかも党首マリーヌ・ルペン(47)とその姪の副党首マリオン・マレシャル・ルペン(25)は、それぞれ40%超の票を獲得したのです。

130人もが殺害された11月のパリ同時多発テロの不安が「反EU」「反移民」を訴える同党への共感を呼んでいるのでしょう。

同じことがカリフォルニア州の銃乱射テロでも言えます。共和党大統領候補ドナルド・トランプは例によって全てのイスラム教徒の米国渡航を禁止すべきだと主張し始め、支持率をさらに上げています。

銃規制問題も、こういう事件が起きるたびに米国社会には「銃規制すべきではない」「自分と家族を守るために銃所持は必要」という世論も逆に高まるのです。

これまで、米国で最も銃が売れた1日は3年前の12月21日でした。この日の1週間前、コネチカット州ニュータウンで26人殺害の例の「サンディフック小学校銃撃事件」が発生していたのです。

今年のブラックフライデーでも、過去最高の18万5千件以上の銃購入犯歴照会すなわち過去最高の銃セールスがありました。もっともブラックフライデーに限らず、銃の売り上げ自体も今年は年間を通して例年より増加しています。というか、4人以上が死傷した銃乱射事件自体が今年はすでにカリフォルニアの事件で355件目。こういうのを「負のスパイラル」というのでしょうか。

「反EU」「反移民」「難民規制」「反イスラム」「反銃規制」──これらはすべて人間として当然の防衛本能から始まっていることです。私たち人間は、経験則からも常に「悪いことが起きる」と想像してそれに対処できるようまずは身構えることから始めるようにできています。何かいいことがあるはずと想像してガッカリするよりも、初めに悪いことを想像していればそう落ち込まずにも済む、という先回りした自己防衛です。

しかしそればかりでは人間生活は営めません。周囲に戦々恐々としているだけでは友情も共存も平和すらも訪れません。つまりは繁栄もない。「己を利する」ことだけを考えていては結局周囲の反感を買って「己を利する」ことができなくなるという「利己主義」の矛盾がそこにあります。

「防衛」も似た矛盾を抱えています。究極の防御は「予防的防衛」です。「予防的防衛」は「予防的先制攻撃」にすぐにシフトします。そして「予防的攻撃」に専心すれば相手側も先に予防的攻撃を防ぐ予防的攻撃を画策するでしょう。

それが軍拡競争でした。7万発という、人間世界を何度滅ぼせばいいのかというレベルの核兵器が存在した80年代冷戦期の愚蒙を経て、私たちはその矛盾を知っていたはずでした。

それでも背に腹は変えられない。まずは生き延びねば話にならない。それはそうです。しかしそういうことを主張する人々が「防衛」の後の「共存」の展望を、「利己」の後の「利他」の洞察を、ほとんど度外視しているふうなのは何故なのでしょう。その人たちの脳はマルチタスクではないのでしょうか?

フランスやアメリカを笑ってはいられません。中国の脅威だ、北朝鮮のミサイルだ、と同じパニック感を背景に日本でもいま、平和共存の理念が排除防衛の本能に置き換わろうとしています。

背に腹は変えられません。が、背と腹はともに存在して人間なのです。

November 16, 2015

11.13と9.11

思えば14年前、私たちニューヨークに住む者たちは今のパリの人々と同じ恐怖と不安と怒りと悲しみとを共有していました。あのころアメリカには星条旗が溢れ、同じように「普段と同じ生活を続けよう。家にこもっていたらテロに屈したことになる」という呼びかけが誰からともなく発せられ、世界中から数限りない追悼と支持のメッセージが寄せられました。

ただ、14年前と今ではなにやら受け取り方が違うところもあります。Facebookではパリ市民への支援といたわりを込めて自分のアイコンにフランス国旗の三色を重ねる人が急増していますが、一方でパリ事件の前日にあった43人死亡のベイルートでの連続テロ事件には何ら大きな反応を示さなかった大多数の「自分」たちに、「この違いは何なのだろう」という疑問が浮かんでいます。FBが、パリ事件で急きょ適用した安否確認機能も、ベイルートやその他のテロ事件では有効にしなかったことへの批判が起きました。

思えば2001年のあの当時は、欧米はまだ自分たちが「無実の被害者」であることを信じていた時代だったのかもしれません。もっとも、現在のテロ戦争へと連なる動きは直接的には1979年のソ連アフガン侵攻あたりから始まってはいたのです。その時アメリカはソ連に対抗してアフガニスタンの反政府勢力に武器を提供しました。それがイスラム原理主義勢力で、そこにオサマ・ビン・ラーデンもいた。

やがてソ連は侵攻に失敗し91年の崩壊につながりました。中東ではイラクのクウェート侵攻と湾岸戦争の勃発、そしてアフガンの無秩序状態と内戦が始まりました。タリバン、アルカイダは、そんな背景から起ち上がってきたのですから。

でも、それは世界貿易センターの崩壊という圧倒的な事件の前では吹っ飛んでいました。世界はアメリカを支持し、ビン・ラーデンは世界の悪者となり、やがてそれはサダム・フセインにも向けられて、米英などの「有志連合」によるイラク戦争へと突入していったのです。

フランスに溢れる「パリは恐れない」というスローガン、「我々はパリとともに立つ」というメッセージ──ニューヨークも同じものを経験しました。私はいまも、そこから起きた労わりと善意と親切と癒しとを忘れていません。そして同時に、狂騒と間違いをも。

イラク戦争の大義名分だった「大量破壊兵器」は虚偽でした。そしてそのウソから始まった戦争がイラクの混乱を招き、タリバン、アルカイダに続く原理主義「イスラム国」を生み出した。

私たちはもうそれを知っています。パリの虐殺に対し、FBの三色旗アイコンに賛否が分かれるのも、シリア出身の女性の「敬愛するパリよ、貴女が目にした犯罪を悲しく思います。でもこのようなことは、私たちのアラブ諸国では毎日起こっていることなのです。全世界が貴女の味方になってくれるのを、ただ羨ましく思います」というツイートがたちまち世界中に拡散しているのも、私たちは世界がすでに「あの時」よりも複雑になってしまったことを知っているからなのでしょう。

政治家に求められているのは常に、直近の問題解決能力と10年後のより良い未来を作る能力です。しかしその2つが両立しない場合、前者を行えば後者が成立しない場合、「目には目を」が世界を盲目にするだけの場合、私たちはどうすればよいのか? その難問がいま私たちに突きつけられています。

日本のある若手哲学者が「まいったな。これが21世紀か」と嘆いていました。ええ、これが21世紀なのでしょう。

November 09, 2015

旭日大綬章

ジャパンハンドラーとして有名なリチャード・アーミテージやブッシュ政権での国防長官ドナルド・ラムズフェルドの2人が秋の叙勲で旭日大綬章を受けることが発表されたその翌日、イラクの政治家アフマド・チャラビが自宅で心臓発作で死亡していたとの報が届きました。この取り合わせに興を殺がれたのは私だけでしょうか。

このチャラビという人物がアメリカを誘導してイラク戦争に突入させたのです。いえ、それにはもちろんチャラビを利用してイラクに介入し、中東におけるアメリカ戦略を有利に進めようとしたラムズフェルドらネオコン一派がいたことが背景でした。

チャラビはイラク・シーア派の名家の出で、16歳でマサチューセッツ工科大学に入るなど神童と呼ばれた人物。サダム・フセイン時代には国外に亡命していた反フセイン運動の政治策士でした。

憶えていますか? イラク開戦の理由は、9.11から続く対テロ戦争の流れで「イラクは核や生物化学兵器など大量破壊兵器を隠し持っている」というものでした。それが嘘だったことは今では明らかで、イラク進攻に前のめりだった当時のブレア英首相も先月、CNNのインタビューに答えて「情報が間違っていた」と謝罪したほどです。なぜそんな情報が流れたのか?

そこに反体制派組織イラク国民会議(INC)の代表のチャラビがいました。フセインの追放を目指していた彼が、ここぞとばかりに大量破壊兵器のニセ情報を軍事機密として売り込んだのです。「フセインに虐げられているイラク国民がアメリカの進攻を待ち望んでいる」「フセインを追放したらアメリカは解放者として歓迎される」とラムズフェルドや同じくネオコンの筆頭格ポール・ウォルフォウィッツ国防次官(当時)に信じ込ませたのも彼でした。

精緻に仕組まれたニセ情報だとしてもネオコンたちはなぜかくも簡単にそれを信じたのか? ネオコンは親イスラエルです。そのネオコンのパトロンたちに、チャラビはフセイン後に自分がイラクの指導者になれば、イラクをアラブ民族主義から脱却させて民主化し、その上でイスラエルと和平を結んでイスラエル企業がイラクでビジネスできるようにする、イラク北部のモスル油田とイスラエルの製油港はイファをつなぐパイプラインを作る、とも約束していたからです。

人は信じたい未来しか信じないと言いますが、米国とイスラエルの抱える難題を一気に解決するこの中東再編の「夢物語」にラムズフェルドらはまんまと引っかかったのでした。

この経緯はマット・デイモンが主役を務めた『グリーン・ゾーン』という映画にもなっています。懸命に大量破壊兵器を探しても見つからず、そのうちに国防総省の大変な情報操作と陰謀とが明らかになっていくという映画です。これに登場する亡命イラク人「アフマド・ズバイディ」のモデルがチャラビでした。

フセイン憎しの私怨と金儲けしか頭になかったようなチャラビは、果たしてイラクでも全く人望もなく、ラムズフェルドらがイラク新政権の首班に置こうとしたのも当然のように失敗しました。かくしてブッシュ政権ネオコン一派が夢見た「新イラク」は破綻し、そのゴタゴタを縫って「イスラム国」という化け物が誕生したのです。

その責任の一端にチャラビがいます。そしてもう一端にラムズフェルドらがいる。チャラビは暗殺もされかけましたが結局は自宅のベッドの上で病死しました。そしてイラク戦争の「戦犯」と批判されるラムズフェルドは安倍政権からは旭日大綬章を贈られるのです。

October 15, 2015

一億総活躍

第三次安倍改造内閣の目玉ポストと位置付けられている「一億総活躍」担当相とはいったい何なのか、海外メディアが説明に困っています。ウォールストリート・ジャーナルはこれを有名な映画の題に掛けて「ロスト・イン・トランスレーション」と見出しを打って説明しています。

そもそも「一億総ナントカ」というのは日本語でこそ聞き慣れてはいますが、外国語においては熟語ではないのでどう呼ぶのか思案にくれるわけでしょう。アベノミクスの「新3本の矢」を強力に推進していくというのですが、「強い経済」なら経済再生相、「子育て支援」と「社会保障」なら厚労相とどう違うのかもよくわからない。そんな内容以前にまずはそのネーミングをどう翻訳するかもわからない、というわけです。

WSJ紙はまず直訳を試みます。「All 100 Million(一億総)Taking Active Parts(積極参加)」。ところが「ワン・ハンドレッド・ミリオン」が日本国民のことだとは普通はわかりません。「アクティヴ・パーツ」は何への参加なのかもわからない。

そこで米国の通信社であるAP電の表記を引いてみます。するとAPは「一億」の部分の翻訳を諦めていて、で、「経済を強化し出生率を増やすことで人口を安定させ国家が浮揚し続けることができるようにする大臣」としていました。

これでは長すぎて話になりません。ではその内容をよく知っている日本の新聞の英字版はどうなんだろうと、そちらを当たってみます。すると毎日新聞は「minister to promote '100 million active people'」(一億の活動的な国民をプロモートする大臣)。読売は「promoting dynamic engagement of all citizens」(全市民のダイナミックな参画を推し進める)。ジャパンタイムズは、これまた長いですが「minister in charge of building a society in which all 100 million people can play an active role」(一億国民全員が積極的役割を担えるような社会を建設する担当大臣)。

ところがロイター電はちょっと違っていました。一応の説明をした後で安倍首相の「一億総〜」のスローガンを「戦時中のプロパガンダの不気味な残響」と注釈したのです。そうです、あの「一億総特攻」とか「一億総玉砕」「一億総懺悔」です。

そもそも「一億総〜」というネーミングはこれまで、戦中のプロパガンダへの反省や揶揄を込めて「一億総白痴化」だとか「一億総中流」だとかといった、何らかの恥ずかしさを伴った批評の文脈でしか使われてきませんでした。

そもそも「一億総〜」というネーミングは、戦後70年かけて培ってきた、一人一人が違っていいのだという成熟した民主社会とは真逆の呼びかけです。「神は細部に宿る」というせっかくの気づきを台無しにするベタ塗りの文化です。

そういえば「行きすぎた個人主義」だとか「利己的」だとかは安倍政権周辺の人たちが最も好む、パタン化した非難のフレーズです。「一億総〜」というのは確かに「個」ではなく「全体」を重視する発想ですしね。

そんなことを考えていたらある人から「一億総活躍」にピッタリの英語熟語があると言われました。「ナショナル・モービライゼーション National Mobilization」。国家国民を(National)全て動かすこと(Mobilization)、はい、すなわち日本語の熟語で言うところの「国家総動員」という言葉です。

ちなみにこの新大臣に任命された安倍首相の右腕、加藤勝信衆院議員は「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい」などの政府批判メディア弾圧発言が相次いだ自民党「文化芸術懇話会」の顧問格でした。

一億総活躍

第三次安倍改造内閣の目玉ポストと位置付けられている「一億総活躍」担当相とはいったい何なのか、海外メディアが説明に困っています。ウォールストリート・ジャーナルはこれを有名な映画の題に掛けて「ロスト・イン・トランスレーション」と見出しを打って説明しています。

そもそも「一億総ナントカ」というのは日本語でこそ聞き慣れてはいますが、外国語においては熟語ではないのでどう呼ぶのか思案にくれるわけでしょう。アベノミクスの「新3本の矢」を強力に推進していくというのですが、「強い経済」なら経済再生相、「子育て支援」と「社会保障」なら厚労相とどう違うのかもよくわからない。そんな内容以前にまずはそのネーミングをどう翻訳するかもわからない、というわけです。

WSJ紙はまず直訳を試みます。「All 100 Million(一億総)Taking Active Parts(積極参加)」。ところが「ワン・ハンドレッド・ミリオン」が日本国民のことだとは普通はわかりません。「アクティヴ・パーツ」は何への参加なのかもわからない。

そこで米国の通信社であるAP電の表記を引いてみます。するとAPは「一億」の部分の翻訳を諦めていて、で、「経済を強化し出生率を増やすことで人口を安定させ国家が浮揚し続けることができるようにする大臣」としていました。

これでは長すぎて話になりません。ではその内容をよく知っている日本の新聞の英字版はどうなんだろうと、そちらを当たってみます。すると毎日新聞は「minister to promote '100 million active people'」(一億の活動的な国民をプロモートする大臣)。読売は「promoting dynamic engagement of all citizens」(全市民のダイナミックな参画を推し進める)。ジャパンタイムズは、これまた長いですが「minister in charge of building a society in which all 100 million people can play an active role」(一億国民全員が積極的役割を担えるような社会を建設する担当大臣)。

ところがロイター電はちょっと違っていました。一応の説明をした後で安倍首相の「一億総〜」のスローガンを「戦時中のプロパガンダの不気味な残響」と注釈したのです。そうです、あの「一億総特攻」とか「一億総玉砕」「一億総懺悔」です。

そもそも「一億総〜」というネーミングはこれまで、戦中のプロパガンダへの反省や揶揄を込めて「一億総白痴化」だとか「一億総中流」だとかといった、何らかの恥ずかしさを伴った批評の文脈でしか使われてきませんでした。

そもそも「一億総〜」というネーミングは、戦後70年かけて培ってきた、一人一人が違っていいのだという成熟した民主社会とは真逆の呼びかけです。「神は細部に宿る」というせっかくの気づきを台無しにするベタ塗りの文化です。

そういえば「行きすぎた個人主義」だとか「利己的」だとかは安倍政権周辺の人たちが最も好む、パタン化した非難のフレーズです。「一億総〜」というのは確かに「個」ではなく「全体」を重視する発想ですしね。

そんなことを考えていたらある人から「一億総活躍」にピッタリの英語熟語があると言われました。「ナショナル・モービライゼーション National Mobilization」。国家国民を(National)全て動かすこと(Mobilization)、はい、すなわち日本語の熟語で言うところの「国家総動員」という言葉です。

ちなみにこの新大臣に任命された安倍首相の右腕、加藤勝信衆院議員は「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい」などの政府批判メディア弾圧発言が相次いだ自民党「文化芸術懇話会」の顧問格でした。

October 10, 2015

断言の条件

物事は、知れば知るほど断言することが難しくなります。情報が多ければ多いほど判断がつかなくなる。他人に非難されるようなことになった友人を、それでも私たちがなかなか断罪できないのは、友情と同時に、その彼/彼女のいろんな事情を、つまりは情報をたくさん知っていて一概に、一面的に、簡単に断ずることがはばかれるからです。

ニューヨーク在住の複数の関係者に、あるテレビ番組の下請け会社から問い合わせのメールが届いています。年末の番組で特集をしたいので「海外にある日本文化の勘違い料理店やカルチャースクールを探しております」というのです。なので知っていたら教えてほしい、と。

昨今の海外での日本ブーム、クールジャパン展開もあります。その中で「勘違いのニッポン」を探すのは、敢えて予断で言えば、それは日本国内で「嗤い合う」ためでしょうか? それとも10年近く前に農水省がやろうとして「そんな上から目線で」と批判されて方向転換した「寿司ポリス」みたいな「正しいニッポン普及」の話なんでしょうか?

そのメールが「勘違いニッポン」の具体例として挙げているのは「日本料理として奇想天外なメニュー」「日本文化とは思えぬ内装」「間違い日本語による接客や変な日本語店名」「日本文化を間違っている空手師範」「日常では使わなさそうな例文を教える日本語教室」などでした。

こういう話はいくらテレビ番組側の事情を知っていてもなんだかいやな感じがします。日本の「洋食」の無国籍ぶりやフレンチやイタリアンのメニュー誤表記、変な英語Tシャツなどは、それこそ日本国内で枚挙にいとまがない「どっちもどっち」な話でしょうに。

そういえば「寿司ポリス」の話が持ち上がった当時も、あるニュースサイトは米国にある日本食レストランで「日系人オーナーの店は10%以下」「経営者の多くは中国や韓国、ベトナムなどのアジア系」「つまり『ニセ日本食』の提供者は中国人や韓国人、ベトナム人だったわけだ」と書いていました。またその話をぶり返したいわけなのでしょうか?

そのころからです。日本社会がやたら「嫌韓」「嫌中」に傾き、「ニッポンすごい」「ニッポン最高」を連呼するようになったのは。そうそう、「国家の品格」などという根拠の曖昧なニッポン文化礼賛本が発売されたのも10年前でした。

そんな風潮は10年を経てさらに攻撃的で断罪口調になり、いまでは安倍政権を批判するとすぐに「おまえは朝鮮人だろ」「中国政府からいくらもらってる」というような罵倒が飛んでくるようになりました。そしてあろうことか安保法制反対のあの学生組織SEALDsの奥田愛基さんとその家族へ、殺害予告が届くまでに悪化しています。

何気ない揶揄や嘲笑が巡り巡って殺害予告にまでたどり着く。自国礼賛とゼノフォビア(外国嫌悪)が容易に結びつくことは歴史が証明しています。冒頭に書いたように、諸外国の人々や文化を嫌ったり排除したりすることは、他者への一面的な理解しか持っていないことの反映です。むしろ持っていないからこそ断言口調になれる。

そう書くと「おまえはいつも断言口調じゃないか」と言われそうです。まあそうですね。情報を集めて集めて、それでも断じなければいけない時があります。私はそんな時に、批判の対象が権力を持っているかどうかを常に考えるようにしています。持っていなければ批判はしません。私のその断言が正しいかどうかは、あとは読者諸氏の断じるところです。

October 06, 2015

仲良し会見

首相官邸などでの公式記者会見で「円滑な進行のため」に、日本の報道各社が事前に質問を取りまとめて提出するように求められるのは何十年も前から慣行化しています。この場合は政治部ですが、首相官邸だけでなく様々な官庁にある記者クラブ内にはどこでも「幹事社」と呼ばれる取りまとめ役が月ごと(あるいは2カ月ごと)の持ち回りでいて、そこが当局と話して質問の順番が決められるのです。

政府側が説くその「必要性」は国会質疑におけるそれと同じで、「事前に質問を知っていれば十全な情報を用意できるので、報道上も都合が良いだろう」というものです。そう言われればそうかなと思ってしまいそうですが、しかしその慣行によってお手盛りの記者会見はもちろん形骸化し、よほどの大事件でもあった場合は別にしてもほとんどは何ら「問題」の起こらない予定調和の場になっています。

記者クラブ側が、あるいは報道機関がそれ自体を「問題」だとも、問題と思ってもそれを変えようとも思わなくなっているのも、さらには変えねばと思っても「空気」に圧されて手がつけられなくなっているのも、実はこれまでも何度も指摘されてきました。ところが記者たちもまたその記者クラブには持ち回りで属するだけでせいぜい2年で担当が変わったりしますから、意思決定も流動的で定まらないから変えられない、という事情もありましょう。かくして記者会見はその内容を報じる記事もまるでつまらない、「予定稿」でも済むような退屈なものになってしまうのです。

で、そのほころびが先日の安倍首相の国連記者会見で浮き彫りになりました。国連総会での一般演説の後に記者会見に臨んだ安倍首相が、そんな「事前提出」の質問表にはなかったロイター通信のベテラン記者による質問に、とんでもない回答をしてしまった。

この会見も本来は恙無く執り行われるはずでした。首相官邸が取りまとめた質問の内容と順番は次のようなものでした。

NHK(日露関係について)→ロイター(新アベノミクスの3本の矢について)→共同通信(内閣改造の日程について)→米公共放送NPR(普天間移設について)→テレビ朝日(国連改革について)

ところが2番目に立ったロイター記者は、予定質問に次いで、予定としては提出していなかった次の質問を追加したのです。「日本はシリア難民問題で追加支援すると表明したが、日本が難民の一部を受け入れることはないか?」

安倍首相の眉がクイっと上がりました。首相はアドリブで答えざるを得なかったわけです。で、その答えは次のようなものでした。

「これはまさに国際社会で連携して取り組まなければならない課題であろうと思います。人口問題として申し上げれば、我々は移民を受け入れる前に、女性の活躍であり高齢者の活躍であり出生率を上げていくにはまだまだ打つべき手があるということでもあります」

大挙して押し寄せる難民をどう受け入れをするか欧米が深刻に悩んでいる時です。彼はそれを国内の少子化、人口減少問題に絡めて、その問題を解決し、不足を補充する「移民問題への対処法」の是非として答えてしまったわけです。そもそも難民問題を自らの国の問題としてはほとんど考えてはいなかったのでしょう。なのでこれは「勘違い」というよりも、自分の頭の引き出しから、似たような問題への回答模範を引っ張り出してきたらこうなってしまった、ということなのかもしれません。

ところがそんな「出まかせ」を、「予定調和」の記者会見など知らない、あるいはそんなものを記者会見とは呼ばない真剣勝負の欧米ジャーナリズムは「真に受けた」。

「アベ:日本はシリア難民受け入れより国内問題の解決が先」(ロイター)
「日本は難民支援の用意はあるが、受け入れはしない」(ワシントンポスト)
「アベ:シリア難民受け入れの前に、国内問題の対応が不可欠と話す」(英ガーディアン)

即応した欧米メディアに比して(ガーディアンは日本の移民・難民事情についてかなり詳しく紹介していました)日本の報道は当初はこれを問題視もせずにほぼスルーしました。いつもの記者会見のつもりで「予定外」のニュースに慣れていなかったせいでしょうか。あるいはこれは「真に受けてはいけない間違い答弁」だと斟酌してやるいつもの癖が出たのか。

問題だと気づいたのは、先の見出しが欧米の主要ニュースサイトで踊ってからです。安倍さんも日本の同行記者たちも、現在の難民問題に関するメッセージの重要性の認識が、なんとも実にお粗末であることをはしなくも露呈した形です。

実は予定外の質問はロイターだけではありませんでした。NPRの記者もまた辺野古移転の沖縄の世論の問題を「予定通り」質問した後でさらに、「辺野古移設に関連した環境汚染の問題についてどう考えるのか?」と畳みかけたのです。これにもまた安倍首相は日本式の的を得ない、はぐらかしの、言質を取られないような、四の五の言う長い答えでお茶を濁していたのです。

こういう「予定質問のやらせ会見」というのは「政治部」だけの話では実はありません。実は社会部マターでも経済部でも運動部の会見でも、相手が大物の定例記者会見などという場合には少なからず見られる慣習です。

海外の他の国の事情は詳かではありませんが、少なくともアメリカでは記者会見で事前に質問を提出するなんてことは経験したことはありません。なので鋭い質問が飛んでくると、質問された政治家や官僚や関係者は「それはいい質問ですね」とまずは言っておいて、そこで適当な答えを組み立てる時間稼ぎをするのです。

そもそも質問が事前に分かっているぬるい世界では、「それはいい質問ですね」などという定型句は生まれようもありませんものね。

なので、会見というのは実はとてもピリピリした緊張感が漂い、しかもそれをいかに和ませるか、いかに緊張していないかを演出する度量をもまた試される場になるわけです。そういうのを、視聴者は、読者は、有権者は、見ているのですから。

安倍政権になってから、欧米ジャーナリズムは「日本のメディアは政権に牛耳られている」と折りあるごとに報じてきました。今回の国連記者会見では、その「折り」が実は常態化しているのだということが明らかになってしまいました。

October 03, 2015

文章教室

毎日新聞神奈川版のコラムにこんなのが載った。まあ、書き方からいってまだ一年生とか二年生記者だろうから経験も浅いのだろうが、こういう現場の話も聞かないで単なる思いつきだけで書くテキストの結論が、恣意によってどうとでもなることを例示したいと思う。支局記者は、まず現場、とにかく現場、そこを虚心に歩き回り疲れるほど話をし話を聞き、そしてその中でどういう自分を書いてゆくのか、時間をかけて深く考えていってほしい。

**
記者のきもち:ノーパサラン /神奈川
毎日新聞 2015年10月01日 地方版

 「ノーパサラン」という言葉をご存じだろうか。安全保障関連法案を審議する参議院特別委員会が16日に横浜市で開いた地方公聴会の会場の周辺で、法案に反対するデモの参加者の一部が国会議員の車両を取り囲んで何度も叫んでいた。

 「憲法9条を守れ」とのボードを掲げた初老の男性が、困惑の表情を浮かべていた。「何という意味ですか」。尋ねられた私も分からない。インターネットで検索し、「やつらを通すな」という意味のスペイン語らしいと知った。

 デモを否定するつもりはないが、意味が通じる仲間による仲間に向けた大合唱に、近寄りがたさを感じた。「法案反対」に共感するデモの参加者にさえ理解できない言葉が、遠巻きに眺める人々の心に届くのかと疑問を抱いた。

 2時間後。異様な熱気は消え、数人がビラを配るだけになった。受け取る人はわずかだったが、法案に反対する理由がしっかりと書かれていた。「ノーパサラン」の連呼が、法案について考えてみようとする人の機会を奪う「通せんぼ」にならなかったか。地道な活動を続ける人たちを前に思った。【水戸健一】


***私的改訂版
記者のきもち:ノーパサラン

 「ノーパサラン」という言葉をご存じだろうか。安全保障関連法案を審議する参議院特別委員会が16日に横浜市で開いた地方公聴会の会場の周辺で、法案に反対するデモの参加者の一部が国会議員の車両を取り囲んで何度も叫んでいた。

 「憲法9条を守れ」とのボードを掲げた初老の男性に聞かれた、「何という意味ですか」。ネットで検索してみた。スペイン内戦の際の合言葉だった。「やつらを通すな」。フランス語にも英語にも存在する、自らの立場を死守しようという国際的な合言葉。

 なるほどこのデモは、意味が通じ合う仲間うちだけの集まりではないのだと感じた。世界中の歴史的な民主勢力の思いが、実は今この日本の横浜に集まる人々にも通じている。そんなことを教えてくれる大合唱。「法案反対」デモの参加者は、実は知らないところで世界ともつながっている。それはやがて遠巻きに眺める人々の心にも届くかもしれない。

 2時間後。異様なほどの熱気は消え、数人がビラを配るだけになった。受け取る人はわずかだったが、法案に反対する理由がしっかりと書かれていた。「ノーパサラン」という不思議な言葉の連呼が、法案について考えてみようとする人の好奇心を少しでも刺激してくれるかもしれない。後片付けのゴミ拾いをする人たちを前にそう思った。【現場で取材してもいないのに取材したみたいに作文する北丸雄二】

September 22, 2015

最も偉大な愛国心

安倍政権の安保法制が可決しました。世界の反応として中韓以外の国々が多くこれを支持、歓迎していることを受け「ホラ見たことか、国際的にも支持されているじゃないか」と鬼の首でも取ったようにドヤ顔の人たちがいますが、それはそうでしょう。その国々はみな、これで日本が海を渡って自分の国を守りに来てくれると期待しているのですから。

なのでここは本来「あ、それはちょっと待ってください」と言うのがスジじゃないでしょうか? 「それは誤解です。自衛隊はアメリカや同じ目的行動をとる部隊しか助けないんです」と言わねば。

同じように、国内の街頭インタビューでも「日本を守ることは大切ですので賛成です」と言う人たちがいます。しかしこれも実は今法案論議の最初期に「そういうのは個別的自衛権だから、今回の集団的自衛権の法案とは直接関係がない」として片付いたものです。個別的自衛権とは国家固有の権利ですし、今以上に十全な自衛を追求するならむしろ武力だけでは賄えない部分をこそ万全にすべきというのが現在の常識です。そんな世界情勢の中で武力が挑発ではなく抑止になると考えるのはあまりに楽観的で単純すぎるでしょう。

国会での政府答弁も故意と勘ぐられるほどに核心を外していました。首相がイラストまで使って説明したあの日本人母子の乗る米艦防護にしても、後に「邦人が乗っているかどうかは絶対条件ではない」と撤回されました。唯一具体的な立法事実想定だったホルムズ海峡の機雷除去も「現在は想定していない」と首相自らが否定した。にもかかわらず追加の議論も説明もなしの強行採決でした。

よって、この法律に関する「違憲である」「立法事実がない」「歯止めがない」という三大瑕疵については、何の解決もないままです。そもそも武力行使要件の1つである「必要最小限の実力行使」という条項にしても、その「必要最小限」は、相手から一発タマが飛んでくるだけで「最小限」のレベルが対応的に変化するのは論理的にも当然なのですから。

ことほど左様にこの法案に関しては欠陥が多すぎる。しかし、とにかく日本が「70年の平和主義を放棄」(CNN)し「海外での軍事的役割拡大」(BBC)する方向で「立憲平和主義の終わり」(リベラシオン)を迎えたというメッセージだけは「既成事実」として発信されました。

首相はこの安保法制反対論にも「時間が経ていく中で間違いなく国民の理解は広がっていく」とうそぶいていますが、この論でいけば、首相が自信を持って進める全ての法案審議に国民の理解は無用であるということになります。法に則るのではなく、権力者の恣意に基づく政治を「独裁」と呼びます。

今回の法制可決で放棄されたのは日本の平和主義だけではありません。私たちの国はいま、法治主義でも立憲主義でもない国家になりました。法的安定性を放棄した今、法学は、日本ではなくどこかの別の国の法精神を語る夢語りに貶められました。

国家の安全保障はとても重要なものです。しかしそれは「愛国心」をまとったナショナリズムとは違います。私が今回の安保法制に反対しているのは、それが愚かなナショナリズムに支えられているというその一点から始まっています.

フランス自然主義の作家モーパッサンは「愛国心という卵から戦争が孵化する」と言っています.

アイルランド出身の劇作家バーナード・ショウは「愛国心とは、自分がそこに生まれたというだけの理由でその国が他より優っていると信じること」と言い捨てました.

同じく英作家のジュリアン・バーンズは「最も偉大な愛国心とは、あなたの国が不名誉で愚かで悪辣な行いをしているときにそれを指摘してやることである」と言っています。

September 08, 2015

安倍マクベス

国民の6割以上が今国会での成立を「拙速」と考えているのに、安倍政権は安保法案を来週16日に強行可決するそうです。自民党の高村副総裁は「国民のために必要だ。十分に理解が得られていなくても決めないといけない」と断じます。

成立への凄まじいまでのこの固執は、どこから来ているかより、どこへ向かおうとしているのかを考える方がわかりやすい。それは「私たち」の国ではなく「彼ら」の国家です。もちろん民主政治を指して「衆愚政治」と呼ぶことはあります。賢人がそんな衆愚を導くこともあるでしょう。

しかしいまは古代ギリシャではないし、「ナチスの手口に学べばいい」とか「立憲主義なんて聞いたことない」と言ってはばからない政府が「賢人」であるとはとても思えません。高村の言は単に、現在の一政権の命運だけを気にしているふうにしか聞こえない。

というのも、彼らが盛んに吹聴する「周辺環境の悪化」というのも、この法案を成立させるために小さな脅威を大きく見せつけているようにしか思えないからです。

「東シナ海のガス田開発で中国が新たに12基のプラットホームを新設している」というのは、今年の防衛白書では当初「施設建設や探査を行っている」との表現にとどまっていました。それが自民党で「表現が弱すぎる」とヤリ玉にあがり、急に「新たな建設」「一方的な開発」と付け加えられました。さらに中谷防衛相が国会でそれが軍事拠点化される「恐れ」があると強調した。

ところがこれは東シナ海で日本が主張する日中の「中間線」(中国の主張する目一杯こちら側に張り出した「中間線」ではなく、わが日本の主張する「中間線」です)に従った中国側経済水域内での経済活動であって、中国は別に日本の水域を侵しているわけではありません。文句のつけようはないのです。しかも軍事施設でもないのにそのように仮想してみせる。

中国の南沙諸島岩礁埋め立てにしても、海洋法条約では「人工島及び構築物はそれ自体の領海を有しない」と定めていてすぐにどうだという話じゃありません。そこに中国が「一方的に」埋立てや飛行場建設を行ったと騒がれていることについても、軍事評論家の田岡俊次さんはフィリピンはパグアサ島、ベトナムがチュオンサ島、マレーシアがラヤンラヤン島に、いずれも他国の了承なしに「一方的」に飛行場を建設し、一部では埋立ても行っていて、中国の行為だけを「一方的」と論じるのは公正ではないと説明します。

南シナ海で中国が支配権を握っているような報道も間違いで、12ある「島」はベトナム、フィリピン、台湾、マレーシアが支配していて中国の支配はゼロ。どこに喫緊の脅威があるのか?

安倍政権のこの前のめりぶりを見ていると、私はシェイクスピアの「マクベス」を思い出します。王を暗殺して自分が王になったマクベスは、自分の周囲にいる者たちをすべて脅威に感じて、自衛のために次々と先制的に友人や臣下を殺していくのです。それは自衛の妄想スパイラルです。

究極の自衛を考え詰めれば「攻撃は最大の防御である」に落ち着きます。9・11後のブッシュ政権はその妄想で誤った戦争を起こしました。

そんな「自衛の妄想スパイラル」に落ち込まないために日本は「専守防衛」という方策を育んできたのです。その70年分のクレジットを、今の一政権が、喫緊ではない「周辺環境の悪化」を煽り立ててかなぐり捨てようとしている。切迫した「脅威」といえば朝鮮戦争や中ソ対立の時の方がはるかにひどかったでしょうに、そんなことは思い出しもしない。

彼らはすでに妄想の領域に落ちているのかもしれません。

ちなみに今年、日本の演劇界が劇団の大小を問わずさまざまに「マクベス」を上演しています。流山児事務所もやりましたし、今度は蜷川マクベスも17年ぶりに再演となるそうです。これを、アベ政権に対する演劇界からのメッセージだと見るのは深読みに過ぎるでしょうか。

August 18, 2015

歴史を中和する試み

安倍首相の70年談話はとても見事な歴史講話となっていました。さてそこに透ける意図というのを紐解くのが私たち物書きの役目でもあります。

私が見たのは、安倍首相による「歴史のニュートラライゼーション(中和)」というものです。言い換えれば、安倍さんのいつもの「言い返し癖」を満足させるレトリックが、それとはあからさまには知れない形でちりばめられていたということです。

始まってすぐに指摘したのが「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が広がっていた」という事実です。そこから歴史をたどり、「欧米諸国が植民地経済を巻き込んだ経済のブロック化を進め」たために日本は「外交的、経済的な行き詰まりを力の行使によって解決しようと試みた」という第二次大戦への道のりです。これは「日本も悪かったが西洋諸国だって悪かったじゃないか」という指摘です。

それだけではありません。談話が「哀悼の誠を捧げ」たのはこれまでの「中国、東南アジア、太平洋の島々など」の戦場となった地の人々だけではなく、「国内外に斃れたすべての人々の命」です。「三百万余の同胞の命」「広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦など」で犠牲となった「たくさんの市井の人々」です。これもまた加害と被害を並列させた「歴史の中和」の試みです。

そうして出された結論が「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない」という、主語の示されない文でした。「日本が」ではなく、世界全般の真理として読める普遍的な願い。「いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としてはもう二度と用いてはならない」という言葉も、日本の姿勢とともにいまも武力での解決を図ろうとし続ける世界(あるいは中国)への言及です。

これに異議は挟めません。誰が見てもこれは「正しい」歴史認識です。学校の歴史の講義で使いたくなるくらいの。

ポイントはそこです。安倍首相は「歴史修正主義者」という批判をよほど気にしているのでしょう。なので歴史を書き換えて見せるのではなく、この談話では、謝罪してきた一方の「自虐史観」を、少なくとも「喧嘩両成敗」の「どっちもどっち」状態にまで中和させることに意を注いだ。しかもそこに、誰も異議を挟めない「自由、民主主義、人権といった基本的価値」を振りまいて。

これを最初に「見事な歴史講話」と書いたのは、これが歴史の授業での講師の歴史俯瞰およびその解説なら百点満点だということです。しかしこれは日本の国体の代表者でもある首相の「談話」です。「歴史講義」ではありません。そこには日本という主語がどういうふうに振る舞うのか、どういうふうに振るわねばならなかったのか、どういうふうに振る舞うべきではなかったのか、という責任論が付随するものなのです。

村山談話の2.5倍という3400字余りの字数を要したのは、まさにその責任を「丁寧」に回避し、「謝罪の歴史」を中和するためのレトリックが必要だったからです。これは実に高度な文章作法です。首相官邸のスピーチライターはなかなかの巧者です。

で、どうなったか? 朝日新聞が17日の紙面で「外務省のホームページから政府の歴史認識やアジア諸国への『反省とおわび』の記事が削除された」と報じました。「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」「痛切なる反省と心からのおわびの気持ちを常に心に刻み」などの記述がそっくりなくなっているのです。中和とは、それを装う修正と消去のこと……。

12日は日航ジャンボ御巣鷹山墜落から30年でした。日航の社長が「この30年十分に反省をし、事故対策を重ね安全運航に努めてきたので、もう謝罪はしない」と宣言したらどう思いますか? ドイツが「ナチスに関してはすでに謝罪は済んだ」と言い始めたらどう感じますか?

首相は「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とも述べました。日航の新たな若い社員が、ドイツの新しい世代が、「謝罪」するのはもとよりボランタリーなものです。彼らに謝罪の義務などない。しかしそれを社や国に代わって「謝罪」してあげている。それは自らの所属する全体の、肩代わりを具現しようという意思の行動です。それは「宿命」などと押し付けられたものではありません。

同様に、日本の戦後世代が「謝罪」の「宿命」を背負っていることなどはあり得ない。それは背負っているのではなく、この国を愛するが故の「引き受け」なのです。それを首相がおこがましくも「宿命を背負わせてはならない」とあたかも忌むべき義務のように宣言する。その宿命は、国民ではなく「首相」が背負っているものなのにもかかわらず。明確に言えば、安倍首相は、自分が「謝罪を続ける宿命を背負わせられてはたまりません」と宣言したいのでしょう。

この「歴史の中和」の先に何が用意されているのでしょう。それは新安保法案だけではなく、平和憲法そのものの改定であることはすでに明らかです。

August 03, 2015

真夏の錯乱

日本に来ています。いま安保法制に関する反対が各界各層から溢れ出ています。大学生らの抗議グループSEALDs(シールズ)に影響されてか、お年寄りたちの多い巣鴨ではOLDS(オールズ)という年配者たちのデモも行われました。先日は高校生たちが呼びかけたデモが気温35度という猛暑の渋谷で5000人を集めて行われ、「だれの子どもも殺させない」という切実なシュプレヒコールの続くママさんたちのベビーカー・デモもありました。

こんな現象は戦後70年で初めて見るものです。とにかく戦争はダメだという平和憲法の精神がいま危機感として噴出しています。

対して集団的自衛権の確立を訪米で公約してしまった安倍さん側はシンパたちが援護射撃に躍起です。

驚いたのはSEALDsについて、自民党の36歳という武藤貴也衆院議員が「彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせい」とツイートしたことです。この人は「基本的人権の尊重」を「これが日本精神を破壊した主犯だと考えている」と公式ブログで表明している人です。「この基本的人権の尊重という思想によって滅私奉公の概念は破壊されてしまった」とまで言いのける錯乱は、いったいどういう倒錯から生まれたのでしょう。

彼だけではありません。田村重信・自民党政務調査会調査役はSEALDsを「民青、過激派、在日、チンピラの連合軍」と呼びました。これがデマの吹聴であることに加え、問題はもう一つ、彼が明らかに「在日」を侮蔑語で使っていることです。自民党では50万人以上いる「在日韓国・朝鮮人」をそういうカテゴリーで見ているのでしょうか? ヤバいでしょう、それは。

援護射撃どころか自爆テロみたいになってしまっているのはこの安保法制を中枢で推進してきた礒崎首相補佐官の「法的安定性は関係ない」発言も同じです。これは法の支配そのものの否定だけではなく、「安保法制は違憲だけどそんなこと言ってられん」と具体的に白状したということですから、自民党にとっても本来は懲罰もんのはずです。しかしいま私たちが目撃してるのは、その暴走をまたネグろうとしてる権力の錯乱です。

日本はとてもおかしなことになっています。原爆の日の近い長崎では先月、老齢の被爆者を招いてのある公立中学での講話会で、話者が被爆体験の後にアジア侵略の写真などを示しながら日本の戦争責任や原爆と同じ放射線を出す原発の問題に触れたところ、校長が「やめてください!」と大声で遮ったそうです。まるで戦前の官憲による「弁士中止!」です。NHKニュースによると、その後に校長はこの老人を校長室に呼び「写真はでっちあげだ」とか「自虐史観だ」などと話したといいます。

この話にしてもSEALDsや高校生デモに関する誹謗中傷にしても、なぜ日本の権力は政治的な意見表明を抑制しよう、黙らせようと動くのでしょうか。

校長は「政治的中立性が守られない」と弁解したようですが、中立性を守るための対策は、それらの言論を封じる事なかれ主義ではなく、賛否両論の表明の保証、談論風発の奨励のはずです。

ちなみに最近の仰天ニュースは、日テレの「安倍首相批判の落書きが駅トイレで見つかった。警視庁が器物損壊容疑で捜査している」というものでした。ここは北朝鮮か旧ソ連かと、今度は私が軽い錯乱を覚えたほどです。

July 21, 2015

「理解」が足りない?

どうにも引っかかるのが、安保法案の審議に関して「国民の理解が進んでいない」と繰り返す安倍首相以下、政権の言葉です。「反対しているのは理解していないからだ。理解さえ進めば賛成するはずだ」とはつまり、この法案に異例の抗議署名を連ねた日本の1万人の学者・研究者を筆頭に、反対者はみな理解力に欠けるという認定なのでしょうか。

「理解が進んでいないから反対している」のではなく、「この法案は憲法違反であり、安倍首相のこの性急な強行姿勢はどこかおかしい」と「理解」しているからこそ反対している──じつは政府はそれを恐れているのです。16日の衆院強行採決は、これ以上「理解が進む」と反対がさらに増えるので「支持率の高い今のうちに強行採決した方がよい」という判断が働いていたのですから。

はたして安保法案強行可決で安倍内閣の支持率は30%台にまで急落し、不支持は50%前後に増えました。これを受けて安倍首相はおそらくは人気浮揚の秘策と用意していたのでしょう、それまでは論外としてきた大不評の新国立競技場の突然の建設計画白紙撤回を発表しました。しかも実は「1カ月前から検討していた」という打ち明け話まで付けて、あたかもこれが首相自らの英断であるとの印象操作までしながら。そうであるとすればなぜ、撤回20日前の6月29日にそもそも総工費2520億円(+加算忘れの周辺整備費72億円)の政府案を決定したのか、という矛盾はスルーしたまま。

だいたい、3000億円もの馬鹿げた建設案を認めたのは政府であり、それを政府自らが撤回したからといって、それが支持率回復につながるという都合のよい発想はどこから来るのでしょう。思いっきり落書きをしてしまった小学生が自分でそれを消したからといって、そこで言うべきことは「ボクってエラいでしょ」ではなくて「ごめんなさい」なのです。

安保法案の「理解を進める」ために首相は20日、かねてより懇意である日枝会長のフジTVの番組に90分も出演して、「支持率を上げるために政治をしているのではない」とうそぶきました。ひとさまの年金をジャブジャブつぎ込み株価を上げ、円安を仕組んで海外への日本売りを進めてはアベノミクスの功績だと吹聴して支持率を維持してきた、それがすべての強権の前提であると骨の髄まで知っているはずの御仁の言うこととはとても思えません。

そして集団的自衛権の「わかりやすい説明」として持ち出したのがまた三軒の家が燃える「たとえ話」です。首相は「日本の消防士たちが、日本に延焼する恐れがあるのでアメリカの離れの家の火事を一緒に協力して消すというのが集団的自衛権だ」と話し、それが国際的に正しい行動規範だと強調したのですが、このたとえ話は軍事の常識に無知なのか、知ってて国民をだましにかかってるのかどちらかです。

だって、「火事」には「敵」はいません。火を消すときに襲撃される心配はないし、消火活動に協力することで憎まれることもありません。

首相は他にもこれを「町内みんなで戸締まりをしっかりやろうという法案、特定の泥棒をやっつけようという法案ではない」と説明したことがあります。これもおかしな「たとえ話」です。なぜならそれは集団安全保障の話であって、敵を想定する集団的自衛権の話ではないからです。

「理解」を進めると言いながらその実「理解」を妨げる政府のこの不誠実を、「理解」しているからこその反対であるということを、今後の参院審議を通して安倍政権はしみじみ理解すべきなのです。

July 06, 2015

復興五輪の嘘

前回のエントリーの最後に今の自民党の政治的知性の劣化の例として「新国立競技場」の名前も出しました。当初予算を895億円上回る2520億円の建物です。

印象的だったあの北京五輪の鳥の巣競技場は540億円で建ちました。ロンドン五輪のスタジアムだって840億円、今回の予算上乗せ分だけでも建つ計算です。おまけに新国立は、過小見積りだと批判された50年間の修繕費もやはり「656億円」から「1000億円以上」に修正されました。しかもそれらの数字の全ては、これでもまだ控えめな計算値なのです。

なぜそんな大赤字の建物に待ったがかけられないのでしょうか。第一の元凶は森喜朗元首相のようです。東京五輪大会組織委員会の会長を務める元首相は、1本1千億円といわれるあの2本のキールアーチのデザインに固執しています。あのユニークなデザインが五輪誘致成功の決め手だったから、という、なんともどうでもいいようなことが理由です。建設主体を管轄する下村博文文科相も「国際公約だから」と同様の亡国セリフ。

先日、IMF(国際通貨基金)への支払いを実行できずに「延滞」措置で債務不履行(デフォルト)を先延ばしされたギリシャのその支払額は2000億円です。新国立の2520億円で十分なお釣りがきます。もっともギリシャの国家債務は44兆円にのぼりますので2000億円の後も支払いは続きますが、それを言うなら日本の借金(国際発行額)は1千兆円以上あるのでギリシャどころではありません。そして、ギリシャのこの経済破綻は、アテネ五輪が国家財政を圧迫した04年から始まっているのです。

目の前で展開するそんなギリシャの悲劇は、日本の未来とは無関係と言い切れるのでしょうか?

このバカげた新国立競技場の建設を止められないのは、「新たに設計をやり直すと最短で19カ月かかり、19年9月開幕のラグビーW杯に間に合わない」(文科省)からだそうです。ここでも6月まで日本ラグビー協会会長だった森喜朗の影がちらつきます。そんなもの、主会場を横浜にある72,000人収容の日産スタジアムに移せばいいだけの話なのです。

安倍首相は今度の東京五輪を「復興五輪」にしたいと話していました。かつ一昨年9月の五輪招致演説では、福島第一原発は「私が保証する。状況はアンダーコントロールだ(統御できている)」と言い張りました。「私が首相なんだから私が責任者だ」という例の大言壮語です。そして東日本大震災の後始末は今もまだメドが立っていません。

毎日新聞が書いています。先日、石巻市で震災後初の「復興マラソン」が開かれました。64年の東京五輪の聖火台を借りてきていたそうです。その火をずっと灯し続けようとしたが費用の800万円が調達できなかった。「800万円と895億円──被災地がコツコツと資金を集めている時、新国立の巨額の追加予算が決まった。どう考えても金銭感覚がずれていないか」「市全体では1万人以上が仮設住宅で暮らす」「もし895億円が被災地に回れば、単純計算で住宅3580戸分の財源になる」

「復興五輪」の口だけぶりを見ていると、この政権は歴史だけでなく事実までも「糊塗」しようとしているように思えます。「武器輸出三原則」は「防衛装備移転三原則」と変わり、前線に武器や燃料を補給する「兵站」は「後方支援」と置き換えられ、「戦争」加担法案は「平和安全」法制と名を変えています。そしてその「解釈合憲」の法案は来週にも「強行」ではなく粛々と採決される手はずのようです。

June 29, 2015

無理と道理

安保法制に関する安倍政権の国会答弁にあまりに呆れたり怒ったりでブログ更新も忘れていました。でもそろそろ書かねばなりません。何に怒っているのかというと、これまで築かれてきた立憲主義の道理が安倍政権によってことごとく無視されていることにです。

そもそも立憲主義=憲法とは時の政府の権力を制限し、国民の権利・自由を擁護するためのものです。なのに安倍首相は「それは王権が絶対権力を持っていた時代の考え方で古いものだ。憲法は国の形、理想と未来を語るものだ」と独自の見解を固持しています。王様の時代には憲法なんか存在すらしていなかったのに、です。

「独自」というか「勝手」は安倍政権のすべてを覆っています。集団的自衛権は日本に数多いる憲法学者のたった3人しか明確に合憲だと考えていないのに合憲だと言い張り、しかもその根拠はだれもが「?」な砂川判決だと言います。そんな無理な牽強付会がまかり通れば日本社会で道理が通じなくなります。

百田尚樹を招いての自民党若手の勉強会の問題でも同じです。安倍は「(自民に批判的な)マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなるのが一番」と発言した議員には「自民党は自由と民主主義の政党」「私的な勉強会」だからと謝罪を拒否、「沖縄の2紙は絶対に潰さなあかん」とした百田に関しても「その場にいないのに勝手におわびできない。発言した人だけができる」と他人事で済ませました。

こうした「無理」の背景はすべて、じつは自民党の「憲法改正草案」にあります。

「自民党草案」21条は言論・表現の自由を保障すると書きながら「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動(中略)は認められない」と但し書きを入れます。自民党の論理では「マスコミ」は「公益と公の秩序を害する」報道をしているのだから「懲らしめ」てよいことになる。テレ朝幹部を呼びつけて安倍政権を批判した報道番組に関して査問したのはつい先日です。

注目の9条はタイトルを「戦争放棄」から「安全保障」「平和主義」へと「改正」します。まるで今回の安保法制が「平和安保法制」となったのと同じ種類の改名です。改正草案では、武力の行使は「永久にこれを放棄する」という文言が消えているのにも関わらず。

自衛隊の活動拡大で懸念される徴兵制も、まるで国家的急務においてはOKとも読めるようになります。なにせ国民の権利が尊重されるのは憲法草案に頻出する「公益及び公の秩序に反しない限り」(13条)で、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚」するのが国民の責務(12条)なのですから。

もとより「憲法改正をするために政治家になった」と明言してきた首相です。その露払いたる解釈改憲での集団的自衛権の容認理由を、まるで降ってわいたように「日本を取り巻く安全保障環境が変わったからだ」とうそぶくのは、この「環境の変化」を奇貨としているというよりもむしろ、未必の故意の外交不在でわざと敵対環境を仕組んだのだと勘ぐられても仕方がないほどです。

昨今の自民党の「無理くり」ぶりは自分たちが常に「公」であるという「一強」の自信から来ています。安保法制やメディア弾圧に限りません。2520億円以上かかってなおも赤字な新国立競技場の計画を推進するのも政治的知性の劣化です。政権交代はそんな自民党システムの限界を多くが知ったから起きたのに、政権復帰後の自民党はそれを反省ではなく重篤化させているように思えてなりません。

May 07, 2015

あめりか万歳!

安倍首相の米国訪問が終わりました。こちらではボルチモア暴動やネパール大地震が連日ニュースを占めていて、安倍関連はちょっとしか報道されていませんでしたね。日本のどこかの新聞が書いていたように「異例の歓待」とか「高い評価」とはちょっと違ったように思います。

上下両院合同会議での演説も、いろいろと反応を聞いていくと(1)米国にとっては非常に納得できるものだったでしょう。軍国主義者だと聞いていたがアメリカ留学の経験も話していたしアメリカが好きだと言っていたし、新ガイドラインとやらで自衛隊が出てきてくれるそうだし米国の安全保障にも100%の協力と貢献をすると言っていたし、これだけカモネギというかお土産抱えてわざわざこっちまでやってきてくれて、「なんだ、思ってたのと違って結構ナイスガイじゃないか」という印象で、大合格点だったようです。

報道のされ方もあって(2)日本国内での受け取られ方も大方はそうだったようですね。演説も全部英語で頑張ったしスタンディング・オベーションとやらが10回以上あったそうだし(3月のネタニヤフの時は23回ありましたが)、アメリカさんがそうやって喜んでくれていたんだから及第点。ただし米国ヨイショの度合いがちょいと過ぎて、そこがワザと臭いと思われなかったか心配。

一方で普段から安倍の家父長主義ぶりを警戒している(3)日米欧の監視層(これにはNYタイムズやワシントンポスト、英ガーディアンやBBCなどの報道機関も含まれます)には、慰安婦問題では謝罪も回避して女性の人権問題という一般論でごまかすし、国会審議も経ずに安保法制の今夏成立を国際公約してしまうし、さりげなく戦犯だった祖父・岸信介の名誉回復は図るし、許せない詭弁演説だったという感じでしょうか。おまけに日頃から英語で苦労して他人にも厳しい日本人の耳には、ブツ切れの単語と結語で高揚するあの英語(デモォークラシイイイとかリスポォン・・シビリテイイとか)はかなり恥ずかしいとクソミソでした。

もっとも安倍政権はこの演説を(1)の米国向けに行ったのであって(3)の批判層の歓心を買おう、汚名を濯ごうと思って用意したわけではなかったわけです。つまり(3)は相手にしていないのですから苦虫を噛み潰すのは当然。(1)の歓心を買うことが目的だったと思えば、歯が浮くようなアメリカ万歳でもオッケーだった──そういうことなのです。

ただ、演説でアベとエイブ・リンカーンとの近似を示唆したり(慰安婦が「性奴隷」だと言われてる時にですよ)、会見ではキング牧師の「I Have A Dream」を文脈を無視して引用したり(ボルチモアで黒人層がこれは「夢の未来」ではないと抗議してる時にですよ)、そういうセンスはかなり危なかったしジョークもなんだか滑ってたし。そもそも議員たちは事前配布の手元のスクリプトに目を落とさねばあのブツ切り英語はよく聞き取れなかったのだと思います。

じつはオバマの安倍への態度や会話も、よく観察すると心なしか終始硬かった、というか、なんだか素っ気ないというか、はっきり言えば軽蔑した相手への態度のようだったのですよ。日本政府が異様にこだわるファーストネーム呼称もすぐ忘れたし会見中は体の向きが外向きで、安倍首相の方へは向かないし。それに普通、共同記者会見した後は後ろ向いて去りながらも会話したりするもんなんですが、オバマはぜんぜん話しかけてなかったですもんね。笑顔が笑ってなかったんですよ。

その辺、行動心理学者に見せたら面白いだろうに、日本のテレビはどこもそんなことはしなかったです。きっと大歓迎だったと頭から信じているからでしょう。それはまあ、あれだけの「お土産」ですからねえ、失礼な対応はしませんでしたが……。

私が気になったのは1つ、安倍がオバマとの共同記者会見で指摘した「レッテル貼り」の批判というか例の「言い返し」台詞です。60年の安保改定の時に「戦争に巻き込まれる」というレッテル貼りが行われたが、それは間違いだったことは(戦争に巻き込まれなかった)歴史が証明している、と安倍は言っていました。しかしその戦争を防いだのは平和憲法でしたし、それを変えようとしてるのが安倍政権だという矛盾はどう考えればよいのでしょう。

戦後日本に山羊や羊を何千頭も贈ってくれた米国、民主主義のチャンピオンたる大使を次々と送り込んでくれた米国。それを褒め称えながら、民主主義の本当のチャンピオンたる「憲法」だけは「押しつけられた」と言うのは、「矛盾」というよりも「二枚舌」と呼ぶべきです。「賞賛」というより「面従腹背」というべきなのです。口では何とでも言っていいんだ、とこの人は思っているのだということなのです。

April 28, 2015

舌をまくほどにお見事!

日米の防衛協力ガイドラインが18年ぶりに改定されました。とはいえこれは国会で話し合われたわけでもなく、今回の安倍訪米に合わせてバタバタと日米両政府間で合意したのです。これで自衛隊は「周辺事態」を越えて世界規模で活動することができるようになる。集団的自衛権容認の閣議決定からこの方、安倍政権は思うがままに日本を変えています。

「え? オバマ政権ってそういう日本の軍事拡大を警戒してたんじゃないの?」と思う人もいるでしょう。

オバマ政権だけでなく欧米諸国およびその報道メディアはいまでも安倍首相の国家主義的な歴史認識を懸念しています。なぜなら彼の歴史修正の方向性は(「イスラム国」と同類の)第二次大戦以降の国際秩序への挑戦だからです。

NYタイムズは安倍訪米に先立って論説室の名前で今回の訪米の成否は「首相が戦争の歴史を直視しているかどうかにかかっている」と断言し、さらに別の記事でも「政府による報道機関の政権批判抑え込みが功を奏している」と批判の度合いを高めています。フォーブス誌に至っては首相の上下両院合同会議での演説はカネで買ったようなもんだというコラムを掲載するし、ウォールストリート・ジャーナルも首相は「歴史に関する彼の見解がかき立てた疑念」を抑止する必要があると指摘しました。英ガーディアンも安倍演説に先立ち「日本の戦時の幽霊がまだ漂っている」と警告していたのです。

けれど、安倍訪米団の最初の仕事であった防衛協力ガイドライン合意の際の相手方、ケリー国務長官の満面の笑みは、まるでそんな懸念など関係ないかのようでした。なぜか?

ちょっとおさらいしましょう。

オバマ政権はアフガン・イラク戦争からの撤退で「世界の警察」の地位から下りることを志向しました。これは何度も書いてきたことです。何千人もの若者たちの命と何億ドルもの軍事費を費やしても地域紛争は果てることなく続き、米国の介入が逆に恨みを買うことも少なくない。ならばその地域の安全保障はその地域で担ってもらおう、という方向転換でした。その中に「東アジア・太平洋地区のリバランス」というものも含まれています。

ここに安倍政権は乗ってきた。取り直しの形で登場してきた第二次安倍政権は、第一次で手もつけられずに退陣した悔しさからか平和憲法の改変と「美しい国」という家父長制国家の復活を明確に押し出してきました。しかしそれは2013年12月、靖国参拝を敢行することで米国の異例の「失望」表明を招き、失敗します。なぜなら日本の存在する東アジア「地域」では、それが中国と韓国を挑発して却って「地域」の安全保障を毀損するからでした。それはリバランスの目論見も崩れて米国の方針に叶わなかったからです。

そこで安倍政権は軌道修正をしました。靖国は参拝しない。ハドソン研究所での演説のような「私を軍国主義者と呼びたければどうぞ」的な無用な国粋主義発言も控える。今回の訪米での厚遇を目指して、安倍政権はこの1年ひたすら米国の歓心を買うためにそうやって数々の布石を打ってきたのです。

昨年7月の集団的自衛権の容認も米国支援を名目に憲法の実質的改変を含んで一石二鳥でした。従軍慰安婦問題については「人身売買」だったとの表現で主語を曖昧にしたまま反省の雰囲気を醸し出しました。先日のバンドン会議では中国の習近平主席と2度目の会談を実現させて「地域」の緊張緩和を演出し、「侵略戦争はいけない」という、これまた主語の違う一般論で先の大戦を反省したような演説も行った。

米政権が懸念するのは米国の安全保障政策に則らない他国の軍事拡大です。その意味で安倍政権は、中国の海洋進出などの脅威増大を背景に実に周到に米国に取り入った。これだけ上げ膳据え膳の「お土産」をもらって喜ばない政府はないし、その菓子箱の底に首相の恣意的な理想国家実現のプロジェクトを忍び込ませたわけです。

なんとも舌を巻くほどに見事な権謀術数ではないですか。

February 03, 2015

「あらゆる手段」って……

もう40年以上もニューヨークに住む尊敬する友人から電話がかかってきて「ねえ、教えて。安倍さんはどうして海外で働いている私たちを危険にさらすような演説をしたの? 最後の一人まで助けるとか言っておいて何もできないなら、何のための政府なの? 私たちは平和を貫く日本人だったのに、これからはテロや誘拐の対象になったの?」と聞かれました。それは私の問いでもあります。

安倍首相のエジプトでの2億ドル支援声明の文言が拙かったことは2つ前のこのブログ「原理には原理を」で紹介しました。日本人人質の2人が「イスラム国」の持ち駒になっていて、この犯罪者集団がその駒を使う最も有効なタイミングと大義名分を探っていた時にまんまとそれらを与えてしまった。そのカイロ演説がいかに拙かったかは、首相自身と外務省が自覚しているのです。なぜなら人質発覚後のイスラエル演説の語調がまるで違っていたからです。「イスラム国」の名指しは最初の呼びかけだけ。あとは「過激勢力」という間接表現。内容も日本の平和主義を前面に押し出したきわめて真っ当でまっすぐなもの。カイロ演説の勇ましさが呼び水だったと自覚していなければ、なぜこうも変わったのか。逆にいえば、なぜ初めからそういう演説をしなかったのか。

そして後藤さんも殺害されてしまいました。3日の国会で、安倍首相は「中東での演説が2人の身に危険を及ぼすのではないかという認識はあったのか?」と問われ「いたずらに刺激することは避けなければいけないが、同時にテロリストに過度に気配りする必要はない」と答弁しました。テロリストへの気配りなんか言っていません。「人質の命」への気配りでしょうに、この人は自分の保身のためにはこんな冷酷なすり替えをするのです。こんな時の答弁くらいもっと正面から堂々ときちんと誠実に答えたらどうなのでしょう。

おまけに言うに事欠いて「ご質問はまるでISILに対してですね、批判をしてはならないような印象を我々は受けるわけでありまして、それは正にテロリストに私は屈することになるんだろうと、こう思うわけであります」。この人は批判や疑義をかわすためならそんな愚劣な詭弁を弄する。

まだあります。安倍首相は後藤さん殺害を受けての声明で事務方が用意した「テロリストたちを決して許さない」との文言に「その罪を償わせる」と書き加えたのだそうです。

以前からこの人の言い返し癖、勇ましさの演出に危惧を表明してきましたが、この文言はCNNやNYタイムズなどでは「報復/復讐する」と紹介されています。NYタイムズの見出しは「Departing From Japan’s Pacifism, Shinzo Abe Vows Revenge for Killings(日本の平和主義から離れて、シンゾー・アベ 殺害の報復を誓う)」でした。それは日本政府として抗議したんでしょうか? 抗議してもシンゾー・アベの政治的言語の文脈ではそういう意味として明確に英訳した」と言われるのがオチでしょうが。

平和主義のはずの日本がなんとも情けない言われ様ですが、これはつまり平和憲法を変えてもいないのに、戦後日本の一貫した平和外交も変えてないのに、一内閣の一総理の積極的「解釈」変更と各種の演説によって、日本は世界に向けた「平和国家」という70年間の老舗看板を、勝手に降ろされてしまっているということなのでしょうか?

早くも政府は閣議で、今回の人質事件では「あらゆる手段を講じてきた。適切だった」との答弁書を決めたそうです。一方で菅官房長官は「イスラム国」は「テロ集団なので接触できる状況でなかった」とも明かしました。接触もできなかったのに「あらゆる手段を講じた」? 例えば接触して人質解放を成功させたフランス経由も試さなかった? つまり「イスラム国」のあの時の突然の要求変更は、2億ドルの身代金云々を告げたのに日本政府がぜんぜん何も接触してこなかったので、詮無く交渉相手をヨルダンに変えた、ということだったでしょうか? つまり初めから後藤さんらを救うための交渉などしてこなかったということなのでしょうか?

それを裏打ちするように、これも3日の参院予算委で岸田外相が、2人の拘束動画が公開された1月20日まで、在ヨルダン日本大使館に置いた現地対策本部の人員を増員していなかったことをしぶしぶ明らかにしました。つまり昨年8月の湯川さん拘束後の5カ月間、後藤さん拘束が発覚した11月になっても、現地はなにも対応を変えなかった。こういうのを「あらゆる手段を講じてきた」と言うのでしょうか?

冒頭に紹介した友人の「最後の一人まで助けるとか言っておいて何もできないなら、何のための政府なの?」という切実な問いに、いまの私は答えを知りません。

January 27, 2015

素晴らしい日本

湯川さんが殺害され、後藤さんの解放が焦眉の急となっている状況で、欧米のメディアが日本人社会の不可解さに戸惑っています。再び登場した「自己責任」社会の冷たさや、2人の拘束されている画像を面白おかしくコラージュ加工したものがツイッター上に多く出回っているからです。

ワシントンポストなどは「自己責任」論に関して04年のイラク日本人人質事件に遡って解説し、あの時の人質の3人は「捕らえられていた時より日本に帰ってきてからのストレスの方がひどかった」という当時の担当精神科医の言葉なども紹介しています。タイム誌は今回の事件でもソーシャルメディア上で溢れる非同情的なコメントの傾向を取り上げ、ロイター電は「それらは標準的な西洋の反応とは決定的な違いをさらけ出している」としています。

確かに米国でも「イスラム国」に人質に取られたジャーナリストらの拘束映像が放送されました。しかしどこにも自己責任論は見られませんでしたし、ましてや彼らをネタに笑うようなことは、少なくとも公の場ではありませんでした。そんなものがあったら社会のあちこちで徹底的に口々に糾弾されるでしょう。80年代にあった「政治的正しさ(PC)」の社会運動は、批判もあるけれどこういうところで社会的な下支えとしてきっちりと共有され機能しているのだなあと改めて感じます。

ちなみに「自己責任」に直接対応する英単語もありません。それを「self-responsibility」とする訳語も散見されますが、英語では普通は言わないようです。また、後藤さんのお母様が記者会見で最初に「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と謝ったことも欧米ではあまり理解できない。そもそも悪いのは「イスラム国」であって「息子」たちではない。

日本語の分かる欧米人は「自己責任」と聞くと「自分の行動に責任を持つ」という自身の覚悟のニュアンスとして、つまり立派なものとして受け止めるようです。でもそれをもし他者を責める言葉として使うならば、それは「It's your own fault」や「You were asking for it」というふうに言う。つまり日本で今使われる「自己責任」とはまさに「自業自得」という切り捨ての表出でしかないのですね。

2人の拘束画像を茶化すようなツイッター画像の連投は「#ISISクソコラグランプリ」つまり「クソみたいなコラージュ」という意味のタグを付けられて拡散しています。例えば拘束の後藤さんと湯川さんの顔がアニメのキャラクターやロボットの顔にすげ替えられているものや、黒づくめの「イスラム国」男が逆に捕らわれているように入れ替えられているもの、その男がナイフをかざしているのでまるで料理をしているように背景を台所に加工しているもの、と、それはそれは多種多様です。外電によればそんなパロディ画像の1つは投稿後7時間でリツイートが7700回、お気に入りが5000回という人気ぶりだったそうです。

こういう現象に対し「人が殺されようというときになぜそんなおふざけができるのか?」「日本人ってもっと思いやり深く優しい人たちじゃなかったのか?」という反応は当然起こるでしょう。

もっともこれを「アニメ文化の日本の若者たちらしい」「イスラム国を徹底的におちょくるという別の戦い方だ」と見た欧米メディアもありました。しかしそれはあまりに穿った見方だと思います。これらの投稿のハシャギぶりは、実際には「イスラム国」への挑発でしかなく、「イスラム国」関係者とみられるあるツイッターのアカウントは「日本人は実に楽観的だな。5800km(おそらく8500kmの誤記)離れているから安全だと思うな。我々の兵士はどこにでもいる」と呆れ、「この2人の首が落とされた後でお前たちがどんな顔をするか見てみたいものだ」と返事をしてきたのです。

「日本は素晴らしい国だ、凄い国だ!」と叫ぶネトウヨ連中に限ってこういうときに「自己責任だ」として他人を切り捨て、嘲り、断罪する。そういう日本は素晴らしいのでしょうか? それは自己矛盾です。そうではなく、「日本を素晴らしい国、凄い国にしたい」という不断の思いをこそ持ち続けたいのです。

January 21, 2015

原理には原理を

「イスラム国」が2億ドルの身代金を払わねば人質の日本人2人を殺害すると予告した事件は米国でも波紋を広げています。米国ではすでにジャーナリストら3人が容赦なく斬首されていて、この件で私に話しかけてきた友人たちも、2人の運命がすでに決まっているかのように「アイ・アム・ソーリー」と言うばかりでした。

米政府はこれまで交渉を表向き全く拒否して空爆を強化してきました。「それが功を奏しつつあってISIL(イスラム国)は追い込まれている」とも発表されたばかりでした。20日のオバマ大統領の一般教書演説でも「イスラム国」の壊滅を目指し、国際社会で主導的な役割を果たすとの決意表明がありました。

交渉しない代わりに、諜報力でどこに拠点があるのか割り出し、そこを急襲して人質を救出するという作戦も行われています。ところが失敗して、昨年12月には数日中に解放予定だった英国人人質を殺させてしまったこともある。

そういうのがアメリカのやり方です。まるでハリウッド映画です。そうじゃない世界の可能性というものはないのか? アメリカ式ではない別の道はないのでしょうか?

今回、拉致されているジャーナリストの後藤さんはシリアに入る際に「日本はイスラム国と直接戦っていない。だから殺されることはないだろう」と語っていました。しかし、安倍首相はエジプトでの記者会見で「イスラム国対策2億ドル支援」を勇ましく表明しました。曰く「ISILがもたらす脅威を少しでも食い止める」「ISILと闘う周辺各国に総額で2億ドル程度支援をお約束」。

ところが人質殺害予告後のイスラエルでの会見はもっぱら「非軍事的な人道支援」を強調した内容で、「イスラム国」を刺激しないためか一転して名指しすらせずもっぱら「過激主義」とのみ呼んでいました。

私はイスラエルでの会見はとてもバランスのとれた、平和主義日本の立場をよく説明した声明だと思いました。それは日本憲法の前文と9条の精神を下地にしたもののようでした。「イスラム国」に対し「何を言っているのだ。日本は困っている人々に手を差し伸べる国家なのだ。2億ドルはそういう支援だ。そんな私たちの国民を殺害するなどイスラム法に則っても正義はない」と正面から啖呵を切れる論理だったと思えたのです。

ここに疑問が湧きます。エジプトでの声明とイスラエルでの声明との間にある明らかな語の選択と語調の差。それこそが安倍外交の齟齬、外務省の失敗の自覚なのではないか? エジプト声明での自慢気さに「拙い」と気づいての慌てての語調変更。

私は「イスラム国」には対抗すべきだと思っているし、「わざわざ標的になるような余計なことは言うな」とは思いません。ただ、彼らの原理主義への対峙は、米国追従やハリウッド的なテロ絶対悪説ではなく、もっと根源的な別の人間原理に基づくべきだと思っています。その原理とはまさに憲法前文と9条と民主主義による真正面からの反撃のことなのだと思うのです。そしてそれこそが、ハリウッド式ではない、世界のもう一つの在り方なのだ、ということなのです。

そんなことを言うとまた「平和ボケのお前が9条を掲げてシリアに入って、おめでたい人質救出交渉でもしてこい」とか「北朝鮮や領土問題の中国や韓国にも同じこと言えるのか」と言う人が現れます。はいはい、でも私が話しているのはそういうその場その場での対処方法の話なんかじゃないんです。

83年からパキスタンやアフガニスタンで戦火の中でも医療活動や水源確保・農業支援活動を続けてきた中村哲さんが毎日新聞の取材に答えて次のように語っています。

「単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」

平和憲法を平和ボケだとかお題目唱えてろとか言う人たちは、そんな中村さんたちの、現場の切実な安心感はわからんのでしょうね。

January 19, 2015

運動としての「表現の自由」

仏風刺誌「シャルリ・エブド」襲撃事件はその後「表現の自由」と「自由の限度」という論議に発展して世界中で双方の抗議が拡大しています。シャルリ・エブドの風刺画がいくらひどいからといってテロ殺人の標的になるのが許されるはずもないが、一方でいくら表現の自由といっても「神を冒涜する権利」などには「自由」は当てはまらない、という論議です。

私たちはアメリカでもつい最近同じことを経験しました。北朝鮮の金正恩第一書記をソニーの映画「ジ・インタビュー」が徹底的におちょくって果てはミサイルでその本人を爆殺してしまう。それに対してもしこれがオバマ大統領をおちょくり倒してついには爆殺するような映画だったら米国民は許すのか、というわけです。

日本が風刺対象になることもあります。最近では福島の東電原発事故に関して手が3本という奇形の相撲取りが登場した風刺画に大きな抗議が上がりました。数年前には英BBCのクイズ番組を司会していたスティーヴン・フライが、「世界一運が悪い男」として紹介した広島・長崎の二重被爆者の男性の「幸福」について「2010年に93歳で亡くなっている。ずいぶん長生きだったから、それほど不運だったとも言えないね」と話したところ在英邦人から抗議が出てBBCが謝罪しました。

シャルリ・エブドの事件のきっかけとなった問題は、風刺の伝統に寛容なフランス国内でも意見は分かれるようです。18日に報じられた世論調査結果では、イスラム教預言者ムハンマドを描写した風刺画の掲載については42%が反対でした。もっとも、イスラム教徒の反対で掲載が妨げられてはならないとの回答は57%ありましたが。

宗教批判や風刺の難しさは、その権威や権力を相手にしているのに、実際には権威や権力を持たない市井の信者がまるで自分が批判されたかのように打ちのめされることです。そして肝心の宗教そのものはビクともしていない。

でも私は、論理的に考え詰めれば「表現の自由に限度はない」という結論に達せざるを得ないと思っています。何が表現できて、何が表現できないか。それはあくまで言論によって選択淘汰されるべき事柄だと思います。そうでなくては必然的に権力が法的な介入を行うことになる。つまり風刺や批評の第一対象であるべきその時々の権力が、その時々の風刺や批評の善悪を決めることになります。自らへの批判を歓迎する太っ腹で寛容で公正な「王様」でない限り、それは必ず圧力として機能し、同時にナチスの優生学と同じ思想をばら撒くことになります。

もちろん、表現の自由の限度を超えると思われるようなものがあったらそれは「表現の自由の限度を超えている」と表現できる社会でなければなりません。そしてその限度の境界線は、その時々の言論のせめぎ合いによってのみ決まり、しかもそれは運動であって固定はしない。なので表現の自由とその限度に関する議論は止むことはなく、だからこそ自ずから切磋琢磨する言論社会を構成してゆく、そんな状態が理想だと思っています。

ヨーロッパというのは宗教から離れることで民主主義社会を形成してきました。青山学院大学客員教授の岩渕潤子さんによると「ヴァチカンが強大な権力を持っていた時代、聖書の現代語訳を出版しようとしただけで捉えられ、処刑された。だからこそヨーロッパ人にとってカトリック以外の信教の自由、そのための宗教を批判する権利、神を信じない権利は闘いの末に勝ち取った市民の権利だった」そうです。

対してアメリカは宗教とともに民主主義を培ってきた国で、キリスト教の権威はタブーに近い。しかしそれにしても市民社会の成立は「神」への永遠の「質問」によって培われてきたし、信仰や宗教に関係するヘイトスピーチ(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの差別や排斥の表現)も世界の多くの国々で禁止されているにもかかわらず「表現の自由」の下で法的には規制されていず、あくまでも社会的な抗議や制裁によって制御される仕組みです。もちろんそれが「スピーチ(表現)」から社会的行動に転じた場合は、「ヘイトクライム(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの犯罪行為)」として連邦法が登場する重罪と位置付けられてもいるのです。いわば、ヘイトスピーチはそうやって間接的には抑圧されているとも言えますが。

「表現の自由」の言論的な規範は、歴史的にみればそれは80年代の「政治的正しさ(PC)」の社会運動でより強固かつ広範なものになりました。このPC運動に対する批判もまた自由に成立するという事実もまた、根底に「正しさ」への「真の正しさ」による疑義と希求があるほどに社会的・思想的な基盤になっています。

でもここでこんな話をしていても、サザンの桑田佳祐が紅白でチョビ髭つけてダレかさんをおちょくっただけで謝罪に追い込まれ、何が卑猥かなどという最低限の自由を国民ではなく官憲が決めるようなどこぞの社会では、何を言っても空しいままなのですが。

December 15, 2014

「圧勝」の正体

「自公圧勝」と一面に大見出しが踊ったのは読売と産経でした。しかしその割に各局の開票速報テレビ特番に顔を出した安倍総理はあまり笑顔が持続しませんでした。というかはっきり言って時にとても苛立っていた。

中でもひどかったのは読売系であるはずの日本テレビ「NEWS ZERO」での村尾信尚キャスターへの受け答え。アベノミクスで賃金は来年も上がると強調する安倍首相に対し「中小企業に賃上げ余力はあるのか」と問われると、安倍さんはスタジオからの音声イヤフォンを外して「村尾さんみたいに批判しているだけでは何も変わらない」と一方的にまくし立てる始末。言いたいことしか言わない例の「強弁で糊塗」癖と「言い返し」癖がまたぞろ出てきて、とても「圧勝」の将の弁とは思えません。

もう1つはテレビ東京「池上彰の総選挙ライブ」。「集団的自衛権について選挙戦であまり触れていなかった」と指摘されて安倍さん、「そんなことありませんよ。今までもテレビの討論会で何度も議論したじゃないですか!」「(自民党が)勝ったから(集団的自衛権について)訴えていなかったというのはおかしいと思いますよ」と語気を強めました。

つまり今回の選挙結果は「集団的自衛権容認も支持を得られたと受け止める」ということです。うーむ、そう言いたいのは山々でしょうが、自民党が選挙前、国民の意見がかなり分かれる問題から懸命に話題をそらそうとしていたのも事実。菅官房長官は選挙が決まった先月19日の記者会見で集団的自衛権に関しては「既に憲法改正を国政選挙の公約にしており(信を問う)必要はない」と明言していて、秘密保護法についても「いちいち信を問うべきではない」と争点化を避けていたのです。そして「信を問うのはアベノミクス」と言い切っていた。

自公合わせて議席占有3分の2以上は選挙前と変わりません。つまり「圧勝」ながらも「現状維持」なのです。しかも自民党は議席を3つ(追加公認で最終的に2つ)減らしている。

では何のための選挙だったのか? 野党の体たらくのうちにあわよくば自民だけで3分の2の議席を、とでも皮算用していたのか? 実際、産経新聞などはそう予想していました。安倍さんのあの日の苛立ちはそこら辺が原因かもしれません。

一方で憲法9条改変に反対の党は150から174議席に、原発再稼働慎重派の党は119から139議席へと増えました。そもそも自民のストッパーを自称する公明党が議席を増やしての前議席数越え。そして反自民鮮明な共産が大幅増。自民より右翼と言われる次世代の党が壊滅状態。安倍政権へのこのメッセージは予想以上に明らかではないかと思われます。

前回衆院選も似たようなものでしたが、比例区で自民党に投票した人は今回も全有権者の17%に過ぎません。3分の2という「圧勝」はあくまで小選挙区制というプリズムを通しての数字です。得票率を全国完全比例代表制で議席に分配したら与党勢力は自民158、公明65、次世代12で計235議席で全475議席の過半数に至らず。対して野党勢力は民主87、維新75、共産54、社民12、生活9、幸福2云々となるそうです。

まあいずれにしても14年前の森喜朗政権以降、小泉フィーバーの時の3回を除けば自民党の比例区絶対得票率は16〜18%どまりです。国民有権者の6人に1人くらいしか自民党に積極的に投票していないとすれば、これは「圧勝」という見かけよりも「支持横ばい」が実態です。しかしそれでも安倍政権は「圧勝」で動いていくのでしょう。そして私たちはそれを見越しての対応を考えなければならないのでしょう。

December 02, 2014

礼節を知る

選挙の際になぜいつも景気の話が最も重要視されるのか、それは何を為そうにも生活が保障されていない限りすべてがむなしいからです。ですから今回の解散総選挙で安倍首相は「この道しかない」と言ってアベノミクスの推進を前面に押し出しているのでしょう。

けれど、アベノミクスそのものが成功しているのか、正しい「道」なのか、という点には実質賃金が16カ月連続でマイナスになっているなど、さまざまな疑問が生じ始めているのも事実です。

思えばアベノミクスはその命名自体こそが政治的成功でした。経済の話は難しいのでなかなかついていけない。でも「アベノミクス」と聞けばなんとなく実体があるような、具体的な政策のように聞こえます。

簡単に言えばそれは世間にお金をじゃぶじゃぶ注ぎ込んでカネ余りの状態を作り、そこで「国土強靭化」と称する公共投資をやっていけば、そのうちに民間の会社にも活力がみなぎるはずだという政策なんですが、活力がみなぎる前に米格付け会社ムーディーズが日本の国債を1つ格下げしたというニュースも飛び込んできました。

ムーディーズも勝手なもんで「消費増税を見送ったことで財政健全化が遠のいた」というのが一因だそう。一方では消費増税のあおりで個人消費が落ち込み、財政健全化の一端を担う税収増の源(民間活力)がヘトヘトになっているのに。結局アベノミクスも「行くも地獄、戻るも地獄」状態だということですか。

しかし「この道しかない」と言うだけあって、野党にはアベノミクスに対抗する経済政策の上手いネーミングがありません。なので有権者には魅力的な「別の道」がさっぱり見えてこない。

私は「アベノフィックス(アベノミクスの修正)」が必要だと思うんですが、そもそもどうして景気が大切なのかというと、それは「衣食足りて礼節を知る」ためなのだと信じています。少なくとも私は礼節を知って「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会(世間)において、名誉ある地位を占めたいと思」うのです。

ところがアベノミクスでもなんでもいい、とにかく日本経済を再生させて安倍政権が手に入れようとしているものが、どうもこの「礼節」とは違うもののように思えてしょうがない。

集団的自衛権の閣議決定という解釈改憲やチェック機能なしの特定秘密保護法の施行は、戦争や全体主義のあの時代の残酷さを忘れた逆の意味の「平和ボケ」にしか思えませんし、先の選挙で脱原発や反TPPを訴えてそれらを全て反故にした無責任さも、景気条項を外した消費増税の決定を「増税先送り」と呼ぶセコさも、そして何より首相自らが民族差別組織を宣伝したり先の大戦を美化したりするような不見識も、礼節とはかけ離れている。礼節なくしていったい何のための景気回復なのでしょうか?

選挙に際してぜひ肝に銘じてほしいことがあります。民主主義というのは何かをするのに適した制度ではなく、むしろ何かをさせないよう生み出された制度なのです。何かを為すには話し合いなどない独断専行がいちばん手っ取り早い。でもそうすると権力は必ず独善と横暴に堕します。

独裁や専政、圧政、そういうことをさせないためにわざとまだるっこしい手続きである民主制度が作られました。選挙とは、権力の奢りを遅滞させ反省させる唯一の武器なのです。まだるっこしさの覚悟がないところに民主主義は成立しません。景気の話と同時に、選挙では礼節と覚悟の話もぜひ考えてください。

November 17, 2014

エボラ禍で私たちにできること

米国移送の最初のエボラ感染患者がニューヨークの病院から退院する一方で新たに搬送されたシエラレオネの医師が治療の甲斐なくネブラスカ州で死亡するなど、エボラ熱との戦いはまだ続いています。感染爆発の西アフリカでは死者5000人を超えました。

これから始まる新たな社会問題もあります。エボラで死んだ親の子供たちが、感染を恐れる親戚にも見放されて続々
と孤児になっているのだそうです。中でも死者が3000人近いリベリアでは孤児の数も4000-5000人いると見られています。ところが彼らを世話する孤児院がない。

その孤児院を建設しようと、1人の牧師さんがこの夏からニューヨークで資金集めに奮闘しています。首都モンロビアで最大のキリスト教区を持つサミュエル・リーブズ牧師です。

そもそもなぜリベリアで感染被害が多いかというと、リベリアは家族や友人をとても大切にする社会で、道で会っても話をするときでもいつもハグしたりキスしたり手を取り合ったりしているのだそうです。また家族が亡くなるとみんなでその遺体を拭き清める習慣もある。そんな温かい関係がかえってエボラ熱の接触感染を広める仇となったのです。

にもかかわらずエボラの恐怖と社会的スティグマは家族親族の関係を断ち切るほどに強い。私たちも知っているエイズ禍の時と同じです。

リーブズさん自身、9月の故国からの電話で、幼馴染の隣の教区の牧師さんがエボラで急死したという方を受け取りました。国の保険証の担当官と一緒に国内のエボラ患者の支援と救済に飛び回っている最中に自身もエボラに感染してしまったのだそうです。

リーブズ牧師はどうにか孤児たちを引き受ける孤児院を作りたいと奔走しています。全米の教会を回り資金集めに忙殺されていた9月には、幼なじみだった隣の教区の同僚牧師さんがエボラで急死したという電話連絡も受けました。リベリアの厚生省の担当者といっしょに国内各地を回って患者たちの世話をしていて感染したそうです。

リベリアはやっと内戦が終わり民主社会を建設中でした。それがまた壊滅的な打撃を受けています。その立て直しは孤児院の建設から始まると言うリーブズ牧師は、最終的に国内に15の院が必要になると話しています。その第一号の建設地はすでにシエラレオネとの国境沿いに国際支援でできた医療センターと高校施設との共同敷地があるそうです。

資金集めの目標は1000万ドル(10億円)。そこにニューヨークで40年活躍しているジャズマンの中村照夫さんが慈善コンサートで資金集めに協力することになりました。中村さんは日本のジャズ界の大きな賞である南里文雄賞の受賞者で、20年来、日米でエイズの啓発コンサートも続けてきた人です。

今年も12月1日(月)は世界エイズデーです。この日に「エイズからエボラへ」という持続的な社会啓発を謳って中村さん率いるライジングサン・バンドがブルックリン・パークスロープの「ShapeShifter Lab(シェイプシフター・ラブ)」で7時から演奏します。寄付は現金と小切手で受け付けます。詳細は次のとおりです。

    *

【世界エイズデーコンサート=エイズからエボラへ】
日時=12月1日(月)午後7時〜9時
場所=ShapeShifter Lab (18 Whitewell Place, Broklyn, NY=最寄駅はR線のユニオン・ストリート)
出演=Teruo Nakamura & the Rising Sun Band, with Monday Michiru (Vocal/Flute)
入場料=15ドル
寄付願い=できれば10ドル以上を。小切手宛先は The Safety Channel。全額がモンロビアの「Providence Baptist Church Medical Center and Orphanage」へ寄付されます。

October 06, 2014

脅迫者の手口

NHKの新しい朝ドラ「マッサン」で、主人公のマッサンこと亀山政春がスコットランド人女性エリーと結婚して帰国しました。でもマッサンの母親役の泉ピン子は外国人との結婚など認めず、エリーに「政春のことを思うなら、あの子の将来を考えるならどうぞ国へ帰ってつかぁさい」と迫った。ああそう来たか、と思いました。古今東西の脅迫者は直接の相手ではなくその恋人や家族が危ういぞと脅すのが常だからです。

そうなると問題は当事者の手を離れ、被害の可能性を無限に広げます。脅された相手はもう自分の覚悟や判断だけではどうにもなりません。泉ピン子のその台詞を聞きながら私が思っていたのは、大阪の帝塚山学院大に、従軍慰安婦問題に関するいわゆる「吉田証言」の記事を執筆した元朝日新聞記者の教授を辞めさせなければ大学を爆破するという内容の脅迫状が届いた事件です。

周知のとおり「吉田証言」とは故・吉田清治氏が戦時中に軍令に従って済州島などで「若い朝鮮人女性を拉致・強制連行して慰安婦とした」と証言したものです。そして今年8月5日、朝日新聞はこの吉田証言を虚偽として関係する過去の記事を取り消しました。朝日はこれで多くの批判を浴びており、安倍首相までが「日本のイメージは大きく傷ついた。『日本が国ぐるみで性奴隷にした』とのいわれなき中傷が世界で誤報によって作り出された」と、記事取り消しに乗じてまるで慰安婦問題そのもの(つまりは河野談話も)がなかったかのような物言いをしています。

帝塚山学院大は、この爆弾テロ予告を受けて自主退職を選んだ朝日OB教授の辞表をそのまま受理しました。いわばテロに屈して学問と言論の拠って立つ矜持を放棄したわけです。「大学のことを思うなら、辞めてつかぁさい」ということでしょう。

一方、同じような脅迫が北海道の北星学園大にも届きました。ここにも吉田証言に関わった朝日OB記者が非常勤講師を務めているのです。しかし北星学園は「本学が主体的に判断する」と、脅しに屈しない毅然たる態度を表明しています。

とはいえこの朝日OB記者の高校生の長女はネットで氏名、写真をさらされ「自殺に追い込む」と脅され、長男の高校の同級生は同姓のために間違われてネット上でやはり名指し写真付きで「売国奴のガキ」と書かれた。まさに家族を脅す悪者の典型パターンです。

こうしたネット上での安易な右翼的振る舞いの有象無象を「ネトウヨ」と称しますが、その増殖は安部政権自体の振る舞いに鼓舞されてか最近目に余るものがあります。政権自体が彼らをまともに批判しないばかりか、ときにはかばう仕草すら見せるのですから。そこに「売らんかな」の週刊誌がここぞとばかりに嫌韓・嫌中で販促を行う。

ネトウヨたちはものごとを「愛国」と「反日」で分け、日本批判をすべて「反日」認定してネット上で「炎上」を仕掛けます。なんとも寒々しい光景です。「反日」はかつての「非国民」の怒声と同じなのですが、彼らはなぜか「非国民」という言葉は使いません。いっそのこと使えば正体がはっきりするのに、さすがにそれはまずいと知っているのでしょう。

いまの日本を席巻しようとする「愛国勢力」たちが、自分たちの振りまく罵倒と憎悪と怨嗟の言葉が古今東西の脅迫者たちの手口と似通っていることに気づくことはあるのでしょうか。作家の高橋源一郎さんは言っています。「自称『愛国者』たちは『愛国』がわかっていないのではない。『愛』が何なのかわかっていないのだ」

September 14, 2014

朝日非難の正体

朝日新聞が大変なことになっています。

まずは8月5日にこれまでの「従軍慰安婦」関連報道の検証を公表して、32年前の吉田清治証言など多くの事実関係の誤りを認めました。次にこの問題を分析して「訂正するなら謝罪もすべきではないか」と論評した池上彰氏の同紙コラムを不掲載として、これも大批判を浴びました。さらには東電福島原発事故の際の吉田調書のスクープ(5月20日付記事)でも「吉田昌郎所長の命令に違反して所員が撤退した」とした記事が誤報だったとして9月11日付で再び削除、謝罪するに至りました。そこで現在、同業の読売、産経をはじめ週刊誌や自民党政治家などから「朝日は潰れろ」とばかりの袋だたきに遭っているのです。まるで「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態です。

背後にはとにかく「従軍慰安婦問題」が気に食わないいわゆるネトウヨ(ネット右翼)がいるようです。というのも慰安婦問題そのものがなかったかのような「訂正しろ」コールが沸き起こっているのですね。

実は「吉田証言」はかねてから怪しいとされてきて、さまざまな国際報道でも疑義が差し挟まれてきました。訂正するにしても本質的な全体像にはあまり変わりはないのですが、首相である安倍サンですらこの虚報騒動の中で「世界に向かってしっかりと取り消すことが求められる」「事実ではないと国際的に明らかにすることをわれわれも考えなければならない」と、何かまるで全部「事実ではなかった!」みたいな言い方でしょ。

もちろん池上問題はまったく弁解の余地もない話ですし、引き続く「吉田調書」スクープでの失敗も、記者がとにかく「原発は危ない」「東電はけしからん」などの世論と呼応して前のめりになってしまって、調書の読解が「ウケ狙い」の曲解に傾いたのが原因だと思います。

朝日が大きな間違いを犯したのは事実です。でも、それで巻き起こっている日本社会の非難の正体が何なのかが気になるのです。産経に至っては連日の批判記事の他に「朝日よ『歴史から目をそらすまい』」「産経 史実に基づき報道」という大見出しで全面PRまで作って読者牽引を図っているサモシさですよ。

例えばNYタイムズが誤報をして、それを他のメディアが嬉々として叩いて客引きする、なんて図式はアメリカではまず考えられません。Foxでもそこまではしない。むしろジャーナリスト同士で叱咤すべきは叱咤し、商売仇とはいえ同僚でもある当該紙の再起を願うはずです。なぜならそれが言論全体の健全さを保障すると、ジャーナリストなら知っているからです。

でもそんなことを言うと「反日だ」とレッテルが張られます。「朝日をかばうのか」「捏造した記事を書く新聞は逝ってヨシ」などといった実に乱暴な反論が(罵詈雑言とともに)ツイッターで返ってきます。彼らの「反日」とは国内向けにはまさに「非国民」という意味なのですが、なぜか彼らは「非国民」という非難の仕方は避けています。アノ時代のアノ人たちとは違うと思われていたいのかしら?

私たちの言論の拠って立つところは、実はとても稀少で脆弱です。みんなで育て支えていないとすぐに崩れる。なのに、そういう乱暴な声の行き着く社会が、真っ先にそういう人たち自身の物言いをも封じ込める社会だとは気づいていない。

かくして欧米では朝日の誤報自体と同時に、朝日の誤報以降に安倍政権や保守派勢力が朝日=リベラル勢力に対して絶え間なく圧力を掛けているという話もニュースになっているのです。

August 30, 2014

氷のビショービショ

友人からチャレンジされて私もアイスバケットの氷水をかぶりました。筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病の支援を目的に7月末から始まったこのキャンペーンは有名人を巻き込んであっというまに300万人から計1億ドル以上を集めました(8月末現在)。昨年の同じ時期に米国ALS協会が集めた募金は280万ドルだったといいますから、このキャンペーンは大成功です。

フェイスブックやツイッターで映像画像を公開しているみなさんは嬉々として氷水をかぶっているようですが、スティーヴン・ホーキング博士も罹患しているこの病気はじつはとても悲惨なものです。四肢から身体全体にマヒが広がり、最後に残った眼球運動もできなくなると外界へ意思を発信する手段がなくなります。意識を持ったまま脳が暗闇に閉じ込められるその孤独を思うと、氷水でも何でもかぶろうという気になります。

啓発のためのこういうアイディアは本当にアメリカ人は上手い。バカげていても何ででも耳目を集めればこっちのもの。こういうのをプラグマティズムと呼ぶのでしょうね。もちろんチャレンジされる次の「3人」も、「幸福の手紙」みたいなチェーンメール方式と違って断る人は断ってオッケー、その辺の割り切り方もお手の物です。

レディ・ガガにネイマール、ビル・ゲイツやレオナルド・ディカプリオといった世界のセレブたちが参加するに至って案の定、これはすぐに日本でも拡散しました。ソフトバンクの孫さんやトヨタの豊田章男社長といった財界人から、ノーベル生理学・医学賞の山中教授、そして田中マー君も氷水をかぶりました。

ところがあるスポーツタレントがチャレンジの拒否を表明して、それが世間に知られると「エラい」「よく言った」と賞讃の声がわき起こったのです。ある意味それはとても「日本」らしい反応でした。その後ナインティナインの岡村隆史も「(チャリティの)本質とはちょっとズレてきてるんちゃうかな」と口にし、ビートたけしも「ボランティアっていうのは人知れずやるもの」と発言しました。こうした批判や違和感の理由は「売名行為」「一過性のブーム」「やっている人が楽しんでるだけで不謹慎」「ただの自己満足」といったものでした。

日本にはどうも「善行は人知れずやるもの」というストイックな哲学があるようです。そうじゃないとみな「偽善的」と批判される。しかし芸能人の存在理由の1つは人寄せパンダです。何をやろうが売名であり衆人環視であり、だからこそ価値がある。ビートたけしの言い分は自己否定のように聞こえます。

私はこれは日本人が、パブリックな場所での立ち振る舞いをどうすべきなのかずっと保留してきているせいだと思っています。公的な場所で1人の自立した市民として行動することに自身も周囲も慣れていない。だからだれかがそういう行動を取ると偽善や売名に見える。だから空気を読んで出しゃばらない。そんな同調圧力の下で山手線や地下鉄でみんな黙ってじっとしているのと同じです。ニューヨークみたいに歌をうたったり演説をする人はいません。

そういう意味ではアイスバケット・チャレンジはじつに非日本的でした。パブリックの場では大人しくしている方が無難な日本では、だから目立ってナンボの芸人ですら正面切っての権力批判はしない。むしろ目立つ弱者を笑う方に回る。

私は、偽善でも何でもいいと思っています。その場限りも自己満足も売名も総動員です。ALSはそんなケチな「勝手」を飲み込んであまりに巨大なのですから。

August 10, 2014

コピペ首相

6日の広島平和記念式典、9日の長崎平和祈念式典、双方で安倍首相の読み上げた「あいさつ」文が昨年の「あいさつ」とほぼ同一の文言が多かったことから、ネット上で「昨年のコピペ」「首相は被爆者をナメてる」「平和軽視の証拠だ」と大炎上になりました。コピペとは「コピー&ペースト」。小保方論文や学生のリポートでも問題となっている「引き写し」のことです。

広島では冒頭が「69年前の朝、1発の爆弾が十数万になんなんとする、貴い命を奪いました」。昨年はこれが「68年前」で、それ以外は2段落分が一字一句同じ。長崎でも「本日、被爆69周年〜」で始まる最初の段落と2段落目は、年数を示す文言以外同一文章。3段落目の「一度ならず、二度までも被爆の辛酸をなめた」もまったく同じ表現でした。

問題は2つあると思います。1つは、こういう全国放送もされる式典などでのスピーチは政治家が自らの「政治の言葉」をフルに発信できる絶好の機会です。それは「言葉の力」で民衆に感動や納得や賛同を植え込む好機です。その檜舞台をコピペ演説で浪費するなんて、政治家ならそれだけで失格です。

少なくともアメリカ大統領の年恒例の演説で前年のスピーチからのコピペはあり得ません。地方遊説で同じスピーチを使い回すことはあっても、それは聴衆が違うからで年一度の大イベントでのコピペはあり得ない。

ならばやはり安倍首相は広島・長崎を舐めてかかったのでしょうか。このところ2年続きで同じ首相が「あいさつ」することがあまりなかったので小泉純一郎まで遡ってみると、さすがに6年も同じ「あいさつ」をしているので内容も似通っているものの、むしろ話の順序を入れ替え、細かい表現を取ったり加えたりと、同じにならないような何らかの工夫が為されていました。安倍首相のコピペとは違ったのです。

しかし加藤官房副長官は安倍コピペを「特段の問題があるとは考えておりません」。首相周辺によれば、こうした式典の挨拶は頻繁に変えるべきではないとして、敢えて同じ言葉を選んでいると言うのです。

なるほどそこが問題の2点目です。官僚的には政府見解の整合性、連続性、統一性こそが重要なのであって、それは首相「あいさつ」にも当てはまるという論理です。

もっともコピペはかなり情緒的な表現部分で行われていて、こうした整合性で問題となる肝心の状況認識とか政治的意義付けの部分ではありません。むしろコピペしたような情緒部分こそスピーチライターの腕の見せ所だったはずです。

ただし問題はそこではありません。整合性というならば問題はむしろコピペじゃなく、コピペ「しなかった」部分にこそある。つまり従来の「あいさつ」を踏襲しなかった部分です。それは「憲法を守る」という表現の欠落でした。

じつは06年まで、自民党の歴代首相は「日本国憲法を守る」「平和憲法を遵守する」と「あいさつ」してきました。それが07年の第1次安倍内閣では「憲法の規定を遵守する」と、なんとなく形式が変わった。そして次の福田、麻生内閣で初めて憲法への言及が消えたのです。

次の民主党政権3年度にわたる「あいさつ」では再び「日本国憲法を遵守する」が復活しましたが、第2次安倍内閣の翌13年と今回14年ではまた憲法への言及が省かれていたのです。

「首相周辺」の論理で行けば、コピペではない部分こそがメッセージの変更です。だとすれば戦後憲法、平和憲法からの「脱却」の試みは、すでにとっくに始まっていたのかもしれません。

August 07, 2014

佐世保の少女

佐世保の女子高校生殺害事件で、加害少女が3月に父親をバットで襲った後に通院した精神科医が「このままでは人も殺しかねない」と児童相談所や当の父親に報告していたことがわかりました。地方の名士の家に生まれながらも複雑な家庭環境があり、それらがどう少女の心に影響したのか、などが取り上げられていますが、いま明らかになっている情報を精査してみると、私には少女は、社会的な善悪の基準を理解しない、罪悪感の欠落した行為障害(いわゆる反社会的人格障害、大人だとサイコパスと呼ばれる症状)なのだろうと思われるのです。

アメリカでは明確な精神医学会の診断基準があります。少女を診断した精神科医もおそらくそれらを基に「人を殺しかねない」と判断したのでしょう。それは「心の闇」と形容されて済むようなものではなく、歴とした「病気」なのです。

ところがTVでは加害少女の事件直前のそうした行動を「闇」として報道し、声優まがいの禍々しいナレーションや不吉な音楽がかぶせられます。これはドラマじゃありません。粛々たる現実なのに、どうしてそれを客観的に淡々と伝えられないのでしょう。そういうことをしてるからこのような事件を、わたしたちの社会はどこかよそごとの虚構としてしか認識しなくなる。というか、そういう「闇」として認識する方が、私たちの理解のパターンに添うために、受け入れやすい。たとえその「闇」の実態が知れなくとも、「心の闇」という定型句の中には収まってくれるからです。

でもそうではなく、これをまずは病気、精神障害としてとらえることが必要なのではないかと思います。「普通」の「私たち」にはとても理解できない「病気」。でも事実として存在する「病気」。ネットではそのことに関してもカミュの「異邦人」の「殺人」や、星新一の「暑さ」というショートショートにある物語と重ねて論じる向きも窺えます。わたしも最初はそれを考えてみました。でも、カミュの「太陽が圧倒的だったから」というのはあまりにロマン的に過ぎるし、「暑さ」の主人公の動機は「イライラ」と明快なのです。書かれたものは、すでに理解されたものなのです。佐世保の少女の場合、それはまだ書かれていないものです。

少女の症状が一種の行為障害だった場合、最も効果的な治療法はとにかくまずは危害の広がる一般の環境から引き離し、精神衛生施設や青少年用の保護施設など厳格に統制された環境の中で社会性の「規範」を知らせてゆくことなのだそうです。

いま残念なのは、せっかく関係者が少女の危険性に気づいたのに、そのことに具体的に対処しきれなかったことです。私たちは、カミュや星新一ではなく、すでに同じような現実をほんとうは知っていたのに。

1つは97年に数カ月にわたって計5人の小学生が殺傷された神戸連続児童殺傷事件、いわゆる酒鬼薔薇事件です。もう1つは2000年に「殺人の体験をしてみたかった」として愛知県の17歳の男子高校生が68歳の主婦を40カ所も刺して殺した豊川市主婦殺人事件です。他にもあるでしょう。

もちろん知ってはいても、実際は「そんな映画みたいな話が自分の周りで起きるはずはない」とふつうは思います。でも関係するプロは「起きるかもしれない」と警戒することが仕事です。

1980年代のエイズ禍の出現とともに、医療現場ではある概念が導入されました。「ユニバーサル・プレコーション(普遍的事前警戒)」、さらにはそれの発展形である「スタンダード・プレコーション(標準的事前警戒)」というものです。後者は日本語では「標準予防策」と訳されます。医療現場にあっては、感染がわかっていようとなかろうと、すべてが感染源かもしれないという前提で事前に警戒して取り扱う、という原則のことです。

この考え方が徹底されることで予防注射の針は使い捨てになり、歯医者でも患者ごとに十全に殺菌済みの器具を使用するようになった。病院では消毒法だけでなく患者に接する際の手袋やマスク、エプロンやガウン、さらにはゴーグルやフェイスシールドの着脱の順番まで細かく基準化(スタンダード化)されています。

「スタンダード・プレコーション」とはいわば「疑わしきは疑ってかかる」ことです。

でもこれを社会全般に適用するととんでもなくイヤな世界になってしまいます。例えばアルコールを提供する場所でのダンスは淫らな非行に通じるからと「事前警戒」して取り締まる社会。例えば漫画やアニメの「ある部分」が青少年の健全な精神育成に悪い影響を与えると「事前警戒」して規制に走る社会。あるいは幼い女の子の手を引いている男の人を見かけたら何か悪いことが起きる「事前」にすぐに警察に通報する社会。

そんな潔癖一辺倒で、なおかつ疑心暗鬼な社会はまっぴら御免でしょう。

エイズ禍でもそうでした。医療現場だけでなくコミュニティ全体にスタンダード・プレコーションが行き渡っても、それで人間関係がギスギスしてしまったら何のための安全かわかりません。なのでその場その場でのポイントを押さえ、スマートに事前警戒するしかないのです。そのためには1人ひとりの警戒の感度をレベルアップする必要がありました。それは、1人ひとりが知的に考えることでしか得られない社会的な安全保障のレベルアップでした。

では今回の佐世保の事件ではどうだったのでしょうか? この場合の事前警戒ポイントは精神科医と両親と児童相談所でした──少女に最も近しい者とプロフェッショナル。

せっかく事件直前にも少女の異状に気づきながら、その三者とも対応が一歩ずつ遅れた。医師は忙しく、児童相談所は時間外で、両親はまさか翌日に少女が同級生を殺すとは思っていなかった……不運というには残酷すぎる結末です。事前警戒のポイントで即応できるよういま一度、私たち自身の知的警戒の質をレベルアップしなくてはならない。こうした障害や病気があるのだという事実を、嫌悪感や処罰感情を除外して事実として学習しなければならないと思うのです。これは安っぽい事件ドラマではないのです。

July 19, 2014

中古(ちゅうぶる)の大切さ

CNNとニューズウィーク・ジャパンがそろって先日、建て替えられる東京のホテル・オークラ本館を惜しむ記事を掲載しました。老朽化が進み,20年の東京五輪を前に建て替えてしまえというものですが、CNNは「時代の中に取り残されたような趣きが魅力だったタイムカプセル的ホテル」と重要性を強調し、ホテルの保全運動を支持しています。

こういうのを読むにつけ、私たちはどうしていつも外国人の指摘で日本のよいものに気づくのだろうと思います。

思えば世界無形文化遺産に登録された和食だって、私が日本を離れた20年前にはだれも騒いでいませんでした。だいたい懐石・会席料理だって料亭になんか一般人が入ることはまずなかった。政治家とか経済界の重鎮たちが行く密室料理のことだったのです。

それが急にロビュションやらデュカスやらが日本料理に注目しだして、そこに菊乃井の村田さん辺りが和食の普及に奮闘し、世界ばかりか日本国内に向けても同時売り出しをしたわけです。それまでは、日本では何かの折りの豪勢な食事と言えば中華やフレンチだったのですから。

遡れば桂離宮だって昭和8年に来日したブルーノ・タウトが「これは凄い」って言ったというので日本人も「ああ、そうなのか」と気づいた。京都そのものだってかつては単なる修学旅行の場所でした。それが世界中から観光客が溢れもてはやしてやっとふつうの日本人も広く「そうだ、京都に行こう」となった。

ニューズウィークにオークラを惜しむエッセイを書いたのはレジス・アルノーさんというフランス人なんですが、この人、六本木ヒルズや計画される新国立競技場も大嫌い。スカイツリーは東京の衰退の象徴とバッサリ。東京駅と東京ステーションホテルも「改装前の面影はほとんどなく、東京ディズニーランド駅だ」と情け容赦ない。

対してオークラは「最先端のホテルではない。『古風』と言ってもいい。だが、ホテルオークラのロビーは戦後の日本の卓越した力強さを見事に映し出している」とべた惚れ。CNNも「セイコーの時計が入った世界地図には今でもレニングラード(現サンクトペテルブルク)の時刻が表示される。バー『ハイランダー』では世界各地でとうに姿を消したカクテルが注文できる」「何でも取り壊して大きく作り直すのが主流のアジアにあって、ホテルオークラはかつて素晴らしかったものへの敬意を思い起こさせる存在だった」

世界にはものすごく古いものと、ものすごく新しいものが混在しています。その中間にオークラのようなものが存在している。この、中くらいに古いものがどうして大切かというと、これ、生きている人間たちの記憶だからです。生きてきた時代の記憶なのです。つまりノスタルジアの源だということです。

でもこの「中くらいに古いもの」、言葉を換えれば「中古」「中ブル」です。その重要性を敢えて意識していなければすぐに「建て替え」「買い替え」の対象です。

いま生きている日本人の大多数にとってはそれは「昭和」のことなんでしょう。オークラも前回の東京五輪前の昭和37年に開業しました。そうした昭和の記憶とノスタルジアとが、とても古いものととても新しいものとの橋渡し役を担っているのですが、私たちはついそのことを忘れがち。じつはこの中くらいに古いものが庶民の文化のカギを握っているのです。それがなければ歴史は脈絡を失ってバラバラにほどけてしまうのですから。それを、外国人に指摘されないまでも意識していたいと思うのですが。

June 22, 2014

永遠の記憶ゼロ

【以下の文章はこれまでも繰り返し言ってきたものですが、都議会性差別ヤジの一件に絡めて再構成してみます。なお、ここでは黒人、女性、同性愛者と書くのみですが、他の人種や性自認、性指向を排除しているものではありません。それらを含むともっと字数もいるので、これはモデル化した、きわめて単純化したエッセーだと考えてください(=表題含めて書き直しました)】


「おまえが早く結婚すればいいじゃないか」「産めないのか」。東京都議会で、妊娠、出産、不妊に悩む女性への支援の必要性を訴えた女性都議に対し、議場の自民党席からこんなヤジが飛びました。日本ではこれをセクハラと呼びますが、英米メディアは「セクシスト(女性差別)の暴言 sexist abuse」(英ガーディアン紙)などとより強い言葉で糾弾しています。

世界はつねに白人で異性愛者の男性によって語られ(決められ)てきました。彼らはすべての語りの「主語」でした。黒人も女性も同性愛者もその彼らによって語られる(決められる)「目的語」の位置にいました。

ところが米国では50年代あたりから黒人たちが、60年代から女性たちが、70年代から同性愛者たちが、下克上よろしく「主語」の地位を獲得しだします。するとどうなるか? 黒人たちが白人について、女性たちが男たちについて、同性愛者たちが異性愛者たちについて語りだす主客転倒が起こるのです。異性愛白人男性は急に自分たちが「語られ(自分の意に関係なく勝手に意味を決められ)」て、なんとも居心地の悪い受け身の状態に陥るわけです。今までは勝手に語ってきたのに、今度は勝手に言われる立場に逆転する。

一番の脅威は性的問題でした。黒人たちは性器の大きさを、女性は性交の巧拙を話題にする、極めつけは同性愛者たちで彼らは文字通り自分たちを「目的」にしている!(ような気がする)。

この「目的語」の恐怖は、彼らに2つの道を選択させます。1つは再びの絶対的主語奪還をはかるやみくもな実力行使です。さらなる男性至上主義、父権主義、セクシズムへの固執です。前提や環境が変わっていてすでに「絶対」は存在し得ないにもかかわらず、それを理解できないのです。

もう1つは主語と目的語の平準化、交換可能な交通化です。すなわち、主語でも目的語でもその間を自由に行き来して相対的な自我を意図的に(これは、わざとじゃないとなかなか出来ないことです)構築していく道です。ここでは世界の主語でないからと言って怯える必要はありません。

さてそこで例の都議会女性差別暴言ヤジ問題を考えてみましょう。当初この問題を取り上げたTVインタビューである自民党都議は「こんなヤジよくあること」と答えたのです。これはまさに50年代以前の、絶対的主語幻想が生きていた時代の言辞です。

ところが翌朝の新聞での自民党の反応は「まさか大ごとになるとは」。

これは自分たちが他の主語たちによって語られていることへの気づきと驚きです。自民党のセクシズムが世間の「目的語」として受け身にさらされるという、予期せぬことへの呆然です。だって今までの地方議会では「今日はパンツスーツだけど生理なの?」(千葉県我孫子市議会)「痴漢されて喜んでるんだろ」(2010年都議会)などと発言しても「よくあること」として問題視されなかったのですから。

さて、自民党はどちらの道に進むのでしょう? 再びの男性至上主義、セクシズムへの固執か、それとも……?

まあ、一番の可能性は遅ればせながら犯人のクビを差し出し、とりあえずは謝っておいて(週明けにでもそうなるでしょうかね)でも時間が経てばまた「なかったことにする」という記憶障害の再発でしょう。

ただしそれは自民党が知的鎖国状態にあることの証左であって、その限りでは今後も諸外国のメディアの、そして日本国内の、遅ればせながらいまとうとう主語の地位を獲得し始めた“元・目的語”の人たちの、批判対象、外圧対象であり続けるということです。それを逃れる道はなく、抜本的に脳髄を入れ替えないと永遠の記憶ゼロを繰り返さねばならぬはめになります。

June 16, 2014

6年後のニッポン

このところの日本のスポーツ報道の過剰な思い入れとか浪速節調などにちょっとした異和感を感じています。ソチ五輪のときもそうでしたが今回はもっとひどい。「今回」とはもちろんワールドカップのことです。

アメリカにいるとサッカー熱がそれほどでもないのでなおさら彼我の差として目につくのでしょう。いちばん気持ち悪かったのは朝日の本田圭佑の記事でした。「本当に大切なものは何か 自問自答した4年間」という見出しのこの読み物、まるで高校野球の苦悩のエースを取り上げたみたいな書き方でした。プロで莫大なカネを稼いでいるオトナに、「もともとはサッカーがうまくなりたいだけだったのに、ビジネスの要素が大きくなった。純粋な気持ちだけでサッカーをすることが難しくなった」と言わせる。「純粋な気持ちだけでは難しい」って、まるでプロを否定するようなこの切り口はないでしょう。

果たしてW杯予想でも初戦での日本の敗北をだれも口にできない幇間ぶり。大方が2−1での日本勝利予測で勝手に盛り上がり、こういうのを手前味噌というのではなかったか。こうしたうたかたの極楽報道は何かに似ているなと思ったら、そうそう、あの小保方さんの割烹着記事のニヤケ具合もこんな感じでした。

W杯報道はTVも新聞もみんな太鼓持ちになったみたいに総じて気持ち悪く進んでいます。

私は88年のソウル五輪を取材しました。事前の企画連載から本大会まで、ベン・ジョンソンの金メダル剥奪をスクープした東京新聞チームにいたのです。なのでいまもはっきり憶えています。あのころは「ニッポン、ニッポン」ばかりの報道は格好悪いから(どの社も)極力避けようと意識して報道していました。ちょうど国際化、グローバリゼーションなどという言葉が新聞にも登場し始めていたころです。いまのような「愛国」も「嫌韓」もありませんでした。

思えば88年というのはバブル経済真っ盛りのころでもあります。日本人には余裕というか、根拠のない自信もまた大いにあったのでしょうね。だから当時だっておそらくはいたはずのネトウヨ体質の人たちにしても、いまみたいに爬虫類よろしくすぐに噛み付いたりはしなかったのかもしれません。というか、政治的には圧倒的に少数派でしたから、いまの安倍のような守護神も集まる場もなくただただ逼塞するしかなかった。

あれから26年、「ニッポンすごい!」「ニッポン最高!」のしつこいほどの念押しが時代の様変わりを如実に示しています。背景にあるのは日本の余裕と自信のなさなのでしょう。だからいま改めて賛辞以外のいかなるメッセージも拒絶している。賛辞が聞こえない場合は自己賛辞で補填している。アメリカに住んでいると日本への賛辞はいろいろな機会に聞こえてくるので、そんなに不安になる必要はないと思うのですが、日本国内だと違うみたいですね。

おそらくもっと中立的、客観的な報道も出来るのでしょう。でも最も簡単でかつ喜ばれるのは読者・視聴者におもねるやり方です。だれもひとに嫌われたくなんかありませんし、とくにW杯みたいな「お祭り」ではそんなおべんちゃらもゆるされると思っているメディアの人間たちも多い。でもそれはジャーナリズムではありません。

この過剰な思い入れは戦争のときの高揚感に似ているのだと思います。中立でも客観でもなく、根拠もなく「イケる」と思ってしまう。まあ、そう思わない限り戦争なんか始められません。開戦というのはいつもそんな幻想や妄想と抱き合わせなのです。

不安の裏返しの「ニッポン最高!」の自己暗示。それは数多のJポップの歌詞に溢れる「自分大好き!」にも通底し、そこに愛国心ブームがユニゾンを奏でている──6年後の東京オリンピックではいったいどんなニッポンが現れているのでしょうね。

May 29, 2014

暴力のジェンダー

札幌市厚別区で行方不明になっていた伊藤華奈さんが殺害されていたという痛ましいニュースを目にしながら、その数日前に起きたカリフォルニア州サンタバーバラでの大量殺人事件の余波を考えていました。というのも「暴力には人種や階級、宗教や国籍の別はない。けれどジェンダー(男女)の別はある」という米国の女性作家の言葉が忘れられなかったからです。

サンタバーバラでの事件は単なる「もう1つの銃乱射事件」ではありませんでした。自殺した犯人の男子大学生(22)が残した犯行予告のビデオや百三十七ページの手記の内容が、全米の女性たちに異例の反応を惹き起こしたのです。なぜならば犯人は「自分のような完璧な紳士を相手にしないのは女たちの不正義であり犯罪だ。そんな女たち全員に罰を下してやるのがぼくの喜びだ」などと発言していたからです。

この激しいジェンダー間憎悪。ここにあるのは一義的には「モテない男の個人的な恨みつらみ」ですが、その根底には男たちの拭い去りがたい女性嫌悪、女性蔑視が横たわっているのではないか──その気づきが全米の女性たちに大議論を巻き起こしたのです。

ツイッターなどを舞台にしたその議論のハッシュタグ(合言葉)は「#YesAllWomen(そう、女たちはみんな)」。

男性性への批判に対して男たちが反論するときに「Not All Men(男がみんな〜〜だとは限らない)」と切り出す決まり文句があります。それに対抗して女性たちがいま、直言や皮肉として逆に「そう、女はみんな〜〜だ」という合言葉の下、自分の経験した性暴力や性差別、嫌がらせや性的脅しなどの具体例を報告しているのです。その数すでに百数十万件。つまりここにあるのは圧倒的なジェンダーの不均衡です。男女間の暴力事案の被害者は圧倒的に女性が多く、加害者は圧倒的に男性が多いという事実の列挙です。

しかも今回の犯人はメンズ・ライツ運動(男性の権利を取り戻す運動)に関わっていたこともわかりました。しかも彼の場合は女性の権利の台頭に恐れをなした男性側が、男性性の優位を訴えて権利回復を叫ぶというとても短絡的な主張です。これはつまりフェミニズムに出遭ったときに男性たちがそれを取り込んで柔軟かつ大らかに変わるのではなくて、そんな女性たちに対抗し競争して打ち勝つ、というなんとも子供じみた衝動なのです。

冒頭の「暴力にはジェンダーの別がある」というのは歴史家でもある作家レベッカ・ソルニットの新著「Men Explain Things to Me(私に物事を教える男たち)」の中の言葉です。今回の事件に関して彼女は「democracynow.org」という独立系の米ニュースサイトで「世界中で女性に対する性暴力が溢れている。なのにそれが人権の問題としてとらえられることは少ない」と論難しています。先のツイッターでの議論ではインドやアフリカ諸国などで多発する強姦事件や女性の人権無視も数多く言挙げされています。いやそれだけでなく、米テキサス州で「ビールとバイオレンスはドメスティックに限る!」と手書きの看板を出していたマッチョなバーもあることが報告されました。奨励される前者は国産ビール、後者は身内での暴力、特に女性への暴力のことです。

伊藤華奈さんへの加害者が男性なのかはまだわかっていません。しかし思えば先日のAKB握手会事件も男性が女性を襲ったものでした。暴力事案をこうしたジェンダーの視野から照らして見る。そうしなければ男たちは、犯罪に潜む身勝手な女性嫌悪と女性蔑視とに永遠に気づかないかもしれません。ええ、男がみんなそうだとは限らないのですが。

May 12, 2014

日系企業のみなさんへ〜任天堂事件の教訓

記憶に新しいところではこの4月、ファイアフォックスのモジラ社の新CEOがかつてのカリフォルニアでの反同性婚「Prop8」キャンペーンに1000ドルの寄付をしていたために就任10日で辞任に追い込まれました。東アジアのブルネイが同性愛行為に石打ち刑を適用することに対し全米でブルネイ国王所有のホテルチェーンにボイコットが起きていることも大きなニュースです。そういえばロシアの反同性愛法への抗議でソチ五輪で欧米諸国がそろって開会式を欠席したのもまだ今年の話でした。

性的少数者への差別や偏見に対してかくも厳しい世界情勢であるというのに、どうして大した思想も覚悟もあるわけでない任天堂米国社が、6月に発売するソーシャルゲーム「Tomodachi Life(日本名ではトモダチ・コレクション=先にコネクションとしたのを書き込み指摘により修正しました)」の中で同性婚が出来なくなっているのでどうにかしてほしいと言うファンからの要望に対して「任天堂はこのゲームでいかなる社会的発言も意図していません」「異性婚しかないのは、現実世界を再現したというよりは、ちょっと変わった、愉快なもう1つの世界だからです」と答えてしまったのでしょうか。

実は同じことは日本版リリース後の昨年暮れにも起きました。このときは日本国内での話題で、一部外国のゲームファンの中からも問題視する声がありましたが、任天堂はこれを「ゲーム内のバグ」と言いくるめて押し通し、肝心の同性間交際の問題には正面からはまったく対応しませんでした。そして今回に至ったのです。

これはマーケティング上の大失敗です。なぜならこれは、米国では誰から見ても明白に「大きな問題」になることだったからです。そして、同性婚を連邦政府が認めているアメリカで「異性婚しかないのは」「現実世界」とは違ってそれ「よりはちょっと変わった愉快なもう1つの世界」の話だからだと言うことは、まるで同性婚のある現実世界はその仮想世界よりも楽しくないという、大いなる「社会的メッセージ」を発することと同じだったからです。

果たしてこれをAP、CNN、TIME、ハフィントンポストなど、米国のほぼ全紙全局が一斉に報じました。AP配信の影響でしょうか、アメリカのゲーム関連のニュースサイトもちろん速報しました。「任天堂は同性婚にNO」という批判文脈で。それでもまだ任天堂は気づいていなかった。というのもハフィントンポストからの取材に対して日本の任天堂は「すでに発売された日本で大きな問題になってはいませんし、まずはゲームを楽しんでいただきたい」とコメントしたのです。

http://www.huffingtonpost.jp/2014/05/08/nintendo-tomodachi_n_5292748.html
「日本では昨年発売されたものですし、お客様にも大変喜んでいただいています。
 ゲームの中で、結婚したり、子供を作ったりという部分が特徴的なのは確かですが、それだけではありません。いろいろなことができるゲームですし、その部分のみが取り上げられるのは、ゲームの中身が理解されていないのかな、という印象です。まだ海外では発売すらされていないので、そういった報道になるのかもしれません。すでに発売された日本で大きな問題になってはいませんし、まずはゲームを楽しんでいただきたいと思います。」

そして翌9日、任天堂は謝罪に追い込まれました。「トモダチ・ライフにおいて同性間交際を含めるのを忘れたことで多くの人を失望させたことに謝罪します」と。

We apologize for disappointing many people by failing to include same-sex relationships in Tomodachi Life.

TIMEは次のようにこの謝罪も速報しました。

The company issued a formal apology Friday and promised to be "more inclusive" and "better [represent] all players" in future versions of the life simulation game. The apology comes after a wave of protests demanding the company include same-sex relationships in the game

もっとも、任天堂は例の「社会的発言」云々のくだりなど、それ以前のコメントの「間違い」への反省の言及は一切ありませんでした。

LGBT(性的少数者)の人権問題に関してどうして日系企業はかくも鈍感なのでしょう。そもそもアメリカに進出していてもLGBTという言葉すら知らない人さえいます。かつて日系企業の米国進出期には女性差別やセクハラ、人種差別やそれに基づくパワハラが訴訟問題にも発展し、多くの教訓を得てきたはずです。にもかかわらず今度はこれ。実際は何も学んでこなかったのと同じではありませんか。

性的「少数者」として侮ってはいけません。米国社会では親しい友人や家族の中にLGBTがいると答えた人は昨年調査で57%います。同性婚に賛成の人は先日のCNN調査で59%にまで増えました。所謂ゲーム世代でもある18歳〜32歳の若年層に限ると、同性婚支持の数字は68%にまで跳ね上がるのです(ピューリサーチセンター調べ=2014.3.)。

つまり、LGBTに関して「あいつオカマなんだってさ」「アメリカにはレズが多いよな」などという言葉を吐こうものなら、あなたは7割の若者から差別主義者の烙印を押されることになるのです。それで済めば良いですが、もしそれが職場や仕事上の話題ならば、訴訟になり巨額のペナルティが科せられます。冒頭に挙げた例はビッグネームであるが故の社会制裁を含んだものですが、アメリカでは最近、せっかく新番組のTVホストに決まっていた双子の兄弟が過去のホモフォビックな活動を問題視されて番組そのものがあっというまにキャンセルされてしまった例もあります。こう言ったらわかるかもしれません。アメリカ社会で黒人にニガーという言葉を投げつけただけであなたは社会的にも経済的にも大変困ったことになります。その想像力をそっくりLGBTに対しても持つ方がよい。ホモフォビックな性的少数者に差別と偏見を向ける人は、よほどの宗教的な確信犯ではない限り、すでにそちらこそが少数派の社会的落伍者なのです。

そんなこんなで任天堂問題がツイッターなどを賑わしているさなかに、大阪のゲーム会社がまた変なことをやらかしていることが発覚しました。

ノンケと人狼を見分けて「(ホモ)人狼」を追放する「アッー!とホーム♂黙示録~人狼ゲーム~」だそうです。

こうなるともうわけがわかりません。

これがアップルやグーグルのゲームアプリとして発売されるというので、いまツイッターなどでみんながアップルとグーグルにこんなホモフォビックなゲームは販売差し止めにしてほしいという運動を起こしています。なにせアップルもグーグルも世界的にLGBTフレンドリーを公言している企業だから尚更、というわけです。

このゲーム会社、大阪のハッピーゲイマー(Happy Gamer)というところらしいですが、ツイッターで抗議されて慌ててこのゲームのサイトに「表現について」という急ごしらえの「表現について」http://ahhhh.happygamer.co.jp/expressというページを追加してきました。そこで「このゲームにおいて「性的少数者=人狼」のように表現はされておりません」と釈明したのです。でも、それ以前にこの会社、ツイッターで「#ホモ人狼 あ、ハッシュタグ作ったんで使ってくださいね!」という「人狼=ホモ」という何とも能天気な自己宣伝をばらまいていたんですね。頭隠して尻隠さずというのはこういうことを言うのです。あまりに間抜けで攻めるこちらが悲しくなってきます。

というわけでこの会社が両販売サイトから差し止めを食らうのも時間の問題です。おそらく零細企業でしょうし、「ホモ人狼」などと堂々と宣伝してしまうところから見てもまったく意識がなかったのは明らかですが、「差別するつもりはなかった」という言い訳が通用するのは小学生までです。ユダヤ人に、黒人に、世界中でどれほどそういう名目での差別が行われてきたか、「差別するつもりはなかった」ということをまだ恥ずかし気もなく言えるのもまた日本社会の甘やかなところなのだと、とにかく一刻も早く気づいてほしい。並べて日本の会社はこの種のことにあまりに鈍感過ぎます。

「差別するつもりはなかった」という言葉で罪が逃れられると思っているひとは、「殺すつもりはなかった」という言葉があまり意味のない言い訳であるということを考えてみるといいと思います。こんなことが差別になるとは知らなかったと言って驚く人は、こんなことで死ぬとは思っていなかったと言って驚く人と同じほど取り返しがつかないのです。LGBTに関して、いま欧米社会はそこまで来ています。

ゲイやレズビアンなどの市民権がいまどうして重要なのか。いつから彼らは「ヘンタイ」じゃなくなったのか。私はもう20年以上もこのことを取材し書いてきました。日本企業のこの状況を、ほとほと情けなく思っています。この問題について企業研修をやりたいなら私が無料で話してさしあげます。連絡してください。

April 28, 2014

尖閣安保明言のメカニズム

「尖閣諸島は安保条約の適用対象」という文言が大統領の口から発せられただけで、鬼の首でも獲ったみたいに日本では一斉に一面大見出し、TVニュースでもトップ扱いになりました。でも本当に「満額回答」なんでしょうか? だって、記者会見を聴いていた限り、どうもオバマ大統領のニュアンスは違っていたのです。

もちろんアメリカ大統領が言葉にすればそれだけで強力な抑止力になります。その意味では意味があったのでしょう。しかしこれはオバマも「reiterate」(繰り返して言います)と説明したとおり、すでに過去ヘーゲル国防長官、ケリー国務長官も発言していたこととして「何も新しいことではない」と言っているのです。

Our position is not new. Secretary Hagel, our Defense Secretary, when he visited here, Secretary of State John Kerry when he visited here, both indicated what has been our consistent position throughout.(中略)So this is not a new position, this is a consistent one.

ね、2度も言ってるでしょ、not a new position ってこと。これは首尾一貫してること(a consistent one)だって。

それがニュースでしょうか? それにそもそも安保条約が適用されると言ってもシリアでもクリミアでも軍を出さなかったオバマさんが「ロック(岩)」と揶揄される無人島をめぐる諍いで軍を動かすものでしょうか? だいたい、上のコメントだって実は中国をいたずらに刺激してはいけないと「前からおんなじスタンスだよ、心配しないでね」という中国に対する暗黙の合図なのです。

それよりむしろオバマさんが自分で安倍首相に強調した( I emphasized with Prime Minister Abe)と言っていたことは「(中国との)問題を平和裏に解決する重要さ(the importance of resolving this issue peacefully)」であり「事態をエスカレートさせず(not escalating the situation)、表現を穏やかに保ち(keeping the rhetoric low)、挑発的な行動を止めること(not taking provocative actions)」だったのです。まるで中学生を諭す先生のような言葉遣いです。付け加えて「日中間のこの問題で事態がエスカレートするのを看過し続けることは深刻な誤り(a profound mistake)であると首相に直接話した(I’ve said directly to the Prime Minister )」とも。

さらにオバマさんは「米国は中国と強力な関係にあり、彼らは地域だけでなく世界にとって重大な国だ(We have strong relations with China. They are a critical country not just to the region, but to the world)」とも言葉にしているのですね。これはそうとう気を遣っています。

注目したいのは「中国が尖閣に何らかの軍事行動をとったときにはその防衛のために米軍が動くか」と訊いたCNNのジム・アコスタ記者への回答でした。オバマさんは「国際法を破る(those laws, those rules, those norms are violated)国家、子供に毒ガスを使ったり、他国の領土を侵略した場合には(when you gas children, or when you invade the territory of another country)必ず米国は戦争に動くべき(the United States should go to war)、あるいは軍事的関与の準備をすべき(or stand prepared to engage militarily)。だが、そうじゃない場合はそう深刻には考えない(we’re not serious about those norms)。ま、その場合はそういうケースじゃない(Well, that’s not the case.)」と答えているのです。

どういうことか?

実は尖閣諸島に関しては、オバマさんは「日本の施政下にある(they have been administered by Japan)」という言い方をしました。これはもちろん日米安保条約の適用対象です。第5条には次のように書いてある;

ARTICLE NO.5
Each Party recognizes that an armed attack against either Party in the territories under the administration of Japan would be dangerous to its own peace and security and declares that it would act to meet the common danger in accordance with its constitutional provisions and processes.
第5条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危機に対処するように行動することを宣言する。

でもその舌の根も乾かぬうちにオバマさんは一方でこの尖閣諸島の主権国については「We don’t take a position on final sovereignty determinations with respect to Senkakus」とも言っているのですね。つまりこの諸島の最終的な主権の決定(日中のどちらの領土に属するかということ)には私たちはポジションをとらない、つまり関与しない、判断しない、ということなのです。つまり明らかに、尖閣諸島は歴史的に現在も日本が施政下に置いている(administrated by Japan)領域だけれども、そしてそれは同盟関係として首尾一貫して安保条約の適用範囲である(the treaty covers all territories administered by Japan)けれど、主権の及ぶ領土かどうかということに関しては米国は留保する、と、なんだかよくわからない説明になっちゃっているわけです。わかります?

つまり明らかに合衆国大統領は尖閣をめぐる武力衝突に関しての米軍の関与に関して、言葉を濁しているんですね。しかももう1つ、安保条約第5条の最後に「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危機に対処するように行動する」とあって、この「手続き」って、アメリカはアメリカで議会の承認を経なきゃならないってことでもありますよね。米国連邦議会が「岩」を守るために軍を出すことを、さて、承認するかしら? ねえ。

この共同会見を記事にするとき、私なら「尖閣は安保条約の適用対象」という有名無実っぽいリップサービスで喜ぶのではなく、むしろ逆に「米軍は動かず」という“見通し”と「だから日中の平和裏の解決を念押し」という“クギ刺し”をこそ説明しますが、間違っているでしょうか? だってリップサービスだってことは事実でしょう? 米軍が守るというのはあくまで日本政府による「期待」であって、政治学者100人に訊いたら90人くらいは「でも動きませんよ」と言いますよ。

ところがどうも日本の記者たちはこれらの大統領の発言を自分で解読するのではなく、外務省の解釈通り、ブリーフィング通りに理解したようです。最初に書いたようにこれは「大統領が口にした」というその言葉の抑止力でしかありません。そりゃ外務省や日本政府は対中強硬姿勢の安倍さんの意向を慮って「尖閣」明言を「大成功」「満額回答」と吹聴したいでしょう。でもそれは“大本営発表”です。「大本営発表」は「大本営発表」だということをちゃんと付記せねば、それは国民をだますことになるのです。

私がこれではダメだと思っているのは、何故かと言うと、この「尖閣」リップサービスで恩を売ったと笠に着て、米国が明らかにもう1つの焦点であったTPPで日本に大幅譲歩を強いているからです。ここに「国賓招聘」や「すきやばし次郎」や「宮中晩餐会」などの首相サイドの姑息な接待戦略は通用しませんでした。アメリカ側はこういうことで恐縮することをしない。ビジネスはビジネスなのです。

思えばオバマ来日の前週に安倍さんが「TPPは数字を越えた高い観点から妥結を目指す」と話したのもおかしなことでした。「高い観点」とはこんな空っぽな安保証文のことだったのでしょうか? 取り引きの材料になった日本の農家の将来を、いま私は深く憂いています。

April 26, 2014

勘違いの集団自衛権

みんな誤解してるようだけど、日本が戦争をしかけられるときには集団的自衛権は関係ないんだよ。つまり尖閣での中国との衝突なんて事態のときは、集団的自衛権は関係ないの。どうもその辺、混同してるんだな。集団的自衛権が関係するのは、日本の同盟国である米国が攻撃されたとき。それを米国と「集団」になって一緒に防衛するってこと。つまり米国が攻撃されたらそこに日本が出て行くってこと。米国と同盟国だから。さてそこでそれを「限定的に使うことを容認したい」って言い始めてるのが安倍政権。どこまでが「限定的」なのかは、そんなの、難しくて言えない、ってさ。個別に判断するようです。でも「地球の裏側にまで出かけることはない」とも言ってるけど、「じゃあどこなら行くの?」には答えられていない。

一方、尖閣でなにかあったときに米国が日本を助けてくれるのは、これは米国側からの集団自衛権、それと、それをもっと明確にしての日米安保条約。だから、尖閣の有事の時のために集団自衛権が必要だ、と思い込んでる人は間違いなの。で、今回の日米共同声明では、尖閣も含んだ日本の施政下の場所は、それは「安保条約第5条の適用下にある」ってこと。

いわば、米国から守ってもらいたいがために、日本も米国を一緒になって守りますよ、っていう約束がこんかいの「集団的自衛権の行使」容認に向けた動きなのです。つまり、なんかあったら日本もやりますから、という証文。先物取り引きみたいなもの。約束。だから、日本になんかあったらよろしくね、というお願いとのバーター取引なのね。

でも、じつはこれ、バーターにしなくてももう昔からそう決まっていたの。だって、安保条約、前からあるでしょ? 集団的自衛権行使します、なんて決めなくても、もうそれは約束だったんだから。

じゃあ、なんでいままたそんなことを言いだしたの? というのでいろいろ憶測があって、それは、1つは靖国参拝、1つは従軍慰安婦河野発言見直し、つまりは「戦後レジームからの脱却」「一丁前の国=美しい国」──そういうアメリカが嫌がることをやらなきゃオトコじゃねえ!と思い込んでるアベが、嫌がることの代償にアメリカが有り難がってくれることをやってやればあまり強いこと言わんだろう、ま、だいじょうぶじゃね?という思惑で(というか、もちろんそれはちゃんと武力行使もできるような「一丁前のオトコらしい国家」であることの条件でもあるんでそこはうまく合致するんだけど)、それで前のめりになっているわけ。だってほら、昨年12月26日の靖国参拝で「disappointed」なんて言われちゃったから、なおさら機嫌直さないといけないでしょ。

アメリカだって、助けてくれると言うのをイヤだなんて言いません。そりゃありがとうです。でも、要は、そんなこんなでアメリカが日本の戦争に巻き込まれるような事態はいちばん避けたいわけです。でも日本が集団自衛権行使容認に前のめりになればなるほど、中国や北朝鮮を刺激してそういう事態が訪れる危険度が高まるというパラドクスがあるわけ。だから、アメリカもアメリカに対して集団自衛権を行使してくれるのはありがたいけど、まあちょっとありがた迷惑な感じが付き纏う。

だから、こんかいの共同声明では、集団自衛権の「行使容認に向けての動き」を歓迎・支持する、ではなくて、集団的自衛権の行使に関する事項について「検討を行っていること」なわけよ、歓迎・支持の対象は。

でね、オバマが強調したのは「尖閣も守られるよ」ってことじゃないの。オバマが強調したのは「対話を通した日中の平和的解決」であり、オバマは「尖閣諸島がどちらに属しているかに関してはアメリカは立場を明確にしない」と繰り返したんです。さらに「米国は軍事的関与を期待されるべきではない」とも話した。

そりゃね、大統領が明言し共同声明にも「尖閣諸島を含む日本の施政下の土地」は安保条約第5条の対象だと明示したことは、それだけで他国からの侵略へのけっこうな抑止力になります。これまでに繰り返された国務長官、国防長官レベルの談話よりは抑止力になる。その意味ではよかった。でもそれだけです。

だいたい日米安保条約第5条にはこう書いてある。

「各締結国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するよう行動する」

つまりは、まずは尖閣をめぐって攻撃されても、まずは「自国の憲法上の規定及び手続きに従って行動する」わけ。武力行使なんて、ここには明記されていない。

でもってこれ、「施政下」というのがじつはキモでね、「日本の領土」じゃないのよ。オバマは「尖閣諸島がどちらに属しているかに関してはアメリカは立場を明確にしない」と言って、「尖閣」とともに中国名の「釣魚島」の名前も言ってるのね。で、尖閣はいまは日本の実効支配下にあるけど、いったん中国が奪い取ったらこれは中国の施政下に入って、安保5条の適用される日本の施政下の領域じゃなくなるわけよ。ね? つまり、その時点で安保によって守られることから除外されるわけ。スゴい論理だよね。

そもそもあそこは無人島なんですよ。英語では「rock」と呼ばれるくらいに単なる岩なわけです(ほんとは海洋資源の権利とかあってそうじゃないんですけどね)。シリアやクリミアで軍事介入しなかったアメリカが、無人島奪還のために軍事介入しないでしょう。大義名分、ないでしょう。アメリカ議会、承認しないでしょう。するわけないもん。

だからここまで考えると、日本のメディアが今回の日米首脳会談、TPPはダメだったけど安全保障の上では尖閣の名前を出してもらって「満額回答だ!」「日米同盟の強固さに関して力強いメッセージをアピールできた!」なんて自画自賛してる政府や外務省の思惑どおりの報道をしてるけど、それ、自画自賛じゃなくて我田引水だから。実質的には何の意味もないってこと、わかるでしょ?

だから「尖閣、危ないじゃん、だから集団自衛権、必要なんじゃね?」と思ってるそこのキミ、それ、違うからね。

集団自衛権ってのは、日本が攻撃されていないのに、同盟国が攻撃されたときにそこに(友だちがやられてるのに助けないのはオトコじゃねえ!って言って)自衛隊派遣して、そんでお国のため、というよりも別の国のために、誰かが死ぬかもしれないってことだから。ま、その覚悟があるんならいいけど、そんで、誰か自衛隊員が不幸なことに殺されたら、それはもうそっからとつぜん日本の国の戦争ってことになって、そんで戦争になっちゃうってことだから。で、日本国が攻撃されるかもしれないってことだから、その覚悟、できてる? ていうか、それって、憲法、解釈変更だけでできちゃうの? ウソでしょうよ、ねえ。

そゆこと。

もいっかい言うよ、集団自衛権と尖閣は関係ない。なんか、オバマ訪日の安倍政権の物言いではまるでそうみたいだったけど、尖閣と関係するのは安保条約。集団自衛権は、その見返りとして日本が別の戦争に加わること。

でさ、その「別の戦争」だけど、友だちを助けないのはオトコじゃねえ、と反射的に思う前に、その喧嘩の仲裁に入るのがオトコでしょう、って思ってよ。そっちのほうが百倍難しい。それをやるのがオトコでしょうが。

というわけで、今回、アメリカの妥協を引き出せなかったTPPのほうが具体的な現実世界ではずっと大事なんです。私昔からTPP反対ですけど。

April 17, 2014

オバマ訪日に漕ぎ着けたものの

昨年のハドソン研究所での安倍さんの「軍国主義者と呼びたきゃ呼んで」発言から靖国参拝、さらにはNHK籾井会長や経営委員の百田・長谷川発言まで、あれほど敏感に反応してうるさかった欧米メディアの日本監視・警戒網が、この2〜3カ月ぱったりと静かなことに気づいていますか?

なにより安倍さん自身が河野談話の見直しはないと国会で明言してみせたりと、これまでの右翼発言を封印した。とにかくこれらはすべて来週のオバマ来日がキャンセルになったら一大事だからなんですね。

これにはずいぶんと外務省が頑張ったようです。岸田外相以下幹部が何度もオバマ政権に接触し、米国の顔を潰すようなことはもうしないと説明した。この間の板挟み状態の取り繕いは涙ものの苦労だったようです。そういえば岸田さんは最近では自民党でさっぱり影の薄いハト派、宏池会ですからね。そこには使命感に近いものもあったのではないでしょうか。

そうして一日滞在だったのが一泊になり、次に二泊になって宮中晩餐会へのご出席を願う国賓扱いにまで漕ぎ着けた。ふつうは向こうが国賓にしてほしいと願うものなのに、今度は日本政府からオバマさんにお願いしたのです。もっともそれでもミッシェル夫人は同伴させませんが。

そこで現在の注目点はいったい23日の何時に日本に到着するのかということです。夕方なら翌日の首脳会談の前に安倍さんがぜひ夕食会に招きたい。ところがオバマさんはいまのところ安倍さんと仲の好いところを見せてもあまり国益がなさそうです。なにせTPPの交渉がどうまとまるのか(17日になった現在もまだ)わからない。ウクライナ情勢が緊迫していてそこで安倍さんと食事しているのも得策ではない。なので直前までワシントンで仕事をして日本入りは23日深夜かもしれない。そうすると日本訪問は実質的に最初の計画どおり24日の一日だけという感じ。二泊するから日本のメンツは立て、実質一日だから米議会にも申し訳が立つ。

そこで安倍さん、今年に入って米国のご機嫌伺いに集団自衛権にやけに前のめりですし、先日はリニア新幹線の技術を無償で米国に提供するとまで約束する構えになりました。ものすごいお土産外交です。

ところが米国にとっても都合の良い集団自衛権はすでに織り込み済みで新味がない。極論を言えば、そういう事態にならないようにすることこそが重要なわけで、集団自衛権を使うような有事になったらそっちのほうが米国にとってはやばい。しかも集団自衛権が日本国内で盛り上がることでむしろ集団自衛権を発動しなければならないような状況を刺激するかもしれない。つまりは自国の戦争には協力させたいが日本が起こす紛争に巻き込まれるのはまったくもって困る、というわけなのです。それは米国の国益には反するのです。だから集団自衛権なんてものは、喫緊の議題としてはオバマさんにはむしろ、どっちでもいい、くらいなところに置いておいた方が得なわけです。

で、ならばとばかりにリニア新幹線です。普通は、大もとの技術は特許関連もあるので日本が押さえる、でもインフラや部品は無償で供与する、というのが筋です。しかしそれが逆。じっさい、無償で技術提供を行って引き換えに車両やシステムをたくさん買ってもらった方が得ということもあるでしょう。

でも、ご存じのようにアメリカは鉄道の国というよりは自動車やコミューター飛行機の国です。全米鉄道網というような大規模なものならともかく、いまのところリニアは可能性としてもワシントンDC、ニューヨーク、ボストンといった東部地域のみの感じで、そこら辺は厳密に損得勘定を計算してのもの、というより、大雑把にまあここで恩を売っとけば見返りもあるんじゃないかなあ、というような感じの判断だったなんじゃないでしょうか。しかもワシントンーボルティモア間の総工費の半額の5千億円ほどを国際協力銀行を通じて融資するという大盤振る舞いなんですよ。軸足はやはり「お土産」に置いていると言ってよい。

いかに靖国で損ねたご機嫌を取り繕いたいと言っても、これって安倍さんの大嫌いな屈辱外交、土下座外交、自虐ナントカではないですか?

というわけでオバマさんの訪日、どこが注目点かというと、23日の何時に到着するかということと、翌24日の共同声明でオバマさんが安倍さんの横でどんな表情を見せるか、ということです。満面の笑みか、控えめな笑顔か。宮中晩餐会は平和主義者の天皇のお招きですから満面の笑顔でしょうが、さて、安倍さんとはどういう顔を見せるのでしょうね。

March 29, 2014

48年間の無為

48年という歳月を思うとき、私は48年前の自分の年齢を思い出してそれからの月日のことを考えます。若い人なら自分の年齢の何倍かを数えるでしょう。

いわゆる「袴田事件」の死刑囚袴田巌さんの再審が決まり、48年ぶりに釈放されました。あのネルソン・マンデラだって収監されていたのは27年です。放送を終えるタモリの長寿番組「笑っていいとも」が始まったのは32年前でした。

48年間も死刑囚が刑を執行されずにいたというのはつまり、死刑を執行したらまずいということをじつは誰もが知っていたということではないでしょうか? なぜなら自白調書全45通のうち44通までを裁判所は「強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの」などとして任意性を認めず証拠から排除しているのです。残るただ1通の自白調書で死刑判決?

また、犯行時の着衣は当初はパジャマとされていましたが、犯行から1年後に味噌樽の中から「発見」された5点の着衣はその「自白」ではまったく触れられていず、サイズも小さすぎて袴田さんには着られないものでした。サイズ違いはタグにあったアルファベットが、サイズではなく色指定のものだったのを証拠捏造者が間違ったせいだと見られています。

いずれにしてもその付着血痕が袴田さんのものでも被害者たちのものでもないことがDNA鑑定で判明し、静岡地裁は「捏造の疑い」とまで言い切ったのでした。

ところがその再審決定の今の今まで、権力の誤りを立ち上がって正そうとした者は権力の内部には誰ひとりとしていなかった。それが48年の「無為」につながったのです。(1審の陪席判事だった熊本典道は、ひとり無罪を主張したものの叶わず、半年後に判事を辞して弁護士に転身しました。そして判決から39年目の2007年に当時の「合議の秘密」を破って有罪に至った旨を明らかにし、袴田さんの支援運動に参加しました。ところが権力の内部にとどまった人たちに、熊本氏の後を追う者はいなかったのです)

こうした経緯を考えるとき、私はホロコースト裁判で「命令に従っただけ」と無罪を主張したアドルフ・アイヒマンのことを思い出します。数百万のユダヤ人を絶滅収容所に送り込んだ責任者は極悪非道な大悪人ではなく、思考を停止した単なる小役人だった。ハンナ・アーレントはこれを「悪の凡庸さ」と呼びました。

目の前で法や枠組みを越えた絶対の非道や不合理が進行しているとき、非力な個人は立ち上がる勇気もなく歯車であることにしがみつく。義を見てせざる勇なきを、しょうがないこととして甘受する。そうしている間に世間はとんでもない悪を生み出してしまうのです。その責任はいったいどこに求めればよいのでしょう?

ナチスドイツに対抗したアメリカは、この「悪の凡庸さ」に「ヒーロー文化」をぶつけました。非力な個人でもヒーローになれると鼓舞し、それこそが社会を「無為の悪」から善に転じさせるものだと教育しているのです。

こうして内部告発は奨励されベトナム戦争ではペンタゴンペーパーのダニエル・エルスバーグが生まれ、やがてはNSA告発のエドワード・スノーデンも登場しました。一方でエレン・ブロコビッチは企業を告発し、ハーヴィー・ミルクは立ち上がり、ジェイソン・ボーンはCIAの不法に気づいてひとり対抗するのです。

対して日本は、ひとり法を超越した「命のビザ」を書き続けた杉原千畝を「日本国を代表もしていない一役人が、こんな重大な決断をするなどもっての外であり、組織として絶対に許せない」として外務省を依願退職させ、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答し続けた。彼が再び「存在」し直したのは2000年、当時の河野洋平外相の顕彰演説で日本政府による公式の名誉回復がなされたときだったのでした。すでに千畝没後14年、外務省免官から53年目のことでした。

それは袴田さんの名誉が回復される途中である、今回の「48年」とあまりに近い数字です。

March 09, 2014

「一滴の血」の掟

アメリカ南部州にはかつてワンドロップ・ルール(一滴の血の掟)というのがあって、白人に見えても一滴でも黒人の血が混じっていたら「黒人」と定義されていた時代がありました。奴隷制度では白人たちは黒人を性的にも所有し、奴隷を増やすためにも混血は進んだのでしょう。もちろんそれだけではなく純粋に人種を越えた恋愛や結婚もあるわけで、いま「一滴の血」ルールを適用したらアメリカの白人の3人に1人は黒人になるとも言われます。

Jリーグの浦和vs鳥栖戦のあった3月8日の埼玉スタジアムで、浦和サポーター席入り口のコンコースに「JAPANESE ONLY」という横断幕が掲げられる“事件”が起こりました。浦和サイドはこれを問題視したサポーターからの通知で事を知りますが、どうすべきかわからずそのまま1時間ほど放置。一方では問題視したサポーター氏にその写真をネットにアップしないように要求。横断幕が撤去されたのは試合後しばらく経って、欧米系の観客が写真を撮って初めてスタッフが慌てて外したのだそうです。

右翼国粋主義と形容される安倍内閣から始まって嫌中嫌韓の見出し踊る週刊誌、そしてアンネの日記破損問題と、このところの日本社会はまさに「ナチスの手口にマネ」ているようです。で、今回の「日本人以外お断り」の横断幕。そしてそれに即応できない大のオトナの思考停止。

それにも増して意味不明なのは、この期に及んでこの「JAPANESE ONLY」を、浦和の8日の先発・ベンチ入り選手が全員日本人だったことから「日本人だけで戦う」だとか「日本人だけでもJリーグを盛り上げよう」だとかの意味だと言い張る“愛国”者たちがいることです。挙げ句の果てにこの横断幕の何が問題なのかわからない、という開き直り同然の差別主義者まで。

同じ言い逃れを、昨年12月の安倍靖国参拝の際の米国務省「失望」声明でも聞いたことがあります。例の「The United States is disappointed」を、いかにも英語通であるかのように「よくある表現で重大なことではない」などと勝手に講釈する右派評論家が後を絶ちませんでした。

今回も新聞やTVニュースの論調までもがどういうわけかこれを「差別」とは断定せず、「差別的な意味にも取れる」「差別的とも解釈されかねない」などと奥歯に物が挟まったような報道ぶりです。誰がどういう意図で書いたかは関係ないのです。表現とは、表現されたその「モノ」こそが自立した表現なのであって、「JAPANESE ONLY」は差別表現に他ならないのです。

「日本人」にワンドロップ・ルールを適用したら、古く縄文時代から続く中国・朝鮮半島からの渡来人との混血は限りなく「日本」人など1人もいなくなります。さらにはそもそもこの島国は大陸と陸続き。人種も民族もあったもんじゃありません。

ワンドロップ・ルールは、本来はそれによって白人の立場を死守しようとした人たちが作ったものですが、実際には逆に機能して、結果、白人という立場がいかに実体のないものかを浮き彫りにしてしまいました。同じように“チョン”だ“チュン”だと純血主義けたたましい人は、自分の血の一滴に気づいて自爆するしかないのです。生き残れるのはその決まりを唾棄できる者だけ。

この浦和での一件を知って、翌日のFC岐阜のサポーター席には「Say NO to Racism」の文字の横断幕が掲げられたそうです。偏狭な愛国心をあおるのもスポーツならば、それを糾弾するのもスポーツなのです。

後者のスポーツをこそプロモートしていかなくてはならないのに、それでもまだ「スポーツは信条表明の場ではない」などという人もいます。ねえ、友情とか、親交とか、差別反対とか、そういうのだって立派な「信条」なのです。どうしてそんなにみんな信条や思想を表明することにアレルギーを持つのでしょう? スポーツを、堂々と麗しき信条を表明する場にしてなにがいけないのでしょうかね。

March 04, 2014

太鼓持ちの善意

久しぶりの日本で、なんとなく確実に空気が変わってきていることを感じています。電車内の週刊誌の吊り広告では「嫌韓嫌中」見出しが踊り、まさに1月のこのブログ「爬虫類の脳」で指摘した「反知性主義」が大手を振っています。昨年7月末の麻生副総理の「ナチスの手口に学べ」発言は、その後の日本版国家安全保障会議の設置や特定秘密保護法の強行可決、さらには首相の靖国参拝やその周辺の歴史修正発言などで着実に実行に移されています。あのときはまさか本気ではなく失言の類いだろう程度に思っていたのですが。

この種の時代の動きをどう捉えればよいのでしょうか? かつてハンナ・アーレントは、ナチスドイツで数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に送ったアドルフ・アイヒマンを、怪物ではなく、職務を淡々とこなすだけの小役人的な思考停止の人物であったと結論し、それを「悪の凡庸さ」と呼びました。

私がこのところ気になっているのは、しかしその次の段階のことです。普通の人が、おそらくは“善意”で上層部の意向を汲み、決定や通達やそのときの政治的な空気を過度に忖度してそれ以上のことをやってしまう。そういう心づくしの先回り行為は、この「悪の凡庸さ」を超えて、社会学的にはどう考えられているのだろうか、ということです。

先日、東京都美術館が「憲法9条を守り、靖国参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止」などと書いた造形作品を「政治的」として撤去・手直しを求めていたことがわかりました。今週には護憲の立場を明確にしている哲学者の内田樹さんを招いた憲法集会を神戸市がやはり「政治的中立性を損なう」として後援拒否をしていたことが明らかになりました。これまではずっと後援してきたのに突然の断り。同じような集会は長野県千曲市でも後援が断わられたとか。東京新聞によると、千曲市の担当者は解釈改憲による集団的自衛権の行使容認を目指す安倍首相への配慮をほのめかしています。

私はこのメカニズムがとても恐ろしい。話は大きくなりますが、南京大虐殺も従軍慰安婦も実は同じようなことだったのではないかと思っています。真正の命令や強制の証拠がないということを根拠にこれらを否定する人たちがいますが、命令や強制などなくても人間は自ら進んで権力の“意向”を代行するのです。

この、言わば「太鼓持ちの善意」のようなものが、今の日本であちこち無批判に湧いてきているような気がします。いや、彼らは自分が太鼓持ちをしているなどとは思っていないのです。そこがさらに怖い。そして同時多発的なこの太鼓持ち的な動きの1つ1つが、その時の権力の意向をなんとなく社会に満たす役目を果たしている。かくしてそれが結果的にたとえ由々しき事態を招くことになっても、もちろん「上」は「そんな命令は出していない」「そこまで言っていない」とシレッとしていられる。

韓国人街で有名な新宿・大久保の街にいま「朝鮮人は帰れ」とかナチスの鉤十字のマークなどの落書きが溢れています。今月2日、ツイッターやフェイスブックなどの呼びかけで集まった人たち50人以上が「差別らくがき消し隊」を結成してその落書きを3時間にわたって消して回りました。中には岐阜や愛知からはるばるこのためにやってきた人もいました。

太鼓持ちではない「善意」も日本にはまだまだ溢れています。もっともその善意の彼らは、ネトウヨと呼ばれる人たちに氏名がわかると、職場や自宅に嫌がらせの電話がかかり、顔写真や素性をネット上で「指名手配リスト」として公開されているのだそうです。

いったい日本はどうなっているのでしょう?

February 23, 2014

拡大する日本監視網

浅田真央選手のフリーでの復活は目を見張りました。ショートでの失敗があったからなおさらというのではなく、それ自体がじつに優雅で力強い演技。NBCの中継で解説をしていたやはり五輪メダリストのジョニー・ウィアーとタラ・リピンスキーは直後に「彼女は勝たないかもしれない。でも、このオリンピックでみんなが憶えているのは真央だと思う」と絶賛していました。前回のコラムで紹介した安藤美姫さんといい、五輪に出場するような一流のアスリートたちはみな国家を越える一流の友情を育んでいるのでしょう。

一方でそのNBCが速報したのが東京五輪組織委員会会長森嘉朗元首相の「あの子は大事な時に必ず転ぶ」発言です。ご丁寧に「総理現職時代から失言癖で有名だった」と紹介された森さんのひどい失言は、じつは浅田選手の部分ではありません。アイスダンスのクリス&キャシー・リード兄妹を指して「2人はアメリカに住んでるんですよ。米国代表として出場する実力がなかったから帰化させて日本の選手団として出している」とも言っているのです。

いやもっとひどいのは次の部分です。「また3月に入りますとパラリンピックがあります。このほうも行けという命令なんです。オリンピックだけ行ってますと会長は健常者の競技だけ行ってて障害者のほうをおろそかにしてると(略)『ああまた27時間以上もかけて行くのかな』と思うとほんとに暗いですね」

日本の政治家はこうして自分しか知らない内輪話をさも得意げに聴衆に披露しては笑いを取ろうとする。それが「公人」としてははなはだ不適格な発言であったとしても、そんな「ぶっちゃけ話」が自分と支持者との距離を縮めて人気を博すのだと信じている。で、森さんの場合はそれが「失言癖」となって久しいのです。

しかしこういう「どうでもいい私語」にゲスが透けるのは品性なのでしょう。そのゲスが「ハーフ」と「障害者」とをネタにドヤ顔の会長職を務めている。27時間かけてパラリンピックに行くのがイヤならば辞めていただいて結構なのですが、日本社会はどうもこういうことでは対応が遅い。

先日のNYタイムズは安倍政権をとうとう「右翼政権」と呼び、憲法解釈の変更による集団自衛権の行使に関して「こういう場合は最高裁が介入して彼の解釈変更を拒絶し、いかなる指導者もその個人的意思で憲法を書き換えることなどできないと明確に宣言すべきだ」と内政干渉みたいなことまで言い出しました。国粋主義者の安倍さんへの国際的な警戒監視網はいまや安倍さん周辺にまで及び、というか周辺まで右翼言辞が拡大して、NHKの籾井会長や作家の百田さんや哲学者という長谷川さんといった経営委員の発言から衛藤首相補佐官の「逆にこっちが失望です」発言や本田内閣官房参与の「アベノミクスは力強い経済でより強力な軍隊を持って中国に対峙できるようにするためだ」発言も逐一欧米メディアが速報するまでになっています。

日本人の発言が、しかも「問題」発言が、これほど欧米メディアで取り上げられ論評され批判されたことはありませんでした。安倍さんはどこまで先を読んでその道を邁進しようとしているのでしょうか? そのすべてはしかし、東アジアにおけるアメリカの強大な軍事力という後ろ盾なくては不可能なことなのです。そしてそのアメリカはいま、日本経済を建て直し、沖縄の基地問題を解決できると踏んでその就任を「待ち望んだ安倍政権を後悔している」と、英フィナンシャルタイムズが指摘している。やれやれ、です。

February 17, 2014

自信喪失時代のオリンピック

安藤美姫さんが日本の報道番組でソチ五輪での女子フィギュア競技の見通しに関して「表彰台を日本人で独占してほしいですね」と振られ、「ほかの国にもいい選手はいるから、いろんな選手にスポットライトを当ててもらえたら」と柔らかく反論したそうです。

五輪取材では私は新聞記者時代の88年、ソウル五輪取材で韓国にいました。いまも憶えていますが、あのころは日本経済もバブル期で自信に溢れていたせいか、日本の報道メディアには「あまりニッポン、ニッポンと国を強調するようなリポートは避けようよ」的な認識が共有されていました。それは当時ですでに24年前になっていた東京オリンピックの時代の発展途上国の「精神」で、「いまや堂々たる先進国の日本だもの、敢えてニッポンと言わずとも個人顕彰で十分だろう」という「余裕」だったのだと思います。

でもその後のバブル崩壊で日本は長い沈滞期を迎えます。するとその間に、就職もままならぬ若者たちの心に自信喪失の穴があくようになり、そこに取って替わるように例の「ぷちナショナリズム」みたいな代替的な擬制の「国家」の「自信」がはまり込んだのです。スポーツ応援に「ニッポン」連呼が盛大に復活したのもこのころです。

知っていますか? 現在の日本では街の書店に軒並み「嫌韓嫌中」本と「日本はこんなにスゴい」的な本が並ぶ愛国コーナーが設けられるようになっているのです。なにせその国の首相は欧米から「プチ」の付かない正真正銘の「ナショナリスト」のお墨付きをもらっているのですから、それに倣う国民が増えても不思議ではありません。だからこそ64年の東京五輪を知らない世代の喪失自信を埋め合わせるように、日本が「国家的自信」を与える「東京オリンピック」を追求し始めたのも当然の帰結だったのでしょう。

そこから冒頭の「表彰台独占」コメントへの距離はありません。さらに首相による羽生結弦選手への「さすが日本男児」電話も、あざといほどに短絡的です。80年代にはあったはずの日本人の、あの言わずもがなの「自信」は、確かにバブルのように消えてしまったよう。まさに「衣食足りて」の謂いです。

そんな中で安藤美姫さんも羽生選手も自信に溢れています。それはやるべきことをやっている人たちの自信でしょうが、同時に海外経験で多くの外国人と接して、その交遊が「日本」という国家を越える人たちのおおらかさのような気がします。そしてその余裕こそが翻って日本を美しく高めるものだと私は思っています。じっさい、安藤さんのやんわりのたしなめもとても素敵なものでしたし、羽生選手の震災に対する思いはそれこそじつに「日本」思いの核心です。

スポーツの祭典は気を抜いているとことほどさように容易に「国家」に絡めとられがちです。だからヒトラーはベルリン五輪をナショナリズムの高揚に利用し、それからほどなくしてユダヤ人迫害の大虐殺に踏み切ることができました。ソチ五輪もまたロシア政府のゲイ弾圧に国際的な黙認を与えることかどうかで議論は続いています。

オリンピックはいつの時代でも活躍する選手たちに「勇気を与えてくれた」「感動をありがとう」と感謝の声をかけたくなります。そして表彰台の彼らや日の丸につい自己同一してしまう。そんなとき、私はいつも歌人枡野浩一さんの短歌を思い出します──「野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない」

はいはい、わかってはいるんですけどね。

January 20, 2014

逆張りの泥団子

昨年の夏に、来月7日から始まるロシアのソチ五輪ボイコットを呼びかけるハーヴィー・ファイアスティン氏の寄稿がNYタイムズに掲載されたことを紹介しました。プーチン政権による同性愛者弾圧を見過ごして五輪に参加するのは、ユダヤ人弾圧に抗議もせずドイツ五輪に参加した1936年の国際社会と同じ愚行だ、という意見でした。当時、私は、ロシア産品の不買運動もすでに始まっており、五輪を巡るこの攻防は国際的にはさらに大きな動きになるはずだと書きました。

果たして予想は当たり、国際社会はその後、米英仏独や欧州連合(EU)などの首脳が相次いで開会式への欠席を表明して、ソチ五輪は国際的にはロシアの人権弾圧に抗議を示す異例の事態下での開会となります。

そんなときに日本の安倍首相が、「北方領土の日」に重なるとして一旦は「欠席」だった開会式に一転、出席する意向を示しました。日本はいちおう西側社会の一員ですが、欧米と逆を行くこの対応は何なのでしょう。

「日ロ関係全体を底上げし、北方領土問題の議論に前向きな結果をもたらすことを期待」と外相が代わって意味づけをしましたが、プーチンさんとの首脳会談も日程的に難しいそうです。それでも開会式に出席すれば北方領土問題でロシアに貸しを作れると思っているなら、それはナイーブに過ぎます。それより何よりロシアの例の同性愛者迫害の一件はどうスルーするのでしょうか?

日本社会では性的少数者の人権保障はいまだ大きな政治課題に育っていないのは確かです。しかし性的少数者の人権保障はいまや先進民主主義国の重要な政治傾向。それを無視して、あるいは知らない振りをしてシレッと開会式に出る。こういうのを何と言うのでしたっけ? 「逆張り」?

そこで思い出すのは昨年12月10日のマンデラさんの葬儀です。アパルトヘイトという史上最大級の差別への反省から、自身で作った南アの新たな憲法で世界で初めて同性愛者などの性的少数者への差別をも禁止したこの偉人の弔問外交の場には、世界の首脳140人が一堂に会しました。それにも安倍首相は欠席した。その3日後に東京で開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)特別首脳会議のため、というのが公式理由でした。

でもここまで来ると安倍さんは仲間はずれ、つま弾きになりそうなところには行きたくない、歓迎されるところにしか行きたくないのだと疑ってしまいます。いろいろ文句を言ってくる欧米はメンツを潰されるので嫌いなのだと。

私は日本が国際社会で「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」国家であるという「名誉ある地位を占めたいと思」っています。でもここまで「逆張り」が続くと国際社会の動向の「読み違い」が原因というより読もうという努力をハナからしていない、いやむしろ確信犯的に「逆」を張ってどこまで「持論」を通せるか反応を試しているようにさえ思えます。その持論である「美しい国」には国際社会からの評価は必要ないのでしょうか。

国際社会に媚びろと言うのではありません。積極的平和主義だろうが何だろうが、政治も外交も一にも二にも正確な状況分析がすべての土台だということです。それなのに日本はいま、世界の情報を日本語だけで勝手にこねくり回して勝手に解釈している。伝言ゲームよろしくまったく違った牽強付会の泥団子をめでているのです。その泥団子はまずいどころか本来は食べる物ですらないというのに。

私はオバマさんの4月の来日が不安です。

January 14, 2014

爬虫類の脳

ディック・メッカーフ Dick Metcalf(67)という米国の銃器評論家の第一人者がいます。有名雑誌に連載を持ち、テレビでも自身の番組を持って最新銃器のレビューを行う大ベテラン。イェールやコーネル大学で歴史を教えてもいるその彼が昨年11月以降メディアから姿を消しました。なぜか? その経緯が新年早々のNYタイムズで記事になっていました。

40万購読者を誇る「Guns & Ammo(銃&弾薬)」という雑誌のコラムで10月末、彼が「Let's Talk Limits」というタイトルの下、「銃規制」を呼びかけたことが原因でした。とはいえ書いたことは「憲法で保障されている権利はすべて何らかの形で規制されている。過去もそうだった。そしてそれは必要なことなのである」ということだけ。つまり銃の所持権に関しても同じだろうということで、べつに声高に銃規制を叫んだわけでもありません。彼はそもそも銃所持権支持者なのですから。

ところがこれが掲載されるや抗議のメールが編集部に殺到し、あっという間に読者が大挙して定期購読をキャンセル。ネットでは大バッシングが始まり、長年のスポンサーだった銃器メーカーは支援を中止、出演していたテレビも打ち切りとなりました。そして彼は根城だった保守論壇から完全に干されたのです。

もちろん銃規制という国を二分するセンシティブな問題のせいもありましょう。でも注目したいのはこの間髪入れぬ激昂の反応です。ここには有無を言わせぬ敵愾心だけがあります。人間の知性と理性はどこに行ってしまったのか?

人間の脳は何百万年もかけて原始的な脳から層を重ね、いまの大脳皮質まで辿り着きました。原始的で凶暴な反応は上層の大脳皮質にまで行き着くことで理性的になり知性的に発展します。その最深部の最も原初的な層はR領域と呼ばれます。Rとはレプタイル(reptile, 爬虫類)のこと、つまり相手が近づくと誰彼なくとにかく反射的に噛み付いてみるヘビやワニなどの脳のことです。そういう爬虫類脳同然の反応……。

ことはアメリカに限りません。イギリスでは昨年夏、新しい10ポンド紙幣に女性の肖像画(ジェイン・オースティン)を採用するよう運動していたフェミニスト女性がツイッター上でレイプする、殺すと脅され、それを報道した女性ジャーナリストまでが脅迫された事件が起こりました。犯人2人には今月24日に判決が下ります。ナイジェリアでは反ゲイ法が成立発効して有無を言わさず待ち構えていたように100人以上のゲイ男性たちが逮捕されるという事態が起きています。翻って日本であっても、ツイッターで例えば例の安倍の靖国参拝を批判すると猛然とすぐに噛み付いてくる匿名の見知らぬ安倍崇拝者たちがいます。噛み付き口汚く罵り気勢を上げてはまたどこかに消える。これらはみんな同じタイプの人間たちです。こちらで丁寧に対応しても聞く耳など持ちません。

かつては発言するということはその言葉が実社会で他人からの批判や反論の摩擦を受けるということでした。ところがインターネットの一般化で摩擦を受けずに自分の言葉を直接そのまま発信できるようになった。それは権力を手にしたかのような幻想を与えます。1人評論家ごっこもできるし、切磋琢磨を経ない石のままの言葉を投げつける独善主義にもなれる。

ひとつ引用しましょう。たとえば私にツイッターで一方的に絡んできた彼は、私のことを「ジャーナリスト様」と揶揄しながらこう書いて溜飲を下げていました。「インテリを自称する連中は、知性が高くても精神的に成熟している訳ではなくむしろ未成熟。自分は何でも知っていて絶対に正しいと思い込み自分の理解できないものをくだらないと否定し、自分を理解しない人間を愚かだと見下す」

これもその彼に限ったことではありません。すべての噛み付き性向の者たちはまるでどこかで示し合わせてでもいるかのようにほぼこの「引きずり下ろし」とも呼ぶべきパタンを踏襲しています。なぜかわからないが自分よりもエラそうに社会的に発言している者たちへの攻撃パタンです。ここで図らずも白状するかのように記してしまっている、「愚かだと見下」されていると自分のことを妄想する被害者意識と劣等感。それらを起爆剤として彼らは自爆テロのように爆発するのです。

それは知性に敵対する行為です。そう考えて思い当たるのは、文化大革命やカンボジアのポルポトで、まず根絶やしにされたのが知識層だったという史実です。スターリニズムもそうでしたし、アメリカの赤狩りでも同じことが起こりました。権力側が彼ら反対勢力の知的抵抗を怖れたからというのもあったでしょうが、それよりもそれは一部大衆による、知識層への恨みにも似た劣等感とその反動が推進力でした。それらのドキュメンタリー映像に映る激昂する人々の顔は知識層への恐ろしいほどの憎悪と敵意に満ちています。本当は丁寧な知性は大衆の敵ではなく味方であったはずなのに。

知性は勉強ができるできないとは関係ありません。知性とは本来エリート主義とは無縁です。知性とは人々すべての善き人生のための問いかけと答えの運動のことなのです。なのに鼻持ちならない一部エリートたちへの嫌気から彼らと知性とを混同し、知性を蔑み敵対し夜郎自大になる──それがポピュリズムを煽る日本のネトウヨ(ネット右翼)や米国の「ティーパーティー」の、そしてその層を利用している日本の安倍政権や米共和党右派の、爬虫類的な大いなる禍いなのです。

世界で共通するこの反知性主義。「反」くらいな感じでは済まないほどの根拠のない怨念めいた憎悪が渦巻く日本のネット社会。知性フォビア。知性憎悪症。ポピュリズムというのはもともとは反エリート主義の大衆政治のことでしたが、その基盤となった大衆知がいつのまにか本当の知性に置き換わって知性を攻撃しだす。中途半端な知識人への嫌悪が知性を矮小化しその生き方と価値とを憎み倒すようになる。そうして鬱憤を晴らして、しかし彼らはどこに行くのでしょうか?

劣等感というものは、どう転んでも個人的鬱憤の次元から出るものではありません。どう鬱憤を晴らしてもそこから先はないのです。そこから先を作るのは劣等感ではなく知性です。もう一度言います。それは勉強ができるとかできないとかじゃなくて、現在を批評的に捉えて次のより自由な次元へと飛翔するための気真面目な問いかけの運動のことなのです。

ペンは剣よりも物理的には強いはずがありません。ペンが剣より強いのは人間の知性がそういう社会を志向するときだけです。そして反知性主義は、そういう社会を志向しません。剣がペンよりも強い世界、それは微笑みよりも噛み付く牙がすべてである爬虫類の世界です。

December 29, 2013

I am disappointed

クリスマスも終わってあとはのんべんだらりと年を越そうと思っていたのに、よいお年を──と書く前に驚かされました。安倍首相の靖国参拝自体にではなく、それに対して米国ばかりかヨーロッパ諸国およびEU、さらにはロシアまで、あろうことかあの反ユダヤ監視団体サイモン・ウィーゼル・センターまでもが、あっという間にしかも実に辛辣に一斉大批判したことに驚かされたのです。

中韓の反発はわかります。しかし英語圏もがその話題でもちきりになりました。靖国神社が世界でそんなに問題視されていることは、日本語だけではわからないですが外国に住んでいるとビシビシ刺さってきます。今回はさらにEUとロシアが加わっていることもとても重要な新たなフェイズと認識していたほうがよいでしょう。

こんなことは7年前の小泉参拝のときには起きませんでした。何が違うかと言うと、小泉さんについては誰も彼が国粋主義者だなんて思ってはいなかった。でも安倍首相には欧米ではすでにれっきとした軍国右翼のレッテルが張られていました。だって、3カ月前にわざわざアメリカにまで来て「私を右翼の軍国主義者だと呼びたいなら呼べばいい」と大見得を切った人です(9/25ハドソン研究所)。それがジョークとしては通じない国でです。そのせいです。

例によって安倍首相は26日の参拝直後に記者団に対し「靖国参拝はいわゆる戦犯を崇拝する行為だという誤解に基づく批判がある」と語ったとされますが、いったいいつまでこの「誤解」弁明を繰り返すのでしょう。特定秘密保護法への反発も「誤解」に基づくもの、武器輸出三原則に抵触する韓国への弾薬供与への批判も「誤解」、集団的自衛権の解釈変更に対する反対も「誤解」、この分じゃ自民党の憲法改変草案への反発もきっと私たちの「誤解」のせいにされるでしょう。これだけ「誤解」が多いのは、「誤解」される自分の方の根本のところが間違っているのかもしれない、という疑義が生まれても良さそうなもんですが、彼の頭にはそういう回路(など)の切れている便利な脳が入っているらしい。

果たしてニューヨークタイムズはじめ欧米主要紙の見出しは「国家主義者の首相が戦争神社 war shrine」を参拝した、というものでした。それは戦後体制への挑戦、歴史修正主義に見える。ドイツの新聞は、メルケル首相が同じことをしたら政治生命はあっという間に終わると書いてありました。英フィナンシャルタイムズは安倍首相がついに経済から「右翼の大義」の実現に焦点を移したと断言しました。

問題はアメリカです。クリスマス休暇中のオバマ政権だったにもかかわらず、参拝後わずか3時間(しかもアメリカ本土は真夜中から未明です。ケリー国務長官も叩き起こされたのでしょうか?)で出された米大使館声明(翌日に国務省声明に格上げされました)は、まるで親や先生や上司が子供や生徒や部下をきつく叱責する文言でした。だいたい「I am disappointed in you(きみには失望した)」と言われたら、言われたほうは真っ青になります。公式の外交文書でそういう文面だったら尚更です。

アメリカ大使館の声明の英文原文を読んでみましょう(ちなみに、米大使館サイトに参考で掲載されている声明の日本語訳はあまり日本語としてよくなくて意味がわかりづらくなっています)。

声明は3つの段落に分かれています。前述したようにこれはアメリカで人を叱りつけるときの定型句です。最初にがつんとやる。でも次にどうすれば打開できるかを示唆する。そして最後にきみの良いところはちゃんとわかっているよと救いを残しておく。この3段落テキストはまったくそれと同じパタンです。

第一段落:
Japan is a valued ally and friend. Nevertheless, the United States is disappointed that Japan's leadership has taken an action that will exacerbate tensions with Japan's neighbors.
日本は大切な同盟国であり、友好国である。しかし、日本の指導者が近隣諸国との関係を悪化させる行動を取ったことに、米国は失望している。

これは親友に裏切られてガッカリだ、ということです。失望、disappointedというのはかなりきつい英語です。
というか、すごく見下した英語です。ふつう、こんなことを友だちや恋人に言われたらヤバいです。もっと直截的にはここを受け身形にしないで、You disappointed me, つまり Japan's leadership disappointed the United States, とでもやられたらさらに真っ青になる表現ですが。ま、外交テキストとしてはよほどのことがない限りそんな文体は使わないでしょうね

ちなみに国連決議での最上級は condemn(非難する)という単語を使いますが、それが同盟国相手の決議文に出てくると安保理ではさすがにどの大国も拒否権を行使します。で、議長声明という無難なところに落ち着く。

第二段落;
The United States hopes that both Japan and its neighbors will find constructive ways to deal with sensitive issues from the past, to improve their relations, and to promote cooperation in advancing our shared goals of regional peace and stability.
米国は、日本と近隣諸国が共に、過去からの微妙な問題に対処し、関係を改善し、地域の平和と安定という我々の共通目標を前進させるための協力を推進する、建設的方策を見いだすよう希望する。

これはその事態を打開するために必要な措置を示唆しています。とにかく仲良くやれ、と。そのイニシアティブを自分たちで取れ、ということです。「日本と近隣諸国がともに」、という主語を2つにしたのは苦心の現れです。日本だけを悪者にしてはいない、という、これもアメリカの親たちが子供だけを責めるのではなくて責任を分担して自分で解決を求めるときの常套語法です。

そして第三段落;
We take note of the Prime Minister’s expression of remorse for the past and his reaffirmation of Japan's commitment to peace.
我々は、首相が過去に関する反省を表明し、日本の平和への決意を再確認したことに留意する。

これもあまりに叱っても立つ瀬がないだろうから、とにかくなんでもいいからよい部分を指摘してやろうという、とてもアメリカ的な言い回しです。安倍首相が靖国を参拝しながらもそれを「二度と戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくるという決意を伝えるため」だという意味をそこに付与したことを、われわれはちゃんと気づいているよ、見ているよ、とやった。叱責の言葉にちょいと救いを与えた、そこを忘れるなよ、と付け加えたわけです。

でも、それを言っているのが最後の段落であることにも「留意」しなくてはなりません。英文の構造をわかっている人にはわかると思いますが、メッセージはすべて最初にあります。残りは付け足しです。つまり、メッセージはまぎれもなく「失望した」ということです。

参拝前から用意していたテキストなのか、安倍首相はこの自分の行動について「戦場で散っていった方々のために冥福を祈り、手を合わす。世界共通のリーダーの姿勢だろう」と言い返しました。しかし、世界が問題にしてるのはそこじゃありません。戦場で散った人じゃなく、その人たちを戦場で散らせた人たちに手を合わせることへの批判なのです。これはまずい言い返しの典型です。この論理のすり替え、詭弁は、世界のプロの政治家たちに通用するわけがありません。とするとこれはむしろ、国内の自分の支持層、自分の言うことなら上手く聞いてくれる人たちに「期待される理由付け」を与えただけのことだと考えた方がよいでしょう。その証拠に、彼らは予想どおりこの文脈をそっくり使ってFacebookの在日アメリカ大使館のページに大量の抗議コメントを投げつけて炎上状態にしています。誘導というかちょっとした後押しはこれで成功です。(でも、米大使館のFB炎上って、新聞ネタですよね)

さてアメリカは(リベラルなコミュニティ・オルガナイザーでもあり憲法学者でもあるオバマさんは安倍さんとは個人的にソリが合わないようですが)、しかし日本の長期安定政権を望んでいるのは確かです。それは日本の経済回復やTPP参加で米国に恩恵があるから、集団自衛権のシフトや沖縄駐留で米国の軍事費財政赤字削減に国益があるからです。そこでの日本の国内的な反発や強硬手段による法案成立にはリベラルなオバマ政権は実に気にしてはいるのですが、それは基本的には日本の国内問題です。アメリカとしては成立してもらうに不都合はまったくない。もちろんできれば国民が真にそれを望むようなもっとよい形で、曖昧ではないちゃんとした法案で、解釈ではなくきちんと議論した上で決まるのが望ましいですが、アメリカとしては成立してもらったほうがとりあえずはアメリカの国益に叶うわけです。

しかしそれもあくまで米国と同じ価値観に立った上での話です。ところが、安倍政権はその米国の国益を離れて「戦後リジームからの脱却」を謳い、第二次大戦後の民主主義世界の成り立ちを否定するような憲法改変など「右翼の大義」に軸足を移してきた。

今すべての世界はじつは日本だけではなく、あの第二次世界大戦後の善悪の考え方基本のうえに成立しています。何がよくて何が悪いかを、そうやってみんなで決めたわけで、現在の民主主義世界はそうやって出来上がっているわけです。それが虚構であろうが何であろうが、共同幻想なんてみんなそんなものです。そうやって、その中の悪の筆頭はナチス・ファシズムだと決めた。だから日本でも戦犯なんてものを作り上げて逆の意味で祀りあげたのです。そうしなければここに至らなかったのです。それが「戦後レジーム」です。なのにそれからの「脱却」? 何それ? アメリカだけがこれに喫驚しているのではありません。EUも、あのプーチンのロシアまでがそこを論難した。その文言はまさに「日本の一部勢力は、第2次大戦の結果をめぐり、世界の共通理解に反する評価をしている」(12/26ロシア・ルカシェビッチ情報局長)。安倍首相はここじゃもう「日本の一部勢力」扱いです。

なぜなら、今回の靖国参拝に限ったことではなく、繰り返しますが、すでに安倍首相は歴史修正主義者のレッテルが貼られていた上で、その証左としてかのように靖国参拝を敢行したからです。そうとして見えませんものね。だからこそそれは東アジアの安定にとっての脅威になり、だからこそアメリカは「disappointed」というきつい単語を選んだ。

何をアメリカがエラそうに、と思うでしょうね。私も思います。

でも、アメリカはエラそうなんじゃありません。エラいんです。なぜなら、さっきも言ったように、アメリカは現在の「戦後レジーム」の世界秩序の守護者だからです。主体だからです。そのために金を出し命を差し出してきた。もちろんそれはその上に君臨するアメリカという国に累が及ばないようにするためですし、とんでもなくひどいことを世界中にやってきていますが、とにかくこの「秩序」を頑に守ろうとしているそんな国は他にないですからね。そして曲がりなりにも日本こそがその尻馬に乗ってここまで戦後復興してきたのです。日本にとってもアメリカは溜息が出るくらいエラいんです。それは事実として厳然とある。

それはNYタイムズが26日付けの論説記事を「日本の軍事的冒険は米国の支持があって初めて可能になる」というさりげない恫喝で結んでいることでも明らかです(凄い、というか凄味ビシバシ。ひー)。そういうことなのです。それに取って代わるためには、単なるアナクロなんかでは絶対にできません。そもそもアメリカに取って代わるべきかが問題ですが、独立国として存在するためには、そういうアナクロでないやり方がたくさんあるはずです。

それは何か、真っ当な民主主義の平和国家ですよ。世界に貢献したいなら、それは警察としてではなく、消防士としてです。アナクロなマチズム国家ではない、ジェンダーを越えた消防国家です。そうずっと独りで言い続けているんですけど。

いまアメリカは安倍政権に対する態度の岐路に立っているように見えます。「日本を取り戻す」のその「取り戻す日本」がどんな日本なのか、アメリカにとっての恩恵よりも齟齬が大きくなったとき、さて、エラいアメリカは安倍政権をどうするのでしょうか。

December 17, 2013

戦争のできる国

日本を「戦争のできる国にしようとしている」と安倍政権を批判する声があちこちで聞こえています。そのたびに本当にそうなのかなと思ってしまいます。

たしかに国家安全保障会議(NSC)やら特定秘密保護法やらと来て、次は集団的自衛権の解釈変更からやがては憲法改正まで照準に入れた安倍首相ですが、いかな諸外国から「国粋主義者」と罵られても、その国家運営の目的が「戦争するため」だなんて信じられません。そんなのは狂人です。安倍さんは頭は悪いかもしれませんが狂人には見えません。

じゃあなぜこうも強権的に日本の進路を変えようとしているのか? どうにか考えてみるとそれはどうもきっと日本を「美しい国」にするためです。「結果的に美しくなるんだから(多少ゴリ押しがあったって)いいじゃないか」というわけです。それが「決める政治」というわけです。

でも「美しさ」というのは人によって違います。安倍さんにとっての「美しさ」とは何なのでしょう? それを考えなければ安倍さんの意図するところはわからないままです。

自著「美しい国へ」から簡単に引用しましょう。

「個人の自由を担保しているのは国家なのである」
「自分の帰属する場所とは、自らの国をおいてほかにはない」
「(旅行先での外国人)は、わたしたちを日本人、つまり国家に帰属している個人であることを前提としてむき合っているのである」

──そう書いて、安倍さんは映画「三丁目の夕日」を例に挙げます。「みんなが貧しいが、地域の人々はあたたかいつながりのなかで、豊かさを手に入れる夢を抱いて生きていく」「いまの時代に忘れられがちな家族の情愛や、人と人とのあたたかいつながりが、世代を超え、時代を超えて見るものに訴えかけてきた」

ツッコミたいところは満載ですがまあそれは抑えて1つだけ。私は昭和30年代を知っていますが、それはあの映画に描かれたほど温かくも優しくもなかった。選挙違反は現金が動いて酷かったし、暴力団は幅を利かし、役人の賄賂や情実は横行していた。障害者は(今と同じく)差別され、女性は軽んじられ、親の命令は絶対だった。「三丁目の夕日」が描いた和やかさ、朗らかさの後ろには「生きる」(昭和27年公開ですが)で描かれたあのドブや掃き溜めの沼が偏在していたのです。だからこそひとびとはほんのちっぽけな幸せやささやかな喜びにでも大きくすがるようにして生きていたのです。

そんなひどい時代にそれでも「偉かった」のは「先生」と「親」でした。「先生」とは政治家や医者や弁護士や、とにかくそういう人たちすべて。「親」は会社の社長や暴力団の親分や町内会の会長やそういう身内的な偉い人も含みます。そう、あの時代は「社会」と「家」とが相似形に重なっているようで、「家父長」的な人たちの力が強かったのです。

「三丁目の夕日」が娯楽として存在するには、そんな「親」で「社長」の堤真一の役回りを徹底してコミカルに描くことが必要でした(吉岡秀隆はハナから権威とは無縁に描かれていました)。もちろん実際の昭和30年代にもああいうコミカルな人はいました。けれどその上にはコミカルではない社会が厳然として存在していたのです。

つまり「三丁目の夕日」は、そうした昭和30年代的な「権力」の絶対を相対化しなければ、あるいはその「権力」を存在しないものとしていなければ、あれほどに朗らかにはなれなかったのです。

そう、昭和30年代は強い父親がいてさまざまな困難にも即断対応しようとしていた、そんな時代の名残のような時でした。そんな伝統的な「家」を基本にした立派な国家の最後の光芒。それが60年安保(昭和35年)の学生運動やビートルズが来た1966年(昭和41年)あたりから揺らぎ始めるわけです。

世の中はそう単純じゃないとわかってきたのが昭和40年代からの日本でした。高度成長のせいもあっていろんな個人が自信を持ち始めたのかさまざまに勝手に声を出し始め、ゴチャゴチャうるさいことこの上ない。公共事業で道路つくって公民館つくって箱モノを与えてやればよいだけだった政治もだんだんそれだけじゃあ済まなくなった。ああ、美しくない。

そうやって考えた結果が、もう一回国家がしっかりすれば個人もしっかりするはずだという倒錯です。そして「ゴチャゴチャ国家」の元凶を現行憲法に求める。それは個人より公共、自由より秩序、権利より責務と明記されている自民党の憲法改正草案を見ると明らかです。

これってまさに伝統的な姿である家制度=父権主義=「父さんの言うことは黙って従いなさい」です。伝統的な家を基に国家を考えると、いまの自民党が夫婦別姓に反対するのも、嫡子差別を(違憲判決にも関わらず)当然と考えるのもわかります。それはとてもスッキリとわかりやすく、美しく見える。国家は父親なのです。国家は「国」と「家」とをつなげた概念なのです。

このときあるべき「父親」の姿が見えてきます。国民を守り、国民が帰属すべき国家。子供を守り、子供が帰ってくるべき家。安倍さんの「美しい国へ」にもそう書いてある。そしてそんな家の父親はもちろん押し売りや強盗という外患にも毅然と対応しなくてはならない。それは父親の男気です。誇るべき美しいマチズムです。だからこそ外国に行ったときに名乗るべき名前は、あなた個人を識別するファーストネームなんかよりも先に、あなたを庇護している「日本」という苗字であるべきなのです。

ああ、わかった。安倍さんを批判する「国家主義者」とか「戦争のできる国」とかいうのはまわり回ってそういうことなんだ。外患に対してバットを用意するマッチョな在り方の別名なんだ。安倍さんのすべては、この善意の「男性主義的家父長制国家」への、美しさの幻想から来ているのだ。あの人は男らしいのが好きなんだ。ただこの日本を「オトコらしい」「一丁前の」国家にしたいだけなんだ。「オトコらしい国」ってのがたまたま「戦争もできる国」ってことなんだ。その「オトコの美学」が「美しい国」ってのにつながってるんだ。

──と見切ったつもりでいたら12月14日、都内のホテルで開かれた安倍首相夫妻主催の東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳晩餐会、余興として登場したのはミニスカートの制服もまぶしいAKB48の面々でした。

ASEAN_AKB48.jpg

ごめんなさい。

延々と論を連ねて安倍さんの主義主張を家父長制度に根ざしたものだと言ってきたのに、それはじつは「男性主義」「父権主義」ではなくて単なる「オヤジ趣味」だったのかもしれません。

……ま、同じことかもしれませんが。

December 07, 2013

「臭いものに蓋」法

近代国家は国家機密に関するきちんとした法律を持っていければならないと思います。きちんとした特定秘密保護法案ならまったく反対しません。ところが衆参両院で強行可決された「特定秘密保護法」は、スパイ防止にならないばかりか単に官僚たちの「臭いものに蓋」としてしか機能しないだろうと強く懸念される。だからこの法に反対しているのです。国民の知る権利がどうだとかジャーナリズムがどうだとかそんな高尚な話ですらありません。法律として、また審議過程としてもボロボロだからです。

欧米の同様法は外国への機密漏洩を厳罰化しています。利敵行為への戒めです。対して日本のこれは誰にも喋ってはいけないという法律です。しかも秘密の範囲は漠として曖昧。公務員も何が秘密かわからず戦々恐々。つまり何であれ喋らぬに越したことはない。触らぬ神です。国民の代表である政治家たちにも明かせない。

すると政治家にとっても霞ヶ関の情報収集が従来のようにはいかなくなる上に、政策の立案も精度が落ちてきます。秘密を知る官僚だけが考えることになるのですから、じつは自民党は自分で自分の政治家としての首を絞めたのも同じです。

一方でこの法は官僚機構そのものの弱体化すら招きます。他人に説明しない=説明を怠る癖は、説明責任=論理構成力をも殺ぎ取ることにつながり、独善的なシステムを構築するに至る。それはつまり、官僚機構そのものの堕落に直結するのです。

日米双方の官公庁を取材して違うのは、日本の役所ではほとんどの情報がまずは「秘密」に設定されるということです。宣伝になること以外はこちらから突つかない限りはまず出てこない。資料を出すのを面倒くさがる。情報がみんなのものだという意識が低い。秘密保護法なんて必要ありません。そもそも最初からみんな秘密なんですから。

情報を持っているというのは力です。情報を秘密にすればそれは権力になる──例えば警察取材では日本の一年生記者は揉み手をし頭を下げて情報をもらいます。そこで先輩に「ご用聞きじゃないんだ!」と叱責されるのですが、全員がそんな立派なジャーナリストに育つわけでもありません。揉み手のクセが抜けない記者も多いのです。一方で警察は、いや普通の役所ですら、揉み手をしてにこやかに接してくれる新聞記者が心地よい。自分のところで情報を塞き止める「よかれと思ってする自己規制」「勝手な判断」がそうやって生まれもします。本来そもそも市民国民のための情報であるにも関わらず(主権在民とはそういうことです)、その情報を恣意的に自分の手で出し惜しみして末端の権力の味を味わうのが好きな小役人はどこにでも一定数存在するのです。

もう1つ、米国では政権交代のたびに官僚組織のトップが5000人とか7000人の単位でガラッと入れ替わります。すると党派的に都合の悪い秘密などは隠していた方がまずいことになる。「臭いものへの蓋」は政権交代ごとに開けられてしまうからです。そうやってバレたらなおさらまずいでしょう。だから「機密」は客観性の高いものにならざるを得ない。

対して日本の「秘密」とはそうした客観的にもおかしくはない国家機密のほかにも、その時点の国家機構や組織の弱点を隠すための秘密も含まれがちなのです。組織のトップが責任を問われずに済むように情報を隠しておく、だってそれが優秀な部下の務めでもあるわけですから。内部告発なんかとんでもない。そういうのは内部告発ではなくまずは内部処理です。それが日本的組織です。

しかも安倍政権はそんな秘密を「保存中に破棄することもある」とさえ閣議決定してしまった。シュレッダーに掛けちゃうというのです。そういうことをすると、秘密と権力だけが実体もなく延々と保全されることになります。保身の前には秘密の保全こそが重要であって歴史の保全などは二の次、むしろ邪魔っけな考え方なのです。

例えば国会審議の最中の12月2日、東海村の原子力機構で高レベルの廃液が未処理で残り水素爆発の恐れまであるという記事が出ました。これは日本の混乱を狙うテロリストには格好の情報たりうるでしょう。また森雅子担当相は「食の安全」もテロリストの脅迫材料になるから「特定秘密の可能性がある」と答弁しました。そうなると国民は食品の危険を知らされないおそれだってあるかもしれない。もちろん政府はそんなことはないと言うでしょうが、そうならそうできちんとそこを法律として規定しなければならない。時の政府の恣意的解釈ができないものでなくては法律とは言えないのです。

皮肉を言えば自民党は、「自分たち以外」の「危険な政府」が誕生するかもしれないことをまったく頭に入れていないのでしょうか? つまり絶対に政権はもう二度と誰にも渡さないぞ、という構えを強化するつもりなのでしょうか?

米国では国家機密も原則25年で公開です。日本では60年。これは事実上「公開されない」と同じです。だって60年って、関係者はみんな死んでしまっているのですよ。そう批判すると米国だって最長75年、英国では100年の秘密もある、という反論が返ってきます。でもそれは何が秘密かはわかるようになっているのです。保全途中での秘密裏の廃棄だってあり得ません。情報公開法だって素晴らしく機能しているのは日本の「秘密」が米国の情報公開で次々と明らかになっていることからもわかるでしょう。

そしてそれはどうして日本では秘密なのか、その理由さえよくわからないものばかり。日本政府もその理由を説明しません。なぜならそれは「秘密」だからです。キャッチ22ですか?

いま一度言いましょう。特定秘密保護法案という概念にはまったく反対じゃありません。賛成派はそんなものは当然の法律で反対する方がおかしいと言いますが、そうやって勝手に反対の理由を捏造しないでいただきたい。そんなことで反対してるんじゃない。反対なのは、あくまで強硬可決された「この特定秘密保護法」が、スパイ防止などではなくむしろ官僚制度や自民党の「臭いものに蓋」法として機能するしかないだろうからなのです。

November 07, 2013

ストップ&フリスク

市政監督官のビル・デブラシオ候補が大勝したNY市長選ですが、ブルームバーグ市長の政策を「富裕層優遇」と真っ向から批判してきたことが功を奏したというより、私にはあの高校生の息子ダンテくんの超アフロヘア人気がカギを握っていたと見るのですがミーハーに過ぎるでしょうか?

さてハイラインの建造や歩行者天国の拡大、最近では(これは人気イマイチですが)シティバイクの設置といろいろとアイディアマンだったブルームバーグ市長ですが、確かに振り返れば市の貧困率は21%と過去最高ですし、NY市警による「ストップ&フリスク(通行人を呼び止めての職務質問と身体検索)は人種プロファイリング(人種偏見を基にした思い込みの捜査手法)だとして風当たりが強くなっています。ここら辺で違う風がほしいと思った向きがデブラシオというほとんど無名だった候補へ流れたのでしょう。

ところでこのストップ&フリスク、一般の注目を浴びたのは8月に地方判事が「この施策は憲法に違反する」と判断したのが発端です。警官が「白人だったならば呼び止められなかったであろう黒人やヒスパニックの人々」を日常的に呼び止めており、市警は「間接的な人種プロファイリング施策」に依拠しているとしたのです。

しかしそれが市長選挙直前の10月31日、思いがけぬ展開を見せました。控訴審がストップ&フリスク改革を停止し、警官たちに事実上同手法の継続を容認したのです。

そんな中、19歳の黒人男子大学生トレイヴォン・クリスチャンがこの4月にバーニーズNYで大好きなラッパーがしていたのと同じ350ドルのフェラガモのベルトを購入したところ、店から1ブロックのところで2人の私服警官に呼び止められ、「こんな高いものを買えるはずがない」として手錠を掛けられ、分署で2時間も拘束された件が公になりました。

クリスチャンはIDやレシートを見せたのですが偽造だと相手にされなかったとか。これとは別にやはりバーニーズで21歳の黒人女性が2500ドルのセリーヌのハンドバッグを買って同じような目に遭っていたことも新聞で報じられました。2人ともこれを人種偏見の違法行為として市警とバーニーズを訴えてニュースになったのです。

これは犯罪を起こす以前の予防的警戒と言えます。五番街やマディソン街などの高級地区から危なそうな人物を職質してその場から立ち去らせる。人種差別、人種偏見を基に予防的に犯罪可能性に対応する。この施策を支持したブルームバーグ市長は犯罪率の明らかな低下を支持の理由に挙げていました。

なるほどそうかもしれません。そしてこれはよく考えれば9.11以降にブッシュ政権が国際法を無視して行ってきた、そしてオバマ政権もそれを継承している対テロの予防戦争、予防的先制攻撃の思想と同じです。そうしてブッシュはアフガニスタンやイラクやパキスタンのアルカイダを叩き、オバマは怪しい者を証拠や訴追もなくグアンタナモ刑務所に予防的に拘禁している。いまそれから10年以上経って、その考え方がアメリカの一般社会にまで降りてき始めている。富裕層およびそれを取り巻く権力システムが、既得権益を守るために犯罪も成立していないうちから犯罪の憶測、見込みを取り締まる。黒人だ、ヒスパニックだということだけで高級ショッピングエリアから排除する。これはまさに予防的先制攻撃でしょう。

テロは起きてからでは遅いから事前に叩く──この考えが認められるなら犯罪にだって同じじゃないか、そういうことです。ビッグデータを駆使する対テロ予防の監視システムを認めるなら、それを人種プロファイリングという犯罪予防措置に敷衍して何が悪い、ということです。正当防衛の先取り理論。「悪は、危ないことをしてしまった後ではもう遅い。何かをしでかす前の芽の時点で摘み取るべし」なのです。

10年以上前にトム・クルーズ主演の「マイノリティリポート」というSF映画がありました。まさにこの予防的治安維持捜査の物語でした。原作はフィリップ・K・ディックの1956年の小説です。

翻って日本でさえも特定秘密保護法といい予防的治安維持といい、こないだまでSFの中だけだったものがどんどん現実になっています。一流のSF作家の予見の的確さに感心すると同時に、彼らが怖れたものを私達もまた十分に怖れているのか、私達の感性が試されているような気がします。

November 04, 2013

メニューの上の虚実皮膜

一時帰国中の日本ではホテルレストランなどでの食材の「偽装・誤表記」が連日ニュースになっています。発端は反新阪急ホテルでの「芝エビとイカのクリスタル炒め」なるものが、実は芝エビではなく「バナメイエビ」を使っていたというものでした。

日本の中華料理界では小エビをだいたい「芝エビ」と表記するのが慣行だったそうで、芝エビといえどもすでに江戸「芝浦」で捕れるエビとは限らず、しかもいまや大量消費で世界中からいろんなエビが輸入されるとあってはいちいち聞いたこともない名前でメニュー表記されても客としても困り物だろうにと、私としてはむしろ「クリスタル炒め」の方に、一体全体これは何ぞや?と反応してしまった。

その後も同種の問題発覚は後を絶たず、ブラックタイガーを車エビ、トビッコをレッドキャビア(これは日本では鱒の卵のことだそうです)、ロブスターを伊勢エビ、スパークリングワインをシャンパン……中には牛脂を注入した豪州ビーフの成型肉を「和牛」表記してたなんていうトンデモ例もありますが、食材なんてのはだいたい料理の上手下手でどうにでもなるもので、ブラックタイガーだってヘタな車エビより美味くもなれば、スパークリングワインだって近頃は上等です。アメリカじゃ伊勢エビ(スパイニー・ロブスター)よりも爪のあるロブスターの方が重宝される。鱒子をレッドキャビアだなんて呼ぶこと自体がそもそも偽装でしょうに、それを棚に上げて着色トビッコを「赤い魚卵=レッド・キャビア」と呼んではいけないというのもおかしな話です。

もちろんそんなメニュー表記で付加価値が上がって客を引きつけられると考えるレストラン側のさもしさ浅ましさが第一の問題です。客を騙そうなんて以ての外。

だがしかし、そもそも日本のメニューというのは昔から謎掛け、見立ての伝統があって、それをわかってこそ風流、などという特権意識がお茶や懐石の、器や掛け軸や生け花やあしらいの根底に流れている。

簡単な例ならば「竜田揚げ」は百人一首の「からくれない」に染まる竜田川の色合いを持った揚げ物のことですし「紅葉おろし」だとか仙台名菓「萩の月」だとかも、じつに妙(たえ)なる名前だけどこれも知らなきゃ何のことやら。そうやって日本にはそのものズバリの名付けを無粋として避ける文化が脈々とあって、潮汁だとか鉄砲汁だとか鉄火巻きだとか松笠焼きだとか、それがいつしか「クリスタル炒め」なんぞにつながるわけです。

それは、テラピアをイズミダイと呼び換え、カペリンをカラフトシシャモと呼び換え、ブルーギルをビワコダイなどと呼び換える慣行とどう違うのか、と言われると、確かに商売根性のあからさまさは違うけど、本質的にはどっかでなにかが通底してる。

かくして客側の自己防衛としては、端からメニューなど信じないのがいちばんです(そういや日本にはメニューより信頼が重大な「おまかせ」文化もありますね)。それで食ってみてからもういちどメニューを見直す。美味かったらそこで「ほお、そうだったのか」と思うし、まずかったら「へえ、こうしちゃうのね」です。同じ食材も「こんなに美味くなるのか」なときも「ダメポ」なときもあるので、客釣りのためのメニューなんぞ単なる参考資料、半分信じてちょうどいいくらいなのですよ。

もっともそう書いたからと言ってレストラン側が話二倍の誇大表記をしてよいということにはなりません。「しょせん素人、客になんぞ味の違いはわからねえ」と思っている店があれば、まあ、そりゃ大方そうかもしれないけど、そうじゃない客だって必ずいるのだと言うしかありません。そうすると、そういう味のわかる、畏敬すべき客は必ずその店に二度と来なくなります。そして次第にその店の客は、店側が蔑ろにするような客ばかりになる。そうするとその店自体が蔑ろにしてよい店に堕するのです。それは恐いことではありませんか?

先日、岐阜のどこかの学校給食でパンに小バエが混じっていたという“事件”がありました。ハエが混入したパンの数は約100個にものぼったそうですが、学校側は「 健康に影響はない」として、付着箇所を取り除いて食べるよう指導したそうです。ええ、パンは高温で焼いているから小バエが混じっていても病原菌は死んでるし大丈夫かもしれません。でもこの問題はそこにあるのではないのです。この問題は、小バエが混じるような環境を放置しているような給食施設では、必ず他にもなにか見落とされている衛生上労働上の問題があるはずだ、ということです。小バエ混入は、そういう悪環境、悪監督、悪労働の象徴だということなのです。

これを敷衍すれば、客の気を惹くためには実態以上のかっこいい言葉でメニューを飾ればどうにかなると思っているレストランは、どこか料理でも客サービスでも嘘が混じるということなのです。誤表記、偽装はその象徴でしかないのです。天網恢恢疎にして漏らさず。料理は愛情だというのは、じつはそういう嘘をつかない誠実な心のことを言うのだと思います。

最後にレストラン以外の苦言を1つ。レストランなら選べます。でも日本では、どこに行っても本物のベーコンが売っていない(高級グルメマーケットとかにはかろうじて存在してますが)。

ベーコンとは本来は塩漬けにした豚の肋肉を燻製にして作るもので、熱処理していないのです。なのに日本で「ベーコン」として売ってるのはみんな加熱したハムもどき。せっかく世界に誇るおいしい豚肉がある日本なのに、これは焼いてもカリカリにならないし、口にぺっとり甘ったるい化学調味料の味が残るし、食文化を誇る日本で、ベーコン1つまともなのを買えないというのは、TPP後に世界から押し寄せる食材に、農水省の食品行政がはたして立ち行くのかどうか、そちらの方が心もとないのです。

October 29, 2013

軍人の思考

驚いたのは安倍首相が27日、自衛隊の観閲式で「防衛力はその存在だけで抑止力になる、という従来の発想は完全に捨て去ってもらわないといけない」と演説したことです。武力は行使しなければ意味がないとは、日本が依存する「核抑止力」をも否定することになる論理だと、気づいているのかいないのか。この人どうも首尾一貫しないでブレーンの入れ知恵をその場その場で適当に口にしているだけの印象が拭えません。入れ知恵を自分の論理として理解する力、一体化して構築する力がないのか、ただ「勇ましさ」だけをキーワードにしてかっこいいフレーズを飛び石渡りしているような気がするのです。

そして国家安全保障会議とか特定秘密保護法案です。安倍さんは戦後日本が築き上げてきた「平和主義」ドクトリンを根底から変えたいんですね。で、こちらのキーワードは「勇ましさ」をもうちょっと外向きに言い換えた「積極的平和主義」。同じ「平和」が入っているとはいえその中身は正反対です。

今回スルスルと閣議決定にまで至った日本の秘密保護法案は、なにせ事前のパブリックコメント募集で反対が8割もあったのにそれはまったく無視されました。町村信孝元外相が「組織的にコメントする人々がいたと推測できる」と一蹴したように初めから成立ありき。いったい何のためのパブコメ募集だったのか。もしこれが賛成8割だったならそれも組織票だと言ったのかしら?

この法案はそもそも湾岸戦争以降共同軍事行動に前のめりになった自民党政府に対し、提供する軍事機密が日本から漏れては困るという米国側の危惧から始まりました。それが2000年のアーミテージ・リポートで具体的に字になって日本にも「アメリカ並みの秘密保護法制が必要」とされ、翌01年の9.11後に制定された愛国者法の対テロ戦争の熱狂下で日本への圧力もぐっと高まった。そして第一次安倍政権下の07年に「日米軍事情報包括保護協定」が締結されたのです。

本来ならこれで事足りるはずでした。ところが安倍政権はもっけの幸いとばかりにこれを秘密保護法案に拡大し、持論の改憲、集団的自衛権、国家安全保障法、日本版NSC法、防衛大綱見直し等々とパッケージして、彼の言う「積極的平和主義」を構想したのです。

国家にはもちろん運営上の機密情報が存在します。それを守るための法律もまた必要です。日本にはすでに公務員法や自衛隊法でそれが守られています。しかし今回の秘密保護法案は罰則をさらに強め、取材のジャーナリストたちも処罰対象にするものです。

秘密保護法案にはそれに拮抗する情報公開法や、内部告発者をきちんと保護する法律並びにそれを保障する社会文化が同時に必要とされます。ところが日本にはそれがない。日本にはジュリアン・アサンジもエドワード・スノーデンも出てきそうにないのです。そして秘密の正当性を検証する機会がないまま、政府の指定する秘密だけが増殖するのです。

ではその秘密とは何なのか? 1つのウソをつきとおすために別のウソをつかねばならなくなるように、1つの秘密を隠すためにその周辺情報までも秘密にしなくてはならなくなります。ウソがウソを呼ぶように、秘密が秘密を呼ぶのです。そして何が秘密なのか、誰も定義できなくなってしまう。それが検証されることのない「秘密」の正体です。

その好例が国家安全保障局(NSA)によるメルケル独首相ら35カ国首脳への盗聴です。この盗聴が始まったのは2002年。やはり2001年の9.11後の狂乱下ですね。テロ情報収集のためには手段を選ばない。そのためにはヨーロッパ経由の情報も必要、ドイツのNATO情報も必要、つぎにドイツの首相になりそうなメルケルさんの情報も必要、といくらでも拡大して行ったことは想像に難くありません。諜報活動は歯止めがない場合はかならず自己増殖するのです。

この場合、盗聴内容はもちろん機密情報でしょう。さらにその具体的方法として「盗聴」という違法行為をやっていたこと自体も機密情報になります。つまり、政府の違法行為までが機密情報に指定されるわけです。そして秘密保護法ができれば、政府の違法行為を告発することさえもが違法となってしまう。政府の違法行為は、では誰がどのように正すことができるのか?

問題はそこにあります。

平時のときの有事対策とは、平時であるが故に冷静かつ論理的に考えられるすべての回路を駆使しなくてはなりません。政治家は秘密を保護するだけではなく、情報を精査して評価する方法や情報公開法も作っておかねばならない。なのにいまのこの平時に、まるで有事の際に有事の対策を立てるかのような有事ヒステリアで思考回路が一本化してしまっている。それは政治家の思考ではありません。軍人の思考なのです。

October 03, 2013

靖国とアーリントンと千鳥ヶ淵と

しかし安倍政権もよほどオバマ政権に嫌われたものです。この前のエントリーでも安倍さんのハドソン研究所講演などにおける米民主党との疎遠ぶりに触れましたが、今度は日米外務・防衛担当閣僚会議に訪日したケリー国務長官とヘーゲル国防長官が、10月3日のその会議の朝に、わざわざ千鳥ヶ淵の戦没者墓苑を訪れ、献花・黙祷したのです。

米国の大臣が2人そろって日本人戦没者を追悼する──この異例の弔意表敬は何を意味しているのでしょう?

これには伏線がありました。安倍が今年5月の訪米に際して外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」のインタビューでバージニア州にあるアーリントン国立墓地を引き合いに出し「靖国はアーリントンだ」という論理を開陳したのです。

「靖国神社についてはどうぞ、アメリカのアーリントン国立墓地での戦没者への追悼を考えてみてください。アメリカの歴代大統領はみなこの墓地にお参りをします。日本の首相として私も(そこを)訪れ、弔意を表しました。しかしジョージタウン大学のケビン・ドーク教授によれば、アーリントン国立墓地には南北戦争で戦死した南軍将兵の霊も納められているそうです。その墓地にお参りをすることは、それら南軍将兵の霊に弔意を表し、(彼らが守ろうとして戦った)奴隷制を認めることを意味はしないでしょう。私は靖国についても同じことが言えると思います。靖国には自国に奉仕して、命を失った人たちの霊が祀られているのです」

このケビン・ドーク教授のくだりは産經新聞への寄稿からの引用で、産経の古森のオジチャマも「靖国参拝問題で本紙に寄稿したジョージタウン大学のケビン・ドーク教授が『アーリントン墓地には奴隷制を守るために戦った南軍将兵の遺体も埋葬されているが、そこに弔意を表しても奴隷制の礼賛にはならない』と比喩的に指摘したことに触発され、初めて南軍将兵の墓を訪れてみたのだった」とコラム(2006年05月31日 産経新聞 東京朝刊 国際面)で触れているから、おそらくそれを読んでの引き合いだったのでしょう。

例によって古森のオジチャマはフォーリン・アフェアーズ記者への安倍の回答を、自分のコラムを読んでくれていたせいか「なかなか鋭い答えだと思います」と賞賛しています。

ですが今回、日本の首相たちのアーリントン墓地表敬訪問の返礼として、オバマ政権が選んだ場所はその「靖国」ではありませんでした。千鳥ヶ淵だったのです。これはつまり日本で「アーリントン」に相当するのは「靖国ではない」ということを暗に、かつ具体的に示したのです。かなりきつい当てつけです。普通の読解力があれば、これは相当に苦々しいしっぺ返しです。

アメリカとしては、東アジアでキナ臭いことが起きたら大変なのです。にもかかわらず相も変わらず中韓を刺激するようなことばかりする安倍内閣というのは何なのかと呆れている。安倍さんは民主党政権でぐちゃぐちゃになったアメリカとの関係を「取り戻す」と、これも自らの宣伝コピーとともに宣言してきましたが、「取り戻せた」と自賛するほどにはまったく至っていないのは自分でも知っているはず。

同時に千鳥ヶ淵献花はかつての敵国である米国による日本との完全な和解の象徴でもあります。いま敵対している中国や韓国との関係をも、このように敬意を示して和解に持っていけよ、というオバマ政権からのメッセージだと読めなくもありません。

「完全な和解の象徴」と書きましたが、じつはその「完全」にはきっと次があります。それは核廃絶を謳ってノーベル平和賞を受賞したオバマさんが広島に行くことです。

米国はイランや北朝鮮の核開発を認めるわけにはいきません。テロリストに核爆弾が渡るのも流血を厭わず阻止し続ける。その強硬一本の姿勢とともに、彼はヒロシマ献花という平和の象徴的なメッセージを世界に振りまく戦略を考えているのではないか。

折りも折り、日本の大使には「叔父(エドワード・ケネディ)とともに1978年に広島に訪れて深く影響を受けた」と承認のための上院公聴会でわざわざ話したキャロライン・ケネディがまもなく赴任します。大統領の広島記念式典への出席には米国内でいろいろと異論も多いのですが、天下の「ケネディ」とともに出席すればその批判も出にくくなるでしょう。

来年の8月、あるいは選挙もない任期最後の2015年8月に、私は今回のケリーとヘーゲルのように2人並んで広島で献花するオバマとケネディの姿が目に見えるような気がするのですが、ま、そんな先のこと、今から確定するはずもありませんけどね。

September 27, 2013

アベノミス

NY訪問を終える安倍首相のフェイスブックのページに「安倍政権の目指す方向を世界に発信できた有意義な出張でした」と書き込まれていました。「発信」といっても報じたのは日本のメディアで、アメリカではほとんど触れられていませんでしたが。

「発信」は今回、ハドソン研究所、ウォールストリートの証券取引所、そして国連総会での3つの演説でした。この中にオバマ政権との接触はありませんでした。

ハドソン研究所というのは限定核戦争を肯定したり核戦争下での民間防衛のあり方を論じたりしたタカ派の軍事理論家ハーマン・カーンの創設したシンクタンクです。もちろんここは共和党と親和性が高い。ちなみにこのカーンさん、あの名高い映画『博士の奇妙な愛情』の主人公ドクター・ストレンジラヴのモデルなんです。

もっとも、ここでの講演は安倍さんがそのカーンの名を冠した賞を授与された記念講演でした。同賞歴代受賞者はレーガンやキッシンジャー、そして前副大統領のチェイニーらほぼ共和党系。そんなところで「私を右翼の軍国主義者と呼びたければ呼んでください」とやればもちろんそれは受けるでしょう。けれど東アジアの、特に日中の緊張関係にヒヤヒヤしているオバマ政権はどう思うでしょう。それでなくとも安倍さんを「右翼の国粋主義者」として距離を置いているオバマ民主党です。中国を意識して言い返したつもりの先の決め言葉は、彼らには当てこすりと聞こえたに違いありません。

そして証券取引所でのスピーチでした。私はこれにも「おや?」と思いました。安倍さん、出だしで「ウォール街──この名前を聞くとマイケル・ダグラス演じるゴードン・ゲッコーを思い出す」とやったんですね。

この映画、オリバー・ストーンが監督で徹底してウォール街の嘘とごまかしと裏切りとインサイダー取引とマネーゲームのひどさとを描いたものです。そしてゲッコーこそがウォール街を具現する悪役なのです。それを思い出すと言うとは、安倍さんは金融マンたちを目の前にして皮肉をかましたんでしょうか?

彼はまだ続けます。「今日は皆さんに、日本がもう一度儲かる国になる、23年の時を経てゴードンが金融界にカムバックしたように『Japan is back』だということをお話しするためにやってきました」。そして「ゴードン・ゲッコー風に申し上げれば、世界経済回復のためには3語で十分です。『Buy my Abenomics』」と……。

映画の続編で、慕ってくる青年にゲッコーが「Buy my book」つまりオレの本を買えばわかると言ったことに引っ掛けたわけですが、ゲッコーはその続編でも手痛いしっぺ返しを食らうのです。その文脈に沿えば、アベノミクスはしっぺ返しを食らう運命にあるってことの隠喩でしょ? これって自虐ジョークじゃないですか?

終始ヤンキーズやイチローやバレンティンや寿司の話などアメリカ人の好きそうなエピソード満載のスピーチで、安倍さんはとても得意げだったのですが、私は逆に微妙な違和感を持ちました。演説の〆で、この演説の悪ノリの印象は決定的になりました。

安倍さんは五輪開催を決めた日本に触れます。そこでヤンキーズのリベラ投手のテーマ曲を持ち出し(リベラはこの演説の翌日が引退試合でした)「日本は再び7年後に向けて大いなる高揚感の中にあります。それはヤンキースタジアムにメタリカの『Enter Sandman』が鳴り響くがごとくです」とやったんです。

でもこのヘビメタ曲、敵チームに対し、リベラが出てきたから「もうお前たちは眠りにつくしかない」と敗戦を言い渡す歌なんですよ。サンドマンというのはまさにその「眠りの精」こととなんですから。東京五輪に来る人たちに「さあ、おまえらはこれからやっつけられるんだぞ」と言うのは、それは大変失礼というもんじゃないでしょうか。

巷間なかなか評価の高い安倍さんのスピーチライターは元日経ビジネスの記者だった谷口智彦内閣審議官なのですが、安倍さん、本当にこのメタリカってヘビメタバンド、知ってるんでしょうかね。どこからどこまでが安倍さんのナマの言葉で、どこからどこまでが谷口さんの入れ知恵かはわからないのですが、いずれにしてもその比喩の原義の取り違えと文脈の無視、私には詰めの甘いミスとしか思えなかったのです。

September 03, 2013

孫子の兵法

シリアの首都ダマスカス近郊で毒ガス兵器による死者が1429人も出て(うち426人が子供だとケリー国務長官は言っています)、これを見逃すことは国際社会としてタブーである化学兵器、ひいてはイランや北朝鮮の核兵器開発をも見逃すという誤ったメッセージになる──これがオバマ大統領がシリア政府を攻撃しようとしている理由です。

もちろんこれ以上の一般市民の犠牲を防ぐという人道的な背景もありましょう。ですが国際的な軍事モラルとバランスの維持というのがアメリカにとっての第一の国益なのです。ええ、その「モラル」も「バランス」もアメリカにとっての、というのが国益の国益たる所以ですが、毒ガス兵器がむやみにテロリストやマフィアや犯罪組織に渡ったりするのは確かにまずい。

なのでシリアは(懲罰的にも、国際的な見せしめとして)叩かねばならない、というのが米政権の論理です。ところがアラブの春以来のこの2年半でシリアは内戦状態になり、しかも情勢は政府vs反政府勢力という単純な構図ではなくなっています。日本人ジャーナリストの山本美香さんも昨年8月、そんな混乱の中で政府軍に射殺されました。

反政府勢力の中にも民主化を求める市民勢力やアルカイダ系のイスラム原理主義集団、ジハード主義集団などが入り乱れていて、さらにそこにイランやロシアといった政府支援国、レバノンのヒズボラの参戦やトルコ、イスラエルといった敵対隣国の事情も絡み、国際社会もどう手をつけてよいかわからないのが現状です。

例えばオバマがトマホークを射ち込んで、シリア政府はどうするでしょう。シリアはロシアから地対空ミサイル防衛システムももらっています。報復としてアメリカではなくその同盟国のイスラエルにロシア製のスカッドミサイルを射ち込むということは大いに考えられます。その場合、それがまた化学兵器だったらそこから大変な戦端が開かれる恐れもあります。それを合図にレバノンもまたイスラエルを攻撃するでしょう。イスラエルはすでにそれに備えて「アイアン・ドーム」と呼ばれる防空システムを配備しています。アサド政権の後ろに控えるイランやロシアも黙ってはいないでしょう。アメリカではいま、サイバー・パールハーバー(コンピュータ戦争における真珠湾攻撃)も懸念されています。1週間前にニューヨークタイムズのサイトがハッキングされたのもシリア関連の攻撃だと言われているのです。なにより、個人の持ち込む兵器によるアメリカ本土でのテロも怖い。そんなことになる前にまずロシアと米国の反目が激化します。ロシアが動けばアメリカのソチ五輪ボイコットという事態もあるでしょう。

そしてそれらは、さらに先の、「ひいての」アメリカの国益につながるのだろうか?

その問題がオバマが今回の軍事介入をあくまで「限定的なもの」で「アサド政権の打倒を目指すものではない」として、慎重である理由です。トマホークを射ち込んでも次にどうなるのかが見えない。この軍事介入には「Bad ひどい」か「Worse よりひどい」か「Horrible とんでもなくひどい」の3つの選択肢しかないと言われる理由です。進むも地獄、進まぬも地獄……。

そこでオバマ政権の国防安保チームが知恵を絞ったのが今回の「軍事介入に当たって議会の承認を求める」でした。もちろん前週に英国議会がキャメロン内閣の軍事介入方針を否決した影響もあります。ただこれでオバマは、ブッシュのように猪突猛進はしないと宣言できました。なにせイラクもアフガンもリビアも、米国が軍事介入してうまく行った例はベトナム以降皆無なのですから、ノーベル平和賞受賞者としては1人で勝手にミサイルは射てません。でもこれで軍事介入の責任を議会にも分散させられる。リベラルの大統領としてはアリバイができる。

しかしその一方で東地中海のシリア沖に展開している5隻の駆逐艦、400基以上のトマホークはいまも待機状態で、いつ何時でも有事の際には攻撃できるようになっています。声明でも「司令官から常時報告を受けている。攻撃はいつでも可能。攻撃は一刻を争うもの(タイムセンシティヴ)ではなく、明日でも来週でも1カ月後でも有効だ」と断言しています。議会承認を求めると言う前にオバマがまずは「私は軍事介入を決心した」と明言したことも忘れてはいけません。

これはシリア政府に向けた恫喝です。アメリカの大統領は議会の承認を経ずに宣戦布告して60日間の軍事行動をとれます。つまり、議会の承認を求めるとは言ったものの、シリア政府軍に何か新たに不穏な動きがある際は火急の対応として攻撃できるんだ、とシリア側に宣告しているわけです。

これではシリア軍はなにもできません。いまシリアの司令本部や通信施設は攻撃を予測して移動し仮の状態です。兵器や部隊も分散させてシリア軍はいま本来の力を出せません。それが続く。つまり攻撃しないでも、軍事行動をとったに似た効果をもたらしている。これは孫子の兵法でいう「戦わずして人の兵を屈するは善の善」です。

もっともそれもかりそめのものです。9日以降の議会の承認審議は大揉めに揉めるでしょう。米国民の世論だって軍事介入にはもう乗り気ではない。もちろん介入が否決されてもオバマ大統領は次のシリアの出方でそれはまた変えることはできます。結局はやはり軍事介入、ということになる可能性も高い。シリア国内でも、アメリカの介入を求める人々が多く存在します。介入を求めない人々も多くいます。国際的にも賛否は真っ二つです。なにもしないでよいのかという人道的な憤りも加わって、アサド政権の非道さへの批判は高まる一方です。

しかし結局軍事介入することになっても、「その後」がわからないのはそのときも変わらないのです。そんなことも考えずに、アメリカよりも先に「アサド退陣」を求め、アメリカ国民よりも先に「アメリカ支持」方針を早々と打ち出してしまっている日本の安倍政権の不見識を、とても恥ずかしく思います。

July 24, 2013

ロシアの反ゲイ弾圧

ニューヨークタイムズ22日付けに、ハーヴィー・ファイアスティンの寄稿が掲載されました。
プーチンのロシアの反LGBT政策を非難して、行動を起こさずにあと半年後のソチ冬季五輪に参加することは、世界各国が1936年のドイツ五輪にヒットラーのユダヤ人政策に反発せずに参加したのと同じ愚挙だと指摘しています。

http://www.nytimes.com/2013/07/22/opinion/russias-anti-gay-crackdown.html?smid=fb-share&_r=0

以下、全文を翻訳しておきます。

****

Russia’s Anti-Gay Crackdown
ロシアの反ゲイ弾圧
By HARVEY FIERSTEIN
ハーヴィー・ファイアスティン

Published: July 21, 2013


RUSSIA’S president, Vladimir V. Putin, has declared war on homosexuals. So far, the world has mostly been silent.
ロシアの大統領ウラジミル・プーチンが同性愛者たちに対する戦争を宣言した。いまのところ、世界はほとんどが沈黙している。

On July 3, Mr. Putin signed a law banning the adoption of Russian-born children not only to gay couples but also to any couple or single parent living in any country where marriage equality exists in any form.
7月3日、プーチン氏はロシアで生まれた子供たちを、ゲイ・カップルばかりか形式がどうであろうととにかく結婚の平等権が存在する【訳注:同性カップルでも結婚できる】国のいかなるカップルにも、または親になりたい個人にも、養子に出すことを禁ずる法律に署名した。

A few days earlier, just six months before Russia hosts the 2014 Winter Games, Mr. Putin signed a law allowing police officers to arrest tourists and foreign nationals they suspect of being homosexual, lesbian or “pro-gay” and detain them for up to 14 days. Contrary to what the International Olympic Committee says, the law could mean that any Olympic athlete, trainer, reporter, family member or fan who is gay — or suspected of being gay, or just accused of being gay — can go to jail.
その数日前には、それはロシアが2014年冬季オリンピックを主催するちょうど半年前に当たる日だったが、プーチン氏は警察官が同性愛者、レズビアンあるいは「親ゲイ」と彼らが疑う観光客や外国国籍の者を逮捕でき、最長14日間拘束できるとする法律にも署名した。国際オリンピック委員会が言っていることとは逆に、この法律はゲイである──あるいはゲイと疑われたり、単にゲイだと名指しされたりした──いかなるオリンピック選手やトレイナーや報道記者や同行家族やファンたちもまた監獄に行く可能性があるということだ。

Earlier in June, Mr. Putin signed yet another antigay bill, classifying “homosexual propaganda” as pornography. The law is broad and vague, so that any teacher who tells students that homosexuality is not evil, any parents who tell their child that homosexuality is normal, or anyone who makes pro-gay statements deemed accessible to someone underage is now subject to arrest and fines. Even a judge, lawyer or lawmaker cannot publicly argue for tolerance without the threat of punishment.
それより先の6月、プーチン氏はさらに別の反ゲイ法にも署名した。「同性愛の普及活動(homosexual propaganda)」をポルノと同じように分類する法律だ。この法は範囲が広く曖昧なので、生徒たちに同性愛は邪悪なことではないと話す先生たち、自分の子供に同性愛は普通のことだと伝える親たち、あるいはゲイへの支持を伝える表現を未成年の誰かに届くと思われる方法や場所で行った者たちなら誰でもが、いまや逮捕と罰金の対象になったのである。判事や弁護士や議会議員でさえも、処罰される怖れなくそれらへの寛容をおおやけに議論することさえできない。

Finally, it is rumored that Mr. Putin is about to sign an edict that would remove children from their own families if the parents are either gay or lesbian or suspected of being gay or lesbian. The police would have the authority to remove children from adoptive homes as well as from their own biological parents.
あろうことか、プーチン氏は親がゲイやレズビアンだったりもしくはそうと疑われる場合にもその子供を彼ら自身の家族から引き離すようにする大統領令に署名するという話もあるのだ。その場合、警察は子供たちをその産みの親からと同じく、養子先の家族からも引き離すことのできる権限を持つことになる。

Not surprisingly, some gay and lesbian families are already beginning to plan their escapes from Russia.
すでにいくつかのゲイやレズビアンの家族がロシアから逃れることを計画し始めているというのも驚くことではない。

Why is Mr. Putin so determined to criminalize homosexuality? He has defended his actions by saying that the Russian birthrate is diminishing and that Russian families as a whole are in danger of decline. That may be. But if that is truly his concern, he should be embracing gay and lesbian couples who, in my world, are breeding like proverbial bunnies. These days I rarely meet a gay couple who aren’t raising children.
なぜにプーチン氏はかくも決然と同性愛を犯罪化しているのだろうか? 自らの行動を彼は、ロシアの出生率が低下していてロシアの家族そのものが衰退しているからだと言って弁護している。そうかもしれない。しかしそれが本当に彼の心配事であるなら、彼はゲイやレズビアンのカップルをもっと大事に扱うべきなのだ。なぜなら、私に言わせれば彼らはまるでことわざにあるウサギたちのように子沢山なのだから。このところ、子供を育てていないゲイ・カップルを私はほとんど見たことがない。

And if Mr. Putin thinks he is protecting heterosexual marriage by denying us the same unions, he hasn’t kept up with the research. Studies from San Diego State University compared homosexual civil unions and heterosexual marriages in Vermont and found that the same-sex relationships demonstrate higher levels of satisfaction, sexual fulfillment and happiness. (Vermont legalized same-sex marriages in 2009, after the study was completed.)
それにもしプーチン氏が私たちの同種の結びつきを否定することで異性婚を守っているのだと思っているのなら、彼は研究結果というものを見ていないのだ。州立サンディエゴ大学の研究ではヴァーモント州での同性愛者たちのシヴィル・ユニオンと異性愛者たちの結婚を比較して同性間の絆のほうが満足感や性的充足感、幸福感においてより高い度合いを示した。(ヴァーモントはこの研究がなされた後の2009年に同性婚を合法化している)

Mr. Putin also says that his adoption ban was enacted to protect children from pedophiles. Once again the research does not support the homophobic rhetoric. About 90 percent of pedophiles are heterosexual men.
プーチン氏はまた彼の養子禁止法は小児性愛者から子供たちを守るために施行されると言っている。ここでも研究結果は彼のホモフォビックな言辞を支持していない。小児性愛者の約90%は異性愛の男性なのだ。

Mr. Putin’s true motives lie elsewhere. Historically this kind of scapegoating is used by politicians to solidify their bases and draw attention away from their failing policies, and no doubt this is what’s happening in Russia. Counting on the natural backlash against the success of marriage equality around the world and recruiting support from conservative religious organizations, Mr. Putin has sallied forth into this battle, figuring that the only opposition he will face will come from the left, his favorite boogeyman.
プーチン氏の本当の動機は他のところにある。歴史的に、この種のスケープゴートは政治家たちによって自分たちの基盤を固めるために、そして自分たちの失敗しつつある政策から目を逸らすために用いられる。ロシアで起きていることもまさに疑いなくこれなのだ。世界中で成功している結婚の平等に対する自然な大衆の反感に頼り、保守的な宗教組織からの支持を獲得するために、プーチン氏はこの戦場に反撃に出た。ゆいいつ直面する反対は、彼の大好きな大衆の敵、左派からのものだけだろうと踏んで。

Mr. Putin’s campaign against lesbian, gay and bisexual people is one of distraction, a strategy of demonizing a minority for political gain taken straight from the Nazi playbook. Can we allow this war against human rights to go unanswered? Although Mr. Putin may think he can control his creation, history proves he cannot: his condemnations are permission to commit violence against gays and lesbians. Last week a young gay man was murdered in the city of Volgograd. He was beaten, his body violated with beer bottles, his clothing set on fire, his head crushed with a rock. This is most likely just the beginning.
レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルの人々に対するプーチン氏の敵対運動は政治的失敗から注意を逸らすためのそれであり、政治的利得のためにナチの作戦本からそのまま採ってきた少数者の魔女狩り戦略なのだ。私たちは人権に対するこの戦争に関してなにも答えないままでいてよいのだろうか? プーチン氏は自らの創造物は自分でコントロールできると考えているかもしれないが、歴史はそれが間違いであることを証明している。彼の非難宣告はゲイやレズビアンたちへの暴力の容認となる。先週、州都ヴォルゴグラードで1人の若いゲイ男性が殺された。彼は殴打され、ビール瓶で犯され、衣服には火がつけられ、頭部は岩でつぶされていた。これは単なる始まりでしかないと思われる。

Nevertheless, the rest of the world remains almost completely ignorant of Mr. Putin’s agenda. His adoption restrictions have received some attention, but it has been largely limited to people involved in international adoptions.
にもかかわらず、そのほかの世界はほとんど完全にこのプーチン氏の政治的意図に関して無関心のままだ。彼の養子制限はいくらか関心を引いたが、それもだいたいは国際養子縁組に関係している人々に限られている。

This must change. With Russia about to hold the Winter Games in Sochi, the country is open to pressure. American and world leaders must speak out against Mr. Putin’s attacks and the violence they foster. The Olympic Committee must demand the retraction of these laws under threat of boycott.
この状況は変わらねばならない。ロシアはいまソチで冬季オリンピックを開催しようとしている。つまりこの国は国際圧力にさらされているのだ。アメリカや世界の指導者たちはプーチン氏の攻撃と彼らの抱く暴力とにはっきりと反対を唱えなければならない。オリンピック委員会は五輪ボイコットを掲げてこれらの法律の撤回を求めなければならない。

In 1936 the world attended the Olympics in Germany. Few participants said a word about Hitler’s campaign against the Jews. Supporters of that decision point proudly to the triumph of Jesse Owens, while I point with dread to the Holocaust and world war. There is a price for tolerating intolerance.
1936年、世界はドイツでのオリンピックに参加した。ユダヤ人に対するヒトラーの敵対運動に関して何か発言した人はわずかしかいなかった。参加決定を支持する人たちは誇らしげにジェシー・オーウェンズ【訳注:ベルリン五輪で陸上四冠を達成した黒人選手】の勝利のことを言挙げするが、私は恐怖とともにそれに続くホロコーストと世界大戦のことを問題にしたい。不寛容に対して寛容であれば、その代償はいつか払うことになる。

Harvey Fierstein is an actor and playwright.
ハーヴィー・ファイアスティんは俳優であり劇作家。

July 23, 2013

世の中の変わり方

安倍首相のことをこちら欧米メディアではかならず「右翼の」「国家主義者の」「歴史修正主義の」と形容詞がつけられていることを,日本にいる人たちはあまり知らないようです。

参院選での自民大勝を受けてロイターは今回の選挙後の安倍政権を「困難な経済立て直しという問題への関心を失ってその代わりに自身の国粋主義的目標に向かって突き進むのではないかという疑い」と報じ、あのフォックスニュースまでもが「アベノミクスはさておき、選挙後に日本の指導者は彼の国粋主義的政治課題をどれほどまで推し進めるのか」と懸念を示しています。フォーリンポリシー誌は「安倍晋三首相は彼の急進的国粋主義者の新憲法をもって歴史を書き換えようとするだろうか」、NYタイムズなどもそんな疑念を隠していません。

最近、アメリカ人の友人と一緒の夕食の席で、話題になったのがスーザン・ダンという女性歴史学者による新著「1940: FDR, Willkie, Lindbergh, Hitler-the Election amid the Storm(1940:FDR、ウィルキー、ヒトラー=嵐の中の選挙)」でした。長引く不況の中にあったアメリカの1940年大統領選挙を軸に、当時の世界のキープレイヤーたちの動きを描いたものです。

当時は大恐慌の余波で、このアメリカですら民主制度というものは行き詰まっているのではないかという空気が産まれていました。

すべては経済です。一般の国民の民意というのは経済によって支配されます。不況だと生きてゆけない。そうするとアメリカでは、当時ヨーロッパで台頭してきたドイツに目を向ける人たちが現れた。つまりナチズムこそが停滞する民主主義に変わる新しい政治制度なのではないか、と賞賛する空気です。

民主主義はとにかく面倒くさい。剛毅果断も独断専行もできない。なぜなら、民主主義というのは「何かをやるための制度」ではなく、独裁とか弾圧とか強権政治とかを「やらせないためにできた政治制度」だからです。良いことを断行するためのものではなく、悪いことをさせないための社会体制なのです。(日本の憲法96条なんてまさにその権化でしょう)

それをわかって付き合って行かないと、民主主義って「何もできない、時間が掛かる、よく機能しない制度なんじゃないか」というフラストレーションが高まるに決まっているのです。そこで当時のアメリカでは、ナチズム、ファシズムこそが新たな時代の希望ではないのか、という見方が出てきたのです。そして「翼よ、あれがパリの灯だ!」で有名な人気飛行家チャールズ・リンドバーグなどが、ドイツ・ファシズムの代弁者になっていったのです。

ヒトラーは、ファシストであると同時に、そういう民意を上手に利用する大変なポピュリストでもあった。ポピュリズムが許す民主主義の否定とファシズムへの傾倒……そんな政治状況、社会の空気は、今の日本と似ていませんか?

とにかく経済、でもその一義的な大義名分にくっつくように全体主義(とは名指しされないものの中身はまさにそうであるもの)が社会政策として併せて首相の口から語られる。経済復興を旗印に裏で浸透してゆくポピュリズムとファシズム。

選挙大勝から一夜明けて、首相は憲法9条改正について「いや最終的には国民のみなさんの投票で決まることですから」と、あたかも自分の強権は関係無さげに話しています。しかし共同は同日早くも「安倍政権、武器輸出に新指針検討 禁輸三原則『撤廃』も」と報じました。

***
安倍政権、武器輸出に新指針検討 禁輸三原則「撤廃」も

 安倍政権は22日、武器禁輸政策の抜本見直しに向けた議論を8月から本格化させる方針を固めた。新たな指針の策定により、従来の武器輸出三原則を事実上「撤廃」することも視野に入れている。安倍晋三首相は撤廃に前向きという。政府筋が明らかにした。

 防衛省は26日にも公表する新防衛大綱の中間報告に新指針の策定方針を盛り込む方向だ。冷戦下で共産圏への技術流出を防ぐ目的の三原則が、武器の国際共同開発が主流の現状にそぐわないとの判断からで、野田民主党政権が進めた禁輸緩和をさらに徹底する。国内防衛産業を育成する狙いもある。(2013/07/23 02:00) 【共同通信】

***

なるほど、時代は、日本は、こうして変わってゆくのです。

June 01, 2013

2013年プライド月間

私が高校生とか大学生のときには、それは1970年代だったのですが、今で言うLGBTに関する情報などほとんど無きに等しいものでした。日本の同性愛雑誌の草分けとされる「薔薇族」が創刊されたのは71年のことでしたが、当時は男性同性愛者には「ブルーボーイ」とか「ゲイボーイ」とか「オカマ」といった蔑称しかなくて、そこに「ホモ」という〝英語〟っぽい新しい言葉が入ってきました。今では侮蔑語とされる「ホモ」も、当時はまだそういうスティグマ(汚名)を塗り付けられていない中立的な言葉として歓迎されていました。

70年代と言えばニューヨークで「ストーンウォールの暴動」が起きてまだ間もないころでした。もちろんそんなことが起きたなんてことも日本人の私はまったく知りませんでした。なにしろ報道などされなかったのですから。もっともニューヨークですら、ストーンウォールの騒ぎがあったことがニュースになったのは1週間も後になってからです。それくらい「ホモ」たちのことなんかどうでもよかった。なぜなら、彼らはすべて性的倒錯者、異常な例外者だったのですから。

ちなみに私が「ストーンウォール」のことを知ったのは80年代後半のことです。すでに私は新聞記者をしていました。新聞社にはどの社にも「資料室」というのがあって、それこそ明治時代からの膨大な新聞記事の切り抜きが台紙に貼られ、分野別、年代別にびっしりと引き出しにしまわれ保存されていました。その後90年代に入ってそれらはどんどんコンピュータに取り込まれて検索もあっという間にできるようになったのですが、もちろんその資料室にもストーンウォールもゲイの人権運動の記録も皆無でした。

そのころ、アメリカのゲイたちはエイズとの勇敢な死闘を続けていました。インターネットもない時代です。その情報すら日本語で紹介されるときにはホモフォビアにひどく歪められ薄汚く書き換えられていました。私はどうにかアメリカのゲイたちの真剣でひたむきな生への渇望をそのまま忠実に日本のゲイたちにも知らせたいと思っていました。

私がアメリカではこうだ、欧州では、先進国ではこうだ、と書くのは日本との比較をして日本はひどい、日本は遅れている、日本はダメだ、と単に自虐的に強調したいからではありません。日本で苦しんでいる人、虐げられている人に、この世には違う世界がある、捨てたもんじゃない、と知らせたいからです。17歳の私はそれで生き延びたからです。

17歳のとき、祖父母のボディガード兼通訳でアメリカとカナダを旅行しました。旅程も最後になり、バンクーバーのホテルからひとり夕方散歩に出かけたときです。ホテルを出たところで男女数人が、5〜6人でしたでしょうか、何かプラカードを持ってビラを配っていたのです。プラカードには「ゲイ・リベレーション・フロント(ゲイ解放戦線)」と書いてありました。手渡されたビラには──高校2年生の私には書いてある英語のすべてを理解することはできませんでした。

私はドキドキしていました。なにせ、生身のゲイたちを見るのはそれが生まれて初めてでしたから。いえ、ゲイバーの「ゲイボーイ」は見たことがあったし、その旅行にはご丁寧にロサンゼルスでの女装ショーも組み込まれていました。でも、普通の路上で、普通の格好をした、普通の人で、しかも「自由」のために戦っているらしきゲイを見るのは初めてだったのです。

私はその後、そのビラの数十行ほどの英語を辞書で徹底的に調べて何度も舐めるほど読みました。そのヘッドラインにはこう書かれてありました。

「Struggle to Live and Love」、生きて愛するための戦い。

私の知らなかったところで、頑張っている人たちのいる世界がある。それは素晴らしい希望でした。そのころ、6月という月がアメリカ大統領の祝福する「プライド月間」になろうとも想像だにしていませんでした。

オバマが今年もまた「LGBTプライド月間」の宣言を発表しました。それにはこうあります。

「自由と平等の理想を持続する現実に変えるために、レズビアンとゲイとバイセクシュアルとトランスジェンダーのアメリカ国民およびその同盟者たちはストーンウォールの客たちから米軍の兵士たちまで、その歴史の次の偉大な章を懸命に書き続けてきた」「LGBTの平等への支持はそれを理解する世代によって拡大中だ。キング牧師の言葉のように『どこかの場所での不正義は、すべての場所での正義にとって脅威』なのだ」。この全文は日本語訳されて米大使館のサイトにも掲載されるはずです。

この世は、捨てるにはもったいない。今月はアメリカの同性婚に連邦最高裁判所の一定の判断が出ます。今それは日本でもおおっぴらに大ニュースになるのです。思えばずいぶんと時間が必要でした。でも、それは確実にやってくるのです。

February 26, 2013

アメリカ詣で

オバマ大統領にとって5人目の日本の首相が就任後の挨拶回りにやってきました。訪米前から日本側はメディアの報道も含めてTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉への参加問題こそが今回の首脳会談の主要テーマとしていましたが、それは結局はTPP参加に進むと心に決めている安倍がいかにオバマから「聖域あり」との(参院選に向けた、自民党の大票田であるコメ農家の反対をなだめるための)言質を引き出すかといった、安倍側のみの事情であって、米国側にとってはとにかくそんなのは参加を決めてくれない限り主要問題にもなりはしない、といったところでした。

その証拠に、首脳会談の最初の議題は東アジアの安全保障問題だったのです。TPPはその後のランチョンでの話題でした。

東アジアの安全保障とはもちろん北朝鮮の核開発の問題であり、そのための日韓や日中関係の安定化のことです。とにかく財政逼迫のアメリカとしては東アジアで何か有事が発生するのは死活問題です。しかも米側メディアは安倍晋三のことを必ず「右翼の」という形容詞付きで記事にする。英エコノミストも「国家主義的な日本の政権はアジアで最も不要なもの」と新年早々にこき下ろしました。NYタイムズも「この11年で初めて軍事予算を増やす内閣」と警戒を触れ回ります。同紙は河野談話の見直しなど従軍慰安婦問題でも「またまた自国の歴史を否定しようとする」と批判しており、米国政府としても竹島や尖閣問題で安倍がどう中韓を刺激するのか気が気ではない。まずはそこを押さえる、というか釘を刺しておかないことには話が進まなかった。

会談では冒頭、オバマの質問に応える形で安倍がかなり安保や領有問題に関して持論を展開したようではありますが、中国との均衡関係も重視するアメリカは尖閣の領有権問題では踏み込んだ日本支持を表明しなかったのです。なぜなら中国は単に米国にとっての最大の貿易相手というだけでなく、北朝鮮を押さえ込むための戦略的パートナーであり、さらにはイランやシリアと行った遠い中東での外交戦略にも必要な連携相手なわけですから。ただ、この点に関しては安倍自身も夏の参院選が終わるまではタカのツメを極力隠すつもりですから、結果的にはそれはいまのところは米国の希望と合致した形になって、今回の首脳会談でも大きな齟齬は表に出はしなかった。しかしそれがいつまで続くのかは、わからないのです。安倍は、アメリカにはかなり危ないやつなのです。

読売などの報道では日本政府筋は概ねこの会談を「成功」と評価したようですが、ほんとうにそうなのでしょうか。アメリカにとっては単に「釘を刺す」という意味で会談した理由があった、という程度です。メディアも「警戒」記事がほとんどで成果などどこも書いていません。そもそもここまで慣例的になっているものを「成功」と言ったところでそれに大した意味はありません。もし今回の日本側の言う「成功」が何らかの意味を持つとしたら、それは唯一TPP交渉参加に関して「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ約束することを求められるものではない」という共同声明をギリギリになって発表できたということに尽きます。

しかしこの日本語はひどい。一回聞いてもわからないでしょう? 安倍や石原らが「翻訳調の悪文」として“改正”しようとしている憲法前文よりもはるかにひどい。「一方的に」「全ての」「あらかじめ」「約束」「求められる」と、条件が5つも付いて、「関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に全ての関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ求められるものではない」でもありません。その「約束」を「求められるものではない」という五重の外堀に守られて、誰も否定はしないような仕掛け。それを示された米側が、しょうがねえなあ、と苦笑する姿が目に見えるようです。

これは国際的には何の意味もありません。ただただ日本国内および自民党内のTPP反対派に示すためだけに安倍と官僚たちが捩じ込んだ作文です。現に米国の報道は日本での「成功」報道とはまったく違って冷めたものでした。基本的にほとんどのメディアが形式的にしか日米首脳内談に触れていませんが、NYタイムズはそんなネジくれまくった声明文を「たとえそうであっても、この貿易交渉のゴールは関税を撤廃する包括的な協定なのである(Even so, the goal of the trade talks is a comprehensive agreement that eliminates tariffs)」と明快です。もちろん自民党内の反対派だってこんな言葉の遊びでごまかされるほどアホじゃないでしょう。TPP参加は今後も安倍政権の火種になるはずです。

というか、アベノミクスにしてもそれを期待した円安にしても株高にしても、実体がまだわからないものに日本人は期待し過ぎじゃないんでしょうか。TPPでアメリカの心配する関税が撤廃されて日本の自動車がさらに売れるようになると日本側が言っても、日本車の輸入関税なんて米国ではたった2.5%。為替レートが2〜3円振れればすぐにどうでもよくなるほどの税率でしかありません。おまけに日本車の70%が米国内現地生産のアメリカ車です。関税なんかかかっていません。

それにしても日本の首相たちのアメリカ詣でというのは、どうしてこうも宗主国のご機嫌取りに伺う属国の指導者みたいなのでしょう。それを慣例的に大きく取り上げる日本の報道メディアも見苦しいですが、「右翼・国粋主義者」とされる安倍晋三ですら「オバマさんとはケミストリーが合った」とおもねるに至っては、ブルータスよ、お前もかってな感じでしょうか。

まあ、日本っていう国は戦後ずっと自国の国益をアメリカに追従することで自動的に得てきたわけで、それを世界のリジームが変わっても見て見ない振りしておなじ鉄路を行こうとしているわけです。そのうちに「追従(ついじゅう)」は「追従(ついしょう)」に限りなく近づいていっているわけですが。

こうなると安倍政権による平和憲法“改正”の最も有力な反対はまたまたアメリカ頼みということにもなりそう。やれやれ。

February 06, 2013

体罰という暴力

大阪・桜宮高校のバスケットボール部の主将が自殺して日本中での体罰蔓延がにわかに社会問題になっています。そこに女子柔道ナショナルチームの内部告発問題までもが持ち上がりました。

暴力監督・指導体制を告発した選手らの声は4カ月以上も封殺されていました。全日本柔道連盟も日本五輪委員会も、体罰問題から飛び火した自分たちのニュースに仰天してやっと動き出す堕落ぶりです。その前には五輪金メダリストが教え子柔道部員の女子大生をレイプした裁判、その前には大相撲の稽古名目の虐待、日本の体育界には暴力が横行しています。

一見無関係に見えますが、AKB48のメンバーが“禁止”されている男性との交際が発覚して頭をトラ刈りにしてビデオ謝罪する、という“事件”も起きました。これも髪を切るという体罰的な自傷行為が、なんらかの解決や決着に結びつくという美化された切腹文化が改めて確認・補強された形です。体育界といい芸能界といい、日本社会にいまも存在するプレモダンに関しては、前にも相撲界の八百長問題にからめて「近代と現代のガチンコ」というコラムに書きました。

体罰と言うとわからなくなります。体罰の本質は罰という力です。肉体的な力で相手を屈服させ、こちらの思うように行動させる。体罰肯定とはつまり私たちは、教育上の肉体的・物理的な力の行使は、時と場合によっては有効だと思っている、ということです。でも本当にそうなのでしょうか?

場合分けしなくてはなりません。1つは、本人がそれをしたい、上手くなりたい、向上したい、と思っているときの体罰です。いま1つは本人がそれをしたくない、サボりたい、と思っているときの体罰です。

前者はスポーツが好例です。勉強だって本来はそうだ。この場合は成果が上がらないからと言って体罰を振るうヒマがあったらもっと技術を、もっと情報を教えてもらいたいわけで、体罰など論外であることはすぐにわかります。にもかかわらず全日本女子柔道の監督は体罰を選んだ。肉体だけではなく精神的にも力を行使して、大人の選手たちの人格否定にまで踏み込んだ。

冷静に考えればそれが何の意味もない暴力であることは明らかです。世界の一流スポーツ界ではいま科学的・論理的な指導法しか採用されない。それには指導陣自身の弛まぬ勉強と努力が必要です。対してスポ根マンガ的精神論を説く体罰主義者は、単にそうした最新情報を勉強せず根性でどうにかできると妄信するバカな怠け者でしかない。罰を受けるべきはどちらなのでしょうか。

一方で後者は、やりたくない勉強、やりたくない活動をさせるための体罰です。これは難しい。

じつはいまから30年前、80年代前半に愛知県で「戸塚ヨットスクール事件」というのが起きました。児童・青少年向けのヨットスクールで参加していた青少年の死亡が相次ぎ、これは不登校などの情緒障害を抱える参加者に対する苛酷な暴行による“指導”が原因だったとして、校長の戸塚宏らコーチ陣15人全員が有罪になりました。

この時も日本中で体罰の是非が議論となりました。しかし結局、世間一般では「愛があれば体罰も時と場合によっては必要だ」というようななんとも情緒的な清算しか行われず、私たちはいまのいままで体罰に対する曖昧な態度に片をつけることもせずになんとなくやり過ごしてきたのです。そうするうちに戸塚宏は2006年に刑期満期で出所し、ヨットスクールを再開して、その直後から現在に至るまで同スクールはまたも1人の溺死者、3人の飛び降り自殺者を出している。そしていま全国の学校で、報道を契機にした今更ながらの体罰が「出遅れるな」とばかりに続々と名乗り出され、体罰による不登校や転校という、まさに本末転倒の事態が明らかになっている。

そこまで極端ではなくとも、たとえば「理性と知性を身につける前の子供の躾は動物の調教と同じでムチが必要なのだ」という説には私たちもついつい頷いてしまったりするのです。

「子供を叱りつけるのさえも精神に対する威圧と暴力であり、体罰がダメなら叱るのもダメということになる」にもなるほどなと思ったり。「体罰をしない先生は体罰をする先生の存在があるからこそ慕われて教育的指導ができる。体罰教師とは実は持ちつ持たれつなのだ。体罰禁止はそのバランスが崩れて生徒は誰の指導も真剣に聞かなくなる」と言われれば、ふうむ、そうかもしれないと考え込む。私の中学にもやたらとビンタをする体育教師がいて、おまけにそういう輩が「生活指導主任」だったりして、そうじゃない先生たちの優しさが身にしみた記憶があります。あのコントラスト。

でも、もう一度言います。本当にそうなのでしょうか? 本当にそんな「愛」や「力」や「愛と力のコントラスト」は必要なのでしょうか?

これもまた、2つ前の「実名報道」に関するコラムで書いたようにその人の人生の生き方に関係してくるのかもしれません。

私はたとえ理性も知性もない子供にでも、最初の理性と知性を与えるためのやさしい言葉を尽くしたい。なぜなら「言葉じゃないんだよ」と言う人で、本当に言葉を尽くして考えたと思われる人には出会ったことがないからです。自分が体罰という暴力を振るったときに、カッとしてなどいなかったと言い切れるほどの自信もないからです。そしてさらに言えば、冷静に暴力を振るえるほど不気味な人間にもなりたくないからですし、「力」を担保にした「愛」などは語りたくないからです。

January 29, 2013

実名報道とは何か

日本では匿名報道とかボカシ報道が広がっています。読者・視聴者はそうして現場のナマの個人の証言や現実を知らずに済んでいます。アルジェリアの天然ガス施設の人質事件でも「実名にしなくとも」とか「遺族が可哀相」という反応が多くありました。

私は元新聞記者として実名報道こそが基本だと教わってきました。実名がわからないと取材元がわからない。取材できないと事実が確認できない。大袈裟な話をすれば、事実確認できない状態では権力が都合の悪い事実を隠蔽したり別の形に捏造する恐れがある。すべてはそこにつながるが故の、実名報道は報道の基本姿勢なのです。

しかし昨今の被害者報道を見ていると「実名」を錦の御旗にした遺族への一斉取材が目に余る。メディアスクラムというやつです。遺族や関係者だって心の整理がついていない時点での取材は、事実に迫るための手法とは確かに言い難いでしょう。

ただ、それを充分承知の上で、日本社会が「なにも実名にしなくとも」という情緒に流れるのには、なにか日本人の生き方に密接に関わっていることがあるからではないかと思っています。

苛酷な事件や事故で自分が死亡したとき、自分の死に様を報道してほしいかどうかはその人本人にしか決められないでしょうし、そのときの状況によっても違う。

それは人生の生き方、選び方なのでしょう。実際、苛酷で悲惨なドキュメンタリーや報道を好まない人もいるでしょうしその人はそういう現実になるべく心乱されない人生を送りたいのかもしれません。しかしそれでも誰かがその悲惨と苛酷とを憶えていなければならない。それも報道の役割の1つです。

記録されないものは歴史の中で存在しないままです。「存在しないままでいいんです」という人もいます。でも、その「存在しないままでいいと言う人たち」の存在も誰かが記録せねばならない。それは報道の大きな矛盾ですが、それも「書け」と私たちは教わってきました。なぜならそれは事実だからです。

「そんなことまで書くなんて」とか「遺族が可哀相」とか言っても、同時に「そこまで書かねばわからなかったこと」「別の遺族がよくぞ書いてくれたと思うこと」もあります。どちらも生き残った者たちの「勝手」です。私たちはその勝手から逃れられない。そのとき私たちは「勝手」を捨てて書く道を選ぶ。

それは、今の生存者たちだけではなく未来の生存者たちに向けての記録でもあるからです。スペイン戦争でのロバート・キャパの(撮ったとされる)あの『兵士の死』は、ベトナム戦争のエディ・アダムズのあの『サイゴンでの処刑』は、そういう一切の勝手な思いを超えて記録されいまそこにあります。それは現実として提示されている。

匿名でいいんじゃないか、遺族が悲しむじゃないか、その思いはわかります。実際、処刑されるあのベトコン兵士に疑われた男性の遺族は、あの写真を見たらきっと泣き叫ぶ。卒倒する。でも同時に、もしあの写真がなかったら、あの記事がなかったらわからなかった現実がある。反戦のうねりも違っていたでしょう。

解釈も感想も人それぞれに違う。そんなとき私たちは読み手の「勝手」を考えないように教えられた。それはジャーナリストとしての、伝え手としての「勝手」にもつながるからです。そうではなく、書く、写す、伝える、ように。なぜならそれは「勝手」以前の事実・現実だからだと教わったのです。そして読者を信じよ、と。

「読者を信じよ」の前にはもちろん、読者に信じられるような「書き手」であることが大前提なのですが。

日揮の犠牲者については、報道側もべつに「今すぐに」と急ぐべきではないと思います。こういう事態は遺族や企業の仲間の方々にも時間が必要です。今は十全に対応できないのは当然です。むしろ報道側には、ゆっくりじっくりと事実を記録・検証する丁寧さが必要とされている。1カ月後、半年後、10年後も。

大学生のときに教えていた塾の教材でだったか、ずいぶんと昔に目にした、(死者は数ではない、だから)「太郎が死んだと言え/花子が死んだと言え」という詩句がいまも忘れられません。誰の、何という詩だったんだろう──そうツイッターでつぶやいたら、ある方が川崎洋さんの『存在』という詩だと教えてくれました。

「存在」  川崎 洋

「魚」と言うな
シビレエイと言えブリと言え
「樹木」と言うな
樫の木と言え橡(とち)の木と言え
「鳥」と言うな
百舌鳥(もず)と言え頬白(ほおじろ)と言え
「花」と言うな
すずらんと言え鬼ゆりと言え

さらでだに

「二人死亡」と言うな
太郎と花子が死んだ と言え

January 09, 2013

2013年を日本で迎えて

久しぶりに日本で新年を迎えました。帰国するとその間の日本社会のちょっとした変化に気づいたりします。今回はテレビ画面の右下に小さく現れる「CM上の演出です」というテロップでした。1つはキムタクが出ている宝くじのCMで、彼が手筒花火をぶっ放しているものです。もう1つは乗用車が迷路を疾駆している車のCM。ほかにもありました。で「CM上の演出です」と来る。これって前からありましたっけ? 今回初めて気づいたんですが。

以前から「これは個人の感想です」とやるカンキローやコージュンやセサみんやクロズやなんかのインフォマーシャルはありました。が、今度は「これはCM上の演出です」って、いくらなんでもそんな言わずもがなのことを、わざわざ断らなければならない事情はいったいなぜなんでしょう。そもそも演出のないCMなど存在しないって、常識ではないのでしょうか?

こういうテロップはすべて視聴者からの苦情に対する予防措置なんですね。「こんなことを真似して事故を起こしたらどうする?」。なので前もって警告しておく、あるいは断り書きをしておく。でも健全な社会には「こんなことは安易に真似しない」というもう1つの予防教育があるはずです。あるいは「これは演出だ」と判断できる常識的な知力も。

日本はクレイマー社会だという説もあります。しかしこうした断りはもともとは米国のテレビで始まりました。「これはPaid Advertisementです」からそのつもりで見てください、という。苦情はアメリカ社会のほうがずっと厳しく多い。モンスターペアレンツだってきっとアメリカの方が手強い。

でも何が違うかと考えると、アメリカ社会は苦情にも簡単に謝らない。毅然と対処(あるいは理不尽なほどにも反論)する。対して日本社会は謝罪するんですね。謝罪することがあらかじめ当然のように期待されている。身分制度の名残が売り手と顧客の関係にも影響しているのしょうか? 日本語の「客」は確かに「カスタマー」や「ゲスト」やはてさて「神様」までをも取り込んだ強力な概念ですし。

でも、そうやって何か悪いことが起こらないようにと事前警戒ばかりして予防線を張り巡らす社会というのは、みんなとても窮屈でヘマをしないようにおどおどビクビクしている社会に見えてしまいます。さらにそれが何かの際に、人々を発作的な激高に煽ってしまうような、そんな悪循環。

かくして日本では普通のニュース映像でも通行人の顔や事件現場の背景のことごとくにボカシが入って、万が一のプライバシー上の苦情にも万全の予防措置を講じています。事故を目撃した人の証言までその人の足しかテレビには映っていない。もちろん背景には例の個人情報保護法みたいなものがあるのですが、それは見ていてあまりにパラノイア的ですらあります。

私がニューヨークに来て最初に気づいたことの1つは、地下鉄の駅に時刻表がないという事実でした。さらにはちゃんとしたアナウンスもなく勝手に駅を飛ばしたりルートを変更したりする。でも利用者たちはそれでも平然としてるし、そのうちに私も「ああ人間社会ってこんなもんなんだ」と思うようになってきました。あるいは近所のスーパーやファストフード店でも客あしらいがとんでもなくぞんざいで、あるいは商品だっていい加減で、トマトだってブドウだって下の方がつぶれていたり腐っていたり、まあ、そんなことに腹を立ててもしょうがない。自分でどうにかするしかない。だいたい、ニコニコと平身低頭な店員や時刻表通りに運行される列車なんて、世界中で日本くらいにしか存在しないんだと妙に得心している次第です。

ただしアメリカだってもちろんテロ警戒は空港に行くたびに物凄いですし、重要施設の入館チェックも神経質すぎると感じるほど厳重です。ただ、社会全体としては事前警戒と事後対処の覚悟のバランスが取れている。何がおかしいかって、「携帯電話は他の人に迷惑です」と言っていながら東京の地下鉄では現在、携帯の電波が走行中でも通じるようにどんどん工事が進んでいるんですよ。ま、データ通信やテキスティングのためでしょうけど。

「何か悪いことが起きないように」という心配や警告はいまやだれもが気づいているように「悪いことが起きてもこちらの責任が回避できるように」という言い訳になっています。リスク管理上それらも必要なことではあるでしょう。ただし、いくら事前警告していてもそれでも何か悪いことは起きるものです。その場合に「だから言っていたでしょう」という言い訳は責任回避のなにがしかを担うかもしれませんが、問題の解決には何の役にも立ちません。

リスク管理の成否とはむしろ、問題が起きたその際にどう毅然と対処できるか、ということに掛かっていると思います。予防教育と常識の強化ではなく事前警戒の責任回避のみに執心している社会は、肝心の時の対処に必ず抜かりを生じるのではないかと、新年早々、日本社会を見ていてとても心配なのです。

ちなみにこれは「個人の感想です」。

December 27, 2012

LGBT票が決めたオバマ再選

オバマ再選はすっかり昔のニュースになってしまいましたが、2012年の総括として、LGBT票が彼の再選に果たした役割についてはここに記しておいたほうがよいでしょう。

アメリカでは今回の選挙では、出口調査によれば全投票者中ほぼ5%が自らをLGBTと公言しました。今回は1億2千万人ほどが投票しましたから、5%というのは600万票に相当します。これが激戦州で実に雄弁にモノを言ったのです。

オバマは選挙人数では332人vs206人とロムニーに大勝しましたが、実際の得票数では6171万票vs5850万票と、わずか321万票差でした。つまり2.675%ポイント差という辛勝だったのです。

UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)法科大学院ウィリアムズ研究所のゲーリー・ゲイツ博士とギャロップの共同調査によると、オバマとロムニーはストレートの投票者数ではほぼ拮抗していました。しかも、選挙を決めた最重要州のオハイオとフロリダの両州では、実はロムニーの方がストレート票では勝っていたのです。

ちょっと数字が並んで面倒くさいけれど、最後まで読んでください。オバマに勝利をもたらしたのがLGBTの票だったということがわかりますから。

もともと民主党(オバマの党)はゲイ票やアフリカ系、ラテン系、アジア系米国人の票、さらにユダヤ系の票にも強い党です。それぞれはそう大きくはないグループですが、これらマイノリティ層を全部合わせると全有権者の3分の1を占めます。対して共和党は残り3分の2の層で優位に立たねば選挙に勝てません。ここで支持者層の核を形成するのはキリスト教福音派と呼ばれる白人の宗教保守派層です。この人たちは全有権者数の4分の1を占めます。

ラテン系、アジア系の人口比率はここ最近拡大しています。これは移民の増加によるものです。同時に、ゲイだと公言する有権者も増えています。ギャロップの出口調査によると、65歳以上ではLGBTを公言する投票者は1.9%に過ぎませんでしたが、30歳から49歳の層ではこれが3.2%に上昇し、18歳から29歳層ではなんと6.4%に倍増します。もちろん年齢によって性的指向に偏りがあるはずもありませんから、これはもっぱらカムアウトの比率の違いなのでしょう。そしてそのLGBT層がニューヨークやロサンゼルスといった大都市部を越えて、いま激戦州と呼ばれるオハイオやフロリダなど複数の州でも拡大しているというのです。

共和党はヒスパニックやアジア系の票を掘り起こそうとしていますが、さて、ゲイ票はどうだったのか?

出口調査ではゲイと公言する有権者の76%がオバマに投票していたことがわかりました。対してロムニーに投じた人は22%でした(投票先を答えなかった人もいます)。ストレート票はオバマvsロムニーでともに約49%とほぼ同率だったのに、です。つまり、オバマに投票したLGBTの有権者は600万票のうちの76%=474万人、対してロムニーには22%=120万人。その差は354万票になります。

思い出してください。これは、全得票数差の321万票を上回る差です。つまり、ストレート票だけではオバマは負けていたのに、このLGBT354万票の差で逆転した、という理屈になるのです。

じつは共和党の内部にも「ログキャビン・リパブリカンズ」というゲイのグループがあります。ゲイの人権問題以上に、共和党のアジェンダである「小さな政府」主義に賛同して共和党支持に回っている人がほとんどなのですが、その事務局長を務めるR・クラーク・クーパーは「反LGBT、反移民、反女性権といった社会問題に関する不協和音の大きさに共和党はいま多くの票を失っている」と分析しています。

実際、同性婚に関してはすでに全米規模で賛成・支持が過半数を超えて多数派になりました。共和党支持者ではまだ同性婚反対に回る人が多いですが、それでも今年5月のオバマによる同性婚支持発言に対して、共和党の指導的な政治家たちはそろって静かでした。以前ならば声高に非難していたところなのに、有権者の支持を得られないとわかってその問題に反対するよりもその話題を避けるようにしたのです。とてもわかりやすい時代の変化でした。クーパー事務局長も「それが時代の進むべき方向なのだと(共和党の)議員たちもわかってきている」と話しています。「もっとも、それを公式に表明することはしないだろうが」

翻って日本の総選挙です。同性婚どころかLGBTの人権問題の基本事項すら国政の表舞台ではなかなか登場してきません。得票数では前回の民主党の政権交代が実現した選挙よりも減らしているくせに議席獲得数では大勝した今回の自民党は、ある選挙前アンケート調査ではLGBTの人権問題に関しては「考えなくともよい」「反対」とこたえたそうですね。

LGBT票は日本でも世界の他の国と等しい割合で存在しています。つまりそれが政治の行方を変える力は、いまこの時点でも日本に潜在しているということなのです。それがいつ顕在化するのか、そしてどういうふうな政党に何を託す形で姿を現すのか、長い目で見なくてはならないかもしれませんが、私はそれが少し楽しみでもあります。

December 15, 2012

男性主義の政治という遺物

明日は自民党が290議席、あるいは300議席をも窺うという勢いだそうです。もっとも、どこに投票するかわからないと答える人も全体で40%以上、女性だけだと50%以上もいるようで、民意は単純に「自民復権」を望んでいるわけではないような気もします。

というのも、「わからない」人たちは今回はむしろ、浮動層というよりは「民主党には裏切られたが、かといって自民党には投票したくない」と逡巡している層を多く含むと疑われるからです。その未回答層が結果的にどこに投票するのか、その動向はこれまでの選挙世論調査の常識とは違うような気がしないでもありません。まあ、でも実際は「自民党対それ以外」という選挙動向上の仕組みでは、多党乱立の「反自民勢力」は票が分散して不利になってしまうのでしょうが。

でもいったい今回の総選挙はどういう選挙なのか、少し考えてみてもよいかと思います。3.11後初めてとなるこの選挙を、ある人は「生命vs経済」の戦い、「善悪vs損得」の戦いだと呼びます。でも大方の関心事は原発問題よりも経済・景気のことで、すでに首相気分の安倍・自民党総裁は日銀法改正、金融緩和、公共事業と大風呂敷を広げています。

原発も重大、景気も重要、善悪も損得もともに大切なことです。だからどこに入れてよいかわからない、という人が多いのでしょう。でもその中で、目を付けるべき何かが欠けている。いま日本にいてこの選挙戦を目の当たりにしながら、私はずうっと日本の政治と言論とに奇妙な違和感を感じています。その根が何なのか、安倍晋三や石原慎太郎や橋下徹らキーパーソンの言葉を聞いていてなんとなくわかってきたような気がします。

この3人は簡単に言えば男性至上主義者です。男性主義というのは父権主義のことです。停滞する政治への不信を募らせる民衆が強い指導者像を求めて父権政治にあこがれを抱く、というのは「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」の社会です。

欧米はこの「父権」を超克あるいは脱構築しながら現代社会を形成してきました。その過程では「父権」だけでなく「男性性」そのものも超克されてきました。それは50年代からの黒人解放で「白人」が、60年代からの女性解放で「男性」が、70年代からの同性愛者解放で「異性愛者」が解体されてきた歴史に裏打ちされます。オバマvsロムニー、ウォール街占拠運動vsティーパーティー運動は一方でそういう戦いでもあったのです。

ところが日本ではこうしたイケイケどんどんの「男性主義政治」に対するアンチがそう明示されません。そもそもそれが父権政治=強権政治=国粋主義であるという批評が存在せず、逆にイケイケどんどんが「強いリーダーシップ」という美辞にすり替えられてしまうのです。その状況下で安倍は国防軍を強調し、石原は徴兵や核武装を唱え、橋下は仮想敵を量産してはそれらを叩き潰して見せることでヒーローを気取る。ナチスに関する総括もできていない、なんと雄々しい「男」たちでしょうか。

そういえば自民党の憲法改正草案は「基本的人権」以上に「公益及び公の秩序」を強調し、国民を「市民 citizen」であるよりも「臣民 subject」であるかのように描いています。自民党に投票しようという人たちは、しかしそれを望んでいるわけではないでしょう。そうじゃなくて単に民主党より前の方がよかった、という印象で投票しようとしているのかもしれません。いや、態度を決めかねている40%を鑑みれば、自民党圧勝の読みの背景の支持者の数字は、前回の選挙で自民党に入れた人たちとそう変わっていない。そうすると、民意はどこにあるのか? ほんとうに「300議席」という単純な議席数に置き換えて測ってはいけないのではないか、という気がするのです。

「生命vs経済」「善悪vs損得」の二者択一ならばどちらを取るか決断しかねます。両方とも大切だからです。がしかし、他者を「対象 subject」としか捉えない雄々しい男性主義か、それに対抗する反・男性主義か、となれば私の選択は明らかです。なぜなら国家の機能不全は、すでにジョン・ウェイン的な人物の解決できる次元を越えているからです。

バットマンもジェイムズ・ボンドも悩み傷つき涙を見せる時代です。どうしてその事実に気づかないのか? 気づきたくないのでしょうか? 勇ましい方がかっこいいしスッキリもする。そう、男性主義的な政治は日本国内だけを見ていれば一時的には有効かもしれません。しかしそれは国際的には必ず破綻するのです。尖閣をめぐる安倍や石原の発言が現実の政治の上ではまったく無効なばかりか有害ですらあったように。女性たちの50%以上が投票先を決めかねている現実は、いまも続くそんな日本の男性主義の胡散臭さに気づき始めたからではないかと願うのです。

拳を振り上げるとき、人は自分に陶酔しています。けれどそれを振り下ろすとき、後悔はすでに始まっています。それに気づかないのは、ずっと陶酔していられる人間だけです。なのに拳を振り上げる人が、それを振り下ろす人が絶えない。それは、後悔しても、人間は陶酔感に高揚することのほうが好きだからなのかもしれません。その高揚に、人間は後先を忘れるようにできているからなのかもしれません。

アホです。

November 14, 2012

自由か平等か

今回の大統領選挙で驚いたのは各種世論調査の正確さでした。NYタイムズのネイト・シルバーの「全州正解」には唖然としましたが、それも各社世論調査に数多くの要素を加味した数理モデルが基でした。ただ、それが可能だったのもオバマ民主党とロムニー共和党の主張の差が歴然としていたからでしょう。

大きな政府vs小さな政府、中間層vs富裕層、コミュニティvs企業、リベラルvs宗教保守、共生vs自律と種々の対立軸がありましたが、日本人に欠けがちな視点はこれが平等vs自由の戦いでもあったということです。

「自由と平等」は日本では今ひとつ意味が曖昧なままなんとなく心地よりスローガンとして口にされますが、アメリカではこの2つは往々にしてとても明確な対立項目です。この場合の自由は「政府という大きな権力からの自由」であり、平等は「権力の調整力を通しての平等」です。つまり概ね、前者が現在の共和党、そして後者が民主党の標榜するものです。

宗教の自由も経済の自由も小さな政府もすべてこの「自由」に収斂されます。アメリカでは自由はリベラルではなく保守思想なのです。何度も書いてきていますが、なぜならこの国は単純化すれば英国政府や英国教会の権力を逃れてきた人々が作った国であり、そこでは連邦政府よりも先にまずは開拓者としての自分たちの自助努力があり、協力のための教会があり、町があり、そして州があった。州というのは自分たちの認める最小の「邦 state」でした。それ以上に大きな連邦政府は、後から調整役として渋々作ったものでした。

アメリカが選挙のたびに真っ二つになるのもこの「古き良きアメリカ」を求める者たちと、そうじゃない新たなアメリカを求める者たちの対立が明らかになるからです。その意味でオバマの再選は、旧来の企業家たちにIT関連の若く新しい世代が多く混入してきたこと、それによりアメリカの資本構造が資本思想、経営思想とともに変わってきたこと、それによって成立する経済・産業構造とその構成員が多様化していること、などを反映した、逆戻りしないアメリカの変身を感じるものでした。オバマへの投票は言わば、元々の自由競争と自助努力の社会に、それだけではない何かを付加しないと社会はダメになるという決意だったように思えるのです。

翻って日本はどうでしょう? 新自由主義のむやみな適用で傷ついた日本社会に、民主党はこの「オバマ型」の平等社会を標榜したマニフェストを打ち立てて政権を奪取しました。けれどその際に「官僚から政治を取り戻す」とした小沢一郎はほとんど「いちゃもんレベル」の嫌疑で被告人とされ、前原ら党内からもマスメディアからもほとんど個人的怨恨のごとき執拗さで袋叩きに遭って政権中央から追われました。いまの野田政権は結局はマニフェスト路線とことごとくほとんど逆のことをやって民主党消滅の道を邁進しています。

野田は結局、民主党つぶしの遠謀深慮のために官僚機構が送り込んでいた「草」だったようにしか思えません。マニフェスト路線にあることは何一つやらず、ことごとくが「かつての民主党」雲散霧消のための道筋を突き進んだだけという、あまりにもあからさまな最後の刺客。日本に帰ってきたとたん年内解散、総選挙と言われても、これでは「平等」路線は選択肢上から消えてしまい、対する「自由」路線も日本型ではどういう意味かさえ曖昧で、そんな中で選挙をして、どこに、誰に投票するか、いったいどのように決められるのでしょう? そうして再び自然回帰だけを頼りにして自由民主党ですか?

指摘しておきますが、自民党はかつては「総合感冒薬」みたいに頭痛鼻水くしゃみ悪寒どんな症状にも対処する各種成分(派閥)が多々入っていましたが、いまはそうではありません。たとえば宏池会というのがありました。ここはかつて“優秀”だったとされる時代の官僚出身者たちを中心に穏健保守の平和主義者たちが集まる派閥で、経済にもめっぽう強かった、それがいまや二派に分裂して下野以降に外れクジをあてがわれた谷垣前総裁の派閥に成り果てる体たらく。時代は多様性なのにそれと逆行して、自民党はどんどんわかりやすく叫びやすい右翼路線に流れました。総合感冒薬から、いまは中国との戦争や核武装まで軽々に口にする安倍晋三が総裁の、威勢の良いだけのエネルギードリンクみたいなものです。何に効くのかもよくわからないまま昔のラベルで売り出してはいるのですが、中身が違っていて経済をどうするかの選択肢すら書いていないのです。

そこにメディアが煽る「第三極」です。それが男性至上主義ファシズムの石原慎太郎や橋下徹が中心だと聞くと、対立軸もヘッタクレもありゃあしません。ひょっとしたら野田も前原も民主党解党後にそそくさとこちらに鞍替えして何食わぬ顔をして連合政権にしがみつこうとしているのでしょうか。日本のメディアは、マニフェストを作った本来の民主党として本来の対立軸の「平等」路線を示し得た小沢一郎の「国民の生活が第一」を徹底して無視して、いったいこの国の何をどうしたいのでしょうか? それは言論機関としても支離滅裂にしか映らないのです。

November 05, 2012

スーパーストーム・サンディ

スーパーストームと呼ばれたサンディの被害でマンハッタンは大混乱だと日本のニュースでも大きく報じられていましたが、本当にひどい被災はじつはあまり日本では報道されていないスタッテン島やブルックリンを含むロングアイランドの海岸部、さらにはサンディが上陸で直撃したお隣ニュージャージーの沿岸部でした。こちらのニュースでも報道の中心はまずはマンハッタンだったのですが、いまはほとんどがニュージャージーやスタッテン島の被災に重点が移っています。

スタッテン島をスタート地点とするニューヨーク・マラソンが中止になったのも宜なるかな。日本人の私たちには尋常ではないところにある車やボート、ゴッソリとえぐられたり流されたりしている家並みは3・11を彷彿させて身につまされるものがあります。

あの時の東北もそうでしたが、最も大切なのはまずは必要物資や救援活動の情報でした。なのに停電のためにそれを必要とする人たちにこそ肝心の情報が伝わらない。

でも少なくともマンハッタンではiPhoneなどのスマートフォンを利用して、停電地区でもネット経由で復旧情報をいち早く知ることができていたようです。あちこちで善意の無料充電スポットが出来ていたのは新しい光景でした。日本人同士でも懸命に日本語で地下鉄やバスの運行状況やトンネルや橋の通行止め情報、電気の復旧の見通しなどをツイッターで共有していました。

そんな中、遅ればせながらミッドタウンの日本領事館も29日夜になってツイッターを始め、サンディ関連の「緊急情報」を流すというので大いに期待したのです。

ところがどうでしょう。とんと何もつぶやかない。最初の「緊急情報」は「緊急対策本部を立ち上げ」たという前日の領事館の対応の紹介。その後も具体的情報にはほとんど何も触れずに一次情報の英語のリンク先を紹介するだけ。橋や地下鉄の開通状況や電力復旧状況を流すのも遅いったらありゃしない。

そのツイッターは結局2日時点で終了していて「つぶやき」の数は5日間でたったの計17回。900人以上の人がフォローしているのに、きっとほとんど何の役にも立たなかったと思います。まさかいちいち稟議書を上げて何をつぶやいていいかダメかの上司決済を取っていたんじゃないでしょうね。こういう「お役所仕事」は、責任のある人が自分の責任ですぐに情報発信できるような仕組みにしないと何の役にも立たない。減点主義ではなく、得点主義で運営すべきなのです。それがなかなか出来ないのが日本型組織の、ひいては日本社会の弱点なんでしょうね。

ちなみに日本領事館のツイッターのアカウント名は「JapanCons_NY」。まるで商品評価の「Pros & Cons」の「Cons=ダメなところ」みたいな名前。おまけに「Cons」というのは「ペテン師たち con artists」とか「犯罪者たち convicts」とかいう意味でもあって、さらに動詞だと解釈すれば「日本がニューヨークをペテンに掛ける(con の三人称単数形)」ってな意味にもなってしまって……まったく、これは偽アカウントかと思ってしまうほどのセンスの無さでした。

さてそれでもやっと電気も地下鉄も復旧してきて、マンハッタンはこれで一安心と思っていたらいまさっき友人から電話があって「何言ってんのよ、うちのアパートは大変な孤立状態なのよ!」って……ああ、そういえばあのぶらぶらクレーンがまだ解決していないのでした。

彼女の住む高層アパートは56丁目。まさにあのクレーン宙づりのビル(57丁目)から短い方の1ブロックで、倒れたらビルを直撃するのでビル北側の住民全員が強制避難。撤去作業に4〜6週間かかるといわれるのですが工程の精査で作業は始まってさえいないそうです。おまけに今週半ばにはまた別の嵐がニューヨークを襲うともいわれているではありませんか。

カーネギーホールを含め周辺丸ごと封鎖状態の現場は、下を走る地下鉄も落下直撃の恐れで不通のまま。しかも落下したら地下に埋設のガスとか電気とかのインフラが直撃され、それがすべて基幹の本管であるためにマンハッタン中がブラックアウトする恐れもあるのだそう。「あたしのこと忘れないでよ!」と彼女に怒られたのも、じつにもっともなことです。

May 08, 2012

緊急避難としての原発

5月5日、日本国内にある原子力発電所がすべて稼働を停止しました。マスメディアの一分には「全電源の3割が失われる異常事態」「今夏の電力需給逼迫が懸念される」とするものもありますし、民主党の仙石由人はこれを「集団自殺」とまで形容しました。

原子力発電はあんなことでも起きない限りおそらく十分に安全なものなのでしょう。だから「即時脱原発は短絡的な考え方」という意見も多い。日経は社説で「電力供給への不安」で「企業は国内の設備投資をためらわざるを得」ず「原発停止の穴を埋める石油や天然ガスの調達増加」で「年間2兆円を超える国富が余分に海外へ流出」「電力料金の上昇」など「景気や雇用に影響が及」ぶ、と心配しています。

でも本当に短絡的なのでしょうか?

原発の是非に関する議論には昔から奇妙なねじれがあります。反対派はかねてから使用済み核燃料再処理などでの長期的な非採算性や環境汚染を問題視しています。反原発運動の最初期にはいずれ勃発するかもしれない第三次世界大戦ではまず最初に原発が狙われるから危険だ、という深謀遠慮までありました。戦争のみならず、もちろん地震や自然災害の心配もありました。そこに実際に福島東電事故が起きて、私たちはかつての「杞憂」どおりにごく長期的に国土の一部を失い、事故終息までの費用も国家予算の数倍も掛かることを知ったのです。

これら長期的かつ広範・多次元な損害を考慮してのかねてよりの脱原発論を、原発推進・容認派は「短絡」と呼び、「今夏を乗り切る」「電力不足は待ったなし」と短期決戦を煽る人々を「長期的経済戦略上重要な考え方」と讃えるのです。なんだか逆だと思いませんか?

私もじつは今夏の電力不足が心配です。節電に律儀なお年寄りたちが昨夏は冷房を遠慮して多く亡くなるという痛ましいことも起きました。計画停電で経営が行き詰まった中小企業も少なくなかったでしょう。なので緊急避難的なバックアップとしての一時的な原発再稼働はむしろ準備しておくべきだと思います。

しかし、そのためには長期的で確固たる脱原発の道筋が担保されていなくてはならない。

ところが聞こえてくる原発再稼働の訴えは「喫緊の電力不足」を人質にした、その実、単に今後も長期的に原発を稼働させたいという経済的な利得主義が見え隠れする浅薄な主張にしか聞こえないのです。「とにかくこの夏だ」と言っている間にいつしか「先の話はまたいずれ」ということになっている、みたいな。

原発の特異性は、原発事故に保険がかかっていないことにも明らかです。そんな愚かな保険会社は存在しません。なのでその部分の保険はすべて免責なのです。しかも原発はいまや建設費高騰や投資遅延で手をつけたくない産業になりつつあります。原発が世界の第一次エネルギーに占める割合は5%に過ぎず、しかもそれも減り続けている。時代遅れの技術になりつつあるのです。

一方で再生可能エネルギーは、世界自然エネルギー白書によれば風力エネルギーだけでもあと3年で原発の総設備容量(3億7000万kW)を超えるそうです。原発とはむしろ人類の技術史的に見ても、石油エネルギーから自然エネルギーに至るまでの暫定的な、一時しのぎの緊急避難だったと位置づけられるべきなのではないか? もちろん一時しのぎにしてはこれまでに莫大なおカネを注ぎ込んできたし、利権構造まで育ち上がった巨大な産業体になってしまったのですが。そしてその産業構造の維持こそが、じつは原発再稼働の目的であるように見えるのです。そこにあるのは原発に依存したエネルギー戦略の維持と発展でしかありません。

私は、原発再稼働派の人たちからこそ長期的な視点を持ったエネルギー戦略を聞いて説得されたい。でも残念ながら、聞こえてくるのは短絡的で近視眼的な話をいつまでも積み重ねて行く結果としての展望ばかりで、問題を解決しようという営みがどこで目に見えて来るのか、これもまた「先の話はまたいずれ」ということにしか見えないのです。

そもそも野田佳彦は「次の世代に借金を残してはいけない」というもっともらしい論理でもって消費増税を必要不可欠なものと位置づけています。これをエネルギー行政に転換すれば同じく「次の世代に課題を残してはいけない」と言って当然なのに、その2つの考え方の齟齬は気づかないのか気づいても無視するしか能がないのか、下手くそな比喩を考えては気が利いていると誤解している暇があったらまっすぐに自分の矛盾に比喩なしで向き合うべきなのです。

それにしてもこの原発再稼働、自民党なら強行してただろうことを野田政権はやらなかった。それが変革の熱意、民意の勝利のせいではなく、たんに行政能力の欠如のせいだというのが情けない話です。さらに言えば、消費増税もTPPも共謀罪復活も秘密保全法も、その阻止が彼らの能力の欠如、機能不全頼みだというのがもっと情けないのではありますが。

April 28, 2012

ガラパゴスのいじめっ子たち

昨夏以来、米国では10代の少年少女たちの相次ぐいじめ自殺が社会問題化しています。米国では毎年、1300万人の子供たちが学校やオンラインや携帯電話や通学のスクールバスや放課後の街でいじめに遭っています。300万人がいじめによって毎月学校を休み、28万人の中学生が実際にけがをしています。しかしいじめの現場に居合わせていても教員の1/4はそれを問題はないと見過ごしてしまっていて、その場で割って入る先生は4%しかいません。

米国のこの統計の中には日本の統計には現れてこない要素も分析されます。いじめ相手を罵倒するときに最もよく使われる言葉が「Geek(おたく)」「Weirdo(変人)」そして「Homo(ホモ)」や「Fag(オカマ)」「Lesbo(レズ)」です。そのいじめの対象が実際にゲイなのかトランスジェンダーなのかはあまり関係ありません。性指向や性自認が確実な年齢とは限らないのですから。問題は、いじめる側がそういう言葉でいじめる対象を括っているということです。また最近はゲイやレズビアンのカップルの下で育つ子供たちも多く、その子たちが親のせいでいじめられることも少なくありません。LGBT問題をきちんと意識した、具体的な事例に対処した処方がいま社会運動として始まっています。

ところで日本のいじめ議論でいつも唖然とするのが「いじめられる側にも問題があるのでそれを解決する努力をすべきだ」という意見が散見されることです。この論理で行けば、だから「ゲイはダメだ」「同性婚は問題が多い」という結論に短絡します。「あいつはムカつく。ムカつかせるあいつが悪い。いじめられて当然だ」と言う論理には、ムカつく自らの病理に関する自覚はすっぽりと抜け落ちているのです。

問題はいじめる側にあるという第一の大前提が、どういう経緯かあっさりと忘れ去られてすり替えられてしまうのはなぜなのでしょう。先進国で趨勢な論理が日本ではなぜか共有されていないのです。

先日もこんなことがありました。あるレズビアンのカップルが東京ディズニーリゾートで同性カップルの結婚式が可能かどうかという問い合わせを行いました。なぜなら本家本元の米国ディズニーでは施設内のホテルなどで同性婚の挙式も認めているからです。ところが東京ディズニーの回答は同性カップルでも挙式はできるが「一方が男性に見える格好で、もう一方が女性に見える格好でないと結婚式ができない」というものでした。

これだとたとえば男同士だと片方がウェディングドレスを着なくちゃいけなくなります。それもすごい規定ですが、ディズニーの本場アメリカではディズニーの施設はすべてLGBTフレンドリーであることを知っていた件のカップル、ほんとうにそうなのかもう一度確認してほしいと要望したところ、案の定、後日、「社内での認識が不完全だったこともあり、間違ったご案内をしてしまいました」というお詫びが返ってきました。「お客様のご希望のご衣装、ウェディングドレス同士で結婚式を挙げていただけます。ディズニー・ロイヤルドリームウェディング、ホテル・ミラコスタ、ディズニー・アンバサダーホテルで、いずれのプランでも、ウェディングドレス同士タキシード同士で承ることができます」との再回答だったそうです。

米国ディズニーの方針に対して「社内での認識が不完全だった」。しかし今回はそうやって同性婚に関する欧米基準に日本のディズニー社員も気がつくことができた。しかし、ではいじめに関してはどうか? 他者=自分と異なるものに対する子供たちの無知な偏見が、彼らの意識下でLGBT的なものに向かうという事実は共有されているのでしょうか? どうして欧米では同性婚を認めようとする人たちが増えているのか、その背景は気づかれているのでしょうか? 議論を徹底する欧米の人たちのことです、生半可な反同性愛の言辞はグーの音も出ないほどに反駁されてしまうという予測さえ気づかれていないのかもしれません。

大統領選挙を11月に控え、米国では民主党支持者の64%が同性婚を支持しています。中間層独立系の支持者でも54%が支持、一般に保守派とされる共和党支持者ではそれが39%に減りますが、それでも10人に4人です。この数字と歴史の流れを理解していなければ、それは米国のいじめっ子たちと同じガラパゴスのレベルだと言ったら言い過ぎでしょうか。

April 16, 2012

無私の精神

救急車がサイレンを鳴らして緊急走行をしているのに渋谷駅前のスクランブル交差点で横断者が一向に歩みを止めず、救急車が立ち往生するというビデオがYouTubeに投稿されて話題になっています。

友人たちに「どうして日本ではこういうことが起こるのか?」と訊かれて答えに窮しました。投稿ビデオには、救急隊員が「道を開けてください」と車内からスピーカーで叫んでいるのにも関わらず、無表情に交差点を渡り続ける大量の人の群れが映っています。ぞっとする光景です。

ニューヨークならどうなるか考えてみると、まずはだれかが必ず「ストップ、ストップ!」と大声を出しますよね。後方に控える大量の人の群れにも届くように。そうすると連鎖反応でその人の後ろの人もみんなで手を広げて後ろのひとを止めると思います。米国では公共の場で声を出して他の人に訴えるのは日常茶飯事ですから。

でも東京では滅多にそんなことは起こりません。東京の街角では大声を出しているのは右翼の街宣車か変な人と相場が決まっています。公共の場ではみんな人間をやめてしゃべらぬ芋に変身しするからです。そうじゃなきゃあのラッシュアワーの通勤電車の中、あんなに隣の人とくっつき合えない。隣の存在が個人の名前を持つ生々しい人間だと思ったらとてもじゃないけどウザいでしょう。芋だと思うからこそ芋洗い状態も我慢できるわけです。

そういえばアメリカではバスから見える通りの名前や地下鉄の駅名は、数字の丁目の名称以外は多くが人の名前です。公の場でも「個人」がどんどん登場します。マンハッタンの東を走る高速道路FDRはフランクリン・D・ルーズベルトですし、ダウンタウンを東西に横切るハウストン・ストリートは独立戦争時の大陸会議代議員だったウィリアム・ハウストンの名前から付けられました。ビレッジやトライベッカ地区などニューヨークのダウンタウンの通りはほとんどが歴史上の人物名ですし、有名なマディソン・アベニューも第4代大統領のジェイムズ・マディソンの名前です。

対して日本では、通りや橋に人の名前が付いていることはまれですよね。武士は戦場で名乗ってから戦いましたが、それ以外は周囲との調和のためか、「個」はほとんど前面には出てこない。出る杭は打たれる、というか、「我も我も」ははしたない生き方とされてきました。そのうちに個人を顕彰して善行を讃え奨励することもなんとなくなくなってきた。

でもそれはもともとは自己顕示欲を諌めたものであって、だから自分は隠れていて何をしないでもよい、というのとは違ったはずです。「私」を押し殺すのは「公」に尽くすためであり、私心や恥ずかしさなどを捨てて善行をなすことこそが「無私の精神」の顕われでした。小林秀雄も「実行するとは意識を殺す事である事を、はっきり知った実行家」こそが、数少なく貴重な「無私」の人物であると言っています。行動は、文化の東西を問わず重要不可欠なことなのです。

それがいまは「私」を守るために鉄の鎧で自分を被い、ひたすら「公」に対しても見て見ない振りをする。自分がその場にいない振りをする。「個」を捨て「私」を隠し、自分が存在し無いフリをして「公」も知らんぷり。それは「無私」ではなくて無視の精神だ、などとオヤジギャグみたいな駄洒落で済む話ではないのです。

都会化の流れと無縁ではないのでしょうが、いったい日本はいつからそんなふうになったんでしょうね。伝統曲解のそんな冷たい態度がいまの日本を席巻しているのかもしれません。

April 15, 2012

バベルの日本

2月の帰米の飛行機の中で、メジャーの貧乏球団オークランド・アスレチックスがいかにしてプレーオフ常連チームになったかを描いた「マネーボール」という映画を見ました。日本語の吹き替え版で、最後近くで主演のブラッド・ピットが「野球にはやっぱりロマンがあるな」と呟く場面があります。なかなか泣かせる場面なのですが、こちらに戻ってから、はてさてあれはところで、どういう意味だったのだろうと気になってきました。

「野球にはロマンがある」──ロマンという言葉を聞くと私たちはついつい条件反射のように深くうなづいてしまうけれど、でもいったいどういう意味なんだ? 「夢」「憧れ」? おまけに「男のロマン」とは言うが「女のロマン」とはなかなか言わないと来ると余計わからなくなる。そもそも「男のロマン」ってのも何なんでしょう?

で、帰宅してからちゃんとした英語版をチェックしてみました。原語は「How can you not be romantic about baseball?」でした。なるほど、これならわかります。「野球を観てるとロマンティックな気分にならずにはいられない」。つまり「甘く優しく切ない気持ちになる」──これ、「野球にはロマンがあるな」とビミョーに違ってますよね。まあ、字幕や吹き替えは字数の問題もあるので誤訳とは言いません。むしろ日本語としては「してやったり!」という“名訳”かもしれません。

ここで問題にしたいのはしかし翻訳のことではありません。日本語で「ロマン」と聞くとわかったような気になるけれども、実は何も伝わってないんじゃないか。言葉の響きで納得したつもりでいるけれど、その実私たちは日ごろ、物事をきちんと言葉で考えることをしなくなっているのではないかということです。

そんな思いを強めたのは3月11日の震災1周年の時でした。日本のテレビは「つながろう」「心を1つに」という言葉で溢れていました。「絆」というのもそうです。でも、「心を1つにつながる」って、何でしょう? 「一緒だよ、絆だよ」と念仏でも唱えてろってことでしょうか?

折しも日本はさっぱり進まぬ瓦礫の処理問題や放射能汚染食物など、とても複雑な思考を要する問題で揺れています。そしてここにも人気タレントが「食べて応援!」と心地よいコピーを連呼していました。「本当に大丈夫なの?」はほったらかしにして。

思えばそういうのは確かにテレビCMの手法です。日本のCMは商品の具体的な性能や効能に触れずに漠然と心地よいイメージを喧伝することで価値以上の価値を生み出してきました。そこには本当に「違いのわかる男」はインスタントなど飲まないという事実も「オール電化」がとんでもない話だったという事実もなんとなく触れられず仕舞いで済んできた。かくしていまも日本では、論理的な説明もなく効くのかどうかまるで怪しい養毛剤や、老優が歌をうたいながら散歩するクスリでもない錠剤のCMでいっぱいです。

「絆」という言葉で、私たちはなんとなくわかった気分になって事足らしてはいないか? そんなとき、そんな日本語を英語に訳してみると正体が分かるときがあります。「絆」の持つニュアンスは英語では伝えられません。「ロマン」も英語になりません。英語にするとその言葉の周辺にある漠然とした装飾のようなものが取れて、なんとも情けない単語にしかならないのです。「つながろう」と「Get Connected」でも具体的な行動のイメージが違います。英語ではお題目ではなくなる感じがします。話は違うけど「ふれあい」って言葉もわけがわからんなあ。まあ、アメリカだって9.11の後のおかしなスローガン・ブームはありましたがね。そっか、CMコピーとスローガンは注意しなくちゃってことですな。

そういえばあと、日本の政治家の演説や挨拶もこんなに英語にしにくいものはありません。論理と具体に欠けて、むしろ言質を与えないように故意に曖昧な麗句を並べている感さえします。言葉は意味を伝えるためではなくむしろ真の意味を伝えないために機能している。

神話のバベルの塔は失敗します。私たちは、東北は、日本は、失敗するわけにはいかないのです。(うむ、私のこの文章もスローガンぽくなってきた……)

March 26, 2012

メディア化する会社

こちらで「LAW&ORDER」や「CSI」などのテレビドラマを見ていると本当にのめり込んでしまって仕事がはかどりません。日本でなぜこういう優れた番組が作れないのか役者の友人に聞いたら、日本では資金を管理するプロデューサーがほとんどそのテレビ局の人で、ドラマの制作現場におカネがあまり落ちてこないからじゃないかと言っていました。

おカネがないから優秀な才能が集まらない。だから出来上がったものがつまらない。それはテレビに限らずどこの業界でも同じ理屈に思えます。もちろんおカネがなくとも頭角を現す才能はいつの時代にも存在します。しかしどうしておカネがないのか?

「みんなテレビ局の社員の給料になっちゃってるからじゃないの?」と友人が続けます。「いまでこそ社内監査が厳しいけど、それでもプロデューサーって給料の他に接待だ何だってぼくらから見たら夢みたいなおカネを使えてる。ぼくらもそれにお相伴させてもらってるんだけどね」

日本の中央の、いわゆる大手マスコミ社員というのはかなりの給料をもらいます。テレビ局に限らず大手の出版社、広告会社の社員も30代で年収1千万円以上も珍しくありません。

対して米国のメディアでそんな給料をもらえている人はあまりいません。もちろん名前を出して仕事をするワン&オンリーの人たちは日本とは比べ物にならない報酬を得ていますが、テレビ局や出版社の社員はあくまでメディア=仲介役に徹して薄給で働いています。「オレはマスコミだ」と肩で風など切れません。

それでたとえば作家は本の売上の25%とか30%の印税をもらえます。アマゾンで電子書籍を売れば65%前後が手許に入ってきます。でも日本は単行本で10%。文庫本だと5%前後しか払ってもらえません。日本の電子書籍はフォーマットとおカネの取り分で揉めていてまださっぱり形になっていません。かくして出版社の社員の方が作家先生たちよりもずっとお金持ちという倒錯した現象が起きている。

テレビや演劇や音楽の世界も同じでしょう。アメリカではコンテンツとその提供者は別物です。発送電分離じゃないけれど、プロデューサーは独立していて、集めてきたおカネはメディアの社員の給料を支払うためには使われない。自ずからプロダクション内の、作家や作曲家、役者やスタッフなど作り手の現場に落ちるようになっています。もちろん下働きもものすごく多いですが、作り手は作り手として独立して産業を形作っている。メディアとは一線を画しているわけです。

ことはメディア業界だけじゃありません。世界経済の金融資本化と同じく、銀行だけでなく多くの企業もメディア化して現業やモノ作りの現場から離れていき、現場を支配しています。実際にモノを作っている外部の人々の労働を安く買い叩き、その分で浮いた利益を会社内部の人間だけの互助会・互恵会的な運営に回す仕組みを作っているのです。

会社に入った方が(楽じゃないにしても)カネになるのなら、バカらしくてモノ作りなどやってられません。「そのために苦労して大企業に入ったんです。そういう社員たちだけの特権的な互恵組織の機能を持っていても、べつにそう悪いことではないでしょう」と言う人もいるでしょう。でも組織というものは「互助機能を持つ」とよほど律していないとその互助機能こそを自己目的化してしまうものなのです。そうして閉鎖サーキットの中で自らを喰い潰すことになる。会社はそうやってダメになっていきます。会社だけじゃなくやがてはその社会も、その国も。

日本経済の停滞、日本企業の低迷、官僚組織の怠慢と政界の混迷、それらはすべて中間メディアが肥大するだけの、そんなおカネの回り具合のまずさで起きているような気がします。しかもそのおカネを、メディアのいずれもが既得権として絶対に手放そうとしない。

かくして日本のテレビでは下手な脚本のドラマと芸人が浮かれるだけの低予算番組が隆盛なのでしょう。なんともチャンネルを変えたくなるような話です。

January 10, 2012

新年に考えること

子供のころはおとなになったらわかると言われつづけてきましたが、おとなになってわかったことは、おとなになってもいろんな答えがわかるわけではないということでした。にもかかわらず、疑問の数は以前より確実に多くなっているような気さえします。

昨年末からずっと考えているのは民主主義のことです。アラブの春も、99%の占拠運動のアメリカの秋も、根は民主主義に関わることです。でもそこに1つ大きな誤解があります。それは、民主主義になれば自分の思っていることがきっと実現するという誤解です。

民主主義は、何かを実現するにはおそらく最も非効率的な制度だと思います。なぜなら、民主主義とは、何かをやるためではなく、何かをやらせないための制度だからです。

それは「牽制」の政体です。「抑制」の政体と言ってもいい。様々な歴史がある個人や集団の暴走で傷ついてきました。そのうちに傷つけられてきた「みんな」こそが歴史の主役なのだという考え方が広がってきました。そこでそのみんなで、付託した「権力」の独善や独断や独裁や独走を許さない仕組みを作っていった。それが民主制度でした。

ところが民主制度になると、何かを実行するにもいちいち特定の集団の利益や不利益に結びつかないかとかみんな(=議会)で検証しなくてはなりません。ものすごく面倒くさいし時間もかってまどろっこしいことこの上ない。
 
「アラブの春」で指導者を放逐した「みんな」は、これから民主的な政体ができると期待しているのでしょうが、心配はなにせそういうシチ面倒くさい仕組みですから、直ちに現れない変化に業を煮やしてまたぞろ過激な原理主義思想が台頭してくることです。

アラブに限ったことではありません。イギリスやイタリアでの若者たちの暴動も、ウォール街占拠運動も、世界はいま、急激に変質する経済や社会の動きに対応し切れていないこの民主制度の回りくどさに、辟易し始めているのではないか?

冒頭に、疑問は多くなる一方なのに答えはわからないままだと書きました。世の中は情報や物流や金融が世界規模でつながることでとても複雑になってきています。ギリシャの債務が日本のどこか片田舎の農家の借金に関係してくる。いままで「風が吹けば桶屋が儲かる」噺を笑い話にしていましたが、いまやそれは冗談ではなくなっているのです。なのにその論理の飛躍をより緻密な論理で埋めつつ理解する能力を、人間はいまだ持ち得ていない。これからだって持てる理由もありません。それは私たちの処理能力を越えているようにさえ思えます。

そんなときに「風」と「桶屋」との間を快刀乱麻で切り捨てる人物が魅力的に見えてきます。先の大阪市長選挙での橋下徹市長の誕生は、きっとそうした「みんな」のもどかしさを背景にしています。暴れん坊将軍や水戸黄門といっしょです。しち面倒くさい手間を省いて1時間で悪者を退治してくれるのです。そして「みんな」は、世直しなんぞにあまり努力する必要もなく楽に暮らせるわけです。

めでたしめでたし? いえ、この話はところがここでは終わりません。なぜなら、フセインもカダフィもムバラクもサーレハもみな当初は暴れん坊将軍や黄門様と同じくみんなの英雄として登場してきたからです。しかし権力は堕落する。絶対的な権力は絶対的に堕落します。独占的な権力は独占的に堕落し、阿呆な権力は阿呆なくらいに堕落する。そうして「切り捨てられる」余計として、また「みんな」が虐げられるのです。

民主主義の中から登場したものたちが、その民主主義を切り捨てるような手法でしか政治を断行できないと判断するようになる。それは自己否定であり自己矛盾です。これは民主主義の、いったいどういう皮肉でしょうか? その答えを、私はずっと考えています。

December 24, 2011

捏造された戦争のあとで

先日の野田首相の東電福島第1「冷温停止状態」宣言を聞いていて、なにかどこかで同じ気分になったことがあるなあと思ったら、ジョージ・W・ブッシュが2003年、イラク開戦50日ほどで空母リンカーンの上に降り立って行った「任務完了(Mission Accomplished)」の演説でした。これからの問題が山積しているのに任務が達成されたなんて、バカじゃないかってみんな唖然としたものです。そして彼はその後、史上最低の大統領の1人に数えられるようになりました。

ブッシュのその任務完了宣言から8年有余経った12月14日、オバマ大統領が米軍の完全撤退をやっと発表しました。クリスマスの11日前でした。

クリスマスというのは家族が集まる1年の〆の大イベントです。このタイミングでの発表は、実際にクリスマスに帰国できるかは別にしてとても象徴的なことです。その後ろにはもちろん今年11月の大統領選挙のことがあります。共和党の候補指名争いの乱戦というか混乱というか、ほんとくだらないエキセントリズムの応酬のあいだに、オバマは着々と失地を回復しているようにも見えます。失業率は若干ながら改善し、議会では給与減税法案の延長を拒んだ下院共和党に怒りの演説をしてみせて翌日には明らかに渋面の共和党の下院議長ベイナーから妥協を引き出しました。イラク撤退もオバマの成果になるでしょう。戦争の終わり方は難しい。とくにブッシュの始めた「勝利」のない戦争を終わらせることは、尚更です。

たしかに今も米兵が反政府派の攻撃にさらされているアフガニスタンに比べると、イラクはまだマシに見えます。しかし撤退後は米軍というタガがはずれて治安は悪化するでしょう。事実、12月22日には早くもバグダッドで連続爆弾テロがあり60人以上が死亡しました。政権が空中分解する恐れもまだ色濃く残っているのです。

さまざまな意味で、イラク戦争は新しい戦争でした。そもそも発端が誤った大量破壊兵器情報による「予防的先制攻撃」でした。ブッシュ政権は同時に9.11テロとイラクの関連付けも命じていました。イラク戦争はつまり捏造された戦争だったのです。

他にも、戦争の末端で多く民間の軍事請負企業が協力していることも明らかになりました。ブラックウォーターという軍事警備会社が公的な軍隊のように振る舞い、実際米軍とともに作戦を遂行していました。さらにはその途中の2007年9月17日、バグダッド市民に対する無差別17人射殺事件まで起こしたのです。ブラックウォーターはこの年、悪名をぬぐい去るかのように社名を“Xe”(ズィー)に変更、さらには今月には名称を"Academi"(アカデミー)というさらに何の変哲もないものに再変更して、すでに新たに国務省やCIAと2億5000万ドルの業務請負契約を結んでいるのです。

一方で、ウィキリークスが公開した、ロイターのカメラマンら2人を含む12人の死者を出した2007年の米軍ヘリによるイラク民間人銃撃事件は衝撃的でした。ウィキリークスには米陸軍上等兵のブラッドリー・マニングの数十万点に及ぶ米外交文書漏洩もあり、これも従来なかった戦争への異議の形でした。

マニングはいま軍法会議にかけられ、終身刑か死刑の判決を下されようとしています。米軍の検察側の言い分は「ウィキリークスに重要情報を漏洩したことでアルカイダ側がそれを知ることになった。従ってこれは敵を利する裏切り行為だ」というものです。それはすべての戦争ジャーナリズムを犯罪行為に陥れる可能性を持つ論理です。どんな隠された情報も、公開することで敵に知れるわけですから。そこに良心の内部告発者は存在しようがありません。国家が間違いを犯していると信じたとき、私たちはそれをどう止めることができるのでしょうか?

大手メディアは一様に米国側の死者が約4500人、イラク側の死者は10万人と報じていますが、英国の医療誌Lancetは実際のイラク市民の死者は60万人を超えるだろうと記しています。実際の死者数は永遠に誰にも明らかになることはないでしょうが、米国側の公式推定である10万人という数字ではないと私は思っています。

そしていま米軍が撤退しても、例の民間の軍事請負業者はだいたい16000人もまだイラクに残るそうです。戦争の民営化から、戦後処理の民営化です。こうしてイラクの管轄は米軍から米国務省(外務省に相当)に移ります。バグダッドの米国大使館は世界最大の大使館なのです。そんな中、“戦後復興”に向けてすでに多くの欧米投資銀行関係者がイラクを訪れていることを英フィナンシャル・タイムズが報道していました。将来的に金の生る木になるだろう国家再建事業と石油取引の契約に先鞭を付けたいのです。

イラクはまだ解決していません。お隣イランでは核開発疑惑でイスラエルや米軍がまた予防的に施設攻撃をするのではないかと懸念されています。そしてアジアでは金正日死亡に伴う北朝鮮の体制移譲。そのすべてが米国の大統領選挙の動向とも結びついてきます。

2012年はあまり容易ではない年になりそうです。

December 05, 2011

沖縄を「犯す」

7週間ほどどっぷり日本に浸かってきました。おかげさまで私の翻訳したブロードウェイ・ミュージカル「ロック・オブ・エイジズ」は西川貴教さん、川平慈英さんほかキャスト・バンド・スタッフのみなさんの奮闘で東京、大阪、北九州と無事に公演を終えることができました。よかったよかった。

またいろいろと美味しいものも食べてきましたが、ところで本日の話題はまた沖縄の話です。

日本にいて楽なのは、なんとなくふうわりと過ごすことができるところです。換言すればすべてを言わずとも通じるところ。逆に居心地の悪さもまた、すべてを言わないから論理が通じないところです。そしてその意味の通じなさ/おかしさを言論メディアまでもが黙過しているので、居心地の悪さはいつかイライラに嵩じてしまう。

今回もそんなことがありました。沖縄防衛局長が米軍普天間飛行場の辺野古移設に関する環境影響評価書の遅れについて「(女性を)犯す前に犯すとは言わない」という比喩を使って更迭されました。そのことに関するメディアの論調がどうも表面的で片手落ちだったのです(ちなみに、「片手落ち」は片手のない人への揶揄とは関係ない語源を持つ言葉ですからね)。

確かに「犯す前に犯すとは言わない」とは、こりゃ非道い言い方です。女性の人権無視も甚だしい。野田さんも「女性や沖縄の方々を傷つけ不愉快な思いをさせ申し訳ない」と謝罪しましたから、更迭の理由はその表現方法なんでしょう。

でも、それはとてもおかしな理由付けです。

環境アセスは、これが出たら一応下調べも済んだということで次に工事へと進みます。つまり「工事」を「やる」という宣言にもなります。防衛局長はこの「工事」を「犯る」と言い換えた。問題の核心はここです。

つまり辺野古移設は沖縄を「犯す」=蹂躙する行為だと彼は(図らずも?)示唆した。それは沖縄県民の過半数が思っていることでもあります。だから辺野古移設も反対だし、米軍基地という「犯す」主体が丸ごといなくなってほしいとも願っています。

もしこれが当の沖縄県民の発言だったら、自虐的ではあるがそれ以外に表現しようのない事として問題にはならなかったでしょう。それは発言者の「当事者性」というものです。

ならば防衛局長は沖縄県民の代弁者として「本当の事」を言ったのか? 本当の事だが政府は違う立場に立っている。発言はそれに反する。だから更迭したのだ──この場合は沖縄の代弁者たるこの局長の更迭に、沖縄県民は怒って然るべき、という見方も出てきます。

一方で、逆にこの沖縄防衛局長の人柄がとんでもないという場合もありましょう。本当に女性蔑視の男性至上主義者なのかもしれません。同じような発言の前歴もあるイヤな奴で、だから報道メディアもオフレコ発言とはいえ横紙破りを承知の上で今回ついに問題にしたのかもしれない。

それを指摘しつつ、では実際にこのオフレコ発言を最初に記事にした琉球新報の編集局長談話を見てみましょう。彼は掲載理由をこう記します。「人権感覚を著しく欠く発言であり、今の政府の沖縄に対する施策の在り方を象徴する内容でもある」。なるほど、私が前段で指摘したような、あまり踏み込んだ見方も説明もしていません。新聞メディアとしてはまあそこまで触れる必要もないでしょうし。しかし明らかに、局長はここで問題は2つあると併記しています。「人権感覚を著しく欠く発言」とそれに象徴される「今の政府の沖縄に対する施策の在り方」。

そう、2つです。でも、政府謝罪にはその後者がすっぽりと抜け落ちている。「女性や沖縄の方々を傷つけ不愉快な思いをさせ」たという野田さんの謝罪は前者に対するものだけであり、むしろより重く本質的な後者=沖縄施策の非人間性、から視線を逸らさせる詭弁なのです。政府はまさに、また黙って気づかれないように沖縄を「犯そう」としているのです。

そういえば以前も同じようなことがありましたね。「福島=死の町」発言。これも「福島の人に不快感を与えた」から辞任。以前にもこのブログで指摘しましたが、問題の核心は福島が実際に死の町であるという事実です。言葉尻の問題ではない。

自民党時代も民主党政権になってからも、政治家と官僚がこういう表面的な言い換えで問題の本質をごまかすのは変わっていません。次は4年間上げないと言っていた消費税の引き上げを、どういう理由でごまかすのかを見ているとよいでしょう。

September 29, 2011

野田演説を書いたのはだれだ?

野田さんの首相としての外交デビューとなった今回の国連ニューヨーク訪問は、私の知る限り欧米メディアは一行もその中身を詳報しませんでした。原子力安全サミットでのスピーチも国連総会での演説も無視。かろうじて野田オバマ会談の内容がAPやAFP電などで型通りに伝えられただけです。

というのも、世界が注目している東電の原子力発電所事故の問題はすでに国会の所信表明などですでに伝えられていた内容だったし、冷温停止を年内に(2週間分だけだけど)前倒しするというのもこれにあわせたかのように細野原発相が直前に話していてすでにニュースではなかったからです。

それでも国連での第一声は震災支援への感謝と東電・福島第一原発事故の謝罪から始まりました。低姿勢なのは国会の所信表明と同じで、話し振りも真面目な人柄を表しているようでした。でも、震災から原発、金融危機回避の協調から、南スーダン国連PKOへの協力、中東やアフリカへの援助や円借款と種々多様なことを網羅して終わってみると、はて、何が言いたかったのか中心テーマが思い起こせない。

これは何なんでしょうか? 問題全般に配慮が行き届き、そつなくすべてに触れておく。どこからも文句の出ようのない及第点の演説テキスト。でも逆に、これだとすべての論点が相対化してしまって、主張も個性も埋没してしまう。なんだか「これもやりました、あれにも触れておきました」みたいな、学生の宿題発表みたいな印象だったのです。

総会演説は特にパレスチナの国家承認を訴えるアッバス議長、それに反対するイスラエルのネタニヤフ首相というアクの強い演説に挟まれて、さらには直後のブータンの仏教的幸福論にも高尚さと穏健さで負けて、これではニュースにしたのが日本からの随行記者たちだけというのも宜なるかな。まるでわざと、あまりニュースにならないように、目立たないように、と仕組んだみたいな演説構成だったのですから。

それを疑ったのが原発問題です。先に訪米した前原さんともども野田さんは「原子力発電の安全性を世界最高水準に高める」として、それを免罪符のように外国への原子力技術の協力や原発輸出を継続する考えもさりげなく表明したのです。でもこれって、欧米メディアで取り上げられていたら批判もかなり予想される発言じゃないですか?

考えても見てください。チェルノブイリ直後のゴルバチョフがそんなことを言っていたら世界はどう反応していたでしょう? 日本国内でだって、立派なはずのどっかの一流料亭が食中毒を起こして、それでも「これを教訓に安全面での最高水準を目指し、ご期待に沿うべく明日からすぐに弁当を売ります」などと言えますか?

だいたい日本の原発ってこれまでだって「世界最高水準の安全性」だったはず。にも関わらずこんな重篤な事故になり、だからこそ原発は危ないという話なのです。野田さんは「現在の放射性物質の放出量はいま事故直後の400万分の1」とさも自慢気でしたが、これだって事故後の放出が1週間で77万テラベクレル(テラは1兆)と天文学的ひどさなのに、それがたかだか400万分の1に減ったからと言って何の意味があるのか。おまけに累積残存放射性物質の問題はまるで片付いていないのですよ。

するってえと、野田演説は、誠実なのは話し振りだけで、肝心なところで実はチラチラとごまかしが仕込まれていたってことになります。しかも問題を指摘されそうな部分はみんな「演説全部をきちんと読んでもらえれば、それだけじゃないことも書いてある」「あくまで安全が徹底された上での話だ」という逃げができるように仕掛けられていました。こんな巧妙な、言質を取られないようにどうとでも読めるような、つまりはとても官僚的な演説を、いったい誰が考えたんでしょうね。

そうしたらこないだの毎日新聞、「野田佳彦首相が就任直後、政権運営について (1) 余計なことは言わない、やらない (2) 派手なことをしない (3) 突出しない、の「三原則」を側近議員らに指示していたことが分かった」と報じていました。これ、まさにそのままこんかいの国連演説にも言えることです。ということは、官僚的ながら、ひょっとすると自分で書いたのかもしれませんね。いやそれにしてもよくでき過ぎています。政権運営についても、だれか知恵のある官僚のアドバイスでもあったんじゃないかと勘ぐりたくもなります。

つまりはこの政権は既定路線からはみだそうとしない、波風立てずに長続きするように、という、ときどき爆発したり突出したりして官僚たちが右往左往した菅さんのときとはまた別の形の、官僚主導政治ってことでしょうか。民主党の拠って立つ政治主導はいったいどこに消えたんでしょうね。そりゃ難しいだろうけどさ。

オバマさんが「I can do business with him」と言ったそうですが、これを「彼とは仕事ができる」と日本語に訳してもちょっと意味が曖昧です。「仕事」っていろいろありますけど、ビジネスというのは、取引、商売のことです。ジョブやワーク(何かを為すため、作り上げるために動くこと)ではない。それもアメリカの企図している事業のための取り引きであって日本の都合は関係ありません。そんなビジネス、取引、契約の相手としてノダはふさわしいというニュアンスが窺えるのです。

選挙を控えて国の内外で問題山積の大統領は、安全牌のはずの日本にまで煩わされたくはない(鳩山さんのときには安全牌だったはずの日本にずいぶんと振り回されましたからね)。野田さんはまさに「米国の仕事上、もう煩う心配のない相手だ」という意味なのでしょう。そういや普天間やTPPでも米国の意向に沿って「宿題を1つひとつ解決していく」と表明していましたっけ。やれやれ。


【追記】というようなことをざっと先日のTBSラジオのdigなんかで話したのですが、途中、国連総会での野田演説がどうしてあの順番になったのか、パレスチナとイスラエルに挟まれてそこでも埋没しちまったみたいで、あれも仕組んだのかなんて勘ぐっちゃいましたが、いやそんなことはありませんでした。国連代表部に電話して訊いたら、そうそう、順番の決め方、思い出しました。あれは王様や大統領なんかの国家元首が最初にずらっと演説をするのですね。それから次に首相クラス、次に外相クラス、となる。

で、アッバスさんはパレスチナの暫定自治政府の大統領ながら、まだ国家として承認されていないので、最初の元首カテゴリーの最後に位置することになった。

次に首相クラスが来ます。ところでその前に、各国から国連事務局に、自国の代表が演説したい時間枠(何日目の午前か午後、という選択)というのを3つ提出するそうです。帰国日程もありますからね。

で、日本は初日は大統領クラスで埋まるので最初からそこの枠は選択せずに、2日目の午前が第1希望、3日目の午前が第2希望、2日目の午後を第3希望として出していました。「午後」というのは、みんな演説が長くなるので深夜になっちゃったりして大変だから午前を優先させたということです。で、結果、3日目の午前、アッバス大統領の後の、首相クラスのトップとして登場した、というわけです。

というか、同じ枠にイスラエルも希望してたんですね。国連事務局はそこで考えた。「パレスチナとイスラエルは同じ問題を話すだろうが、近すぎても刺激的過ぎる。で、そこに同じ枠希望の日本とブータンとをバッファーとして挿入しようと。日本は律儀に真面目な演説をするし15分の持ち時間を大きく越えるような真似もしたことがない。さらにブータンは仏教的平和国家で、緩衝剤としてはうってつけではないか」とまあ、この注釈は私の推測ですが、まあそんなところじゃないかなあ。

おかげでアッバスさんのときには満員だった総会場は野田さんのところでトイレタイムになっちゃって4割くらいまで聴衆は減りました(国連の日本代表部は、国連デビューの野田さんに、この順番なので聴衆は退席するかもしれないけれど、はんぶんも入っているのはいい方なのです、とガッカリしないよう説明していたそうです)。CNNも野田演説の前にカメラをスタジオに切り替えてアッバス演説の分析と解説の時間に使いました。で、次に総会場が映ったのはイスラエルのネタニヤフさんの演説だった、というわけです。あの人、そんなに演説はうまくないんだが、相変わらずドスが利いてましたね。もっとも、パレスチナの国家承認国連加盟に強硬に反対するネタニヤフさんでしたが、最新の世論調査では、69%ものイスラエル国民が「イスラエル政府は国連による独立パレスチナ国家承認を受け入れるべきだ」としているのです。調査はまた、占領地区に住むパレスチナ人の83%がこの国家承認の努力を支持していることも明らかにしています。

潮目は変わってきているのです。

September 13, 2011

「死の町」

実際、政治部や政治記者クラブには現役の大臣や首相が気に食わないと言って「絶対に辞めさせてやる」と豪語する“猛者”がいつの時代にも存在します。「産経新聞が初めて下野なう」「民主党さんの思い通りにはさせないぜ」(あ、これは社会部選挙班だったか)とか言ってしまう勘違い土壌が昔から延々と続いているのです。

朝日新聞のサイト(9日18時16分)によれば、鉢呂経産相の「死の町」発言は9日午前の閣議後記者会見で出てきたもので、前後の文脈まで入れると「残念ながら周辺町村の市街地は人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった。私からももちろんだが、野田首相から『福島の再生なくして、日本の元気な再生はない』と。これを第一の柱に、野田内閣としてやっていくということを、至るところでお話をした。」ということだったそうです。

これがどういう失言なのか、私にはわかりません。

でもそんな「問題」発言をしたから、フジテレビがその前夜にオフレコの囲み取材で出た、放射能をうつしてやる、という旨の発言をも“暴露”して「ほらこんなやつなんです」と視聴者に知らしめた。【追記:そうしたら13日時点でフジテレビの記者、じつはその囲み取材の中にもいなかった、という話が出てきました。最初に報じたフジも伝聞でやっちゃったわけ? へっ? そりゃ、なんじゃらほい?】

毎日サイト(10日2時31分)の神保圭作、高橋直純、田中裕之の3記者連名記事によると、この「『不用意』では済まされない発言」で、コメントを求めたフクシマ関係者は一様に「怒りをあらわにし」「あきれた様子だった」とか。産経(10日11時37分)に至っては「人間失格だ」とまで言わせています。

ふむ、百歩譲って「死の町」と表現することが住民たちの愛郷心や帰郷の希望を傷つけたとしましょう。でもだれがどう取り繕おうともフクシマ原発の周囲が現在「死の町」である現実は変わりません。あの、牛舎につながれたまま餓死し、文字どおり骨と皮だけになって累々と畳み重なるように死んでいた牛たち。その責任は「死の町」と呼んだ人にはありません。死の町にしてしまった人にあります。それをまるで「王様は裸だ」と言ってはいけないと、言論の雄たる報道メディアが事実を糊塗してどうするのか。ストロンチウム90やセシウム137を「死の灰」と言ってきたのは、それがまさにそうだからであり、ここを「死の町」と言わなければ、再出発も再興もうつろなごまかしです。

そこを「死の町」にしたのは東電や原発政策です。それらはいまも抜本的な責任を取らずに処分もありません。あれだけの大事故なのに東電には警察の捜査も入っていないんです。報道が責めるべきはそちらでしょう。

おまけに例の「放射能うつす」は毎日の記者への発言とされるものでした。囲み取材でも聞いていない記者がほとんど【前段の追記参照】。なのにフジが報じるや他紙他局もみんな伝聞でこれを記事にした。結果、時事は「放射能つけちゃうぞ」、朝日は「放射能をつけたぞ」、産経は「放射能をうつしてやる」、読売なんか「ほら、放射能」。テレビも「放射能をうつすという趣旨の発言」と濁していました。【追記2:視察から帰ってきて服も着替えていないと愚痴った鉢呂に、どこかの記者の方から「じゃあ、放射能ついてるんじゃないですか」と言われて、それに応じる形で「じゃあつけてやろうか」とすり寄った、という情報まで流通しているそうです。なんともはや……。だから伝言ゲームはダメなのです】

報道記者は、裏の取れない情報は、それがいかに重大でも泣く泣く捨てねばならないのです。もし政治家が図太い嘘つきだったら、言った言わないの水掛け論に持ち込むでしょう。そのときに傷つくのは歴代築き上げてきた報道への信頼です。いや逆に、報道した記者が冒頭の政治記者のようなやつだったらどうするのか? ジャーナリズムは体制の転換にまで影響を及ぼせます。だからこそ事実に謙虚でなければならないのに、発言の趣旨の確認や裏取りの基本も捨てたこのメディアスクラムは唖然以外の何物でもない。

鉢呂さんは原発慎重派でした。震災後には福島の学校を回ってクーラーをつける手配をしたり子供たちの年間被曝線量を20ミリシーベルトから1ミリに下げるのに尽力しました。大臣就任後はエネルギー審議会に原発慎重派を入れるべきと発言したり、将来の原発ゼロにも言及しました。

こんなに簡単に謝って辞任してしまう人が自説を貫いて官僚や原発推進派と渡り合えたかどうかはおぼつかないですが、日本の政治の機能不全の一因は、いまの政治報道にもあるのは確かでしょう。だいたい、毎日が「『不用意』では済まされない発言」と書いていたあの記事(産経もほとんど同じトーンです)、あれ、書き方が、典型的な作文記事の書き方なのです。筆が主観に走ってる走ってる。質問とその答えのコメントも誘導尋問のにおいがプンプンする。読んでいると、その浅ましさがわかっちゃうんですよね。よい記事は、ああは下品じゃないのです。

September 04, 2011

どぜう総理

すでに旧聞ですが海江田さんの演説はホントに下手クソでした。「修羅場をくぐって悔しい思いをした私だからできることがある」って言っておきながらそれが何かはパス。テレビからもはっきり「アガって頭の中真っ白」がわかりました。演説でその人の度量の幾ばくかがわかるのだとしたら、こんな人にはだれも投票したくないというレベルでした。

にしても、ドジョウってのもどうなんでしょうか。野田さんの演説も生い立ちだとか昔の話ばかり。とても日本的というか情緒的というか、この期に及んでコレかよという思いを禁じ得ませんでした。だいたい相田みつを的なもので政治を語るなんて、海外配信した外国人記者たちはどう翻訳したんでしょう。
 
いや、数多のファンがいらっしゃる相田センセをここで批判する気はありません。個人的に愛好している分には私が口を挟むスジでもありますまい。ただし、このドジョウも輿石さんを取り込むための布石だったとしたらこの人、けっこうやるかもしれませんね。

それでも、今度の所信表明演説はぜひ国際的にも通用するような言葉で語っていただきたい。なぜならいま放射性物質は日本を越えて世界に飛散流出しているのですし、環境破壊に対する国際的な批判にも応えねばならないのですから。それに円高や世界同時不況を避けるための国際協調も訴えなければなりません。そういう世界視点を持たないと政治はすでに立ち行かないのに、日本の政治家にはいまでも世界も聴いているのだと意識した演説があまりに少なすぎます。

各報道メディアで60%前後という高支持率は巷間言われる政権発足のご祝儀相場ではありません。ここには「ノーサイドで行きましょう」という口調に民主党の再建を託した人たち、輿石さんや山岡さんらを内閣に取り込んでの小沢さん支持者たちが含まれます。

その一方で、ご自身や前原さんら松下政経塾の保守路線を歓迎する自民党支持者たち、そして安住さんの財務相就任や元財務官僚の古川さんの入閣による財政再建派(つまりは増税派なんですが)、さらには原発を早く再稼働させてほしい産業界の思惑までが結集した数字です。

もちろん相田みつをの情緒的ファン層もいたでしょうが(しつこい)、本来の民主党支持者たちの大方と、逆にそれを取り壊したい自民党復権派とが一緒になっての数字なのです。それだけ国民の多くが、いまの日本の危機に政治が一丸となって対処してほしいと願っているということです。

もっとも、私は大連立には反対です。だいたい民主党だけでも舵取りができていないのに自公を加えて大連立をやって、そんな複雑な組み合わせを制御できる「頭」が存在しているとはとても思えません。わけがわからなくなって大政翼賛の単純思考に陥るか空中分解するかのどちらかです。

そもそも政権交代と大連立って理屈が正反対。こういうときこそ前に進んで事を処理しなければならないのに、どうも元のサヤに戻ればうまく行くと思ってしまう人が多いんですね。そりゃ「あのころはよかった」的な感慨を持つ人はいるでしょう。しかし官僚が箱ものを作っていればそれで社会が動いていた自民党下の成長時代はとうに終わったのです。

にもかかわらず今回の新政権で手腕を問われているのは野田さんではなく財務省だという揶揄もあります。慣行と現状にしがみつく官僚制度の手強さを、どうにか未来に向けて手なずけてくれれば、ドジョウだって相田みつをだって私は大歓迎なのですが。

August 27, 2011

男の美学

骨董などの査定をする「なんでも鑑定団」が好きで島田紳助のしゃべくりの妙にいつも感心していました。なので彼の引退会見を見て、とても残念な気分になりました。残念だったのは引退ではありません。彼の認識についてです。

芸能界が興行の出自としてそのスジの人たちと無縁ではないことは知っています。それは相撲界も同じ。文化というものはどこか薄暗さを伴って初めて厚みを増すし、現代社会が近世近代のいかがわしさを一掃して清潔一辺倒になるのもなんとも味気ない。

そんなこともあってかこの突然の引退に「犯罪や事件を起こしたわけでもないのに潔い」だとか「男の美学だ」とかいう反応もありました。私もどちらかというと「付き合いは大切にする」派なので、紳助もそんな人付き合いの義理を理解せずにうるさいことを言う吉本にキレて「なら辞めちゃる!」となったのかな、とも思ったのです。

ところがよく聞くと話に出てくるAさんBさんというのが恐喝未遂で上告中の元ボクサー渡辺二郎被告と山口組ナンバー4の筆頭若頭補佐で極心連合会の橋本博文会長。付き合いの発端は十数年前に関西テレビの自分の番組で右翼の街宣車をおちょくり、それに怒った稲川会系の右翼団体が連日同局に街宣車で乗り付ける騒ぎとなって、その解決を渡辺被告経由で橋本会長に依頼したということのよう。

紳助は会見で「僕の中ではセーフだと思っていた」「この程度で引退しないといけない。芸能人は注意してほしい」と呼びかけていましたが、これって本当に「セーフ」で「この程度」と言うべき話なのでしょうか?

ヤクザには美談がつきものです。曰く、終戦直後の混乱期に誰も相手にしてくれなかった孤児の自分に「坊主、これで飯でも食えや」と優しくしてくれたのはあのヤーさんだけだった、とか、阪神・淡路や東日本大震災でもいち早く炊き出しをしてくれたとか問題を解決してくれたとか、確かに義理堅い任侠心に溢れているふうに見える人もいるでしょう。でも、彼らの義侠を支えるそのカネはいったいどこから出ているのでしょう。

紳助が橋本会長に口利きしてもらって解決した稲川会系右翼の問題だって、これはつまりは山口組と稲川会の貸し借りの話。言ってみればグル、仲間内の出来レースです。そんなものに恩義を感じているのだとすれば、それはあまりにナイーブに過ぎる。

会見では「Bさん」に言及するときの紳助の実に丁寧な言葉遣いが耳につきました。それを見ながら私が思い出していたのは故人、伊丹十三のことでした。

『ミンボーの女』(92年)で伊丹は日本映画でタブーだった暴力団批判を真っ向から展開しました。もちろん彼一流のウィットとともに。

結果、彼は暴力団に付け回され、映画公開直後に自宅近くで5人組に襲撃されて顔や両腕を切られる重傷を負いました。これはやはり山口組系後藤組の犯行でした。その後も彼は別の映画のスクリーンを切り裂かれたり数々の脅迫や嫌がらせを受け続けました。しかし彼は「私はくじけない。映画で自由を貫く」と宣言してどこのだれにも口利きを依頼したりはしませんでした。

「潔さ」とか「男の美学」とか言うならこの伊丹十三の方であって、島田紳助ではないでしょう。伊丹十三とは私はなんの面識もありませんが、エッセーや映画からは多くを学びました。私からの一方的な友誼ながら、その故人との付き合いを裏切らないためにも、私は今回の紳助引退にはいっさいの同情をしないと決めます。

June 15, 2011

演劇もまた語れよ

今週発表されたトニー賞でベスト・プレイ賞を受賞した「ウォー・ホース(軍馬)」も、ベスト・リバイバル・プレイを獲った「ノーマル・ハート」も、見ていて考えていたことはなぜかフクシマについてでした。

ウォーホースは、第一次大戦中に英国軍の軍馬として戦地フランスに送られたジョーイと、その元々の飼い主アルバート少年の絆を描いた劇です。舞台上を動き回る実物大の模型の馬は人形浄瑠璃のように3人で操られるのですが、次第に操り師たちの姿が気にならなくなり、いつしかそんな馬たちに感情移入してすっかり泣いてしまいました。

それは、敵味方の区別なくひたすら人間に仕える動物の姿を通し、戦争という人間の罪業を描く試みでした。健気な馬たちを見ながら私がフクシマの何を思い出していたかというと、あの避難圏内に取り残された動物たちのことです。

荷物の取りまとめに一時帰宅を許された住民たちは、帰宅してすぐにペットフードを山盛りに与えて連れて行けない犬や猫をいたわります。それらを記録したTVドキュメンタリーでは、時間切れで再び圏外へと去ってゆく飼い主をどこまでも必死に追いかけ走る犬を映し続けていました。それが、劇中のジョーイのひたむきさに重なったのです。

ノーマルハートは80年代前半のエイズ禍の物語ですのでこれもまたぜんぜんフクシマと関係ないのですが、全編、無策な政治と無関心な大衆への怒りに満ちていて、あの時代の欺瞞を鋭く弾劾し検証する作品でした。それが、見ている私の中でまた原発を取り巻く同様の欺瞞と無為への怒りに転化していたのです。

エイズの話など、いまはぜんぜん流行らないのに、どうしてかくも力強くいまもまだこの劇が観客の心を打つのか、わかるような気がしました。それは演劇人の、時代を記すという決意のようなものに打たれるからです。

エイズ対策を求めてやっと市の助役とミーティングを持てた場面で、遅れてやってきた助役は主人公のネッドに「いちいち小さな病気の流行にまで我々がぜんぶ対応できるものではないんですよ」と言います。「それより、あなた、少しヒステリックになってるのを抑えてくださいな」

「わかった」とネッドは言います。「サンフランシスコ、ロサンゼルス、マイアミ、ボストン、シカゴ、ワシントン、デンバー、ヒューストン、シアトル、ダラス──このすべての街でいま新しい患者が報告されている。それはパリやロンドンやドイツやカナダでも発生している。でもニューヨークだ。おれたちの街、あんたが守ると誓った街が、それらぜんぶの半数以上の患者を抱えてる。1千人の半分だ。そのうちの半分が死んでいる。256人が死んでるんだ。そしてそのうちの40人は、おれの知ってるやつらだ。もうこれ以上死ぬやつを知りたくない。なのにあんたはこれっぽちもわかってない! さあ、おれたちはいつ市長に会えるんだ? ランチに出てます、ランチに出てますって、市長は14カ月もずうっとランチしてるわけか!」

ここにあるのは過ちと誤りの清算の試みです。時代に落とし前を付けてやるという気概です。演劇とは、それを通して自分たちで歴史の不正義を記録してゆくのだという、責任と覚悟の表明なのです。

そう思いながらこれを書いていると、HBOであのリーマンショック後の政財界の内幕を描いた「Too Big To Fail(破綻させるには大き過ぎる)」がウィリアム・ハートの主演で放送されていました。NYタイムズの記者によるノンフィクションを、こんな短期間で上質のドラマに仕上げた。

こういうのを見ると本当にかなわないなと思ってしまいます。 AKB48の「総選挙」を責めるわけじゃないけれど、あれをどの局もそろってニュースの一番手に持ってくるならその一方で、テレビも演劇もジャーナリズムも、もっともっと社会への取り組みがあってもいいじゃないかと思ってしまう。

東電と政府の欺瞞と怠慢とを、日本の演劇や映画やテレビは必ず作品に昇華してもらいたいと思います。どこでどういうウソがつかれ、どこでどういう悲劇が生まれたかを、ドラマもまた語ってほしいと切に願います。

ブロードウェイという華やかな娯楽の街で、拍手を忘れるほどの怒りが渦巻き、涙ながらの喝采が渦巻くのはなぜなのか? それは人間の言葉の力です。すべてを語ることで対処しようとする文化と、すべてまで語らぬことをよしとする文化の膂力の違いを、フクシマを前にした今ほど恨めしいと思ったことはありません。

でも恨めしく思っているだけでは埒も開かないので、とりあえず、私はこの「ノーマル・ハート」を翻訳してみようと思います。いつの日か日本で上演できることを画策しながら。

June 07, 2011

6月はLGBTプライド月間

オバマ大統領が6月をLGBTのプライド月間であると宣言しました。今月を、彼らが誇りを持って生きていけるアメリカにする月にしようという政治宣言です。その宣言を、この末尾で翻訳しておきます。LGBTとはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどの性的少数者たちのことを指す頭字語です。

私がジャーナリストとしてLGBT問題を日本で広く伝えようとしてからすでに21年が経ちました。その間、欧米ではLGBT(当初はLGだけでしたが)の人権問題で一進一退の攻防もありつつ結果としてじつにめざましい進歩がありました。日本でもさまざまな分野で改善が為されています。性的少数者に関する日本語での言説はかつてはほとんどが私が海外から紹介したもののコピペのようなものだったのが、いまウィキペディアを覗いてみるとじつに多様で詳細な新記述に溢れています。多くの関係者たちが数多くの言説を生み出しているのがわかります。

この大統領宣言も私がクリントン大統領時代に紹介しました。99年6月に行われたのが最初の宣言でした。以降、ブッシュ共和党政権は宗教保守派を支持基盤にしていたので宣言しませんでしたが、オバマ政権になった09年から再び復活しました。

6月をそう宣言するのはもちろん、今月が現代ゲイ人権運動の嚆矢と言われる「ストーンウォール・インの暴動」が起きた月だからです。69年6月28日未明、ウエストビレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」とその周辺で、警察の度重なる理不尽な摘発に爆発した客たちが3夜にわたって警官隊と衝突しました。その辺の詳細も、今では日本語のウィキペディアで読めます。興味のある方はググってみてください。69年とは日本では「黒猫のタンゴ」が鳴り響き東大では安田講堂が燃え、米国ではニクソンが大統領になりウッドストックが開かれ、アポロ11号が月に到着した年です。

このストーンウォールの蜂起を機に、それまで全米でわずか50ほどしかなかったゲイの人権団体が1年半で200に増えました。4年後には、大学や教会や市単位などで1100にもなりました。こうしてゲイたちに政治の季節が訪れたのです。

72年の米民主党大会では同性愛者の人権問題が初めて議論に上りました。米国史上最も尊敬されているジャーナリストの1人、故ウォルター・クロンカイトは、その夜の自分のニュース番組で「同性愛に関する政治綱領が今夜初めて真剣な議論になりました。これは今後来たるべきものの重要な先駆けになるかもしれません」と見抜いていました。

ただ、日本のジャーナリズムで、同性愛のことを平等と人権の問題だと認識している人は、40年近く経った今ですらそう多くはありません。政治家も同じでしょう。もっとも、今春の日本の統一地方選では、史上初めて、東京・中野区と豊島区の区議選でゲイであることをオープンにしている候補が当選しました。石坂わたるさんと、石川大我さんです。

オバマはゲイのカップルが養子を持つ権利、職場での差別禁止法、現行のゲイの従軍禁止政策の撤廃を含め、LGBTの人たちに全般の平等権をもたらす法案を支持すると約束しています。「それはアメリカの建国精神の課題であり、結果、すべてのアメリカ人が利益を受けることだからだ」と言っています。裏読みすればLGBTの人々は今もなお、それだけ法的な不平等を強いられているということです。同性婚の問題はいまも重大な政治課題の1つです。

LGBTの人たちはべつに闇の住人でも地下生活者でもありません。ある人は警官や消防士でありサラリーマンや教師や弁護士や医者だったりします。きちんと税金を払い、法律を守って生きています。なのに自分の伴侶を守る法律がない、差別されたときに自分を守る法律がない。

人権問題がすぐれて政治的な問題になるのは当然の帰着です。欧米の人権先進国では政治が動き出しています。先月末、モスクワの同性愛デモが警察に弾圧されたため、米国や欧州評議会が懸念を表明して圧力をかけたのもそれが背景です。

6月最終日曜、今年は26日ですが、恒例のLGBTプライドマーチが世界各地で一斉に執り行われます。ニューヨークでは五番街からクリストファーストリートへ右折して行きますが、昨年からかな、出発点はかつての52丁目ではなくてエンパイアステート近くの36丁目になっています。これは市の警察警備予算の削減のためです。なんせ数十万人の動員力があるので、配備する警備警官の時間外手当が大変なのです。

さて、メディアでは奇抜なファッションばかりが取り上げられがちですが、数多くの一般生活者たちも一緒に歩いています。マーチ(パレード)の政治的なメッセージはむしろそちら側にあります。もちろん、「個人的なことは政治的なこと」ですが、パレードを目にした人はぜひ、派手さに隠れがちな地味な営みもまた見逃さないようにしてください。

****

LESBIAN, GAY, BISEXUAL, AND TRANSGENDER PRIDE MONTH, 2011
2011年レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・プライド月間
BY THE PRESIDENT OF THE UNITED STATES OF AMERICA
アメリカ合州国大統領による

A PROCLAMATION
宣言


The story of America's Lesbian, Gay, Bisexual, and Transgender (LGBT) community is the story of our fathers and sons, our mothers and daughters, and our friends and neighbors who continue the task of making our country a more perfect Union. It is a story about the struggle to realize the great American promise that all people can live with dignity and fairness under the law. Each June, we commemorate the courageous individuals who have fought to achieve this promise for LGBT Americans, and we rededicate ourselves to the pursuit of equal rights for all, regardless of sexual orientation or gender identity.

アメリカのLGBTコミュニティの物語は、私たちの国をより完全な結合体にしようと努力を続ける私たちの父親や息子、母親や娘、そして友人と隣人たちの物語です。それはすべての国民が法の下での尊厳と公正とともに生きられるという偉大なアメリカの約束を実現するための苦闘の物語なのです。毎年6月、私たちはLGBTのアメリカ国民のためにこの約束を達成しようと戦ってきた勇気ある個人たちを讃えるとともに、性的指向や性自認に関わりなくすべての人々に平等な権利を追求しようとの思いを新たにします。

Since taking office, my Administration has made significant progress towards achieving equality for LGBT Americans. Last December, I was proud to sign the repeal of the discriminatory "Don't Ask, Don't Tell" policy. With this repeal, gay and lesbian Americans will be able to serve openly in our Armed Forces for the first time in our Nation's history. Our national security will be strengthened and the heroic contributions these Americans make to our military, and have made throughout our history, will be fully recognized.

大統領に就任してから、私の政府はLGBTのアメリカ国民の平等を達成するために目覚ましい前進を成し遂げました。昨年12月、私は光栄にも差別的なあの「ドント・アスク、ドント・テル」【訳注:米軍において性的指向を自らオープンにしない限り軍務に就けるという政策】の撤廃に署名しました。この政策廃止で、ゲイとレズビアンのアメリカ国民は我が国史上初めて性的指向をオープンにして軍隊に勤めることができるようになります。我が国の安全保障は強化され、ゲイとレズビアンのアメリカ国民が我が軍に為す、そして我が国の歴史を通じてこれまでも為してきた英雄的な貢献が十全に認知されることになるのです。

My Administration has also taken steps to eliminate discrimination against LGBT Americans in Federal housing programs and to give LGBT Americans the right to visit their loved ones in the hospital. We have made clear through executive branch nondiscrimination policies that discrimination on the basis of gender identity in the Federal workplace will not be tolerated. I have continued to nominate and appoint highly qualified, openly LGBT individuals to executive branch and judicial positions. Because we recognize that LGBT rights are human rights, my Administration stands with advocates of equality around the world in leading the fight against pernicious laws targeting LGBT persons and malicious attempts to exclude LGBT organizations from full participation in the international system. We led a global campaign to ensure "sexual orientation" was included in the United Nations resolution on extrajudicial execution — the only United Nations resolution that specifically mentions LGBT people — to send the unequivocal message that no matter where it occurs, state-sanctioned killing of gays and lesbians is indefensible. No one should be harmed because of who they are or who they love, and my Administration has mobilized unprecedented public commitments from countries around the world to join in the fight against hate and homophobia.

私の政府はまた連邦住宅供給計画におけるLGBTのアメリカ国民への差別を撤廃すべく、また、愛する人を病院に見舞いに行ける権利を付与すべく手続きを進めています。さらに行政機関非差別政策を通じ、連邦政府の職場において性自認を基にした差別は今後許されないとする方針を明確にしました。私はこれからも行政や司法機関の職において高い技能を持った、LGBTであることをオープンにしている個人を指名・任命していきます。私たちはLGBTの権利は人権問題であると認識しています。したがって私の政府はLGBTの人々を標的にした生死に関わる法律や、またLGBT団体の国際組織への完全な参加を排除するような悪意ある試みに対する戦いを率いる中で、世界中の平等の擁護者に味方します。私たちは裁判を経ない処刑を非難する国連決議に、「性的指向」による処刑もしっかりと含めるための世界的キャンペーンを率先してきました。これは明確にLGBTの人々について触れた唯一の国連決議であり、このことで、国家ぐるみのゲイとレズビアンの殺害は、それがどこで起ころうとも、弁論の余地のないものであるという紛うことないメッセージを送ってきました。何人も自分が誰であるかによって、あるいは自分の愛する者が誰であるかによって危害を加えられることがあってはなりません。そうして私の政府は世界中の国々から憎悪とホモフォビア(同性愛嫌悪)に反対する戦列に加わるという先例のない公約を取り集めてきました。

At home, we are working to address and eliminate violence against LGBT individuals through our enforcement and implementation of the Matthew Shepard and James Byrd, Jr. Hate Crimes Prevention Act. We are also working to reduce the threat of bullying against young people, including LGBT youth. My Administration is actively engaged with educators and community leaders across America to reduce violence and discrimination in schools. To help dispel the myth that bullying is a harmless or inevitable part of growing up, the First Lady and I hosted the first White House Conference on Bullying Prevention in March. Many senior Administration officials have also joined me in reaching out to LGBT youth who have been bullied by recording "It Gets Better" video messages to assure them they are not alone.

国内では、私たちはマシュー・シェパード&ジェイムズ・バード・ジュニア憎悪犯罪予防法【訳注:前者は98年10月、ワイオミング州ララミーでゲイであることを理由に柵に磔の形で殺された学生の名、後者は97年6月、テキサス州で黒人であることを理由にトラックに縛り付けられ引きずり回されて殺された男性の名。同法は09年10月に署名成立】の施行と執行を通してLGBTの個々人に対する暴力に取り組み、それをなくそうとする作業を続けています。私たちはまたLGBTを含む若者へのいじめの脅威を減らすことにも努力しています。私の政府はアメリカ中の教育者やコミュニティの指導者たちと活発に協力し合い、学校での暴力や差別を減らそうとしています。いじめは成長過程で避けられないもので無害だという神話を打ち払うために、私は妻とともにこの3月、初めていじめ防止のホワイトハウス会議を主催しました。いじめられたLGBTの若者たちに手を差し伸べようと多くの政府高官も私に協力してくれ、「It Gets Better」ビデオを録画してきみたちは1人ではないというメッセージを届けようとしています【訳注:一般人から各界の著名人までがいじめに遭っている若者たちに「状況は必ずよくなる」という激励と共感のメッセージを動画投稿で伝えるプロジェクト www.itgetsbetter.org】。

This month also marks the 30th anniversary of the emergence of the HIV/AIDS epidemic, which has had a profound impact on the LGBT community. Though we have made strides in combating this devastating disease, more work remains to be done, and I am committed to expanding access to HIV/AIDS prevention and care. Last year, I announced the first comprehensive National HIV/AIDS Strategy for the United States. This strategy focuses on combinations of evidence-based approaches to decrease new HIV infections in high risk communities, improve care for people living with HIV/AIDS, and reduce health disparities. My Administration also increased domestic HIV/AIDS funding to support the Ryan White HIV/AIDS Program and HIV prevention, and to invest in HIV/AIDS-related research. However, government cannot take on this disease alone. This landmark anniversary is an opportunity for the LGBT community and allies to recommit to raising awareness about HIV/AIDS and continuing the fight against this deadly pandemic.

今月はまた、LGBTコミュニティに深大な衝撃を与えたHIV/AIDS禍の出現からちょうど30年を数えます。この破壊的な病気との戦いでも私たちは前進してきましたが、まだまだやるべきことは残っています。私はHIV/AIDSの予防と治療介護の間口をさらに広げることを約束します。昨年、私は合州国のための初めての包括的国家HIV/AIDS戦略を発表しました。この戦略は感染危険の高いコミュニティーでの新たな感染を減らし、HIV/AIDSとともに生きる人々への治療介護を改善し、医療格差を減じるための科学的根拠に基づくアプローチをどう組み合わせるかに焦点を絞っています。私の政府はまた、ライアン・ホワイトHIV/AIDSプログラムやHIV感染予防を支援し、HIV/AIDS関連リサーチ事業に投資するための国内でのHIV/AIDS財源を増やしました。しかし、政府だけでこの病気に挑むことはできません。30周年というこの歴史的な年は、LGBTコミュニティとその提携者たちがHIV/AIDS啓発に取り組み、この致命的な流行病との戦いを継続するための再びの好機なのです。

Every generation of Americans has brought our Nation closer to fulfilling its promise of equality. While progress has taken time, our achievements in advancing the rights of LGBT Americans remind us that history is on our side, and that the American people will never stop striving toward liberty and justice for all.

アメリカ国民のすべての世代が私たちの国を平等の約束の実現により近づかせようとしてきました。その進捗には時間を要していますが、LGBTのアメリカ国民の権利向上の中で私たちが成し遂げてきたことは、歴史が私たちに味方しているのだということを、そしてアメリカ国民は万人のための自由と正義とに向かってぜったいに歩みを止めないのだということを思い出させてくれます。

NOW, THEREFORE, I, BARACK OBAMA, President of the United States of America, by virtue of the authority vested in me by the Constitution and the laws of the United States, do hereby proclaim June 2011 as Lesbian, Gay, Bisexual, and Transgender Pride Month. I call upon the people of the United States to eliminate prejudice everywhere it exists, and to celebrate the great diversity of the American people.

したがっていま、私、バラク・オバマ、アメリカ合州国大統領は、合州国憲法と諸法によって私に与えられたその権限に基づき、ここに2011年6月をレズビアンとゲイとバイセクシュアル、トランスジェンダーのプライド月間と宣言します。私は合州国国民に、存在するすべての場所での偏見を排除し、アメリカ国民の偉大なる多様性を祝福するよう求めます。

IN WITNESS WHEREOF, I have hereunto set my hand this thirty-first day of May, in the year of our Lord two thousand eleven, and of the Independence of the United States of America the two hundred and thirty-fifth.

以上を証するため、キリスト暦2011年かつアメリカ合州国独立235年の5月31日、私はこの文書に署名します。

BARACK OBAMA
バラク・オバマ

May 31, 2011

現場と個人を潰す社会(前回の「ジョプリンと福島」改訂版)

前回のブログ、なんだか覚え書きのようにだらだら書き連ねていただけなので冗漫で重複の多い文章でしたよね。それに手を加えてまた書き直すのも何なんで、最初から書き直してみました。こっちのほうが簡潔に言いたいことがわかりやすいと思いまーす。つまり、こういうことなんですわ;

******

◎現場と個人を潰す社会


ミズーリ州ジョプリンの竜巻は幅が1.2kmもあったというから驚きます。テレビで見る破壊の様子は、局地的とはいえあの東北の海岸沿いと同じ、家並みや木々が根こそぎかっさらわれて、まるで水のない津波被災地のようです。

被災者の悲嘆も行方不明の家族を探す人の必死さもみなあの東北の人々と同じです。でも1つ違うことがありました。それは当局者が必ず現地で、被災の現場で会見を開いていたことです。

日本では会見は概ね本社や中央官庁で行われ、現場で関係者に質問しても往々にして「それは上に聞いて」とあしらわれます。事件事故いずれの場合もそうです。今回の震災でも会見は東電本店や保安院や首相官邸ばかりですよね。これ見よがしに防災服を着ていたりしますが、クーラーの効いた東京の会見場でそんなもの着てて何になるんだろうって思ってしまいます。

アメリカでは現場責任者が現場で会見やインタビューに応じます。ジョプリンの竜巻の場合も連邦緊急管理庁(FEMA)や地元警察・消防などが被災現地で対応していました。ジャーナリストたちは現場が第一なので、当局としてもこうした体制を構築してこなければならなかったわけです。かくして現場を任された人は一般に、どの情報を開示すべきか自分で判断し、自分の責任で会見を仕切るのです。

それにしてもこれは教育の違いなのでしょうか? 会見者は米国ではじつに堂々としています。まっすぐに相手を見つめ、情報を伝えるのだという意気込みすら感じられます。個人の使命感が目に見えるのです。

対して日本では(というのもステレオタイプな比較で嫌なんですが、まあ、それは置いといて)保安院や東電に限らず一般にどうもおどおどしているか、さもなくば上手にはぐらかそうとするタイプに二分されます。で、極論を言えば、両者とも自分に責任が及ぶのを避けよう、言質を取られないようにしよう、出過ぎた杭にならぬようにしようと必死なふうなのです。で、けっきょく何のための会見なんだかよくわからなくなる。

会見ですらそうなのですから実際の行動指針も同じようです。好例、というか情けない例が先日の海水注入中断問題でした。津波にやられて電源が失われた原子炉は、注水で冷やし続けねばならなかったのに、菅首相の許可が取れていなかったためにその注水を一時中断していた、というのが東電側の発表でした。

この注水停止で原子炉がいっそう危機的状況になったのではという疑念が国会でも追及されたのですが、実はこの判断を現場で陣頭指揮を執る福島第一の吉田昌郎所長が一存で却下、注水は継続されていたとわかったのです。

そもそも東電本店でテレビ会議越しの高見の見物を決め込んでいるから何が重要なのかの生情報がわからなくなるのです。どうして原発の現場で記者会見をしないのか? まあ、テレビ局や新聞社では自社の記者たちに福島第一の50km圏内に入るなと言っているところがありますからね。癌にでもなったら労災認定で責任や面倒が生じますから。とはいえ、あろうことか、東電本店ではこの吉田所長を注水継続を報告しなかったかどで処分しようという動きもあるとか。

現場軽視もここに極まれリ、です。東京の報道各社も東電や政府の幹部もみんな現場に赴かない中、希望の光の「フクシマ50」として海外で英雄視される人々がこうして日本では蔑ろにされている。この場合、処分されるべきはむしろ、注水中断の流れに唯々諾々うなずいた東京の本店幹部のはずです。その連中が、自分たちの誤りの行き着く先の大惨事を最小限に抑えた功労者である吉田所長を処分する? これはいったいどういう笑劇なのでしょうか。

自らの責任で決断した者が、それが正しい行動だったとわかっても処分され、判断を他に委ねて責任を転嫁した者が、それが誤った対応だったと判明しても処分されない。だとしたら、東電も行政も恐ろしいほどに倒錯した組織です。いやむしろ、現場の個人の頑張りをこうして押しつぶそうとする日本社会が、そもそも倒錯しているのかもしれません。

May 26, 2011

ジョプリンと福島

アメリカで大きいのは人や車だけじゃありません。野菜も大きいし、びっくりしたのは雪の結晶までが大きいのです。なんと直径で5mmほどもあって、虫眼鏡も必要なく肉眼ではっきりとあのきれいな結晶が見えてしまうのです。

そういうこととも関係しているんでしょうか、春から初夏にかけてアメリカの中部・南部を襲う竜巻も、日本とは比べものにならないくらい巨大なものです。5月22日夕方にミズーリ州ジョプリンで発生したのは幅1.2kmにも及ぶ巨大竜巻でした。それが長さ6km以上にわたって街の中心部を吹き飛ばしたのです。風速は秒速90m近く。時速でいうと新幹線よりも速い320kmです。

こうなると地上のものは木からビルから根こそぎ持っていかれます。なので竜巻多発地域に住む人々は住宅に必ず避難用の頑丈な地下室を作っています。

ジョプリンの竜巻現場は、見覚えのある津波被害の東北の光景そのもので、まるで水のない津波に襲われたかのようにどこもかしこもあるべきものがごっそりと持ち運ばれています。これを書いているのは竜巻3日後の25日ですが、死者は125人、負傷者750人、瓦礫の下に埋まっている人や風にさらわれてしまって行方不明の人は1500人を数えています。

今年は竜巻の当たり年のようで、4月下旬の3日間にもアラバマ州やミズーリ州などで305個もの竜巻が地表にタッチダウンし、340人以上が亡くなりました。年間を通しても平均1000個の竜巻が起きますが、今年はすでにその数を越えてしまっています。

と、ここまでが日本時間で昨日深夜のTBSラジオ「dig」で話したことです。時間がなくなって話せなかったことがあります。TVニュースは盛んに救助作業の進展を伝えていてこれも震災の東北で見覚えのある光景なんですが、しかし1つ、決定的に違うことがあるのです。それはアメリカでは当局者が必ず被災現場でインタビューに応じ、記者会見を開くということです。ジョプリンの場合は連邦政府から緊急管理庁(FEMA)というのが災害対策に入っていて、そこのナンバー2が、ジョプリンの市の当局者や消防や警察・保安官らとともに必ず現場で、それも被災した野外で定時に会見を開いています。

さすがに福島では屋外というわけには行かないでしょうが、東北の被災現場から現場の対策責任者が記者会見やインタビューに応じているという絵はなかなか日本ではお目にかかりません。というのも日本では現場では往々にしてなにも情報が入ってこないことが多くて、新聞記者やテレビ記者もあまり現場では当局情報を当てにしていないのです。つまり、記者発表は現場ではなく中央官庁で行われることが多いというのが既定の事実になっているので、みんな期待すらしていないんですね。

でもこれは考えたらおかしなことで、事件や事故で現場リポートをするテレビのリポーターは、実は情報は現場で得ているのではなくて中央の本社管轄の省庁、あるいは支局管轄の地方官庁で集めた情報をもう一度現場に送ってもらってそれを再構築し、まるでその場で得られた情報のように報告するのです。現場で入手できる情報は、そうしてほとんど地取りの情報、近所の人たちの話や周辺の様子といった、本筋とはほど遠い枝葉のネタでしかないのが実情なのです。

それはなぜかというと、日本では公式発表というのはいったんすべて上部(本社や上級官庁や本部)に上げられて発表するかしないか精査された情報で行われるからです。ほんとうは現場こそがいちばんナマの情報に溢れているのに、情報の混乱があってはまずい、情報の錯綜があってはまずい、情報の誤りがあってはまずい、ということで上部に上げてそれを整理してから発表する、というのが建前です。

でも実は、それは、下手にしゃべってしまって責任を取らされたらまずい、情報を得ていることを自慢げにしゃべっていると思われたら嫌だ、というとても日本的な社会文化背景があるのではないかと疑っています。

というのも、アメリカではよほどのことがない限り情報は現場責任者が自ら判断してなるべく公開するのが基本姿勢です。現場にはそういう権限が与えられています。現場情報に混乱や誤報があるのは当然です。それは織り込み済みで、しかし現場でしかわからない情報がある。そういう情報を報道関係者は現場で厳しく当局者・担当者に要求します。事件事故の当局や当事者はその厳しさに対応しなければなりません。そこを避けてなんでもすべて本社で本部で中央官庁で会見というのは許されないのです。もちろん中央での会見はありますが、それは別の次元での情報公開で、現場会見とは意味合いが違います。

そうして鍛えられているせいか、そういうもんだという覚悟が出来ているせいか、アメリカの事故・事件現場の責任者たちの会見の受け答えは往々にしてとても見事なものです。なんというか、話し慣れているというか、言えないことは言えないと言うし、質問をはぐらかすこともありません。これは子供のころからの教育のせいなんでしょうか、とにかく日本では絶対にお目にかかれない種類の対応の仕方なのです。

対してなんでもない情報まで一度本部に上げてからでないと言えない、ノーコメント一点張りの木で鼻をくくったような対応が目立つ日本は、それは勢いハンカチ落しみたいな発表責任の順送りということでしかありません。それはけっきょくは情報の抑制だけにに働いて、時間が経つと情報の経緯自体がわからなくなるのです。現場での喫緊の情報はいつのまにか切迫感のない数字に置き換えられ、塩漬けになってしまう。

それが福島原発の東電や保安院のあり方です。何が重要かを個人で判断できない、いや、個人で判断する責任を負わない。だから、とりあえず発表しないでおく。それが一番。あの、津波直後に「メルトダウン」の可能性を指摘した人は、いまいったいどこにいるのでしょう。それすら開示されないのです。それが国民にとってとても不幸なことなのは、いまの放射能汚染の真実がどこにあるのかみんなが疑心暗鬼になってしまっていることでも明らかでしょう。原発以前に、日本人の何かが壊れているような気がします。

April 05, 2011

宮城にて①

これまで取材したどんな被災地とも違っていました。戦火のボスニアにも行きましたが、戦地とも違う。敢えて言えば被災地は、延々と続く火のない爆撃地でした。ときおり火事のにおいが届きますが、引き波にそれでも残った破壊の痕はおびただしい家屋の残骸として生のまま散らばっていました。そこに十数メートルの防潮林の松の巨木が、根こそぎ、あるいは幹の途中で裂けながら、枝葉をもぎ取られた大きな生き物の死骸として横たわっている。

東北自動車道から入った仙台の街並みはほとんど無傷ですが、駅の裏側、東の海岸線へと向かうと一変しました。大津波が襲ったその刻々をTVヘリが生中継して見せたあの若林区。3週間経っても水は退いていませんでした。午前6時の朝ぼらけの大地はその水を鏡のように静謐に湛え、淡い青空と輝く雲はみごとにそこに映し出されていました。それはふと美しいと思うほどの光景でした。けれど、俯瞰や遠景では映画のように見えるものの残酷な細部の1つひとつが目の前にはありました。その鏡には折れた木材が突き刺さり、瓦礫の中にぽつんと取り残されたランドセルには、背当ての白部分にマジックで持ち主の名前が大書されていました。その「裕展」くんは無事なのだろうか。

40kmほど北東に行った石巻はまた様相を異にしました。海岸線は工業港から漁港へと巨大建造物、構築物が建ち並んでいます。その人工物がことごとく引き裂かれている。壮大な廃墟なのですが、廃墟と呼ぶにはすべてがまだ生々しすぎるのです。千トン級の船舶が陸地に乗り上げ、重要な産業だった紙パルプが臭い立ち、巨大な紙ロールが白く転がっている。タイヤの下では道路に垂れて横切る太い電線がゴツゴツと音を立て、コンクリートの電柱が赤く錆びた中の鉄筋を剥き出しにしながら折れ曲がっている。北に進むと漁港部分は水産加工場群が延々と腐った魚の臭いを漂わせていました。

ふつう、事件や事故や災害の現場は、そこから数ブロック離れると「日常生活」が展開していたりするものです。あの9・11ですら、ミッドタウンには「普通」があった。けれど、この東日本大震災はどこまで行っても「普通」がないのです。山間の高台を通るときだけ「普通」が垣間見えますが、それは次に続く谷間の無惨を際立たせるものでしかない。

女川町への曲がりくねった下り坂を進んだときに、それは息を飲む光景として飛び込んできました。思わず口から出たのは「何だ、これは」でした。それしか言葉がなかったのです。あとは「うわー、うわー」とうめくだけの。

女川は、海抜20mまでの家屋が壊滅していました。その20mの高台に建つ町立病院の敷地から見渡す町並みは、それ自体が産業廃棄物の不法な投棄場そのもののようになっていました。細くすぼんだ入り江から津波はものすごいスピードで殺到したと、生き残った老人が説明するともなく言いました。観光施設として町の象徴だった岸辺のマリンパル女川は足下がごっそりえぐられ、その横に、「どっから来たのかわかんねえ」と老人の言う4、5階建てのコンクリートのビルが、基礎ごとゴロリと横たわっていました。

4年前までニューヨークにいた私の友人、看護婦さんの小松恵さんは仙台の医療センターで不眠不休の治療に当たっていました。大地震直後には外科措置や検死で混乱することを覚悟してトリアージュの準備を進めていたそうです。ところが死者は1人も搬入されなかった。死者は海に流されるか、あるいは多過ぎて手が付けられなかったのでしょう。送られてくるのは泥だらけの、そしてさらに泥だらけの衣服を脱がされて震える真っ裸の人たちだけだったそうです。その時点でテレビを見ていなかった治療者たちは、地震ではなく津波がかくも激しく沿岸部を襲ったとは、即座にはイメージできなかったと言います。

「天罰だって言った人がいるそうだけど、あたしたち、そんな悪いことしてねえよ」と小松さんは言いました。

仙台に向かう途中、未明の国見SAの食堂にあった利用者用の雑記帳には3/18付けで「今から宮城県石巻に行って、じいちゃんを見つけて帰りたいと思っています。ガンバルゾー。スープごちそう様でした。」という書き込みが残されていました。横須賀から来たという中年男性2人と女性1人が、早く着きすぎた時間調整のためにもうもうたる喫煙室で煙草を吸っていました。何が必要かと聞き回って最後はボランティア・センターに行き着き、食べ物や水や下着や生理用品などの諸々の他に、いまは軍手やスコップなどの片付けの道具がほしいのだということがわかったそうです。あちこち手を回してそれらを自費で仕入れ、あと1年で車検切れのトラックに支援物資を満載にしてそのトラックごと避難所に渡してくるんだと言っていました。神戸から、寸胴とコンロなど道具食材一式を持ち込んで、小学校の避難所でラーメンを作ってやるんだという若者たちも来ていました。東北自動車道には「救援物資輸送中」と横断幕を貼ったトラックなどが爆走していました。路面は、隆起と沈降やひび割れを応急処置した段差が不気味に続いていましたが、むしろその復旧の早さに感謝の思いを強くしました。常磐道はまだ通行止めが続いていますが。

それが3週間余り経った被災地のほんのすこしの一面です。


***【付記】

第2段落冒頭で「東北自動車道から入った仙台の街並みはほとんど無傷ですが」と書きましたが、その後再び仙台入りして町を詳しく歩いて気づきました。無傷ではありませんでした。外壁がはがれて三越百貨店は営業を短縮して修復工事を行っていました。大きなガラスが割れたまま調達できないのでしょう、ゴミ袋や青いビニールシートで覆っているだけのところもありました。外見は無傷のようなビルでも中で柱が歪んだりドアが軋んだりしていました。歩道には陥没があり、段差が出来ていました。ガスはもちろん通っていないのは、目に見えないところでガス管の破壊があるからです。そして人々の心もまた傷ついていました。

ここに訂正して不用意な表現をお詫びします。4.8/2011

IMG_1200.jpg


IMG_1218.JPG


IMG_1220.JPG


IMG_1238.JPG


IMG_1258.JPG


IMG_1266.JPG

IMG_1269.JPG


IMG_1280.jpg

March 30, 2011

東京にて③

「今後、原発行政は世界中で後退するでしょう」と前回書きましたが、日本国内ではなんだかそんな見方を打ち消す論調が総動員されています。テレビでは大方の学者や評論家がいまも「原発なしでは日本の電力は立ち行かない」という大前提に立って発言しています。本当にそうなのかという疑いすら差し挟む暇もなく、まるで御用学者しか存在しなくなったかのよう。先週の朝まで生テレビを見ていても、こんなに原発推進派が多いとは知りませんでした。

これはいったいどういうことなのでしょう。「反原発」を声高に叫んだ昔と違って、原子力発電率は日本ではすでに3割に達しています。でも原発施設の耐用年数は40年が限度なので、今後徐々に「脱原発」への道をたどって自然エネルギー利用の発電へと移行していくことに無理はないはずです。なのに例の「計画停電」までもが「原発がないせいで不便なのだ」というレトリックに使われそうな雰囲気。

そうして東電の福島第一原発はいま、とうとうプルトニウムの漏出にまで至りました。欧米の報道は津波被害直後からすぐにその危険性に触れて自国民の退避を促しましたが、対して日本では政府・保安院や東電が当初から「安全だ」「切迫していない」という発表で来たはずが、いつのまにか「福島第一原発事故、スリーマイル超えレベル6相当に」なっていました。それでもまだ「ただちに健康に影響するものではない」って、本当ですか?

ある重篤な原発事故が起きて、しかも周辺住民を安全に一度に避難させる術を持たない場合を想像してみてください。その場合、事故と住民の健康被害はすでにリスクとして存在しています。つまりもう起きたことです。これはしょうがない。しかしその2つの既成の危険に加えてもう1つ、その事実を伝えることでパニックになって不測の事態が起きるという危険が考えられるとき、その3つ目の余計な危険は避けたいというのが為政者にとっての危機管理の1つのあり方ではあります。

だから事実はゆっくりと伝える。パニックが起きないように徐々に慣らしながら知らせる。そうして住民を秩序正しく避難させる。

これは結末を除いて、例の茹でガエルの寓話そっくりです。原発20〜30km圏の屋内退避要請がいま自主避難勧告に移行しそうなこともこれに当てはまる。たとえそれが「被曝の危険性などが変動したのではなく、物資不足による生活困難を理由としたもの」だとしても、です。

ここまで取り返しのつかない事故を起こしながら原発にしがみつく理由は、日本がすでに原発にとてつもない投資をしてきて、世界に対して「安全な原発を売る」巨大ビジネスさえもが存在しているからです。この既存の発電産業の構造を転換することは、そこで生きている人たちには論外のことなのです。それこそいま止めたら投資している分が「取り返しがつかない」。

かつて日本は太陽光発電でも京セラやシャープが世界のトップクラスの企業でした。しかし国家として原発ビジネスにシフトした結果、風力や波力を含めグリーンなエネルギー開発は欧州に大きく遅れを取ってしまいました。なぜあのときにグリーンな自然エネルギーに投資しなかったのか?

なせなら原発のほうがより巨大なカネが動く産業だったからです。巨大なカネがかかっても発電効率が高いから十分に元が取れるビジネスだったからです。それが「コストが安い」という宣伝文句を生んだ、当時のつたない太陽光発電や風力発電などとは比べ物にならないほどに大きなビジネスだったからです。

そうしていつのまにか日本は、原発以外の可能性を自ら封じ込めてきていたのですね。

震災報道には連日、数多くの日本人の善意が取り上げられています。私たちはそんな善意の美談を、これからの日本再生の希望の拠り所にしています。

しかしそんな善意というもの一般への幅広い妄信と安心とが、一方で私たち日本人の感性を誤らせているのかもしれません。まるで、気づかないように徐々に温度を上げてくれていることすらもが、「彼ら」の善意だと信じているかのようです。茹でガエルはついには、秩序正しく避難を指示されるのではなく、死んでしまうのに。

March 21, 2011

東京にて②

地震発生直後の週末はべつに買いだめなどパニックの兆候はありませんでした。それが週明けの月曜、14日あたりからスーパーではカップ麺やお米、牛乳の棚などに空きが目立ち始め、それはいまトイレットペーパーや納豆、パンなどに広がっています。

きっかけはツイッターでのつぶやきだったとか言われていますが、よくわかりません。実際に買い物に行って在庫の薄い店内を見ると「ああ、なんか買わなくちゃ」という気持ちに駆られます。テレビで他のスーパーでも売り切れ続出と見せられるといくらキャスターが「品物はあります。心配しないで」と言っても心が騒ぎます。

私の東京のアパートは四谷三丁目ですが、いつも賑やかな新宿通りはコンビニやスーパーなどの看板も節電で消され、開いている店内も奥半分しか蛍光灯が点けられていないので夜は薄暗くまるで違う場所みたい。人通りもまばらで、とても魅力的な飲食店街である杉大門通りも閑古鳥が鳴いています。これでは各地で3月の決算期を乗り切れない個人店が続出するかもしれません。

映画館も午後6時で閉館。演劇やコンサート、バレエ、イベントなどの興行も軒並み中止。私の母親が楽しみにしていた5月初めの「東アジア・ロシアをめぐる11日間クルーズ」も、いま彼女から嘆きの電話があったのですが、使用する外国船が放射能が怖いとかで日本への寄港を回避することに決定、急きょ中止になっちゃったそう。どこに停泊する予定だったのかと聞くと、長崎と室蘭ですって。関係ないでしょうにねえ。

「風評」被害はこれから国外からもやってくるでしょう。復興支援の輪は海外でも拡大するでしょうが、それ以上に日本への観光客は激減するでしょうし、魚介類を含め日本の産品がどう扱われるかも気になるところです。
もちろんその原因は原発にあります。東京電力はこの事故の直前まで妻夫木聡くんを起用した「オール電化」のCMを大量に流していました。そのすべては止めたり動かしたりを容易にできない原子炉から生まれる昼夜を問わぬ電力を消費させるためでした。民主党も自民党も「クリーンな電力」としての原発を推進してきました。それらの行き着いたところがこんな大惨事でした。

今後、原発行政は世界中で後退するでしょう。それは被災地だけでなく、 日本全体の国のあり方も変えるきっかけになるほどのものです。いやむしろ、これを力に変えるための第一歩を踏み出さねばなりません。なぜなら次にはすぐに、東海・東南海大地震が迫っているからです。

余震、節電、列車の運休と状況が違うので一概には言えませんが、9.11のとき、生き延びた私たちはとにかく早く「普通の生活」に戻ろうと声を掛け合いました。ブロードウェイも敢えて直ぐに再開しました。それが無差別テロに対するニューヨーカー一般の唯一の抗議の方法だったからです。

この大震災の復興の第一歩もまた、敢えて懸命に「普通の生活」をしようとすることだと思います。普通に生活をするということは普通の経済活動を取り戻すことです。それが税金になり、国の力になります。今後避難してくる多くの被災者の方々を受け入れる受け皿が「普通の生活」なのです。

もっとも、原発事故を機に、しらみつぶしに夜から闇をなくしてきた日本の大都会の「普通」の照明のあり方は、考え直した方がいいですね。夜は夜の暗さを楽しむもの。それもNYに暮らして学んだ1つです。

March 14, 2011

東京にて①

寒さも緩んだ午後、連れ合いといっしょに散歩がてら新宿の喫茶店の外でお茶をしていました。そこに地震が来ました。目の前の新しい十数階建てのビルが前後に大きくたわみ、鳥たちが騒がしく鳴きながら青空を飛び交いました。地鳴り、叫び声、窓ガラスの震動。通行中の車が停車し、ビルからは続々と人が出てきて靖国通りの大きな交差点の中央に集まりました。その場のすべてが揺れ、軋み、鳴っていました。とうとう東海・東南海大地震が来たのかと思いました。そのときはまだ震源が宮城沖だとは知りませんでした。その数十分後に、あの津波の第一波が現地を襲おうとしていたことも。

その後の展開はみなさんもご存じの通りです。9・11を体験した人ならばわかるでしょうが、こういうときこそ人びとの善意が輝きます。

計画停電が始まったとき、東電の準備不足と説明の不手際を責める大メディアを尻目に、若者たちはこれをネット上で「ヤシマ作戦」と名付け積極的に節電を呼びかけていました。あの大人気アニメ「新世紀ヱヴァンゲリヲン」で対「使徒」攻撃兵器の電力を集めるため日本中を停電にしたのと同じ作戦名です。自らの不便を捧げる善意の連帯です。

ツイッター上でもこの悲劇の中で起きたささやかな善意のエピソードが多く紹介されています。

▼ディズニーランドではショップのお菓子なども配給された。ちょっと派手目な女子高生たちが必要以上にたくさんもらってて「何だ?」って一瞬思ったけど、その後その子たちが、避難所の子供たちにお菓子を配っていたところ見て感動。子供連れは動けない状況だったから、本当にありがたい心配りだった▼ホームで待ちくたびれていたら、ホームレスの人達が寒いから敷けって段ボールをくれた。いつも私達は横目で流してるのに。あたたかいです▼1階に下りて中部電力から関東に送電が始まってる話をしたら、普段はTVも暖房も明かりもつけっぱなしの父親が何も言わずに率先してコンセントを抜きに行った。少し感動した▼昨日、歩いて帰ろうって決めて甲州街道を西へ向かっていて夜の21時くらいなのに、ビルの前で会社をトイレと休憩所として解放してる所があった。社員さんが大声でその旨を歩く人に伝えていた。感動して泣きそうになった。いや、昨日は緊張してて泣けなかったけど、今思い出してないてる▼避難所でおじいさんが「これからどうなるんだろう」と漏らした時、横にいた高校生ぐらいの男の子が「大丈夫、大人になったら僕らが絶対元に戻します」って背中さすって言ってたらしい。大丈夫、未来あるよ▼韓国人の友達からさっききたメール。「世界唯一の核被爆国。対戦にも負けた。毎年台風がくる。地震だってくる。津波もくる…小さい島国だけど、それでも立ち上がってきたのが日本なんじゃないの。頑張れ頑張れ」ちなみに僕いま泣いてる。

地震後2日間は携帯も固定電話もなかなかつながりませんでした。その一方でツイッターやスカイプは常につながりました。大切な人の消息を知るためにも、ネット接続のできる環境を日本中でいち早く整備すべきだと痛感しています。

そんな中、またまた都知事に立候補した石原慎太郎がこの大震災を天罰だと発言しました。米国のキリスト教原理主義者にもこれとまったく同じ発想をする人たちがいますが、石原こそがこんな人を選んだ都民への天罰のようです。

March 01, 2011

人生の目的

人がたくましく育つにはある程度の負荷が必要です。ですから日本式の入試制度も乗り越えるべき関門として存在意義はあるのかもしれません。けれども負荷ストレスが強すぎると、そこから入試さえ乗り切れば事は足れりと思うような本末転倒が起きもする。日本の今年の大学入試で、なんらかの携帯機器からウェブサイトに入試問題の解答を求めるような輩が出てきたのもその結果なのでしょう。

日本では昔から何度も入試改革が叫ばれていますが、「年に一度の一発勝負」という原則はほとんど変わっていません。対してアメリカではご存じのように一般的に日本の入試のようなものはなく、高校各科目の成績評価平均点(GPA)と、それだけでは学校間の格差が大きいので年数回、全米で同時実施される標準テスト(SATかACTの2種類)の点数などを提出して大学側が総合的に合否を判定するようになっています。

最も一般的なSATの試験は選択科目や小論文も含み年に7回も実施されていて、ある回で失敗しても何度も受け直していちばん良い成績だった回の点数を希望大学に提出することができます。なので一発勝負で合否が決まる日本式よりもこちらの米国式の方が学生のストレスはかなり少ないと思います。

ただし大学の授業は大変です。これもかなり格差はありますが、大学は勉学での鍛錬の場という意識が浸透しています。背景はもちろん米国が大変な学位・資格社会であるということ。学部を修了しただけでは一流企業ではあまり意味がなく、ビジネススクールやロースクールなど大学院を出ていなければプロフェッショナルなキャリアは獲得できないという、有名大学さえ出ていればよいどこかの国の単なる「学歴社会」よりはるかに厳しいものです。

おまけに現在の大学の学費はハーバードやコロンビアなどの一流大学では年4万ドル前後にも達しているようです。寮費や生活費を含めると年6万ドルほどになりましょう。しかも学生の多くはその費用の大部分を親掛かりではなく奨学金や貯金など自分で工面する。そこまでお金を払うのですから真剣にならざるを得ません。日米の大学生の質の差はそんな経済環境の差でもあります。

「入るのは簡単だが出るのは難しい」と言われる米国の大学システムはこうして確立されています。まあ、入るのだって有名大学では「簡単」というほど簡単ではありませんが。

今回のウェブサイト・カンニングに、日本の情報番組のコメンテーターたちは異口同音に「まじめに勉強してきた者がバカを見るようなことがあってはいけない」と怒ってみせています。一見正論ですが、このコメント、私にはなんだか違うような気がします。

どの時代にもカンニングはあり、今回はたまたまネットを利用した新種のものだから驚かれたり騒がれているだけです。言うべきは逆に「そんなカンニングによって、まじめに勉強している者がバカを見るようなことは絶対にない」と教えてやることではないのか?

ズルして大学に入った者はズルして大学を出てズルして社会で生きて行くでしょう。そんな人生は得でもなんでもありません。そんなものに比べて「まじめな者がバカを見た」と怒ってはいけない。それは逆に「カンニングして大学に入った者が得をした」と言うことと同じことだからです。「どんなことをしても大学に入った者が勝ち」という宣言。批判しているはずのコメントが、じつはカンニングを許す論理に手を貸してしまっている。「だからカンニングをしてでも大学に入るべし」という倒錯に通底しているのです。

大学に入ることは人生の手段の1つであって目的ではありません。一連のコメンテーターたちのコメントは、人生の目的を入試合格という手段に卑小化することに貢献するだけなのです。日本の大学入試の負荷ストレスが歪んでいるのは、そうした論理破綻を見逃している社会の浅薄さにもあるのでしょう。そういえば、相談サイトに投稿された問題の解答として「ベストアンサー」と示された英訳例の、何じゃこれ?具合を指摘できたコメンテーターもいなかったなあ。あれは「まじめに勉強してきたものがバカを見る」ような恐れのあるものですらなかった。むしろバカを見たのはそれを丸写しにしたかもしれないカンニング者だったでしょう。ね、「まじめに勉強している者がバカを見るようなことは絶対にない」のですよ。

February 11, 2011

近代と現代のガチンコ

私が毎日新聞の支局記者だったとき、読売新聞の同期の新人記者が交通人身事故を起こしました。そのときデスクは「武士の情け」と言って記事中の彼の肩書きをただ「会社員」とした。まあ間違いではないですが、身内かばいと取られてもしょうがありません。なぜなら被疑者が大企業の社員の場合は「それもまたニュース」としてその企業名を出していたのですから。

でも新聞社はそういう身内かばいはやはりまずいだろうと軌道修正してきました。公に反省したり謝罪したりはしなかったにしろ、こっそりと内部的に反省して現在に至っているのです。それが近世の「瓦版」が知らず知らずのうちに紳士面したいまの「新聞」になっている経緯です。もちろんいまも政局情報や検察・警察情報至上主義みたいな「ヤバい」ところはまだままありますが、おそらくいま新聞社内ではその種のガラパゴス・ジャーナリズムへの反省が秘密裏に進んでいるのではないかと希望的に推測します。

まあ、それを自浄能力と威張って言えるかどうかは別にして、「社会の公器」と奉られた新聞としては変わらねばならないという内的な圧力もあることはあるんだと思うのですね。チクッと刺さったままになっているトゲをいずれはどうにかしなくてはならないだろう、みたいな。しかし翻ってそういう後ろめたさに衝き動かされたささやかな取り繕いの意志すらもが、八百長問題の相撲協会にはなかったということなんだと思います。

相撲の八百長問題は板垣退助の明治時代から表沙汰になっていますが、60年代、70年代にもあって、記憶に新しいのは96年に週刊ポストがやった告発キャンペーン。次は07年の週刊現代での告発でしょうか。つまり協会は最近だけでも2度3度は内部的に出直しのチャンスがあったということです。けれど協会はそれを出直しのモメンタムにするのではなく、まずは組織防衛に回った。後者の、講談社を訴えた民事裁判では大鳴門部屋の板井が84年の北の湖との対戦について証言した「50万円もらって自分が負けるという八百長だった」という告発に対しても、当時理事長だった北の湖自身が「なぜこんな話をするのか理解できない」と全面否定しました。物証がないので結果はもちろん相撲協会側の勝訴でした。

おまけにその裁判の途中でロシア出身の若ノ鵬の大麻吸引事件が起きました。その若ノ鵬が記者会見を開いて八百長問題を告発。けれど大麻を吸うやつが何を言うか、という聞く耳持たずの反応で、若ノ鵬は「八百長告発はウソでした」と引っ込めた。しかしそれも先日、テレビ朝日がその元若ノ鵬に電話をつないで「ウソだと言えば協会が退職金を出してやる」と言われたからだったという内幕を証言させていました。

協会としてまず組織防衛に回るのはわからないでもない。しかしそこでたとえ勝訴したとしても、これは本当はまずいと思った人間は相撲界内部にはいなかったのか? ただ単にバレなくてラッキーと捉えたのだとしたらとんでもないバカ者です。裁判所もマスコミもチョロいもんだと思ったかどうかは別にしても、そのときに後顧の憂いのないように内部的に秘密裏にでも悪しき慣習を絶とうとすることはできたはずだからです。

メディアに登場して八百長問題を語る相撲関係者すべての歯切れが悪いこと悪いこと。だいたい放駒理事長(元大関魁傑)にしても、調べる前から「過去には絶対なかった」と断言するってのはむしろ、真実を糊塗してますって力んでるような印象です。

メディアもメディアです。朝や午後の情報番組で登場する「元力士」たちのコメンテーターに、ズバリ「八百長はあったのか、自分はやったことがあるか、そんな話を持ちかけられたことがあるか、そんな話は聞いたことがあるか」となぜ一言も聞かないのでしょう。みな遠回しに「どう思われますか?」とあいまいに振るだけの遠慮ぶり。噂になった北の湖にだって直接聞けばいいのです。というか、いま行われている力士たちへの聞き取り調査ですけど、そんなことする前にまずは相撲協会の理事たち、親方たちに事情聴取すべきでしょう。だって、彼らの方がいまだけでなく過去も知っている歴史の「生き字引」なんですから。それを、現役の力士たちからだけ事情聴取して罰しようとするなんて、なんとまあ卑怯な。だいたい携帯電話を提出させるなんて、小学生への対応でしょう。なさけない。

グローバル・スタンダードと、すべてを身内で処理できると妄信するガラパゴスな日本的行動規範とのガチンコ。以前も書きましたが、相撲界で起きているここ数年の不祥事とはつまり、ことごとく現代と近代との齟齬のことなのですね。

新聞とかメディアは絶対にグローバル・スタンダードに法らねばならないのは明らかです。でも相撲界は違うだろうなあというのがあります。国技かどうかなんてどうでもいいけど、世界規範に合わせたら相撲もタダのスポーツ……それじゃあなんか寂しいなあ、という思いが日本社会の中にあるのは確かでしょう。ではどうすればよいのか?

八百長をやってきたのにはやってきただけの理由があります。その背景を改善しないでやるなと言うだけではダメでしょう。1つは幕下以下ほぼゼロという給与体系を変えてやることです。そうすれば互助会的な星のやり取りで生活費を心配することもなくなる。また年間90回という過酷な本場所取り組みを減らすことも必要でしょう。真剣勝負での巨体の衝突がそんなにあっては耐えられるはずがありません。地方巡業は「無気力相撲」もまあ大目に見て、しかし本場所は真剣勝負という形にしていけばよいのではないか。

「十両にならなければカネが入らないからこそ懸命に稽古をするんだ」と言ってテレビのコメンテーターとして給与体系の見直しに反対してた元力士もいましたが、そんなことで稽古をしなくなるようなやつならもともと相撲取りにならなきゃよいのです。そんな過酷な給与でしか維持できない星取りの意欲なら、大相撲なんか滅びて当然でしょう。

January 28, 2011

「平成の開国」の正体

オバマさんの一般教書演説が行われました。日本でいえば年頭の施政方針演説に相当するもんですが、日本と同じくねじれ議会を抱える大統領は緊縮財政や法人税減税、自由貿易協定締結など、共和党寄りの中道路線を示して市場の好感を誘ったようです。来年に再選を狙う身としては「米国をビジネスに最適の場とする」ことで「win the future=未来を勝ち取る」姿勢を見せなければならなかったのでしょう。

オバマさんはかっこいいし演説の言葉もいちいち心にしみるし、日本のメディアもなんだか憧れの政治家みたいに扱っています。そのオバマさんが唱える米国の経済回復は、しかし何を「足場」にするのでしょうか?

それは米国の内需が何によって刺激されるかを考えればわかります。簡単に言うとそれは輸出です。どこに?

そこで登場するのがいま話題の「TPP=環太平洋パートナーシップ協定」です。最初はシンガポール、チリ、ブルネイなど小国4国が集まって経済協力しようという話だったのが、昨年10月、急に米国が参加すると言い出してあれよあれよという間に日本やオーストラリアも加わる計10カ国でやっていこうということになっています。菅政権はこれを「平成の開国」と呼んで、乗り遅れたら取り返しのつかないことになると宣伝しているのですが、これ、よく見てみると米国の米国による米国のための内需拡大の戦略的協定でしかないのです。米国に限りませんが、国家というものは外交においてはもっぱら国益のために手段を選ばずに突き進みます。極論を言えばオバマさんもアメリカのことしか考えていないのです。だってアメリカの大統領なんですから。

TPPで日本の輸出が伸びる? そんなことはありません。日本の製造業が輸出で拡大することはない。なぜならTPP参加10カ国内のGDP比は米国が67%、日本が24%、豪州が5%で残る7カ国は合わせて4%しかありません。内需の規模を比べるとその差はさらに広がって米日豪を除く7カ国は合計で0・1%なのです。そんな国々を相手にしても商売なんか増えません。環太平洋で肝心の中国も韓国もいない貿易協定内で、日本製品の輸出先は米国しかない。逆に言えば、米国の輸出先もまた日本だということです。

つまりTPPは実質的に日米貿易なのです。でも日本は対米輸出を伸ばせない。なぜなら円高ドル安で儲からないからです。TPPによって米国は関税を撤廃すると言っていますが、そんな恩恵はドル安による為替損でたちどころに消えてしまう。米国はTPPで輸出を4年で2倍に拡大すると言っているのです。雇用は日本ではなく米国内で生まれるのです。

一方でドル安の米国の農産品が日本に押し寄せます。牛丼はもっと安くなります。野菜もそうです。菅政権はデフレ脱却で雇用の創出を目指しているはずなのに、これではデフレが輸入される。デフレが続けばお米だって耐えきれません。日本の農業は壊れます。

まさに日本をカモにしようというこんなわかりやすいワナに、いくら親米と言えどもさすがに難色を示すだろうと思ったら何を勘違いしたか菅政権はこれを当然のものとして推進しようとしています。いったい何を考えているのでしょう?

最近の菅民主党は政権交代前の民主党とは別物です。若く真面目で意欲に溢れた伴侶が結婚してみたら大ウソつきのロクデナシだった、みたいな。この思いは次の選挙でどこに向かうのでしょうか? また政界再編というのも信じられないし面倒臭いですしねえ。

そんな折、スタンダード&プアーズが日本国債を格下げしました。これはまさに“有言逆行”のいまの政治のせいです。

January 19, 2011

年の初めにイッパツかます

大晦日の夜、「紅白」の裏のTBSラジオで、1年を振り返る時事座談会に出演していました。「フリーランス座談会 信頼崩壊の2010年」というのがタイトル(ポッドキャストでいまでも聞けますが、いつまでサーバーに残っているのでしょう?)。お相手はジャーナリストの江川紹子さんと神保哲生さん。とはいえこれは帰国していた12月半ばに収録したもので実際の大晦日には私はメキシコに避寒に行っていたのですが。

でも今回書きたいのはそのことではありません。座談は大まかな流れだけ決めてすべて自由だったのですが、スタート直後の番組紹介などは司会役でもあった私の役目で、それはしっかりとセリフが決まっていました。でも台本どおりしゃべるのがどうにも嫌で(この日の台本のことではありません。いつもそうなの)、それも何の気なしにアドリブでしゃべっちゃいました。録音なので後で編集できるからよかったのでしょうが、生放送だったら制作スタッフはヒヤヒヤだったでしょう。すんません、TBSラジオのみなさん。

台本どおりが嫌、というのは、たとえ台本以上の面白いことが言えたにしてもともすると失敗する危険もあります。ですので制作側が台本どおりの無難なところでまとめたいと思うのはまったくもって至極ごもっとも。それを責めるのは筋違いです。私もそんな気は毛頭もありません。

でもこうして言挙げしているのはそれを敷衍していまの日本社会を論じちゃおうという魂胆です。最近日本に帰る機会が多く、帰るたびにとても心地よいぬっくりした感じに包まれるのですが、そのうち次第に時間が経ってくるとなんだかフラストレーションがたまってくるのを禁じ得ない。それはべつに私の周囲の人たちに感じているのではなくて、テレビで報道される政治家や官僚やそれを報道するキャスターや記者やコメンテーターたちにイライラが募ってくるのですね。なんともチマチマとお行儀よくまとまっていて、だれもあまり仕事で冒険も遊びもしない彼らを見ていると、なんだかだんだんイラっとしてくるのです。アドリブを嫌う社会。台本どおり。慣例どおり。つつがなく、つつがなく。それはつまり、予定調和を至上として、失敗を恐れる過度の事前警戒を、「普通のこと以上のことをしない」怠惰の言い訳にしている社会のことです。

江川さんは昨年、某テレビでスポーツ評論をする張本勲さんの「喝!」に思わず「えー?」と異論の感嘆詞を挙げたところその張本さんの逆鱗に触れ、番組を降ろされちゃったようです。そこでは台本上、江川さんは発言しないことになっていたからで、張本さん、プロのオレの野球評論にエー?とは何事だ、素人は黙ってろ、となったらしい。ま、翻訳すればそれはつまり女子供は口を出すなってことみたいな響きですけど、まあそうなんでしょう。そうやって日本のテレビ番組では侃々諤々の論争はほとんど起こりません。みんな司会者の「そうですよね」の言葉でうなづき合って次のコーナーへ移るのです。まあ、視聴者の日本人自身が論争を嫌うから、そういうの見たくないってのもあるでしょうけどね。そういうの、すぐに「放送事故」扱いですし。「事故=失敗」を事前に警戒してその恐れをしらみつぶしに排除してゆく。それが「安全=成功=事無し」に至る道です。それをできるのが優秀なスタッフ、ということ。これはじつは皮肉でもなんでもありません。

じつはあの普天間も同じようなメカニズムが働いたのでした。外務省も防衛省も「端から無理」と失敗を警戒して、鳩山さんの外堀を埋め身動きとれないようにした。それが「安全=成功=事無し」に至る道でした。それを見た菅さんが政権延命だけを目的に失敗を恐れてなにも変革せず、官僚たちの言いなりに消費税増税だけを目指すのは当然かもしれません。消費税増税は、まさにいまの体制を維持するため、つまりは同じく「安全=成功=事無し」であるために必要な手段なのですから。そこに横並びで台本どおりの政治部報道メディアの応援があれば下手はしないだろうという目論見です。その屋台骨はすでに世論の波で揺らいでいるのに、です。

また放送局の例で申し訳ないけれど、たとえば自動車会社の提供する番組ではスポンサー社製の車の批判や車社会の弊害には触れてはいけないことになっています。でもそれはべつに提供企業がそう規制しているわけではないんですよ。じつは番組の制作側がそう慮って事前に出演者になんとなくそう伝え、事無きを期するわけです。先ほども書きましたがそれは制作側としては当然の配慮でしょう。そういうたしなみのあるところじゃないと逆に危なくて番組なんか提供できるものではありません。でも本当にそれがいいのでしょうか?

いや、「それが」というのは違うな。「それだけを金科玉条とするだけでことはすべてうまく運ぶのでしょうか?」というようなところが私の気持ちに正確な疑問文です。批判は財産だとして積極的にそれを聞こうとする会社は、自動車会社に限らず逆に伸びるでしょうし、むしろ誠実だとして信頼すらされるのではないか? それは「普通」以上の効果です。事前にすべて段取りしてちんまりまとまる事無かれ主義よりも、むしろ敢えて少しは波風立っても議論して問題の本質を見極めた方が会社や社会の飛躍になるはず。

ところがその判断ができる勇者が少な過ぎる。日本には、企業や社会というプールの中で「溺れると嫌だから」と立ち泳ぎしてる人ばかりが目立ちます。なにも全員がグーグルやアップルの社員みたいに自由に泳いで発想しろと言っているのではないけれど、そういうアドリブのための余地を用意していないとブレークスルーは絶対に起きない。

台本、慣例、マニュアル──いろいろな呼び名はあるでしょうが、もっと楽しく自由に仕事をしようじゃありませんか。もちろんアドリブはしっかりと基本を押さえていないと無理だし、そういうのができないのにしゃしゃり出てくるやつが多いと「おまえはマニュアルどおりにやってればいいんだよっ!」と怒鳴りたくなるのもわかるんですがね。アメリカにいると日本とは逆に、面白いやつはたくさんいるけどそうした台本どおりの基本動作ができない輩が多すぎて、そっちの点でイラっとすることが多いのですから困ったもんです。

段取りと事前警戒を怠らないきっちりしたスタッフがいる。でも同時に、自由にアドリブでやれるスタッフもいる。そしてその双方がお互いを必要としていることを自覚し尊敬し合っている──どうして人間社会ってそんなふうにバランスよく両方を兼ね揃えることができないんでしょう。うまくいかないもんですねえ。

政権交代から2年目です。このパラダイムシフトには未知の状況を切り拓く当意即妙の胆力が必要なのはわかっていたはずなのに、日本社会の個人個人はそれに対応し切れていません。減点されない普通のことをするのではなく、得点しなくちゃ勝てないのだけれど。まあ、こんなことを新年早々考えているのは、ええ確かに、私がジャズやロックのアドリブが大好きだったサッカー少年として育ってきたせいかもしれませんけど。

December 14, 2010

「表現の自由って言われてもねえ……」を考える

過激な性描写のある漫画やアニメを18歳未満に販売するのを規制する石原都政の「青少年健全育成条例改正案」が可決の見通しとなりました。規制されるのは「刑罰法規に触れる性行為や近親相姦などを不当に賛美・誇張」して描写した漫画やアニメだそうです。

この条例に対して反対意見が渦巻く理由が一見よくわかりません。「表現の自由」と言いますが、子供に違法なポルノまがいを売る自由なんてないはずですし……じゃあ、どうして問題なのでしょう?

一般の人にとって、表現の自由ってのは常日ごろ自分を思う存分表現できている自由人たちの特権だと思われているようです。そんなもの一般人には無縁だしまして不健全なポルノを表現の自由を盾に擁護しようと言うのはまったくもって理解できない──そういう思いがこの条例に反対しない、つまりは問題なしと見なす背景なのでしょう。

それは置いておいて、ところで自分や自分の仲間たちのことを思い出すと、十代のころ、ぼくらはどんなに規制されていても「過激な性描写があるもの」を必ず探し出してきました(笑)。その中にはヒエーッてもんもゲロゲロッてもんもありました。どんなに規制したってそれは無駄でした。でどうなったか? そのうちに飽きてきたか、1日のうちの、重要だけれどある一部に成り下がった(あるいは成り上がった?)。

そうやってくだらんもんは淘汰されてきたのです。臭いものに蓋をして、ないかのごとく振る舞われていたらもっと鬱々と延命していたでしょうが、むしろ青年期のすべての葛藤は良きにつけ悪しきにつけそうした性衝動から生まれるものだと開き直った方がずっと「健全」でした。

くだらんものを淘汰する唯一の方法は、じつはくだらんものを排除することではなかったのです。よりくだらなくないもの、そんなものよりもっとかっこいいもの、すごいもの、面白いものがあると気づくことでした。それによってのみわたしの青少年はその澱みを振り返ることができたのです。

この改正案が無駄どころか有害なのは、くだらんものに対峙させるべき素晴らしいものを青少年たちに提示するという最も重要な発想を阻害し、くだらんものもない代わりにくだるものもない社会しか青少年たちに与えられないからです。

聞いてみるといいでしょう、賛成派のPTAとか政治家たちに、あなたはどれだけ人を感動させる物語を知っているのかと。どうせ陳腐な小話や交通標語みたいな常套句しか返ってこないはずです。そこにはボードレールもランボーもロートレアモンもいない。

ここに至って初めて「表現の自由」の重要さが見えてきます。くだらんものがあって初めてくだるものがある。くだらんものを表現できる社会にのみ、それに見合うくだるものが対抗的に存在しうるのです。あるいはそこでは、くだらんもの自体もくだるものに変容しうるのです。それこそが人生の核心なのです。

そういう逆説を理解できない凡庸な知能が、なんとも愚かしく目先の規制に走ってすべての青少年の遥かな可能性を殺すのです。

いや、この改正案が成立しても有能な表現者たちは書き続けるでしょう。そうした「特権」的な才能は大丈夫。しかし問題は、まだ特権的ではない才能たちが、この条例で自粛し、あるいは自粛する表現メディアの検閲によって多く斃れるかもしれないことです。表現の自由が、かくして既成の、特権的な才能に限られることになることが問題なのです。

いみじくも石原は言いました。「連中が果たして芸術家かどうかは知らないけど、そんなことで描きたいものが描けなくなるなら作家じゃないよ」。つまり彼は、彼のような特権的な人間のみが表現の自由を享受できるのだと言っているのです。これが石原という権力装置とこの条例の正体です。それは、ひいては一般人という民主制度の基幹構成概念が、言葉を持たずともよいというファシズムなのです。

November 15, 2010

この内閣は早晩つぶれる

仙谷官房長官があんなにカンカンになって怒っていた神戸海上保安部の保安官による尖閣沖・中国漁船衝突ビデオ流出で、警視庁捜査一課と東京地検はこの保安官を逮捕しないまま任意で捜査を続けるようです。捜査を続けると言っても、はたして起訴するのかどうか自体わかりません。書類送検くらいはしなくちゃならんでしょうがね。

これはじつに興味深い推移です。政府が率先して「大問題」にしてきた一件では、ふつう容疑者は何がなんでも逮捕されてきたもんです。指揮権発動などという大げさなものではなく、その意を汲んだ捜査当局がその方向でよしなに動き出すのです。逮捕要件というのは法的には証拠隠滅や逃亡の恐れがあることですが、そんなことはお構いなしに逮捕して密室でぎりぎり取り調べるのが一般的。特にメディアが大きく扱うような話題性のあるものはそうしてきました。芸能人とか有名人の逮捕とか、ときに証拠は出そろっているし逃亡の恐れなんか全然ないようなときだって捜査当局は彼らを簡単に逮捕・勾留してきたわけです。なのに今回に限ってこんな「大問題」でも逮捕しない。これはいったいどうしたことでしょう?

この保安官の場合、国家公務員法の守秘義務違反というのがとりあえずの容疑なのですが、限定的ながら国会議員に見せたビデオはすでに秘密に当たらないとか、海保内部で広く閲覧入手できたことも秘密性を薄めるとか、そういう「逮捕できない」技術的かつ論理上の理由が論議されています。でもそんなことも本当は関係ありません。だってこれまでは逮捕すると決めたらこないだの厚労省の村木局長冤罪逮捕のようにそれから犯罪事実を作り上げるという倒錯的な手法だって取ってきたわけですし。

これでは、秘密保護法の制定まで持ち出した仙谷長官も振り上げた拳の下ろしようがない。面目丸つぶれ──そう、つまりそういうことなのです。

この仙菅内閣で、政府当局者=役人たちが次々と“反乱”を起こしているのです。この尖閣問題に限っても那覇地検が船長釈放を意趣返しのように政治判断だとわざわざ会見で明かしたのはなぜだったのでしょう。この海保保安官だって、「政治的主張ではない」と言っていますが、ビデオを公開しない政府にこのままでは永遠に闇に葬り去られてしまうと危惧したからだとも言っています。これは政府に対する反抗です。

そこに来て今度は捜査当局が彼を逮捕しない。それは何かというと、捜査当局がこの内閣のメンツを立てる必要はないと判断したということです。内閣支持率が30%を切ったそんな国民感情に反してまでこの内閣と心中したくない、する価値はない、という判断です。それはつまり、この内閣は早晩つぶれるという判断に他なりません。

事業仕分けで廃止と決められても無視して名目替えの予算を要求するような官僚たちのしたたかさに、枝野幹事長代理は「与党がこんなに忙しいものとは知らなかった」「政治主導なんてウカツに言ったら大変なことになった」と漏らしたそうです。確かに官僚もひどいが、そこに来て政治家がこれではまともな国家運営など望むべくもありません。この論理だとウカツだったのはあのマニフェスト全部ということになるのですから──だって八ツ場ダムは建設中止発言を撤回し、高速道路無料化も子供手当満額達成もあやふや。議員定数削減はウソだし企業献金は禁止どころか復活示唆。普天間は五里霧中で日米地位協定の改定などどんどん声が小さくなる。

そうして先日のAPECでは、菅総理は胡錦濤に対して相手の目ではなく自分のメモを見て抗議するという腰抜けぶり。おまけにメドベージェフには「北方領土上陸がなぜいけないのか」と逆ギレ質問される始末。これに菅が毅然と応え得たのかも明らかでなく、この返答もきっと国家機密なのでしょう。かつてのソ連で、ブレジネフをバカだと言ったら逮捕され、罪状が国家機密漏洩罪だった、というジョークが流行っていたのを思い出させます。

そう、ビデオ流出問題の本質は、あんなビデオを思わせぶりに国民に秘密にしていた仙菅内閣の支離滅裂さの露呈です。判断能力への疑義なのです。

あれは実は国家機密の漏洩などというものではありません。捜査資料の漏洩ですらない。だって船長は釈放され、今後、裁判になんかなるわけがないのですから捜査資料としての秘匿性は事実上必要ないのです。日本国としては、かろうじてこれを秘密にすることで中国側との外交交渉のカードにしようということはあり得たでしょう。しかしそんな素振りすらなかった。

ではなんで問題となっているのか? それはあのビデオの公開が、たんに仙菅内閣に都合が悪かったというだけの話です。公開によって国益なんぞ損なわれていません。損なわれたのは内閣のメンツだけです。「最初から公開していればこんなことにならなかった」というのは、つまりそういうことです。秘密だと言うから、それが公開されたらメンツが立たなかった。秘密だとしてなければ、そもそも問題なんぞなかったのです。

それなのにまだそんな政府の無能さを擁護するかのように大メディアは情報管理の徹底を訴えたりしています。「管理」の名目で権力によって隠される「情報」を、「事実」として広く主権者たる国民に提供して国民自身の判断を仰ぐ、というのが自分たちの使命なのに、これではまるで権力側に立つ御用ジャーナリズムです。wikileaks で先日来、アフガン戦争関連の国防機密文書9万2000点、イラク戦争40万点が公開されましたが、欧米のメディアは犯人探しや国家機密情報管理の危うさなんぞにはほとんど関心を示しませんでしたよ。むしろその情報内容の重大さをこそ掘り下げていた。

日本のメディアもいま報道するなら海保保安官の個人的な情報なんかではなく、警視庁公安部外事3課の国際テロに関する資料の流出問題でしょう。流出は流出でも、これはわけが違います。そっちのほうが百倍も千倍も重大・危険です。いったい何をのんきに構えているのでしょうか。

この内閣も、この国の記者クラブ・メディアも、確かにもう長くはないでしょう。捜査当局が見限ったということは、他の省庁も見限るということですから。ますます官僚たちは働かなくなります。

不幸なことですが、そういうのは早くつぶれないと次の時代はやってきません。官僚制度だけはつぶれそうもありませんが。願わくば、次のその時代がよりよいものであるようにするために、とりあえずはこの内閣とこの記者クラブ・メディアの何がダメなのか、きちんと何度でも書き留めておかなければならないのです。

October 13, 2010

検察審査会もおかしいぞ(10/18、加筆あり)

小沢一郎という政治家はよほど嫌われているんでしょう。検察審査会の2回もの議決で強制起訴が決まり、それでも議員辞職も離党もしないと言うので、各紙の世論調査によると6割とか7割の人たちがけしからんと思っているようです。

じつは公務員の場合、刑事事件で起訴された時点で「通常な勤務が不可能になる」「公務につくことに疑惑や疑念が生じる」ために休職扱いとなります。ただしそこで被告人本人が罪を認めている場合は、本人に確認した上で懲戒免職の処分が下されたりします。でも本人が罪状を否認している場合はあくまでも「推定無罪」の原則で免職にしたりはできません。

ところが日本では、逮捕されたら即、犯人という印象が強いですよね。だから起訴の段階で会社を辞めさせられたりすることもあるかもしれません。あるいは世間的にそういうふうに思い込んでいる人も多いでしょうね。これはひとえに優秀な日本の警察への信頼があって、さらにそれに乗っかった上でメディアの報道があるからです。新聞記者もテレビ記者も、事件や事故の場合は日常的にほとんどが捜査当局の情報が主たる第一次情報なので、自ずと視点はまずは捜査当局のものと同じになります。

捜査当局の視点とは、事件においては、あくまでも容疑者を捜し出し、そいつは有罪だと思って邁進するという視線です。メディアも推定無罪原則はいったん棚に上げ、とりあえずは手っ取り早く手に入るそうした容疑者情報を基にすることになります。それが同時に、読者に読まれるような(事件が解決してよかった、いったいどんなやつが犯人なんだ?的な)記事を提供するということにつながる。それが期待されるニュースなのですね。

新聞もテレビも商売です。推定無罪を掲げて容疑者の人物像や事件の背景を伝えなかったら(それはまだ捜査当局の思い描く「筋読み」の物語でしかないのですが)だれも買っても見てもくれません。せめてバランスをとって容疑者側の言い分を伝えようにも、勾留期間中は弁護士以外は接見禁止だったりして直接取材ができないので、警察や検察経由の供述内容を伝聞報道するしかないのです。記者による独自の調査報道というのもありますが、よほどの大きな事件でないと徹底取材は難しい。それだっていわゆる世間の関心を見諮りながらやるわけだし、強制捜査件があるわけではない新聞社には人材や労力も限られています。

かろうじて事実に近いものが明らかになるのが裁判ですが、そんなころにはみんな当の事件の内容すら忘れています。とてもそれまで待てません。じつは裁判原稿はきちんと追うとかなり興味深いものがあるのですが、なにしろ事件から時間が経っている上に公判も小間切れで、1回1回の間隔が長い(最近の裁判官裁判は違いますが)。自ずから読者も限られてきます。

かくしてジャーナリズムは、いまも瓦版時代の一時的・短期的なセンセーショナリズムから脱却しきれない。まあ、日本の検察の起訴有罪率は99%以上ですから、そこに乗っかって記事を書いてもあまりハズレはないわけですが。

しかし今回、厚労省局長だった村木さんの裁判で恐ろしいことが発覚しました。前回のコラムで書いたように、検察は自分たちの有罪物語に合わせて証拠を捏造することもあるのかもしれないという重大な疑義が生まれたのです。そのことに世間が気づいた。じつはこれに合わせて新聞報道やテレビ報道というのもじつはすごく危ないのではないかということもわかったのですが、これは当の新聞やテレビが触れないのであまり話題になっていませんよね。

でも、こんなのがありました。
朝日新聞社の今年の会社案内です。まずは9月初め時点でウェブサイトなどで宣伝されていたこの紙面を見てください。

そしてこれが10月になって掲載されている同じ、というか改訂された宣伝文です。

どう変わったかわかりますか?

改訂前は、この郵便不正が局長逮捕にまで及んだ大事件で、それを「朝日新聞は、特捜部のこうした捜査の動向や、事件の構図なども検察担当の記者たちがスクープ」と自慢していたのですが、改訂後には「一方、(中略)厚生労働省の局長が逮捕・起訴されましたが、大阪地裁で2010年9月、無罪判決が出されました。朝日新聞は、逮捕の前後から局長の主張を丹念に紙面化すると同時に、特捜部の捜査の問題点を明らかにする報道も続けました」となって、掲載した新聞紙面の写真も、真ん中のが村木さんの写真まで付けた「厚労省局長を逮捕」の紙面から差し障りのないものにすげ替えられているのです。

村木さんが逮捕・起訴されたときのメディアの報じ方は、やはり前述した「犯人扱い」でした。なんだか女性の出世頭であることが悪いことかのように、まるで(言葉は悪いけど端的に言えば)「やり手ババア」みたいな書き方をしていたんですよ。そのことにホッカムリして、しれっとこれはないでしょう、という気がします。ま、朝日に限りませんが。

村木さんだけではありません。今年は足利事件の菅家さんの再審無罪もありました。そんな大げさな事件でなくとも、たとえば痴漢の事件などでかなりの無罪判決が出ています。これは07年に公開された「それでもボクはやってない」という映画でも描かれていたパタンです。

そういうときはみんな「無実なのに有罪にされるなんて、怖いなあ」と思うのですが、でもやはり誰か容疑者がつかまるとどうしても懲罰心理が働いてしまう。「赦せない」「懲らしめてやれ」という感情がその人に集中します。その心理を煽るようにまたメディアもそうした流れに添った情報を売るのです。

話を最初に戻しましょう。小沢一郎に対するこの検察審査会による「起訴」は、そんな「一般」の「市民」の「感情」を背景にしているのでしょう。朝日は社説で「知らぬ存ぜぬで正面突破しようとした小沢氏の思惑は、まさに『世の中』の代表である審査員によって退けられた」と書きました。他紙も異口同音です。本当にそうなのでしょうか?

ここまでを踏まえた上で、次に検察審査会の問題に触れたいと思います。

Continue reading "検察審査会もおかしいぞ(10/18、加筆あり)" »

October 04, 2010

やはり検察が変だ

新聞記者も取材の前にはある程度自分なりの構図や物語を考えます。そうじゃないとインタビューしても質問が定まらないからです。ところが、取材の醍醐味はいかに自分の思い描いたストーリーがはずれるか、なのです。こちらが想像できるようなことは読者も想像できる。しかし事実は往々にして想像の範囲を超えていました。ときに取材対象者すらも自分ではそうだとは気づいていない、そんな予想外の事実や意味をいかに引き出すか、それがインタビューの面白さです。

そういうことを続けていると、他者という存在はなんと凄いものだろうという畏敬が生まれてきます。若いころには小説を出したりもしましたが、少なくとも私の虚構の想像力など事実の前ではたかが知れていると思い知ったのも新聞記者ならではの経験でした。

検察もまた、捜査に当たっては事件の「筋読み」をします。それは新聞記者と同じです。警察を介さず、検察が自ら直接捜査する特捜部事件はこの筋読みがすべてを左右します。なぜなら、ほとんどを個人で行う新聞記者と違って、チームで取り組む特捜部は筋を読み違えてもなかなか方向転換ができない。こりゃダメだと別のネタを探せばいい気楽で身軽な新聞記者と違って、年に1度か2度の大ネタを外すことは特捜検事の出世には致命的なことなのです。だから慎重にも慎重を重ね、筋読みの確度を高めるのです。で、そうするとなおさらその筋からはずれられないという矛盾に陥るのです。

郵便不正事件の村木・元厚労省局長のえん罪(未遂)事件も、こうした筋書きから逃れられなかった硬直した特捜検察の大罪です。しかもこれは、いま紙上をにぎわす前田検事のフロッピーディスク改ざんが問題の本質なのではありません。本質は、検察が村木さんは無罪だとわかっていたのに(実際、公判3日目には公判担当検事が上司に無実だと申告していたのです)、そのまま筋書き通りに有罪論告を行ったことです。前田検事のFD改ざんはその氷山の、目に見えやすい一角に過ぎません。

これは公的な人格を抹殺するという意味で殺人を試みるに等しい行為です。しかもその有罪論告はもちろん検察のトップも了承していた。いったい、どういう民主国家がこんなことをするでしょう? まるでナチスやスターリンです。その罪の大きさを、検察はわかっているのでしょうか? そうして、検察トップもまたその共犯だということを。

筋書きに合った調書を取るのを得意とする(業界用語で「割り屋」と呼ばれます)この前田検事の関与した事件には、民主党の小沢元幹事長絡みの「西松建設事件」や「陸山会事件」、当時の佐藤栄佐久知事らが起訴された「福島県知事汚職事件」、元公安調査庁長官を一審有罪にした「朝鮮総連事件」と、いずれも容疑者から事件関与を認める供述を引き出し調書にまとめたものの、共通して公判で否認に転じられている怪しいケースが多いのです。

前田検事が「筋書き」に合わせて証拠を捏造する検察の象徴だとしたら、少なくとも彼の関わった事件はすべて直ちに訴追・公判を一時停止し、供述調書を含めた証拠の一切合切をすぐにも洗い直さなければならないのがスジでしょう。これは検察の公訴権の土台を揺るがす大問題なのです。なぜなら、司法当局を信用できない国家は民主国家ではあり得ないのですから。

そこに検察審査会が小沢元幹事長の強制起訴を議決しました。小沢氏の一連の「政治とカネ」問題の端緒は、公設第一秘書の大久保氏が、前田検事の取り調べで容疑を否認から「大筋で認めた」と転じたことでした。

検察審査会は正しい判断をしたのでしょうか? ならばいいのですが、もし違っていたら?

検察が起訴した事件はこれまで99%までが有罪でした。なので「起訴=有罪」という方程式が成立すると見なされています。しかし今回、村木さんの裁判でそれが崩れた。それでみんなが慄然としているときに、この検察審査会による「起訴」です。その起訴はすでにかつての起訴ではないはずです。起訴は昔の起訴ならず、ってやつでしょう。おまけに、検審は、白黒は裁判所がつけてくれ、という判断。検察の起訴は、こいつはクロだから裁判でそれを追認しろ、っていう勢いなのですが、検審はそうじゃあないようだ。

にもかかわらず、起訴は起訴として与野党かまわず政界もメディアも「小沢はヤメロ」の大合唱。いったい村木裁判から何を学習したのか?

検察審査会の問題は、……長くなるのでそれはまた次回で書きましょう。

September 28, 2010

まずは検察が変だ

尖閣諸島沖の中国漁船船長の逮捕・勾留は、「国内法に基づき粛々と対応する」という菅政権の方針に反して、那覇地検が国益や外交上の配慮を理由に処分保留での釈放という措置をとりました。これには呆気にとられました。

菅政権の対応のちぐはぐさも問題ですが、それ以前に変だったのは那覇地検次席の記者会見でした。職務外である外交上の配慮を被疑者釈放の理由にし、その権限逸脱を検察自らが記者会見で明かしたのです。なぜ記者会見で釈放の理由を「我が国国民への影響や今後の日中関係を考慮」したと述べる必要があったのか?

ここはむしろ、中国からの圧力とは関係なく、純粋に検察の職務である「捜査の結果」として処分保留の釈放を判断したと言い張っても何の不都合もなかった。それが茶番であることも重々承知の上で、そう言い切ることこそがこれまでの官僚たちの対応でした。

それが今回は違った。そもそも逮捕から勾留に進んでも外交問題には発展しないと外務省が読み違えたのがバカな話なのですが、いずれにしてもその結果、日本ではいまそんな官僚側の不手際を問題とするより「中国になめられた」「国辱だ」という対中国への怒りと不満が充満しています。

しかしあの那覇地検の会見を聞いて以来、いったい菅政権と検察のあいだに何があったのか、それが気になってしょうがない。中国になめられる云々前にそもそも検察が政府をなめてかかったんじゃないか、というのが1つの見方です。

船長釈放に当たって検察が政府から圧力を受けたことは確かです。検察が独自に勾留途中の被疑者を釈放するということはあり得ません。ところが検察としては、村木裁判での無罪、さらには証拠フロッピーの日付改ざん問題と、どんどん風当たりが強くなる現在、そこに勾留延長期間での船長釈放とでもなれば意味が通じない。ここはなんとしても自分たちの苦渋の判断を説明しなければならない。それでなければ対中国の日本の弱腰対応という批判が検察に集中してしまうことは目に見えています。そこでその「弱腰」の責任の所在を、「これは検察の判断ではなく政府の判断だ」と言い逃れをした、というのが今回の内情ではないか、という見方です。それこそ、そう発表することで日本の国益や外交上のメンツを著しく損なうことなどお構いなしに。

そうだとすると今回、検察は自己保全のためには国益をも犠牲にするのを厭わなかったということです。官僚制度vs民主党などという高尚な対決構図や意趣返しでも何でもない。これは後先かまわぬ自己防衛です。日本の官僚制はそこまで児戯に等しく幼児退行したということです。会見であんなことを言わなければ、船長釈放措置はこれほど「政治的」にはならなかったのですから。

しかしいま1つは、それを承知の上で菅政権が検察に罪を着せたという見方。面倒臭い外交上の言い訳も何も、ぜんぶ検察に言わせてしまえ、という政権の指図があったのか? まあねえ、そんなに今の内閣と検察が通じているとは思えないのですがね。

じつは中国政府の一連の抗議の中で「中国は強い報復措置をとる。その結果はすべて日本側が負うことになる」という警告が何度か発せられました。これはもちろん中国国内向けのアナウンスでもあるのですが、この文体、聞き覚えがあるでしょう? そう、あの北朝鮮とまったく同じものなんですね。ああ、中国ってこういう国だったんだ、と改めて思ったのは私だけではないでしょう。世界中の民主国のすべてがきっとそう感じたはずです。

そのとき、なめられようが国辱だろうが、そういう下品な恫喝のコメントを発する必要のない日本を私は誇らしく思いました。中国や北朝鮮とは違う、成熟した文化国家だと思った。むしろそれが外交上の重要な武器だとも思いました。実際、あの発言で、そして例のレアアースの禁輸措置で、世界各国の中国評価は一気に下がりました。というか熱が冷めて冷静になったと言いましょうか。事実、それらを背景にアメリカもまた中国への間接的なメッセージを発したのです。クリントン国務長官が尖閣諸島は日米安全保障の範囲内と発言したのは、その1つです。もっとも、実際に武力衝突が起きた場合に米軍が出るかというのはぜんぜん別問題ですが。

これは中国の敵失なのです。日本はこういうときにしっかりとそれを逆手に取って外交上の切り返しに使わねばならない。武力を行使しない日本は、そういう論理でしか対抗できないのですから。それが成熟した民主主義国の対応というものなのです。

しかしあの那覇地検の会見やその後の政府の答弁を聞いていて、ともするとこれは成熟などではなく、日本という国家システムの、単に未熟な幼児的思考放棄の姿だったのではなかったかとの思いもぬぐい去れない。今後、問題の漁船衝突のビデオは公開されるのでしょうか? 諸外国にどういうレアメタル貿易の需給構造の再構築を働きかけるのでしょうか? そういう経済的な安全保障をどう作って行くのでしょう? そのイニシアティヴを取ろうという意志も兆しも、菅政権に、はたして見えていますか?

中国の強硬姿勢は国内向けですからいずれ軟化するでしょうが、中国をやわらかく包囲する新たな外交システムを展開しなければならないときに、ともすると今回の那覇地検の会見に垣間見られたような日本国内での行政システムの崩壊が起きているのかもしれません。それは慄然とする話です。

September 15, 2010

菅とオバマのシンクロ具合

「いよいよこれから政権の本格運営」と言いながらも、菅さんの政策が実はいまもよくわかりません。民主党国会議員412人の「全員内閣」というのも、はたして小沢陣営との人事面での折り合いはつくのかどうか。

そもそも告示の前後で小沢さんに人事面で配慮をすると言っていたのをいったん白紙に戻す修正を行い、その後またいつの間にか「全員内閣」と言っているのはどういうことなのか? さらに小沢さんの「政治主導」や「地方主権」という決まり文句を、選挙戦後半では菅さんも言い始める始末。いやいや、全員内閣も官僚政治打破も地方重視も実に結構なことですから、菅内閣がそれで行ってくれるなら小沢派だって大歓迎、べつに小沢総理でなくとも実を取ればそれで民主党的には大団円、めでたしめでたしでしょう。しかし菅さんの場合、ほんとにそうなの? 思いつきでパクってるだけでしょ? という感じで、どうも額面どおりには受け取ってよいものかおぼつかない。

菅さんはこれまで民主党の代表選には9回も立候補しています。ならばもっと日本を率いる具体策や理念があって然るべきなのに、どうも言葉が上滑りして「雇用、雇用、雇用」と言う「新成長戦略」も具体的に何をどうすると言いたいのかよくわからない。今回が初めて総理大臣に直結する出馬だったせいか、政策モットーはこの選挙戦を通じて紡ぎ出した感さえあります。結果、日本のマスメディアでは「政策論争が盛り上がってよかった」との論調まで出た。でも、菅さんの主張に首尾一貫さがないのは消費税10%発言を筆頭に明らかなのでした。

わたしが懸念するのは「長期本格政権を目指す」という発言が(実際、3カ月前の首相就任時にそう言ったのです。「普天間も片付いたから」と)、菅さんにとって目的化していることです。長期政権であるために必要な手っ取り早い方法は「自民党化」することです。つまり、体制を維持し、体制不安につながる抜本改革を行わないこと。つまり、政権交代を狙って民主党の掲げたマニフェストを引き揚げること、なあなあに済ますことなのです──国家戦略局なんて滅相もない。

今回の代表選で菅さんが勝利したというのは、このマニフェスト修正に民主党とその支持者がお墨付きを与えたということです。いや、そうではない、反小沢票が消極的に菅さん支持に回っただけで、マニフェストの理念そのものは否定されていない、と言う向きもいるでしょうが、民主党はそうは動かないでしょう。

菅政権は何をどうしたいのか? そしてそれはかつての自民党の政治とどう違うのか? 第2次菅政権はそれを明確に示し得るのでしょうか?

菅さんのこの3カ月の日和見ぶり、いや腰砕けを見ていると、与野党協調を謳うあまりにどっちつかずになって改革を進められないオバマ政権を見ているような気になります。「チェンジ」を掲げながら、アメリカは変わったでしょうか? イラクの戦闘部隊撤退も形だけ、アフガンは泥沼化、国内には反イスラムの連鎖が顕在化し、同時に同性愛者の従軍問題も拙速が目立つばかり。金融改革も中途半端でまたまたウォール街を利するだけですし、環境問題もメキシコ湾原油流出企業への甘い事前検査が明らかになり、なおかつ環境汚染の危険性の高い海洋油田掘削規制はまったく手つかずです。唯一の成果とされる医療改革と国民皆保険制度も実際はどっちつかずの改革に落ち着いて、大統領就任時の熱狂的ともいえた国民の変革への希求は、なんだか尻すぼみになりつつあるのです。

そこで中間選挙です。貧富だけではなく、アメリカでは保守とリベラルの両極化が進んで、とりとめがありません。リベラルなオバマ政権下で、どうして共和党のティーパーティー(お茶党)みたいな右翼が出てくるのでしょうか? それはまさに例のグラウンドゼロ・モスク問題の反イスラム感情勢力と重なります。そうしてオバマ民主党は中間選挙での敗北が予想されている。

それは、同じくどっちつかずの菅政権の道行きと重なりはしないのでしょうか? 政局ではなく、私は日本とアメリカが心配です。まあ、これまでもいつも「心配」してきたわけですからいまさらどうのという感じもありますが、しかし心配してきた一つひとつはかなりその心配に沿って現実のものになっています。いつどこでそれがロバの背を折る一本の藁になるのか、心配はその線へとシフトしていっています。

August 10, 2010

ママの憂鬱

7月下旬、34歳の日テレの女性アナウンサーが5カ月の乳児を残して仙台の高層マンションから飛び降り自殺しました。日本の朝やお昼のニュースショーでは男性のコメンテイターやキャスターたちが深刻顔で「育児ストレス」や「育児ノイローゼ」に関した通り一遍のコメントをしていました。いわく「育児が大変な仕事だという周囲の理解と協力が必要」──しかし育児ストレスというものの正体が何なのかという「理解」は、当のコメンテイターたちにもあまりないようでした。

事件後ややして「育児ストレス」は「産後うつ」という言葉に置き換わりました。そう診断されていたと女性アナのお兄さんが明かしたからです。けれどそれがどういう病気なのかは「優秀で、きまじめで完全主義な人」がかかりやすいだとか、「最後まで仕事にこだわり、育児を割り切れない」のが原因だとか(いずれも産経新聞iZa β版http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/425362/)、なにもわかっていないままでした。

テキサス州ヒューストンの郊外で9年前の2001年、生後6カ月から7歳までの子供5人全員が36歳の母親の手で浴槽で溺死させられたという事件がありました。母親はその2年前に四男を出産し、その後、うつ病になっていたのです。そう「産後うつ」です。

このとき、NYタイムズなどの米紙は事件に絡め、出産に関連する女性のホルモンや代謝の変化の、男性たちの想像もつかない複雑さを詳細にリポートしていました。

こういうことです。出産と同時に胎盤が出てしまうと、女性の体内では卵胞ホルモンであるエストロゲンも数分あるいは数時間以内で急激に下降します。黄体ホルモンも同じく急降下し、その一方でお乳を司る脳下垂体が普段の2倍にまで膨張するのです。それまで9カ月間にわたって母胎を守ってきたシステムそのものがとつぜん切り替わってしまうのです。これはまさに「変身」の衝撃が母体を襲うということです。

その結果、米国では85%もの母親が出産後3日以内に「ベイビー・ブルーズ(産後の気のふさぎ)」という症状を経験するのだそうです。気分の波が激しく、2週間にもわたって鬱々とした状態が続くのです。

85%、とはほとんど全員です。しかしもっと驚くのはそのうちの10人に1人がただの気のふさぎでは済まずに本当に「産後うつ病」に移行するということです。こうしたお母さんたちは疲弊感と孤独感にさいなまれ、母になった喜びも感じられずしばしば涙に暮れ、食事や睡眠も不規則になるのだとか。おそらくこれらの数字に日米の差はあまりないと思います。違いがあるとしたら、それは母親たちを取り巻く環境の差でしょう。とはいえ、それもいまはそんなに変わらないと思いますが。

うつ状態よりも厳しい症状は「産後精神障害」と呼ばれます。米国では新生児の母親の千人に1人という発症率ですが、これはふだんの精神障害発生率の16倍という数字だそうです。この場合は出産直後から妄想が現れ、「赤ちゃんを殺せ」「この子は死んだほうが幸せだ」という幻聴まで聞こえたりするとか。米国ではこうした母親による赤ん坊殺しが毎年百件前後も発生しています。

産後のうつ症状にはホルモン療法が効果的とも言われますが、もちろん同時に家庭内での理解と支援が必要です。もちろんこれはお題目的な理解ではなく、前述した女性の化学のメカニズムを男性たちも含めた周囲のみんながきちんと知っての理解です。そのためにはメディアもきちんと科学的な情報を提供することが欠かせません。何も知らない人たちがテレビで適当にコメントを出し合っても、そんなものは何の役にも立たないのですから。

最近、日本でも子供の虐待死が相次いでいます。男性の手になるものは何をか言わんやですが、それが母親による育児放棄や虐待である場合、私たちが「育児ストレス」と簡単に呼び捨ててしまいがちなケースのその裏側には、甚大な産後の肉体的変調が関わっている可能性もあるのかもしれません。

August 04, 2010

クローゼットな言語

「イマーゴ」という、今はなき雑誌に依頼されて書いた原稿を、昨日のエントリーに関連してここにそのまま再掲します。書いたのは2001年3月って文書ファイル記録にあるんですけど、当のイマーゴは96年に休刊になってるんで、きっと1995年11月号の「ゲイ・リベレイション」特集でしょうね。へえ、私、15年前にこんなこと考えてたんだ。時期、間違ってたら後ほど訂正します。

では、ご笑読ください。

****

クローゼットな言語----日本語とストレートの解放のために


 「地球の歩き方」という、若い旅行者の自由なガイドブックを気取った本の「ニューヨーク」グリニッチ・ヴィレッジの項目最初に、「(ヴィレッジは)ゲイの存在がクローズ・アップされる昨今、クリストファー通りを中心にゲイの居住区として有名になってしまった。このあたり、夕方になるとゲイのカップルがどこからともなく集まり、ちょっと異様な雰囲気となる」と書かれている。「ブルータス」という雑誌のニューヨーク案内版では「スプラッシュ」というチェルシーのバーについて「目張りを入れた眼でその夜の相手を物色する客が立錐の余地なく詰まった店で、彼ら(バーテンダーたち=筆者註)の異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」とある。マックの最終案内という文言に惹かれて買ったことし初めの「mono」マガジンと称する雑誌の「TREND EYES」ページに、渋谷パルコでの写真展の紹介があったが、ここには「〝らお〟といっても(中略)〝裸男〟と表記する。つまり男のヌード。(中略)男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」とある。

 この種の言説はいたるところに存在する。無知、揶揄、茶化し、笑い、冷やかし、文章表現のちょっとした遊び。問題はしかし、これらの文章の筆者たち(いずれも無記名だからフリーランス・ライターの下請け仕事か、編集部員の掛け持ち記事なのだろう)の技術の拙さや若さゆえの考え足らずにあるのではない。

 集英社から九三年に出された国語辞典の末尾付録に、早稲田大学の中村明が「日本語の表現」と題する簡潔にまとまった日本語概論を載せている。その中に、日本では口数の多いことは慎みのないことで、寡黙の言語習慣が育った、とある。「その背景には、ことばのむなしさ、口にした瞬間に真情が漏れてしまう、ことばは本来通じないもの、そういった言語に対する不信感が存在したかもしれない」「本格的な長編小説よりは(中略)身辺雑記風の短編が好まれ、俳句が国民の文学となったのも、そのことと無関係ではない」として、「全部言い尽くすことは避けようとする」日本語の特性を、尾崎一雄や永井龍男、井伏や谷崎や芥川まで例を引きながら活写している。

 中村の示唆するように、これは日本語の美質である。しかし問題は、この美しさが他者を排除する美しさであるということである。徹底した省略と含意とが行き着くところは、「おい、あれ」といわれて即座にお茶を、あるいは風呂の、燗酒の、夕食の支度を始める老妻とその夫との言葉のように、他人の入り込めない言語であるということだ。それは心地よく面倒もなく、他人がとやかく言える筋合いのものではない関係のうちの言語。わたしたちをそれを非難できない。ほっといてくれ、と言われれば、はい、わかりましたとしか言えない。

 この「仲間うちの言語」が老夫婦の会話にとどまっていないところが、さらに言えば日本語の〝特質〟なのである。いや、断定は避けよう。どの言語にも仲間うちの符丁なるものは存在し、内向するベクトルは人間の心象そのものの一要素なのだから、多かれ少なかれこの種の傾向はどの社会でも見られることだろう。しかし冒頭の三例の文言が、筆者の幻想する「わたしたち」を土台に書かれたことは、自覚的かそうではないかは無関係に確かなことのように思われる。「ゲイの居住区として有名になってしまった」と記すときの「それは残念なことだが」というコノテイションが示すものは、「わたしたち」の中に、すなわちこの「地球の歩き方」の読者の中に「ゲイは存在しない」ということである(わたしのアパートにこの本を置いていったのは日本からのゲイの観光客だったのだが)。「異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」というときの「変だというか、こんなんでよいのだろうかというか、予想外というか、つまり、ナンなんでしょうか?」という表現の節約にあるものは、「あなたもわかるよね」という読者への寄り掛かりであり、あらかじめの〝共感〟への盲信である。「男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」という、いわずもがなのわざわざの〝お断り〟は、はて、何だろう? 取材した筆者もあなたと同じく男の裸なんか見たくもないと思ってるんだが、そこはそれ、仕事だから、ということなのだろうか? それとも三例ともにもっとうがった見方をすれば、この三人の筆者とも、みんなほんとうはクローゼットのゲイやレズビアンで、わざとこういうことを書き記して自らの〝潔白〟を含意したかったのだろうか……。

 前述したように、内向する言語の〝美質〟がここではみごとに他者への排除に作用している。それは心地よく面倒くさくもなく多く笑いをすら誘いもするが、しかしここでは他人がとやかく言える類のものに次元を移している。彼らは家庭内にいるわけでも老夫婦であるわけでもない。治外法権は外れ、そしてそのときに共通することは、この三例とも、なんらかの問い掛けが(予想外に)なされたときに答える言葉を有していないということである。問い掛けはどんなものでもよい。「どうしてそれじゃだめなの?」でもよいし、「ナンでしたって、ナンなの?」でもよいし、「何が言いたいわけ?」でもよろしい。彼らは答えを持っていない。すなわち、この場合に言葉はコミュニケイトの道具ではなく、失語を際だたせる不在証明でしかなくなる。そして思考そのものも停止するのだ。


 ここに、おそらく日本でのレズビアン&ゲイ・リベレイションの困難が潜在する。

 ことはしかしゲイネスに限らない。日本の政治家の失言癖がどうして何度も何度も繰り返されるのか、それは他者を排除する内輪の言葉を内輪以外のところで発言することそのものが、日本語環境として許されている、あるいは奨励されすらしているからである(あるときはただただ内輪の笑いを誘うためだけに)。「考え足らず」だから「言って」しまうのではない。まず内輪の言語を「言う」ことがアプリオリに許されているのである。「考え」はその「許可」を制御するかしないかの次の段階での、その個人の品性の問題として語られるべきだ。冒頭の段落で三例の筆者たちを「技術の拙さや若さゆえの考え足らず」で責めなかったのはその由である(だからといって彼らが赦免されるわけでもないが)。どうして「いじめ」が社会問題になるほどに陰湿なのか、それは「言葉」という日向に子供たちの(あるいは大人たちの)情動を晒さないからだ。「言葉じゃないよ」という一言がいまでも大手を振ってのさばり、思考を停止させるという怠慢に〝美質〟という名の免罪符を与えているからだ。だいたい、「言葉じゃないよ」と言う連中に言葉について考えたことのある輩がいたためしはない。

 すべてはこの厄介な日本語という言語環境に起因する。この厄介さの何が困るかといって、まず第一は多くの学者たちが勉強をしないということである。かつて六、七年ほど以前、サイデンス・テッカーだったかドナルド・キーンだったかが日本文学研究の成果でなにかの賞を受けたとき、ある日本文学の長老が「外国人による日本文学研究は、いかによくできたものでもいつもなにか学生が一生懸命よくやりましたというような印象を与える」というようなことをあるコラムで書いた。これもいわば内輪話に属するものをなんの検証(考え)もなく漏らしてしまったという類のものだが、このうっかりの吐露は一面の真実を有している。『スイミングプール・ライブラリー』(アラン・ホリングハースト著、早川書房)の翻訳と、現在訳出を終えたポール・モネットの自伝『Becoming a Man(ビカミング・ア・マン--男になるということ)』(時空出版刊行予定)の夥しい訳註を行う作業を経てわたしが感じたことは、まさにこの文壇長老の意味不明の優越感と表面的にはまったく同じものであった。すなわち、「日本人による外国文学研究は、いかによくできたものであっても、肝心のことがわかっていない小賢しい中学生のリポートのような印象を与える」というものだったのである。フィクション/ノンフィクションの違いはあれ、前二者にはいずれも歴史上実在するさまざまな欧米の作家・詩人・音楽家などが登場する。訳註を作るに当たって日本のさまざまな百科事典・文学事典を参照したのだが、これがさっぱり役に立たなかった。歴史のある側面がそっくり欠落しているのだ。

 芸術家にとって、あるいはなんらかの創造者にとって、セクシュアリティというものがどの程度その創造の原動力になっているのかをわたしは知らない。数量化できればよいのだろうが、そういうものでもなさそうだから。だがときに明らかに性愛は創造の下支えにとして機能する。あるいは創造は、性愛の別の形の捌け口として存在する。

 たとえば英国の詩人バイロンは、現在ではバイセクシュアルだったことが明らかになっている。トリニティ・カレッジの十七才のときには同学年の聖歌隊員ジョン・エデルストンへの恋に落ちて「きっと彼を人類のだれよりも愛している」と書き、ケンブリッジを卒業後にはギリシャ旅行での夥しい同性愛体験を暗号で友人に書き記した手紙も残っている。この二十三才のときに出逢ったフランス人とギリシャ人の混血であるニコロ・ジローに関しては「かつて見た最も美しい存在」と記し、医者に括約筋の弛緩方法を訊いたり(!)もして自分の相続人にするほどだった。が、帰国の最中に彼の死を知るのだ。その後、『チャイルド・ハロルドの巡礼』にも当初一部が収められたいわゆる『テュルザ(Thyrza)の詩』で、バイロンは「テュルザ」という女性名に託した悲痛な哀歌の連作を行った。この女性がだれなのかは当時大きな話題になったが、バイロンの生前は謎のままだった。いまではこれがニコロのことであったことがわかっている。

 『草の葉』で知られる米国の国民詩人ウォルト・ホイットマンはその晩年、長年の友人だった英国の詩人で性科学者のジョン・アディントン・シモンズに自らの性的指向を尋ねられた際に、自分は六人も私生児を作り、南部に孫も一人生きているとムキになって同性愛を否定する書簡を送った。これがずっとこの大衆詩人を「ノーマルな人物だった」とする保守文壇の論拠となり、さらにホイットマンが一八四八年に訪ねたニューオリンズ回顧の詩句「かつてわたしの通り過ぎた大きな街、そこの唯一の思い出はしばしば逢った一人の女性、彼女はわたしを愛するがゆえにわたしを引き留めた」をもってしてこの〝異性愛〟ロマンスが一八五〇年代『草の葉』での文学的開花に繋がったとする論陣を張った。しかしこれも現在では、その詩句の草稿時の原文が「その街のことで思い出せるのはただ一つ、そこの、わたしとともにさまよったあの男、わたしへの愛のゆえに」であることがわかっている。『草の葉』では第三版所収の「カラマス」がホモセクシュアルとして有名だが、それを発表した後の一八六八年から八〇年までの時期、彼がトローリー・カーの車掌だったピーター・ドイルに送った数多くの手紙も残っており、そこには結びの句として「たくさん、たくさん、きみへ愛のキスを」などという言葉が記されている。

 これらはことし刊行された大部の労作『THE GAY AND LESBIAN Literary Heritage』(Henry Holt)などに記されている一部であるが、同書の百六十数人にも及ぶ執筆者の、パラノイドとも見紛うばかりの原典主義情報収集力とそれを論拠としているがゆえの冷静かつ客観的な論理建ては、研究というものが本来どういうものであるのかについて、日米間の圧倒的な膂力の差を見せつけられる思いがするほどだ。日本のどんな文学事典でもよい、日本で刊行されている日本人研究者による外国文学研究書でもよい、前者二人に限らず、彼ら作家の創造の原動力となったもやもやしたなにかが、すべてはわからなくとも、わかるような手掛かりだけでもよいから与えてくれるようなものは、ほとんどないと言ってよい。



 「日米間の圧倒的な膂力の差」と一般論のように書きながら、厄介な日本語環境の困難さとしてこれを一般化するのではなく象徴的な二つの問題に限るべきだとも思う。

 一つは「物言わぬ日本語」の特質にかぶさる/重なるように、なぜその「もやもやしたなにか」がまがりなりにも表記され得ないのかは、「性的なるもの」に関しての「寡黙の言語習慣」がふたたび関係してくることが挙げられる(「もやもやしたなにか」がすべて性的なもので説明がつくと言っているわけではない)。日本語において議論というものが成立しにくいことは「他者を排除する言語習慣」としてすでに述べたが、そんな数少ない議論の中でもさらに「性的な問題」は議論の対象にはなりにくい。「性的なこと」が議論の対象になりにくいのは「性的なこと」が二人の関係の中でのみの出来事だと思われているからである。すなわち、「おい、あれ」の二人だけの閨房物語、「あんたにとやかく言われる筋合いのものではない」という、もう一つの、より大きいクローゼットの中の心地よい次元。そうして多くみんな、日本では性的なことがらに関してストレートもゲイもその巨大なクローゼットの中にいっしょに取り込まれ続ける。

 性的なことがらはしたがって学問にはなりにくい。クローゼットの中では議論も学問も成立しない。すなわち、「性科学」なる学問分野は日本では困難の二乗である。九月に北京で行われた国連世界女性会議で「セクシュアル・ライツ」に絡んで「セクシュアル・オリエンテイション」なる言葉が議論にのぼったとき、日本のマスメディア(読売、毎日、フジTV。朝日ほかは確認できなかった)はこれを無知な記者同士で協定でも結んだかのようにそろって「性的志向」と誤記した。「意志」の力では変えられないその個人の性的な方向性として性科学者たちがせっかく「性的指向」という漢字を当ててきた努力を、彼ら現場の馬鹿記者と東京の阿呆デスクと無学な校閲記者どもが瞬時に台無しにしてしまったのである。情けないったらありゃしない。

 考えるべきもう一つはクローゼットであることとアウト(カミング・アウトした状態)であることの差違の問題だ。先ほど引用した『ゲイ&レスビアン・リテラリー・ヘリテッジ』の執筆陣百六十人以上は、ほとんどがいずれも錚々たるオープンリー・ゲイ/レズビアンの文学者たちである。押し入れから出てきた彼らの情報収集の意地と思索の真摯さについては前述した。彼/彼女らの研究の必死さは、彼/彼女らの人生だけではなく彼/彼女のいまだ見知らぬ兄弟姉妹の命をも(文字どおり)救うことに繋がっており、大学の年金をもらうことだけが生き甲斐の怠惰な日本の文学研究者とは根性からして違うという印象を持つ。一方で、クローゼットたちは何をしているかといえば、悲しいかな、いまも鬱々と性的妄想の中でジャック・オフを続けるばかりだ。日本の文学研究者の中にも多くホモセクシュアルはいるが、彼らは一部の若い世代のゲイの学者を除いてむしろ自らの著作からいっさいの〝ホモっぽさ〟を排除する努力を重ねている。

 ここで気づかねばならないのは、「ホモのいやらしさ」は「ホモ」だから「いやらしい」のではないということだ。一般に「ホモのいやらしさ」と言われているものの正体は「隠れてコソコソ妄想すること」の「いやらしさ」なのであって、それは「ホモ」であろうがなかろうが関係ない。性的犯罪者はだいたいがきまってこの「クローゼット」である。犯罪として性的ないやらしいことをするのは二丁目で働くおネエさんやおニイさんたちではなく、隠れてコソコソ妄想し続ける小学校の先生だったりエリート・サラリーマンだったり大蔵省の官僚だったりする連中のほうなのだ。かつてバブル最盛期の西新宿に、入会金五十万円の男性売春クラブが存在した。所属する売春夫の少年たちは多くモデル・エイジェンシーやタレント・プロダクションの男の子たちで、〝会員〟たちの秘密を口外しないという約束のカタに全裸の正面写真を撮られた。これが〝商品見本〟として使われているのは明らかだった。ポケベルで呼び出されて〝出張〟するのは西新宿のある一流ホテルと決まっていて、一回十万円という支払いの〝決済〟はそのクラブのダミーであるレストランの名前で行われた。クレジット・カードも受け付けた。請求書や領収書もそのレストラン名で送られた。送り先は個人である場合が多かった。が、中に一流商社の総務部が部として会員になっている場合もあったのである。〝接待〟用に。

 これがすべて性をクローゼットに押し込める日本のありようだ。話さないこと、言挙げしないこと、考えないこと、それらが束になって表向き「心地よい」社会を形作っている。ゲイたちばかりかストレートたちまでもがクローゼットで、だからおじさんたちが会社の女の子に声をかけるときにはいつも、寝室の会話をそのまま持ち込んだような、いったん下目遣いになってから上目遣いに変えて話を始めるような、クローゼット特有の、どうしてもセクシュアル・ハラスメントめいた卑しい言葉遣いになってしまう。あるいは逆転して、いっさいの性的な話題をベッド・トークに勘違いして眉間にしわを寄せ硬直するような。性的な言挙げをしないのが儒教の影響だと宣う輩もいるが、わたしにはそれは儒教とかなんだとかいうより、単なる怠慢だとしか思われない。あるいは怠慢へと流れがちな人類の文化傾向。むしろ思考もまた、安きに流れるという経済性の法則が言語の習慣と相まって力を増していると考えたほうがよいと思っている。


 そのような言語環境の中で、すなわち社会全体がクローゼットだという環境の中で、リベレイションという最も言葉を必要とする運動を行うことの撞着。日本のゲイたちのことを考えるときには、まずはそんな彼/彼女たちのあらかじめの疲弊と諦観とを前提にしなければならないのも事実なのだ。このあらかじめの諦めの強制こそが、「隠れホモ」と蔑称される彼らが、その蔑称に値するだけの卑しい存在であり続けさせられている理由である。

 「日本には日本のゲイ・リベレイションの形があるはずだ」という夢想は、はたして可能なのだろうか? 「日本」という「物言わぬこと」を旨とする概念と「リベレイション」という概念とが一つになった命題とは、名辞矛盾ではないのか?

 ジンバブエ大統領であるロバート・ムガベがことし七月、「国際本の祭典」の開催に当たってゲイ団体のブースを禁止し、自分の国ではホモセクシュアルたちの法的権利などないと演説した際、これを取り上げたマスメディアは日本では毎日新聞の外信面だけだった。毎日新聞はいまでもホモセクシュアルを「ホモ」という蔑称で表記することがあり、同性愛者の人権についてのなんらの統一した社内基準を有していない。あそこの体質というか、いつも記者任せで原稿が紙面化される。逆にこのジンバブエの特派員電のように(小さな記事だったが)、記者が重要だと判断して送稿すれば簡単に紙面化するという〝美質〟も生まれる。ところでそのジンバブエだが、ニューヨーク・タイムズが九月十日付けで特派員ドナルド・G・マクニールの長文のレポートを掲載している。首都ハラレでダイアナ・ロスのそっくりさんとして知られるショウ・パフォーマーのドラッグ・クィーンを紹介しながら、「イヌやブタよりも劣るソドミストと変態」と大統領に呼ばれた彼らの生活の変化を報告しているのだが、ハラレにゲイ人権団体が設立されていて女装ショウがエイズ患者/感染者への寄付集めに開催されていること、ムガベが「英国植民地時代に輸入された白人の悪徳」とするホモセクシュアリティにそれ以前から「ンゴチャニ」という母国語の単語があること、などを克明に記してとても好意的な扱いになっている。

 ニューヨーク・タイムズがほとんど毎日のようにゲイ・レズビアン関連の記事を掲載するようになったのは九二年一月、三十代の社主A・O・ザルツバーガー・ジュニアが発行人になってからのことだ。それ以前にも八六年にマックス・フランクルが編集局長になってから「ゲイ」という単語を正式に同新聞用語に採用するなどの改善が行われていたが、同時にゲイであることをオープンにしていた人望厚い編集者ジェフリー・シュマルツがエイズでもカミング・アウトしたことが社内世論を形成したと言ってもよい。

 アメリカが「物言うこと」を旨とする国だと言いたいのではない。いや逆に、「物言うこと」を旨としているアメリカの言論機関ですら、ホモセクシュアリティについて語りだしたのがつい最近なのだということに留意したいのである。ホモセクシュアリティはここアメリカでも長く内輪の冷やかしの話題であり、自分たちとは別の〝人種〟の淫らな「アレ」だった。日本と違うのはそれが内輪の会話を飛び越えて社会的にも口にされるときに、そのまま位相を移すのではなくて宗教と宗教的正義の次元にズレることだ。つまり〝大義名分〟なしにはやはりこのおしゃべりな国の人々もホモセクシュアリティについては話せなかったのである。

 わたしの言いたいのは、日本語にある含意とか省略とか沈黙といった〝美質〟を壊してしまえということではない。そのクローゼットの言語次元はまた、壊せるものでもぜったいにない。ならば新たに別の次元を、つまりは仲間うちではなく他者を視野に入れた言語環境を、クローゼットから出たおおやけの言語を多く発語してゆく以外にないのではないかということなのだ。そしてそれを行うに、性のこと以上に「卑しさ」と(つまりはクローゼットの言語と)「潔さ」との(つまりはアウトの言語との)歴然たる次元の差異を明かし得る(つまりは本論冒頭の三つの話者のような連中が、書いて発表したことを即座に羞恥してしまうような)恰好の話題はないと思うのである。ちょうど「セクハラ」が恥ずかしいことなのだと何度も言われ続けどんどん外堀を埋められて、おじさんたちが嫌々ながらもそれを認めざるを得なくなってきているように。そうすればどうなるか。典型例は今春、ゲイ市場への販売拡大を目指してニューヨークで開かれた「全米ゲイ&レズビアン企業・消費者エキスポ」で、出展した二百二十五社の半数がIBMやアメリカン航空、アメリカン・エクスプレス、メリル・リンチ、チェイス・マンハッタン銀行、ブリタニカ百科事典などの大手を含む一般企業だったことだ。不動産会社も保険会社もあった。西新宿の秘密クラブではなく、コソコソしないゲイを経済がまず認めざるを得なくなる。

 インターネットにはアメリカを中心にレズビアン・ゲイ関連のホーム・ページが数千も存在している。エッチなものはほんの一握り、いや一摘みにも満たないが、妄想肥大症のクローゼットの中からはムガベの妄想するように「変態」しかいないと誤解されている。ここにあるのはゲイの人権団体やエイズのサポート・グループ、大学のゲイ・コミュニティ、文学団体、悩み相談から出版社、ゲイのショッピング・モールまで様々だ。日本で初めてできたゲイ・ネットにも接続できる。「MICHAEL」という在日米国人の始めたこのネットには二千五百人のアクティヴ・メンバーがいて、日本の既存のゲイ雑誌とは違う、よりフレンドリーなメディアを求める会員たちが(実生活でカミング・アウトしているかは別にしても)新たなコミュニケイションを模索している。「dzunj」というネット名を持つ男性はわたしの問い掛けにeメイルで応えてくれた。彼は「実は僕がネットにアクセスする気になったのも、もっと積極的にいろいろなことを議論してみたいという理由からだった」が、「ネット上の会話」では「真面目な会話は敬遠されるようです。ゲイネットこそ絶好の場であるはずなのに……」とここでも思考を誘わないわたしたち日本人の会話傾向を嘆いている。しかし彼のような若くて真摯な同性愛者たちの言葉が時間をかけて紡ぎ出されつつあることはいまやだれにも否定できない。「Caffein」というIDの青年は日系のアメリカ人だろうか、北海道から九州までの日本人スタッフとともに二百九十ページという大部の、おそらく日本では初めての本格的なゲイ情報誌を月刊で刊行しようとしている。米誌『アドヴォケート』の記者が毎月コラムを書き、レックス・オークナーという有名なゲイ・ジャーナリストが国際ニュースを担当するという。



 「ホモフォビア」という言葉がある。「同性愛恐怖症」という名の神経症のことだ。高所恐怖症、閉所恐怖症、広場恐怖症と同じ構造の言葉。同性愛者を見ると胸糞が悪くなるほどの嫌悪を覚えるという。長く昔から同性愛者は治療の対象として病的な存在とされてきた。しかしいまこの言葉が示すものは、高所恐怖症の改善の対象が「高い場所」ではないように、広場恐怖症の解決方法が「広場」の壊滅ではないように、同性愛恐怖症の治療の対象が「同性愛者」ではなく、彼/彼女らを憎悪する人間たちのほうだということなのである。その意味で、日本の同性愛者たちをいわれのない軽蔑や嫌悪から解放することは、とりもなおさず薄暗く陰湿な日本のストレートたちを、まっとうな、正常で健全な状態にアウトしてやることなのだ。そうでなければ、日本はどんどん恥ずかしい国になってしまうと、里心がついたかべつに愛国者ではないはずなのに思ってしまっている。         (了)

August 03, 2010

英語しゃーない2

英語社内公用語化に関してちょいと危惧を書いたところ、日本国内でもみなさんこれに批判的というか反発を示していらっしゃるようで、私がツイッターでフォローさせていただいている内田樹先生のつぶやき(12:53 AM Aug 1st)によると「某新聞取材。「英語社内公用語化論」について。「対論」というかたちで、賛否の両論を紹介する企画なのに、「賛成論」を語る識者がいないそうです。ユニクロも楽天も広報は「あ、その話はちょっとご勘弁を・・・」なんですって。変なの。だったら、プレスリリースなんか出さなきゃいいのに。」とのこと。

なるほどしかし、それほど世間的に反発が多いなら、逆に賛成に回ったっていいぞ、みたいな天の邪鬼が体の内側でモソつくのを感じている次第。なにせ、なんとなくその反発、例の「国家の品格」の論調みたいなんじゃないかなあと、逆にこれまた危惧するわけで。

日本の文化や経済が独自に発展してきた背景には、ある意味じつは「日本語」という言語の特殊バリアで守られてきたせいもあります。それは鎖国状態、あるいはガラパゴス状態というのともちょいと違って、選択透過膜とでも言いますか、都合のよいものだけを取り入れ、都合の悪いものは入れも出しもしない。相手には日本内部で何が起きているのかわからないから、国際競争とは別のところでちゃっかり稼がせてもらってきた、という事情があったのだと思います。もちろん大変な企業努力と技術開発があったのは大前提ですが、真の意味で欧米企業と同じ土俵に上り始めたのはカルロス・ゴーンさんが日産に来たころからでしょうか。

その意味でそろそろ英語社内公用語論が出てきてもぜんぜんおかしくない話ではあるのです。

じつは私の日本語の文章修行は英語を勉強することで始まりました。日本語では曖昧に済ませられるところが、英語ではちゃんと1から論理立てて言わねばならないという思考の形の違いにも自覚的になりました。これはとても役に立っています。日本語を相対化することは、同時に英語を相対化することでもありましたし、同じ言葉の背景にある2つ、あるいは3つや4つの文化背景の違いからもいろいろ学ぶところが多いからです。

簡単な例を挙げれば、たとえば「外国人とのハーフ」という言葉。日本語では短くシャレててかっこいいですが、英語だと「半端者」という意味に聞こえるのです。せめて「ハーフ&ハーフ」なら合計「1」になっていいのですが、短縮して「ハーフ」なら「半分しかない人」なのですね。これは日本語の柔軟性と英語の論理性を象徴する(しないか?w)1つの事例だと思います。

それは英語を使って初めて知れる相対性でした。つまり英語も日本語も便利もあれば不便もあるという、いわばアイコだってことが、英語を使うことで初めて実感としてわかったのです。

それを論拠に、わたしはかつて「国家の品格」をトンデモ本だと批判しました。そして今回聞く英語社内公用語化への世間的な一斉の反発もまた、「日本人なんだから日本語を!」「英語に心を売るな!」みたいな単純な国粋主義的な心性の現れではないかと危惧するわけです。

前回ブログで触れた社内公用語化論への反対の根拠の1つは、社内で「英語」使いが重用されるあまり、肝心の「仕事」のできる人が英語ができないという理由だけで排除されるような倒錯が起きないかと心配だということです。それは日本人だから日本語を、ではなく、その日本語を鍛えるためにも余裕があれば英語を学んだ方がよりよいという実感からきています。

先に、日本経済や文化が日本語によって守られてきた、と書きましたが、そういう感覚はじつはいまでも続いています。日本に帰ると急に、国際ニュースなどどうでもいいよその場所のこと、みたいな感じになってしまうのです。ニューヨークにいるとまるで我がことのようにビンビン響いてくる国際ニュースが、日本にいると日本人が日本語で伝えているせいか、どこか遠い外国での話に聞こえてくる(そのとおりなのですが)。

これはまた、以前書いた「身内の言語」=「クローゼットの言語」としての日本語の“効能”なのかもしれません。この原稿、どこに行ったかなと思ってスポットライトで調べたらあらまだこのコンピュータの中にあるではありませんか、というかちゃんと移設してたんだ。それを、この次のブログで近々再掲しましょう(しました=追記)。ご興味ある方はお読みください。長いですけど、これは1995年に青土舎のイマーゴという(もうなくなった)雑誌の「ゲイ・リベレイション」特集に依頼されて書いた原稿です。ずいぶん昔だなあ。でも、まあ、まだかろうじて読めるでしょう。

閑話休題。そう、日本語と英語とは、それはおそらく、日本の近世と近代(現代)の相克なのです。すべて関係します。相撲協会の体質と近代民主税制国家との矛盾とか、官房機密費とマスメディアの癒着とか、西武の大久保と雄星の確執とか、記者クラブとオープン会見の軋轢とか、総会屋と物言う株主の対決とか、おもえばここ数年のゴタゴタのほとんどが身内の言語社会が世界的には通用しないとほぼ初めて公になったということから来る齟齬なのです。そして歴史的に、前者は必ず後者へと流れて行かざるを得ないものなのですね。そういう視点に立てば、「社内」は「英語」の導入でどんどん思考様式を近代化すべきであり、そういうところからしか世界戦略が成り立たないのは道理です。幸いなことに、「会社」は相撲協会や記者クラブなんかよりははるかに旧弊から自由である存在でしょうし。少なくとも楽天やユニクロは。そうやって思い返せば、21世紀に入ってからの例の堀江貴文氏の登場もまた、日本の近世的企業体質への、現代からの挑戦だったのでしょう。

ただし、そうは言ってももう1つ留意すべきことがあります。それは、「英語」が、アメリカが世界で覇権を維持するための大いなる戦略的道具だということです。「英語を世界言語にする」というより大きな米国主導の市場戦略が、背景に見え隠れするのです。

いつの間にか映画がハリウッドだらけになったようにネットもまたいま英語だらけです。相手方のこの言語戦略を自覚しているのかいないのかの違いは、同じ土俵に立つ上でかなり大きいと思います。同じ土俵に乗りはするが、必ず英語文化に対抗しうる日本語文化を重しにしている、そんな「アイコ」に持ち込む努力は、忘れてほしくないと思うのです。

July 26, 2010

英語しゃーない公用語論

ニューヨークの駐在には、日本の会社から必ずしも英語の堪能な人が派遣されてくるわけではありません。それでもやはりある程度は英語が必要でしょう?と聞かれたりしますが、多くの企業で、選任のポイントは「英語」ではなくて「仕事」の出来る人なのです。英語は、その仕事のための1要素でしかなく、まったく英語がダメな人もけっこう来ます。

日本でユニクロや楽天が社内公用語を英語にすると発表して話題になっています。今後ビジネス(事業)をグローバル(世界的)にエクスパンド(拡大)させるにはイングリッシュ・スピーキング(英語圏)のマーケット(市場)に……というわけなんでしょうが、じつはビジネス上の英語は決まった言い回しや単語が多く、会議で交わされる事業戦略や業務報告なども関連の用語さえ押さえればけっこうかんたんに通じてしまうものなので、日本で思われるほどそう大変なことではないかもしれません。ユニクロや楽天の英語公用語化がどういう展望の下で行われるのか報道だけでは今ひとつわかりませんが、日本語なら曖昧に端折ったりしてごまかせることが英語では不可能なので、むしろすべてを具体的に話すという英語特有の思考回路の開拓のためにはこの策は有効かもしれません。
 
では難しいのは何かというと、じつは日常会話がいちばん難しい。どのくらい英語が話せるかという質問によく「日常会話程度」と答える人がいますが、その人たちの思い描く日常会話とは「お名前は?」「これいくら?」「どこにあります?」という、会話というより挨拶みたいな定型文でしかありません。そう、その意味ではこれは前述のビジネス英語と同じようなもんで、想定の範囲外の単語は出てこないという前提があるのでしょう。
 
でも、本当の日常会話とは「調子どう?」と聞いたときに「アイ・アム・ファイン、サンキュー」ではなくて「いや、五十肩でまいっちゃってさ」とか「リストラに遭いそう」とか、頻繁に予想外のことが返ってくるアドリブ能力の試合場のことです。つまりそのときにどんな引き出しをいくつ持っているかがカギなのだということは、ふだん日本語をしゃべっている経験からだってわかっているはずです。よく海外では政治と宗教の話はタブーだとか言われますが、アメリカ人はなにごとにも一家言を持っているので、政治や宗教の話だって普通に話します。もしそんな話をされたことがないなら、それは自分が相手に政治や宗教の話をしても面白くないヤツと思われているというだけのことかもしれません。

要は、日常会話でも政治談義でも話の内容です。いかにその人なりの中身があるかどうか。それは英語と仕事の関係にも似ています。いくらうまく英語を操れても、肝心の仕事の発想がつまらなければ何にもならない。

英語の社内公用語化も、英語だけ出来て仕事の出来ない人が重用されるようなしゃーない倒錯が起きなければいいんですが、きっとそういう勘違いは少なからず社会のあちこちで起きるでしょうね。

June 23, 2010

ハッピー・プライド!

NHK教育で「ハーバード白熱教室」という番組を12週にわたって放送していて、これがすこぶる面白いものでした。政治哲学教授のマイケル・サンデルが「正義」と「自由」を巡って大教室で学生たちに講義をするですが、このサンデルさん、学生たちが相手だからか論理が時々ぶっ飛んで突っ込みどころも満載。ところが話し上手というか、ソクラテスばりの対話形式の講義でNHKの「白熱」という命名はなかなか当を得たものです。学生たちもじつに積極的に議論していて、その議論の巧拙やコミュニタリアンのサンデルさんの我田引水ぶりはさておき、なるほどこうして鍛えられて社会に出ていくのだから、外交交渉からビジネスの契約交渉まで、種々の討論で多くの日本人が太刀打ちできないのも宜なるかなと、やや悲しくもなりました。

で、6月20日に放送されたその最終回の講義テーマが「同性結婚」でした。実は6月は米国では「プライド・マンス Pride Month」といって同性愛者など性的少数者たちの人権月間。もちろんこれは有名なストーンウォール暴動を記念しての設定で、オバマ大統領もそれに見合った声明を発表するので、NHKはそれを知って6月にこの最終回を持ってきた……わけではないでしょうね。

同性婚が政治的に大きな議論となっているのは米国に住む日本人なら誰しも知っています。ところがほとんどの在留邦人がこの件に関しては関心がない、というか徹底的に我関せずの態度を貫いています。ほかの政治的話題ならば仲間内で話しもするのに、この問題に関してはほとんど口にされることがありません。その徹底ぶりは「頑なに拒んでいる」とさえ映るほどです。

ところが日本からやってくる学生さんたちがまずは通うニューヨークの語学学校では(というのは米国に住むにはVISAが必要で、まずはこの語学学校から学生ビザをスポンサーしてもらうのが常套だからです)、ここ15年ほどの傾向でしょうか、「ハーバード白熱教室」ではないですが、だいたいどのクラスでもこの同性婚や同性愛者の人権問題が英語のディベートや作文にかこつけて必ずと言っていいほど取り上げられるのです。

日本人学生はほとんどの場合ビックリします。だって、同性愛なんて日本ではそう議論しないしましてや授業で扱うなんてこともない。お笑いのネタではあっても人権問題という意識がないからです。しかし語学学校の先生たちは、まあ、若いということもあるでしょうが、これぞニューヨークの洗礼とばかりに正義と社会の問題として同性愛を取り上げるのです。ええ、この問題は正義と公正さを考えるのに格好のテーマなのですから。

私もNY特派員時代の90年代半ば、この同性愛者問題を、黒人解放、女性解放に続く現代社会の最も重要な課題の1つだとして記事を書き続けました。もちろん当時はエイズの問題も盛り上がっていましたから、その話題とともになるべく社会的なスティグマを拭い去れるようにと書いてきたつもりです。ところが日本側の受けはあんまりよろしくなかった。で、気づいたのです。日本と欧米ではこの問題への向き合い方が違っていました。日本人は同性愛を、セックスの問題だと思っているのです。そして、セックスの話なんて公の場所で話したくない。

これは以前書いた「敢えてイルカ殺しの汚名を着て」で触れた、あの映画の不快の原因は「すべての動物の屠殺現場はすべて凄惨です。はっきり言えば私たちはそんなものは見たくない」ということだ、という論理にも似ています。イルカだろうがブタだろうが牛だろうが鶏だろうが、同じような手法で映画で取り上げれば、どこでもだれでもおそらくは「なんてことを!」という反応が返ってくるはずだということです。

セックスの話も同じ。同性愛者のセックスはしばしば公の場で取り上げられます。おそらく好奇心とか話のネタとかのためでしょうが、それで「気持ち悪い」とか「いやー」とかいう反応になる。しかしこれは異性愛者のセックスにしても、そういうふうに同じ公の土俵で取り上げられれば「要らない情報」だとか「べつに聴きたくないよ」だとかいった、似たような拒絶反応が返ってくるのではないか、ということ。

じつはこの米国でも、宗教右派からの同性愛攻撃は「同性愛者はセックスのことばかり考えている不道徳なヤツら」という概念が根底にあります。欧米でだって、セックスという個人的な話題はもちろん公の議論にはなりません。でも同性愛の場合だけセックスが槍玉にあがり、そしてそんな話はしたくない、となる。

ところがいまひろくこの同性愛のことが欧米で公の議論になっているのは、逆に言えばつまりこれが「セックスという個人的な話題」ではないからだということなのではないか。そういうところに辿り着いているからこそ話が挙がっているということなのではないだろうか?

しかしねえ……、と異論を挟みたい人もいることでしょう。私もこの件に関してはもう20年も口をスッぱくして言い続けているのですが、宗教とか、歴史とか、医学とか精神分析とか、もうありとあらゆる複雑な問題が絡んできてなかなか単純明快に提示できません。しかし、前段までで説明してきたことはとどのつまり「ならば、同性愛者と対と考えられる「異性愛者」は性的存在ではないのか?」という問いかけなのです。

この問いの答えは、もちろん性的ではあるけれどそれだけではない、というものでしょう。これに異論はありますまい。そしていま、同性愛者たちが「性的倒錯者」でも「異常者」でも「精神疾患者」でもないと結論づけられている現実があり(世間的には必ずしも周知徹底されていないですけど、それもまた「性的なことだから表立って話をしない」ということが障壁になっているわけで)、この現実に則って(反論したい人もいるでしょうが、ここではすでにその次元を通過している「現実の状況」に合わせて)論を進めると、同性愛者も異性愛者と同じく生活者であるという視点が必然的に生まれてくるのです。同性愛者もまた、性的なだけの存在ではない、ということに気づくのです。

そういうところから議論が始まってきた。いま欧米で起きていること、同性カップルの法的認知やそれを推し進めた同性婚の問題、さらに米国での従軍の可否を巡る問題など各種の論争は、まさに「同性愛者は性的なだけの存在」という固定観念が解きほぐされたことから始まり、そこから発展してきた結果だと言えるのです。

毎年6月の最終日曜日は、今年は27日ですが、ニューヨーク他世界各国の大都市でゲイプライドマーチというイベントが行われます。ここニューヨークでは五番街とビレッジを数十万人が埋めるパレードが通ります。固定観念を逆手に取ってわざと「性的」に挑発する派手派手しい行進者に目を奪われがちですが、その陰には警察や消防、法曹関係や教育・医療従事者もいます。学生やゲイの親たちや高齢な同性カップルもいます。

かく言う私も、じつはそういう生活者たちとしての同性愛者を目の当たりにしたのはじつはこのニューヨークに住み始めてからのことでした。90年当時、日本ではそういう人たちは当時、ほとんど不可視でした。二丁目で見かけるゲイたちは敢えて生活者ではなかったですしね。いまはずいぶんと変わってきましたが、それでもメディアで登場するゲイたちは決まり事のようになにかと性的なニュアンスを纏わされているようです。まあ、当のゲイたちもそれに乗じてより多く取り上げられたいと思っているフシがありますが、それは芸能界なら誰しも同じこと。責められることじゃありません。

とにかく、生活者としての性的少数者を知ること。同性愛者を(直接的にも間接的にも)忌避する人たちは、じつのところホンモノの同性愛者を具体的に、身近に知らないのです。そしてそのような視点を持たない限り、私たちはハーバード白熱教室にも入れないし、先進諸国の政治的議論にも置き去りのままなのだと思います。

June 09, 2010

本格政権への期待

菅新内閣の発足で民主党への支持率がV字回復したというのは、とりもなおさず日本国民が政権交代に託した政治改革をいまも強く希求していることの現れなのでしょう。同時に、昨年の政権交代のときの浮き足立ったような高揚感もやや薄れ、菅首相の初めての記者会見はまったく大風呂敷を広げない、鳩山路線の現実的な軌道修正のような響きがありました。

いや、はっきり言いましょう。持論の「最少不幸の社会をつくる」はよいのですが、財政均衡と景気浮揚の兼ね合いや沖縄問題、機密費問題など、現在の閉塞状況の具体的な打開策がいまいち不鮮明で、記者からの質問にも文字通り「ごにゃごにゃ」と答えをはぐらかした感がいっぱいです。とくに記者会見のオープン化と官房機密費の問題は、あれは、あんまり考えてない人の顔でした。あきらかに回答を避けてましたし。

前政権の陥穽となった普天間の件でも、副総理だった菅さん自身から沖縄の人たちへの謝罪がまずあるべきでした。それがスルーだったので、自らの政権を高杉晋作の「奇兵隊」になぞらえたときには、奇兵隊ならぬ「海兵隊内閣か」とツッコミたくもなった次第。てか、奇兵隊、って、なんの譬えなんだかよくわからんぞ。全体的にあんまり用意周到、理論武装バッチリという感じがしなくて、ともすると菅総理、あまりに言質を与え過ぎて退陣となった鳩山さんの轍を踏むまいと縮み志向になっているんじゃないでしょうかね。まあ、そうであっても道理ですが。

しかしそれではあまりに自民党時代と同じで民主党であることの意味がない。逆にすぐに世論の飽きを招いてしまう。鳩山さんの唯一の功績は、政策決定に至る政治側からの果敢なアプローチが、事業仕分けや高速道路問題など、成功も失敗もゴタゴタまでもが国民の目に生々しく披露されたことなのですから。

にもかかわらず鳩山政権が短命だったのには、沖縄とカネの問題の後ろに2つの要因があります。1つはマスコミ、もう1つは官僚制度です。

政権交代が決まったときに産経新聞の記者が自社の公式ツイッターで「産経新聞が初めて下野なう」「でも、民主党さんの思うとおりにはさせないぜ。これからが産経新聞の真価を発揮するところ」とつぶやいて謝罪したのは憶えてるでしょ。でもこれはいいんです。新聞は報道機関であると同時に言論機関でもあるのですから。

問題は、反対があるときに必ず賛成の意見も併置させるという報道の大原則が日本ではあまり確立されていなくて、日本って褒めるよりも貶す傾向の強い文化なんだなあと改めて気づかされるほど予定調和的に批判・叱責論調でメディアがまとまってしまうところです。

前のブログでも書きましたがそれこそ政治記者クラブ的論理収斂。世論が結果的に偏るのは常ですが、その世論に情報を供給する報道メディアは、そろそろ賛否両論を戦わせるというフォーマットを社内的に、責務として定着させてほしいのです。

もう1つの官僚制度ですが、例えばアメリカやカナダでは政党間の政権交代のときに官僚制度の各部署のトップが地方単位まで数千人規模で入れ替わります。つまりその政権政党の息のかかった管理職が官僚システムを支配する。官僚はそこですでに味方になるのです。

日本は違います。官僚は替わりません。これを変えることはなかなか難しいでしょう。米加には、政権交代で職を失った際にはその人材が民間のシンクタンクや大学研究機関などに行けるパイプがすでに出来上がっていて、そういうものが機能しない限り官僚トップを路頭に迷わせることなどできません。なので官僚のクビのすげ替えは現状では不可能。ならば彼らをどう協力させるかというのが次の命題です。

政治主導を旗印に誕生した鳩山政権は、東京地検特捜部を筆頭にこの官僚システムの隠然かつ熾烈な攻撃に遭いました。普天間問題でも外務・防衛官僚たちが「県外・国外移転」を初めから相手にせず、鳩山さんを包囲し潰しにかかったのです。官僚たちはかくも優秀で、働かないとなるときも徹底的に実に優秀・有能に働かぬ道を見つけます。

さて、これらをどうするか?

メディアに関しては先ほども触れましたが、大臣たちの記者会見を徹底的にオープンにして既成の政治記者クラブ的談合報道を打破することなのです。政治記者クラブ的情報も必要でしょう。しかしそれだけで世論が形成されていいわけではない。そのために、政治は国民により直接に声を届けられるようにすることが必要です。私たちだってそっちのほうが情報の選択肢が増えてうれしい。

後者の官僚制度は、必要以上の官僚の締め付けをやめて有能な官僚との協力関係をどんどん築くことです。それでこそ税金も有効活用される。その上での政治主導です。

じつはこのメディアと官僚とをうまく使いこなしたのが小泉政権でした。小泉首相は彼の個人的な力量なのでしょう、政治記者クラブ的報道に関しては自身のワンフレーズ政治というか、自らの私的な言葉で風穴を空けて国民に直接声を届けたのでした。さらに官僚システムに関しても、竹中・飯島といった手下を駆使して根回しと恫喝とを周到に行っていた。

日本の政治の問題点は、官僚側が常に失敗を繰り返さないための保身的なマニュアルを用意してあるのに対し、政治側がそれを用意していないことです。日本の政治は、失敗をすべて政治家個人の責任にしてしまい、その失敗がなぜ起きたのかを勉強しないことです。今回も、鳩山政権がなぜ倒れたのかを、鳩山さんの政治的拙速さとその手腕の未熟さ、かつ小沢さん個人のカネの問題に帰結させようとするだけです。

この前のブログにも書きましたが、鳩山政権の失敗はそんな個人的な問題ではない。米国と日本の構造的な主従関係がそこにあり、それを官僚制度が制度として補足していたという、実に大きな事実が襲いかかってきたからです。これをどうするのか、どう対応するのか。これは普天間の共同声明で一息つけるような、そんな生易しいものではありません。菅政権はそこをこそ徹底して学習し、解決へ向けてとにかく一歩を踏み出すべきなのです。

菅内閣が本格政権になるかどうかは、おそらく参院選後にまた内閣改造があるでしょうからまだわかりません。いまのところはくれぐれも、失敗を恐れてなにもしないのがいちばんの良策みたいな自民党時代末期のような守りの姿勢に逆戻りしないように覚悟を決めてほしいということでしょうか。前述のように沖縄だって、このまま2+2の日米共同声明どおりに工事が進むなんて考えられないのですから(成田の土地強制収容闘争みたいなことだって予想されています)、参院選後に向けて、いまのうちにすくなくとも記者会見のツッコミにもっと明確に答えられるよう、せいぜい理論武装しておくべきでしょう。難題が目の前に山積している状況はなにひとつ変わっていないのですから。

June 02, 2010

鳩山政権を倒したもの

前回のエントリーと重複しますが、鳩山辞意表明を受けてNYの日本語新聞に依頼されて以下の文章を取りまとめました。ご参考まで。

***

原稿も見ずに正直な思いを語って、鳩山さんの辞意表明演説は皮肉なことにこれまででいちばん心に響くものでした。これをナマで視聴していたかどうかで今回の政局の印象はかなり変わると思います。この演説の本質は、これまでのマイナス面のすべてを逆転させて起死回生を図ったということでしょう。

そもそも辺野古問題の5月末決着宣言が自縄自縛の根因なのですが、社民党の連立離脱と総理辞任の「一石二鳥」のその石となった日米共同声明を外務省のサイトで読んでみると、実に象徴的なことが見えてきます。

日英両語で掲載されているこの共同声明、見ると日本語には「仮訳」とあるのです。つまり米国との共同声明ってのは英語がベースなんですね。日本語の声明文はそれを翻訳したもの。なるほど沖縄のことなのに日本語じゃないってのは、まあ米側は日本語、わからんからね……などと納得してはいけません。日本と外交交渉をする米側の役人はふつう日本語もペラペラです。しかし交渉では日本語は絶対に話さない。ぜんぶ英語。

そういうところからしてもイニシアチヴは端から米国にあった。日米関係というのはそういうものなのです。NYタイムズは「とどのつまり辺野古移設を謳った06年合意を尊重しろというワシントンの主張が勝利したのだ(won out)」と書きましたが、物事はそうなるように、そうなるようにと出来ていたのです。

そこを転換するに「5月末」は性急に過ぎた。しかも日本のメディアは各番組コメンテイターも含めて「米軍のプレゼンスが日本を守る抑止力である」という大前提の検証をすっ飛ばし、すべてを方法論に矮小化しました。また「米軍のプレゼンス」はいつのまにか「米海兵隊のプレゼンス」にすり替わり、まるで海兵隊が日本を守ってくれるという幻想を植え付けて、県外・国外移設を頭から幼稚なものと決めつけたのでした。

海兵隊はいまや第一波攻撃隊ではなく、戦闘初期では自国民=アメリカ人の救出隊なのです。それは抑止力ではない。第一波攻撃は圧倒的な空爆およびドローン無人攻撃機のより精緻な掃討だというのは湾岸戦争からアフガン、イラクへの侵攻を見ていれば明らかです。ではいったい、抑止力とは何なのでしょう? 海兵隊が沖縄に残らねばならぬ理由は何だったのでしょう?

社民党の辻元清美前国交副大臣によれば、あの首相の「腹案」というのはグアム移設案だったそうです。ですが今回も、外務省、防衛省の官僚たちが米国の意向を口実にしてつぶした。自民党時代も、米側はグアム全面移転を進めようとしたがそれに待ったを掛けたのはじつは日本側だと言われています。なぜか?

それは論理的に日本の「自主防衛」につながるからです。それは日米関係の構造の大転換につながります。そしてその場合、沖縄の「核」の抑止力も消えることになるからです。それが幻想であるか否に関係なく。

こうした変化を望まない勢力というのが日米双方に存在します。そうして図ってか図らないでか、自覚してか無自覚なのか、日本の新聞・テレビがそれを側面支援した。検察という“正義の味方”までがそこに巧妙に混じり込んでいたことにも無頓着に。

事業仕分けもそうでしたが、鳩山短期政権の功績は様々な問題を私たちの目の前にさらけ出してくれたことです。困ったことはそれらのすべてが予想を超える難題で、次の内閣でも別の政党でも、にわかには解決できないことがわかってしまったことなのです。参院選とか政局とか、事はそんなちっちゃな問題ではないようです。

May 29, 2010

普天間日米共同声明

日本での動きのあまりの速さに、この隔数日刊ではとても対処できないんですけど、でもここは書き留めておかねばならないでしょう。

外務省のサイトで日米共同声明の日本語の仮訳と英語版を見比べてみます。と書きながら、これ、不思議じゃありませんか? 日本語は「仮訳」なんです。つまり、これはまず英語で書かれていて、それをもとに日本語に訳しているんですね。ふうん、アメリカとの外交文書、共同声明ってのは、英語ベースなんだ。沖縄のことを書いているのに、日本語じゃない。なんとなく腑に落ちませんが、アメリカ側は日本語、わからんからね、……などと思ってはいけません。日本と外交交渉をするアメリカ側の役人はふつう日本語ぺらぺらです。でもってしかし、交渉では日本語は話さない。日本側に英語を話させたり、あるいは通訳を使って交渉します。でも英語ベースであるというそういうところからしてもう交渉のイニシアチヴは握られています。これはとても象徴的なことです。

その仮訳で、6段落めにこうあります。

両政府は,オーバーランを含み,護岸を除いて1800mの長さの滑走路を持つ代替の施設をキャンプ・シュワブ辺野古崎地区及びこれに隣接する水域に設置する意図を確認した。

英語ではこうです。

Both sides confirmed the intention to locate the replacement facility at the Camp Schwab Henoko-saki area and adjacent waters, with the runway portion(s) of the facility to be 1,800 meters long, inclusive of overruns, exclusive of seawalls.

日本語では「1800mの長さの滑走路」とある部分が英語では「the runway portion(s) of the facility to be 1,800 meters long」と、runway portion(滑走路部分)(s)となっています。つまり、複数形にもなり得ると書き置いているわけです。これはつまり、2006年の「現行案」と同じV字型滑走路に含みを持たせる表現でしょう。いったん土俵を割るとどこまでもずるずると下がってしまう、日本外交の粘りのなさがここにも現れてしまうのでしょうか。

そうやって英語で話が進められたとはいえ、しかし米国ではこの問題は大きな事案として報じられてはいません。これが「原案」回帰という辺野古移設じゃなければ大きなニュースになっていたんでしょうが、いまはアメリカでは例のメキシコ湾の原油流出と同性愛者の従軍解禁がトップニュースで、すべてそっちに目がいっています。おまけに軍の展開に関してはとても複雑で専門的な話が絡んで来るので、日本でもそうでしょうが一般のアメリカ人が関心があるかというと普通はそうじゃないでしょう。そして事はなにごともなかったかのように進んでゆく。NYタイムズのマーティン・ファックラーが23日の沖縄の抗議集会を伝えた記事で、「とどのつまり、辺野古移設をうたった2006年合意を尊重しろというワシントンの主張が勝利したのだ(won out)」と書いてるんですけど、そういうことだったのです。

昨年の時点から言っていますが、アメリカはいま(というか前から)沖縄のことで煩っているヒマはない。というか、すべてのシステムというのは、とにかくこれまでのとおりに事が進むことを至上の目標としています。これまでどおりなんだから過ちや危険や破綻は起きないはずなのです。それが保守主義。その中で、しかし世界情勢はそうは上手くは問屋がおろさない。韓国もフィリピンもあんなに従順だった時代を経ていつしかアメリカに反旗みたいなのを翻すようになって基地が要らないなんて言い出して、けっきょくは縮小されてしまった。その度に東アジア極東の軍事再編です。面倒臭いことこの上ない。そして唯一日本だけがそういう懸念から自由な安全パイだったわけです。

ところがその日本が変なことを言い出した、のが昨年の政権交代でした。しかしアメリカとしては実にまずい時期に言ってくれた。なにせこちらも政権交代の発足間もないオバマ政権が、アフガン、イラクの戦争でにっちもさっちもいかなくなっている。おまけに日本がやってくれていたインド洋の給油だってやめるとか言うわけです。これは困ったことです。

しかし、一方でオバマ政権もまた当時は、政権交代という同じダイナミズムを経験した日本の民主党政権と、新たな安全保障を築き上げる構えはあったのだと思います。当時、日本の保守メディアでさんざん紹介された旧政権、米共和党と日本の自民党の間で禄を食んでいたジャパン・ハンドラーの人たちとは違い、ジョセフ・ナイを始めとする米民主党の知日派たちは日本の民主党の、これまでの対米従属とは異なる自主防衛の芽を模索するかのような動きに注目していたのでした。そこから10年後20年後の新たな極東安全保障体制が出来上がるかもしれない期待を込めて。なにせ、長い沈滞の政治を経て、日本国民の70%もが支持した政権が発足したのです。この民意をアメリカ政府は恐れた。それこそがかつて韓国、フィリピンから米軍を追い出したものだったからです。

ところが、日本は思いもかけなかった動きを見せました。ここの国民たちは、沖縄の基地移転問題で、そもそもの原因であるアメリカを責めるのではなく、時の政権の不明瞭な態度を責め立てたのでした。

28日付けのNYタイムズは、A-7面という地味な位置取りの東京電で、「これで長引いた外交的論争は解決したが、鳩山首相にとっては新たな国内問題の表出となる」と書き始め、いみじくも次のようなフレーズで記事を〆ました。

Despite the contention over the base, most anger has been directed at Mr. Hatoyama’s flip-flopping on the issue, not the United States. Opinion polls suggest most Japanese back their nation’s security alliance with the United States.
(米軍基地をめぐる論議にも関わらず、怒りの向きはほとんどが米国ではなく、言を左右した鳩山首相へと向かっていた。世論調査ではほとんどの日本人が米国との安全保障同盟を支持している)

これはアメリカにとって僥倖というか、おそらくなんでなのかよくわからない日本人のねじれです。しかしこの間の日本メディアの報じ方を知っているわれわれにはそう驚くことでもありません。なぜなら、メディアのほとんどは、ワイドショーのコメンテイターも含めて、「米軍のプレゼンスが日本を守る抑止力である」ということを大前提にして論を進めていたからです。その部分への疑義は、最後の最後になるまでほとんど触れられさえしませんでした。

しかも精査してみれば、「米軍のプレゼンス」はいつのまにか「米海兵隊のプレゼンス」になり、まるで海兵隊が日本を守ってくれるような論調にもなった。そしてそのウソに、ほとんどのTVコメンテイターや社員ジャーナリストたちは気づかないか、気づかないフリをしたのです。

12000人のその海兵隊の8000人がグアムに移転するとき、海兵隊は分散配置できない、というウソが露呈しました。残るは4000〜5000人、という海兵隊のプレゼンスの減少は問題とされませんでした。しかも、海兵隊は第一波攻撃隊というかつての戦争のやり方がもはや通用しないにもかかわらず、いまもそれこそが抑止力なのだと信じる人たちが自明のことのように論を進めたのです。

イラクでもアフガンでも、攻撃の第一陣は圧倒的な空爆です。そこでぐうの音も出ないほどに敵を叩き、さらにはドローン無人攻撃機でより緻密に掃討する。そこからしか地上軍は進攻しない。それはもうあの湾岸戦争以来何度も見てきたことではなかったか。

では海兵隊はなにをするのか? 海兵隊は進攻しません。海兵隊は前線のこちら側で、もっぱら第一にアメリカ人の救出に当たるのです。アメリカ人を助け上げた後は場所にもよりますがまず英国人やカナダ人です。次に欧州の同盟国人です。日本人はその次あたりでしょうか。

この救出劇のために海兵隊は「現場」の近くにいなくてはならないのです。
で、これは抑止力ですか? 違います。日本を守る戦力ですか? それも違うでしょう。

いったい、鳩山さんが勉強してわかったという「抑止力」とは、どう海兵隊と関係しているのか? それがわからないのです。昨日の記者会見でその点を質す記者がいるかと思ったがいませんでした。

これに対する、ゆいいつ私の深くうなづいた回答というか推論は、うんざりするほど頭の良い内田樹先生のブログ5月28日付《「それ」の抑止力》にありますが、それはまた別に論じなくてはならないでしょうね。もし「それ」が本当ならば、すべての論拠はフィクションであり、フィクションであるべきだということになってしまうのですから。

それはさて置き、というふうにしか進めないのですが、もう1つ、この問題でのメディアの対応のある傾向に気づきました。じつは昨日、日本時間の夜の11時くらいから某ラジオに電話出演し、日米共同声明のアメリカでの報じられ方に関して話をしました。そのときにそこにその局の政治部記者も加わって、少ししゃべったんですね。その記者さんの話し方を聞いていて、ああ、懐かしい感じ、と思った。聞きながら、なんだかこういうの、むかし、聞いたことがあるな、と頭の隅のほうで思っていたのです。

彼は盛んに政権の不手際を指摘するのですが、なんというのでしょう、その、いちいちもっともなその口調、その領域内ではまったくもって反論できない話し方、それ、そういえばずいぶんとむかし、国会の記者クラブで他社や自社の記者仲間を相手に、いちばん反論の来ない論理の筋道を、どうにかなぞって得意な顔をしていた、かつての自分のしゃべり方になんだか似てる、と気づいたんです。

記者クラブでつるんでいるとなんとなくその場の雰囲気というか、記者同士の最大公約数みたいな話の筋道が見えてくる。それでまあ、各社とも政治部とか、自民党担当の主みたいな記者がいて、下手なこと言ったり青臭いこと言ったりしたらバカにされるんですよ。それでみんな、バカにされないようにいっちょまえの口を利こうとする。そうするときにいちばん手っ取り早く有効な話は、「あいつはバカだよ」ということになるのです。自分がバカだと言われないように、先にバカだというヤツを用意しちゃう。褒めたりはしない。なんか、自分がいちばん通な、オトナな、あるいは擦れ切った、という立ち位置に立つわけですね。そうしているうちに、それこそが最強のコメントだと思い込むようになる。そしてその記者クラブ的最大公約数以外の論の道筋が見えなくなってくるんです。というか、相手にしなくなってくる。

一昨日にテレ朝の「やじうま」とかいう番組に江川紹子さんが出ていたときもその感じでした。スタジオが鳩山の普天間迷走を責める論調になったときに、彼女が1人で「そうは言っても自分の国の首相が何かをしようとしているときに後ろから鉄砲を撃つようなことをしていたメディアの責任も問われるべき」みたいなことを言ったんですね。そうしたら、隣のテレ朝政治部の三反園某と経済評論家の伊藤某が、まるで彼女が何を言ってるのかわからないといった呆れ顔で(ほんとうにそんな顔をしたんです。信じられない!って感じの)いっせいに反論をわめきました。そのときもきっとそうだったです。彼らの反応を見る限り、彼らにはほんとうに、彼女が指摘したような「足を引っぱっていた」という意識はなかった。それは思いも寄らなかった批判だったのだと思います。そういう意見があるということすら、彼らは知らないのかもしれない。

したがって、日本のテレビに登場してくる各社の記者たちのコメントが多く一様にそういう利いた風な感じなのは、きっと記者クラブのせいなんだと、不覚にもいま思い至りました。これもピアプレッシャーというか、プレッシャーとすら感じられなくなった、システムとしては理想的な保守装置です。

うー、何を書いてるのかわからなくなってきたぞ。あはは。

あ、そうそう、で、ラジオで話していて、そのときもはたしてここは論争の場にしていいのか、それともどこか予定調和的にうなづいて終わるようにすべきか、私も日本人ですね、ちょいと逡巡しているあいだに10分間が過ぎて話は終わったのですが。

結論を言えば、鳩山政権のこの問題への取り組みは誠に不首尾だったと言わざるを得ません。
しかし、不首尾は政権だけではないし、民主党だけでもない。
自民党だって不首尾であり続けてきたし、言論機関だってそうだった。

そして、沖縄問題はたしかにいままさにこの不首尾から始まったのです。

May 18, 2010

相互依存便宜供与的身内社会の官房機密費(長い!)

例の、政治評論家やジャーナリストたちに渡った官房機密費(官邸報償費)問題ですが、大手メディアの中で週刊ポストと東京新聞の特報部がこれを報じ始めました。が、その他の大手新聞やTVはやはり反応が鈍いようです。とはいえ、NYにいるんで東京新聞もポストもまだ読めてません(汗)。特報部のサイト、ウェブから見ようとしたんですがあれは携帯からしか見られないのでしょうか? 月100円ちょっとと安いからいいなと思ってるんですけど。

そもそも、東京新聞というのは中日新聞社の東京本社の出している新聞なのですが、中日新聞とは別の紙面作りをしています。中日は名古屋で7割とかの圧倒的なシェアを持つ新聞ですが、その紙面は実におとなしく堅実で東京的にはあまり面白くない。それで東京新聞は名古屋の中日と関係なく紙面作りをするわけ。しかもかなり他社から引き抜いた記者も多く、中日プロパーのラインの記者もわりと独自色を出そうと気骨のある記事を書きます。とくに特報部はそれが存在理由なんで、けっこうさいきんも頑張って他紙の書かないことをやっているようです。

さてこの機密費問題の追及をほぼ孤軍奮闘で続けようとしているのは20代のときに鳩山邦夫の公設第一秘書だった上杉隆さんという人で、つぎにNYタイムズの東京取材記者となり、さらにフリーランスになって、さいきんはテレビの露出も多いようですね。鳩山邦夫との関連がきっかけだったのかしら。私も4月だったか、東京にいたときにTOKYOFMに出演依頼されてスタジオまで出かけたんですが、それもじつはオーガスタ取材で不在だった上杉氏のコーナーの代役出演でした(笑)。

閑話休題。で、彼はNYタイムズにいたせいもあってか日本の既存メディアや記者クラブのあり方を批判しているんですね。彼の立場は明確です。官房機密費は政府として必要だが、それをマスメディア関係者や評論家たちに渡すのはジャーナリズムと民主制度の根底を揺るがす大問題だ、というものです。

その上杉さんが先日、大阪読売テレビの「たかじんのそこまで言って委員会」という番組で機密費受領疑惑の毎日新聞出身御用政治評論家である三宅久之と対峙しました。YouTubeに出てたのをすかさず見つけて見たんですけど、いまそれは削除されてます。ほかの「委員会」の映像はそのまま放置されてるんですが、その回のは読売テレビからの要請で削除、ってなってますわ。どうしてでしょうかね? まあ、いずれにしても記憶を辿ると、そこで三宅さんは、自民党政治家が出席できなくなった講演会に代理で講演してくれと頼まれ、その講演料はもらったことがあると明かしてました。だれだったかなあ、藤波官房長官だったか? でも、機密費なんか「もらってない」と、言ったような……。ポケットマネーだった、とか(でもそんなのわからんわね)。それから領収書は書いてないみたいですね。

なるほど、「盆暮れに500万」という現金ならば機密費もあからさまですが、それが講演や政治勉強会名目で招聘され、一般相場より割のいい講演料やお車代をもらうとしたら政治評論家もジャーナリストもじつに「もらいやすい」だろうな、と思い至りました。

三宅某は自分の供与された金銭を不労所得の現金ではなく労働実体のある講演料だ、と名目上の具体に誘導し、避難・言い逃れるしているわけです。しかしそれでも講演料は法外ではなかったのか、領収書書いてないなら税金は申告してないでしょ! という問題は強く残ります。

だがその番組、辛坊というアナウンサーがやたらうるさくて、上杉氏のそれ以上の追及を邪魔するんですね。辛坊は「私の知ってる限り、機密費をもらった人など1人もいないですよ!」って見栄を切るんだけど、それに何の意味があるんでしょう。取材調査もしないオマエになんかにゃ聞いとりゃせんわ、ボケ、です。で、野中から「唯一機密費を断った人」とされた田原総一朗もそこに出演して座ってはいたんですが、彼もこの件ではムニャムニャと歯切れ悪いこと甚だしく、何なんでしょうね。同業者をかばう日本的な思いやり? それとも自身もまだなにか話してないことがある?

上杉氏も指摘していましたが、NYタイムズなど米国のメディアには取材対象から金銭的な供与を一切受けてはならないという社内規定があります。たとえばスターバックスのコーヒー1杯程度ならよいが、2ドル相当を越えたら解雇される、というほどの厳しいものです。

ところが日本の新聞社やテレビの報道部局にはそういう明確な規定はありません。というか、記者クラブの便宜供与もそうなのですが、その辺、わりと大雑把なんです。政治部では政治家に食い込めば食い込むほど彼らとの会食やゴルフなんかの機会も出てくる。そのときにきっかりと自分の分の代金を払っているのかどうかははなはだ心もとないところだし、経済部だって企業の商品発表の記者会見などではその商品そのものなどお土産がたくさん。ま、原資は税金じゃないからこちらはまだいいでしょうが、おもらい体質はそうやって培われていくんでしょう。

社会部の事件担当記者にはそういう金銭の絡む関係というのはあまりないですが、しかし情報のおもらい体質というのは存在します。警察や検察からの情報を「もらう」ことに、どんな政治的な作為があるのか、その辺に無自覚にそちらからの情報だけで書いてしまう恐ろしさというのは、昨今の東京地検特捜部のあからさまな情報操作リークでも明らかになってきたところでしょう。

そうしてふと気づくのは、このおもらい体質というのはそもそも日本社会全体が中元・歳暮に限らず、かなりな身内志向的相互便宜供与社会だということと通底しているんじゃないか、ということです。

こないだの大阪の講演でも言ったことですが、例の「身内社会」の成立要件が、この付き合い方なのです。つまり、このわたしたちの社会って、なんらかの付き合いがあれば赤の他人だった人同士でも身内にしようとする、なろうとするように動く社会なんですね、わが日本は。そんな中で贈り物が、挨拶として日常茶飯に行われてきました。それが渡る世間というものなのです。

旅に行くと、出張でもそうですけど、とにかくみなさんその旅先でお土産を買って帰るでしょ。そして同僚・上司やご近所に配る。そんなの、アメリカではあんまり見かけません。贈り物はあくまで個人の領域ですることで、公的な場面ではそれは賄賂や買収です。ですからすでに親しくなった人たちにはするけど、これから親しくなろうとする人を対象にするのは、好きな人に花を贈るときくらいで、そのほかはその意図があからさまに透けて(恋人候補には、逆にその意図が透けないとダメだからいいんですけど)、さもしく映るんです。それは格好わるいから。

さらに日本ではそこに上下関係も出てきます。メシをおごると言われているのに割り勘を主張するのは可愛くないヤツです。それが続けばさらになんとイケ好かないヤツだということになります。メシをおごるのは太っ腹な上司の器量の見せ所なんであって、そういうのを便宜供与だとは意識しない。上司と部下の仲、あるいは利害関係のある仲でも(身内同然の)オレとオマエの仲じゃないか、とうのが理想とされる付き合いなのですからそこに向けて限りなく引っ張られていくのですね。

ふむ、「社会」と「世間」が、日本じゃ実に巧妙に入り組んでるんですな。

ただ、ジャーナリストはそれでは絶対にいけない。ジャーナリストはときに付き合いの悪い、空気の読めない、嫌なヤツだと思われることを恐れてはいけないのです。「社会」と「世間」を混同してはならない。あくまで社会に生きねばならない。そうじゃないと対象の不正を暴けないですからね。

そういう覚悟ができているか? それとも、基本的に世間的な「いい人」でありたいのか?

先に書いたように、メディアでもの申す人物に機密費が渡るときに「盆暮れに500万」という現金ならこれはもうど真ん中で追及しやすいですが、名目上、講演料や車代などのなんらかの「実体」のある対価として渡る場合には、たとえその意図が見え透いていても日本の世間的には批判が和らぐのを、どう論破するのか予防的に考えておいた方がよいと思います。だって、それならおそらくいろんなひとがカネ、もらってる。舛添なんて政治家になる前は自民党関連の勉強会で引っ張りだこでしたしね。それに、新聞記者やTV報道記者もかなりそういうのでは引っかかってきます。だから、なかなかキャンペーンを張れない。東京新聞特報部はまだ若手の一匹狼的記者がピアプレッシャーの主体だから書けたんでしょうけどね。

いみじくも「言って委員会」で三宅が言っていましたが、「会社員は給料もらってるからダメだが、私なんぞはフリーでそういうのでカネを稼いでるんだ。それをダメだと言われたらたまらん」(私の記憶からの書き起こしできっと不正確)みたいなこともある。彼なんぞはとくにもうジャーナリストじゃないし、たんなる政界の政局的内情通でしかないわけで、御用コメンテイターとして雇われてんだ、その何が悪い、と開き直りかねません。そのときに、なんと断罪するか? それもそれは彼を切るだけが目的なのではなく、先に触れた相互便宜供与で成り立っている日本のこの世間が納得する話の筋でなければならないのです。

うーむ、難しい。

そこらへんすっ飛ばして、官房機密費、10年後もしくは20年後(あるいは関係者の死後)に公表します、ってやっちゃえばいいんでしょうね。そうしたら自ずから、もらう方が判断しますよ。しかも歴史の重層が明らかになるし。

そうだ、そうだ、そうしちゃえ、というのが本日の結論であります。ふう。

May 11, 2010

このグッタリ感の理由

続報を期待しているのにさっぱり出て来ないニュースがあります。98〜99年に小渕内閣で官房長官だった野中広務が最近、官房機密費(官邸報償費)を当時「毎月5000万〜7000万円くらいは使っていた」と暴露した件です。使途については▼総理の部屋に月1000万円▼自民党の衆院国対委員長と参院幹事長に月500万円▼政界を引退した歴代首相には盆と暮れに200万円ずつ▼外遊する議員に50万〜100万円▼政治評論をしておられる方々に盆と暮れに500万円ずつ──などとし、「言論活動で立派な評論をしている人たちのところに(おカネを)届けることのむなしさ。秘書に持って行かせるが『ああ、ご苦労』と言って受け取られる」とも話しました。

この話はじつは以前にも細川内閣の武村元官房長官も明かしていますから、その人たちの名簿は歴代の官房長官に慣例として引き継がれていたらしい。領収書や使途明細の記録を残してはいけないというこの官房機密費は、93〜94年の細川政権時代は月4000〜5000万円だったらしいですが、自公政権の末期にはほぼ毎月1億円国庫から引き出されていたそう。しかも政権交代直前には当時の河村建夫官房長官が通常の2.5倍もの2億5000万円を引き出したことがわかっています。平野官房長官が、金庫は空っぽだったと言ってますからね。

これらの正当性に関する論及を探しているのですが、日本から帰ってきてしまったせいかマスメディア上で探してもなかなか出て来ない。ネット上の未確認情報では、野中から機密費を受け取った政治評論家は渡部昇一、俵孝太郎、細川隆一郎、早坂茂三、竹村健一らだとされており、これら“過去の人”のほかにも最近では三宅久之や宮崎哲弥、河上和雄、岸井成格、岩見隆夫、後藤謙次、星浩、果てはテリー伊藤や北野たけしといった人たちの名前まで取りざたされていて、いやはやホンマかいなの状態。しかもテレビや新聞がそれらの真偽をまったく追及しないのもじつはメディア幹部に内閣からこのカネが流れているからだなんて話まであって、身を以て真偽が知れる「幹部」になる前に新聞社を辞めた自分の不明を悔いています(笑)。

しかし事は冗談で済む話ではない。いったい世論の何が操作され、何が操作されていないのか? テレビでかまびすしく持論を垂れるあれらの顔のどれが本物でどれがヒモ付きなのか? これはジャーナリズムの根幹に関わる問題であり、民主主義の土台を揺るがす大事件です。このことがうやむやなまま検証されなければ、政治評論家の存在自体が政治アパシーを加速させ、全体主義の台頭をゆるしかねない。ただそれら名前の挙がった人たちに事実の有無を訊いて回ればよいだけなのに、「噂の段階で聞くのは失礼」という奥ゆかしい日本的配慮なのかさっぱり埒が明きません。おまけに鳩山政権が機密費開示に消極的なのは野党時代にそこから巨額のカネを受け取っていたからだという話もあながちウソではないでしょうから余計タチが悪い。

政権交代とは、こうした旧体制の旧弊を白日にさらす重大な契機になります。そして、鳩山政権の支持率の急落理由は、世論操作?はさておき、こうした旧弊がせっかく明らかになってきているのに、それらのヘドロをぜんぜん処理できないことにあります。

沖縄基地問題の矛盾、高速料金の不思議、独立行政法人のムダ、天下りの甘い汁、年金行政のデタラメ……結果、毎日ヘドロを見ざるを得ない私たちはなんだかひどく疲弊しちゃうのです。

このグッタリ感は、参院選に向けての見え見えな人寄せパンダ候補者の発表でさらに募ります。とにかく初心に戻って、このヘドロ処理の行程表をとにかくいま一度示してくれるのでない限り、ヤワラちゃんだってイスタンブール歌手だってまるで逆効果でしかないですわね。もっとも、相手方も三原順子とか杉村太蔵とか元野球選手だとか、なんだかわけわかんないですけど。

May 04, 2010

突破力と粘着力

鳩山の沖縄・普天間基地の県外移設断念で、内閣支持率はきっと10%台あるいはそれ以下に急落しているに違いありません。政権交代というモメンタムを以てしてもこの政権に「突破力」がなかったことはこれで確実にわかりました。

ただ問題は、普天間がこの腰折れで終わり、「公約」違反の鳩山退陣で片をつけたら、続く政権は今後何年も沖縄を鬼門としてなんら基地問題を解決するような公約すら出さずにお茶を濁すだけでスルーしようとするのではないかという心配です。それはどう考えたってまずいでしょう。じゃあ、どうするのがいいのか? この政権にまだ問題解決の「執着力」や「粘着力」(っていうんでしたっけ?)を求めてなお期待をつなぐのか、それとも見限るのか?

じつはこの数週間でパラオやテニアン島の議会が米議会に対し普天間の海兵隊4000人の移設先に立候補しています。

アメリカの自治領であるテニアン島には60年以上前に4万人規模の米軍基地が建設されていました。島の面積の2/3がいまもその基地機能の再開を念頭に米国防総省に100年契約で貸与されているのです。テニアンにしてもパラオにしても、もちろん今回の基地誘致の議会決議は雇用創出やその他の経済的利益を見越してのことです。

そういう経済の思惑は両島に限りません。日本側だって辺野古への杭打ち移設で日本企業に流れる8600億円ともいわれる利権がある。それが、すでに滑走路が3本もあるテニアンなら一銭にもならない「恐れ」があります。

一方、アメリカ政府にしても普天間の移設先として「グアムとテニアンが最適」というドラフトを用意しながら(鳩山も沖縄訪問で「将来的にはグアム、テニアンが最適」と発言していました)、アフガンやイラクでの戦費がかさんでいるのとリーマン・ショック後の歳入不安で、そんなときに大規模な基地移転なんかでカネを使いたくないという事情も見えてきました。まあ、沖縄にいるかぎり例の思いやり予算で米側の負担はずいぶんとラクチンなのですから。

こうしたカネの事情をすっ飛ばして「5月末決着」を打ち出した鳩山の政治的ナイーブさが現在の彼の政権の苦境を生み出しているわけですが、このままでは県内移設反対の社民党がいつ政権を離脱してもおかしくない。それを見越して永田町は一気に政局へと傾くかもしれません。以前から言っていますが、「現状維持」を旨とする官僚システム内にはこれでほくそ笑んでいる向きも多々あるはず。じつはこの辺も普天間県外移設の、最大の影の抵抗勢力だったかもしれません。特に北沢防衛大臣など、いかにも面倒臭いことはしたくない官僚任せ閣僚の風情ですしね。

それにしても相変わらず新聞論調はダメですな。例によって読売は「だが、米側は、他の海兵隊部隊の駐留する沖縄から遠い徳之島への移転に難色を示す。杭打ち桟橋方式にも安全面などの理由から同意するかどうかは不透明だ」。産経も「米側は日本国内の動向を注視している。首相の腰が定まらなければ、日米協議も進展しまい」と、まるでいまでも米国の代弁者。沖縄の負担を軽減するための言論機関としての提案はぜんぜんやってこなかった。日米新時代への言論機関としての気概はまるでないんだから。

この政権に「突破力」がなかった、と冒頭に書きましたが、いまさらながらこうしたすべての事情が沖縄問題の「壁」であったわけで、それらを一気に「突破」するのは容易なもんじゃないと改めて思います。

それでも沖縄問題は続きます。私たちが鳩山政権を見限っても、冷戦構造崩壊後も残る沖縄の「異状」は存在し続けます。求められているのは政権の突破力や問題解決の粘着力ではあるんですが、じつは私たち国民の突破力と粘着力もまた必要なわけで、簡単に匙を投げる我々を沖縄の人たちはさてどう見てるんでしょうか。

May 02, 2010

「私」から「公」へのカム・アウト──エイズと新型インフルエンザで考える

2009年12月12日、大阪のJASE関西性教育セミナー講演会で話したことを要約しまとめたものを(財)日本性教育協会が『現代性教育研究月報』4月号で採録、さらにその原稿をこのブログ用に加筆したものを「Still Wanna Say」のページにアップしました。

ご興味ある方はどうぞ。

「私」から「公」へのカム・アウト──エイズと新型インフルエンザで考える

April 28, 2010

性急な、あまりに性急な

日本の民主党政権の人気浮揚策となるのか、あの事業仕分けの第2弾が始まってます。で、朝昼のワイドショーのニュース談義を見ていて気づいたことがあります。日本ではいろいろな職種の人たちがコメンテイターとしてスタジオに座っています。その人たちが、どうも予定調和的にある一方向のコメントを発する傾向があるのですね。

例えば、仕分け対象になった「独立行政法人都市再生機構」を論じた際にある局では慶応の先生が「本来なら独法は全廃してそこから必要なものだけを再生させるのがスジ」と言えば、隣の政治評論家が「民主党のマニフェストも本来はそれを約束していた」と言葉を継ぐ。そうしてスタジオ全体がそうだそうだという雰囲気になってくる。そこには全廃した際に解雇される膨大な人々の雇用問題をどうするかとか、実際に機能しているプロジェクトの継続をどうするかといった現実的なステップがすっ飛んでしまっています。

こういうのをコメンテイター同士のピア・プレッシャーというんでしょうか。ピア・プレッシャーというのは「仲間の圧力」という意味で、みんなと一緒でなければいけないと、周囲からそういう暗黙の圧力があるように思い込んでしまっていることなんですが、まさに「空気」というやつです。「空気を読めよ」っていうやつ。それが無意識のうちに働いてしまっているようで、どうにもそのスタジオ内では出演者同士の論争を避けているふうな印象を受けるのです。それでなんとなくいまは予定調和的に政権批判の論調に落ち着く。この辺は世論調査の内核支持率とも連動していて、政権発足時の支持率7割のときは賞賛論調でまとまることも多かった。

いやそこは手だれのコメンテイターたち、ときには異論を唱えるのが見事な人たちもいます。でもそれはそこでは論争にはならない。なんとなく司会者やキャスターが引き取って、「それにしても〜〜ですよね」で、うんうん、とまとまっちゃうようなことが多い、そんな印象。もっとも、放送ではコメントする時間はあっても論争する時間はないのが普通ですから無理もないのかもしれませんが、周囲の「空気」を読んでまとまっちゃうこの感じ、これはすごく日本的だなあと思いました。

米国の報道番組ではCNNはじめほとんど必ず論者を対峙させる作りになっています。Foxですらコメンテイターを呼んでモノを言わせるときはスタジオのキャスターとの論争の形を取る。出演依頼したみんなで同じことを言い合って「そうだ、そうだ」ということはまずありません。必ず反対論者が用意されていて、違う視点をぶつけ合い、それで視聴者は視聴者で自分でどうなのか判断するという流れ。「朝まで生テレビ」のミニチュア版が常に行われている、と言ったらわかりやすいかも。医療保険改革案にしても賛成・反対・公的オプション派などが相手の「空気」などお構いなく、侃々諤々か喧々囂々なのか、とにかくあちこちでかまびすしい議論が展開していました。

私はいまでも日本の政権交代は意義があったと思っています。何といっても民主党になっていろいろ隠れていた政治・行政の過程が見えるようになった。事業仕分け然り、揉めている高速道路の無料化公約と実質値上げの新料金制度との問題だって、小沢さんのオトナ気ない前原さんイジメを除けば、米国のニュース番組みたいに賛否両論がなんと政権政党内から提示されて実に興味深い。普天間の問題だってメディアの誤報まで含めてまるで見世物です。だいたい沖縄のことに、それこそ主婦まで含めてみんながこんなに注目したのも初めてのことではないでしょうか?

自民党時代にはそんなゴタゴタはなかったとしてこれらを民主党政権の「迷走」ととるのは簡単です。が、自民党時代の、国民に伝えられるときも国会でも「すでに自民党内で決まったことで決定」という既決感はあまりに空しかった。

鳩山政権の支持率はすでに20%台。でも政権発足8カ月というのは、客観的に言って成果が出せるような期間じゃありません。いくら何でもこの判断は性急すぎるんじゃないのかしらって思うんですよね。だって55年間つづいた自民党独裁の垢落としですよ、そんな簡単に成果が出るわきゃあない。独法全廃、議員定数削減、沖縄基地問題の解決、年金改革、財政均衡……そろって大問題です。「みんなの党」に期待をかけてる人たち、その期待は昨年の選挙前に民主党にかかっていた期待と同じものなんでしょうけど、もし同じように性急ならばその期待は同じように裏切られます。

子供の育て方と同じ。ダメだダメだ、ではなく、この場合は、頑張れ、もう少し頑張れ、うん、そこはいい、ではないのかなあ。

とは言えまあ問題は、民主党下でじゃあこれからどんな成果が出てくるのか、なのですが、その成果創出も、検察審査会の「小沢一郎起訴相当」決定でまた逆風下です。

でもねえ、この検察審査会にしても、いったいどういうひとがやっているのかいっさい謎。米国の陪審員というのは当該事件に関していかに予断を持っていないか、それまでの報道など不確定な“事実”にいかに汚染されていないか、対象案件と利害関係はないか、などをじつに厳しく精査されて選出されるんですが、日本では陪審員制度に似ている裁判員制度ですらあまりそこらは厳密には追及されないようですし、ましてや検察審査員というのはそこら辺、だいじょうぶなんでしょうか?

検察審査会が有効な時というのは、検察が起訴したくなかったやつを案の定起訴しなかったときに、「そうじゃないだろう!」と突き返す時です。たとえば同じ検察官だとか警察官だとかへの、身内かばいの起訴猶予や不起訴が往々にしてあるでしょう? そういうときに市民感覚で、「それは違うだろう、身内に甘いのは許さん!」というのは正しい。でも、起訴したくてしたくてしょうがないのにできなかった場合、小沢の場合はこれに相当しますが、それを起訴しろっていうのは、それこそ証拠がないのに締め上げろって、まさに冤罪の捏造と同じではないのか? それって、検察審査会の役目じゃないような気がします。しかも、「起訴相当」案件が不動産の取得時期と代金支払いの時期との2カ月余りの「期ズレ」に関してだというから、そんなの政治資金規正法上、立件するようなものなんでしょうか。

メディアでみんな同じ方向で論じているのであえて言いますが、「起訴相当」が一般の人たちの感情、という論調も、その詳細をすっ飛ばして小沢は西松から不正資金を受け取っているに違いないという雰囲気を後押しにしています。それは「ポピュリズム」を批判してきた新聞の言うことではないだろうという気がします。それこそ「悪しきポピュリズム」って、民主党発足時にさんざん批判してきた新聞社は、どう整合性を持たせるつもりでしょうか。そのあたり、じつにいい加減。論説室にそういうこと気づくひといないのかしら? それともこれもピア・プレッシャー?

小沢断罪の各紙の今朝の社説はほんと横並びでひどいものでした。言論機関といえどもどう考えても論拠がない。「起訴相当」は「起訴」ですらないのに、そして「起訴相当」対象は期ズレという形式的な問題だというのに、この人たちはよっぽどひとを裁判なしで裁きたいらしい。それが自らにも返ってくる諸刃の論理だということを知らぬはずもないのに。

いや、この体たらく、明るい未来は一筋縄ではいかないもんです。

April 14, 2010

リタイアという美学

「たちあがれ日本」という平沼・与謝野新党に関して、日本ではまずは反射的に平均年齢69.6歳という高齢を揶揄する論調が多勢を占めました。いわく「立ち上がれ日本、杖なしで」とか「立ち枯れ日本」とか。

これに対し「いや年寄りだからダメということはない。すばらしい高齢者はたくさんいる」という一見「正論」がそれを押し戻した形になっています。たしかにそうです。でもこれは、果たしてそういう問題なのでしょうか?

この妙竹林な党名の命名者である77歳の石原慎太郎は結党会見で「年寄り年寄りとバカにするな。君らが持ってない危機感を我々年寄りは持ってるんだ」と妙に本気で気色ばんでおりました。こういうのを見るにつけ、政治とは理念ではなく情念で動くもんなんだなあと思ってしまいます。

で、この石原を入れれば優に平均年齢70歳を超えるこの彼らの情念とはいったい何なのか? 会見での石原の顔は、なんだかとても怯えているようでした。悲しそうですらあった。それは私の目には、日本の未来への危機感というよりも、自分が用無しの年寄りに成り果てることへの危機感のように映りました。いわば、権力への妄執。力を失って老いさらばえることへの恐れです。それが彼を叫ばせていた。(素人の読心術ですがね)

自民党が70歳定年制を敷いているので、平沼新党の自民党離党者たちはいずれにしても次は公認をもらえなかった。そのためのロートル議員の受け皿党だという口さがないひともいます。しかし私には、問題はそういうことではないと思えます。

私は、どんなにすばらしい高齢者でも、10年後、20年後に責任をもてないひとは政治権力の中枢にいるべきではないと思っています。つまり10年後、20年後に生きていないひとが、10年後、20年後の社会を作ってはいけないと思うのです。

10年後、20年後の社会を憂うなというのではありません。おおいに憂えてもいただきたいが、それは在野からの、そのひと個人の影響力として物申すべきだ。なぜなら、実際に権力を行使して10年後の社会を作るひとは、10年後にそれが失敗したときに責めを負えるひとであるべきだと思うからです。だってその10年後の社会は良くも悪しくも、その10年後にも生きているひとたちのものなのですから。
 
にもかかわらずどうしていまも日本社会の権力中枢には、政界に限らずどこぞの新聞社のドンとか、老醜、老害としか見えないひとたちが居座っているのでしょう。さんざん権力を行使してきていまもまだ社会に危機感を抱いているというのは、とりもなおさず彼らのこれまでの試みのすべてが失敗してきたという証左に他なりません。ならばあっさりと失敗を認めて、引き下がればよいものをまだ自分で何かをしたいと思う。その意気や壮としても、それは在野で個人的にやってもらいたい。そのときこそそのひと個人のそれまでの生き方が評価されます。またそうしてくれないといつまでも若い世代が責任を負って仕事をしません。それこそが次世代への彼らの危機感の原因であるにもかかわらず、その原因の素こそが彼らなのです。

冒頭の言に戻れば、すばらしい高齢者はもちろんたくさんいます。しかし問題はシルバー新党の諸氏がどうすばらしい年寄りなのかということであって、自動的に彼らがすばらしい高齢者だというわけではない。むしろ石原やナベツネのように「オレがオレが」と吠えるひとほど、すばらしいというよりもみすぼらしく映るわけですが、前述したように、すばらしい高齢者であればあるほど、後進に道を譲る道こそが社会の正しいあり方だと知っているはずなのです。それでも国を憂うるならば、身1つで老成した文学者か哲学者のように根気よく発言し続けるか、あるいは不満爺となって憤死するかの2つに1つしか道はないのです。

そう考えてくると、問題は「リタイアの美学」を育ててこなかった日本の社会文化にもあるのかもしれませんね。まあ、それだけ精神的に余裕のない、貧しい国だったということでしょう。それに、年寄りも大事にしてこなかった社会だものなあ。でも、石原なんて若い頃から年寄り攻撃してきた張本人だし、ナベツネだって先達を媚び諂いおもねる道具か唾棄するバカかとしてしか見てこなかった類いの男です。老いて権力を失うことへの強迫的な恐怖は、自業自得といいますか、むしろ彼らの生き方そのものが自ら作り出してきた彼らの人生の亡霊みたいなものなんでしょう。くわばらくわばら。

March 26, 2010

民主党を利用する

今週から1カ月余り日本に滞在します。一方で、そんなこんなのうちにオバマ政権がとうとうアメリカという国に国民健康保険制度めいたものを成立させてしまいました。オバマ人気の陰りが濃くなってきたころに、これは大きな歴史的転換となる出来事です。パブリック・オプションという選択を捨てての妥協案ではありますが、それはいかにアメリカという国が「社会主義」的政策にアレルギーを持っているかを示していることに他なりません。そう、国民皆保険制度というのは米国では「社会主義政策」と見なされているのです。

一方、日本の民主党・鳩山政権はオバマ政権同様、支持率はどんどん下がっています。そして3月内にも指針が表明されるという普天間基地移設問題ではまさにいま天王山。いったいどうなるのでしょうか。

「どうなるのでしょうか」という設問は、しかし私の意図するところではありません。これまでのコラムやブログなどの発言で、私が日本の民主党の支持者なのかどうかをよく聞かれます。旗色を鮮明にするためにここで表明すれば、私は民主党の支持者ではありません。というか、あれだけの(バラバラな)集団、そんな丸ごとぜんぶを支持してるとかどうとか、言えるわけないです。だいたい判断材料の成果を見るにもまだ時間が足りない。ただし言えることはただ、私は、民主党を使おうとしている、ということです。

私は日本の政治が、長い自民党政治でとんでもなく沈滞してしまったと考えています。優秀と言われた官僚たちはいつのまにか働かない集団となり、ろくな税金の使い方をしないようになりました。政治家の言葉は紋切り型のカスみたいなものになり、転換する世界の動きにまったく対応できなくなりました。このまま自民党にやらせていたら、私の考える理想のコミュニティ、理想の国家の形はさっぱり彼らには伝わらないし彼らも聞こうとはしないし、結果、形にもならない。そう諦めていたときに政権交代が行われたのです。

民主党は、それこそ海のものとも山のものとも知れない政党でしたが、政権交代には行政の無駄遣いの根絶や予算の組み替え、官僚制度の刷新や年金改革、沖縄の基地負担軽減などへの期待が託されていました。つまり、自民党政権では託しようのなかった思いを抱いていた人々が、やっと自分の思いを託そうと思えるモメンタムを得た、かのようだったのです。

それは「支持」というよりは「利用可能性」だったのだと思います。自民党時代には端から諦めていた自分たちの思いを具現するために、この政権を利用しようと思ったのです。それは日本の歴史で久しぶりの、民主党という新たな政体というのではなく、新たな(自民党支持の人々とは別の)民衆の積極的な政治意識の登場だったわけです。

自分たちの思いを具現するには、もちろん思いを託す政党そのものを育てなければなりません。おだて、なだめ、励まし、ときには威嚇しながらも、政治家たちを自分たちの思う方向に仕向けなければならない。「どうなるのでしょう」ではなく、そこでは「どうするのか」「どうしたいのか」がテーマです。

それはどんなに早くとも数年はかかる営みだと私は思っていました。50年以上も続いてきた政体を変えるわけですから、そのくらいじっくりと腰を据えなければできないでしょう。利用する側にもそんな覚悟が要た。

ところがそうする前に鳩山首相や小沢幹事長の政治資金問題が出てきました。そのときに私が考えたことは、それは果たしていかほどの大問題かということです。つまり、自分が利用しようとする政党の、利用するだけの気力が失せるほどのくだらなさなのかどうか、ということが判断基準となりました。

けっこう往生際が悪いというか、そのときに私が比較対象にしたのはやはり過去の自民党政治です。田中角栄の金権政治やリクルート事件に関してはここ最近いろいろと見直しが進んで、私もなんだかあのときそれを告発する側だったことの正当性が分からなくなってきていますが、鳩山・小沢問題は、これは自民党政府のあの失望させられ具合に比べたら、ぜんぜん屁でもなかったように感じました。国会では民主党による「あなた(自民党)にそういわれたくない」という反論が封印されてしまったようですが、いやいや私にはまさにそれこそがもう一つの判断基準でもあります。てか、どうしてそれがダメなの? って感じ。

ましてや小沢問題では、無謬性の権化の一つだったはずの検察=東京地検特捜部への疑問が噴出しました。別の一つであったメディアに対してもそうです。彼らは検察の思う筋書きに沿ったリークを喧伝し(リークじゃないとメディア企業は強弁していますが、取材者であった者から言わせれば、あれはどうしたってリークなんです。産経社会部長の言も読みましたが、片腹痛いとはこのこと。あの人、どういう畑だったのかしらね)、起訴するに足る事実がなかったにもかかわらず執拗にダーティーなイメージを糊塗し続けました。そうしていつのまにか私たちの間に民主党も自民党と同じかというニヒリズムが蔓延しているのです。

もちろん、私にはまだまだ自民党よりはぜんぜんマシなように思えているわけで、だからいまでも利用できると踏んでいるのですが、世間はどうもそうじゃないようです。でも、それは「支持するかどうか」という基準で考えているからではないでしょうか? そこを、「支持してないけど、使えるもんは使おう」と考えるともちょっと楽なんじゃないかと思います。各種世論調査も、そういう設問をすればまた変わった世相が見えてくるんじゃないか? 「あなたはいまも民主党を利用したいと思いますか?」ってね。

だって、今度の国家公安委員長の路上キスの問題だって、まったくなあ、と思いますが、ふと立ち止まって考えれば、ありゃそんなに騒ぐほどのものかなあとも思わないでもない。そりゃ脇が甘い、外国からのハニートラップの危険だってある、議員宿舎にテロリストがまぎれる危険もある、のは確かですが、私たちの関心というか非難の先はどうもプライベートな「30歳以上年下の女性とのキス」にあるようで、それ自体はべつに、独身の67男の、そうあれこれ取りざたすべき公の問題ではないのじゃないかとも思う。この問題は、そんな我々の興味の核心とは別に派生する問題が問題なのであって、それがまさに週刊誌ネタの週刊誌ネタである所以でしょう。まあ、人品のことで言えばここでもまた比較が出てくるんですが、宇野宗佑の小指騒動や森喜朗のえひめ丸ゴルフ場問題なんかを知っている身としては、ふうん、よくやるね、というところでまだ収まっている。ま、個人的な感想ですがね。

自民党政権と比べての相対評価というものがいかに危ういかは知っています。しかし悲しいかな、私たちにはいま民主党しか利用する道具がないのだとしたら、それを使うしかないじゃないか、って感じが強いのですね。

しかし私たちが利用しようとした民主党は、私たちが育てる前にへたりつつあるようです。あれだけ言っておきながら普天間の県外移設がかなわなかったら、それこそ政権は危機に陥りもするでしょう。以前にもここに書きましたが、アメリカと交渉するときにいちばん大切なのは、その政権がいかに国民の支持を得ているか、ということです。グアムへの全面移転だって、国民の支持が高ければアメリカだって譲歩せざるを得ない。しかしそれを知ってか知らずか、保守メディアは親米というねじれた構図を変えぬまま、いたづらに政権と国民との乖離を促進した。普天間問題はこれでアメリカの意に添うようにならざるを得なくなった。「国益、国益」と騒ぐメディアに限ってかえってこういうところで国益に反する属米路線を補強するようなことをしたのです。

日本の報道メディアはまた、政権発足後100日間の米メディアと政権との蜜月関係をさんざん紹介し報道しておきながら、その一方で100日以内の段階でも既に、何が足りない、何が問題だ、と騒ぎ立てていました。私も新聞社にいた経験からかなりメディア側に立って援護もしたいのですが、あのとき前口上のように説明していた米国メディアと政権との関係の話は、いったい、何の意図だったのか、その脈絡が私にはいまもさっぱりわからないままです。単なるネタ漁りだったのかもしれません。

いまの日本の民主党政権の危機は、自分の国を「どうしたいか」という主体的な思いを辛抱強く持ち続けていられないせっかちな私たちの危機であり、政党を育てるのではなく叩くことしかしないでいるマスメディアの危機でもあるのだと思います。私たちはいったいどこに行こうとしているのか?

いまのままでは私たちはそうして、利用すべき道具を、これは目立てが悪い、持ったときのバランスが悪い、ここが凹んでいる、ここが傷ついてる、と言って修理することもなく簡単に捨ててしまい、気づいたらいつか家を直すのに素手しかない、という状態になってしまうのではないかと恐れるのです。

March 18, 2010

恋する世代

日本産品の海外進出の柱の1つがスシや茶道を取り巻く食文化ですが、もう1つの柱がソニーやトヨタなどがコツコツと積み上げてきたまじめなモノ作りでした。ところが最近それらに元気がない。こないだ、アカデミー賞を見ていて気づいたんですが、トヨタは例のブレーキ問題で自粛したのかCMを1本しか出してなかった。で、それに代わって目立ったのが韓国の現代自動車です。「ヒュンデ」って発音するんですけどね、こっちでは。なんか、ソニーもパナソニックもいまやサムソンに追い越されそうになってるんだか追い越されたんだか、アメリカではそんな日韓の入れ替わりというかせめぎ合いが熾烈になってきています。

で、そんなモノ作りに代わって日本ブランドとして頭角を現して久しいのはキティちゃんや村上隆デザインの「可愛いグッズ」。これはまだ他に脅かされる分野ではない、独壇場です。なんといっても2年前でしたか、中国の観光客誘致で当時の自民党政権が親善観光大使に選んだのはそのキティちゃんでしたから、日本は国を挙げて(意識してかしないでか)そんな日本印の「子供っぽさ」を販促用のアイデンティティとして使ってるのです。

先日、東京で宮台真司や東浩紀らそうそうたる頭脳を集め、その村上隆らの描く「子供っぽい日本」についてのシンポジウムが行われました。そこにパネリストとして招かれたボストン大学で日本文学を教えるキース・ヴィンセントと事前にそのテーマで話をしていて、興味深い現象を知りました。いまアメリカの大学で日本のことを勉強しようとしている若者たちは、80年代のいわゆるバブル経済期とは違って、日本を勉強することが今後の自分の職業人生にとって有利に働くからとかというのではあまりないそうです。そういうオトナの動機を持つ学生たちが専攻しているのはいまや日本ではなくて中国であるらしい。

ただし一方で、日本の経済がこうしてデフレ・スパイラルのとんでもないことになっていても、日本に興味を持つ学生たちの数というのはそんなに減ってはいないそうです。ではどんな学生たちが来るのかというと、その多くはアニメやマンガといった日本の大衆文化のファンたちだというんですね。ま、それは予想に難くない。

そのせいか、日本学科の学生たちというのは、たとえばフランス語や中国語を勉強したいという学生たちとはなんだかすごく違うらしいんですよ。日本留学を希望している学生たちは面接などで日本の、例えば食べ物が好きだ、ファッションが好きだ、ポップカルチャーが好きだとかと言いつつ、ほとんど必ず「日本自体を愛している」と口にするらしいのです。で、しばしばその「愛」は、子供時代からずっと続いているのだと打ち明けてくるんだそう。

そこで、この子たちが「日本を愛してる」と口にするそのなにか強迫観念的な、オタクっぽい感じには何が潜んでいるのか、キースは考えました。

結論は、彼らにとっての日本は単に「どこかもう1つの別の国」ではなく、他には存在しない「どこか違う、約束の地」なんじゃないかということだったそうです。

中国学科の学生たちは中国の経済発展の凄まじさに魅了されている。ロシア学科の学生たちは新興財閥とヤミ経済に好奇心を抱いている。その文化や言語を大人になるために必要な勉強としてとらえているのですね。アメリカのフランス語専攻の学生たちの夢というのもまあ大人っぽさへの憧れでもあって、いまでも例えばパリに住んでセーヌの左岸のカフェでワインを飲んでカミュを読んで、という感じなんだといいます。

ところがいまの日本学科の学生たちは、全部とはもちろん言いませんが、頭までズッポリと日本に恋しちゃってる。そしてこの恋愛感情の奇妙な強烈さは、おそらく彼らが日本文化を自分の子供時代に結びつけていることと関係しているのではないか。というのも、彼らの記憶の最初期は必ずポケモンやセーラームーンを通して日本とつながっていて、それでどこか無意識のレベルで、日本で勉強したら自分のあの幸せな子供時代をもう一度追体験できる、みたいな、そんなふうに想像しているようなフシがあると言うのですね。

今回のこの話に残念ながらオチはありません。その学生たちが今後、日米の双方の社会でどのような役割を果たしていくのかは、まだだれにもわからないからです。いったい、どういう新しい日米関係が彼らの世代を通して出来上がっていくのでしょうね。なんだかすごく興味があります。

March 10, 2010

敢てイルカ殺しの汚名を着て

アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞に日本のイルカ漁を扱う「ザ・コーヴ」が選ばれ、案の定日本国内からは「食文化の違いを理解していない」「牛や豚の屠殺とどう違うんだ」「アメリカ人による独善の極み」と怒りの反応が出ています。あるいは「アカデミー賞も地に墜ちた」とか。

まあ、賞なんてもんは芥川賞だって日本レコード大賞だってトニー賞だってノーベル平和賞まで、そもそも販売促進、プロモーションから始まったもので、それにいかに客観性を持たせるかで権威が出てくるのですが、ときどき先祖返りしてお里が知れることもなきにしもあらずですから、まあここは怒ってもしょうがない。ヒステリックになるとあのシーシェパードと同じで、それじゃけんかにはなるが解決にはなりません。というか、このコーヴ、日本じゃ東京映画祭とかなんとかで上映したくらいでしょ? ほとんどのひとが見ていないはず。見ているひとは数千人じゃないのでしょうか? あるいは多く見積もっても数万人? うーむ、いや、そんな多くはないか……。

「ザ・コーヴ」は毎年9月から3月までイルカ漁を行う和歌山県太地町をリポートした映画です。とはいえ、イルカの屠殺現場は凄惨なので、これがどう描かれるか心配した地元側が撮影隊をブロックしました。そこで一行は世界中からその道のプロを集めて太地町を隠し撮りしたのです。

隠し撮りの手法というのは、ジャーナリスティックな意義がある場合は認めて然るべきものだと私は思います。でも、それ以外は米国ではじつはものすごく厳しい倫理規定があって、一般人を映画に撮影する場合は、道路を行く名もなき人々なんかの場合以外はかならずその映画のプロデューサー側がその人に、「編集権には口を挟まない」かつ「上映を承諾する」、という旨の書類にサインをもらうことになっています。そうじゃなきゃ、この映画気に食わない、といって自分が映っていることで上映差し止めを求める訴訟を起こされたりすることもあり得ますから。

で、このコーヴは、これは告発ドキュメンタリーだと位置づけているのでしょう。だから太地町の人たちにはサインを求めなかった。そしてドキュメンタリーだから映っている人たちの顔にボカシも入れなかった。この辺はなんでもボカシャいいと思ってる日本の制作サイドとは違います。ところが映画の作りはそれはもう大変なサスペンス仕立てで、太地町vs撮影隊、というこの対立構図がとてもうまく構成されているんですね。撮影クルーはなにしろ世界記録を持つ素もぐりダイバー夫婦だとか水中録音のプロだとか航空電子工学士だとかまで招集して、まるで「スパイ大作戦」に登場するような精鋭たち。隠しカメラを仕込んだ「岩」や「木」はあの「スターウォーズ」のジョージ・ルーカスの特撮工房が作り上げた模型です。それらを設置する真夜中の模様も暗視カメラで記録されて、まるで戦場映画のようなハラハラドキドキ感。なにせ町中の人間が彼らを監視し、警察までが「グル」なのですから、こんな演出が面白くないはずがない。

しかしそれは最後のシーンで衝撃に変わります。そこには、入り江(コーヴ)に追いやられた大勢のイルカたちが漁民たちのモリでズボズボと突かれ、もがきのたうつ彼らの血で海が真っ赤に染まるようすが映っているのです。これはサカナ漁ではない映像です。これは屠殺です。

じつは今回のオスカーにはもう1作「フード・インク」という、食品産業をめぐるおぞましいドキュメンタリーも候補に上っていました。こちらは米国の食ビジネスの大量生産工業化とそのぞっとする裏面を取り上げたもので、米国人の日常生活の根幹を揺るがすショッキングな食の事実が満載です。でもこれに賞をあげたら食関連のスポンサーがいっせいに退くだろうなあ、と思っていたらやっぱり取れなかった。もっとも、映画としてはコーヴの方が確かに面白いのですが。

「イルカの屠殺現場は凄惨なので」と最初に書きました。でも思えばすべての動物の屠殺現場はすべて凄惨です。はっきり言えば私たちはそんなものは見たくない。

コーヴの不快の本質はそこにあります。それは、生き物は他の生き物を殺して食べるしか生きられないという現実を、私たちがどこかで忌避しているからです。みんなそれをやってるが、だれもそれを語りたくない。その結果、近代社会では屠殺の現場をどんどん分業化し、工業化し、近代設備の清潔さの装いの向こう側に囲い込んで見えなくしていったのです。それは、生活の快適さ(のみ)を求める近代化の当然の帰結でした。私たちは牛や豚や鶏の屠殺の現場すら知らない。でもそれは言わない約束だったでしょ? でも、どうしてイルカだけ、こうして「言っちゃう」わけ? しかも「告発」されちゃうわけ? コーヴでは、こうしてそこに制作者側への「自分たちのことは棚に上げて」感という「目には目を」の反発が加わり、より大きな反感が生まれたわけです。そっちがそういうつもりなら、こっちにも考えがあるぞ、です。戦争って、国民の意識レベルでは往々にしてそうやって始まるんです。

そういうときに「日本人は食べ物を粗末にしない。いただきます、と感謝して食べている」という反論は効き目がない。しかもそれ、ウソですから。食品ゴミの量は人口差をならすと日米でほぼ変わりなく、両国とも世界で最も食べ物を粗末にする国なのです。日本じゃ毎年2200万トンの食品ゴミが出てるんですよ。カロリー換算だと食べ物の30%近くが捨てられている。また、「食文化の差」という反論もこれだけ欧米化している時代にそう説得力を持たない。「日本食」の3大人気メニューはカレーにハンバーグにスパゲティでしょ? 古い? あるいは牛丼、ホルモン、回転寿しか? いずれもイルカやクジラではないわけで、そういう中途半端な反駁はすぐにディベートの猛者であるアメリカ人に突っ込まれてグーの音も出なくなります。

もっとも、彼らの振り回す、よくある「イルカは知能が高いから殺すな」という論理には簡単に対抗できます。それはナチスの優生学のそれ(劣った人種は駆逐されるべき)と同じものだ、きみはナチスと同じことを言っているのだ、と言えばいいんです。これはナチス嫌いのアメリカ人への反駁の論理としてはとても有効です。

なんとなく整理されてきました。だとすると、この映画が提起する問題で本当に重要なのは、「イルカの肉に含まれる水銀量は恐ろしく多く、それを知らされずに食べている消費者がいる」という点だけ、だということです。

ところが、私の知る限り、これに対し日本のどこも反論のデータを教えてくれていない。

それは、怒り過ぎているからか、それとも怒りを煙幕に事実隠しをしているからか?

私にはそれだけが問題です。それに対して「水銀量は多くない」というデータで反証できれば、この「ザ・コーヴ」は、敢てイルカ殺しの汚名を着ても、なに後ろ暗いことなく、いや生きることにいままでどおりすこしは悲しい気持ちで、しかしそうではあっても別段これを機に気に病むこともなく、そしてなおかつそうカッカと怒らずでもよい映画である、と明言(ちょっとくどいけど)できるのですが。

February 14, 2010

寄ってたかっての背後にあるもの

ロック少年だったせいで、若いころからさんざん髪を切れ切れとうるさく言われ続けてきました。おまけに高校時代には当時あった制服着用規則に何ら合理性がないと、これまた七面倒くさい論理を考えだして生徒会で制服自由化を決めてしまったクチです。

なので、バンクーバー五輪のスノーボード出場の国母選手が、成田空港で日本選手団の公式ウエアのネクタイをゆるめ、シャツの裾を出し、ズボンは腰パンで登場して問題になったと聞いても、そんなことどうでもいいじゃないのというのが第一の反応でした。

ところが日本ではいっせいにこの国母選手へのバッシングが始まりました。なんでこんなやつを選んだんだという抗議の電話がスキー協会に殺到し、弱冠21歳の彼は選手村入村式への出席を取りやめる謹慎措置となった。さらに反省の会見で記者に攻められ「チッ」と舌打ち後「っるっせーな」とつぶやいちゃった。「反省してまーす」と言ったのも後の祭り。しかもこの反省も語尾を伸ばしたことでまたまた顰蹙を買い、今度は五輪開会式にも参加不可というお仕置きが待っていました。

そういや十代の私も「髪を切れ」といわれて「うるせえなあ」と言い返したことがあったかも。「反省してます」とは意地でもいわなかったですけど。

抗議の人たちは「五輪出場は日本の代表。税金を使って行ってるんだ。代表らしくちゃんと振る舞え」と言っています。まあ、その気持ちはわからぬでもありませんが、どうしてみんなそんなに怒りっぽいのでしょう? まるで沸騰社会みたい。

もっとも、今時の若者なドレッドヘアと鼻ピアスの国母君もそうした「着くずし」をべつに理論武装してやってるわけじゃないようで、なんとなくへなちょこな感じ。そこらへんがむかしの私らと違うところで、会見の様子からもどうして着崩しちゃダメなのか今ひとつ理解していない様子。だから反省の弁に気持ちがこもってないのは当然でしょう。てか、かつての大阪の吉兆の女将さんみたいに、YouTubeで見たらあれ、隣のコーチかなんかが反省してると言えって指示してますよね。まあ、あの会見でみんなピキッと来たんでしょう。

でも、スノボー一筋の21歳のこの子はきっと、自分たちのスノボー仲間以外の、外の社会というものを知らないで生きてきたんですよ(だからこそここまで、ってどこまでかよう知らんけど、五輪出場のすごい選手になったのかもしれません)。そりゃね、行儀のよいお利口さんやロールモデルをスポーツ選手に求めたくなるのもわかりますけど、それができるのは石川遼君という天才くらい。遼君はあれは、ほんと、儲け物なんです。普通はあり得ない。なのにあれをノームにしちゃダメでしょう。しかも国母君はスノボー。スノボー文化というとても狭量な環境の中では、行儀の良い子のいられる場所などそうはない(って勝手に思い込んでますけど)。外の社会を知らないできた国母君は、今回初めて五輪というとんでもない社会的行事にさらされてわけがわからないのだ、というくらいの話なんじゃないですか。しかもオリンピックは彼がぜんぶ自分の実績で勝ち取ったものです。勝手に国をしょわせられても困るってもんじゃないでしょうか。

それとね、スノボーってスキー連盟傘下だって今回初めて知ったけど、ここがふだんからスノボー界をちゃんとサポートしてたのかも疑問です。オリンピック競技だからって急ごしらえで対応してるだけなのに、そこの会長さんがまるでずっと面倒見てきた親父みたいに恩着せがましく激怒したっていうのも、なんだかなー、です。

いつも言っていることですが「寄ってたかって」というのがいちばん嫌いなもので、国母君へのこの寄ってたかっての大上段からの叱責合戦には異和感が先に立ちます。腰パンも裾出しシャツも日本じゃ街中に溢れてる。そいつらへの日ごろの鬱憤がまるで憂さ晴らしのように国母君に集中している感じ。そんなに怒りたいなら、渋谷に行って公道を占拠する若者たちを注意すればよいのに、それができないから代わりに国母君を吊るし上げてる、みたいな。

この国母問題、服装のことなどどうでもいいんじゃないと言うのは50代や60代に多いそうです。まあ、たしかにそういう時代に生きてきましたからね。でも、20代、30代には逆に「国の代表なのに」だとか「日本の恥」だとかを口にする人が多いらしい。そういえば朝青龍も「国技」の横綱にふさわしくないとさんざんでした。

「国」と言えば何でも正義になってしまうのは違うと思います。日本はそんな国家主義の反省から民主主義を担いだ。私はだから、“名言”とされる例のJ.F.ケネディの「国が何かをしてくれると期待するな。あなたが国に何ができるかを考えよ」も実は(米国のあの当時の時代背景を考慮せずに引用するのは)好きじゃありません。オリンピックも、80年代はたしかソ連のアフガニスタン侵攻やボイコット合戦の影響で「国を背負うんじゃなく純粋なスポーツの祭典として楽しもう」という空気がありました。なのに、それがいつのまにかまた「国の代表」です。で、それにふさわしくないと見るやまるで犯罪者扱い。例によって、マスメディアの煽りもありますけれどね。なんってたって、産経なんか国母君お記者会見の写真説明、「服装問題で開会式自粛を余儀なくされた国母だが、会見では座ったままで頭を下げた=12日午後、バンクーバーのジャパンハウス(鈴木健児撮影)」ですからね。これ、頭を下げるときは立ってやれ、って抗議するよう読者を煽ってる文章です。さらに共同が配信した記事じゃあ「バンクーバー市内のジャパンハウス(日本選手団の支援施設)で行われた会見。白と紺色の日本選手用のスポーツウエアを乱れなく着ていたが、トレードマークのドレッドヘアとひげはそのまま。」って、ヒゲまでダメですか? いやらしい書き方するなよなあ。

私としては、せめて「寄ってたかって」にはぜったいに加担しない、という意地を張り続けるしかないですな。

February 08, 2010

検察と報道の大罪

米国では刑事裁判で一審で無罪となった場合は、検察はそれが不服であってももう控訴できません。検察というのは国家権力という実に強力な捜査権で被疑者を訴追しています。そんな各種の強制権をもってしても有罪にできなかったのですから、これ以上個人を控訴審という二度目の危険にさらす過酷をおかしてはならないと決めているのです。「ダブル・ジェパーディ(二重の危険)」の回避と呼ばれるこの制度はつまり、検察にはそれだけの絶大な権力に伴う非常に厳しい責任があるのだということの表れです。

ところが民主党の小沢幹事長不起訴にあたっての日本の検察、東京地検特捜部の対応はまことに見苦しいものでした。「有罪を得られる十分な証拠はそろった」が、起訴には「十二分の証拠が必要」だったと語った(産経)り、「ある幹部は『心証は真っ黒だが、これが司法の限界』と振り返った」(毎日)りと、まるで未練たらたらの恨み節。新聞各紙までまるで検察の“無念”さを代弁する論調で、元特捜部長の宗像紀夫までテレビに出てきて「不起訴だが、限りなくグレーに近い」と援護射撃するんじゃあ、世論調査で「小沢幹事長は辞任すべきか?」と聞くのも「これは誘導尋問です」と言わないのが不思議なくらいの茶番じゃないですか?

しかもこれは冒頭で紹介した裁判の話ですらない。起訴もできない次元での話なのです。つい先日、足利事件の菅谷さんのえん罪判明で検察とメディアの責任が大きく問題となっていた最中のこの「何様?」の断罪口調。カラス頭もここに極まれり、です。

いや、小沢は怪しくないと言っているのではまったくありません。ただ、怪しいと推断するなら、ジャーナリストならまた独自取材を始めればよろしいのであって、報道が検察と心中するかのようにこうも恨みつらみを垂れ流すのは異常としか思えないと言っているのです。産経なんぞ「ほくそ笑むのはまだ早い」「“次の舞台”は検察審査会」ですからね、どこのチンピラの捨て台詞ですか? 他人事ながらこんなもんを書いた産経新聞社会部長近藤豊和の精神状態が心配です(あら、いまネットで検索したら、この「ほくそ笑む」の記事、産経のサイトから消えてるわ。でも魚拓がたくさんあるようで、検索できますね。すばらしい)。

いや、小沢は権力者だから金の出納は厳しく精査すべし、というのも一理あります。しかし小沢個人より、検察や報道機関が権力を持っているのは事実なのです。なぜなら、検察や報道は、その内部の匿名の個人が失敗してもそんなもんは簡単に入れ替わり立ち替わりして、組織としては常に権力を維持するものだからです。これは政治家と言えども個人なんかが戦える相手ではない。田中角栄しかり、ニクソンしかり、それは洋の東西を問いません。もちろん警察や検察、そして報道機関の正しくない社会はとても不幸です。だからまずは信じられるような彼らを育てることが健全な社会の第一の優先事項です。そうしていつしか、その両機関は、その(本当はあるはずもない)無謬性を信じる多くの大衆の信頼と善意に守られていることになる。

それは一義的には正しいでしょう。ただし、何者も無謬ではあり得ない。わたしたちはそんな無謬神話を批判しながら歴史を進めてきたのです。これはかつて宗教のことを書いたブログ「生きよ、墜ちよ」でも触れましたが、日本の検察もまたいま、やっと歴史の審判に面しているのかもしれません。脱構築の対象になっていなかった、最後のモダン的価値の牙城ですものね(古い)。

つまり私が言っているのは、だからこそ報道は個人への断罪機関ではないということを徹底しなければならない、検察は恣意的に法律をもてあそんではいけない、ということなのです。

なのに今回は、1年以上も捜査して西松事件でも陸山会事件でも結局「虚偽記載」などという“別件”の形式犯でしか起訴できなかった。これは特捜部の完全な敗北です。恣意的な捜査だったと言われても反論できないはずです。ですから、負け犬はギャーギャー吠えずに引き下がれ、なのです。臥薪嘗胆のそのときまで泣き言を漏らすな、なのです。なのにこのていたらく。

で、そんなことよりもっと重要なことを記しておきましょう。

一連の小沢問題で、あんなに面白かった政治ニュースが最近はさっぱり面白くなくなりました。こうして国民がまた政治に飽き、日本という国がよくなるかもしれない期待もしぼみ、政治家にも飽き民主党にも飽きて、だから民意に応えようとあんなに張り切っていた民主党の政治家たちもいまやなんだかすっかり鳴りを潜めている。

するといま、その一方で日本の官僚たちがホッと一息ついているのです。「政治主導」におびえた官僚機構が、また無駄ばかりの、予算ばかり取ってろくな仕事をしない、前の自民党政権時代と同じ体制に戻ろうとしているのです。

私は、特捜部の今回の失敗は、その力量の低下だけでなく日本の転換のモメンタムを破壊したという意味でも一番罪が重いと思います。もっとも、官僚たる彼らは、あるいは彼ら個々人ではなくそのシステムは(システムに思考があるかどうかはまた別にして)、そんな破壊をこそ狙っていたのかもしれませんが。報道の書き散しも含め、これは私たちにとっての、とんでもない悲劇です。

実は、関係ないようですがこうして民主党の支持率が下がってくると、アメリカが日本を見る目も変わってきます。オバマ政権が普天間の移設問題に関して妥協する姿勢を見せてきていたのも、鳩山政権に対する国民の支持が背景に見えたからです。ところがその支持がなくなれば、普天間の移設、沖縄からの基地撤去もまた遠ざかることになります。国民が望んでいない政権と真剣に交渉しても始まりませんからね。なんという悲劇か。

どうにかこの悲劇から、回復できないものでしょうか?
みんな、飽きやすいからなあ。

January 19, 2010

再び、ハイチ地震と日本

距離的にも近いし移民の数も多いからでしょうが、アメリカのハイチ地震への対応の早さは官民ともに見事でした。あまりに素早くかつ大規模なので、アメリカはハイチを占領しようとしているという左派からの批判もあるようですが、まあ、そこは緊急避難的な措置ということでそう目くじら立てても、他にそういうことをやってくれるところはないわけですし、って思っています。確かに航空管制とかもアメリカが肩代わりしてるようですしね。で、軍事的な貢献はしないと決めている日本は、だからこそこういうときにいち早く文民支援に立ち上がってほしいところなのですが、しかし今回もまた、今に至ってもまったく反応が著しく鈍いという印象です。

折しも日本のメディアは阪神淡路大震災15周年の特集を組んでテレビも新聞も大々的にあの地震からの教訓を伝えようとしていました。ところが、いま現在進行中のハイチ地震の支援についてはほとんど触れなかったのです。いったいどういうことなのでしょう? まるで何も見えていないかのように、阪神阪神と言っているだけ。そりゃ事前取材でテープを編集して番組に仕立て上げるという作業があったのかもしれないが、すこしは直前に手直しくらいできたでしょうに。ハイチ地震発生は12日。それから阪神淡路の15周年まで5日間あったんですから。あるいは大震災の教訓とはお題目だけで、実際はなにも得ていないのだという、これは大いなる皮肉なのでしょうか。小沢4億円問題も大変ですが、検察リークの明らかな世論誘導や予断記事を少し削って、もうちょっとハイチの悲惨について紙面や時間を割けないものかと思ってしまいます。

西半球で最貧国のハイチにはビジネスチャンスもほとんどないからというわけではないでしょうが、日本企業の支援立ち上がりもまったく目立ちません。一方で米企業の支援をまとめているサイトを見ると大企業は軒並み社員の募金と同額を社として上乗せして寄付すると宣言したりで、不況をものともせず雪崩れを打ったように名を連ねています。まあ、企業として税金控除ができるという制度の後押しもあるせいでしょうが。

それらをちょっと、日本でも知られている企業の例だけでも適当に抜き書きしてみましょうか。

▼アメリカン・エクスプレス;25万ドルを米国赤十字社、国境なき医師団、国際救援委員会、世界食糧計画友の会に。その他、アメックス社員の募金と同額を上乗せして寄付など。
▼アメリカン航空グループ(AMR);サイトを通じてアメリカ赤十字に寄付した人にその金額分のボーナスマイルを付与。ポルトープランスへの救援物資の輸送。
▼AT&T;携帯電話のテキストメーッセージで10ドルの寄付が米赤十字社に簡単にできるように設定。
▼バンク・オブ・アメリカ;100万ドルを寄付。うち50万ドルは米赤十字社へ。
▼キャンベルスープ;20万ドル。
▼キヤノン・グループ;22万ドルを米赤十字社へ。
▼シスコ基金;250万ドルを米赤十字社へ。そのほか社員募金と同額の寄付(上限100万ドル)
▼シティグループ;救援隊、医療用品器具、援助物資、衛星電話。
▼コカコーラ;米赤十字社へ100万ドル。
▼クレディスイス;100万ドルを米およびスイス赤十字社へ。
▼DHL;災害対応チームを派遣して空港でのロジスティックスに当たらせる。
▼ダウ・ケミカル;50万ドルを米赤十字社ハイチ地震援助基金へ。社員募金相当分を上限計25万ドルで世界食糧計画などに寄付。
▼デュポン;10万ドルを米赤十字社ハイチ援助基金に。
▼フェデラルエクスプレス;42万5000ドルを米赤十字社、救世軍などに。救援物資78パレット分を災害地に。総計で100万ドル以上。
▼ゼネラル・エレクトリック(GE);250万ドル。
▼ジェネラル・ミルズ基金;25万ドル。
▼ゴールドマン・サックス;100万ドル。
▼グーグル;100万ドルをユニセフとCAREへ。
▼グラクソ・スミス&クライン;抗生物質などの主に経口医薬品と現金。地方インフラの回復を待ってさらに供給予定。
▼GM基金;10万ドルを米赤十字社へ。
▼ヒューレット・パッカード;50万ドルを米赤十字社国際対応基金へ。社員募金と同額を上限25万ドルでグローバル・インパクトへ。
▼ホームデポ基金;10万ドルを米赤十字社へ。
▼IBM;技術およびサービスで15万ドル相当分。
▼インテル;25万ドル。および社員募金同額分を該当NGOへ。
▼JPモルガン・チェース;100万ドル。
▼ケロッグ;25万ドル。
▼KPMG;50万ドル。
▼クラフト・フーズ;2万5000ドル。
▼メジャーリーグ・ベースボール(MBL);100万ドルをユニセフに。
▼マスターカード;会員のポイントをカナダ赤十字社への現金募金に替えて振り込めるようにした。
▼マクドナルド;50万ドルを国際赤十字社連盟に。傘下のアルゼンチン企業の社員募金も同額分上乗せで計50万ドル寄付の予定。
▼マイクロソフト;125万ドル。その他、社員募金12000ドルを上限に同額を寄付。現地で活動のNGO要員へのMS社対応チームの派遣。
▼モルガン・スタンリー;100万ドル。
▼モトローラ;10万ドル。その他、上限25000ドルで社員募金に同額上乗せで寄付。
▼北米ネスレ・ウォーターズ;100万ドル相当分の飲料水
▼ニューズ・コープ;25万ドルを米赤十字社と救世軍に。その他25万ドルを上限に社員募金に同額上乗せでNGOに。
▼ニューヨーク・ヤンキーズ;50万ドル。
▼パナソニック;10万9962ドル(1000万円)。
▼ペプシコ;100万ドル。
▼トヨタ;50万ドルを米赤十字社、セイヴ・ザ・チルドレン、国境なき医師団に。
▼トイザらス;15万ドルをセイヴ・ザ・チルドレンに。
▼ユニリーヴァー;50万ドルを国連食糧計画に。
▼ヴェライゾン基金;10万ドル。携帯テキストで米赤十字社に寄付できるように変えた。
▼VISA;20万ドルを米赤十字社へ。
▼ウォルマート;50万ドルを米赤十字社へ。10万ドル相当の食糧パッケージを赤十字社へ。
▼ウォルト・ディズニー社;10万ドルを米赤十字ハイチ地震救援基金に。

  ……等々。これらは日本でも知られている名前を適当にピックアップしたもので、リストはこの倍以上あります。なお、リストは米時間19日午前の時点のものです。

電話会社ヴェライゾンとAT&Tは携帯のテキストメッセージで10ドルを寄付できる方法を広め、米市民からの募金は17日までに(地震発生後5日間)で1600万ドル(15億円)を突破したそうです。上記リストにはありませんが、アップルはアイチューンズ・ストアで楽曲やソフトを買うように寄付ができるようにもしています。米大リーグやNYヤンキーズが募金に名を連ねたのは、ハイチからの野球選手が多くいるからでしょうね。

思えば9・11もインド洋大津波の時もそうでした。世界の大災害に当たって、欧米の大企業はそのホームページを続々とお見舞いのデザインに変えていました。でもそのときも、日本の企業のホームページは相も変わらず自社の宣伝だけ。こんなに世界が大わらわなときに、能天気というか、危機管理ができてないというか、現実問題と隔絶してるというか、最も安上がりで手間も時間もかからない企業の社会貢献マーケティングのチャンスをみすみす見逃しているのです。

とはいえ、上記リストにはトヨタとパナソニックも名を連ねていますね。素晴らしい。いま両社のホームページを見たら、ちょこっと、控えめではありますが義援金の拠出についてニュースとして報告してありました。「わが社は◎◎ドルを寄付しました」ってHPに書き加えたって、こういう場合、だれも売名だなんて思いません。企業ってのは稼いでなんぼです。稼いで、それで堂々と寄付もする。それも次の稼ぎにつなげてまた寄付をする。そう、こういうことならどんどん売名すべし、です。

日本の企業にまた呼びかけます。御社のホームページ(トップページ)にいますぐハイチへのお見舞いの言葉を書き込むことです。そうしてそこからクリックで日本赤十字社なりへの募金ページに飛べるようにすることです。それだけで企業の社会意識の高さが示せます。それがCRMの初歩というものでしょう。それをぜひとも企業としてマニュアル化してほしい。

何度も言っていますが、私たちは超能力者じゃないから、なんでも言葉にしなくては通じないのです。お見舞いの言葉もそう。たとえ日本語で書いてあっても、企業としてのそのお見舞いの表明は消費者としての日本国民のお見舞いの言葉と募金に姿を変えて世界に表明されるはずです。

今回も、民主党政府になってからさえも、日本はまたフロリダにいた自衛隊の輸送機を使えないものかと調整してそれで時間を食って出遅れたようです。べつに自衛隊を使う使わないはいいから、そうじゃなくて、とにかく文民の発想で援助にいち早く立ち上がる。それが憲法9条を掲げる日本の国際貢献の基本形だと思います。

January 13, 2010

日米外相会談

さきほどTBSラジオからハワイで行われたクリントン-岡田会談に関してコメントを求められました。また5分程度だったんで思うように喋られず。早口になっちゃうんですよね。ダメポです。

というか、こちらはいまハイチの地震報道一色で外相会談に関してなんらテレビでは速報も続報もありません。新聞がかろうじてAPやロイター電を伝えているのですが、ワシントンポストがかなり今回の雰囲気の変わり具合を如実にというか、なんとなく描写していて面白いです。そこには、日米関係に詳しい人たちが「たかだか40機のヘリコプターの移設問題くらいで日米関係をハイジャックさせてはいけない」って言っている、って書いているのです。NYタイムズもまた、今回の会談を日本との関係を修復するためのものだと位置づけていたし、あらら、なんだか日本で伝えられているのとは違う感じです。(って、私は前から言っていたんですけどね)。

日本の報道をオンラインでチェックしてみたら、「普天間、平行線」という見出し。でもそれって「5月までに決める=5月までは決めない」ってことだからすでにわかってることで、いまのこの時点で見出しになるようなことではないはずです。ことさら日米の「亀裂」を取り上げてみて、この人たちは何が言いたいのか? というかどこに着目しているのか?

アメリカの新聞もかねてから普天間および沖縄にはかなり同情的な視線を持っていたのでしたが、今回はややそれとも報道の仕方が違うようです。より積極的に、日米の不協和音を鎮めるようなトーンが目立って、NYタイムズは「普天間という個別問題で日米同盟という大きな枠組みは壊れない(indestructible)のだ」ってクリントン国務長官が言ってることを取り上げています。

もちろん米国は「これまでの日米同盟こそがベストの道」という主張を崩してはいません。しかしそれはどういうことかというと、意地悪い言い方ですけど、これから20年先を見越した東アジアの安全保障のためにベストという意味じゃなくて、とりあえず今年のいまの時点のオバマ政権にとって一番いい、という意味なんですよね。というのもいまオバマ政権は内憂外患というか、支持率、昨日の NBCの調査で50%を初めて切って、46%になっちゃったんです。アフガン戦争の行方が見えないこと、失業率が10%を超えたままであること、税金を投入して救った金融業界へのボーナスがまた平均で5千万円だとかいうニュースが出始めて、国民の不満がたまりにたまっている。そういう大わらわなときに、これまでいつも助けてくれていた日本までが面倒臭いことを言い始めて、とことん困っているんです。ここはどうあっても、合意どおりに進めてほしい、それがベストな道なのだっていわざるを得ないでしょう。

で、そうしたうえでで、新聞の見出しはクリントン国務長官が日本の決定の遅れをアクセプトした、受け入れた、というトーンになっているのです。

じつはこれには伏線があります。1月6日のNYタイムズに、ジョセフ・ナイが、この人はハーバード大の名誉教授でリベラル派の国際学者といわれてる人で、民主党のカーターやクリントン政権で外交や軍事政策に関わった専門家でもあるんですが、この重鎮が、普天間移設問題に関して寄稿して「some in Washington want to play hardball with the new Japanese government. But that would be unwise(ワシントンの一部には、日本の新政権に対して強硬な姿勢をとりたがっている連中がいるけれども、そりゃバカだ)」といって、「忍耐強く交渉にあたるよう求めた」(朝日新聞)のです。

これを報じた朝日新聞を引きましょう。
同紙は「ナイ氏は『個別の問題よりも大きな同盟』と題する論文で、『我々には、もっと忍耐づよく、戦略的な交渉が必要だ。(普天間のような)二次的な問題のせいで、東アジアの長期的な戦略を脅かしてしまっている』とした。
 東アジアの安全を守る最善の方法は、『日本の手厚い支援に支えられた米軍駐留の維持』だと強調」した、というわけです。

まあ、「論文」というか、全体で750語ほどの新聞用の短い寄稿文なんですが、これとまったくおなじ文脈でクリントンが今回の岡田会談に臨んだように見受けられます。「中国の軍事的な台頭を考慮して」という部分ももちろん共有しています。

ナイはじつはクリントンの外交上の知恵袋でもあって、一時は駐日大使になるかとも思われた人なんですけど、結局はオバマの選挙スポンサーだったルースが大使になったという経緯があります。で、そのオバマがナイを嫌った理由の1つが、ナイってのがかなりこれが戦略的な人でして、これも日本の事情を慮ってというよりはアメリカの国益がどうか、東アジアのアメリカの覇権をどうするか、という(まあ、もっともな)立場なんですね。末尾にこの寄稿文全体を貼付けておきますが、この中で朝日が触れていないニュアンスとしてかれはこう言っています。

**

Even if Mr. Hatoyama eventually gives in on the base plan, we need a more patient and strategic approach to Japan. We are allowing a second-order issue to threaten our long-term strategy for East Asia. Futenma, it is worth noting, is not the only matter that the new government has raised. It also speaks of wanting a more equal alliance and better relations with China, and of creating an East Asian community — though it is far from clear what any of this means.
たとえ鳩山氏が結果的に基地計画で折れたとしても、われわれは日本に対してより我慢強く戦略的なアプローチをしていかねばならない。われわれがいまやっていることは東アジアのためのわれわれの長期的戦略を二次的な問題で脅かしているという事態なのである。普天間は、そんなものは屁みたいなもんだし、日本の新政権が持ち出してきた数多くの問題の1つでしかない。新政権が言っているのはより平等な同盟関係とか、中国とのよりよい関係とか、東アジアのコミュニティの創造だとか、まあ、意味ははっきりとはわからないまでもそういうことなのだ。

When I helped to develop the Pentagon’s East Asian Strategy Report in 1995, we started with the reality that there were three major powers in the region — the United States, Japan and China — and that maintaining our alliance with Japan would shape the environment into which China was emerging. We wanted to integrate China into the international system by, say, inviting it to join the World Trade Organization, but we needed to hedge against the danger that a future and stronger China might turn aggressive.
東アジア戦略に関して1995年にペンタゴンの報告書を手伝ったときに、われわれの見据えたことはこの地域に3つの大国が存在しているという現実だった。すなわち、米国、日本、中国である。われわれが日本との同盟関係を維持することが中国が台頭してくるその環境を決定づけるのである。われわれは中国が国際的なシステムの中に入ってくるよう望んでいた。たとえば世界貿易機関(WTO)に参加するなどして。しかしわれわれは同時に未来のより強大になった中国が好戦的に変わる危険にも備えなくてはならなかったのだ。

**

かなりしたたかでしょう。
そう、日本が中国を見ているように、アメリカもまた中国との関係で日本はとても重要な国なのです。その三つ巴の(?)バランスを上手く保たねば、この地域でのアメリカの覇権も危うい。そのためには普天間など取るに足らない問題だ、というわけです。おそらくこれはクリントン国務省の考え方と同じと考えてよい。

ワシントンポストはまさにそこを次のように書いています。(翻訳文のカッコ内は私の註です)

The new tone also stems from a growing realization in Washington and Tokyo that the base issue cannot be allowed to dominate an alliance crucial to both countries at a time when a resurgent China is remaking Asia, signing trade deals and staking claims to ocean resources.
ワシントンと東京で、再び台頭してきた中国がアジアを再構築し貿易問題をまとめ海洋資源の所有権を主張しようとしているとき、米日両国にとって死活の問題である同盟関係を基地問題などで右往左往させてはならないという認識が育ってきて、(日米間の亀裂、不協和音とは違う)あらたな傾向が出てきた。

(中略)
But Tuesday, Clinton was understanding.
火曜日(12日=日米外相会談の日)、クリントンは(日本の立場を)理解していた。

"We are respectful of the process that the Japanese government is going through," she said. "We also have an appreciation for some of the difficult new issues that this government must address," including the widespread opposition to the U.S. military presence on Okinawa.
「日本政府が経験している過程はわれわれも尊重している」と彼女(クリントン)は言った。「またこの(日本の)政府が困難で新たな問題のいくつかに取り組んでいることも私たちは評価している」と。その問題には沖縄の米軍の駐留に対する広い反対意見のことも含まれている。

**

ね、いかに「普天間、平行線」という見出しが間違っているか、これでわかるでしょ?
岡田外相と、その報告を受けた鳩山首相が上機嫌そうだったのは、こういうことなのです。

*****
以下、ナイのエッセーを添付しときます。時間があったら翻訳しますけど、いまはちょっと全部は無理。

SEEN from Tokyo, America’s relationship with Japan faces a crisis. The immediate problem is deadlock over a plan to move an American military base on the island of Okinawa. It sounds simple, but this is an issue with a long back story that could create a serious rift with one of our most crucial allies.

When I was in the Pentagon more than a decade ago, we began planning to reduce the burden that our presence places on Okinawa, which houses more than half of the 47,000 American troops in Japan. The Marine Corps Air Station Futenma was a particular problem because of its proximity to a crowded city, Ginowan. After years of negotiation, the Japanese and American governments agreed in 2006 to move the base to a less populated part of Okinawa and to move 8,000 Marines from Okinawa to Guam by 2014.

The plan was thrown into jeopardy last summer when the Japanese voted out the Liberal Democratic Party that had governed the country for nearly half a century in favor of the Democratic Party of Japan. The new prime minister, Yukio Hatoyama, leads a government that is inexperienced, divided and still in the thrall of campaign promises to move the base off the island or out of Japan completely.

The Pentagon is properly annoyed that Mr. Hatoyama is trying to go back on an agreement that took more than a decade to work out and that has major implications for the Marine Corps’ budget and force realignment. Secretary of Defense Robert Gates expressed displeasure during a trip to Japan in October, calling any reassessment of the plan “counterproductive.” When he visited Tokyo in November, President Obama agreed to a high-level working group to consider the Futenma question. But since then, Mr. Hatoyama has said he will delay a final decision on relocation until at least May.

Not surprisingly, some in Washington want to play hardball with the new Japanese government. But that would be unwise, for Mr. Hatoyama is caught in a vise, with the Americans squeezing from one side and a small left-wing party (upon which his majority in the upper house of the legislature depends) threatening to quit the coalition if he makes any significant concessions to the Americans. Further complicating matters, the future of Futenma is deeply contentious for Okinawans.

Even if Mr. Hatoyama eventually gives in on the base plan, we need a more patient and strategic approach to Japan. We are allowing a second-order issue to threaten our long-term strategy for East Asia. Futenma, it is worth noting, is not the only matter that the new government has raised. It also speaks of wanting a more equal alliance and better relations with China, and of creating an East Asian community — though it is far from clear what any of this means.

When I helped to develop the Pentagon’s East Asian Strategy Report in 1995, we started with the reality that there were three major powers in the region — the United States, Japan and China — and that maintaining our alliance with Japan would shape the environment into which China was emerging. We wanted to integrate China into the international system by, say, inviting it to join the World Trade Organization, but we needed to hedge against the danger that a future and stronger China might turn aggressive.

After a year and a half of extensive negotiations, the United States and Japan agreed that our alliance, rather than representing a cold war relic, was the basis for stability and prosperity in the region. President Bill Clinton and Prime Minister Ryutaro Hashimoto affirmed that in their 1996 Tokyo declaration. This strategy of “integrate, but hedge” continued to guide American foreign policy through the years of the Bush administration.

This year is the 50th anniversary of the United States-Japan security treaty. The two countries will miss a major opportunity if they let the base controversy lead to bitter feelings or the further reduction of American forces in Japan. The best guarantee of security in a region where China remains a long-term challenge and a nuclear North Korea poses a clear threat remains the presence of American troops, which Japan helps to maintain with generous host nation support.

Sometimes Japanese officials quietly welcome “gaiatsu,” or foreign pressure, to help resolve their own bureaucratic deadlocks. But that is not the case here: if the United States undercuts the new Japanese government and creates resentment among the Japanese public, then a victory on Futenma could prove Pyrrhic.

December 31, 2009

オバマの1年

年末、TBSや東京FMや大阪MBSラジオなど、いろんなラジオ局から大統領がオバマになったアメリカの1年を振り返ってのコメントを求められました。オバマは「Change」と「Yes, we can」で大統領になったが、アメリカは変わったのか、うまく行っているのか、という質問です。それを5分とかで喋れと言われてもなかなかきちんと説明できなかったので(MBSは25分くれました、感謝)、ここでちょっと詳しくおさらいしてみることにします。

12月は青森と大阪で講演があって日本にいるのですが、ちょっと戸惑うのはオバマに対する評価の日米の温度の差です。なんだかある時期のゴルバチョフを連想させるようなところもあります。というのも、2009年を振り返るTVの特集などがこの時期あちこちで放送されていますが、そんな中には「オバマが世界を動かした」などと見出しを打ってはしゃいでいる番組もあったのです。しかしアメリカにいた私にはどうもそうは思えなかった。小浜市を初めとして世界は勝手にオバマに期待して動いたかもしれませんが、世界は動いてもアメリカだけはオバマでも動かなかったと言っていいかもしれません。

なぜならオバマの今年は、とにかく、前政権ブッシュの後始末に追われた1年だったからだと思います。チェンジに取りかかろうにも、まずは後始末しなければならなかった。そのためにはリベラル派と保守派との間で、彼は実に慎重な手探りの政策を続けざるを得なかったのです。それははたから見ていてじつに見事な綱渡りのようにも見えましたが、もちろんそれはリベラル派から見ればじつに欲求不満の募るやり方でした。なぜならオバマの1年はまた、国内で3割を占めるコアなこの保守・右派層の心証を害しないように布石を打った1年でもあったからです。

その一例が核廃絶宣言です。プラハ演説で核廃絶を述べたと思ったら、ノーベル平和賞のオスロでの演説では戦争の必要性、正当性をも説いた。じゃあいったいどっちなんだ、と世界は戸惑っているようでした。

しかし、アメリカではあのプラハ演説、画期的な宣言ではあったがだれも直近の問題とは受け取らなかったのです。つまりだれも真に受けなかったのですね。これだけ軍事・兵器産業が肥大化している大国が、ギアをシフトしてハンドルを回すにはものすごい時間とエネルギーが必要であることをみんな知っているからです。そんなことでははしゃげない。

あれは短期的視野ではなく、彼一流の理想論でした。ノーベル平和賞の委員会はおそらく賞のダイナミズムを彼のリベラリズムの推進力の1つとして加勢したいと思ったのでしょうが、あれは米国内ではむしろやぶ蛇だった面もあります。賞の受諾スピーチでニコリともしなかったオバマ自身がそれを痛いほど感じていたはずです。だからオスロではああして「正しい戦争」を言葉にしたのです。あれは、世界への演説ではなくて米国の保守右翼たちへ向けた演説でした。米国の大統領はかくも自国の、自国のみの国益を考えて行動するものだということをまざまざと感じさせてくれた演説でした。

イラク戦争からの撤退もそうでした。これは保守強硬派からは非難囂々でしたが、その顰蹙を買うのを避けるために戦争自体はやめられなかった。つまり、アフガン戦争にシフトしただけだったわけです。オバマはここでも綱渡りして保守派からもなんらかの安心を勝ち取ったのです。

彼は計算高いのでしょうか? そうかもしれません。同じように3割を占める国内のコアなリベラル派にはオバマ以外の選択肢はないのですから、いくらリベラルな政策が出てこずに苛ついても、それは保守反動からの反発とはまったく意味合いが違います。「裏切り者」となじっても、どこかにオバマへの期待を首の皮一枚でつないでいる、みたいな……。

景気や経済対策も大変でした。リーマン・ショック後の後始末です。GMの破綻。AIGやシティバンクやメリルリンチもそうです。これらを潰すことなく巨額の公的資金を注入しました。これも「大きな政府」を嫌う本来の共和党支持者たちの反発と、大企業優遇に不公平感を募らせるリベラルな民主党支持層と、金融資本で生きている影の共和党支持の金持ちたちの意向との、じつに捩じれた世論の中での決断でした。なのにいま莫大な税金を使って救った金融や保険企業が、景気回復はまだなのに勝手にまた儲け始め、ものすごい高額報酬を復活させ、なおかつ税金を返していないという問題が明るみに出ています。アメリカは失業率が10%なんですよ。どうしてこんな格差が生まれているのでしょう。

にっちもさっちもいかなかったオバマの1年でしたが、じゃあ、まったく成果が出ていないかというと、ここにきて国民医療保険改革がやっと形になってきたということはあります。こないだ、クリスマス前に連邦上院で医療改革法案が可決しました。これは大変なことです。ヒラリー・クリントンが議会にも出せずに頓挫・失敗した健康保険です。国民保険って、アメリカ社会にとってはほとんど革命にも近い大事業なのです。

なぜにそんな大問題なのかというと、アメリカという国家は、この健康保険問題にも象徴されるように、政府が国民のことについてなんだかんだ出しゃばってやってやる、あるいは規制してくるというのを可能なかぎり否定してきた国なんですね。自助努力をモットーにするというか、もともと国の成り立ちがそうだからなんですけど、とにかくまず自由人、自由な個人という存在があって、その後に国が出来る。その「国」の政府というのは、自由な個人に対しては最小限な規制しかしない。それが自由な国だ、というわけなのです。銃の規制が進まないのもそういう背景があるからです。

で、健康保険なんていうのも、国が個人の面倒を見るわけでしょ?、するとそれは社会主義的な制度だという批判が起こる。この「社会主義」という言葉は、アメリカではもう悪の権化みたいな響きです。ずっと米ソ冷戦構造で育ってきたひとたちですから、頭の中で「社会主義=悪者」という刷り込みが出来上がっています。

で、オバマに対して批判する人たち,保守・右翼層というのは、これはおそらく彼が黒人だということも深層心理にはあるんだと確信してるんですけど、「オバマはは社会主義者だ」という大々的な批判キャンペーンを繰り広げてきたのでした。オバマをヒトラーになぞらえる批判キャンペーンもありました。ヒトラーも国家社会主義政治家として登場してきたわけだからでしょう。まあ、ほとんどデマみたいなレベルの批判だったのですが、これが米国内ではけっこう功を奏したわけです。そこにFOXTVなどという保守メディアまでが結託して支持率は急落したわけです。

保守派からのオバマ批判はそれはそれは大変な1年でした。

そしてそんな中で、普天間が出てきたのです。

**

よく日本の新聞の見出しなどで出てくる「米政府が不快感」というのは、まずはこうした背景を理解しておく必要があるでしょう。つまり、「もー、こんなにあちこちでめっちゃ大変なのに、えー、今度はニッポンまで? なんでだよー? いままではぜんぜん文句も言わなかった安全パイだったのに、よりによってなんでこんな大変なときに一度合意したことを急にダメって言ったりするわけえ?」ってなことです。アメリカの政治家も官僚も人の子ですからね。

鳩山政権の発足当初の、というか普天間合意見直し発言の当初の米政府の反応はまずはそういう次元でした。ぼやきレベルなのではっきり「不快感」を示すのも大人げないからオバマ政権だって時間稼ぎで成り行きを見ていたのです。そのうちに日本のメディアが米「側」の不快感を先取りしていろいろ言い出します。それに反応してアメリカのメディアも加わり、同じネタを日米のメディア間で紹介し合ったり孫引きしたりでたらい回しすることになります。そのうちにオバマ政権内でもそれまでの心理的なぼやきから派生したいろいろな理論武装が始まります。理論武装したらあとは言ってくるだけです。

で、そこからなのです。話し合いというのは。

普天間の問題は、基本的に2つの問題に集約されます。

1つは、20年後の日米同盟と、20年後のアジアと世界の安全保障がどうなっているかという問題。
もう1つは、沖縄に基地が集中している問題。

沖縄の基地集約問題はいずれ解決しなければならない問題だと言い続けてもう数十年経ちました。自民党政府は解決をずっと先送りしてきたのです。したがって、これを解決するときはつねに「何でいま?」という抵抗が起きます。それはもう宿命です。つまりこの「唐突感への抵抗」は、この問題に関する新しい障害ファクターではない。それはすでに織り込み済みのこととして考えるべきものなのです。

つまり、沖縄の基地負担は軽減しなければならない。これはすでに至上命題です。異論はない。では次の問題はいつ、どのように、ということになってきます。

それを20年後の日米同盟と、20年後のアジアと世界の安全保障に絡めて考えなければならないのです。その場合、沖縄の基地、日本国内の米軍基地そのものの存在意義にまで立ち入って考えていかなければならない。

沖縄の基地の役割は、冷戦構造下での共産主義体制への防波堤という意味からは大きく変わっています。当時は中国・ソ連が相手だった。でも今は違う。中東への中継地、あるいは北朝鮮への即応基地。でもね、普天間移設の海兵隊というのは、ぜんぜん即応部隊ではないんです。この無人遠隔攻撃の時代に、海兵隊というのは今でも最も勇敢な人的作戦展開の部隊なのです。つまり即応ではなく、最後に乗り込んで残る敵を殲滅するのが役割。するととうぜん沖縄にいなければならない部隊ではない、という結論になるのです。

さらに言えば、20年後を見据えた東アジアの安全保障は、すでに中国の協力なしには不可能です。アメリカが8000億ドルも中国に国債を買ってもらっている現在、いったい米中のどんな「有事」が成立できるのでしょう。北朝鮮問題だって、沖縄の基地なんかよりも中国こそが有効なのです。こないだの中国の副主席の天皇面会問題も、政治利用と言われましたが、これは深く国家の安全保障の問題のように見えます。戦争が始まるかもしれないときに、天皇をも総動員してその戦争を回避しようとするのは、それは政治利用とかそういう卑小な問題ではないのではないか。

そんなこんなの事情が背景にある普天間問題です。アメリカの、オバマ政権の都合を斟酌して「米政府が不快感」というのは、あまりにも問題を矮小化している。

**

前述しましたが、アメリカはもとよりどの国だってまずは自国の利益にのみ則って外交を展開します。もちろん相手への斟酌は必要ですが、それは交渉の中ではぜったいに表立って出してはいけないのが常識です。ところがどうしても日本外交は笑顔外交なんですね。相手の気持ちを先取りして、ついつい退いてしまう。

もともとこの普天間・辺野古の移転にしても、3年前の日米合意に先立ってアメリカには全部グアムに移転するというオプションもあったのです。なのに当時の自民党政府と防衛庁は、まあ、急に全部いっぺんに行かれちゃ日本の安全保障もおぼつかなくなるし日本側の準備だって間に合わない、そんなにドラスティックなシフトではアメリカ側の負担にもなるだろうと考えた。で、日本側として普天間案をプッシュしたのです。アメリカとしては「そんなにまでおっしゃるのなら」ですよ。「じゃあ普天間で行こう。せっかくの思いやり予算もあるし、日米地位協定もある。そこまでいわれて据え膳食わぬは」です。カモが葱しょってるみたいなのですから。

アメリカの交渉というのはこれなんです。元々相手側からの思いやりなどは期待していません。交渉における品やカモネギなどは期待してないのです。アメリカ側が期待するのはじつはカウンターオファーです。えげつなくとも、それが交渉するときの役割分担です。言い合うことを第一の前提にして、その中でより良い結論を探り合う。これは裁判の検察と弁護人との立場にも似ています。どんなに悪いやつでも弁護人はそいつのいいところを言い立てるのが仕事ですし、どんなに情状酌量があろうとも検察は悪いところを言い募るのが仕事です。そういう中から結論を導き出すシステム。

交渉とはまさにそうなのです。心を鬼にして、そういう立場で言い立てる、吹っかける、吹っかけ返す。それがどうも日本人には分かっていません。外務省の官僚がワシントンの連中と交渉するのを見たことがありますが、彼らも分かってないんじゃないでしょうか? だいたい、議論に臨むときに笑顔を見せるということからしてダメなのです。官僚たちはみんなええとこのボンボンみたいになってしまって、ニコニコ相手の顔色をうかがいながら日本側の主張を出している。そんなことをずっと続けてきたのです。笑顔を見せていると、アメリカ人は「何が可笑しいんだ? なんか笑えることがあるのか?」とマジに思うんですよ。笑顔は彼らにとっては挨拶ではないのです。笑顔は「笑っちゃうこと」の表示なのです。ましてや交渉の潤滑剤ではけっしてありません。

**

私は、極論を言えばアメリカが「世界の警察」を標榜するなら、日本は「世界の消防」を標榜すればよいのにと思っています。どうして日本は平和憲法を盾にして「日本は世界の消防だ」っていわないのかなあ、って思っています。

警察は権力をまとうので人に嫌われることもやらねばならないこともある。でも、消防を恨む人なんて、いませんよ。消防署、消防団員は、尊敬されることはあっても「消防出て行け」なんていわれたことはない。

アフガンでもイランでもイラクでも、日本は消防なんだ、サンダーバードの国際救助隊なんだ、って宣伝すればいいんです。それは最大の武器です。そんな人たちに鉄砲向けたりしたら、バチが当たる、そう思ってもらうことです。それがアメリカの手先と思われるから一緒になって攻撃されたり殺されたりする。警察と消防を、日米で分担するんですよ。それが何よりもこれからの安全保障の基盤だと思っています。丸腰で、もくもくと火を消し、人を救助し、復旧を手伝う。それを宣伝することが一番の,ソフトとしての実に有効な防衛手段なのです。軍服を着ている人間を攻撃するやつはたくさんいますが、丸裸の人間に切りつけられる人はそうはいません。まあ、丸腰で戦場に臨むというのは、ものすごく勇気の要ることですがね。

そういう立場に立って、私は沖縄の、日本国内の米軍基地はなくなるべきだと思っています。まあ、なくならないだろうという現実認識を担保にしている嫌いもなきにしもあらずですが、だからこそそう言い続けています。

December 14, 2009

年越しの果てに見えてくるもの

小沢幹事長の600人大訪中団や習近平中国副主席の天皇会見設定などを見ていると、普天間移設問題で結論を先送りにしている日本の民主党は、実は東アジア全体の安全保障の根本的再構築を狙っているのかと思ってしまいます。膨大な国債依存関係の米中接近を横目に、米中だけでは決めさせないぞとも言わんばかりの日中接近。

にもかかわらず日本での報道は相変わらずです。普天間先送りでは「米国が激怒」とまるで米政府の代弁者のような論調。小沢訪中団に関しても「民主党の顔はやはり小沢」と、些末な党内事情へと矮小化して報道する。

普天間問題で日本の新聞に登場する米国のコメンテイターたちはマイケル・グリーンやアーミテージなどだいたいが共和党系、あるいはネオコン系の人たちで、従来の「揺るぎない」日米関係、つまり「文句を言わない日本」との日米同盟を前提としてきた人たちです。メディアは彼らを「知日派」と紹介して鳩山政権の対応の遅れやブレを批判させているのですが、彼らの「知日」は自民党政府と太いパイプを持っていたという意味であって、「知日」というより自民党政権のやり方に精通しているという意味なのです。だから、民主党政権の(不慣れな)やり方に、やはり彼らも不慣れなために、「前のやり方はこうではなかった」という戸惑いや批判を口にしているにすぎない。その証拠に、自民党に同じ質問をしてごらんなさい。彼らと同じコメントが出てくるはずです。新聞は、そんな浅薄な、というかいちばん手近なやり方で論難しているのです。

米国のルース駐日大使に関してもそうです。岡田会談から始まる政権との会談で対応の遅れに不満表明と報じられていますが、大使というのも指名ポストながらも役人なのです。米政府の役人が米政府の従来路線の踏襲とその事務的な執行を目指すのは当然であって、これまでに決まった米国の立場を説明する以外の権限がないのだから「困った」と言うに決まっています。それ以外、何を言えるのでしょう? まさか、「わかった、私が政策転換をオバマに進言しよう」と言いますか? それが「ルース大使、声を荒げる」とか、見てきたような作文まで“報道”する新聞もありました。

米国のメディアは米国の国益を基に主張しますが、日本のメディアまでが米国の国益を主張するのはいったいどういうねじれなのでしょう。

普天間問題では、日米の取り決めは「合意」であって「条約」でも「協定」でもないのだから、それを検討し直すのは実は外交上は「あり得べからぬこと」ではないのです。もちろん重要な日米関係、事は慎重に進めねばなりませんが。

しかし8000億ドルもの米国債を保有する中国を抱えて、米国の東アジア安全保障の概念も、冷戦時とは大きく様変わりしています。日中の経済関係もますます重要になってきます。「対共産主義の防波堤」だったはずの日本の米軍基地の位置づけも、いまや不安定な中東への東側からの中継地へとシフトしています。沖縄に80%を依存する日本の米軍基地とはいったい何なのか? それは果たしてそもそも必要なのか?

日米中の3国によるここでの新たな枠組みの構築は、21世紀の枢要な安全保障へと発展するはず。小沢はそのあたりを見据えているのではないか? あるいはまた、鳩山の「常駐なき安保」という路線はあながち今も生きているのかもしれません。その枠組みの中で沖縄をどうするのか、そう考えるとこれは性急に結論を出せるものでもないのかもしれない。

習近平副主席の天皇会見で中国に貸しを作った民主党は、まずは直近の安全保障問題である北朝鮮に関して何かを狙っているのではないかといううがった見方もできます。政府要人か党首脳の電撃訪朝と拉致問題の解決・進展なんていうのもあり得ない話ではないかもしれません。新年に向けて期待したいところです。

December 02, 2009

世界エイズデー

1日は世界エイズデーでした。いま講演会のために日本に来ているのですが、メディアも含め、日本ではほとんどエイズは話題になっていませんでした。じつはこの日はニューヨークで30年近くもエイズ医療に携わってきたセントルークス病院の稲田頼太郎先生と、同じく日本のエイズ報道の第一人者である産經新聞の宮田一雄記者に会って話をしていたのです。

稲田先生は来年、エイズ危機の続くアフリカのケニアに活動拠点を移すために、日本に戻って企業各社からの寄付集めに奔走しているところでした。しかし日本もいま景気後退とデフレと円高で、先生の活動に共鳴はするもののなかなか資金的な援助が出てこない。

一方、宮田さんは今春からの新型インフルエンザに対する日本社会の対応があまりに排他的であり続けていることに、エイズ禍からの教訓をなんら活かしていないと嘆いていたのでした。

米国のエイズ禍で私たちが学んだことは、第一にパニックを煽らないこと、そして患者・感染者を決して排除しないことです。それが危機をしっかりと受け止め、それにきちんと対処できる社会を作る基本なのです。

ところが今春からの新型流感に関して、日本政府はすべてその逆をやった。厚労相だった舛添さんは「いったい何事か」というべき異例の深夜1時半の記者会見を開き、まだ感染の事実すらはっきりしない「疑い例」なる高校生の存在を発表してパニックを煽りました。しかもこの高校生をまるで犯罪者のように「A」と呼び捨てにし、図らずも患者・感染者への排除の姿勢を身を以て示してしまったのです。

あの緊急記者会見を見ながら、せめて「Aくん」と呼んでやれよ、と思ったのは私だけではありますまい。まるで感染した者が悪いのだといわんばかりの日本社会のバッシング体質。エイズ禍でも初期は「感染者探し=犯人探し」が横行しましたっけ。

果たしてこの高校生はその後、実際には新型流感には感染していなかったことがわかり、校長が涙を流して安堵している様までがメディアを通じて流されました。

これは例の「自己責任論」にも通じる狭量さです。つまり「新型流感がはやっているのを承知でどうして海外渡航などしたのだ。自業自得じゃないか」という非難です。

エイズ禍でも同じ反応でした。「セックスして感染したのなら自業自得だ」というものです。そんなことを責めても感染危機には何の役にも立たないどころか、そんなことに目を奪われていては対策の遅れにもつながりかねません。

人類はエイズから数多くのことを学んできたはずなのです。

宮田さんはそれを「パニック映画じゃないんだからヒーローはいらないってことですよ」とまとめます。実務的な、地道な対応システムの構築が重要で、深夜の会見みたいなスタンドプレーは不要ということです。

稲田先生は「排除すれば感染者は隠れる。受容すれば感染は食い止められる」というエイズ禍での逆説的な教訓を力説します。新型流感でも「感染者を隔離する」とやればだれだって検査すら受けたくなくなる。でも「感染した人をみんなで助ける」となればいち早く検査を受けて助けてもらおうとする。

感染者に優しい社会は危機に最も強い社会である。それを閑散たる国際エイズデーの東京で3人で語り合ったのでした。

November 13, 2009

麻原と三浦と市橋と

市橋容疑者の絶食が続いています。

あくまでも彼がリンゼイさん殺害の犯人だとして、の話ですが、この子、あの逃亡の手段の凄まじさというか、とにかく逃げたいという執念はなにかというと、基本的に、責任を負いたくない、つまり現実を見たくない、つまり叱られたくない、ってことなんだと思います。

きっと、ずっとそうやって逃げてきたのかもしれません。親からのプレッシャーからもなにからも。ぜ~んぶ逃げて生きてきた(のだと勝手に想像してみる)。

ドッジボールで、人は2つに分類されます。ひとつは、ボールから逃げ回る人間。もうひとつは、ボールを果敢に取りに回ってかつ反撃に転じようという人間。ぼくは、小学生のときに、ぜったいに後者だったんだけれど、けっこう最近、ドッジボールがじつはそういうゲームではないのだと知って愕然としました。というのもずっと「ドッチ」ボールだと思ってて、「ドッジ=dodge=素早く身をかわして避ける」だということに気づかなかったの。

ああ、ぼくは間違っていたんだ。あれは、球を躱すゲームだったのだ。なんという長いあいだ! 

閑話休題。
で、市橋くん、警察が上手かったのは、整形の写真、すぐに公開しなかったことです。市橋くんが整形外科に行って、それで写真も入手してあるというふうに報道させてから、写真を公開するまでに2日ほどあったんだっけ? そのときに、市橋くんはきっと、あの写真を公開されたらまずいと思って、まず手っ取り早く、ひげを剃ったのです。公開写真はヒゲ付きだろうとふんで。

で、警察が出してきたのは「予断を避けるため」として、そのヒゲをフォトショップで取り除いたスッピンの顔だったわけですね。がーん。

このときの市橋くんの動揺はいかほどだったか。
せっかくひげを剃ったのに、完璧に裏をかかれた。しかも、またひげを伸ばすまでには何日もかかる。つまり、あの手配写真は、見事に今の市橋くんだったわけです。

逃亡犯の心理として、このダメージは大きいでしょう。
ここで彼はとても追いつめられます。どこにも逃げられない。顔を隠すということ自体がもうすでに自分は容疑者、指名手配犯だということになるのですから、このどうしようもなさで、彼はほとんど眠れもしなかった。かくれんぼをして、そこら中に鬼がいるという状態です。あとは髪を剃っちゃうしかない。でも、それをしてないのはどうしてかなあ? あれは、フードで隠せるからか? いや、ナルシシズムかな。その辺はぼくにはわかりません。

でもとにかく、わたしの想像の中の彼は、もうどうにもしようがない、という極限状態で、あのフェリーの待合室で捕まったのです。でも、彼は(仮定の彼は)、とにかく、現実を回避したい、責任を回避したい人間なのです。では、次にどうするか?

逃げるのですよ。やはり。
自分の心の中に。
外界を遮断して、心の中に、奥深くに、逃げ込む。そこしかない。

それがこの拒食なのです。
それが私のフィクティシャスな彼に関する解釈。

いわば、麻原彰晃と、三浦和義との間の、どこかにある人間としての市橋くん。

麻原は外界を完全に遮断した。
三浦は真実の内界を遮断した。

市橋くんは、そういう意味で、けっこう興味深い人物かもしれません。
叱られたこと、ないのかなあ。
親との関係、セックス、とても古典的だけど、やはり鍵はそれなんだろうなあ。
でも、もう一個、かつて浅田彰が言ってた「スキゾ・キッズ」。
これ?
スキゾって、現実社会ではこんな無様なものにしかなれないのだろうか?

最近、考えてるのは、このスキゾではなく、クラウド・コンピュータ型の人間たち、です。
実体がないの。
でも、これはちょっとぜんぶ書き出すのは面倒なのでまたの機会にしましょう。

October 27, 2009

メディアの立ち位置

鳩山の所信表明を読みながら、初めて欧米の政治家指導者たちのような、個人的に何を伝えたいのかがよくわかる内容だったと思いました。まあ、鳩山という人はこないだの国連気候変動演説でも理念を語らせるとなかなか雄弁な政治家で、この所信表明もきっと自分で草稿を練ったのでしょうね。問題はさて、果たしてここで言ったうちのどれほどが具現するかということだというのは当然でしょう。

ところで、自民党の谷垣総裁がこれに対して応じる民主党議員を指して「ヒトラーユーゲント」を想起させた、というのはやや無理しゃりの感があります。まあ、自民党政治の残したものを指して「戦後行政の大掃除」「無血の平成維新」といわれれば何がなんでも批判を言い返さねばならないのでしょうが、なんだか表面的な批判ばかりの普通の平凡な野党に成り下がった感じです。ここはひとつ、字面の揚げ足取りではない、本質的な批判、政治のあり方と政府のあり方を常に見据えた論戦を挑んでほしいんですが……。

でもね、もともと現在の多くの社会問題は確かにすべてほとんど自民党の政治責任を問われるような種類のものですから、なかなか攻めづらいところもあるんでしょう。だからこそ、今度の執行部は過去の自民党執行部と決別するような布陣であるべきだったのです。民主党を攻める前に、まずは自分たちの過去を責める、みたいな。そうして初めて民主党攻撃が出来るというものなのですから。

谷垣という人は宏池会という「政策に強いが政局に弱い」派閥の出だからこそ、こんな廃残の自民党を任されちゃった、みたいなところがあります。かつては「保守本流」と呼ばれた派閥だったのですが、今の自民党内ではハト派、リベラル派、知的、という場末な印象。もっともその線こそが臨まれているのだからそれでやりゃあいいのに、それじゃ民主党とかぶるところが多すぎて(じっさい、政界再編となれば真っ先に民主党のリベラル派と結ぶのは彼らだったはずですから)、戦略的にはもっと保守・反動に傾かなければならない、という事情があるわけです。そこで飛び出したヒトラーユーゲント発言なのかもしれません。

同時に、日本のメディアの書くこと言うことの首尾一貫のしていなさというか、表面的なことのあげつらいがなんだか最近すごく目につきます。これも今回の政権交代の副産物か、メディア側も混乱してるんだなあという印象です。

自民党に対しては戦後50年以上も政権の座にあったわけで、そのキャラも定着していたために各メディアの立ち位置はある程度は定まっていました。ところが今度の民主党政権には、どう対応すべきかはまだ場当たり的で、とりあえずは批判的ツッコミをしておけば無難か、みたいな報道の仕方が目につくんですね。

最近の例で言うと、日本郵政への斎藤次郎元大蔵事務次官の社長就任。「脱官僚、天下り根絶」の看板が早くも揺れたと騒ぎますが、そもそも「杓子定規の官僚外しは不合理。優秀な人材なら官僚でも登用して使いこなすべし」というのがこれまでのメディアのだいたいの論調でした。

しかし今回の斎藤元次官の起用批判は、起用そのものに対する是非というより、政権の天下り禁止路線との不整合、さらには民主党が野党だった昨年3月の、武藤敏郎元大蔵次官の日銀総裁起用の際の国会での不同意との齟齬に対する批判なのですね。

で、斎藤の起用はそもそも人材として良いのか悪いのか? 言行不一致を衝くのはジャーナリズムの重要な役割の1つなのでそれはいいのですが、同時にこの本質的な問題に触れないのでなんだかピンと来ない。斉藤氏が小沢幹事長と親しいことも取りざたされますが、「あれとあれがつながってるからねえ」という通好みの仄めかしだけでなく、わたしとしてはもっと真正面からの分析も教えてもらいたいところなのです。で、あいつは駄目なの? どうなの?

米軍の普天間基地移設問題になるともうちょっと複雑です。これは自民党政権のネジレとも関係するのですが、日本の保守層というのは本来の「国益」主義者の顔と、もう一方で安保条約に基づく米国追従者の顔の2つを持っています。この2つは本当は両立しないはずですが、自民党は内には右翼的な勇ましい顔を向けながら、米国には「思いやり予算」その他で不平等な地位協定のおべっかを振りまいてきました。安倍や町村や麻生など、ときどき日本の核武装をぶつ自民党政治家がいますが、彼らは内心これに忸怩たるものを持っていた人たちなのでしょう。自分たちでまいた種なのに。
 
同じことはメディアにも言えます。普天間問題などでワシントン・ポストやウォールストリート・ジャーナルが立て続けに「最近、厄介なのは中国ではなく日本」「鳩山外交は日米同盟をむしばむ恐れ」と書けば、米政府の「深刻な懸念」をあたかもそのメディア自身も懸念しているかのように報じる。例のNYタイムズの鳩山論文転載問題のときもそうでした。

でも外交というのは本来は丁々発止やり合って最後にニッコリ握手するのが成功というもの。ワシントン・ポストが伝えた「日米関係はこれまで不変の居心地のよいものだった」という国務省高官の感慨には、コンフォタブル(居心地のよい)という言葉の向こう側にコンビニエント(都合のよい)が透けて見えるのです。しかしこれも国益第一の米国なら当然の主張で、というか、どの国だってまずは自国の利益に立って主張するのが当たり前ですから、そういわれたってべつに驚くことはない。

なのに日本のメディアはこれまでもそうでしたが、あまりに外国での評判を気にしすぎる。やれ鳩山が外国のメディアでどう報じられたか、やれ日本の映画が、日本のアニメが、日本料理が、日本のピアニストが、日本のなんとかが、……とまるで外国での評判がそのままそのものの評価であるような。これじゃ先生にほめられることだけを目標にして行動している小学生みたいです。

そして本来ならこういう時に、日本の主体性を基に米国に噛み付いて然るべき保守メディアが、目先の政権批判にかまけてしまうのはなんだか面白いネジレだなあと思うわけなのです。まあ、基地問題では、これで国防の幾分かは米国任せで安く済む、という帳簿計算があるのだけれど、「保守」って本来は、そういう姑息な帳尻合わせは好きじゃないはずなのにね。もっとも、沖縄は「国益」の「国」の中には入っていない、彼らにとっては辺境の属国なのかもしれませんが。

いや、日本の国益を主張せよと、わたしが国粋主義者になっているわけではありません。政権交代という現象への対応を構築中の日本のジャーナリズムに、表層的なことだけではない、本質的な問題への視点も常に忘れずに提供してほしいと思っているのです。そしてじつは、民主党に対する最も必要なチェックポイントは、この、「米国と対等の同盟関係」なのです。この「対等」という言葉によって国内に台頭してくるだろう国家主義。自民党時代のネジレの鬱憤を一気に解消し晴らそうとする声の大きな国民たち、つまりは右派の熱狂です。

その意味において、じつは先に取り上げた谷垣自民党総裁の「ヒトラーユーゲント」発言は、文脈も意味も違うけれど、なんとも暗喩に満ちた正鵠を射るものであると思うのです。

悪しきポピュリズム(これに関しては3つ前のエントリーで触れました)を、ジャーナリズムと野党が、表面的ではないツッコミを忘れないことで回避してほしいと思います。

October 07, 2009

ポピュリズムはダメなのか?

民主党・鳩山政権が全力疾走を続けています。早くも息切れや逆に暴走気味なところも見られますが、日本にいる友人たちによれば政権交代ってのはこんなにも変わるってことなのかとビックリしているようです。何が変わったのか、具体的にはまだそうはないにもかかわらず、ワイドショーで政治ニュースがこんなに面白かったこともかつてなく、実際、TV出演する与党・民主党の政治家たちが、これまでの自民党と違って言い訳も逃げもせずに真正面から質問に応えるのが心地よいと言うのです。

思えば八ッ場ダムにしても年金にしても格差対策や障害者自立支援法にしてもすべてが自民党失政の後始末。中止宣言されてしまった八ッ場ダムに谷垣新総裁らが民主党マニフェストに振り回される地元周辺住民の不満を聞きに視察に行っても、そもそもが57年を費やして完成できなかった自民党の怠慢こそが素因なので「どの面下げて」感が否めません。

もっとも、鳩山政権マニフェストの問題は国民生活支援という17兆円もの約束手形の財源です。そんなカネどこにあるのか、理想ではなく現実を直視すべきだ、悪しきポピュリズム政策のオンパレードだ、という批判が止みません。

でも、どうなんでしょう? 日本ではポピュリズムというのは大衆迎合主義とか衆愚政治とか訳されて、どうも批判的に用いられることが多いのですが、それを言う人はだいたいが自分はその「大衆」「衆愚」には属していないと思っている人たちです。「大衆というのは馬鹿なものなのだから、彼らの言っていることを真に受けてはいけない」ということなんですが、これって典型的な「上から目線」というやつじゃないでしょうか。

確かにポピュリズムはかつて大衆的熱狂のかたまりとなって国粋主義・ファシズムへとつながりました。けれど現代日本のポピュリズムは、高度情報社会と国際化と教育水準の底上げの支えで安易な全体主義には流れないはずです。もちろんそれには不断の注意が必要ですが、たとえば高速道路無料化や中小企業向けの金融モラトリアムに慎重な世論とかはとても健全なもので、国民はご機嫌取りのような政策を無批判に歓迎しているわけではないのです。

かつて新聞記者の新人のころ県政を取材していた25年前、県庁の企画室なんていう部署にはどの県でも大学を卒業したての20代の中央官庁のキャリア青年たちが腕慣らしに配属されてきていて、予算編成期になると海中公園だとかリニア鉄道だとか、まあそれはそれは派手で大ボラ的な、巨大予算の夢物語をぶち上げるのが優秀な官僚への試金石だと思われていました。実際、上級国家公務員に合格した輩たちは所属省庁が決まるとすぐにもそうした「企画力」のトレーニングをやらされるという話で、税金はそうやって目に見えやすい箱もの思考へと注がれていたのです。まあ、インフラの整っていなかった昭和後期までならそうした箱ものによる経済全体の牽引力も必要だったのでしょうが、いつまでもそれでは通用しない。

ダムや高速道路というのはその象徴のようなものでした。それは企業経済を活性化することで家計経済も勝手によくなる、という思考です。そして現代のポピュリズムとは、企業を潤してもあまりよくなって来なかった生活をどうにかしてくれという権利要求なのです。そのどこが悪いのか?

その意味において、鳩山政権が打ち出し、政治家たちがTV出演などで真摯に説明しようとしている現在進行中の脱・箱もの政策の1つ1つは、たとえそれが途中でへたれになったり国会提案が先送りになったりするにしても、その過程を見ているだけで政治というものの本来のダイナミズムを目撃しているという高揚感を私たちにもたらしてくれているのかもしれません。それが冒頭で紹介した、いま政治ニュースが面白いという事象なのだと思います。

でも、それらの政策に「そんなカネ、どこにあるのか」と批判し続けることは正しいことだと思います。それは政権を超えて、いまきっと50歳前後になったかつての「海中公園」官僚たちにも届くはずです。

税金は本当に、民間のような厳しい監査なく使われています。役所相手の仕事の受注ほど旨いものはない。それをまずは精査すること。それが健全な現代ポピュリズムの原点なのだと思います。

September 08, 2009

鳩山論文、その2

なにせこんな明確な政権交代は初めてのことなので、バタバタしているのは当事者だけでなくメディアも同じようなものです。岡田さんが外相と発表されるや、共同通信は米政府に「好感と懸念が混在」として、「野党代表の経験はあるものの政府機関を取り仕切るポストについたことがなく行政感覚が未知数である点を不安視する見方も」と配信しています。

しかしよく考えればそんなのは当たり前のことで、字数を費やすほどの情報ではない。どうもこの種の「言わずもがな」や「蛇足」の原稿が目につきます。その最たるものが例のNYタイムズ電子版で紹介された鳩山論文をめぐる顛末でした。

この前のエントリーでおかしいと書いたんですが、まあ、だいたい私の推測どおりでした。あれは寄稿ではなかったのですね。ちょっとこの顛末をまとめてみましょう。

最初に噛み付いたのは産経新聞です。鳩山代表が「寄稿した論文に対し米専門家らから強い失望の声」という記事で、同論文に対し「アジア専門の元政府高官は『米国に対し非常に敵対的であり、警戒すべき見方だ』とみる。米シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)のニコラス・セーチェーニ日本部副部長は『第一印象は非常に重要で、論文は民主党政権に関心をもつ米国人を困惑させるだけだ』と批判。『(論文を読んだ)人々は、日本は世界経済が抱える問題の解決に積極的な役割を果たすつもりはない、と思うだろう。失望させられる』」と紹介したのです。

ここで紹介されるコメントはCSISのアジア上級部長だったマイケル・グリーンなど、ブッシュ前政権の安全保障政策を担ったサークルです。まあ当然ながら自民党=共和党外交に精通した人たち。つまり、まず鳩山外交への疑問と批判ありき、のメンツなわけです。

さすがは「民主党さんの思うとおりにはさせないぜ」と公的メディアで発言した記者のいる新聞社、「失望」を語る人に「失望」をコメントさせたに過ぎません。しかもこのコメント者たちはこの「寄稿」が実はNYタイムズに寄稿したものではなく、鳩山氏が日本の月刊誌「Voice」9月号に寄稿した日本国内向け論文を、通信社が適当に抜粋して配信したものだということを知らなかった。ネタ元の精査なくあたかも「米国側」の代表のようにコメントするというチョンボは、研究者としていかがなものか。

もっとも、(前エントリーでも書きましたが)電子版でも「オプ・エド」という投稿ページでの掲載でしたから、鳩山氏の「寄稿」と勘違いするのもそう非難できません。でもなんだか変だった。なんでまたこんな時期(選挙直前の8月27日付)に唐突にこんなものをNYタイムズなんかに“寄稿”したのか意味がわからなかったからです。さらにおかしなことに、文末に「 Global Viewpoint/Tribune Media Service」と付記があった。これは通信社の配信を示唆します。テキストの冒頭には確かに「By Yukio Hatoyama」とあったが、それは筆者名のことであって寄稿ではないのではないか、と気づくべきでした。まあ、批判のネタを見つけたと気が急いたのでしょう。

さて、では実際の米側の受け止めはどうなのでしょうか?

米国の民主党は、腹芸の共和党に比べ、人権や環境問題などわりと大義名分や理想論を打ち出して行動する政党です。しかも外交というのは議論から始まります。核持ち込み密約など、異常だったこれまでの日米関係を正常化するためにもどんどん言葉を交わす、そんなディベートができる信頼関係が成立すれば、米国にとっても頼もしい日本であるはずなのです。つまり岡田外相に求められるのは、共同配信で「不安」とされた「行政感覚」などではなく、むしろ議論の能力なのです。

そのあたりを先日、東京新聞特報部の記事でコメントしたので、ここにも転載しておきます。

東京090905.jpg

September 02, 2009

鳩山論文 on NY Times

鳩山論文のNYタイムズ寄稿あるいは転載の問題、なんで日本のメディアはNYタイムズに直接聞かないんだろう? 聞けばすぐにわかるのに。

読売は次のように書いてるけど、これ、せっかく電話取材してるのに、意味わかんない。
**

民主・鳩山氏「米紙論文、反米ではない」

 鳩山代表は31日、党本部で記者団に対し、米国のニューヨーク・タイムズ紙に掲載された鳩山氏の論文が米国内の一部から批判されていることについて、「決して反米的な考え方を示したものではないことは、論文全体を読んでいただければわかる」と強調した。

 論文は、米国主導のグローバリズムや市場原理主義を批判し、アジア中心の経済体制の構築などを主張している。鳩山氏は「寄稿したわけではない。(日本の)雑誌に寄稿したものを、抜粋して載せたものだ」と述べた。論文は日本の月刊誌「Voice」9月号に掲載されたもので、英訳は鳩山事務所で行ったという。同紙関係者は本紙の電話取材に対し、「紙幅に合わせて短縮し、いくつか不明瞭(めいりょう)な単語を変えたが、内容で本質的なことが編集で変えられたことは断じてない」と強調した。

(2009年8月31日22時04分 読売新聞)

**

ね、何言いたいんだかわかんない記事でしょ。鳩山事務所が行った「英訳」ってのはVoiceの論文の英訳のことで、これはすでに鳩山サイトで公開済み。それを寄稿したのかしてないのか、って肝心部分をタイムズは応えてない(読売は聞いていない、あるいは字にしてない)し、そもそも「同紙関係者」ってだれよ? この記事、オレがデスクなら突っ返すわ。

とにかくあの“寄稿文”、NYタイムズの体裁では著者が By Yukio Hatoyama ってなってて、しかもOP-ED(opposite editorial page)っていう普通は寄稿などを載せるページに掲載してあるから、最初に報じた毎日が「鳩山側が寄稿した」ってとるのはまあ、宜なるかな、なんですがね、しかし、そういう寄稿文にしては不思議なことに、最後に「Global Viewpoint/Tribune Media Service」って添え書きがあるんですわ。これ、普通、コピーライトとか書き添える位置なんです。

これ、ウェブサイトからのスクリーンショットです。かの“寄稿文”の最後の部分です。
で、これにはね、「この論文のもっと長いバージョンは日本の月刊誌「Voice」9月号に掲載された」ってあるんですわ。これもおかしいわね。つまりこれが抜粋なのか、それとも端から長短2つのバージョンが用意されていて、それでこれはその鳩山本人が書いた短文バージョンなのか、ってこともわからん。

hatoyama_end.jpg


ですから、私としては、この、何気なく付記されている「Tribune Media Servise」がサービス(仲介)したんじゃないのかね、って思ってる。鳩山論文の英文はもともとあるわけだから、それをトリビューンの部局が鳩山事務所の了解を取るか取らずか、これは重要ってことで配信頒布した。で、トリビューンかNYタイムズが(読売は「同紙」って書いてたけど、わたしとしてはトリビューンが配信してるならふつうは前者だろうなあと思う)字数の関係でずいぶんと端折って(じゃっかん、英単語の入れ替えもあるようだけど)、アメリカに関係する議論のありそうな部分だけを抜粋した。鳩山事務所としてはそこまで明確に抜粋引用の条件を提示していなかった(これは甘いけどね)、って感じなのではないのだろうか?

しかし、それにしても、NYタイムズが「By Yukio Hatoyama」として彼が直接寄稿したような体裁にしたのは、これはほんと、まずいと思う。 それも、最後の「Global Viewpoint/Tribune Media Service」の付記を、何の説明もしていないというのも、姑息な感を否めない。それとも、こういうの、今までたくさんやっていて、慣例になっていることで、わたしがたまたま見逃し続けていたってことだけの話なのかもしれないですが。

だからこれは直接タイムズのOP-EDの担当者に取材すべきなんですわ。
わたしなんぞの個人がやっても時間かかるので、だれかやってくださいな。
てか、わたしこれから飛行機に乗ってまた東京なので、やれないのです。

ネットではいろいろとみなさん憶測で持論を展開しているが、そんなの屁にもならん。ちなみに、わたしの上記の憶測も、何の意味もないです。あしからず。

August 20, 2009

貧すれば鈍する

わたしはまあ、ウッドストック世代といいますか(ああ、先週末が40周年でしたね。これに関しても書きたいことがあったんだけど、時機を逸したかなあ)、ヒッピー世代とか、なんとでもいいんですけど、そうね、カウンター・カルチャー、対抗文化ってのを見てきて育ってきたせいか、既成概念を端から疑ってかかる傾向があるのは認めます。だから脱構築とか、そういうのに出遭ったときには、何の抵抗もなくそうだそうだおもしろいと食いついた口です。

で、というわけでしょう、国旗を切り刻んだって、それは、国旗というものはそういうもんでしょうと思うだけで、切り刻まれるのはなぜならそれが国旗だからであって、ただの布切れだったらだれも切り刻まない、というよりも切り刻んでもだれも問題にしないし、それは布切れの宿命であるわけですから、新聞沙汰にはならないです。

「国旗を切り刻んだ」という行為は、それ自体あらかじめ確信犯です。というか20世紀後半はそうでした。いまでもそうでしょう。そこには主張がある。沖縄の知花昌一さんが沖縄国体で日の丸を焼いたのは、あれは主張でした。国旗を焼くことで表現される主張。焼かねば表現されない主張です。焼くしかなかったわけです。

でももう1つの視点。
それは物神崇拝です。フェティシズムです。
「国旗を切り刻むなんて」「あなたはこんなことができますか?」という言説があふれているけど、そんなの、どうなんでしょう。大切なことでしょうか? ぼくはできるな。簡単。でも、それは国旗の象徴するものを切り刻むんじゃないし、国旗という仮装を纏った布切れを切り刻むだけだと思えばどうでもいいことです。いや、隠れキリシタンが、どうしてもマリアの像を踏めなかった。その心性は痛いほどわかります。でも、その歴史もじゅうじゅうわかっている。そのときに、その枠組みを超えることしか、踏み絵という抑圧を躱すことはできないと私たちはすでに学んでいるはずです。だから、いまは、マリアの像を、踏めるな。簡単に。そうでしょ? それが知性というものです。

ただ、で、民主党の、なんだっけ? 鹿児島で行われた立候補予定者の決起集会での日の丸切り貼り問題は、それほど哲学的でもないんじゃないかとは思うわけで、そんな、切羽詰まった命題ではないでしょう。確信犯じゃないんじゃないの?

日の丸切り貼り.jpg

でも、古森のおじちゃまのブログページには、出典も裏も取れないまま、こんなコメントが。

**
Commented by scottsdale さん
某サイトより転載します。

436 :名無しさん@十周年:2009/08/18(火) 02:08:22
集会に参加した従兄からの情報
彼の周辺10名ぐらいの参加者が旗を見て、「ホント、やりよった」と、
檀上を指しながら大はしゃぎ、爆笑してたと。
その時従兄は何のことか、わからなかったとも言っていたが。

初から日の丸を侮辱するつもりで切り刻んでやると
計画的に作ったんだね。
気味悪いわ。民主党

162 :名無しさん@十周年:2009/08/18(火) 12:40:45 ID:viS8Ji000
民主の鹿児島支部の知り合いから聞いた話。
もともと支部にはきちんとした支部の旗は存在していた。
ただ、日教組の党員関係者がこういうの出そうよと提案。
一応支部長である議員にも話通す、面白いやってやれ。
と、いう感じで党ぐるみで行われていた。鳩山党首が
このこと知らないはずもなく、当然上にも報告が行っていた。
**

これに対して、当のおじちゃま、ジャーナリストらしからず、先ほど言ったように裏も確かめずに次のようなコメントを返す始末。

**
Commented by 古森義久 さん
scottsdale さん

日の丸の切り裂きをみて、「ホント、やりよった」と大はしゃぎ、ですか。

不気味ですね。
**

耄碌したというわけではなく、古森のおじちゃまは以前からこういうところの恣意性が甘いんですけど、まあ、しょうがないか。

で、まあ、「ホント、やりよった」のだとしても、これはじつに程度の低い、ほんとうはまな板に載せるのも憚れるようなイタズラです。お巫山戯が過ぎるのもほどがある、で済む話でしょう。つまり、追及するにも筋が悪い。

でも突っ込みたいんでしょうなあ。自民党総裁ともあろう人が、17日の党首討論会でこれを指摘して「国旗を刻むとはどういうことか。信じたくない。とても悲しく許しがたい行為だ」。

そうか、悲しいですか。

で、20日もまた霧島市での街頭演説で「(民主党が)日の丸の旗をひっちゃぶいた。ふざけた話でしょうが。日の丸ですらきっちりできない」と。

筋が悪いこのエピソードを自民党がどこまで大げさに追及するのかわかりませんが、何が言いたいかというと、じつは国旗のことではありません。

民主党が政権を取るだろうことで、自民党の天下の陰に安穏と惰眠を貪っていた(一部はそれでも歯ぎしりしてたでしょうが)右翼が、むくむくと蠢き出すだろうということです。そうして、麻生自民党は、そんな彼らをも動員して票の目減りを止めようとする。あるいは次の跳ね板にしようとする。自民党の穏健勢力はこれを苦々しく思うのですが、脈々と続く自民党内の反動右派はこの政権交代を機にこうして先鋭化するに違いありません。こういうのを愚劣というのです。

同じことがじつはいま米国でも起きています。
オバマ政権の医療改革案に、右派勢力がオバマを社会主義者、ヒトラーと呼び慣わすものすごいキャンペーンを繰り広げています。各地で行われているタウンミーティングに、そうした右派勢力の代弁者が続々と送り込まれて協議をズタズタにしています。

米国で最も力のあるキリスト教原理主義運動の1つに、ザ・フェローシップ、あるいは「ザ・ファミリー」と称させる秘密主義の政治団体があります。ザ・ファミリーの熱心なメンバーには連邦議会議員、企業首脳、軍首脳、外国国家元首もいます。そこがいままた、反オバマに蠢いているのです。

民主党政権の誕生は同時に、日本の反動の再生でもあるのかもしれません。

ああ、忘れてました。
この鹿児島の国旗切り貼り問題を報じた産經新聞の記事ですが、次のような文章があります。

**
 海外では国旗への侮辱行為に刑事罰を科す国も多い。

 フランスでは公衆の面前で国旗に侮辱行為をした場合、7500ユーロ(約100万円)の罰金刑を定めている。

 集会で同じ行為をすれば、加重刑として6カ月の拘禁刑が科せられる。中国やカナダ、ドイツ、イタリア、米国も国旗への冒涜(ぼうとく)や侮辱、損壊などに処罰規定を設けている。
**

米国では、この処罰規定は否定されています。
ベトナム反戦運動とか、いわゆる「確信犯」としての星条旗焼き捨て事件なんかが続発した歴史を持つ国です。1989年に連邦最高裁は次のように言いました。

「われわれは、国旗への冒瀆行為を罰することによって国旗を聖化することはしない。これを罰することは、この国旗の重要な象徴が表するところの自由を損なうことになる」

つまりね、アメリカの国旗が象徴するものはなによりも「自由」ということなのだ。だから、たとえその国旗を別の象徴(例えばアメリカ帝国主義の象徴とか)として焼き捨てるにしても、本来の象徴として国旗の中にある「自由」が、それを許すのだ、ということです。で、国旗を冒瀆する行為を処罰することは憲法違反だというの。すげえ。ねえ、かっこよくね?

これに対して連邦議会の保守勢力はやっきになって最高裁判決を法律で覆そうとする。で国旗冒瀆処罰法もまた出したりするけど、90年にはまたそれを憲法修正1条に違反するとした。2006年のブッシュ政権の時にも6月にまた憲法修正案で国旗冒瀆を許すまじとしようとしたけれど、これもまた上院で賛成が1票届かずに否決されたという経緯もあります。

産經新聞、ウソを書くなよなあ。

May 19, 2009

最悪の事態の想定

先生たちの目の届かないところで子供たちが遊んでケガでもしたら大変だからと、放課後の校庭から子供たちを閉め出したり、個人情報がどんなふうに悪用されるかわからないからとPTAの連絡網さえ作れない学校があります。

日本のTV番組に映り込む自動車は、神経質なくらいにナンバープレートにボカシが入るようになっていて、先日見た番組ではついに路線バスのナンバーまでがぼかされていました。

そういえば最近では日本のTVニュースでは街の人のコメントでも顔があまり映らなくなりました。事件や事故の周辺の証言でもみんな胸から下しか映りません。あれで守っている個人情報とは「顔」なんでしょうか?

だとしたら、大相撲中継とか野球中継で映り込む観客の人の顔にも、いずれボカシが入るようにならない理由がない。なにせ路線バスのナンバーまで隠すんですから。でもそれははて、一体どういう意図だったんでしょう。実際、グーグル日本のストリートビューでは通行人や住人の顔にボカシが入れられるようになりましたし。

一番悪い事態を想定してそれに備えた対策を講じる。例えばテレビに映った大変な高級車のナンバーから、陸運局なんかでその「お金持ち」の名前や住所までがわかってしまって泥棒被害に遭う恐れはあります。前述のストリートビューから表札や車のナンバーにボカシが入れられたのも同じ理由でしょう。事件の周辺住民のコメントの場合では最悪、犯人に逆恨みされてともすると狙われる恐れさえあるのかもしれません。でも事故現場の周辺住民のコメントの場合の顔隠しってのは、うーむ、何だろう?

最悪な事態を想定するのはべつに悪いことではないです。でも、そればかりに気を取られる過ぎると、なんか違うんじゃないかという気がするのです。

たとえば自分の子供とその友達も誘ってキャンプに行くとします。この場合、最悪の事態を想定すれば大変です。クマに襲われるかもしれないし(ええ、私は北海道出身です)、川で流されるかもしれない。いやもっとよくあることとして、木登りして落っこちてケガでもしたら、走って転んで骨でも折ったら、森に迷って遭難したら……。でもそんなことを考えていたらキャンプになんか連れて行けない。よそ様のお子さんを預かるなんてのももってのほかだ。で、結果、子供も親も、安全だけど楽しいこともうれしいこともない、そんなつまらない事態になってしまう。

回りくどかったですが言いたかったのはじつはまた豚フルーの話です。

そりゃ政府としては直近の課題として「最悪の事態」を想定した対策を講じてきたのでしょう。何事にも万全を期する。それが数十億円もかけた例の「水際作戦」の大騒ぎでした。そうしていま、海外の学会などでは日本人だけが軒並み欠席し、日本による海外イベントも軒並み中止。国内でも神戸まつりなど公共イベントは続々中止となり、公共施設の一時閉鎖の波も広がりつつあります。このままでは都市機能や経済活動までマヒしそうです。

行政としては最悪の事態を想定してかからないと、後でおおごとになったときに責任を問われてしまいます。だからハンカチ落しのハンカチをとにかく早く拾って早くだれかのもとに落とさなければならない。そうせざるを得ないのは、だからある意味わからないでもないのですが。

でもそうやっているうちに気づけばいつのまにか子供がひとりも遊んでいない校庭とボカシだらけのTV番組のような、最悪の想定におびえるだけで家に引き蘢っている、そんな神経症的な社会になってしまう。いや、すでにいま確実に、日本社会はそうなりつつあるんだと危惧するわけです。じつはそれこそが「最悪の事態」なのではないでしょうか。

そんなふうになってから急に舛添さんが「これは季節性のインフルエンザと変わらない」と火消しに回ったって、なかなか簡単にはもとには戻らない。だってそれまではあの深夜未明の記者会見とかさんざん騒いできたんですもの、いまさらしれっと「軽めの症状に合わせた対応に変えたい」って言っても、ほんとにそれでいいのかよ、って突っ込みたくもなるでしょう。初めからそう言って「落ち着け」メッセージを発していたらよかったんだけどねえ。

断食するときは断食してるような顔をするなって、聖書でしたっけ?
われわれは万全を期しているから、国民は落ち着いていてだいじょうぶ、って、そんな頼れる父権的な政府ってのもあんまり信用できないが、バタバタしてるばかりの麻生政権を見てると、つくづくものが見えてない場当たり的な政府なんだなあと思い知ります。

目先の対策と、大所高所からの判断、要はそのバランスの問題なんですがね。

May 16, 2009

患者A

せめてAさん、Aくんと呼んでやれ。
犯罪者でも〜容疑者と付くのに、「A」とはいえ呼び捨てかよ。
舛添も「後期高齢者」という造語を作った心ない厚生官僚のテキストをだだ読みするだけだ。

こういうところだよ、この国の冷たさは。

いつも引用する産経の宮田一雄記者は、こうした言語感覚の鈍感さについて日本時間5月14日午前0時すぎの時点で次のように指摘している。そう、「患者A」はまさに彼の指摘したものの同じ文脈上に、当然のものとしてある。

***

 どうも用語にいちいち引っかかるようで恐縮ですが、《濃厚接触者》という言い方はなんとかならないでしょうか。例えば、新型インフルエンザの患者と同じ飛行機に乗り合わせ、半径2メートル以内の座席に座っていた人はウイルスの飛沫感染の可能性があるということで、《濃厚接触者》になります。

 咳をしている人の隣の隣の席に座っていたら《濃厚接触》。こんな日本語、ありますか。濃厚な接触っていったら、裸になって抱き合うとか、激しくキスをするとか、なんかそんなイメージです。例えば直接の接触があったとしても、握手をしたぐらいで《濃厚接触》はないでしょう。さらに《者》までつくと、いかにも良くないことをしているイメージです。新聞記者とか(ちょっと違うか)。友達と話をしているだけで、なんでそんな言われ方をしなければならないの。

 《疑い例》だとか、新型インフルエンザ患者の《第一号》だとか、検疫を《すり抜ける》だとか・・・。挙げ句の果てに《濃厚接触者》では、どう考えたって非難のトーンがつきまといます。《近くに座っていた人》で十分ではないですか。

http://miyatak.iza.ne.jp/blog/entry/1035440/

May 13, 2009

水際作戦という欺瞞

日本に帰国する飛行機の中で、自分の座席の2メートル以内に発熱した人がいて、その人がもし新型インフルエンザ(豚フルー)の感染者・患者だったら自動的に10日間ホテルに隔離されるそうです。ホテル代は国持ちらしいですけど、帰国が10日以内の予定ならそれで日程のすべてを使って余りある(っていう日本語も変かしら?)。

根拠となっているのは検疫法。
でも、それを聞いただけでNYに住む私たちはげんなりしてしまいます。

これを日本政府は「水際作戦」と称して、新型フルーを日本に上陸させないための有効な手段として喧伝しています。でも、よく考えてみましょう。新型フルーにも潜伏期間があって、その間には発熱もしません。現在の第1次検疫はこの発熱の有無で行うので、潜伏期間の感染者は成田でも大阪でも停め置かれることなくスルーして日本国内に入ってしまいます。

水際作戦は、これでも政府の喧伝するようにウイルスの上陸阻止に「有効」なのでしょうか? むしろ確率を考えるとウイルスはすでに日本に入っていると思った方がいい。いや、百歩譲ってまだだとしても、いずれは入るでしょう。そういうもんです。したがって、水際作戦はそれほど「有効」ではないんです。

では、水際作戦はこの「上陸」を遅らせ、その間に国民にウイルス対策感染予防を周知させる猶予期間として有効活用できるから有用なのでしょうか? でも国民には「手洗い、うがいの励行」「人の集まる場所には行かない」「早めに病院へ」と言うだけで、こんな3つならもう周知されているでしょう。それ以上に連日の報道はパニックをあおるだけで、いたずらに国民をおびえさせているようにしか見えません。日本政府は、わが国民をそんなに脅されなければ動かない愚民と思っておるのかしら? おまけに、この間を利用して病院の態勢を整えることもできるはずなのに、脅されたせいか、ぎゃくに感染の疑いのある人たちを断る病院が出てきているという情けなさ。脅しても脅さなくてもダメってことです。

水際作戦はつまり、ウイルスの侵入を防ぐためのものとしてはまったく無効なのです。そうではなく、前回の繰り返しですけど、ウイルスは入り込むかもしれないが、しかし感染者を早期に発見し一刻も早くその彼・彼女を救うことができる、そうすればその彼・彼女からの二次感染も最小限にできる、という意味においてのみ有効なのです。

言ってみれば、水際作戦を排除の論理としてではなく、救済の論理として位置づける。これだけでも社会はずいぶんとやさしくなれます。そうは思いませんか? そういう国なら一時帰国したときに停留・隔離させされたって、ああ、ありがたいなあって思えるんじゃないでしょうか?

なのに、日本はまた排除に動いています。シカゴで6歳の男児が「日本人で初の感染」って、何がニュースなのでしょうか? で、日本のメディアがシカゴ市街の映像を流し、その子の通っていた日本人学校を取材する。それに何の意味があるのか? ほっといてやれよ、です。

実際、厚生労働省のウェブサイトのQ&Aでは、感染の疑いがあっても「健康監視されていることは秘密にしてもらえますか?」という問いに「検疫所と都道府県および保健所の担当者により、厳格に個人情報は保守されますので、御安心ください」と答えてます。なのに、外務大臣や厚生大臣がどこそこの誰それが感染と、まるで犯罪者扱い。おまけに成田での検疫も「この時期に海外に行く方が悪い」という輩がいたりと、また例の自己責任論なのか非国民扱いです。

何度でも言います。小沢騒動からこの前の草彅くんのとき狂騒といい、最近の日本、ちょっとおかしい。おかしいというより、危うい。

新型フルーは長期戦です。その作戦も立てずに最初からフルスロットルで突っ走っていれば、私たちはすぐにこのフルー情報に疲れ果てます。そのときです、本当の感染爆発が起きるのは。

何度でも言います。いまからでも遅くありません。長期戦としての態勢の立て直しを図るべきなのです。私たちはいつもと同じ生活を続ければよいと思います。いつもよりちょっとだけ健康と予防に注意して。無理をしないこの「ちょっと」が効果的なのです。

May 07, 2009

いい加減にしたらどうでしょうか?

はい、もちろん、例の「感染の疑い例」の逐一発表・報道のことです。
いまさっきも朝日が「ロスから帰国の男性、新型インフル陰性と判明」とオンライン版で速報です。
速報しなくちゃならないのは、そのまえに「都内でも疑い例、ロスから帰国した名古屋の男性」とやったからです。もちろん、これには都から厚生省にその「疑い例」が報告されたからで、それをいち早く厚生省が発表したからです。

これを見て、私はハンカチ落しを思い出しました。
成田でだれかがハンカチを見つける。そのハンカチをそこの係員が都の衛生局?に落とす。落とされた都は、このままでは大変と、それを国・厚生省の背中に落とす。厚生省はそれをそのままでは大変とメディアの前に落としてみせる。メディアは、ありゃりゃと、それを国民の前に落としてみせて、はい、これでゲームは終了。というか、責任は果たした、というわけです。責任ってのは、そういうもんでしょうか?

じつは朝日は2、3日前に東京本社で「疑い例は報道しない」というお達しが全記者に回されたのです。その意気や壮とすべし。ところがすぐにそれも朝令暮改。川崎だかどっかだかの女性がまた「疑い」となって、他社の横並び圧力に負けたのか、デスク間の連絡の不備か徹底の不完全か、翌日くらいにすぐまた字にしちゃった。

それと同じころ、確か東京都も「疑い例」はいちいち発表しない、と決めたんじゃなかったでしたっけ? それが都側の発表じゃあなくてそれを受けての厚生省のせいなのかもしれませんが、また「疑い例」がダダ漏れした。

オオカミ少年そのもののエピソードが続いています。
アメリカの感染者や死者のニュースだって、当のアメリカよりも日本の方が徹底して騒いでる。
これは「倒錯」と言います。
かならず、後世、というほどの後のことではなく、「あのときはひどかった」と新聞協会かなんかの討議で総括されることは目に見えているのに、それをやめられないのはただただ、各新聞社内に自社だけでもそれをやめようと統御できるだけの人材がいないからです。そりゃ会社員だし、では他にどんな有効な対処の仕方があるのか、対案もないしね。

ほんとに対案はないのでしょうか?

メディアとしては、とにかく感染例の第一号を国内で見つけるまではこのまま「疑い例」のいちいちをぜんぶ報道してゆく構えなんでしょう。というのも、かならずもうそろそろ見つかるころだと思っているからです。もうちょっとだ、もう少しの辛抱だ、あと少しのドタバタのみっともなさだ、というわけです。

でもねえ、本質的な問題はそれからなのでしょう。
そうやってはなからフルスロットルでぶっ放しちゃったら、息が続かないでしょう。ほんとうに大変なころにはもう豚インフルエンザの話なんかもう考えたくなってしまっていませんか? いや、メディアではなく、メディアに翻弄された読者・視聴者たちが、です。国民をそうやってどうでもいい情報に疲弊させてしまって、どうするのか?

もうそろそろ、「疑い例」はいいんじゃないか?
確定を発表する態勢でいいんじゃないでしょうか?
こないだの最初の高校生のときも、病院まで押し掛けて、というか、病院まで発表したんでしょう? そういうのはやめましょう。まったく必要ないもの。

いまからでも遅くありません。
これは、長期戦としての報道態勢を考えるべきです。国・政府自民党がバタバタしてるのを尻目に、メディアとして情報の整理をしつつ対処してゆく。情報統制ではなく、整理です。政府発表を報道しないのが怖いならせめて報道する際は「疑い例」の時はにベタにするとか、「今日の疑い例」みたいなワッペン囲みにしちゃうとか、それで「感染例」が発表された時にも感染者を追い回すことはしない、とか、決めてしまえばいいのです。これは報道の統御ではなく、報道者として覚悟を決めるということです。

それで、あくまでも医学的・科学的な今後の展望と対処を報道すればよいのであって、その感染者がどうだこうだは、必要最低限にとどめる覚悟。

アメリカでは、年間3万5千人がインフルエンザで死亡しています。まあ、これは超過死亡といって、間接的な原因も入っていますが、日本だって超過死亡では1万人以上死んだりしています。新型インフルエンザが蔓延すれば3、4万人が死ぬかもしれないとされていますからこれは大変なことですが、でも、われわれとしてはどうしようもない。せいぜい手を洗いうがいをし、という標準的な事前警戒(Standard Precaution)で対処する以外にない。人ごみに行かないようにって言われたって、行かねばならぬ時もあるわけでね。感染したら早期に民フル処方ですよ。それしかないですもの。死ぬときゃあ死ぬんだって、まあ、そこまで言ったらそれはその人の人生観に関係してくることになりますけど。

「水際作戦」という言葉から連想するのは、まるで侵入者を許さない、国内に入ってくるのを阻止する、ということですが、成田到着の飛行機の中で体温モニター使ってやっているあれ、侵入者を排除するという意味においてはほとんど何の意味もありません。感染者を国内に入れない、という目的でなら、あれは意味がないのです。なぜなら、インフルエンザにももちろん潜伏期間あって、あそこで熱出してなくても感染しているかもしれないんですから。

それでも水際作戦が有効だと言えるのは、それは「つかまえる」ためのものではないからなのです。あれは、1人でも多くの感染者たちを早めに救助するための手段としてなら、あるいはそのためにのみ、有効なのです。感染してるかもしれない人を、いち早く助ける、ためのものなんです。水際作戦とは本来そういうものであるべきだ、というのは、前々回のここで産経の宮田一雄記者の記事で紹介した「哲学」です。

それを履き違えて、あんな隠れキリシタン探しみたいなことやってるの、日本と韓国とイギリスくらいですか?
また6月に帰国するのですが、機内に2時間も3時間も居残りさせられるの、いやだなあ。
それだけで病気になりそうです。

May 02, 2009

魔女狩り

米から帰国のトヨタ社員、新型インフル疑いで検査…政府高官
5月1日23時28分配信 読売新聞

 政府高官は1日夜、米国から帰国した名古屋市のトヨタ自動車社員が、新型インフルエンザに感染した疑いで検査を受けていることを明らかにした。

 同高官によると、この社員は一次の簡易検査で陽性反応を示し、遺伝子検査(PCR検査)を行っているという。

***

新型インフルの感染否定=米国から帰国の男性−名古屋
5月1日23時51分配信 時事通信

 名古屋市は1日、米国から帰国後、発熱やせきなどの症状を訴えた30代の男性患者が簡易検査でA型インフルエンザの陽性反応を示し、市衛生研究所が遺伝子レベルの「PCR検査」を実施したところ、新型インフルエンザではないことが確認されたと発表した。 

****

横浜の高校生が終わったら、次はこれです。
昔のエイズ騒動とまったく同じ。
とにかく感染第一号を見つけなければメディアの狂想曲は終わらない。
というか、第一号をぶちあげたらそれで終わるのかしら。
100人くらいまでそれぞれに「また感染」「また感染」ってやるつもりなのでしょうか。

新聞社もテレビ局も、報道幹部、そういうこといまぜんぜん考えてないんだと思う。
止まらないんですね。 思考停止状態。

で、もっと考えると、これ、ぜんぶ政府発表なのね。
高校生のあの深夜の舛添会見といい、なんか、この政府、ずいぶんとバタバタしてませんか?
「やってます」アピールが過ぎる。選挙対策?でこんなパフォーマンスやられたら困るんです。

みっともない。
いやそれ以上に、危うい。

April 30, 2009

豚インフルエンザから新型インフルエンザへ

なんだか知らない間に、日本の報道は全部「新型インフルエンザ」になってしまいましたね。

「豚インフルエンザ」だと、豚肉加工業界が打撃を受けるかもしれないという風評被害回避の措置なんでしょうが、「新型インフルエンザ」だとこのウイルスの発生の理由が鳥だか豚だかはたまた何だか、わからんくなってしまうでしょうに。日本の政府の対応を見ていると(最近、わたし、このMacの上で日本の地上波テレビがオン・タイムで見られる無料ソフト=MacKeyHoleを入手しまして、きゅうに日本のテレビ事情に精通しております)、豚肉関連業界保護の姿勢がわざとらしいくらいに強調されていて、ちょっとなんだかなあって感じがします。もちろんその背後にはアメリカやメキシコ、カナダからの輸入豚肉の圧力、つまりはアメリカ農務省からの要請や票田としての豚肉農家の思惑もあるんですが、こちらアメリカではまだそんな言い換えはしていません。Swine Flu は Swine Flu です。これってまた字面だけでごまかそうとする言葉狩りなんでしょうか。まったく、悪しき対応だと思います。

もう一点、日本の報道、とくにテレビは、一方で「正確な情報を」「落ち着いた対応を」と呼びかけてはいるくせに、その一方で豚フルーのニュースにおどろおどろしい効果音やら音楽ジングルをかぶせる。しかも例によって声優気取りのナレーションがまたまた低音恐怖フォントみたいなイントネーション。それはあまりにひどいんじゃないでしょうか? これは報道ですか? それともホラーですか? 視聴者を脅してどうするんでしょう。これをやめるだけでもずいぶんと「落ち着いた対応」が可能になるのではないでしょうか?

だって、まだ豚フルーの死者どころか感染者すら確認されていないのでしょう? 例の横浜の高校生にしたって、30日時点の簡易検査では陰性なのですし。なのにもう、アメリカよりもすごい騒ぎぶりです。アメリカの死者だって、じつは亡くなった男児は豚フルーの発症前から基礎疾患として免疫的な問題を持っていた子だったようです。

いや、この豚フルーが大した問題ではないと言っているのではありません。これは2つの意味で大変な問題です。それは後述しますが、ただ、大した問題ではあるが、同時にこういうのはパニックになってもどうにもならないんですね。どうしようもない。人ごみを避けるって言ったって、避けられない時だってあるでしょう。パンデミック、世界的蔓延の恐れ、と言ったって、これはあのエイズの場合と一緒で、いたずらに恐れて感染者の魔女狩りみたいなことになってもひどいでしょ? 現に、舛添厚生大臣が「横浜の高校生に感染の疑い」と、なんだか「情報の早期発表」なのか「フライング」なのかまたわからんような記者会見を行ったんで、ちょっと休んでる横浜の高校生みんな、あしたから大変ですよね。って、あ、ちょうど週末かつ黄金週間か。

そんなこと言ってもとにかくわかった段階で教えろ、というのは当然です。しかし、ああいう深夜1時半の、ドタバタした発表の仕方しかないもんでしょうか? もっとゆったりした顔で、ふつうに話せなかったものか? まあ、役者じゃなかったということですが、これは困ったもんだなあ。

この点を、産經新聞の宮田さんが的確に指摘していました。

http://sankei.jp.msn.com/life/body/090430/bdy0904300103001-n1.htm

「水際作戦とは感染した人の排除ではなく、可能な限り早い段階で治療を提供するためのものである」というのは、じつに重要な指摘だと思います。宮田さんは日本で最初期からエイズ問題を取材しつづけているベテランジャーナリストです。

ところで、冒頭部分で「アメリカやメキシコ、カナダからの輸入豚肉」と書きました。お気づきの方もいるでしょうが、この3国は、NAFTA(北米自由貿易協定)の3国です。昨日の「デモクラシー・ナウ」では、この豚インフルエンザを「NAFTAインフルエンザ」なのだとするこれまた重要な批判が掲載されています。

http://www.democracynow.org/2009/4/29/the_nafta_flu

つまり、豚フルーの背景には家畜産業革命と呼ぶべきものがあるというのです。第二次大戦前は米国でも家禽や豚というのは全米的に裏庭で育てられていたわけで、鶏の群れ(flock)というのは70羽単位で数えられていた。それが大戦後にはHolly Farms, Tyson, Perdueといった大手家禽精肉加工企業によって統合され、ここで家禽や養豚の産業構造は大きく変わることになり、いまは米国内の養鶏、養豚業は南東部の数州に限られるようになった。しかもそれらは大規模畜養で、70羽とじゃなくて3万羽とかの単位です。

このビジネスモデルは世界に広がり、1970年代には東アジアに拡大して、たとえばタイではCP Groupという世界第4位の家禽精肉加工企業が出来、その会社が今度は80年に中国が市場を開放した後に中国での家畜革命を起こすわけです。

そうやって、世界中に「家禽の大都市」「豚の大都市」が出来上がっていった。もちろんこれにはIMFとか世銀とかあるいは政府とかの財政的後押しもあって、借金まみれだった各国国内の弱小酪農家がどんどんと外部の、外国の農業ビジネス大企業に飲み込まれていくわけです。

そして1993年からのNAFTAがある。これがメキシコでの養鶏・養豚業に大きな影響を与えるわけです。結果、そこの支配したのは米国のSmithfield Foodsという企業の現地法人でした。ベラクルス州ラグロリアという小村にあるこの会社の大規模かつ劣悪な養豚環境が、今回のH1N1ウイルスの発生源とされているのです。そりゃそうですわね、なんらの規制も監視システムも設けないでそういう大型酪農工場を貧困国にどんどん設置していけば、何らかの疾病が起きたときにそれは人口過密の大都市で起きたのと同じく大量の二次感染、三次感染へと連鎖して、ウイルスの変異がどんどん進む。そのうちに鳥や人間のインフルエンザ・ウイルスとも混じり合って、やがて人間世界へ侵出してくるのは当然のことと思われます。

先に「2つの意味で大変な問題」と書いたのは、1つは今後の感染拡大の問題ですが、2つ目はこの、産業構造としての食品工業のことです。

つまり、まとめれば次のようなことです。

1)豚インフルエンザに騒いでもあわててもしょうがありません。感染する時は感染する。
2)感染したら早めに治療するだけの話です。
3)感染したからと言って回りがパニックになっても何の意味もありません。
4)元凶は、私たち人間の食を支える農業ビジネスの歪さかもしれませんね。
5)いずれにしても、ニュースにホラー映画まがいのナレーションや音楽や効果音をかぶせるのはもういい加減やめにしたほうがいいです。
6)日本政府も、水際作戦とやらの全力投球はいいけれど、後先考えずこんなんでずっと保つんですか? 疲れてしまってへたったときにふいっと感染爆発って起きるもんなんですよ。長期戦なりの作戦展開をして対応すべきでしょうに。


お時間があれば次のビデオクリップを見てください。
まあね、このクリップにも効果音楽が被されていますけどね。

上のは「Food Inc.」という映画の、下のは「Home」というドキュメンタリー映画の予告編です。


April 21, 2009

東京地検特捜部の衰退

あれはいったい何だったんでしょう?

小沢の公設第一秘書の起訴から1カ月が経とうとしています。で、なにも起こらない。二階の逮捕もどこに行っちゃったんだ?

当初、だれもが「特捜部は最終的にはトンネル献金による斡旋利得処罰法での立件を目指している。そうじゃなければやらない」と思っていました。でもそんな気配はありません。東京地検特捜部というのは、私の取材していたころとは様変わりして虎の威を借るなんとかに成り下がったのでしょうか? ほんとに政治資金規正法での起訴だけなのか? うそでしょ? ほんとだとしたら、なんでそんなバカみたいな先走りを見せちゃったわけですか? 泣く子も黙る東京地検特捜部までがいま悪しき官僚制度の頭でっかちな世間知らずのボンボンで占められちゃってるのかしら? 

当初、政治資金規正法違反という逮捕容疑が起訴の時点でも同じ罪状ならそれは検察の敗北だ、といろんな政治評論家がかまびすしく語っていました。そこにはもちろん「次は斡旋収賄で小沢本人だ」という“読み”があったからで、それこそがこれまでの特捜部のやり方だったからです。それがこの尻すぼみ……。

にもかかわらず、いま現在も小沢に自ら辞任決断をと迫る論調が続いています。その理由の最大のものは、「記者会見での小沢代表の説明では納得できないという世論が圧倒的だ」、というものです。

でもこれはおかしい。ちょっと考えてみると、この間の国民の小沢への疑問は、新聞やテレビで垂れ流された数多くの検察リーク情報を基にしています。たとえば東北で接待的な権力を誇るとされる小沢陣営の公共事業口利き「天の声」っていう話、陸山会のおかしな不動産取得のこと、西松建設への献金方法を具体的に指南したのは小沢の秘書だという話、小沢に献金しなければ村八分に合うという業者の話……等々。これらはすべて検察が立件を捨てたゴミ情報ですよ。しかし今回は検察回りの記者たちがさんざん書き散らした。とくにNHKと朝日がひどかったですね。NHKも朝日も、いやしかしどうでもいい話をよくもまあ。秘書が容疑を認めたって話は、どこに行ったんでしょう? そうやって世論の小沢イメージは形成されていったのです。

新聞記者仲間ではこういうのを「書き得」と呼びます。検察回り、警察回り、国税回り、そういう摘発関連の記者たちは夜ごと捜査当局を回っていろんな話を聞いてきます。で、立件できるほど証拠もないし筋が悪いさまざまな情報が日々、どんどんたまっていく。苦労して時間を使って集めたのに書けないわけですね。そういうのを、関連の摘発があるとどさくさにまぎれてここぞとばかりに吐き出すのです。まあ、つなぎの紙面を埋めるための記事も必要ですし、デスクは朝刊、夕刊、テレビの場合は朝のニュース昼のニュース、夜のニュースでなにかないか、面白い話はないかってうるさくせっつくわけですから、それにも応えられてちょうどいいわけです。つまり、報われなかった夜討ち朝駆けの苦労もこの吐き出しでカタルシスを迎えられるのです。

今回は、そういうゴミ情報を基に国民はなんだかわからない「疑惑」の印象を小沢に抱くようになった。というか、もしこれが国策捜査ならば、まさに自民党の思うつぼです。べつに小沢が逮捕されなくたっていい。似たような状況がメディアスクラムで作られてしまっている。

さて、問題はそこです。「会見での小沢説明では納得できない」という世論が圧倒的。これ、そもそも納得できるはずがないのです。なぜなら、小沢は、秘書の政治献金規正法の罪状だけではなく、じつはそれ以外に有象無象に垂れ流されたゴミ情報にまみれてしまっているの。そんなもの、いくら時間があっても説明なんかできるもんじゃない。あるいは説明する、釈明する義理だってないわけです。だって、立件されてない、裏のない話なんですから。おまけに秘書の罪状はトンネル献金だけです。その罪状さえ否認しているので、小沢としても公的には釈明のしようがない。せいぜい「世間を騒がせて申し訳ない」ということでしかない。それ以上謝ったら秘書の公判にまで影響が出てしまうからです。

これが「小沢の説明は納得いかない」のメカニズムです。「疑惑」を釈明すれば疑惑の存在を認めることにもなるから触れることもできない。だからどうしたって説明不足の印象だけが残る。そういう結論。一流の識者までがそのメカニズムを理解せずに「説明責任を果たしていない」と批判するのは的外れです。異様に企業献金が多い、というのだって、そういうシステムの中での集金マシンとしてのボス政治家像の好悪の問題です。企業献金が違法となっていない現行の司法制度の中では、それが多すぎるとしても罷免に値するものではないでしょう。

いや、私は、小沢に「辞めるな」と言っているわけではありません。
むしろ辞めた方が現状では政権交代に近いかもしれない。
しかし、これで辞めたら、何かが違うと思っているのです。

そうして小沢・民主党人気は沈没したままです。小沢沈没と同時に麻生内閣の支持率がまんまと回復しています。タイミングもよいことに日本では定額給付金の支給手続きも始まりました。高速道路の値引きもそうですが、選挙を前にしてこういうのは票をカネで買っているのとどう違うのか? もちろんそのカネはじつは自分のカネが戻っているだけというごまかしなのですが、政権政党とはこういう“不正”もレトリックという名のトリックでやり遂げられるのです。

だから私のこの文章は、敢えて小沢に甘いバイアスをかけて書いてます。私だって小沢には聞きたいことがたくさんあるし、政治家としてそういった、たとえ裏のない疑惑にでも答える責任はあると思いますよ。しかしそれ以上に、今回は麻生政権の問題と疑惑のほうが重篤だと思うからです。たとえばこう考えてみてください。政治資金規正法犯罪という形式犯罪で、小沢の秘書が通常のように(逮捕されずに)在宅で起訴されていたら、検察担当メディアがやいのやいの書き散らしたゴミ情報は出てこなかった。そうしたら麻生政権はいままで保っていたかどうか? 今回の秘書逮捕と起訴と、その間のメディアへの検察リークはまさに世論操作です。その証拠が麻生政権の支持率回復ですもの。そう、小沢が辞めたら、それは世論操作によって辞めることになる、という異和感です。

まあ、そんなこといまさら言ってもしょうがないのはしょうがない。世間は小沢にそういう印象を持つようにしむけられてしまったんだから。

ただね、そんなバイアスもなにもなく、客観的に見て麻生の残す日本の未来は大変だと思います。だって、この分じゃあ政権交代しても、民主党に残されているのは莫大な借金の後始末だけだっていうのは、私にはまぎれもない客観的事実だと思われるのですよ。

高速道路の値下げだって民主党が言ったときにゃそんなものは将来に禍根を残す天下の愚策だと切り捨てたのに、自分たちがそのアイディアをパクったときにはこれで消費行動に結びつくですもんね。金をばらまくだけばらまいて、さて、選挙がそろそろうごめき出しているようです。

まったくね、ものすごい権力闘争が、こうやって「あれはなんだったんでしょうね」ということになっちゃったんですね。

April 06, 2009

我慢のチキンレース

そりゃあミサイルが降ってくるとなれば誰だって慌てます。しかしもしそうだとしたら、そのときに為政者が準備すべきは、1つは落下あるいは攻撃地点の被害の予防と事後の救助、そしていま1つはミサイルを射った国との戦争です。

ところが日本政府はどうもその1つも真剣には準備していないようでした。迎撃用ミサイルは配備しましたが、「当たるわけない」と発言する高官までいてどこまで本気だったのか。というかそもそもこれが日本を狙っての「ミサイル」だったとはだれも信じてなかったんでしょう。つまり、この件はどこまで大変なことだったのか? 本当はそう大したことではなかったんじゃないのか?

日本のメディアはものすごい騒ぎでした。おまけに政府は発射の誤認と誤報騒ぎを2度まで起こして、私なんぞはこれでアジア各国に「日本はこれほどに平和国家。あなたの国を侵略する意図なんぞ微塵もありません」と宣伝する最高の材料だったと、いや冗談ではなく真面目にそう思いました。これこそが軍事に走る北朝鮮や中国に対する見事なアンチテーゼだと開き直ることです。

ところで北朝鮮という国の行動パタンはいつも決まっています。数年に1度、軍事的脅威で挑発して、国際社会がその暴走を止めようとさまざまな懐柔の餌を投げ与えてくるのを画策する。

今回のミサイルも、そもそも94年に問題となった核弾頭の原料となり得るプルトニウム生成の黒鉛減速炉から引き続くものです。このときのクリントン政権は北朝鮮の爆撃も検討しましたが、結局は特使のカーター元大統領が当時の金日成と会って代替の軽水炉を無償で建設してやるということになったのです。

とはいえ、それも何度もウラン濃縮計画を口にしたり黒鉛減速炉を再開したり、果ては国際原子力機関を脱退したり次には核拡散防止条約から脱退したり核兵器保有宣言をしたりで、軽水炉事業はついに05年11月に中止になりました。で、06年には核実験の強行です。

この一連の動きの中に今回のミサイル、というかロケットですわね、その発射があった。これは人工衛星だろうがなかろうが、テポドンの精度と射程が改善したことを国際的に見せびらかすためのものでした。おまけに北朝鮮は9日に最高人民会議、15日に故金日成の誕生日、25日には朝鮮人民軍の創設記念日を迎えます。これらを前に、金正日の健康不安で国内的な示威も必要でした。

つまり、今回のロケットでは北朝鮮としても切り離しの1段目ブースターなどを下手に日本本土に落とすわけには絶対にいかなかったのです。そんなことになったら本来の挑発・かく乱の意味がぶっ飛んでマジで大変なことになってしまいますから。日本政府中枢だってそのくらいは読んでいたでしょう。

ですので問題は今回ではない。次なのです。北朝鮮はしばらくは国内イベントで忙しいが、その後にどう動いてくるか? 弾道ミサイルの開発は今後、たしかに急速に進むでしょうから。

日本では早くも自民党の政治家から「北が核ミサイルなら日本も核武装すべき」という声が出ています。オバマが核軍縮に向けて米国の具体的な行動を宣言している時に日本が核兵器を持って何をしようというのか? 核兵器を持つこと、保管することは実際には技術的にとても難しいので、そんな一朝一夕に配備できるなんてことはまったくありませんからこれはブラフあるいは無知な発言なんですけれど、しかしそれにしてもそういう心情を吐露できてしまう野卑な政治状況というのはますます深化するかもしれません。

冒頭にも書きましたが、しかし政治家がまずは準備すべき被害の予防の最大のものとは、まさにそんな戦争をしたたかに事前回避することなんですね。そして上記のような短絡的な政治家の勇ましさは往々にそこに生きるわたしたち無辜の命を忘れがちなのです。それは北朝鮮政府と同じくらい始末が悪い。

で、戦争を回避するにはどうすべきか?
それはいまのところ、挑発には絶対に乗らない、ということしかないんだと思います。相手のチキンレースを受ける必要はまったくありません。メディアも、視聴率狙いでけたたましい番組や記事は作らんことです。もっとおとなになりましょうよ。だってこれは国家の安全保障にかかわることですもの。命がかかってる。ぎゃーぎゃー騒ぐやつは一番先に撃たれるんです。

表向きは騒がず、ときには無視もする。そして水面下で米韓と協調して探り合いを続ける。

でもね、最終的には北の体制を変えることしかないんだろうなあとは、みんなわかってるんだと思います。さてそれを、どうやるかですわ。知られないようにね。

March 17, 2009

死んでゆく新聞

NYタイムズの本社ビルの一部が売りに出されたり、有名なサンフランシスコ・クロニクル紙が廃刊しそうだとかある新聞は全部オンラインに移行するだとか、「旧メディア」としての新聞の危機が叫ばれています。とはいえ、心配しているのはわたしたち新聞に関わっている者たちだけかもしれません。42%のアメリカ人は自分の住む町からそこの地方紙がなくなっても困らないと答えたことが最近の世論調査で明らかになりました。

べつにアメリカに限った話ではありません。日本でも新聞離れが言われて久しいし、じっさい、若者たちはニュースのほとんどを無料のオンライン新聞で得ています。あるいはニュースそのものをどこからも得ていないのかもしれませんが。

先月、創刊150周年を目前にしたコロラド州デンバーのロッキーマウンテン・ニューズ紙が廃刊に追い込まれました。最終発行日のその日、同紙のウェブサイトには「ファイナル・エディション(最終号)」と称して同社編集部の様子や記者・従業員へのインタビューが動画で掲載されました。

20分ほどのそのビデオで、ある記者が悲しそうな顔で訴えていました。

「新聞がなくなったらこれから誰が質問するんだ? ブロガーは質問なんかしないよ。それでいいのか?」

新聞はこれまで、莫大な金と時間を投資して有意の若者たちを訓練し一丁前のジャーナリストに育て上げてきました。時の権力のさまざまな形に「質問」の力で対峙できるように訓練してきたのです。新聞はしばしば「ペン」に喩えられますが、ペンよりも以前に権力の不正や怠慢や欺瞞を見逃さずに質問し調べ上げる「取材」の力によって支えられていたのです。もちろんその途中で権力にすり寄ったり自分を権力と同一化して弱い者いじめに加担するエセ・ジャーナリストも数多く生まれましたが、勘違いするやつが生まれるのはどの業界でもまあだいたい同じようなもんでしょう。

とにかくいまインターネット上にはそうして得られた情報が無料で開示されています。そうしてそれらを基に、多くの第2次、第3次情報が取材調査もしない手先の情報処理だけでえんえんと生み出されている。

そこには「ペン」だけがあって、その事実を支える種々の努力が欠如しがちです。そうすると何が起こるか? 「ペンは剣よりも強し」ではなく、ペンは剣と同じくひとを傷つける怖いものにも成り果てる。それは「2ちゃんねる」などの中の一部掲示板で繰り広げられる「あらし」や「まつり」にも如実に表れています。先日の日テレの「バンキシャ」虚偽証言タレナガシ岐阜県庁裏金作り報道も、結局はネット情報だけでやっちゃった結果なんでしょう?

だれが事実を検証するのか? だれが権力に対峙できるだけの知識と手法とを駆使して真実を知らせるのか? それはよほどの「ブロガー」でなければできないでしょう。もちろんそれは、よほどのジャーナリストでなければできないことでもありますが、「よほどのブロガー」はそんな「よほどのジャーナリスト」たちの第1次情報をネタ元の1つにしているのも確かなのです。

新聞を殺してもよいのか? そんな問いはしかし無効です。新聞はいずれ死にます。さらに、新聞が何ほどのもんだという批判もあるでしょう。しかし社会構造として新聞社が組織的に担っていた対抗権力の大量生産能力には小さからぬ意義があったと思うのです。

そうやって新聞が行ってきたジャーナリストの製造、つまり「質問」と「調査」の新しい担い手を、わたしたちの社会は早急に見つけ出さねば、あるいは育て上げねばならないのだと思います。

無理かもしれませんけどね。

March 07, 2009

類似性

ちょいと酔っぱらって頭が働いた。
小沢のことを言うわけではないんですが。

辻元清美の話。
あれは秘書給与流用詐欺と言われた事件で、そういうのは、みんなじつは便法としてどの国会議員もやっていた。その仕組みを、辻元は歴代の政界の手法として教わってそのままそういうもんだと思って自分の秘書の給料を回していたのですね。それが、いつかなんとなく違法だとなって、いや違法だというのは違法だったんだが、違法でかつ摘発される、ということになって、それで逮捕された。 それまでは違法だがしかし、摘発=強制捜査には至らなかったのです。

あのね、司法というのは、取り締まりだけではなく、という以上に、取り締まる以前に犯罪の予防を行えばそれが最善なわけですわ。なぜなら、訴追費用はもっと節約できるし、なにより、犯罪を事前に回避できればそれはとても倫理的な予防行為になるから。それが慣例的に行われていて明確な犯意というものがなかったらなおさらです。たとえばそれは田舎の農家での未成年の無免許運転とか、ある地域でのどぶろく造りとか、と同じようなもん。その地域の特殊性。この辻元の場合は政界という伏魔殿の特殊性。

そこにも手が入るんだぞ、なぜならこれが近代国家だからだ、と強制捜査踏み切りの基準を変えたことをまずは宣言、とまではいかずともなんとなく周知させねば、なんでいままで造ってたどぶろくが急に重大犯罪扱いになって摘発されるのか、戸惑うだろう。「容疑は容疑だ」と言われればまさにそのとおりではあるにもかかわらず。

そうすることなく掌を返して引っ掛けるのはワナですわ。ワナとは、明確な恣意性の認識の下で、特定の標的を狙って仕掛けるものです。

これが、何より今回の東京地検特捜部のおかしなところ。森喜朗とか二階とか(二階は小沢のかつての腹心だった=同じ手法を知っていた)、そういうところを捕まえたり捕まえなかったりの恣意性は、ワナであるという、ここに起因するわけです。

だから何が言いたいのかというと、辻元の逮捕と、今回の小沢秘書の逮捕は、とてもよく似ているってことです。まあ、もっと奥があるのか、つまり受託収賄にまで発展するのかわからんが、これまでのところ、小沢の反応を見ていると「おいおい、それはないだろう」という部分が大ですもんね。

民主党が政権を取ると、自民党だけでなく、官僚組織も面倒なことになるのは確かで、そのあたりの魑魅魍魎も今回の小沢陣営強制捜査の裏でうごめいているのかもしれませんな。

March 06, 2009

なるほど麻生が粘ったわけだ

わたしはべつに民主党の支持者でも小沢の信奉者でもありません。ただ、自民党からの政権交代が逐次行われるような政治体制でないとダメだとかねてから思っていて、そのために多少の瑕疵には目をつぶっても民主党の政権を作ることのメリットのほうが大きいと思っています(あの、なんで民主党にいるのかわからない、自民党のスパイみたいな薄ら笑い前原は好きになれんが)。

いわゆる自民党的なるものというのは、すでに賞味期限を過ぎて、日本の政治には新しい流れであるとか新しいパラダイムというのが差し挟まれなければどうにも機能不全なのだという思いが強いです。それこそがとにかく日本という国家のためであるという信念は揺るぎません。しかし、自民党はそうじゃないらしい。自分たちが政権に固執していることこそが日本のためという振りをして、それはしょせん自分たちの保身のためでしかないことは明らかです。なぜなら、彼らのいうのはいつも「このままでは選挙を戦えない」であり、「このままでは日本はダメになる」という発想ではいちどもないからです。

麻生が二進も三進も行かなくなって、解散も内閣改造も、そして選挙すらもできない、という状況であるのは確かなのですが、しかしこのところの政権へのしがみつき具合はいったい何なのか、と疑問に思っていました。予算、補正、給付金、二次補正と、とにかく隙を与えずに次の飛び石に向けて邁進する。先の見えないこのガムシャラぶりはいつか破綻すると決まっていたのですが、なるほどそれもこれもすべて、この東京地検特捜部の動きと連動していたわけです。

しかし東京地検特捜部も、今回はえげつないことをしたものです。
特捜部の捜査というのはいつもかならず政治的なものです。「巨悪を眠らせない」といったあの時代も、じつは巨悪だけでなく小悪も中悪も、いろいろと目配りして手や口を突っ込んでいて、それは国民の雰囲気を読みながら刑法を背景にしたもうひとつの政府だったのです。しかし、これまではつねに「選挙」には細心の注意を払って、そこへ腕を突っ込むような、刑法によるあからさまな政治的介入だけは避けてきたはずです。むかし、私が新聞記者だった時は、選挙があるときは警察・検察は敢えて動かない、と教えられたものなのに。すべては選挙のあとだ、と。なのに、今回は選挙の前にこれをやった。

確かに一部が今月末で時効となる事案だったかもしれません。しかし、そうであったとしても「この種の捜査で逮捕者を出したことなどない」と言う小沢の指摘は正しいものです。なのにこれをやった。そういえば、司法が自民党の保身に加担するようになったこの傾向は、あの辻元清美が(政治家ならだれでもやっていた、そして辻元はまだやっていた、というのに過ぎなかった)秘書給与流用で警視庁捜査2課に逮捕されたころからでしょうか。「あくまでも容疑があれば捜査をするだけ」という建前が建前であることは司法というものを少しだけでも知っている者ならだれでも知っています。それが社会的にどういう意味を持つか、それが国民のどれだけの支持を得るか、その捜査がどれだけ勧善懲悪の顔をしているか、そのへんをいろいろと計算して強制捜査に入るのです。

そうやって眺めると、東京地検特捜部を指揮するいまの法務大臣は麻生派の森英介です。
こいつ、こないだ東京に帰った時の鮨屋でたまたま同じカウンターに座ったんだが、魚は養殖がいいとか、何を言ってるんだかわからんことを披瀝して、聞いていてこちらが恥ずかしくなってしまった。一応相手が権力者だから言うけど、この男は、バカである。
さて、とにかくもそういうわけで麻生は西松捜査が小沢に向かうことを知っていたわけで、とにかくそこまで生き延びれば起死回生の一手となる、とふんだわけなのです。それまではとにかく国会審議と外遊(アメリカに次いで、すぐに中国です)を連発してつないでいく。なるほど、権力というのはかくもえげつなく恐ろしい。それを知ると情けなくもしかたないが。

小沢への強制捜査はあるのでしょうか?
しかし、こうやって新聞社を離れて見ると、新聞報道もかなりいい加減です。検察リークを基にしてしか書いてない。以前からそういうもんではあったのですが、司法からのリークは裏を取る必要なく記事になるので、なるほどこれも政権への補強と傾くのは当然なんですね。
いやはや、これで小沢の首を取れなかったら、検察当局は次は首相になった小沢から大粛清を食らうでしょう。なぜってリーク情報で言えばこれは明らかに大規模な受託贈収賄事件なんですからね。
双方、命がけの攻防です。

面白いと言えば面白いが、その間にも日本はどんどんと腐ってゆくんだなあ。
疑惑が本当なら、小沢も二重に罪なことをしたことになります。
そうじゃなきゃ、麻生・自民党こそが諸悪の根源ということです。

November 27, 2008

ウニタの遠藤さん、死去

ウニタ書舗の元店主遠藤忠夫さんの訃報があった。

エリカっていう神田の薄暗い喫茶店で、よく話を聞いたなあ。
あの店、まだあるのかしら。

20年前の当時のぼくは警視庁の公安担当で、遠藤さんには取材で会う必要があったのだけれど、この歴戦の目撃者は妙にひょうひょうとしていてタバコなんぞをくゆらしながら新左翼の連中を温かく批判していた。当時は彼がゆいいつ重信房子なんかの日本赤軍とのパイプ役で、「こないだ重信に会いに行ってきたんだけど」と彼の語るベカー高原だとかゴラン高原だとかは、いまよりもはるかに少ない情報の中で妄想に近い地形となってぼくの頭の中で黄土色の風を吹かせていた。

そういえば彼は北朝鮮の赤軍の連中ともパイプを持っていた。あの大韓航空機爆破事件の蜂谷真由美こと金賢姫の一件でもずいぶんと裏の話を聞いた。あのころの公安は丸岡の逮捕とか泉水の逮捕とか、中核の圧力釜爆弾とか革労協のロケット弾とかスパイ事件もあって、なんでとつぜん思い出したように忙しかったんだろう。 そういえばあれが昭和の終わりだったんだ。

新聞記者のいいところは、新聞記者であるってことだけで業務と関係なくともいろんな人の話を聞けたことだった。記事にならない百万のエピソード。むしろそのほうが大切だったような気がする。

そういう意味では会社勤めのジャーナリストというのはかなり恵まれている。書かないときでも給料をもらえるんだから。わたしもその恩恵をずいぶんと受けてきた。いまでもそれが貯金だし。減らないし。ただ、アップデートは難しいかな。

遠藤さん、享年83歳。
そうか、あのころ遠藤さん、62、3だったんだ。
合掌。

November 22, 2008

おだつ政治家

バラク・オバマの希望と展望と緊張感に溢れた演説に慣れてしまったせいか、日本の首相である麻生太郎の話し振りを聞いているとなんだかグッタリします。「(医者は)社会的常識がかなり欠落している人が多い。とにかくものすごく価値観が違う」という例の発言をあげつらっているわけじゃないんですがね。

「ものすごく価値観が違う」のは(敢えてカテゴライズすれば)医者に限らず高級レストラン通いの麻生さんを筆頭に政治家も似たり寄ったりで、過去、何人かの政治家にインタビューした際もときに開いた口が塞がらなかったことがありましたし、よく言うわ、という感じ。

それよりこないだのワシントンでのG20金融サミットの麻生の記者会見。

英語の話せる日本の政治家というのは、英語になると日本語よりも上機嫌で受け答えする傾向があるようで、私の知るかぎり例外は故・宮澤喜一だけ。宮沢喜一は英語になると逆により慎重かつ的確に受け答えして浮ついたところがなかった。でもこないだの麻生さん、外国人記者の質問にはニコニコと妙にうれしそうで、しかも「通訳が精確に伝えてくれるといいんですが」と、それが気の利いたコメントかのように2回も付け加えた。2回目はなんだかへんな英語も添えて(distort という結構な単語と、okay? というくだけた口語とがなんともチグハグでね)。ダシに使われたプロの通訳さんもお気の毒というかなんというか。

麻生は景気対策第1と言いながら第2次補正予算を出さないとか、解散先送りで延命ばかりだとか、まあ、そういう難しい話はさておき、私にはどうもこの人の性格がよくわからんのですわ。北海道弁で「おだつ」という方言(動詞)があるんですが、麻生太郎を見てるといつも「何ひとりでおだってるんだろう」と思ってしまうんです。

「おだつ」とは「調子に乗る」とか「はしゃぐ」とか、特に子供が大人のウケをねらって必要以上に目立とうとふざける、みたいな意味です。

68歳の政治家を捕まえて「子供みたい」というのもナンだけど、この人、ほんとにおだった言動が目立つ。秋葉原でオタク相手におだてるのは人気取りが宿命の政治家のパフォーマンスとしても、首相ぶら下がり取材の報道陣へのコメントでやたら新聞記者を皮肉ったり挑発したりするのも大人げない。べらんめえ調っぽい言葉遣いだってなんだか下品な方に流れるし、演説はやたらドスが利いてるがさっぱり高邁さが窺えない。ほんとうにいわれてるような上流階級の出とは思えない。ってか、上流階級ってったってみんな明治維新からの政治成金だしなあ。オダツのも宜なるかな。

あの総額2兆円の定額給付金構想にしても私には竹下内閣時の全国市区町村1億円ばらまきふるさと創世資金みたいな愚策に思えて仕方ないんです。これだってどうも熟慮というよりおだった結果の思いつきなんじゃないのか。ホント、自民党はいつからこんな子供じみた政党に成り果てたのか。民主党は、あれ、反対すべきです。

あ〜あ、と思ってテレビをつけたら、TVジャパンでやっている数カ月遅れの「笑点」では、アンジャッシュっていうなんだか知らん若手のコントのコンビが、「わたしカツラなのだしかもゲイよ」だなんてバカみたいなネタで5分間もいたずらに持ち時間をもたしてます。カツラの人間をからかって面白がるのは小学生くらいでしょう。そんでいまもまだ「ゲイ」ネタです。「若手」であることに、なんの意味があるのか。若手というのは、時代の新しさを背景にしているはずではないのか。なのにこれじゃただのバカじゃないですか。

この首相にしてこのコントあり。
日本はいったい何をしてるんだろー。

November 05, 2008

オバマ勝利と日本の外交

オバマの勝利演説を聴きながら、選挙ウォッチパーティーを開いていた友人たちが静かに涙を流していました。ボストン大学で先生をやっているやつが私の横に来て「この国もまだ捨てたもんじゃないだろう」と言います。それにうなずきながら、こういう演説のできる大統領を持つアメリカを少しうらやましく思いました。日本にはこんな政治家はいないなあ。小泉は私語がうまかっただけで、演説はうまくはなかったし。

アメリカというのはこうして4年に1度、やり直しのチャンスというか、ダイナミズムの更新というか、そんなモメンタムを作るわけですね。政体自体がそっくり入れ替わるんですから、そりゃすごいもんです。ただ米民主党政権というのは歴代どうも「日本に冷たく中国を重視する」傾向にあると言われてまして、それを心配する向きもあります。しかし考えてみてください。共和党ブッシュの8年間だって小泉政権の時は9・11の余波のゴタゴタの中でなんだかうまく行っていた、ように見えただけで現在は結局、対北朝鮮宥和政策への転換で面目丸つぶれです。米国が日本のご機嫌を見ながら外交政策を変えたことなどいちどもありません。米国はあくまで時刻の国益でしか動きません。そのアメリカの国益を、日本はさっぱり誘導できてこなかったのです。外交官たちの説得下手というか、ディベイト下手というか、しかしこれはよくよく考えれば元は日本の自民党政権の問題なのだと思います。

日本の外務省ももちろん現在、ワシントンを中心に次期政権のブレインになると目される人たちに盛んに接触中です。オバマの対日ブレインには東アジア専門家のジェフリー・ベイダーや日本の防衛研究所にいたマイケル・シファー、日本生活も長くボーイング・ジャパン社長だったロバート・オアーらがそろっています。経済分野ではブルッキングズ研究所にいたジェイソン・ファーマンなんかもいます。さらにはオバマのこと、超党派で共和党もブレインも入ってくるかもしれません。

しかし日本側の政権がこうもコロコロ変わるせいで米側には彼ら外務官僚たちの背後に控えているはずの政治家たちがよく見えない(もっとも、見えたところでロクでもないやツラばかりですが)。そんなことで外交官だけを相手にまともに話し合おうと思うか? ふつう、思いませんわね。それも、こういうのってものすごく個人的な力量ってのが必要で、パーティーに行ってうまく話せるか、演技できるか、っていうような人間性にも関わる才能が必要なんですね。そういうの、できない役人が多すぎる(役人だけじゃなく日本人全般がそうなんですが)。その間に日米関係はそうして私的な斟酌や腹芸の取り入るスキなく、どんどん建前の議論で(これをやらせたらああ言えばこう言うのアメリカ人にかなう者はきっといません)米国主導で押し切られることになるのが常なのです。


新政権はまずは米国内の経済危機に取り組むでしょうが、その一方でイラク戦争撤兵からアフガン戦争増派へのシフト、テロ対策などは公約のタイムテーブルどおりに進めなくてはなりません。

この場合、外交とは米国にとっては安全保障の問題にほかならないのです。それは日本にとっては思いやり予算などを含む従来の基地問題やアフガン戦争支援のインド洋給油問題です。これらはたとえオバマ政権になったとしてもなんら変更を認めないでしょう。さっきも書いたようにアメリカはアメリカのことしか考えていませんから、あるいはこの財政危機でさらなる物的・人的支援だって要求してくるでしょう。オバマはブッシュ政権の一国行動主義からの転換を謳って「国際協調」という名の責任分担を図るでしょうから。

そんな中で、日本の対米外交はどう対応すればよいのでしょう。米国に押し切られるばかりなのでしょうか?

ここに来て、どうして日本がいつも米国の言いなりにならざるを得ないのかわかってきます。それは日米同盟、日米安全保障という政治的取り決めが、日本国憲法を上書きしているという倒錯のせいなのです。

日本は、日本の平和憲法を対欧米外交の切り札として使ったことがありません。海外への自衛隊派遣の困難の「言い訳」「言い逃れ」として使ったことは何度もありますが、外交の「背骨」として使ったことは一度もない。憲法のことになると遠慮がちに口ごもる、そんな外交なのです。で、安全保障に関してはその都度の対症療法で逃れてきたわけですよ。

こんなんでまともな外交ができるわけがありません。これは自民党が平和憲法をなおざりにしてきたそのツケが貯まったものです。そんなヘドロの中で泳がねばならない外務官僚にはお気の毒と言うしかありません。

この倒錯を解消する道は2つあります。平和憲法を正々堂々と盾にして、環境対策と復興支援を安全保障の中心に据える新機軸を構築・宣言すること。それは20世紀的ではないので旧態依然の国際政治においてとても受けは悪いでしょうが、可能なのです。倒錯解消のもう1つの道は、平和憲法そのものをやめちゃうことです。こっちの方が簡単だが、その以後がかえって大変で、簡単そうに見えてじつはこれは不可能なのです。

それともまだのらりくらりで乗り越えようとするのでしょうか。
まったく、自民党政治までが役所仕事のようになっているんですね。

米国はオバマに変革の希望を託しました。
日本の政治変革はいつ起きるのでしょう。
で、総選挙、どこに行っちゃったんでしょうか?

October 23, 2008

ホテルのバー

東京新聞の一面コラムの筆洗に、麻生のホテルのバー通いとか高額フレンチ通いだとかを揶揄してつぎのようなテキストが載りました。21日付ですか。


 寒さに震える日がいつの間にか増えてきた。お酒が好きな人なら、熱燗(あつかん)一本となるのだろう。江戸川柳には<二日酔飲んだ所を考える>とある。昔も今も飲み過ぎには要注意である▼昨夜の記憶が不確かだとしても、飲んだ所を考える必要がない人もいる。家族への言い訳もいらない。麻生太郎首相のことだ。二面には毎日『首相の一日』が載っている▼例えば日曜日。午後六時十四分から東京・内幸町の帝国ホテルで秘書官と食事し、引き続きホテル内のバーで打ち合わせをしたとある。私邸着は十時四十六分。平日に比べると、早い方の帰宅になる▼昼間は西早稲田のスーパーの店内を視察。その後、JR高田馬場駅前で客待ち中のタクシー運転手と懇談した。人々の生活を心配している姿勢を訴える狙いがあった。それなら夜はつましくした方が…と思うのだが、首相は生活スタイルを崩さぬ主義らしい▼就任以来の『首相の一日』を読み返すと六本木や赤坂、広尾での夕食、一流ホテルのバーでの「打ち合わせ」が多い。首相側の説明では「激務のストレスを発散している」のだという▼それなら自分も同じだと、つぶやいている人もいよう。ただし周囲を見渡すと、今までよりも外食やお酒を控えている人が目立つ。財布の中身を考えた結果である。つらさが首相に分かるのか。素朴な疑問が頭をもたげる。

産經新聞でも次の記事です。これは23日。

麻生太郎首相は24日に就任1カ月を迎えるが、連夜のように帝国ホテルの高級会員制バーなどでの会合に繰り出している。景気低迷に国民は青息吐息の状況で政府・与党も総合経済対策のとりまとめに躍起になっている最中のこと。会合とはいえ、世論に首相の感覚のズレを問う声も出始めているのは事実だ。これに対し首相は22日、記者団の執拗(しつよう)な“追及”に激怒し、「ホテルのバーは安い」「営業妨害だ」などとぶち切れた。首相の言い分は国民の胸にどう響くのか。

 首相が就任後から21日までに、私邸にそのまま帰宅したのは、わずか4日にとどまる。夜の会合が“日課”となっているわけだが、2軒、3軒とハシゴすることも珍しくない。就任以来、立ち寄ったレストランやバーなどでの外食は延べ32回で、平均帰宅時刻も午後10時53分となっている。「料亭通い」が批判された森喜朗元首相でさえ、就任後1カ月間の外食は延べ13回だった。

 麻生首相が会合に利用するのは、首相官邸にほど近い帝国ホテルやホテルオークラなどにある高級バーが多く、目的はもっぱら官房副長官や秘書官らとの打ち合わせや会食と発表されている。しかし、自民党内からも「こんなご時世に毎夜、高級店で会合を開くことはなかろう」(中堅)といった声も出ている。

 だが、首相は意に介さない。22日、記者団に「庶民の感覚とかけ離れているのでは」と問われ、「ホテルのバーは安全で安い」と反論し、費用も「自分で払っている」と強調してみせた。さらに、いきり立って記者に「営業妨害して平気か。いま聞いているんだよ。答えろ」と逆質問する一幕もあった。

 周辺によると、首相は就任前から「執務後にバーやラウンジでブランデーを一杯、葉巻をくゆらしてクールダウンしないと帰宅しても休めない体質」。公式には秘書官と2人で食事といわれていた16日には、中華料理店で中川昭一財務相らが同席していたことも判明した。

**

「周囲を見渡すと、今までよりも外食やお酒を控えている人が目立つ。財布の中身を考えた結果である。つらさが首相に分かるのか。素朴な疑問が頭をもたげる。」だとか、「庶民の感覚とかけ離れているのでは」と問う記者団だとか、「これまでも「庶民感覚とのズレ」を指摘する声」だとか、なんだか貧相な当てこすりですなあ。朝日もたしか同じようなことを書いていたっけ。まあ、そういう視点で書くのが一番書きやすいのでしょうが、一国の首相がまさか焼き鳥屋で懇談しても、焼き鳥屋のほうが迷惑でしょうし、隣の客もそんなのいやだろうねえ。SPとかさ、取り巻きがいっぱいで落ち着いて飲んでもいられねえ。

ホテルのバーが安い、ってのはそりゃ、料亭と比べれば安いっていう話で、そこを揚げ足取ったってしょうがないでしょう。一杯1000円以上するのが安いかどうかって議論しても始まらないの。

そんなチマチマしたところを批判してもしょうがない、というなら、では何が問題か? 問題は、麻生はそういう人だってことですわ。政治家の家に「名門」ってのがあるかどうかは知らんが、いわゆる何世議員なの、彼? はたまたどうして政治家の家系が資産家になれるのかも不明だが、そういう資産家政治家の家の坊ちゃんを首相に据えたというこの自民党政治の問題なんですよね。

庶民感覚とのずれ、というのは金銭感覚よりも、そういう高級フレンチ通い(それも時には家族で)、ホテル通い、バー通いをみ〜んなに知られる立場にあるのに、それをみ〜んながどう思うか、いさかかも意に介さない、という点なんだと思いますよ。そんで、それを記者に指摘されても、「あはは、やっぱ、世の中に合わせてわたしも自粛かなあ」なんて軽くかわせないで、「ぶち切れ」(産經新聞)ちゃうという、その狭量さなんだわなあ。

麻生って、ときどきガキみたいなんです。坊ちゃんというより、自己主張ばかりのガキ。お坊ちゃんならもっと鷹揚に「あら、そういわれりゃそうだなあ、悪かったなあ」と言ってみせるくらいがかっこいいのに、こいつはカッとなって売り言葉に買い言葉みたいになる。ほんとはこいつ、自分に自信がないんだと思いますね。「いかがなものか」とか「と自分は思うわけであります」とか、「オレ」とか、かなり定型句を頻用するのは典型的な自信なさげ男のパタンですわ。

ホテルのバー通いも、もっと目立たないようにやれよ。フレンチレストランでワイン空けたって書かれないように配慮しろよ。番記者が付いててそれが無理なら、お忍びで違うところでやれよ。まだ他に隠れ処レストランもバーもあるでしょに。

まあ、恋愛といっしょでね、レストランもひとが見てるから楽しいってひともいる。
内向的劇場型主義ってやつか。

麻生の、それが体質なんですな。
キレるなら、記者にじゃなくて、(ホテルで飲んでるときに)北朝鮮のテロ国家指定解除の電話をしてきたブッシュにキレろよ、なあ。
そういう肝心なところでキレられないのは、とりもなおさず彼が単なる空威張りのガキだからに他なりません。あらかじめ想定しえた状況で、どういうセリフも用意していなかったという、コドモの外交なのであります。

まったく、もう。

それにしても、小沢がまた体調不良らしい。
ヤバいんじゃないのかね。

October 14, 2008

テロ国家指定解除の欺瞞

どの国もそうなんですが、外交というものはあくまで国益を第一に考えるものです。
ブッシュ政権はつねに、最近ではライス国務長官も「日本の立場は理解している」あるいは「拉致問題の重要性は認識している」という言い方しかしませんでした。「テロ国家指定の解除はしない」とはひと言も言っていなかったのです。その結論はどうなるか、そんなことはわたしでもわかる。つまり外交のプロたる外務省の役人たちがわからないはずがない。

アメリカは指定解除をするだろうというのは読めていたわけです。それを、まるで「寝耳に水」と驚いてみせるのは、これは日本国民に対する欺瞞です。そんなはずではなかった、という言い方ですよね。われわれは十分に努力してきてアメリカもそれを理解していたはずなのに、急に寝首をかかれた、という言い方。

これは責任逃れのへりくつです。知っていたんですよ。それを、それじゃ日本国民に格好がつかないから「知らなかった」「予想外だった」と言っている。一番正直なところは中曽根外相あたりの言っていた「一両日中はないと思った」というセリフでしょう。一両日中はないはずだったが、その次の日にはあるかもしれない。そういうこと。

ブッシュは、史上最低の大統領として名を残すことになるのはすでに明らかです。まあ、イラク戦争しかり、イラン政策しかり、イスラエル・パレスチナ問題然り、それは確実なんですが、せめて北朝鮮でどうにか格好を付けたかった。それが正直なところでしょう。

ただし、今回は時間の問題があった。
北が核施設運転再開をちらつかせるのはいつものことです。
どっちが我慢できるか、そのチキンゲーム。
ところが今回はブッシュ政権の命脈が尽きるというタイムリミットがあった。
ただそれだけのことです。いつもなら、むこうが核施設の無効化をしてから、解除です。それが待ちきれなかった。どうにかして先に進める必要があったということです。で、テロ国家指定解除を先出のエサにした。

麻生としては、拉致問題にいささかも影響はない、カードを失ったというわけではない、という言い方しか出来ません。ならば、「はじめから拉致問題とは関係ない。指定解除どうぞどうぞ」と言ってればよかったようなもんですがね。しかしカードを失ったのは確かなのです。麻生は先月の国連総会の訪米でもブッシュに会えなかった。アメリカも北朝鮮も、出ては消える日本の自民党政府を本格長期政権として相手にしていないということです。困ったもんです。

冒頭に言いましたが、今回のテロ国家指定解除は、日本との関係を損なっても、北との核問題解決がアメリカの国益、いや、ブッシュの個人の利益にとって重要だったという判断なのです。簡単なことです。

September 01, 2008

福田ってやつは

けっきょく、とどのつまり自民党には現在、政権担当能力がないということなんでしょう。政権投げ出しが2回続くと、信頼は地に堕ちる。

福田の個人的な性格ってのもあるでしょうが。やる気がない、というか、やりたくないんだわね。初めからそうだった。というか、今から思えば、福田は森にそそのかされた小沢・民主との大連立のみにかけて政権を担ったのかもしれないですわね。それが失敗した段階で福田政権の存在理由はなくなったのです。洞爺湖サミットまでのただの時間つぶしだったわけだ。

記者会見最後の質問「総理の対応は国民からみんな他人事のようだと言われているが」に対して、「あなたは他人事のようだと言うけれどもね、私は自分を客観的に見ることができるんです! あなたとは違うんです!」って気色ばんだのはとても子供っぽくて聞いてられなかったですね。官房長官時代からそういう言動はまま窺えてたんですが。

さて自民党だって麻生か百合子かって選択でしょう。この選択はないわなあ。福田退陣というより、自民党自体が自ら退陣するような雰囲気になっていくでしょう。

総選挙の流れは加速するはずです。
次期政権もつなぎでしかなくなります。
そのつなぎを、お調子者の麻生は受けるしかない。
小池百合子ねえ、どうなんでしょう。
わたしにはわかりませんわ(他人事……)。

July 10, 2008

いまの子供と50年後の子供

温室効果ガスの世界全体の排出量を「2050年までに半減する」ではなく、さらには「半減するという長期目標を共有する」ですらなくて、「2050年までに半減するという長期目標を共有することを目指す」っていう、この、動詞が3つも入ったヘタクソな日本語の3重に薄められた「G8宣言」というのはまさにいまのアメリカの断固たる及び腰と日本政府の遠慮とを象徴していて興味深いものでした。

いや、じつはこういう何重もの言質回避の表現は国連の安保理決議などでも蔓延しているので、政治宣言としては驚くほどのことでもないのですが、米国シェルパ(実質的な議論を担う交渉代理人)のダン・プライス大統領補佐官が「素晴らしいG8宣言文」と自画自賛するのを聞けば、さすがは弁護士出身、そりゃつまり自分に有利に導けたって意味ね、とすぐにわかるというもんです。

日本政府も自画自賛していますが、こちらは欧州勢と米国との板挟みになって、それでもいちおう文言をまとめあげるのに成功したという意味でしょうか。しかしなんだかこれも、安易に「自分をほめてあげたい」と言いのける今時の甘ったれ風潮そのもの。欧州勢から「日本のリーダーシップが見えない」とさんざん呆れられているのを、米国しか見ていないので気づかなかった、あるいは政治理念もなくただまとめることしか考えていなかったってことです。

たしかにまとめあげたことは認めます。それもたしかにひとつの政治でしょう。そのようにしかものごとは進んでいかないのもわかります。だが、このなんとはなしの「切羽詰まっていなさ」は、政治的想像力の不在というか、つまりはこのサミットに出席しているすべての人間たちが、おそらくは50年後にはもうこの世にはいない、ということに関係しているのではないかと、ふと思ったりもするのです。

まあ、そんなことを言うのはエキセントリックだと思われてしまう、われわれのいまの有り様もあるのですがね。

とどのつまり、今回のG8はエコロジー(生態系)とエコノミー(経済)の兼ね合いをどうするかという人類の宿命に関する議論の場でした。つまり50年後の子供たちといまの子供たちの、両方を救うにはどうすればよいかということです。アフリカなどでの食糧危機を見ればそれはより切羽詰まった課題として目の前に立ち現れます。

もちろん、いまの子供たちに心配のない先進国では50年後を考える余裕もありますが、いま現在飢えている国ではいかに産業をおこしそれを基に人びとが食べていけるかを探るに精一杯です。そんなときに温暖化ガス排出規制など気にしている余裕はない、いま生き延びなければ50年後もないのだ、という論理になります。それもまたもっともで、新興国も交えた8日の会議では先進国側が先に80-95%の排出ガス削減を行えといった主張もなされました。それももっともなことなのです。

ところがそれではアメリカは産業が立ち行かなくなる。ガス排出規制のすくない新興国に産業が移行してしまう。そうすればアメリカの50年後もない。それがこの洞爺湖宣言に及び腰だったアメリカの、いまのブッシュ政権の論理です。しかしブッシュは洞爺湖で終始緊張感のない顔をしていましたね。はっきりいって大統領職を投げ出しているような顔だった。北朝鮮問題といいこのG8といい、とにかく任期内でいろんなことをとにかくまとめればよいという、冒頭の日本政府の交渉役みたいな心情なんでしょうか。自分の任期のことだけしか頭にないような。

しかし次のオバマあるいはマケイン政権がどう出るかはまた別の話になると思います。特にオバマ政権になれば、あのゴアが環境関連の特命大臣に任命されるということですし。日本も次の選挙で民主党が勝利して小沢政権になったら果たしてどう変わるかわかりません。不明なところも多いのですが、環境問題でも新味を出してくるはずです。

しかしそれまではおそらくこの問題に関する政治の力の不在が続くかもしれません。
そうしてその間にも刻々と地球環境はいま現在のわたしたちの生態系を破壊するように変化しているのです。
世界の食糧危機を深刻に憂慮すると言ったその舌の根も乾かぬうちに18コースもの豪華な晩餐を囲むサミットリーダーたちを見ていると、まさに人間の活動そのものが宿命的に持つ反生態系の害毒を思わずにはいられません。エコノミーとエコロジーは、だれがなんといったって対立する項目なのです。そこを誤魔化さずに折り合いを見つける、といっても、しょせんそれは破滅を先送りする手段を講じているだけのような気もします。

April 23, 2008

二重の強奪感

「後期高齢者」という名称の付け方1つで、ああ、こりゃもうダメだわとわかるような日本の長寿者向け新医療保険制度ですが、なんでこんなに不評なのかという理由に、こないだ、納税申告をしながら思い当たりました。あれ、自分の財布に勝手に手を入れられた感覚なんですよ。それで一言の断りもなく札ビラを抜かれた。その、おいおい、ってな感じ。

ニューヨークに15年前に住み始めて不便だったことの1つに銀行口座からの自動引き落としがなかったことがあります。電話も電気も水道もぜんぶ請求書が届いて、それに自分でチェックを書いて切手を貼ってポストに入れて支払う仕組みです。税金もそうで、毎年4月15日までに自分で申告して自分で計算して自分で支払うのが原則。面倒なのにいまもそれはずっと続いている。これはどういう考え方なんでしょうね。

納税の義務というか責任というか、それってこの社会を自分たち自身が作っているんだという意気や自負みたいなもんでしょう。個人レベルではそういう意識は薄れてるかもしれないが、少なくとも歴史的にはそうだったはずだ。

そういやそれは裁判の陪審員制度でもそうです。これも自分のコミュニティで起きたことはコミュニティのメンバーで仕切るという、そういう直接民主制に関係してくる制度です。ニューイングランドにいまも残るタウン・ミーティングというのもその名残り。そこにキリスト教の慈善意識や参加意識が加わってくるからなおさらですよね。

対して日本では社会というものはお上のものであって、自分はそこに住まわせてもらっているというような感覚がなきにしもあらず。そこに近頃の都市部の隣人意識の希薄化があれば、マンションの自治会だって面倒だし町内会なんてなにをかいわんや。そこに「裁判員参上!」、いや「誕生!」と言われたって、なんだか唐突な気がして腰がひけてしまうのもむべなるかな、です。

そうそう、後期高齢者医療制度です。
そんな社会意識の違いがあるから、きっと政府は年金からの保険料天引きを「いやいやいちいち手続きする手間を省いてあげたんだ」と言えば済むと思った。そもそもだいたいがみんな自動引き落とし社会ですしね。

しかし自動引き落としだって主導権はこっちにありました。銀行だって夜間や他行での現金引き出しの手数料、ちゃんと「取りますがいいですか?」と聞いてきます。「承認」を指で押すのはいまや単なる儀式的手順ですが、少なくとも私たちはそれでこの財布の主人公は自分だと確認しているのです。

ところがこの保険料の天引き徴収、誰からもなんの断りもない。新聞報道はあったかもしれないが「オレには何の挨拶もない!」。これは「後期高齢者」などとしれっと言い捨てる政府の、まさに「お上」意識です。面倒くさくないようにあらかじめ取ってやってるんだ、というのは、説明不足とかいう問題ではなく根本的に考え方が間違っている。その証拠に、そんなこと、民間でやってご覧なさい、あっというまに総スカン、いやもっと言えば犯罪だって構成し得る。

年金って、社会との契約の果てに戻ってきた大切なお金です。それを了解かどうかの返事も待たずに財布に手を突っ込まれるように取っていかれた。しかも年金消滅のあの問題も棚に上げて。

いまの日本の行政府の怠慢と傲慢を象徴するこの二重の強奪感こそが、今回の大不評の下敷きなのでしょう。怒らんほうがどうにかしてます。

April 16, 2008

国おこし、都市おこし、個人おこし

40日間も日本に行っていました。日本にいると、日本語に守られてるせいでしょうね、国際的な時事ニュースをぜんぜん自分に引き付けて考えられなくなります。なんかまったりしてみ〜んな他人事っぽくなる。で、ここにもなにも書かない、という結果に。てか、たんにだらんとしてただけなんでしょうけどね。

さてさて、帰ってきたとたんサンフランシスコでの聖火の混乱です。中国当局もよく続けるなあと思うのですが、開会式のボイコット気運も高まる中、この問題はどう考えればよいのでしょう。スポーツと政治、五輪と政治の問題ですわ。

私も若かったころは「スポーツと政治は別だ」などと憤慨していましたが、でもずっと以前から五輪と政治はじつは同じものだったんですよね。というか、五輪はその国際的な注目度から、世界に向けて政治的メッセージを送る絶好の檜舞台でありつづけているのです。

ベルリン大会は国威発揚というナチスの政治的思惑の場だったですし、メキシコでは黒人差別に抗議する米国選手2人が表彰台で黒手袋の拳を突き上げました。続くミュンヘンではパレスチナゲリラのイスラエル選手襲撃が行われ、76年のモントリオールでは南アフリカの人種差別問題でアフリカ諸国の大量ボイコットが起こった。80年のモスクワではソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する西側のボイコット、続くロサンゼルスはその報復的な東側の逆ボイコットと、五輪はまさに常に政治とともにありました。

だいたい中国自体も五輪と政治を結びつけて国際社会にいろいろとメッセージを発してきたんですよ。56年のメルボルンから、ローマ、東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール、モスクワと、なんと7大会連続で五輪ボイコットです。モスクワ大会を除いて6回はぜんぶ台湾の国際認知問題が背景でした。

そもそもどうして五輪を招致するのか? それは五輪という由緒ある国際大会を主催することで国際社会の責任の一端を担う、一丁前の国家として認められたいという思いが基になっています。同時に、関連施設の建設によって国内の景気浮揚を図りたいというハコモノ行政的な意図もあります。つまり五輪は村おこしならぬ「国おこし」のネタだったのですわね。つまり。ズバリ政治そのもののイベントなわけで。

これは64年の東京五輪もそうでした。あのとき東京は高度成長のまっただ中で、日本は戦後復興の総仕上げをして国際社会への復帰を果たそうと五輪を招致したのです。そこではスポーツはたんなるダシでした。もちろん、日本の復権はスポーツ選手個人の頑張りに投影されてじつに感動的だったのですが、ほんとうの主眼はスポーツ選手個人の威信ではなく、国家としての威信にあったのです。それはまさに政治的思惑でした。

すでに五輪が2周目以降に入っている先進国では、長野やアトランタがそうだったように五輪は国おこしを経ていまはホントに開催都市の村おこしイベントです。一方、周回遅れの中国にとっては(今後のアフリカ、中東諸国なども含め)五輪は遅れてきた第二次「国おこし」運動の原動力なのです。今回の北京五輪も、中国政府のそんな思惑と欧米諸国の、五輪開催を機に中国の人権・民主化改善を促そうという思惑が合致して決まったものですからね。

そんな政治の舞台なのですからチベットが登場してもだれも文句なんか言えない。中国が「スポーツと政治は別だ」だなんて、どの口で言えるのか、です。

そう、「スポーツの祭典だから政治はタブーだ」と言うからややこしくなるのです。どうせならもうこれは政治だと開き直って五輪を機にどんどん主張をぶつけ合えばいいんですわ。それで大会がつぶれるようならつぶれちゃえ。そうなったらでも中国だって面目丸つぶれ、欧米だって思惑外れ、チベットは墓穴を掘る。そういうところにしか反作用としての収拾努力のベクトルは生まれないんじゃないの? じっさいの政治としてはいささかドラスティックにすぎるけどね、ま、思考実験としてはだからこそいまと違った落としどころが見つかるかもしれない。まあ難しいでしょうけどねえ(他人事っぽいなあ)。

ところで再びの東京五輪招致が進んでいます。これはすでに国おこしでもなく都市おこしとしても新味に乏しいやね。何のためにやるんでしょう。私には、自己顕示欲が脂汗になってるあの都知事の「自分おこし」のために見えるんですわ。彼個人の人生最後のステージにとっては格好の大イベントですもん。しっかし、そんな個人行事に付き合うのはまっぴら。

だいたい、新銀行東京にしても、解決にはもう何年もかかるけど、やつの物理的寿命はその前に終わるでしょう。未来のないやつ、つまりあの都知事に、「責任を取る」という考え自体が通用しないんです。死を前にしたら、無敵だなあ。だから政治家は若くなきゃダメなの。あと30年生きてると思ったら、ヘタなことできないもんねえ。

February 20, 2008

最高裁は失礼だ

ロバート・メイプルソープの写真集が「猥褻ではない」とのお墨付きを日本の最高裁からいただいて、そりゃそうだ当然だと反応するのはちょっと違うんでないかいと思います。

以下、朝日・コムから


男性器映る写真集「わいせつでない」 最高裁判決
2008年02月19日11時09分

 米国の写真家、ロバート・メイプルソープ氏(故人)の写真集について「男性器のアップの写真などが含まれており、わいせつ物にあたる」と輸入を禁じたのは違法だとして、出版元の社長が禁止処分の取り消しなどを国に求めた訴訟の上告審判決が19日あった。最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は「写真集は芸術的観点で構成されており、全体としてみれば社会通念に照らして風俗を害さない」とわいせつ性を否定。請求を退けた二審・東京高裁判決を破棄し、輸入禁止処分を取り消した。

 同じ作品を含む同氏の別の写真集について、最高裁は99年に「わいせつ物にあたる」として輸入禁止処分は妥当と判断していた。今回の判断には、わいせつをめぐる社会の価値観が変化したことが影響しているとみられる。

 堀籠幸男裁判官は「男女を問わず性器が露骨に、中央に大きく配置されていればわいせつ物だ。多数意見は写真集の芸術性を重く見過ぎている」との反対意見を述べた。

 訴訟を起こしていたのは東京都内の映画配給会社「アップリンク」の浅井隆社長(52)。99年に浅井さんがこの写真集を持って米国から帰国した際、成田空港の税関から関税定率法で輸入が禁じられた「風俗を害すべき書籍、図画」にあたるとされ、没収された。

 写真集は384ページに男性ヌードや花、肖像など261作品を収録。税関はこのうち計19ページに掲載され、男性の性器を強調したモノクロの18作品を「わいせつ」とした。

 この判断に対し、02年1月の一審・東京地裁判決は「芸術的な書籍として国内で流通している」と処分を取り消し、70万円の賠償を国に命じた。しかし、03年3月の二審・東京高裁判決は「健全な社会通念に照らすとわいせつだ」として原告の逆転敗訴としていた。

 第三小法廷は(1)メイプルソープ氏は現代美術の第一人者として高い評価を得ている(2)写真芸術に高い関心を持つ者の購読を想定し、主要な作品を集めて全体像を概観している(3)性器が映る写真の占める比重は相当に低い——などと指摘。作品の性的な刺激は緩和されており、写真集全体として風俗を害さないと結論づけた。

****

うーむ、アップリンクの浅井さんは、じつはこれを裁判を起こそうと思って仕組んだのですね。わざと国内での5年もの販売実績を作り、この写真集が公序良俗を紊乱していないという土台を築いてから外国に持ち出して再度入国した際にこれを摘発させるという手の込んだ作戦を練っていた。これは見事です。ですから、政治的にはこの最高裁の判断を導いた浅井さんには「でかした!」の賛辞を贈るにやぶさかではありません。

そのうえで、でも、本来は猥褻とはどういうものなのか、という点も浅井さんはわかっていらっしゃると思います。国家権力が定義するなんて、しゃらくせえ、って思ってらっしゃるわけだ。だから、これはあくまでも社会的な価値判断の変革を形にするための戦略的権謀術数なわけで。

では本質的にはどういうことなのか。
メイプルソープが、男性器とともに、どうしてああも多くの花の写真を撮ったか、というのは、それは美しいからです。
でも、花がどうして美しいのか?
それはあれが性器だからです。そう、最高裁まで争った人間の男性器と同じものなのですね。
あんなに卑猥な写真集はありません。まさに堀籠幸男裁判官がいうように「おしべめしべを問わず性器が露骨に、中央に大きく配置されていればわいせつ物だ。写真集の芸術性に誤魔化されてはいけない」のです。

ですからあれは、猥褻なものをそのまま提示して美しいと感じさせているのです。
メイプルソープは、猥褻なものを提示して、猥褻って、なんて美しいんだっていっているのです。
それを、「猥褻ではない」って、本来は、最高裁はじつに失礼じゃないか、ってことです。

メイプルソープは、花と同様に、男性器を猥褻で美しいと思った(あるいはその逆の順番か)。その美しさはもちろん彼のセクシュアリティに結びついている美しさの感覚です。もっといえば人間であることに関係する美への感覚です(犬は人間の性器を美しいとは思わないでしょうし)。さらによくある70年代的言い方でいえば、彼は己の猥褻さへの欲望を解放しようとした。彼の写真を見ていれば、いまにも彼があの男性器に触れたい頬ずりしたいキスしたい口に含みたい、でもその代わりに写真に撮った、他人と共有したというのが伝わってきます。一見無機質にも思えるあの黒い男性器の鉱物のような銀粉のような輝きを、彼がまんじりと視姦しているのがわかるのです。それは花への視線と同じです。

じつは、花が性器だと気づいたのは、不覚にも私も、大昔にメイプルソープの写真集を目にしてからでした。ほんと、ありゃ、思わずあちゃーとかひえーとか呻いてしまいそうな、ときには赤面するほどいやらしくもすごい写真集ですものね。一部をご覧あれ

そうですよ、みなさん。

「何かご趣味は?」
「ええ、ちょっとお花を」
「あら、まあ……」

爾来、上記の会話の意味は、私にとって永遠に変わってしまったわけです。
蘭を集めております、とか、よくもまあ羞ずかしげもなく公言できるもんだ、と。
少しは赤面しながらおっしゃいなさいな、と。

卑猥とは何か、猥褻とは何か。
劣情を刺激するものでしょうかね。
劣情という言葉自体、価値観の入ったものだからわけわかんないですけど。

むかしね、「エマニエル夫人」って映画あったでしょ。高校か大学時代だったよなあ、あれ。
ボカシがかかるでしょ。あのボカシほど劣情を刺激するものはありません。いったい何が映っているのか、気になって気になって妄想がふくれます。ああ、そうだ、あの「時計じかけのオレンジ」もそうでした。ボカシが気になって、性ホルモン横溢の、脳にまで精液が回ってるような年齢でしたからね、もうおくびにも出さなかったが悶々と妄想を重ねていた時期ですね。

で、仕事でハワイに行ったときにヒマ見つけて当時まだあったタワーレコードでビデオを買ったんですよ、昔年の妄想を解決するために。

そうして見てみた。
ああ、オレはこんなものに欲情していたんだ、って、もう、ほんと、がっかりするような、なさけないようなものしか映ってませんでした。オレの青春を返せ、ってな感じです。

何だったんでしょう、あの「劣情」は。
ボカシは、罪だと思います。健全な欲望を、淫らにひねりまくります。
もちろん、罪もまたちょっとソソルものでもあるのですがね。はは。

何の話でしたっけ?
ま、そういうこってすわ。
失礼しました。

January 10, 2008

もうそろそろ新聞も

以下のニュースはTBS報道局の特ダネです。でも、どの新聞社の記事もそれに触れていない。
それは情報として十全なのか。

**

【朝日.com】年賀再生紙はがき、無断で古紙配合率低く 日本製紙
2008年01月10日12時47分

 製紙大手の日本製紙は9日、同社が作った「年賀再生紙はがき」の用紙について、古紙の配合率が受注時の取り決めを大幅に下回っていたと発表した。発注元である日本郵政や、購入者への謝罪文も同時に公表した。

 日本製紙によると、配合率は40%と取り決めていたが、古紙が多いと不純物が増えて要求される品質を満たせないと判断し、日本郵政に無断で1〜5%しか使っていなかった。いつから基準を下回っていたかは調査中という。年賀はがきの98%は「年賀再生紙はがき」で、その用紙の日本製紙のシェアは約8割。

 日本郵政は、はがきを印刷会社に発注し、印刷会社が用紙を日本製紙などから調達している。日本郵政は「印刷会社など関係者から調査し、結果を待って今後の対応策を検討する」としている。

【毎日.com】再生紙はがき:年賀はがき配合率「古紙40%」、実は1% 納入元、無断で下げ

 日本郵政グループの古紙40%の年賀はがき(再生紙はがき)で、古紙成分が1~5%のものがあったことが9日、分かった。納入元の日本製紙が、無断で配合率を下げていたことを認めた。日本郵政は「環境重視のイメージが傷つきかねない」と反発し、調査を行う。

 年賀はがきの発行数は毎年約40億枚。うち97・5%が再生紙を利用している。日本製紙は年賀はがき用の紙の約8割を納入しており、古紙の割合が基準に達しない紙が大半とみられる。

 日本製紙は「古紙の割合を多くすると、紙にしみのようなものができるなど品質が下がるため、配合率を低くした」と説明している。同社は、社内調査を始めたが、数年前から配合率を下げていた可能性が高いという。【野原大輔】

【読売】「古紙40%」年賀はがき、実は一部で1~5%

商品偽装
 環境への配慮をうたって古紙を40%利用して作ることになっていた年賀はがきの一部で、実際には1~5%しか古紙が含まれていなかったことがわかった。


 日本郵政(東京都千代田区)などによると、はがき用の紙を納入した日本製紙(同)が品質を向上させるため無断で古紙の配合率を下げたという。

 問題となっているのは、昨年末に全国の郵便局で販売された「再生紙はがき」。経済産業省によると、「再生紙」と表記する場合、含有する古紙の割合について規定はないが、年賀はがきについては日本郵政側が印刷会社と、全体の40%を古紙とする契約を結んでいたという。

 しかし、印刷会社に納入された紙のうち、日本製紙が納入した分で、パルプの割合が極端に高いことがわかった。古紙にはちりなどが多く含まれ、紙のきめが粗くなるため、古紙配合率を下げたとみられる。

 日本製紙は「詳細は答えられない」としている。日本郵政では、「イメージダウンとなるので、明確な契約違反が確認できた場合、損害賠償請求も検討している」としている。

****

アメリカに住んで驚いたことは、新聞もテレビも、他紙あるいは他局の特ダネを、自分のところでぜんぜんおかまいなしに「◎◎がこう報じた」と報道することでした。昨日のCNNも、ヒラリー・クリントンの当選確実をAP通信が打つと「APが当確を打ちました」とやりました。日本のテレビ局ニュースが「共同通信がいま当確を打ちました」とか「NHKが当確としていますが、私たちはまだ不確定要素があるとして打ちません」とか言うのは聞いたことがありません。いやそれよりも、私は毎日新聞と東京新聞で新聞記者だったのですけれど、例えば朝日とか読売がなにかすごい特ダネを抜いたときに、それがどんなに重要なニュースであっても、そう、建前は自分で調べたことじゃないから=つまり自分でほんとうのことかどうか確認できないから、それを掲載することはできない、とするのですね。それは当然です。でも、そうなのかなあ、と思ったのは、自分でそれが本当だったと確認できたとしますわね、つまり、後追いですわ。そのとき、そのニュースを書いても、整理さんに扱いを小さくしてくれとデスクなんかが言うんですわね。「いや、抜かれネタでね」とか。

それって、まだ続いているようですね。
でも、いいじゃないのかなあ、って思うの、もう、そういうの。
「TBSが報じたところによると、」っていうことのほうが、読者・視聴者にとって必要な情報じゃないのかなあ。いや、どっかの地裁で例えそうやって報じたとしてもそれが虚報だった場合にそれによって生じる損害は伝聞ででも報じたそのメディアが負う、みたいな判決が出ましたわね、具体的にはどういう事件でどういう内容だったかは忘れましたけど。

いや、たとえ冒頭のこの古紙再生偽装、このニュース、「日本製紙」が認めたことで初めて他社・他紙が書けるニュースになったんですが、その場合でも、この事態の発覚の敬意として「TBSに内部告発の手紙が来て、」というふうに報じるのが、十全の情報ではないか? そうじゃなきゃ、なんでこのことが明らかになったのか、読者としてはわからんのですよ。まさか、日本製紙が誰にも何も言われないのに懺悔したってか?ってことですわ。おまけにTBSは今回、全国の系列局報道部に指示したのかあちこちの郵便局で再生紙ハガキを購入してそれをどっかの分析所に持ち込んで古紙の混合率を計算させてまでいて、かなり用意周到にがんばって日本製紙にその事実を突きつけ、どうだ、参ったかってやったんですわ。発覚の敬意くらいTBSに敬意を示したっていいんじゃないのかい?

だって、それを言わないってのは、それは十全の事実ではないんだもの。言わないことはウソではないが、言わないことによって伝えるべきことを伝えないという事実を放っておく、未必の故意ですよね。

同じような、なんというか、意味があるのかないのかわからんような「縄張り意識」みたいなのが日本のメディアにはほかにもまだ残っています。

たとえば他局の番組のこと、口にできない、というか口にしないのが礼儀とされるでしょ? 礼儀と言って違うなら、あるいは暗黙のルール? それもじつにくだらんのです。そこにリンゴがあるのをみんなわかっているのに、リンゴがない振りをしてリンゴの話を絶対にしないかのような。むかし、紅白歌合戦で絶対その直前に決まったレコード大賞のことを言わなかったんですよ。そのことに触れるようになったのは20年くらい前からかなあ。そのまえは、レコード大賞獲って駆けつけた歌手のこと、知らんぷりして曲紹介してた。レコード大賞の権威が落ち始めたころに、言うようになったんだけどね。

で、アメリカのトークショートかで俳優がゲストに来ると、ぜんぜんかまわないで他局や他系列の映画会社の映画の話とかするんです。たとえば「笑っていいとも」にゲストで出てきた俳優が日本テレビの新番組について話すのと同じです。へえ、こういう話をするんだって最初はビックリしたけど、聞いてればべつになんの異和感もなくなる。だって、事実だもんね。もっとビックリするのは、他局で、他局の番組の番宣CMが流れたりするのよ。これも日本じゃ考えられない。

これは、あれかね、大映とか日活とか東宝とか、俳優たちがみんな映画会社のお抱えで他の社の映画には出られなかった時代の名残でしょうね。自分の出演作、出演会社にがんじがらめになって、それ以外のものは存在しないも同然、っていう。

対してこちらは俳優は組合もあるし(いままだ脚本家組合のストが続いていて番組製作が大混乱に陥っているように、かなりパワフルなのです)、まずは話が「会社」つながりではなく、「俳優」本人つながりだということなんでしょうね。その俳優の前作がパラマウントであろうがフォックスであろうがワーナーであろうが、CBSだろうがABCだろうがNBCだろうが、主語はその俳優であって映画会社やTV局ではない、ってこと。ここら辺も個人主義と会社主義とかの違いなんでしょう。

こう考えるとどうでもいいのになあと思われることもバカみたいな歴史的背景や文化背景があったりするのがわかりますが、それはトートロジーっぽく言えばやはりしょせんバカみたいなことなのです。

そういう呪縛から逃れて、わかってることはみんな教えてよって、思うんですがね。

November 27, 2007

金儲けには向かない職業

昨年のニューヨークのときもそうでしたが、それにも倍するミシュラン狂想曲が新発売の東京版をめぐって渦巻いているようですね。前も書きましたが、伝統あると言ってもタイヤメーカーのたかがガイド本、金科玉条のように崇め奉るのも主客転倒。「お仏蘭西野郎に和食がわかってたまるけえ!」という感情論は別にして、東京に世界一多い☆の数というのも納得ではあるのですが、同時に、☆を奮発した分だけ本も売れるとふんだ商売っ気だってなきにもあらず。しょせん「ギド・ルージュ」も出版商売なのですから。(とくにカンテサンス、わたしにはあそこに3つ星を与えた背景がよくわからないのです。ありゃ、日本人審査員のプッシュなのか、話題作りなのか……)

まあそれはさて置き、☆付きレストランで難しいのはその“支店”です。なんといっても☆付きシェフはただ1人。いくらレシピを徹底しても東京のガニエールにはピエール師匠はたまにしかやってこない。世界に20もの店を持つアラン・デュカス御大は完全なセントラルキッチン方式を採用し、自身はもう料理しません。つまり、レシピを科学的に分析し食材を工場でできるだけ均一にそろえても、けっきょくはそれを客出しの直前で絶妙なバランスで組み立て得る優秀な現地シェフをいかにして見つけるかがカギなのです。

ですので、例えばゴードン・ラムジーはまったく同じメニューなのにロンドンの本店では3つ星、NYでは2つ星(ここもニール・ファーガソンがいなくなって、次のシェフがどうなのかわたしは試しておりませんが)、東京では星無しとなった。あのデュカスでさえ東京で失敗しているのは、ひとえにこの最後の現地シェフの才能の違いなのでしょう。しかしベージュは評判悪いね。

しばしば「芸術」とも形容されるこうした天才シェフたちの味は、ほんと、大量生産ができない。いくらレシピがあってもそれをかの天才たちのようにはコピーも再現もできません。

食いもんのもう1つの要素は、絵画や音楽などとも違って後世にはぜったいに遺せない、その時その場限りで消えるものであるということです。そのような一過性をこそ本性とする「芸術」はこの「食」以外にはありません。一過性を重んじるパフォーマンス芸術だってDVDで記録できるというのに、その本質が再現可能な記号にはなり得ず、どんなメディアででも記録できない「目の前の味」の現物勝負。食文化というのは、かくも特異なものなのですね。だから味と匂いのわかるテレビというのができないんですわ。

にもかかわらず、こうした食の天才たちへの報酬は、そう多くはありません。とくにこうしてトウモロコシや大豆やエネルギーまでもが金融上の記号として取引され、莫大なカネを生み出している格差バブル経済の現在、現物しか売れないレストランはいくら超一流・超高級であっても儲けの規模は知れたものです。

そこに、どうして他の連中と同じような大儲けができないんだ、と不満に思った「高級・一流・老舗」処があっても不思議ではないでしょう。それが船場吉兆であり、赤福であり、比内地鶏であり名古屋コーチンだったんでしょう。いずれも「名門」に比例する儲けを得て当然だと思ったわけでしょうな。

そこで現物ではないブランドという記号だけで売ろうとした。あるいはブランドという記号を誤魔化すことで現物を売ろうとした。そうやって現物を離れて記号をやりくりする以外に、ケタ違いの金儲けが可能となる手段はないのですから。しかし、現物を離れては食は存し得ない。その齟齬が表面化したのが偽装問題なんでしょうね。

ミシュランも所詮、こうしたブランド化のための記号の集大成でありますわな。ですんで、ご高齢の小野二郎さんの出てない「すきや橋次郎」は記号だけが一人歩きすることになる。

でも、食を志す人は、ゆめゆめそうした記号で金儲けできるなどと思わないほうがよろしいでしょう。与えられるのは客からの笑顔と尊敬だけ。それが現物しか売れない商売の宿命なのですもん。因果なもんですが、それを覚悟できる人だけが食の道に進む資格があるのだと思います。つらいねえ。

November 07, 2007

がんじがらめになれや

いま小沢の記者会見を見ていました。NYは未明の3時過ぎ。緊急生中継。
とはいえ、TVジャパンですけどね。

いやはやしかし、さすが二日間考えていただけあって尻尾は見せなかった。そつがないというか。
読売の記者の突っ込みにはナベツネの影をちらつかせて、てめえのところのボスが仕込んだ話だと示唆する。

さてさてこの前のブログで私も、これはナベツネとナカソネの策動による、安倍との党首会談の失敗のときからの続きの話だと書いていたのですが、それがこうやって記者会見でも表沙汰になると、逆に政策協議も大連立も遠のいたと見てよいのか。やりづらいわね、もう。

たしかに、政治では福田の言ったように阿吽の呼吸めいたところが付き物ですが、そういうのは会見ではふつう、触れないものです。それを会見でも明言したというのは、小沢の復帰はその名言なしにはなかったことで、これですなわち、辞意表明の発端であった党首会談はなかったことになった、に等しいですわね。

それはきっと小沢の改憲に向けた信念からいうと違うはずですが、二大政党制というもうひとつの信念(というか、そうじゃないと彼が自民を出た価値がない)に、今回は軸足を置いているところを見せつけたわけです。うまいじゃありませんか。

いや、うまいという彼の方の都合だけではなく、さすればこれは逆に、彼自身もやはり自民との対決姿勢でがんじがらめになる、という意味では私の「希望的観測」にとっても都合の良いことでもあります。

私としてはなにも言いません。とにかく連立だけはやめてほしい。密室で決める大政翼賛体制だけはぜったいに避けたい。そのためには、小沢だろうが何だろうが、パフォーマンスでも何でもいいからそうやってがんじがらめになってくれ、と思うだけです。

October 30, 2007

時野谷浩というアホ

ひさしぶりにとんでもないタワケを見つけました。

時野谷浩.jpg

こいつは何者なのでしょう?
しかし、こんな記事を載せるゲンダイネット(って日刊ゲンダイ?)ってどういうタブロイド紙に成り下がったのかしら?

まずは以下をゲンダイネットから引用しましょう。

**
おネエキャラ“全員集合”はメシ時に放送する番組か
2007年10月29日10時00分

 23日に注目の「超未来型カリスマSHOW おネエ★MANS」(日本テレビ、火曜夜7時〜)がスタートした。昨年10月から土曜日の夕方に放送され、今月からゴールデンタイムに格上げされた全国ネットのバラエティーだ。

 番組の内容はタイトル通りで、“おネエ”言葉を話すおかまキャラの出演者が大騒ぎするというもの。レギュラーはIKKO(美容)、假屋崎省吾(華道)、植松晃士(ファッション)ら9人。

 23日の放送で特に目立っていたのはIKKOで、胸がはだけた黒いドレスを着て、ハイテンションで「どんだけ〜」を連発していた。視聴率は11.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。これを世帯数にすると関東だけで200万世帯近くが見た計算になる。

 東海大教授の時野谷浩氏(メディア効果理論)がこう言う。
「私は番組の冒頭を見て、夕食時に見る番組としてふさわしくないと判断したので、チャンネルを変えました。アメリカでは、不快に思う人に配慮してホモセクシュアルの男性をめったにテレビに出演させないし、もし登場させるとしても、ノースリーブの衣装は着させないなどの工夫を凝らします。日本のテレビ局にもそういった配慮が必要だと思います。特にゴールデンタイムは子供もテレビを見るし、夕食をとる人が多い時間帯だからなおさらです」

 メシがまずくなる。それが問題というわけだ。

***

>アメリカでは、不快に思う人に配慮してホモセクシュアルの男性をめったにテレビに出演させない

どこのアメリカなのでしょう?
すくなくとも私の住んでいるアメリカではホモセクシュアルの男性はかなりの番組で、ネタかとも思えるほどに出ているんですが……。

と思いながら再読すると(再読なんかに値するようなテキストではないのですが)

>もし登場させるとしても、ノースリーブの衣装は着させないなどの工夫を凝らします

あ〜、わかった、こいつ、ドラァグクイーンのことを「ホモセクシュアルの男性」だといってるんだ!
ひえー。いまどき珍しい、すげえアナクロ。
ドラァグクイーンというのはトランスヴェスタイトの商売版みたいなもんで、いわゆる女装しているプロたちですね。こういう基礎的なことも誤解しているようなひとを、東海大学はよう雇い入れてますな。

この時野谷、じつは先日も産経にこんなコメントを寄せていました。
記事はゲンダイネットのそれとじつは同じネタです。ふーむ。おもしろいねえ。

***
性差を超えたエンタメ人気 社会モラル崩壊の象徴?
2007.10.7 21:50

 性差を超えたエンターテインメントが世界的なブームだ。日本では中性的な男性タレントが大挙して出演するテレビ番組や、女性歌手のヒット曲を男性歌手がカバーした企画盤が人気を獲得。米ハリウッドでは男優が太った中年女性、女優が男性ロック歌手を演じ話題だが、「テレビ文化がけじめなき社会を作り上げた証明」と批判する専門家もいる。(岡田敏一)

 流行語「どんだけ〜」の生みの親で知られる美容界のカリスマ、IKKOさんや、華道家、假屋崎省吾さんら大勢の中性的な男性タレントが、最新ファッションや美容、グルメ情報などを紹介する日本テレビ系のバラエティ番組「超未来型カリスマSHOW おネエ★MANS」。

 昨年10月から毎週土曜日の午後5時半から約30分間放映しているが、「普通、女性ファッション誌によるテレビ番組の取材は皆無なのに、この番組には取材が殺到しました」と日本テレビ。

 夕方の放送にも関わらず若い女性の支持を獲得し、今月末から放送日時が毎週火曜の午後7時から約1時間と、ゴールデンタイムに格上げ、全国ネットに登場する。

 音楽の世界では、ベテラン男性歌手、徳永英明さんが、小林明子さんの「恋におちて」や、松田聖子さんの「瞳はダイアモンド」といった有名女性歌手のヒット曲をカバーした「VOCALIST(ボーカリスト)」のシリーズが人気だ。

 男性歌手が女性歌手の楽曲に真正面から挑むという業界初の試みだが、平成17年9月の第1弾以来、毎年ほぼ同時期に発売。今回の第3弾(8月発売)までの売り上げ累計は計約150万枚。

 発売元であるユニバーサルミュージックの邦楽部門のひとつ、ユニバーサルシグマでは「主要購買層は20代から30代の女性ですが、予想以上の売り上げ」と説明する。

 ハリウッドでは「サタデー・ナイト・フィーバー」などでおなじみのスター、ジョン・トラボルタが、人気ミュージカルの映画化「ヘアスプレー」(日本公開20日)で特殊メイクで太った中年女性を熱演。

 また、ヒース・レジャーやリチャード・ギアら6人の俳優が米ロック歌手ボブ・ディランを演じ分けるディランの伝記映画「アイム・ノット・ゼア」(米公開11月)では、オスカー女優ケイト・ブランシェットが男装し、エレキギターを抱えて1960年代中期のディランを演じる。

 こうしたブームについて、松浦亜弥さんのものまねなどで人気のタレント、前田健さんは「歌舞伎や宝塚歌劇のように日本では男が女を演じる文化があるが、最近のブームは女性受けを狙ったもの。今の芸能界では女性の人気を獲得しなければスターになれないですから」と分析する。

 一方、メディアの変遷などに詳しい東海大学文学部広報メディア学科の時野谷浩(ときのや・ひろし)教授は「テレビの登場以前は社会のモラルが明確だった。男は男らしく、女は女らしかった。そのけじめを壊したのがテレビ文化。社会秩序を破壊している」と批判的に見ている。

****

もう、いかがなもんでしょうと問うのもバカ臭くなるような情けない作文です。

岡田というこの記者はたしかロサンゼルスでオスカーを取材したりしていた芸能記者だったはずです。ブロークバック・マウンテンとクラッシュのときのオスカーの授賞式(2005年?)ではもちょっとまともなことを書いていたように記憶していますが、なんでまたこんな雑な記事を書くようになってしまったんでしょう。いずれにしても東京に帰ったんですね。

だいたい、日本では徳永以前から演歌界では女歌を男が歌うというジェンダーベンディングの伝統があって、それはまあ、歌舞伎から続く男社会の伝統とも関係するのですが、そういうのをぜんぶホッカムリしてこういう作文を書く。大学生の論文だってこれでは不可だ。

いやいや、時野谷なるキョージュの話でした。

>テレビの登場以前は社会のモラルが明確だった。男は男らしく、女は女らしかった。そのけじめを壊したのがテレビ文化。

口から出任せ?
こいつ、ほんとに博士号を持ってるんでしょうか?
恥ずかしいとかいう以前の話。
反論の気すら殺がれるようなアホ。
どういう歴史認識なのでしょうねえ。

テレビの登場以前は、云々、と書き連ねるのも野暮です。ってか、なんで小学生に教えてやるようなことをここで書かねばならないのか、ま、いいわね、どうでも。

しかし、いま私がここで問題にしたいのは、じつはこの時野谷なる人物が、同じ論調の、同じネタで同じように登場してきたというその奇妙さです。もちろん同じネタとコメンテーターのたらい回しという安いメディアの経済学というのは存在します。でも、あまりにも露骨に同じでしょう、上記の2つは?

同じ論調、同じバカ、ってことで思い出したのは、あの、都城や八女市での男女共同参画ジェンダーフリーバッシングのことです。これ、似てませんか? 後ろに統一教会、勝共連合でもいるんでしょうかね。時野谷ってのも、その子飼いですかな。しかし、それにしてもタマが悪いやね。

<参考>
安倍晋三と都城がどう関係するか

October 20, 2007

爆弾武装の“天皇”

言葉が悪いが、「ったく、やりやがったな、赤福め」としか浮かびません。こないだ「不二家や白い恋人とは本質的に違う問題」と指摘したばかりだったのに、じつは同じようにとんでもない事件だった。ニャロメ、ですわ。

こういう問題がどうして報道側に明らかになるかにはいろいろな道筋があります。いずれにしても火のないところに煙は立たずですが、赤福の場合、けっきょく摘発が最後に「余り物の再販、再利用」という疑惑までたどり着くとわかっていて報道側も事前からあおっていたのかどうか。もしそうならそれを読み切れなかった私の甘さですが、まあ、仮にそうだとしてもあのヒステリア状態はルール違反、フライングですけれどね。

さて日本の報道メディアの矛先は今週から少し変わってきました。防衛庁・省の「天皇」の異名もあった守屋武昌前事務次官の、軍需商社とのゴルフ接待癒着へとシフトしてきています。これも赤福同様連日のトップニュース。いまのところ「自衛隊員倫理規定」違反というちっぽけな疑惑ですが、もちろんこんなもので済むほど甘いものではないことは今度は私も知っています。なにせ動いているのはあの東京地検特捜部です。

発端は軍需商社「山田洋行」の元専務が仕事と部下を連れて新しい会社「日本ミライズ」を作ったことのようです。そこで、自衛隊の次期輸送機CXのエンジン契約をその元専務側に取られそうだった山田洋行が、意趣返しとばかりに元専務と守屋の行状を調べ上げた。そうしてリークされたゴルフ癒着。特捜部としてはその後に大規模贈収賄事件という巨悪の摘発を描いていることは間違いありません。

日本の官公庁の怠慢ぶりばかりの目立つ昨今、事件摘発も耐震偽装やライブドアがいまいち尻つぼみでがっかりしたものですが、満を持したかのように東京地検特捜部がこういう動きをするとドキドキしてしまいます。 

さて事件はどう進むのか? まずはその元専務の山田洋行在任中の特別背任という経済事件で入っていくでしょう。そこからがしかしわからない。前次官の国会証人喚問でどんな話が出てくるのかにかかっているからです。爆弾が出てくるのかしらね。まあ、それはないでしょうけど、彼が爆弾を抱えているのは確かです。

なんといっても防衛省の“天皇”なのです。2年をめどに交代するのが普通なのに4年以上も次官職を続けたこの大物官僚と、現大臣でもある石破茂や久間章生、額賀福志郎、瓦力といった防衛族のビッグネームたちが懇ろでなかったと考えるのはあまりにナイーヴでしょう。もちろん守屋の子飼いの防衛庁・省幹部も、です。それらがすべて山田洋行のその専務らとつながるわけであって。

守屋前次官は「組織に迷惑をかけた。組織に話してから説明する」とメディアに話していますが、はて、その落ち着いた顔にはともすると「組織」に伺いを立てる振りをしながら、歴代防衛長官・大臣らの弱みの暴露をちらつかせるような凄みが見えたような見えなかったような……。

前次官の摘発はおそらく避けられないでしょう。しかし彼がどこまで抵抗するか。あるいはどこまで諦めて特捜部に政治家を渡すか。いまきっと永田町と霞ヶ関で熾烈な裏の駆け引きが続いていると思います。

いずれにしてもこれは重大事件です。新テロ対策法なども吹っ飛んでしまうかもしれず、そうなると福田政権の命取りになるかもしれません。その場合は総選挙になる。しばし目が離せない状態が続きそうです。

October 17, 2007

正義の顔したサディズム

亀田だの赤福だのと、なにやらうんざりするニュースが日本から流れてきます。いや、わたしがうんざりしているのは亀田、赤福そのものだけではなくて、むしろその取り上げられ方です。

東京新聞の13日付の一面コラム「筆洗」に「たかだか十八歳の“悪ガキ”が」というふうに綴った、なかなか当を得た文章が載っていました。

わたしも「たかだか18歳の悪ガキ」を主語にすれば、その強がりと敗北とを、こうもマジに怒ったり快哉を叫んだり、むしろふだんはボクシングなんか見ないような人までがまるで百年来のボクシングファンであったかのように「世界戦への冒涜だ」「日本の恥だ」と憤ってみせるのは、さて、いかがなものかと思っちゃう部分があるのです。(「筆洗」は新聞社の顔としてそういうふうにあからさまに過激には論は飛ばしませんが)。

もちろん亀田一家の言動は目に余ります。放送というか後援・プロモーターみたいなTBSも調子に乗り過ぎだ。でもそれにカッカすればするほど視聴率は上がり一家もテレビ局もしてやったりなのでしょう。時代劇じゃないけれど、この一家のことを見るにつけいつも、捨て置け、捨て置けというセリフが口をついて出てしまいます。

つい2か月ほど前には同じようなことが朝青龍について起きていました。これも「国技」を汚した、「横綱」の面汚しだ、というニュアンスでしたが、そりゃ朝青龍もなってないが、しかしそんなに大上段に怒ってみせることなのか。それはもうここに書きましたね。

要約すれば相撲協会なんて、組織としては「なんぼのもんじゃい」ということ。記したように元NHK相撲アナウンサーで現・相撲ジャーナリストの杉山さんの取材証取り上げ問題なんか、むしろそっちのほうが大問題だと思うのですが、しかしこれに関しては「街の声」はどなたも怒ってくれてませんでしたわ。

そして赤福です。

そりゃ「毎日その日の作りたて」と偽ったのは赤福は悪い。でも、問題はそれだけで、ならこれは雪印牛乳や不二家や白い恋人やミートホープとかの不祥事とは本質的に違う話ではないか。

後者はみんな原材料にまかり間違えば腐ってたようなもんを使って出荷していたのです。でも赤福は急速冷凍して加熱解凍したものを「作りたて」と称して出荷していたのが問題。冷凍ならべつに肉や魚でもやってるし、冷凍マグロを生マグロとやったら値段も違ってカネ返せとなるけれど赤福程度なら返ってきても数十円でしょうか。ですんで、これも「おいおいセコいなあ、赤福」という程度のことで、「裏切られた思い」とか「お前も偽装か」とかいう「街の声」を聞くと、なんか違うかなあと思えてしまうんですわ。ま、わたしは赤福なんぞ年に一度食べればいいくらいで、それもべつにそんなに幸せになるほどうまいってもんでもないと思ってるんで、そもそもそういう「街の人」みたいな思い入れがないからそう思うのかもしれませんが。

友人の一人はでも、毎回デパートの物産展で赤福を買うくらいのファン(?)というか親御さんが好きなんで買ってあげるんですって。で、でも「その日に作って空輸するので」という理由で赤福だけ商品の入荷が遅れるんだわね。で、整理券なんか持たされる。

彼女はこう書いてます。
「9時半に行って整理券をもらった私としては腹は立っています。随分余計な勿体をつけやがったな、という心境です。」

これはわかりますね。はは。こういう個人的な思いはどんどん伝えるべきだ。

でも、今回長々とこれらを例示したのは、いずれもそういう「個人」の思いとは毛色の違うように見える、つまりこれら「街の声」の後ろに見え隠れする「正義」のガチムチさ加減です(用語違う?)。肩を怒らせた「正しさ」の嫌らしさ、っていってもよいか。しかもそういうのに限って「日本」だ「国技」だ「伝統」だとやたら話が大きい。怒ってる人自身が権威を体現しているみたいです。

悪者を懲らしめることは必要でしょう。けれどいつの間にか懲らしめること自体が快感になってはいないか。叩き、石打つことを楽しんでいないか? それはサディズムです。イジメやネット上の「マツリ」と同じです。そんな激発的な“正義”の振りかざしが、このところの日本社会に横行しているように見えてなりません。

東京新聞の筆洗子は亀田の件に関して「ちょっと気掛かりなのは、正義役を振られた内藤王者が「“国民”の期待に応えられました」と、コメントしてみせたこと。ヒールを立てて熱狂しやすいこの国で、小泉煽動(せんどう)政治の怖さを体験したばかりだから、なおのことだ。自分が倒したタイの前チャンピオンとの実力比較より、12回保った少年の潜在能力と将来性をもっと称(たた)えてやれば、さらにかっこよかった。斜陽のボクシング業界のためにもなる」と書いてありました。

はたと膝を打つ大人の書き物でした。
「負けたんだから公約どおりに切腹や」なんて言ってるひとたちがとてもカメディに見えます(造語)。

Continue reading "正義の顔したサディズム" »

October 11, 2007

出たか、妖怪!

毎日新聞.jpから抜粋
つまり、レゲエ音楽の流れるCMにIKKOというオネエ(TG? TV?)キャラが出てるのがとんでもないって、レゲエファンがマツリをしたって話ですわ。
西村綾乃記者、よくこのネタを見つけたね。面白い。(ちょっと文章が回りくどくてわかりづらいけど)

MINMI:楽曲提供CMにIKKO出演でバッシング ブログで反論

MINMIさん
 人気レゲエグループ「湘南乃風」の若旦那さん(31)との子供を妊娠中で、12月に出産を控えているソカシンガーのMINMIさん(32)が楽曲提供した化粧品のCMに、美容研究家のIKKOさん(45)が出演していることが、一部のレゲエファンの間で異論を呼び、MINMIさんの公式ブログの使用が一部制限される騒ぎになっている。

 CMは、8月から放送された美禅の「トリートメント・リップ・グロッシー」で、7月に発表したシングル「シャナナ☆」に収録した「MY SONG」が起用されている。だが、MINMIさんが歌う「ソカ」という音楽のルーツとなるレゲエ音楽では、同性愛を認めないというルールがあると解釈している人もおり、ソカシンガーとして世界からも注目されているMINMIさんの楽曲が使用されたCMに、“おねえキャラ”として人気を集めているIKKOさんが出演していることに対し反発した人たちが、MINMIさんのブログに中傷の書き込みを続けたという。そのため、ブログの書き込み機能を制限している。

 MINMIさんは、3日のブログで「CMを創ってる“美禅さん”が曲を気に入ってくれてmy song を使ってくれた。ギャラも発生してないし、出演者のキャスティング、内容とかは、もちろん向こうの制作の方やスタッフが決めて、私の仕事のはんちゅう じゃない」と再反論。続けて「もっと日本の今の社会で戦う相手考えたり訴えたりする事があると思う。勇気をもって、自分に正直でいるっこんなタフさとリアルさが私にとってのレゲエ。魂なんか全く売る気ないよ」とつづっている。

 MINMIさんは、02年8月、50万枚を売り上げたシングル「The Perfect Vision」でデビュー。ソカアーティストとして楽曲制作・提供のほか、イベントプロデュースなど幅広く活動している。【西村綾乃】

ソカはたしかに、ってかジャマイカそのものが土着宗教的にアンチゲイだし、元をただせばアフリカ諸国がそうだからしょうがない(ってわけじゃねえが)。つまりアンチゲイだから唄もそうなるってことです。
それを、日本のこのホモフォウブたちゃ唄とかミュジシャンがそうだからアンチゲイになるって、そりゃあまりに安易に主客転倒じゃねえの、ったく。頭使って考えろよなあ。それ、モジャモジャにするためにくっついてんじゃないんだってえの。

先日、産經新聞にもおバカなジェンダー境界曖昧バッシング作文記事が載ってたようだけど、ほんと、どーしてくれよう。

それにしてもこのMINMIさんとやらのコメントも、前半は及び腰ながら(ってかそれが事実だってことでしょうが)後半は意味やや日本語になってないがなかなか立派。

「もっと日本の今の社会で戦う相手考えたり訴えたりする事があると思う。勇気をもって、自分に正直でいるっこんなタフさとリアルさが私にとってのレゲエ。魂なんか全く売る気ないよ」
=翻訳=
「あんたら、そんなくだらんこと言ってるひまあったら、もっと戦うべき相手や訴えるべき事がこの日本社会の中にはたくさんあるでしょ。それを考えれや、なあ。IKKOがどうだとかは知らんけど、自分に正直でいるってすごい勇気だし、そういうタフさとリアルさとがわたしにとってレゲエから学んだもんだい。そのスピリッツを、あんたらがこのブログサイトを祭ったくらいで、あたしゃぜったいに手放したりはしないよ、あほ!」ってことですわね。

応援コメントは次の彼女のブログ・サイトからどんぞ。
http://blog.excite.co.jp/minmiblog/
って書いてから、上記ブログ、コメント制限してる事に気づきました。失礼。
どうにか、でも、彼女に応援コメントを伝えたいね。

それと、その化粧品メーカーのサイトはどうなんでしょ。
こりゃきっと、そのファッショ・ラスタファ連中がアンチゲイメールを殺到させてるかもしれない。
そうなったら、マジ、これはバカのたわ言じゃなくなるわ。

September 25, 2007

「死刑執行はベルトコンベヤー式で」

「死刑執行はベルトコンベヤー式で」 鳩山法相が考え

ってえashi.com早版での見出しが、いま見たら変わってた。

「死刑執行、自動的に進むべき」 鳩山法相が提言

と。
記事内容は以下のごとし。

**
2007年09月25日11時41分
 死刑執行命令書に法相が署名する現在の死刑執行の仕組みについて、鳩山法相は25日午前の退任記者会見で「大臣が判子を押すか押さないかが議論になるのが良いことと思えない。大臣に責任を押っかぶせるような形ではなく執行の規定が自動的に進むような方法がないのかと思う」と述べ、見直しを「提言」した。

 現在は法務省が起案した命令書に法相が署名。5日以内に執行される仕組みになっている。

 鳩山法相は「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば(執行される死刑確定者が)次は誰かという議論にはならない」と発言。「だれだって判子ついて死刑執行したいと思わない」「大臣の死生観によって影響を受ける」として、法相の信条により死刑が執行されない場合がある現在の制度に疑問を呈した。

**

「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが」というところのこの「言っちゃいけないが」があるんで救われた格好。しかし、これ、言外の意味では「言っちゃいけないが、そんな感じの方式で」という意味でしょう。それを酌んで変更後の文言も「自動的に進むべき」となった。ということは最初の見出しだって、鳩山さんの言いづらいところを代わって言ってあげた、ってことでしょうがねえ。でも、「言っちゃいけない」って言っている比喩を「言った」こととして見出しにするのは言葉尻というか揚げ足というか、意地悪じゃないかね、と夕刊早版デスク会議で朝日社内のだれかが言ったんだろうねえ。 まあ、鳩山側から文句出てくるでしょうねえ、と。

しっかし問題は、その鳩山の口から「ベルトコンベヤー」という単語が出てくることそれ自体なのだ。思考の歩幅のとんでもない雑さのことです。自民党にはほんと(民主党にもいますがね)、往々にしてこの手の輩がうんざりするほど多いんだわ。

一昔前までは「死刑制度があってもなくても凶悪犯罪の発生率は変わらない」という調査結果が主流で、私も、それじゃ死刑があったってそれは報復のためでしかなくて、未来のためにはなんにもならんじゃん、という意味で死刑廃止論者だった。しかしいまでは死刑制度が確実に凶悪犯罪への抑止効果を持つという調査結果が出て来ていて、さていったいどういうことなのか。

もしそれが本当なら死刑反対論の背骨はほぼ冤罪の可能性だけとなり、私のスタンスも変わらざるを得なくなる。殺人は、とにかくまずは死刑。デフォルトとしてそこから始まる。そんで、どんなけ情状を酌量できるか、そのよほど特別な例外点を引き算していく。もちろん冤罪の恐れのある場合は……云々、クンヌン、と。アメリカ生活が長くなったせいかなあ。刑罰は懲罰ではなく、更生のためだという、そういう理念だけじゃダメなやつも、たしかにいるんだものさ。そういうやつを国家が殺してくれなければ、被害者の遺族なりがそいつを報復として殺してしまって、新たな不要な殺人犯を生み出すことも想定される。国家が裁くこと=殺すことで、建前上は恣意的な仇討ちがなくなったということになっているわけだからして……。うーん、わからん。

しかし、ベルトコンベアとか乱数表とかって、それって屠殺場の発想でしょう。そういう連想、そういう言葉を死刑執行の比喩としてだって口に出せるやつは、なんか、どっかすごく重大なところで間違ってるわってまずは思うわけですわ。肝心なのは、上記の、「うーん、わからん」ということなのだと。

法相は、国民の名において死刑を執行するのです。上記の「うーん、わからん」を含め、死刑制度自体が内包する自家撞着のジレンマに、1億2千万の人間としての苦渋を込めて、判をつく、あるいは逆に判をつかない決断をするってのが当然でしょうが。死刑ってのはそういうところでかろうじて成り立っているもんだろうし、それを司る代表者ってのはそういう責任と重圧と(死刑に判をつかないことも含めて)に耐えるもんであることがアプリオリに求められる。だから安倍だって頓死したんだろうに。

そこを簡単に済ませてもらっちゃ違うんだってことを、どうしてこのバカはわからんのだろう。ってか、そういう機微についてバカだから政治家になれたんでしょうね。私がいつも感じる政治家という存在の、思考形態の空虚さというのの、典型がまた簡単に例示されてしまう形です。情けないというか呆れるというか。

September 23, 2007

マッチポンプ

年金も、格差も、外国からの(軍事的)信用も、障害者自立支援法のとんでもない欠陥も、シャッター通りの疲弊も、農業の衰退も、環境悪化も、山野の荒廃も、珊瑚礁の死滅も、安倍の頓死も、政治不信も、そうして郵便ポストが赤いのも、みんなみんな、自民党の政治の下で起こったことで、それをネタにして「これじゃいけない」「改革だ」「私が全力を尽くして打ち込む」というのは、どーなんでしょう、そういうの、茶番というか、もっとはっきり言って、マッチポンプとかいうんじゃないでしょうか?

自分で火をつけて、火元にいちばん近いこの私が消してみせますと言って歓心を買う放火犯と同じということです。そういうの、通用するんですか? するんだろうねえ、この流れじゃ。でも、メディアがそれに対して無批判なのはどういうことなのでしょう。まあ、テレビは言論機関ではないからしょうがないのか。

日本にいないのでよくわかりませんが(これはじつに都合の良い便利なエクスキューズですわね)、メディア、とくにこちらで放送されているNHKもフジも、ニュースはいつも最初がこの自民党の総裁選挙でした。まるで朝青龍問題にすっかり取って代わったスクラム状態です。まあ中学生なら総裁と総理がどう違うのかよくわからないのも宜なるかな。しかしねえ。

もちろん自民党総裁が日本国総理大臣に直結するというのが集中報道の言い訳なんでしょうが、しかし、政治状況の変化の割には総裁選の報道のあり方があまりにお祭り的に旧態依然であって、現在のこの火急の時勢にまったく、無神経という印象です。だって、それこそ冒頭で書いた、放火消火犯そのものの演説を無批判に垂れ流ししているだけですからね。(でも、日本記者クラブでの福田・麻生両者の突っ込み合いはドキドキするくらい恥ずかしくて面白かったわ)

それも今日で終わって、福田の選出となるわけですが、時事がさきほどこんなニュースを配信しました。

**
米艦、イラク戦使用の可能性=インド洋の海自給油活動で−自民・福田氏
(時事通信社 - 09月23日 13:11)

 自民党総裁選に立候補した福田康夫元官房長官は23日午前のテレビ朝日の番組で、テロ対策特別措置法に基づき海上自衛隊がインド洋で給油した米国艦艇が、イラク戦争に参加した可能性があるとの見解を明らかにした。
 福田氏は「インド洋(で活動する米艦)と思っていたものが途中から『イラクに行ってくれ』ということも、あったかもしれない」と述べ、米国に情報提供を求める考えを示した。 
[時事通信社]

**

このひと、いったいどこまで本気なんでしょうかね。テレビ中継されてた、二度繰り返しの「ねえ、麻生候補もおなじですよね、ね」という、あの、言うに事欠いて同意を求めるような哀願しどろもどろの結句といい、いやはや、この人に任せていたら、たしかに日本は軍事強硬策には出ないだろうなあという、平和ボケならぬボケ平和的な政治姿勢。

ひょっとしたら、福田の方が総理大臣にはいいかもしれませんね。イラク給油暴露発言も、あるいは確信犯なのかも。

さて、総裁選投票箱がいま開けられました(同時中継)。
ちょっと見ていましょう。

出ました。
総数528票 無効1票
福田 330票(うち地方76票 議員票254票)
麻生 197票(  同 65票  同 132票)

ということでした。
ふむ、やっぱり麻生、予想より取りましたね。
さて、福田総裁政権、いつまで持つのでしょうか。

September 16, 2007

自民党総裁選立会演説会

立会演説会がNYでもTVジャパンでいま現在、生中継されています。

福田の呂律がじゃっかん回ってない。緊張のせいでしょうか。それとも年齢のせいか。つばが出てないようです。口の中が乾いている感じです。

思えば1年前、安倍の総裁選演説で、眼球振盪があったのを覚えています。この眼振はその後、つねにストレスが強まると出てきた。

福田の呂律は何を意味しているんでしょうね。
71歳。
まあ、年だわねえ。

福田が総理になれば、安倍みたいに余計なことはしないだろうからその意味ではまあいいかなとも思うのもわかる。民主党も福田では違いを打ち出していくのも難しいから戦いにくいでしょう。

でもね、福田がどうだ、小沢がどうだ、という問題ではないのですわ。問題は、二大政党という、政治の流動的な力学、ダイナミズムを作らねば日本の政治はどうにもよくならないということなのです。民主は、そこをどうわかりやすく国民に訴えていけるか。それが鍵でしょうね。

おっと、麻生の演説が始まった。
文節の終わりの音節が長く伸びる変なしゃべり方ですねえ。
変なリズム。
「危機に〜、臨んで〜っ、」「その〜、二文字とは〜、希望で〜あります」。

だんだん、演説がおかしな歌みたいになってく。紋切り型の単語と熟語が増えてきた。

「世界が〜、それに〜、耳を〜、傾けます」
「40,50にもなれば〜、己の顔に〜、自信を持てと〜、言われます」

両候補とも、言葉の力を、あまりに矮小化した演説。譬え話もあまりに陳腐。こんなブルシットしか開陳できない。

なさけないねえ。

と思って聞いてたら、麻生、後半10分の演説、印象が変わりました。
俄然説得力があったわね。リズムも変わった。言いたいことを言ったし、具体的でした。ふむ。

「インド洋をテロリストの勝手にさせない」という部分だけは事実誤認のミスリードですが。あの貧乏なテロリスト連中がインド洋をどうにかできるもんではない。

しかしこの演説の後半部で、派閥の数だけでなくもうちょっと票が伸びるかもしれんな、こりゃ。

September 14, 2007

けっきょく福田だ

また派閥の数関係ですぐに結果の予想できる自民党総裁選となりましたね。

麻生はいかにもお調子者でハシャギ過ぎの、北海道弁で言えば「すぐにおだつ奴」で、安倍とは別のタイプのお坊ちゃん。オタクだのマンガだの、しゃーしゃーと恥ずかしいことを得意になって言っちゃうのは、子供時分から周囲に「恥ずかしい」と進言してやるやつがいなかったからでしょう。したがってこいつもまた、空気の読めないやつである。頭よくないのかなあ。

福田は、見るからに他力本願。新聞記者たちもやりづらいでしょうねえ。こいつは肝心なことは話さない。でも、話さないのは、じつは自分で独自に考えていることがないからなんです。今回の総裁選も、自分に勝機があるというだけで出馬を決断した。政策は「これから執行部やみなさんと相談して考える」というタイプ。企業のラインを務め上げるそつのない日本のサラリーマンですわね。

自民は福田のそつのなさで(言い方を変えれば、面白味のなさで)、民主の攻勢を真綿で受け止めるようにして(言い方を変えれば、だらっとした気分をよみがえらせ)世論の熱気を冷まそうとするでしょう。で、解散総選挙はできるだけ先延ばしにする。で、元の木阿弥。

そうしておいて勢いをそがれた民主に大同団結を持ちかけて、憲法改正翼賛会。自民のハト派が盛り返すなんてこともありそうにないですからね。逆に民主の松下政経塾の連中がそんな自民に秋波を送るでしょうし。

以上が最悪のシナリオ。
いやもっと悪いのもありそうですが。

そうならないためには、とにかく早く解散・総選挙ですよ。

September 13, 2007

北の湖という男

朝青龍のときに書こうかどうかと迷っていてけっきょく書かずじまいだったのは、北の湖というのが私の中学時代からの親友の親戚だったということもあるんですけど、今回はやっぱり書かねばと思います。

この話です。nikkansports.comからの転載です。

「評論家」改め「会友」で杉山氏に取材証
(日刊スポーツ - 09月13日 10:04)

 日本相撲協会の北の湖理事長(54=元横綱)が、元NHKアナウンサーの杉山邦博氏(76)の「取材証」を10日に没収した問題で、同理事長は12日、杉山氏への措置を撤回して取材証を本人に返還した。

 両者はこの日午後1時30分から両国国技館内の理事室で約10分、話し合った。北の湖理事長は、前日11日に東京相撲記者クラブの抗議文への回答で示した没収理由の1つ「本場所で取材証を持って取材できるクラブの会友であるのに、相撲評論家などの肩書でテレビに出ていた」をあらためて主張。杉山氏が「その点は配慮を欠いた。これからは会友として出演する。今後も相撲協会の応援団の一員です」と返すと、あっさり取材証を返還した。

 一方で、もう1つの理由「出演番組でほかの出演者の批判的なコメントに、杉山氏がうなずいて同意した。協会批判だ」とした点については、杉山氏が意見を述べようとすると「もう、この件は終わりです」と論争を避けるような態度を取ったという。その上で、東京相撲記者クラブには「協会への批判等は真摯(しんし)に受け止める」などと回答した。また、杉山氏に対して10日に十分な説明もなく取材証を没収した行為への抗議については「今後、取材者に返還要求をする際は、事前に東京相撲記者クラブに相談する」と約束した。【柳田通斉】

この北の湖という男に関しては、実は個人的な思い出があります。
2000年のことでしたか、じつはこれも友人のドキュメンタリー映画作家が日米関係における「相撲」の文化的考察を撮りたいというので、私に日本でのロケの手伝いを頼んできたことがありました。それでぜんぜん畑の違う話ではあったけれど、私が相撲協会から学識者から相撲部屋からいろいろと取材と撮影のアポを取って日本各地で数週間にわたるロケを敢行したわけです。

北の湖は当時まだ、理事長ではなく、本場所でも順番持ち回りで花道の警備みたいなことをしていました。そこに私たちがカメラを抱えて土俵を撮影する構えに入っていたのです。そのとき、近くにいた北の湖があの大きな体で無言でカメラの前に背を向けて立ちはだかったのでした。通訳もしていたのでそういうところにも立ち会っていた私はいっしゅん、こいつが何をしようとしているのかわかりませんでした。もちろん撮影は相撲協会の許可を取って、花道の撮影場所まで届けてあります。その日だって別に初めての日ではなく、北の湖だってそれまでも何度も本場所を写している私たちの姿を見ていたはず。で、その日はたまたま自分の近くに私たちがやってきたというわけでした。

北の湖は、その背で、わざとカメラを邪魔していたのです。アメリカ人のカメラマン(女性)も相手が何をやっているのか理解できず、邪魔だというのも日本式には礼を失するかもしれないと変に心配して(とあとから言っていました)右にずれてカメラを構えます。すると北の湖も右にずれてきます。左にずれる、すると北の湖も左に一歩。困っている彼女の顔が見えます。

私はとうとうたまらずに「北の湖さん、撮影してるんですが、よろしいですか?」と声を掛けました。
すると彼は「何だ? 撮影?」と振り返りました。アメリカ人の制作スタッフの方は見ません。私がもういちど「ドキュメンタリー映画を撮影してるんです」と言うと、彼は「そんな話、聞いてない」と言います。「協会に許可は取ってありますが」と言葉を返すと、「知らん」と言ってまた背を向けました。

知らないはずはないのです。それまで協会事務所でも顔を見ていますし、なにせこちらはアメリカ人。カメラやマイクを抱えた外人の姿など、両国の国技館には私たち以外にはいないし、ほかの理事へのインタビューや相撲学校の取材でもう何日も両国に通っていました。北の湖は、ただ、自分へ取材がない,挨拶がないのが面白くなかったのでしょう。それもガキだが、それでそんな嫌がらせをして憂さを晴らそうとしているのも呆れるガキです。そうわかったときに、なんとまあ、相撲協会というのはダメなやつばかりで作られているのだと思ったものでした。はっきりいって北の湖だけではなかったですからね、取材対応のできていないのは。協会の職員までもが同じ体質。相撲の外の世界のことが何も見えてない。協会の内部の論理だけで生きていられると思っている。というかもっと簡単なこととして、一個の大人としてまともに話せるやつがほとんどいないのです。おまけにカネにものすごく汚い。よっぽど困ってたんでしょうかね。

で、さきほどの花道での顛末は、私がやや声を強めて「協会の許可があなたに届いていないということですね」と念を押したら、「いや、知ってるよ」と急にニタニタ顔になって脇に寄って終わり、というものでした。おいおい、これって50になりなんとする男(当時)のやることか?

ああ、こいつはダメだと思ってたら、その何年か後に理事長になった。

で、こないだの朝青龍です。

朝青龍も朝青龍ですが、北の湖が理事長をやっているんだから、あの協会決定の懲罰も公正なものというより子供っぽい報復とか嫌がらせとかいじめとかいう要素があるんだろうなあというのが私の印象でした。くだらなくて、コメントすらバカ臭い。国技とかいってるが、そんなもんです。

そして今回のこの「記者証」問題。

「評論家に取材証は出せない」って、どういう論理でしょう。記者だって評論します。コメントを求められれば評論です。嫌がらせでしょう、これ。同じなんですよ。

また、「出演番組でほかの出演者の批判的なコメントに、杉山氏がうなずいて同意した。協会批判だ」とした点については、何をか言わんやです。自分のことをなんだと思ってるんだ。フセインか、金正日か? 協会批判をした記者は取材証を没収されるということなのでしょうか。「杉山氏が意見を述べようとすると「もう、この件は終わりです」と論争を避けるような態度を取ったという」のは、いったい、どう片を付けたということなのでしょうか? これも私たちに「いや、知ってるよ」と急に掌を返したように対応を変えて、それでなかったことにしたのと、まったく、呆れるほど同じパタンです。で、協会批判は記者証没収の要件なのかどうなのか、東京相撲記者クラブはこの白黒をはっきりさせるべきですわね。

一事が万事。北の湖という下司のアタマの中は、そういう短絡でごちゃごちゃです。朝青龍問題でもけっきょく一度もまともに言葉を発して説明していない。説明できないのでしょう。何度も言うようですが、なにせ嫌がらせといじめが動機なのですから。

そういうことですので、相撲協会のことなどまともに考えるのもバカらしい。だいたい税金もろくに払わないような連中ですよ。7年前の経験からいうと、まともな人も多くいましたが、そういう人たちはほとんど協会では傍流でしたね。惨憺たるものです。

朝青龍の件はどっちもどっちですからどうでもよかったが、今回の杉山さんの件は、ことは言論の自由の問題なのです。

September 12, 2007

総理という重圧

朝起きたらこれだもの、びっくりしたというか、呆れたというか。
しかし、ロバの背を折る最後の藁はどうも健康と自身の金の問題のようですね。

「なんでこんな時期に」というのはみんな同じ反応で私もそうだったんですが、よく考えればそれは安倍自身もそうなわけで、つまりこれはこうせざるを得なかった要因があるんだと思います。それは「党首会談を断られた」などとかいう政治的たわ言なんかではなくて、つまり、ぶっ倒れたってことなんでしょう。

総理大臣ってのはたしかにすごい重圧で、小渕はこれで死んでしまった。大平もそう。あの竹下ですら時限爆弾のように頓死です。角栄だって口が曲がったのは元をただせば総理時代。そんなところに、お坊ちゃんの安倍が就いたこと自体、そもそもの日本の不幸だったのかもしれません。

だいたい、この人、興奮すると呂律が回らなくなり、声がうわずるという、普段のオットリ顔と相反するジキル・ハイド型の政治家。しかもそれに自身が対応できないので、ストレスをためるしかない。「職責にしがみつく」なんていう、意味の通じない日本語が出てくるのも、総身に知恵が周り兼ね、のチグハグさ、精神の一体感の喪失の現れなんだと思います。そもそも、「美しい国」だなんて、字面だけはいいものの内容がさっぱり美しくない彼のビジョンの、国民の意思との一体感の喪失がじわじわと覆いかぶさってたわけですし。ボディブローですよ。

で、そうした精神ストレスが極限に達した。そりゃ達しますわね。医者じゃないんで専門的なことはわからんが、で、下痢が止まらない。胃腸がギタギタになってるんだわ。そこに自身のカネのスキャンダルが出てきそうになってる。もうこりゃたまらんでしょう。

ストレス死ですね、これは。TKOですよ。
坊ちゃんがマッチョを気取るとろくなこたあない。
ってか、マッチョを気取ると誰にしてもろくなこたあないのでしょう。

岸信介は総理を辞したあとも昭和の妖怪として汚い蓄財と裏政治への介入を続けていました。
安倍にはそういうことをさせますまい。まあ、彼の政治生命はほとんど終わりでしょうが、安倍的なものにもトドメをうちたいものです。(うっ、マッチョ発言……すんません)

September 05, 2007

ビリーズ・ブートキャンプ

ビザ更新のために1カか月ほど日本に帰っていましたが、帰るなり友人たちに聞かれたのが「ビリーズ・ブートキャンプって知ってる?」という質問でした。「は?」と聞き返すも相手は「アメリカで大流行のエクササイズだよ」という説明で、こちらとしてはさっぱりわかりません。「そんなの流行ってねえよ」と抗弁しようにも断言できるほどの自信はなく、しまいにはアメリカに住んでるのになにも知らないんだと憐れんでくれる輩も。

テレビつけたらすぐにわかりました。ブートキャンプとは泣く子も黙る海兵隊新兵用の猛烈特訓キャンプのことなんだけど、テレビ画面にはどこかで見たことのある黒人インストラクターが日本語のアテレコで、インフォマーシャルっぽいプロモーションをやたらとやっているわけ。つまり彼のワークアウト・ビデオのことだったのですね。

で、思い出しました。この男、10年くらい前にテコンドーとボクシングを合わせた「テイ・ボウ」なるトレーニング法を考案してアメリカのパブリックチャンネル枠を買い込んでやはり盛んにインフォマーシャルを流していた人。しかしあのころはポニーテールの人だとかモジャモジャ頭の人だとか、いろんなワークアウトのインストラクターがいたなあ。アブなんとかという腹筋器具も手を替え品を替え売っていたっけ。

で、ビリーズ・ブートキャンプ、知らないのは私ばかりかと思ってアメリカにいる友人たちにも聞いてみたのですが、やはり誰ひとりとして知らなかったぞ。しかし日本ではみんな知っていた。なにせ75歳の、実家で一人暮らしの私の母親まで知っていたくらいです。日本側にだれかうまい仕掛人がいたんだろうけど、それにしても日米のこの温度差はいったい何なんでしょうね。

思えばアメリカに来てそういうことがままありました。日本ではかまびすしく「全米で大人気」とか喧伝されているものが、こちらでは「え?」という感じなことがざら。ニューヨークでヒットしたものなんてこの15年で、そうねえ、まずはローラーブレードとスポーツジムかなあ、そんで95年以降にエスプレッソバーが林立し始めたと思ったらそれがあっというまにスターバックスにぜんぶ変身し、それからiPodだね。そんでもって、スシもそうか。それくらいのもんじゃないでしょうか……。

そういえば日本で公開される映画に「全米ナンバー1の大ヒット」とあおられるのがやけに多いと思っていたら、それは毎週明けに発表される週末の映画興行収入ランクでの瞬間風速だというカラクリもこちらに来てから知りました。

それにしても瞬間的な「なんとかブーム」というのが日本には多過ぎるような気がします。(あるある大事典の)寒天とか納豆とかはすぐに売り切れるし、ティラミスからナタデココからたまごっちから、なにかに火がつくと全国的に猫も杓子もそれ一色になってしまう。まあ、アメリカでも最近はゲーム機やアイフォンに行列ができるなど、なんだかオタク化、日本化の進む消費者層も生まれてきましたが。

これにはマスメディア、とくにテレビの影響があるのでしょう。どのチャンネルも同じ内容の横並び。8月は朝青龍一色でうんざりでした。朝青龍よりメディア・スクラムの問題の方が重大です。大袈裟だけど、こりゃあ大政翼賛ファッショと同じメカニズムなんですわいな。国土の狭さと、TVネットワークの東京集中のせいかなあ。朝青龍なんてどうでもいいでしょう。だいたい、相撲協会なんてものすごくくだらない連中が運営してるわけで、国技とはいえ、朝青龍の傍若無人とどっちもどっちなんです。しかも仮病疑惑が尽きないとはいえ、いちおう精神疾患(神経疾患?)と診断された人物をああやって自宅から空港から、飛行機内まで、追いかけ回していいものですか? ひでえよ、テレビ局。

テレビ、電話、漫画はクールメディアだって40年も前にマクルーハンは言いましたが、あのころからよく言ってる意味わからなかったんだけど、時代を経てその分類はすべて逆転したみたいです。当時ホットメディアとされた新聞やラジオ、映画などはいまや受容者の頭を冷やすクールメディアのようです。

思えば、それって単に当時はテレビや電話や漫画が日常にそんなに即してなかったからじゃないのかなあ。マクルーハンはえらく御託を並べてたが、あれは当時もブルシットでしたものね。いまやテレビと携帯と漫画くらい人を熱くするものはない。えらい迷惑です。

ということで、書きなぐりの感のある今回のこれにオチはありません。はは。悪しからず。

August 27, 2007

恥で倒れた仏像

民主党の小沢代表が「アフガン戦争はアメリカの戦争」と言ってテロ特措法の延長に反対していますが、アフガン戦争とイラク戦争とを明確に区別できる人がいまどれくらいいるかというと、当事者のアメリカ人でさえあまりいないんじゃないかというのが正直な印象です。

日本だってそうでしょう。いまさっきもテレビで評論家諸氏がしっかりと「イラク戦争」と言い間違えてましたし。じつは小沢は、そんな“混乱”をうまく利用してテレビ中継までさせてシーファー大使に直かに反対を伝える政治演出を見せたんだと思ってるんですが、さて、どうなんでしょうね。

そもそも小沢の今回の特措法延長反対の宣言の真意は、確かに「アメリカにノーと言える政治家であるということの演出」ではありながらも、じつはアメリカそのものへの強気の「ノー」ではなくて、ブッシュ政権への「ノー」なのですね。ブッシュ不人気はもう米国内だけの現象ではなく、そうした国際的な「脱ブッシュ」の列に加わってみせたからといって日本の国益はそう損なわれまい。もし損なわれたとしても次のヒラリー率いる民主党政権(?)との関係でいくらでも修復できる、そうふんでの小沢一流の政治演出なのではないかと思えました。日本じゃテレビに登場する評論家たちのだれもそんなこと言ってないけど。

ただしこの小沢演出には落とし穴があるのです。

おさらいしてみましょう。
アフガン戦争のきっかけはイラク戦争と同じく例の9・11でした。ブッシュは世界貿易センタービルを破壊されて拳を振り上げた。それはよいのですが、さあさてそれをどこに振り落とせばよいのか、なにせ相手は国家ではなくて流浪のテロリスト、どこに拠点があるかも分からない。で、9.11の下手人としたオサマ・ビン・ラーディン率いる武装組織アルカイダを、アフガンのイスラム原理主義政権党タリバンがかくまっているとして、それでアフガニスタンに拳を振り下ろすことにした、というのが始まりでした。これで体裁は対アルカイダ=対タリバン=対アフガンという国家間の戦争になったのです。思い出してください。当時、アフガン空爆が「これは戦争か?」とさんざん議論されていたことを。

ところが数億ドルもかけて空爆・ミサイル攻撃しても破壊するのが数百円の遊牧テントだった。世界最貧国への攻撃というのは、じつにどうにも“戦果”が上がらない。箱モノ行政の逆ですね。おまけにどこに行ったかビン・ラーディンもさっぱり捕まらない。そこで国民の目をイラクの独裁者フセイン大統領に逸らせた、というのが次のイラク戦争でした。

米国では現在、撤退論かまびすしいイラク戦争に対して、アフガン戦争はあまり話題に上っていません。というのも、アフガン戦線はじつは昨年7月から軍事指揮権が北大西洋条約機構(NATO)に移行し、英・加・蘭・伊・独が主力構成軍です。米国はそうしてイラク戦とアフガンでのビン・ラーディン狩りに戦力を傾注した。なもんで、アフガン戦争を「アメリカの戦争」と言い切ってそれで済むかというと、それはちょっと違うのです。

しかもアフガニスタンは米国の石油戦略にとって重要な中央アジアからの天然ガス・石油パイプラインの敷設予定ルートでもあって、見捨てるわけにはいかない土地です。次期大統領を狙うヒラリーにしても撤退などは口にしていません。NATO諸国にとっても同じでしょうし、日本だってテロ特措法を成立させた当時の小泉政権は日米同盟と同時に石油のことも考えていたに違いありません。

そういう意味で、小沢のテロ特措法延長反対=アフガン戦線からの離脱宣言は、国内向けには演出で済むが、国際的にはよほど裏ですり合わせしなければならない事案なのです。日本の民主党は一刻も早く米民主党およびNATO諸国とそのあたりについてきちんと協議できるパイプを敷設すべきでしょう。

ただし、そこには問題があります。アフガン戦線はイラク戦争と同様に泥沼化してとんでもないことになっています。カルザイ政権も弱体のままです。アフガンへの関与は本来、自衛隊による給油活動などといった程度では済まされないはずのものです。もちろんそれは軍事後方支援などという単純なものではない。日本にはそうしたコミットメントの十全の覚悟があるのかどうか。

アフガンのあのバーミヤンの大仏がタリバンによって破壊されたとき、私たちはそれ以上に多くの人間の生と生活の破壊があったことも知らずに憤慨してみせました。あのときイランの映画監督マフマルバフはこう言ったものです。「あの仏像は誰が破壊したのでもない。仏像は恥のために倒れたのだ。アフガニスタンに対する世界の無知を恥じて」──私たちはまだ無知なままなのです。

August 07, 2007

辞めないのは何故だ?

参院選明けから日本にまたまた一時帰国しています。尾辻かな子の愕然とするほどの得票の少なさに関してはすでに他のところに書いたため、それが発行されるまではここに掲載できません。ま、次あたりのブログでちょいと触れるかもしれないけど、それはさておき、アベはまだ辞めていません(笑)。ひょっとすると世論や新聞論評で叩かれ「辞めないのは何故だ?」と書くコラムがすぐ無駄になるかもしれないと思って様子見をしてたんですが、もう選挙から1週間以上経って、こいつぁ本当に辞める気がないようです。なら書いても大丈夫かと。しかしすごい神経、執着ですな。次のいない自民党のていたらくもひどいもんです。だいたいモリなんてのがまだキングメーカーを自称してるなんて、こっちもどういう神経をしてるんだか。

「国民と約束したことを実現するのが私の責任」と言い張る首相を見てすぐに連想したのがミャンマーのタン・シュエとかジンバブエのムガベとかポーランドのカチンスキ兄弟とか、いわゆる軍事政権や宗教政権といった強権・独裁政権の自称・国家元首のことです。同じ神経構造なんだな。

「国民と約束したこと」とはけっきょくは新憲法制定など例の「美しい国」造りのことなんでしょう。が、これは自民党総裁選での「約束」をアベが勝手に「国民との約束」だとすり替えただけの話。急に「約束」と言われてもこちらとしてはおいおい、聞いてないぞの寝耳に水の話。そういえばムガベなんかも「この窮状を打破すべく」といって20年も大統領の座に居座っている。「窮状」は自分のせいなのに。

続投の拠って立つ建前のもう一つは「参院選は衆院選と違い首相を選ぶ政権選択選挙ではない」というものですが、では国民はどうやったらその時々の政権にノーといえばよいのか。

そういえば政府・自民党は先の郵政国会・参院で民営化法案が否決されたとき、その肩代わりに衆院を解散して総選挙に討って出たのでした。時の政権がそうやって参院選と衆院選とをすり替えて“信を問う”たのなら、国民としても今回、参院と衆院を入れ替えて不信を突きつけたのも宜(むべ)なるかな。因果応報とはこのことぞ、と私なんぞは膝を打ったのですが、「小沢さんか私か」とまるで政権選択選挙のように訴えていたアベ自身はなぜかコロリと変身して言わなかったフリです。選挙後の共同記者会見がテレビ中継されてて、その点を朝日の記者が衝いてたが、どうも質問というか詰めが甘いもんだから、なんだか単にご機嫌伺いの三河屋のご用聞きみたいな話し方でした。他の記者も若いのか、みんな敬語の使い方ばかりが気になるような輩ばかりで、おいおい、どうして自民党総裁への質問がああも丁寧語オブセッションみたいになるんでしょうかねえ。情けないったらありゃしねえ。

アベなんてこれまでぜんぶがあの郵政総選挙での圧倒的な数を背景にいわば他人のふんどしで強行採決という相撲を取ってきた人。にもかかわらず口癖は「私の内閣」「私の政府」とやたらと「私」。自著にも「わたしがこうありたいと願う国をつくるためにこの道(政治家)を選んだのだ」とあり、この自意識というか「私物」意識が猛烈に強い。それがすべてを自分に引きつけて都合の良いように解釈してみせる強引さともつながるのでしょう。こんな激甚な議席減をも「国民からのしっかりしろという叱咤激励」と言われては「国民」も立場がありません。「再チャレンジ」ってのはありゃ自分のための標語だったって、そりゃ笑い話にもならない。まいったね。

自民党はこれまで国民政党として曲がりなりにも選挙結果や国民世論には謙虚であってきました。唯一「昭和の妖怪」といわれたアベ祖父の岸信介だけが安保デモを背景に当時の元首相3人が退陣勧告をするに及ぶほどの執着を見せたのです。今回も森・中川・青木の自民3人組が「辞任もやむなし」と進言しようとしたというのですが、アベに突っぱねられすごすご引き下がるなど、自浄作用はもうないのかしら。まあ、火中の栗を拾おうというヤツもいないんだろうがね。

改憲論を含め意固地なところもそっくり祖父から引き継いだ孫。これってひょっとすると「昭和の妖怪」が平成にバケ出てきてるんでしょうかね。連日30度を超える温暖化猛暑の東京で、いやな怪談が続いていますわ。

July 28, 2007

転載「最後のお願い」

日本では、投票日はもう明日ですか。

選挙のことを書くと、「こういうのは選挙違反になる」「自分のブログに特定候補の応援を公然と書いている。公選法で逮捕されてしまえ」という、いったい、こいつは全体主義の標榜者かというようなとんちんかんを書き連ねる輩が最近、とても増えているような気がします。まあ、ウェブサイトの発信の容易性の為せる業なんでしょうが、どうしてこういう、自分で自分の首を絞めるのが好きな連中がいるんだろうなあ。気づいていないんでしょうね。

基本は、個人の名の下に、自由にものが話せる、意見を述べられる。これが近代社会の基本です。だから憲法でも保障されている。それが許されないなら、そういう公選法の方が悪いのです(ってか、今の日本の公選法はそうはなっていないですから問題ないんですけどね)。

さて、私のところに、「最後のお願い」と題した次のようなメールが届きました。
なるほど、とても切実な思いが綴られています。
こういうきちんとしたことを、若い連中が書いてくれるんだなあ。
うれしいなあ。
ということで、ここに転載します。読んでみてやってください。

***

「世界が100人の村だったら」にはこう書かれています。
 異性愛者は89人います。
 同性愛者は11人います。

 日本にそんなに同性愛者がいるでしょうか?
 誰にもわかりません。
 少なくとも100人のうち3人か4人はいるだろう…とは言われています。
「いない」のではなく、きっと「見えない」のです。「ここにいるよ」と言うことができないのです。

 アフリカのある国の大統領はこう言いました。
「我が国には同性愛者などいない。いるとしたら、よその国に出て行ってくれ」
 そして、いまだに同性愛者だというだけで死刑になる国が世界に9つもあります。

 日本に生まれた同性愛者たちは、そうした国々に比べたらしあわせなのでしょう。
 でも、本当に私たちはしあわせでしょうか?

 思い出してください。
 あなたの周りで、今までにどれだけのゲイやレズビアンの友達が亡くなりましたか?
 日本でいちばん多い死因は、ガンや心筋梗塞です。
 でも、私たちの周りの友人たちは、同性愛者として生きて行ける自信がなくなって自殺してしまったり、エイズを発症したり、そうやって亡くなっていく方がなんと多かったことか…

 日本は先進国一の自殺大国ですが、それでも年間に自殺で亡くなるのは100人あたり0.024人です。
 今年の3月、ゲイの学生さんが自殺で亡くなりました。夢を抱いて生きてるはずの学生さんが…胸が痛みます。
 今もなんと多くの方が、未来に希望が持てず、命を絶っていることでしょう。
 日本は、私たちの社会は、まだまだ同性愛者が生きやすいとはとても言いがたいのではないでしょうか。

 今は陽気に(GAY)暮らしている私たち。でも、どんなに純粋にパートナーを愛し、長年いっしょに暮らしていても、法律上はただの「友人」ですから、扶養控除もありません。何十年か後、もしパートナーが重病で入院したとき、親族として扱ってくれないばかりか、面会すらさせてもらえないかもしれません。万が一パートナーが亡くなったとき、私たちはお葬式に出られるでしょうか? いっしょに住んでる家を追い出されたり、二人で買った家具などを親戚に持って行かれたりしないでしょうか? 生命保険を受け取れるでしょうか?
 私たちは日々、一生懸命働き、税金を収め、社会に貢献しています。にも関わらず、異性愛者が当然のように行使している権利を、何一つ与えられていないのです。

 70年代の東郷健さん以来、国政の場に出ようとするオープンな同性愛者はいませんでした。
 ようやく今、勇気と明るさと行動的な魅力を持ったレズビアンの政治家が現れました。彼女は、民主党の公認を得て参議院比例区に立候補するやいなや、日本中を席巻し、連日メディアをにぎわせ、同性結婚式を挙げ、同性愛者のイメージを「ケ」から「ハレ」へとSWITCHしてきました。まるでジャンヌダルクのように。なんと晴れやかで美しい革命でしょう!

 もし、彼女が当選したら、
 同性愛者として生きる意味を見出せなかった全国の同性愛者たちの希望の星となるでしょう。自分のセクシュアリティを呪い、自暴自棄になったり、命を失ったりという悲劇が繰り返されることはもうなくなるでしょう。

 もし、彼女が当選したら、
 私たちが胸を張って、プライドをもって同性愛者として生きていける時代が訪れるでしょう。街中で手をつなぎ、堂々とデートできるでしょう。

 もし、彼女が当選したら、
 同性婚(または同性パートナーシップ法)が遠からず実現するでしょう。性同一性障害特例法が誰も予想しなかったスピードで通ったように。

 もし、彼女が当選したら、
 HIV予防や陽性者支援に対する国家予算がやっと欧米並みになるでしょう(今は何十分の一くらいです)。今でも年に100人以上亡くなっているエイズ患者(異性愛者、同性愛者ともにです)の方もの命を救うだけでなく、HIV陽性者の方々がもっと生き生きと暮らせるようになるでしょう。

 もし、彼女が当選しなかったら…
 何も変わりません。
 それどころか、
 安倍晋三は「ジェンダーという言葉は使わないほうがいい」と発言するほどのバックラッシュの旗手であり、教科書から同性カップルに関する記述を削除し、そうやって「美しい国=正しい家族像」を作ろうとしています。
 状況は悪くなる一方でしょう。

 もし、彼女が当選しなかったら…
 政治家だけでなく国全体が「同性愛者は政治的な力を持っていない」と思うことでしょう。
 民主党も二度と同性愛者の候補を公認しないでしょう。
 この先、同性愛者の国会議員が実現するために、また30年もの時間を要するかもしれません。

 志半ばにして逝った、天国にいる私たちの仲間たちの無念さを、どうか忘れないでください。
 今、この瞬間、心重ねて、私たちが彼女を応援すること。
お盆に東京で開催されるパレードやレインボー祭りで同性愛者の国会議員の笑顔が全国の仲間たちを勇気づけること。
 それが、亡くなった友人や恋人たちへの供養になるでしょう。
 私たちはみんな遺族です。
 心にそれぞれの遺影を掲げて、この夏、私たちの手で、歴史を変えましょう。

July 25, 2007

尾辻かな子

レズビアンを公言して民主党の比例代表区から立候補している尾辻かな子に対して、「性癖を誇るな」と題して、ネット上で厳しく非難しているブログがありました。すこし引用しますね。

「いやらしいから無視するつもりであったが、いつまでも政治絡みのフォトに出ているので一言。
この人は、自分の性癖を選挙の道具にしている最低の人間である。
性同一障害と、ただの性癖を混同してはいけない。
性同一障害は、自分の体と心が、胎児のときのホルモンの影響などにより生じた、障害である。
尾辻かな子のレズはただの性癖、変態趣味でしかない。
糞をなめることが趣味な人や、○○が好きな変態の人と同じだ。
変態は変態同士、わからぬようにこっそり当事者で楽しむのは全く問題が無い。 アレをこうしようと、どうしようと当人同士の問題である。
しかし、その変態性、性癖を他人に見せ付けるのは、悪質な罪である。」

とまあ、こういう具合です。

きっと一般の認識では少なからずこうした判断を疑うことなくそのままにしている人はいるのでしょう。
同性愛が性癖なら、異性愛も性癖であることになりますが、その辺のことが理解されていないのですね。もちろん、「糞をなめることが趣味な人や、○○が好きな変態の人」は異性愛者の方が絶対数として圧倒的に多い、という事実は単に算数の問題です。
同性愛がセックスの問題、あるいはセックスの上の嗜好の問題だと思い込んでいるのは、これはひとえに情報の不足によるものです。だいたい、一般社会には、そうした同性愛に関する情報もないし、その情報を必要とする状況もないのだと思います。で、あいもかわらず40年も前の風俗綺譚の理解が依然はびこっている。だから、上記のようなものを書いて恥ずかしげもなく公然と曝してしまう輩が後を絶たない。
可哀相というかなんというか、まあ、しょうがないんだろうけどね。

(同性愛とは何なのか、と知りたい方は、以下のリンクを参考にしてください。もう10年も前ですが、ニューヨークの日本語新聞に「マジメでためになるゲイ講座」という連載を行いました。それを再録してあります)

目次(ここで「マジメでためになるゲイ講座」の各項目をクリック

簡単にまとめたQ&Aです

以下の動画は、CNNが中継した、YouTubeの投稿質問動画に答える民主党の各候補討論会。 一年以上も先だというのに米大統領選挙、かように盛り上がっているのですが、「その変態性、性癖を他人に見せ付ける」人々の結婚の問題がここでも話題になります。

まずはブルックリンのマリーさんとジェンさんのレズビアンカップルの「私たちを結婚させてくれますか?」の問いに各候補が答えます。

ここではすでに、「レズはただの性癖、変態趣味でしかない」というような「無知」や「偏見」は共有されてはいません。というか、排除されています。そういう物言いが、はるかかなたに片のついたブルシットであることをすでにほとんどの人々が理解していて、その上で、世界の論議はすでに先に行っているのです。ですから冒頭の引用のようなレベルの話は、ほとんどの人から相手にされません。議論にもなりません。話題にしても呆れられるか鼻で笑われるか、それこそ「糞」でも見るように目を背けられるかだけです。

さて、クシニッチはゲイカップルが結婚ができる「私が大統領となるより良き新たな時代へ歓迎します」と言葉を結び明快です。

"Mary and Jen, the answer to your question is yes. And let me tell you why. Because if our Constitution really means what it says, that all are created equal, if it really means what it says, that there should be equality of opportunity before the law, then our brothers and sisters who happen to be gay, lesbian, bisexual or transgendered should have the same rights accorded to them as anyone else, and that includes the ability to have a civil marriage ceremony. Yes, I support you. And welcome to a better and a new America under a President Kucinich administration."

「メリーとジェン、あなたたちの質問への答えはイエスです。なぜか。なぜなら憲法がそう言っているから。すべての人間は平等である。もしそうなら法の前では機会も平等だ。だからわれわれの、たまたまゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーである兄弟や姉妹たちは、他のみんなに与えられていると同じ権利を持っている。それには一般市民の結婚の儀式を行う権利も含まれる。イエス。私はあなたたちをサポートします。そして、クシニッチ大統領の政権下でのよりよく新しいアメリカに、私はあなたたちを喜んで迎え入れます」

続いて、レジー牧師の質問です。これはなかなかポイントを衝いた質問です。

「かつて宗教を理由に奴隷、人種隔離、女性参政権の否定を正当化していたことは間違いであり違憲であるといまの多くのアメリカ人は知っています。ではいまもなぜ、宗教を理由にゲイのアメリカ人が結婚することを否定するのが認められているのでしょう?」

司会のアンダーソン・クーパーは、進んで公言してはいませんが否定もしていないゲイのアンカーマンです。

エドワーズは、妻は賛成するが私は反対だ、と苦しい胸の内を披露して理解を得ようという戦術です。
つまりこれほどやはり政治に「宗教」が絡み付いている。

"I think Reverend Longcrier asks a very important question, which is whether fundamentally -- whether it's right for any of our faith beliefs to be imposed on the American people when we're president of the United States. I do not believe that's right. I feel enormous personal conflict about this issue. I want to end discrimination. I want to do some of the things that I just heard Bill Richardson talking about -- standing up for equal rights, substantive rights, civil unions, the thing that Chris Dodd just talked about. But I think that's something everybody on this stage will commit themselves to as president of the United States. But I personally have been on a journey on this issue. I feel enormous conflict about it. As I think a lot of people know, Elizabeth spoke -- my wife Elizabeth spoke out a few weeks ago, and she actually supports gay marriage. I do not. But this is a very, very difficult issue for me. And I recognize and have enormous respect for people who have a different view of it."

オバマは、明らかに答えを回避しています。彼の論理は、法の前ではみな平等だ、です。だから法的な権利はすべて保証するシビルユニオンを提案していると答えるのです。でも、それこそが質問のポイントなのですが、なぜ「結婚」ではダメなのかというには答えづらそうに何度も口ごもりつつ、結局は答えられていません。

同性婚はいまのアメリカにとって最大の政治課題ではありません。しかし主要な政治課題である。わずか人口の5%前後と言われている同性愛者たちのこの問題がなぜ主要課題であるのか。それは歴史を輪切りにしてはわからない。輪切りにすればそれはたった5%でしかない。けれど、歴史を縦切りにしたら、それはずっと昔から100%途切れることなく続いている、つまりは取り残している課題だからです。

それは一般に広く言われているような「性」の問題ではありません。
命の、「生」の問題なのです。

日本の参院選が日曜に迫っています。
参院比例区、個人名を書きます。
そこに「尾辻かな子」と書くことは、その取り残しを(同性婚とまでは行かずとも人権問題全般のこの取り残しを)、気にしていると表明することです。そういうことを「糞をなめることが趣味な人や、○○が好きな変態の人」だといまもかたくなに信じている人をこれ以上はびこらせないように、あるいは歴史の誤解をとくために、力を貸すことです、力を添えることです。
社民党じゃないが、「今回は」です。
なぜなら、日本の社会はこの問題に関して、最も弱い。最も無知だ。最も無関心だからです。
こんなにグローバルに発信し受信している今の日本が、世界に申し開きできない弱点なのです。

私のこのブログを読んでくれているヘテロセクシュアルの友人たち、あるいは通りすがりのROMさん、比例区、適当な意中の人がいないなら「尾辻かな子」を紹介します。

比例区は、「個人名」を書くことを忘れずにいてください。

http://www.otsuji-k.com/

July 03, 2007

久間防衛相の辞任に見る捻れ

「原爆で戦争が終わった。(原爆投下は)しょうがないと思っている」ってなことを発言して3日目に辞任というすばやい対応は、辞めなかったナントカ還元水の松岡農相、女性は産む機械の柳沢厚労相と、どう違うんでしょう。

一つは参院選挙。選挙対応のために今回はすぐに辞めざるを得なかった。自民党内の批判も大きかった。
一つは松岡農相の自殺。かばいつづけて?自殺された日にゃかなわない。

安倍はつい昨日まで「(久間発言は)アメリカの見方を説明したもの」という、別の主語をでっち上げるなんとも「おいおい」なへんてこな論理を持ち出し、「辞める必要はない」と例によって突っ張りの態勢だったのですが、まあそれも内閣発足9か月で3人もの大臣交代という事態を避けようという保身でした。柳沢の時も松岡の時もそれで乗り切ってきたのですから(柳沢が辞めてれば4人だ。これじゃ内閣はもたないですからね、ふつう)。だが今回は与党内からの批判がすごかった。いつもはこんなにメタクソにいわないもんですけれどね。

でも、久間発言がかくも問題とされた背景には、参院選というより、自民党内右派による自虐史観への攻撃も含まれているんでしょう。

そもそも久間ってひとは防衛庁長官を2回務めてるのにどういう立ち位置にあるのかよくわからない「ときどきハト派」的な発言もしたりする。イラク戦争では例の「小泉前首相のイラク戦争支持は非公式」と間違ってみたり、「イラクに大量破壊兵器があると決め付けて戦争に踏み切ったブッシュの判断は間違いだった」と言ってみては叱られてそれを引っ込めてみたり。でも一方では沖縄の基地問題でアメリカのパトリオット配備は「歓迎すべきこと」とか、そう思うと逆に普天間飛行場移設問題では「私は米国に『あんまり偉そうにいってくれるな。日本のことは日本に任せてくれ』といっている」と発言したり、わけわかんない。あるいは太平洋戦争で「私でも沖縄をまっさきに占領しただろう」とか、長崎市長射殺事件では死んでもいない時点で「補充がいつでもできるように公選法を見直すべき」とか、まあ、基本的に人の気持ちが関係ない人なんだなあ、という感じですね。てか、自己完結的ながら自分勝手なもんだから一貫してねえんだなあ、まったく。こういうのを不見識っていうのかしら。

そこに今回の原爆ショーガナイ発言です。
ヒロシマ・ナガサキでは日本の右派と左派が道筋は違うながらも同じ途中結果(変な言葉)をたどっていて、右派は自虐史観を否定するところから(自分が強姦されたことを打ち消したいオスの論理で)「赦せない」となって、そこから太平洋戦争の敗戦の否定、九条改変と再軍備にまで行き着く。左派は米帝批判と平和主義から「赦せない」となって、こっちはそこから世界の被害者の連帯と九条護憲に至る。(小沢が党首討論で「米国に謝罪要求しろ」といったのはどっちなんでしょう)

というわけで、今回の久間発言は右からも左からもけしからんの大合唱。
参院選への影響をかわすというのもあるでしょうが、しかし辞任へと使嗾した安倍自民の心理には、左からの批判とはまったく逆の、憲法改変と益荒男国家へと続く文脈のサブリミナル効果を見る思いがするのです。

ですから「与野党そろって辞任要求」といっても、意味はぜんぜん違う。
そのへんが安倍自民の胡散臭さですわね。

(しっかし、辞任理由を「参院選への影響を考えた」って、久間さん、それじゃなんだかいかにも小手先ですって白状してるのと同じじゃござんせんかねえ。やっぱ、わかってないんだなあ)

June 22, 2007

従軍慰安婦、全面広告の愚

何か問題があったときにその問題を指摘した相手のことを同罪じゃないかと責めても問題解決にはまったくなりません。「◎×君は廊下を走りました」と言われて「△◆君も走ったじゃないか」と言っても帳消しにならないばかりか、そういう抗弁はとても子供じみたものに受け取られるのが普通です。

それを大人が、それも国を代表する国会議員やジャーナリスト、大学の先生までが真顔で言ったら「子供じみた」では済みません。私が14日付のワシントンポスト紙に掲載された「THE FACTS(事実)」と大書された全面意見広告を見て、これはまずいことになるぞと思ったのはそういうことです。

この広告は、いわゆる従軍慰安婦問題で櫻井よしこや元産経の花岡信明、すぎやまこういちらの呼びかけに応じた日本の国会議員らが連名で「第二次大戦中に日本軍が強制的に従軍慰安婦を徴収したことを示す歴史文書は存在しない」と訴えたものでした。「米国民と真実を共有する」とうたった同広告は、「慰安婦は『性奴隷』ではなく、当時の世界では一般的だった公娼制度の下で行われていて大切に扱われていた」「多くの慰安婦女性は佐官級将校やあるいは将軍級よりもはるかに多い収入を得ていた」などとする5つの「事実」を列挙しています。それだけでも言い訳がましく響くのに、ダメを押したのが次の文章です。

「事実、多くの国が自国兵による民間人強姦を防ぐために軍用の娼館を設置していた(例えば1945年には占領当局はアメリカ兵による強姦を防ぐため、日本政府に対し衛生的で安全な“慰安所”の設置を求めた)」

いったい、どういう神経がしれっとこういう文章を書くのか。この記述内容が間違いだとは言っていません。問題は書き方です。「言い訳がましく響く」どころか、これはまるで「おまえの母ちゃんデベソ」ではないか。こんなふうに言われて、アメリカが「ああ、そうでした」と銃をしまうとでもお思いか。

これは本来、膝を突き詰めて腹を割って直談判しているときに出てくる話でしょう。説得とはそうやってするものだ。複雑に入り組んでいる国際問題ならなおさら。ところがブッシュ一辺倒で来た自民党は、米議会で勢力を得た米民主党のキーパーソンとの親密なパイプをだれも持っていなかった。だれもこういう話が出来ないのです。そうして、何を勘違いしたか、本来ならば密室でのせめぎ合いの一端を新聞紙上でかくも公然と高圧的に講釈したもうた。バカじゃないのか。

案の定、これが火に油を注ぐことになりました。副大統領のチェイニーもこれに目を剥き、4月の安倍訪米での謝罪でなんとなく鈍化していた米議会も一気に日本非難決議採択でまとまりました。掲載がNYタイムズではなくワシントン・ポストでまだしもよかった。NYタイムズならあっというまに一般市民にまで反日気運が広まったかもしれません。

思えばこのすり替えの論理は従軍慰安婦に限ったものではありません。故松岡農相のナントカ還元水に始まる事務所費乱用問題では「(民主党の)小沢さんの使い方はどうなんですか」と気色ばみ、年金問題では「そのときの厚生大臣は菅(直人)さんじゃありませんか」といずれも相手の責任に問題をずらす総理大臣がいます。

見逃せない点がもう1つ。「強制はなかった」という言い方は、沖縄戦での集団自決に関して「日本軍の強制はなかった」という論理とじつに似通っている。問題は、従軍慰安婦も集団自決も、それを「強制した文書が存在する、しない」ということではないのに。

あの沖縄戦で、日本軍の基地建設にも関わった沖縄島民は米軍にとらわれて軍事機密を明かしてしまうことを懸念されていた。それで日本軍は鬼畜米英を強調し喧伝し、重要な軍事物資であった手榴弾を島民たちに手渡す。たとえそこに言葉や文書による命令がなかったとしてもそれは自決への明確な誘導であり、その体制での誘導とは精神的な強制以外のなにものでもなかったことは想像に難くありません。ふだんは「すべてを言わずにそれを斟酌するのが日本語の美徳」などと言っておきながら、右翼保守派はこういうときに限って「具体的な言葉がなかった」と逃げ道に使う。まったく、汚いことこの上ない。

同様に、従軍慰安婦でも問題はそれを生み出した戦時体制全体なのであって、慰安婦はその中の一具体例でしかないのです。強制を示す文書がなかったといって鬼の首でも取ったかのようにはしゃいで新聞に全面広告を出すなど、やぶへび以外のなにものでもありません。そんなことを証拠立てたって本質としての軍国体制そのものが赦されるものではない。ここには例の靖国問題の本質も通底しているのです。

こうした一連の自虐史観の書き換えは安倍政権にとっては「戦後レジームからの脱却」の作業の一環かもしれませんが、米国では「第二次大戦の敗戦の否定」「戦時体制の肯定」として映っています。そこを相手にせずに慰安婦は強制しなかったと言っても、「だから何だって言うんだ」なのです。

今回の非難決議は、端緒はたしかに一議員の選挙区事情に動機付けされた側面もあったでしょうが、しかし現在ではすでに、いまの安倍政権を右翼政権ととらえる米民主党の政治的警戒感の表れへと変容しているのです。憲法改正や靖国参拝など、安倍晋三の体質を祖父の岸信介にまで遡って右翼や宗教右派と結びつけて論じるのが米国の民主党系知識人の傾向です。ですから慰安婦問題を足場に自民党の右傾化を阻もうというもうひとつ大きな政治的意図──まさに米民主党からの、米次期政権からの、これは申し置き状だと思って対処したほうがよいのでしょう。米民主党とのパイプをないがしろにしてきたツケが回ってきているのです。

May 29, 2007

現職閣僚の自殺が示すもの

 先週末から仕事で訪れた日本は、5千万件の公的年金記録消失という愕然たる不祥事に揺れ、今度は松岡農水相の自殺でとんでもないことになっています。

 緑資源機構の官製談合事件で関連法人から政治献金を受けていたり、地元熊本で暴力団との関連を取りざたされたりといろいろある人なので自殺の背景はまだ不明のところも多いんですが、ひとつ、あのナントカ還元水問題の「法に従って適正に報告している」一点張りの答弁はどうも政権や自民党国対からの“強要”だったらしいことはわかってきました。

 たしかにね、あれだけ追及されてなに1つ答えないあれだけの厚顔は自分1人の判断では続けられるものではないでしょう。「答えるな、これで行く」という党中枢からの指示があって初めて持ち堪えられる(ってか、まあ、結果的には持ち堪えられなかったわけですが……)。

 それにしても松岡ってこんなに弱いタマだったっけ? というのが第一報での感想でした。直接の関連ではねいですけど、この弱さと対照的に、安倍内閣の「強気」に関して朝日新聞が29日朝刊1面で「年金問題では当初、野党側の追及に『与党は3分の2の議席があるから押し切れる』(首相周辺)との見方も根強かった(略)」と書いています。この強気がいろんなところの金属疲労のようなものを逆に表面化させているんでしょう。

 そもそも安倍政権を支える「3分の2の議席」とは、じつは安倍政権の存在とはまったく関係なく、前の小泉首相が郵政選挙で国民の信を問うとして獲得した数字です。これは安倍への信任の数でもなんでもない。

 ところがその圧倒的多数という他人のふんどしを使って、安倍は郵政民営化反対議員の復党を断行し、「女性は子供を産む機械」の柳沢厚労相をかばい、持論の憲法改変を目指して国民投票法を可決させ、教育3法、年金法の採決を強行した。

 で、とにかく謝らない。靖国問題でも答えない。国会で野党に攻められると顔を真っ赤にして気色ばむ。あれよあれよという間の、じつに強気の国会運営なわけです。しかしナントカ還元水を含む事務所光熱費問題や献金不記載問題などで同じく「説明しない」作戦を決められた松岡にとって、緑資源問題はロバの背を折る最後の藁だったのでしょうかねえ。

 安倍は「任命権者として責任を感じる」とコメントしていますが、むしろ政権の弱体化を避けるために松岡を辞めるに辞められず、かつなにも答えられないという「生殺し」状態に置いたことにこそ責任がありわけです。日本の各紙は安倍が松岡を「かばい続けた」という表現で報じていますが、かばったのではなく私にはむしろさらし者にしたような印象です。強権というのは、ときにここまでむごい。

 そうこう書いているうちに今度は緑資源の前身公団の元理事が飛び降り自殺というニュースまで入ってきました。立花隆氏の「メディア・ソシオポリティクス」によれば、「実は10日ほど前に、松岡農水相の地元(熊本)関係者の有力者(地元秘書ともいわれ、選挙違反・買収容疑で逮捕されたこともある)が、謎の自殺をとげている。死んだ理由はよくわからないが、もともと黒いウワサが山のようにあった松岡農水相のカゲの部分を最もよく知る男といわれた男である。その男については、「あの男の周辺を洗ってみろ。松岡農水相のボロが次々に出てくるはず」というタレ込みがマスコミなどにも流れてきていた。」とも書かれていて、これはほんと、なんかあるのかもしれませんね。

http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070528_yami/index.html


 こうして何人もが死んでも守らねばならなかったその「真実」とは何なのか? 松岡の遺書の1つには「内情は家内が知っている。どこに何があるかは探さないでほしい。そっとしておいてください」とあったそうです。

 死者にムチ打つ気はないけどさ、もしそれが公的なものでも暴かないでくれという願いであるなら、こんな身勝手な大臣を作った安倍首相の任命責任も確かに存在するでしょう。いや、安倍を直撃する疑惑自体が存在するのかもしれませんわね。

May 12, 2007

国民に軍艦を差し向ける政権

案の定、拉致問題は北のテロ支援国家からの指定解除に何の影響も与えないということを、シンゾーは先日の訪米の際にコンディ・ライスから聞いて知っていたそうです。で、ジョージとの首脳会談のときには「どうにかならんですかね」と、どういう口調だったんでしょうかね、ファーストネームの仲で中途半端に親しみを込めたんでしょうか、お頼み申した。で、朝日によればジョージWは「拉致問題を指定解除の前提条件にするよう求めた首相に「考慮に入れる」と語り、法的な処理とは別に政治判断が働く余地も残した。」となっているが、そんなこと、あるんでしょうか。朝日も甘っちょろいこと書くなあ。

先日の、この3つ前のブログ「ワシントン詣でが明かしたもの」でも書きましたが、憲法9条改変もアメリカ側の要請です。「普天間はスケジュールどおりに進める」と沖縄の辺野古に海上自衛隊の軍艦を派遣したのもアメリカの要望に添ったものです。で、ファーアストネームで呼ばれてヤニ下がっているうちにこのざまです。そういえば異常プリオン牛肉輸入禁止解除も、アメリカのご希望どおりの進み具合でしょう。ナメられてる、ナメてないという言い方はマチズムっぽい言い方でいやなんだけどさ、理が通らない、というのは当たっています。

こういう売国的行為、ひごろ猛々しいネット右翼だけでなくホンモノの右翼の連中はさぞ怒り心頭なんだろうと思ったら、どうもわたしにはその動きが見えてこない。なんででしょう?

日本青年社という住吉会系の右翼団体があります。過去、領土問題で先閣諸島の魚釣島に上陸したり、雑誌「噂の真相」を襲撃したりとさすが暴力団つながりの右翼(ってか、右翼団体ってのはみんな広域暴力団の系列団体なのですが)。いまの自民党幹事長の中川秀直が関係を取りざたされて当時の森内閣官房長官を辞任させられたり、こないだ結婚式招待の詐欺で有罪になった有栖川宮なんとかっていうインチキ皇族が名誉総裁だったり、となかなかの胡散臭い人脈でも知られます。んで、新潟の救う会の会長がこの青年社のエラいさんだったりもするわけです。そんでもって、住吉会が覚醒剤や拳銃を入手している先は北朝鮮。そんでシンゾーとかシンタロー(やつらのことを真面目な学生と呼んでる都知事です)とかがこれとどう絡んでくるか。まあ、証拠も持っていないうちになんか書くと真っ赤になって怒って裁判にされたりしますから、くわばらくわばら。

その青年社、首相官邸に街宣車でも繰り出してるんだろうか?
さらにはオピニオン雑誌でかまびすしい文化人右翼たちはどう反応しているのでしょう?
ニューヨークにいて困るのは、新聞に出る週刊誌や月刊誌の見出広告が見られないことです。あれ、けっこう便利なんですよね。新聞のウェブサイトで欠落しているのが新聞広告なわけで。

閑話休題。

今日書きたいのは、横須賀にいた海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」が沖縄近海にむけて出港したことです。
沖縄テレビは次のように伝えています。「来週にも行われる調査機器の設置を支援するものと見られています。防衛施設局の事前調査で海上自衛隊が関与するのは極めて異例な事です」

琉球新報によれば、「塩崎長官は、海自を動員するとの一部報道について「方針を決めたとはまだ聞いていない。一般論で言えば、反対運動や反対行為を排除しようという任務は、警察、海上保安庁が負っており、自衛隊は負っていない。報道として不正確な話ではないか」と述べ、県警や海保とともに警備に加わるわけではないとの認識を示した」だそうです。

沖縄タイムズでは「艦船にはゴムボートやボンベが積載されているが、海自が実際に調査で対応するかどうかは不透明だ」と書かれています。

では、なんのために行くのか?
これは反対派市民の威力業務妨害、公務執行妨害をあらかじめ想定しての、それらを恫喝するだけの大いなる国威の見せつけるために他なりません。「反対運動や反対行為を排除しようという任務」は実際にはしない、しかし、軍艦の威容を見せつけ、反対派に大いなる心理的プレッシャーを与えるにじゅうぶんな効果を持つでしょう。

同じく沖縄タイムズ。
「仲井真弘多知事は十一日、「自衛隊との関係がまずまずの状況になってきている中で、県民感情を考えると、あまり好ましいとは思わない。(反対派の)排除というのは自衛隊の役目ではないと思っている。誤解を生むようなことはなるべく避けた方がいいのでは」と否定的な見解を示した。」

国軍が本来守るべき国民に対峙するという事態が起きる場合、歴史上それはほとんどの場合で、その国家の、あるいはそのときの政権の倒錯的な末期症状を象徴します。あの60年安保の大抗議デモが国会周辺で繰り広げられたときに、それこそアベシンゾーの祖父である岸信介が自衛隊の治安出動を要請したことがありますが、そのときですら当時の赤城防衛庁長官が出動を拒否した。

さて、アベはまたそろりと何食わぬ顔で、退陣に追い込まれた岸信介の仇を討つつもりです。この2人が、いずれもアメリカがらみで軍事政策の変換に取り組むというのもあまりにあからさますぎてえげつないことこの上ありません。ネット右翼たちも瀕死の小田実の悪口を書いてるヒマがあるのにどれが焦眉の急か考える時間がないという情けなさ。いや、ないのは時間じゃないのでしょうな。

May 09, 2007

小田実のことなど

小田実があと数カ月で死ぬのだという。胃がんが、けっこう末期のものが、見つかったとニュースになっていた。小田が死ぬのか。そういう時代になっていたんだ、と思った。物理的にも、思想的にも。

そう思ったのは数日前にこのニュースが報じられたときに、ミクシの中でその死に関して言挙げされたさまざまな連中の言辞の醜さからだ。こういうのはいまに始まったことではないから特筆するようなことでもないだろうけれど、小田は90年代か、「朝まで生テレビ」に出ていたらしく、それで新しい世代を、いい意味でよりも悪い意味で引っ付けたんだろう。きっと連中は、「実」が「まこと」と読むことも知らなかったりするんだろう。悪貨は良貨を駆逐する。

学生時代、東京に出たてのころは何でも珍しくてよくいわゆる有名人文化人知識人の講演会なんぞに出かけていたものだ。小田はそのころ岩波から「状況から」という同時代時評を出して、それは大江の「状況へ」という本とカップリングになっていて、この「から」と「へ」の助詞の相違がこの2人の立場の相違を表しているようで面白かった。「状況から」はとにかく現場主義だった。具体例にあふれた行動主義の本だった。そんな小田の話を何度か直に聴きにいった。

小田実の思想はアメリカの草の根民主主義のいちばんの実践主義的な理想を体現したものだった。日本の戦後民主主義の文化人がみんな、というかほとんどが、青っちろいアカデミアからのそりと首を出して何かを言っては言いっぱなしだったのに対して、このひとはとにかく体を張ってた。知識人が男らしくても、いや、こんなに雄々しく熱く勇ましく怒りに満ちていてもいいのだということを教わったのはこのひとからだった。「世渡り」ではなく「世直し」だということも、このひとの本から発想した。このひとは言うことはみごとに人道的な優しいものなのに、「殺すな!」というその柔さの背後にじつに硬派なマチズムがあったわけだ。マチズムはふつう、「殺せ!」に向かうはずなのにね、このひとのマチズムに裏打ちされた「殺すな!」は、だからいまでもだれも論破できない。というか、それを見越して発されたタイトルだからさ。そのことをいま、どれほどの日本人が知っているんだろう。小田に匹敵するのは、いまじゃ一水会の鈴木邦男くらいかもしれんなあ(笑)。

あの当時、喧嘩の仕方はこの人と中上健次と吉本隆明から教わった。3人とも個人的にはとてもやさしい人で、照れ屋で私語がへただった。なのにいったんペンを取って敵を叩くときはじつに徹底していた。中上さんはペン以外でも叩いてたけど。そうして完膚なきまでに、逃げ道もすべて塞いで追いつめる。それは呆れるほどに爽快な職人芸だったし。んで、この3人はそう仲がよいわけではないというのも知っていた。大人って面白いなあって彼らを眺めながら思ってたもんだ。あはは。

小田のニュースがあったと同じ日、朝日のニュースで次のようなのがあった。

**
後ろに座る学生、教員に厳しく自分に甘く 産能大調べ
2007年05月05日13時13分

教室の後方に座る学生はテストの成績は悪い一方、講義への評価は厳しかった──。産業能率大(神奈川県伊勢原市)の松村有二・情報マネジメント学部教授が約140人の学生を対象に調べたところ、そんな傾向が明らかになった。自由に座席を選べる講義では、前に座る学生ほど勉強に取り組む姿勢も前向きのようだ。
(中略)

試験では、前方の平均点が51.2点だったのに対し、後方は30.9点と、20点以上開いた。一方、授業評価では、「配布資料の役立ち具合」「教員の熱意」「理解度」など全項目で前方より後方の方が厳しい評価をした。後方グループには、教員に厳しく、自分に甘い姿勢がうかがえる。
(後略)

**

なんだかネットでギャーたれているやつらの印象と重なる。挑発の言葉だけがお上手。ところがみなさん二の句が続かない。映画のセットと同じ。看板やファサードのカッコよさだけを気にして、組み立てを気にしない。四六時中パンチラインだけを拾い集め、単文でしか話が出来ない。まるで玄関の呼び鈴押しのイタズラみたいに一発ぶちかましてさっと身を隠す。そうやって相手をけなすことだけで自分が何者かであるような、その効果だけに縋って生きている。

そうせざるを得ない生き方というのもあるのだろう。もうやり直しのきかない人生。そうやって憂さを晴らすしかない人生。

話はどんどん飛ぶけれど、やはりこれも昨日TVジャパンでやっていたNHKの憲法9条をめぐるドキュメンタリーで、若者たち、フリーターたちで戦争を望む連中たちの声を紹介していた。もうこんなにガチガチに社会が決まっていて自分たちはもう浮き上がる術もない。あとは戦争にでもなってみんなめちゃくちゃになればその暁にはどうにかなるのではないか、という見通し。

そういうのはむかしからある。一発逆転願望。ただし戦争の影がまだ長く伸びていたころにはそれは革命願望だったりした。それから終末願望。勉強していないテストの前夜に大地震が来て学校が壊れればいいのにと妄想したり、核ミサイルで世界が終わりになればどうにかなるんじゃねえかと思ったり。

でも、自分から進んで戦争にするというのはなかったなあ。
マイクを向けられていた30くらいのフリーターの1人は9条が変わったら軍隊に入って職業訓練にもなるし、とか言っていた。いますぐにでも自衛隊に入ればそんなのもすぐに手に入るという選択肢は彼にはないんだろうか。

戦争、戦争。
戦争はするまでが花。
してしまったらみんな後悔する。
だいたい、死体も見たことのない連中がいちばん勇ましく、死体への想像力がないものだから実際にそれを目の当たりにしたら吐く。
あるいはショックで思考停止になる。
で、その後は死体愛好になるか、というと、あまりそううまくは事は運ばない。みんな心に傷を負って壊れていくのだ。そうしてその回復途上で反戦を唱えるようになる。そのときは遅い。あるいはすでに時代はぐるりと一巡してる。あわよく生き延びたひとびとの周りで友人たちはもう亡くなっている。石原慎太郎が制作総指揮をしたという「俺は、君のためにこそ死ににいく」とかいう戦争映画のタイトルの、すでに破綻したはずの論理のゾンビさ具合よ。やれやれ。
まあ、この映画がヒットするほど日本人はどうしようもないとは思っていないが。しかし岸恵子もなんでこんなのに出たんだろう。私が愚劣だと言っているのは「特攻の毋」のことではない。この映画を作る連中の意図のことだ。

しっかし、小田も体調悪いときにどうして病院行かなかったかなあ。胃がんなんて定期検査して早めに見つけられるのに。早めに見つかれば治せるのに。まったく、なあ。残念だなあ。手術も出来ない状態だって、どうしてそれまでほうっておいたかなあ。

小田は、人間は畳の上で死ななければならないって言っていた。それが人間の死だ、と。しかもそれは畳の上で胃がんで死ぬことではなくて、きちんとしっかり平和に死ぬということのはずだったんだよね。

無念だなあ。
本人はそんな素振りはおくびにも出さぬだろうが。

May 08, 2007

ワシントン詣でが明かしたもの

日本の新聞が何を有難がってか「ジョージ、シンゾーとファーストネームで呼び合う仲になった」とうれしそうに記事にしているのを見て、いったいそのどこがニュースなんだとひとりで突っ込んでいました。「ロン、ヤス」の場合は短縮形でもあるのですこしは意味があったのかもしれませんが、「ジョージ、シンゾー」ではひねりもなにもあったもんじゃありゃーせん。当たり前の話だってだけです。

ゴールデンウィークは日本の政治家たちの外遊ラッシュでした。その中で安倍と大臣格上げになった久間防衛相、それに麻生外相という閣僚を含め、ワシントン詣では計30人ほどにもなったそうです。

で、安倍は従軍慰安婦問題でこれまでの御説とどうにもチグハグな感の否めない「謝罪」を強調して意味がわからない。久間も「イラク攻撃は誤り」発言や「(普天間基地移転で)やかましい文句をつけるな」発言、さらにはイージス艦機密漏洩事件の不祥事をひたすら謝る旅になってしまいました。結果、軍事機密保持協定に合意したという、まんまと米国の術策にはまったようなことになった。

これが野党から「強硬右傾化」政権と批判されている同じ政府なのか、「押しつけ憲法を自主憲法に書き換えるぞ」と力む前に、自分の自主自立を図ったほうがよいような体たらくです。

久間が撤回した「イラク攻撃は誤り」はいまでは当の米国人の大半が結論づけている正論なんですよ。それでブッシュ政権は支持率28%という最悪状態になっている。それを一度チェイニーや中央軍司令官が会ってくれなかったからといってどうしてビビることがあるのか。ビビっているのはブッシュのほうなのです。英国のブレアが退陣寸前なのも、イラク戦争で米国と歩調を合わせているのが背景です。ブッシュ政権が大きな顔をしていられるのはいまや日本政府に対してだけなのです。

その大きな顔にこれまたすくんだか、普天間基地問題は沖縄の人たちに説明する前にシンゾーが「合意どおりに着実に実施する」とジョージとの首脳会談で表明してしまった。自国民に伝える前に米国大統領に約束する首相とは何者なのか? まさに主客を転倒して、それでどうして美しい国になれるのか、わけがわからない。

以前から繰り返しているように、米国では来年の大統領選で民主党政権が生まれるかもしれません。今回のワシントン詣でで、日本の政治家たちにそうした民主党のキーパーソンとの個人的なコネクション、それこそ報道用ではないファーストネームの関係を模索した陰の動きがあったのかどうか……はなはだ心もとないところです。

どんなに日本がおもねってみても米国という国は結局はそのときの政権の都合の良いようにしか動きません。いつのまにか北朝鮮の拉致問題が国務省のテロ白書で昨年の3分の1の記述に縮小され、北担当のヒル国務次官補が「いまはわれわれが辛抱すべき」と北擁護に回っているのですからね。アベちゃんよ、どうしてお得意の拉致問題をジョージ君のケツにねじ込んでやんなかったのか。ケツはねじ込むためのものであってキスするためのものではないのだよ(お下品、しかし米国語の表現ではそういうのです。すんません)。

小泉政権での郵政民営化も米国の思惑どおりで日本売りだという批判がありました。
安倍内閣は国内向けには日本第一のような勇ましいことを発言しつづけていますが、米国詣ででのこの平身低頭ぶりを見ると、ミサイル防衛システム参加や集団的自衛権の容認、つまりは憲法9条の“改正”もじつはアメリカの思惑どおりじゃないかと気づきます。さすればこれは日本売りなどという甘っちょろいもんじゃなく、じつは「押し付け憲法」の受け入れなんかよりもはるかに手の込んだ「売国」の一環なのではないかとさえ思えてきます。いや、それはなかなか的を射ているかもしれません。

さて、ここまできて、冒頭の「ジョージ、シンゾー」関係がじつは別の意味でニュースだったのだと気づくわけです。

アベちゃんは揉み手をしながら媚び諂いを込めてジョージと呼んでいるかもしれないが、ジョージ君のほうは意のままになるペットでも呼ぶように「シンゾー」と呼び捨てにしている。そういう関係である。それを言外に伝えるニュースだったのかもしれません。いやちょっとニュアンスが違うか。ジョージは、ミスターと呼び合う関係にはどうにも弱いんだ。正式な話をしなくてはならなくなるから。オフィシャルな発言は気をつけなくてはならないし、そういうのはどうも憶えきれないから苦手。しかしファーストネームで呼び合うような状況ではジョークで誤魔化せるし持ち前のエヘッエヘッという自信なさげな笑いで逃げることもできる。なので、「なあ、シンゾーって呼んぢゃっていいかなあ? まあ、あんまり硬く考えないで話しようよ。難しいことは事務方がやるからさ」って意味なんですね。それをシンゾーはこれは親密さの現れだと受け取ってまんまと相手のゲームに載ってしまった、というわけです。

米国からの敗戦憲法を廃棄する気概にあふれているなら、ここはひとつ「シンゾー」と呼んでいいかと訊かれて相好を崩して尾っぽを振るのではなく、「いや、ミスター・アベ、あるいはプライムミニスター・アベときちんと呼んでいただきたい」と返すくらいの毅然たる態度を取るべきだったのです。相手はレイムダックの大統領。これはギョッとする。こんどの相手には誤魔化しは利かない、と、私語でしか得点を稼げないおバカな男は襟を正すでしょう。そして力を持たないアメリカから出来る限りの譲歩を引き出す。こんな駆け引き、北朝鮮ですら出来ることですよ。

ですからアメリカとの外交は戦略的にもむしろ、「ミスター」と呼び合うことから始まると心得たほうがよいのです。しかしまあこれも、いまとなってはあとの祭りですが。はあ〜。

April 11, 2007

沖縄・集団自決の島〜1987年の夏

1945年、終戦間際の沖縄での集団自決を、安倍政権は文科相の教科書検定を通してまたぞろ「軍の強制はなかった」としようとしているようです。そのニュースが報じられてから、20年前に沖縄で取材したその集団自決の原稿をどうにか探し出してきました。従軍慰安婦の問題とも微妙に重なるこの「日本軍の免罪」化現象は、いったい何を意味しているのでしょう。

以下の原稿は、1987年夏、私が直接話を聞いて書いたものです。その夏の、新聞の終戦企画の1回目として掲載されたそのままの原文。
集団自決がどういうものだったのか、これを読んで判断してください(年齢などは20年前の取材時点のものです)。


 戦(いくさ)ヌクトゥヤ 話シブシクネェラン──戦のことは話したくない。照り返す日の光。ガジュマルの大木。白茶けた細い道に赤瓦(がわら)の家並み。島の人たちは聞き取りにくい方言で、日に焼けたシワ深い顔を穏やかにほほ笑ませながら語ることを拒絶する。

 那覇から10人乗りの小型飛行機で約15分、西へ40キロの海上に、慶留間島はある。本土からダイビングにやってくる若者たちは隣の阿嘉、座間味の島々にモーターボートで乗り継ぎ、慶留間を顧みる者は少ない。

 昭和20年3月26日、米軍上陸。慶留間の島民の半数が壕(ごう)の中で自決した。

 島には鉄筋2階建ての立派な学校があった。ひっそりと押し黙る島に、乳緑色の波が打ち寄せる。

 「戦争のこと話してもらうのは大変。学校でも慰霊の日に沖縄戦を語ってほしいとおじいちゃん、おばあちゃんにお願いしたけれど、断られました」。4月に赴任してきたばかりの慶留間小中学校教諭石嶺律子(22)がそう教えてくれた。全島民56人。学童は計5人。すべてが島南側のわずかな平地部に生活している。北側は深い山があるだけだ。

 「みな生き残りですからヨォ」と、学校に近い自宅で中村武次郎(57)は言った。「10年前までは、1人で20人も首絞めたじいさんが生きておったし」

 集団自決。座間味島ではネコイラズとカミソリが使われた。渡嘉敷島では自軍から渡された手りゅう弾とカマが用いられた。慶留間では、申し合わせたようにそれは縄だったという。

 3月23日、空襲。学校など全焼。百余人の全島民が山に逃げた。翌24日、艦砲射撃の間を縫って、人々は焼け残った家財道具をまとめて山へ運んだ。このときのこん包の縄が、自決に使われることになったのだ。

 中村の避難した真っ暗やみの壕には、母親と当時20歳の姉のほかに10人ほどが入っていた。米軍上陸の報が駆け抜けた26日の朝、母親はどこからか3メートルものヒモを持ってきて、姉を絞め始めたのだと中村は話した。

 「私の頭の上で姉さんの脚がバタバタしてましたヨォ。そん時、息、止まったと思います。それから2分くらいでしたヨ、壕の入り口に、知ってる青年と米兵がいて、出なさいと言われた。死んでなかったのは5人でした。あと5分早ければ姉さんは生きておったかもしれんですヨ」

 自決というより、親族同士での殺し合いだった。「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」の戦陣訓は住民にも強要され、慶留間、渡嘉敷など離島での自決者は合わせて500人とも600人ともいわれている。

 「情報が違っていたです」と、中村の横から妻静子(59)がしゃべり始める。「アメリカさん、よかったんです。じぇんじぇん(全然)いじめません。女、ゴーカンしないし、男、道路に並べて戦車でひき殺しもしない。みんな、友軍が悪かったですヨ。日本軍が食糧ため込んで、阿嘉では老人、栄養不良で死んだですヨ。イモ畑とられて、イモ食ったらスパイだと言って日本刀で切り殺されましたヨ。私、阿嘉でしたからみんな知ってますヨ」

 敵上陸を目前に控えて昼夜兼行の戦闘準備を進めた沖縄では、多くの住民が陣地や飛行場の構築に動員され、軍の機密を知ることになった。日本軍は住民の監視を強め、最後にはハワイなどからの移民帰り、ろうあ者、方言を使う老人までもがスパイ容疑で拷問、虐殺された例もある。

 慶留間には、天皇の人間宣言の前に米兵の“人間宣言”があった。その後、復帰の年まで「日本」は生き残った島民から離れ続けた。島占領後、彼らの気掛かりは、捕虜になった自分たちを日本軍が殺しにくるのではないかという逆転した恐れだったのである。だからしばらくは家には帰らず、山で隠れて寝ていたのだと笑いもせずに中村は言った。

 その山のふもとに、当時犠牲になった38人の子供たちを祭る「小鳩の塔」が海を望んでいる。南の海のダイビングを満喫しようと阿嘉島へ向かう九州の大学生グループの1人は、「いろんなことがあったみたいですね」と強すぎる日差しに目を細めながら照れたように笑った。
(了)
**

さて、教科書検定で書き換えを指示されたのは「非戦闘員の犠牲者も多かった。なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」というような記述です。この記述は検定意見後に「非戦闘員の犠牲者も多かった。なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」と変わって検定に合格しました。

なるほど、いまの「ニッポン」はつまり、自決に使われた手りゅう弾は「スパイだった島民が軍から盗んだものだ」と言うつもりなのでしょう。そうでなければあるいは、日本刀で問答無用で切りつけるような日本軍に(中村さんの奥さんは「友軍」と呼びました。「自軍」ではない。そのニュアンスの違いを忖度してください)、占領後の強姦と戦車での惨殺を予想した思いやり深さで、「それとなく渡されたのだ」と。そんな状況が、想像できるか。

これは沖縄の人たちに、生きながら虜囚以上の辱めを再度押し付けることです。そして、そう言い兼ねないというのがいまのニッポンの自民党政府です。

22日の参院補欠選が福島と沖縄で行われます。
昨10日夜、自民党の参院議員会長青木幹雄は、この2つの選挙で「2勝すれば安倍政権は続くし、何でもできる」と話しています。2勝すれば夏の参院選でも余勢を買えるというのです。
「何でもできる」──違憲と判断されてきた集団自衛権の憲法解釈の再検討も安倍自身が口にしました。なるほど。

汚いものに蓋をして「美しい」と言い、悪いことはしていないと「国」の自信を煽る。
そこに見える大いなる時代錯誤と厚顔無恥は、すでに正気の沙汰ではありません。

沖縄は、集団自決に追い込まれた人びとの生き残りたちは、こんな「ニッポン」に選挙を通じて何と言うつもりでしょう。

April 10, 2007

選挙ブルーにめげずにアフタケアもね

おそらく選挙ブルーの方も多いかと思います。

「石原圧勝」との報道に、「あんなに燃えたぼくの気持ちはどこにも形にならずに消えちゃった」と。

でも、「あんなに燃えたきみの気持ち」はすごく形になってます。もう新聞やテレビでは分析されているかもしれませんが、次の数字を見れば今回の選挙結果の読み方はそんなにがっかりするもんでもありません。

前回の都知事選、4年前、開票結果は次のとおりでした。

石原慎太郎  3,087,190 無所属
樋口恵子    817,146 無所属
若林義春    364,007 日本共産党
ドクター・中松 109,091 無所属
池田一朝     19,860 無所属

で一方、今回の開票結果は次のとおりです。

石原    2,811,486
浅野+吉田 2,322,872

何が読めるか? それは、投票率は前回より9.4ポイント以上も増えたのに、石原は28万票も減らしているということです。
対して、反石原票は今回、浅野と吉田(共産)を合わせただけで230万票もあった。前回と大違いでしょ?

これを考えると、各紙で見出としている「石原、浅野を110万票差で圧勝」という見方は、事実としてはそのとおりながらもニュアンスはちと違う。110万票差というのはすげえが、「常勝・石原」への批判票のこの増え方は尋常じゃない。そうじゃない?
この辺を読みましょう。50万票差です。これはどのくらいか? 総有権者1000万票の5%ですか。これ、そんな自慢できるような圧勝じゃないでしょう。ね?

選挙ブルーに関しては、私もエラそうなこと言えないです。ゴアがブッシュに負けたときには私、思わず深夜未明に家出をしてコニーアイランドまで地下鉄に乗って海を見に行ったし。はは。

石原も、すでに傲慢復活で開票の夜からぶちかましてますが、それも想定内でしょ。浅野が負けるのも想定内。でも、石原の勝ち方はみっともなかったわけで、その辺、強調してやればあの傲慢口も少しは黙らせられるのにねえ。

さて、まだこれから統一地方選の後半戦があります。また、ちょっと選挙に行こうかと思ってみましょう。

それともう1つ、新宿2丁目に浅野を呼んでくれた人、もう一回ご苦労ですが、浅野陣営にお礼メールでも送ってください。「その節はお世話になった」と。「LGBTコミュニティの応援も今ひとつ届かなかったのは残念無念だが」と。「しかし浅野さんは歴史を作ってくれた」と。「私たちを政治に向かわせてくれた」と。

浅野の2丁目遊説の言葉はちょっと(かなり?)頼りなかったけれど、これを機に彼を取り込む言質は取っているわけで。わかってないなら、わからせてあげることです。ま、ちょっと政治的にドラマクイーン入ってますけど、そういうねぎらいのメールですね。そういう腹ゲイ。

秘書の人へでもいいからさ。こういう後始末、そして次へのつなぎ、はすごく大切です。浅野、これからどうするにしても取り込むべき相手でしょう。政治に再度出てくるかもしれないんだし、いずれにしてもテレビには戻るでしょうしね。

んで、もう1つ、夏の「東京プライド」のパレードに浅野を招待してください。来るか来ないかは問題ではない。2丁目に来てくれたんだから、お礼の意味として招待するのは礼儀でしょう。少なくとも私たちのその姿勢は見せてあげるのは礼儀。んで、もちろんメディア向けの事前広報として、招待者の名前をプレスリリースに記載しちゃうのね。その辺、周到に。へへ。

LGBTが欧米諸国でマーケットとして認められてきたのは、「恩義に厚い(Loyalty)」ってこと。礼を尽くすことからすべては始まるのです。

そうそう、そういうの、個人で勝手に出してもよい。ゲイです、ってきちんと書き記した上でね。
宛先としては、メール、選挙期間中のキャンペーンは
yumenet@asanoshiro.org
だったんだけど、これはまだ通じるのかな?
郵便宛先なら次のとおりです。

〒252-8520
神奈川県藤沢市遠藤 5322
慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス
総合政策学部
浅野史郎

民主党に手紙を出すのも、いいかもしれません。
メールは鳩山か円より子宛がよいでしょう。
info@dpj.or.jp
民主党web-site 問い合わせページ
「件名については、できるだけご意見やご質問の内容がわかるように」とのことです。
また「本文中に送信者の氏名が記入されていないメールには基本的にお返事いたしかね」るとのこと。ってことは、ふつうはお返事来るのね。

スネールメールは
〒100-0014
東京都千代田区永田町1-11-1
民主党本部
民主党幹事長
鳩山由紀夫

〒160-0022
東京都新宿区新宿1−2−8 國久ビル 2F
民主党東京都総支部連合会
円 より子

April 08, 2007

選挙ですよー

まだ時間あるよ。
日本のみなさん、選挙あるところは、選挙、投票に行きなはれ!

あのね、「オレ1人くらい行かなくても」って思うのは違うんだって。

オレ一人くらい行かなくても、ってきみが思うってことは、統計的に、きみのような人たちの多くがそう思うってことなんだって。
もしきみが、オレ一人でも行こうかな、って思ったら、統計的に、きみに似た人たちの多くは、オレ一人でも行こうかな、って思って行くんだって。

つまり、いま、きみが行くか行かないか、行こうと思うか思わないかが、全体の動向に影響するんだ。それは、すでにきみ1人の問題ではないんだって、知ってた?

これ、すごい論理だよ!

ぼくらは、たった1人でも世界を変えられるんだ。
つーか、1人から始まるものでないと、信じちゃだめだす。

さー、石原を落としてください。
10年後の未来のない人に、未来を語らせてはだめだ。

まだ5分あるなら、それだけで投票所に駆け込めるよ! ほい!

April 03, 2007

浅野史郎の二丁目遊説

次の記事はスポーツ報知とスポニチの記事です。

**
浅野氏×ゲイ 新宿2丁目で異色コラボ…4・8都知事選

 東京都知事選(4月8日投開票)に向け残り1週間あまりとなった31日、前宮城県知事・浅野史郎氏(59)がゲイタウンとして知られる新宿2丁目に登場した。今知事選で候補がこの地区を訪れるのは初めてで、現場には約500人が群がった。この日は民主党・菅直人代表代行(60)とも遊説した浅野氏。幅広い支援を呼びかけながら、いよいよラストスパートが始まった。

 「ヒュー♪」「かっこいいわヨ」浅野氏が現れると一気に“黄色い声援”が飛んだ。狭い路上には約500人が集まり、まさに大歓“ゲイ”ムードとなった。

 マイクを握った浅野氏は「ここは通りがかったことはありますが、来るのは初めて。ちょっとおびえています」と恐縮気味。同性愛者らに対する具体的な政策について聞かれ「基本的にありません」と答えると「それじゃあ駄目だろ!!」と“黄色い声援”は野太いヤジに変わった。

 浅野氏が「(都政が住民らの)邪魔をしなければいい。誰にも迷惑かけていないんですから」と説明すると、住民らも納得した様子。普段はライターのエスムラルダさん(36)も「実際に来てくれて印象が変わった。社会的弱者が生きやすい社会にしてほしい」と話した。

 イベントには同性愛者であることをカミングアウトしている大阪府議の尾辻かな子氏や、性同一性障害を告白した世田谷区議の上川あや氏らが駆け付けた。会自体は浅野氏を支援する同性愛者の団体が主催しているが、選対関係者によると「浅野本人はそういう性的嗜好(しこう)はない」という。ただあまりの熱気に浅野氏も「(選挙戦で)一番の盛り上がりだったね」と苦笑した。 (報知)
===

「新宿2丁目」は浅野氏“大歓ゲイ”

 前宮城県知事の浅野史郎氏(59)が31日、ゲイタウンとして知られる「新宿2丁目」でマイクを握った。石原慎太郎知事(74)がかつて「2丁目」の景観を条例で規制する発言をしたため、同地区では「街が変えられてしまう」との危機感が広がっており、選挙に注目が集まっている。浅野氏はセクシュアルマイノリティーに対して“保護”する立場を示し、聴衆から拍手を受けた。

 浅野氏は「ここら辺は通りかかったことはあるんだけど、来たのは初めて。少し今、おびえています」とあいさつ。すると、約500人の聴衆からは笑い声が上がり、「おびえちゃダメ!」の野太い声のヤジが飛んだ。

 ゲイの街を揺らす原因は昨年9月の石原氏の発言。五輪招致に絡んで「新宿2丁目」について一部インタビューで「美観とは言えない」として「規制力のある条例をつくる」と語ったため、ゲイタウンは大騒ぎ。そこで都知事選候補で石原氏の最大の対抗馬といわれる浅野氏を集会に招くことになった。注目度は高く、浅野氏も「私の演説会でこんなに集まるのは珍しい…」とビックリ。

 「知事になった場合、セクシュアルマイノリティーに対してどんな政策をするのか?」と司会を務めた女装したフリーライターの男性(35)に問われ、「迷惑をかけているわけでないなら、自由にやれるように…というのが基本的な姿勢。邪魔はしません」と答え、大きな拍手を浴びた。そして「シロウさ〜ん」の声援を浴びながら20分弱の遊説で「2丁目」を後にした。

 演説後、27歳の男性は「ここで演説をする人はなかなかいないし、セクシュアルマイノリティーに対する理解を示してくれたと思う」と感想。30代の男性は「好みの候補者?誰っていうより、イシハラがイヤよ〜。弱者に対する発言がひどいじゃない!」と激怒。「ゲイはこれまで投票に行かない人が多かった。でもこの選挙の注目度は高い。この街には5万票があると言う人もいる。どう動くのか楽しみね」と話す人もいた。 (スポニチ)
**

報知の嫌らしい原稿の書き方はさておき、一般紙の報道はなかったようですね。ちょっと数紙の記者に聞いてみたところ、劣勢の浅野は後半戦に向けてどこにでも顔を出すので、いちいち付き合ってられないという心理がデスクレベルで働いているとともに、都知事選では性的少数者問題は争点でもなんでもないし、という感じが背景にあるようです。

私としてはしかしこれは単に一地方としての東京(都知事選)レベルの話ではなく、性的少数者の(初の一連の)政治的動き(の1つ)という意味では全国ネタだと思っているのですが、まだそういうきちんとした人権意識が日本の一般メディア内に育っていないのでしょう。だからキワモノ記事としてスポーツ紙だけが取り上げた。テレビニュースはあったようですが。

浅野に対しても、二丁目関連のあちこちから「ちょっとガッカリ」との声が聞こえてきます。しかしふつうはあんなもんなんですよ。札幌の上田さんが特別なのね。それより、ここまで連れてきた裏方さんたちの努力にまずは大いなる敬意を表したい。これは確かに歴史を作ったのだと思います。ほんとうにごくろうさんでした。

そのうえで敢えて敢えて敢えて苦言を呈させていただけば、浅野にきちんと事前にこの二丁目遊説の意義をレクチャーしてやるやつがいなかったようなのがちと残念です。すくなくとも話すべきポイントを箇条書きにでもして秘書に渡してやればよかったね。政治家なんてそういうもんなんだ。いろんなところに気を配らねばならないんだから何から何まで知ってるってもんじゃない。だからこそこっちから教えてやって初めてナンボのもんになる。教えてやれば百年前から知ってたような一丁前の話をしてくれるんです。擦り合わせもせずに質問ぶつけたらやはりちょっと苦しいかなあ(もし擦り合わせしてたのならごめんなさい)。 もっとも、知らないことを知らない、まだ考えてない、とはっきり言える浅野は、そういうところがいいのかもしれないしね。それにしてもLGBTコミュニティに関する基本認識は、教えてやらないとなんせ情報が流通していないんだから。

その、情報の欠落の問題です。
今回の都知事選で、一般都民は歌舞伎町がきれいにかつ安全になって(?)、きっと暴力団や外国人犯罪集団も駆逐されつつあると思っているのです。これはまったくもって歓迎すべきことだ、と。
おなじようなことが“性と享楽の魔界”である二丁目なる場所で行われて何が悪い、という受け取りなのです。思い起こしてもご覧なさいな、二丁目にデビューする前に、二丁目がいかに目くるめくほど恐ろしく兇まがしく妖しいものとして私たち自身にさえも映っていたかを。そこが浄化されるというのです。いい話じゃないですか! 一般には、「二丁目は性的少数者の数少ない命綱のコミュニティなんだ」とだけ訴えても、「へん、歌舞伎町だって暴力団の命綱の場所だろうが。同じこった」と返されるだけかもしれません。

そういう印象をくつがえせる、そうしたことにきちんと対抗しうる言説を、つまり「歌舞伎町」と「二丁目」はぜんぜん意味が違うのだということを決然と示しうる言葉の群れを私たちは必要としているのですが、それはまだまったく一般都民レベルには届いていないのでしょうね。それで石原の父権主義的な話し振りだけが彼らに響くという構図。断固たる上意下達でディーゼル車も排除して都内の空気はきれいになり、あの四男のスキャンダルの逆風はもう止んでしまったみたいだからそれで「石原で何が悪い」となっているんだ。傲慢、無礼、差別体質、それだけでは政治的にはまったく対抗できないのです。 なぜなら、都民はそれを飲み込んだ上で石原の父権を求めているのだから。強い父親でそういうオヤヂなやつはよくいる話、つまり慣れちゃってるんだから。そこをひっくり返せる物言いが、どうしたらできるのか。

遠く見ているだけの私には何を言う資格もないですけれど、裏方のプロモーターたちは、こういう選挙の時には遠慮なんかしてる暇はない。ほんとうに大変なのです。ご存じのように、人の好い素人じゃダメ。子供でもダメ。選挙で求められるのは、えげつない裏方と笑顔のおもて方。あたりかまわぬ挨拶と謝辞と、悪魔も騙せるほど頭の切れる参謀。マーケティングに精通したアイデアマンたちと、そしてそれを恥も外聞もなく実行してくれるピエロたち。 おお、かなりの人数が必要。

この選挙、きっと多くの人が傷つくでしょうが、どうせ傷つくなら覚悟の上で予定的にしっかりと傷つき、しっかりと這い上がり、さらに強い大人になろうじゃありませんか。ね。

March 16, 2007

だから何だっていうの?──従軍慰安婦問題とは何か

軍による慰安婦強制連行示す資料なし…答弁書閣議決定
(読売新聞 - 03月17日 00:31)

 政府は16日の閣議で、いわゆる従軍慰安婦問題に関する1993年の河野洋平官房長官談話について、「(談話発表までに)政府が発見した資料の中には、軍や官憲による、いわゆる強制連行を直接示すような記述は見あたらなかった」とする答弁書を決定した。

 安倍首相は「狭義の意味での強制性を裏づける資料はなかった」としているが、その根拠となる、従来の政府の立場を改めて示した形だ。社民党の辻元清美衆院議員の質問主意書に答えた。

**

まったく、日本政府のこの対応のバカさ加減には呆れます。
従軍慰安婦問題とは何なのか、それをまったくわかっていないでこうして傷口を広げるようなことばかりする。これでは国益を損なう一方です。

いままた米国で大きく取り上げられているこの従軍慰安婦問題にはさまざまな要素が絡み合っています。

1つは日本の自民党があまり得意じゃない米民主党の台頭という米国内の事情。もう1つは日本国内の保守派層への説明と国外向けへの説明とで微妙にニュアンスを違える安倍政権の事情。さらにそこに、現在進行中の北朝鮮の核開発に関する6カ国協議の事情が影を投げかけているわけです。

米国の火に油を注いだのが今月初めの安倍の「(慰安婦徴用には)強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実」発言でした。きょうの閣議決定答弁書の内容もこの延長線上です。

論理の上で「非在の証明」というのは最も困難なもので、つまり「強制性を裏付ける証拠がなかった」からといってすべてに「強制性がなかった」とは一概には言えない。それがわかっていながら、なのにそう言ってしまうのはなぜなのか? 証拠がなかった、といって、だから何だと言いたいのでしょう?

私もこの従軍慰安婦制度は、安倍らが言うように、軍や政府が直接手を下して女性たちを強制連行したという事例はおそらくそう多くはなかったのだろうと思っています。彼女たちを集めたのは多くの場合、民間の事業者であることは分っていて、時にはウソを言ったりあるいは脅しや力ずくで引っ張ってきたこともあるでしょうが、しかしそうした事例が大半だと非難するのは状況的にみて「そこまでは言い切れまい」という気がしています。しかしそれが現在から見て免罪されるかというと、それは違う。あの時代はどこかのだれかが言ったようにまさに「女性は産む機械」あるいは「慰みもの」だと言って憚らない時代だったわけです。

こう考えてみましょう。「奴隷」が一般に存在していた時代にはその制度への罪悪感は薄かったでしょう。では、だからといって「必ずしも悪意を裏付ける証拠がない」として奴隷所有を“擁護”するかのような発言は可能かというとそれは違う。ましてや「奴隷制度で得をした黒人もいる」などと発言したら政治生命云々どころの話ではありません。あの時代のパラダイムでは、強制連行されようが奴隷で幸せだったのだろうが、そんなことは問題の本質ではないのです。

しかも、今回の中心の問題は慰安婦の強制「連行」ではなくて、慰安婦への「売春」の強制なんですよ。連行しようがしまいが、その行き着くところで待っている慰安という名のセックス供給制度が問題なのです。そのセックスを、「売春婦ってのは好き者だからな」という男性性の思い込みで誤解したままの男たちの論理で一義的な問題としない、その浅ましさを恥ずかしく思わないのか。

強制したのは個人ではない場合もあるかもしれません。しかし厳然と言える事実は、システムが、時代が、それらを強制・強要していたということなのです。なのに強制連行の具体的な証拠がないって、だからいったいおまえは何が言いたいんだよ?

つまりこの場合、反省は個々の事例に対してというよりは、時代と制度全体への反省なのです。そのあたりの反論と反省の次元の違いを、安倍及び「新しい教科書をつくる会」に連なる右派勢力はあえて混同させているのです。安倍内閣による今回の一連の河野談話修正の“釈明”は、この国内の右派勢力に向けてのご機嫌取りなんですね。

事実誤認に基づく言われのない非難にはきちんと反論すべきです。この場合は、日本はこれまで慰安婦問題で謝罪していないとか、すべて強制連行だった、とかいう誤りに対してです。しかしその反論が、これまでの反省や謝罪そのものを全否定しているように聞こえては逆効果です。ましてや6カ国協議で日米が乖離したほうが簡単になるという国際政治の力学が渦巻いているこの時期。それはあまりに稚拙に過ぎる対応というもんでしょう。

安倍は「(一部の報道で)本来の意図と異なる、正確さと冷静さを欠く形で発言内容が伝えられた」とし、「非生産的な論争を招く」からと反論を自粛する旨を明かしましたが、これも呆れます。こういうときこそ反論しなくては政治家の政治家たる理由がない。もっとも、国外の反応よりも急落中の支持率挽回のために本来の自分の支持層である右派勢力の歓心を買おうとしたという、国内「政治屋」の理由はあるでしょうが。安倍は元もと河野談話修正論者。それを首相になったら重要な外交問題になるとして封印していた。靖国参拝自粛と同じです。なのにこうして時おり持論が飛び出す。こうした首尾不一貫、内外施策のちぐはぐさがなんとも幼稚なのです。で結局、11日には「心の傷を負われ、大変な苦労をされた方々に心からおわび申し上げている」とあらためての謝罪表明。これでは何のために事実誤認だと反論したのか、元も子もないだろうに。それともこれにはなんらかの深い伏線があるんでしょうか。私にはわからない。

そもそも、この慰安婦問題が米議会で出てくるというのは昨年の中間選挙で民主党が勝ったときから予想されていたことです。この非難決議案はカリフォルニアのマイク・ホンダっていう民主党下院議員が昔っから取り上げていたもので、この人、日系3世なんですが、カリフォルニアでは日系よりもはるかに人口の多い中国系を票田としている議員です。で、この中国系支持者層の歓心と献金を買うために日本の戦争責任を問うことを政治姿勢にしている。

ところが自民党は、クリントン政権のときからそうだったんですが、米民主党とのパイプが細い。それでブッシュ政権になったときに舞い上がってさらに共和党一辺倒になった。小泉時代のツケですね。で、民主党の逆転でブッシュ共和党がネオコンを切ってどんどん方向転換をしているのにそれに対応できないでいる。北朝鮮での対話政策への転換もそうです。ここに来て拉致問題重視の日本だけが孤立するはめになっています。6カ国協議で、日本だけが別のことを主張しなくてはならない、それも安倍が政治的に台頭してきたその拉致問題を大切にしなくてはならないときにこうして自らの首を絞めるようなことを言って米国との距離を広げるようなことをするのか。右派勢力のほうが拉致家族よりも大切なのか(まあ、そうなんでしょう)。

この内閣はメチャクチャです。支離滅裂で論評にすら値しない。というか、論評できないのです。
安定多数の議会を背景に、究極のインサイダー取引をしていた日銀総裁を更迭せず、女性機械発言の厚労相を辞めさせず、人権メタボリック発言の文科相を問題なしとし、500万円なんとか還元水の農水相をかばう。「とんでもない」という一言は、どうしたって論評にまで発展しないのです。

January 31, 2007

「ゲイの高校生の普通な毎日」

「ゲイの高校生の普通な毎日」というブログを読みました。ちょっと前ですが、1月25日のです。この高校生ブロガーくんはカムアウトしていないようですが、そのブログに「実は最近仲いい子の部活の後輩の子がゲイなんだって聞いちゃったりしました」と書いていました。

どうも「ケータイを勝手に見られたりして、なかにブックマークしていたゲイサイトを見られてしまって判明した」らしい。で、噂が立って「それでかなり避けられたり陰で言われたりしてるみたい」なのですね。「これって全然他人事に思われへん」と彼は書きます。そうして「やっぱり……異性愛者からしたら同性愛者ってのは気持ち悪いもんでしかないみたいです。あと、どうもおかしな思考回路持った人ってイメージ多いし……。友達に言われましたもん。その子が近くにいるときに僕が背伸びしてお腹出してると『あいつには気をつけろよ。ゲイやから襲われるで!』」

「ゲイの高校生」くんは、「とりあえず作り笑いでごまかしたけどそれって憤慨。同性愛者がみんながみんなそんなやつじゃないですから。普通に常識ありますから」ととてもしっかりしたことを書いています。「カバちゃんとかおすピーとかかりやざきさん」のテレビのイメージの影響を感じながらもその3人を「すごく面白いからすきだけど」とフォローしてもいます。で、「同性愛者って実は、ふつうにキャラ薄く生きてる人が多いんだよぉ……ばれないようにばれないようにって、毎日繕いながらひっそりと恋愛生活してるんやしぃ」といまの高校生ゲイの世界をさりげなく、しかし的確に教えてくれます。「僕もいつかは同性愛者ってことを隠さずに生きていけるようになりたい。たとえ、何人の人が背中をむけても、きっと何人かはわかってくれるはずだって信じたいから」という彼は、そしてブログを「うん。強くなろう……」と結ぶのです。

いい文章だなあ。

さて、これを読んでどう思ったか。こんな21世紀になっても日本の高校生たちは20年前と同じ差別にさらされているのか、とか? あるコメントは「最近同性愛者に対する理解が増えたって言いますが、やっぱり表面上だけなんですかね……。私も憤慨です。同性愛とか別に普通なんですけどね。そうじゃない人のほうが多いのかーわからんなぁー」と言っていました。また別のひとは「やっぱり友達ゎみんなノンケだから、同性愛っぽい話とかが出るとキモって顔する人ばっかりで」とも。

コメント群もみなさん共感的で、早く噂が消えればいいのにとその噂の後輩くんを気遣ってくれています。やさしいね。

高校生ってどうなんでしょう。ほんとにそんなにホモフォビックなのかなあ。私は「最近同性愛者に対する理解が増えたって言いますが、やっぱり表面上だけなんですかね」というコメントに逆に気づくことがありました。

つまり、理解が増えたというのが表面的なら、理解のなさもまた表面的なんじゃないのかと。ホモフォビアも、ちゃんと理解して抱いてるんじゃなくて、そう凝り固まったものでもないんじゃないのかなって思ったわけです。みんななんとない受け売り、耳に挟んだものをまるで自分の考えたことのように思い込んじゃってるだけかも。そういうのもまたピアプレッシャーの一種でしょうね。みんながそう思ってる。そんな幻想からの圧力に押し流されてるだけ。

そうしたホモフォビアって、まあ高校生のリビドーの強さを纏ってなんだかすっごく厄介なバカ騒ぎめいたものにも見えるけれど、じつはそんなに大したもんじゃないんじゃないんでしょうか? そこを教育で衝いてやれば、かんたんに転ぶんじゃないかなあ。

教育ってカルチベートcultivateすることだっていったのは太宰治ですけど、そこに植えるのは正しさのタネなの。その正しさの芽を示してやること。それは情報のときもあるし態度のときもある。で、正しさはまずは信じるに足るものだってことを示してやること。まさにそれこそが必要なことなのではないか? それこそが「教育の再生」ってことの1つじゃないのか。

高校生のホモフォビアなんて幻想だ、そう実体があるものではないと書きました。中学生や小学生間のホモフォビアではもっとそうでしょう。正確な情報が与えられていないところでは幻想しか成立しませんからね。小学生と高校生のホモフォビアの違いは、まあ、時間が経過したせいで表層の角質化がやや進んだということくらいか。その証拠に(小学生の時とそう変わらないという証拠に)そういうホモフォビックな言辞を吐く高校生に「どうして?」って訊いてやったら、おそらく3つ目の「どうして?」くらいでそれ以上の答えに窮するでしょうから。

それが凝り固まっちゃったいい年のヤツなら、答えに窮する自分を認めたくなくて的外れな反撃に出たり無視を決め込んだりする。そこで終わりです。これは個別対応しても時間と労力の無駄だ。よほどの友達でない限り、そんな手間を敢えてこちらから割いてやる必要も気力もない。それは時代のパラダイムの変化で十把一絡げに変える以外にない。
でも高校生なら(それもまたわたしの甘っちょろい幻想かもしれないけれど)、自分が答えられないという事実に新鮮な驚きを覚えることも可能ではないか? 自分が答えに窮している瞬間に、あ、そっか、と蒙が啓かれる喜びを覚えることもできるのではないか? なぜなら、正しさに気づくことは楽しいことなのですから。ま、最近はキレる高校生もいるだろうけれどね。それはまた別の話。正しさが時としてとんでもなくイヤなものだってのも、それは次のレッスン。

で、私はそれが教育の醍醐味だと思う。そうしてそれはそんなに、というか、ぜんぜん、難しいことではないはずだ。その機会を、先生たちはどうして見逃しているのかなあ。もったいないなあ。

じゃあさ、先生という教育者たちがそれを見逃しているのなら、先生に頼らずに生徒たち同士が互いを触発し合うことだって、じつはそう難しいことではないと思うのです。さっきも書いたけれど、相手が友達だったらそういう触発の手間をかけてやってもいいじゃないですか。友情を手がかりにその友達のホモフォビアをちょっとずつ修正してやる。それはそいつのためです。放っておいたらホモフォビアを抱えたままのみっともないヤツになってしまうのですから。

「言うのは簡単だけれど」という声が聞こえてきそうだけれど、ほんとにそうかしら? 試したこともないんでしょ? どうしてそういえるのか? カムアウトの怖さはね、半分は妄想なんです。ビクついて頭の中で怖さが膨らんで……でも、じっさいはそんなに大変なことではないと思うなあ。十代のホモフォビアなんて枯れススキみたいなもので、そう大層なことではないという例証は欧米の中学や高校なんかでは枚挙にいとまがないのですから。大層な場合もあるけどね、それはだいたい、相手が集団でピアプレッシャーに凝り固まって、自分じゃどうにもできなくなるときです。でもそれはホモフォビアの強さというよりも、集団ヒステリアの強さなんだと思う。

やわらかな心の、やわらかさに期待できるような、そんな機会が、若い彼らのまわりにもっともっと増えるといいね。

January 24, 2007

宮崎県下のゲイは総勢……

以下、zakzak1/22より転載
http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_01/g2007012207.html
(きっといずれすぐ消えるのでリンクしないで済ませます)
***
そのまんま東の知事当選にゲイが“ひと肌”


梅川新之輔ママとマドンナちゃん(写真の中央後方)も昨夜、そのまんま東さん(右)のお祝いに駆けつけた
 宮崎県知事選で劇的な圧勝を収めたそのまんま東氏だが、意外な応援団から熱烈な支持を得ていた。宮崎市内の会見場には2人の“和服美女”が登場し、東氏をねぎらう姿が見られたが、この2人、宮崎市内のゲイバー「こけっと」の梅川新之輔ママとマドンナちゃん(共に年齢不詳)=写真。

g2007012207geiba.jpgg2007012207higasiouen.jpg

 東氏はマドンナちゃんの高校時代の先輩という縁で、タレント時代から同店にたびたび遊びに行っており、今回の知事選で2人がひと肌脱いだというわけだ。

 「宮崎県内のゲイの大御所」(マドンナちゃん)という梅川ママの協力のもと、県下のゲイ全員に東氏への投票を呼びかけたところ、全員が快諾。つまり東氏は宮崎県内では「ゲイからの支持率100%」を達成したわけだ。

 ちなみに、梅川ママによると、宮崎県内のゲイは総勢約20人。わずかな数字だが、このような勝手連が東氏を知事に押し上げたのも事実。梅川ママは「今までのネオン街は死んだみたいだったけど、これで宮崎の景気もよくなるわぁ〜」と色気たっぷりに話していた。

**

ふうん、そうなんだ。20人ねえ。
ちなみに例のジェンダーフリー条例の都城もこの宮崎県。
ちなみにzakzakはフジ産経グループのタブロイド紙のウェブ版です。
この程度です。

January 20, 2007

槙原ケイムアウト?

このところ注目のakaboshiくんのブログが、槙原敬之のカムアウトのテキストを見つけたことでなんだかよくわからないことが起きています。日本テレビのウェブサイトで「第2日本テレビ」というのがあって、そこで見られると言うんだけれど、ぼくのコンピュータはMacなので見られない。といってるあいだに、どうも、その該当の動画ファイルが削除されてしまうということになっているようなのですね。

問題の動画はakaboshiくんによれば「2007年1月15日に放送された『極上の月夜〜誰も知らない美輪明宏の世界』という番組のインタビュー収録の場で語られたことであり、放送ではオンエアされなかったようです。しかし、ネット上に現在公開されている「槇原敬之インタビュー(後編)+槇原敬之『ヨイトマケの唄』ライブ」にて見ることができます」ということだったらしい。

akaboshiくんのブログには、しかし、いまも字に起こされた槙原の発言が載っています。よくはっきりしないけれど、でもまあ、文脈を辿ればカムアウトしたってことなんでしょうね。
akaboshiくんの再録したこの文字テキストは削除できないでしょう。
しかし、そのおおもとの動画ファイルがいまなくなってしまったというのはさて、いったいどういうことなんでしょうね?

ぼくはむかし槙原が覚醒剤で逮捕され、その際になんとかくんというこちらはゲイの男性とともに逮捕されたことで同性愛“疑惑”が週刊誌で仰々しく報じられたときに、てっきり彼も覚悟を決めてカムアウトするものだとばかり思っていました。だって、どうしたってその“疑惑”は蓋然性からいっても事実であって隠しようがなかったから。だから、それを見越して、バディのコラムで、「さて、ぼくらはどうするのか、槙原を見捨てるのか?」と書きもしました。

ところが、隠したんですね。どうしたもんだか彼は、自分はゲイではない、と言った。
おかしなもんでそして当時、日本の芸能マスコミはそれを通用させたんです。
それは何だったのか?

きっとね、ゲイであることは汚辱だってことだったんだとおもいます。汚辱だけれど法律に触れることではない。だから責めるべきことではない。だからそれはプライヴァシーに関することとしてマスから隠してやるべきことでもある。だからこれを不問に付すのが芸能メディアとしての取るべき道である、と判断したのでしょう。なんとまあ慈悲にあふれた対応か。

それは芸能マスコミのやさしさだったのでしょうか? スキャンダルとして、それは離婚や不倫や浮気や隠し子よりも“ヤバい”ことだった。だから、ほんとうにそんなにヤバいことだから、書かないでいてやるのが情けだ、と。そう、離婚や不倫や浮気や隠し子は「書ける」ことです。しかし「同性愛」はマジな部分では「書けない」こと。お笑いやからかいでは書けるけれど、マジな次元では書けないこと。マジでヤバいことだった。

ここにとても複雑な、メディアのズルさがあります。なぜ書けないのか? 書くとそれが人権問題になることを知っているからです。しかし、彼らはそれを人権問題として書かないのではない。プライヴァシーの問題だ、として書かないのです。

このレトリック、あるいはもっと明確に、トリックが、わかりますか?
もし同性愛が人権問題ならば、言論・報道機関はそれを書かねばならないのです。しかし、これがプライヴァシーの問題であるとすれば、彼らはそれを書かない口実を得ることになる。その境界線を行き来することで、日本のメディアはずっと同性愛に触れないできた。いや、触れないできた、というよりどっち付かずの態度を取りつづけてこられた、というべきかもしれません。そうしてここで明らかになるのは、先に書いた「慈悲」とは、同性愛者に対する慈悲ではないということです。あの「慈悲」は、彼ら自身に対する慈悲、自分たちのどっちつかずに対する優しい甘さ、怠けに対する赦しなのです。

さて槙原に戻りましょう。
槙原の動画ファイルが消えた。これは何を意味するのか?
日テレに聞いてみなきゃわからんでしょうけれどね、あるいは槙原サイドからやっぱりありゃあまずい、と削除依頼を受けたのか。

なんとなく察しうるのは、槙原本人も、それとその本人をいちばん近くから見ている“スタッフ”も、カムアウトしたい、そろそろそんなことから楽になりたい、ということです。もう、いいじゃねえの、そんなこと、という感じ。美輪明宏の影響もあると言うか、美輪明宏の名前を出してその神通力に頼ると言うか、そういう含意もあるでしょうね、あの文脈では。ただし、本人サイドはほんと、もうバレバレだし見え見えだし、ええい、やっちゃえ、という勢いだったのだと思うのです。

ところが、それはやっぱりまずかった。よくよく考えると、やっぱ、削除だろう、となった。そんなところではないでしょうか? その背景にはakaboshiくんが書いてる「可視化するホモフォビア」とともにもう1つ、ホモフォビアへのプレコーション(事前警戒)、というのもあるのだと思う。怖いんですよ、マーケットが。

マーケットとは企業のCM、そのCMで成り立っているテレビ番組、諸々のパブリシティ用の印刷メディア、そうしてそれらに誘導される一般購買層です。事前警戒とは、おそらくホモフォビアがあるに違いないと事前に予測して、それよる損害を回避しようと行動することです。つまり、「やっぱ、削除だろう」なのです。

ただね、こうした姿勢って、商売としてそろそろだめになってくると思います。つまりね、ホモフォビアを抱えているような購買層というのは、どうしたって賢い消費者ではないわけですよ。企業及びビジネス自体が必要としているのは賢い購買層なの。槙原がゲイだって分ったって、それでもいいじゃん、という消費層あるいはファン層こそがCMを打って効果的なターゲット層なわけで、ホモフォビアを抱えてるような連中なんてどこにでも流れるような連中で当てにならない。後者だけを見ていて恐れていもだめなのです。ビジネスとしてはこの2層に別々の戦略が必要になってくると思うのですよ。

もっとも、日本ではすごく賢い人でもピアプレッシャー(同輩圧力)のせいでホモフォビックだったりしてね、それを治療するには同じくピアプレッシャーを利用してカムアウトした人を周囲に増やすしかないんだけど。

ま、それはまた別のときにでも再び。

(上記テキストに一部誤りがあったので差し替え訂正しました=1/21。大麻で逮捕と思ったのは覚醒剤でした。それと、放送日時が去年暮れではなくてこないだの15日だったそうです)

January 11, 2007

バラバラ切断殺人と女性蔑視

正月からろくでもない事件です。NYにいると、日本のおそらくは狂騒的だろうメディア・スクラムみたいなこういう猟奇事件めいたものの、その猟奇さに合わせたみたいな下司な報道に曝されなくて済むのがいい。

片や渋谷区幡ヶ谷の歯科医の娘さんとそのお兄ちゃん。片や同じく渋谷区富ヶ谷のモルガン・スタンリーの高給取りとその奥さんです。
なんだかんだいってわたしもオンラインのニュースサイトだけですけどけっこう読んでしまっていて、まあ、報道の下品さに辟易しながらもその同じ土俵に上がってしまっているのですが、その字面だけで判断すると、この2つはとてもよく似ています。ただし、これは「遺体のバラバラ切断」というのはあまり重要な要素じゃないのかもしれません。それはこれまでの報道を総合すればきっと始末に困ったからであって、べつに“猟奇的”な意味合いからではないでしょう。幡ヶ谷のお兄ちゃんは妹の乳房や性器部分を切り取っていたというけれど、これは性的なものなのか捜査の攪乱のためか、今の時点ではよくわからないし、いまのところわたしにはあまり興味がない。どっちにしてもそれだけであるならば想像力の範囲ではありますし。

似ているのはバラバラにしたとか短絡的だとかそういうことだけではありません。
似ているのは、(これはあくまでのわたしの読んだ報道の範囲内だけからの判断ですけれど)この2つの事件に臭う、同じような女性嫌悪(ミソジニー)の要素です。女性嫌悪というのが強すぎるなら、女性蔑視と言ってもよい。

武藤亜澄さんは、お兄ちゃんの勇貴くんから「言葉遣いがなっていない」とか「態度が悪い」とか「恩知らずでわがまま」と非難されていて、それが殺人の背景の一つのようです。非難は勇貴くんだけではなく、どうもそのうえの長兄からもお母さんからも来ていたようだ。こうして根掘り葉掘り情報を流布されてしまうご遺族には同情を禁じませんが、私が書くのはご家族への非難じゃないので赦していただきたい。

「妹」というのは微妙なものです。女であり、さらに年下である。年上の男にとっては愛護の対象である、とされるこの位置から、年上の男に向けて「三浪のくせに」という言葉が発せられたら、愛護の対象は、愛護の対象である分だけ逆のベクトルをまとう攻撃の対象に変わるでしょう。亜澄さんは歯科医の一家にあってひとり演劇に興味があって別の道を歩もうとしていて、それも家族内の波風のもとだったのかもしれません。あるいは、末っ子で女だった彼女は、歯学部ー歯科医というエスタブリッシュからひとり離れることのできた「女」で「年若」の“特権”をあえて使ったのかもしれない。

で、ふと思うのです。彼女がもし女でなかったら、つまり、弟だったなら、勇貴くんが抱いていた殺意は別の種類のものだったんじゃないだろうかというふうなことです。愛護の裏返しのような敢えて駆られての殺意ではなくて、変な言い方ですがもっと対等な殺意というか、いやあるいは兄貴のほうも演劇なんていうろくでもない道に進もうとしている弟を見て、自分も三浪する以外の別の道があるのかもしれないななんていう既成コースの脱構築が促されるようなそんな関係すら想像可能な、もっと風通しのよい景色があったのではないかと、思ったりもする。

亜澄さんも、女であることであえて突っ張って頑張らねばならないような状況にいたのではないか? 勇貴くんも妹にバカにされたことで弟にバカにされる以上の辱めを感じたのではないか?

そこにある女性へのバイアス。

これを、じつはモルガンスタンリーのなんとかさんにも感じます。もちろん、今日時点でのほとんど第一報的な報道の範囲内の情報からの判断ですからそれはわたしの想像を出ないし、殺された方を貶める意図もここにはありません。

さて32歳の妻は、「口論も絶えず」「暴力も振るわれ」「自分を否定している」ように感じられた30歳の夫を寝ているあいだにワインの瓶で殴りつけて殺害します。加害者の一方的な供述をかりに真とするなら、ここに見えてくるのはとても強権的で封建的な、女を人間とも思っていない30歳の男性若者像です。さらにここにも年齢差が、とても日本的に、関係してくるかもしれません。こちらの場合は、愛護の対象ではなくなった女性です。そのときにこの「年上」という要素がどのように「愛護の対象ではない」という部分を補強するのか、その残酷な例は私たちの周囲におそらく多々見られることでしょう。

極論をいえば、どうしてこうも男は女が嫌いなのか、ということです。
裏を返せば、男は自分のセックスの対象となる(可能性のある)女しか好きではないのか?
ふたつの事件で被害者と加害者はそれぞれ男女が逆転していますが、わたしには同じ女嫌いという要素が下地になった殺しだと思えてなりません。いや、モルガンスタリーの男性はすごくいい人で、わたしが基にしているのは加害者容疑者の妻の一方的な虚構の供述なのかもしれませんが。

両事件はまだまだどんな展開になるのかわかりません。
が、そういう視点でニュースショーやワイドショーを眺めてみることも必要かもしれません。日本社会の持つそういう種類のミソジニーは、もちろんホモソシアリティの産物であり、それがゲイと、それ以上にレズビアンたちを抑圧しているのです。その種のメカニズムに、心ある人は自覚的であってほしいと願います。

November 17, 2006

この文章への不快感

連鎖すら生んでいるかのような少年少女のいじめ自殺に、「文部科学大臣からのお願い」なる文章が発表されたという。

(クリックすれば大きくなります)

これはだれが書いたのだろう。役人か、それとも大臣そのひとか。
なんだか、空虚な、文字の無駄遣いのような文章だ。いや、それ以上に、ここに書いてあるような安っぽいことは、きっと数多の教室で家庭で、ろくでもない教師たちだって親たちだってだれだってすぐ言えるような常套句だ。そうしてそれでもいじめは解決されていないのだとすれば、一国の大臣が、この程度の言葉を発表してはダメなのである。曲がりなりにも大臣なのだ。総理大臣が北朝鮮に行くときは外交上の“最終兵器”として出向くのである。文部大臣が言葉を発するときは、それ以上の言葉はもうないのである。

なのに文部科学を司る“最終兵器”が同じことを言っていると知って、いじめられる側もいじめる側も、しょせんオトナのいうことなんてそんな程度だと思ってしまうことが私はいちばんいやだ。いや、そんな権威を信じているわけではない。子供に、世界の果てがそんな目に見えるほどのところにあると思わせることの罪を言っているのである。

このひとは何を言っているのか。
こんなブルシットをしたためるヒマがあるなら、いじめをやっている連中に、オトナの怒りを見せてやることこそが必要なのだ。
なのに、このひとは「怒る」代わりに「脅し」ているのである。おそらく「脅し」とも気づかないまま。
「君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ」とは何事だろう。

いじめを許さない、たとえいじめている側に向けてだって、いじめることを許してはいけない。なのに、「いじめられるよ、だからいじめるな」では、矛盾するだろう。この論理のネヅミ講の最後には、必ずいじめるやつの存在が残るのだ。そりゃそうかもしれない。しかしここはそんな存在をすらも許さないという態度を見せつけてやらなくてはならないのに。

だって、子供たちは、いつか自分も「いじめられるたちばになる」かもしれないことを恐れていじめつづけているのである。いじめる側に固執しているのである。「君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ」とはまさに、だからそうならないようにいじめつづけていよう、という呼びかけになってしまうのだ。なんと姑息な。

すでにメディアでも取材され報道されているそんな簡単な構造を、どうしてここで見逃しているのか。それは知的怠慢以外の何ものでもない。

冒頭の、疑似美辞的双子構造の二文、「いじめるのは、はずかしいこと」「ひきょうなこと」──これはおそらくあの「国家の品格」の藤原正彦の空疎な受け売りだ。
そうして子供たちは、それがどうしてはずかしいことなのか、ひきょうなことなのか、わからないままだからいじめを続けるのである。

いじめるのは、はずかしいことなんかじゃない。いじめるのは、「恥」そのものなのだ。それは世間様に対して「はずかしい」のではない。自分にとっての「恥」なのである。

「恥を知れ」と一喝してやれよ。
一国の文部大臣が、「いじめる側のままのきみをわたしはぜったいに赦さない」というほどに怒っているところを見せてやれよ。

「後になって」「ばかだったなあと思うより」というような簡単な反省ではないはずだ。
ひとが死ぬのである。それは「バカだったなあ」と思うどころの話ではないだろう。それは犯罪なのだ。「殺人なのだ」となぜ明確に指弾してやらないのだ。子供たちに「殺人者」という言葉を与えよ。それは罪を知らしめることなのだ。

この「お願い」は、いじめる子供たちにバカにされるだけで絶対に彼らの心に届かないだろう。

続いて後段である。
今度はいじめられる側への「お願い」だ。
これも、こんな言葉は聞き飽きている情けないほどに貧しいテキストだ。しかも、いじめる側への「お願い」と同じ紙に印刷するなよ。1つの檻の中に入れられた肉食獣と草食獣の姿を連想してしまう。礼儀にももとる。併記の扱いを受ける、傷ついている子供たちを可哀想だとは思わないのか。無神経だなあ。これこそ、「恥ずかしいこと」なのである。気づけよ、そのくらい。

そうしてその無神経さは全文を貫いてもいるのだ。
「話せば楽になるからね」という安請け合い。
それは「死ねば楽になるからね」というテキストとどれほどに説得の質の違いを持っているのか。

「きっとみんなが助けてくれる」
助けてなんかくれねえよ。バカ言っちゃいけない。おい、大臣、だれが助けてくれるんだい?
「きっと」ってなんだ? 命はそんな「きっと」に賭けてもよいものなのか?

いじめられている子が、どうしてそれを親にもいえないのか。それは、それこそ「はずかしい」からである。自分がいじめられるような、そんな情けない子供であるということを、親に知られることすらもが恥ずかしいのだ。なぜなら、親にまでそう知られたら、自分がほんとうにそんな情けないやつであるように自分でも思えてしまうのがいやだからである。そして親にまで恥ずかしい思いをさせてはいけないと思うからなのである。助けを請うのは情けないやつだからだ、と自分でも思えてしまっているのだ。

恥ずかしいことかもしれないけれど、「恥」ではない、と教えてやれよ。「恥」がどちらに属する言葉なのか、知らしめてやれよ。それがオトナの務めだろう。

ほんとうにいじめられている子たちに届くメッセージを発表したいなら、予算を割いて谷川俊太郎ら世の詩人たちに詩を書いてもらえばよいのである。そうしてそれを文科省の采配で学校の授業で緊急に取り上げさせればよいのである。詩人たちは社会の財産なのだ。有効利用すればよいのだ。役人の作文など、恥じ入ってしまえ。

こんな駄文で本気で何かが変わると思っているのなら、それこそ笑止。
教育基本法の改正どころの話ではなく、日本の危機そのものの露見。

第二の、以下の、親や先生らへの「お願い」文に至っては、アリバイ作り以外の何ものでもない。「……したいものです」という語尾一つとっても、なんなの、この他人事っぽい物言いは。
この内閣の目指す「美しい国」というのは、かくもかように情けない国なのである。ってか、ほんと、情けない政治家しか目立たん国だわなあ。
腹立ってきた。


November 08, 2006

神戸新聞のこの連載はすごい!

最近、日本の新聞づいておりますが、今日のはたまたま、ホントにたまたま仕事途中の逃避行動でネットサーフィンしていて見つけたもの。

神戸新聞のこの夏の連載記事です。
こんな良い企画ものが載ったことをいままで知りませんでした。

例の、神戸で“見つかった”性同一性障害の7歳の男の子(心は女の子)の調査報道です。
タイトルは「ほんとうのじぶん —性同一性障害の子どもたち」
筆者は「霍見真一郎」記者。
筆致はあくまで真摯。余計な飾りのない、素晴らしい原稿です。

地方新聞にこうした良質な記事を書ける記者がいる。うれしいなあ。しかも男の人ですよ! こういう原稿、男イズムにかまけている男性記者たちにはなかなか書けない。いつもLGBT関係は女性記者の独壇場なのです。彼女たちはセクシズムに侵されてない、というより侵されてそれを弾こうと意識的なのだから。

時間があるときに読んでみてください。
最初のページはここです。
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200607gid/01.htm

私は読んでいて、不覚にも3度ほど涙が出ました。
一部、以下に抜粋。

**
 母は信じられず、日を置いて、幾度か同じ問いを投げかけ、そのたびに泣かれた。
 あるときは、「いつから女の子になりたいと思っていたの」と聞いた。春樹の答えはこうだった。
 「なりたいんじゃなくて、(生まれたときから)女の子なの」

**

くーっ。この春樹ちゃん、いろんな意味で、なかなかすごいんだ。
ちょっと遅きに失したけどおもわず賞賛のメールを送ろうとしたら、神戸新聞のサイト、読者からのフィードバックを受け付ける窓口がどこにあるのかわかりません。
webmasterにメールすればいいのかしら?
ぜひ、この霍見真一郎記者に謝意を伝えたいものです。
在り難いとは、まさにこのように、存在が稀であることへの謂いなのです。

October 19, 2006

前のブログ、訂正

この下のブログで、司法記者クラブの記述に関して、「麻雀なんて、もうやってませんよ」と最近の同クラブを知る現役記者から教え諭されました。かつてわたしの在職時代とは雰囲気も違うようです。

お恥ずかしい。現況の取材もしないで、わたしの記憶の印象だけで誹謗中傷しました。

もう1つ、藤田社長の会見に関しても、記事にしていないのではなく、ネット上には転載されていなくとも本紙で原稿にしている社もあるようです。

これも、ネットのみ閲覧して判断してしまったわたしの短絡です。これも誹謗でした。当該司法記者に謝罪します。

下記ブログは、自戒のために削除せずにそのままにしておきます。
こういう間違いの典型としてお嗤いください。
「そもそもねえ〜」という態度で書き始めるとロクなことがない、という好例です。

ただし、偽装事件に関する藤田社長の告発は、追跡して調査報道する価値が大いにあるということに関しては訂正しません。志のある若い記者はぜひ頑張っていただきたい。

もうひとつの耐震偽装事件

東京新聞社会面サイトに次のような記事が出ていました。
興味深い、というか、なんだかとても大変なことが書かれてるんですよ、これが。

まずはお読みください。

『アパ3物件も偽装』

藤田元社長暴露


判決後、会見で別の耐震偽装疑惑を述べる藤田被告=18日午前、東京・霞が関の司法記者クラブで

 「国がどうやって真実をねじ曲げてしまうか、みんな知らない」。耐震強度偽装事件の“登場人物”の一人とされ、東京地裁で十八日、有罪判決を受けた民間確認検査機関「イーホームズ」(廃業)元社長藤田東吾被告(45)が判決後、記者会見で「爆弾告発」をした。「アパグループの物件でも偽装が行われた」。藤田被告は激高した口調で、国や捜査当局を「耐震偽装を隠ぺいするために私を逮捕した」と批判、マスコミに真実を追及するよう訴えた。

■首都圏マンションなど

 藤田被告は判決後、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、「イーホームズが確認検査をしたホテル・マンション大手『アパ』グループの三つの物件でも耐震強度の偽装があった」と述べた。

 アパは今年六月、「イーホームズより構造計算書に一部不整合があるとの報告を受け、検証中」と明らかにしていた。

 藤田被告によると、イーホームズが偽装を確認したのは(1)埼玉県鶴ケ島市のマンション「アップルガーデン若葉駅前」(2)千葉県成田市のマンション「アパガーデンパレス成田」(3)川崎市内の物件−の三物件。偽装に気付いたのは今年二月。アパグループの物件の構造設計を請け負っている富山市内の設計事務所の代表がイーホームズに来社し、藤田被告に打ち明けたという。

 この後、アパの役員らがイーホームズを訪れ、計画の変更を要請。「アップルガーデン」と「ガーデンパレス」は「計画変更も再計算も適切ではない」と判断し、工事は現在中断しているという。

 藤田被告は「国に通報して、アパの物件を調査するように要請したのに、担当者は『関知しない』と取り合わず、アパは工事を止めなかった」と述べた。

 その上で「本質は確認検査ではなく、偽装が可能なレベルの構造計算プログラムの問題だ」と主張。「その責任は、プログラムの運用プロセスを認定した国土交通省と同省の天下り団体である『日本建築センター』にある」と訴えた。
**

この原稿、他社は書いていない。
東京新聞の司法記者だけが書いたんですね。
朝刊回しなのかもしれないが、司法記者クラブでの判決後会見なのだから「特ダネ」というものではない。みんなそこにいて告発内容を記した紙切れももらってるんでしょうし。

ただし、特ダネには結びつきそうなことは書いてるんですよ。だいたい藤田社長の逮捕・起訴が偽装事件とはまったく関係のないものだとこの日の東京地裁判決で認められているのだから、この藤田社長の告発の奥に何かがあるだろうことは想像に難くないでしょう。ですから、ふつうはどう転んでもいいように、これは本来なら司法記者が書いておくべき原稿ですね。書き方はいろいろあります。が、とにかくアリバイとしてでもいいから載せておく、そういう判断をするのが普通です。

でね、司法記者クラブというのはけっこうベテラン記者たちがそろっていて、いつも余裕で記者同士が麻雀をしているようなクラブなんですよ。各社のブースの他にソファのある居間みたいなスペースがあってね、そこで卓を囲んでるわけ、いつも。そんでまあ、お上の動きがないと、というか、検察、裁判所、といった「お上」の動き(のみ)をウォッチしていればデスクに叱られない記者クラブ、だと記者たち自身も思っているところがあるんですな。

特オチ(特ダネを自分だけが書かない失敗)というのは基本的にこのお上関連の特ダネを落とすことをいいます。イーホームズの藤田社長の告発など、いわば民間の、なんの権威もない、裏も取れてない(つまりは自分で裏を取らねばならないような面倒くさい)、「街ダネ」に過ぎない、ということで、怠けていられるのでしょう。

でもそれでいいのかねえ。この「『アパ』グループの三つの物件でも耐震強度の偽装」ってのは、まえまえからいわれている「耐震偽装はこれだけじゃない」ってやつの具体例だろう。じつにヤバい話ではないのか。

なのに、「耐震偽装報道は、もーいっか。飽きたよ」という雰囲気が、新聞メディアにあるのだとしたら、こりゃ、たまったもんじゃない。こういうときですよ、いつもはメタクソにいわれる週刊誌が頑張るのは。東京新聞もぜひ特報部で追跡報道してほしいもんです。がんばってください。

October 18, 2006

大阪ってすごいね

こんな記事が朝日・コムに載ってました。

http://www.asahi.com/national/update/1018/OSK200610180030.html

「ダブルに男性同士」宿泊拒否ダメ 大阪市、ホテル指導
2006年10月18日15時23分
 ダブルの部屋に男性2人で宿泊するのを拒否したのは旅館業法(宿泊させる義務)違反にあたるとして、大阪市保健所が同市内のホテルに対し、営業改善を指導していたことが18日、わかった。宿泊を拒まれたのは22日に同市の御堂筋で開かれる同性愛など性的少数者らによる「関西レインボーパレード2006」に参加予定だった東京都内の教員の男性(26)で、「イベント開催地での宿泊拒否は納得いかない」と話している。

 男性らの話によると、16日にインターネットの宿泊予約サイトを通じ、ホテルのダブルの部屋に、21日から1泊の予定で予約を入れた。しかし同日夜、ホテル側は「男性同士でダブルは利用できない」と電話で宿泊を拒否。17日、ホテルに再度連絡したが、同様に断られたため、保健所に通知したという。

 旅館業法などでは、宿泊業者が客を拒否できるのは、感染症の患者や賭博などの行為をする恐れがある場合などに限られている。ホテル側は「お客様が間違って予約されたものと判断し、ツイン部屋の利用を勧めただけだ。男性同士だから拒否したわけではない」と話している。

**

これ、いいねえ。
いいのは、大阪保健所の「迅速な対応」。保健所としてはちんたら対応することもできたんだろうけど、対応した担当者が即決したってことがすごい。

もっといいのは、この事実を保健所に届けた「都内の教員(26)」。うまい! えらい! 攻めどころを知ってる! 若い!(関係ない)
怒りをクローゼットに閉じ込めてはいけないのだ。

さらに僥倖は、大阪朝日のこの筆者の存在。

じつはこのところ、大阪朝日は

性的少数者らが御堂筋でパレードを開催へ 大阪
2006年10月12日

 同性愛や性同一性障害など性的少数者とその支援者が22日、性の多様性を認め合う社会の実現を訴える「関西レインボーパレード2006」を大阪市の御堂筋で開く。関西では初の開催で、約600人が中之島公園から難波まで、約1時間半かけてパレードする。

 実行委員会事務局長の尾辻かな子・大阪府議は「性的少数者はテレビの中にしかいないと思われている。地域で共に暮らしている姿を見てもらうことが、多様な社会を考えるきっかけになればいい」と話す。

という記事のほか、きょうも早朝の段階で


同性愛者の「結婚」も市長が祝福 大阪市が活性化戦略
2006年10月18日08時07分

 大阪市民であれば、ゲイやレズビアン同士の「結婚」を、市長が祝福します——大阪市は17日、街の活性化を目指す「創造都市戦略」骨子案を公表し、参考としてこんなプランを披露した。担当者は「議論はあるだろうが、多様性を許容するざっくばらんさが、大阪らしいのではないか」と話している。

 新戦略作成をめぐっては6月、市各局・区から選ばれた中堅職員30人がプロジェクトチームを結成。「交通利便性の向上」「大阪の売り出し」など5テーマを掲げ、15の事業案を考え出した。

 お金をかけない「既存施設の活用」の項目で挙がったのが、結婚祝福式だった。市内に住むカップルを月1回、10組ほど募り、市役所1階ホールで、市長がお祝いカードや握手などで祝福する。

 同性愛者ら国内では法的に結婚できないカップルも対象。行政が多様な人の生き方を積極的に認めることで、「本当に人にやさしいまち大阪」を目指すという。

 ほかの事業案は18日午前10時から、市経営企画室のホームページで確認できる。

っていう記事を連発しているのです。

これは市内版担当、市役所担当でしょう、ってことは筆者は若い記者でしょうかね。
同じ記者なんだろうか。
もしそうだとすると彼/彼女、やはりおいしいところに目をつけた。
別人だとすると、大阪朝日の人材はいいねえ、ってことになる。
やっとこういうのを旬な話題だと、さらには他社が書かないから書き得だと気づいたライターが出てきた。
書かない他社がいつまで無視できるか。かえって依怙地になる場合も多々あるけどね。

大阪朝日の社会部に、よくやってくれてるね、さんきゅーメッセージを届けましょう。あるいはこれらの記事の筆者への、感謝・賞賛メッセージですわな。
http://www.asahi.com/reference/form.html

さらには、大阪市役所、大阪保健所にもね。
http://www.city.osaka.jp/shimin/opinion/index.html


**
で、今回の教訓

同性2人でホテルに泊まろうとして、まあ普通は泊まれますが、それがダブルで、と申し込んだ場合に拒否されたとしたらどうするか。
マニュアルとして憶えていたほうがいいでしょうね。

**

宿泊拒否にあったら、え、なんで? と思うこと。

思ったら、これってヘン、って怒っていいということ。

怒ったら、その怒りが冷めないうちにすぐに都道府県の旅館業法を担当している部署(政令指定都市なら市)に電話して報告すること。東京都の場合は福祉保健局環境衛生課です。まあだいたい、保健課、衛生課、観光課みたいなところでしょう。
メールよりやっぱり電話だろうね。向うもこっちの申告・告発が虚偽じゃないってわかりたいし。ま、名前は仮名でもいいでしょう。

同時に、国の法務局、都道府県、市町村の人権を担当する部署に人権侵害があったことを連絡すること。
(今回の「都内の教員(26)」さんも実際に市と府の人権担当に連絡を入れたそうですよ)

根拠は「旅館業法第5条」です。
同性2人でも、宿泊拒否は許されないんだってことを知識のワクチンとして持っておましょう。

よく男2人はお断りっていうラヴホテルがあると聞きますが、ラヴホテルだってじつはおんなじでしょう。(ん? あれ、風俗営業法の管轄じゃないよね=いまちょっと調べたら、両方で規制されてる。not sure。法曹関係者、教えて)

さらにもし、その都道府県(政令市)の動きが悪ければ、国の厚生労働省に訴えて下さい。もしくは「では厚労省に告発します」と言うこと自体も有効かもしれませんね。

October 10, 2006

北の核実験の真意

バグダッドの米軍基地で大規模な爆発があったようです。CNNはそれをトップで報じています。でも犠牲者は出ていないっていってますね。いま現在、まだバグダッドは深夜なので原因は何なのか、現場がどうなっているかの映像も来ていませんが、あさになれば状況は変わるかもしれません。それにしてもこの2日間でバグダッド周辺では110人を超える死体が捨てられているのが見つかったとか、とんでもない状況が続いています。

それと北朝鮮ですが、どうも北朝鮮の核実験、失敗したんじゃないかという話が強くなっていますね。
4キロトンの爆発力が予想されていて(北があらかじめ中国にそう報告していたようです)、しかしどうも500トン、もしくは200トンくらいの爆発力しかなかったようだという話で、核爆発まで行っていないんじゃないかということまでいわれています。

そうすると、未確認ながらいまさっき行われたという再実験の動きというのも、じつはその失敗のためにさらに実験するということなのかもしれません。7月のテポドンの発射のときも失敗していますしね。

同時に、アメリカは軍事的な作戦の行使はないと断言し始めています。理由の1つはよい標的がないこと。もう一つは犠牲者が100万人にも及ぶだろうこと。

日本ではおそらく脅威ばかりが強調されているでしょうけど、ちょっと冷静になって考えてほしいのはね、北朝鮮はね、これで日本や韓国を核攻撃する、というわけではない、ということなのです。そうなれば北朝鮮自体がなくなってしまうということですから、そんなことはしない。それは北の脅しなんです。いつものはったり。今回の核実験というのは、あくまでそのハッタリの度合いを強める、そのハッタリの脅威を、真実味を強める演出でしかないんですよ。そこを読まなければならない。

もちろん米軍が攻撃したら核をぶっ放す、というか自滅覚悟でいわば国家単位の自爆テロをやらかすでしょうが、それはアメリカといえどもやりません。やらないって言ってる。

つまりね、この核実験は、核攻撃をするためではなくて、もう核実験をやらない、ってことを条件に米国から譲歩を引き出すためのネタ作りなんです。核実験をやらないから米国に二国間の直接交渉に出て来い、って、その要求を実現させるための、いわば都合の良くでっち上げたご褒美なんです。核実験もしない、核をテロリストや他の国家にも売らないから、という、自分でネタを作ってその自分のネタで揺すって、そのネタを引っ込めるからこうしろ、と迫るための、じつに稚拙なマッチポンプなんです。つまり、自分で日本刀振り回して、もう振り回さないからカネをくれって言ってるのと同じなんですね。だからここは、そのカネの中味、何が欲しいのか、どうして欲しいのかをはっきりさせた上で、それにどう対処するのかを戦略的に考えるべきなんです。
それを見極めた上での外交上の作戦を練るのが必要なんですよ。

いまおそらく日本では北に対抗するための核武装論や、憲法9条改正論がまた熱を帯びつつあるかもしれません。しかし、そりゃあ、ぜんぜん有効じゃない。日本が核武装してどうするんですか、余計に混乱するだけなんですよ。核武装論者で改憲論者の安倍さんはこれで勢いづくでしょうけど、それはちょっと、為にする議論です。

北が国家自爆テロにまで進んだらどうするか?
そんときは東アジアは壊滅状態です。日本がいまから核武装したって間に合わないし、間に合ったところで自殺テロ志願者にはなんの効果もないし、さらにはいま核武装していたとしたって壊滅を防ぐためのなんの役にも立たない。でしょ? わかります? だから、道は、北に自爆テロをやらせないためにはどうするかってこと。それを考えない限りどうしたってダメだってことです。そんで、それは日本の軍備拡張でも憲法改正でもぜんぜんないってことですわ。

しかし中国はこんかいで北への影響力というのをすっかり失っているということを証明してしまったね。テポドンの7月のときもそうだったけど、胡錦濤の官僚体制が、北との人間的な人脈を蔑ろにしてきた結果なんだろうね。そうすると北がいまどこに逃げ道を模索しているかというと、ロシアなんだろうなあ。今回の実験でも、中国より先にロシアに事前通告していたって、これはどういう兆候なのか、とても興味深いですね。

今朝の朝日の天声人語(さいきん、このコラムがまた甘っちょろくてかつての栄光はどこ行っちゃったんだろうねえっていうような文章しか載せてない情けない一面コラムに成り下がってますが)がアインシュタインの言葉を引用してました。

「第三次世界大戦がどのようにおこなわれるかは私にはわからないが、第四次世界大戦で何が使われるかはお教えできる。石だ!」

この引用以外は、またまたひどいテキストでしたが。

October 06, 2006

フォーリー報道について

5日配信の以下の共同通信の記事に、例によって同性愛者にいわれなき汚名を与える記述がありましたので指摘しましょう。

***
米議員の少年へのわいせつメールで波紋

 米与党共和党の前下院議員、フォリー氏が少年にいかがわしい内容の電子メールを送った問題で、議会上級スタッフは4日、AP通信に対し、少なくとも3年以上前に同氏の「不適切な行動」の存在を知り、ハスタート下院議長側近に注意喚起していたと語った。

 議長はメール問題を昨年知らされたが、文面については「先週まで知らなかった」と釈明。しかし、議長が早くから同氏の不審な行動を把握していた可能性が浮上した。中間選挙で下院共和党の敗北を確実視する声も出始める中、フォリー氏の議員辞職で幕引きを図る考えだった議長への辞任圧力が強まりそうだ。

 同通信によると、証言したのは、かつてフォリー氏の部下でもあったカーク・フォーダム氏。中間選挙で下院共和党の選対本部長を務めるレイノルズ議員の首席補佐官だったが、4日に辞職。フォリー氏はメール疑惑浮上を受け9月29日、議員を辞職した。

 フォーダム氏は数回にわたり、同性愛者のフォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取っていることを知り、議長側に伝達していたと指摘した。

 与党内では議長への不信感が高まっており、遊説先で議長の応援演説を断る議員も出始めた。 (共同)
[ 2006年10月05日 10:08 速報記事 ]
**

問題の箇所は第4段落、「同性愛者のフォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取っている」という部分です。

少年少女への「不適切な」性的行動は、ペドフィリア(少年/少女性愛)といわれます。
ペドフィリアとホモセクシュアルとは無関係で、別個の問題とされます。なぜなら、ほとんどのペドフィリアは異性愛者によるもので、しかも家庭内で起こる事例が多い。

ところがここで「同性愛者のフォーリー氏が」「不適切な行動」というふうに結びつけられると、一般的に「同性愛は異常、変態、不適切」という偏見がはびこる社会では、「同性愛者だからこういう不適切な行為もした」と容易に結論づけられることになります。

したがって、この問題を報じる米国では、つねに「同性愛と少年愛は別の問題」という但し書きが(テレビの場合は口頭での解説が)付けられています。とくに、フォーリー氏は今回、この(複数の)ページボーイとの関係に関して「アルコール依存症が原因」とか、「同性愛者ではあるがペドファイル(少年性愛愛好者)ではない」として“言い逃れ”しようとしています。

おそらく、筆者は「同性愛者ではあるがペドファイル(少年性愛愛好者)ではない」という部分の米国での報道情報を、自分の翻訳原稿の中にも手短に組み込もうとこのように1つの文でくっつけて書いてしまったのでしょうが、読解の結果は微妙に変わってしまいます。米国では今回の一件は「同性愛者のフォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取った」というテキストとしては、絶対に、報道されていませんし、公的に発表される文章としてはまったくの「不適切」と考えられます。

いっぱんの読者も、または編集者(デスク)もつい読み流してしまうような部分ですが、こうしたさりげない「刷り込み」が偏見と差別の下支えをしています。「同性愛者の」という形容句を抜かして、たんに「フォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取った」でも、なんら重要情報の欠如はなかったでしょうに。

いま最も先鋭な人権問題である性的少数者問題ですが、それに関する記述では、日本ではきちんとしたマニュアルもまだ出来上がっていません。

共同通信の記者ハンドブックでも、被差別部落や外国人に関する記述の厳然たる注意条項はありますが、性的少数者に関するものはおそらくまだまとめられていないのではないでしょうか? したがってスポーツ紙や夕刊紙では、90年代よりは幾分ましになったとはいえ、まだまだ時に目も当てられない野放し状態が続いています。

ことは今回のフォーリー事件に関する一件だけではありません。
共同通信にはぜひ、同性愛などの性的少数者問題への記述の指針を、過去の多数の事例を基に早急に明文化してもらいたいものです。そうすれば朝日、読売、毎日の三大紙のハンドブックも追随する(テレビや地方紙は共同マニュアルを転用しています)ことになっていますからね。

ということで、共同通信にメールで上記の申し入れをしておきますわ。
しっかし、こういうのは重箱の隅を突つくようなアラ探し、みたいなふうに受け取られるんだろうなあ。ほんとはそうじゃないんだけどよ、書いてるほうも疲れるわ。
やれやれ。

September 15, 2006

HRWが動いた

世界最大の人権組織"Human Rights Watch"が都城市の条例改正に関して抗議の書簡を送りました。市長と、市議会宛に送付したようです。内容は、だいたい尾辻さんや私たちが指摘したのと同じことです。翻訳はのちほど追記しましょう。

ところで、私もあの書簡を書いてから、ほんとオレって言い方がキツいなあ、と自分でもなんだかぐったりしたんですけど、さて、一地方都市の条例に、他の土地に住む、都城と直接関係のない人たちが何を言えるのか、もしくは何を言ってよいのか? という問題は考えなくてはならないでしょうね。

でもね、基本的にはこうだと思うの。
都城はまず、条例を市民に向けて制定しながらも、それは政治として、他者へ向けてのメッセージ性を帯びるのは当然だろうということ。
すると、それに関して、他者がどうとかこうとかいうのは間違いだ、となれば、そのジェンダーニュートラルな平等社会を作ろうという条例に、それはいかん、という、今回の“改悪”のきっかけとなった反対運動自体も市内・市民からというより勝共=統一協会=世界日報から来たんだから、それ自体も認められないだろうということになる。

つまりね、政治的ディスコースというのは、そういう性格を帯びざるを得ない。地域に関係なく、その反対も広く受ける、賛成も受ける、ということになるわけだ。公的言論というのは政治レヴェルの高低にかかわらずそういうもん。だから北朝鮮や中国の人権に関して我々が危惧し意見を言うことができる。アフリカやイスラム諸国でのゲイ弾圧に関して我々が抗議を行うのです。そこでもせめぎ合い。

したがって、都城が、他所の連中にいわれる筋合いはない、というのはぜんぜん成り立たない論理なんです。

ということで、HRWからの書簡は次のとおりっす。

Letter to the mayor of Miyakonojo Municipality about the removal of "sexual orientation" from the gender-equality ordinance

September 14, 2006


His Honor Nagamine Makoto
Mayor
Miyakonojo City
Miyazaki Prefecture
Japan

Dear Mayor:

On behalf of Human Rights Watch, I write in protest against the move to eliminate references to “sexual orientation” from Miyakonojo City’s “Ordinance for the formation of a gender-equal society.” Language affirming equality on the basis of sexual orientation has been part of that ordinance since 2003. Its proposed removal—by a process which has excluded the full input of citizens and civil society—would send a damaging message that your community is regressing from the promise of equality and its commitment to non-discrimination.

Suggest This Page to a Friend

Printer Friendly Version

Related Material

More of Human Rights Watch's work on Japan
Country Page

Human Rights Watch's LGBT website
Country Page

Japan: Keep Equality Protections for Lesbians and Gays
Press Release, September 14, 2006

Free Email Newsletter

Contribute to Human Rights Watch

On behalf of Human Rights Watch, I write in protest against the move to eliminate references to “sexual orientation” from Miyakonojo City’s “Ordinance for the formation of a gender-equal society.” Language affirming equality on the basis of sexual orientation has been part of that ordinance since 2003. Its proposed removal—by a process which has excluded the full input of citizens and civil society—would send a damaging message that your community is regressing from the promise of equality and its commitment to non-discrimination.

As you are aware, the Basic Law for a Gender-Equal Society (Law 78/1999), passed by Japan’s Diet in 1999, committed Japan to “respect for the human rights of women and men, including: respect for the dignity of men and women as individuals; no gender-based discriminatory treatment of women or men; and the securing of opportunities for men and women to exercise their abilities as individuals” (article 3). While the law did not propose penalties for discrimination, it was an important affirmation of government’s positive responsibility to promote equality at all levels. The same law made local governments responsible for “formulation and implementation of policies related to promoting formation of a gender-equal society corresponding to national measures (article 9). In response, Miyakonojo City in 2003 passed a human rights ordinance that affirmed the equality of people regardless of sexual orientation as well as gender. It was one of the first local governments in Japan to include sexual orientation in its commitment to promote equality. The final text of the ordinance was achieved through a process including open hearings at which citizens as well as local lesbian, gay, bisexual, and transgender (LGBT) groups spoke.

However, Miyakonojo City was consolidated with three other towns in January 2006, and officials agreed that ordinances enacted before this would undergo review. Human Rights Watch is concerned by reports that an open hearing was not held as the “Ordinance for the formation of a gender-equal society” was revised. LGBT groups and individuals and their supporters were denied the full opportunity to express their case. While municipal authorities insist that the proposal rises from discussions of a committee of experts, that discussion has not been made public.

Article 2.1 of the previous ordinance stated, “In the gender-equal society, for all people irrespective of gender and sexual orientation, human rights should be fully respected.” Article 2.6 defined “sexual orientation” as “a concept describing the direction of an individual’s sexuality, which can be directed to someone of the different or same gender, or to someone irrespective of their gender.”

In the ordinance now proposed, Article 2.1 now reads, “In the gender-equal society, for all people, their human rights should be equally respected.” Article 2.6 has been completely deleted.

The rationale for these proposed changes is explained, on the city’s website, as “to simplify the contents.” A simplification of an ordinance on gender equality which removes the term “gender” as well as “sexual orientation” is not a streamlining but a drastic weakening of the contents.

The Miyazaki Prefecture’s “Miyazaki Prefecture Development Policies of Human Rights Education,” introduced in 2005, includes a section on “Problems faced by gender minorities.” This section recognizes persisting discrimination and prejudice based on sexual orientation as well as gender, and urges active steps toward accepting sexual diversity. The new text of your city’s ordinance belies this aim. It also places your city at odds with the express finding of international human rights bodies that sexual orientation should be a status protected from discrimination. In 1994, the United Nations Human Rights Committee, which interprets and monitors compliance with the International Covenant on Civil and Political Rights (ICCPR), found that protections against discrimination in articles 2 and 26 of that treaty should be understood to include sexual orientation. Japan has been a party to the ICCPR since 1979.

The proposed revision of the gender-equality ordinance will be debated by the city assembly this week. I urge you to support retaining the existing language. Miyakonojo City’s resonant support of equality made it a model in Japan. Its example is too important for you to retract it now.

Sincerely,

Scott Long
Director
Lesbian, Gay, Bisexual and Transgender Rights Program
Human Rights Watch

September 12, 2006

東京入りしました

26日まで滞在します。

札幌レインボーパレードと行き違いで(日本語、正しいか?)こっちに来てしまいましたが、レインボーのほうにはちゃんと挨拶してきました。みなさま、札幌を盛り上げてくださいね。参加者は千人くらいなので、沿道の通りすがりの人たちといかにコミュニケートするかってのがカギだと思います。そうしてそれが日本のパレードと欧米のパレードとがいちばん雰囲気の違うところ。

都城の一件もあるし、それもアピールしないとね!
他力本願のわたしですけど、参加の皆さん、よろしくお願いします。
札幌、このところずっと快晴だし、気持ちいいよ。涼しいし。

わたしはこちらで新聞社の人たちと少し会ってみます。
都城の話は、尾辻さんの活躍もあって宮崎日々新聞に記事、社説ともに掲載されました。

尾辻さんのブログへ飛びます


なかなかちゃんと的を射た記事及び社説です。
あとは全国紙での掲載ですわね。

September 11, 2006

都城市への手紙

前略

都城市男女共同参画社会づくり条例(案)に関して、「「性的指向」に関しては、人権問題の一分野であり、「すべての人」で包括できるという考え方に立ち、削除しました。」という貴市の考え方は、世界の進み行きの情勢に逆行する明確な誤りだと考えます。一行政機関ならびに議会の行う措置として、これはとてもまずいことです。

「すべての人」で包括できる、というなら、もともと、この条例は必要なかったのでした。なぜなら、すべての人びとの人権は既に憲法で保障されており、ならば、あえて市の条例でわざわざあらためて示す必要などない、ということでしょう。それをなぜ具体的に記述して市の条例としたのか? それは、憲法などで包括的にとらえてそれでよしとするのではなく、市として地域として、その時代にそった具体的な重点事項の指摘が必要だったからです。そうしてそれを世に先んじて正してゆく。都城は2年前、そういう都市になるぞとの重要な宣言を行ったのです。

その重点事項は、この2年で解決したのでしょうか?
それが解決したなら、めでたいことです。
新しい都城市は世界でもまれな人権的理想郷ということです。
ところが、ほんとうにそうなのですか?
そうではないでしょう?

ならば、なぜに「性的指向」を外したのか?
解決もしていないことを解決したかのように削除する。それは、文脈的に明確に、「性的指向」で指し示される人びとを除外する、「性的指向」という概念そのものをも排除する、というメッセージを世に与えるものです。

つまり、それは「そういう人権都市になるぞとのかつての重要な宣言」をあえて否定することです。こんなんならはじめから人権条例などないほうがよかった、というくらいに、これは結果的に「非・人権宣言」になってしまう宣言なのです。

そういう人権否定宣言を、都城は行う覚悟なのでしょうか?
そうではないでしょうに。
ただ、結果的には、時系列上の文脈的には、そうなってしまう。

まずいことです。これはいずれ貴市の歴史的な汚点として語られることになるでしょう。
貴市にとって、心ある貴市民にとって、恥ずかしい過去として振り返られる事例になるでしょう。

スペインのサパテロ現首相は、「性的指向」による差別を廃止しようと国家として同性間結婚を認める決定を下した際に、「わたしたちは同性婚を認める最初の国になる栄誉を得なかったが、同性婚を認める最後の国だとの不名誉は回避できた」と演説しました。南アフリカのネルソン・マンデラ前大統領は「性的指向による差別は憲法として認めない」として世界で初めて「性的指向による差別の禁止」を盛り込んだ憲法を作りました。ケン・リヴィングストン・ロンドン市長はあえて「性的指向によりいじめにあうようなことがあってはならない」と発言して学校における同性愛嫌悪的ないじめ根絶の先頭に立つことを宣言しました。これが世界の良識です。これらに連なるものとしての以前の都城市の「都城市男女共同参画社会づくり条例」は、世界的にもじつに誇らしいものだったのでした。それは欧米のメディアでも伝えられたほどのニュースだったのです。それをご存知でしたか?

その歴史的快挙は、今度はまったく逆の反動としてニュースになります。
それは一地方のカルト機関紙でしかない「世界日報」が報じるよりも大きな恥辱としてほんとうの「世界」に伝えられるでしょう。
あなたの市を、わたしはとても恥ずかしく思います。
それは同じ日本人として、世界に尊敬されるべく生きようとする人間として、じつに悲しいことです。

悲しいことは正すべきです。
いつかまた、あなたの市の次の世代の市民が、正しい「性的指向」の概念にいち早く気づかれることを切に祈念しております。希望は未来にあります。というか、貴市の現状では、未来にしか、ありません。

ジャーナリスト、北丸雄二

September 08, 2006

安倍晋三と都城がどう関係するか

こういうのはかつて学生運動華やかなりしころは常識だったんですが、いまじゃそうじゃないでしょうね。左翼が元気なころは右翼への警戒と分析が継続していたんですが、いまじゃだれも右翼のことを見張るようなことをしないから、いったい、都城の条例改悪の背景にだれがいるのか、それがどことつながっているのかということがわからず、なんとなく単発の事例として受け取られるような雰囲気もあります。でも、これらはすべて根はつながっているわけで、で、今回は、そういう状況背景のおさらいをすることにしましょう。個別の事象については自分で調べてね。ここでは「流れ」を見ていくということで。

都城市のあの条例が一票差で採択されたとき、いや、それ以前から、この「性別および性的指向にかかわらず」という人権条項に関する一大反対キャンペーンを繰り広げていたのが「世界日報」です。世界日報は、これに限らず、一連のジェンダーフリー施策・教育の反対キャンペーンを2002年あたりから本格化させています。

世界日報というのは「統一協会」(世界基督教統一神霊協会)の機関紙です(表向きは無関係と言っていますがね、だれもそんなブルシットは相手にしてません)。統一協会というのは、ご存知、霊感商法や合同結婚式などで悪名高い国際カルト宗教集団で、欧州では信者とわかると入国制限されている“危険団体”扱いです。創設者は、文鮮明です。

さて、都城のあのジェンダーフリー条例への反対をあおっているのがこの統一協会の日本支部であるというわけですが、この統一協会と深い関係にあるのが「国際勝共連合」です。歴代会長は全員、統一協会員。役員もほとんどが重なります。

この「国際勝共連合」は文鮮明が1968年1月に韓国で立ち上げた反共産主義団体です。同年4月にはあの笹川良一(一日一善のおじいさん、っていってももうわからんかなあ)の別荘に、文鮮明と日本の統一協会会長の久保木修己もやって来て日本の国際勝共連合を作った。で、この久保木が初代会長、さらに名誉会長が笹川良一ということになったわけです。勝共と言えば笹川と仲良しの児玉誉士夫なんていう右翼ブローカーも登場してくる(後のロッキード事件のメンツでもあります)。

さて、当時(70年代〜)の東西冷戦を背景に、この勝共は自民党の支持団体としても成長を続けます。それで、このときの自民党の右派の重鎮がこの勝共に深く関与していくことになる。これがA級戦犯不起訴となり復権していた岸信介だったわけです。

kishi.jpg
【1974年11月に、統一協会本部で文鮮明と会談する岸信介=右】

岸信介って、日米安保条約の調印批准のときの総理大臣でね、治安維持法の再来と言われた警察職務執行法(警職法)の改定案を出したり(後に撤回)、教職員への勤務評定の導入を強行したりとかなりの全体主義者(ファシスト)で、けっきょくは安保反対闘争の激化(デモの東大生樺美智子圧死事件が引き金でした)で退陣に追い込まれたんですけど、まあ、日本政界の化けもんですわ。

んでもって、この岸が、いわずとしれた安倍晋三の祖父なんですね。もちろん、安倍晋三は岸信介マンセー、です。

おさらい。
つまり「岸信介=国際勝共連合=統一協会」というつながりがいま、「安倍晋三=国際勝共連合=統一協会」に移行しているというわけです。

その証拠が、今年5月13日に福岡マリンメッセで行われた統一協会の合同結婚式に安倍が祝電を打ったという事実です(各新聞のリンクを示したかったんだが、もう4カ月前でリンク切れでした。適当に探せばどっかにあると思いますけど)。おまけに、現在ベストセラーの安倍晋三の(ゴースト本)「美しい国へ」とかっていう本、これ、前述の統一教会会長久保木の「美しい国/日本の使命」って本のパクリなんですわな。題名まで似てるでしょ。こういう情緒的なものいいで誤摩化す(つまりは言語化=論理化を避ける)のが好きなんだなあ、右翼ってのは。「論理じゃない、言葉じゃないんです!」ってのが決まり文句だもんねえ。議論になんか、さいしょからする気がないわけですわ。頭ごなしですから。

で、この自民党=勝共=統一教会という日本右翼の腐れ縁、ファシスト連合が、都城をはじめとするジェンダーリベラリズムにも猛然と牙を剥いているわけです。頭ごなしに「ホモは死ね」ですから。憲法改正、ってのも、ともすると勢いをかって第24条の強化にまでつながるかもしれません。

で、わたしが「日本の現代LGBTコミュニティは、初めて有形の政治権力を相手にすることになるかもしれません」「戦争が始まると覚悟しといたほうがよいかも」と9月4日付けのこのブログで書いた意味が、これですこしはわかると思います。

September 06, 2006

英語でも回そう

NYのアジア人・太平洋諸島民のゲイ団体GAPIMNYのケン・タケウチさんから、例の都城の人権条例改悪に関する尾辻かな子さんの呼びかけの、彼の英語翻訳によるアクション・アラートが届きました。これがいまアメリカで回覧されはじめています。

ことはすでに日本だけの問題ではありません。
以下、転載します。

The following text is an ACTION ALERT letter from Ken Takeuchi, a member of NY base organization GAPIMNY.
I want you all to pass it on.

*********

Hello friends and family,

I've translated the open letter from Otsuji Kanako, the first openly lesbian politician ever in Japan. My apologies for a hasty translation, but the urgency and importance of taking immediate action is very much apparent I hope.

We cannot let this ordinance pass. No matter how advanced country like Japan has become, its records in LGBT rights have been non-existent. Being an ex-pat Japanese activist in NY, I cannot sit idly while this ordinance may set precedence in Japanese legal history. IF it comes to pass, it will bring dire consequences in the future LGBT rights in Japan.

PLEASE RE-POST, AND RESEND TO ALL YOUR FRIENDS AND COMMUNITY GROUPS YOU ARE PART OF NOW!!!

I feel that email petitions in Japanese would be most effective, but send them in English anyway if there's not enough time or resources to translate. We only have a week left, I desperately implore you to join in this petition.

You can visit following websites to learn more;

Otsuji Kanako's website;

Japanese;
http://www004.upp.so-net.ne.jp/otsuji/index.html

English;
http://www004.upp.so-net.ne.jp/otsuji/english.html

The proposed changes in the ordinance by Miyakonojo City

Japanese;
http://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/pabukome/shiminseikatu/seikatubunka/danjosyuseiitiran.jsp

English (There don't have the translated page, but you can get a sense of the city here)
http://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/shisei/kokusaikouryu/english/titleenglish.jsp

My appreciation goes beyond description for your help in this matter. Please feel free to send me questions, and I will do as much as I can to follow up.

Best regards and with utmost respect,

Ken Takeuchi
Steering Committee member at large, Gay Asian & Pacific Islander Men of NY (GAPIMNY)
http://www.gapimny.org

Member, Japanese Speaking LesBiGays in NY (JSLNY)
http://jslny.web.fc2.com/index.html

###

!!!ACTION ALERT!!!

By Otsuji Kanako
Assembly Member of Osaka Prefecture, Japan
Party: Independent (first elected in 2003)
Member of "Rainbow and Greens (Japan)"
Book: Coming Out (2005, Kodansya, Japanese only)
The first openly homosexual politician in Japan

I am sending a letter of protest and petition to city counsel members of Miyakonojo City in Miyazaki Prefecture. Please join my petition by sending emails in protest.

Petition emails should be sent to: otsuji_office@osaka.nifty.jp

The deadline is September 12th (11th in the U.S.) - Please take action now, since the committee meeting begins on the 15th.
In addition, individuals should send a message to the city assembly. It is important to send in numbers.

For the mayor of Miyakonojo City, Nagamine Makoto
Tel: +81 986-23-2111, Fax +81 986-25-7973
info@city.miyakonojo.miyazaki.jp

For office of Miyakonojo city assembly
TEL +81 986-23-7869, Fax +81 986-25-7879
gikai@city.miyakonojo.miyazaki.jp

===========An open letter of protest and petition===========

For the members of Miyakonojo City assembly,

An open letter of protest and petition against the deletion of "gender and sexual orientation" from the proposed ordinance, "Miyakonojo City Equal Rights Measure in Creating Better Society"

I sincerely respect your diligence in all of your endeavors. Currently the city assembly's new ordinance, "Miyakonojo City Equal Rights Measure in Creating Better Society" is being presented. In this new proposal, the wording of (applying to) "all people including gender and sexual orientation" which was originally present prior to consolidation of Miyakonojo City, was deleted. And instead, revised to be simply, "all people". What was the reason for deleting "gender and sexual orientation" from the original proposal? While many people are being discriminated based on "gender and sexual orientation" in current Japanese society, such act of deletion ignores the reality of discrimination, and may be taken as an approval of such activities. I simply cannot sit by and watch it pass.

In addition, I have been informed that the names of council members who created the ordinance have not been released. Furthermore no hearing was held by the city's community groups or party involved. Without the lack of opinions from them, the ordinance does not reflect the needs of Miyakonojo community.

The policy introduced in January 2005, "Miyazaki Prefecture Human Rights Education-Policies for Basic Development" clearly states the following fact. In chapter 4, section 2 titled, "Promoting the Policies of Various Fields" includes the topic, "Problems faced by minorities of gender and sexual orientation". It recognizes the existence of prejudice and discrimination, and the importance of accepting sexual and gender diversity. The policy encourages the city residents to take initiatives to put more effort in this matter. The current ordinance on the table completely contradicts Miyazaki prefecture's policy.

Please reconsider this proposal one last time. I implore you to reinstate the wording, "gender and sexual orientation".

Otsuji Kanako
Petition organizer, Osaka Prefecture Assembly Member

September 04, 2006

次から次へと

東京新聞2日付けの佐藤敦社会部長の石原慎太郎インタビュー。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20060902/mng_____thatu___000.shtml

「メンタル面では、日ごろの情操を培う基本的なものを精錬するとかね。新宿の二丁目と歌舞伎町は美観とはいえないよね。銀座でもごてごてと色があるし。景観法ができたし、規制力のある条例を今年中に作ります。」

東京五輪を名目に、2丁目はつぶされますね。
さてどうしたものか。

日本の現代LGBTコミュニティは、初めて有形の政治権力を相手にすることになるかもしれません。だれでしょう、日本の差別は欧米とは違うなんて言っていたのは。「目立たないようにやれば、日本ってゲイでも生きやすい社会だから」と、うまくだましだましすり抜けてきた世渡りとしての生き方ですが、もうそんな世渡りでは済まなくなってくるかもしれませんね。

おまけに、あの九州・都城市が、町村合併に伴って、男女共同参画社会ってのを定義した条例文「性別や性的指向にかかわらずすべての人の人権が尊重され、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会をいう」っていう条項から、「性別又は性的指向にかかわらず」って部分を削除する流れになっているらしい。今月22日の議会で採決だって。

どうなんでしょう、このバックラッシュというか、いやそもそも前に進んだことなど微々たるものだったのだから、バックラッシュというよりも妖怪がとうとう姿を現したな、という感じに近い。

こっちは大阪府議、尾辻かな子さんのブログに反対表明の仕方と事情の詳細が。
http://blog.so-net.ne.jp/otsuji/

反対メールは次のメアドに名前と肩書きを書いてその旨を伝えれば尾辻さんが取りまとめてもくれるようです。これは12日まで。
otsuji_office@osaka.nifty.jp

いやはやしかしまったくもって、これから安倍政権ですぞ、みなさん。
こりゃ、戦争が始まると覚悟しといたほうがよいかもなあ。もっともそれも、わがほうに闘う気概があればの話なのだが。

August 06, 2006

新・新木場事件に思う

 2000年2月11日早朝、東京・新木場の「夢の島緑道公園」内でゲイ男性とおぼしき若い男性が頭や顔から血を流して倒れているのをジョギング中の会社員が見つけるという事件が起きました。やがてこの男性への強盗殺人容疑で江東区東雲2、無職、中野大助(25)=当時=と同区立中学3年の少年(14)、同区都立高校1年の少年(15)=同=ら計7人が強盗殺人容疑で逮捕されました。これはいわゆる、日本で初めて殺人にまで発展した「ホモ狩り」、ゲイバッシング殺人事件ですが、裁判では、この被害者男性の遺族であるお母さまの事情も鑑みて、事件をゲイバッシング=ヘイトクライム(憎悪犯罪)と規定するに至らず、たんなる通行人を狙った小遣い稼ぎの凶行、と認定するにととどまりました。

ところが同じようことが6年半後の先月、同じ場所で起きました。

以下、時事通信の記事です。

**
◎同性愛者襲い、現金奪う=「届けないと思った」−高校生ら4人を逮捕・警視庁
 (時事通信社 - 07月27日 14:10)

 同性愛者の男性を襲い、現金を奪ったとして、警視庁城東署は27日までに、強盗傷害容疑で、東京都江東区内の都立高校生(18)ら少年4人を逮捕した。4人は中学時代からの遊び仲間で、調べに対し「同性愛者なら、被害に遭っても警察に届けないと思った」と話しているという。

 調べでは、高校生らは8日午後9時5分ごろ、同区の夢の島総合運動場内の遊歩道で、衣服を着けずに歩いていた板橋区の男性(34)に殴るけるの暴行を加え、現金2万1000円を奪うなどした疑い。男性は全身打撲の重傷を負った。

**

 この事件は、ミクシィというSNSの中での日記書き込みで万人に「突っ込みどころ満載」と形容されました。そうしてまずは面白可笑しく取り上げられていったのです。「衣服を着けずに歩いていた」のに、どこに「現金2万1000円」を持っていたの? 「衣服を着けずに歩いていた」って、それも犯罪じゃないの? 逮捕されないの? 両方とも犯罪者じゃないの? で、「衣服を着けずに歩いていた」って、何をしてたの? どうして被害者が「同性愛者」だって分かったの? あそこはそういう場所なの? というふうに、“異様”な同性愛者たちの“異様な生態”の方に論が進んでいったのです。

 こうしてこの新・新木場事件は、各人が各様に(これはゲイであるかストレートであるか関係なく)「突っ込みどころ」のユニークさとその「突っ込み方」の面白さを競うような(あるいは競ってはいなくともここでなにか一言でも言っておきたいというような)対象となっていきました。もちろんすぐに「そうじゃないだろう」という対抗言説も生まれましたが、また同時に、同じゲイの中からも「こんな全裸徘徊をしているから襲われるんだ」「新木場は危ないと知っていてそういうことをしているのなら、それは自己責任ではないのか」という批判も生まれました。

 こうした反応をさまざまなブログやミクシィ内の日記などで読みながら、私はこれは基本的には社会的なコンセンサスの問題ではないかと思いました。コンセンサスとは、人びとに共通の、社会の大多数の人びとが同じようにもっともだと思う、その共通認識のことです。もちろん自然と形作られていくようなものもありますが、ゲイに関すること、LGBTに関わることでは、情報自体がいつもどこででも公になるというものではないですから、公のコンセンサスというものは、黙ったまま何もしないでいるといつまでもできてこないものです。

 たとえばこの新・新木場事件に10の論点があるとしたら、私の印象は、みんなが順不同に3を言ったり5を言ったり7を言ったり4を言ったり2を披露し合った、というものです。ときにはまだだれも言っていないからと6.5の部分を指摘したり、と。そうして、私たちは10の論点のすべてを消費しました。で、結果、なんらかのコンセンサスは得られたのか?

 『バディ』というゲイ雑誌の編集もしている斎藤靖紀さんは、ミクシィ内で「実際に既に重傷を受けている人間がいるのに、その罪よりも、そこにいたった行動のほうを問題にするのは、お願いだから別の機会にやってほしい」と書き込みました。これを受けて、同じく編集者であるみさおはるきさんが「今回の事件に対して『自己責任』とか『自業自得』って意見を出した人は、これが二丁目の近くでゲイを狙った事件で、たまたまそこに通りかかった自分が襲われて被害者になったとしたら「ゲイが集まることで有名な二丁目に行ったから自分は襲われたんだ、自業自得で自己責任だから仕方がない」なんて」言えるんだろうか、という視点を補足しました。

 斎藤さんがまとめたこの事件に対する人びとの反応はつぎのようなものです。

「事件が報道されたというのが最初の衝撃。

「被害者の変態行動どうよ」な声がワッと出たのが第一の反応

それを見て、「被害者の変態行動どうよな非情発信はどうよ」、というのがその次の反応↓

それを見て、「被害者の変態行動どうよな非情発信はどうよという言論統制的圧迫はどうよ」というのがその次の反応」

 このまとめはじつに要領を得たものでした。こうして、この事件に関する10の論点のほぼすべてが網羅されました。
 そういう書き込みを読みながら、私には、みさおさんにしても、斎藤さんにしてもみんなが一様に、最初の「被害者の変態行動どうよ」というものへの対抗言説として、様々な視点からこの事件に対してどういう態度を取るのが正しいのか、それを懸命に模索しているという印象を受けたのです。とにかく足場が必要だ。その足場がなければ、次のところに進めない。先ほどの物言いでいえば、その足場こそがコンセンサス、共通認識です。みんなが、あるいは少なくとも大多数がそうだと合意できるような、論理的な、しかも万人が納得するような平易な足場。斎藤さんがミクシの中で言っていたことはまさにそういうことでした。10ある論点のうち、1が定まらなければ2に行けないのに、どうしてみんな先に5とか7とか8とか9とかの話をするんだ? どうして1に関して、あるいはその派生としての2に関してきちんと合意もできていないまま3に進んじゃったり6を知ってるってひけらかしたりするんだ?

 そういうことなんだろうと思います。わたしたちは、こういうゲイバッシングに関して、いったいどこでどういうコンセンサスを形成してきたのか? いや、ゲイバッシングにのみ関係する問題ではありません。ゲイに対してまずは公の言説がほとんどなされていない日本という社会のなかで、言説がないのにコンセンサスが生まれるはずもありません。ではバッシングに関してはどうなのかというと、はて、いじめの問題は、いじめられる側にも問題がある、という物言いが平然と訳知り顔で公言されるような社会で、いったいどんなコンセンサスが真っ当なものなのでしょうか。

 思えば現代日本社会は、私の知る限り、公の議論と公のコンセンサスというものをないがしろにして成熟してきた社会のように思えます。戦後30年ほどは、つまりは1975年くらいまでは、いちおう、戦争をしないというコンセンサスがあったように記憶しています。もっとも、それもなんとなく戦後という時代の空気がそうだったのであり、べつに議論してそうなったのではなかった。だからいま、言葉としての伝達がないままになって久しく、ついに憲法9条もまたコンセンサスたり得なくなっている。

 すべてがこの調子です。日本社会は衝突を嫌う社会だという紹介が欧米では為されています。衝突を嫌うあまりに、議論をしなくなってしまった。自分たちの思考を言葉で切磋琢磨することを避けてきてしまった社会です。言葉がないところに、コンセンサスは生まれない。みんな、なんとなくそうでしょう、という雰囲気だけがフワフワと漂っていて、そしてひとたび問題が起きるや、そのなんとなくそうだという幻想の化けの皮がはがれることになる。え、そうじゃなかったの? と慌てるのです。そんな雰囲気だったのに、という共通認識は、じつは各自の勝手な思い込み、思い込みででっち上げられた誤解なのです。

 7月最終の週末に、つまりいまからつい1週間ほど前に、カリフォルニア州サンディエゴでゲイプライド・フェスティバルが行われました。29日夜の公園でのプライドコンサートの帰り道、3人のゲイ男性が、若者5人組に野球バットとナイフで襲撃されるという事件が起きました。3人は命に別状はなかったものの重傷を負い、容疑者の16歳から24歳までの男性が逮捕・起訴されました。前述のみさおさんが指摘した、「ゲイが集まることで有名な」ゲイプライドなんかに行ったから襲われた、のかもしれません。しかし、アメリカにおけるコンセンサスはすでに違います。

 サンディエゴの市長ジェリー・サンダーズは、すぐさま次のようなスピーチを行いました。
 「こんな下劣な犯罪を行うような輩に、あるいはこんなふうに人間を襲撃しようと企てているような連中に、言うべき言葉はわずかだ。きみたちは卑怯者だ(You are cowards.)。犯人たちは3人をバットで殴りながらゲイに対する卑劣な罵倒語を浴びせかけていた。これはヘイトクライムの、まさに定義そのものの犯罪だ。あきらかに、このケモノたちは被害男性たちをまたクローゼットに押し戻したかったのだろう。わたしたちは、ぜったいに、そんなことをさせないし、許しもしない」

 その前月の6月には、NYのゲイプライドに登場するはずだったケヴィン・アヴィアンスがやはり16-20歳の若者4人組に襲撃され、顎の骨を折る重傷を負いました。このときにはNY市長のマイケル・ブルームバーグが即座に「こんなヘイトクライムをしでかして逃げ仰せると思っていたら、それは悲しいくらいの大間違いだ」という声明を発表しています。

 学校での同性愛嫌悪的ないじめをなくすためにイギリスで先ごろ教師向けに作られたDVDの中で、ロンドン市長のケン・リヴィングストンは「私たちの目の前には、gay という言葉を侮辱的に用いるような低レベルな偏見・差別をなくすために、しなければいけないことがたくさんある」と訴えています。

 これがいまの欧米社会の世論の足場です(もちろん現実にはバッシングは頻発しているにしても)。そうしてこれさえあれば、私たちはみずからどんなジョークを言おうがあるいはだれかから笑い話にされようが迷うことはありません。なぜなら、これがいまの社会の背骨だという正義に支えられるからです。もちろんその背骨はアメリカではまだかぼそく、ちょっと横にずれて同性結婚とかの話になるとそれこそ屋台骨が揺らいだりするのですが、しかし暴力に関してはすでにこのサンダース市長らの言説に面と向かって反論することはできない。反論するには、面と向かわない、横を向いた、それこそ卑怯者のやり方でしかできない。

 今回の新・新木場事件で、私たち日本人社会はこの市長たちが代弁したようなコンセンサスを得てはいません。こんな基本的なことが、暴力を振るった者に対するこの絶対の批判が、社会で共有されていないのです。6年半前のあのオリジナルの新木場事件のときよりも、たしかに談論風発ではありましょう。いろんな意見が飛び交いました。相変わらず能天気で問題の核心をはずしているストレートのパッパラパー連中のことは別にしても、ゲイ・コミュニティ(もしそういうものがあるとしたら、ですが)、そしてそのコミュニティに寄り添おうとしているストレートの人びとの中で、たしかにかつてないほどの意見の披瀝と忌憚ない批判がありました。それは6年半という時間を感じさせる展開だと思います。

 ただしそれらは、足場がない限りどこにも行けないのです。10の論点を我れ先に見つけて発表し合うだけで、だからといってすごいね、よくわかったね、気づいたね、と褒められても、あるいはなにかを書き込んだことで自己充足していても、そこから私たちはいったいどこに行けばよいのでしょうか。このままでは私たちは、10の論点を情報として消費してしまったに過ぎない。私たちは、情報を消費するだけで、なんら新しい情報を作ってはいないのです。私たちは私たちのコンセンサスを作ってはいない。

 コンセンサスは、ゲイ・コミュニティの内部だけで作るものではありません。圧倒的な数を誇るヘテロセクシュアルの社会を巻き込まなければ、いえ、われわれの生きるそうした社会全体のなかでこそコンセンサスを作っていかなければ、意味がない。それはどういう運動かというと、じつは、大げさに聞こえるかもしれないけれど、日本の社会を変える運動なのです。たんにゲイに関するコンセンサスの話ではない。ゲイのことを軸にしながらいまの日本の社会のどうしようもなさを変えてゆくことにつながる、もっと大きな運動のことなのです。

 さてそのコンセンサスをどうやって形作ってゆくか。それは、先ほども言ったとおり、情報を消費するだけでなく、情報を作ってゆくことなのです。ゲイに関する、多種多様な情報を社会に向けて発信していく。これまではゲイコミュニティ内部への情報発信だったのを、これからはそれを外部へとつないでゆくこと。私たちの情報を一般社会へと広げてゆくことだと思うのです。これまでの10年間が個々人のカミングアウトの時代だとすると、そこを経ていま、今度はゲイコミュニティ自体が、一般社会へとカムアウトする時代になっていくのだと思います。

 おそらくそれにはまた10年を要するでしょう。でもそのとき、私たちの社会はいまよりもすこしだけ真っ当になっていることは確かだと思う。いやしかしまた、もしそうなっていないとしたら、それはつまり、だれもが不満を抱えているような、嫌な日本の病状が進行してしまっていることになるのだと思います。

 ですから、方法はやはり明らかです。ハーヴィー・ミルクが殺されて28年が経とうとしているいまも、彼が言ったことはだれがどこでどんな屁理屈をでっち上げようが保留をもうけようが、結論としてはぜったいに正しいものです。もちろん過程としてはさまざまな方法論や手練手管はあるでしょうけれど、それは28年を経ていままでだれもだれひとりとしてそのことを否定できなかったという歴史が証明しています。

 「カムアウト! カムアウト!」

 これを否定できた人はいません。すくみあがりたじろぎ留保したひとは多くいるけれど、否定できたひとはだれもいないのです。たとえカムアウトした先に死刑が待っていようとも、その死刑を覆すにはやはりカムアウトするしかないのだという理を、否定できはしない。
 それは、私たち自身を作り上げることです。私たちをこそ情報として発信することです。全裸徘徊が情報として誤解だと思うならば、全裸徘徊ではない自分自身をもまた伝えればよいだけの話です。

 「カムアウト! カムアウト!」

 このことをこそ、まずは私たちのコンセンサス、共通認識にする。いまはカムアウトできなくともよいのです。ただし、いまカムアウトできなくとも、カムアウトすることは正しいことなのだという結論は、揺らぎのないものなのだという歴史的な事実だけは知っておく。そういうことなのだと思います。そうみんなが思っていれば、それだけでも社会は確実に真っ当な方向に進んでゆくはずなのです。

July 13, 2006

予防的先制攻撃論

安保理、難航してます。
中国、どうも北への交渉の窓口を失っているようです。韓国での南北協議も、北の代表は憮然として(本来の使い方と違うけど、ムッとして、という意味で)帰って行っちゃいました。
北は、ぜんぜん言うことを聞かないね。
中国が交渉に失敗して、なんの譲歩も北から引き出せないですごすごと帰ってきたら、中国はかなり国際社会でのメンツを失う。中国がいまでも安保理で存在意義を持っていられたのは、この北朝鮮カードがあったからという部分が大きい。さあ、どうするんだろう。

前回の続きですが、これって、戦略的に1度も歴史上“実験”されたことがないけど、「射つぞ、射つぞ」っていうやつに、最も有効な対処方法は、「射たないぞ、こっちは絶対に射たないぞ」って、世界中に聞こえるようにいうことなんじゃないかと思ったりするんですよね。そういうのって、相手として、一番いやなやつじゃないですか、喧嘩するときなんか。そんなやつを殴ったら、非難囂々ですよ、ふつう。つまり、そんな国にミサイル射り込んだら、それこそ周り、というか世界中が黙っていないでしょ。大変なことになりますわ。
もちろん、国際社会上の政治的言語としてどういうふうに言い回すかはありましょうが、そういうことを宣言するってのは、相手方の武力行使回避のとんでもない抑止力になるのではないか。

先制攻撃論は、相手にこそ先制攻撃の論拠を与える、という意味で、思っていても報道陣のいるところで口にしてはいけないもんです。本気でそれを考えているときは、相手にそれを気取られないところで一気に先制攻撃をしなくてはならない。おくびにも出してはいけない。そんなの、戦争の仕方の初歩中の初歩でしょうが。そうじゃなきゃ、相手に政治的にも外交的にも責め込まれちゃうんだから。

ですから、額賀とか安倍とかがそれを言うってことは、よっぽど迂闊か、あるいは為にするための国内向けの政治的発言以外の何ものでもないんでしょう。さて、では何のためかと言うと、もちろん9条憲法改正ですわね。

そんなことのために、ほんとうに、そんな形式的なことのために、額賀も、麻生も安倍も、北朝鮮に対して日本国民を人身御供に差し出すような、まかり間違えば相手の発射を誘発するような発言をしれっとするってえのは、政治家として売国的に言語道断だってことを、誰も言わんのはどうしてなんでしょう?

繰り返しますが、日本は、戦争をしたら只の国なんです。戦争をしたら弱いのです。戦争をしないから強いんですよ。

戦争をしないぞ、絶対にしないぞ、ぜったいにおまえなんか攻めてやらねえぞ、てめえ、この野郎、って大声で宣言することが、一番の武器なのだということに、気づけよなあ。

ってか、それこそが憲法9条なんでしょうにねえ。
この稀代の武器を、自民党政権は未だかつて、使ったことがないのです。
なんなんだろ、この憲法への背任行為は。

July 11, 2006

北朝鮮をどうしてくれよう

 横田めぐみさんの死亡説を繰り返すだけの元夫とか「ミサイル発射は平壌宣言に違反しない」と会見でしゃーしゃーとうそぶく外交官とか、まったく北朝鮮の連中は自分の言っていることが世界にもまともに聞こえると信じてるのか。もういい加減にしろよ、てめえ、ってそう、気色ばみたくなるのも当然ですわね。

 ただふと気づいたんだけど、前段の金英男さんも会見で虚勢を張った宋日昊(ソン・イルホ)日朝交渉担当大使も、なんだか自分でもうんざりしてるような顔つきでした。国際社会から繰り返される突き上げ質問にうんざりなのか、それらに同じように答えなければならない自分の現状にうんざりなのかは分かりませんが、以前はもっと毅然として強面だったような印象があるんだけど……。

 そのうんざりさ、げんなりさを知っている拉致被害者の1人、地村保志さんが金英男さんについて「彼も被害者の1人だ」と言っていました。洗脳というよりは恐怖から、彼らはそういうふうにしか言えない。ま、宋大使ほどのエリートにもその斟酌が適当かは分からんけど。

 そこを承知でなおかつ斟酌すれば、本当に「世界からの被害」妄想を信じさせられている人たち以外は、北朝鮮では支配層ですら体制にがんじがらめで、どうしたらよいか分からなくなっているんだと思うわけで。改革を唱えるのも体制批判。粛清渦巻いたスターリン時代の旧ソ連と同じで、互いが互いの脅威を妄想してだれもが動けない。まさに恐怖政治の硬直した成れの果て。こういう時に動けるのは軍部だけなのは歴史が示しています。それが今回のミサイル発射でもあるのでしょう。(それにしても、ゴルバチョフってのは、情況の後押しがあったとはいえ、勇気があったよねえ)

 いまや麻薬や偽ドル、偽タバコまで作っているそんな国家に、はたしてどんな策が有効か。だいたいこのミサイルだって、ひょっとしたら販売促進キャンペーンの一環の商品デモかもしれないのであって。

 日本国内での経済制裁と国連安保理を通じた制裁決議提案も「いい加減にしろ」というメッセージです。それは伝わるでしょう。ただし、それであの国が折れるかどうかは五分五分ですよ。逆に言えば、制裁発動もあの国に対するこちら側の瀬戸際外交になります。チキンゲームに参加ってこと。そうしてついに、北のミサイル発射基地に予防的先制攻撃を行えないか、という意味の発言が額賀防衛庁長官から出ました。「先制攻撃」って単語は注意深く回避されていたけど、これはブッシュのサダム・フセインに体する攻撃の口実になったものとまったく同じもんですわ。その米国もおそらくすでに北の軍部を一気に機能不全に陥れ、反攻を最小限に食い止めるような軍事作戦の立案を行っているでしょう。

 ダダをこねればアメを与える、といった従来回路を断ち切り、次の一歩を進めたいってのが例の六カ国協議の狙いです。次の一歩を、というのは北も同じなんでしょう。ただしその一歩が、体制のがんじがらめでこれまでと同じような方法でしか出せない。病理的にはガチガチの硬直部を内部から解きほぐしてやるような東洋医学的な説得と懐柔が一番の打開策なんでしょうが、そんなのんきな時間もない。本当にどうすればよいのでしょうか。

 言えることは、西洋的処方であるもう一方の軍事行動はどうしたってオプションではないということです。有事となれば数百万という北の難民が韓国や中国、ロシアへと流出し、それは東アジア全体のより重大な危機に直結します。ことは38度線の問題ではなくなり、黙視するはずもない中国の軍事行動は容易に台湾問題へとも飛び火するでしょう。先制攻撃論をぶつというのは逆に日本も相手方の先制攻撃の対象になるということで、それは危険を回避するどころか更なる危機を呼び込むことにもなるのです。国内向けの政治的発言であるという読みもできますが、すぐに国際的にニュースになってしまうようないまの状況でそういう発言をすることがどういうことなのか、額賀発言は到底そこまで覚悟した上とは思えないんですけどね。アメリカでは早くも各方面から日本の憲法改正や軍事大国化を予想/懸念するコメントや新聞社説まで登場しています。懸念の背景には、アジアが火種になれば、世界経済は崩壊するって読みがあるんでしょう。日本が振り上げる拳は、そこまでの責任を負えるのか? 拳ってものは、振り上げたあとの後味の悪さに必ず後悔するものなのです。それは個々人の人生の中でも充分に学習してきたでしょう。

 カギはやはり国連安保理なんだと思います。日本の手腕の見せどころは軍事ではなく世界をまとめる外交努力以外にはないのです。とにかく中国を動かすことです。腹芸でも脅しでも使えるものはなんでも使って。中国に平壌説得の時間的猶予を与えたのはその意味では正しいでしょう。六者協議への無条件復帰、それを中国が説得する。説得したのに失敗して、でも安保理では拒否権行使だっていうのは論理的にもおかしいですから、中国も今回ばかりはのっぴきならない状況に押し込まれました。とにかくあくまで外交というか、政治なんです。

 日本が戦争をするようになったらそこらの国と同じでチキンゲームです。日本は戦争をしない。だから強いのです。そうでなければ、これまで66年も、何のための平和国家だったのか分からんでしょう。平和国家の、手練手管を、しかしさて、外務省という最低の官僚組織は持ってるのかしらねえ。

June 21, 2006

インサイダー中のインサイダー

ずっと黙って事の推移を見てきましたが、日銀の福井さん、これはダメです。
あのひと,顔はおばさん顔で、まったく悪意のない顔をしていてそれで世間受けに関しては得をしてるんでしょうけど、そういうもので守りきれはしないです。

村上ファンドの村上が「プロ中のプロ」と自称したら笑われるだけですが、福井さんのことを「インサイダー中のインサイダー」と言っても誰も笑う人はいません。ジョークにもならない。日銀総裁くらいにインサイダーっていないでしょ? そいつがマネーゲームに参加してよいはずがない。事は、冗談じゃないくらいに深刻なのです。それがどうして「何か問題があると、すぐに辞めればいいという問題じゃない」(小泉)なんでしょうか?

小泉は自らの有終の美への汚点を避けようと、庇いとおそうとしているにすぎない。
小泉は、本当は、自衛隊のサマワ撤収に際してブッシュのように隠密行動で現地に行って派遣隊員たちの目の前に立ち、イッパツ演説して労をねぎらう方向で検討していました。それが北朝鮮のあのミサイル騒動でつぶれようとしていて、まあ、簡単に有終の美とは言えない状況になっています。

そこに,やや軸足を変えてきたのが安倍です。まったく、機を見るに敏いというか、21日午後の会見で「国民の受け止めは厳しい。利益は必ずしも少額ではない。資産公開や内規の見直しをすべきだというのが国民の声で、それなしには信頼を得ることは難しい」だって。
前半は福井への個人批判、後半は日銀の構造批判とずらしながらも、しっかり自分の得点だけは稼いで、かつ、政権の方針とも辻褄を合わせるという、こいつはほんとに小賢しいね。

なぜならこの男、自分は統一教会やマル暴とつながっているくせに、そっちの心配をしなくてよいようなネタがあればそっちに目を向けさせてシレッとしているわけなのです。父さんはもっとテンネンが入っていて、で、結局は権力闘争に加わることさえ出来なかった人ですが、その分の欠落を補ってあまりあるほどに卒ないだけこいつはあくどい。

勝共連合、統一教会、つまりはアメリカの現政権の失政の元凶であるネオコンとつながるということに、日本のどれだけのひとが気づいているのでしょう。というか、ネオコンとつながるからといって、「だから、どうなの?」なんでしょうか。

June 15, 2006

医療改革の正体

東大名誉教授の(というのはあまり関係ないのですが)多田富雄さんが、4月に朝日に寄稿していた文章を目にしました。14日、小泉改革の名の下に、医療制度改革関連法が14日午前の参院本会議で、自民、公明両党の賛成多数で可決、成立しました。わたしはまったくフォローしていなかったのですが、こんなことが起きるとわかっていながら(この手記の寄稿は4月8日付紙面に掲載されているのです)法案を通過させてしまう日本の与党とは何なのでしょう。

お読みください。情けない。まったく、情けない。

***
(私の視点ウイークエンド)診療報酬改定 リハビリ中止は死の宣告 多田富雄
2006.04.08 東京朝刊 15頁 オピニオン欄 

 私は脳梗塞(こうそく)の後遺症で、重度の右半身まひに言語障害、嚥下(えんか)障害などで物も満足には食べられない。もう4年になるが、リハビリを続けたお陰で、何とか左手だけでパソコンを打ち、人間らしい文筆生活を送っている。

 ところがこの3月末、突然医師から今回の診療報酬改定で、医療保険の対象としては一部の疾患を除いて障害者のリハビリが発症後180日を上限として、実施できなくなったと宣告された。私は当然リハビリを受けることができないことになる。

 私の場合は、もう急性期のように目立った回復は望めないが、それ以上機能低下を起こせば、動けなくなってしまう。昨年、別な病気で3週間ほどリハビリを休んだら、以前は50メートルは歩けたのに、立ち上がることすら難しくなった。身体機能はリハビリをちょっと怠ると瞬く間に低下することを思い知らされた。これ以上低下すれば、寝たきり老人になるほかはない。その先はお定まりの、衰弱死だ。私はリハビリを早期に再開したので、今も少しずつ運動機能は回復している。

 ところが、今回の改定である。私と同様に180日を過ぎた慢性期、維持期の患者でもリハビリに精を出している患者は少なくない。それ以上機能が低下しないよう、不自由な体に鞭(むち)打って苦しい訓練に汗を流しているのだ。

 そういう人がリハビリを拒否されたら、すぐに廃人になることは、火を見るより明らかである。今回の改定は、「障害が180日で回復しなかったら死ね」というのも同じことである。実際の現場で、障害者の訓練をしている理学療法士の細井匠さんも「何人が命を落とすのか」と3月25日の本紙・声欄(東京本社版)に書いている。ある都立病院では、約8割の患者がリハビリを受けられなくなるという。リハビリ外来が崩壊する危機があるのだ。

 私はその病院で言語療法を受けている。こちらはもっと深刻だ。構音障害が運動まひより回復が遅いことは医師なら誰でも知っている。1年たってやっと少し声が出るようになる。もし180日で打ち切られれば一生話せなくなってしまう。口蓋(こうがい)裂の子供などにはもっと残酷である。この子らを半年で放り出すのは、一生しゃべるなというようなものだ。言語障害者のグループ指導などできなくなる。

 身体機能の維持は、寝たきり老人を防ぎ、医療費を抑制する予防医学にもなっている。医療費の抑制を目的とするなら逆行した措置である。それとも、障害者の権利を削って医療費を稼ぐというなら、障害者のためのスペースを商業施設に流用した東横インよりも悪質である。

 何よりも、リハビリに対する考え方が間違っている。リハビリは単なる機能回復ではない。社会復帰を含めた、人間の尊厳の回復である。話すことも直立二足歩行も基本的人権に属する。それを奪う改定は、人間の尊厳を踏みにじることになる。そのことに気づいて欲しい。

 今回の改定によって、何人の患者が社会から脱落し、尊厳を失い、命を落とすことになるか。そして一番弱い障害者に「死ね」といわんばかりの制度をつくる国が、どうして「福祉国家」と言えるのであろうか。

 (ただとみお 東京大名誉教授)

     ◇

 34年生まれ。医学博士(免疫学)。「生命の意味論」「独酌余滴」など著書多数。

June 05, 2006

ルールと金儲けと天罰と

村上さん、いっしゅんムッとしながらもここが攻めどころと直感したのか「ルールの中でお金を儲けて何が悪いんですか」と笑みを浮かべてしゃべってましたね。

うーん、こういう言い方をしてしまえるというところに彼の、および彼に連なる人びとの短絡があるんだろうなと思いました次第です。まあ、会見でのメディアのバカな質問に対する単なるカウンター・アタックだったのかもしれませんけれど。

ヴォカァね、金儲けは、本来は、なんらかの価値を生んだことに対する対価として生じるものだって、思っています。基本はそこだって。そういう価値を生み出したなら、金儲けは当然の結果ですよね。株式投資によって新たな価値が生まれるのは、その投資先の企業が、投資者に代わって価値を生み出してくれるからです。それが投資のおかげだとなって、投資者に価値の収益が還元される。

でも、この資本主義(資本とはまさに投資の「資」のことです)の世の中で自由主義経済が運営されると、ちょうどリンゴがなくても算数が行われるように、実体の価値がなくてもお金だけが価値の代理となってかってに数字・記号としてあっち行ったりこっち行ったりするようになります。そこから派生してマネーゲームが可能になります。

すると、そういう、実体の価値以上のお金が行き来するそういうゲームの中では、お金儲けはまた同時に、お金損を生み出すことに直結します。価値が生まれてお金が生まれるのではなく、価値が生じずに、お金だけが行き来するのですから、だれかが損をしなければ、つまりその損をしたお金がなければ、それ以外にお金はどこからも来ないのです。

「お金儲け」とはこの場合、だれかが損をした金を,自分こそが手に入れるというゲームです。

さてそこで、このゲームには、ルールが必要になってきます。ところがそれはゲームのルールですから、社会に必要な、平等とか機会均等とかいうルールとは違うものです。むしろゲームというのは不均衡を作るためのもので、ある一定のルールの中でいかに相手を出し抜き、失策を衝き、いかに自分が優位に立つかという遊びです。つまり、ルール自体のカバーしないところで抜け道を探し、アンバランスを生むのを楽しむことに遊びがあるのです。双六もモノポリーも、そこではなんにも価値は生み出しません。いかに相手の持っている点数を、コマを、子供銀行券を、点棒を、マッチ棒を、みかんを奪い取るか、バランスを崩すかというものです。総体としての点棒は、ぜんぜん増えない。だからルールは、時に理不尽でもそれがゲームだからかまわないし、逆にアンバランスを作り出すような不備がなくては勝ち負けが決まらなくてつまらないのです。

ところが現実社会では、ルールは今の世の中の基本となっている生存権とか平等とか機会均等とか平和とか、そういうものに則っています。そういう部分で不備があっては困るから万全を期して具体的なルール(法律)を作るのですが、証取法はしかし、そこに肝心な、「お金儲けをするには価値を実体として生まねばならない」という条項はないんですね。そんなの、市場原理がどうにかしてくれるもんであって、法で国家が介入するようなものではない。つまり、どうしたって不備なんです。

証取法だけでなく、法律というのは(文章というのは)、必ず書いていないものが存在する、という宿命を持っている。私たちはそれをいままで、倫理とか畏敬とかという「理」でもって補って生き続けているのです。(先日の「国家の品格」批判のときに大切なのはむしろ「論理」と書いていた私の論点は、あれからよく考えてみると、「論理」というよりもときには「理(り、または、ことわり)」と呼んだ方がよいかもしれないと思い当たりましたのでここでは「理」を採用します。論としては述べきれない膨大な論理の道筋を、私たちはときに直観として悟ることがあります。それは「論」はたどってはいないが、しかしそれでも「理」ではある、という種類のものです。つまり、道筋のことです)

さて、そんな畏れを、私たちは「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉で表現してきました。ところが、ルールだルールだという人は、逆に、ルールの不備をもっともよく知っている人だったりする。ルールさえ守れば何をしたって大丈夫だと言い切れる人は、相手をそのルールに雁字搦めにしておいて、自分はそのすきにちゃっかりルールの抜け道をたどれる人なのかもしれません。

村上ファンドのやり方はまさにそれでした。
企業が価値を生み出せるような投資をしていたか? ノー。彼らがやってきたことは、単なる売り抜けです。おまけに記者会見で謝罪のふりして「引退」を「潔く表明」する芝居まで演出して、それって、今まで稼いだ「2000億くらい稼ぎましたか」ってさりげない自慢をして示したそのお金を持って、これまた人生「売り抜け」ようというわけですな。

こりゃね、ルールを守っているからいいというものではない。本来の株式投資の趣旨とは違う、金儲けのための資金運用。さっきもいったように、ゲームの中では、儲けるカネは仕組んでだれかに損させたカネです。だって、そういうルールなんだから、そういうゲームの世界でそういう金儲けをしない方こそがバカなんじゃないか、という理屈でしょう。そりゃねえ、まあ、バカかどうかはわからんが、そういう世の中では、こつこつと企業を育てて金を作ろうなんて人は「奇特な人ですなあ」って、よほどのお人好しか時代遅れかのように扱われ、バカを見ることだけは確かな感じですね。で、格差社会って、こないだも書いたけど、正体はこれなんですよね。

で、そういうときに「天網恢恢」なのだ、って昔の人はいいました。そういう濡れ手に粟じゃなくて、ちゃんと価値を生み出しつつお金儲けをしようよ、って。まあ、すっげえ古いというか硬いというか真面目というか、そういう今では奇特な倫理が、そうねえ、村社会みたいな、すべてが目に見えている社会ではあって、そういうところでそういうずるっこい錬金術の金儲けをやってたら確かに村八分だし、でも、こういう今の社会ではデカくて逆になにも見えなくなっているから村八分はないけど、逆に、「どっか変だなあ」から「今に天罰が当たる」へとつながる発言になってくるわけですよね。

だから、彼はインサイダー取引がどうだ、「聞いちゃったでしょうと言われれば、聞いちゃったんですよ」って、そんな“罪のない”ことのせいで責められるべきだってのは、違うんじゃないかと思います。それはあくまで前述した「ルール」上の、ちょっとした「ミステーク」で(それこそ村上さんが会見で強調してたことなんだけど),本質ではないんじゃないんでしょうか? しかも、彼がやったことは「聞いちゃった」なんていう「ミステーク」レヴェルなんかじゃなく、自分で仕掛けてるんですからね。そう、じっさい、彼はその「本質ではない」ってところで自称「ミステーク」を視聴者にインプリントさせるように何度も認めて見せて、それで「潔く」刑にも服しましょうといっているのです。

間違っちゃった、プロ中のプロともあろうものが、ああ、しくじった、悔しいと、そういう演出をしてますが、おいおい、お前が責められてるのはそんなんじゃないだろう、それってわざとケアレスミスを“自白”してみせて、視聴者にケアレスミスだったのかと印象づけて本質を騙そうとする目くらましだろう、って気がするんですね。これは、彼が、そのマネーゲームの哲学そのものを批判されているんだってことを、わざとネグレクトしているか矮小化するためか、それともそういう本質的批判を回避するために開いた会見であるようにしか見えなかったんですよ。だって、ニッポン放送もどこもかしこも、すべてやつが仕掛けた株ゲームだったわけですから。

わたしもじつは、星野仙一さんがああして村上氏に「天罰が下る」と言ったことにはあまり気持ちのよいものを感じなかった。ちょっとわたしの思っているのと方向性が違うような感じがしたんで。でも、それに対して、昨日の記者会見であの村上氏が「天罰が下るなんて言っちゃいかん」「そんなことを言っちゃいかん」と、何度も何度も言ってたでしょう? ありゃ、まさに本質的批判のとば口なんです。そこから見えるものを批判していかねばならない。

それと、これは余談だけれど、あのとき、あの人、40いくつで、まるでじいさまの口調のような話し方を演出しながら、なにか高所から見下したように星野仙一を「叱りつけ」てましたね。あれを見て、ああ、この人、すっげえ尊大な人なんだなあ、と思った。どうしてわかるかというと、私もじつはそういうところがあるから。げへへ。わざとじいさまのように悟り切ったような叱りつけ方をするから(って、このブログの書き方見てる人はわかってますよね。あはは)。ただ、わたしゃ、よく見てくれるとわかるけど、そういう“尊大”な叱りつけ方をするのは、相手が確実に権力を持っている場合に限ってる。星野さん、人気はあるけど、権力、そんなに持ってないんじゃないかなあ。ありゃね、村上さん、よっぽど「天罰」ってものが、まずいって思ったからじゃないんですかね、あの「尊大徹底見下し切り返し」のセリフ回しは。

ところで、天罰が下るとか当たるとか、なぜ「言っちゃいかん」のか。村上氏、あの会見で、どうしてそういう謂いが「いかん」のか説明しなかった。「私の子供にも影響があった」とか言ってましたが、だから言うべきじゃない、というのかしら?

彼はまた、「税金いっぱい払った人を褒めたたえる」ような社会じゃないと、日本はダメになる、とかって言ってたけど、あんたみたいな、右のものを左にしただけで金を稼いでいるやつらが税金をいっぱい納めたって、そんなの、それこそ当然の話なんじゃないのって思うだけです。「税金いっぱい払った人を褒めたたえる」ってのがなくなったのは、あのバブル期に税金をいっぱい払った人ってのが土地をただ転がしたり(あ、そういう人は節税もしっかりしてたから逆に払わなかったりしてたか)売ったりしてた人たちばかりで、なにも価値を生み出したわけではなかった、ただ金が儲かっちゃった人たちばかりだったから。つまり、村上ファンドの元祖みたいな人たちばかりだったからです。

つまり、村上さんはさ、「税金いっぱい払った人を褒めたたえる」社会を作るのに、またあんた、自分で邪魔したんだよ、ってことなのです。

あの村上会見のペテンは、いみじくも、彼が自分で口にした「ルール」と「金儲け」のペテンを、知ってるくせに知らん振りをした、あの厚顔にあります(本当に知らないのなら、こりゃ本当にヴァカってだけの話ですけど)。

天網恢恢疎にして漏らさず。
天罰とは、ですから、今回の検察の摘発のことではありません。
天罰とは、その厚顔を自ら曝す結果になったあの記者会見のことをいうのではないでしょうか。かなり底の割れた、恥ずかしい会見だったと、わたしは思いました。

June 03, 2006

森喜朗のフットボール

国連AIDS総会に出席した森嘉朗が、「私はラグビーフットボールが好きです。次回にはAIDSにトライできるように頑張りましょう」とにやけながらスピーチしました。外務官僚の用意した原稿の丸呑み、棒読みです。この作文を書いた官僚の、ass-kissingがにおうような演説でした。そもそも、こんなところで比喩というよりもシャレに近い言い回しを用いる神経とはなんなのでしょうか。

エイズ対策は一にも二にも教育です。日本では90年代後半、公教育でAIDS教育を性教育と絡めて行ってきた歴史もあります。それが、「行き過ぎた性/ジェンダー教育反対キャンペーン」という反動に遭ってほとんど行われなくなっています。例の日の丸君が代強制問題や多数決も採用できない職員会議問題、官憲をも動員した懲罰主義などとも通底して、教育現場は竦み上がり硬直しきり、疲弊し果てているようにも映ります。

日本ではいま、5人に1人が65歳以上の高齢者だそうです。少子化と若者の減少。その若者たちがHIVにさらされています。それは労働力の減少や社会基盤の脆弱を憂う話ではありません。HIVに感染し、AIDSを発症しても、彼ら/彼女らを支え励ます人がいないと危惧する話です。HIV感染差別の無知は、HIV感染そのものの無知と同じです。つまり、差別者と感染者が同じ無知でつながっているような社会です。これは、不幸が堂々巡りする社会です。暗愚の迷宮です。

自民党政府と官僚の怠慢と無能、自治体の無知と事なかれ主義、そして勝共連合のカラス頭とが、この不幸を増殖させています。「性的少数者の問題には関心もないしその必要もない」とか「性的放埒を嗜好するゲイのライフスタイルを喧伝させるな」というそういう目先のフォビアにブロックされて、その先に何が待っているのかを考えられない。社会を滅ぼすのはゲイたちのライフスタイルではありません。社会を滅ぼすのは憎悪に駆られたアドレナリンです。それは視野狭窄をもたらします。

とにかく、学校でAIDSを、AIDSの背景を、AIDSから学んだ人間の知恵を、子供たちに教えることを一刻も早く再開しなければなりません。日本では、先日もフジテレビがアフリカの貧困地帯のAIDSを取り上げて女性アナウンサーがルポみたいなことをやっていました。その努力は認めます。たとえ彼女がHIVのことをウイルスではなく病気そのもののように話す間違いを自覚していないとしても、アフリカのエイズ問題で浮き彫りになる世界の矛盾はぐったりするほど重大なことです。

けれど、それをアリバイにしないでほしい。アフリカのことをやっていればエイズ問題をカバーしたつもりにならないでもらいたいのです。日本もいま、いや、日本はいまもまだ、HIVの蔓延に無防備のままなのです。その日本のHIV/AIDSを、日本のTV局は、アフリカのいたいけな子供たちの感染を語ると同じように思いやりをもって語ってくれているのだろうか。遠い国の子供たちを同情を込めてこぞって取り上げるその裏側に、間近な性感染者の若者たち大人たちへの、それは自業自得だという、すでに一度10年以上前に破綻したはずの、因果応報論がぶすぶすと発酵してはいないか。

ニュースは自分に近い場所で起こったものほどそのひとにとっては大きな問題のはずです。にもかかわらず、AIDS問題では遠くのニュースの方が大きく頻繁に取り上げられる。おまけに日本政府は、今回の国連AIDS総会用の日本の取り組みのレビューに、4ページの英語のファイルしか用意しませんでした。日本国内向けには説明しなくてよいと考えているようです。それは日本という社会の、「品格」も「けじめ」もむなしい、とても倒錯的な非情を象徴しています。

ちなみに、前回も国連AIDS総会に日本代表としてやってきた森喜朗は、2000年1月、福井県の講演で「選挙運動で行くと農家の皆さんが家の中に入っちゃうんです。なんかエイズが来たように思われて…」としゃあしゃあといいのけた人物です。そのほかにもえひめ丸沈没事故の際のゴルフ続行問題、神の国発言、大阪たんつぼ発言と、史上最も頭の悪い総理として名を為した人。いまもポスト小泉のキングメーカーたらんといろいろとうるさい発言を続けていますが、あのデカい図体、ラグビーフットボールじゃなくとも、ほんと、森喜朗は、邪魔だ、どけ、と一喝したい男です。「トライ」されるべきは本人でしょう。

June 02, 2006

役得亡者

 「役得」という言葉があります。新聞記者にも役得はあります。警察や役所が設ける幹部との酒席は、きっとマスコミ対策費とかいう名目の支出だったのでしょうが、若かった私は最初、結構な料理が出てかなり驚いたものでした。

 私は社会部畑だったのでどちらかというと(不祥事)企業に嫌われる立場でしたんで、他の役得にはほとんど浴しませんでしたが、経済部の記者などは企業の新製品を試供品としてもらったりします。製品紹介のiPodをもらった記者はさすがにうれしそうでしたし、昔はどういう意図か一流デパートのワイシャツお仕立券なども企業から配られたとか。いまはあまりそういう露骨なのはないでしょうが、それでも芸能記者は入手困難のチケットが(他人の分まで)手に入ったりします。かつて、社に送られてくる試聴用のレコードからCDからぜんぶ家に持ち帰っていた記者の家の床が抜けたという本当の話を聞いたこともあります。運動部の記者だってサインをもらえるとか、まあ、そんなのはかわいいもんかもしれません。政治部の記者の役得って、何なんだろう。なんか怖いね。

 NYに来てからも某企業の会長さんが日本からいらっしゃるたびに個別にこちらの一流レストランで食事をご相伴させてもらったりしました。べつにその企業に便宜を図るわけでもないのにどうしてこんなことするのと秘書氏に訊くと「予算があるから消費しなくちゃならないんですよ」との話。今はその会長氏も引退なさったから、もうそんな慣習はないんでしょうね。

 もともと貧乏性のせいか、その種の「役得」に遭遇するたびになんとも居心地の悪い気分になったものですが、まあ、それも年に1度ほどの勉強でした。新聞社を辞めてからは「役得」という言葉自体も忘れましたが。

 ただ、どんどん「役得」中毒が進む人も少なくないようです。役得などなくてもふつうに仕事をしていたのに、そのうちに役得も自分の正当な報酬のうちだと誤解するようになる。役得がないと仕事をしなくなる。

 開いた口がふさがらないとしか言えない社会保険庁の国民年金保険料不正免除問題は、じつはここ数年で明らかになった同庁の「役得体質」と同根です。

 同庁職員たちはこれまで、自分たちで使うゴルフ練習場のクラブやボール購入費、テニスコートやバスケットボールコートの建設費などにも保険料を流用していました。同庁発行の年金マニュアルや健康の手引きのような小冊子で、“監修費”と称して職員に1ページ6万円とか18万円とかのアルバイトをバラまいていました。職員の健康や研修のためと称して自分たち用のマッサージ機やミュージカルやクラシック、狂言のチケットを購入していました。

 これはもう「役得」のレベルではなく「悪徳」極まった立派な背任、横領、窃盗罪です。なのに、そうしたものでの起訴は1件もなかった。わけがわかりません。

 ふと目を横に向けると今度は国会の根幹である国政調査権を支える国政調査活動費が、2年で1億円分も議員たちの料亭やクラブでの飲み食いに流用されていたことが朝日新聞の調べでわかりました。おまけに国会職員までもが備品や光熱費に使うべき庁費を自分たちの飲食に充てていたんですって。それらの中には芸者やコンパニオンを上げての宴会もあって、これも役得ですか? いったい日本という国はどうなっているのか、顎が外れそうです。

 今国会では教育基本法の改正もありますが、そんな連中に「日本を愛せ」と強制されても首を傾げてしまいます。そいつらの「日本」と私の愛する日本は、どうしたって違うもんなあ。で、そういう連中に限って「ニッポンは素晴らしい」とか「品格がある」だとか「国を愛するのは義務だ」とかっていうわけですわ。なんなんでしょ、こういうのって。

 先日もここに書きましたが、産經新聞がネットで流布されている「君が代」の替え歌を憤慨しながら紹介していました。君が代の歌詞にも聞こえる英語の歌詞で、いままたよく読んでみると、死者を悼むその内容は、cave とあって、これは「カマ」で多くの住民が死んでいった沖縄戦のことのようでもあり従軍慰安婦のようでもあり、ですね。ところで、友人が教えてくれたところによると、この歌詞がネットで流布し始めたのは99年2月で、国歌国旗制定法以前の話だとか。その点で、産経の記事の“読み”は事実誤認の間違いだということです。あら、はずかしい。

 私の尊敬するアーティストで上質のやわらかな言論人でもある大塚TAQさんが、この替え歌の、もっとキュートなヴァージョンを遊びで作ってくれました。以下のものがそれです。

  Kick me, girl and your old wand
  Chill your knees, a yacht in your need
  Southern rain, is she known?
  Heat one old toe, not retail
  Cock ate North moon, soup, mud and dates

  お嬢ちゃん、その杖でぼくを蹴飛ばして。
  膝を震わしてる場合じゃないよ、必要なのは一艘のヨット。
  南の雨さん、彼女のことは知っている?
  足の指を一本だけ熱くするの、売り物じゃないやつを。
  雄鶏が北の月とスープと泥とナツメヤシを食べたよ。

 いわく、「現在あるバージョンだと、その都度「慰安婦問題」に向き合わなきゃならないのがシンドイ気がするし…。」ということでいろいろとことばをいじっているうちに、「なんかマザーグースみたいな不思議な世界」が出来上がったというわけだそうです。

 素敵ですね。もちろん、こんなことをしている大塚さんに、役得なんてもんはありません。せいぜいみんなの敬意を集めるくらい。それは役得ではなく、人徳です。

May 29, 2006

力を入れればチューブのお尻が破れる

近年まれに見る痛快な奇想ですわね、こりゃ。
ま、産経新聞の記事をお読みください。

***

「君が代」替え歌流布 ネット上「慰安婦」主題?

 卒業式、入学式での国歌斉唱が浸透するなか、「君が代」の替え歌がインターネット上などで流布されている。「従軍慰安婦」や「戦後補償裁判」などをモチーフにした内容だが、本来の歌詞とそっくり同じ発音に聞こえる英語の歌詞になっているのが特徴で、はた目には正しく歌っているかどうか見分けがつきにくい。既に国旗掲揚や国歌斉唱に反対するグループの間で、新手のサボタージュの手段として広がっているようだ。
 替え歌の題名は「KISS ME(私にキスして)」。国旗国歌法の制定以降に一部で流れ始め、いくつかの“改訂版”ができたが、今年二月の卒業シーズンごろには一般のブログや掲示板にも転載されて、広く流布するようになった。
 全国規模で卒業式、入学式での国旗掲揚、国歌斉唱に反対する運動を展開するグループのホームページなどでは、「君が代替え歌の傑作」「心ならずも『君が代』を歌わざるを得ない状況に置かれた人々のために、この歌が心の中の抵抗を支える小さな柱となる」などと紹介されている。
 歌詞は、本来の歌詞と発声が酷似した英語の体裁。例えば冒頭部分は「キス・ミー・ガール・ユア・オールド・ワン」で、「キー(ス)・ミー・ガー(ル)・ヨー・ワー(ン)」と聞こえ、口の動きも本来の歌詞と見分けにくい。
 歌詞の意味は難解だが、政府に賠償請求の裁判を起こした元慰安婦と出会った日本人少女が戦後補償裁判で歴史の真相が明らかにされていくのを心にとどめ、既に亡くなった元慰安婦の無念に思いをはせる−という設定だという。皇室に対する敬慕とはかけ離れた内容で、「国家は殺人を強いるものだと伝えるための歌」と解説したホームページもあった。
 ≪陰湿な運動≫
 高橋史朗・明星大教授(教育学)の話「国旗国歌法の制定後、正面から抵抗できなくなった人たちが陰湿な形で展開する屈折した抵抗運動だろう。表向き唱和しつつ心は正反対。面従腹背だ。国会審議中の教基法改正論議で、教員は崇高な使命を自覚することが与野党双方から提案されている。この歌が歌われる教育現場では、論議の趣旨と全く反する教育が行われる恐れすらある」
     ◇
 ■「君が代」の替え歌 歌詞と訳
 【詞】
Kiss me, girl, your old one.
Till you're near, it's years till you're near
Sounds of the dead, will she know?
She wants all told, now retained.
For cold caves know the moon's seeing the mad and dead.

 【訳】
 私にキスしておくれ、少女よ、このおばあちゃんに。
 おまえがそばに来てくれるまで、何年もかかったよ、そばに来てくれるまで。
 死者たちの声を知ってくれるのかい。
 すべてが語られ、今、心にとどめておくことを望んでくれるんだね。
 だって、そうだよね。冷たい洞窟(どうくつ)は知っているんだからね。
 お月さまは、気がふれて死んでいった者たちのことをずっと見てるってことを。
(産経新聞) - 5月29日3時16分更新


***

何が面白いかって、この英語、一応意味が通じるし、ちゃんと君が代に聞こえないこともない。

もっと面白いのは「高橋史朗・明星大教授(教育学)の話」。「陰湿な形で展開する屈折した抵抗運動」とかって、でもこれ、「陰湿」な感じはあんまりしないんじゃないかなあ。
それと「屈曲」ねえ。まあ、まっすぐじゃないわな、わたし bent ですからそもそもそういうのが好きなのかも。ってか、権力が正面からドドってやってくるときに、非権力者たちはそれを躱すために躯を柔らかくしてくねくねといろんな策を練っていたのであって、高橋史朗ちゃん、民衆の教育ってのはそれが醍醐味、そうも含めて考えないとダメなんでないかね? 産経は北朝鮮関連の工作員もしくはその周辺の反日活動と関係しているのかもしれないと(例の産経抄でも)臭わしておりますが、まあそういうこともあり得るだろうけどね。それより、ここまで(屈曲的に)知的だと、こちらも自覚的にあるいは対抗的に知的にならざるを得ないから、そんで赦せちゃうというか、敢闘賞をあげてもよいような気になってくる。

それと、「表向き唱和しつつ心は正反対。面従腹背」とかっていう批判はむしろ、それを強制させた方に向けられるべきものであって、意を尽くす努力なしに強制すれば面従腹背というのは当然の結果として生じてくるのは歴史の常。そこを考えずにけしからんっていうのは、ひとの家に放火しといてその家から逃げるとは何事だって怒ってるような、盗人猛々しいというか(ちょっとちがうか)、お門違いの批判でしょう。

けっきょくはあれでしょ、日本国の首相も言ってたじゃない? 靖国参拝に関して「私の心の問題だから、他人が口を挟むことはしてもらいたくない、また口をはさむことが問題だ」って。

君が代、日の丸も心の問題。心を尽くさずして強制したつけがお尻から出てきただけの話で、私はむしろこの替え歌は、とても屈曲しつつもちゃんと光を求めて空へと顔を出す松が枝のようにたくましく健康的に見えます。

それにしても産経がこれを報じたというのがいいですわね。これが朝日だと新聞沙汰にしてさらに意図的に煽ってるみたいな印象になるが、産経だと、批判しつつもなお、結果的に世間に流布・流通するって感じの段取りを踏むだろうから。皮肉なもんだ。

ちなみに、歌は次のように日本語音に対応します。

Kiss me, girl, your old one.
き み  が よ お わ
Till you're near, it's years till you're near
ち よ  に    や  ちよ   に(it's は飲み込む)
Sounds of the dead, will she know?
さ  ざ   れ  ぅいし の
She wants all told, now retained.
 いわ   おと  な りて(最初のS音を脱落させる)
For cold caves know the moon's seeing the mad and dead.
  こ け  の    むう  すう    まあ あ で(最初のFor は言いかけて飲み込む)

May 19, 2006

共謀罪

うちの猫が、義経というのですが、ガンになっちゃったかもしれなくて、先週から病院に行って検査、検査です。右前肢の、人間でいう二の腕の部分が腫れ上がっていて、原因不明。ビッコ引いてるんだよね。かわいそうに。おまけに右肺にも影が見つかりました。レントゲン、生検、CTスキャン、生検、と繰り返して、来週半ばまで結果が出ない。

6年前、ヨシくんの母親のギャビちゃんが右前肢をひょいと上げてビッコを引くようになったのでお医者さんに連れて行ったのですが、原因不明。それから数週間後に引きつけを起こし、病院に急行し、入院し、その夜に死んでしまった。最後にはお医者さんの診察台の上で目も見えなくなっちゃって自分でパニックを起こしてみゃーみゃー鳴いて、かわいそうだった。脳腫瘍だったんだろうって、あとからお医者さんにいわれて、わかってもどうすることもできなかったと慰められたけど、先週の月曜にこんどはヨシくんが右前肢をひょいと上げているのに気づいて、わたしは、ああ、血の気が引くってのはこのことだってわかりました。

まあ、脳腫瘍でもない、骨にも異常はない、ということで、いまのところ本人も痛がってはいないようで、でも、きっと軟組織の肉腫の疑いが強いってことなんですわね。腕を取っちゃったら予後はいいんだろうか。

ネットで同じような症状を検索しても出てこないんです。

ま、というわけでヨシくんのことにかまけてますけど、日本では共謀罪の成立が土俵際のせめぎあいになっています。あまりにも唐突な話題転換。でも、そうなんだからしょうがない。

まったく、いろんな悪法が自民党によって強行採決されてきたけど、これも歴代トップ級のとんでもない法律だってこと、肝に命じておいてほしいです。

難しいことわからない人、おれを信じろ。この法律は通してはダメだ(といってきた法案はすべて通っちゃってきてるけどねえ)。

こういうときに必ず聞こえてくるのが「べつに自分で罪を犯していないなら心配する必要はないじゃないか」というやつです。「悪いことさえやらないなら、きみには関係のない法律だ」、すなわち、「そういうのに神経を尖らせるのは、なにかやましいことがあるからだ」となって、「そういう法律、べつにあったっていいんじゃないの?」「ダメだっていう理由ないじゃん」という結論になるわけですよ。

でも違うの。
法律ってのはね、たとえ政府が変わっても、この法律があれば大丈夫ってものを作っていく、それが基本。まあ、クーデタなんかだと法体系自体が無視されちゃうけど。

で、自民党支持者は、たとえ共産党が政権を取っても、この法律はきちんと運用されると思うのか、というふうに考えてみる。まあ、共産党が政権を取ることはないだろうし、そして、現在の日本共産党は自民党の毛嫌いしたかつての政党とは違ってしまっているけど、それは今という刹那のこと。そうじゃなくて、たとえ、とんでもない連中が政権を取ってもこの法律を安心して存続させていられるのかどうか、そこを考えなくちゃダメなのですわ。そんじゃなくては、怖くてしょうがない(いまの自民党だって怖いのに)。だいたいね、法律ってのは、恣意的に使いたくなるもんなの、権力を持つと。だからなおさらそこを締めなきゃならんのです。だって、こないだだって日テレのアナウンサーの炭谷宗佑(26)っていうバカが女子高生のスカートの中を盗み撮りしたのに、日テレは個人情報保護法なんだかどーだか知らんが、「プライバシーに関わることなのでコメントできない」とかって、あんた、報道も扱っているメディアの言うこととは思えないコメントだもんね。なによ、その不公平は。

そういうもんなんすよ。奢れるものって。

そう考えたら、共謀罪、危なくて、自民党ですら反対すると思いますよ。
だからダメなの、これ。

つまり、自分が悪事をするかどうかではなくて、政府を信頼するかどうか、なのですわ、問題は。そんで、その政府ってのは、いまの政府だけではなく、その法律が続く限りの、未来永劫のいろんな可能性の政府を含めて、なわけ。

あなたの嫌いなやつらが政権を取ったと想像してみてください。そんで、ここが肝心なのだけど、そいつらもあなたが大嫌いなのです。そんなやつらがこの共謀罪を大嫌いなあなたみたいな連中にどう使ってくるか、怖くありませんか? そういうことなのです。そこまで責任を持った上でこの法律はいいのかどうか。

法律というのは万事、だから徹底して、恣意的に運用され得ないものを作らなくてはいけないのです。

あちこちの人権派のHPで、こんな場合も逮捕される危険があります、こんなことをしても訴追されるかもしれません、という脅しの宣伝をやっていますけど、あれ、基本的にあんまり効果ないと思うんですよね。だって、ふつうの人は「悪いことさえやらないなら、わたしには関係ないもん」だもん。そういう人には、脅しにすらなってないんですよ。

豪腕・小沢の腕の見せ所。「国際条約に関する法律を政争の具にするのはよくない」と河野衆院議長が自民党に要請しているようですが、いや逆の意味でこれはまさに小沢民主党最初の政局です。どんどんぶつかる覚悟でやっていただきたいわね。

May 16, 2006

1ドルの仕事、1億円の仕事

 先月のフォーブス誌によれば、米国の売上上位500社(Forbs 500ってやつです)の昨年のCEO平均報酬は1090万ドル(12億円)だったそうですね。うち51%、560万ドル分がストックオプションの行使で得た収入だそうですんで、そのまま給与というわけでもないんですが、12億円というのは1カ月に1億円の収入ですわ。

 トップのキャピタル・ワン・ファイナンシャルのリチャード・フェアバンクCEO(55)にいたっては、ほとんどストックオプションながら2億4930万ドル(275億円)の収入だったとか。こちらは1日で7500万円の計算。いったいどういう仕事や業務がそれほどのお金の価値に値するのか、浅学な私には皆目見当もつきません。ちなみに日本の上場企業の社長さんは年収で平均4000万円くらいなんですって。まあ、このくらいなら想像できる金額ではありますがね。

 とふと、その号が発売されてややした5月1日に、全米で「移民がいなくなった日」と題した中南米系移民の一斉スト及びデモが行われました。米国内で働いている不法移民は720万人に及ぶのですけど、そのとき、頭の中で、あ、この人たちがみんな1日分の賃金で10セントずつ少なく支払われていれば、フェアバンクさんへの1日7500万円がちょうど出てくる計算だな、と思っておりました。いや、これはとても失礼な素人比較ではあります。フェアバンクさんのお仕事はとてもストレスフルで、1日7500万円もらってちょうど割が合うほどなんだ、というのかもしれない。でもねえ。ほんと、フェアバンクさん、貰ってるということはそれだけの価値を生み出してるってこと。そんな巨額なお金をまいにち生み出しているのかしら? まあ、いずれにしても氏に行っているお金はだれかがどこかで生み出しているに違いはないのでしょう。

 私は、じつはダウンタウンのSOHOの入り口というか、あのハウストンとブロードウェイの角にあるクレイト&バレルって店が好きで、ふと散歩がてらに覗くこともしばしばです。品の良い食器とかグラスとかがポーランドとかあそこらへんから大量に輸入されているせいでしょうか、すっごく安い値段で売られてたりして、うちでよくパーティーをやってワイングラスも大量に仕込まねば割れたりしてすぐなくなっちゃうので、あそこで大振りのボルドーとかブルゴーニュ・タイプのグラスをバーゲンで3ドルくらいで買っちゃうわけです。で、クリスタルなんですよ。大量生産品ではありますがいちおう手吹きですし、そんなとき、3ドルじゃなくたとえ5ドルもらっても10ドルでさえ、私にはこのグラスは作れないなあと思ってしまってしょうがない。だいたいNYではガラスの工房を借りるだけでも何十ドルもしますし、話は違うがコットンの下着が3枚で9ドルとかも私にはぜったい作れない。こちとら文章を書いてるだけですからね、よく考えると、けっこう自己嫌悪のタネが仕込まれたりします。

 でね、こんなに安くていいのかなあ、と思うわけです。まあ、バカラの200ドルのグラスにはそれなりの,それこそ品格みたいなものさえ感じられますが、作れないにしても、200ドルなら作ってもいいかなとは思う。で、クレイト&バレルの方のグラスは everyday wine 用だからこれでじゅうぶん。しかし、3ドルって、おれはぜったいに作れないというより、作らない。そんなお金で仕事なんかできませんもの。

 付加価値まで含めた第1次や第2次産業製品の総体価値がそのまま社会全体の実体価値ではないのでしょうが、どこかで富は生み出されている。それがわずかずつではあるが最下層には少なく配分され、わずかだからたいして騒ぎ立てたり怒ったりするほどのことでもないけれど、そうやって見過ごしているうちに過少払い分が上位層に順次吸収されていって、それで最終的に何百人か何千人かの、宝くじ的な報酬へとつながっていく。塵も積もれば、の逆典型。とどのつまりはこれが「格差社会」の仕掛けなんでしょ? ま、昔いってた資本主義経済の弱肉強食、食物連鎖ってヤツだけど。

 宝くじ、といいましたがそうですわね。100円くらい簡単に出しちゃいます。気にならない。でも格差社会が宝くじと違うのは、当選者がだいたい決まっているってことです。

 その当選者層に入り込みたいという各人の意欲と努力が競争と切磋琢磨という社会のエネルギーを生み出すのだ、という論理はよくわかりますし賛成もしますよ。だが、いくらなんでもひと月に1億円というのは違うだろうという気がするんですよね。

 だって方や人目につかぬNYのチャイナタウンの縫製工場では、背広1着縫って工賃はわずか1ドル前後なんすよ。たった1ドル。それも違うでしょう。そう思わへん?

 アメリカンドリームはいまや、いつか当たると思ってもじつは当たりくじのないインチキゲームと同じになっているとちゃうかという指摘もあります。むかし、お祭りの夜店にそういうのがあったけど。日本では小泉が格差社会について「成功者をねたむ風潮、能力のある者の足をひっぱる風潮は厳に慎んでいかないとこの社会の発展はない」なんて格差社会とはまったく関係ないことをいってごまかしてましたが、アメリカみたいに1着1ドルと1カ月1億円ってな差が出来ている社会、だれか調整してくれないと、こんなふうにねたみたくなってからでは遅いんですわ。で、小泉政権の“推進”する格差社会というのは、政府の社会不均衡調整機能ってもんをはなから放棄しちゃった職務怠慢なんじゃないのと思う今日この頃です。

May 05, 2006

ホモフォビア撲滅運動

さいきんやたらと気が立っていて、それもこれも、わたしもご多分に漏れずミクシなんてものに参加しているのですが、そこで垣間見るいわゆる一般ピープルの「書き込み」というのでしょうか、あれです、日記とかレビューとかで書かれている内容ですわ、それに、いちいち反応してしまうのは大人げないと思いつつもついつい読み込んじゃったりしてしまい、なんというのでしょう、日本のいまの雰囲気というんでしょうか、乗っかっちゃっているその神輿というのでしょうか、そういうものがとてもとてもと繰り返すほどに阿呆らしくて、だいたいがまああれです、れいの「国家の品格」ですわ、あれ、まだ書籍売上で週間トップなんかを取っているのですよ、そんで、そのミクシ内にも溢れるレビューなんかを読んでいると、ほんと情けなくなるというか叱りつけたくなるというか、みなさん、まあ言祝ぐこと言祝ぐこと、いったいどーなっちゃってるんでしょう、日本の知的レベルは。そもそも、知的ということが価値を持ったことがないのかもしれない、というくらいにとんでもないことになってしまっているようです。

で、障害者自立支援法です、教育基本法です、共謀罪です。
わたしはかつて小泉の登場によって日本の政治に私語が持ち込まれたと、その点では評価した一人ではありますが、いま、そんな自分の不明を恥じます。ごめんなさい。この5年は、けっきょくとんでもないところに日本を招き入れてしまった。ワンフレーズ政治でどんどんひとびとがものを考えずに引っ張られるようになってしまった。小泉のことをちょっとでも面白がった自分が恥ずかしい。ことはホリエモンとは違って一国の総理大臣。権力の在り様が違った。自民党は壊れたわけではなく、小泉に成り代わっただけだった。

そういう苛立ちの中で、5月17日は国際的な「ホモフォビア反対運動の日」だということで、大阪府議の尾辻かな子さんから反ホモフォビアに関する協賛コメントを求められたので、書いたのですが、これもまたろくでもない文章になってしまいました。

http://actagainsthomophobia.txt-nifty.com/blog/cat5814336/index.html

こんなふうに書いていたら、伝えたい相手は却って引いてしまうだろうという、悪い見本のような文書です。でも、吐き捨てたかったわけですな。頭ごなしに、そう指弾したかった、そんな大人げない文章になってしまっております。

以下、反省を込めて、再録します。
腹を立てるとロクなことはありません。


ホモフォビア(同性愛恐怖症)に関していえることは昔から同じです。

それは病気です。

フォビアとは病気なのです。
病的な嫌悪感、恐怖心。

いろいろなフォビア(恐怖症)があります。広場恐怖症、閉所恐怖症、高所恐怖症というポピュラーなものから雷光恐怖症、水恐怖症、暗夜恐怖症、あるいは陶磁器類恐怖症、空気恐怖症、言語恐怖症などというわけのわからないもの、はては13という数字が駄目な十三恐怖症(トリスカイデカフォビア)なんていうものさえあります。この場合、治療の対象は「広場」でも「高所」でも「空気」でも「陶磁器」でもましてや「13」という数字でもないのと同じように「同性愛」ではありません。治療の対象は「恐怖症」のほうです。つまりあなたがホモフォビック(同性愛恐怖症的)ならば、治すべきはあなたの嫌いな「ホモ」たちではなく、あなた自身の恐怖・嫌悪という病的反応のほうだということです。

まずは病識を持つことです。自分が病気だと思っていない病人ほどたちの悪いものはありません。あなたが「生理的」に苦手だと思っている「ホモ」たちは、じつは「ホモ」たちが悪いのではなくてあなたの「生理」が異常なのだと自覚することです。

いやいや、そんなに大袈裟なものじゃなくて、ただなんとなく「嫌」なんだ、と思っているだけなら、ああ、そりゃよかった。それは病気ではありません。それはホモフォビアではない。それは思い込みです。あるいはたんなるフリ、そういう格好をしといたほうが無難だ、あるいは、受ける、というふうに思っての仕草に過ぎません。それは専門的な神経症の治療を施さなくともだいじょうぶです。だって、それはたとえば「納豆が嫌い」というのと同じ、「ヘビがだめ」「クモは苦手」「芋虫、食べられない」というのと同じだということでしょう? だれも無理なものを食べろなどとはいいません。触れともいいません。好きになれとは無理強いしない。安心なさい。万が一そういわれても決然とNOといえばよろしいだけの話です。だが、あなたが嫌っても苦手でも叫んでも、ヘビや納豆は厳然と存在する。カエルやナメクジに罪はない。ボクラハミンナ生キテイル。それが世界だ。そういうもんだ。

それとも、あなたはそれだけじゃ気が済まなくて、それらすべてを一掃したいと思っているのですか? だからヘビや納豆を見ただけでぎゃーぎゃー騒がしく自分の嫌悪を表明し賛同者を募るのでしょうか? ゴキブリはぜんぶ殺せ。クモは死ね。納豆なんか殺菌しろ。陶磁器は生き埋めだ。民族浄化だ撲滅だ。クリスタルの夜だ。セルビアの悪魔だ。

もし、そんなあなたが、好悪に関しても発達過程にあるせいで自分を納得させるためにもどうしても騒がしい表明をしてしまわざるを得ない小学生ではない場合、そんなあなたはやはり病気です。まあ、少なく見積もっても情操障害か。
さらにもし、そのあなた個人の嫌悪の対象が生きている人間であると認識していてすらも、その嫌悪と憎悪と恐怖とを聞こえよがしに振りまいて憚らないというのであるならば、あなたはやはりもっとしっかりと病識を持ったほうがよい。あるいは少なくとも犯罪の自覚を。

ですから、ホモフォビア(同性愛恐怖症)に関していえることは昔から同じなのです。
それは,病気だ。でないなら、犯罪です。
悪いことはいいません。お治しなさい。一刻も早く。
人間、ひとに危害を加えない努力が肝要なのです。
それがいまの人間社会というものの存在基盤なのですから。
ね。

(筆者注)上記の文章は「病気の人」たちを疎外しようとの意図で書かれたものではありません。むしろ、病者でもないのに「病者を騙る人」たちを炙るための文章であることをご斟酌ください。

May 03, 2006

猫に鰹節

 NYに3年くらい派遣されても英語がペラペラになるようなことはまずありません。で、小さいころから英語をやっていればなあという思いが生まれるのは当然でしょうが、そうしていれば本当に話せるようになっていたのかというとそれはまた別の問題です。

 日本の中教審外国語専門部会が「小学校高学年から英語を必修にする」との方針を示したと聞いて、藤原正彦じゃあないが、こいつはまったくの見当違いだろうとの疑問が拭えません。まあ文部省関連ではゆとり教育だとか愛国心教育だとか、朝令暮改でもとから信用できないのですが。

 子供のころからバイリンガルというのは理想的ですが、よほど言葉の才に長ける子を除いて日本語も英語もどちらも満足に使えない虻蜂取らずの危険も待っています。だいたい中学から大学まで10年も英語をやって話せないものを、小学校高学年からの2年を加えたってどうなるものでもないでしょう。英語のできない原因は他のところにあるのです。

 言葉というのはいくら仕組みや言い回しを学んでも、肝心なことは「言いたいこと」「語りたいこと」があるかどうかです。器を買っても、中に入れる料理がなければ観賞用のただの飾りでしかない。では日本の教育は器の中身を満たすその料理のうまい作り方を教えているのかというとそれも心もとないのです。

 自分なりの意見を持つこと、その意見を人前で表明すること、少数意見を邪険にしないこと、他者への批判や反対はその意見を咀嚼し尊重したうえで行うこと──コミュニケーションのその4つの基本はたしかに日本の教育現場でも奨励されてはいるでしょう。しかしその実現に具体的に努力するよりむしろ、「他人と違わないこと」「むやみに私見を主張しないこと」「公共の場では黙っていること」のほうがうまい生き方だと、多くの子供たちが思っているのではないか? 先日発表の経産省の就職アンケートで、「自らやるべきことを見つけて積極的に取り組む」という「主体性」に自信のある大学生はわずか28%でした。

 あるいは東京都の教育委員会が「職員会議で挙手や採決によって教職員の意向を確認するような運営は行わない」という通知を各都立学校長宛に出したというニュース。かつて「NOと言える日本」を記した石原慎太郎都知事ですが、日の丸・君が代問題でもなんでも教育現場でどんどん「NO」と言うことさえ出来ない状況が拡大しています。ではいったい何を話せばよいのか? 子供たちにだって、話すことではなく「話さない」ことが奨励されている。

 そんな中で英語を話せと言われたって無理なのです。話す主体としての「自分」が無いからです。大切なのは「英語を」話すことではなく、英語で「自分を」語ることだというのに。

 前にも書きましたが、こんな笑い話があります。日本人が事故を起こして大ケガをした。アメリカ人が近寄って大丈夫かという意味で「ハウ・アー・ユー?」と訊いたら、ケガでダラダラ血を流しながらその日本人、「アイアム・ファイン、サンキュー、アンド・ユー?」と笑顔で答えた──あまり笑えた話じゃないですが。

 そうしたらこんどは日本で、中学生から使えるクレジットサービスが始まるんですって。まったく、仕事も収入もない中学生に中身の伴わない「クレジット(信用)」を与えてどう使わせるつもりか。猫に小判。いや、この場合は、猫に鰹節、でしょうか。

April 11, 2006

「国家の品格」というジョーク本

 日本から来た若い友人が、どうぞ、とある新書を置いていきました。数学者藤原正彦さんがお書きになった「国家の品格」(新潮新書)という本でした。日本ではもう110万部も売れているのだそうです。ざっと通読後、私の尊敬する友人である若いお医者さんとかまでもが激賞しているのを知り、え、そんな感動するような本だったかしら? と思って、そりゃもういちど精読したほうがいいかなと思ってそうしたのですが、やはりこんども冒頭からつまずいてしまいました。
 こう書いてあるのです。「30歳前後のころ、アメリカの大学で3年間ほど教えていました」「論理の応酬だけで物事が決まっていくアメリカ社会がとても爽快に思えました。向こうではだれもが物事の決め方はそれ以外にないと思っているので、議論に負けても勝っても根に持つようなことはありません」

 おいおいちょっと待ってよ。アメリカでだって「論理の応酬」だけでなんか物事は決まらないし「議論に負けても根に持たない」という見方も単純すぎます。そんなロボットみたいな人間、いるわけないじゃないですか。ちょっと考えただけでもそのくらいはわかる。そんなのとっても中途半端なものの見方で、あまりに情緒的に過ぎませんか。

 首を傾げながら読み進めると、そんな筋運びばかりでした。欧米式の「論理」だけではダメだ、日本的な「情緒」と「形」こそが重要なのだという“論理”なのですが、「論理だけでは駄目だ」が、いつのまにか「論理は駄目だ」にすり替わって、その対極とする日本的「情緒」の価値を持ち上げる、という仕掛けでした。
 もっとも、ここで藤原さんがおっしゃる「情緒」というのは「喜怒哀楽のようなだれでも生まれつき持っているものではなく、懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるものです。形とは主に、武士道精神から来る行動基準」だそうなんですが。
 でもしかし、ふむ、ちょっとよくわからない。

 そもそも「論理」というのは方法・メディアであって日本的「情緒」という実体概念・共同幻想とは対にはならないでしょう。次元が違うのです。だって、情緒にだって論理はある。花伝書なんてその最たるものです。近松の虚実皮膜論だって見事なものだ。芭蕉にも種々の俳諧論があります。したがって日本的情緒の根源も論理で説明しようとする努力は歴史的にも否定されるものではありません。論理と情緒は敵対する水と油ではないのです。「論理」に対抗するのはこの本ではむしろ「形」の方でしょう。

 さてこうして筆者はゲーデルの「不完全性定理」まで持ち出してきて徹底的に「論理」を批判します。たとえば57ページには「風が吹けば桶屋が儲かる」という“論理”を、現実には桶屋は儲からない、と結論づけて、だから長い論理は危険だ、とわたしたちに言い含めます。
 ここでまたわからなくなる。
 だって、風が吹いてもじっさいには桶屋は儲からない、という結論自体もまた筆者の嫌う「(長い)論理」によって導かれた結論なのです。しかしそれには触れずに、つまり、論理はダメだということを論理によって説明しているのに、さらにつまり、筆者は論理の有効性を知ってそれを利用して結論づけてもいるのにもかかわらずそれには頬かむりして、だから論理はダメだ、だから情緒だ、と論を持っていくのです。

 もちろん筆者もバカじゃないですから(いやむしろかなり頭の良い方なんでしょうね)、何度も「論理を批判しているのではない」「論理だけでは駄目だといっているのだ」と断りを入れてはいるのですが、そういう「論理だけでは世界が破綻する」というきわめてまっとうな物言いを、ところが読者は限りなく「論理では世界が破綻する」という意味合いに近く誤読するよう誘導される書き方なのですね。
 これって、都合のよいところだけ論理的で、都合の悪いところはまるで手抜きの論証ではないか。いや、違う……都合の悪い部分は「論理」だと言って、都合の良い部分はそれは「情緒」だと依怙贔屓しているのか……。牽強付会は日本的情緒に最も反する行為なのに。

 先ほども言ったように「情緒」に対抗するものは「論理」ではありません。「情緒」に対して批判されるべきはむしろ「ゲーム」という概念です。藤原さんの厭うのは、「アメリカ化」が進んだ末の「金銭至上主義」による「財力にまかせた法律違反すれすれの」「卑怯」で「下品」な「メディア買収」に象徴される「マネーゲーム」だと、ご自身でもわかっていらっしゃるのに(p5)。この「ゲーム」の感覚に対抗するために、本来ならば「論理」を攻撃するのではなく、情緒と論理の2つの力を両輪にすべきなのに。

 さて先ほど、「論理」に対抗するのはこの本では「形」の方だ、とも書きました。
 藤原さんはそれに関していじめの例を引きます(p62)。武士道精神にのっとって「卑怯」を教えないといけない、と説くのです。
 「卑怯」というのは、「駄目だから駄目だ」らしい。それを徹底的に叩き込むしかない、という。「いじめをするような卑怯者は生きる価値すらない、ということをとことん叩き込むのです」とまで力説します。もっとも、何が「いじめ」かについては触れられません。そうしてこの「駄目だから駄目」「ならぬことはならぬのです」(p48)という武士道精神的「形」を子供にまず押し付けなければならないと言うわけです。
 それは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけにも同じだそうです。「駄目なものは駄目」「以上終わり」だ、と。

 ところで、武士道というのは「人を殺す」ための教えです。ここでまたまたわからなくなります。
 藤原さんの「なぜ人を殺してはいけないのか」への答えは、藤原さんの敬愛する「武士道」精神では「駄目なもの」ではない。いったい、その「駄目なもの」の基準はどこにあるのか。「いじめ」もそうですけれど、それは時代や文化や場所によって異なるものなのです。普遍的な基準などない。だから懸命にそれを考えるのです。

 「駄目なものは駄目」という話を聞くと私はいつも「廊下を走ってはいけません」という小学校のときの規則を思い出します。小学校の先生というのはあまり深いことを教えてくれません。なぜ廊下を走ってはいけないのか? それは規則だから。なぜ喧嘩をしてはいけないのか、それは規則だから。なぜ人を殺してはいけないのか、それは規則だから。
 で、友だちが大けがをして先生を呼びにいくときも、走らずに歩いていく子供が生まれるのです。「なぜ」という「論理」を考え続けない限り、そうしたやさしい日本的「情緒」の生まれる土壌さえ作れないのです。

 人を殺してはいけない、これは論理ではない、と藤原さんは言いますが、これだって論理です。なぜ人は殺してはいけないのか、という反語は「じゃあ、殺してやろうか?」という反問を有効にするからです。すると自分が殺されてもよい状況が生まれます。そのとき、その自分は殺されるので人を殺すことができなくなります。だから人殺しは不可能なのです。「なぜ人を殺してはいけないのですか」と質問されたら、ですから「じゃあ、殺してやろうか」という答えが,論理的に必然的に待っているのです。
 それから先の論理は自分で考えてもらいましょう。

 では、武士はなぜ人を殺してよかったのか? それはなぜなら、自分が殺されてもよかったからなのです。もちろんそれはある一面ではありますが、それでもこれは1つの論理の導く1つの結論です。武士道もまた、じつに武士道的に論理的なのです。

 「駄目なものは駄目」というのが、じつは私はとても苦手です。生理的に駄目なのです。そういう意味ではまことに「駄目なものは駄目」は駄目です。
 というのも、それを認めると「理不尽」が通されてしまうからです。こういうことを書いている本を、たとえば同性愛者の人がすこしでも評価するというのはいったいどういうことなのかと考えてしまいます。

 ええ、ゲイの若い人たちの中にもこの本を賞賛する人がいます。同じ論理が、いや、ここでは物言いと呼びましょうか、「ゲイ」と呼ばれる者たちに向けて公然と抑圧として発せられてきた歴史を知っているはずの彼らが、この記述をスルーするのはなぜなのでしょうか? 「駄目なものは駄目」「気持ち悪いものは気持ち悪い」「罪なものは罪」。問答無用。そんな物言いを、認めるのですか? 私にはそれはどうしてもできない。

 藤原さんのこの本にはじつは政治や経済に関するごく基本的なことに関しての誤解や誤謬も数多くあります。まあ数学者だからしょうがないのかもしれません。しかし、この「駄目なものは駄目」に象徴される論の運びは私には看過できない。

 どうして若い人たちがこの本をよいと言うのか、その辺を考えると、なんだか日本人としての自分のアイデンティティをくすぐられるという、そういう昔ながらのエサが随所にちりばめられているせいではないかとも思います。
 はかないものに美を感ずるのは日本人特有の感性だというドナルド・キーン(p101)。随筆「虫の演奏家」で日本人は庶民も詩人だと書いたラフカディオ・ハーン(p102)。日本の楓は欧米のと比べて非常に繊細で華奢で色彩も豊かだと気づいて感嘆したフィールズ賞も貰っているケンブリッジ大学の数学の教授(106P)等々。
 なるほどこういうのは日本人として読んでいて心地はよいですが、でもそういうのは欧米人特有のお世辞なんですよ。

 英語の「コンプリメント」は日本語のお世辞と違ってウソの要素はないですが、強いて美点を探し出してそれを強調するのが基本。その分を割り引かずに真に受けて鼻の穴を膨らませるのはあまりに子供っぽい反応でしょう。もちろんこちらとてそれらに関する矜持はありますけれど、それは西洋人にお墨付きを貰わなくともよい。ふむふむ、と聞いているくらいでよいのです。そんな世辞で夜郎自大にならないこと、それこそ謙譲の美徳というものです。

 総じてこの本は、日本という国にもっと誇りが持てるような、あるいは誇りを持つことを励ますような記述にあふれているのですが、思うに日本人ほど自分の国を特別な国だと思っている(思いたがっている)国民はほかにいないんじゃないでしょうか? 逆に言えばどうしてこうも情緒だもののあわれだ武士道だ、といつも確認していなければ自信を持てないのか。どうして特別だと思わなければやっていけないのか。そのへんの自意識のさもしさが,私には品格に欠けると思わざるを得ないのです。

 「虫」の音を「ノイズ」と呼ぼう(101P)が、「サウンド」と呼ぼうが、バッハやモーツァルトやベートーベンやチャイコフスキーを生んだ「西洋人」の音楽性を否定するわけにはいきません。虫の音をノイズと呼んだくらいで、日本人の音楽性やもののあわれのほうがすぐれているとは、論理的にいってわたしにはどうしたって断言できない。儚さを包み込んだラフマニノフのもののあわれは、じゅうぶんに紫式部とも張れるものだと思うし、秋の日のヴィオロンの溜め息の身に沁みて、と謳ったベルレーヌだって、じゅうぶんにもののあはれではないですか。

 この「おあいこ」の感じ、これを大切にしたいのです。日本だけが特別で、すごいのではない。いや、すごくて特別なところはもちろんありますよ。私はそれは密かに自負もしてます。言えといわれれば日本の特別で素晴らしいところなど10や20はすぐにでも言えます。でも言わない。かっこ悪いもの。それに、同じように諸外国にもすごくて特別なところがあるって知っているし。その畏れを大切にしたい。私たちはその国の人じゃないからそれを知らないだけなのです。詳しくも知らないし、その感覚の基となる気候や文化や歴史だってそこに生きている人ほどには知りようもない。次元は違うかもしれませんが、いろんな国の人がみな自分の国や文化をそう思っているのだと思いますよ。そんな他者への畏れを、私はいろんなところに行きいろんな人に出逢っていろんな話を聞いて、持つようになりました。ジャーナリストをしていてよかったと思うのはまずそこです。しかも会社の金で世界中の人たちと会えたし、はは。
 以前にも書きましたが、愛国心、祖国愛というのはどの人にもだいたい共通のものです。そうしてそれは論理的でなくなり、感情的になるときにイビキに変わる。自分のは気にもならないが、隣のヤツのはひどく耳障りになるのです。

 この「国家の品格」は一事が万事この調子でした。きっと「欧米人」が読めたらイビキとか歯ぎしりとかの類いにしか聞こえないような。論の大前提がとても単純化された虚構なのです。先ほども触れたように、さらには藤原さんもご存じのように(p122)、もともとは鎌倉武士の戦いの掟である「武士道」というものと新渡戸稲造の説いた「武士道」とは違うものです。新渡戸武士道が大いなる虚構だというのはいまや常識なのに、それを敢えて前提に持ってきたのは数学でいう「前提が偽なら結果はすべて真」という論理を拝借した結果なのでしょうか。

 武士道に絡めて、もう1つ言ってよろしいですか?
 新渡戸武士道の最高の美徳は「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」(p124)だそうなんです。そこで差別に関して、藤原さんは「我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠の情をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道精神の中軸です。人々に十分な惻隠の情があれば差別などなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」(p90-91)といっていますが、この「惻隠の情」、主語はだれなんでしょうか? そう、武士です。
 敗者、劣者、弱者という人々は惻隠の情を持ち得ない。あくまで、惻隠の情を持ってもらう,抱いてもらう立場のままです。

 この武士道精神は、藤原さんが「非道」(p21)と批判している帝国主義・植民地主義とまったく同じ思考方法です。おまけに「人々に十分な惻隠の情があれば差別などなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」と言うその同じ口で、その2ページ前と7ページ前に、「国民は永遠に成熟しない」「国民は賢くならない」とも断言しているのです。
 頭がこんがらがってきませんか? この「国民」と「人々」とは別な存在なのでしょうか? 「人々」とは武士的な人、のことなのでしょうか? まさに、選ばれてあることの恍惚。でもそこに不安はないようです。

 藤原さんの言い方では、武士だけが主語になれるのです。オンナ、コドモやオカマやカタワは常に「惻隠の情」の目的語の位置から逃れられない。そんな定型な「形」は、押し付けられても困ります。万物は流転するのです。日本的情緒の権化である鴨長明だってそういっている。

 私はいまの日本に欠けているのは(そしてこの本にも欠けているのは)むしろ丁寧な論理の紡ぎ方の教育だと思っています。だいたい論理というものが日本で人気のあったためしはありません。面倒くさいですからね。それに対して、情緒という言葉の響きの、なんと情緒的で安易なことか。受けるはずです。

 この本は、じつは第4章以降はまともすぎるほどにまともです。筆者の説く「徹底した実力主義は間違い」「デリバティブの恐怖」「小学生に株式投資や英語を教えることの愚劣さ」「ナショナリズムは不潔な考え」などの結論はまったくもって私の考えと同じです。
 ですがそこに辿り着くまでの論の運びは、私には大いなるブラックジョークとしか読めませんでした。もっとも、その一人漫才ぶりがこの本の売りなんでしょう。

 そういうことです。

 ずいぶん長く書きました。それもこれも、こんな本に簡単に感動しているきみに、私の思いを伝えたかったからです。この本は、ぜひジョークとしてお楽しみください。そうすればまあ可笑しいし、随所で何度かは吹き出したりもできます。
 以上、終わり。

February 08, 2006

懐妊、懐胎、妊娠

 国会での小泉の驚きようったら、あれは本当に知らなかった顔でした。
 彼のところに情報が集まっていないということ。これはなにかの象徴でしょう。
 なんの象徴か。

 先週末のことです。3日の共同電を引きましょう。
 見出は「閣内からも慎重論 皇室典範改正、難航も」でした。
**
 女性、女系天皇を容認する皇室典範改正案をめぐり、3日午前の閣議後記者会見で一部閣僚から「しゃにむにやらなければいけない法案か」(麻生太郎外相)などと、慎重論議を求める声が出された。(中略)麻生外相は「男子皇族が生まれないかのような前提で話をしている。もう少し議論が必要だ」と指摘。(後略)


 毎日はもうちょっと詳しい。
 「外相と財務相が慎重論 反対派が勢い?」として
**
 谷垣氏は「天皇の地位というのは日本国民統合の象徴だから、今国会であろうとなかろうと、じっくり議論して、すんなり決まるように運ぶのが望ましい」と述べ、意見対立が残ったままでの改正に慎重な姿勢を示した。谷垣氏は1月17日の会見で「女系天皇を決断すべきではないか」と改正案に賛成の意向を表明しただけに、慎重論に方向転換したとみられる。
 さらに、中馬弘毅行革担当相は「まだ雅子さまも、紀子さまだって男の子を懐妊される可能性が十分あるのに、なぜ急ぐんだという慎重論がどの派閥にも出ている」(後略)


 この時点で、永田町の風向きがシフトしたのです。どうしてこうも一斉に? それはつまり紀子さんの妊娠の情報が、然るべきところに回されたということに他ならない。これがしかし、小泉には届いていなかった。これは何を象徴しているのでしょうか?

 昨日のニュース画面で、メモを差し出されて驚き顔の小泉に対して、官房長官の安倍は後ろから覗き込むようにして表情を変えなかった。つまり彼も知っていたっぽいですな。

 麻生が知っていた、ということは秋篠宮→寛仁→麻生の線でしょう。麻生の妹は寛仁の奥さんですからね。秋篠宮と寛仁親王はヒゲつながり、ってわけじゃなくて。

 6週ということは先月下旬にはわかってたってことでしょう。それでその情報が麻生や安倍に流れたということはつまり、皇室典範改正への慎重派=反対派へのリークということで、皇室典範改正論議にブレーキをかけるということになる。つまりこれが皇室筋の“意向”ということに。ってことは、秋篠宮の後ろには天皇がいるのかしらねえ、やっぱり。
 「女系・女性容認は天皇陛下の意思ではない」っていうのは、寛仁がいろんなところで繰り返していたことですし。
 これが宮内庁筋なら、とうぜん小泉周辺が知っているはずですから。

 なんだか話がややこしくなってきましたね。ポスト小泉をにらんで、これではすでに情報合戦、政争の具だ。

 ところで、皇室典範改正論議は「第3子の誕生を待って」という論理、すっごくおかしいんですけど、だれも言わないのはどうしてでしょう。

 「男系」というのはとうてい無理がでてくるし,そもそも女系であっても女性であってもかまわないんじゃないか、といってきた世論も、とどのつまりはそれはそれ、次善の策だったのよということで、けっきょくは「男系」がいいってことなんですねー。あるいは「変わらないのが一番」という。それにしてもまるで第3子がすでに“健康”な“男児”であるかのような浮かれよう。はしたないというかなんというか。

 これはなんとも失礼な話です。皇室にとってではなく、私たちにとって。これはとんでもない話なのです。
 天皇制が差別構造の元凶だという、懐かしい理論を思い出しました。ヨーロッパで荒れているマホメッド冒涜の抗議の輩たちの崇拝も、似たようなものかもしれません。

January 30, 2006

少数者マーケットとは何か?

 身障者用の駐車場や客室を用意して建築基準を満たしてから、完了検査にパスすればすぐにそれらをつぶし、一般客用の施設に改造してしまう。「東横イン」という誰もが知っているホテルチェーンがやっていたことは、マイノリティ・マーケットに対する社会と企業のあり方を考える上でじつに示唆的です。東横インの西田憲正社長は記者会見で「身障者用客室を造っても年に1、2人しか来なくて」「使わないものはいいんじゃないのという感覚はあった」とうそぶきましたが、はたしてそれは本当なのでしょうか。

 ニューヨークに暮らして気づくことは、街なかでの車いすの人の多さです。90年代にバスはすべて車いす対応型に変わりました。地下鉄は施設自体が老朽化していますが、現在、主要駅のほとんどでエレベーターを新設して車いすの人も利用できるようになりつつあります。こうしたインフラが整備されてきて初めて、身障者たちの存在が目に見えるようになります。そういう設備がない状態では、それこそ「年に1、2人しか利用しない」わけで、だから「使わないもの」は「必要もない」という論理に落ち込んでいきます。

 この場合、マイノリティ側は自らアイデンティティ意識を高め連帯して企業や社会に自分たちのマーケットの存在をアピールしてゆくべきでしょうか。それはそのほうがいろいろな意味で好ましいのでしょうが、「してゆくべき」となるとなんだかちょっと違うような気もします。逆に考えて、「してゆかなければそのままでいいのか」というとそれは違うからです。しなくたってしてゆかなくてはならない。だいたい巨大マーケットとされる主婦層やギャル層やサラリーマン層が自己同一性を高めて連帯しているなんて話は聞いたこともないし、なんで少数者たちだけがそういう努力を必要とされるか、そんなのは理屈に合いません。そういうマーケットへのアプローチと掘り起こし、育成するは第一義的には企業と社会の側にあるのだと思うのです。巨大ではなく顕在化していないマーケットの存在にも気づかせる、そのための触発は与えるにやぶさかではないけれど、そのために身障者たちの側が必要条件として何かを「しなければならない」という物言いは、あなた何様なの、という感じなのです。

 ホリエモンの登場時、「会社は誰のものか」ということが議論にもなりました。もちろん会社は株主のものです。ただし、その株主の利益を保証するためには、その会社の存在する場に健全な社会が形成されていなければなりません。そのためには会社の利益は単なる株主だけではなく、従業員やその地域社会の構成員にも還元されていかなくてはならないのです。こうして、ステークホルダーの概念には株主だけではなく、広義にその会社や社会の構成員も含まれるというのが私の思うところです。企業はすでに個人的な利益追求の場だけではなく、高度資本主義社会にあっては社会全体の利益追求の道具でもあるのです。そしてその社会全体の中には、もちろんマイノリティも含まれる。

      *

 翻ってゲイ・マーケットについて考えてみましょう。欧米のように言挙げを旨としない日本社会では、マイノリティの言挙げもまた少ない。アイデンティティなどという概念も言語化の問題と関係しますから希薄かもしれません。だからといってゲイ・マーケットは存在しないというのは前段までの身障者の例をとっても誤りですし、日本ではゲイ市場は育たないとかいうのも東急インの社長のような「何様」な物言いでしょう。ゲイ・マーケットはそんなのとは別のところで、当事者であるゲイ(LGBT)の思惑や気力とは別のところで、第一義的には社会と企業の側から形作られなければならないもののはずです。主婦マーケットのように、老人マーケットのように。

 なんでまたこんなことをここに書くのかというと、バディの3月号に伏見憲明さんがタワーレコードによる「yes」というLGBT向け新雑誌の創刊に触れつつ、「日本におけるゲイは、時代が進んでも、いわゆる『ゲイマーケット』を形成するような層としては成り立ちえないように痛感してきたのだ」と書かれていたからです。

 なーに、御大、そんなに悲観なさることはありやせんぜ。いや、いっているのは悲観ではないか。では言い方を変えれば、これはそんなに痛感すべきようなことでもないのです。それこそこちら側はのんびり構えていたって一向にかまわないのですから。主婦マーケットのように、老人マーケットのように。

 私はこれまで、マイノリティの解放運動はじつはマイノリティのためだけではなく、より多数という意味においてはより重要に、マジョリティを真っ当に解放するための運動なのだ、ということをいってきました。つまりゲイ市場の創出も確立も育成も、ゲイのためにというよりはこの社会全体の幸せのために必要なことで、結果、LGBTたち自身も全体の一部として幸せになる、という図式です。

 そりゃこの時代のこの日本、さまざまな手段や考え方1つで、マイノリティであってさえもハッピーな感じはなんとなく手にできるかもしれません。それが流行語のようによく言われる「緩い」幸せでもべつに問題はない。それは処世でしょう。それはそれでいいのです。だが、問題はそこではないのです。問題は、それではマジョリティの側のどうしようもなさ、この日本社会の脳天気さはなにも変わらないということなのです。せっかくマイノリティ問題を梃子にしてよりよい全体を築きたいというのに。

 車いすの人や目の不自由な人たちだって緩い幸せくらいは、いや熱い幸せだって持っているかもしれません。しかし、だからといって「それでいいんじゃないの」と東横インの社長が言ってしまうのは筋違いでしょう。

 マーケットというのはその構成員の努力によって形成されるものではありませんし,思惑どおりに形成できるものでもありません。あくまでもマーケター側が利益を上げようとする際に、十把一絡げのように投網を打って消費層をまとめあげ刺激できたらずっと簡単で経済的で効率的だということで出来上がった概念なのです。ですからLGBTをまとめあげてマーケットを形成するのは第一義的に企業の側なのです。われわれ消費者としては、さあまとめあげてよ、そうしてくれればちゃんとカネも落としてあげるよ、というもんです。最終的には互助的なんですがね。

 そういう文脈においてLGBTマーケットを考えてみる。それへのコミットメントについても。それが今回の東横インの身障者用施設改造事件の教えでもあると思います。

January 25, 2006

ホリエモン・ザ・トリックスター

 今年最初の書き込みですね。年末年始は日本でした。帰米は23日。まだ昼夜逆転状態です。さて、自宅に帰ってウェブサイトをチェックしてホリエモンが逮捕されたことを知りました。任意の1日目の事情聴取から即逮捕とは、特捜部も珍しいことをやります。株式市場の思惑による混乱を避けるためにも先手を打つ必要があったのでしょう。同時に、容疑がことのほか固いのだとも思います。だがそれだけなのでしょうか。

 昨年2月のニッポン放送株取得騒ぎのとき以来、ホリエモンはこの時代の日本のトリックスターなのだと言ってきました。トリックスターとは英語で詐欺師のことですが、そうではなく文化人類学的な「いたずら好きの秩序破壊者」という意味においての願いを込めて。

 世界中の数多くの神話に見られるトリックスターたちはときどき人間社会にふらりと訪れては道化と茶目っ気でもって既成の権威をからかい、硬直した文化や規律を掻き乱して去って行きます。彼の残した破壊のあとには新たな秩序がまた産まれる、そんな契機をもたらす存在として。

 ただしトリックスター自身が新たな秩序になることはありません。彼はあくまでも触媒、反テーゼであってメインストリームには参画しない。そういう文脈で考えると彼の語録はいちいち説得力を持って既成概念に迫ってきます。

 いわく「われわれは新聞やテレビってものをこれから殺していくわけです」「人の心はお金で買えるんです」「僕は老人になるつもりはない」。こうしたセリフに読売のナベツネ御大やらフジの日枝会長やらが苦虫噛み潰した顔をしてマジに切れているのを目にできたのは、本筋からは離れていたもののなんだかとても興味深いものがありました。その上で、煮詰まっている感のある日本社会に結果として新しい風穴が生まれればよいとも真に願ったのです。

 しかし一方で私の周囲の若者たちからはライブドア本体のその企業姿勢に関する不満も聞こえてきていました。買収したブログサイトのアフターケアをまったくしないだとかろくなソフトを開発していないだとか、看板のはずのITは実体が薄く、ほとんどM&Aのための法人であるということは彼らには端からわかってもいたのです。

 思えばその夢が「時価総額世界一の企業」。なるほどITなんぞではすでに勝ち組は上につかえていて儲けは限られる。高級寿司店の「時価」ほど恐ろしいものはありませんが、ならば味とか腕前とか売上とか収益とかの実体ではなく、ゲームでどうとでも上下しそうな株価の「時価」を相手にすればよい。それが彼の関心でした。つまり、神話的トリックスターとしての派手派手しさを利用しながら、彼は現実社会の本流に入り込もうとしたのです。

 それは不可能なことです。なぜなら現実社会のトリックスターは「詐欺師」に成り下がり、そんなトリック使いは殺されてしまうからです。

 「ホリエモン・ザ・トリックスター」の物語はいま最低のシナリオを迎えています。
 読売のナベツネさんとつながりのある平松庚三氏がライブドアの新社長となり、フジの日枝さんはライブドアの株を勝手に手放すことができるようになって見るからに嬉々としている。株の持ち合い契約の条件に堀江氏が社長でいることという条項を紛れ込ませていたというのですから、この逮捕劇は和解時にはすでに織り込み済みだったのでしょう。巨大な政治問題であるはずの耐震偽装マンション事件だって肝心の国会喚問の詳細報道がガサ入れで吹っ飛び、既成の権力たちはまさにそろって「破壊」を免れているのです。沖縄で見つかった元幹部の“自殺体”の不可解さも合わせて(首に刺し傷とか、自殺なのに非常ベルを鳴らしたとか、報道の混乱の真相はいったい何なのでしょうか)、これはとんでもなく恐ろしい話です。

 既成の秩序の破壊もできず、ただの出過ぎた杭として、後生に見せしめの効能しか残せずに埋没させられようとしているホリエモンが、もっと確信犯的に神話的トリックスターであってくれていたらと、なんとも残念でなりません。

October 24, 2005

取材源の秘匿

 NYタイムズなどによるCIA工作員漏洩事件が大きな政治問題になってきました。ともするとチェイニー副大統領の辞任にも結びつきそうな雰囲気です(希望的観測)。しかしこれは最初からおかしな事件でした。

 発端は一昨年夏、アフリカ・ガボンの米国大使の妻がCIAのスパイだと報じられたことです。最初からおかしかったというのは、CIAのスパイであるという事実を報道することに何の意味もニュース価値もないからでした。いったいそんなニュースが誰の得になるのか、何のためになるのか、まったく意味をなさなかったからです。

 そこでわかってきたのは、この奥さんの夫である米国ガボン大使ジョセフ・ウィルソン氏が、ブッシュ政権がイラク開戦の理由だった大量破壊兵器疑惑を「脅威を誇張して事実をねつ造した」と批判していたという背景でした。ここで初めて利害関係が見えてきたのです。ウィルソン氏の奥さんがスパイだと露呈すれば著しい生命の危険にさらされる。つまり、政権批判への報復のために、肉体的・心理的嫌がらせをねらってホワイトハウスが意図的かつ巧みにそのスパイの人定情報をリークしたのではないか、というものでした。

 思えば、タイムズ記者のジュディス・ミラーが情報源の秘匿を盾に証言拒否で収監されたときも、米メディアはなにかが歯に挟まっているようなかばい方をしていました。なぜならこの場合、情報源を隠すことで守られていたのはブッシュ政権そのものの方だったわけですから。もともとの記事だって、前述したようにニュース価値のないものだったのですから。ふつうはそういう情報を握ってもまともな記者なら書きはしません。脅迫事件に加担するようなもんですもの。

 手元に文藝春秋の9月号があるのですが(芥川賞の発表があったのでそっちが目的で買ったのです)、ぐうぜん面白いものを見つけました。いつもはメディア批判で筆鋒鋭い「新聞エンマ帖」の欄が「取材源の秘匿が揺らいでいる」と題してとんでもない勘違い原稿をさらしているんですね。

 「ジャーナリストならば、情報提供者の秘密を守るため、その名前を明かしてはならないことは誰でも知っている」として、これを「最も重要な職業論理」と書いているのはいいのですが、ミラー記者の収監に関して日本の新聞はみな「対岸の火事的な報道に終止した」として「悪しき日本の新聞の習性を見る思いがした」と筆を滑らせるのです。

 エンマ帖氏は「仮に権力によって取材源の秘匿が否定され、ジャーナリストがそれを守らなくなれば、人々のジャーナリズムへの信頼は地に堕ちる」と説き、「日本のジャーナリスト」は「だが、いざという時、果たしてニューヨークタイムズの記者のように行動できるのか」と心配してくださっている。

 しかし事の顛末は逆でした。タイムズのミラー記者のように行動してしまえば、権力こそが取材源の秘匿によって守られ批判に頬かむりしていられるのです。ミラー記者ほか一連の漏洩情報の報道者たちはいずれも大量破壊兵器疑惑にも簡単に乗って検証もなく記事を大量生産し米国民の開戦意識をあおった、ブッシュ政権のいわゆる“御用記者”だったのです。

 これは情報漏洩事件ではなく、政権中枢である大統領補佐官カール・ローブや副大統領補佐官ルイス・リビーをリーク源とする、人命をも顧みない冷酷な情報操作と報復の事件でした。権力者の思い上がりも甚だしい、じつに恐ろしい話です。

さてブッシュ政権がどう後始末をつけるか。
チェイニーは辞めるのか。
政権末期のレイムダック化が進むのか。
これからいろいろと展開があるでしょう。

October 18, 2005

小泉靖国参拝NYタイムズ社説

NYタイムズの本日の社説でした。
かなり厳しい論調ですな。ま、リベラルですから、タイムズは。

それにしても、「右翼国粋主義者が自民党のかなりの部分を構成している」とか、「靖国は神社とその博物館で戦争犯罪を謝罪していない」というのは、なかなか正確で明確な意見です。

靖国が戦争を謝罪していないのは、死んだらみんな神様だからってわけでしょうかね。あそこの従業員たちはけっこう過激です。国家護持を狙っているくらいですからね。ものすごい政治力ですもの。

***
October 18, 2005
Editorial 社説
Pointless Provocation in Tokyo
東京での意味をなさない挑発行為

Fresh from an election that showcased him as a modernizing reformer, Prime Minister Junichiro Koizumi of Japan has now made a point of publicly embracing the worst traditions of Japanese militarism.

近代的改革者としての姿勢を見せつけた選挙から間もないというのに、首相小泉純一郎が今度は日本の軍国主義の最悪の伝統の公的な保持者であることを明らかにした。

Yesterday he made a nationally televised visit to a memorial in central Tokyo called the Yasukuni Shrine. But Yasukuni is not merely a memorial to Japan's 2.5 million war dead.

彼は昨日、全国放送される中、東京中心部にある靖国神社という追悼施設に訪問した。もっとも、靖国は日本の戦争犠牲者250万人を祀っているだけの施設ではない。

The shrine and its accompanying museum promote an unapologetic view of Japan's atrocity-scarred rampages through Korea, much of China and Southeast Asia during the first few decades of the 20th century.

同神社とその付属博物館は、20世紀初頭の数十年間、韓国朝鮮全土と中国・東南アジアの多くで極悪非道と恐れられた日本の残虐行為に関して悪びれることのない史観を標榜しているのである。

Among those memorialized and worshiped as deities in an annual festival beginning this week are 14 Class A war criminals who were tried, convicted and executed.

今週始まる例大祭で神として祝われ崇められる中には、裁判にかけられ有罪になり処刑された14人のA級戦犯も含まれている。

The shrine visit is a calculated affront to the descendants of those victimized by Japanese war crimes, as the leaders of China, Taiwan, South Korea and Singapore quickly made clear.

この神社参拝は、中国、台湾、韓国、シンガポールの首脳たちがすぐさま明確に指摘したとおり、日本の戦争犯罪によって犠牲になった人々の子孫への、計算ずくの侮辱である。

Mr. Koizumi clearly knew what he was doing. He has now visited the shrine in each of the last four years, brushing aside repeated protests by Asian diplomats and, this time, an adverse judgment from a Japanese court.

Mr.小泉は自分が行ったことを明確に認識している。彼はこの4年間、繰り返されるアジアの外交官たちの抗議を軽くいなし、さらに今回は日本の司法の違憲判決をも無視して、毎年この神社に参拝してきたのだから。

No one realistically worries about today's Japan re-embarking on the road of imperial conquest.

現実問題として、だれも日本が再び帝国主義的覇権の道を進むだろうなどとは心配していない。

But Japan, Asia's richest, most economically powerful and technologically advanced nation, is shedding some of the military and foreign policy restraints it has observed for the past 60 years.

しかしこの、アジアで最も裕福な、最も経済力を持ち技術的にも進んだ国家である日本は、過去60年間遵守してきた軍事的・外交的歯止めのなにがしかを切り捨てようとしているのである。

This is exactly the wrong time to be stirring up nightmare memories among the neighbors. Such provocations seem particularly gratuitous in an era that has seen an economically booming China become Japan's most critical economic partner and its biggest geopolitical challenge.

近隣諸国にあの悪夢の記憶を掻き回すのに、いまはまことにふさわしくない時期だ。このような挑発は、とくに経済的に急発展中の中国が日本の最も重大な経済的パートナーかつ最大の地政学的難題になりつつある時期にあって、まったく根拠のないものと思われる。

Mr. Koizumi's shrine visits draw praise from the right-wing nationalists who form a significant component of his Liberal Democratic Party.

Mr.小泉の同神社参拝は、彼の自民党の中でかなりの部分を構成する右翼国家主義者たちの賞賛を引き出した。

Instead of appeasing this group, Mr. Koizumi needs to face them down, just as he successfully faced down the party reactionaries who opposed his postal privatization plan.

このグループの要求を受け入れるのではなく、Mr.小泉は彼らを屈服させるべきなのである。ちょうど彼の郵政民営化案に反対した自民党反動派の連中を成功裡に屈服させたように。

It is time for Japan to face up to its history in the 20th century so that it can move honorably into the 21st.

名誉とともに21世紀に進んで行くために、日本はいまこそ20世紀の歴史を直視すべきなのである。

September 21, 2005

ご無沙汰

サーバーがダウンしていて、ずっと書き込みができませんでした。
その間にも日本の総選挙やらカトリーナの顛末やらいろいろなことがあったのですが、なんだか機を失してしまいました。

ただ、カトリーナの被害を見ていると、都市の衰亡の新しい形を見ているような気がするのです。アメリカはこれまで鉱山や鉄鋼や自動車産業の町のゴーストタウン化を経験してきました。が、中心気圧が904ヘクトパスカルというこの驚異的なハリケーンは、ニューオリンズの半数以上の被災者にもうこの街には戻りたくないと思わせているようなのです。たしかに復興ままならないうちに再び同じようなハリケーンが襲ってきたら(あるいは来年、再来年でも)この数字はもっと増えるでしょう。といっているうちに、リタが襲っているのですが。

カトリーナは沿岸部でさえ海水温が32度だったというメキシコ湾内の異常なエネルギーを吸収して発達したのでした。

カエルを水から茹でると(ってすごい実験ですが)気づかずにいつまでもじっとしているので最後には茹で上がって死んでしまうそうです。本当にそうなのか、なんとなく嘘っぽいのですが、ただし危険というのはそういうものかもしれない、という感じはします。

カトリーナがそのまま地球温暖化の兆候なのか私にはわかりません。ただ確実に地球環境はその方向で変わっていくはずです。産業構造の推移ではなく、自然環境の変化による町の放棄という事態の、これが米国での、目についた最初の例だったということにならなければよいのですが。
    *
ところで10年前に中西部一帯の大洪水を取材したことがあります。その際はいま批判の矢面に立っているFEMA(連邦緊急事態管理庁)が行く現場現場で活躍していて、州兵や民間ボランティアの活動をあまねく統率していて見事でした。

クリントン政権下での当時のFEMAは閣僚級の長官を擁した大きな組織でした。それを9・11以降のブッシュ政権が国土保安庁の傘下において権限を縮小し、大幅な予算カットと人員削減を行ったのです。

そこを攻めているヒラリーら野党民主党を見ていて、ふと日本の民主党のことが気になりました。沈滞気味とはいえアメリカの民主党は人権、福祉、外交、財政問題など共和党との違いがもっとわかりやすい。ところが日本の民主党は、惨敗した選挙前の話だけではなく43歳の前原某が代表になって、憲法9条の改正問題などなんだか言っていることがますます自民党に似てきた。

戦争なんて日本は絶対にやらないと思っていたのですが、最近はどうも違ってきたかもしれません。「いつまで北朝鮮に好きなこと言わせてるんだ」というイライラした層が確実に増えていて、そのあたりの無党派層が「変革攻撃型」の小泉さんや安倍さんを支持しています。すると先制攻撃型のミサイルを持てという世論まであと少しの距離なんじゃないかという疑心暗鬼まで生まれます。「戦争じゃない、自衛だ」という論もありますが、戦争はいつも自衛の論理で始まる。だから第9条があったはずなのです。
    *
われわれは愚かなカエルか、それとも心配症の炭坑のカナリアか。それがわかるときにはそれにはもう何の意味もないのですが。

September 01, 2005

カトリーナと日本企業

そろそろこちらの企業のHPがお見舞いページ、寄付募集の呼びかけページに書き替わりはじめました。
9.11のときもそうでしたが、日本企業のこういうときの反応が鈍い。
インド洋津波のときも同じアジアのことなのにまだまだ遅くて欧米企業の後塵を拝したのです。
その都度言っているのですが(たしかここでも書いたか)、ソニー、トヨタ、日産、ホンダあたりの米国進出企業はいますぐにでもHPを書き換えるべきでしょう。
これは危機管理の一環です。

あ、いま見たら、トヨタとホンダはカトリーナへの見舞金を行ったことを今回は早くもHPで出してる。
そうそう、こういうのはタイミングですものね。

August 31, 2005

死者の代弁者

 ブッシュへの支持率がじわじわと40%にまで下がってきて、不支持の56%とともに最悪を記録しています。再選を果たした大統領というのは戦後ではウォーターゲート事件の渦中にあったニクソンを除いて、みな2期目のこの時期には60%ほどの支持率を維持していましたからこれは“異常事態”。これにはイラク戦争で米兵の息子を失い、テキサス州の大統領私邸近くで連日反戦と米軍撤退を訴えているシンディ・シーハンさんへの共感が広がっていることも影響しているのでしょう。

 そのシーハンさんの抗議活動に対してブッシュ共和党支持者のある男性が「戦死した息子は彼女を恥じているだろう。政府に反対なら4年ごとの選挙で不信任の意志を示せばいい」と言っているのを目にして、この夏の日本での靖国問題を思い出しました。靖国に関しても死者たちの思いを生きている者たちが代弁してかまびすしかった。

 死者は何を思っているのか、それを言葉にするのはおそらく不可能でしょう。靖国でいえば軍上層部の無謀な作戦で餓死した兵士たちの無念もあれば、殺したくもない非戦闘員を命令で殺さざるを得なかった人間としての恨みもあるに違いない。そうした彼らが合祀されたA級戦犯を赦すのかどうかはわかりません。生きている現在の日本人がそんな“英霊”たちを一緒くたにして「日本では死ねばみんな神様だ」と急に宗教じみるのも節操がないように見えます。

 しょせん死者の代弁は、死者を代弁しているのではなくて生者の声に過ぎないのでしょう。もっともその生者も、いつか死者になるものとしてのそのときの自らの代弁者として。

 ただしいくら自らの代弁だからといって、イラクで戦死した息子が反戦活動をする母親を恥じているかどうか、それは他人が言ってはならないことのように感じます。今回のブッシュ不支持率の増加もイラク反戦の気運の高まりというよりは、この母親シーハンさんへの批判をこれまでと同じく単純な、正義か悪か、敵か味方か、の二元論で片付けようとするブッシュ支持派の相変わらずの論調に、そろそろ中間派がウンザリしてきた、そんな世論が背景なのではないかと思われるのです。

 さて日本はどうなのでしょう。郵政改革の是非の二元論だけでも単純すぎるのに、今回の総選挙の日程を9月11日に決めた理由を「なにしろ同時多発テロの記念日であるから」「参院議員の反対派の同時多発に我々は巻き込まれてビルから転げ落ちたような格好でございますから」と明かした自民党の山崎拓前副総裁の無神経(http://www2.asahi.com/senkyo2005/news/SEB200508290007.html)を、私はあのテロ死者たちの目撃証人として、直後のユニオンスクエアに参集した夥しい追悼者の1人として、文字どおり吐き気を覚えるほどに恥じるのです。

 しかし“保守派”と呼ばれる人々に、国の違いを問わず、こうして情け知らずの発言が繰り返されるのは、いったいいかなる心理的メカニズムが働いているのからなのでしょうか。

August 07, 2005

小泉解散?

弟の四十九日法要のためまた帰省中です。ところが今夏の北海道もまるで北海道じゃないみたいに暑い日が続きます。おまけに尋常じゃないほど蒸すんだ。まいったね。

弟の息子である4年生の甥っ子が夏休みにどこかに行きたいというので土日を使って高校時代の友人たちを呼び出し、積丹半島の海水浴場に一泊のキャンプをやってきました。ちょうど同じ年齢の子供もいてね、カニや貝やエビなんかも捕まえて大喜びしてましたわ。食事はジンギスカン。翌朝は隣のテントからお裾の牛肉処理のためにビールでシチューつくったらこれまたうまかった。甥っ子ははしゃぎ疲れで帰ってくる車の中ではもちろん爆睡。私は茹でガニみたいに日焼けで真っ赤です。いま体が火照って起きだしてきたところ。庭のキュウリをすりおろしてヘチマコロンの代わりに顔や体に塗ったくったところっす。これ、けっこう効きますよ。

さて本日は小泉解散の日ですか。
わたしが小泉だったら解散はしないと思うんだけどね。

解散総選挙って、総理が信念の正否を問うものだけど、解散総選挙になって、「小泉の信念やよし」とする者がどういう投票行動に出れば「よし」ということになるのか、それがまったくわからないでしょ、今回。
小泉支持だから自民党に入れる? それは郵政法案をつぶしたところへのミソも糞も(失礼)いっしょの投票行動ですよね。たとえ亀井一派が新党を作って戦うと言っても、当選後は自民党に戻るって言ってるんだから同じこと。

つまり、解散総選挙をしたって小泉支持、郵政民営化賛成の意思の表明のしようがないわけですよ。そんな選挙なんて、小泉にとってはやるだけおかしい。それでもとにかく選挙ではぜったいに自民党批判票が増えるでしょ。そうすれば、結局は自民党敗北=下野の責任も小泉が自分で取ることになってしまう。 おかしいやな、そりゃ。

そんな損な役回りを彼がやるかなあ。 森は「変人以上だ」って言ったらしいが、それとは別の意味で、総選挙をやるってのは「変人以上」ですわね。

わたしなら辞職しますね、総理も総裁も。「いつも言ってたでしょ、総理総裁の職に恋々としないって。私の腹を、わかってなかったんだなあ、みなさん」とか言ってさ。

そんで次の総裁総理が自民党から出てくるわけですよ。
すると支持率15%ですよ。
するとそこでこそ総選挙だ。
そうやって下駄を預けてから、自民は総選挙敗北ですよ。小泉を辞めさせた党ですからね。ここで初めて郵政民営化賛成、小泉支持の投票行動が現れる、表し得るわけでね、結果、その敗北の責任を自分とは別物になった自民党に取らせることになるわけですよ。
そんでもって、郵政民営化公約毀損の鬱憤を、もう1つのかねてからの公約、「自民党をぶっ壊す」の成就で晴らすんだなあ。

そんなこと、どこの新聞も書いてないが、そういうシナリオ、あるんじゃないですかね。ま、あと十数時間でわかることですが。

June 02, 2005

傭兵、反日、第9条

 こちらに帰ってくる間際、イラクで負傷・拉致されたという齋藤昭彦さん(44)が死亡したという情報が流れました。それ以後、その話はどうなったのでしょう。日本政府は、齋藤さんのような存在に対してどういう立場を取るのでしょう。それとも、死んだままで終わりなのでしょうか。ここまで届くニュースにはそのへんのことはまったく触れられていません。

 やまぬばかりかいまもなお激化する自爆テロに、イラクでは米英軍も自兵の犠牲者を出してはならじと、自軍を第三国の傭兵部隊に守らせるというなんとも倒錯的なやり方を採用しはじめました。英国系“警備”会社の齋藤さんはそんな中で襲撃され拉致されたのです。

 日本では齋藤さんを「ボスニアでも活躍した傭兵」「フランス外人部隊にも所属」と、なんだか奇妙に思い入れがあるような、あるいは“超法規的”な存在への興味を拭えないような伝え方をしていました。
 「警備会社」に勤務の「警備員」といいますが、戦時における、しかも前線における警備員とはあるしゅの兵力に他なりません。それを「傭兵」と呼びます。
 しかし「傭兵」というのは国際法上では不法な存在なのです。戦争とは国家間にのみ存在し、その国家の正規軍のみが武力の行使権を有します。相手が撃ってきたときに撃ち返す正当防衛はだれにも認められますが、傭兵は私兵であり、人を殺せばテロリストと同じであって超法規的な存在ではない。傭兵が作戦行動として相手を殺害したらこれは殺人罪が適用されます。傭兵に法的な後ろ盾はありません。ジュネーブ条約で認められる「捕虜となる権利」も持っていません。ただ現実として、戦争の混乱の中で罪の有無がうやむやにされるというだけのことなのです。

 いやそれよりもなによりも「戦争の放棄」を謳う憲法を持つ国の国民として、齋藤さんは二重の意味で私たちとは異なる。もし彼がいまも日本国籍を持つ日本国民だとしたら(それは確認されています)、齋藤さんは日本憲法にも国際法にとっても「背反者」なのです。はたしてその認識が、私たちにあるのかどうか。彼には、ぜひ生きて還ってきてほしかった。そしてその特異な存在の、この世界でのありようを、ぜひわたしたち日本人に突き付けてほしかった。そこで明らかになる「日本」と齋藤さんとのねじれを、わたしたちの次の思索のモメンタムにしたかったのですが、政府も、報道も、そのへんについてはすでに終わったものとして扱っているような感じです。
             *
 ところで、アメリカの軍隊もじつは傭兵みたいなものだという意見があります。裕福な白人層はもう従軍などせず、米軍ではイラク開戦前は黒人が24%を占めていました。イラクでの犠牲者が増えるにつれ現在ではそれが14%にまで落ちていますが、ブッシュ政権はボーナスや傷痍金・死亡手当の増額など、金銭的報奨によって兵員志願を“買おう”としているというわけです。
 米国籍を持っていない者でも米軍には入れます。少しは国籍取得に有利になるのでは、という不法移民の心理にも働きかける策ですが、正規軍とはいえ、これでは傭兵「外人部隊」と同じでしょう。さらにテレビで連日放送される新兵募集のCMでは、教育を受けていない若い白人らも取り込もうと「軍で教育が受けられる」「資格が取れる」などの利点を強調します。しかしこうした“未熟”な米軍の存在がまた“プロ”の傭兵の新たな必要性を生むわけで、これらはもう戦争というものの構造的などうしようもなさの連環のような気さえします。
            *
 国連安保理の常任理事国入りを目指す日本に、お隣り中国・韓国の「反日」「抗日」の気運が根強かったのも日本で感じたことでした。
 直接の理由は小泉さんの靖国参拝と竹島領有などに関する教科書記述問題でした。それが第二次大戦中の話にまで及び、日本への警戒心までがまたぞろ出てきていました。そんなものはもちろんなんの根拠もない(はずな)のですが、そのときの日本側の“釈明”がどうも小手先のものに見えて仕方がありませんでした。

 私たちは戦後60年、「平和国家」としてやってきました。先ほども書きましたが世界でゆいいつ「戦争の放棄」を謳う憲法を持ち、60年ずっといちおうは平和外交を展開してきました。それは中国と韓国を説得するときの最も本質的な論理なのだと私には思われます。

 もっとも、それは軍事活動をとらざるを得ないことのある国連の安保理常任理事国に入る資格としてはそれは矛盾になりますが、しかし中韓を説得するときになぜ誰ひとりとして現存の憲法9条を持ち出さないのか、私にはどうしてもわかりませんでした。自民党は憲法9条に恥じるような、あるいは憲法9条を恥じるようなことしかしてこなかったからでしょうか。
 きっとそうなのでしょう。

 現代の傭兵の発祥は中世のフランスです。齋藤さんに対してと同じく、私はこの日本政府にも中世へと逆戻りするような愚かしき勇ましさを感じます。いや、それよりなにより、憲法違反としてこちらも訴追の対象ですらあるのではないかとさえ思っています。

May 06, 2005

何が見苦しいかといって

いつも言ってることなんですが、「寄ってたかって」というのがいちばん見苦しい。

JR西の、事故車両から離れてさっさと仕事場に行ってしまったという社員2人にしても、そりゃ「あんな大惨事でその場で助けなきゃ人間じゃない」というひとの意見はもちろん分ります。そういうことを、その現場で駆けつけて救助作業を手伝った多くの近隣住民が呆れ顔で口にするのはまったくもってそのとおりだし、たしかにそういうことを言ってほしい、よくぞ言ってくれた、というふうに思いもします。

が、同時に、すくなからず自分も車内で衝撃を受けて転がっちゃったりした“被害者”ならば気が動転していて、さらには脱線衝突車両からはやや離れていた車両だったらば、ショック状態のままそこからのこのこと現場に割り入っていくのだってなかなか大変だと思うのです。しかも「上司の指示」もあって出勤、というお墨付きももらって、人間心理としてはそっちの楽な方に向かっちゃったのは分らないでもない。ぱっと判断してぱっと行動できるのは、事故の当事者ではなく横で一部始終を客観的に見ていた者たちだからです。当事者は、なかなかそうはいかない。それでもできるひとは、それは美談の対象になるでしょ? たとえば怪我をしていながらもその場で必死に他の人を救助していたJR社員がいたとしたら、TVはこれを絶対に美談で取り上げますよ。「あたりまえの話」ではなく伝えるはずです。あるいは「当たり前と言われれば当たり前だが、そういうときというのは気が動転していてなかなかそうはとっさにできないですよね」というふうに。

ホリエモンが「どうせ物語を作るんでしょ、ぼくは物語なんかありませんよ」とそういうニュースの取り上げ方を拒否したり否定していたりしましたが、彼が言っていたのはそういうことです。新聞もテレビも、ニュースをたしかになんでも物語として伝えたがる傾向がある。というか宿命なんだな、それは。

そのときにあるのは、安っぽい物語か、そうじゃないか、です。かつて現場にいた人間としては、安っぽい物語は極力排除したい。安っぽくしかならないときは物語性をあらかじめ放棄すべきなんですよ。

だから、あれはああも何度もテレビやなんかで「乗り合わせていたにもかかわらずそのまま出社した」とかと非難がましく言わなくたっていいじゃないの、って思います。伝えるのは重要ですが、しかし、それは一回か二回の報道で事足ります。それを、鬼の首でもとったみたいにその話題になると何度も何度も呆れたふうに繰り返す原稿を書くニュースデスクは、なんともチープで浅ましくなくないですか。

こういう非難がましさは、JR西の「遅刻→懲戒→再教育」とまったく同じなメディアのいじめ体質です。そりゃ呆れる話だが、アナウンサー、あんたに代わって呆れてもらわなくたっていいんだよって感じになりません? 呆れるのは私にまかしてほしい。ニュースを読む連中にその呆れを先取りしていただかなくて結構。そのくらいは自分でできます、って感じに。

それはボウリング大会にもいえます。
こっちはもっとたしかにひどい。しかし、それにしたって報道は一報と続報、そして調査報道の3回でじゅうぶん。いちいち「こともあろうに」とか「そればかりでなく」とか、そういうふうに主観を交えてさも憎らしげに視聴者をあおるのはいかがなものか、フジTV。「さらに明らかになりました」とかというのはたしかに続報の範囲内ですが、ボウリングの二次会に出ていた人数がもうちょっと多かったからと言って、だからなんだというんでしょう。呆れた、怒った、もっと叱りつけてやれ、ってことですか?

みなさんそうやってすぐに簡単なところで悪者を作って発奮して叱りつける、いじめる。

もっと大人になりましょうよ、報道現場にいる人たちも、デスクにいる人たちも。
視聴者だって大衆だって、あおられるのが好きな人たちばかりではないでしょう。
ここで報道が問題とすべきは、JR西の企業・組織としての危機管理の甘さと、その職員たち個人の危機対処の訓練・指導の甘さです。それは組織構造上の欠陥かもしれないし、個々の士気や誇りの低下の問題かもしれません。それは叱るべきことではありますが、いつまでもぎゃーぎゃーと叱り続けるべきことではありません。

キリキリ絞めつけたって、効果を持つのは最初の段階だけです。そこで止めるべきなのです。それ以上続けたら、結果はなんらプラスには働かないどころか、限界を超えるとゴムが切れるみたいにこんなふうな事故を起こすことにつながったりもするのです。そのふたつはまったく同じなんだもの。

そんでね、じつをいうとさ、そうやって煽るような人ほど、じつは同じような状況になったときに事故現場をそそくさと立ち去って我関せずで出勤するような人たちなんですよね。ちゃっかりボウリング大会に行っちゃってたりするタイプのひとなんですよ。

みんな、そんなに怒りたいのかしらね。いやそんなことはない。怒っていたらとっくに政府は倒れているだろうはずだし銀行や証券会社はもっとまともになってるはずだ。
そうじゃなくて、だれかを叱りつけたいんだな。だれかを人身御供にしたいんだ。政府や銀行はなかなか叱りつけ方が難しい。しかし適当な個人を見つけ出して怒鳴りつけるのは簡単です。それはたしかにインスタントなストレスの発散法です。だが、問題の解決法ではまったくない。

90秒の遅れを認めなかったのは、JR西の社長ではなく、そういういい加減さ=よい加減さのありようを見極められないで人身御供がいさえすればすぐにキリキリ絞めつけ上げるばかりの(日本社会に多く見られる)人たちなんではないでしょうか。だって、90秒の遅れは認められないくせに何年待ってもちっとも増えない銀行利子とかにはぜんぜん余裕で待ち続けられるんですからね。まあ、みんなの責任だなどと、一億総懺悔=責任の一億総拡散化みたいなことは言いませんが、背景認識としては必要かもしれない、程度で。

いずれにしても、呆れ顔で将来的な展望もなくただただ怒鳴りつけたり叱りつけたりするのは、まともな人間のすることじゃありません。それが「寄ってたかって」ならもう、なにをかいわんや、です。

May 03, 2005

せまい日本、そんなに急いで

 じつはいまでも列車の先頭車両のいちばん前に立って迫り来る景色を見ているのが好きなんですが、だけど鉄道の運転士に憧れたことはなかった。あの「指差確認」というのがすごくいやだったんですね。子供のころ、初めてそれを見たとき「このひと、変な独り言をいってる」と思って窓の景色そっちのけでじっと観察してしまった。日本ではタクシーの運転手さんでもそうやって声を出しながら指差確認をしているひともときどきいて、それもなんか苦手なんだなあ。

 まあ、それもこれももちろんじゅうぶんに有効性の確かめられた安全対策なので好き嫌いの問題じゃあないんですけどね。そんなことでもしないと安全が確保されないような、高度に複雑な交通システムの中で私たちは暮らしているということですから。

 もっとも、ニューヨークにいると地下鉄もバスも、郊外列車のハーレムラインとか長距離のアムトラックまで、大げさにいえば時刻表どおりに動いたためしがなく、いや地下鉄なんぞはそもそも時刻表自体があるのかどうかも疑わしいと思ってしまいます。ホームのどこにもそんなもの見当たりませんしね。

 もちろん地下鉄にだって内部的にはちゃんと運行表があるそうです(そりゃそうだ、なきゃ走れるもんじゃない)。でも後ろが詰まれば前の列車は勝手に駅を飛ばして“急行”になっちゃうし、グランドセントラルでもペンステーションでも列車が到着した順番にホームを割り当てるもんだから毎日つねに発車番線が違っていて、最初はずいぶん戸惑います。保線状況だって惨たんたるもので、線路は波打っているし揺れはひどいし、ATSなどという上等なものもありません。

 そんな鉄道事情の国ですから、NYタイムズも尼崎のJR事故には解説を付けることを忘れませんでした。いわく「日本の列車は通常かくも正確な時刻表どおりの運行をしているので、乗客はとても複雑な旅程をウェブサイトで組むこともできるほどだ。遅れというものがないから乗り換えでミスをするということもないと知っている」と。時刻表の知識を駆使する鉄道ミステリーという推理小説の一分野は、脈々と培われた鉄道への信頼によって成立している、アメリカでは存在し得ない分野なんです。

 そんなハイスタンダードを維持するために、日本では人間ならばだれでもがもつような詰めの甘さを、極限まで排除する指差確認のようなシステムまで導入して事故を防いできたんだなあと思います。あの指差確認って、じつはすごく画期的なものだったんじゃないだろうか。いったい、だれが考えたんでしょうね。オリジナルって、なんだったんだろ?

 一方、お寒い環境ながら曲がりなりにもこれまで「大惨事」というような事故を起こさずに日々ニューヨークの地下鉄が走ってこれたのは逆に、「遅れるのが普通さ」という、人間の持ついい加減さのおかげだったような気がします。ここの地下鉄は開通が1904年ですから、もう100年を越えました。たしか線路の総延長が世界でも1、2の巨大システムじゃなかったっけかなあ。これを維持するのは、前述したようにとにかくその場その場で運行の仕方が変わるんですから、かっこよくいえば「臨機応変」、まあ実際は「その場しのぎ」。というか、まずはあんまり高度に複雑にしない、という基本姿勢なのかもしれませんね。尼崎事故のように、90秒の遅れを取り戻すために疾駆するNYの地下鉄だなんて、考えるだに恐ろしい。

 JR西の23歳の運転士に宿った時速108kmの焦りは、いい加減さをゆるさない会社の、ひいては世間のプレッシャーを反映していたのかもしれません。90秒の遅れは、そうしてついに到着を果たせない永遠の遅れになった。

 犠牲になられた方々、怪我を負われた方々に心からのお悔やみ、お見舞いを申し上げます。

April 07, 2005

会社は誰のもの?

 しかし、堀江さんもずいぶんと嫌われたもんです。フジもソフトバンク陣営を持ってくるとはえげつないことやりますわなというのが第一印象でしたが。ライブドアとフジTVの攻防戦はどこまで続くのでしょう。ソフトバンクもライブドアも、そう変わらんでしょうにね。

 まあ傍目で見ている分には面白いのですが、フジやニッポン放送にはじつは友人も何人かいて、あまり軽々しくはいえないのです。ただ、私の友人たちが一様に示す堀江社長への不快感ってものの一因は、「株式会社は商法上は株主のものですから」と言ってのけたこと(に如実に表れているマネーゲーム感覚)にもあるようです。

 そう言われて私なんぞは「ふうむ、そういえばそうだったかな」とあらためて気づかされた口ですが、でもいまのこの巨大企業、巨大資本の時代、あながちそうとも言い切れないのではないかと思い直しているのです。

 株式会社はたしかあの東インド会社あたりを起源としています。つまり金持ちたちが資金を出し合って船を用意し、さらに船員を契約で雇って東インド(インドネシア)から香辛料などを運ぶ航海を企画する。そして結果として儲かった金を元々の出資者同士で配分するのです。そのうちにこの出資と航海と利益分配の図式が恒常的組織になった。それが会社であり、そう考えるとたしかに会社は出資者(株主)のものです。

 ただ、そう言い切られるとなんだかさみしい。つまりは社員なんてみんな契約社員ってことで、その都度の仕事が終われば解約されてもしょうがないシステム。出資者の金儲けのために必要な道具、というわけです。でも、これって17世紀のオリジナルでしょう? 歴史とともに社会も経済も成熟してきて、いまは違う意味合いを持っていなくちゃおかしいはずですよね。

 日本ではそれが終身雇用制みたいな(これは成文化なんかされていないけど)慣例として育ってきて、会社とは社員全員が創り上げているもの、というような感覚になっていました。株主なんか、どこか「自分たちの毎日の業務を儲けのタネにしているだけのやつら」みたいな感覚だってなきにしもあらず。だから社長なんてほんとうは株主が決めるものなのですが、社長は社員というか取締役会が、あるいはつまりいまの社長が次の社長を決める、というような状態が続いているのですね。そういうところから、「愛社精神」などという英語はありませんが、日本ではずいぶんとそれを育まされてきました。「会社のため」という文言も何度も聞いてきました。それもこれもひとえに「会社は働いている私たちすべてのもの」という、商法にもどこにも保証されていない幻想に基づいていたのです。

 逆にさっきもいったように、そういう会社本位制、社員本位制のようなニッポン株式会社では株主の存在があまりにも軽んじられていたという弊害があります。バブル崩壊で企業不祥事が一気に表面化したことも、あまりにも閉鎖的に社内のみで経営を処理してきたことの結果でした。社外、つまり出資者や社会全体への責任を明らかにせず、せっせせっせと社内的な保身に奔走する。そうしてどうにか定年までを乗り切る、そしておさらば、というわけです。そういうところから総会屋などという、外国では存在し得ないおかしな職業までが幅を利かせている始末なのです。

 株主が弱いと取締役会へのチェックが機能しません。もっとも、株主が強いといわれる米国でもエンロンのとんでもない粉飾決済事件があり、しかもアーサー・アンダーセンという米国最大手の会計事務所まで粉飾に関与していたとわかってからは、いったいどうなっているのと唖然としました。ストックオプションの利便性を悪用して八百長で株価をつり上げたりするなど、これもどうしてどうして、マネーゲームのうまみを利用したじつに現代的な犯罪でした。堤義明もとんでもないですけれど、こっちのエンロンのかんぺきな犯意に基づく犯罪に比べると、なんだかエンロンのCEOは居直り強盗だけど堤は電車の中の痴漢みたいなちまちました感さえしますね。

 さて、そんなふうにここまで企業が大きくなってしまうと、それはすでにあるひとつの利益カテゴリーの単なる所有物ではなくなるのではないか。それが最近よく耳にする「ステークホルダー(stakeholder)」の概念なのでしょう。

 つまり会社は、株主や従業員だけではなく消費者や地域住民などすべての利害関係者のものという、準公的な存在なのだ、ということです。そうでなければ不正や害悪を垂れ流したときの損害があまりにも大きくなってしまいます。そうやって四方八方から相互監視しつつ利益を配分・還元していくことこそが、これからの企業に求められていることなのだというわけです。

 でも、べつにこれはまたまた、成文化した「商法」なんかに取り決められているものではなくて、あるひとつの考え方に過ぎません。それでもアメリカでは、単なる一例ですが、大企業を中心にドメスティックパートナー制度を認めてLGBTの社員にも平等な福利厚生を与えたりしている。義務なんかじゃないのに、です。これって優秀な人材を確保するためでもありますがそれだけでの意味ではもちろんなく、地域や社会への責任ということなのでしょう。というか、利益を確保するためにはそうした寛容で公正な企業イメージが必要、という“しがらみ”機能でもあって、社会とか経済の活動分野ではおうおうにしてその種の共同幻想が法より先に機能したりするのですね。

 堀江さんには私はかねてから経営者としての手腕などは期待していなくて、既成のものを引っ掻き回していろんなことを私たちに気づかせてくれる、それがありがたいと思っています。今回も、「会社は株主のものだ」と言いのけて私たちにそんなことを気づかせてくれたかれのトリックスターとしての力は、じつにまったく捨て難いなあと思った次第です。

 でも、最近のかれ、TVニュースの画像でしか知りませんが、なんか顔が妙に脂ぎっていませんか? 東京はもうずいぶん暑いみたいですけど。

April 06, 2005

マンデート難民の取り扱い変更か?

朝日ウェッブ版に次の記事を見つけました。

*****
国連認定難民は強制収容せず 法務省が新方針

2005年04月07日00時05分

 法務省は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から難民と認定された外国人(マンデート難民)について、今後は原則として強制収容せず、在留特別許可を柔軟に与えていく方針を決めた。同省はこれまで「UNHCRの認定基準は、国が批准した難民条約と目的や対象が異なり、一律に扱えない」として本国へ強制送還するなどして、国際的な批判を浴びていた。

 関係者によると、国内には約25人のマンデート難民がいるが、03年ごろからは国連も新たなマンデート難民認定を日本ではしておらず、取り残された形だ。同省は、こうしたケースに一定の理解を示す一方、UNHCRにも他国への定住あっせんなどの努力を求め、問題解決をねらう。

 マンデート難民をめぐっては、今年1月、UNHCRが認定したクルド人アハメッド・カザンキランさん親子を政府がトルコへ強制送還。UNHCRや国際的な人権団体・アムネスティ・インターナショナルから「国際法の原則に反する」などと抗議を受けていた。

 このため法務省は対応を検討。難民認定の基準は変えないが、国連側との情報交換を増やすことで「新たな事実が判明したり、くむべき事情が明らかになったりした場合」などには、在留特別許可を与えることにした。

 また、難民認定をめぐる訴訟などで国側が勝った場合も強制退去とはせず、UNHCRと協力し、安全な第三国への定住をはかる。

*****

さて、「今後は」とありますが、これがはたしていつからの話なのか、シェイダさんは該当するのか、とても気になるところです。近々に支援グループからも報告があると思います。

それにしても1月にトルコに強制送還されたクルド人父子、その後、どうなっているのでしょうか。追跡調査はしているのでしょうか。ひょっとしたら外務省、法務省の追跡調査で収監されたとわかって急きょこの取り扱い変更に結びついたのでなければいいのですが。新聞各紙のトルコのカバーはどこの海外支局がやっているのかなあ。ぜひ取材してほしいです。

March 30, 2005

北尾さん

しかし、北尾さんも、堀江氏に負けずに若いなあ。
「堀江さんも、わたしを敵に回すと大変だよ。わたしはタフだよ」なんて、いうもんじゃないよ、その年で。あんたが難物なのはみんな知ってるんだからさあ。ダメ押しを言うなんてかっこ悪いことこの上ない。なんでそんな見栄を切らなければならないかなあ。歌舞伎役者か、あんたは。

急に、安いなあ。わたしの中では、北尾さん、このメディアの露出で100段くらい下がっちゃった。おまえも所詮その程度のスノッブかよ。だいたい、テレビインタビューでソファに反っくり返るなよなあ。演出しろよ、そのくらい。反っくり返っていいのは美空ひばりとかマーロン・ブランドーくらいです。ともに故人ですが。

ダンディズムって、けっこう難しいんですよね。

堀江氏も、最近は本来のトリックスターの位置づけから離れちゃって、まるでメインストリームの人になりたがっているという部分が状況的に大きくなってきて、それじゃぜんぜん面白くなくなってきています。トリックスターは負けるの。負けて社会を変えるのです。そういう気構えがないと、歴史に名を残せません。ま、べつに名を残さなくたっていいんですけど。しょせんは彼も乗っ取り屋のマネーゲーム野郎なんでしょうか。ただ、彼の場合はダンディズムなんて期待すらしないですけどね。

February 27, 2005

ホリエモン理論

ホリエモンに関する、とってもよいテキストを見つけました。
例の江川紹子さんのインタビューです。
これ読むと、じつによくわかります。

http://www.egawashoko.com/c006/000119.html

ホリエモン、頭いいし、思い切りもとてもいいけど、ある境界線を通り越すと、というか、あるジャンルからはずれると、「ぼくには興味ない」って思考停止するんですね。というか、そこを突き詰めていくと、ホリエモン理論が崩れる。そしてそこを突き詰める人があまりいないからホリエモン理論が成り立っていける。そういうところに立脚しているんだな。じつはそこを突き詰めることこそが肝心の(面白い)論点なのですが。

数学(経済ニュース)と文学(社会ニュース)の違うところ、それはね、数字はストーリーを記述するだけで作ることをしないが、文字はアプリオリにストーリーを探り求めて次の文字とつながる、つまりストーリーを作り出しながら自己増殖するということなんだ。したがって、彼のいう「市民ニュース記者」を使ったって、文字のあるところにはストーリー(ホリエモンの言うところの恣意性、虚構)が生まれるということ。物語の呪縛から抜け出せないんですよ。それは紙媒体だって、インターネットという媒体だって、言語を思考メディアにしている限りまったく同じなんだ。

そのときにさ、要はどの虚構が現実に拮抗できるだけの結構を持っているかということが問われるんですよね。そこを突き詰めると、かれの「ニュースランキング」構想は破綻します。破綻するから、彼は「どうでもいいっすよ」と言うしかない。

彼はこういいます。「事実を書きながら、そこに思いを込めることが可能じゃないですか。新聞って、みんなそうなんですよ。それって、思い上がりじゃないのっていうことです。」

つまりこれは、新聞だけの話ではないんですよ。文章ってみんなそうなんだ。日記だってそう。そういうの、文学の世界でもなんでも、もう言い尽くされていることで、だから脱構築とか言ってきたわけです。モダンという意味に満ちた世界からポストモダンへと抜けようとしたわけでしょ? ま、脱構築というのもまた、新たなストーリーを(しかし意味の存在に自意識的に)作る行為だ、ということを知りつつね。バルトの言った「零度のエクリチュール」ってのもその模索なんだ。その辺のこと、ホリエモン、知らないと思います。知る必要ない。というか、知ったら、言えなくなるから、あえて、知らなくていいんだって言っているんだろうね。その辺の、感覚、というか、見え方、あるていど、彼、持っているんでしょうね。先を見る目はけっこう鋭い。変なにおいがしたらそこには触れない。ふふ。

てらいとかウソとかって、でも、彼、ないですね。その辺もすごいと思う。背伸びはあるけど、かなり正直で、その正直さもお金の論理という単純さに支えられた若き自信の為せる技なのかもしれません。

彼はやはり当代きっての、というか、当代であるがゆえの、たぐいまれなるトリックスターですよ。この彼を楽しまない手はない。宮沢喜一みたいな引退じいさんはなんか嬉々として楽しがって堀江コメントしてるようですが、そういうのを現役の経済人、政治人がやらないとなあ。 もっと楽しまなくちゃもったいないですよ。

ハイゼンベルクの「不確定性原理」じゃないけど、わたし、この人のおかげでいままでどの位置にあるか不確定だった人々の位置が急に観測できるようになって、とても面白いです。

友だちになりたいかどうかっていう話は、またぜんぜん別ですけどね。

February 24, 2005

片腹痛し

ロイター電で、

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が22日に出版された自身の新刊の中で、同性婚は「新たな悪魔の思想」の一端であり、知らぬ間に社会を脅かしているとの見方を示した。同著では、同性婚以外にも中絶などの社会問題に触れ、20世紀に行われたユダヤ人などに対する撲滅行為にも匹敵する「合法的根絶行為」と言明。

なんて伝えられていて、まったく、病膏肓に入るとはこのことだと思いました次第。

ローマカトリックは、第二次大戦中、もちろんナチを支持していました。時のローマ法王はピウス12世です。ユダヤ人はカトリックの慈悲を受けない。彼はそう考えていた。同時にあの時代、LGBTたちはそのユダヤ人同様、ヴァチカンの戦況報告室で冷血に画策される虐殺の犠牲者だったわけでもあります。ピウスとは、ニュルンベルクが見逃した戦争犯罪人の名前なのです。

ローマンカトリックがそのことを謝罪したのはつい最近、1997年のことです。それまで頬っかむりをしてきた。それがどうでしょう、ピウスに連なるいまのヨハネ・パウロが、「ユダヤ人などに対する撲滅行為にも匹敵する」などとあたかも100年前からユダヤ人撲滅行為に反対していたかのような口ぶりでしれっとあらたな撲滅行為に加担する。歴史は繰り返す、というのは愚かしい彼のためにあるような成句です。恥を知っているなら、ふつうはそんな比喩は恐れ多くて口が腐ってもいえない。

かたはらいたし、とはこのことです。

いったい、この頑迷なる善意というのは、何に起因しているのでしょう。
こういうのは悪意より始末に悪い。

***
さらに再び

asahi.comから
***
 フジテレビジョンの村上光一社長は24日の定例記者会見で、ライブドアによるニッポン放送株の取得を巡る他の民放各局の報道について「あまりにも、ちょっと狂騒曲的。ニュースはただおもしろおかしくやればいいのではない」と批判した。もっともフジ自身が娯楽路線をとってきただけに「自省を込めて」とも前置きした。
 村上社長は「(他の民放の)報道番組を見ていると、あまりにもちゃらちゃらして『えーっ』と思う例が頻発していた。いかがなものか。(ライブドアに)テレビは公共の電波だと言っている時期だからこそ、きちっとやらなければいけない」と強調した。
***

おいおい、ニュース番組のタイトルからかつて「ニュース」という単語を外してみせたのはどこの局だったっけ? ニュースに効果音入れたりオドロオドロしい音楽をかぶせて視聴率稼ごうとしたのはどこの局だよ。声優使ってドラマ仕立てで報道して視聴者の劣情をあおってきたのはどこのどなたさまですかってんだ。

フジテレビが「公共の電波」っていうのは、日テレが「公共の電波少年」っていうくらいにコントラディクションじゃあありませんかえ? どの口からそんな言葉が出てくるんだろ。まったく、社長ってのはどこまで厚顔にならんとできないもんなのか。この世で一番恥ずかしいことは、恥を知らないということなのだ。

ふむ、「デイリー・ブルシット」のブルシット叩きらしくなってきましたな。

しかし、わたしは罵詈雑言がかなりきつい、ということをある人から指摘された。
叩くときは、けっこう、完膚なきまでに言葉を連ねる、しかも、かなり強烈なグサグサの感じがするらしい。

先日の「怠けもん」発言も、けっこう、本来の標的とは別のところでグサグサ刺された感じがするという人がいるようだし、そういえばその昔、金原ひとみの「蛇にピアス」を叩きのめしたら、思いもかけぬ方向にいたぼせくんから「そういう言い方はない」的な叱責をいただいた。こちとら、ゲイの視点からあえてだれも触れないでいる蛇ピアのぬぐい去り難いホモフォビアを指摘しただけだと思っていたんだが。反省。

悪口は自分に返ってくる、って、なんてったっけ? なんか、成句があったような気がするけど。

くわばらくわばら。

February 14, 2005

蛇足─アメリカ文化、日本文化

(先に02/05、02/12を読んでね。その続きなのだ)

さて、そうやって考えていくと、日米あるいは日欧米間の方法論の相違というのは、つまりは「怠け心」を奮起させて、やっぱやんなきゃだめかなあ、って思わせるための方法論の違いなんですね。「運動でなにをやるか、どうやるか」ではなく、もっと基本の基本、スタート地点に立つための方法論、あるいは立たせるための方法論の違い。

「運動」っていう言葉自体、翻訳語、翻訳概念ですからして「運動」そのものってのはそもそも端からすでに欧米型なんであって。ただしそれはちょっとしたアレンジやアイディアで日本“的”に持っていくことは可能だし、現にそういうふうなことはけっこう成功してもきた。日本文化って大陸や半島の影響を受けていたころからそうでしたから。

さて、そこでただし問題は、その「運動」なり「ムーヴメント」に到達する以前の、「怠けないでコミットしようよ」っていうことを、どう折伏するか、どう納得させるか、どう奮起させるか、ということなのでしょう。そこを、アメリカとかではキリスト教なり聖書の倫理観なり、あるいは社会契約みたいなものといった共通意識で一気にピョ〜ンと越えることも可能なんだけれど、そのような共通意識が(幸か不幸か)希薄ないまの日本の社会では、まずそこから始めなくてはならない。その大きなひと手間、それが苦労の原因の1つなんだなあ、ということなのです。そうしてそれこそが「日本的」の意味するところなのだということです。 そんな共通意識の、決定的な不在。

そこをはっきりさせるために「怠けもん」というキーワードは必要なのではないかと思うわけでした。

「アメリカアメリカアメリカアメリカ」ってみんな一言でいってますけど、知ってのとおりいろんなアメリカがあって、最近はブッシュの体現するようなアメリカを指すことが多いけどさ、ゲイプライドを成功させるようなアメリカ、同性婚を木で鼻をくくったように議論にも乗せたくないアメリカ、それに涙を流して抗議しようとする人たちのアメリカもあるでしょ。そうした種々様々な人間かつ社会のダイナミズムはどこから来ているのかなあ。

わたしはキリスト教なり宗教なりというのは唾棄したい人間ですが、だが、それを信じて慈善活動を続ける善意のアメリカ人というのはなかなか唾棄できない。たとえその善意がじつに恣意的な善意であったにしても、そのクリスチャニティーっていうものの実体性を、虚構性を含めて、その存在性を、日本の空洞部分に比較してよい意味でも悪い意味でもすげえもんだなあと思うのです。

底支え、というか、前回エントリーの「とー」さんのコメントで相応するものとしての「儒教・仏教的倫理観とか美意識」とかいう基盤部分が、そういうもんは共同幻想だと知っている上での知的なある人間社会の共通意識が、必要だなあって思うけど、まあ、共通意識ばかりが先走るとブッシュ・アメリカになっちまうわけで、そこをひとつひとつ検証しながらその都度作り上げていくというのはかなり大切な作業なんだと一方で信じてもいるのですけど、さて、そこで最初にも言った「怠けもん」の原則がふたたびノソノソと顔を出し作用して、そういうものを「ひとつひとつ検証しながらその都度作り上げていく」ということなどしないもんだ、という堂々巡りになるわけなんですよね。で、そこで思考停止。だれかやるでしょう症候群の千年寝太郎。

まあ、かんたんにはっきり言ってしまうとね、あなたの思っているとおり、「この国、何か、すごく間違ってるわ」状態なんだなあ。

教育なんだよね。学校教育ばかりか、社会教育までもが慎太郎的空疎に煽動されていて、そこをどう変えていくか。それを変えればどんなところでも10年以内で変わるのだ。

February 12, 2005

補足─アメリカ文化、日本文化

2月5日の“「日本とアメリカは違う」という物言い”に関しての付け足しなんですけどね。「アメリカ式のゲイリブは日本では根付かないのではないか」という命題について、ずっとむかしから、まあ、そりゃそうだろうけど、でも、どこまではパクれて、どこらからパクれなくなるのかなとつらつら考えているうちに、和の文化だとか、論破と納得の文化の違いだとか、ディベートの論理だとか、そういう文化論って、どこまで本当なんだろうかなあって思い至ります。

けっきょく、人間って、ほぼ共通して、面倒くさいことはできればやりたくない、という意識を持ってるでしょ。怠けもんなんですね。それがキーなんじゃないか。

そういうの、日本の「文化」なんていう立派なもんじゃなくて、「雰囲気」みたいなものって、とどのつまり「怠けもん」ってことじゃないのか。国会も地方議会も、話すの面倒だから議論しないってだけじゃないのって。そんでいままでは怠けていてもどうにかうまくやってこれた。それは戦後のお父さんやお母さんたちが築き上げてくれたものを食い潰すことでやってきたんですね。

だから、初期設定としての怠けもんでもよかったの。蓄積された文化/社会資本があったから。

で、アメリカって何が違うかっていうと、「怠けてちゃダメ」っていう、なんていうんでしょう、嫌いな言葉だけど「倫理」ってのが共通認識としてある。そういう、アンチ「怠けもん」の論理って、日本にないんじゃないか? キリスト教もないですしね。

アメリカには議論で勝つのに3つの決め言葉があります。
It is not fair.  それは公平ではない
It is not justice.  それは正義ではない
It is not good for children.  それは将来の子供たちに禍根を残す

この三つをいわれると、相手は怒ります。そんなことはない、とかって反論します。犯罪人だってこの三つには逆らえない。言い訳はするけど。

対して、日本でこういう共通認識ってあるのかしら、と思うわけ。共通認識なんて、ろくなもんじゃねえ、という考え方もしっかりと知的に押さえつつ、それでもコミュニティとして力を維持していけるような共通認識。

私たちの“世代”というのは、大昔の高校生のときに「かっこいいってことは、なんてかっこわるいことなんだろう」とか、「きみは空を行け、ぼくは地を這う」だとか、「愛と友情の連帯」だとか、そういうフォークシンガーや漫画家たちの“名言”を倫理めいた教訓譚の代わりに肝に銘じたことがあったんだけど、もちろんそんなのは行き渡らないですわね。学生運動はそうして終焉した。

そんで現在、アメリカ型ゲイリブが方法論として日本ではうまく行かない理由は、「日本の私たちは怠けもんだから」ってだけの話じゃないんでしょうかって思うわけ。

文化論みたいな難しいこというけど、そんなご立派なものじゃなくてほんとはものすごく単純なことじゃないの? 社会へのコミットメントに関して、怠けていてなーんにも考えてこなかったし、考えるの面倒だと思っててもだいじょうぶだからなんじゃないですか? じゃあ、日本に合う運動って、つまりは怠けもんでもできるような運動とはどういうものがあり得るか、ってことではないのか?

ねえよ、そんなの。
そこで、アメリカ式は合わない、ってのは、単なる怠慢の言い訳なのではないか、って思っちゃったりするわけなのです。ま、もちろん違う要素もありますけどね。

「怠けもん」ってのは、それは固有で決定的な「文化」なんかじゃなくて、教育で6年あれば変えられることでもあると思います。明治の教養人は議論をしたし、大正リベラリズムなんて時代もあったんですから。

問題はさ、怠けないでコミットしましょうってことなんではないか。そんで、ブッシュみたいな単純なひどい側面が出てきたら困っちゃうけど、それこそそこで日本の「和」の文化がフェイルセーフの機能を果たしてくれるはずだと信じつつ。

February 07, 2005

ショーケンと堤義明

しかし、どう見ても微罪だな、こりゃ。警視庁も、こういうのはマスコミ受けをねらってやってるだけだ。お灸をすえてやる、みたいな、そういうもんですな。起訴まで行くのかしら?

それよりもなによりも、東京地検も警視庁も、どうして堤義明を逮捕しないんでしょうかね。
あれはどこからどう見てもインサイダー取引の証券取締法違反だけじゃなく、西武・コクドの特別背任、業務上横領、脱税等々、経済事犯のオンパレードです。アメリカなら即逮捕だな。なぜなら、これは経済の民主制度に対する大罪だからです。しかも堤の場合はあまりにもあからさまだし、あまりにも直接的な関与だ。なのに、検挙までにあまりにも時間がかかりすぎている。1カ月前に東京に行ったときにその辺を聞いたら、捜査に慎重を期している、ってな話だったが、経済事犯って、すぐに身柄を押さえないとどんどん書類なんか処分されちまうんだ。司法当局、何考えてんだか。

February 05, 2005

「過激派の判事が」

とまたブッシュ政権および保守派・宗教右翼連中が言いたてるんでしょうね。そうして第二次憲法修正運動のモメンタムに利用しようとする。しかし、そういう妨害・障壁はしょうがない。そうやりながらも進んで行かなくてはならないのだと思います。

というのは、NY州の地方裁判所が4日、5組の同性カップルが自分たちに結婚許可証を発行しないのは違憲だと訴えていた件で、この5組に結婚を認めないのは州憲法違反であるという判決を下したことを指します。

このパタンはすでにハワイでもマサチューセッツでもカリフォルニアでも行われたと同じもので、ニュース自体としてはあまり衝撃はないのかもしれません。しかし、ブッシュの第二期政権でも連邦憲法の修正を目指して結婚を異性間に限るとするという方針が示されての最初の司法判断として、さて、同性婚をめぐる攻防は再び仕切り直しで第2戦(?)あるいは、第3戦かもしれませんが、そういうところに入ったということでしょう。

さて、これが「過激派の判事」という、昨年、ブッシュの指弾した表現でなおも通じるのかどうか。
わたしは短期的にはこれは彼らの保守蒸気機関に石炭をくべるようなことにつながると思います。かっと赤い火がまた起ち上がるでしょう。

しかし、石炭はいつか消えます。その石炭をさっさと消費させなくてはならない。
カナダでは先日、連邦レベルでの同性婚認可の法案がやっと提出されました。ここでも最高裁の判断があってからの、1年以上たってのやっとの法案化です。
これは長期戦なのです。
    *
「日本とアメリカは違う」という物言いを、1980年代末の日本でのゲイムーブメントの最初からずっと聞いています。最初のころはまあそうだと思いました。当たり前の話です。
ただ、いまもそう言いつづけている人は、そういう世界の運動のモメンタムを自分の文化の中で取り入れる努力を怠っている、その言い訳としてしか聞こえていないのに気づいていないのでしょう。

日本とアメリカとは違います。それはあなたと私だって違う。
難しいことを言うと、それは対幻想と共同幻想というレベルと質の違いを含んだ対比ではありますが、そんなことは当然のことで、いまはとりたてて言挙げするほどのことでもないでしょう。私たちは靴を履き、服を着て、西洋便座に座り、ピザを食べています。その中からウォシュレットなんていう世紀の発明ができて、ピザにだってツナマヨなんていうものができている。

そのくせ、お寿司にアボカドが入っているとそんなものは寿司じゃないよね、なんていっている。それは、ゼノフォビアといいます。あるいは、自分たちの国や文化だけが特別だと思いたいことの反動による、他者への侮蔑です。

なにかをやるときには、差異を知りながらも同じことを見つめていなくてはならない。
そうしなければ仲間なんかできないし手をつなぐこともできません。
そろそろ欧米はね、違うんだよ、という、きいたような口はきかないほうがよい。かっこわるいでしょう。そんなのは言われなくともわかっているのですから。そういう輩は、じっさいは怠け者なのです。かまびすしくおしゃべりすることは得意でも、怠け者であることにかわりはありません。

January 26, 2005

インド洋大津波

 きのう銀行に小切手を入れに行って、自動振込機の初期画面がインド洋大津波の寄付金を呼びかける画像だったのに驚きました。

 インド洋大津波から今日で1カ月です。アメリカのテレビでは元大統領のブッシュ父と前大統領のクリントンとが2人仲良く並んで被災者支援の募金を呼びかける公共広告が流れています。いわく「起きたことは変えられません。しかし、これから起きることは(あなたの支援で)変えられます」。

 正月に日本に一時帰国していたのですが、同じアジアでの大災害にも関わらずこうした支援呼びかけはあまり目につきませんでした。中越地震の支援で目一杯だったからなのでしょうか。対してアメリカに帰ってみると、企業も芸能界もこぞってお金を出したり集めたりして遠いアジアの被災国に送ろうとしています。というか、その広報、プレゼンテーションの仕方がじつにうまいんですね。

 同じようなことを9・11のときにも感じました。あのテロの直後、米国企業のホームページは一斉に追悼を表したものに書き換えられましたが、米国内にある日系企業のホームページはまるでなにもなかったかのようにいつまでも“平時”の宣伝ページのままだったのです。企業広報というか、社会事象に対する対応の仕方がまるで鈍いのです。

 今回の大津波もそうです。これ聞こえよがしに「寄付をした」と吹聴はしていませんが、米国企業のウェッブサイトにはさりげなく自社の寄付実績が書き添えられ、同時に赤十字などへの寄付金の案内が書き加えられるようになりました。コカ・コーラは1000万ドル(10億円強)を寄付、同じくペプシコもインド、インドネシア、スリランカなどでボトル飲料水の無料配給など多大な寄付を行っているようです。アメリカン・エクスプレスは社員が100万ドルを集め、社としてもそれに同額の100万ドルを追加して計200万ドルを寄付しました。AOL、アマゾン、アップル・コンピュータ、ヤフーなどのホームページでもみんな義援金団体へのリンクが貼られ、テレビ各局も寄付を募る緊急番組をプライムタイムにCMなしで放送しました。ラジオもそうですね。クリア・チャンネルも全米1200局のラジオ網を使ってユニセフの広報キャンペーンに協力していました。

 ハリウッドの大物俳優たちや音楽家たちもノーギャラでそれに出演しては視聴者からの寄付金の電話を受け取ったりしているのです。NBCテレビですが、インド洋大津波の被災者救済のための募金2時間特番「ツナミ・エイド」をロサンゼルスのユニバーサルスタジオからCMなしで生中継しました。
 この番組にノーギャラで出演したのは音楽界からはマドンナやエルトン・ジョン、グラミー賞歌手のノラ・ジョーンズら。映画界からはお膝元とあってブラッド・ピット、レオナルド・ディカプリオ、マット・デイモン、ベン・アフレック、ニコラス・ケイジ、トム・セレック、ジェームズ・カーン、モーガン・フリーマンといったそうそうたる顔です。番組ではクリント・イーストウッドらが地震から津波発生までの過程や被災状況を報告し、数々の悲劇を言葉で再現しました。マドンナは犠牲者への哀悼を示して黒衣でジョン・レノンの「イマジン」を歌い上げ、ブラッド・ピットら多くのセレブは自ら電話オペレーターとなって視聴者からの寄付金の電話を受け付ける、といった演出です。

 じつは米国企業ではこうした“危機”あるいは“大事”に対処する部署が決まっていて、その場合にどうするかのマニュアルがシステムとして確立しています。このマニュアルは必要なものです。「まずいことをやらなかった」からよしとする消極的な対応は「よいこともしなかった」と同義であって、企業にとっては社会的怠慢と受け取られます。それはいまや減点の対象なのです。

 日本企業が、あるいは日本政府がいまひとつ世界にその存在感をアピールできないのは、こうした社会的責任へのアプローチを示すのに怠慢だからだと思えてなりません。やっと大企業が動き出していますが、おかしなことになんだかそろってついこのあいだ、1月24日付けでHPを書き換えているところが多い。はて、談合でもあったのかしらん。

 NHKで辞職なさるエラいさんの退職金が1億円だとかそれ以上だとか言われていますが、全部とはいわないけれど半分くらいポンとそれを寄付したりしたら、ずいぶんと汚名返上になるでしょうにね。

October 26, 2004

日本が大変だ

こちらの大統領選挙のことばかり考えていたら、日本では台風に続いて新潟が大変なことになっています。ニューヨークにいると限られた情報しか入りませんが、知り合いの新聞記者たちの携帯にかけてもきっと新潟に行っているんでしょう、なかなかつながりません。

そんな中で、こちらの日本語放送で西武の優勝騒ぎが週明けの昨夜、スポーツニュースで流れていました。十数年ぶりの優勝はそれは“お祭り”騒ぎでしょうが、でも、どうして所沢から200キロ、祝賀会の名古屋からだって400キロしか離れていない土地で寒さと疲労に震えている10万人という人がいるのに、ああいうふうになんの思いも持たずにビールを掛け合えるのか、いや、せめて、せめてです、今夜は乾杯で静かに勝利を噛みしめよう、という人がいなかったのか。ま、いたのかもしれませんね。しかしそれもスポーツ乗りとでもいうのでしょうか、そういう勢いになきに等しかったのかもしれない。

でも、敢えていわせてもらうなら、あれは「西武」です。いま、世間で反社会的な株式売買で非難を受けている会社です。そりゃ、選手は“関係ない”というのかもしれませんが、彼らは組合も持っている(個人契約主ながら)西武の“従業員”でもあるのです。

せめて、乾杯だけにしようと言っていたら、この野球人たちは昔と違って、ロールモデルになり得ただろうになあ、と思います。まあ、そういうものをそもそもスポーツ選手に期待していないのかもしれませんが、なんとなく、なさけない、というか、かなしいというか。ぼくらはテレパシストじゃないのだから、いろんな思いは、言葉や態度や行動に表さないと、何の意味も持たないのです。いい人は、ただいい人だからいい人なのではなくて、いいことをするからいい人なんです。ビール掛けしかやらないやつは、ビール掛けしかやらないやつなのです。

そうこうするうちに今夜は日本人がイラクでザルカウィ一派に拉致されたというニュースが入ってきました。思わず知り合いのジャーナリストじゃないかと心配してしまうのはあまりにも心が小さいとは思いますが、そういうのはどうしようもありません。いったい、この時期、だれが入っているのでしょうか。男性のようですが、「長髪」という報道で、なんでイラクに長髪で入るかなとも思ってしまいます。

いまのところ、だれなのか私にはわかりませんが、この男性がだれであれ、日本政府というのは日本人の総意として形成されている組織なのですから、邦人の安全のためにあらゆる手段を講じなければなりません。これは前回の女性を含む三人、またほかの二人のジャーナリストの拉致の際でも同じことです。危険を承知の自己責任ではあるが、一旦危険な目にあったならば絶対にそれを救わねば、それこそ政府としての責任を果たしていないことになります。それをいちはやく「自衛隊の撤退はない」と手の内を明かしてしまって、いったいこの政府は外交もしくは交渉というのを何だと考えているのでしょう。

もっとも、ザルカウィの一派は前回の日本人拉致事件のイラク人たちとは違いますから(イラク人ですらないのです)、交渉など無理でしょうが。これは12月の自衛隊派遣期限を睨んでの計画的な揺さぶり行為です。そう、もちろん、アメリカの大統領選挙への挑発でもあります。

かわいそうに、としかいえません。

July 13, 2004

なんだか嫌な空気への反応

 「小泉自民党敗北」の参院選を前に、東京新聞が「ニッポンの空気」(www.tokyo-np.co.jp/kuuki)という連載を行っていました。北朝鮮の拉致被害者家族の会やイラクの人質事件などに関連して、政府や権威への批判を許さぬ最近のニッポンの息苦しさを描いた好企画でした。

 その中で今年2月、「愛国心」を盛り込もうという教育基本法「改正促進委員会」の設立総会で、民主党衆院議員の西村真悟が「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す」と演説したことが紹介されていました。
 西村ってのは民社党から新進党を経て民主党に入った人。民主党もこういう寄せ集め集団ですからそういうなんだかわからん発言が出てきても不思議ではないのですが、政治家に教育とか倫理とかを語らせるとロクなことにならねえなと思うのは私だけでしょうかね。

 いま上映中の『華氏911』にも同じようなことが描かれています。連合軍の死者が1千人を越えたイラク戦争(イラク人の死者数はその10倍以上です)で、自分の子息を軍に徴兵登録している連邦議員は1人しかいない。そこでムーア監督は例によって首都ワシントンに繰り出し、往来の議員たちに向けて徴兵登録への記入を勧めるわけです。ところが予想どおり、それに応じる議員は1人もいない。
 翻って西村議員。彼にもお子さんが3人いらっしゃる。彼はそのお子たちには率先して「お国のために命を投げ出」させるのかしら。

 映画を見ながら、私は4年前からのことを思い出していました。そうだ、そうだったよなあ、という感じです。あの大統領選挙で国民の半分は怒り狂いました。ブッシュの支持率は9・11の前は40%代でした。それがあっという間に「戦争人気」です。映画は、その辺をうまくおさらいしてくれます。ジャーナリストとしてずっとウォッチしてきた者にはそう新しい話はないのですが、ただしまとめて提示されるとさすがにそこに強い意味が出てきます。ムーア監督の編集構成はなかなかのものです。ブッシュのアホさ加減と、しかし厳粛な戦争の映像とが、映画に緩急を付けます。そうしてしだいに、ブッシュに対するそもそものあの怒りがよみがえってくるといった仕掛けです。

 そうやって思い返すと、9・11の後でアメリカ中に星条旗があふれたのは仕方ないと思います。しかし、批判が許されない状況はどうみても異常でした。異常だと口にすること自体も認められないような雰囲気。映画の中でブリトニー・スピアーズがガムをクチャクチャやりながら「ブッシュ大統領を支持するわ」と言っていましたが、それを見ながら私は逆に、ディキシーチックスというカントリーシンガー3人娘が同じテキサス出身のブッシュを「恥だと思う」と発言してものすごいバッシングが起きたことを思い出していました。
 そのバッシングを容認するばかりか寄ってたかって後押しするようなあのときの“空気”は、なんだか嫌ないまの「ニッポンの空気」にも通底していました。年金も多国籍軍も批判なしで通そうというその小泉自民党の「嫌な感じ」に、そして参院選の日本の有権者は拒絶反応を示した。ケリー・エドワーズ組への支持率上昇を通して現れている反ブッシュの気運も、そんななんだか嫌な感じを拒絶したいアメリカの平衡感覚の現れなのかもしれません。

 『華氏911』はすでに千数百万人が見ています。大統領選の投票率は50%ほど。5千万票代での競り合いです。ですから観客動員2千万人にはなるだろうとされるこの映画の影響はかなり大きいはずです。今はそれに期待しましょうか。とはいえ、ブッシュ政権はテロを理由にした大統領選挙の延期ということも検討しているのだとか。ふ〜む、こいつぁ厄介だわなあ。

July 01, 2004

青少年健全育成

東京で、エッチな本の包装陳列が始まったそうですね。東京都の青少年健全育成条例の新規定らしいですが、ああいうのって、隠されるからよけいに劣情を刺激するのです。劣情というのは、呼んで字のごとし、劣していると思うから密やかで暗いところを好むわけで、その密やかさと暗さを助長したら、もっと劣情しちゃうんじゃないか。そういうことを(というかそういうことだけは)、あの太陽の季節おやじはわかってるはずじゃなかったのでしょうか。

立ち読みできたらもっと刺激する、という説もありますが、そうでしょうか。
立ち読みで興奮しちゃうような輩は、封印されてた方がもっと興奮するんじゃないでしょうか。いや、もっと妄想を膨らませる。立ち読みして、なんだこんなもんかね、と思ってそれでおしまいだった連中も、こんどは隠されているから「こなくそ」とばかりにもっとむらむらしちゃうんじゃないかしらん。

これって、クローゼットのメカニズムと同じなのです。

どうすりゃいいか?
エロいものにフタ、でだめなことは一応、万人の共通認識でしょう。
臭いものは元から絶たなきゃだめ、式で行くと、エロイもの自体を追放駆逐することが物事の根本解決にはなりますが、しかし、エロイものと臭いものとを、ミソも糞も一緒に同様に「いけないもの」とする短絡がここにはあります。

エロイもの、あったっていいじゃない。
要は、それでも一応社会通念に照らしてあんまり変なことしないだけの自分のコントロールをできるかってことです。
エロイものはある。あってもかまわない。そんで、そのつぎにどう対応するか、ということを、もし、子供に教えたけりゃ教える。それしかないでしょう。

かつて寺山修司は、「知るのに早すぎるということはない」といいました。
どんなものでも「知るのに早すぎるということはない」。
なぜなら、それはそこに存在するからです。
次は、知ってもだいじょうぶなように早く大人になる、ということしかないのです。
もちろん、知ってもそれを遊べるような子供である、ということも含めて。

政治に、こういう青少年教育とか健全とか倫理とかやらせると、ろくなもんじゃないという好例がここにあります。次の国会ででてくる教育基本法の改正にしても、自民党や公明党なんかに教育なんか語ってほしくないなあという気がします。

June 17, 2004

怖い

 なんだか、こんなバカみたいな詭弁というものを久しぶりに見た思いがします。多国籍軍に参加すると言ったその首相の発言を法的に支えるために、多国籍軍の「統一された指揮権」という英語の「unified command」というのを「統合された司令部」って訳したのです。
 いわく、「(自衛隊は)多国籍軍の中で活動するが、わが国の指揮に従い、統合された司令部の指揮下に入ることはない」。あら、「参加」という言葉もなくなってしまいました。
 しかし「ユニファイド・コマンド」を「統合された司令部」ってやるのは、ものすごい力技です。なぜなら、逆に、統合された司令部というのを英語になおそうと思ったら、それは「united headquarters」という英語になってしまって、ぜったいに「unified command」とはならない。

 ユニファイというのは、いろいろあるものをいろいろあるまま1つに「束ねる」ことではなくて、合金みたいにして混ぜ合わせて1つに「しちゃう」ことなのです。
 それからコマンドですが、これは第一義的には「命令すること、指揮すること」であって、それから「指揮権、司令権」という抽象概念につながっています。ここから「司令部」という意味が派生するのはその先の、もっと派生した先でやっと辿り着く語義であって、いわば比喩なんです。とてもじゃないが、軍事用語に比喩を使っちゃいけない。使ってよいのはそれが熟した言葉になっているときだけです。つまり、慣用的に使い込まれて熟語として存在しているときだけです。そんなの、わたしでもわかるような誤訳を日本政府たるもの、知らないはずがない。

 これは、嘘をついているということです。国民に説明するときに嘘をついている。そしてそれを恥じない。だいたい、軍というものは参加したら統一した指揮で動くのです。それとは別に独自の指揮権を持っている、というのは、それは参加ではない。多国籍軍とは協調しながら行動しているが、別の指揮権のもとで行動している、つまり、別の組織である、ということです。なんで、それじゃいけないのでしょうか。なぜに、多国籍軍に参加する、といわなければならないのでしょうか。そのへんを、小泉は説明していません。嘘をついたまま、訳の分からないことを言って通そうとする。何なのか、これは。

 権力が、こういうことをやる。ブッシュ政権も同じように嘘をつきますが、しかしそれはアルカイダがイラクとつながっていたというような、なかなか証明の難しいところを勝手に政治的に言いきってしまうという種類の嘘であって、事実はねじ曲げているが、こういう、だれの目にも明らかな論理のねじ曲げではない。

 わたしは、これまで自民党政府にバカだバカだと文句ばかり言ってきましたが、最近は、正直言って、この日本の政府が怖い。バカですが、こいつら、本当はバカじゃありません。権力を持つ限り、バカはバカじゃないのです。中川とか麻生とか安倍とか石原とか、こういうことをいけしゃあしゃあとやる権力は、マジな話、他にどんなことでもやるんじゃないかと思います。「こういうこと」、とは、わたしたちを、ないがしろにしてよいと思っていることです。論理が通じないということは論理じゃないことをやってくるということです。いままでの論理の集大成である「法」が通じない。法が通じないということは、わたしたちがこの政府と話をする道筋を失うということです。それは何か。それは、超法規的なファシズムです。大政翼賛会です。怖いな、こりゃ。
 イラクの、あの3人のバッシングあたりからでしょうか。政府が、個人を真っ向から攻撃して得意げになっている。政府要人が国民個人を攻撃するコメントを発する、ということは、よほどの重大犯罪人に向けたものでない限り、かつて例がなかったことです。それはいつわたしたちに向かってくるかわかりません。なにせ、論理じゃないのだから。

 ヤバいなあ。
 ブッシュをつぶす。
 小泉自民党を牽制するには、そのドミノ効果しかないのでしょうか。
 まずいね、日本は。

February 10, 2004

学歴疑惑

例のあの古賀なにがしとかいうやつの学歴詐称問題から、今度は安倍幹事長やら小泉首相の大学留学に疑義ありってな具合に、日本じゃ問題になってるらしいね。

そしたら小泉さん、単位を取ろうが取るまいが、「留学は経験が大事だ」なんてまたとぼけたことを言い始めました。この人の詭弁はまったく困ったもんだ。

留学でも入学でも在籍でも何でも、欧米では卒業しなければ何の意味もないのです。それが証拠に、首相官邸のウェッブサイト(www.kantei.go.jp)に入ってみたら、小泉さんの日本語での履歴紹介である「足跡」(http://www.kantei.go.jp/jp/koizumiprofile/2_sokuseki.html)というページでは「1967年 ロンドン大学留学」というのが記述されていますが、英文のサイトの相当ページ「milestone」(http://www.kantei.go.jp/foreign/koizumiprofile/2_milestones.html)ではそれに相当する英文がそっくり割愛されています。英語サイトでは慶応卒業しか書いていないの。面白いでしょ。なによ、これ。

推察するに、英文サイトの英語を監修した英国人もしくは米国人なりが、この「留学」には何の意味もなく、たんに「卒業していないという恥をさらすだけだ」と判断して削除したのでしょう。そういうもんです。留学経験という大事な経験を積んでいながら、そんな常識もわからない留学経験がなんぼのものなのか? 「留学は経験が大事」という言葉自体もでたらめだということがこれでわかるというもんです。

安倍さんの南カリフォルニア大学だってたった1年。

こうなるとお二人とも、お「家筋」がよろしいお金持ちのボンボンのご遊学でしょ。ふつうは「留学」だなんて恥ずかしくて書けない。それより、書いたら叱られますよ。しかし政治家の履歴にはそれがしっかりとはったりの自慢になる。おかしなもんです。これでは、くだんの古賀さんも「卒業」ではなく「留学」と書いておけばよかったわけだ。「留学」というのに何の意味もないと、それを書くのがはばかれて、「卒業」とウソをついてしまったのなら、「留学」といけしゃあしゃあと書き連ね、これで国民は誤解するはずだとシレッとしてる輩とどっちが正直なのか、いや、どっちが不正直なのか、わかったもんじゃないね。これは明白に、詐欺罪の、未必の故意です。

小泉のやばさに、いや、貢献はあるよ、小泉のおかげで政治家がすこしは言葉を話すようになった。しかしそれが詭弁だらけなんだ、とみにこのごろ。自衛隊派遣の詭弁、大量破壊兵器の詭弁、「大量破壊兵器が存在しないということをイラクが証明しなかったから悪い」って、あーた、物事ってのはね、「存在証明」は可能だが、「非在」は直接的には証明できないのだ。それが論理というものです。

小泉はヤバいっす。このヤバさを衝けない民主党はこれまたヤバいくらいにバカだが、このヤバさをチャンスにしなきゃあねえ。小泉以後になってまた森みたいな間抜けが出てきたら衝くにも抜けるだけでぜんぜん衝けないんだから。

December 10, 2003

テロテロとバカみたいに

ちょっと物言い、よろしいか。
というか、いつも物言いなんだがね。

自衛隊のイラク派遣が閣議決定しましたね。
そんでもって、「テロが相次ぐイラクに自衛隊を派遣するための重装備」というのが、当然のように言われていますが、ちょっとお待ち下さい。イラクで起こっているのは、あれは「テロ」じゃないですよ。あれは、国軍の残党が、いままだ“侵略軍”に対してゲリラ戦として戦っているわけです。戦闘、戦争ですよ。じじつ、米国は戦闘終結という変な宣言はしたが、戦争終結はしていない。つまり、ほんとに戦争です。戦争「状態」とか、そういう言葉でごまかすべきでもない。

それを流行語のようにテロ、テロと呼べばいいってもんじゃないでしょう。
というより、そう呼ぶと見誤たる。あなた、ヴェトナム戦争時のゲリラ戦を、だれがテロといいますか?
これはつまり、「戦地に自衛隊を派遣する」と明確に認識しなくてはならない。
これは、歴史を見ても、だれがどう考えても、米国という“侵略軍”勢に加わる、ということです。

わたしはイラク復興に出かけていくことは、必要なことだと思います。
しかしそれには、戦争が終わっていなければならない。
戦争が終わって、それでもテロが続くという状態はあるでしょう。
しかし、現在のイラクは、それではないのです。
憲法がどうだとかいう以上に、その憲法の背景にあった基本精神にのっとって、戦争にはぜったいに加担できない。いま苦しんでいるイラク市民には酷だが、日本の「人的な直接関与」は待ってもらわねばならない。なぜならいま関与しないことで、さらに別の意味で、次元で、分野で、関与できるところが拡大する可能性もあるから、そうやって補償することを必ず検討するということで、いまは忍んでいただかなければならない。

そうしたうえで、戦争が終結した段階で、サンダーバードよろしく国際救援隊として、あるいは「世界の警察」に対峙する概念としての国際的な「世界の消防」国家を標榜して、堂々と出かけていくのです。そのときには、「テロ」で殺されても撤退なぞしないぞと強く示しながら。だって、そのときは、殺す方が悪いと明示されているから。

しかし、いまは、殺す方にも義がある。なぜなら、戦争だからです。義と義との戦いに、武力は行使しない、行使しても始まらない、武力を使っても何の解決にもならない、というのが、我々日本の、痛く辛く、しかし貴重な結論だったんじゃあありませんか。

「危険だからといって派遣しないわけにはいかない」という小泉は、コンテキストのねつ造です。
危険だから派遣しないのではない。戦争だから派遣しないのです。戦争でなければ、危険であっても派遣する。そんなことは当然です。

どうしてそんな自明のことが、日本という国ではわかられていないのでしょうか。
この程度の論理が通用しないって、ちょっとひどすぎやしないか?

December 08, 2003

年の瀬っすねえ

ちらほらあーっとクリスマスカードの届く季節と相成っています。
そうそう、日本だとクリスマスカードはクリスマス、年賀状はお正月、とその時に合わせて送るものだけど、こっちのグリーティングという概念はちょっと違って、メリー・クリスマスってのは「メリークリスマスを送ってね」という意味だし、「ハッピーニューイヤー」ってのも「明けましておめでとう」という意味でゃなくて、「明けましたらおめでたいようにね」という、未来への願望なんだね。だから、その時期のずっと前に届くの。
はい、また一つ、英語のおべんけうでしたね。

でも、こういうさ、なんちうのかなあ、新しいことを憶えていくのはいいことなんだ、正しい知識というのは憶えていかなくてはならないんだ(はい、ここで今回のちょっとした論理の飛躍というかひきつけがあります)、ということを当然の人生の態度として共有していない人というのがけっこう多いのかなあ、と思ってしまったのが、例のハンセン氏病のもと患者の宿泊拒否問題でした。

当該の熊本県南小国町の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」、8日の朝日・コムでは「ホテルを経営する「アイスター」(本社・東京)は8日、同社のホームページで「社の正式見解」として「『宿泊拒否はホテル業として当然の判断』との主張になんら変更はありません」と掲載した。県や元患者らは反発を強めている。」ということらしいね。病膏肓に入るって、こういう人たちの方をこそいうの、とか非難するのは簡単だが、非難しても始まらないのが面倒くさいところ。聞く耳を持たない頑迷なこうした妄想を、それでも辛抱強く折伏していかなければならない。そういう作業をだれかがやらなくてはね、イラクを叩くブッシュと同じことになってしまうのだわ。

それともう一つ、この宿泊拒否された「菊池恵楓園入所者自治会」のほうに、なんだか、すごい電話や手紙が舞い込んでいるらしい。
12/5付けの東京新聞の特報面(これが近年、また読ませて面白いんだわ)によると
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20031205/mng_____tokuho__000.shtml

****
 (ホテル側の謝罪を)入所者側は謝罪文の受け取りを拒否。この場面がテレビのニュースで放映されると、その後三日間にわたり全国から百本以上の電話がかかってきた。「ほとんどが批判、中傷でした。『ごう慢だ』『裁判に勝ったって社会は受け入れてない』などで、年配の人が多かった」
 電話が一段落すると、手紙が届くようになった。こちらも中傷の方が多い。「これはひどかった」と太田さんがいう、はがきの中央に、変形した顔の写真をはり付けたはがきがあった。「人々に嫌悪され、国が差別していたのを謝罪したのをたてにとりいい気になっているが、中央の写真を見よ。これが他の人間と同様か」
 その他の手紙にも、入所者らの気持ちを刺すような言葉が並ぶ。「調子に乗らないの」「謝罪されたら、おとなしくひっこめ」「私たちは温泉に行く暇もなくお金もありません。国の税金で生活してきたあなたたちが、権利だけ主張しないでください」—。差出人は名前が書いてあるものもあるが、「善良な一国民」「女性代表」など、匿名も目立つ。
********

ね、すごいっしょ。
こういうの書いちゃえる人たちって、基本的に、「人生への態度」が違うんだなあって、思わない? 正しさ、とか、そういうこと、端から持ってないというか、諦めちゃってるというか、バカにしてるというか、「世の中、そんなもんじゃねえんだよ」ってドラマの中で言うやつぁ視聴者にはだいたい悪者・いじめ役だって思ってたのだけど、こういう輩って、主人公より、そういういじめ役のほうに感情移入してるのかねえ。

いや、あたしだってね、「正しさ」のもうどうしようもない「おこがましさ」とか「イヤらしさ」ってのは知ってるさね。しかし問題は、そういうのって、「正しさ」が権力を持ったときの話で、だって、あーた、ハンセン氏病に関する「正しさ」って、権力なんて持ったことないでしょね。かわいらしい、それこそ、すぐへなってしまいそうな正しさなんだわ。それを「おこがましい」とは、どの面下げて言えるんだえ? ってことなの、言いたいのは。

でも、そこでふと気づくのよ。
なんだか、こういう抗議文、トーンが一緒で、ちょっと待てよ、またこれ“組織票”なんでないの? まあ、よくある陰謀説みたいに受け取られるかもしれねえけどな。

逆に、組織票だったら納得できるけど、自然発生的にこうもトーンが同じだったら、恐いわねえ。ハンセン氏病元患者はもう病原体を持ってるわけじゃないんだから感染するわきゃないけど、「アイスター」ウイルスは感染するんだ、というか、ナントカ子さまの帯状疱疹のように、他が弱くなったら一気にぼわっと体の表面に出てくるのだね。

あのね、ニューヨークってね、街をエレファントマン病の人とか、五体不満足な人とか、いろいろ平気で歩いてたりするの。市バスなんかも、車いすの人、ばんばん乗せるしね。いま、地下鉄駅(これが古いから)、あちこちで改装工事中なのは、みんな車いす用のエレベーター設置のためなのだ。ま、そういうもんだよ。
先の記事で「中央の写真を見よ。これが他の人間と同様か」ってはがき送った人もね、慣れなのよ。慣れ。初めはびっくりするけど、慣れるの。この「慣れ」にはいろんな条件が必要なんだけどさ。

昔はさ、「中央の写真を見よ。これが他の人間と同様か」って、きっと黒人とかさ、ホッテントットとか、牛女とか、ヘビ女とか、小人症の人とかさ、ジャイアント馬場とかさ、カルホーンとかさ(う、古いな)、平気で言えてた時代があったんだと、思うよ。

でもね、「新しいことを憶えていくのはいいことなんだ、正しい知識というのは憶えていかなくてはならないんだ」という積み重ねでさ、「これが他の人間と同様か」っていう突きつけに、いまはやはり平然と、「そうなんだよ、おぢさん」と応えるのが、気持ちいい人生への態度なんだと、選択したいのだ。

July 19, 2003

市中引き回し

朝日のオンライン
http://www.asahi.com/column/aic/Fri/d_forum/20030718.html
に「市中引き回し」に賛同する投書が7割もあったということが載っていました。けっこう鴻池のおっちゃんのあの発言、人気なんですな。

何なんでしょうかね、こりゃ。ブッシュ化は日本でも進行中なのか。
というより、そういうおバカなことを堂々と披瀝して得意顔でいるのを許す、あるいは面倒なのでただ言わせておく、そのうちに大したことでなくなるのを待つ、といった風潮が蔓延してるんでしょうかね。
わたしゃ悲しいわ。同時に、けっこう恐いわ。

話をするということは面倒なことを考えるということなんです。
しかし、この人たちは面倒なことを考えないで話をする。勢いで語る。だもんで陶然となる。引っ込みが付かなくなる。そんでもって、面倒なこと考えてる間にも人は殺されるんだ、とか言うんでしょうな、そん中の弁の回る小賢しいのは。面倒なこと考えないから人殺しなんかしちゃうんですよ。

リンチについてとか、考えたことがないんでしょう。
集団暴行を加えて人を殺す連中と、自分が同じだということに気づいていない。
そんな大人たちあれば、あんな子供たちあり、ですな、まったく。
そうして、そういう連中は常に自分が多数派に属しているという妄想を、自分の思いは絶対的に善だという虚妄を信じて疑わない。
こういう連中が、ナチスを支持し、天皇にひれ伏し、ブッシュに快哉を叫び、イラクや北朝鮮に核を落とせと言うのです。

「市中引き回しのうえ打ち首」というのは、そういう論理です。
何様だと思ってるんでしょね。
わたしなんぞ、そういう連中には第一に引き回されちゃうでしょう。
対して、私はそういう連中がいても引き回したりしない、というのが絶対的な不公平ですが、この絶対的な不公平を引き受けねば私の論理を完遂できないというのが、こりゃまた絶対的な不公平で、つらいところだがしょうがない。