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February 19, 2019

トランプと始皇帝

国境の壁をめぐる非常事態宣言記者会見の受け答えを聴きながら、思わず「矛盾してるだろ」と一人ツッコミをしたのは私だけではないはずです。「喫緊の事態に対応しなければならない」という宣言のはずが、トランプは「I could do the wall over a longer period of time(壁はもっと時間をかけることもできた)」「I didn’t need to do this, but I’d rather do it much faster(こうする必要はなかったが、もっと手早くやりたかった)」と口にしたのです。このどこが非常事態なのか?

不法移民の7割は合法的に入国しながら滞在期限切れで留まっている人たちであり、米墨国境を違法に越えて拘束される人の数は2000年に160万人だったのが現在は40万人に減っており、さらに犯罪者になる確率は不法移民よりも米国生まれの市民の方がはるかに高い。テロ容疑者はほぼ空港で拘束され、米墨国境では数人に過ぎず、密売麻薬も国境越えよりも航空機や船舶での搬入が大半です。

これらの事実を背景に、これから下院、上院で同宣言無効決議が採決され、可決されても大統領が拒否権を行使し、あるいは同宣言は「違憲、職権乱用、さらに連邦議会が割り当てた国民と州の予算の盗用」などとする訴訟(19日時点で既に16州が提訴)が行われて下級審で支持され、それで最高裁まで争われて結論、という進み行きになります。つまり決着までかなりかかる。その間、壁の建設は事実上差し止めになります。

ということは、この非常事態宣言は実効性は甚だしく乏しく、「壁を作る」というよりも壁を作ると「宣言する」ことが目的です。何のために? 大統領再選のための支持者たちに「自分は戦っている」と見せるために。そうです、これはつまり選挙用のパフォーマンスです。

そもそも大統領には予算を提案する権利はありません。予算は議会の専権事項で、三権分立が機能しています。もし大統領が非常事態宣言で予算まで自分で決定できる前例を認めたら、共和党は未来の民主党の大統領がこれまた「国家の非常事態」だと言って気候変動対策費でもなんでも自分で工面してしまうのを認めざるを得なくなる。

共和党が多数の上院でもこれを危惧する議員たちが非常事態宣言に反対すると見られる所以がそれです。法廷闘争にしても、保守とリベラルが5対4とされる最高裁であってもこの非常事態宣言は、中絶や同性婚といった保守道徳の関係する訴訟と違い、国家権力の構造を揺るがすものですから純粋に論理的に「違憲」と判断されるはずなのです。

おまけに最高裁長官のロバーツ判事はトランプ政権になってから政治バランスを重視し始め、昨年12月の移民規制強化をめぐる判断でも今月初めのルイジアナ州の中絶規制強化に関する訴訟でも、リベラル側の意向に沿った規制強化反対の判断をしているのです。なのでこれほど自明な大統領の権限逸脱、非常事態のデッチ上げを黙過するはずがありません。

トランプの公約は「国境の壁を作る」ではなくて「国境の壁を作る費用をメキシコに負担させる」でした。今回の非常事態宣言を支持する世論もわずか30%ほどでしかありません。これは盤石とされるトランプ支持者層の最低ラインです。

しかも今回の政府閉鎖回避のための当初要求の壁建設費57億ドルが、いまは非常事態宣言で図に乗ったのか工面額が80億ドルに膨れ上がり、全体では最終的に230億ドル(2兆6千億円)もかかるとさえ言われます。

いやいやそんなもんじゃありません。作ったら作ったで膨大な維持管理および修繕費が毎年かかるわけで、それだけで済むわけがない。昨年からの大型減税で10年で1兆ドル(110兆円)も膨らむとされる深刻な財政赤字の中、彼は何をしたいのでしょう?──完成した「壁」を眺め「ザ・グレイト・ウォール!」と感激したいのでしょうか?  同名の「万里の長城」を作った始皇帝に自分をなぞらえたいのでしょうか? そういえば自身を批判する学者を生き埋めにして殺し本を焼いた「焚書坑儒」の始皇帝は、まさに「フェイクニュース!」とメディアを殲滅しようとするトランプ大統領に重なりもします。

もっとも、彼が始皇帝の歴史を知っているかは別の話ですが。

ちなみに、9.11の起きた2001年、当時のジョージ・W・ブッシュ大統領は9月14日に非常事態宣言を行い、それからグラウンド・ゼロとなった世界貿易センタービル跡地に行って犠牲者の追悼式を行いました。一方のトランプは、2月15日(金)にこの非常事態宣言を行ってから3日連続でゴルフコースを回ったのです。最初の問いに戻りましょう。どこが非常事態ですか?

September 19, 2018

「幇間稽古」

『鬼平』と並ぶ池波正太郎の代表作に『剣客商売』があります。その中の「井関道場・四天王」という一編は、四天王とされる4人の高弟から井関道場の後継者を選ぶという話題から始まります。相談を受けた主人公の老剣客・小兵衛が、道場を覗き見して4人各々の稽古づけの品定めをします。その中の一人、後藤九兵衛を見たときに、小兵衛は「あ……こいつはだめだ」と直感します。

この後藤九兵衛、どんな指導法かというと「そこ、そこ。もうすこしだ」とか「残念。いま一歩踏み込みを厳しく」とか「それだ。その呼吸だ」とか「一人一人へうまいことをいってやるもの」で、これでは「十の素質がある門人でも三か四のところで行き止まり」になる「幇間稽古」だと小兵衛は断じるのです。門人の心身を鍛えるのではなく、自分の剣法を売って名声と地位を得んとする道場主の典型タイプ、と斬って捨てて容赦ない。

ふうむ、そうか、小兵衛は「褒めて育てる」タイプではダメだと言っているのか──。

ただ、これは作者池波正太郎の普遍的な判断なのか、それとも江戸時代を背景にした小兵衛の思いなのか、その辺はよくわかりません。けれど、私の大好きな「小兵衛」の話です、そう言われれば確かに褒めて甘やかして育てて、そのまま甘ちゃんになる「やればできるんだけどしないだけ、と言って慢心している」タイプが多かったりするなあ、とも思ってしまうのです。あるいは「厳しくすればするほど傑出してくるタイプ」と「褒められることでぐんと伸びるタイプ」と、その見極めに応じて稽古づけの方法を変えるのが最もよいのかもしれないなあ、とか。

だって、テニスで全米オープン優勝という前代未聞の快挙を果たした大坂なおみには、「幇間稽古」の権化のようなサーシャ・バインというコーチが付いていたんですよ。彼のコーチングは、徹底して「さっきちょっとだけ前向きになるって約束しただろ? 大丈夫。キミならできる。キミならできるよ」とか、「ポジティブになれ。人生はこんなに楽しい。天気もいい。さあ集中しろ」とか、彼女をひたすら励まし褒めることだったのです。彼によって大坂なおみは「三か四」止まりだったかもしれない素質の発露を「十」あるいは十二分に引き上げられたのです。

ここは小兵衛、どう言うか?

さて、ここのところ日本で問題になっているのがスポーツ指導者による、練習の名を借りた異常なパワハラと暴力です。厳しければいいというもんではすでにありません。大相撲では死者まで出ましたし、今年になっても女子レスリングの伊調選手へのいじめや日大アメフト部での反則強要や無理強い、ボクシング連盟での忖度判定やワンマン体制、女子体操、重量挙げ、日体大陸上部駅伝などでの暴力指導と、どこもかしこも立て続けに殴ったり蹴ったりいじめたり排除したり恫喝したりのオンパレード。まるでどこかの専制恐怖政治の国のような在りようです。いったいこれは何なのでしょう?

スポーツ庁の鈴木大地長官はこれらを受けて「スポーツ界の悪い伝統を断ち切る意味でチャンス」と言います。いみじくも彼が公的に認めたように、言われるまでもなく私たちはみな学校の部活動などから経験的に日本のこの「悪い伝統」のことを知っています。だから大坂なおみのあの快挙の後ろに「褒めて育てる」サーシャ・バインのコーチングがあったことを知って、あんなに強権的に怒られたり殴られたりしなくても成功できる道があるじゃないか、と思い始めている。

この「悪い伝統」は軍隊から来ていると言われます。力による徹底支配、絶対の上下関係、自律や思考を許さない命令系統──それは日本の軍隊に限ったことではありません。

そう言われて思い出すのがリチャード・ギアが主演した『愛と青春の旅立ち』(82年)という映画です。リチャード・ギアをはじめとした多く白人の士官候補生を徹底的に、ときには人種的な意趣返しかと思うほど理不尽に絞りあげる教官の黒人軍曹フォーリーは、サディストかと思うほどに容赦ありません。彼は絶対に褒めそやしたりはしない。まさに『剣客商売』の小兵衛の精神です。

そう思ったときに気づきました。ああ、剣客も兵隊も、待っているのは文字通り生死をかけた戦場なのだ。稽古をしなければたちどころに殺されてしまう。鍛錬を通過できないような輩は戦場ですぐに死んでしまう。そればかりか他人をも危険に道連れにすらする。そんなやつらをしごき落としてやることが稽古・訓練の使命なのか、と。ならばそれはむしろ、彼らを死なせないための優しさなのか、と。そのとき、小兵衛とフォーリーは「死」の厳しさの前に同等となる。

第二次大戦の日本軍は兵士たちに「死ぬな」という訓練ではなく、次第に「死んでこい」という狂気を教えるようになりました。しかも戦死者よりも餓死者の方が多いという指揮系統のデタラメぶりを放置しながら。

日本のスポーツ界がいま問題視されているのは、「死ぬ気で戦え」という狂気の精神論と、その精神論に従わぬ選手を「飢えろ」とばかりに排除してザマアミロとばかりに北叟笑む、日本軍ばりの腐った男性性の、いじましくも理不尽な伝統なのです。

剣客や兵士と違って直截的な死が待っているわけではないスポーツ選手に必要なのは、「戦い」という形を取るものが潜在的に持つそんな「死」の厳しさを疑似的な仮説とできる知性と、その「仮説の死」を乗り越えるための科学的な技術論と、そしてその「仮説の死の厳しさ」を克服するための、ときに「幇間」的ですらあってもいい、選手一人一人に寄り添う論理的かつ人間的な「生」の言葉なのでしょう。

そこは小兵衛だってフォーリーだって、ちゃんと頷いてくれるはずだと思いますよ。──ああ、よかった。

August 20, 2018

LGBTバブルへの異和感

私がこれから書く異和感のようなものは、あるいは単なる勘違いかもしれません。

現在のいわゆるLGBT(Q)ブームなるものは2015年の渋谷区での同性パートナーシップ制度開始の頃あたりからじわじわと始まった感じでしょうか。あるいはもっと以前の「性同一性障害」の性別取扱特例法が成立した2003年くらいにまで遡れるのでしょうか。とはいえ、2003年時点では「T」のトランスジェンダーが一様に「GID=性同一性障害」と病理化されて呼称されていたくらいですから、「T」を含む「LGBT」なる言葉はまだ、人口に膾炙するはるか以前のことのように思えます。

いずれにしてもそういう社会的事象が起きるたびに徐々にメディアの取扱量も増えて、25年前は懸命に当時勤めていた新聞社内で校閲さんに訴えてもまったく直らなかった「性的志向/嗜好」が「性的指向」に(自動的あるいは機械的に?)直るようにはなったし(まだあるけど)、「ホモ」や「レズ」の表記もなくなったし、「生産性がない」となれば一斉に社会のあちこちから「何を言ってるんだ」の抗議や反論が挙がるようにもなりました。もっとも、米バーモント州の予備選で8月14日、トランスジェンダーの女性が民主党の知事候補になったという時事通信の見出しはいまも「性転換『女性』が知事候補に=主要政党で初-米バーモント州」と、女性に「」が付いているし、今時「性転換」なんて言わないのに、なんですが……。

そんなこんなで、ここで「LGBTがブームなんだ」と言っても、本当に社会の内実が変わったのか、みんなそこに付いてこれているのか、というと私には甚だ心もとないのです。日本社会で性的指向や性自認に関して、それこそ朝のワイドショーレベルで(つまりは「お茶の間レベル」で)盛んに話題が展開された(そういう会話や対話や、それに伴う新しい気づきや納得が日常生活のレベルで様々に起きた)という記憶がまったくないのです。それは当時、私が日本にいなかったせいだというわけではないでしょう。

そんなモヤモヤした感じを抱きながら8月は、例の「杉田水脈生産性発言」を批判する一連のTVニュースショーを見ていました。そんなある時、羽鳥さんの「モーニングショー」でテレ朝の玉川徹さんが(この人は色々と口うるさいけれどとにかく論理的に物事を考えようという態度が私は嫌いじゃないのです)「とにかく今はもうそういう時代じゃないんだから」と言って結論にしようとしたんですね。その時に私は「うわ、何だこのジャンプ感?」と思った。ほぼ反射的に、「もうそういう時代じゃない」という言葉に納得している人がいったい日本社会でどのくらいいるんだろうと思った。きっとそんなに多くないだろうな、と反射的に突っ込んでいたのです。

私はこれまで、仕事柄、日本の様々な分野で功成り名遂げた人々に会ってもきました。そういう実に知的な人たちであっても、こと同性愛者やトランスジェンダーに関してはとんでもなくひどいことを言う場面に遭遇してきました。40年近くも昔になりますが、私の尊敬する有名な思想家はミシェル・フーコーの思索を同性愛者にありがちな傾向と揶揄したりもしました。国連で重要なポストに上り詰めた有能な行政官は20年ほど前、日本人記者たちとの酒席で与太話になった際「国連にもホモが多くてねえ」とあからさまに嫌な顔をして嗤っていました。いまではとてもLGBTフレンドリーな映画評論家も数年前まではLGBT映画を面白おかしくからかい混じりに(聞こえるような笑い声とともに)評論していました。私が最も柔軟な頭を持つ哲学者として尊敬している人も、かつて同性愛に対する蔑みを口にしました。今も現役の著名なあるジャーナリストは「LGBTなんかよりもっと重要な問題がたくさんある」として、今回の杉田発言を問題視することを「くだらん」と断じていました。他の全てでは見事に知的で理性的で優しくもある人々が、こと同性愛に関してはそんなことを平気で口にしてきました。ましてやテレビや週刊誌でのついこの前までの描かれ方と言ったら……そういう例は枚挙にいとまがない。

それらはおおよそLGBTQの問題を「性愛」あるいは「性行為」に限定された問題だと考えるせいでしょう。例えば先日のロバート・キャンベル東大名誉教授のさりげないカムアウトでさえ、なぜそんな性的なことを公表する必要があるのかと訝るでしょう。そんな「私的」なことは、公の議論にはそぐわないし言挙げする必要はないと考えるでしょう。性的なことは好き嫌いのことだからそれは「個人的な趣味」とどう違うのかとさえ考えるかもしれません。「わかってるわかってる、そういうのは昔からあった、必ず何人かはそういう人間がいるんだ」と言うしたり顔の人もいるはずです。

でも「そういうの」ではないのです。けれど、「『そういうの』ではない」と言うためのその理由の部分、根拠の空間を、日本社会は埋めてきたのか? 「ゲイ? 私は生理的にムリ」とか「子供を産めない愛は生物学的にはやはり異常」だとか「気持ち悪いものは気持ち悪いって言っちゃダメなの?」とか、「所詮セックスの話でしょ?」とか、そういう卑小化され矮小化され、かつ蔓延している「そこから?」という疑問の答えを詰めることなく素通りしてきて、そして突然黒船のように欧米から人権問題としてのLGBTQ情報が押し寄せてきた。その大量の情報をあまり問題が生じないように処理するためには、日本社会はいま、とりあえず「今はもうそういう時代じゃないんだから」で切り抜けるしかほかはない。そういうことなんじゃないのか。

「生産性発言」はナチスの優生思想に結びつくということが(これまでの戦後教育の成果か)多くの人にすぐにわかって、LGBTQのみならず母親や障害者や老人や病人など各層から批判が湧き上がりました。それは割と形骸化していなくて、今でもちゃんとその論理の道筋をたどることができる。数学に例えれば、ある定理を憶えているだけではなくてその定理を導き出した論理が見えていて根本のところまで辿り帰ることができる。けれど「生理的にムリ」「気持ち悪い」「所詮セックス」発言には、大方の人がちゃんと言い返せない。そればかりか、とりあえず本質的な回答や得心は保留して「でも今はそういう時代じゃないんだ」という「定理」だけを示して次に行こうとしている。でも、その定理を導き出したこれまでの歴史を知るのは必要なのです。それを素通りしてしまった今までの無為を取り戻す営み、根拠の空白を埋める作業はぜったいに必要。けれどそれは朝の情報番組の時間枠くらいではとても足りないのです。

この「とにかく今はもうそういう時代じゃないんだから」は、私が引用した玉川さんの言とはすでに関係ない「言葉尻」としてだけで使っています。前段の要旨を言い換えましょう。この言葉尻から意地悪く連想するものは「LGBTという性的少数者・弱者はとにかく存在していて、世界的傾向から言ってもその人たちにも人権はあるし、私たちはそれを尊重しなくてはいけない。それがいまの人権の時代なのだ」ということです。さらに意訳すれば「LGBTという可哀想な人たちがいる。私たちはそういう弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている。そういう時代なのだ」

近代の解放運動、人権運動の先行者であるアメリカの例を引けば、アメリカは「そういう弱者をも庇護し尊重する時代」を作ってきたわけではありません。これはとても重要です。

大雑把に言っていいなら50年代からの黒人解放運動、60年代からの女性解放運動、70年代からのゲイ解放運動(当時はLGBTQという言葉はなかったし、LもBもTもQもしばしば大雑把にゲイという言葉でカテゴライズされていました)を経て、アメリカは現在のポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=PC)の概念の土台を築いてきました(80年代を経るとこのPCは形骸的な言葉狩りに流れてしまいもするのですが)。

それはどういう連なりだったかと言うと、「白人」と「黒人」、「男性」と「女性」、「異性愛者」と「同性愛者(当時の意味における)」という対構造において、その構造内で”下克上"が起きた、"革命"が起きたということだったのです。

「白人」の「男性」の「異性愛者」はアメリカ社会で常に歴史の主人公の立場にいました。彼らはすべての文章の中で常に「主語」の位置にいたのです。そうして彼ら「主語」が駆使する「動詞」の先の「目的語(object=対象物)」の位置には、「黒人」と「女性」と「同性愛者」がいた。彼らは常に「主語」によって語られる存在であり、使われる存在であり、どうとでもされる存在でした。ところが急に「黒人」たちが語り始めるのです。語られる一方の「目的語=対象物」でしかなかった「黒人」たちが、急に「主語」となって「I Have a Dream!(私には夢がある!)」と話し出したのです。続いて「女性」たちが「The Personal is Political(個人的なことは政治的なこと)」と訴え始め、「同性愛者」たちが「Enough is Enough!(もう充分なんだよ!)」と叫び出したのです。

「目的語」「対象物」からの解放、それが人権運動でした。それは同時に、それまで「主語」であった「白人」の「男性」の「異性愛者」たちの地位(主格)を揺るがします。「黒人」たちが「白人」たちを語り始めます。「女性」たちが「男性」を語り、「同性愛者」が「異性愛者」たちをターゲットにします。「主語(主格)」だった者たちが「目的語(目的格)」に下るのです。

実際、それらは暗に実に性的でもありました。白人の男性異性愛者は暗に黒人男性よりも性的に劣っているのではないかと(つまりは性器が小さいのではないかと)不安であったし、女性には自分の性行為が拙いと(女子会で品定めされて)言われることに怯えていたし、同性愛者には「尻の穴を狙われる」ことを(ほとんど妄想の域で)恐れていました。それらの強迫観念が逆に彼らを「主語(主格)」の位置に雁字搦めにして固執させ、自らの権威(主語性、主格性)が白人男性異性愛者性という虚勢(相対性)でしかないことに気づかせる回路を遮断していたのです。

その"下克上"がもたらした気づきが、彼ら白人男性異性愛者の「私たちは黒人・女性・同性愛者という弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている」というものでなかったことは自明でしょう。なぜならその文章において彼らはまだ「主語」の位置に固定されているから。

そうではなく、彼らの気づきは、「私たちは黒人・女性・同性愛者という"弱者"たちと入れ替え可能だったのだ」というものでした。

「入れ替え可能」とはどういうことか? それは自分が時に主語になり時に目的語になるという対等性のことです。それは位置付けの相対性、流動性のことであり、それがひいては「平等」ということであり、さらには主格と目的格、時にはそのどちらでもないがそれらの格を補う補語の位置にも移動可能な「自由」を獲得するということであり、すべての「格」からの「解放」だったということです。つまり、黒人と女性とゲイたちの解放運動は、とどのつまりは白人の男性の異性愛者たちのその白人性、男性性、異性愛規範性からの「解放運動」につながるのだということなのです。もうそこに固執して虚勢を張る必要はないのだ、という。楽になろうよ、という。権力は絶対ではなく、絶対の権力は絶対に無理があるという。もっと余裕のある「白人」、もっといい「男」、もっと穏やかな「異性愛者」になりなよ、という運動。

そんなことを考えていたときに、八木秀次がまんまと同じようなことを言っていました。勝共連合系の雑誌『世界思想』9月号で「東京都LGBT条例の危険性」というタイトルの付けられたインタビュー記事です。彼は都が6月4日に発表した条例案概要を引いて「『2 多様な性の理解の推進』の目的には『性自認や性的指向などを理由とする差別の解消及び啓発などを推進』とある。(略)これも運用次第では非常に窮屈な社会になってしまう。性的マイノリティへの配慮は必要とはいえ、同時に性的マジョリティの価値が相対化される懸念がある」と言うのです。

「性的マジョリティの価値が相対化される」と、社会は窮屈ではなくむしろ緩やかになるというのは前々段で紐解いたばかりです。「性的マジョリティ(及びそれに付随する属性)の価値(権力)が絶対化され」た社会こそが、それ以外の者たちに、そしてひいてはマジョリティ自身にとっても、実に窮屈な社会なのです。

ここで端なくもわかることは、「白人・男性・異性愛者」を規範とする考え方の日本社会における相当物は、家父長制とか父権主義というやつなのですね。そういう封建的な「家」の価値の「相対化」が怖い。夫婦の選択的別姓制度への反対もジェンダーフリーへのアレルギー的拒絶も、彼らの言う「家族の絆が壊れる」というまことしやかな(ですらないのですが)理由ではなく、家父長を頂点とする「絶対」的秩序の崩れ、家制度の瓦解を防ぐためのものなのです。

でも、そんなもん、日本国憲法でとっくに「ダメ」を出されたもののはず。ああ、そっか。だから彼らは日本国憲法は「反日」だと言って、「家制度」を基盤とする大日本帝国憲法へと立ち戻ろうとしているわけなのですね。それって保守とか右翼とかですらなく、単なる封建主義者だということです。

閑話休題。

LGBTQに関して、「わかってるわかってる、そういうのは昔からあった、必ず何人かはそういう人間がいるんだ」と言うのは、この「わかっている」と発語する主体(主語)がなんの変容も経験していない、経験しないで済ませようという言い方です。つまり「今はもうそういう時代じゃないんだから」と言いながらも、「そういう時代」の変化から自分の本質は例外であり続けられるという、根拠のない不変性の表明です。そしてその辻褄の合わせ方は、主語(自分)は変えずに「LGBTという可哀想な人たちがいる。私たちはそういう弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている」という、「LGBTという可哀想な人たち」(目的語)に対する振る舞い方(動詞)を変えるだけで事足らせよう/乗り切ろう、という、(原義としての)姑息な対処法でしかないのです。

これはすべての少数者解放運動に関係しています。黒人、女性、LGBTQに限らず、被差別部落民、在日韓国・朝鮮人、もっと敷衍して老人、病者、子供・赤ん坊、そして障害者も、いずれも主語として自分を語り得る権利を持つ。それは特権ではありません。それは「あなた」が持っているのと同じものでしかありません。生産性がないからと言われて「家」から追い出されそうになっても、逆に「なんだてめえは!」と言い返すことができる権利です(たとえ身体的な制約からそれが物理的な声にならないとしても)。すっかり評判が悪くなっている「政治的正しさ」とは、実はそうして積み上げられてきた真っ当さの論理(定理)のことのはずなのです。

杉田水脈の生産性発言への渋谷駅前抗議集会で、私は「私はゲイだ、私はレズビアンだ、私はトランスジェンダーだ、私は年寄りだ、私は病人だ、私は障害者だ;私は彼らであり、彼らは私なのだ」と話しました。それはここまで説明してきた、入れ替え可能性、流動性の言及でした。

ところで"下克上""革命"と書いたままでした。言わずもがなですが、説明しなくては不安になったままの人がいるでしょうから書き添えますが、「入れ替え可能性」というのはもちろん、下克上や革命があってその位置の逆転がそのまま固定される、ということではありません。いったん入れ替われば、そこからはもう自由なのです。時には「わたし」が、時には「あなた」が、時には「彼/彼女/あるいは性別分類不可能な三人称」が主語として行動する、そんな相互関係が生まれるということです。それを多様性と呼ぶのです。その多様性こそが、それぞれの弱さ強さ得意不得意好き嫌いを補い合える強さであり、他者の弱虫泣き虫怖気虫を知って優しくなれる良さだと信じています。

こうして辿り着いた「政治的正しさ」という定理の論理を理解できない人もいます。一度ひっくり返った秩序は自分にとって不利なまま進むと怯える人もいます(ま、アメリカで言えばトランプ主義者たちですが)。けれど、今も"かつて"のような絶対的な「主語性」にしがみつけば世界はふたたび理解可能になる(簡単になる)と信じるのは間違いです。「LGBTのことなんかよりもっと重要な問題がある」と言うのがいかに間違いであるかと同じように。LGBTQのことを通じて、逆に世界はこんなにも理解可能になるのですから。

さて最後に、「ゲイ? 私は生理的にムリ」とか「子供を産めない愛は生物学的にはやはり異常」だとか「気持ち悪いものは気持ち悪いって言っちゃダメなの?」とか、「所詮セックスの話でしょ?」とか、そういう卑小化され矮小化され、かつ蔓延している「そこから?」という疑問の答えを、先日、20代の若者2人を相手に2時間も語ったネット番組がYouTubeで公開されています。関心のある方はそちらも是非ご視聴ください。以下にリンクを貼っておきます。エンベッドできるかな?

お、できた。



June 13, 2018

凡庸な合意

「歴史的瞬間」というのは何を指して言うのでしょう? 米朝首脳会談の合意文書を読む限り、ここには何ら新しいことはなく、曖昧な約束だけが並んでいました。主要4項目はクリントン時代の94年の米朝枠組み合意とそっくりです。ならば前例のない「歴史的瞬間」と言うのは、北朝鮮の指導者と米国大統領が会って握手した、ツーショット写真を撮った、ということなのでしょう。

ちなみに、94年の米朝枠組み合意のテキストはこうでした。

・双方とも、政治的・経済的関係の完全な正常化に向けて行動する。
・アメリカは、その保有する核兵器を北朝鮮に対して使用せず、脅威も与えないと確約する。
・北朝鮮は、1992年の朝鮮半島の非核化に関する共同宣言を履行する手段をとる

今回の合意骨子はこうです。

・米国と北朝鮮は、平和と繁栄を求める両国民の希望通りに、新たな米朝関係の構築に向けて取り組む。
・米国と北朝鮮は、朝鮮半島での恒久的で安定的な平和体制の構築に向け、力を合わせる。
・北朝鮮は、4月27日の「板門店宣言」を再確認し、朝鮮半島の完全な非核化に向け取り組む。

これに遺骨返還が加わるわけですが、ほとんど同じでしょう? いやいや実は、94年合意の方には他にも「北朝鮮は核拡散防止条約に留まる」とか「凍結されない核施設については、国際原子力機関 (IAEA) の通常および特別の査察を再開する」「北朝鮮が現在保有する使用済み核燃料は、北朝鮮国内で保管し、再処理することなく完全に廃棄する」などの具体的項目が入っているので、むしろ今回の合意文書は中身のないスカスカな後退の表れと受け取られてもやむなしなのです。

前回のブログエントリー「予測可能大統領」で、6月12日の会談は「具体的な結論には至らぬ見通し」「壮大な政治ショーとしてとりあえず世界を煙に巻く算段」と書きました。なぜなら、金正恩の呼びかけに応じた3月初めからの準備期間「3カ月」はあまりに短かったからです。今回の合意文書はまさにその具現でした。トランプは「外交」というものをナメていたのでしょう。

非核化に関して行程表も示せず何も詰められず、結果、政治的成果を焦るトランプの前のめりのパフォーマンスと批判されてもしょうがありません。案の定、文書署名後の記者会見では具体性に欠ける合意ということで集中砲火を浴びていたのです。

その時のトランプは、なんだか初めて壮大な理想論を語っていたような印象です。米国大統領は国民に向けて大いなる理想を提示するのが常ですが、トランプの記者会見は朝鮮半島の統一とか平和的解決とか、ま、理想論というよりは希望的観測といったほうがいいのかもしれません。

結果、唯一具体的に形になったのは、前述の「会った、握手した、ツーショット」という、第一に北が望んでいた「米国大統領を使った金正恩の箔付け」だけです(歴代の米国政府はそれをこそ忌避して、協議を遠くから差配していた)。しかも今回は、大変なカネの節約になるからとトランプは朝鮮半島での米韓軍事演習の取り止めや、在韓米軍の撤退の見通し、さらにはそう遠くない制裁解除の話まで会見で披露しました。外交プロトコルを無視したこうした発言に至っては、「トレメンダス・サクセス(途轍もない成功)」というトランプの自画自賛の常套句は、現時点では金正恩にとっての言葉です。

いえ、しかしそれでもいいのです。今年初めの時点では、この5〜6月というのはともすると朝鮮戦争再開の、まさに「今そこにある危機」を予想されていたのですから。それが回避されたのは何よりです。まずはそれを寿ぎたい。

「外交プロトコルなんてクソくらえ、慣習なんて関係ない。オレはオレ流で誰もできなかったことをやり遂げるのだ」と言うトランプに99%の懐疑を抱きながらも、じつは瓢箪から駒でなんらかの成果が得られるのではないか、と、そしてその場合は、トランプに対する評価の根本のなにがしかを変えねばならないなと、1%の希望を持っていたことは否定しません。

しかし今回改めてわかったことは、トランプは脅しとハッタリの取り引きが得意なディーラーかもしれないが、緻密で理詰めな交渉が出来るネゴシエーターではないということです。そして「外交」というのはまさに、ディールではなくネゴシエーションなのです。

交渉というものは時にカッコ悪い自分をさらさねばならないけれど、ナルシストの彼はそれが出来ない。アメリカに住んで、日本とは違って何度も多くの議論の場に立ち会いました。その中でトランプのような人に何度も出食わしました。強面でぶつかりながらも、実際に一対一で対峙すると、面と向かっては自分の嫌なことは言えない、言うとちっちゃな人間だと思われるのが嫌な、徹底した「いいカッコしい」が結構いるのです。だからそんな局面に至らぬうちにディールをかけようとするのです。

トランプはそういう人物です。脅しとハッタリのディールは得意かもしれないが、理詰めの緻密な交渉は苦手なのです。非核化のプロセスとはまさにその理詰めの交渉に他なりません。そしてそれを「外交」と呼ぶ。記者会見で妙に饒舌だったトランプは、私には雄弁なだけのとても凡庸な交渉人に見えました。

問題はしかしこれからです。クリントンもブッシュも、24年前の枠組み合意や11年前の6カ国協議で今回のトランプと金正恩が「合意」したような、この地点までは来ていました。その「約束」を具体化するときに金正日に裏切られたのです。

トランプは別に特別な大統領ではありません。外交となればクリントン、ブッシュが直面した同じ困難に直面するのです。しかし「今回はその二の舞にならない」と言っているのだとしたら、トランプ政権はこれから彼らとは違う何が出来るのか? 前二者が言わなかった「体制保証」を示したのだから今度は裏切らないはず、というのはさすがにナイーヴすぎましょうから。

「CVID(完全で検証可能かつ不可逆的な非核化)」は実に困難です。なにせ核弾頭が何個あるのかもわからない。核関連施設は400カ所とも言われ、1カ所に1週間かければ8年かかります。

私はCVIDは不可能だと思っています。しかしそんなことは現実世界ではままあることです。ならば北が核を隠し持っても使わせないようにすることです。もちろん公式にはそんなことは言えませんが、同じく朝鮮半島の非核化を望む中ロの思惑も取り込んで、そういう包囲網を作る。いったん世界経済の仕組みの中に取り込めば、経済的繁栄をかなぐり捨ててまでも世界のならず者国家に逆戻りすることは難しい。私たちがもう昭和30年代に戻れないのと同じです。北朝鮮を、金正恩をそういう状況に誘導することが、片目をつぶって偉業を成す現実的政治家の本領だと思っています。

もっとも、その場合はトランプは(遠くて関係ないと思えるのにカネばかりがかかる)東アジアのことなどどうでもよくなる。米国の安全保障体制も変わるでしょう。日本のことだってどうでもいい、となる。その時、常に「100%アメリカとある」アベちゃんはどうするんでしょうね。

June 05, 2018

予測可能大統領

就任直後から何をするか予測不能と言われていたトランプ大統領が、最近はその行動パタンが見え見えで、こんなに予測可能な大統領はいないんじゃないかと思えてきました。米朝首脳会談中止の書簡は、見る人には交渉途中のブラフでしかなかったし、案の定、来週12日のシンガポール会談は壮大な政治ショーとしてぶち上げ、とりあえず世界を煙に巻く算段です。

トランプの行動パタンははっきりしています。すでに多くの人が言うように、自分が主演のテレビ番組をセルフプロデュースしているというのが当たっています。まず自分が目立つこと。ディールと称してハッタリをかますこと。次にそのハッタリを本物かのように装うこと。その後で辻褄が合わなくなり、ウヤムヤな着地点を探すのですが、その時点ではすでに視聴者(支持者)には何かすごいことをやったかのように印象付けているのです。つまり「大言壮語」をあたかも「有言実行」であるかのように仕組むパタンです。

メキシコの壁然り。パリ協定やTPP脱退宣言然り。現時点でハッタリ段階の関税戦争もこれから同じパタンをたどるはずです。

「6月12日」も同じ。3月初めの金正恩の呼びかけに即座に応答したことで、世界はこれで武力衝突が回避できると歓迎しました。「さすがトランプだ、因習に縛られずに自ら動いた」と。ところが派手に「5月中」と予告した日取りではとても詰め切れない。「6月12日」にずらしたのはよしとして、問題はそれでも具体的な結論には至らぬ見通しなので、その後も第2回、第3回と会談を継続させることです。

行動パタンは書きました。ここで、トランプの行動指針が明らかになります。

目下の課題は8月か9月に弾けるかもしれないとされるロシア疑惑捜査をどう躱すかです。6月2日付のNYタイムズが、トランプ弁護団からモラー特別検察官に当てた書簡をスッパ抜きました。弁護団はロシア疑惑に関して「大統領は、訴追されても自分を恩赦する権利を持つ」と、かねてより噂されていたトンデモ論理をやはり持ち出してきました。さらには「大統領に司法妨害はあり得ない。なぜなら大統領は司法のトップであり、いつでも捜査を中止できるのだ」とまで言うわけです。その後のトランプのツイートはまたこの件で狂乱状態です。まあ、大統領は訴追されないという慣行があるので、恩赦云々は世間向けの虚勢であると同時に、いかにトランプ陣営が切羽詰まっているかを表する証左ということです。ただし、モラーは弾劾を下院に提起できる。そして弾劾はもちろん恩赦の埒外です。

もう1つの行動指針は11月の中間選挙での勝利です。これは上記の弾劾にも関わる死活問題です。全員改選となる下院は民主党が有利と言われ、多数を獲得されれば弾劾に弾みがついてしまいます。だから何がなんでも勝たねばならない。

そのためには、北との関係は「6月12日」でファンファーレ高らかに前奏曲、それから「成功」を小出しにつなげながら11月以前にクライマックスへ到達するようにした方が良いかもしれない、とトランプが考えても不思議ではありますまい。しかし「始める前から決裂」は最もマズいので、トランプは北の非核化は段階的でもいいと会談実現にハードルを下げたのです。

ところで段階的非核化の容認とは、実は94年の米朝枠組み合意や03〜07年の6カ国協議での取り決めと同じです。その何れもが北朝鮮の約束反故で破綻し、トランプはそうやって失敗した2人の大統領、クリントンとジョージ・W・ブッシュを口汚く嘲り非難してきたはずです。なのにまた自分も同じことをしようとしている。何が違うのでしょう。

メディアはもちろんその点を鋭く衝いています。だからマティス国防長官やクドロー国家経済会議議長が「制裁解除は北朝鮮の非核化の最後のプロセス」と、クリントンやブッシュの時とは違うと強調しているのですが、おかしなことにここ最近のトランプ自身は制裁解除については言及しなくなっている。会談実現と非核化プロセスに関する発言だけなのです。

これも大言壮語の陰で「ウヤムヤな着地点を探す」という行動パタンです。表立っての経済制裁解除は難しいでしょうが、トランプのことです、金正恩に、このところ急接近の中国とロシアの制裁逃れ支援は目こぼしするくらいのことは言うかもしれません。

何れにしても再びの対話路線回帰で「対話は無意味」と言い続けてきたどっかの首相は梯子を外された格好ですが、トランプは圧力一辺倒の前言との齟齬を取り繕おうと、さらに踏み込んで朝鮮戦争の終戦宣言から平和協定締結という大団円を演出したいようです。もっとも、それこそが北朝鮮の思うツボなのですが、ノーベル賞がちらつく彼にはそこはどうでもいいのです。

我田引水、牽強付会、曲学阿世、傲岸不遜……たとえ今回も過去と同じ「対話のための対話」だったとしても、とりあえず武力行使が回避されたのは喜ばしいことです。が、トランプ流の行き着く先に待つ世界を思うと、暗澹たる気分は続いています。

May 15, 2018

揺さぶりと鬩ぎ合いの果てにあるもの

エルサレムへの大使館移転やらイランとの核合意の反故やら、ここにきてトランプ政権はやりたい放題です。イスラエル軍の発砲で抗議のパレスチナ人側に百人を超え何とする死者が出ています。今年初めまでこのトランプの手綱を握っていた軍人トリオと実業家の2人までがポンペオ(国務長官)とボルトン(安保担当補佐官)に置き換わり、首席補佐官のジョン・ケリーもすっかり骨抜きにされて最近はすっかり埒外に置かれて、この政権はとうとうスーパーネオコン政権に変身しました。「アメリカ・ファースト」からさらに進んで、「世界はアメリカ=トランプのためにある」という政権です。ノーベル賞の掛け声もあって浮かれているトランプの虚言は今、発足当時の1日平均4.9回からほぼ2倍の9回にまで上昇したとか。

イランにも北朝鮮にも非核化を徹底させると言いますが(そしてそのためのイラン合意離脱と米朝首脳会談ですが)、イランと北朝鮮では地政学的条件が全く違う。そこで同じことはできません。だから妥協に妥協を重ねてやっとあの「イラン合意」にたどり着かせたのです。オバマのやったことは全てひっくり返すというトランプの執念だけが暴走しています。彼の政治は、彼を支持する30数%の米国民だけのための政治です。

米朝首脳会談のシンガポールというのはアメリカが望んだことです。韓国の文在寅が提案した「板門店」も、トランプにはテレビ的に劇的で演出もしやすく魅力的だったのですが、板門店は二番煎じであり韓国がまたホスト役として注目され、さらに南北和平・朝鮮戦争終結の気運と期待に押されてトランプの手柄であり狙いである「非核化」が霞む、という懸念が示されました。

板門店だと朝鮮戦争のもう一方の当事者である中国の不在が問題にもなります。そこで当初の予定どおり、米韓・中朝のいずれからも中立であるシンガポール案が通ったようです。

いずれにしても最初は5月下旬とされていたのが6月中旬の12日にずれ込んだのには、かなりのすったもんだがあったからです。とにかく何が何でも「ディールは大成功」と発表すべく金正恩からの会談申し入れに乗っては見たものの、その後3月を通して米メディアが「核放棄の査察検証に時間がかかる」「結局は過去の枠組み合意や6者協議と同じでまた北朝鮮に核放棄の約束を反故にされる」と批判を続けました。「アメリカの大統領が金正恩と会うということは、何の保証もなく北朝鮮を国家として承認してしまうこと。北の思うツボだ」というわけです。

それを方向転換すべく強硬派のポンペオ、ボルトンが登場します。北朝鮮にギリギリとリビア方式の核放棄を迫るのです。それは敗戦国でもないのに「武装解除」とさえ呼べるほどの無理難題です。それを飲ませるには時間がかかる。米朝会談の日程はそこから水面下で目まぐるしく動きます。

こうして4月初めから唐突にトランプは開催時期を「6月初旬」と言い始めた。そのうちに4月27日の南北首脳会談で和平ムードが高まりました。そこで強気に出た北朝鮮はまず制裁一本の日本の態度を「平和の流れを感知できていない」と非難。5月6日には米国の制裁、軍事的威嚇の継続は「問題解決に役立たず」との異例の警告を行いました。米朝の駆け引きはピークに達します。会談は不調に終わるかも、あるいは中止になる恐れも、との観測も出たほどです。

そこからが急でした。金正恩は5月7〜8日に大連に飛んで習近平と再会談。もちろん翌9日に再訪朝するポンペオとの首脳会談準備交渉に、中国の後ろ盾を頼んだわけです。そしれ習近平はトランプに電話をする。そこで何かの妥協があり、金正恩は拘束中の米国人3人をポンペオに引き渡すという、重要なカードを手放したのでしょう。

この3人のカードは、別に米朝首脳会談の直前でも同時でも直後でもよかったはずです。なのにこの時点で渡した。階段盛り上げムードを高めると言っても、まだ一ヶ月以上も先の話をいま盛り上げても、という感じがします。そこには何かがあったはずです。

この一連の流れの読みにそう間違いはないと思います。ポンペオ・金正恩会談での「妥協」が何だったのか、それはトランプ・金正恩会談を見なければわかりません。いずれにしてもシンガポールには習近平も姿を現すらしい。

金正恩は果たしてゴルバチョフになろうとしているのか、それともその先のプーチンを狙っているのか、それもいずれ明らかになります。

歴史的な米朝首脳会談まで4週間を切っています。アメリカはイスラエルやイランの混乱で中東に力を注がねばならなくなります。そこを見据えて北朝鮮はまだ直前まで揺さぶりを掛けてくるでしょう。米中朝韓の役者が揃って、さてどんな世紀のドラマが、あるいは茶番が用意されるのでしょうか。

May 02, 2018

ソシオパス的世界

南北首脳会談を挟んで、トランプが妙に浮かれているというか過剰に高揚気味です。まあいつもそうだとも言えるのですが、今月か来月に行われる米朝首脳会談の見通しが立ったせいではないかとも言われています。

4月27日の文在寅大統領と金正恩委員長との会談はアメリカのメディアではあまり騒がれませんでした。金正恩が登場したというのはニュースですが、内容的には既定路線の形式的な共同宣言だった、つまりは「お楽しみはこれからだ」的な、米朝首脳会談への橋渡しにとどまったせいかもしれません。その代わりこの日は、トランプが前日朝に電話出演したFOXニュースの「FOX and Friends」の話で持ちきりでした。30分間のべつまくなし喋り捲ったその「暴走トーク」の異常さにドン引きしていたのです。

どんどん声のトーンが上がり詰めるそのトークは、ロシア疑惑では自分は無実だし、ポルノ女優との性的スキャンダルもそんなものはフェイクニュースだし、その女優に口止め料を支払った個人弁護士は自分には「本当にタイニーな役割」しか持っていなかったとか、とにかくスタジオの3人の司会者も呆気に取られて質問をさしはさむタイミングをなかなか見つけられず、その間ただただポカンとしているしかないほどのマシンガンぶりでした。精神状態ほんとうに大丈夫なのか?

南北会談後にはまた、これまで「チビのロケットマン」と揶揄していた金正恩を「尊敬に値する」と手のひら返しを見せたり、会談へ向けての米朝交渉も「とてもうまく行っている」として「とても劇的なことが起こるかもしれない」と思わせぶりに語ったり、さらに翌日のミシガン州の支持者集会に登壇しては観衆からの「ノーベル賞!」の連呼にまんざらでもない笑顔を見せたりと(これはなんでもオバマと張りたい彼には「まんざら」以上の歓喜だったでしょうが)、もうすでに米朝会談は「大成功」と言っているような余裕なのです。

その背景には実は、水面下での北朝鮮へのギリギリの軍事的脅しがありました。あまり報道されていませんが、現在、朝鮮半島周辺には世界最大の米海軍の病院船マーシーが展開中あるいは展開に向けて航行中です。インド・太平洋の同盟・友好国とのパートナーシップを確認するというのが公式のミッションなのですが、今回初めてイギリス、オーストラリア、フランス、ペルーそして日本の乗員も加わる国際ミッションになっています。

しかしそもそも病院船とは、武力衝突が起こった時に負傷した米兵を即座に治療・手術する船のこと。マーシーは全長272m、排水量7万t、ベッド1000床と12の手術室を備え、医師・看護師などの医療要員及び運航要員計800人が乗船するまさに動く巨大病院です。湾岸戦争では690人を収容し、300人に緊急手術を実施しました。

この病院船は軍常勤の医師らだけでは足りずに民間の医療従事者を"徴集"することになります。なので、実際には本当の差し迫った軍事危機にしか展開しません。つまり、喫緊の軍事攻撃の有無を事前に知るためのキーファクターの1つがこの病院船の動向の察知なのです。

このマーシーが最ディエゴの海軍基地を出港したのは2月23日のことでした。インド洋へ向けて航行し、そして今現在は朝鮮半島周辺にいつでも展開可能の状態です。ということは、出港の少なくとも数カ月前には展開を決定していたということです。つまり今年初めにはすでに、トランプ政権は両面作戦ではありましょうが朝鮮有事をも想定・準備してのマーシー派遣を決めていたということです。本気だったわけです。

どういうタイミングか、それらが2〜3月という平昌オリンピック・パラリンピックに向けて収斂していきました。北朝鮮は核ミサイル実験をある程度まで成功させ、ひと段落していた。米国は武力行使を真剣に準備していた。その間に挟まれた文在寅が五輪の平和モメンタムを利用してどうにか米朝衝突に割って入ろうとしていた。そこから北朝鮮の平昌五輪参加、文在寅特使の金正恩面会、金正恩からの米朝首脳会談の呼びかけ、トランプによる米朝首脳会談の即座の受け入れ──という具合にトントン拍子で進んでいったのでしょう。そして現在に至る、というやつです。

しかし北朝鮮の核凍結、核廃棄の"宣言"は今に始まった話ではありません。1994年の枠組み合意、2003年から2007年に及ぶ6か国協議のことごとくが徒労でした。それらと今回とは何が違うのか?

今も北朝鮮は完全な核放棄までには2年はかかるとしているようです。対してトランプのアメリカは6か月で全てをやれと要求しているようです。「6か月」というのはもちろん、11月の中間選挙を照準にしているのは明らか。しかしいずれにしても今年「11月」までに北朝鮮が本当に核を放棄したのかどうかなど、検証できるはずはありません。問題はだから「11月までに核を放棄する」と言わせることこそが(トランプにとって)重要なのだということです。

「北朝鮮は屈する。米朝会談はその線で進んでいく」──そう確信するトランプは、だからいま高揚のピークにあるのかもしれません。ポンペオ国務長官やボルトン安保担当補佐官ら強硬派は最後まで北朝鮮を信じてはいないようですが、そんなことは関係ないのです。とにかく見かけ上でもそういう形に落とし込む、それがポイントなのです。たとえ非核化に関する会談成果が具体的でなくとも、トランプはどうあってもそれを「大成功」とぶち上げる構えでしょう。そうして11月の中間選挙まで「検証不可能」な「成功」を吹聴して乗り切るつもりです。

やられたらやり返す、言うことを聞かないやつは倍返しでねじ伏せる、あるいは抹殺する──金正恩の北朝鮮のようなソシオパス国家には、確かに表向き、トランプのようなソシオパス的な対抗権力の行使がいちばん有効に見えるかもしれません。けれどそんなソシオパス同士が幅を利かせる世界は、たとえそれで一時的に平和が訪れるとしても間違いなのです。

なぜならこの対抗策は目先の効果しか発揮しないからです。その手法が世界中に波及するとしたら、世界は一時的な平和に溢れるというよりはむしろ「一時的な平和なるもの」をめぐって大混乱に陥るでしょう。「一時的な平和なるもの」の陰に鬱憤は堆積し、根本的な解決が訪れないまま堕落が深化します。

ソシオパスはソシオパスでしかない。その場しのぎで"善処"していてもそれは必ず不可逆的に破滅へと向かうのです。それを憶えていてください。

March 07, 2018

電撃訪朝を狙うトランプ?

「北朝鮮危機」は平昌パラリンピックも終わってしまう3月末から4月だとずっと言ってきました。トランプ政権はそれに向けて主体的にも、かつ状況的にも、かつ必然的なようにも動いていました。

まず、対話路線=外交を司る国務省が北朝鮮対応を進めるどころかどんどんと主役の座から離れていっていました。空席のままの駐韓大使に検討され、韓国政府からアグレマン(同意)まで得ていたジョージタウン大学教授のビクター・チャは対北軍事攻撃に抑制的である発言を続けてトランプの不興を買い、1月末の時点で大使候補から外されました。G.W.ブッシュ政権下で北朝鮮の核問題を巡る6カ国協議次席代表を務めた人物で、本来は対北強硬策を唱えていた人物です。その人までがトランプ政権のイケイケ路線には異議を唱えた。そこでチャに代わって名前が挙がっている人物の1人は、2010年の対北軍事作戦計画「5029」の策定に関わった元在韓米軍司令官のウォルター・シャープです。

国務省本庁でも北朝鮮を含む東アジア・太平洋問題で実務を担当する次官補がまだずうっと決まっていません。次官補代行のスーザン・ソーントンという中国の専門家が昨年12月19日に代行から正式に次官補へと指名されたのですが、議会承認がまだなのです。

そんな時に3月2日付で、北朝鮮担当特別代表だったジョセフ・ユンが「個人的な決断」で退任してしまいました。韓国生まれのユンはオバマ政権で北朝鮮担当特別代表に就任し、国連駐在の北朝鮮代表部次席大使パク・ソンイルを介しての、所謂「ニューヨーク・チャンネル」を稼動して米朝間の直接対話を模索してきました。北朝鮮に拘束されて意識不明に陥ったアメリカの大学生オットー・ワームビアさん(帰米後に死亡)を解放するためにも活躍しました。

対北対話路線勢力はトランプ政権内で圧倒的に力を失っていたのです。そして平昌が終わり、モラー特別検察官のロシア疑惑捜査がじわじわと迫る中、全てをちゃぶ台返ししてしまうような対北軍事行動が懸念されていたわけです。

実はそれもトランプにとって、日米韓というか全世界にとっても、後は野となれ山となれ式のひどい結末しか見えないトンデモ選択なのは明らかでした。なのにトランプはやるかもしれなかった。

そんな時に平昌五輪の余勢を駆って今回の南北会談での「非核化言及」と「南北首脳会談開催合意」です。もちろん在韓米軍撤退だとか時間稼ぎの恐れとか、色々と面倒くさい話がついていますが、そんなことより何より、これで3月末から4月にかけての「北朝鮮危機」はとにかく完全に吹っ飛んだと考えてよいということなのです。

さてそれで、いま誰が一番喜んでいるのかというと、それはもちろんトランプです。金正恩もとりあえずは米軍による攻撃が回避されることで一安心ですが、経済制裁はまだ続きますから「喜んでいる」というわけではありますまい。対してトランプはアルミと鉄鋼の高関税措置で経済担当トップのゲリー・コーン経済評議会議長は辞めるは、国家安全保障担当のマクマスター補佐官の不仲辞任説は止まないは、ジョン・ケリー首席補佐官による娘と婿のイヴァンカ&ジャレッド・クシュナー排除の動きは急だは、不倫疑惑で13万ドル(1380万円)も払って口止めしたつもりのポルノ女優が、いや、性的関係はあったと顔出し発言して口止め契約無効の訴訟は起こすは、ケリーアン・コンウェイ上級顧問が去年12月のアラバマ上院議員補欠選挙で自分の公職の地位を利用してテレビで散々共和党のあのセクハラ候補ロイ・ムーアを公然と推したのはハッチ法違反だと特殊検察官局(OSC: 倫理違反を監視する政府機関)に指摘されるは、北朝鮮をどうこうするような余裕もないくらいに政権が混乱しているのです。

そんな時に北朝鮮があたかも軟化したかのような対応を見せた。なんとラッキーなのでしょう。

これに喰らいつかない手はありません。トランプは6日のスウェーデン首相との共同記者会見の最中、朝鮮半島の緊張緩和の理由を問われ「Me(自分のおかげ)」と冗談めかして答えていました。もっともすぐさま「いや、誰にもわからない」と"修正"していましたが。

確かに制裁は効いているようです。ところがここでにわかに現実味を帯びているのが、アメリカも北朝鮮も、この両国は現在、全てがトップ2人の気ままな決断でどうにでもなっているということがより如実になって、ひょっとしたら1972年のニクソンの電撃訪中みたいなことがまた起きるかもしれない、いやむしろトランプは対北軍事行動とは真逆の電撃訪朝によって、モラー特別検察官チームによるロシア疑惑捜査からの目逸らしという、ちゃぶ台返しと同じ効果を狙ってくるに違いない、ということです。

これはかなりあり得ると思います。実はアメリカ大統領の直接訪問による、北朝鮮の核問題解決を狙った米朝首脳会談というのは、かつてビル・クリントン政権の任期最後の2000年に検討されたことがありました。クリントン政権は1993年の発足後すぐに北朝鮮の核開発とミサイル、テロ支援の問題に直面しました。大統領最後の仕事として、彼はまずニクソン訪中の時のキッシンジャーよろしく2000年10月にマデリン・オルブライト国務長官を電撃訪朝させ、大統領親書を渡してクリントン訪朝の根回しをしたのです。もしこれが実現すれば、北朝鮮は金正日の画期的な決断で当時まだ持っていなかった核兵器や長距離ミサイルの開発放棄の道を進んでいたかもしれません。

ところがその訪朝は突然中止されます。クリントン民主党政権の後継のはずだった副大統領のアル・ゴアが、11月6日の大統領選挙で共和党のジョージ・W・ブッシュに逆転負けを喫したのです。クリントンが訪朝してもその後が続かない。金正日との首脳会談の意味がなくなったのです。

いつも言っていますが、その後のブッシュ政権(2001〜2008年)は、9.11後の中東対応とチェイニー、ラムズフェルドのネオコン強行路線で北朝鮮との対話をすっかりやめてしまいました。すなわち、北の現在の核兵器と大陸間弾道弾の開発は、「対話路線」の失敗ではなく、「対話路線の中断」による失敗だったのです。

さてトランプです。「ディール」の"天才"と自負する彼は、とにかく自分が直接出て行って直談判すれば誰でもみんな折れてくると思っています。北朝鮮の若造を相手に、それは赤子の手をひねるようなものだと思っているはずです。これは全く私の推測ですが、ホワイトハウスは彼の号令の下、すでに北朝鮮への電撃訪問と具体的な「ディール」内容の提示を検討していると思います。それで成功すれば(というか成功を確信して)「ほらオレは安定したディールの天才だ」とまた自慢できると思っているのですから。

そこで日本です。安倍政権はどうするつもりでしょう?

韓国嫌いでウジウジとアメリカの「100%」のお追従をするばかりだった日本は、韓国は自由陣営だからこちらの仲間だという前提を根拠もなく拠り所にしていたのですが、蓋が開いてみると北朝鮮と韓国は本来は同じ民族、いわば縒りを戻そうとする夫婦みたいなものです。日本などお構いなしでどんどんと接近してしまう。「それは罠だ、これまでと同じく時間稼ぎだ」と”警告”しても、「他人のお前が余計なお世話だ」と聞いてもらえません。そうやって事態は蚊帳の外でどんどん進みます。そのうちにニクソン=毛沢東の時のように頭越しにトランプ=金正恩会談が実現するかもしれない。これまで「強硬策」一本でおだてられて木にも上がったのに、急に梯子を外されてしまうかっこ悪さに繋がるかもしれません。

そういうかっこ悪さを避けるためにも、そしてどうにか拉致された人たちを日本に戻すためにも、この南北急接近にもかっこよく対応できる外交的立ち位置のオプションを用意しなくてはなりません。それは何か? それはこの問題で、自分は韓国、アメリカ、中国に次ぐ4番目の国に過ぎないということを自覚して、外交の主問題ではあくまでも補佐役、橋渡し薬、まとめ役に徹することなのです。余計な口出しではなく、とにかく拉致問題に限っては堂々たる当事者だという振る舞いに徹することなのです。もうすでに最初のボタンから勘違いしているから、そういう対応にはやや遅すぎるかもしれませんが、拉致被害者のことを考えれば、かっっこ悪いところからでも始めなければならないはずです。それだけが残された、選択し得るかっこよさなのだと思います。

February 21, 2018

不信と怯えの愚かしさ

大統領選を混乱させた罪などで13人のロシア人とロシアの3企業を起訴したことや、自分の選対副本部長を務めたリック・ゲイツがもうすぐ正式に司法取引に応じるだろうことが報じられ、トランプは先週末にまた怒涛の21連発癇癪ツイートを炸裂させました。さらにFBIを「ロシア疑惑に時間を使い過ぎ」てフロリダの高校乱射事件を防げなかったと批判するに至っては、当の高校の生徒の「FBIを責めるな。これはFBIの問題ではなく銃撃犯の問題だ。それにFBIの責任者はあなたではないか」という指摘で十分でしょう。

モラー特別検察官チームによるロシア疑惑を中心とする捜査は大統領選への選挙介入が今回初めて具体的な「罪状」として明らかになるなど、いろいろなことが同時進行していてついには今日は娘婿ジャレド・クシュナーのビジネスとの利益相反までもがニュースになっていました。いろいろ面倒なのでそれらはまとめて別の機会に書きます。今回はヴァレンタインズ・デーに起きたフロリダの乱射事件に関してです。

現場となったパークランドは州南東部、フォート・ローダーデイルに近い比較的リベラルな土地柄で、「フロリダで最も安全な街」のはずでした。その高校もマージョリー・ストーンマン・ダグラスという20世紀の偉大な環境保護家でジャーナリストかつフェミニストの名を冠した学校で、事件後の生徒たちの発言も実に知的で鋭い主張を含むものでした。彼らは3月24日にワシントンや全米大都市で大規模な銃規制デモを呼びかけるなど、全米ライフル協会(NRA)とその周辺政治家たちへ、高校生らしい直截的な正義感に溢れた厳しい批判を続けています。ちなみに大統領選ではNRAら銃ロビーはトランプ支援に3040万ドル(33億円)以上を費やしました。下院議長のポール・ライアンには17万ドル(1800万円)以上のカネが流れています。

何度も書いていますが、アメリカで銃規制が進まないのはこうしたNRAの政治圧力もありますが、その根幹には修正憲法第2条の「銃を持つ権利」の下に、国家への不信と、他者への怯えがあるからです。前者は建国の建前ですが、問題なのはむしろ、建国過程の本音とも言える後者の心理です。

アメリカは基本的に他者の土地を奪って作った国です。警察力もなく自分で守らねばならなかった家や命です。現在だって、中西部や南部の広大な田舎では自分の命は自分で守る、というか余所者は疑ってかかるのが普通でしょう。警察を呼んだってはるかかなたからいつ来てくれるかわからない。コミュニティが守ってくれるのを待つわけにもいかない。そうすると生き方の基盤に、どうしたって自分は自分で守る、という姿勢が染み付くのです。そこでは自分は銃と一体化しています。銃を持ってないと裸でいるみたいな気分だと聞いたこともあります。私たちに置き換えればさしずめ携帯電話とか財布を持たずに外出しちゃったような、そんな身近な、でも実に深刻な孤立無援の不安とでもいえばいいでしょうか?

銃社会に慣れるというのはそういうことなのかもしれません。そうやってアメリカには3億丁もの銃が溢れ、年間1万人以上が銃で死ぬのです。

ところで、ひとつ気づきませんか? アメリカでの銃の蔓延は実は世界の軍拡競争と同じ原理なのです。他国への不信と怯えとが基となっていくらでも軍備を拡大する。安全を求めながら結局は他者も鏡写しに同じ安全を求めて、結果、互いに武器を溜め込んで一触即発の破滅の危機を招いてしまう「安全保障のジレンマ」というやつです。軍備というものは需要と供給の法則に外れて、実際の需要ではなく恐怖の妄想で際限なく供給されるのです。そのうちに何百回も地球を破壊できるような核兵器が溜まってしまって、人類はやっと大型の戦略核だけでも減らそうという気になった。1990年代からのSTART(Strategic Arms Reduction Talks/Treaty=戦略兵器削減交渉/条約)というやつがそれです。

北朝鮮の核開発も、遅ればせながら同じ自分の安全を求める「不信と怯え」が動機なのです。銃を持つ権利を謳うアメリカ人が、北朝鮮におまえは武器を持つなと非難する資格は本当はありません。言えることはただ「むやみな不信と怯えは愚か者の落とし穴だ」という、アメリカ自らの現状を憂える自戒の言葉のはずです。

おかしなことが起きています。銃規制を進めようとしたオバマ政権下では、自分の銃が取り上げられてしまうと怯えた人たちがこぞって銃を購入して販売数はうなぎのぼりでした。ところがそれを引き継ぐはずのヒラリーではなくトランプ政権の誕生で人々は安心したのか、逆に(いつでも買える)銃を買わなくなってしまった。そんな時に世界で最も古い歴史を持つ銃器メーカーの1つ「レミントン」が破産申請をする予定だというニュースが伝わりました。今回の高校乱射事件の前日のことです。スミス&ウェッソンを抱えるアメリカン・アウトドア・ブランズやスターム・ルガーといった企業の競合するアメリカの銃器業界は、トランプの大統領就任決定以降、売り上げの低迷に直面しているのです。

この点でもアナロジーが成立します。軍備増強を進めるトランプ政権は国防費を当初予定よりも大きく7兆円(13%)ほども増やして70兆円規模(国防費だけで日本の国家予算にも匹敵する額です)にする計画です。軍拡を経済拡大と結びつける共和党の伝統的な手法ですが、アメリカが軍拡をすると同盟国は安心して防衛費の伸びを抑える傾向になる。それはまずいのでトランプはアメリカの武器兵器(日本では安倍政権下でこれを「防衛装備品」と呼ぶ詭弁を使うようになりました)を買ってくれと懸命に売り込んでいる。昨年の最初のアジア歴訪でも、トランプと各国首脳との会談の主題は「北朝鮮」を二の次にしてまずはアメリカの武器の売り込みでした。アメリカがレミントンのようになっては困るのです。

そうして際限なく世界中に「銃」が行き渡ることになるのです。

それでも人類はやっと戦略核の削減に動き出していると書きました。これは、銃規制でいえば強大銃器つまり攻撃用ライフルや自動小銃の規制に当たります。今回も使われたAR-15のような大型で強力な銃への規制です。そもそも、心に問題を抱えた19歳がそんな攻撃用ライフルを簡単に買えちゃうなんて、どうしたっておかしいでしょう、という話です。それを規制しよう、厳格化しようというのは実に真っ当な対応の仕方ではありませんか? ところがそれすらNRA周辺は蟻の一穴になると「怯え」るのです。そんなバカな、でしょう?

人類は戦略核の愚かさに気づいたのに、アメリカは分不相応な強大銃器の所持許容の愚かさに気づいていない。いや逆に8年ぶりの国防政策「核態勢見直し(Nuclear Posture Review)」で「使える核=低出力核兵器」を増強すると明言した大統領です。この力任せ、力自慢、威丈高の元を質せば、そこに北朝鮮と同じ、武器を誇示しなければ不安でしょうがないという「怯え」があることは明らかなのです。

私たちは、この「怯え」を克服しない限り軍縮はできません。銃規制もできない。「怯え」を克服するのはそして、理性と理性を基にした相手とのコミュニケーションに頼るしかないのです。そこに「怯え」に替わる新しい生き方の共通基盤を構築するしかないのです。それがなければ人間は常に「怯え」の下の「安全保障のジレンマ」に陥ることを繰り返すしかないのです。そんな無限ループが甚だしく愚かなことであるのはわかっているはずなのに、さて、人類はその呪縛を越えられるほどに賢いでしょうか?

少なくともマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校の生存者高校生たちは、そのループを断ち切るために賢くあろうと懸命に訴えているように見えます。

January 04, 2018

性と生と政の、聖なる映画が現前する

新年最初のブログは、先日試写会で観てきた映画の話にします。『BPM ビート・パー・ミニット(Beat Per Minute)』。日本でも3月24日から公開されるそうです。パリのACT UPというPWH/PWA支援の実力行使団体を描いたものです。元々はニューヨークでエイズ禍渦巻く80年代後半に創設された団体ですが、もちろんウイルスに国境はありません。映画は昨年できた新作です。2017年のカンヌでグランプリを獲ったすごいものです。私も、しばらく頭がフル回転してしまって、言葉が出ませんでした。やっと書き終えた感想が次のものです。読んでください。そしてぜひ、この映画を観ることをお薦めします。

***

冒頭のAFLS(AGENCE FRANCAISE DE LUTTE CONTRE LE SIDA=フランス対エイズ闘争局)会議への乱入やその後の仲間内の議論のシーンを見ながら、私は数分の間これはドキュメンタリー映画だったのかと錯覚して混乱していました。いや、それにしては画質が新しすぎるし、ACT UPミーティングのカット割りから判断するにカメラは少なくとも3台は入っている。けれどこれは演技か? 俳優たちなのか? それは私が1993年からニューヨークで取材していたACT UPの活動そのものでした。白熱する議論、対峙する論理、提出される行動案、そして通底音として遍在する生と死の軋むような鬩ぎ合い。そこはまさに1993年のあの戦場でした。

あの時、ゲイたちはばたばたと死んでいきました。感染者には日本人もいました。エイズ報道に心注ぐ友人のジャーナリストは日本人コミュニティのためのエイズ電話相談をマンハッタンで開設し、英語ではわかりづらい医学情報や支援情報を日本語で提供する活動も始めました。私もそれに参加しました。相談内容からすれば感染の恐れは100%ないだろう若者が、パニックになって泣いて電話をかけてくることもありました。カナダの友人に頼まれて見舞いに行った入院患者はとんでもなくビッチーだったけれど、その彼もまもなく死にました。友人になった者がHIV陽性者だと知ることも少なくなく、そのカムアウトをおおごとではないようにさりげない素振りで受け止めるウソも私は身につけました。感染者は必ず死にました。非感染者は、感染者に対する憐れみを優しさでごまかす共犯者になりました。死はそれだけ遍在していました。彼も死んだ。あいつも死んだ。あいつの恋人も死んだ。みんな誰かの恋人であり、息子であり、友だちでした。その大量殺戮は、新たにHIVの増殖を防ぐプロテアーゼ阻害剤が出現し、より延命に効果的なカクテル療法が始まる1995年以降もしばらく続きました。

あの時代を知っている者たちは、だからACT UPが様々な会合や集会やパーティーや企業に乱入してはニセの血の袋を投げつけ破裂させ、笛やラッパを吹き鳴らし、怒号をあげて嵐のように去って行ったことを、「アレは付いていけないな」と言下に棄却することに逡巡します。「だって、死ぬんだぜ。おまえは死なないからそう言えるけど、だって死ぬんだぜ」というあの時に聞いた声がいまも心のどこかにこびりついています。死は、あの死は、確かに誰かのせいでした。「けれどすべて政府のせいじゃないだろう」「全部を企業に押し付けるのも無理があるよ」。ちょっとだけここ、別のちょっとはこっち──そうやって責任は無限に分散され細分化され、死だけが無限に膨張しました。

誰かのせいなのに、誰のせいでもない死を強制されることを拒み、あるいはさらに、誰かのせいなのに自分のせいだとさえ言われる死を拒む者たちがACT UPを作ったのです。ニューヨークでのその創設メンバーには、自らのエイズ支援団体GMHCを追われた劇作家ラリー・クレイマーもいました。『セルロイド・クローゼット』を書いた映画評論家ヴィト・ルッソもいました。やるべきことはやってきた。なのに何も変わらなかった。残ったのは行動することだったのです。

そう、そんな直接行動主義は、例えばローザ・パークスを知らないような者たちによって、例えば川崎バス闘争事件を知らないような者たちによって、どの時代でもどの世界でも「もっと違う手段があるんじゃないか」「もっと世間に受け入れられやすいやり方があるはずだ」との批判を再生産され続けることになります。なぜなら、その批判は最も簡単だからです。易さを求める経済の問題だからです。ローザも、脳性麻痺者たちの青い芝の会も、そしてこのACT UPも、経済の話をしているわけではなかったのに。

「世間」はいちども、当事者だった例しがありません。

この映画には主人公ショーンとナタンのセックスシーンが2回描かれています。始まりと終わりの。その1つは、私がこれまで映画で観た最も美しいシーンの1つでした。そのシーンには笑いがあって、それはセックスにおいて私たちのおそらく多くの人たちが経験したことのある、あるいは経験するだろう笑いだと思います。けれどそれはまた、私の知る限りで最も悲しい笑いでした。それは私たちの、おそらく多くの者たちが経験しないで済ませたいと願うものです。それは、愛情と友情を総動員して果てた後の、どこにも行くあてのない、笑うしかないほどの切なさです。時間は残っていない。私たちは、その悲しく美しい刹那さと切なさとを通して性が生につながることを知るのです。それが政に及び、それらが重なり合ってあの時代を作っていたことを知るのです。

彼らが過激だったのはウイルスが過激であり、政府と企業の怠慢さが過激だったからです。その逆ではなかった。この映画を観るとき、あの時代を知らないあなたたちにはそのことを知っていてほしいと願います。そう思って観終わったとき、ACT UPが「AIDS Coalition to Unleash Power=力の限りを解き放つエイズ連合」という頭字語であるとともに、「Act up=行儀など気にせずに暴れろ」という文字通りの命令形の掛詞であることにも考えを及ばせてほしいのです。そうして、それが神々しいほどに愛おしい命の聖性を、いまのあなたに伝えようとしている現在形の叫びなのだということにも気づいてほしいのです。なせなら、いまの時代のやさしさはすべて、あの時代にエイズという禍に抗った者たちの苦難の果実であり、いまの時代の苦しさはなお、その彼ら彼女たちのやり残した私たちへの宿題であるからです。この映画は監督も俳優も裏方たちもみな、夥しい死者たちの代弁者なのです。

エンドロールが流れはじめる映画館の闇の中で、それを知ることになるあなたは私と同じように、喪われた3500万人もの恋人や友人や息子や娘や父や母や見知らぬ命たちに、ささやかな哀悼と共感の指を、静かに鳴らしてくれているでしょうか。

【映画サイト】
http://bpm-movie.jp/


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December 15, 2017

告発の行方

アメリカのような「レディー・ファースト」の国でどうしてセクハラが起きるんですかと訊かれます。セクハラは多くの場合パワハラです。それは「性」が「権力」と深く結びつくものだからです。「性」の本質はDNが存続することですが、そのためには脳を持つ多くの生き物でまずはマウンティングが必要です。それは、文字どおり、かつ、比喩的にも、「権力の表現形」なのです。

なので、権力がはびこるところではセクハラも頻発します。個人的な力関係の場合も社会的な権力の場合もあります。男と女、年長と年少、白人と黒人、多数派と少数派──パワーゲームが横行する場所ではパワハラとセクハラ(あるいは性犯罪)は紙一重です。

この騒動の震源地であるハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴィー・ワインスティンや、オスカー俳優ケヴィン・スペイシーへの告発は以前から噂されていました。トランプは大統領になる前はセクハラを自慢してもいました。けれど告発が社会全体の問題になることはほとんどありませんでした。結果、これまではコメディアンのビル・コスビーやFOXニュースのビル・オライリーなど、ああ、1991年、G.W.ブッシュが指名した最高裁判事ののクラレンス・トーマスへのアニタ・ヒルによる告発の例もありましたね、でもいずれも個人的、散発的な事件でしかありませんでした。それがどうして今のような「ムーヴメント」になったのか。

私にはまだその核心的な違いがわかっていません。女性たち、被害者たちの鬱積が飽和点に達していた。そこにワイントンポストやNYタイムズなどの主流メディアが手を差し伸べた。それをツイッターやフェイスブックの「#MeToo」運動が後押した……それはわかっていますが、この「世間」(アメリカやヨーロッパですが)の熱の(空ぶかしのような部分も含めて)発生源の構成がまだわかり切らない。わかっているのは、そこにはとにかく物事を表沙汰にして徹底的に正しく解決しようという実にアメリカ的な意志が働いていることです。ヒステリックな部分もありますが、恐らくそれもどこかふさわしい共感点へたどり着くための一過程なのでしょう。

   *

日本でもそんなアメリカの性被害告発の動きが報道されています。ところが一方で、TBSのTV報道局ワシントン支局長だった男性のレイプ疑惑が、国会でも取り上げられながらも不可解なうやむやさでやり過ごされ、さっぱり腑に落ちないままです。

同支局での職を求めて彼と接触したジャーナリスト伊藤詩織さんが、就労ビザの件で都内で食事に誘われた際、何を飲まされたのか食事後に気を失い、激しい痛みで目を覚ますとホテルの一室で男性が上に乗っていたというこの件では、(1)男性に逮捕状が出ていましたが執行直前に警視庁から逮捕中止の指示が出たこと、(2)書類送検されたがそれも不起訴で、(3)さらに検察審査会でも不起訴は覆らず、その理由が全く不明なこと。そしてそれらが、その男性が安倍首相と公私ともに昵懇のジャーナリストであることによる捜査当局の上部の「忖度」だという疑い(中止を指示したのも菅官房長官の秘書官だった警視庁刑事部長)に結びついて、なんとも嫌な印象なのです。

性行為があったのは男性も認めているのに、なぜ犯罪性がないとされたのか? 何より逮捕状の執行が直前で中止された事実の理由も政府側は説明を回避しています。言わない理由は「容疑者ではない人物のプライバシーに関わることだから」。

しかし問うているのは「容疑者でない」ようにしたその政府(警察・検察)の行為の説明なのです。アメリカの現在のムーヴメントには「物事を表沙汰にして徹底的に正しく解決しよう」という気概があると書きましたが、日本ではレイプの疑惑そのもの以前の、その有無自体を明らかにする経緯への疑義までもが「表沙汰」にされない。ちなみに、当の刑事部長(現在は統括審議官に昇進)は「2年も前の話がなんで今頃?」と週刊誌に答えています。「(男性が)よくテレビに出てるからという(ことが)あるんじゃないの?」と。

   *

折しも12月12日はアラバマ州での上院補選でした。ここでも40年前の14歳の少女への性的行為など計8人の女性から告発を受けた共和党のロイ・ムーアの支持者たちが、「なぜ40年前の話が選挙1カ月前になって?」と、その詩織さん問題の元刑事部長と同じことを言っていたのです。性犯罪の倫理性には時効などないし、しかも性被害の告訴告発には、普通と違う時間が流れているのです。

しかしここはなにせアラバマでした。黒人公民権運動のきっかけとなった55年のローザ・パークス事件や、65年の「血の日曜日」事件も起きたとても保守的な土地柄。白人人口も少なくなっているとはいえ70%近く、6割の人が今も定期的に教会に通う、最も信仰に篤いバイブル・ベルトの州の1つ。ムーアも強硬なキリスト教保守派で州最高裁の判事でした。そして親分のトランプと同じように、彼自身も性犯罪疑惑などという事実はないの一点張りの強硬否定。性被害を訴えるウェイトレスたちのダイナーの常連だったのにもかかわらず、その女性たちにはあったこともないと強弁を続けました。
 
案の定、告発そのものをフェイクニュースだと叫ぶ支持者はいるし「ムーアの少女淫行も不道徳だが、民主党の中絶と同性婚容認も同じ不道徳」「しかもムーアは40年前の話だが、民主党の不道徳は現在進行形だ」という"論理"もまかり通って、こんな爆弾スキャンダルが報じられてもこの25年、民主党が勝ったことのない保守牙城では、やはりムーアが最後には逃げ切るかとも見られていました。おまけにあのトランプの懐刀スティーブ・バノンも乗り込んで、民主党候補ダグ・ジョーンズの猛追もせいぜい「善戦」止まりと悲観されていたのです。

それが勝った。

トランプ政権になってからバージニアやニュージャージーの州知事選などで負け続けの共和党でしたが、その2州はまだ都市部で、アラバマのような真っ赤っかの保守州での敗北とはマグニチュードが違います。

バイブル・ベルトとラスト・ベルト──支持率30%を割らないトランプ政権の最後の足場がこの2つでした。アラバマの敗北はその1つ、バイブル・ベルトの地盤が「告発」の地震に歪んだことを意味します。来年の中間選挙を考えると、共和党はこうした告発があった場合に、否定一本で行くというこれまでの戦略を変えねばならないでしょう。とにかくいまアメリカはセクハラや性犯罪に関しては「被害者ファースト」で社会変革が進行中なのです。

December 05, 2017

司法取引の意味するもの

ところで前回のフリン訴追の続きなのですが、彼の起訴罪状が「FBIへの虚偽供述」だけだったことに「ん?」と思った人は少なくなかったでしょう。おまけに一緒に起訴されると言われていた彼の長男の名前もない。虚偽供述は最高禁固5年なのに彼への求刑はたった6カ月。何だ、全然大したことない話じゃないの、と。

実は今回の訴追はそれがミソなのです。

フリンは、トルコ政府の代理人として米国に滞在するエルドアン大統領の政敵をトルコに送還する画策を行なっていたことが疑われていました。これは無届けで外国政府の代理人を務めることを禁じたFARA法(Foreign Agents Registration Act)違反。さらに昨年12月の政権移行時にキスリャク駐米ロシア大使に接触してオバマ政権による経済制裁解除の交渉をしたという容疑もある。これも民間人が政府とは別に外交交渉をすることを禁じたローガン法違反です。それらから下手をすると米国の重要な情報をロシアに与えたスパイ容疑や国家反逆容疑まで発展してもおかしくない。すると本来は禁固十数年から数十年、あるいは終身刑まであったかもしれない重罪容疑者です。それがたった禁固6カ月……。

この大変な減刑は、もちろん司法取引によるものです。裁判の余計な手間を省くために有罪を認め、その代わりに「罪一等を減じる」というのが司法取引なわけですが、今回は罪「一等」どころか二等も三等も減らされています。

これは普通の取引ではありません。裁判の手間云々よりも、フリンを懲罰に処するよりも刑事罰に処するべき重大な人間がいて、その人物を訴追するに足る情報をフリンが捜査当局に渡す代わりに刑を減じるという取引だったということです。そうじゃなきゃこんなに減刑されない。

そして、フリンよりも重大な人物とは誰か? フリンは国家安全保障担当の大統領補佐官でした。大統領補佐官は実は閣僚級(つまり各省の長官と同じ)ランクです。日本の報道ではフリンと一緒にキスリャク大使に接触していたトランプの娘婿ジャレッド・クシュナーが狙いだ、という解説がなされています。しかしクシュナーは政権内では上級顧問です。これはたとえ「トランプ一家」の人間とはいえ「格下」です。例えば暴力団事案の立件で組長の罪を減じる代わりに情報を取引して、組長代行を挙げようなんてことは起きません。

では誰か? ロシア疑惑ではセッションズ司法長官が関係を疑われているので、この問題では捜査にタッチしないと自ら宣言しています。ならばセッションズか? しかしセッションズはフリンと同格です。同じランクで訴追するなら複数の人間でなければ取引は成立しない。

ではトランプ政権でフリンよりも位が上なのは誰か? それはペンス副大統領とトランプ大統領の2人しかいないのです。つまりモラー特別検察官のチームは、フリンとの司法取引でペンスかトランプ、あるいはその双方を標的にしたということなのです。

これはリチャード・ニクソンの辞任以来の大事件へと発展する可能性があるということです。

フリンがトランプとくっついたのは2015年夏。そして今年2月の辞任以降4月までトランプと接触していました。つまりそのおよそ21カ月間=1年9カ月というトランプの今回の政治経験のほぼすべてを網羅して、フリンは彼のすぐそばにいたのです。そんなフリンが完落ちした。これはトランプにとっては(もし違法なことをしていたのなら)大変な脅威でしょう。

モラーが事情聴取したクシュナーも重要な情報源です。が、捜査チームはクシュナーは家族を裏切らないだろうと踏んだ。だから突破口はクシュナーではなく、フリンだったのでしょう。クシュナーを呼んで話を聞いたのは、フリンが事前に教えてくれたことに関して、つまりはロシアのキスリャク大使との関係において、クシュナーがどう嘘をつくかをテストしたわけです。クシュナーは本丸と一緒に起訴できるから、それは後回しで良い──そんなことが見える今回のフリン訴追なのです。

さて、こりゃまずいと思ったからか、トランプのツイートがまた荒れています。フリンの訴追と有罪答弁を受けて、即「フリンを辞めさせたのは彼がペンスとFBIに嘘をついていたからだ」とツイートしたら、「大統領、それを知っていてその後に(当時のFBI)コミー長官にフリンへの捜査をやめるよう指示したのならば、それは立派な捜査妨害に当たりますよ、とあちこちからツッコミが入りました。そうしたら翌日に慌てて「コミーに捜査中止を指示したことはない」とツイート。それだけでなく、今度はトランプ個人の弁護士が「実は”嘘をついた”と知っていたというあのツイートは私が草稿を書いた。事実関係を間違えた」と名乗り出る始末。

本当に彼が草稿を書いたのか、それとも人身御供の身代わりを指示されたか買って出たか、トランプの一連のあのトチ狂ったツイートに草稿があること自体が疑わしいのですが、何れにしても大統領側の慌てぶりが漏れ見える事態です。

するとトランプの訴追はこの「捜査妨害=司法妨害」が手っ取り早いと受け取られているようで、トランプ大統領の弁護団が4日、今度は面白い論理を繰り出してきました。「大統領はそもそも司法妨害などし得ない」という論理です。つまり、大統領はFBIなどの捜査当局の最高執行官なのであるから、何を「指示」しようがそれは「妨害」ではなく「指揮」だ、というのです。ここまでくると呆れてモノが言えません。

何れにしてもモラー特別検察官チームはトランプ=ペンスを射程に入れました。一方で、FBIの自分のチームから「反トランプ」的なメールを出していた捜査官をクビにするということもしていて、これも昨日ニュースになっていました。このニュースはつまり、「特別検察官チームは大統領への政治的な意見を基に捜査をしているわけではない」というメッセージを世論に向けて表明したわけです。「政治的な思惑ではなく、事実に基づいて捜査している」というさりげないアピールなのです。

これからどうなるか? 捜査の結果が出るまでどれほどの時間がかかるか? それはまだわかりません。大統領は慣例的に「起訴」されたことがないので、何かの罪状が明らかになってもそれで訴追というのではなく、特別検察官が議会へ結果を報告して、次は議会の仕事=弾劾裁判になります。それがいつか、そこまで行くか、それを考えるとトランプ一家は気が気ではないホリデーシーズンからの年越しとなるでしょう。

December 01, 2017

フリン危機

感謝祭(23日)の深夜にニュースが飛び込んできました。ロシア疑惑に関連して2月に辞任した元大統領補佐官マイケル・フリンの弁護士団が、トランプ側の弁護士団に「今後は情報共有を中止する」と通告してきたというのです。これは、逮捕・起訴が近いとされるフリンがこれから、モラー特別検察官チームと司法取引をして捜査協力に転じることを示唆しています。つまり情報共有を続ければ今後は捜査情報を漏らすことになるのでもうできない、という意味です。

フリンは就任前にロシアの経済制裁解除をめぐり駐米ロシア大使と事前接触したことに関連して辞任しました。このフリンと一緒になって動いていたのがトランプの娘婿ジャレッド・クシュナーや長男ドナルド・トランプJr、そしてペンス副大統領です。もしフリンが知っていることを洗いざらい話したら、政権中枢やトランプ家族を巻き込む強制捜査へと進むかもしれない、とSNS上では今トランプ大嫌い派が期待に浮かれています。

ロシアゲート捜査の大変な火の粉をかわすために、トランプ側にはいま大きく2つの方途があると思われます。

1つは彼が「本当のロシア疑惑」と呼ぶものに別の特別検察官を立て、そちらに目を転じさせることです。これはヒラリー・クリントンが国務長官だった時代に、ロシアへのウラン大量売却契約が結ばれ、その見返りとして巨額の金がロシア側からクリントン財団に寄付された、という疑惑です。ロシアゲートからは自分が関係している恐れがあるために捜査に関与しないことを宣言しているセッションズ司法長官が、これに関しては特別検察官の任命が適切か検討するとコメントしていますが、これは一時的な目くらましにしかならないでしょうし、これはこれ、ロシアゲートはロシアゲートですから、このことで痛み分けにはならないでしょう。だいたい、見え見えの戦略にアメリカの世論が騒がないわけがない。

もう1つは北朝鮮カードです。トランプはアジア歴訪直前で北朝鮮へのツイートの言葉を随分と軟化させていて、これは何かあったかと思ったのですが、それは習近平が親書を持たせた特使を北に送るつもりだとトランプ側に伝えていたからだったと後になってわかりました。けれどその特使は金正恩に面会を拒絶され、思惑は失敗に終わります。するとトランプ政権はすぐに北朝鮮へのテロ支援国家再指定を行いました。

北朝鮮問題はロシア疑惑と何の関係もありません。このテロ支援国家の再指定も実は次に何かあった時、あるいは何も進展のなかった場合の既定路線上のさらなる制裁策でした。けれどこれがロシアゲート捜査の目くらましになることは間違いありません。この国の大統領は支持率が極端に落ち込む時は戦争でそれを解決するのです。あのビル・クリントンさえ、1998年のモニカ・ルインスキー事件で弾劾裁判まで受け、支持率ジリ貧の時にアフガニスタンやスーダンへの爆撃を行ったのです。

そう、戦争の火蓋が切られたらロシア疑惑など吹き飛んでしまいます。戦争をしている大統領は辞めさせにくい、辞めさせられない。

まさかそんなことのために、とは思いますが、この大統領は「まさかそんなこと」を次々とやってのけてきている人です。ただし北朝鮮に対する軍事行動に踏み切るのはそれなりの理由づけが必要。そんな理由を手にするために、トランプが奇妙に意識的にさらなる挑発を続けるかどうか、それを見ていれば彼の次の行動が予測できます。もっとも、現時点では在韓や在日米軍に増派などの大きな動きは起きていませんし、韓国や日本にいるアメリカ人への退避勧告もありませんから、喫緊に大変なことになるというわけではありません。

そんな中で北朝鮮は米国東部時間28日の午後1時過ぎに新型とされるICBMを発射しました。実はちょうど1ヶ月前の10月28日に北は「我々の国家核戦力の建設は既に最終完成目標が全て達成された段階」と表明していました。つまり「もう実験も必要なくなった」という「理由」を作って9月15日からこの2カ月半ほどミサイルも撃っていなかったのです。それが、今週初め27日あたりに北朝鮮軍幹部が「(次回の)7回目の核実験が核武力完成のための最後の実験になる」と語ったということがニュースになっていて、なるほど、テロ支援国家再指定の報復の意味も込めてこの75日ぶりのミサイル(核)実験となったのでしょう。しかしこれも、ではもう表立ったミサイル発射や核爆発実験もとうとう必要なくなって打ち止めなのかということになります。

日本ではこれをいつもどおり北の「挑発行動」と呼んで大騒ぎしているのですが、これを「挑発」と呼ぶには無理があります。いくら金正恩の気質に問題があるとしても、北朝鮮が体制崩壊、国家滅亡につながる米国先制攻撃に踏み切ることは考えられません。つまり繰り返されるミサイル発射実験と核実験は、「我々にはこれだけの武器があるのだから軽々に攻撃するな」という「示威行動」「デモンストレーション」なのです。「挑発」してアメリカが(というかトランプが)それに乗ってしまったら元も子もない。挑発なんかしていないのです。

同時に、北にとってこの「核」は交渉でどうにかできる取引材料でもありません。それを取引なんかして失ったらたちどころに攻め込まれて命がなくなってしまう死活的な最後の「宝刀」なのです。核放棄なんてあり得ない。あるとしたら米朝の平和条約締結しかない。そしてアメリカ側は、核を保有したままの平和条約など、世界の核不拡散体制を崩壊させるものとしてこれもやはり到底受け入れられるものではないのです。

かくして現在、この問題は米朝中、そして日韓も含めて三すくみ、五すくみの状況です。二進も三進も行かない。

そこで今度は、トランプの気質問題が出てきます。国内政治情勢もままならず、国際政治でも英国の極右団体代表代行の反ムスリムツイートをリツイートしたり、何をやってるのか支離滅裂なこの大統領は、こんな北朝鮮の閉塞状況にしびれを切らすのではないか? そしてそこにもしロシアゲートが弾けて、どうしようかと辺りを見回した時にこの「北朝鮮カード」があった場合、この人は北の恐らくはまだ続いているであろう「示威行動」を「米本土に対する明確な脅威」とこじつけてあの9.11以降のアメリカのブッシュ・ドクトリンと呼ばれる「正当防衛的」な(しかしその本当の目的は別のところにある)「予防的先制攻撃」に打って出るのではないか? 

前段で書いた「フリン危機」がロシアゲートから北朝鮮問題に飛び火することは、そうなるとあり得ないことではない。アメリカは、戦争をするとなったら同盟国にだって知らせずに開戦します。北への攻撃は、実際に実行される場合、日本政府へはたった15分前に通告するだけなのです。

そんなトランプ政権を「100%支持する」と繰り返す安倍首相は、本当に開戦となったらわずか数日で数百万人の犠牲者が出るかもしれないという事態に、いったいどういう責任を取れるのでしょうか。

いま開戦を阻止できるのは、11月18日に「大統領が核攻撃を命令しても「違法」な命令ならば拒否する」と発言した米軍核戦略トップのジョン・ハイテン戦略軍司令官(空軍大将)ら、正気の現場の軍人たちだけかもしれません。こんな時、文民統制ではなく軍人統制に頼りたいと願ってしまう倒錯的な異常事態がいまアメリカで続いているのです。

October 09, 2017

ティラーソン解任?

先週、ティラーソン国務長官に関するニュースがいくつもメディアに登場しました。7月に囁かれたティラーソン辞任説に関してNBCが再調査し、彼がトランプを「モロン(低脳)」と呼んだと報じたのが端緒でした。7月のボーイスカウトの全国大会のスピーチでトランプが場違いにも「フェイク・メディア」やオバマケアをこきおろしたりワシントンの政界を「汚水場」呼ばわりしたりする政治発言を続けたので、ボーイスカウトの全米総長でもあったティラーソンが激怒して「モロン」発言につながったというわけです。ティラーソンって人は少年時代からボーイスカウトに参加してイーグルスカウトにもなったことを誇りに思っている人です。そんな場に政治を持ち込むこと、しかも自分の自慢ばかりするような政治演説をしたことが赦せなかったのでしょう。

息子の結婚式でテキサスに行っていたティラーソンはもうワシントンに戻らないと伝えます。この時はマティス国防長官や現首席補佐官のジョン・ケリーが「ここであなたが辞任するような政権混乱はどうしたってまずい」と慰留に成功しはしたのですが、さて今になってまたティラーソンが辞めるのでは、あるいは解任されるのではという観測が持ち上がっているのです。

特に4日、乱射事件のラスベガスに訪問してワシントンに戻ったトランプが自分のニュースを期待してテレビを見たら、そこではティラーソンの「モロン」発言で持ちきり。トランプは激怒し、それをなだめるためにケリーは予定の出張をキャンセルして対処したとか。しかしティラーソンはその後の"釈明"の記者会見でも大統領を「スマートな(頭の良い)人」と言っただけで「モロン発言」自体は否定はしませんでした。ホワイトハウス内の情報源によれば、2人の間はもう修復不可能だというのです。

報道はそれにとどまりません。ニューヨーカー誌はティラーソンの長文の人物伝を掲載。これまでの輝かしい経歴からすれば彼が「今やキレる寸前」でもおかしくないと思わせる感じの評伝でした。さらにはティラーソンとマティス、そして財務長官のムニュチンが3人で「suicide pact(スーサイド・パクト)」を結んでいるという報道もありました。3人の中で誰か1人でも解任されたらみんな揃って辞任するという「心中の約束」のことです。6日にはAXIOSというニュース・サイトで、トランプがティラーソンの後任に福音派の共和党右派政治家であるポンペオCIA長官を当てようとしているという報道がありました。

ちなみにポンペオは全米ライフル協会の終身(生涯)会員で銃規制に反対、オバマ・ケアにも強く反対ですし、オバマ政権がCIAの”水責め”などの拷問(強化尋問)を禁止したことに対しても、拷問をおこなったのは「拷問者ではなく、愛国者だ」と発言するほどの反イスラムの「トランプ的」人物です。

こんなにまとまってティラーソン国務長官のことがいろんな角度で報じられるというのは、メディアがいま彼の辞任・解任に備えて伏線作り、アリバイ作りをしているという兆候にも見えます。

そうなると問題の1つは北朝鮮です。表向き「核を放棄しない限り対話はない」と強硬姿勢一枚岩だったトランプ政権ですが、その実、ティラーソンの国務省が北朝鮮側と様々なチャンネルで対話の機会を探っていることが最近明らかになっていました。それに対してトランプが7日、「25年間の対話や取引は無に帰した。アメリカの交渉は馬鹿にされている」「残念だが、これをどうにかする道は1つしかない」とツイート。軍事行動を暗示して「今は嵐の前の静けさ」とも言ったのです。

私はこれまで、トランプ政権が「グッド・コップ、バッド・コップ(仏の刑事、鬼の刑事)」を演じ分けて北朝鮮をどうにか交渉の席につかせようとしているのではないかと、希望的に願ってきました。けれどこうしてティラーソンとトランプの不仲が表面化してみると、本当にカッカして北を潰そうと言うトランプを国務長官、国防長官、首席補佐官がマジになだめ抑えている、という構図が本当だったかもしれないと思い始めています。上院外交委員長でもある共和党コーカー議員がトランプを激しく批判しているのも、そんなティラーソンの国務省の姿勢と符合しています。

彼はNYタイムズの電話インタビューに「ホワイトハウスが今毎日毎日トランプを抑え込むのに苦労していることを知っている」などと語ったのですが、そもそも攻撃したのはトランプの方が先でした。コーカーはティラーソンに関して「国務長官はとてつもなく腹立たしい立場に立たされている」「国務長官は得るべき支援を得られていない」と擁護したのです。上院外交委員長として国務長官(外務大臣)を思いやるのは当然の話ですが、例によってトランプはコーカーへのツイート攻撃を開始したのです。まるで坊主憎けりゃ袈裟まで、みたいな攻撃性です。

ティラーソンが解任されたら北への軍事攻撃の恐れが一気に現実味を帯びます。北は自滅につながる先制攻撃を絶対に仕掛けません。けれどトランプは単に自分のやり方じゃないといって予防的な先制攻撃を仕掛けるかもしれない。そのとき日本はどうするのか? いや、その前に日本は何もしないのか?

22日の総選挙はそんな「兆し」だけでも大きく安倍自民党に有利に動くかもしれません。まさかそれを見越して安倍は「対話は何も役に立たない」とトランプをけしかけていたわけじゃないでしょうが。

September 05, 2017

横綱の折伏

北海道南端を超えてのミサイル発射、1年ぶりの地下核実験、立て続けに示威行為を繰り返す北朝鮮は9日の建国記念日にも今度は射程のうんと長いICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射実験に踏み切ると言われています。その度に米韓日では新たな脅威が増大したと大騒ぎになるのですが、何度も言うようにこれは「新たな」脅威ではなく、ずっと以前から織り込み済みの北側の既定の挑発路線です。

織り込んでいなかったのはその早さです。本当はもっと時間がかかるはずだと思っていたICBMへの小型核弾頭の搭載が、ともすると直近に迫ってきているかもしれない。そしてそれはアメリカ政府の「レッドライン(踏み越えてはならない一線)」と言われてきたものなのです。

なのでトランプ政権の対北朝鮮の空気がやや変わってきました。朝鮮半島では禁じ手である武力行使に踏み切るかもしれないという嫌な感じが漂っています。何せ「核保有」は体制の必要条件であり、制裁があろうがなかろうが絶対に手放さないと決めている金正恩と、それに屈する形での「核保有」は核保有の連鎖を生むために絶対に認められないアメリカとの間で、解決策はどこにも見当たらないという感じになっているからです。この手詰まり感、「後手後手」感……。

北朝鮮に対しては米国は「圧力」「対話」「軍事行動」という3つの選択肢があると言われています。軍事行動は23年前の第1次北朝鮮核危機に際してクリントン政権が「韓国側の死者が100万人、米軍が10万人」という国防長官の報告を受けて断念、その後もブッシュ政権が02年に先制打撃を検討しましたが実行に至りませんでした。二の足を踏んだ理由である米国同盟側の損害の甚大さ予測は、北の軍事力の増強と比例して現在はさらに拡大し、三の足も四の足も踏むような状況です。

そこで米国は国連の場で北への経済制裁を呼びかけ、中露を巻き込んで「圧力」を強めるやり方に出ているのですが、それが功を奏するには時間がかかる。その間に北は核ミサイル開発を進める算段ですし、実際にこれまでもそうしてきました。

では「対話」はどうか?

米国にとってはこれは実は「対話」ではありません。これは「折伏(しゃくぶく)」なのです。金正恩に、その路線を進めるとどう転んでも自滅になると、詰め将棋のように理路を示し、折伏させる以外の場ではありません。

ところがいまトランプ政権は、国務省の東アジア担当の国務次官補は「代理」職で、しかもロシアが専門のスーザン・ソーントンです。国家安全保障会議にはマシュー・ポッティンジャーというアジア担当上級部長がいますが、彼も中国が専門。ニューヨーク・チャンネルで北朝鮮から例の脳障害の拘束大学生オットー・ワームビア(帰国直後に死亡)を連れ戻した国務省のジョセフ・ユン北朝鮮担当特別代表はあくまで実務担当で政治判断はできない。そればかりか国務省自体が予算と人員の大幅削減を強いられ、アジア担当の数百人のポストが空席のままなのです。つまり「対話」にしろ「折伏」にしろ、その場に出ていける人間がいないわけです。トランプ政権はそもそもやる気がないのか総身に知恵が回っていないのか。

「圧力」の効果は時間がかかり、「対話=折伏」には人材がいないしそもそも態勢も整えていない。ならば残されているのは再び元に戻って、先制打撃という「軍事力行使」でしかないのでしょうか?

アメリカは本来は土俵の中央でどっかと構え、北朝鮮に対して四つに組んでやるべきなのです。相手が猫だましをしてこようが蹴たぐりをかまそうが慌てる必要はない。そうして四つに組んでやって、相手が右に動けばそちらにちょっと動いて見せても結局は倒れず、左に引いても崩れず、さらにちょいと力を加えて相手の膝を折るぐらいのことはしてみせても決して倒したり土俵の外に投げたりはしない。何故なら土俵際の砂かぶりには韓国や日本や中国がいて、下手に投げ飛ばそうものなら彼ら全部が大怪我をするからです。なので土俵真ん中で「絶対に負けることはない」という横綱相撲を取り続けるのです。相手の面子を立てて「勝つ」ことはせずとも、そのうちに相手は疲れ、持っている技は使えず、横綱の「勝ち」は誰の目にも明らかになります。そしてそこで疲れ果てている相手の耳元に諄々と「自滅はやめろ」と説くのです。

それが北の核保有を認めるでも使わせるでもなく、しかも現状維持や凍結でもない「折伏」の道です。

それしか道がない。けれどこの横綱相撲の比喩を、それに似たソリューションを、トランプ政権は思いつくでしょうか? それより先に、国務省の予算削減と裏腹に国防総省予算の増大がここに来て嫌な感じの伏線になりそうな気までしています。そしてもう1つ、そこに追い討ちをかけるような北朝鮮によるEMP(電磁パルス)攻撃の脅しです。

電磁パルス攻撃によるアメリカの軍事インフラ、経済インフラ、生活インフラの破壊が、巷間言われるほどにとんでもないものなら、アメリカがこれを機に予防的先制攻撃に出るのは火を見るよりも明らかになります。それはロバの背を折る最後の1本の藁だからです。EMP攻撃被害の精確なアセスメントが急がれることになるでしょう。

August 30, 2017

米朝の詰め将棋

早朝6時前に発射されて北海道"上空"を超えて2700km飛んだという北朝鮮のミサイルのことで、28日の日本は朝から大騒ぎでした。TVでは「そうじゃない」と沈静化を図る専門家もいたですが、司会者が妙に気色ばんで番組を進行させるので、急ごしらえの台本がやはり危機を煽る安易な方向付けだったのでしょう。まあ、それ以外にどう番組を作れというんだ、という話でもありますが。なにせ首相声明だって「我が国に北朝鮮が弾道ミサイルを発射し、我が国の上空を通過した模様」ですから。

北朝鮮は「我が国」に向けて発射したんじゃありません。それに550kmの「上空」ってのはすでに宇宙であって、スペースシャトルの浮かんでいる400kmよりもはるか上です。万が一間違って何かの部品が落ちてきたって真っ赤に燃え尽きます。しかも日本をまたいで北のミサイルが飛んだのは98年にもあって新たな脅威ですらない。政府はなぜ慌てたフリをするのでしょう。「全国瞬時」という緊急警報「Jアラート」を鳴らしても具体的には「頑丈な建物に逃げて頭抱えてかがみなさい」ですから、まるで大戦末期の竹ヤリ訓練みたいな話です。

ともあれ、今回のミサイルからは、実は脅威というよりも次のような興味深い事実をこそ読み取るべきなのです。
すなわち;

(1)北の相手はこれからもこれまでも常に第一義的にはあくまでも「アメリカ」であって韓国や日本ではない

(2)にもかかわらず今回のミサイルは攻撃すると脅していた「グアム」ではなくアサッテの方角の北海道の南部通過の方向に飛んだ

(3)飛距離の2700kmというのもグアムまでの3300kmより微妙に短い

──つまりこれらは、アメリカを脅そうにも脅しきれない金正恩の心理を表しているのです。

金正恩はいま、混乱を極めるトランプ政権のその混乱をこそ実は恐れているのだと思います。それは格好良く言えばトランプの「予測不能性」の賜物なのですが、ロシアゲートで追い詰められ支持率最低でどん詰まりの彼に起死回生の一手があるとすればそれは北への軍事行動です。さらに、おおっぴらな戦争とともに「斬首作戦」までが吹聴されている。それは恐い。
 
金正恩はそれを回避させるためにのみミサイルと核の開発に邁進してきました。ところがそれが父・金正日の時代にはなかった反応を誘引してしまった。こちらが強く出れば向こうは退く、という期待は誤りです。強い作用は強い反作用を生む。これは物理の法則です。金正恩は強い兵器を所有して、それに見合う強い反発を受けてしまったのです。そんな自明にいまさらたじろいだところで遅いのですが。

そこに先日の国連の新たな制裁決議が追い打ちをかけました。中国やロシアも反対しなかったことで、さらには中国が、北による対米先制攻撃で米国の反撃を受けた場合には中朝同盟の義務を行使(すなわち加勢)しないとも示唆したことで、北は確実に追い詰められました。そんな時に自分から実際に攻撃することは蛮勇以外の何物でもありません。

ではどうなるのか? だからと言って北は核を手放すことは絶対にしません。そして米中も、北の核保有を認めることはメンツの点からいっても地政学的にいっても絶対にない。

ではどうするか? このチキンレースをあくまで論理の上で、詰め将棋のように推し進めることです。米韓はミサイル防衛網をより進化させ、北のミサイルの脅威を限定的なものに封じ込めます。すると米韓の反撃がより現実味を帯びることになる。もとより北朝鮮には第二段攻撃の能力などないのですから、北の戦略はそこで出口を失う自殺行為になります。

要は金正恩に、彼自身が生き延びる道はこのチキンレースを止めること以外にないといかに折伏するかなのです。さもなくば米中暗黙の合意の上での「斬首作戦」の道を探るしかなくなる──もちろんそれはすでに、並行して秘密裏に進んでいるのでしょうが。

August 09, 2017

遅ればせながら『この世界の片隅に』

映画『この世界の片隅に』が11日からニューヨークでもアンジェリカ・フィルムセンターなどで上映されます。ニューヨークだけではなく、サンフランシスコやロサンゼルスなどでも公開されるようですが、全米で何館での公開かはまだ定まっていないのか数字が出てきません。でも、イギリスの会社が欧米での配給権を買い取って、パリやロンドンでも映画祭などで好評を博しているようです。ニューヨークでも7月にジャパンソサエティで「Japan Cuts」という日本映画祭で最終日に上映され、260席が満席の人気だったと聞きました。アメリカで映画好きが参考にする映画評サイト「ロットゥン・トマト Rotten Tomato」では、評論家の評価総点が100%ポジティヴというものでした。何かしらネガティヴ評価があったりする中で、これはとても珍しいことです。

このアニメ映画は北海道に帰った今年初め、実は85歳になる母親を連れて雪の中を観に行ってきました。自称「老人性鬱病」の母親はこのところ外出もせず籠りがちで、戦争とはいえ主人公の「すずさん」と同じく自身の少女時代を描いた映画でも見せれば懐かしく元気になるのではないかと思ったのです。「すずさん」にはモデルがいて、その方は今もご存命で御年95歳と言いますから、母よりも10歳も年上ですが、母も13歳で終戦を迎えています。

ところで見終わった母の開口一番は「なんでこんなもの見なくちゃならないの」だったのでした。別につらい昔を思い出して不愉快だったという口調ではなく、ただアッケラカンと「ぜんぜん面白くなかった」と言うのです。「だって、みんな知ってる話なんだもの」と。

実を言うと私の感想も似たようなものでした。ものすごく評判の良いこの作品の、描かれるエピソードの一つ一つがすべて「知っていた話」でした。

戦死した遺体を回収できず、骨の代わりに石ころの入った骨箱だけが戦地から帰還してきたという話は、19歳の時に学生寮の賄いのおじさんに酒飲み話で聞かされて号泣しました。南方戦線でのジャングルの苛酷さやヒルの大きさは高校時代の友人のお父上から怪談のように聞かされ、防空壕での暗闇の生き埋めの恐怖や、特高や憲兵たちの人間とは思えぬ非情さは私の子供時代、トラウマになるほどに何度も何度も少年向け漫画やテレビで描かれていました。闇市や買い出し、食べ物の苦労は宴席で集まる親戚から笑い話のように聞かされましたし、米がなくて南瓜や豆や芋ばかり食べていたせいで、その3つは二度と口にしないと宣言していた年長の友人は4人はいます。大学で出てきた東京の池袋の駅には、あれは東口でしたか、いつも決まって片足のない傷痍軍人が白い包帯と軍服姿で通行人から援助を乞う姿がありました。いやそれ以前に、北海道の本家の玄関にもそんな人たちが何度も訪れてはお金を無心していたものでした。

戦争が狂気だという厳然たる事実は、そうして身にしみて思い知っていました。そんな狂気は何としてでも避けねばという平和主義はだから、理想論でも何でもなく戦後世代の私たちには確固たるリアリズムでした。

だから『この世界の片隅に』は、少なくとも母と私にはタネも仕掛けも知っている手品を見る思いでした。それをなぜ「世間」はかくも絶賛するのだろうかとさえ訝ったほどです。私が知らなかったのはただ、あの時の「呉」という軍港都市で、日本軍の撃った高射砲の砲弾がバラバラに砕けて再び地上の自分たちにピュンピュンと凶器となって降り落ちてきたという事実くらいでした。

そんなとき、3月21日のNYタイムズに「Anne Frank Who? Museums Combat Ignorance About the Holocaust(アンネ・フランクって誰? 博物館、ホロコーストの無知と戦う)」という長文記事が掲載されました。「若い世代の訪問者、外国からの客たちはホロコーストに関するわずかな知識しか持ち合わせていない。時にはアンネ・フランをまるで知らない者もいる」と。だから今、アムステルダムの「アンネ・フランクの家」などは今再び、あのホロコーストの地獄をどうにか手を替え品を替えて、若い世代に、戦争を知らぬ世代に伝え継ぐ努力を常に新たにしているのだ、と。

そのときに気づきました。ああ、あの映画は、あの時代の日常の物語というその一次情報の内容で絶賛されていると同時に、原作者のこうの史代さん(48)や映画版監督の片渕須直さん(57)ら製作陣の、その、すでに忘れられようとしている(私たちの世代にとっては当たり前の知識だった)その一次情報を、今再び伝え継ごうとする努力こそがまた絶賛の対象だったのだ、と。

戦争を生きた世代がどんどん亡くなって、彼らの話を聞いた私たち戦後第一世代は、直接自分が体験したわけではないそんな話を我が物顔で次の世代に語るのを、どこかでおこがましく感じていたのではないか? そんな我らのスキを衝いて、平和憲法を「みっともない憲法ですよ」と言ってのける人が総理大臣になっている時代なのです。

「アンネの日記」はかつて、誰もが知っている歴史的な共通認識でした。でもいまアンネ・フランクを知らない人がいる。広島や長崎も同じです。だから『この世界の片隅に』は、語り継ぐその内容だけではなく、語り継ぐその行為自体をも賞賛すべき映画なのです。語り継ぐことを手控えていた私(たちの世代)としては、代わりに語り継いでくれて本当にありがとうございますという映画、もう、ただ頭を下げて感謝するしかない映画なのです。

遅ればせながら『この世界の片隅に』

映画『この世界の片隅に』が11日からニューヨークでもアンジェリカ・フィルムセンターなどで上映されます。ニューヨークだけではなく、サンフランシスコやロサンゼルスなどでも公開されるようですが、全米で何館での公開かはまだ定まっていないのか数字が出てきません。でも、イギリスの会社が欧米での配給権を買い取って、パリやロンドンでも映画祭などで好評を博しているようです。ニューヨークでも7月にジャパンソサエティで「Japan Cuts」という日本映画祭で最終日に上映され、260席が満席の人気だったと聞きました。アメリカで映画好きが参考にする映画評サイト「ロットゥン・トマト Rotten Tomato」では、評論家の評価総点が100%ポジティヴというものでした。何かしらネガティヴ評価があったりする中で、これはとても珍しいことです。

このアニメ映画は北海道に帰った今年初め、実は85歳になる母親を連れて雪の中を観に行ってきました。自称「老人性鬱病」の母親はこのところ外出もせず籠りがちで、戦争とはいえ主人公の「すずさん」と同じく自身の少女時代を描いた映画でも見せれば懐かしく元気になるのではないかと思ったのです。「すずさん」にはモデルがいて、その方は今もご存命で御年95歳と言いますから、母よりも10歳も年上ですが、母も13歳で終戦を迎えています。

ところで見終わった母の開口一番は「なんでこんなもの見なくちゃならないの」だったのでした。別につらい昔を思い出して不愉快だったという口調ではなく、ただアッケラカンと「ぜんぜん面白くなかった」と言うのです。「だって、みんな知ってる話なんだもの」と。

実を言うと私の感想も似たようなものでした。ものすごく評判の良いこの作品の、描かれるエピソードの一つ一つがすべて「知っていた話」でした。

戦死した遺体を回収できず、骨の代わりに石ころの入った骨箱だけが戦地から帰還してきたという話は、19歳の時に学生寮の賄いのおじさんに酒飲み話で聞かされて号泣しました。南方戦線でのジャングルの苛酷さやヒルの大きさは高校時代の友人のお父上から怪談のように聞かされ、防空壕での暗闇の生き埋めの恐怖や、特高や憲兵たちの人間とは思えぬ非情さは私の子供時代、トラウマになるほどに何度も何度も少年向け漫画やテレビで描かれていました。闇市や買い出し、食べ物の苦労は宴席で集まる親戚から笑い話のように聞かされましたし、米がなくて南瓜や豆や芋ばかり食べていたせいで、その3つは二度と口にしないと宣言していた年長の友人は4人はいます。大学で出てきた東京の池袋の駅には、あれは東口でしたか、いつも決まって片足のない傷痍軍人が白い包帯と軍服姿で通行人から援助を乞う姿がありました。いやそれ以前に、北海道の本家の玄関にもそんな人たちが何度も訪れてはお金を無心していたものでした。

戦争が狂気だという厳然たる事実は、そうして身にしみて思い知っていました。そんな狂気は何としてでも避けねばという平和主義はだから、理想論でも何でもなく戦後世代の私たちには確固たるリアリズムでした。

だから『この世界の片隅に』は、少なくとも母と私にはタネも仕掛けも知っている手品を見る思いでした。それをなぜ「世間」はかくも絶賛するのだろうかとさえ訝ったほどです。私が知らなかったのはただ、あの時の「呉」という軍港都市で、日本軍の撃った高射砲の砲弾がバラバラに砕けて再び地上の自分たちにピュンピュンと凶器となって降り落ちてきたという事実くらいでした。

そんなとき、3月21日のNYタイムズに「Anne Frank Who? Museums Combat Ignorance About the Holocaust(アンネ・フランクって誰? 博物館、ホロコーストの無知と戦う)」という長文記事が掲載されました。「若い世代の訪問者、外国からの客たちはホロコーストに関するわずかな知識しか持ち合わせていない。時にはアンネ・フランをまるで知らない者もいる」と。だから今、アムステルダムの「アンネ・フランクの家」などは今再び、あのホロコーストの地獄をどうにか手を替え品を替えて、若い世代に、戦争を知らぬ世代に伝え継ぐ努力を常に新たにしているのだ、と。

そのときに気づきました。ああ、あの映画は、あの時代の日常の物語というその一次情報の内容で絶賛されていると同時に、原作者のこうの史代さん(48)や映画版監督の片渕須直さん(57)ら製作陣の、その、すでに忘れられようとしている(私たちの世代にとっては当たり前の知識だった)その一次情報を、今再び伝え継ごうとする努力こそがまた絶賛の対象だったのだ、と。

戦争を生きた世代がどんどん亡くなって、彼らの話を聞いた私たち戦後第一世代は、直接自分が体験したわけではないそんな話を我が物顔で次の世代に語るのを、どこかでおこがましく感じていたのではないか? そんな我らのスキを衝いて、平和憲法を「みっともない憲法ですよ」と言ってのける人が総理大臣になっている時代なのです。

「アンネの日記」はかつて、誰もが知っている歴史的な共通認識でした。でもいまアンネ・フランクを知らない人がいる。広島や長崎も同じです。

けれどこれは逆を言えば、アメリカではかつての世代では原爆は太平洋戦争を終結させるための必要悪だった、いや必要悪ですらなく、あれは善だった、という人々が圧倒的だったのでした。でも最近の世論調査では35歳以下では広島・長崎への原爆投下は実は不要だった、悪だった、と答える人たちが多数を占めるようになってきています。おそらくそんな世代へ、『この世界の片隅に』は新たに穏やかながら強い平和への訴えを届けるツールになるに違いありません。今回の北米都市部での上映にとどまらず、今後のネット配信やDVD化なども経て特になおさら、これから末長くゆっくりとけれど確実に、欧米のジャパニメーション世代に浸透してゆくと思います。

ですから『この世界の片隅に』は、語り継ぐその内容と同時に、語り継ぐその行為自体もまた賞賛すべき二段構えの映画なのです。語り継ぐことに気後れし、なんとはなしにそれを手控えていた私(たちの世代)としてはつまり、代わりに語り継いでくれて本当にありがとうございますという映画、もう、ただ頭を下げて感謝するしかない映画なのです。

April 19, 2017

ハイパー共和党政権

北朝鮮問題の気がかりの一つは、米軍というのはこれまで本格展開した後で何もせずに引き返したことがほとんどないことです。数少ない例外は62年のキューバ危機でしたか。でも、いま対峙しているのはケネディとフルシチョフではなく、先週も書いたとおりトランプと金正恩です。
 
ところが先週から今週にかけ、トランプ政権の雰囲気が何やら明らかに変化してきました。シリア・アサド政権へのトマホーク攻撃、アフガン・イスラム国に対する大規模爆風爆弾(MOAB)の投下といったあからさまな軍事的見せびらかしに、一気に北朝鮮への先制攻撃の可能性が取りざたされましたが、不意に自制的、抑制的な発言が目立つようになった。

何と言ってもマクマスター補佐官(安全保障担当)の16日の発言「平和的解決のために、軍事オプションに至らぬ(short of a military option)すべてのアクションを取る」です。17日にはスパイサー報道官が「トランプ政権は北朝鮮にはレッドラインを設けない」とまで言っていました。

イケイケどんどん破茶滅茶煽動パタンからのこの変化は何なのでしょう? 私はこれは、トランプ政権が看板こそトランプという破天荒なトリックスターの姿を維持しながらも(それが彼が当選できた理由でしたから)、その内実は密かに従来型の共和党政権に戻そうとしている、そんな兆候の最初の表れではないかと勘ぐっています。

人事を見ればわかります。大衆への煽りとフェイクニュースでトランプ政権の「性格」そのものだった"影の副大統領"スティーブ・バノン首席戦略官が国家安全保障会議(NSC)から外れたのは、習近平との米中首脳会談(6〜7日)が行われる直前でした。バノンが主導してきた入国禁止令やメキシコの壁、オバマケア撤廃などのブチ上げ型の政策はいずれもうまく行っていません。おまけにロシアゲートの影がつきまとうのです。

ロシアとの関係で辞任したマイケル・フリンの後釜となったマクマスターの入閣条件は、NSCの人事を自分に任せてほしいということでした。そこでバノンが外れ、ダンフォード統合参謀本部議長らが常任メンバーに戻った。マクマスターは陸軍中将、ダンフォードは海兵隊大将です。そこに同じく海兵隊大将だったジェイムズ・マティス国防長官がいて、トランプ政権の外交政策の主要な一端を担うことになったのです。

もう一端は石油メジャー最大手エクソンモービル会長だったティラーソン国務長官、そして「倒産王」と呼ばれた銀行家・投資家のウィルバー・ロス商務長官です。ロスはトランプを例のタージマハルホテルの借金地獄から救った男です。この産業界のやり手たちが文民・経済外交の担い手です。そしてそこには財務長官のスティーブン・ムニューチン、国家経済会議(NEC)議長のゲーリー・コーンといったゴールドマン・サックス(GS)出身の金融界が控えている。

結果、今どういうことが起きているかというと、中国との貿易戦争は起きておらず、選挙公約だった為替操作国指定も北朝鮮交渉の労に免じてペンディングされています。オバマ政権の遺産であるとして破棄すると言っていたイランと核合意は破棄に動いていず、在イスラエル米国大使館のエルサレム移転も聞こえてこない。つまりアメリカ政府の外交は、なんだか少し落ち着きを取り戻しているのです。

それもこれもバノンが外れ、代わりにイヴァンカとクシュナーの娘夫婦が台頭し、そこに従来の軍産共同体に金融も加わった軍産金共同体の思惑が結集し、より強大なハイパー共和党型の政策が実行されようとしているからではないのか? それが発足100日を経てやっとまとまりつつある、まさに旧態依然のエスタブリッシュメントとしてのトランプ政権の正体ではないのか?──それが今現在のトランプ政権に対する私の印象です。

でもそれは、エスタブリッシュメントでがんじがらめになった閉塞状況の中で、そこを打ち壊してもらいたいと願って彼を支持した白人労働者達には、いったいどう映るのでしょうね。

April 11, 2017

予測不能な2つの要素

オバマがシリアの化学兵器使用に軍事介入を模索した2013年から14年にかけ、当時のドナルド・トランプは武力攻撃に反対するツイートを19回も繰り返していました。それが今回、なぜ急に方向転換して60発ものトマホークを射ち込んだのでしょう?

ホワイトハウスの伝えたかった物語は「大統領は犠牲となった子供たちの姿を見て決断した」というものでした。トランプ自身はさらに「アサドのこの残虐行為はオバマの弱腰と優柔不断のせいだ」ともツイートして相変わらずのオバマ責め。でも自らの過去との矛盾には頰かむりを決め込んでいます。

子供たちは毎日、世界中で殺されています。アメリカ大統領が人間味溢れた優しい人物だというのは好ましいことですが、ならば大統領を動かすには彼に悲惨な動画を見せればよいということになります。そんなことはない。そこにはもっと政治的な判断が働いているはず、いや、働いていなければなりません。

タイムラインで確認しましょう。シリアで化学兵器が使われたのは米国東部時間で3日深夜のことでした。やがて全米にもその悲惨な状況が放送され始めます。

4日午前10時半、情報当局による定例ブリーフィングで大統領は女性や子供たちが犠牲になったという情報をビデオや写真付きで知らされたということになっています。トランプはここで何らか軍事行動を決心したようで、同日中にさらに国家安全保障会議(NSC)が招集され米国が取り得る選択肢を検討するよう指示しています。

5日はヨルダン国王との面会がありました。午後1時にホワイトハウスで共同会見があり、そこでトランプは「シリアは一線を超えた。レッドラインを超えた」と発言。すでに軍事行動の腹を決めていたと窺えます。NSCはその日、具体的な軍事作戦の絞り込みを行いました。そこで決まったのが必要最小限のピンポイント攻撃。戦線は拡大させないということです。

そして6日は最大のイベント、フロリダの例のマール・ア・ラーゴで2日間の米中首脳会談が始まる日でした。一方で午後4時、トランプはシリア空軍基地へのミサイル攻撃にゴーを出します。発射時刻は首脳会談の会食もデザートにさしかかろうとする午後7時40分。そうしてその時がやってきて、トランプは習近平にシリア攻撃を報告しました。

ところでトランプ政権はその前週に、アサド退陣は優先事項ではないとしてオバマ時代からの政策の転換を発表していました。シリア内のISIS(イスラム国)駆逐はアサドとロシアにやってもらうという計画。これはロシアゲートで失職したあのマイケル・フリン安保担当補佐官と"影の副大統領"とも言われたスティーヴ・バノン主席戦略官らの「アメリカ第一主義」一派の戦略でした。

その舌の根も乾かぬうちのアサドへの攻撃。米国はまた「世界の警察」に戻るのか、とも言われています。

いえ、そんなことはありません。これはすべて6日の習近平との会談に向けての行動だったのだと踏んでいます。なぜならシリア攻撃は、アサド政権が本当にサリンを使ったのかを確認してからでも遅くはなかった。むしろその方が国際社会(国連)をも納得させられました。なんといってもシリアは化学兵器を全廃したと国際機関(OPCW)によってお墨付きを得ていたはずなのですから。

しかしトランプ政権は攻撃を急ぎました。この性急な行動はいかにもトランプらしい交渉術に見えます。交渉に入る前に、相手にイッパツかましたのです。北朝鮮問題で、習近平との交渉で「北に対してもやるときはやる。だから速やかにかつ強力に働きかけを行え」という暗黙の、かつ強烈なメッセージを大前提として臨むためです。首脳会談の本題はその翌日に話し合われる予定でした。

トランプは支持率36%という異例の不人気にあえいでいました。不人気の米国大統領は支持率回復のために軍事行動に打って出るというのが常です。トランプはそこでずっと、まずは北朝鮮への軍事行動を仄めかしてきました。

ところが北朝鮮への武力行使はソウルと東京がミサイルの標的になる。難民は押し寄せ韓国のGDPはゼロになる。クリントン政権の1993年から検討されている攻撃計画はリスクが多くて実行不能というのが、この24年間変わらぬ結論です。だから北への強硬手段は、実はブラフでしかない心理戦なのです。

しかしそこに降って湧いたようにシリアの化学兵器使用疑惑が起きたのでした。おそらくトランプはこれで「物怪の幸い」とばかりにシリア叩きをひらめいたのでしょう。シリアはすでに紛争国で、ミサイルを射ち込んでも北朝鮮のようなドバッチリは少ない。おまけに米中首脳会談で中国による「北への圧力」の圧力にもなる。ひいてはシリアの向こうにいるロシア・プーチンに対しても、やるべき時にはやるという自分の毅然さを国内に示すことができて、それはロシアゲートの目くらましにもなるだろう。さらには「化学兵器」「赤ん坊殺し」というキーワードは民主党も反対できない絶対的な不正義だから国内の支持も多いはずだ。ヒラリーでさえニュースを受けてシリア攻撃を要求したのだから……と。

それが今回のトマホーク攻撃でした。結果、攻撃を支持する国民はCBSの調査で57%と過半数。政権支持率も微増したようです。

もう一つ、見逃せない変化があります。トマホーク攻撃までの3日間で、トランプ政権内で重大な人事の変更がありました。白人至上主義者でフェイクニュースでの情報操作も厭わぬスティーヴ・バノンがNSCから外れたという5日付けのニュースです(なんと、私は前回の2月のブログエントリーで、次に辞めるのはスパイサーかケリーアンかバノンかって呟いてるんですな、いや我ながら慧眼慧眼)。そこに本来のメンツであったはずの統合参謀本部議長のダンフォードと国家情報長官のコーツが加わることになりました。これを主導したのがフリンの後任に2月に安保担当補佐官となったマクマスター陸軍中将です。トランプに示した後任就任の条件がまさにこのNSC人事を主導することでしたから。

これはイスラム圏からの入国禁止やオバマケアの撤廃という選挙公約を画策したバノンや、反PC(政治的正しさ)路線の若きスピーチライター、スティーヴ・ミラー補佐官らの白人至上主義かつ反グローバリズムかつ破壊主義的ハチャメチャ一派がいま、トランプの娘イヴァンカとその夫ジャレッド・クシュナー、さらにその2人とつながるマクマスター、ジェイムズ・マティス国防長官、ダンフォードらの軍人閣僚に政権運営の主導権を奪われつつあるということです(実はその奥にもう一つ、国務長官のティラーソンや商務長官のウリルバー・ロス、財務長官のムニューチン、国家経済会議議長のゲーリー・コーンといった産業・金融界人脈が控えているのですが)。

さて、シリア攻撃を終えて現在、トランプは朝鮮半島周辺にカール・ビンソン、ロナルド・レーガンという空母2隻を展開させるなど、いまにも北朝鮮を攻撃するようなシフトを敷き始めました。

軍人というのは実戦の厳しさを知るので実は戦争を嫌います。北への攻撃など頭がおかしくなければできない、というのが24年変わらぬ結論であるということは先に述べました。おまけに北の軍事施設はこの間に地下に潜って攻撃困難となり、瞬時の無力化はまずもって不可能です。つまりアメリカによる平壌への先制攻撃は、次にソウルと東京にミサイルが飛んでくるという展開になります。東京ではそのとき国会、霞が関周辺で42万人が犠牲になります。

だからこそ戦争は、より無理になっているという状況は変わらないのです。

ただしそこでこれまでと変わったことが2つだけあります。それがトランプと金正恩という、2人の予測不能な指導者の登場です。お互いに頭がおかしいと思っているであろうその相手の出方を、お互いが読み間違える恐れはなきにしもあらず。トランプ政権内の軍人閣僚たちに期待するのは、そんな時の正気の状況分析と抑制力なのです。

February 15, 2017

対米追従外交

日米首脳会談に関して官邸や自民党は「満額回答」と大喜びです。安倍首相も帰国後のテレビ出演でトランプがゴルフで失敗すると「悔しがる、悔しがる」とまるでキュートなエピソードでもあるかのように嬉々として紹介していました。でも、これ、アメリカ男性にはよくある行動パタンなんですよね。「少年っぽくてキュートでしょ」と思わせたいというところまで含んだ……。

「満額」とされる日米の共同声明は日本政府がギリギリまで文言を練ってアメリカ側に提起したものでした。安保条約による尖閣防衛などに関してはすでにマティス国防長官の来日時に言質を取っていたものの、外交というものはとにかく「文書」です。文字に記録しなければ覚束ない。

対するトランプ政権はアジア外交の屋台骨もまだ定まっていませんでした。日本の専門家もいません。そこに日本の官邸と外務省が攻め込み、まんまと自分たちの欲しかったものの文書化に成功したわけです。

でも、その共同声明の中にひとつ気になる文言があります。

「核及び通常戦力の双方によるあらゆる種類の軍事力を使った日本の防衛に対する米国のコミットメントは揺るぎない」

日本政府は米国の核抑止力に依存していることは認めています。しかしここにある「核を使って」とまで踏み込んだ発言を、これまで日本はしていたでしょうか? 「抑止力」とは核を実際には使わずに相手の攻撃を防ぐ効果を上げる力のことです。でも、その「核」を「使う」と書いた。これは大きな転換ではないのでしょうか? どの日本メディアもその点について書いていないということは、私のこの認識が違っているのかもしれませんが。

いずれにしてもアベ=トランプの相性は良いようで、産経新聞によると安倍首相は「あなたはニューヨーク・タイムズに徹底的にたたかれた。私もNYタイムズと提携している朝日新聞に徹底的にたたかれた。だが、私は勝った…」と言って、「俺も勝った!」と応じたトランプの歓心を得たとか得ないとか。

ただですね、報道メディアを攻撃するのはヒトラーの手法です。歴史的には褒められたもんじゃ全くないのですよ。

さて、マール・ア・ラーゴでの2日目のテラス夕食会で「北朝鮮ミサイル発射」の一報がホワイトハウスからトランプのもとに飛び込んできて、前菜のレタスサラダ、ブルーチーズドレッシング和えを食そうとした時にテーブルは慌ただしく緊急安保会議の場と化したんだそうです(CNNの報道)。その時の生なましい写真が会食者のフェイスブックにアップされて、一体こういう時の極秘情報管理はどうなんているんだと大問題になっています。安全保障上の「危機」情報がどうやって最高司令官(大統領)に届くのか、それがどう処理されるのか、というプロトコルは最高の国家機密です。つまりはアジア外交どころか絶対にスキがあってはいけない安保関連ですら、トランプ政権はスカスカであることを端なくも明らかにしてしまったわけです。大丈夫か、アメリカ、の世界です。

そこには血相を変えたスティーブ・バノン首席戦略官とマイケル・フリン安保担当大統領顧問も写り込んでいました。そしてそれから2日も経たないうちにそのフリンが辞任するというニュースも飛び込むハメと相成りました。

フリンはそもそもオバマ政権の時に機密情報を自分の判断で口外したり独断的で思い込みの激しい組織運営のために国防情報局(DIA)局長をクビになった人物です。当時のフリンを has only a loose connection to sanity(正気とゆるくしか繋がっていない)と評したメディアがあったのですが、事実と異なる情報を頻繁に主張したり、確固たる情報を思い込みで否定することが多く、そういうあやふやな情報は職員からは「フリン・ファクツ Flynn Facts」と呼ばれていました。まさに今の「オルタナティブ・ファクツ(もう一つ別の事実)」の原型です。

そんなフリンが昨年12月、オバマ大統領によるロシアの選挙介入に対する制裁があった際に、その解除についていち早く駐米ロシア大使と電話で5回も話し合っていたというのが今回の辞任の「容疑」です。そもそも彼は「宗教ではなく政治思想だ」と主張するイスラム教殲滅のためにロシアと手を組むべしという考えを持っていた人です。そのためにオバマにクビになってからはロシア政府が出資するモスクワの放送局「ロシア・トゥデイ」で解説役を引き受けたりもしていました。ロシアとはそもそも縁が深い。

今回の辞任は民間人(当時)が論議のある国の政府と交渉して、政府本来の外交・政策を妨害してはいけないというローガン法という決まりがあって、それに違反していると同時に、政策に影響を与えるような偽情報を副大統領ペンスに与えていた(ペンスには当初「制裁解除の交渉はしていない」と報告したそうですが、その後にその話は「交渉したかどうか憶えていない」と変わり、ならばそんな記憶力のない人物に安全保障担当は任せられないという話にもなりました。要は、法律違反、利敵行為、情報工作、職務不適格)という話です。まあしかし、それもフリンのそんな電話会議のことをペンスが承知の上だったなら副大統領までローガン法違反の”共犯”ということになりますから、それはそう言わざるを得ないのかもしれませんし。

つまり疑惑は辞任では収まらないということです。疑惑はさらに(1)こんな重要案件でフリンが自分一人の判断でロシア大使と会話したのか(2)その交渉情報は本当にトランプやペンスらに伝わっていなかったのか(3)ロシアとは他に一体何を話し合っていたのか、と拡大します。おまけにトランプ本人の例の「ゴールデンシャワー」問題もありますし。

実はトランプ陣営でロシア絡みで辞任したのは選挙期間中も含めこれでポール・マナフォート、カーター・ペイジに次いで3人目です。ここでまた浮かび上がるのがトランプ政権とロシアとの深い関係。だってトランプ自身も昨年7月の時点ですでにクリミア事案によるロシアへの制裁解除を口にしていたのですよ。この政権がロシアゲートで潰れないという保証はだんだん薄く、なくなってきました。

ところでそんな懸念はどこ吹く風、ハグとゴルフでウキウキのアベ首相は3月に訪独してメルケルさんに「トランプ大統領の考えを伝えたい」とメッセンジャー役を買って出る前のめりぶりです。トランプ政権の誕生で戦後日本の国際的な位置付けや対米意識により独立的な変化が訪れるのではないかと期待した向きもありますが、自民党政権によるアメリカ・ファーストの追従外交には、今のところまったく変化はないようです。

ところでこの「追従」って、世界的には「ついじゅう」と「ついしょう」の両方で捉えられています。就任1カ月もたたないうちにメキシコ大統領と喧嘩はする、オーストラリア首相とは電話会談を途中で打ち切る、英国では訪英したって議会演説や女王表敬訪問などとんでもないと総スカンばかりか英国史上最大の抗議デモまで起きるんじゃないかと言われている次第。こうして西側諸国から四面楚歌真っ最中のトランプ大統領が、アベ首相をキスでもしそうなくらいにハグし歓待したのも、そういう状況を考えると実に頷けるわけであります。

さあトランプ政権、次は誰が辞めさせられるのか? ショーン・スパイサーか、ケリーアン・コンウェイか、はたまたスティーヴ・バノンか──この3人が辞めてくれればトランプ政権もややまともになるとは思うのですが、しかしその時はトランプ政権である必要がなくなる時でもあります。アメリカは今まさに「ユー・アー・ファイアード」のリアリティ・ドラマを地で行っているような状況です。

November 01, 2016

「女嫌い」が世界を支配する

投票日11日前というFBIによるEメール問題の捜査再開通告で、前のこの項で「勝負あったか?」と書いたヒラリーのリードはあっという間にすぼみました。州ごとの精緻な集計ではまだヒラリーの優位は変わらないとされますが、フロリダとオハイオでトランプがヒラリーを逆転というニュースも流れて、なんだかまた元に戻った感じでもあります。

だいたい今回のメール問題の捜査対象は、ヒラリーの問題のメールかどうかもわかっていません。ただFBIがまったくの別件で捜査していたアンソニー・ウィーナーという元下院議員の15歳の未成年女性を相手にしたエッチなテキストメッセージ(sexting)問題で彼のコンピュータを調べたところ、中にヒラリーのメールも見つかったので、それをさらに捜査しなくてはならない、というだけの話なのです。もっと詳しく言えばそのウィーナーのコンピュータは彼が妻と強要していたもので、かつその妻がヒラリーの側近中の側近として働いてきたフーマ・アベディンという、国務長官時代は補佐官を務め、今は選対副本部長である女性なんですね。ということで、そのアベディンのメールも調べることになっちゃう。だからその分の捜査令状もとらなくちゃならない、ということで、「ヒラリーのメール問題」とすること自体もまだはばかられる時点での話なのです。

つまりそのメールが私用サーバーを使った国家機密情報を含んでいるものとわかったわけでもなんでもないのですが、とにかくFBIのジェイムズ・コミー長官は自分の机の上に10月半ばまでに「ヒラリーのメールがあった」という書類が上がってきたものだから、これはこのまま黙殺はできない。捜査はしなくてはならないが、捜査のことを黙っていたりその情報自体を黙殺でもしたら後で共和党陣営にヒラリーをかばうためだったと非難されるに決まっている。しかしだからと言って捜査を開始したと言ったら選挙に影響を与えてしまうとして民主党側からも非難される。どっちが自分のためになるか、おそらく彼は苦渋の決断をしたんだと思います。その辺のジレンマの心境は実は彼がFBIの関係幹部に当てた短文のメールが公表されているのでその通りなんでしょう。でも、それは保身のための決断だった印象があります。

そもそもFBIの捜査プロトコルでは、捜査開始のそんな通告を議会に対して行う義務はないし、むしろ選挙に関係する情報は投票前60日以内には絶対に公表しないものなのです。つまり彼はヒラリーの選挙戦に悪影響を及ぼしても自分が職務上行うことを隠していたと言われることを避けた。そちらの方がリスクが高いと判断したんでしょう。つまりリスクの低い道を選んだわけです。誰にとってのリスクか? そりゃ自分にとってのリスクです。つまり保身だと思われるわけです。

で、週末にかけて、アメリカのメディアはコーミーのそんな保身を責めたり、いや当然の対応だと擁護したりでこの問題で大騒ぎです。

ところが問題はもう1つ別のところにあります。

8年前のヒラリー対オバマの大統領選挙の時も言ってきましたが、なぜヒラリーはかくも嫌われるのか、という問題です。なぜ暴言の絶えないトランプが支持率40%を割ることなく、2年前には圧勝を噂されたヒラリーが最終的にかくも伸び悩むのか?

この選挙を、「本音」と「建前」の戦いだと言ってきました。「現実」と「理想」とのバトル。そしてその後ろで動いているのが、もう明らかでしょう、実はアメリカという国の、いや今の世界のほとんどの国の、拭いがたい男性主義だということです。これまでずっとアメリカという国の歴史の主人公だった白人男性たちが今や職を奪われ、家を失い、妻や子供も去って行って、残ったのが自分は男であるという時代錯誤の「誇り」だけだった。いや、職も家も妻子も奪われていなくとも、もうジョン・ウェインの時代じゃありません。当たり前と思ってきた「誇り」は今や黒人や女性やゲイたちがアイデンティティの獲得と称してまるで自分たちの所有する言葉のように使っています。そこで渦巻くのは、アイデンティティ・ポリティクスに乗り遅れた白人男性たちの、白人(ヘテロ)男性であることを拠り所とした黒人嫌悪であり女性嫌悪でありゲイ嫌悪です。ヒラリーに関してもこの女嫌いが作用しているのです。

マイケル・ムーアの新作映画『Michael Moore in Trumpland』で、彼も私と同じことを言っていました。ムーアは昨年、映画『Where to Invade Next?』を撮るためにエストニアに行ったそうです。かの国は出産時の女性の死亡率が世界で一番少ない国です。なぜか? 保険制度が充実しているからです。アメリカでは年間5万人の女性が死んでいるのに。

そこの病院を取材した時にムーアは壁にヒラリーの写真が飾ってあることに気づきます。彼女もまた20年前に同じ目的で同じ病院に来ていたのです。国民皆保険制度を学ぶために。一緒に写る男性を20年前の自分だと言う医師がムーアに言います。「そう、彼女はここに来た。そして帰って行った。そして誰も彼女の話を聞かなかった。それだけじゃない。彼女を批判し侮辱した」

20年前、国民皆保険導入を主導したヒラリーは一斉射撃を浴びました。「あなたは選ばれてもいない、大統領でもない。だから引っ込んでいろ」と。それから20年、アメリカでは保険のない女性が百万人、出産時に亡くなった計算です。保険制度を語る政治家は以来、オバマまで現れませんでした。

ムーアは言います──ヒラリーが生まれた時代は女性が何もできなかった時代だった。学校でも職場でも女性が自分の信じることのために立ち上がればそれは孤立無援を意味した。だがヒラリーはずっとそれをやってきた。彼女はビルと結婚してアーカンソーに行ってエイズ患者や貧者のための基金で弁護士として働いた。で、ビルは最初の選挙の時に負けた。なぜか? 彼女がヒラリー・ロドムという名前を変えなかったから。で、次の選挙でヒラリーはロドム・クリントンになった。で、その次はロドムを外してヒラリー・クリントンになった。彼女は高校生の頃から今の今までそんないじめを生き抜いてきたのだ、と。

そんな彼女のことを「変節」と呼ぶ人たちが絶えません。例えば2008年時点で同性婚に反対していたのに今は賛成している、と。でも08年時点で同性婚に賛成していた中央の政治家などオバマをはじめとして1人としていなかったのです。

マザージョーンズ誌のファクトチェッカーによればヒラリーは米国で最も正確なことを言っている主要政治家ランキングで第2位を占めるのですが、アメリカの過半が彼女を「嘘つきだ」と詰ります。トランプは最下位ですが、どんなひどい発言でも「どうせトランプだから」の一言で責めを逃れられています。同ランク1位のオバマでさえ再選時ウォール街から記録破りの資金提供を受けていたのに、企業や金融街との関わりはヒラリーに限って大声で非難されます。大問題になっているEメールの私用サーバー問題だってブッシュ政権の時も同様に起きていますが問題にもなっていません。クリントン財団は18カ国4億人以上にきれいな飲み水や抗HIV薬を供与して慈善監視団体からA判定を受けているのに「疑惑の団体」のように言われ、トランプはトランプ財団の寄付金を私的に流用した疑惑があってもどこ吹く風。おまけにこれまで数千万ドル(数十億円)も慈善団体に寄付してきたと自慢していたトランプが実は700万ドル(7億円)余りしか寄付をしてこなかったことがわかっても、そんなことはトランプには大したことではないと思う人がアメリカには半分近くいるのです。

これは一体どういうことなのでしょう? よく言われるようにヒラリーが既成社会・政界の代表だから? 違います。だって女なんですよ。代表でなんかあるはずがない。

嫌う理由はむしろ彼女が女にもかかわらず、代表になろうとしているからです。ヒラリーを嫌うのは彼女が強く賢く「家でクッキーを焼くような人間ではない」からです。嫌いな「女」のすべてだからです。「女は引っ込んでろ!」と言われても引っ込まない女たちの象徴だからです。違いますか?

日本では電車の中で化粧する女性たちを「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」と諌める"マナー"広告が物議を醸しています。みっともないと思うのは自由です。でもそれを何かの見方、考え方の代表のように表現したら、途端に権力になります。この場合は何の権力か? 男性主義の権力です。男性主義を代表する、男性主義の視線そのものの暴力です。「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」は、どこをどう言い訳しても、エラそうな男(的なものの)の声なのです。

ヒラリーが女であること、そしてまさに女であることで「女」であることを強いられる。それはフェアでしょうか?

この選挙は、追いやられてきた男性主義がトランプ的なものを通して世界中で復活していることの象徴です。私が女だったら憤死し兼ねないほどに嫌な話です。そしてそれはたとえ7日後の選挙でヒラリーが勝ったとしても、すでに開かれたパンドラの箱から飛び出してきた「昔の男」のように世界に付きまとい続けるストーカーなのです。

September 10, 2016

いつか来た道

北朝鮮の核実験やミサイル発射でこのところ日米韓政府がにわかに色めき立って、韓国では核武装論まで出ているようです。日本での報道も「攻撃されたらどうする?」「ミサイル防衛網は機能するのか?」と「今ここにある危機」を強調する一方で、どうにも浮き足立っている感も否めません。

でも少し冷静になれば「攻撃されたらどうする?」というのは実はこれまでずっと北朝鮮が言ってきたことなのだとわかるはずです。戦々恐々としているのは北朝鮮の方で、彼らは(というか"金王朝"は)アメリカがいつ何時攻め込んできて体制崩壊につながるかと気が気ではない。何せ彼らはイラクのサダム・フセインが、リビアのカダフィが倒されるのをその目で見てきたのです。次は自分だと思わないはずがありません。

そこで彼らが考えたのが自分たちが攻撃されないための核抑止力です。核抑止力というのは敵方、つまり米国の理性を信じていなければ成立しません。理性のない相手なら自分たちが核兵器を持っていたら売り言葉に買い言葉、逆に頭に血が上っていつ核攻撃されるかわからない。しかし金正恩は米国が理性的であることに賭けた。

実はこれはアメリカと中国との間でかつて行なわれた駆け引きと同じ戦略なのです。冷戦下の米国は、朝鮮戦争時の中国への原爆投下の可能性を口にします。その中で中国が模索したのが自国による核開発でした。米ソ、中ソ、米中と三つ巴の対立関係の中で、核保有こそが相手側からの攻撃を凍結させる唯一の手段だと思われたのです。

そうして60年代、中国はロケット・ミサイルの発射実験と核爆発実験とを繰り返し、70年から71年にかけて核保有を世界に向けて宣言するわけです。それこそがどこからも攻め込まれない国家建設の条件でした。

慌てたのはアメリカです。どうしたか? 71年7月、ニクソン政権のキッシンジャー大統領補佐官が北京に極秘訪問し、それが翌72年のニクソン訪中へと発展するのです。米中国交正常化の第一歩がここから始まったのです。

今の北朝鮮が狙っているのもこれです。北朝鮮という国家が存続すること、つまりは金正恩体制が生き延びること、そのために米国との平和協定を結び、北朝鮮という国家を核保有国として世界に認めさせること。おまけに核兵器さえ持てば、現在の莫大な軍事費を軽減させて国内経済の手当てにも予算を回すことができる。

もちろん中国とは国家のスケールが違います(実際、アメリカが中国と国交を回復したのはその経済的市場の可能性が莫大だったせいでもあります)が、北朝鮮の現在の無謀とも見える行動は、アメリカに中国との「いつか来た道」をもう一度再現させたいと思ってのことなのです。

そんなムシのよい話をしかし米国が飲むはずもない。けれどいま米韓日の政府やメディアが声高に言う「北朝鮮からいまにも核ミサイルが飛んでくるかもしれない」危機、というのもまた、あまりにも短絡的で無駄な恐怖なのです。そんな話では全くないのですから。

さてではどうするか? 国連による経済制裁も実は、北朝鮮と軍事・経済面でつながりを持つアフリカや中東の国々では遵守されているとは言いがたく、そんな中での日本の独自制裁もそう圧力になるとは思えません。たとえ制裁が効果を持ったとしても国民の窮乏など核保有と国家認知の大目的が叶えばどうにでもなる問題だと思っている独裁政権には意味がないでしょうし、中国も手詰まりの状態です。なぜなら金正恩は金正日時代の条件闘争的な「瀬戸際外交」から、オバマ政権になってからの放置プレイにある種覚悟を決めた「開き直り外交」にコマを進めたからです。「いつか来た道」の再現には「この道しかない」わけですから。

金正恩の一連の行動は全て、動かないオバマの次の、新たなアメリカ大統領に向けてのメッセージなのだと思います。さて、彼女は/彼は、どう対応するのでしょう。

August 27, 2016

オルトライト?

大統領選はどんどんうんざりする方向に進んでいます。ここでもトランプvsクリントンの選挙戦を何度も「本音と建前の戦い」と説明してきましたが、このトランプ勢力の本音主義、白人男たちの言いたい放題の感情主義を具現する集団を、クリントンがとうとう「オルトライト(alt-right)」と名指しして批判しました。

「オルトライト」とは「オルタナティヴ・ライト Alternative Right」つまり「もうひとつ別の右派」「伝統的右翼とは違う右翼」のことで、本当は右翼かどうかも疑わしいのですが、この5〜6年、自分たちでそう呼んでくれと自称していた人たちのことです。トランプと同じく「政治的正しさ(Political correctness)なんか構ってられない」と、あるいはアメリカの主人公だった白人男たちの特権を取り戻せと、つまり「アメリカを取り戻す!(Make America Great Again!)」と言っている人たちです。

右翼とは本来、保守、愛国、国家主義を基盤としていますが、この「オルトライト」たちには今のアメリカ国家は関係ありません。白人のアメリカだけが重要なのです。したがって「黒人や有色人種はDNAからいって劣っているから差別されて当然」「移民・難民とんでもない」。それだけだと昔からある白人至上主義と似ていますが、彼らは女性差別も当然だと言ってはばからない。反フェミニズム、男性至上主義も取り込んでいるのです。

なにせ、彼らの理想の国は「女性が従順な日本や韓国」なのだそう。それだけではありません。ツイッターなど彼らのSNS上のアイコンはなぜか日本のアニメの女の子であることが多く、しかも日本のネット掲示板「2ちゃんねる」を真似た「4チャンネル」なる掲示板を作って好き勝手な差別的方言暴言で盛り上がっています。新作の女性版「ゴーストバスターズ」の映画で、ヒロインの1人の大柄な黒人コメディエンヌ女優の容姿をさんざんな悪口で侮辱、罵倒して、彼女がツイッターをやめると言うまでに追い込んだ輩たちもこの「オルトライト」たちです。

こういうと何か連想するものはありませんか? そう、日本でさまざまな差別的ヘイト・スピーチを繰り返す「ネトウヨ」と呼ばれる連中のことです。「ネット右翼」=匿名をいいことにネットを中心に辺り構わず差別的言辞を繰り返し、標的のSNSアカウントを「炎上」させては悦に入っている輩ども。

こちらも「右翼」という名が付いてはいるものの、本来の「保守」主義からは程遠く、「反日」「愛国」と叫びはしますが平和を唱える今上天皇をも「反日」認定したりと、まったく支離滅裂。むしろそういう真面目な主義主張や信条をからかうこと自体を面白がる傾向すらあります。

実際、「オルトライト」の名付け親とも言われる人物は、今回クリントンが名指しで批判したことに対して「やっと大統領候補みたいな大物政治家にも存在を認められた」と言って喜ぶのですからどうしようもありません。

反知性主義、排他主義、男性主義、そういうものが世界中で同時発生的に増殖しています。30年前のネオナチから続く流れにポップカルチャーが混じり込み、それにネットメディアが「場」を与えたのかもしれません。そのせいで今、アメリカの共和党が崩壊の危機にあります。

今回の大統領選挙は、そんな傾向に対抗する言説がどれだけ有効かを見る機会かもしれません。ただ、それにしてはクリントンの好感度がどんどん下がって、対抗言説どころの話ではなくなっているのが冒頭の「うんざり」の原因なのですが。

May 24, 2016

広島と謝罪と「語られていない歴史」

共同通信のアンケートで、広島や長崎の被爆者の8割近くの人たちがオバマ大統領に原爆投下への謝罪を求めないと答えました。「謝罪しろと言ったら来ないだろうから」と言う人もいました。確かに原爆ドームや展示館は、「来る」だけで何らかの思いを強いるものでしょう。

日本人は原爆を落とされた後の「結果」を見る。アメリカ人は原爆を落とす前の「原因」を見る。で、今も原爆投下を日本の早期降伏のために必要だったと考える人はアメリカに今も56%います。

でも同じアメリカ人でも44歳以下では投下を正しくなかったと答える人の方が多くなってきました。そんな世論と世代の変化を背景にオバマ大統領が広島で犠牲者を追悼します。これはアメリカ(大統領)が、原爆を落とした「結果」について触れる初めてのことでもあります。

もっとも、アメリカは第二次大戦前も今も同じ国体を保っています。同じ「国」が、自分の過去を謝罪することは、そこから続く現在の国のあり方を謝罪することにもなって論理的に難しい。1945年の前と後では国体の異なる今の日本が、違う国だったあの「大日本帝国」の慰安婦問題やバターン死の行進、南京虐殺を謝罪するのとは意味が全く違うわけです。

さて、それでもオバマ大統領が広島訪問にこだわったのは、もちろん就任直後に核廃絶を謳った09年のプラハ演説(ノーベル平和賞を受賞したきっかけです)の締めくくりを任期最後の年に行いたいという思いがあったのでしょう。でもこの間、世界の事情は大きく変わりました。「イスラム国」の台頭で核兵器は米ロ中といった国家間での交渉だけの問題ではなくなりました。世界の核管理の問題がより複雑になり、そこに北朝鮮やイランなどの不確定要素も加わって、核廃絶の道は遅々として進まないままです。

日本の事情もありました。鳩山政権時の09年にオバマ大統領が広島訪問を日本側に打診した際には、当時の藪中外務次官がルース駐日大使に「反核団体」や「大衆」の「期待」を「静めなければならない」ため「時期尚早」と自ら断っていたのです。民主党政権の得点になるようなことを、一官僚が個人的な忖度で回避したのだという見方もあります。

その後もオバマ大統領は広島訪問を探りますが、やがて与党に返り咲いた自民党・安倍首相が靖国参拝を断行したりハドソン研究所で「私を軍国主義者と呼びたい人はどうぞ」とスピーチしたりで日米関係は最悪になります。

それでもオバマ政権の嫌悪感をよそに憲法改定への道を探りたい安倍首相は、集団的自衛権の容認及び法制化で、米国(特に国防省)に擦り寄る作戦に出ました。同時に米国(これは国務省です)の強い要請のあった懸案の韓国との表面上の和解も果たして、外交的にも鎮静化を図ります。そうして伊勢・志摩サミットの開催で、オバマ広島訪問のお膳立てがそろったのです。

米側、というよりも任期最後の大統領の個人的な思いと、安倍首相の狙う平和憲法改定へ向けての参院選挙あるいは衆参同時選挙のタイミングが、ここで合致します。そこで広島の平和記念碑の前で日米トップのツーショットが世界に発信されるのです。この辺の安倍政権の算段は、偶然もありましょうが実に見事と言わねばなりません。

***

実は71年前の原爆投下の後で、7人いるアメリカの5つ星元帥及び提督の6人までが(マッカーサーやアイゼンハワー、ニミッツらです)原爆は軍事的に不必要で、道徳的に非難されるべきこと、あるいはその両方だと発言しています。その中の1人、ウィリアム・リーヒー提督は、原爆使用は「"every Christian ethic I have ever heard of and all of the known laws of war.(私の聞いたすべてのキリスト教的倫理、私の知るすべての戦争法)」に違反していると指摘し、「The use of this barbarous weapon at Hiroshima and Nagasaki was of no material assistance in our war against Japan. In being the first to use it we adopted an ethical standard common to the barbarians of the dark ages.(この野蛮な兵器を広島・長崎で使用したことは、日本に対する我らの戦争において何ら物理的支援ではなかった。これを使用する最初の国になることで、我々は暗黒時代の野蛮人たちに共通する倫理的基準を採用したのだ」とまで言っています。

これらはアメリカン大学のピーター・カズニック教授の「The Untold History of US War Crimes」(米国の戦争犯罪に関する語られない歴史)というインタビュー記事に中に出ています。

それによれば、戦争末期には日本の暗号はすべて米側に解読されていて、日本の軍部の混乱がつぶさにわかっていたのです。マッカーサーは「日本に対し、天皇制は維持すると伝えていたら日本の降伏は数ヶ月早まっていただろう」と発言しています。実際、1945年7月18日の電報傍受で、トルーマン大統領自身が「the telegram from the Jap emperor asking for peace.(日本の天皇=ジャップ・エンペラーからの和平希望の電報)」のことを知っていました。トルーマンはまた、欧州戦線の集結した1945年2月のヤルタ会談で、スターリンが3か月後に太平洋戦争に参戦してくるのに合意したと知っていました。その影響の大きさも。4月11日の統合参謀本部の情報部の分析報告ではすでに「If at any time the USSR should enter the war, all Japanese will realize that absolute defeat is inevitable. ソ連の参戦は、日本人すべてに絶対的な敗北が不可避であることを悟らせるだろう」と書いてあるのです。

さらに7月半ばのポツダムで、トルーマンはソ連の参戦を再びスターリンから直に確認しています。その時のトルーマンの日記は「Fini Japs when that comes about. そうなればジャップは終わり」と書いてあって、翌日には家で待つ妻宛の手紙で「We'll end the war a year sooner now, and think of the kids who won't be killed. 今や戦争は一年早く終わるだろう。子供達は死なずに済む」と書いていました。もちろん、日本の指導者達はそのことを知らなかったのです。

そして広島と長崎の原爆投下がありました。マッカーサーは広島の翌日に自分のパイロットに怒りをぶつけているそうです。そのパイロットの日記に「General MacArthur definitely is appalled and depressed by this Frankenstein monster. マッカーサー元帥は本当にショックを受けていて、このフランケンシュタインの怪物に滅入っていた」と記されていました。「フランケンシュタインの怪物」とは、人間の作ってしまったとんでもないもの、つまりは原爆のことです。

ただし、原爆が日本の降伏を早めた直接の契機ではなかったのです。46年1月、終戦直後の米戦争省の報告書は(最近になってワシントンDCの米海軍国立博物館が公式に見つけたものです)"The vast destruction wreaked by the bombings of Hiroshima and Nagasaki and the loss of 135,000 people made little impact on the Japanese military. However, the Soviet invasion of Manchuria … changed their minds."(広島と長崎の爆弾投下によってもたらされた広範な破壊と13万5千人の死は日本の軍部へ少ししか衝撃を与えなかった。しかし、満州へのソビエトの侵攻こそが彼らの意見を変えた)として、日本の降伏を早めたのは原爆ではなくてソ連の満州侵攻だったのだと分析しています。

あの当時、戦争の現場にいて原爆の非情な威力を目の当たりにした軍部のトップ達はおそらく自分たちの軍が犯したその行為の「結果」に、恐れをなしたのだと思います。それはしかし、取り返しも何もつくものではなかった。だから歴史を「語り直す」作業がそこから始まったのでしょう。「日本は原爆によって降伏を早めたのだ」と。「日本の本土決戦で奪われたであろう50万人のアメリカ兵の命と、やはり犠牲になったであろう数百万人の日本人自身の命をも救ったのだ」と。

***

今は語られていないその歴史も、「戦争」を冷静に見ることのできる世代が育ち上がればやがて米国の正史になるかもしれません。それはひょっとすると数年先のことかもしれません。

でもその前に、次に安倍首相が真珠湾で謝罪し、さらに「トランプ大統領」が回避されれば、という条件が必要でしょうが。

February 23, 2016

丸山発言のヤバさ

CNNが「日本の国会議員が『黒人奴隷』発言で謝罪」という見出しで報道した自民党の丸山議員の発言は、大統領=オバマ=黒人=奴隷という雑な三段(四段?)論法(というか単純すぎる連想法)が、人種という実にセンシティブな、しかも現在進行形の問題で応用するにはあまりにもお粗末だったという話です。たとえ非難されるような「意図」はなかったとしても、そもそも半可通で引き合いに出すような話ではありません。とにかく日本の政治家には人種、女性、性的マイノリティに対するほとんど無教養で無頓着な差別発言が多すぎます。

この人権感覚のなさ、基準の知らなさ具合というのは、何度もここで指摘しているようにおそらく外国語情報を知らない、日本語だけで生きている、という鎖国的閉鎖回路思考にあるのだと思います。日本では公的な問題でもみんな身内の言葉で話すし、そういう状況だと聞く方も斟酌してくれる、忖度してくれる→そうするとぶっちゃけ話の方が受けると勘違いする→すると決まって失言する→がその何が失言かも勉強しないまましぶしぶ謝罪して終わる→自分の中でうやむやが続く、という悪循環。そういう閉鎖状況というのは昭和の時代でとっくに終わっているはずなのに、です。

かくして丸山発言は当事者の米国だけではなく欧州、インド、ベトナム、アフリカのザンビア等々とにかく全世界で報じられてしまいました。

このところこのコラムで何度も繰り返している問題がここにもあります。日本では本音と建前の、本音で喋るのが受けるという風潮がずっと続いています。建前は偽善だ、ウゾっぽい、綺麗事だ、とソッポを向かれます。だから本音という、ぶっちゃけ話で悪ぶった方がウケがいい。

しかし世界は建前でできています。綺麗事を目指して頑張ってるわけです。綺麗事のために政治がある。そうじゃなきゃ何のために政治があるのか。現状を嘆きおちょくるだけの本音では世界は良くなりはしない。

まあ、トランプ支持者にはそういう綺麗事、建前にうんざりしている層も多いのですが、CNNはじゃあこの丸山議員はわざと建前を挑発して支持者を増やそうとする「日本のトランプなのか?」と自問していて、しかし、そうじゃない、単に「こうした問題に無関心かつ耳を傾けないこの世代を象徴する政治家だ」と結論づけているのです。

さてしかし私は、今回のこの丸山発言、問題は報道されたその部分ではなくて実はその前段、「日本がアメリカの51番目の州になり、日本州出身の大統領が誕生する」と話した部分なんだと思います。

発言はこうです。日本が主権を放棄して「日本州」というアメリカの「51番目の州」になる。すると下院では人口比で議員数が決まるからかなりの発言力を持つし、上院も日本をさらに幾つかの州に分割したらその州ごとに2人が議員になれるから大量の議員役も獲得できる。さらに大統領選出のための予備選代議員もたくさん輩出するから「日本州出身大統領」の登場もおおいにあり得るぞという話。そこでこの「奴隷でも大統領になれる国」という発言が飛び出すのです。

日本がアメリカの属国状態だというのは事実認識としてわかりますが、しかし「日本が主権を放棄する」って「売国」ですか? いやもっと言えば、売国するフリしてアメリカを乗っ取ってしまおう、って話じゃありませんか?

これはヤバいでしょ。しかしそこはあまり問題にならないんですね(日本のメディアが詳報しないんで外国通信社もそこを報道しないため気づかれていないということなんでしょうが)。ま、日本のメディアが報道しないのは、そういうのはどうせ居酒屋談義だと知ってるからでしょうけど、政治がこういう居酒屋談義、与太話で進んでいる状況というのはいかがなんでしょうか。そして何より、この丸山発言に対して、当の自民党が総裁を始め幹部一同まで明確にはたしなめも断罪もしないという状況が、対外的メッセージとしてはそれを容認しているということになってしまって(まあ、事実そうなんですけど)さらにヤバいと思うのですが。

December 23, 2015

私怨と公憤

11月のパリ、12月のカリフォルニアのテロが象徴するように2015年は世界秩序が「イスラム国」に揺るがされた年でした。その反動でフランスでは移民排斥を謳う右翼政党「国民戦線」が大躍進し、米国でもイスラム教徒入国禁止をブチ上げたドナルド・トランプが共和党の大統領候補として相変わらず支持率トップを維持しています。2016年はどういう年になるのでしょうか。

「イスラム国」の惹き起こす各種の問題は今年も続くでしょう。「イスラム国」とは何かという問題に、私はこれは、私怨を公憤に簡単に変えてくれる「装置」なんじゃないかと感じています。

欧米でも「新住民」として定着しつつあるイスラム教徒は「旧住民」との間に様々な軋轢も持つでしょう。それは実は単に「新」と「旧」との軋轢に過ぎないのですが(日本でも新・旧住民間の軋轢は至る所で起きています)、それがここではキリスト教コミュニティとの宗教的軋轢として格上げされてしまう。

新住民たるイスラム教徒たちが「自分は疎外されている、いじめられている、仲間外れになっている」という鬱憤を抱くことはあるでしょう。これまでその鬱憤は私的なことでした。鬱憤を晴らすことも個人的な範囲で抑えられてきました。なのでそんな鬱憤には「晴らす」までに至らずさらに鬱積したものもあったでしょう。それはこの世の常です。それはまた様々な手段で解決していかねばならい。

ところがそこにいつの間にか「イスラム国」というお題目が与えられました。それを唱えるだけで、これは社会的な矛盾だ、キリスト教とイスラム教の宗教対決だ、思想戦争だという、なんだか大義名分のある(ような)鬱憤に格上げしてくれる。「イスラム教徒がいる場所がイスラムの国だ」という思想の下、単なる個人的な鬱憤だったものがなんだか偉そうな大問題に思えてくるのです。この短絡が成立すればもう際限がない。その鬱憤を晴らすことには大義がある。その大義のためには銃器を入手することも爆弾を作ることも人を殺すことも正しく思えてくるのです。

対してトランプが言ってることも同じです。彼の発言もとても個人的な敵対感情です。社会のこと、世界の仕組みのことなんか吹っ飛ばして、個人的な、私的な恐怖心を、大統領候補という大義名分のある地位で、なんだか公的なことのように言葉にする。いま起きていることはつまり、実は私怨と私怨のぶつかり合いなのです。なのにいつの間にか公憤、公の正義同士のぶつかり合いのようなものに、見かけ上は変貌している。

「驚愕反射テスト」というのがあります。突然大きな音を聴かせたり、感情をかき乱すような画像を見せたりする様々な「驚愕すること」に、どのくらい敏感に反応するかという検査です。その結果、保守派のほうがリベラル派よりも「ショックを受ける傾向」が強いという事実が「サイエンス」誌に発表されています。怖がりだとか臆病だとか、そういう生理的傾向が政治思想に影響するらしいのです。

強権主義だとか国家主義だとか男尊女卑だとかそういう強硬な「保守」思想が、結局はその人の性格の問題だなんてなんだかガッカリしますが、その意味では「恐怖をあおる」トランプの選挙手法は保守派の票の掘り起こしにはつながるのかもしれません。

でも、こちらの恐怖には相手側からも恐怖しか返ってきません。それが「公憤」を装う「私怨」同士の応酬につながっているのです。その傾向を、どうにか断ち切れないものかと考えあぐねる新年です。

December 08, 2015

排除と防衛の本能

6日に行われたフランスの地方選で極右政党の「国民戦線」が記録的な支持を集めました。得票率は全体の28%。5年前の前回選挙では11%でしたから2倍半にも増えました。全13の選挙区のうち半分近い6選挙区で首位、しかも党首マリーヌ・ルペン(47)とその姪の副党首マリオン・マレシャル・ルペン(25)は、それぞれ40%超の票を獲得したのです。

130人もが殺害された11月のパリ同時多発テロの不安が「反EU」「反移民」を訴える同党への共感を呼んでいるのでしょう。

同じことがカリフォルニア州の銃乱射テロでも言えます。共和党大統領候補ドナルド・トランプは例によって全てのイスラム教徒の米国渡航を禁止すべきだと主張し始め、支持率をさらに上げています。

銃規制問題も、こういう事件が起きるたびに米国社会には「銃規制すべきではない」「自分と家族を守るために銃所持は必要」という世論も逆に高まるのです。

これまで、米国で最も銃が売れた1日は3年前の12月21日でした。この日の1週間前、コネチカット州ニュータウンで26人殺害の例の「サンディフック小学校銃撃事件」が発生していたのです。

今年のブラックフライデーでも、過去最高の18万5千件以上の銃購入犯歴照会すなわち過去最高の銃セールスがありました。もっともブラックフライデーに限らず、銃の売り上げ自体も今年は年間を通して例年より増加しています。というか、4人以上が死傷した銃乱射事件自体が今年はすでにカリフォルニアの事件で355件目。こういうのを「負のスパイラル」というのでしょうか。

「反EU」「反移民」「難民規制」「反イスラム」「反銃規制」──これらはすべて人間として当然の防衛本能から始まっていることです。私たち人間は、経験則からも常に「悪いことが起きる」と想像してそれに対処できるようまずは身構えることから始めるようにできています。何かいいことがあるはずと想像してガッカリするよりも、初めに悪いことを想像していればそう落ち込まずにも済む、という先回りした自己防衛です。

しかしそればかりでは人間生活は営めません。周囲に戦々恐々としているだけでは友情も共存も平和すらも訪れません。つまりは繁栄もない。「己を利する」ことだけを考えていては結局周囲の反感を買って「己を利する」ことができなくなるという「利己主義」の矛盾がそこにあります。

「防衛」も似た矛盾を抱えています。究極の防御は「予防的防衛」です。「予防的防衛」は「予防的先制攻撃」にすぐにシフトします。そして「予防的攻撃」に専心すれば相手側も先に予防的攻撃を防ぐ予防的攻撃を画策するでしょう。

それが軍拡競争でした。7万発という、人間世界を何度滅ぼせばいいのかというレベルの核兵器が存在した80年代冷戦期の愚蒙を経て、私たちはその矛盾を知っていたはずでした。

それでも背に腹は変えられない。まずは生き延びねば話にならない。それはそうです。しかしそういうことを主張する人々が「防衛」の後の「共存」の展望を、「利己」の後の「利他」の洞察を、ほとんど度外視しているふうなのは何故なのでしょう。その人たちの脳はマルチタスクではないのでしょうか?

フランスやアメリカを笑ってはいられません。中国の脅威だ、北朝鮮のミサイルだ、と同じパニック感を背景に日本でもいま、平和共存の理念が排除防衛の本能に置き換わろうとしています。

背に腹は変えられません。が、背と腹はともに存在して人間なのです。

November 16, 2015

11.13と9.11

思えば14年前、私たちニューヨークに住む者たちは今のパリの人々と同じ恐怖と不安と怒りと悲しみとを共有していました。あのころアメリカには星条旗が溢れ、同じように「普段と同じ生活を続けよう。家にこもっていたらテロに屈したことになる」という呼びかけが誰からともなく発せられ、世界中から数限りない追悼と支持のメッセージが寄せられました。

ただ、14年前と今ではなにやら受け取り方が違うところもあります。Facebookではパリ市民への支援といたわりを込めて自分のアイコンにフランス国旗の三色を重ねる人が急増していますが、一方でパリ事件の前日にあった43人死亡のベイルートでの連続テロ事件には何ら大きな反応を示さなかった大多数の「自分」たちに、「この違いは何なのだろう」という疑問が浮かんでいます。FBが、パリ事件で急きょ適用した安否確認機能も、ベイルートやその他のテロ事件では有効にしなかったことへの批判が起きました。

思えば2001年のあの当時は、欧米はまだ自分たちが「無実の被害者」であることを信じていた時代だったのかもしれません。もっとも、現在のテロ戦争へと連なる動きは直接的には1979年のソ連アフガン侵攻あたりから始まってはいたのです。その時アメリカはソ連に対抗してアフガニスタンの反政府勢力に武器を提供しました。それがイスラム原理主義勢力で、そこにオサマ・ビン・ラーデンもいた。

やがてソ連は侵攻に失敗し91年の崩壊につながりました。中東ではイラクのクウェート侵攻と湾岸戦争の勃発、そしてアフガンの無秩序状態と内戦が始まりました。タリバン、アルカイダは、そんな背景から起ち上がってきたのですから。

でも、それは世界貿易センターの崩壊という圧倒的な事件の前では吹っ飛んでいました。世界はアメリカを支持し、ビン・ラーデンは世界の悪者となり、やがてそれはサダム・フセインにも向けられて、米英などの「有志連合」によるイラク戦争へと突入していったのです。

フランスに溢れる「パリは恐れない」というスローガン、「我々はパリとともに立つ」というメッセージ──ニューヨークも同じものを経験しました。私はいまも、そこから起きた労わりと善意と親切と癒しとを忘れていません。そして同時に、狂騒と間違いをも。

イラク戦争の大義名分だった「大量破壊兵器」は虚偽でした。そしてそのウソから始まった戦争がイラクの混乱を招き、タリバン、アルカイダに続く原理主義「イスラム国」を生み出した。

私たちはもうそれを知っています。パリの虐殺に対し、FBの三色旗アイコンに賛否が分かれるのも、シリア出身の女性の「敬愛するパリよ、貴女が目にした犯罪を悲しく思います。でもこのようなことは、私たちのアラブ諸国では毎日起こっていることなのです。全世界が貴女の味方になってくれるのを、ただ羨ましく思います」というツイートがたちまち世界中に拡散しているのも、私たちは世界がすでに「あの時」よりも複雑になってしまったことを知っているからなのでしょう。

政治家に求められているのは常に、直近の問題解決能力と10年後のより良い未来を作る能力です。しかしその2つが両立しない場合、前者を行えば後者が成立しない場合、「目には目を」が世界を盲目にするだけの場合、私たちはどうすればよいのか? その難問がいま私たちに突きつけられています。

日本のある若手哲学者が「まいったな。これが21世紀か」と嘆いていました。ええ、これが21世紀なのでしょう。

November 09, 2015

旭日大綬章

ジャパンハンドラーとして有名なリチャード・アーミテージやブッシュ政権での国防長官ドナルド・ラムズフェルドの2人が秋の叙勲で旭日大綬章を受けることが発表されたその翌日、イラクの政治家アフマド・チャラビが自宅で心臓発作で死亡していたとの報が届きました。この取り合わせに興を殺がれたのは私だけでしょうか。

このチャラビという人物がアメリカを誘導してイラク戦争に突入させたのです。いえ、それにはもちろんチャラビを利用してイラクに介入し、中東におけるアメリカ戦略を有利に進めようとしたラムズフェルドらネオコン一派がいたことが背景でした。

チャラビはイラク・シーア派の名家の出で、16歳でマサチューセッツ工科大学に入るなど神童と呼ばれた人物。サダム・フセイン時代には国外に亡命していた反フセイン運動の政治策士でした。

憶えていますか? イラク開戦の理由は、9.11から続く対テロ戦争の流れで「イラクは核や生物化学兵器など大量破壊兵器を隠し持っている」というものでした。それが嘘だったことは今では明らかで、イラク進攻に前のめりだった当時のブレア英首相も先月、CNNのインタビューに答えて「情報が間違っていた」と謝罪したほどです。なぜそんな情報が流れたのか?

そこに反体制派組織イラク国民会議(INC)の代表のチャラビがいました。フセインの追放を目指していた彼が、ここぞとばかりに大量破壊兵器のニセ情報を軍事機密として売り込んだのです。「フセインに虐げられているイラク国民がアメリカの進攻を待ち望んでいる」「フセインを追放したらアメリカは解放者として歓迎される」とラムズフェルドや同じくネオコンの筆頭格ポール・ウォルフォウィッツ国防次官(当時)に信じ込ませたのも彼でした。

精緻に仕組まれたニセ情報だとしてもネオコンたちはなぜかくも簡単にそれを信じたのか? ネオコンは親イスラエルです。そのネオコンのパトロンたちに、チャラビはフセイン後に自分がイラクの指導者になれば、イラクをアラブ民族主義から脱却させて民主化し、その上でイスラエルと和平を結んでイスラエル企業がイラクでビジネスできるようにする、イラク北部のモスル油田とイスラエルの製油港はイファをつなぐパイプラインを作る、とも約束していたからです。

人は信じたい未来しか信じないと言いますが、米国とイスラエルの抱える難題を一気に解決するこの中東再編の「夢物語」にラムズフェルドらはまんまと引っかかったのでした。

この経緯はマット・デイモンが主役を務めた『グリーン・ゾーン』という映画にもなっています。懸命に大量破壊兵器を探しても見つからず、そのうちに国防総省の大変な情報操作と陰謀とが明らかになっていくという映画です。これに登場する亡命イラク人「アフマド・ズバイディ」のモデルがチャラビでした。

フセイン憎しの私怨と金儲けしか頭になかったようなチャラビは、果たしてイラクでも全く人望もなく、ラムズフェルドらがイラク新政権の首班に置こうとしたのも当然のように失敗しました。かくしてブッシュ政権ネオコン一派が夢見た「新イラク」は破綻し、そのゴタゴタを縫って「イスラム国」という化け物が誕生したのです。

その責任の一端にチャラビがいます。そしてもう一端にラムズフェルドらがいる。チャラビは暗殺もされかけましたが結局は自宅のベッドの上で病死しました。そしてイラク戦争の「戦犯」と批判されるラムズフェルドは安倍政権からは旭日大綬章を贈られるのです。

October 15, 2015

一億総活躍

第三次安倍改造内閣の目玉ポストと位置付けられている「一億総活躍」担当相とはいったい何なのか、海外メディアが説明に困っています。ウォールストリート・ジャーナルはこれを有名な映画の題に掛けて「ロスト・イン・トランスレーション」と見出しを打って説明しています。

そもそも「一億総ナントカ」というのは日本語でこそ聞き慣れてはいますが、外国語においては熟語ではないのでどう呼ぶのか思案にくれるわけでしょう。アベノミクスの「新3本の矢」を強力に推進していくというのですが、「強い経済」なら経済再生相、「子育て支援」と「社会保障」なら厚労相とどう違うのかもよくわからない。そんな内容以前にまずはそのネーミングをどう翻訳するかもわからない、というわけです。

WSJ紙はまず直訳を試みます。「All 100 Million(一億総)Taking Active Parts(積極参加)」。ところが「ワン・ハンドレッド・ミリオン」が日本国民のことだとは普通はわかりません。「アクティヴ・パーツ」は何への参加なのかもわからない。

そこで米国の通信社であるAP電の表記を引いてみます。するとAPは「一億」の部分の翻訳を諦めていて、で、「経済を強化し出生率を増やすことで人口を安定させ国家が浮揚し続けることができるようにする大臣」としていました。

これでは長すぎて話になりません。ではその内容をよく知っている日本の新聞の英字版はどうなんだろうと、そちらを当たってみます。すると毎日新聞は「minister to promote '100 million active people'」(一億の活動的な国民をプロモートする大臣)。読売は「promoting dynamic engagement of all citizens」(全市民のダイナミックな参画を推し進める)。ジャパンタイムズは、これまた長いですが「minister in charge of building a society in which all 100 million people can play an active role」(一億国民全員が積極的役割を担えるような社会を建設する担当大臣)。

ところがロイター電はちょっと違っていました。一応の説明をした後で安倍首相の「一億総〜」のスローガンを「戦時中のプロパガンダの不気味な残響」と注釈したのです。そうです、あの「一億総特攻」とか「一億総玉砕」「一億総懺悔」です。

そもそも「一億総〜」というネーミングはこれまで、戦中のプロパガンダへの反省や揶揄を込めて「一億総白痴化」だとか「一億総中流」だとかといった、何らかの恥ずかしさを伴った批評の文脈でしか使われてきませんでした。

そもそも「一億総〜」というネーミングは、戦後70年かけて培ってきた、一人一人が違っていいのだという成熟した民主社会とは真逆の呼びかけです。「神は細部に宿る」というせっかくの気づきを台無しにするベタ塗りの文化です。

そういえば「行きすぎた個人主義」だとか「利己的」だとかは安倍政権周辺の人たちが最も好む、パタン化した非難のフレーズです。「一億総〜」というのは確かに「個」ではなく「全体」を重視する発想ですしね。

そんなことを考えていたらある人から「一億総活躍」にピッタリの英語熟語があると言われました。「ナショナル・モービライゼーション National Mobilization」。国家国民を(National)全て動かすこと(Mobilization)、はい、すなわち日本語の熟語で言うところの「国家総動員」という言葉です。

ちなみにこの新大臣に任命された安倍首相の右腕、加藤勝信衆院議員は「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい」などの政府批判メディア弾圧発言が相次いだ自民党「文化芸術懇話会」の顧問格でした。

一億総活躍

第三次安倍改造内閣の目玉ポストと位置付けられている「一億総活躍」担当相とはいったい何なのか、海外メディアが説明に困っています。ウォールストリート・ジャーナルはこれを有名な映画の題に掛けて「ロスト・イン・トランスレーション」と見出しを打って説明しています。

そもそも「一億総ナントカ」というのは日本語でこそ聞き慣れてはいますが、外国語においては熟語ではないのでどう呼ぶのか思案にくれるわけでしょう。アベノミクスの「新3本の矢」を強力に推進していくというのですが、「強い経済」なら経済再生相、「子育て支援」と「社会保障」なら厚労相とどう違うのかもよくわからない。そんな内容以前にまずはそのネーミングをどう翻訳するかもわからない、というわけです。

WSJ紙はまず直訳を試みます。「All 100 Million(一億総)Taking Active Parts(積極参加)」。ところが「ワン・ハンドレッド・ミリオン」が日本国民のことだとは普通はわかりません。「アクティヴ・パーツ」は何への参加なのかもわからない。

そこで米国の通信社であるAP電の表記を引いてみます。するとAPは「一億」の部分の翻訳を諦めていて、で、「経済を強化し出生率を増やすことで人口を安定させ国家が浮揚し続けることができるようにする大臣」としていました。

これでは長すぎて話になりません。ではその内容をよく知っている日本の新聞の英字版はどうなんだろうと、そちらを当たってみます。すると毎日新聞は「minister to promote '100 million active people'」(一億の活動的な国民をプロモートする大臣)。読売は「promoting dynamic engagement of all citizens」(全市民のダイナミックな参画を推し進める)。ジャパンタイムズは、これまた長いですが「minister in charge of building a society in which all 100 million people can play an active role」(一億国民全員が積極的役割を担えるような社会を建設する担当大臣)。

ところがロイター電はちょっと違っていました。一応の説明をした後で安倍首相の「一億総〜」のスローガンを「戦時中のプロパガンダの不気味な残響」と注釈したのです。そうです、あの「一億総特攻」とか「一億総玉砕」「一億総懺悔」です。

そもそも「一億総〜」というネーミングはこれまで、戦中のプロパガンダへの反省や揶揄を込めて「一億総白痴化」だとか「一億総中流」だとかといった、何らかの恥ずかしさを伴った批評の文脈でしか使われてきませんでした。

そもそも「一億総〜」というネーミングは、戦後70年かけて培ってきた、一人一人が違っていいのだという成熟した民主社会とは真逆の呼びかけです。「神は細部に宿る」というせっかくの気づきを台無しにするベタ塗りの文化です。

そういえば「行きすぎた個人主義」だとか「利己的」だとかは安倍政権周辺の人たちが最も好む、パタン化した非難のフレーズです。「一億総〜」というのは確かに「個」ではなく「全体」を重視する発想ですしね。

そんなことを考えていたらある人から「一億総活躍」にピッタリの英語熟語があると言われました。「ナショナル・モービライゼーション National Mobilization」。国家国民を(National)全て動かすこと(Mobilization)、はい、すなわち日本語の熟語で言うところの「国家総動員」という言葉です。

ちなみにこの新大臣に任命された安倍首相の右腕、加藤勝信衆院議員は「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい」などの政府批判メディア弾圧発言が相次いだ自民党「文化芸術懇話会」の顧問格でした。

October 06, 2015

仲良し会見

首相官邸などでの公式記者会見で「円滑な進行のため」に、日本の報道各社が事前に質問を取りまとめて提出するように求められるのは何十年も前から慣行化しています。この場合は政治部ですが、首相官邸だけでなく様々な官庁にある記者クラブ内にはどこでも「幹事社」と呼ばれる取りまとめ役が月ごと(あるいは2カ月ごと)の持ち回りでいて、そこが当局と話して質問の順番が決められるのです。

政府側が説くその「必要性」は国会質疑におけるそれと同じで、「事前に質問を知っていれば十全な情報を用意できるので、報道上も都合が良いだろう」というものです。そう言われればそうかなと思ってしまいそうですが、しかしその慣行によってお手盛りの記者会見はもちろん形骸化し、よほどの大事件でもあった場合は別にしてもほとんどは何ら「問題」の起こらない予定調和の場になっています。

記者クラブ側が、あるいは報道機関がそれ自体を「問題」だとも、問題と思ってもそれを変えようとも思わなくなっているのも、さらには変えねばと思っても「空気」に圧されて手がつけられなくなっているのも、実はこれまでも何度も指摘されてきました。ところが記者たちもまたその記者クラブには持ち回りで属するだけでせいぜい2年で担当が変わったりしますから、意思決定も流動的で定まらないから変えられない、という事情もありましょう。かくして記者会見はその内容を報じる記事もまるでつまらない、「予定稿」でも済むような退屈なものになってしまうのです。

で、そのほころびが先日の安倍首相の国連記者会見で浮き彫りになりました。国連総会での一般演説の後に記者会見に臨んだ安倍首相が、そんな「事前提出」の質問表にはなかったロイター通信のベテラン記者による質問に、とんでもない回答をしてしまった。

この会見も本来は恙無く執り行われるはずでした。首相官邸が取りまとめた質問の内容と順番は次のようなものでした。

NHK(日露関係について)→ロイター(新アベノミクスの3本の矢について)→共同通信(内閣改造の日程について)→米公共放送NPR(普天間移設について)→テレビ朝日(国連改革について)

ところが2番目に立ったロイター記者は、予定質問に次いで、予定としては提出していなかった次の質問を追加したのです。「日本はシリア難民問題で追加支援すると表明したが、日本が難民の一部を受け入れることはないか?」

安倍首相の眉がクイっと上がりました。首相はアドリブで答えざるを得なかったわけです。で、その答えは次のようなものでした。

「これはまさに国際社会で連携して取り組まなければならない課題であろうと思います。人口問題として申し上げれば、我々は移民を受け入れる前に、女性の活躍であり高齢者の活躍であり出生率を上げていくにはまだまだ打つべき手があるということでもあります」

大挙して押し寄せる難民をどう受け入れをするか欧米が深刻に悩んでいる時です。彼はそれを国内の少子化、人口減少問題に絡めて、その問題を解決し、不足を補充する「移民問題への対処法」の是非として答えてしまったわけです。そもそも難民問題を自らの国の問題としてはほとんど考えてはいなかったのでしょう。なのでこれは「勘違い」というよりも、自分の頭の引き出しから、似たような問題への回答模範を引っ張り出してきたらこうなってしまった、ということなのかもしれません。

ところがそんな「出まかせ」を、「予定調和」の記者会見など知らない、あるいはそんなものを記者会見とは呼ばない真剣勝負の欧米ジャーナリズムは「真に受けた」。

「アベ:日本はシリア難民受け入れより国内問題の解決が先」(ロイター)
「日本は難民支援の用意はあるが、受け入れはしない」(ワシントンポスト)
「アベ:シリア難民受け入れの前に、国内問題の対応が不可欠と話す」(英ガーディアン)

即応した欧米メディアに比して(ガーディアンは日本の移民・難民事情についてかなり詳しく紹介していました)日本の報道は当初はこれを問題視もせずにほぼスルーしました。いつもの記者会見のつもりで「予定外」のニュースに慣れていなかったせいでしょうか。あるいはこれは「真に受けてはいけない間違い答弁」だと斟酌してやるいつもの癖が出たのか。

問題だと気づいたのは、先の見出しが欧米の主要ニュースサイトで踊ってからです。安倍さんも日本の同行記者たちも、現在の難民問題に関するメッセージの重要性の認識が、なんとも実にお粗末であることをはしなくも露呈した形です。

実は予定外の質問はロイターだけではありませんでした。NPRの記者もまた辺野古移転の沖縄の世論の問題を「予定通り」質問した後でさらに、「辺野古移設に関連した環境汚染の問題についてどう考えるのか?」と畳みかけたのです。これにもまた安倍首相は日本式の的を得ない、はぐらかしの、言質を取られないような、四の五の言う長い答えでお茶を濁していたのです。

こういう「予定質問のやらせ会見」というのは「政治部」だけの話では実はありません。実は社会部マターでも経済部でも運動部の会見でも、相手が大物の定例記者会見などという場合には少なからず見られる慣習です。

海外の他の国の事情は詳かではありませんが、少なくともアメリカでは記者会見で事前に質問を提出するなんてことは経験したことはありません。なので鋭い質問が飛んでくると、質問された政治家や官僚や関係者は「それはいい質問ですね」とまずは言っておいて、そこで適当な答えを組み立てる時間稼ぎをするのです。

そもそも質問が事前に分かっているぬるい世界では、「それはいい質問ですね」などという定型句は生まれようもありませんものね。

なので、会見というのは実はとてもピリピリした緊張感が漂い、しかもそれをいかに和ませるか、いかに緊張していないかを演出する度量をもまた試される場になるわけです。そういうのを、視聴者は、読者は、有権者は、見ているのですから。

安倍政権になってから、欧米ジャーナリズムは「日本のメディアは政権に牛耳られている」と折りあるごとに報じてきました。今回の国連記者会見では、その「折り」が実は常態化しているのだということが明らかになってしまいました。

September 22, 2015

最も偉大な愛国心

安倍政権の安保法制が可決しました。世界の反応として中韓以外の国々が多くこれを支持、歓迎していることを受け「ホラ見たことか、国際的にも支持されているじゃないか」と鬼の首でも取ったようにドヤ顔の人たちがいますが、それはそうでしょう。その国々はみな、これで日本が海を渡って自分の国を守りに来てくれると期待しているのですから。

なのでここは本来「あ、それはちょっと待ってください」と言うのがスジじゃないでしょうか? 「それは誤解です。自衛隊はアメリカや同じ目的行動をとる部隊しか助けないんです」と言わねば。

同じように、国内の街頭インタビューでも「日本を守ることは大切ですので賛成です」と言う人たちがいます。しかしこれも実は今法案論議の最初期に「そういうのは個別的自衛権だから、今回の集団的自衛権の法案とは直接関係がない」として片付いたものです。個別的自衛権とは国家固有の権利ですし、今以上に十全な自衛を追求するならむしろ武力だけでは賄えない部分をこそ万全にすべきというのが現在の常識です。そんな世界情勢の中で武力が挑発ではなく抑止になると考えるのはあまりに楽観的で単純すぎるでしょう。

国会での政府答弁も故意と勘ぐられるほどに核心を外していました。首相がイラストまで使って説明したあの日本人母子の乗る米艦防護にしても、後に「邦人が乗っているかどうかは絶対条件ではない」と撤回されました。唯一具体的な立法事実想定だったホルムズ海峡の機雷除去も「現在は想定していない」と首相自らが否定した。にもかかわらず追加の議論も説明もなしの強行採決でした。

よって、この法律に関する「違憲である」「立法事実がない」「歯止めがない」という三大瑕疵については、何の解決もないままです。そもそも武力行使要件の1つである「必要最小限の実力行使」という条項にしても、その「必要最小限」は、相手から一発タマが飛んでくるだけで「最小限」のレベルが対応的に変化するのは論理的にも当然なのですから。

ことほど左様にこの法案に関しては欠陥が多すぎる。しかし、とにかく日本が「70年の平和主義を放棄」(CNN)し「海外での軍事的役割拡大」(BBC)する方向で「立憲平和主義の終わり」(リベラシオン)を迎えたというメッセージだけは「既成事実」として発信されました。

首相はこの安保法制反対論にも「時間が経ていく中で間違いなく国民の理解は広がっていく」とうそぶいていますが、この論でいけば、首相が自信を持って進める全ての法案審議に国民の理解は無用であるということになります。法に則るのではなく、権力者の恣意に基づく政治を「独裁」と呼びます。

今回の法制可決で放棄されたのは日本の平和主義だけではありません。私たちの国はいま、法治主義でも立憲主義でもない国家になりました。法的安定性を放棄した今、法学は、日本ではなくどこかの別の国の法精神を語る夢語りに貶められました。

国家の安全保障はとても重要なものです。しかしそれは「愛国心」をまとったナショナリズムとは違います。私が今回の安保法制に反対しているのは、それが愚かなナショナリズムに支えられているというその一点から始まっています.

フランス自然主義の作家モーパッサンは「愛国心という卵から戦争が孵化する」と言っています.

アイルランド出身の劇作家バーナード・ショウは「愛国心とは、自分がそこに生まれたというだけの理由でその国が他より優っていると信じること」と言い捨てました.

同じく英作家のジュリアン・バーンズは「最も偉大な愛国心とは、あなたの国が不名誉で愚かで悪辣な行いをしているときにそれを指摘してやることである」と言っています。

June 26, 2015

アメリカが同性婚を容認した日

2015年6月26日、連邦最高裁が同性婚を禁止していたオハイオ州など4州の州法を、法の下での平等を保障する連邦憲法修正14条違反と断じました。これで一気に全米で同性婚が合法となったのです。

聖書によって建国されたアメリカには戸惑いも渦巻いています。28日に全米各地で行われた性的少数者のプライド・パレードにも眉をひそめる人が少なからずいます。その「嫌悪」はどこから来るのでしょう? そしてアメリカはその嫌悪にどう片を付けようとしているのでしょう?

それを考えるには、1973年、1993年、2003年、2013年という節目を振り返ると良いと思います。

▼それは22年前のハワイで始まった

じつは「法の下での平等」というのは1993年にハワイ州の裁判所が全米で初めて同性婚を認めた時にも使われた論理です。ところがそれは当時、州議会や連邦政府に阻まれて頓挫します。それから22年、今回の連邦最高裁の判断までに何が変わったのでしょう?

これを知るには46年前に遡らねばなりません。69年6月28日にビレッジの「ストーンウォール・イン」というゲイバーで暴動が起きました。警察の摘発を受けて当時の顧客たちが一斉に反乱を起こしたのです。

そのころのゲイたちは「性的倒錯者」でした。三日三晩も続いたそんな大暴動も、新聞記事になったのは1週間経ってからです。それは報道に値しない「倒錯者」たちの騒ぎだったからです。

▼倒錯じゃなくなった同性愛

ところがその4年後の1973年、アメリカの精神医学会が「同性愛は精神障害ではない」と決議しました。同性愛は「異常」でも「倒錯」でももなくなった。では何なのか? 単に「性的には少数だが、他は同じ人間」なのだ、という考え方の始まりです。

その20年後の1993年には世界保健機関(WHO)が「同性愛は治療の対象にならない」と宣言しました。これで世界的に流れは加速します。ハワイが同性婚容認を打ち出したのもこの年です。

そして2000年以降オランダやベルギーなど欧州勢が続々と同性婚を合法化し始めました。

▼犯罪でもなくなった同性愛

そんな中、アメリカ連邦最高裁が歴史的な判断を下します。2003年6月26日、13州で残っていた同性愛性行為を犯罪とするソドミー法を、プライバシー侵害だとして違憲と断じたのです。これでマサチューセッツ州が同年、同性婚を合法と決めたのでした。

しかし2州目はなかなか現れませんでした。それが変わったのが2008年です。オバマ大統領が選ばれた年です。その原動力だった若い世代が世論を作り始めていました。

彼らの世代は性的少数者が普通にカミングアウトし、「異常者」ではない生身のゲイたちを十全に知るようになった世代でした。結果、2013年には「自分の周囲の親しい友人や家族親戚にLGBTの人がいる」と答える人が57%、同性婚を支持する人が55%という状況を作り出したのです。

▼だから法の下での平等

その年の2013年6月26日に再び連邦最高裁は画期的な憲法判断をします。連邦議会が1996年に決めた「結婚は男女に限る」とした結婚防衛法への違憲判断です。そして2年後の先週6月26日、さらに踏み込んで同性婚を禁止する州法自体が違憲だと宣言したわけです。

結論はこうです。1993年時点では、そしてそれ以前から、同性愛者は「法の下での平等」に値しない犯罪者であり精神異常者でした。それがいま、「法の下での平等」が当然の「普通の」人間だと考えられるようになったのです。人々の考え方の方が変わったのです。

ところで1973、1993、2003、2013年と「3」の付く年に節目があったことがわかりましたが、途中、1983年が抜けているのに気がつきましたか? そこに節目はなかったのでしょうか?

じつは1980年代は、その10年がすべての節目だったのです。何か? それはまるごとエイズとの戦いの時代だったのです。同性愛者たちは当時、エイズという時代の病を通じて、差別や偏見と真正面から戦っていた。その10年がなければ、その後の性的少数者たちの全人格的な人権運動は形を変えていたと思っています。

興味深いのは昨今の日本での報道です。性的少数者に関する報道がこの1〜2年で格段に増えました。かつて「ストーンウォールの暴動」が時間差で報道されたように、日本でもやっと「報道の意義のある問題」に変わってきたということなのかもしれません。

May 07, 2015

あめりか万歳!

安倍首相の米国訪問が終わりました。こちらではボルチモア暴動やネパール大地震が連日ニュースを占めていて、安倍関連はちょっとしか報道されていませんでしたね。日本のどこかの新聞が書いていたように「異例の歓待」とか「高い評価」とはちょっと違ったように思います。

上下両院合同会議での演説も、いろいろと反応を聞いていくと(1)米国にとっては非常に納得できるものだったでしょう。軍国主義者だと聞いていたがアメリカ留学の経験も話していたしアメリカが好きだと言っていたし、新ガイドラインとやらで自衛隊が出てきてくれるそうだし米国の安全保障にも100%の協力と貢献をすると言っていたし、これだけカモネギというかお土産抱えてわざわざこっちまでやってきてくれて、「なんだ、思ってたのと違って結構ナイスガイじゃないか」という印象で、大合格点だったようです。

報道のされ方もあって(2)日本国内での受け取られ方も大方はそうだったようですね。演説も全部英語で頑張ったしスタンディング・オベーションとやらが10回以上あったそうだし(3月のネタニヤフの時は23回ありましたが)、アメリカさんがそうやって喜んでくれていたんだから及第点。ただし米国ヨイショの度合いがちょいと過ぎて、そこがワザと臭いと思われなかったか心配。

一方で普段から安倍の家父長主義ぶりを警戒している(3)日米欧の監視層(これにはNYタイムズやワシントンポスト、英ガーディアンやBBCなどの報道機関も含まれます)には、慰安婦問題では謝罪も回避して女性の人権問題という一般論でごまかすし、国会審議も経ずに安保法制の今夏成立を国際公約してしまうし、さりげなく戦犯だった祖父・岸信介の名誉回復は図るし、許せない詭弁演説だったという感じでしょうか。おまけに日頃から英語で苦労して他人にも厳しい日本人の耳には、ブツ切れの単語と結語で高揚するあの英語(デモォークラシイイイとかリスポォン・・シビリテイイとか)はかなり恥ずかしいとクソミソでした。

もっとも安倍政権はこの演説を(1)の米国向けに行ったのであって(3)の批判層の歓心を買おう、汚名を濯ごうと思って用意したわけではなかったわけです。つまり(3)は相手にしていないのですから苦虫を噛み潰すのは当然。(1)の歓心を買うことが目的だったと思えば、歯が浮くようなアメリカ万歳でもオッケーだった──そういうことなのです。

ただ、演説でアベとエイブ・リンカーンとの近似を示唆したり(慰安婦が「性奴隷」だと言われてる時にですよ)、会見ではキング牧師の「I Have A Dream」を文脈を無視して引用したり(ボルチモアで黒人層がこれは「夢の未来」ではないと抗議してる時にですよ)、そういうセンスはかなり危なかったしジョークもなんだか滑ってたし。そもそも議員たちは事前配布の手元のスクリプトに目を落とさねばあのブツ切り英語はよく聞き取れなかったのだと思います。

じつはオバマの安倍への態度や会話も、よく観察すると心なしか終始硬かった、というか、なんだか素っ気ないというか、はっきり言えば軽蔑した相手への態度のようだったのですよ。日本政府が異様にこだわるファーストネーム呼称もすぐ忘れたし会見中は体の向きが外向きで、安倍首相の方へは向かないし。それに普通、共同記者会見した後は後ろ向いて去りながらも会話したりするもんなんですが、オバマはぜんぜん話しかけてなかったですもんね。笑顔が笑ってなかったんですよ。

その辺、行動心理学者に見せたら面白いだろうに、日本のテレビはどこもそんなことはしなかったです。きっと大歓迎だったと頭から信じているからでしょう。それはまあ、あれだけの「お土産」ですからねえ、失礼な対応はしませんでしたが……。

私が気になったのは1つ、安倍がオバマとの共同記者会見で指摘した「レッテル貼り」の批判というか例の「言い返し」台詞です。60年の安保改定の時に「戦争に巻き込まれる」というレッテル貼りが行われたが、それは間違いだったことは(戦争に巻き込まれなかった)歴史が証明している、と安倍は言っていました。しかしその戦争を防いだのは平和憲法でしたし、それを変えようとしてるのが安倍政権だという矛盾はどう考えればよいのでしょう。

戦後日本に山羊や羊を何千頭も贈ってくれた米国、民主主義のチャンピオンたる大使を次々と送り込んでくれた米国。それを褒め称えながら、民主主義の本当のチャンピオンたる「憲法」だけは「押しつけられた」と言うのは、「矛盾」というよりも「二枚舌」と呼ぶべきです。「賞賛」というより「面従腹背」というべきなのです。口では何とでも言っていいんだ、とこの人は思っているのだということなのです。

April 28, 2015

舌をまくほどにお見事!

日米の防衛協力ガイドラインが18年ぶりに改定されました。とはいえこれは国会で話し合われたわけでもなく、今回の安倍訪米に合わせてバタバタと日米両政府間で合意したのです。これで自衛隊は「周辺事態」を越えて世界規模で活動することができるようになる。集団的自衛権容認の閣議決定からこの方、安倍政権は思うがままに日本を変えています。

「え? オバマ政権ってそういう日本の軍事拡大を警戒してたんじゃないの?」と思う人もいるでしょう。

オバマ政権だけでなく欧米諸国およびその報道メディアはいまでも安倍首相の国家主義的な歴史認識を懸念しています。なぜなら彼の歴史修正の方向性は(「イスラム国」と同類の)第二次大戦以降の国際秩序への挑戦だからです。

NYタイムズは安倍訪米に先立って論説室の名前で今回の訪米の成否は「首相が戦争の歴史を直視しているかどうかにかかっている」と断言し、さらに別の記事でも「政府による報道機関の政権批判抑え込みが功を奏している」と批判の度合いを高めています。フォーブス誌に至っては首相の上下両院合同会議での演説はカネで買ったようなもんだというコラムを掲載するし、ウォールストリート・ジャーナルも首相は「歴史に関する彼の見解がかき立てた疑念」を抑止する必要があると指摘しました。英ガーディアンも安倍演説に先立ち「日本の戦時の幽霊がまだ漂っている」と警告していたのです。

けれど、安倍訪米団の最初の仕事であった防衛協力ガイドライン合意の際の相手方、ケリー国務長官の満面の笑みは、まるでそんな懸念など関係ないかのようでした。なぜか?

ちょっとおさらいしましょう。

オバマ政権はアフガン・イラク戦争からの撤退で「世界の警察」の地位から下りることを志向しました。これは何度も書いてきたことです。何千人もの若者たちの命と何億ドルもの軍事費を費やしても地域紛争は果てることなく続き、米国の介入が逆に恨みを買うことも少なくない。ならばその地域の安全保障はその地域で担ってもらおう、という方向転換でした。その中に「東アジア・太平洋地区のリバランス」というものも含まれています。

ここに安倍政権は乗ってきた。取り直しの形で登場してきた第二次安倍政権は、第一次で手もつけられずに退陣した悔しさからか平和憲法の改変と「美しい国」という家父長制国家の復活を明確に押し出してきました。しかしそれは2013年12月、靖国参拝を敢行することで米国の異例の「失望」表明を招き、失敗します。なぜなら日本の存在する東アジア「地域」では、それが中国と韓国を挑発して却って「地域」の安全保障を毀損するからでした。それはリバランスの目論見も崩れて米国の方針に叶わなかったからです。

そこで安倍政権は軌道修正をしました。靖国は参拝しない。ハドソン研究所での演説のような「私を軍国主義者と呼びたければどうぞ」的な無用な国粋主義発言も控える。今回の訪米での厚遇を目指して、安倍政権はこの1年ひたすら米国の歓心を買うためにそうやって数々の布石を打ってきたのです。

昨年7月の集団的自衛権の容認も米国支援を名目に憲法の実質的改変を含んで一石二鳥でした。従軍慰安婦問題については「人身売買」だったとの表現で主語を曖昧にしたまま反省の雰囲気を醸し出しました。先日のバンドン会議では中国の習近平主席と2度目の会談を実現させて「地域」の緊張緩和を演出し、「侵略戦争はいけない」という、これまた主語の違う一般論で先の大戦を反省したような演説も行った。

米政権が懸念するのは米国の安全保障政策に則らない他国の軍事拡大です。その意味で安倍政権は、中国の海洋進出などの脅威増大を背景に実に周到に米国に取り入った。これだけ上げ膳据え膳の「お土産」をもらって喜ばない政府はないし、その菓子箱の底に首相の恣意的な理想国家実現のプロジェクトを忍び込ませたわけです。

なんとも舌を巻くほどに見事な権謀術数ではないですか。

April 01, 2015

文明との衝突

日本でも「イスラム国」という呼び方をやめて「IS」や「ISIS」「ISIL」などと呼び変えるようになりました。「イスラム」という呼び名を避けたのは「イスラム教との戦い」だというニュアンスを消して世界中の穏健なイスラム教徒への差別や偏見を助長しないようにとの配慮です。

同じ理由でこれを「文明の衝突」と呼ぶのも間違いだと言われます。サミュエル・P・ハンティントンが20年近く前に記したこの言葉は、西欧文明とイスラム教圏とがやがて衝突するという予告のことでしたが、今回の「IS」との戦闘はそれとは無関係だというわけです。なぜなら多くのイスラムの国々もまた「IS」に対抗する有志連合としてともに戦っているからです。

しかし、ではいったいシリアとイラクを中心に展開しているこの戦いは何と何が衝突しているのでしょうか?

「IS」は昨年6月、カリフ(預言者ムハンマドの後継者=イスラム共同体の最高権威者)制イスラム国家の樹立と、そのカリフに指導者アブ・バクル・アル=バグダディが即位したことを宣言しました。そしてその国家「IS」は、世界秩序を国家を単位として築くという、現在の主権国家の共存体制を確立した17世紀のウエストファリア協定を否定し、現在の国境や国民の定義も越えて、アッラーを信じる者がいる場所はすべて「イスラムの国」なのだという「神の国」を企図しています。

ここからは私の仮説です。これは「文明の衝突」ではなく「文明そのものとの衝突」なのではないかということです。

宗教はこれまで、時代に合わせてどんどん世俗化してきました。そして絶対的だった神が、どんどん相対的な存在になってきました。それは神聖vs世俗、原理主義vs修正主義の対立を呼びます。神への疑問は人間の傲慢です。けれど神への疑問はじつは人間の知性の表れでした。この知によって、神はどんどんと神聖さを剥ぎ取られてきたのです。

世界はずっとこの神と知の齟齬を棚上げしてきました。ガリレオが地動説を唱えて異端審問にかけられたのも、科学が神に反したものだったからです。でもいつの間にか神は科学と棲み分けするようになりました。さらに人間は神を政治から忌避して政教分離を果たし、神授された王権から離れて民主制度を作り出しました。異教徒を奴隷にすることもやめ、女性たちにも人権を認め、同性婚すら知性の力で認めようというところまで来ました。

しかしそういう民主主義も人権主義も、神から見たらとんでもない俗化であり堕落です。そんなことはユダヤ教、キリスト教、イスラム教のどの教えにもそぐわない。でもそれはいま、つまり神と俗とは、この世界で棲み分けて共に存在しています。それは神を如何ともしがたい、ある意味で人間たちの大人の対応というものでした。

それでもそれを理解できない者たちがいる。神にすがりたい人たちがいる。人間という相対に耐えられずに神という絶対を欲しがり、修正の煩わしさに原理を盲信し、全ては構築された存在であるという複雑さに倦んで本質論の容易さに固執する。「俗」という言葉の持つあらかじめの汚名は、なぜなら「聖」という言葉の持つあらかじめの神々しさの影だからです。それは「悪」という言葉そのものと同じくらい脱構築の困難な価値です。

すなわち「IS」にとっては、知によって世俗化したこの文明世界そのものが堕落した「悪」なのでしょう。だからそんな文明世界を、絶対的な「善」である「神の国」に置き換えようとしている。

西欧の民主主義国家への移民家族のもとに生まれ、そんな世俗な社会制度に、資本主義文明に、聖と俗との齟齬を永遠に棚上げして誤魔化している大人の「知恵」に、育てられながらもしかし結局は常に差別され疎外されてきた若者たちが「IS」に答えを見つけようとするのも、そういうことなのだと思います。

しかしそれは、「神」の歴史を知らずにいまもまだ答えが「絶対神」にあると思っている、あまりに安易な無知に起因しています。いやむしろ彼らはそんな無「知」をこそ志向しているのかもしれません。

なぜなら現在の文明世界の全ての根源に人間の「知」があるからです。

それを神は何と呼んだのだったか? 「リンゴ」です。「原罪」と呼んだのです。つまり「無知」を志向するということは、「無罪」を志向するということなのです。

だとすると「知」から逃れられない私たちはいま再び「知」を「原罪」と呼びなし排除しようとする「無知」に、つまりは「神」に、ケリをつけなければならないはずです。論理的にはそれしかないのです。生きよ、堕ちよ。坂口安吾の先にあるのはそういうことなのです。

しかし、それはあまりに知的に過ぎる作業です。おそらく人類は、種としてはそこまで強くない。人間の、神から見た原罪ではなく人間としての原罪は、だとするとリンゴを一齧りしたことではない。リンゴを一齧りしかしなかったことなのかもしれません。

February 03, 2015

「あらゆる手段」って……

もう40年以上もニューヨークに住む尊敬する友人から電話がかかってきて「ねえ、教えて。安倍さんはどうして海外で働いている私たちを危険にさらすような演説をしたの? 最後の一人まで助けるとか言っておいて何もできないなら、何のための政府なの? 私たちは平和を貫く日本人だったのに、これからはテロや誘拐の対象になったの?」と聞かれました。それは私の問いでもあります。

安倍首相のエジプトでの2億ドル支援声明の文言が拙かったことは2つ前のこのブログ「原理には原理を」で紹介しました。日本人人質の2人が「イスラム国」の持ち駒になっていて、この犯罪者集団がその駒を使う最も有効なタイミングと大義名分を探っていた時にまんまとそれらを与えてしまった。そのカイロ演説がいかに拙かったかは、首相自身と外務省が自覚しているのです。なぜなら人質発覚後のイスラエル演説の語調がまるで違っていたからです。「イスラム国」の名指しは最初の呼びかけだけ。あとは「過激勢力」という間接表現。内容も日本の平和主義を前面に押し出したきわめて真っ当でまっすぐなもの。カイロ演説の勇ましさが呼び水だったと自覚していなければ、なぜこうも変わったのか。逆にいえば、なぜ初めからそういう演説をしなかったのか。

そして後藤さんも殺害されてしまいました。3日の国会で、安倍首相は「中東での演説が2人の身に危険を及ぼすのではないかという認識はあったのか?」と問われ「いたずらに刺激することは避けなければいけないが、同時にテロリストに過度に気配りする必要はない」と答弁しました。テロリストへの気配りなんか言っていません。「人質の命」への気配りでしょうに、この人は自分の保身のためにはこんな冷酷なすり替えをするのです。こんな時の答弁くらいもっと正面から堂々ときちんと誠実に答えたらどうなのでしょう。

おまけに言うに事欠いて「ご質問はまるでISILに対してですね、批判をしてはならないような印象を我々は受けるわけでありまして、それは正にテロリストに私は屈することになるんだろうと、こう思うわけであります」。この人は批判や疑義をかわすためならそんな愚劣な詭弁を弄する。

まだあります。安倍首相は後藤さん殺害を受けての声明で事務方が用意した「テロリストたちを決して許さない」との文言に「その罪を償わせる」と書き加えたのだそうです。

以前からこの人の言い返し癖、勇ましさの演出に危惧を表明してきましたが、この文言はCNNやNYタイムズなどでは「報復/復讐する」と紹介されています。NYタイムズの見出しは「Departing From Japan’s Pacifism, Shinzo Abe Vows Revenge for Killings(日本の平和主義から離れて、シンゾー・アベ 殺害の報復を誓う)」でした。それは日本政府として抗議したんでしょうか? 抗議してもシンゾー・アベの政治的言語の文脈ではそういう意味として明確に英訳した」と言われるのがオチでしょうが。

平和主義のはずの日本がなんとも情けない言われ様ですが、これはつまり平和憲法を変えてもいないのに、戦後日本の一貫した平和外交も変えてないのに、一内閣の一総理の積極的「解釈」変更と各種の演説によって、日本は世界に向けた「平和国家」という70年間の老舗看板を、勝手に降ろされてしまっているということなのでしょうか?

早くも政府は閣議で、今回の人質事件では「あらゆる手段を講じてきた。適切だった」との答弁書を決めたそうです。一方で菅官房長官は「イスラム国」は「テロ集団なので接触できる状況でなかった」とも明かしました。接触もできなかったのに「あらゆる手段を講じた」? 例えば接触して人質解放を成功させたフランス経由も試さなかった? つまり「イスラム国」のあの時の突然の要求変更は、2億ドルの身代金云々を告げたのに日本政府がぜんぜん何も接触してこなかったので、詮無く交渉相手をヨルダンに変えた、ということだったでしょうか? つまり初めから後藤さんらを救うための交渉などしてこなかったということなのでしょうか?

それを裏打ちするように、これも3日の参院予算委で岸田外相が、2人の拘束動画が公開された1月20日まで、在ヨルダン日本大使館に置いた現地対策本部の人員を増員していなかったことをしぶしぶ明らかにしました。つまり昨年8月の湯川さん拘束後の5カ月間、後藤さん拘束が発覚した11月になっても、現地はなにも対応を変えなかった。こういうのを「あらゆる手段を講じてきた」と言うのでしょうか?

冒頭に紹介した友人の「最後の一人まで助けるとか言っておいて何もできないなら、何のための政府なの?」という切実な問いに、いまの私は答えを知りません。

January 27, 2015

素晴らしい日本

湯川さんが殺害され、後藤さんの解放が焦眉の急となっている状況で、欧米のメディアが日本人社会の不可解さに戸惑っています。再び登場した「自己責任」社会の冷たさや、2人の拘束されている画像を面白おかしくコラージュ加工したものがツイッター上に多く出回っているからです。

ワシントンポストなどは「自己責任」論に関して04年のイラク日本人人質事件に遡って解説し、あの時の人質の3人は「捕らえられていた時より日本に帰ってきてからのストレスの方がひどかった」という当時の担当精神科医の言葉なども紹介しています。タイム誌は今回の事件でもソーシャルメディア上で溢れる非同情的なコメントの傾向を取り上げ、ロイター電は「それらは標準的な西洋の反応とは決定的な違いをさらけ出している」としています。

確かに米国でも「イスラム国」に人質に取られたジャーナリストらの拘束映像が放送されました。しかしどこにも自己責任論は見られませんでしたし、ましてや彼らをネタに笑うようなことは、少なくとも公の場ではありませんでした。そんなものがあったら社会のあちこちで徹底的に口々に糾弾されるでしょう。80年代にあった「政治的正しさ(PC)」の社会運動は、批判もあるけれどこういうところで社会的な下支えとしてきっちりと共有され機能しているのだなあと改めて感じます。

ちなみに「自己責任」に直接対応する英単語もありません。それを「self-responsibility」とする訳語も散見されますが、英語では普通は言わないようです。また、後藤さんのお母様が記者会見で最初に「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と謝ったことも欧米ではあまり理解できない。そもそも悪いのは「イスラム国」であって「息子」たちではない。

日本語の分かる欧米人は「自己責任」と聞くと「自分の行動に責任を持つ」という自身の覚悟のニュアンスとして、つまり立派なものとして受け止めるようです。でもそれをもし他者を責める言葉として使うならば、それは「It's your own fault」や「You were asking for it」というふうに言う。つまり日本で今使われる「自己責任」とはまさに「自業自得」という切り捨ての表出でしかないのですね。

2人の拘束画像を茶化すようなツイッター画像の連投は「#ISISクソコラグランプリ」つまり「クソみたいなコラージュ」という意味のタグを付けられて拡散しています。例えば拘束の後藤さんと湯川さんの顔がアニメのキャラクターやロボットの顔にすげ替えられているものや、黒づくめの「イスラム国」男が逆に捕らわれているように入れ替えられているもの、その男がナイフをかざしているのでまるで料理をしているように背景を台所に加工しているもの、と、それはそれは多種多様です。外電によればそんなパロディ画像の1つは投稿後7時間でリツイートが7700回、お気に入りが5000回という人気ぶりだったそうです。

こういう現象に対し「人が殺されようというときになぜそんなおふざけができるのか?」「日本人ってもっと思いやり深く優しい人たちじゃなかったのか?」という反応は当然起こるでしょう。

もっともこれを「アニメ文化の日本の若者たちらしい」「イスラム国を徹底的におちょくるという別の戦い方だ」と見た欧米メディアもありました。しかしそれはあまりに穿った見方だと思います。これらの投稿のハシャギぶりは、実際には「イスラム国」への挑発でしかなく、「イスラム国」関係者とみられるあるツイッターのアカウントは「日本人は実に楽観的だな。5800km(おそらく8500kmの誤記)離れているから安全だと思うな。我々の兵士はどこにでもいる」と呆れ、「この2人の首が落とされた後でお前たちがどんな顔をするか見てみたいものだ」と返事をしてきたのです。

「日本は素晴らしい国だ、凄い国だ!」と叫ぶネトウヨ連中に限ってこういうときに「自己責任だ」として他人を切り捨て、嘲り、断罪する。そういう日本は素晴らしいのでしょうか? それは自己矛盾です。そうではなく、「日本を素晴らしい国、凄い国にしたい」という不断の思いをこそ持ち続けたいのです。

January 21, 2015

原理には原理を

「イスラム国」が2億ドルの身代金を払わねば人質の日本人2人を殺害すると予告した事件は米国でも波紋を広げています。米国ではすでにジャーナリストら3人が容赦なく斬首されていて、この件で私に話しかけてきた友人たちも、2人の運命がすでに決まっているかのように「アイ・アム・ソーリー」と言うばかりでした。

米政府はこれまで交渉を表向き全く拒否して空爆を強化してきました。「それが功を奏しつつあってISIL(イスラム国)は追い込まれている」とも発表されたばかりでした。20日のオバマ大統領の一般教書演説でも「イスラム国」の壊滅を目指し、国際社会で主導的な役割を果たすとの決意表明がありました。

交渉しない代わりに、諜報力でどこに拠点があるのか割り出し、そこを急襲して人質を救出するという作戦も行われています。ところが失敗して、昨年12月には数日中に解放予定だった英国人人質を殺させてしまったこともある。

そういうのがアメリカのやり方です。まるでハリウッド映画です。そうじゃない世界の可能性というものはないのか? アメリカ式ではない別の道はないのでしょうか?

今回、拉致されているジャーナリストの後藤さんはシリアに入る際に「日本はイスラム国と直接戦っていない。だから殺されることはないだろう」と語っていました。しかし、安倍首相はエジプトでの記者会見で「イスラム国対策2億ドル支援」を勇ましく表明しました。曰く「ISILがもたらす脅威を少しでも食い止める」「ISILと闘う周辺各国に総額で2億ドル程度支援をお約束」。

ところが人質殺害予告後のイスラエルでの会見はもっぱら「非軍事的な人道支援」を強調した内容で、「イスラム国」を刺激しないためか一転して名指しすらせずもっぱら「過激主義」とのみ呼んでいました。

私はイスラエルでの会見はとてもバランスのとれた、平和主義日本の立場をよく説明した声明だと思いました。それは日本憲法の前文と9条の精神を下地にしたもののようでした。「イスラム国」に対し「何を言っているのだ。日本は困っている人々に手を差し伸べる国家なのだ。2億ドルはそういう支援だ。そんな私たちの国民を殺害するなどイスラム法に則っても正義はない」と正面から啖呵を切れる論理だったと思えたのです。

ここに疑問が湧きます。エジプトでの声明とイスラエルでの声明との間にある明らかな語の選択と語調の差。それこそが安倍外交の齟齬、外務省の失敗の自覚なのではないか? エジプト声明での自慢気さに「拙い」と気づいての慌てての語調変更。

私は「イスラム国」には対抗すべきだと思っているし、「わざわざ標的になるような余計なことは言うな」とは思いません。ただ、彼らの原理主義への対峙は、米国追従やハリウッド的なテロ絶対悪説ではなく、もっと根源的な別の人間原理に基づくべきだと思っています。その原理とはまさに憲法前文と9条と民主主義による真正面からの反撃のことなのだと思うのです。そしてそれこそが、ハリウッド式ではない、世界のもう一つの在り方なのだ、ということなのです。

そんなことを言うとまた「平和ボケのお前が9条を掲げてシリアに入って、おめでたい人質救出交渉でもしてこい」とか「北朝鮮や領土問題の中国や韓国にも同じこと言えるのか」と言う人が現れます。はいはい、でも私が話しているのはそういうその場その場での対処方法の話なんかじゃないんです。

83年からパキスタンやアフガニスタンで戦火の中でも医療活動や水源確保・農業支援活動を続けてきた中村哲さんが毎日新聞の取材に答えて次のように語っています。

「単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」

平和憲法を平和ボケだとかお題目唱えてろとか言う人たちは、そんな中村さんたちの、現場の切実な安心感はわからんのでしょうね。

原理には原理を

「イスラム国」が2億ドルの身代金を払わねば人質の日本人2人を殺害すると予告した事件は米国でも波紋を広げています。米国ではすでにジャーナリストら3人が容赦なく斬首されていて、この件で私に話しかけてきた友人たちも、2人の運命がすでに決まっているかのように「アイ・アム・ソーリー」と言うばかりでした。

米政府はこれまで交渉を表向き全く拒否して空爆を強化してきました。「それが功を奏しつつあってISIL(イスラム国)は追い込まれている」とも発表されたばかりでした。20日のオバマ大統領の一般教書演説でも「イスラム国」の壊滅を目指し、国際社会で主導的な役割を果たすとの決意表明がありました。

交渉しない代わりに、諜報力でどこに拠点があるのか割り出し、そこを急襲して人質を救出するという作戦も行われています。ところが失敗して、昨年12月には数日中に解放予定だった英国人人質を殺させてしまったこともある。

そういうのがアメリカのやり方です。まるでハリウッド映画です。そうじゃない世界の可能性というものはないのか? アメリカ式ではない別の道はないのでしょうか?

今回、拉致されているジャーナリストの後藤さんはシリアに入る際に「日本はイスラム国と直接戦っていない。だから殺されることはないだろう」と語っていました。しかし、安倍首相はエジプトでの記者会見で「イスラム国対策2億ドル支援」を勇ましく表明しました。曰く「ISILがもたらす脅威を少しでも食い止める」「ISILと闘う周辺各国に総額で2億ドル程度支援をお約束」。

ところが人質殺害予告後のイスラエルでの会見はもっぱら「非軍事的な人道支援」を強調した内容で、「イスラム国」を刺激しないためか一転して名指しすらせずもっぱら「過激主義」とのみ呼んでいました。

私はイスラエルでの会見はとてもバランスのとれた、平和主義日本の立場をよく説明した声明だと思いました。それは日本憲法の前文と9条の精神を下地にしたもののようでした。「イスラム国」に対し「何を言っているのだ。日本は困っている人々に手を差し伸べる国家なのだ。2億ドルはそういう支援だ。そんな私たちの国民を殺害するなどイスラム法に則っても正義はない」と正面から啖呵を切れる論理だったと思えたのです。

ここに疑問が湧きます。エジプトでの声明とイスラエルでの声明との間にある明らかな語の選択と語調の差。それこそが安倍外交の齟齬、外務省の失敗の自覚なのではないか? エジプト声明での自慢気さに「拙い」と気づいての慌てての語調変更。

私は「イスラム国」には対抗すべきだと思っているし、「わざわざ標的になるような余計なことは言うな」とは思いません。ただ、彼らの原理主義への対峙は、米国追従やハリウッド的なテロ絶対悪説ではなく、もっと根源的な別の人間原理に基づくべきだと思っています。その原理とはまさに憲法前文と9条と民主主義による真正面からの反撃のことなのだと思うのです。そしてそれこそが、ハリウッド式ではない、世界のもう一つの在り方なのだ、ということなのです。

そんなことを言うとまた「平和ボケのお前が9条を掲げてシリアに入って、おめでたい人質救出交渉でもしてこい」とか「北朝鮮や領土問題の中国や韓国にも同じこと言えるのか」と言う人が現れます。はいはい、でも私が話しているのはそういうその場その場での対処方法の話なんかじゃないんです。

83年からパキスタンやアフガニスタンで戦火の中でも医療活動や水源確保・農業支援活動を続けてきた中村哲さんが毎日新聞の取材に答えて次のように語っています。

「単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」

平和憲法を平和ボケだとかお題目唱えてろとか言う人たちは、そんな中村さんたちの、現場の切実な安心感はわからんのでしょうね。

January 19, 2015

運動としての「表現の自由」

仏風刺誌「シャルリ・エブド」襲撃事件はその後「表現の自由」と「自由の限度」という論議に発展して世界中で双方の抗議が拡大しています。シャルリ・エブドの風刺画がいくらひどいからといってテロ殺人の標的になるのが許されるはずもないが、一方でいくら表現の自由といっても「神を冒涜する権利」などには「自由」は当てはまらない、という論議です。

私たちはアメリカでもつい最近同じことを経験しました。北朝鮮の金正恩第一書記をソニーの映画「ジ・インタビュー」が徹底的におちょくって果てはミサイルでその本人を爆殺してしまう。それに対してもしこれがオバマ大統領をおちょくり倒してついには爆殺するような映画だったら米国民は許すのか、というわけです。

日本が風刺対象になることもあります。最近では福島の東電原発事故に関して手が3本という奇形の相撲取りが登場した風刺画に大きな抗議が上がりました。数年前には英BBCのクイズ番組を司会していたスティーヴン・フライが、「世界一運が悪い男」として紹介した広島・長崎の二重被爆者の男性の「幸福」について「2010年に93歳で亡くなっている。ずいぶん長生きだったから、それほど不運だったとも言えないね」と話したところ在英邦人から抗議が出てBBCが謝罪しました。

シャルリ・エブドの事件のきっかけとなった問題は、風刺の伝統に寛容なフランス国内でも意見は分かれるようです。18日に報じられた世論調査結果では、イスラム教預言者ムハンマドを描写した風刺画の掲載については42%が反対でした。もっとも、イスラム教徒の反対で掲載が妨げられてはならないとの回答は57%ありましたが。

宗教批判や風刺の難しさは、その権威や権力を相手にしているのに、実際には権威や権力を持たない市井の信者がまるで自分が批判されたかのように打ちのめされることです。そして肝心の宗教そのものはビクともしていない。

でも私は、論理的に考え詰めれば「表現の自由に限度はない」という結論に達せざるを得ないと思っています。何が表現できて、何が表現できないか。それはあくまで言論によって選択淘汰されるべき事柄だと思います。そうでなくては必然的に権力が法的な介入を行うことになる。つまり風刺や批評の第一対象であるべきその時々の権力が、その時々の風刺や批評の善悪を決めることになります。自らへの批判を歓迎する太っ腹で寛容で公正な「王様」でない限り、それは必ず圧力として機能し、同時にナチスの優生学と同じ思想をばら撒くことになります。

もちろん、表現の自由の限度を超えると思われるようなものがあったらそれは「表現の自由の限度を超えている」と表現できる社会でなければなりません。そしてその限度の境界線は、その時々の言論のせめぎ合いによってのみ決まり、しかもそれは運動であって固定はしない。なので表現の自由とその限度に関する議論は止むことはなく、だからこそ自ずから切磋琢磨する言論社会を構成してゆく、そんな状態が理想だと思っています。

ヨーロッパというのは宗教から離れることで民主主義社会を形成してきました。青山学院大学客員教授の岩渕潤子さんによると「ヴァチカンが強大な権力を持っていた時代、聖書の現代語訳を出版しようとしただけで捉えられ、処刑された。だからこそヨーロッパ人にとってカトリック以外の信教の自由、そのための宗教を批判する権利、神を信じない権利は闘いの末に勝ち取った市民の権利だった」そうです。

対してアメリカは宗教とともに民主主義を培ってきた国で、キリスト教の権威はタブーに近い。しかしそれにしても市民社会の成立は「神」への永遠の「質問」によって培われてきたし、信仰や宗教に関係するヘイトスピーチ(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの差別や排斥の表現)も世界の多くの国々で禁止されているにもかかわらず「表現の自由」の下で法的には規制されていず、あくまでも社会的な抗議や制裁によって制御される仕組みです。もちろんそれが「スピーチ(表現)」から社会的行動に転じた場合は、「ヘイトクライム(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの犯罪行為)」として連邦法が登場する重罪と位置付けられてもいるのです。いわば、ヘイトスピーチはそうやって間接的には抑圧されているとも言えますが。

「表現の自由」の言論的な規範は、歴史的にみればそれは80年代の「政治的正しさ(PC)」の社会運動でより強固かつ広範なものになりました。このPC運動に対する批判もまた自由に成立するという事実もまた、根底に「正しさ」への「真の正しさ」による疑義と希求があるほどに社会的・思想的な基盤になっています。

でもここでこんな話をしていても、サザンの桑田佳祐が紅白でチョビ髭つけてダレかさんをおちょくっただけで謝罪に追い込まれ、何が卑猥かなどという最低限の自由を国民ではなく官憲が決めるようなどこぞの社会では、何を言っても空しいままなのですが。

December 23, 2014

クーバ・リブレ!

キューバとの国交正常化に向けてのホワイトハウスの動きには驚かされました。どの報道機関もスクープできなかった「青天の霹靂」でしたが、じつは昨年6月ごろからオバマ政権とカナダ、さらに仲介役としてこれ以上は望むべくもないローマ法皇庁のあいだで水面下の交渉が行われていたようです。オバマは大統領就任以前からキューバとの問題を解決したいと意欲的でしたし、そこに昨年3月、国際問題でも平和と公正を訴えて積極的にコミットする人物が法王になった。下準備を経て今年2月のオバマ・フランシスコ会談ではこの問題が内密に直接話し合われたといいます。

20年前にキューバに訪れたことがあります。ちょうどソ連崩壊でサトウキビと石油とのものすごい好条件のバーター貿易体制が崩壊した後で、この社会主義の優等生国が困窮の配給制を実施、路上に初めて物乞いの子たちが立つようになっていたころでした。

キューバではフィデルとエルネストという名前の人がとても多い。それは59年のバチスタ政権打倒でカストロとゲバラが英雄となり、当時生まれた男の子に多く彼らの名前が付けられたせいです。20年前のキューバでは、そのフィデルとエルネストたちが経済危機と独裁の圧政でその自分の名祖を罵っていました。

もっともキューバは他の社会主義の(ジメジメしたり暗かったり寒かったりする)どの国とも雰囲気が違っていて、それはきっとあの南国の明るい空気とスペイン語の陽気な発音のせいなんじゃないかと思いました。首都ハバナは新市街と旧市街に分かれていて、ヘミングウェイの愛した旧市街のバーでクーバ・リブレ(「キューバに自由を!」という名前のラムとコーラとライムのカクテル)などを飲んでいると若いお兄ちゃんが手招きしてきました。何だと思って近寄ると、いいものがあると言って路地に連れて行かれます。そこでそのお兄ちゃん、おもむろにズボンのベルトを外し、腹からコヒーバの葉巻を取り出すのでした。

コヒーバやモンテクリストは世界最上等の葉巻銘柄で、禁輸のせいでアメリカでは絶対に手が入らない垂涎の的でした。それが随分と安い。葉巻工場で働いている友達がこの経済混乱の中、生活のために横流しして観光客から米ドルを稼いでいるのだと言います。もっとあると言うので付いていくとたしかに木箱に入った「工場直送葉巻」が山積みになっていました。葉巻なんか吸わなかったけれど2箱買うとその夜、そのお兄ちゃんは街の裏側を案内してくれました。

友達がカリブ海を渡ってアメリカにイカダで亡命したという若者の家にもこっそりと取材に行きました。お母さんは配給手帳を見せてくれて、芋とババナしか手に入らないとカストロのダメさ加減を激しく非難していました。親戚にもアメリカに逃げた人がおり、ドルを地下送金してくれるネットワークのことも聞きました。自分たちもいつか亡命したいと言っていましたが、彼らはいまどうしているのかなあ。

それでもカストロ体制は90年代をなんとか乗り切り、21世紀に入ってからは各種経済システムの自由化を実施して、最近ではエボラ禍の西アフリカに国家事業でもある医師団の大量派遣を行って面目を施していました、米国内でもついひと月ほど前、この国際貢献に免じて経済制裁の緩和という動きも報じられていたのです。

ところがその一方で今年の原油急落はキューバにも大きな影を落としていました。ソ連の代わりにキューバを支えていた産油国ベネズエラが経済破綻に直面し、それがキューバ経済に波及していたのです。ラウル・カストロ政権としてもオバマ政権のこの「太陽政策」は渡りに船だったはずです。

もちろん、カストロ革命で米国に亡命せざるを得なかった当時の既得権益層はいつかキューバを取り戻そうと復讐心に燃えていたのですが、このオバマの方針変更でカストロ体制が延命するとカンカンです。でも、亡命移民の二世、三世はむしろこれを歓迎している。共和党の有望株マルコ・ルビオ上院議員(42)はキューバ系で、国交回復反対の急先鋒ですが、それはむしろ世代的には少数派。オバマ民主党は、200万人近いこのキューバ系有権者の票勘定もしたはずです。それはフロリダ州での次期大統領選にも関係してくるし、フロリダのヒスパニック票がいまプエルト・リコ系の方が多いという事実も分析したはずなのです。

ところで、来年から上下両院で多数派となる共和党は国交再開のための予算執行や経済制裁解除で徹底拒否に回るでしょう。大使館の設置にしてもその建設費などは議会の承認を経ないと出てきませんから。そこでオバマとしては大統領令でできる細々としたことで先に既成事実を積み重ねてゆく、という算段でしょう。共和党としても反対一本槍では、150kmも離れていないカリブ海の隣国との関係として、果たしてどれだけ支持されるでしょうか。じじつ、日本と違って党議拘束などない米国議会では、この国交再開を歓迎している共和党議員も出ています。なにせ50年以上も経済制裁を続けて埒が開かなかったのは、転機を訴えるのによいタイミングだったのかもしれません。

それにしてもオバマは中間選挙での敗北を経て、逆にオバマらしさを打ち出してきて、レイムダックになるのをまったく感じさせません。まあそれも来年の議会との攻防を見なくては判断するに早いでしょうが。

November 17, 2014

エボラ禍で私たちにできること

米国移送の最初のエボラ感染患者がニューヨークの病院から退院する一方で新たに搬送されたシエラレオネの医師が治療の甲斐なくネブラスカ州で死亡するなど、エボラ熱との戦いはまだ続いています。感染爆発の西アフリカでは死者5000人を超えました。

これから始まる新たな社会問題もあります。エボラで死んだ親の子供たちが、感染を恐れる親戚にも見放されて続々
と孤児になっているのだそうです。中でも死者が3000人近いリベリアでは孤児の数も4000-5000人いると見られています。ところが彼らを世話する孤児院がない。

その孤児院を建設しようと、1人の牧師さんがこの夏からニューヨークで資金集めに奮闘しています。首都モンロビアで最大のキリスト教区を持つサミュエル・リーブズ牧師です。

そもそもなぜリベリアで感染被害が多いかというと、リベリアは家族や友人をとても大切にする社会で、道で会っても話をするときでもいつもハグしたりキスしたり手を取り合ったりしているのだそうです。また家族が亡くなるとみんなでその遺体を拭き清める習慣もある。そんな温かい関係がかえってエボラ熱の接触感染を広める仇となったのです。

にもかかわらずエボラの恐怖と社会的スティグマは家族親族の関係を断ち切るほどに強い。私たちも知っているエイズ禍の時と同じです。

リーブズさん自身、9月の故国からの電話で、幼馴染の隣の教区の牧師さんがエボラで急死したという方を受け取りました。国の保険証の担当官と一緒に国内のエボラ患者の支援と救済に飛び回っている最中に自身もエボラに感染してしまったのだそうです。

リーブズ牧師はどうにか孤児たちを引き受ける孤児院を作りたいと奔走しています。全米の教会を回り資金集めに忙殺されていた9月には、幼なじみだった隣の教区の同僚牧師さんがエボラで急死したという電話連絡も受けました。リベリアの厚生省の担当者といっしょに国内各地を回って患者たちの世話をしていて感染したそうです。

リベリアはやっと内戦が終わり民主社会を建設中でした。それがまた壊滅的な打撃を受けています。その立て直しは孤児院の建設から始まると言うリーブズ牧師は、最終的に国内に15の院が必要になると話しています。その第一号の建設地はすでにシエラレオネとの国境沿いに国際支援でできた医療センターと高校施設との共同敷地があるそうです。

資金集めの目標は1000万ドル(10億円)。そこにニューヨークで40年活躍しているジャズマンの中村照夫さんが慈善コンサートで資金集めに協力することになりました。中村さんは日本のジャズ界の大きな賞である南里文雄賞の受賞者で、20年来、日米でエイズの啓発コンサートも続けてきた人です。

今年も12月1日(月)は世界エイズデーです。この日に「エイズからエボラへ」という持続的な社会啓発を謳って中村さん率いるライジングサン・バンドがブルックリン・パークスロープの「ShapeShifter Lab(シェイプシフター・ラブ)」で7時から演奏します。寄付は現金と小切手で受け付けます。詳細は次のとおりです。

    *

【世界エイズデーコンサート=エイズからエボラへ】
日時=12月1日(月)午後7時〜9時
場所=ShapeShifter Lab (18 Whitewell Place, Broklyn, NY=最寄駅はR線のユニオン・ストリート)
出演=Teruo Nakamura & the Rising Sun Band, with Monday Michiru (Vocal/Flute)
入場料=15ドル
寄付願い=できれば10ドル以上を。小切手宛先は The Safety Channel。全額がモンロビアの「Providence Baptist Church Medical Center and Orphanage」へ寄付されます。

October 10, 2014

「イスラム国」とは何か?

9.11の後で私たちはこれからの戦争が国家vs国家ではなく、国家vsテロ集団だということを知らされました。領土も持たず絶えず移動する相手にどういう戦争が可能なのか、それを考えている最中に今度は「イスラム国」が出てきました。
オバマ大統領も今年初め彼らをNBAになぞらえて「一軍に上がれない連中」「大した脅威ではない」と見ていました。ところがあれよあれよと勢力を拡大しシリアからイラクに侵攻し、この6月に指導者のアブバクル・バグダディが自らを「カリフ(ムハンマドの後継者=最高権威者)」と名乗って「イスラム国」の建国を宣言したころにはすでに国際的に無視できない存在になっていたのです。

アルカイダもタリバンも「国」を模索しませんでした。ところがこの「イスラム国」は「国」です。ただしこの「国」は私たちの言う「国」とは違うのです。

現在の世界は「それぞれが主権を有する国家」同士の共存体制を執っています。日本も米国も英国もぜんぶそんな「主権国家」です。この考え方は17世紀のウエストファリア条約で確立しました。この「主権国家」は帝国主義や植民地主義や第一次、第二次世界大戦を経て統合したり分裂したり独立したりして現在に至ります。ただし「主権国家の共存体制」といっても国境線がまっすぐだったりするアフリカや中東では無理矢理この「国家」像を押し付けられた感も残ります。

それに対して「イスラム国」の「国」は違います。これは国境や領土や国民といった世俗的な国ではなく「神の国」という意味です。イスラム教を真に信じる人がいれば国境も領土も関係なくそこが「イスラム国」だという意味なのです。

これはつまり、世俗的な「国家」を単位として構成されている現在の世界に対する、根本的な対峙なのです。そんな堕落した世俗の「国」ではなく、神の「国」なのだ、ということです。

そこに世界数十カ国から10000人以上の若者が戦闘員として集まっている。欧米からも3000人がシリアに入っていると言われます。彼らはイスラム原理主義への共鳴者だけではなく、金権主義で堕落した西欧社会に愛想を尽かした層、西欧で高まるネオナチなどによる移民排斥運動あるいは9.11以降の米国でのイスラム教嫌悪で真っ向から差別を受けた中東などからの移民2世3世です。さらには「自分探し」「英雄志向」「変身願望」の者たちも少なくありません。なにせイスラム教とは本来、困っている者たちを無償で支え合う理想の相互扶助、平等の宗教だからです。イスラム教においては利子を取ることさえ禁止されています。

ところが「イスラム国」はそこから徹底して異教徒を排斥する。異教徒なら奴隷にしても斬首してもかまわないと公言する。支持者たちはそれを「度を超した過激」とは見ずに「純粋」なイスラム主義と受け取る。

この「排斥主義」は元を正せば欧米のイスラム教徒排斥の裏返しです。国家であれば「自衛のための攻撃」と呼ばれ、国家でなければ「テロ」と呼び捨てるのはアルカイダやタリバンを相手にしたときだけではなく、イスラエルとパレスチナの関係でもそうでした。

そうした卑劣な「近代国家」像に「神の国家」の力を対峙させる──それは斬首された米国人ジャーナリストたちがその公開動画でオレンジ色の服を着せられていたことでも明らかです。あれは米国の、アブグレイブ刑務所の囚人服の再現なのです。私たちは私たちの拠って立つ世界の基盤への本質的な問いかけに直面しているのです。

September 14, 2014

朝日非難の正体

朝日新聞が大変なことになっています。

まずは8月5日にこれまでの「従軍慰安婦」関連報道の検証を公表して、32年前の吉田清治証言など多くの事実関係の誤りを認めました。次にこの問題を分析して「訂正するなら謝罪もすべきではないか」と論評した池上彰氏の同紙コラムを不掲載として、これも大批判を浴びました。さらには東電福島原発事故の際の吉田調書のスクープ(5月20日付記事)でも「吉田昌郎所長の命令に違反して所員が撤退した」とした記事が誤報だったとして9月11日付で再び削除、謝罪するに至りました。そこで現在、同業の読売、産経をはじめ週刊誌や自民党政治家などから「朝日は潰れろ」とばかりの袋だたきに遭っているのです。まるで「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態です。

背後にはとにかく「従軍慰安婦問題」が気に食わないいわゆるネトウヨ(ネット右翼)がいるようです。というのも慰安婦問題そのものがなかったかのような「訂正しろ」コールが沸き起こっているのですね。

実は「吉田証言」はかねてから怪しいとされてきて、さまざまな国際報道でも疑義が差し挟まれてきました。訂正するにしても本質的な全体像にはあまり変わりはないのですが、首相である安倍サンですらこの虚報騒動の中で「世界に向かってしっかりと取り消すことが求められる」「事実ではないと国際的に明らかにすることをわれわれも考えなければならない」と、何かまるで全部「事実ではなかった!」みたいな言い方でしょ。

もちろん池上問題はまったく弁解の余地もない話ですし、引き続く「吉田調書」スクープでの失敗も、記者がとにかく「原発は危ない」「東電はけしからん」などの世論と呼応して前のめりになってしまって、調書の読解が「ウケ狙い」の曲解に傾いたのが原因だと思います。

朝日が大きな間違いを犯したのは事実です。でも、それで巻き起こっている日本社会の非難の正体が何なのかが気になるのです。産経に至っては連日の批判記事の他に「朝日よ『歴史から目をそらすまい』」「産経 史実に基づき報道」という大見出しで全面PRまで作って読者牽引を図っているサモシさですよ。

例えばNYタイムズが誤報をして、それを他のメディアが嬉々として叩いて客引きする、なんて図式はアメリカではまず考えられません。Foxでもそこまではしない。むしろジャーナリスト同士で叱咤すべきは叱咤し、商売仇とはいえ同僚でもある当該紙の再起を願うはずです。なぜならそれが言論全体の健全さを保障すると、ジャーナリストなら知っているからです。

でもそんなことを言うと「反日だ」とレッテルが張られます。「朝日をかばうのか」「捏造した記事を書く新聞は逝ってヨシ」などといった実に乱暴な反論が(罵詈雑言とともに)ツイッターで返ってきます。彼らの「反日」とは国内向けにはまさに「非国民」という意味なのですが、なぜか彼らは「非国民」という非難の仕方は避けています。アノ時代のアノ人たちとは違うと思われていたいのかしら?

私たちの言論の拠って立つところは、実はとても稀少で脆弱です。みんなで育て支えていないとすぐに崩れる。なのに、そういう乱暴な声の行き着く社会が、真っ先にそういう人たち自身の物言いをも封じ込める社会だとは気づいていない。

かくして欧米では朝日の誤報自体と同時に、朝日の誤報以降に安倍政権や保守派勢力が朝日=リベラル勢力に対して絶え間なく圧力を掛けているという話もニュースになっているのです。

August 30, 2014

氷のビショービショ

友人からチャレンジされて私もアイスバケットの氷水をかぶりました。筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病の支援を目的に7月末から始まったこのキャンペーンは有名人を巻き込んであっというまに300万人から計1億ドル以上を集めました(8月末現在)。昨年の同じ時期に米国ALS協会が集めた募金は280万ドルだったといいますから、このキャンペーンは大成功です。

フェイスブックやツイッターで映像画像を公開しているみなさんは嬉々として氷水をかぶっているようですが、スティーヴン・ホーキング博士も罹患しているこの病気はじつはとても悲惨なものです。四肢から身体全体にマヒが広がり、最後に残った眼球運動もできなくなると外界へ意思を発信する手段がなくなります。意識を持ったまま脳が暗闇に閉じ込められるその孤独を思うと、氷水でも何でもかぶろうという気になります。

啓発のためのこういうアイディアは本当にアメリカ人は上手い。バカげていても何ででも耳目を集めればこっちのもの。こういうのをプラグマティズムと呼ぶのでしょうね。もちろんチャレンジされる次の「3人」も、「幸福の手紙」みたいなチェーンメール方式と違って断る人は断ってオッケー、その辺の割り切り方もお手の物です。

レディ・ガガにネイマール、ビル・ゲイツやレオナルド・ディカプリオといった世界のセレブたちが参加するに至って案の定、これはすぐに日本でも拡散しました。ソフトバンクの孫さんやトヨタの豊田章男社長といった財界人から、ノーベル生理学・医学賞の山中教授、そして田中マー君も氷水をかぶりました。

ところがあるスポーツタレントがチャレンジの拒否を表明して、それが世間に知られると「エラい」「よく言った」と賞讃の声がわき起こったのです。ある意味それはとても「日本」らしい反応でした。その後ナインティナインの岡村隆史も「(チャリティの)本質とはちょっとズレてきてるんちゃうかな」と口にし、ビートたけしも「ボランティアっていうのは人知れずやるもの」と発言しました。こうした批判や違和感の理由は「売名行為」「一過性のブーム」「やっている人が楽しんでるだけで不謹慎」「ただの自己満足」といったものでした。

日本にはどうも「善行は人知れずやるもの」というストイックな哲学があるようです。そうじゃないとみな「偽善的」と批判される。しかし芸能人の存在理由の1つは人寄せパンダです。何をやろうが売名であり衆人環視であり、だからこそ価値がある。ビートたけしの言い分は自己否定のように聞こえます。

私はこれは日本人が、パブリックな場所での立ち振る舞いをどうすべきなのかずっと保留してきているせいだと思っています。公的な場所で1人の自立した市民として行動することに自身も周囲も慣れていない。だからだれかがそういう行動を取ると偽善や売名に見える。だから空気を読んで出しゃばらない。そんな同調圧力の下で山手線や地下鉄でみんな黙ってじっとしているのと同じです。ニューヨークみたいに歌をうたったり演説をする人はいません。

そういう意味ではアイスバケット・チャレンジはじつに非日本的でした。パブリックの場では大人しくしている方が無難な日本では、だから目立ってナンボの芸人ですら正面切っての権力批判はしない。むしろ目立つ弱者を笑う方に回る。

私は、偽善でも何でもいいと思っています。その場限りも自己満足も売名も総動員です。ALSはそんなケチな「勝手」を飲み込んであまりに巨大なのですから。

May 12, 2014

日系企業のみなさんへ〜任天堂事件の教訓

記憶に新しいところではこの4月、ファイアフォックスのモジラ社の新CEOがかつてのカリフォルニアでの反同性婚「Prop8」キャンペーンに1000ドルの寄付をしていたために就任10日で辞任に追い込まれました。東アジアのブルネイが同性愛行為に石打ち刑を適用することに対し全米でブルネイ国王所有のホテルチェーンにボイコットが起きていることも大きなニュースです。そういえばロシアの反同性愛法への抗議でソチ五輪で欧米諸国がそろって開会式を欠席したのもまだ今年の話でした。

性的少数者への差別や偏見に対してかくも厳しい世界情勢であるというのに、どうして大した思想も覚悟もあるわけでない任天堂米国社が、6月に発売するソーシャルゲーム「Tomodachi Life(日本名ではトモダチ・コレクション=先にコネクションとしたのを書き込み指摘により修正しました)」の中で同性婚が出来なくなっているのでどうにかしてほしいと言うファンからの要望に対して「任天堂はこのゲームでいかなる社会的発言も意図していません」「異性婚しかないのは、現実世界を再現したというよりは、ちょっと変わった、愉快なもう1つの世界だからです」と答えてしまったのでしょうか。

実は同じことは日本版リリース後の昨年暮れにも起きました。このときは日本国内での話題で、一部外国のゲームファンの中からも問題視する声がありましたが、任天堂はこれを「ゲーム内のバグ」と言いくるめて押し通し、肝心の同性間交際の問題には正面からはまったく対応しませんでした。そして今回に至ったのです。

これはマーケティング上の大失敗です。なぜならこれは、米国では誰から見ても明白に「大きな問題」になることだったからです。そして、同性婚を連邦政府が認めているアメリカで「異性婚しかないのは」「現実世界」とは違ってそれ「よりはちょっと変わった愉快なもう1つの世界」の話だからだと言うことは、まるで同性婚のある現実世界はその仮想世界よりも楽しくないという、大いなる「社会的メッセージ」を発することと同じだったからです。

果たしてこれをAP、CNN、TIME、ハフィントンポストなど、米国のほぼ全紙全局が一斉に報じました。AP配信の影響でしょうか、アメリカのゲーム関連のニュースサイトもちろん速報しました。「任天堂は同性婚にNO」という批判文脈で。それでもまだ任天堂は気づいていなかった。というのもハフィントンポストからの取材に対して日本の任天堂は「すでに発売された日本で大きな問題になってはいませんし、まずはゲームを楽しんでいただきたい」とコメントしたのです。

http://www.huffingtonpost.jp/2014/05/08/nintendo-tomodachi_n_5292748.html
「日本では昨年発売されたものですし、お客様にも大変喜んでいただいています。
 ゲームの中で、結婚したり、子供を作ったりという部分が特徴的なのは確かですが、それだけではありません。いろいろなことができるゲームですし、その部分のみが取り上げられるのは、ゲームの中身が理解されていないのかな、という印象です。まだ海外では発売すらされていないので、そういった報道になるのかもしれません。すでに発売された日本で大きな問題になってはいませんし、まずはゲームを楽しんでいただきたいと思います。」

そして翌9日、任天堂は謝罪に追い込まれました。「トモダチ・ライフにおいて同性間交際を含めるのを忘れたことで多くの人を失望させたことに謝罪します」と。

We apologize for disappointing many people by failing to include same-sex relationships in Tomodachi Life.

TIMEは次のようにこの謝罪も速報しました。

The company issued a formal apology Friday and promised to be "more inclusive" and "better [represent] all players" in future versions of the life simulation game. The apology comes after a wave of protests demanding the company include same-sex relationships in the game

もっとも、任天堂は例の「社会的発言」云々のくだりなど、それ以前のコメントの「間違い」への反省の言及は一切ありませんでした。

LGBT(性的少数者)の人権問題に関してどうして日系企業はかくも鈍感なのでしょう。そもそもアメリカに進出していてもLGBTという言葉すら知らない人さえいます。かつて日系企業の米国進出期には女性差別やセクハラ、人種差別やそれに基づくパワハラが訴訟問題にも発展し、多くの教訓を得てきたはずです。にもかかわらず今度はこれ。実際は何も学んでこなかったのと同じではありませんか。

性的「少数者」として侮ってはいけません。米国社会では親しい友人や家族の中にLGBTがいると答えた人は昨年調査で57%います。同性婚に賛成の人は先日のCNN調査で59%にまで増えました。所謂ゲーム世代でもある18歳〜32歳の若年層に限ると、同性婚支持の数字は68%にまで跳ね上がるのです(ピューリサーチセンター調べ=2014.3.)。

つまり、LGBTに関して「あいつオカマなんだってさ」「アメリカにはレズが多いよな」などという言葉を吐こうものなら、あなたは7割の若者から差別主義者の烙印を押されることになるのです。それで済めば良いですが、もしそれが職場や仕事上の話題ならば、訴訟になり巨額のペナルティが科せられます。冒頭に挙げた例はビッグネームであるが故の社会制裁を含んだものですが、アメリカでは最近、せっかく新番組のTVホストに決まっていた双子の兄弟が過去のホモフォビックな活動を問題視されて番組そのものがあっというまにキャンセルされてしまった例もあります。こう言ったらわかるかもしれません。アメリカ社会で黒人にニガーという言葉を投げつけただけであなたは社会的にも経済的にも大変困ったことになります。その想像力をそっくりLGBTに対しても持つ方がよい。ホモフォビックな性的少数者に差別と偏見を向ける人は、よほどの宗教的な確信犯ではない限り、すでにそちらこそが少数派の社会的落伍者なのです。

そんなこんなで任天堂問題がツイッターなどを賑わしているさなかに、大阪のゲーム会社がまた変なことをやらかしていることが発覚しました。

ノンケと人狼を見分けて「(ホモ)人狼」を追放する「アッー!とホーム♂黙示録~人狼ゲーム~」だそうです。

こうなるともうわけがわかりません。

これがアップルやグーグルのゲームアプリとして発売されるというので、いまツイッターなどでみんながアップルとグーグルにこんなホモフォビックなゲームは販売差し止めにしてほしいという運動を起こしています。なにせアップルもグーグルも世界的にLGBTフレンドリーを公言している企業だから尚更、というわけです。

このゲーム会社、大阪のハッピーゲイマー(Happy Gamer)というところらしいですが、ツイッターで抗議されて慌ててこのゲームのサイトに「表現について」という急ごしらえの「表現について」http://ahhhh.happygamer.co.jp/expressというページを追加してきました。そこで「このゲームにおいて「性的少数者=人狼」のように表現はされておりません」と釈明したのです。でも、それ以前にこの会社、ツイッターで「#ホモ人狼 あ、ハッシュタグ作ったんで使ってくださいね!」という「人狼=ホモ」という何とも能天気な自己宣伝をばらまいていたんですね。頭隠して尻隠さずというのはこういうことを言うのです。あまりに間抜けで攻めるこちらが悲しくなってきます。

というわけでこの会社が両販売サイトから差し止めを食らうのも時間の問題です。おそらく零細企業でしょうし、「ホモ人狼」などと堂々と宣伝してしまうところから見てもまったく意識がなかったのは明らかですが、「差別するつもりはなかった」という言い訳が通用するのは小学生までです。ユダヤ人に、黒人に、世界中でどれほどそういう名目での差別が行われてきたか、「差別するつもりはなかった」ということをまだ恥ずかし気もなく言えるのもまた日本社会の甘やかなところなのだと、とにかく一刻も早く気づいてほしい。並べて日本の会社はこの種のことにあまりに鈍感過ぎます。

「差別するつもりはなかった」という言葉で罪が逃れられると思っているひとは、「殺すつもりはなかった」という言葉があまり意味のない言い訳であるということを考えてみるといいと思います。こんなことが差別になるとは知らなかったと言って驚く人は、こんなことで死ぬとは思っていなかったと言って驚く人と同じほど取り返しがつかないのです。LGBTに関して、いま欧米社会はそこまで来ています。

ゲイやレズビアンなどの市民権がいまどうして重要なのか。いつから彼らは「ヘンタイ」じゃなくなったのか。私はもう20年以上もこのことを取材し書いてきました。日本企業のこの状況を、ほとほと情けなく思っています。この問題について企業研修をやりたいなら私が無料で話してさしあげます。連絡してください。

April 28, 2014

尖閣安保明言のメカニズム

「尖閣諸島は安保条約の適用対象」という文言が大統領の口から発せられただけで、鬼の首でも獲ったみたいに日本では一斉に一面大見出し、TVニュースでもトップ扱いになりました。でも本当に「満額回答」なんでしょうか? だって、記者会見を聴いていた限り、どうもオバマ大統領のニュアンスは違っていたのです。

もちろんアメリカ大統領が言葉にすればそれだけで強力な抑止力になります。その意味では意味があったのでしょう。しかしこれはオバマも「reiterate」(繰り返して言います)と説明したとおり、すでに過去ヘーゲル国防長官、ケリー国務長官も発言していたこととして「何も新しいことではない」と言っているのです。

Our position is not new. Secretary Hagel, our Defense Secretary, when he visited here, Secretary of State John Kerry when he visited here, both indicated what has been our consistent position throughout.(中略)So this is not a new position, this is a consistent one.

ね、2度も言ってるでしょ、not a new position ってこと。これは首尾一貫してること(a consistent one)だって。

それがニュースでしょうか? それにそもそも安保条約が適用されると言ってもシリアでもクリミアでも軍を出さなかったオバマさんが「ロック(岩)」と揶揄される無人島をめぐる諍いで軍を動かすものでしょうか? だいたい、上のコメントだって実は中国をいたずらに刺激してはいけないと「前からおんなじスタンスだよ、心配しないでね」という中国に対する暗黙の合図なのです。

それよりむしろオバマさんが自分で安倍首相に強調した( I emphasized with Prime Minister Abe)と言っていたことは「(中国との)問題を平和裏に解決する重要さ(the importance of resolving this issue peacefully)」であり「事態をエスカレートさせず(not escalating the situation)、表現を穏やかに保ち(keeping the rhetoric low)、挑発的な行動を止めること(not taking provocative actions)」だったのです。まるで中学生を諭す先生のような言葉遣いです。付け加えて「日中間のこの問題で事態がエスカレートするのを看過し続けることは深刻な誤り(a profound mistake)であると首相に直接話した(I’ve said directly to the Prime Minister )」とも。

さらにオバマさんは「米国は中国と強力な関係にあり、彼らは地域だけでなく世界にとって重大な国だ(We have strong relations with China. They are a critical country not just to the region, but to the world)」とも言葉にしているのですね。これはそうとう気を遣っています。

注目したいのは「中国が尖閣に何らかの軍事行動をとったときにはその防衛のために米軍が動くか」と訊いたCNNのジム・アコスタ記者への回答でした。オバマさんは「国際法を破る(those laws, those rules, those norms are violated)国家、子供に毒ガスを使ったり、他国の領土を侵略した場合には(when you gas children, or when you invade the territory of another country)必ず米国は戦争に動くべき(the United States should go to war)、あるいは軍事的関与の準備をすべき(or stand prepared to engage militarily)。だが、そうじゃない場合はそう深刻には考えない(we’re not serious about those norms)。ま、その場合はそういうケースじゃない(Well, that’s not the case.)」と答えているのです。

どういうことか?

実は尖閣諸島に関しては、オバマさんは「日本の施政下にある(they have been administered by Japan)」という言い方をしました。これはもちろん日米安保条約の適用対象です。第5条には次のように書いてある;

ARTICLE NO.5
Each Party recognizes that an armed attack against either Party in the territories under the administration of Japan would be dangerous to its own peace and security and declares that it would act to meet the common danger in accordance with its constitutional provisions and processes.
第5条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危機に対処するように行動することを宣言する。

でもその舌の根も乾かぬうちにオバマさんは一方でこの尖閣諸島の主権国については「We don’t take a position on final sovereignty determinations with respect to Senkakus」とも言っているのですね。つまりこの諸島の最終的な主権の決定(日中のどちらの領土に属するかということ)には私たちはポジションをとらない、つまり関与しない、判断しない、ということなのです。つまり明らかに、尖閣諸島は歴史的に現在も日本が施政下に置いている(administrated by Japan)領域だけれども、そしてそれは同盟関係として首尾一貫して安保条約の適用範囲である(the treaty covers all territories administered by Japan)けれど、主権の及ぶ領土かどうかということに関しては米国は留保する、と、なんだかよくわからない説明になっちゃっているわけです。わかります?

つまり明らかに合衆国大統領は尖閣をめぐる武力衝突に関しての米軍の関与に関して、言葉を濁しているんですね。しかももう1つ、安保条約第5条の最後に「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危機に対処するように行動する」とあって、この「手続き」って、アメリカはアメリカで議会の承認を経なきゃならないってことでもありますよね。米国連邦議会が「岩」を守るために軍を出すことを、さて、承認するかしら? ねえ。

この共同会見を記事にするとき、私なら「尖閣は安保条約の適用対象」という有名無実っぽいリップサービスで喜ぶのではなく、むしろ逆に「米軍は動かず」という“見通し”と「だから日中の平和裏の解決を念押し」という“クギ刺し”をこそ説明しますが、間違っているでしょうか? だってリップサービスだってことは事実でしょう? 米軍が守るというのはあくまで日本政府による「期待」であって、政治学者100人に訊いたら90人くらいは「でも動きませんよ」と言いますよ。

ところがどうも日本の記者たちはこれらの大統領の発言を自分で解読するのではなく、外務省の解釈通り、ブリーフィング通りに理解したようです。最初に書いたようにこれは「大統領が口にした」というその言葉の抑止力でしかありません。そりゃ外務省や日本政府は対中強硬姿勢の安倍さんの意向を慮って「尖閣」明言を「大成功」「満額回答」と吹聴したいでしょう。でもそれは“大本営発表”です。「大本営発表」は「大本営発表」だということをちゃんと付記せねば、それは国民をだますことになるのです。

私がこれではダメだと思っているのは、何故かと言うと、この「尖閣」リップサービスで恩を売ったと笠に着て、米国が明らかにもう1つの焦点であったTPPで日本に大幅譲歩を強いているからです。ここに「国賓招聘」や「すきやばし次郎」や「宮中晩餐会」などの首相サイドの姑息な接待戦略は通用しませんでした。アメリカ側はこういうことで恐縮することをしない。ビジネスはビジネスなのです。

思えばオバマ来日の前週に安倍さんが「TPPは数字を越えた高い観点から妥結を目指す」と話したのもおかしなことでした。「高い観点」とはこんな空っぽな安保証文のことだったのでしょうか? 取り引きの材料になった日本の農家の将来を、いま私は深く憂いています。

April 26, 2014

勘違いの集団自衛権

みんな誤解してるようだけど、日本が戦争をしかけられるときには集団的自衛権は関係ないんだよ。つまり尖閣での中国との衝突なんて事態のときは、集団的自衛権は関係ないの。どうもその辺、混同してるんだな。集団的自衛権が関係するのは、日本の同盟国である米国が攻撃されたとき。それを米国と「集団」になって一緒に防衛するってこと。つまり米国が攻撃されたらそこに日本が出て行くってこと。米国と同盟国だから。さてそこでそれを「限定的に使うことを容認したい」って言い始めてるのが安倍政権。どこまでが「限定的」なのかは、そんなの、難しくて言えない、ってさ。個別に判断するようです。でも「地球の裏側にまで出かけることはない」とも言ってるけど、「じゃあどこなら行くの?」には答えられていない。

一方、尖閣でなにかあったときに米国が日本を助けてくれるのは、これは米国側からの集団自衛権、それと、それをもっと明確にしての日米安保条約。だから、尖閣の有事の時のために集団自衛権が必要だ、と思い込んでる人は間違いなの。で、今回の日米共同声明では、尖閣も含んだ日本の施政下の場所は、それは「安保条約第5条の適用下にある」ってこと。

いわば、米国から守ってもらいたいがために、日本も米国を一緒になって守りますよ、っていう約束がこんかいの「集団的自衛権の行使」容認に向けた動きなのです。つまり、なんかあったら日本もやりますから、という証文。先物取り引きみたいなもの。約束。だから、日本になんかあったらよろしくね、というお願いとのバーター取引なのね。

でも、じつはこれ、バーターにしなくてももう昔からそう決まっていたの。だって、安保条約、前からあるでしょ? 集団的自衛権行使します、なんて決めなくても、もうそれは約束だったんだから。

じゃあ、なんでいままたそんなことを言いだしたの? というのでいろいろ憶測があって、それは、1つは靖国参拝、1つは従軍慰安婦河野発言見直し、つまりは「戦後レジームからの脱却」「一丁前の国=美しい国」──そういうアメリカが嫌がることをやらなきゃオトコじゃねえ!と思い込んでるアベが、嫌がることの代償にアメリカが有り難がってくれることをやってやればあまり強いこと言わんだろう、ま、だいじょうぶじゃね?という思惑で(というか、もちろんそれはちゃんと武力行使もできるような「一丁前のオトコらしい国家」であることの条件でもあるんでそこはうまく合致するんだけど)、それで前のめりになっているわけ。だってほら、昨年12月26日の靖国参拝で「disappointed」なんて言われちゃったから、なおさら機嫌直さないといけないでしょ。

アメリカだって、助けてくれると言うのをイヤだなんて言いません。そりゃありがとうです。でも、要は、そんなこんなでアメリカが日本の戦争に巻き込まれるような事態はいちばん避けたいわけです。でも日本が集団自衛権行使容認に前のめりになればなるほど、中国や北朝鮮を刺激してそういう事態が訪れる危険度が高まるというパラドクスがあるわけ。だから、アメリカもアメリカに対して集団自衛権を行使してくれるのはありがたいけど、まあちょっとありがた迷惑な感じが付き纏う。

だから、こんかいの共同声明では、集団自衛権の「行使容認に向けての動き」を歓迎・支持する、ではなくて、集団的自衛権の行使に関する事項について「検討を行っていること」なわけよ、歓迎・支持の対象は。

でね、オバマが強調したのは「尖閣も守られるよ」ってことじゃないの。オバマが強調したのは「対話を通した日中の平和的解決」であり、オバマは「尖閣諸島がどちらに属しているかに関してはアメリカは立場を明確にしない」と繰り返したんです。さらに「米国は軍事的関与を期待されるべきではない」とも話した。

そりゃね、大統領が明言し共同声明にも「尖閣諸島を含む日本の施政下の土地」は安保条約第5条の対象だと明示したことは、それだけで他国からの侵略へのけっこうな抑止力になります。これまでに繰り返された国務長官、国防長官レベルの談話よりは抑止力になる。その意味ではよかった。でもそれだけです。

だいたい日米安保条約第5条にはこう書いてある。

「各締結国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するよう行動する」

つまりは、まずは尖閣をめぐって攻撃されても、まずは「自国の憲法上の規定及び手続きに従って行動する」わけ。武力行使なんて、ここには明記されていない。

でもってこれ、「施政下」というのがじつはキモでね、「日本の領土」じゃないのよ。オバマは「尖閣諸島がどちらに属しているかに関してはアメリカは立場を明確にしない」と言って、「尖閣」とともに中国名の「釣魚島」の名前も言ってるのね。で、尖閣はいまは日本の実効支配下にあるけど、いったん中国が奪い取ったらこれは中国の施政下に入って、安保5条の適用される日本の施政下の領域じゃなくなるわけよ。ね? つまり、その時点で安保によって守られることから除外されるわけ。スゴい論理だよね。

そもそもあそこは無人島なんですよ。英語では「rock」と呼ばれるくらいに単なる岩なわけです(ほんとは海洋資源の権利とかあってそうじゃないんですけどね)。シリアやクリミアで軍事介入しなかったアメリカが、無人島奪還のために軍事介入しないでしょう。大義名分、ないでしょう。アメリカ議会、承認しないでしょう。するわけないもん。

だからここまで考えると、日本のメディアが今回の日米首脳会談、TPPはダメだったけど安全保障の上では尖閣の名前を出してもらって「満額回答だ!」「日米同盟の強固さに関して力強いメッセージをアピールできた!」なんて自画自賛してる政府や外務省の思惑どおりの報道をしてるけど、それ、自画自賛じゃなくて我田引水だから。実質的には何の意味もないってこと、わかるでしょ?

だから「尖閣、危ないじゃん、だから集団自衛権、必要なんじゃね?」と思ってるそこのキミ、それ、違うからね。

集団自衛権ってのは、日本が攻撃されていないのに、同盟国が攻撃されたときにそこに(友だちがやられてるのに助けないのはオトコじゃねえ!って言って)自衛隊派遣して、そんでお国のため、というよりも別の国のために、誰かが死ぬかもしれないってことだから。ま、その覚悟があるんならいいけど、そんで、誰か自衛隊員が不幸なことに殺されたら、それはもうそっからとつぜん日本の国の戦争ってことになって、そんで戦争になっちゃうってことだから。で、日本国が攻撃されるかもしれないってことだから、その覚悟、できてる? ていうか、それって、憲法、解釈変更だけでできちゃうの? ウソでしょうよ、ねえ。

そゆこと。

もいっかい言うよ、集団自衛権と尖閣は関係ない。なんか、オバマ訪日の安倍政権の物言いではまるでそうみたいだったけど、尖閣と関係するのは安保条約。集団自衛権は、その見返りとして日本が別の戦争に加わること。

でさ、その「別の戦争」だけど、友だちを助けないのはオトコじゃねえ、と反射的に思う前に、その喧嘩の仲裁に入るのがオトコでしょう、って思ってよ。そっちのほうが百倍難しい。それをやるのがオトコでしょうが。

というわけで、今回、アメリカの妥協を引き出せなかったTPPのほうが具体的な現実世界ではずっと大事なんです。私昔からTPP反対ですけど。

April 17, 2014

オバマ訪日に漕ぎ着けたものの

昨年のハドソン研究所での安倍さんの「軍国主義者と呼びたきゃ呼んで」発言から靖国参拝、さらにはNHK籾井会長や経営委員の百田・長谷川発言まで、あれほど敏感に反応してうるさかった欧米メディアの日本監視・警戒網が、この2〜3カ月ぱったりと静かなことに気づいていますか?

なにより安倍さん自身が河野談話の見直しはないと国会で明言してみせたりと、これまでの右翼発言を封印した。とにかくこれらはすべて来週のオバマ来日がキャンセルになったら一大事だからなんですね。

これにはずいぶんと外務省が頑張ったようです。岸田外相以下幹部が何度もオバマ政権に接触し、米国の顔を潰すようなことはもうしないと説明した。この間の板挟み状態の取り繕いは涙ものの苦労だったようです。そういえば岸田さんは最近では自民党でさっぱり影の薄いハト派、宏池会ですからね。そこには使命感に近いものもあったのではないでしょうか。

そうして一日滞在だったのが一泊になり、次に二泊になって宮中晩餐会へのご出席を願う国賓扱いにまで漕ぎ着けた。ふつうは向こうが国賓にしてほしいと願うものなのに、今度は日本政府からオバマさんにお願いしたのです。もっともそれでもミッシェル夫人は同伴させませんが。

そこで現在の注目点はいったい23日の何時に日本に到着するのかということです。夕方なら翌日の首脳会談の前に安倍さんがぜひ夕食会に招きたい。ところがオバマさんはいまのところ安倍さんと仲の好いところを見せてもあまり国益がなさそうです。なにせTPPの交渉がどうまとまるのか(17日になった現在もまだ)わからない。ウクライナ情勢が緊迫していてそこで安倍さんと食事しているのも得策ではない。なので直前までワシントンで仕事をして日本入りは23日深夜かもしれない。そうすると日本訪問は実質的に最初の計画どおり24日の一日だけという感じ。二泊するから日本のメンツは立て、実質一日だから米議会にも申し訳が立つ。

そこで安倍さん、今年に入って米国のご機嫌伺いに集団自衛権にやけに前のめりですし、先日はリニア新幹線の技術を無償で米国に提供するとまで約束する構えになりました。ものすごいお土産外交です。

ところが米国にとっても都合の良い集団自衛権はすでに織り込み済みで新味がない。極論を言えば、そういう事態にならないようにすることこそが重要なわけで、集団自衛権を使うような有事になったらそっちのほうが米国にとってはやばい。しかも集団自衛権が日本国内で盛り上がることでむしろ集団自衛権を発動しなければならないような状況を刺激するかもしれない。つまりは自国の戦争には協力させたいが日本が起こす紛争に巻き込まれるのはまったくもって困る、というわけなのです。それは米国の国益には反するのです。だから集団自衛権なんてものは、喫緊の議題としてはオバマさんにはむしろ、どっちでもいい、くらいなところに置いておいた方が得なわけです。

で、ならばとばかりにリニア新幹線です。普通は、大もとの技術は特許関連もあるので日本が押さえる、でもインフラや部品は無償で供与する、というのが筋です。しかしそれが逆。じっさい、無償で技術提供を行って引き換えに車両やシステムをたくさん買ってもらった方が得ということもあるでしょう。

でも、ご存じのようにアメリカは鉄道の国というよりは自動車やコミューター飛行機の国です。全米鉄道網というような大規模なものならともかく、いまのところリニアは可能性としてもワシントンDC、ニューヨーク、ボストンといった東部地域のみの感じで、そこら辺は厳密に損得勘定を計算してのもの、というより、大雑把にまあここで恩を売っとけば見返りもあるんじゃないかなあ、というような感じの判断だったなんじゃないでしょうか。しかもワシントンーボルティモア間の総工費の半額の5千億円ほどを国際協力銀行を通じて融資するという大盤振る舞いなんですよ。軸足はやはり「お土産」に置いていると言ってよい。

いかに靖国で損ねたご機嫌を取り繕いたいと言っても、これって安倍さんの大嫌いな屈辱外交、土下座外交、自虐ナントカではないですか?

というわけでオバマさんの訪日、どこが注目点かというと、23日の何時に到着するかということと、翌24日の共同声明でオバマさんが安倍さんの横でどんな表情を見せるか、ということです。満面の笑みか、控えめな笑顔か。宮中晩餐会は平和主義者の天皇のお招きですから満面の笑顔でしょうが、さて、安倍さんとはどういう顔を見せるのでしょうね。

March 29, 2014

48年間の無為

48年という歳月を思うとき、私は48年前の自分の年齢を思い出してそれからの月日のことを考えます。若い人なら自分の年齢の何倍かを数えるでしょう。

いわゆる「袴田事件」の死刑囚袴田巌さんの再審が決まり、48年ぶりに釈放されました。あのネルソン・マンデラだって収監されていたのは27年です。放送を終えるタモリの長寿番組「笑っていいとも」が始まったのは32年前でした。

48年間も死刑囚が刑を執行されずにいたというのはつまり、死刑を執行したらまずいということをじつは誰もが知っていたということではないでしょうか? なぜなら自白調書全45通のうち44通までを裁判所は「強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの」などとして任意性を認めず証拠から排除しているのです。残るただ1通の自白調書で死刑判決?

また、犯行時の着衣は当初はパジャマとされていましたが、犯行から1年後に味噌樽の中から「発見」された5点の着衣はその「自白」ではまったく触れられていず、サイズも小さすぎて袴田さんには着られないものでした。サイズ違いはタグにあったアルファベットが、サイズではなく色指定のものだったのを証拠捏造者が間違ったせいだと見られています。

いずれにしてもその付着血痕が袴田さんのものでも被害者たちのものでもないことがDNA鑑定で判明し、静岡地裁は「捏造の疑い」とまで言い切ったのでした。

ところがその再審決定の今の今まで、権力の誤りを立ち上がって正そうとした者は権力の内部には誰ひとりとしていなかった。それが48年の「無為」につながったのです。(1審の陪席判事だった熊本典道は、ひとり無罪を主張したものの叶わず、半年後に判事を辞して弁護士に転身しました。そして判決から39年目の2007年に当時の「合議の秘密」を破って有罪に至った旨を明らかにし、袴田さんの支援運動に参加しました。ところが権力の内部にとどまった人たちに、熊本氏の後を追う者はいなかったのです)

こうした経緯を考えるとき、私はホロコースト裁判で「命令に従っただけ」と無罪を主張したアドルフ・アイヒマンのことを思い出します。数百万のユダヤ人を絶滅収容所に送り込んだ責任者は極悪非道な大悪人ではなく、思考を停止した単なる小役人だった。ハンナ・アーレントはこれを「悪の凡庸さ」と呼びました。

目の前で法や枠組みを越えた絶対の非道や不合理が進行しているとき、非力な個人は立ち上がる勇気もなく歯車であることにしがみつく。義を見てせざる勇なきを、しょうがないこととして甘受する。そうしている間に世間はとんでもない悪を生み出してしまうのです。その責任はいったいどこに求めればよいのでしょう?

ナチスドイツに対抗したアメリカは、この「悪の凡庸さ」に「ヒーロー文化」をぶつけました。非力な個人でもヒーローになれると鼓舞し、それこそが社会を「無為の悪」から善に転じさせるものだと教育しているのです。

こうして内部告発は奨励されベトナム戦争ではペンタゴンペーパーのダニエル・エルスバーグが生まれ、やがてはNSA告発のエドワード・スノーデンも登場しました。一方でエレン・ブロコビッチは企業を告発し、ハーヴィー・ミルクは立ち上がり、ジェイソン・ボーンはCIAの不法に気づいてひとり対抗するのです。

対して日本は、ひとり法を超越した「命のビザ」を書き続けた杉原千畝を「日本国を代表もしていない一役人が、こんな重大な決断をするなどもっての外であり、組織として絶対に許せない」として外務省を依願退職させ、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答し続けた。彼が再び「存在」し直したのは2000年、当時の河野洋平外相の顕彰演説で日本政府による公式の名誉回復がなされたときだったのでした。すでに千畝没後14年、外務省免官から53年目のことでした。

それは袴田さんの名誉が回復される途中である、今回の「48年」とあまりに近い数字です。

February 23, 2014

拡大する日本監視網

浅田真央選手のフリーでの復活は目を見張りました。ショートでの失敗があったからなおさらというのではなく、それ自体がじつに優雅で力強い演技。NBCの中継で解説をしていたやはり五輪メダリストのジョニー・ウィアーとタラ・リピンスキーは直後に「彼女は勝たないかもしれない。でも、このオリンピックでみんなが憶えているのは真央だと思う」と絶賛していました。前回のコラムで紹介した安藤美姫さんといい、五輪に出場するような一流のアスリートたちはみな国家を越える一流の友情を育んでいるのでしょう。

一方でそのNBCが速報したのが東京五輪組織委員会会長森嘉朗元首相の「あの子は大事な時に必ず転ぶ」発言です。ご丁寧に「総理現職時代から失言癖で有名だった」と紹介された森さんのひどい失言は、じつは浅田選手の部分ではありません。アイスダンスのクリス&キャシー・リード兄妹を指して「2人はアメリカに住んでるんですよ。米国代表として出場する実力がなかったから帰化させて日本の選手団として出している」とも言っているのです。

いやもっとひどいのは次の部分です。「また3月に入りますとパラリンピックがあります。このほうも行けという命令なんです。オリンピックだけ行ってますと会長は健常者の競技だけ行ってて障害者のほうをおろそかにしてると(略)『ああまた27時間以上もかけて行くのかな』と思うとほんとに暗いですね」

日本の政治家はこうして自分しか知らない内輪話をさも得意げに聴衆に披露しては笑いを取ろうとする。それが「公人」としてははなはだ不適格な発言であったとしても、そんな「ぶっちゃけ話」が自分と支持者との距離を縮めて人気を博すのだと信じている。で、森さんの場合はそれが「失言癖」となって久しいのです。

しかしこういう「どうでもいい私語」にゲスが透けるのは品性なのでしょう。そのゲスが「ハーフ」と「障害者」とをネタにドヤ顔の会長職を務めている。27時間かけてパラリンピックに行くのがイヤならば辞めていただいて結構なのですが、日本社会はどうもこういうことでは対応が遅い。

先日のNYタイムズは安倍政権をとうとう「右翼政権」と呼び、憲法解釈の変更による集団自衛権の行使に関して「こういう場合は最高裁が介入して彼の解釈変更を拒絶し、いかなる指導者もその個人的意思で憲法を書き換えることなどできないと明確に宣言すべきだ」と内政干渉みたいなことまで言い出しました。国粋主義者の安倍さんへの国際的な警戒監視網はいまや安倍さん周辺にまで及び、というか周辺まで右翼言辞が拡大して、NHKの籾井会長や作家の百田さんや哲学者という長谷川さんといった経営委員の発言から衛藤首相補佐官の「逆にこっちが失望です」発言や本田内閣官房参与の「アベノミクスは力強い経済でより強力な軍隊を持って中国に対峙できるようにするためだ」発言も逐一欧米メディアが速報するまでになっています。

日本人の発言が、しかも「問題」発言が、これほど欧米メディアで取り上げられ論評され批判されたことはありませんでした。安倍さんはどこまで先を読んでその道を邁進しようとしているのでしょうか? そのすべてはしかし、東アジアにおけるアメリカの強大な軍事力という後ろ盾なくては不可能なことなのです。そしてそのアメリカはいま、日本経済を建て直し、沖縄の基地問題を解決できると踏んでその就任を「待ち望んだ安倍政権を後悔している」と、英フィナンシャルタイムズが指摘している。やれやれ、です。

February 17, 2014

自信喪失時代のオリンピック

安藤美姫さんが日本の報道番組でソチ五輪での女子フィギュア競技の見通しに関して「表彰台を日本人で独占してほしいですね」と振られ、「ほかの国にもいい選手はいるから、いろんな選手にスポットライトを当ててもらえたら」と柔らかく反論したそうです。

五輪取材では私は新聞記者時代の88年、ソウル五輪取材で韓国にいました。いまも憶えていますが、あのころは日本経済もバブル期で自信に溢れていたせいか、日本の報道メディアには「あまりニッポン、ニッポンと国を強調するようなリポートは避けようよ」的な認識が共有されていました。それは当時ですでに24年前になっていた東京オリンピックの時代の発展途上国の「精神」で、「いまや堂々たる先進国の日本だもの、敢えてニッポンと言わずとも個人顕彰で十分だろう」という「余裕」だったのだと思います。

でもその後のバブル崩壊で日本は長い沈滞期を迎えます。するとその間に、就職もままならぬ若者たちの心に自信喪失の穴があくようになり、そこに取って替わるように例の「ぷちナショナリズム」みたいな代替的な擬制の「国家」の「自信」がはまり込んだのです。スポーツ応援に「ニッポン」連呼が盛大に復活したのもこのころです。

知っていますか? 現在の日本では街の書店に軒並み「嫌韓嫌中」本と「日本はこんなにスゴい」的な本が並ぶ愛国コーナーが設けられるようになっているのです。なにせその国の首相は欧米から「プチ」の付かない正真正銘の「ナショナリスト」のお墨付きをもらっているのですから、それに倣う国民が増えても不思議ではありません。だからこそ64年の東京五輪を知らない世代の喪失自信を埋め合わせるように、日本が「国家的自信」を与える「東京オリンピック」を追求し始めたのも当然の帰結だったのでしょう。

そこから冒頭の「表彰台独占」コメントへの距離はありません。さらに首相による羽生結弦選手への「さすが日本男児」電話も、あざといほどに短絡的です。80年代にはあったはずの日本人の、あの言わずもがなの「自信」は、確かにバブルのように消えてしまったよう。まさに「衣食足りて」の謂いです。

そんな中で安藤美姫さんも羽生選手も自信に溢れています。それはやるべきことをやっている人たちの自信でしょうが、同時に海外経験で多くの外国人と接して、その交遊が「日本」という国家を越える人たちのおおらかさのような気がします。そしてその余裕こそが翻って日本を美しく高めるものだと私は思っています。じっさい、安藤さんのやんわりのたしなめもとても素敵なものでしたし、羽生選手の震災に対する思いはそれこそじつに「日本」思いの核心です。

スポーツの祭典は気を抜いているとことほどさように容易に「国家」に絡めとられがちです。だからヒトラーはベルリン五輪をナショナリズムの高揚に利用し、それからほどなくしてユダヤ人迫害の大虐殺に踏み切ることができました。ソチ五輪もまたロシア政府のゲイ弾圧に国際的な黙認を与えることかどうかで議論は続いています。

オリンピックはいつの時代でも活躍する選手たちに「勇気を与えてくれた」「感動をありがとう」と感謝の声をかけたくなります。そして表彰台の彼らや日の丸につい自己同一してしまう。そんなとき、私はいつも歌人枡野浩一さんの短歌を思い出します──「野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない」

はいはい、わかってはいるんですけどね。

February 04, 2014

ソチ五輪の華やかさの陰で

ロシアで15歳の少女が反ゲイ法に抗議して学校の友だちの前でカムアウトしました。父親は少女を激しく殴打し、頭部に重傷を負った少女は入院しました。裁判所は有罪を言い渡しました。父親ではなく、少女に対して──同性愛を「宣伝」することが犯罪になるロシアでも、未成年に対する初の法適用だそうです。

ソチ五輪が始まります。スポーツの祭典といわれるオリンピックがこれまでさまざまな政治論争に利用されてきたことは多くの人が知っているでしょう。今回も開会式に欧米首脳が一斉欠席。冒頭の同性愛宣伝禁止法が人権弾圧法であり、その影響でロシア全土でLGBTQへの虐待や暴力、殺人行為までもが急速に広まっているのにロシア政府は何ら手を打たない。それに反発する欧米の世論が、自国のトップの開会式出席を許さなかったのです。

ソチではフィギュアやスキーのジャンプなど日本選手の活躍もおおいに期待されています。それはそれ。だがしかし、そんな面倒くさい政治が、このスポーツの祭典には付き物なのです。

例えば6年後の東京オリンピックでは8千億円以上の公的予算、つまりは税金からの拠出が組まれ、経済効果は3兆円ともいわれます。さらにこれを主催する国際オリンピック委員会(IOC)という組織には、テレビ放映権や公式スポンサー企業からの収益で2千億円近くのおカネが入ります。

夏に比べ冬の五輪は規模は小さくなりますが、それでも国家と企業とがこれだけおカネを出しているのですから、五輪がその国の政治や経済、そしてスポンサー企業の宣伝に利用されるのは当然、というよりもむしろそのためにこそ五輪を開いていると言ってもよい。そしてソチ五輪はロシア国家の威信をかけて、なんと5兆円もの予算規模で行われるのです。これは夏の北京五輪の4兆円をも上回る巨費です。五輪が「純粋なスポーツの場」というのは、その競技を見て楽しむ私たちの頭の中だけの話。オリンピックは「村おこし」ならぬ、「国おこし」「企業おこし」の超巨大イベントなのです。

なので過去の五輪メダリストやソチに出場する12人の現役選手を含む計52人の五輪選手たちが、LGBTQ迫害のロシア政府、そしてそれを黙認するIOC、そしてソチ五輪スポンサー企業を批判する声明に署名しているのも無理もありません。そんな人権弾圧国の「国おこし」には加担したくないのです。ちなみにそれに「加担している」と批判されている世界スポンサー企業にはコカ・コーラ、マクドナルド、ビザ、サムスンなどに混じって日本のパナソニックもいます。

この声明運動は五輪憲章にある「オリンピズムの根本原則」第6条にちなんで「第6原則(principle six)キャンペーン」と呼ばれています。その第6条には「人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基づく国や個人に対する差別はいかなる形であれオリンピック運動とは相容れない」とあって、差別はダメなんじゃなかったの?というわけです。

署名者には米スノーボード金メダリストのセス・ウエスコット、ソチ出場のカナダ選手ロザンナ・クローフォード、オーストラリアの男子4人乗りボブスレーチームが含まれます。他にも国際的スポーツ選手で史上最初にカムアウトした1人であるテニスのマルチナ・ナブラチロワやイングランドのサッカーチーム「リーズ・ユナイテッド」の元選手ロビー・ロジャーズらそうそうたる名前が並びます。残念ながら、日本人選手の名前は見当たりません。

きっとこの抗議運動自体を知らないのでしょう。冒頭の事件などを教えてやれば必ず署名してくれる選手が多いはずだとは思うのですが、日本社会の世界情報遮断力はとても大きい。なにせ国のトップが、そういう情報をまったく意に介さない人ですから。

January 20, 2014

逆張りの泥団子

昨年の夏に、来月7日から始まるロシアのソチ五輪ボイコットを呼びかけるハーヴィー・ファイアスティン氏の寄稿がNYタイムズに掲載されたことを紹介しました。プーチン政権による同性愛者弾圧を見過ごして五輪に参加するのは、ユダヤ人弾圧に抗議もせずドイツ五輪に参加した1936年の国際社会と同じ愚行だ、という意見でした。当時、私は、ロシア産品の不買運動もすでに始まっており、五輪を巡るこの攻防は国際的にはさらに大きな動きになるはずだと書きました。

果たして予想は当たり、国際社会はその後、米英仏独や欧州連合(EU)などの首脳が相次いで開会式への欠席を表明して、ソチ五輪は国際的にはロシアの人権弾圧に抗議を示す異例の事態下での開会となります。

そんなときに日本の安倍首相が、「北方領土の日」に重なるとして一旦は「欠席」だった開会式に一転、出席する意向を示しました。日本はいちおう西側社会の一員ですが、欧米と逆を行くこの対応は何なのでしょう。

「日ロ関係全体を底上げし、北方領土問題の議論に前向きな結果をもたらすことを期待」と外相が代わって意味づけをしましたが、プーチンさんとの首脳会談も日程的に難しいそうです。それでも開会式に出席すれば北方領土問題でロシアに貸しを作れると思っているなら、それはナイーブに過ぎます。それより何よりロシアの例の同性愛者迫害の一件はどうスルーするのでしょうか?

日本社会では性的少数者の人権保障はいまだ大きな政治課題に育っていないのは確かです。しかし性的少数者の人権保障はいまや先進民主主義国の重要な政治傾向。それを無視して、あるいは知らない振りをしてシレッと開会式に出る。こういうのを何と言うのでしたっけ? 「逆張り」?

そこで思い出すのは昨年12月10日のマンデラさんの葬儀です。アパルトヘイトという史上最大級の差別への反省から、自身で作った南アの新たな憲法で世界で初めて同性愛者などの性的少数者への差別をも禁止したこの偉人の弔問外交の場には、世界の首脳140人が一堂に会しました。それにも安倍首相は欠席した。その3日後に東京で開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)特別首脳会議のため、というのが公式理由でした。

でもここまで来ると安倍さんは仲間はずれ、つま弾きになりそうなところには行きたくない、歓迎されるところにしか行きたくないのだと疑ってしまいます。いろいろ文句を言ってくる欧米はメンツを潰されるので嫌いなのだと。

私は日本が国際社会で「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」国家であるという「名誉ある地位を占めたいと思」っています。でもここまで「逆張り」が続くと国際社会の動向の「読み違い」が原因というより読もうという努力をハナからしていない、いやむしろ確信犯的に「逆」を張ってどこまで「持論」を通せるか反応を試しているようにさえ思えます。その持論である「美しい国」には国際社会からの評価は必要ないのでしょうか。

国際社会に媚びろと言うのではありません。積極的平和主義だろうが何だろうが、政治も外交も一にも二にも正確な状況分析がすべての土台だということです。それなのに日本はいま、世界の情報を日本語だけで勝手にこねくり回して勝手に解釈している。伝言ゲームよろしくまったく違った牽強付会の泥団子をめでているのです。その泥団子はまずいどころか本来は食べる物ですらないというのに。

私はオバマさんの4月の来日が不安です。

December 29, 2013

I am disappointed

クリスマスも終わってあとはのんべんだらりと年を越そうと思っていたのに、よいお年を──と書く前に驚かされました。安倍首相の靖国参拝自体にではなく、それに対して米国ばかりかヨーロッパ諸国およびEU、さらにはロシアまで、あろうことかあの反ユダヤ監視団体サイモン・ウィーゼル・センターまでもが、あっという間にしかも実に辛辣に一斉大批判したことに驚かされたのです。

中韓の反発はわかります。しかし英語圏もがその話題でもちきりになりました。靖国神社が世界でそんなに問題視されていることは、日本語だけではわからないですが外国に住んでいるとビシビシ刺さってきます。今回はさらにEUとロシアが加わっていることもとても重要な新たなフェイズと認識していたほうがよいでしょう。

こんなことは7年前の小泉参拝のときには起きませんでした。何が違うかと言うと、小泉さんについては誰も彼が国粋主義者だなんて思ってはいなかった。でも安倍首相には欧米ではすでにれっきとした軍国右翼のレッテルが張られていました。だって、3カ月前にわざわざアメリカにまで来て「私を右翼の軍国主義者だと呼びたいなら呼べばいい」と大見得を切った人です(9/25ハドソン研究所)。それがジョークとしては通じない国でです。そのせいです。

例によって安倍首相は26日の参拝直後に記者団に対し「靖国参拝はいわゆる戦犯を崇拝する行為だという誤解に基づく批判がある」と語ったとされますが、いったいいつまでこの「誤解」弁明を繰り返すのでしょう。特定秘密保護法への反発も「誤解」に基づくもの、武器輸出三原則に抵触する韓国への弾薬供与への批判も「誤解」、集団的自衛権の解釈変更に対する反対も「誤解」、この分じゃ自民党の憲法改変草案への反発もきっと私たちの「誤解」のせいにされるでしょう。これだけ「誤解」が多いのは、「誤解」される自分の方の根本のところが間違っているのかもしれない、という疑義が生まれても良さそうなもんですが、彼の頭にはそういう回路(など)の切れている便利な脳が入っているらしい。

果たしてニューヨークタイムズはじめ欧米主要紙の見出しは「国家主義者の首相が戦争神社 war shrine」を参拝した、というものでした。それは戦後体制への挑戦、歴史修正主義に見える。ドイツの新聞は、メルケル首相が同じことをしたら政治生命はあっという間に終わると書いてありました。英フィナンシャルタイムズは安倍首相がついに経済から「右翼の大義」の実現に焦点を移したと断言しました。

問題はアメリカです。クリスマス休暇中のオバマ政権だったにもかかわらず、参拝後わずか3時間(しかもアメリカ本土は真夜中から未明です。ケリー国務長官も叩き起こされたのでしょうか?)で出された米大使館声明(翌日に国務省声明に格上げされました)は、まるで親や先生や上司が子供や生徒や部下をきつく叱責する文言でした。だいたい「I am disappointed in you(きみには失望した)」と言われたら、言われたほうは真っ青になります。公式の外交文書でそういう文面だったら尚更です。

アメリカ大使館の声明の英文原文を読んでみましょう(ちなみに、米大使館サイトに参考で掲載されている声明の日本語訳はあまり日本語としてよくなくて意味がわかりづらくなっています)。

声明は3つの段落に分かれています。前述したようにこれはアメリカで人を叱りつけるときの定型句です。最初にがつんとやる。でも次にどうすれば打開できるかを示唆する。そして最後にきみの良いところはちゃんとわかっているよと救いを残しておく。この3段落テキストはまったくそれと同じパタンです。

第一段落:
Japan is a valued ally and friend. Nevertheless, the United States is disappointed that Japan's leadership has taken an action that will exacerbate tensions with Japan's neighbors.
日本は大切な同盟国であり、友好国である。しかし、日本の指導者が近隣諸国との関係を悪化させる行動を取ったことに、米国は失望している。

これは親友に裏切られてガッカリだ、ということです。失望、disappointedというのはかなりきつい英語です。
というか、すごく見下した英語です。ふつう、こんなことを友だちや恋人に言われたらヤバいです。もっと直截的にはここを受け身形にしないで、You disappointed me, つまり Japan's leadership disappointed the United States, とでもやられたらさらに真っ青になる表現ですが。ま、外交テキストとしてはよほどのことがない限りそんな文体は使わないでしょうね

ちなみに国連決議での最上級は condemn(非難する)という単語を使いますが、それが同盟国相手の決議文に出てくると安保理ではさすがにどの大国も拒否権を行使します。で、議長声明という無難なところに落ち着く。

第二段落;
The United States hopes that both Japan and its neighbors will find constructive ways to deal with sensitive issues from the past, to improve their relations, and to promote cooperation in advancing our shared goals of regional peace and stability.
米国は、日本と近隣諸国が共に、過去からの微妙な問題に対処し、関係を改善し、地域の平和と安定という我々の共通目標を前進させるための協力を推進する、建設的方策を見いだすよう希望する。

これはその事態を打開するために必要な措置を示唆しています。とにかく仲良くやれ、と。そのイニシアティブを自分たちで取れ、ということです。「日本と近隣諸国がともに」、という主語を2つにしたのは苦心の現れです。日本だけを悪者にしてはいない、という、これもアメリカの親たちが子供だけを責めるのではなくて責任を分担して自分で解決を求めるときの常套語法です。

そして第三段落;
We take note of the Prime Minister’s expression of remorse for the past and his reaffirmation of Japan's commitment to peace.
我々は、首相が過去に関する反省を表明し、日本の平和への決意を再確認したことに留意する。

これもあまりに叱っても立つ瀬がないだろうから、とにかくなんでもいいからよい部分を指摘してやろうという、とてもアメリカ的な言い回しです。安倍首相が靖国を参拝しながらもそれを「二度と戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくるという決意を伝えるため」だという意味をそこに付与したことを、われわれはちゃんと気づいているよ、見ているよ、とやった。叱責の言葉にちょいと救いを与えた、そこを忘れるなよ、と付け加えたわけです。

でも、それを言っているのが最後の段落であることにも「留意」しなくてはなりません。英文の構造をわかっている人にはわかると思いますが、メッセージはすべて最初にあります。残りは付け足しです。つまり、メッセージはまぎれもなく「失望した」ということです。

参拝前から用意していたテキストなのか、安倍首相はこの自分の行動について「戦場で散っていった方々のために冥福を祈り、手を合わす。世界共通のリーダーの姿勢だろう」と言い返しました。しかし、世界が問題にしてるのはそこじゃありません。戦場で散った人じゃなく、その人たちを戦場で散らせた人たちに手を合わせることへの批判なのです。これはまずい言い返しの典型です。この論理のすり替え、詭弁は、世界のプロの政治家たちに通用するわけがありません。とするとこれはむしろ、国内の自分の支持層、自分の言うことなら上手く聞いてくれる人たちに「期待される理由付け」を与えただけのことだと考えた方がよいでしょう。その証拠に、彼らは予想どおりこの文脈をそっくり使ってFacebookの在日アメリカ大使館のページに大量の抗議コメントを投げつけて炎上状態にしています。誘導というかちょっとした後押しはこれで成功です。(でも、米大使館のFB炎上って、新聞ネタですよね)

さてアメリカは(リベラルなコミュニティ・オルガナイザーでもあり憲法学者でもあるオバマさんは安倍さんとは個人的にソリが合わないようですが)、しかし日本の長期安定政権を望んでいるのは確かです。それは日本の経済回復やTPP参加で米国に恩恵があるから、集団自衛権のシフトや沖縄駐留で米国の軍事費財政赤字削減に国益があるからです。そこでの日本の国内的な反発や強硬手段による法案成立にはリベラルなオバマ政権は実に気にしてはいるのですが、それは基本的には日本の国内問題です。アメリカとしては成立してもらうに不都合はまったくない。もちろんできれば国民が真にそれを望むようなもっとよい形で、曖昧ではないちゃんとした法案で、解釈ではなくきちんと議論した上で決まるのが望ましいですが、アメリカとしては成立してもらったほうがとりあえずはアメリカの国益に叶うわけです。

しかしそれもあくまで米国と同じ価値観に立った上での話です。ところが、安倍政権はその米国の国益を離れて「戦後リジームからの脱却」を謳い、第二次大戦後の民主主義世界の成り立ちを否定するような憲法改変など「右翼の大義」に軸足を移してきた。

今すべての世界はじつは日本だけではなく、あの第二次世界大戦後の善悪の考え方基本のうえに成立しています。何がよくて何が悪いかを、そうやってみんなで決めたわけで、現在の民主主義世界はそうやって出来上がっているわけです。それが虚構であろうが何であろうが、共同幻想なんてみんなそんなものです。そうやって、その中の悪の筆頭はナチス・ファシズムだと決めた。だから日本でも戦犯なんてものを作り上げて逆の意味で祀りあげたのです。そうしなければここに至らなかったのです。それが「戦後レジーム」です。なのにそれからの「脱却」? 何それ? アメリカだけがこれに喫驚しているのではありません。EUも、あのプーチンのロシアまでがそこを論難した。その文言はまさに「日本の一部勢力は、第2次大戦の結果をめぐり、世界の共通理解に反する評価をしている」(12/26ロシア・ルカシェビッチ情報局長)。安倍首相はここじゃもう「日本の一部勢力」扱いです。

なぜなら、今回の靖国参拝に限ったことではなく、繰り返しますが、すでに安倍首相は歴史修正主義者のレッテルが貼られていた上で、その証左としてかのように靖国参拝を敢行したからです。そうとして見えませんものね。だからこそそれは東アジアの安定にとっての脅威になり、だからこそアメリカは「disappointed」というきつい単語を選んだ。

何をアメリカがエラそうに、と思うでしょうね。私も思います。

でも、アメリカはエラそうなんじゃありません。エラいんです。なぜなら、さっきも言ったように、アメリカは現在の「戦後レジーム」の世界秩序の守護者だからです。主体だからです。そのために金を出し命を差し出してきた。もちろんそれはその上に君臨するアメリカという国に累が及ばないようにするためですし、とんでもなくひどいことを世界中にやってきていますが、とにかくこの「秩序」を頑に守ろうとしているそんな国は他にないですからね。そして曲がりなりにも日本こそがその尻馬に乗ってここまで戦後復興してきたのです。日本にとってもアメリカは溜息が出るくらいエラいんです。それは事実として厳然とある。

それはNYタイムズが26日付けの論説記事を「日本の軍事的冒険は米国の支持があって初めて可能になる」というさりげない恫喝で結んでいることでも明らかです(凄い、というか凄味ビシバシ。ひー)。そういうことなのです。それに取って代わるためには、単なるアナクロなんかでは絶対にできません。そもそもアメリカに取って代わるべきかが問題ですが、独立国として存在するためには、そういうアナクロでないやり方がたくさんあるはずです。

それは何か、真っ当な民主主義の平和国家ですよ。世界に貢献したいなら、それは警察としてではなく、消防士としてです。アナクロなマチズム国家ではない、ジェンダーを越えた消防国家です。そうずっと独りで言い続けているんですけど。

いまアメリカは安倍政権に対する態度の岐路に立っているように見えます。「日本を取り戻す」のその「取り戻す日本」がどんな日本なのか、アメリカにとっての恩恵よりも齟齬が大きくなったとき、さて、エラいアメリカは安倍政権をどうするのでしょうか。

October 03, 2013

靖国とアーリントンと千鳥ヶ淵と

しかし安倍政権もよほどオバマ政権に嫌われたものです。この前のエントリーでも安倍さんのハドソン研究所講演などにおける米民主党との疎遠ぶりに触れましたが、今度は日米外務・防衛担当閣僚会議に訪日したケリー国務長官とヘーゲル国防長官が、10月3日のその会議の朝に、わざわざ千鳥ヶ淵の戦没者墓苑を訪れ、献花・黙祷したのです。

米国の大臣が2人そろって日本人戦没者を追悼する──この異例の弔意表敬は何を意味しているのでしょう?

これには伏線がありました。安倍が今年5月の訪米に際して外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」のインタビューでバージニア州にあるアーリントン国立墓地を引き合いに出し「靖国はアーリントンだ」という論理を開陳したのです。

「靖国神社についてはどうぞ、アメリカのアーリントン国立墓地での戦没者への追悼を考えてみてください。アメリカの歴代大統領はみなこの墓地にお参りをします。日本の首相として私も(そこを)訪れ、弔意を表しました。しかしジョージタウン大学のケビン・ドーク教授によれば、アーリントン国立墓地には南北戦争で戦死した南軍将兵の霊も納められているそうです。その墓地にお参りをすることは、それら南軍将兵の霊に弔意を表し、(彼らが守ろうとして戦った)奴隷制を認めることを意味はしないでしょう。私は靖国についても同じことが言えると思います。靖国には自国に奉仕して、命を失った人たちの霊が祀られているのです」

このケビン・ドーク教授のくだりは産經新聞への寄稿からの引用で、産経の古森のオジチャマも「靖国参拝問題で本紙に寄稿したジョージタウン大学のケビン・ドーク教授が『アーリントン墓地には奴隷制を守るために戦った南軍将兵の遺体も埋葬されているが、そこに弔意を表しても奴隷制の礼賛にはならない』と比喩的に指摘したことに触発され、初めて南軍将兵の墓を訪れてみたのだった」とコラム(2006年05月31日 産経新聞 東京朝刊 国際面)で触れているから、おそらくそれを読んでの引き合いだったのでしょう。

例によって古森のオジチャマはフォーリン・アフェアーズ記者への安倍の回答を、自分のコラムを読んでくれていたせいか「なかなか鋭い答えだと思います」と賞賛しています。

ですが今回、日本の首相たちのアーリントン墓地表敬訪問の返礼として、オバマ政権が選んだ場所はその「靖国」ではありませんでした。千鳥ヶ淵だったのです。これはつまり日本で「アーリントン」に相当するのは「靖国ではない」ということを暗に、かつ具体的に示したのです。かなりきつい当てつけです。普通の読解力があれば、これは相当に苦々しいしっぺ返しです。

アメリカとしては、東アジアでキナ臭いことが起きたら大変なのです。にもかかわらず相も変わらず中韓を刺激するようなことばかりする安倍内閣というのは何なのかと呆れている。安倍さんは民主党政権でぐちゃぐちゃになったアメリカとの関係を「取り戻す」と、これも自らの宣伝コピーとともに宣言してきましたが、「取り戻せた」と自賛するほどにはまったく至っていないのは自分でも知っているはず。

同時に千鳥ヶ淵献花はかつての敵国である米国による日本との完全な和解の象徴でもあります。いま敵対している中国や韓国との関係をも、このように敬意を示して和解に持っていけよ、というオバマ政権からのメッセージだと読めなくもありません。

「完全な和解の象徴」と書きましたが、じつはその「完全」にはきっと次があります。それは核廃絶を謳ってノーベル平和賞を受賞したオバマさんが広島に行くことです。

米国はイランや北朝鮮の核開発を認めるわけにはいきません。テロリストに核爆弾が渡るのも流血を厭わず阻止し続ける。その強硬一本の姿勢とともに、彼はヒロシマ献花という平和の象徴的なメッセージを世界に振りまく戦略を考えているのではないか。

折りも折り、日本の大使には「叔父(エドワード・ケネディ)とともに1978年に広島に訪れて深く影響を受けた」と承認のための上院公聴会でわざわざ話したキャロライン・ケネディがまもなく赴任します。大統領の広島記念式典への出席には米国内でいろいろと異論も多いのですが、天下の「ケネディ」とともに出席すればその批判も出にくくなるでしょう。

来年の8月、あるいは選挙もない任期最後の2015年8月に、私は今回のケリーとヘーゲルのように2人並んで広島で献花するオバマとケネディの姿が目に見えるような気がするのですが、ま、そんな先のこと、今から確定するはずもありませんけどね。

September 27, 2013

アベノミス

NY訪問を終える安倍首相のフェイスブックのページに「安倍政権の目指す方向を世界に発信できた有意義な出張でした」と書き込まれていました。「発信」といっても報じたのは日本のメディアで、アメリカではほとんど触れられていませんでしたが。

「発信」は今回、ハドソン研究所、ウォールストリートの証券取引所、そして国連総会での3つの演説でした。この中にオバマ政権との接触はありませんでした。

ハドソン研究所というのは限定核戦争を肯定したり核戦争下での民間防衛のあり方を論じたりしたタカ派の軍事理論家ハーマン・カーンの創設したシンクタンクです。もちろんここは共和党と親和性が高い。ちなみにこのカーンさん、あの名高い映画『博士の奇妙な愛情』の主人公ドクター・ストレンジラヴのモデルなんです。

もっとも、ここでの講演は安倍さんがそのカーンの名を冠した賞を授与された記念講演でした。同賞歴代受賞者はレーガンやキッシンジャー、そして前副大統領のチェイニーらほぼ共和党系。そんなところで「私を右翼の軍国主義者と呼びたければ呼んでください」とやればもちろんそれは受けるでしょう。けれど東アジアの、特に日中の緊張関係にヒヤヒヤしているオバマ政権はどう思うでしょう。それでなくとも安倍さんを「右翼の国粋主義者」として距離を置いているオバマ民主党です。中国を意識して言い返したつもりの先の決め言葉は、彼らには当てこすりと聞こえたに違いありません。

そして証券取引所でのスピーチでした。私はこれにも「おや?」と思いました。安倍さん、出だしで「ウォール街──この名前を聞くとマイケル・ダグラス演じるゴードン・ゲッコーを思い出す」とやったんですね。

この映画、オリバー・ストーンが監督で徹底してウォール街の嘘とごまかしと裏切りとインサイダー取引とマネーゲームのひどさとを描いたものです。そしてゲッコーこそがウォール街を具現する悪役なのです。それを思い出すと言うとは、安倍さんは金融マンたちを目の前にして皮肉をかましたんでしょうか?

彼はまだ続けます。「今日は皆さんに、日本がもう一度儲かる国になる、23年の時を経てゴードンが金融界にカムバックしたように『Japan is back』だということをお話しするためにやってきました」。そして「ゴードン・ゲッコー風に申し上げれば、世界経済回復のためには3語で十分です。『Buy my Abenomics』」と……。

映画の続編で、慕ってくる青年にゲッコーが「Buy my book」つまりオレの本を買えばわかると言ったことに引っ掛けたわけですが、ゲッコーはその続編でも手痛いしっぺ返しを食らうのです。その文脈に沿えば、アベノミクスはしっぺ返しを食らう運命にあるってことの隠喩でしょ? これって自虐ジョークじゃないですか?

終始ヤンキーズやイチローやバレンティンや寿司の話などアメリカ人の好きそうなエピソード満載のスピーチで、安倍さんはとても得意げだったのですが、私は逆に微妙な違和感を持ちました。演説の〆で、この演説の悪ノリの印象は決定的になりました。

安倍さんは五輪開催を決めた日本に触れます。そこでヤンキーズのリベラ投手のテーマ曲を持ち出し(リベラはこの演説の翌日が引退試合でした)「日本は再び7年後に向けて大いなる高揚感の中にあります。それはヤンキースタジアムにメタリカの『Enter Sandman』が鳴り響くがごとくです」とやったんです。

でもこのヘビメタ曲、敵チームに対し、リベラが出てきたから「もうお前たちは眠りにつくしかない」と敗戦を言い渡す歌なんですよ。サンドマンというのはまさにその「眠りの精」こととなんですから。東京五輪に来る人たちに「さあ、おまえらはこれからやっつけられるんだぞ」と言うのは、それは大変失礼というもんじゃないでしょうか。

巷間なかなか評価の高い安倍さんのスピーチライターは元日経ビジネスの記者だった谷口智彦内閣審議官なのですが、安倍さん、本当にこのメタリカってヘビメタバンド、知ってるんでしょうかね。どこからどこまでが安倍さんのナマの言葉で、どこからどこまでが谷口さんの入れ知恵かはわからないのですが、いずれにしてもその比喩の原義の取り違えと文脈の無視、私には詰めの甘いミスとしか思えなかったのです。

September 03, 2013

孫子の兵法

シリアの首都ダマスカス近郊で毒ガス兵器による死者が1429人も出て(うち426人が子供だとケリー国務長官は言っています)、これを見逃すことは国際社会としてタブーである化学兵器、ひいてはイランや北朝鮮の核兵器開発をも見逃すという誤ったメッセージになる──これがオバマ大統領がシリア政府を攻撃しようとしている理由です。

もちろんこれ以上の一般市民の犠牲を防ぐという人道的な背景もありましょう。ですが国際的な軍事モラルとバランスの維持というのがアメリカにとっての第一の国益なのです。ええ、その「モラル」も「バランス」もアメリカにとっての、というのが国益の国益たる所以ですが、毒ガス兵器がむやみにテロリストやマフィアや犯罪組織に渡ったりするのは確かにまずい。

なのでシリアは(懲罰的にも、国際的な見せしめとして)叩かねばならない、というのが米政権の論理です。ところがアラブの春以来のこの2年半でシリアは内戦状態になり、しかも情勢は政府vs反政府勢力という単純な構図ではなくなっています。日本人ジャーナリストの山本美香さんも昨年8月、そんな混乱の中で政府軍に射殺されました。

反政府勢力の中にも民主化を求める市民勢力やアルカイダ系のイスラム原理主義集団、ジハード主義集団などが入り乱れていて、さらにそこにイランやロシアといった政府支援国、レバノンのヒズボラの参戦やトルコ、イスラエルといった敵対隣国の事情も絡み、国際社会もどう手をつけてよいかわからないのが現状です。

例えばオバマがトマホークを射ち込んで、シリア政府はどうするでしょう。シリアはロシアから地対空ミサイル防衛システムももらっています。報復としてアメリカではなくその同盟国のイスラエルにロシア製のスカッドミサイルを射ち込むということは大いに考えられます。その場合、それがまた化学兵器だったらそこから大変な戦端が開かれる恐れもあります。それを合図にレバノンもまたイスラエルを攻撃するでしょう。イスラエルはすでにそれに備えて「アイアン・ドーム」と呼ばれる防空システムを配備しています。アサド政権の後ろに控えるイランやロシアも黙ってはいないでしょう。アメリカではいま、サイバー・パールハーバー(コンピュータ戦争における真珠湾攻撃)も懸念されています。1週間前にニューヨークタイムズのサイトがハッキングされたのもシリア関連の攻撃だと言われているのです。なにより、個人の持ち込む兵器によるアメリカ本土でのテロも怖い。そんなことになる前にまずロシアと米国の反目が激化します。ロシアが動けばアメリカのソチ五輪ボイコットという事態もあるでしょう。

そしてそれらは、さらに先の、「ひいての」アメリカの国益につながるのだろうか?

その問題がオバマが今回の軍事介入をあくまで「限定的なもの」で「アサド政権の打倒を目指すものではない」として、慎重である理由です。トマホークを射ち込んでも次にどうなるのかが見えない。この軍事介入には「Bad ひどい」か「Worse よりひどい」か「Horrible とんでもなくひどい」の3つの選択肢しかないと言われる理由です。進むも地獄、進まぬも地獄……。

そこでオバマ政権の国防安保チームが知恵を絞ったのが今回の「軍事介入に当たって議会の承認を求める」でした。もちろん前週に英国議会がキャメロン内閣の軍事介入方針を否決した影響もあります。ただこれでオバマは、ブッシュのように猪突猛進はしないと宣言できました。なにせイラクもアフガンもリビアも、米国が軍事介入してうまく行った例はベトナム以降皆無なのですから、ノーベル平和賞受賞者としては1人で勝手にミサイルは射てません。でもこれで軍事介入の責任を議会にも分散させられる。リベラルの大統領としてはアリバイができる。

しかしその一方で東地中海のシリア沖に展開している5隻の駆逐艦、400基以上のトマホークはいまも待機状態で、いつ何時でも有事の際には攻撃できるようになっています。声明でも「司令官から常時報告を受けている。攻撃はいつでも可能。攻撃は一刻を争うもの(タイムセンシティヴ)ではなく、明日でも来週でも1カ月後でも有効だ」と断言しています。議会承認を求めると言う前にオバマがまずは「私は軍事介入を決心した」と明言したことも忘れてはいけません。

これはシリア政府に向けた恫喝です。アメリカの大統領は議会の承認を経ずに宣戦布告して60日間の軍事行動をとれます。つまり、議会の承認を求めるとは言ったものの、シリア政府軍に何か新たに不穏な動きがある際は火急の対応として攻撃できるんだ、とシリア側に宣告しているわけです。

これではシリア軍はなにもできません。いまシリアの司令本部や通信施設は攻撃を予測して移動し仮の状態です。兵器や部隊も分散させてシリア軍はいま本来の力を出せません。それが続く。つまり攻撃しないでも、軍事行動をとったに似た効果をもたらしている。これは孫子の兵法でいう「戦わずして人の兵を屈するは善の善」です。

もっともそれもかりそめのものです。9日以降の議会の承認審議は大揉めに揉めるでしょう。米国民の世論だって軍事介入にはもう乗り気ではない。もちろん介入が否決されてもオバマ大統領は次のシリアの出方でそれはまた変えることはできます。結局はやはり軍事介入、ということになる可能性も高い。シリア国内でも、アメリカの介入を求める人々が多く存在します。介入を求めない人々も多くいます。国際的にも賛否は真っ二つです。なにもしないでよいのかという人道的な憤りも加わって、アサド政権の非道さへの批判は高まる一方です。

しかし結局軍事介入することになっても、「その後」がわからないのはそのときも変わらないのです。そんなことも考えずに、アメリカよりも先に「アサド退陣」を求め、アメリカ国民よりも先に「アメリカ支持」方針を早々と打ち出してしまっている日本の安倍政権の不見識を、とても恥ずかしく思います。

July 24, 2013

ロシアの反ゲイ弾圧

ニューヨークタイムズ22日付けに、ハーヴィー・ファイアスティンの寄稿が掲載されました。
プーチンのロシアの反LGBT政策を非難して、行動を起こさずにあと半年後のソチ冬季五輪に参加することは、世界各国が1936年のドイツ五輪にヒットラーのユダヤ人政策に反発せずに参加したのと同じ愚挙だと指摘しています。

http://www.nytimes.com/2013/07/22/opinion/russias-anti-gay-crackdown.html?smid=fb-share&_r=0

以下、全文を翻訳しておきます。

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Russia’s Anti-Gay Crackdown
ロシアの反ゲイ弾圧
By HARVEY FIERSTEIN
ハーヴィー・ファイアスティン

Published: July 21, 2013


RUSSIA’S president, Vladimir V. Putin, has declared war on homosexuals. So far, the world has mostly been silent.
ロシアの大統領ウラジミル・プーチンが同性愛者たちに対する戦争を宣言した。いまのところ、世界はほとんどが沈黙している。

On July 3, Mr. Putin signed a law banning the adoption of Russian-born children not only to gay couples but also to any couple or single parent living in any country where marriage equality exists in any form.
7月3日、プーチン氏はロシアで生まれた子供たちを、ゲイ・カップルばかりか形式がどうであろうととにかく結婚の平等権が存在する【訳注:同性カップルでも結婚できる】国のいかなるカップルにも、または親になりたい個人にも、養子に出すことを禁ずる法律に署名した。

A few days earlier, just six months before Russia hosts the 2014 Winter Games, Mr. Putin signed a law allowing police officers to arrest tourists and foreign nationals they suspect of being homosexual, lesbian or “pro-gay” and detain them for up to 14 days. Contrary to what the International Olympic Committee says, the law could mean that any Olympic athlete, trainer, reporter, family member or fan who is gay — or suspected of being gay, or just accused of being gay — can go to jail.
その数日前には、それはロシアが2014年冬季オリンピックを主催するちょうど半年前に当たる日だったが、プーチン氏は警察官が同性愛者、レズビアンあるいは「親ゲイ」と彼らが疑う観光客や外国国籍の者を逮捕でき、最長14日間拘束できるとする法律にも署名した。国際オリンピック委員会が言っていることとは逆に、この法律はゲイである──あるいはゲイと疑われたり、単にゲイだと名指しされたりした──いかなるオリンピック選手やトレイナーや報道記者や同行家族やファンたちもまた監獄に行く可能性があるということだ。

Earlier in June, Mr. Putin signed yet another antigay bill, classifying “homosexual propaganda” as pornography. The law is broad and vague, so that any teacher who tells students that homosexuality is not evil, any parents who tell their child that homosexuality is normal, or anyone who makes pro-gay statements deemed accessible to someone underage is now subject to arrest and fines. Even a judge, lawyer or lawmaker cannot publicly argue for tolerance without the threat of punishment.
それより先の6月、プーチン氏はさらに別の反ゲイ法にも署名した。「同性愛の普及活動(homosexual propaganda)」をポルノと同じように分類する法律だ。この法は範囲が広く曖昧なので、生徒たちに同性愛は邪悪なことではないと話す先生たち、自分の子供に同性愛は普通のことだと伝える親たち、あるいはゲイへの支持を伝える表現を未成年の誰かに届くと思われる方法や場所で行った者たちなら誰でもが、いまや逮捕と罰金の対象になったのである。判事や弁護士や議会議員でさえも、処罰される怖れなくそれらへの寛容をおおやけに議論することさえできない。

Finally, it is rumored that Mr. Putin is about to sign an edict that would remove children from their own families if the parents are either gay or lesbian or suspected of being gay or lesbian. The police would have the authority to remove children from adoptive homes as well as from their own biological parents.
あろうことか、プーチン氏は親がゲイやレズビアンだったりもしくはそうと疑われる場合にもその子供を彼ら自身の家族から引き離すようにする大統領令に署名するという話もあるのだ。その場合、警察は子供たちをその産みの親からと同じく、養子先の家族からも引き離すことのできる権限を持つことになる。

Not surprisingly, some gay and lesbian families are already beginning to plan their escapes from Russia.
すでにいくつかのゲイやレズビアンの家族がロシアから逃れることを計画し始めているというのも驚くことではない。

Why is Mr. Putin so determined to criminalize homosexuality? He has defended his actions by saying that the Russian birthrate is diminishing and that Russian families as a whole are in danger of decline. That may be. But if that is truly his concern, he should be embracing gay and lesbian couples who, in my world, are breeding like proverbial bunnies. These days I rarely meet a gay couple who aren’t raising children.
なぜにプーチン氏はかくも決然と同性愛を犯罪化しているのだろうか? 自らの行動を彼は、ロシアの出生率が低下していてロシアの家族そのものが衰退しているからだと言って弁護している。そうかもしれない。しかしそれが本当に彼の心配事であるなら、彼はゲイやレズビアンのカップルをもっと大事に扱うべきなのだ。なぜなら、私に言わせれば彼らはまるでことわざにあるウサギたちのように子沢山なのだから。このところ、子供を育てていないゲイ・カップルを私はほとんど見たことがない。

And if Mr. Putin thinks he is protecting heterosexual marriage by denying us the same unions, he hasn’t kept up with the research. Studies from San Diego State University compared homosexual civil unions and heterosexual marriages in Vermont and found that the same-sex relationships demonstrate higher levels of satisfaction, sexual fulfillment and happiness. (Vermont legalized same-sex marriages in 2009, after the study was completed.)
それにもしプーチン氏が私たちの同種の結びつきを否定することで異性婚を守っているのだと思っているのなら、彼は研究結果というものを見ていないのだ。州立サンディエゴ大学の研究ではヴァーモント州での同性愛者たちのシヴィル・ユニオンと異性愛者たちの結婚を比較して同性間の絆のほうが満足感や性的充足感、幸福感においてより高い度合いを示した。(ヴァーモントはこの研究がなされた後の2009年に同性婚を合法化している)

Mr. Putin also says that his adoption ban was enacted to protect children from pedophiles. Once again the research does not support the homophobic rhetoric. About 90 percent of pedophiles are heterosexual men.
プーチン氏はまた彼の養子禁止法は小児性愛者から子供たちを守るために施行されると言っている。ここでも研究結果は彼のホモフォビックな言辞を支持していない。小児性愛者の約90%は異性愛の男性なのだ。

Mr. Putin’s true motives lie elsewhere. Historically this kind of scapegoating is used by politicians to solidify their bases and draw attention away from their failing policies, and no doubt this is what’s happening in Russia. Counting on the natural backlash against the success of marriage equality around the world and recruiting support from conservative religious organizations, Mr. Putin has sallied forth into this battle, figuring that the only opposition he will face will come from the left, his favorite boogeyman.
プーチン氏の本当の動機は他のところにある。歴史的に、この種のスケープゴートは政治家たちによって自分たちの基盤を固めるために、そして自分たちの失敗しつつある政策から目を逸らすために用いられる。ロシアで起きていることもまさに疑いなくこれなのだ。世界中で成功している結婚の平等に対する自然な大衆の反感に頼り、保守的な宗教組織からの支持を獲得するために、プーチン氏はこの戦場に反撃に出た。ゆいいつ直面する反対は、彼の大好きな大衆の敵、左派からのものだけだろうと踏んで。

Mr. Putin’s campaign against lesbian, gay and bisexual people is one of distraction, a strategy of demonizing a minority for political gain taken straight from the Nazi playbook. Can we allow this war against human rights to go unanswered? Although Mr. Putin may think he can control his creation, history proves he cannot: his condemnations are permission to commit violence against gays and lesbians. Last week a young gay man was murdered in the city of Volgograd. He was beaten, his body violated with beer bottles, his clothing set on fire, his head crushed with a rock. This is most likely just the beginning.
レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルの人々に対するプーチン氏の敵対運動は政治的失敗から注意を逸らすためのそれであり、政治的利得のためにナチの作戦本からそのまま採ってきた少数者の魔女狩り戦略なのだ。私たちは人権に対するこの戦争に関してなにも答えないままでいてよいのだろうか? プーチン氏は自らの創造物は自分でコントロールできると考えているかもしれないが、歴史はそれが間違いであることを証明している。彼の非難宣告はゲイやレズビアンたちへの暴力の容認となる。先週、州都ヴォルゴグラードで1人の若いゲイ男性が殺された。彼は殴打され、ビール瓶で犯され、衣服には火がつけられ、頭部は岩でつぶされていた。これは単なる始まりでしかないと思われる。

Nevertheless, the rest of the world remains almost completely ignorant of Mr. Putin’s agenda. His adoption restrictions have received some attention, but it has been largely limited to people involved in international adoptions.
にもかかわらず、そのほかの世界はほとんど完全にこのプーチン氏の政治的意図に関して無関心のままだ。彼の養子制限はいくらか関心を引いたが、それもだいたいは国際養子縁組に関係している人々に限られている。

This must change. With Russia about to hold the Winter Games in Sochi, the country is open to pressure. American and world leaders must speak out against Mr. Putin’s attacks and the violence they foster. The Olympic Committee must demand the retraction of these laws under threat of boycott.
この状況は変わらねばならない。ロシアはいまソチで冬季オリンピックを開催しようとしている。つまりこの国は国際圧力にさらされているのだ。アメリカや世界の指導者たちはプーチン氏の攻撃と彼らの抱く暴力とにはっきりと反対を唱えなければならない。オリンピック委員会は五輪ボイコットを掲げてこれらの法律の撤回を求めなければならない。

In 1936 the world attended the Olympics in Germany. Few participants said a word about Hitler’s campaign against the Jews. Supporters of that decision point proudly to the triumph of Jesse Owens, while I point with dread to the Holocaust and world war. There is a price for tolerating intolerance.
1936年、世界はドイツでのオリンピックに参加した。ユダヤ人に対するヒトラーの敵対運動に関して何か発言した人はわずかしかいなかった。参加決定を支持する人たちは誇らしげにジェシー・オーウェンズ【訳注:ベルリン五輪で陸上四冠を達成した黒人選手】の勝利のことを言挙げするが、私は恐怖とともにそれに続くホロコーストと世界大戦のことを問題にしたい。不寛容に対して寛容であれば、その代償はいつか払うことになる。

Harvey Fierstein is an actor and playwright.
ハーヴィー・ファイアスティんは俳優であり劇作家。

June 10, 2013

テロ戦争の代償

「テロ戦争」の根幹が揺れています。情報こそすべての現代のテロ対策で、オバマ政権で引き継がれているPRISM(プリズム)と呼ばれる秘密の大規模国内監視プログラムが暴かれました。国家安全保障局(NSA)がネットや通信の大手企業中央サーバなどにアクセスして個人データや通話履歴を収集保存しているというのです。まるでオーウェルの「ビッグブラザー」の世界。

オバマは演説では理想主義者で人道主義者です。しかし今現在のことに関してはかなりシビアに対処するようで、理想の未来を語る一方でそのためにいまやれることは徹底してやる。司法手続きを踏まないグァンタナモ刑務所での無期限拘束や尋問もそうです。

今回のPRISMに関してもオバマは「100%の安全と100%のプライバシーと0%の不都合とを同時に手にすることはできない。社会としては何らかの選択をしなくてはならないのだ」として悪びれることがありません。09年のニューヨーク地下鉄爆破テロ計画は電話履歴の捜査によって回避できたというのですから、背に腹は代えられないのは確かなのですが。

多くの民間人犠牲者を出しながらも拡大する一方の無人機(ドローン)攻撃もそうです。

10年前には50機にも満たなかった米軍の無人機は現在、機数だけで言えば7000機と、軍所有の航空機の40%以上を占めるようになりました。米軍がこれまでの無人機攻撃で殺害した人々は主にパキスタン、イエメン、アフガニスタンなどで今年2月時点で計4700人とも言われています。

私はこの無人機が「戦争」の仕方を変えつつあると思っています。スピルバーグが「プライベート・ライアン」で描いたノルマンディ上陸作戦のような、ああいう多大な人命を犠牲にする揚陸強襲作戦というのはもうあり得なくなっています。

どうするかというと、緻密な(あるいは大雑把でもいいから)敵側情報を分析し、最初から最後まで無人機攻撃で叩く。実際の人間を投入するのは最後の最後だけ。味方の人的被害はこれで最小限に抑えられます。

しかしなにしろ1万キロ以上離れたネバダの砂漠の空軍基地からの遠隔操縦です。どういうことが起きるかというと、殺害した4700人のうち、テロ組織の首脳たちは全体の死者のわずか2%でしかないとされています。パキスタンでは3000人ほどが殺されているのですが、最大でうち900人近くがテロとは無関係の一般市民とも言われます。

それだけではありません。味方にだって取り返しの付かない傷が残る。先日、NBCが引退した無人機攻撃の27歳の遠隔操作官のインタビューを放送しました。彼は退任時に「これまであなたの参加した作戦で殺害した人員は推計1626人」という証明書を渡されたそうです。

「アフガニスタンで道を歩く3人の標的に向けてミサイルを2発撃ったことがあった。コンピュータには熱感知映像が映っている。熱い血だまりが広がっていくのが見えた。1人の男は前に行こうとしている。でも右足がなくなっている。彼は倒れ動かなくなる。血が広がり、それは冷えていってやがて地面の温度と同じ色になる」「いまでも目をつぶれば僕にはそのスクリーンの小さなピクセルの一つ一つが見える」「そして、彼らが実際に殺害すべきタリバンのメンバーだったのかどうかは、いまもわからない」「自分に吐き気がするんだ、本当に」

彼はいまPSTDに苛まれています。突発的な怒りの発作、不眠、そして記憶を失うほどの酒浸り。「背に腹は代えられない」と先ほど書きましたが、その結果もまた地獄なのです。

June 01, 2013

2013年プライド月間

私が高校生とか大学生のときには、それは1970年代だったのですが、今で言うLGBTに関する情報などほとんど無きに等しいものでした。日本の同性愛雑誌の草分けとされる「薔薇族」が創刊されたのは71年のことでしたが、当時は男性同性愛者には「ブルーボーイ」とか「ゲイボーイ」とか「オカマ」といった蔑称しかなくて、そこに「ホモ」という〝英語〟っぽい新しい言葉が入ってきました。今では侮蔑語とされる「ホモ」も、当時はまだそういうスティグマ(汚名)を塗り付けられていない中立的な言葉として歓迎されていました。

70年代と言えばニューヨークで「ストーンウォールの暴動」が起きてまだ間もないころでした。もちろんそんなことが起きたなんてことも日本人の私はまったく知りませんでした。なにしろ報道などされなかったのですから。もっともニューヨークですら、ストーンウォールの騒ぎがあったことがニュースになったのは1週間も後になってからです。それくらい「ホモ」たちのことなんかどうでもよかった。なぜなら、彼らはすべて性的倒錯者、異常な例外者だったのですから。

ちなみに私が「ストーンウォール」のことを知ったのは80年代後半のことです。すでに私は新聞記者をしていました。新聞社にはどの社にも「資料室」というのがあって、それこそ明治時代からの膨大な新聞記事の切り抜きが台紙に貼られ、分野別、年代別にびっしりと引き出しにしまわれ保存されていました。その後90年代に入ってそれらはどんどんコンピュータに取り込まれて検索もあっという間にできるようになったのですが、もちろんその資料室にもストーンウォールもゲイの人権運動の記録も皆無でした。

そのころ、アメリカのゲイたちはエイズとの勇敢な死闘を続けていました。インターネットもない時代です。その情報すら日本語で紹介されるときにはホモフォビアにひどく歪められ薄汚く書き換えられていました。私はどうにかアメリカのゲイたちの真剣でひたむきな生への渇望をそのまま忠実に日本のゲイたちにも知らせたいと思っていました。

私がアメリカではこうだ、欧州では、先進国ではこうだ、と書くのは日本との比較をして日本はひどい、日本は遅れている、日本はダメだ、と単に自虐的に強調したいからではありません。日本で苦しんでいる人、虐げられている人に、この世には違う世界がある、捨てたもんじゃない、と知らせたいからです。17歳の私はそれで生き延びたからです。

17歳のとき、祖父母のボディガード兼通訳でアメリカとカナダを旅行しました。旅程も最後になり、バンクーバーのホテルからひとり夕方散歩に出かけたときです。ホテルを出たところで男女数人が、5〜6人でしたでしょうか、何かプラカードを持ってビラを配っていたのです。プラカードには「ゲイ・リベレーション・フロント(ゲイ解放戦線)」と書いてありました。手渡されたビラには──高校2年生の私には書いてある英語のすべてを理解することはできませんでした。

私はドキドキしていました。なにせ、生身のゲイたちを見るのはそれが生まれて初めてでしたから。いえ、ゲイバーの「ゲイボーイ」は見たことがあったし、その旅行にはご丁寧にロサンゼルスでの女装ショーも組み込まれていました。でも、普通の路上で、普通の格好をした、普通の人で、しかも「自由」のために戦っているらしきゲイを見るのは初めてだったのです。

私はその後、そのビラの数十行ほどの英語を辞書で徹底的に調べて何度も舐めるほど読みました。そのヘッドラインにはこう書かれてありました。

「Struggle to Live and Love」、生きて愛するための戦い。

私の知らなかったところで、頑張っている人たちのいる世界がある。それは素晴らしい希望でした。そのころ、6月という月がアメリカ大統領の祝福する「プライド月間」になろうとも想像だにしていませんでした。

オバマが今年もまた「LGBTプライド月間」の宣言を発表しました。それにはこうあります。

「自由と平等の理想を持続する現実に変えるために、レズビアンとゲイとバイセクシュアルとトランスジェンダーのアメリカ国民およびその同盟者たちはストーンウォールの客たちから米軍の兵士たちまで、その歴史の次の偉大な章を懸命に書き続けてきた」「LGBTの平等への支持はそれを理解する世代によって拡大中だ。キング牧師の言葉のように『どこかの場所での不正義は、すべての場所での正義にとって脅威』なのだ」。この全文は日本語訳されて米大使館のサイトにも掲載されるはずです。

この世は、捨てるにはもったいない。今月はアメリカの同性婚に連邦最高裁判所の一定の判断が出ます。今それは日本でもおおっぴらに大ニュースになるのです。思えばずいぶんと時間が必要でした。でも、それは確実にやってくるのです。

February 26, 2013

アメリカ詣で

オバマ大統領にとって5人目の日本の首相が就任後の挨拶回りにやってきました。訪米前から日本側はメディアの報道も含めてTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉への参加問題こそが今回の首脳会談の主要テーマとしていましたが、それは結局はTPP参加に進むと心に決めている安倍がいかにオバマから「聖域あり」との(参院選に向けた、自民党の大票田であるコメ農家の反対をなだめるための)言質を引き出すかといった、安倍側のみの事情であって、米国側にとってはとにかくそんなのは参加を決めてくれない限り主要問題にもなりはしない、といったところでした。

その証拠に、首脳会談の最初の議題は東アジアの安全保障問題だったのです。TPPはその後のランチョンでの話題でした。

東アジアの安全保障とはもちろん北朝鮮の核開発の問題であり、そのための日韓や日中関係の安定化のことです。とにかく財政逼迫のアメリカとしては東アジアで何か有事が発生するのは死活問題です。しかも米側メディアは安倍晋三のことを必ず「右翼の」という形容詞付きで記事にする。英エコノミストも「国家主義的な日本の政権はアジアで最も不要なもの」と新年早々にこき下ろしました。NYタイムズも「この11年で初めて軍事予算を増やす内閣」と警戒を触れ回ります。同紙は河野談話の見直しなど従軍慰安婦問題でも「またまた自国の歴史を否定しようとする」と批判しており、米国政府としても竹島や尖閣問題で安倍がどう中韓を刺激するのか気が気ではない。まずはそこを押さえる、というか釘を刺しておかないことには話が進まなかった。

会談では冒頭、オバマの質問に応える形で安倍がかなり安保や領有問題に関して持論を展開したようではありますが、中国との均衡関係も重視するアメリカは尖閣の領有権問題では踏み込んだ日本支持を表明しなかったのです。なぜなら中国は単に米国にとっての最大の貿易相手というだけでなく、北朝鮮を押さえ込むための戦略的パートナーであり、さらにはイランやシリアと行った遠い中東での外交戦略にも必要な連携相手なわけですから。ただ、この点に関しては安倍自身も夏の参院選が終わるまではタカのツメを極力隠すつもりですから、結果的にはそれはいまのところは米国の希望と合致した形になって、今回の首脳会談でも大きな齟齬は表に出はしなかった。しかしそれがいつまで続くのかは、わからないのです。安倍は、アメリカにはかなり危ないやつなのです。

読売などの報道では日本政府筋は概ねこの会談を「成功」と評価したようですが、ほんとうにそうなのでしょうか。アメリカにとっては単に「釘を刺す」という意味で会談した理由があった、という程度です。メディアも「警戒」記事がほとんどで成果などどこも書いていません。そもそもここまで慣例的になっているものを「成功」と言ったところでそれに大した意味はありません。もし今回の日本側の言う「成功」が何らかの意味を持つとしたら、それは唯一TPP交渉参加に関して「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ約束することを求められるものではない」という共同声明をギリギリになって発表できたということに尽きます。

しかしこの日本語はひどい。一回聞いてもわからないでしょう? 安倍や石原らが「翻訳調の悪文」として“改正”しようとしている憲法前文よりもはるかにひどい。「一方的に」「全ての」「あらかじめ」「約束」「求められる」と、条件が5つも付いて、「関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に全ての関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ求められるものではない」でもありません。その「約束」を「求められるものではない」という五重の外堀に守られて、誰も否定はしないような仕掛け。それを示された米側が、しょうがねえなあ、と苦笑する姿が目に見えるようです。

これは国際的には何の意味もありません。ただただ日本国内および自民党内のTPP反対派に示すためだけに安倍と官僚たちが捩じ込んだ作文です。現に米国の報道は日本での「成功」報道とはまったく違って冷めたものでした。基本的にほとんどのメディアが形式的にしか日米首脳内談に触れていませんが、NYタイムズはそんなネジくれまくった声明文を「たとえそうであっても、この貿易交渉のゴールは関税を撤廃する包括的な協定なのである(Even so, the goal of the trade talks is a comprehensive agreement that eliminates tariffs)」と明快です。もちろん自民党内の反対派だってこんな言葉の遊びでごまかされるほどアホじゃないでしょう。TPP参加は今後も安倍政権の火種になるはずです。

というか、アベノミクスにしてもそれを期待した円安にしても株高にしても、実体がまだわからないものに日本人は期待し過ぎじゃないんでしょうか。TPPでアメリカの心配する関税が撤廃されて日本の自動車がさらに売れるようになると日本側が言っても、日本車の輸入関税なんて米国ではたった2.5%。為替レートが2〜3円振れればすぐにどうでもよくなるほどの税率でしかありません。おまけに日本車の70%が米国内現地生産のアメリカ車です。関税なんかかかっていません。

それにしても日本の首相たちのアメリカ詣でというのは、どうしてこうも宗主国のご機嫌取りに伺う属国の指導者みたいなのでしょう。それを慣例的に大きく取り上げる日本の報道メディアも見苦しいですが、「右翼・国粋主義者」とされる安倍晋三ですら「オバマさんとはケミストリーが合った」とおもねるに至っては、ブルータスよ、お前もかってな感じでしょうか。

まあ、日本っていう国は戦後ずっと自国の国益をアメリカに追従することで自動的に得てきたわけで、それを世界のリジームが変わっても見て見ない振りしておなじ鉄路を行こうとしているわけです。そのうちに「追従(ついじゅう)」は「追従(ついしょう)」に限りなく近づいていっているわけですが。

こうなると安倍政権による平和憲法“改正”の最も有力な反対はまたまたアメリカ頼みということにもなりそう。やれやれ。

February 19, 2013

暗殺の皇帝

24日にはアカデミー賞の発表です。ホメイニ革命後の79年に起きた在イラン米大使館人質事件での救出作戦を描いた『アルゴ』と、オサマ・ビン・ラーデン殺害作戦を描いた『ゼロ・ダーク・サーティ』とはともにCIAや軍の“活躍”の舞台裏を描いて、「ミッション・インポッシブル」や「007」みたいな派手なスパイものとは異なる現実を見せつけます。

両事件の間には30年あまりの時間差があります。が、CIAと米軍がいつの時代でも世界の最暗部で最も危険な諜報戦を繰り広げている事実は変わりません。しかしその戦法は先鋭化しています。1つは「水責め」尋問であり、もう1つは「ドローン」と呼ばれる無人機による敵の殲滅です。前者は30年前には違法でした。後者は技術的に存在しませんでした。

米議会では先日、そのCIA長官に新たに指名されたジョン・ブレナンと、CIAと密接に共同作戦を遂行する国防長官指名のチャック・ヘーゲルの承認公聴会が開かれました。2人とも議会承認は遅れています。

ブレナンはブッシュ政権下でCIA副長官でありテロリスト脅威情報統合センター(現在の国家テロ対策センターの前身です)の所長でした。『ゼロ・ダーク・サーティ』の冒頭で始まる水責め尋問シーンやビン・ラーデンの隠れ家に対しても検討された「無人機攻撃」の背後にいた人物の1人です。そして付いたあだ名は「暗殺の皇帝(The Assassination Czar)」

相手の首を水中にグイッと突っ込むのは息を止めて抵抗されたりしますが、水責め尋問は違います。相手の背中を板に固定して頭に布袋をかぶせて逆さ吊りにする。逆さまの状態で顔の部分に水を注ぐと、抵抗できないばかりか不随意の反射反応ですぐに水を肺に吸い込むことになって、「オレは溺死する!」という迫真の恐怖が襲うのだそうです。そうして容易に自白に至る。

しかし「その死の恐怖は錯覚である」というのが現在の米政府の主張です。錯覚なのでジュネーブ協約で禁じられている、実際に身体を傷つける「拷問とは違う」という論理。

しかしこれはベトナム戦争時の68年には違法とされました。それが対アルカイダ、対タリバンのテロ戦争で復活した。オバマ政権もそれを黙認・踏襲しているのです。

もう1つの無人攻撃機もやはり9・11以降のテロ戦争で実用化され、何千マイルも離れたネバダなどの空軍基地から遠隔操作されています。ビデオゲーム同様、自分の機が敵に撃ち落とされても操縦者は安全なモニターのこちら側にいます。

私はこの攻撃用無人機が心理的にも戦術的にも戦争の仕方を変えたと思っています。アフガニスタン戦争での昨年1年間の無人機攻撃は447回に及び、空爆全体の11.5%を占めるようになりました。前年の5%からの大きなシフトで、これは今後も拡大を続けるでしょう。

しかし無人機攻撃は大変な数の市民たちを誤爆してきました。死者のうちの20〜30%は一般市民で、高度な標的は殺害された者の2%に過ぎないという調査もあります。

このため、ブレナンの公聴会ではCODEPINKの活動家女性が米無人機攻撃で殺害されたパキスタン人の子供たちの名前のリストを掲げて抗議を行いました。独立系ニュースのデモクラシー・ナウ!は「無人機攻撃は単なる殺人ではない。そこに住むすべての人々を恐怖に陥れている。24時間絶え間なく遠鳴りの飛行音を聞き、学校や買い物や葬式や結婚式に行くにも怯えている。コミュニティ全体を混乱に陥れているのだ」とパキスタン現地の声を紹介しています。

思えば究極の戦略とは、「死」の格差を可能な限り広げることです。相手にはより大きな死の脅威を、味方にはより少ない死の怖れを。格差とはいま、富だけではなく命の領域にも及んでいる。「暗殺の皇帝」とはその格差の頂点に立つ者への尊称なのでしょうか、蔑称なのでしょうか。

オバマの2期目が始まっています。正義や人権を掲げる彼ですら、ブッシュ時代より暗くなった闇を背後に負っています。それにしてもCIA長官も国防長官も、自身の民主党ではなくて共和党からの人選だということに、オバマの逡巡が見て取れるのでしょうか? それとも汚いことは他人任せ、ということなのでしょうかね。そこにも政権を取った者の格差操作があるのかもしれません。

May 13, 2012

オバマのABCインタビュー

日本の新聞やTV報道ではあまり大きな扱いになっていないかもしれませんが、オバマが米国大統領として史上初めて同性婚を支持するという発言をした5月10日に放送した(収録は9日)ABCのインタビューから抜粋を紹介します。もちろんこのインタビューは経済やテロの話題にも及びましたが、最初にこの同性婚の話から始まりました。

ちなみに、日本のニュースでは「同性婚を容認」としているところもありますが、これは「容認」するとかしないとかの問題ではありません。大統領が容認しようがしまいが「結婚制度」はいまは州政府の管轄であって直接の影響は与えられないことが1つです。それに「容認」って、なんか上から目線に聞こえません? 実際、オバマはそんなふうなしゃべり方はしていません。とても慎重に言葉を選びながら、しかも「for me, personally」とか「important for me」と、これが個人的な思いであることを強調した上での発言でした。

この中で、自分の同性婚に関する考えが「進化」したと言ってますが、まあ、そりゃ「戦略的に変化してきた」ということだと思います。今年が大統領選挙の年だということも忘れてはいけません。オバマも政治家です。詳細はまた別に書きます(と思います)が、ウォールストリートのおカネがロムニーに流れているいま、それに対抗するカネヅルは裕福なゲイたちのピンクマネーであることも確かなのです。もちろん理想や変革への意志はありましょうが、一方で政治家としての選挙戦略を計算していないわけではないということです。さて、しばしば言葉を慎重に選びつつも、オバマはしっかりとはっきりと受け答えしています。以下がインタビューの内容です。翻訳しましたが、面倒臭くてブラシュアップも推敲もしてません。だって、思ったよりけっこう長かったんです。ひゅいー。

()内は意味の補足で私が付け加えています。その他説明は【訳注:】で示しました。

では、どうぞ。

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ROBIN ROBERTS: Good to see you, as always--

ロビン・ロバーツ:お会いできていつも嬉しいです。

PRESIDENT OBAMA: Good to see you, Robin.

オバマ大統領:こちらも嬉しいですよ、ロビン。

ROBIN ROBERTS: Mr. President. Thank you for this opportunity to talk to you about-- various issues. And it's been quite a week and it's only Wednesday. (LAUGH)

ロビン:ミスター・プレジデント、こうして様々な問題について話しを伺う機会をありがとうございます。今週は大変でした、しかもまだ水曜日です。

PRESIDENT OBAMA: That's typical of my week.

オバマ:私にはいつもこんな感じの1週間ですから。

ROBIN ROBERTS: I'm sure it is. One of the hot button issues because of things that have been said by members of your administration, same-sex marriage. In fact, your press secretary yesterday said he would leave it to you to discuss your personal views on that. So Mr. President, are you still opposed to same-sex marriage?

ロビン:そうでしょうね。いろいろ物議を呼びそうな話題の1つに、政権の内部からもいろいろ発言があるようですが、同性婚の問題があります。実際、報道官が昨日、その件に関しては大統領個人がお話しするのに任せると言っていました。ですんでミスター・プレジデント、あなたはまだ同性婚に反対の立場ですか?

PRESIDENT OBAMA: Well-- you know, I have to tell you, as I've said, I've-- I've been going through an evolution on this issue. I've always been adamant that-- gay and lesbian-- Americans should be treated fairly and equally. And that's why in addition to everything we've done in this administration, rolling back Don't Ask, Don't Tell-- so that-- you know, outstanding Americans can serve our country. Whether it's no longer defending the Defense Against Marriage Act, which-- tried to federalize-- what is historically been state law.

オバマ:まあ、そう、言っておかなければならないのは、前にも話したように私は、私はこの問題については進化を経てきたということです。前からずっと変わらず言ってきたのは、ゲイやレズビアンの、アメリカ人は公正に平等に扱われるべきだということです。ですからこの政権になって我々がいろいろやってきたことに加えて、ドント・アスク、ドント・テル【訳注:同性愛者だと明らかにしない限り米軍で働けるという施策】を廃止して、それでご存じのように、傑出した人材のアメリカ人がこの国のために(性的指向による除隊を心配せずに)働けるようになりました。それに政権としてはもう(連邦法の)結婚防衛法【訳注:オバマはDefense Against Marriage Actと言いマツがえているが、正確にはDefense of Marriage Act=DOMA】を擁護することはやめました。この法律は、結婚を連邦法で規定しようとしたものですが、これは歴史的にも州法の問題ですから。

I've stood on the side of broader equality for-- the L.G.B.T. community. And I had hesitated on gay marriage-- in part, because I thought civil unions would be sufficient. That that was something that would give people hospital visitation rights and-- other-- elements that we take for granted. And-- I was sensitive to the fact that-- for a lot of people, you know, the-- the word marriage was something that evokes very powerful traditions, religious beliefs, and so forth.

私の立場は、LGBTコミュニティのためのより広範な平等をというものです。かつて私は同性婚に関しては躊躇していました。ある意味なぜなら、シビル・ユニオン【訳注:結婚から宗教的意味合いを取り去った法的保護関係】で充分だろうと思ったのです。その、病院に見舞う権利とか、それとその他の、要素などを与えることで。それと、この事実にも敏感にならざるを得なかった、つまり多くの人にとって、知ってのとおりその、結婚という言葉はなにかとても強力な伝統や宗教的信念や、そういったいろいろを喚起するものだということです。

But I have to tell you that over the course of-- several years, as I talk to friends and family and neighbors. When I think about-- members of my own staff who are incredibly committed, in monogamous relationships, same-sex relationships, who are raising kids together. When I think about-- those soldiers or airmen or marines or -- sailors who are out there fighting on my behalf-- and yet, feel constrained, even now that Don't Ask, Don't Tell is gone, because-- they're not able to-- commit themselves in a marriage.

しかしこれも言わなくちゃならないんですが、ここ数年の間に、友人たちや家族や近しい人には話していますが、自分のスタッフたちのことを考えると、モノガマスの関係【訳注:付き合う相手は1人と決めている関係】をものすごく真剣に続けていて、同性同士の関係でですね。それと兵隊です、陸軍も航空兵も海兵隊もそれから水兵も、彼らは外に出て私の代わりに戦ってくれている、なのにまだ制約があるわけです。いまはもう「ドント・アスク、ドント・テル」はなくなりましたが、それでもまだ、結婚という形で、互いに結びつくことができないからです。

At a certain point, I've just concluded that-- for me personally, it is important for me to go ahead and affirm that-- I think same-sex couples should be able to get married. Now-- I have to tell you that part of my hesitation on this has also been I didn't want to nationalize the issue. There's a tendency when I weigh in to think suddenly it becomes political and it becomes polarized.

そしてある時点で、結論するに至った。つまり私にとっては、個人的にですが、私が思う、同性カップルが結婚できるようになるべきだということを、先に進め肯定することが私にとっては重要なことだとそう決めたんです。それから、これに関しては躊躇もあって、その1つはこの問題を全米的なものに広げたくなかったというのもあります。この件は考えようとすると突然政治的になるし対立問題になる傾向がありますから。

And what you're seeing is, I think, states working through this issue-- in fits and starts, all across the country. Different communities are arriving at different conclusions, at different times. And I think that's a healthy process and a healthy debate. And I continue to believe that this is an issue that is gonna be worked out at the local level, because historically, this has not been a federal issue, what's recognized as a marriage.

それでいま行われていることは、思うにアメリカ中で、この件に関しては各州で、断続的にですが、いろいろやっているということです。それぞれ異なったコミュニティがそれぞれ異なった結論に達している。それは健全なやり方ですし健全な議論だと思います。私もこれは地元のレベルで考えられる問題だとこれからも信じています。なぜなら歴史的にもこれは、結婚として何が相応しいかということは連邦政府の問題ではなかったわけですから。

ROBIN ROBERTS: Well, Mr. President, it's-- it's not being worked out on the state level. We saw that Tuesday in North Carolina, the 30th state to announce its ban on gay marriage.

ロビン:ええ、ミスター・プレジデント、州のレベルではうまく行っているわけではありません。8日の火曜日にはノースカロライナが同性婚を認めないとした30番目の州になりました。

PRESIDENT OBAMA: Well-- well-- well, what I'm saying is is that different states are coming to different conclusions. But this debate is taking place-- at a local level. And I think the whole country is evolving and changing. And-- you know, one of the things that I'd like to see is-- that a conversation continue in a respectful way.

オバマ:まあ、その、その、つまり異なる州は異なる結論に至るということで。しかしその議論は行われている、地元のレベルで。そしてこの国全体も進化し変わってきていると思います。それにご存じのように、私が望んでいることの1つは、互いを尊重する形で対話が続いていくことです。

I think it's important to recognize that-- folks-- who-- feel very strongly that marriage should be defined narrowly as-- between a man and a woman-- many of them are not coming at it from a mean-spirited perspective. They're coming at it because they care about families. And-- they-- they have a different understanding, in terms of-- you know, what the word "marriage" should mean. And I-- a bunch of 'em are friends of mine-- you know, pastors and-- you know, people who-- I deeply respect.

そして、その、結婚というものは厳密に定義されるべきだと、男と女の間に限って、と、非常に強く思っている人たちは、その多くはべつに意地悪な気持ちや考え方でそう思っているわけじゃない。彼らがそう感じているのは、家族のことを大切に思っているからです。そして、その、そうした人たち、その人たちは異なった理解をしている。つまりその、「結婚」という言葉がどういう意味なのかという点において、です。私はその、そういう人たちは私の友人の中にたくさんいます。牧師さんとか、ほかにも私の深く尊敬している人たちとか。

ROBIN ROBERTS: Especially in the Black community.

ロビン:特に黒人コミュニティの中に。

PRESIDENT OBAMA: Absolutely.

オバマ:おっしゃるとおり。

ROBIN ROBERTS: And it's very-- a difficult conversation to have.

ロビン:そしてそれは、話すのはとても、難しい。

PRESIDENT OBAMA: Absolutely. But-- but I think it's important for me-- to say to them that as much as I respect 'em, as much as I understand where they're comin' from-- when I meet gay and lesbian couples, when I meet same-sex couples, and I see-- how caring they are, how much love they have in their hearts-- how they're takin' care of their kids. When I hear from them the pain they feel that somehow they are still considered-- less than full citizens when it comes to-- their legal rights-- then-- for me, I think it-- it just has tipped the scales in that direction.

オバマ:ほんとうに。ただ、私は、そういう人たちにも、私が彼らを尊敬しているのと同じくらい、私が彼らの拠って立つところがどこかを理解していると同様に、こう伝えることが私にとって重要なのことだと思うのです。つまり私がゲイやレズビアンのカップルに会うとき、同性同士のカップルに会うとき、そこに、私は、なんと彼らが互いを大切に思い、なんと大きな愛をその心に宿しているのか、そして自分たちの子供のことをなんとじつに大切に思っているのか、ということを。彼らから私は、彼らの感じている苦悩を聞くのです。たとえば法的な権利に関して、そういう話になると彼らは、完全な市民というものよりも自分たちが劣った者として考えられている、そういうふうに感じるわけです。だから私が思うにそれが、そちらの方向に舵を切るきっかけだったのです。

And-- you know, one of the things that you see in-- a state like New York that-- ended up-- legalizing same-sex marriages-- was I thought they did a good job in engaging the religious community. Making it absolutely clear that what we're talking about are civil marriages and civil laws.

それと、あれです、ニューヨークのような州で、結局、同性婚が合法化されたのを見て、私が思ったのが、彼らが宗教のコミュニティとじつにうまく折り合いを付けたということでした。自分たちの言っているのが明確に公民としての結婚、民法上のものだということをはっきりさせて。

That they're re-- re-- respectful of religious liberty, that-- you know, churches and other faith institutions -- are still gonna be able to make determinations about what they're sacraments are-- what they recognize. But from the perspective of-- of the law and perspective of the state-- I think it's important-- to say that in this country we've always been about-- fairness. And-- and treatin' everybody-- as equals. Or at least that's been our aspiration. And I think-- that applies here, as well.

つまり、その、その、宗教の自由を尊重していて、つまりそう、教会とかその他の宗教的団体ですね、そういうところはいまでもまだ何が聖なるものなのか、何をそう認めるのか、自分たちで決められるのです。ただしかし、法律上の、国家としてのものの考え方から言って、重要なのは私が思うに、この国では私たちはいつも公正さというものを旨としてきたということです。そしてすべての人を平等に扱う、ということ。あるいは少なくともそれは私たちの目標でありつづけてきた。だから私が考えるのは、それをここでも適用するということなんです。

ROBIN ROBERTS: So if you were the governor of New York or legislator in North Carolina, you would not be opposed? You would vote for legalizing same-sex marriage?

ロビン:ではもしあなたがニューヨーク州の知事だったり、あるいはノースカロライナ【訳注:このインタビューの前日に同性婚は認めないという州憲法変更提案を住民投票で可決した州】の州議会議員だったとしたら、あなたは反対しない? つまり、同性婚を合法化することに賛成票を投じるわけですか?

PRESIDENT OBAMA: I would. And-- and that's-- that's part of the-- the evolution that I went through. I-- I asked myself-- right after that New York vote took place, if I had been a state senator, which I was for a time-- how would I have voted? And I had to admit to myself, "You know what? I think that-- I would have voted yes." It would have been hard for me, knowing-- all the friends and family-- that-- are gays or lesbians, that for me to say to them, you know, "I voted to oppose you having-- the same kind of rights-- and responsibilities-- that I have."

オバマ:そうするでしょう。それが、それが私の、通ってきた進化の一部です。私は自分に問いただしました、あのニューヨークの投票が行われた直後です。もし自分が州上院議員だったら、一時そうだったこともありますが【訳注:シカゴのあるイリノイ州上院議員だった】、どっちに投票していただろうか? そうして自分にこう言い聞かせたんです。「おいおい、つまり、賛成に投票してたよ」ってね。私にとって、ゲイやレズビアンの友人たちやその家族を知ってるわけですから、そんな、彼らぜんぶに向かって、「きみらが、私が持っているのと同じ種類の権利と責任を持つことに、反対する票を投じたよ」と言うのは私にはできかねたろうと。

And-- you know, it's interesting. Some of this is also generational. You know, when I go to college campuses, sometimes I talk to college Republicans who think that-- I have terrible policies on the-- the economy or on foreign policy. But are very clear that when it comes to same-sex equality or, you know-- sexual orientation that they believe in equality. They're much more comfortable with it.

それに、ね、面白いことに、これに関しては、ある部分は世代で違うんですよ。ほら、私も大学のキャンパスに行くことがあります。そこでときどき大学生の共和党支持者たちと話すんですが、彼らはその、私の政策をひどいと、経済政策とか外交とかですね、思っている。しかし話が同性カップルの平等の問題、つまりあの、性的指向の問題になると、明確に彼らはそれに関しては平等であるべきだと信じているんです。それがもう当然だと思っているわけです。

You know, Malia and Sasha, they've got friends whose parents are same-sex couples. And I-- you know, there have been times where Michelle and I have been sittin' around the dinner table. And we've been talkin' and-- about their friends and their parents. And Malia and Sasha would-- it wouldn't dawn on them that somehow their friends' parents would be treated differently. It doesn't make sense to them. And-- and frankly-- that's the kind of thing that prompts-- a change of perspective. You know, not wanting to somehow explain to your child why somebody should be treated-- differently, when it comes to-- the eyes of the law.

そう、そしてマリアとサーシャですが【訳注:オバマの2人の娘のこと】、友だちの親たちが同性のカップルという子もいるわけです。私は、何度もミシェルと一緒に夕食のテーブルを囲みながら話したりするわけです、その、娘たちの友だちやその親たちのことを。それでマリアもサーシャも、どうしてか彼女たちの友だちの親たちが異なる扱いを受けているということがわからないんですよ。そのことは彼女たちには意味不明なんです。そして、率直に言うと、そういうことが私の物の見方を変えるきっかけだったんですね。わかるでしょう、どうしてある人たちが異なる扱いを受けなければならないのか、そのわけを自分の子供に説明なんかしたくない。──法的見地の話ですが。

ROBIN ROBERTS: I-- I know you were saying-- and are saying about it being on the local level and the state level. But as president of the United States and this is a game changer for many people, to hear the president of the United States for the first time say that personally he has no objection to same-sex marriage. Are there some actions that you can take as president? Can you ask your Justice Department to join in the litigation in fighting states that are banning same-sex marriage?

ロビン:おっしゃってきたこと、そしていまおっしゃっていること、つまりこれは地元のレベル、州のレベルの問題であるというのはわかります。しかし合衆国大統領として、これは多くの人たちにとって、合衆国の大統領が初めて個人的にではあるにしろ自分は同性婚になんら異議はないと発言することは、これはこれまでの流れを変える大変な出来事です。

PRESIDENT OBAMA: Well, I-- you know, my Justice Department has already-- said that it is not gonna defend-- the Defense Against Marriage Act. That we consider that a violation of equal protection clause. And I agree with them on that. You know? I helped to prompt that-- that move on the part of the Justice Department.

オバマ:そうですね、私はほら、私の政府の司法省はすでにその、もう結婚防衛法の正当性を主張することはしないと言っています。これは法の平等保護条項に違反するものだと考えているわけで、私もその件に関しては司法省に賛成します。だから、ね? 私も司法省の一部にそう、そう動けと仕掛けたんですよ。

Part of the reason that I thought it was important-- to speak to this issue was the fact that-- you know, I've got an opponent on-- on the other side in the upcoming presidential election, who wants to-- re-federalize the issue and-- institute a constitutional amendment-- that would prohibit gay marriage. And, you know, I think it is a mistake to-- try to make what has traditionally been a state issue into a national issue.

この問題に言及することが重要なことだと思う理由の一部はつまり、知ってのように、来るべき大統領選挙で敵対する相手方は、この問題を再び連邦政府の問題にしたいという、つまり憲法の修正を行って同性婚を禁止しようとしている事実があるからです。それは、伝統的に州の問題だったものを連邦の問題にしようというのは私は間違いだと思う。

I think that-- you know, the winds of change are happening. They're not blowin'-- with the same force in every state. But I think that what you're gonna see is-- is-- is states-- coming to-- the realization that if-- if a soldier can fight for us, if a police officer can protect our neighborhoods-- if a fire fighter is expected to go into a burning building-- to save our possessions or our kids. The notion that after they were done with that, that we'd say to them, "Oh but by the way, we're gonna treat you differently. That you may not be able to-- enjoy-- the-- the ability of-- of passing on-- what you have to your loved one, if you-- if you die. The notion that somehow if-- if you get sick, your loved one might have trouble visiting you in a hospital."

風向きが変わってきていると思うんですね。ただ、すべての州で同じ向きに風が吹いているわけでもない。しかしこれから起きることは、その、州というものもだんだんわかり始める時が来る。その、私たちのために戦う兵士がいる、私たちの住む地区を守ることのできる警察官がいる、そして燃え盛るビルに飛び込んでゆく消防士がいる、私たちの持ち物や子供たちを救うためにです。 そこでそんな仕事を終えた彼らに私たちはこう言うんです、「ああ、ところできみに関しては扱いが違うんだ。きみはその、もしきみがその、仮に死んだとしても、きみの持っている物をきみの愛する人に譲り渡すことが、できる権利を、その、享受できないかもしれない。それからその、なぜか、きみが病気になってもきみの愛する人はきみを病院に見舞おうとして厄介なことになるかもしれない」と。

You know, I think that as more and more folks think about it, they're gonna say, you know, "That's not who we are." And-- and-- as I said, I want to-- I want to emphasize-- that-- I've got a lot of friends-- on the other side of this issue. You know, I'm sure they'll be callin' me up and-- and I respect them. And I understand their perspective, in part, because-- their impulse is the right one. Which is they want to-- they want to preserve and strengthen families.

ですから、そのことを考える人がだんだん増えてきていると思うんですよ。でそのうちに彼らは、ね、こう言うんだ。「それって私たちの思いとは違う」と。そして、そして、すでに言ったように、私は、私は強調したいんですけれど、私には多くの、この問題で違う立場を取る友だちもたくさんいます。そうきっと彼らは私にいろいろ言うのは知っています。そういう彼らを尊重もします。それにその考え方をある部分理解もできる。なぜなら、彼らのショックも当然だからです。彼らは家族というものを守りたい、強固なものにしたいのです。

And I think they're concerned about-- won't you see families breaking down. It's just that-- maybe they haven't had the experience that I have had in seeing same-sex couples, who are as committed, as monogamous, as responsible-- as loving of-- of-- of a group of parents as-- any-- heterose-- sexual couple that I know. And in some cases, more so.

彼らは心配してるんだと思います。家族ってものが壊れつつあるのが目に入らないのか、と。それは、ただ、たぶん、彼らは、私が同性カップルを見て知って経験したような、同じような経験をしていないんです。私の見てきた同性カップルは、自分の付き合いに同じように真剣で、モノガマスで、同じように責任を持っていて、同じように、私の知るヘテロセクシュアルのカップルと同じように愛情に溢れた親たちの一群なのです。ときには、より以上にそうでした。

And, you know-- if you look at the underlying values that we care so deeply about when we describe family, commitment, responsibility, lookin' after one another-- you know, teaching-- our kids to-- to be responsible citizens and-- caring for one another-- I actually think that-- you know, it's consistent with our best and in some cases our most conservative values, sort of the foundation of what-- made this country great.

そして知ってのように、家族や、互いの思いやりや、責任や、互いへの労りなどを考えるときに、それにそう、子供たちに、責任ある市民になることやみんなを大切に思うことを教えることもそうです、そういうときに私たちがじつに大切だと考える基本的な価値、彼らの思っているその価値は、私たちの最良のその価値と、ときにはまた私たちの最も保守的なそれとさえ、矛盾しないものなのです。いわば、この国を偉大にしてくれているもののその基礎と同じなのです。

ROBIN ROBERTS: Obviously, you have put a lot of thought into this. And you bring up Mitt Romney. And you and others in your administration have been critical of him changing positions, feeling that he's doing it for political gain. You realize there are going to be some people that are going to be saying the same with you about this, when you are not president, you were for gay marriage. Then 2007, you changed your position. A couple years ago, you said you were evolving. And the evolution seems to have been something that we're discussing right now. But do you-- do you see where some people might consider that the same thing, being politics?

ロビン:あなたは明らかにこの問題に関して多くのことを考えてきたようです。そしてミット・ロムニーのことも持ち出しました。あなたもあなたの政府の他の人たちも、彼が立場を変えたことを政治的な利益を得るためのものと見て、批判的ですね。でもこのことに関しては、あなたに対しても同じようなことを言う人たちもまたいるだろうことをご存じのはずです。あなたが大統領でなかったとき、あなたは同性婚に賛成でしたから。それで2007年になって、あなたは自身の立場を変えた。2年前、あなたは進化の途中だとおっしゃいました。そしてその進化というのは、いまここで話していることですよね。でも、それをそこで、同じことだと感じているかもしれない人がいるとは思いません? つまり、これも政治的(な一手)だと。

PRESIDENT OBAMA: Well, if you-- if you look at my trajectory here, I've always been strongly in favor of civil unions. Always been strongly opposed to discrimination against gays and lesbians. I've been consistent in my overall trajectory. The one thing that-- I've wrestled with is-- this gay marriage issue. And-- I think it'd be hard to argue that somehow this is-- something that I'd be doin' for political advantage-- because frankly, you know-- you know, the politics, it's not clear how they cut.

オバマ:そう、もし、もしここで私のこれまでの軌跡を見てくれたら、私はいつでも常にシビル・ユニオンを強く支持してきたということがわかるはずです。いつでも常にゲイとレズビアンに対する差別に強く反対してきました。その全体としての軌跡は首尾一貫しています。ただ1つ、私が苦慮してきたのがこの同性婚の問題です。そして、これがともかく私が政治的利益のためにやっていることだと言うのは、どうかなと思います。というのも、正直言うと、わかるでしょう、政治って、何がどうなるか、わからないんですから。

In some places that are gonna be pretty important-- in this electoral map-- it may hurt me. But-- you know, I think it-- it was important for me, given how much attention this issue was getting, both here in Washington, but-- elsewhere, for me to go ahead, "Let's be clear. Here's what I believe." But I'm not gonna be spending most of my time talking about this, because frankly-- my job as president right now, my biggest priority is to make sure that-- we're growing the economy, that we're puttin' people back to work, that we're managing the draw down in Afghanistan, effectively. Those are the things that-- I'm gonna focus on. And-- I'm sure there's gonna be more than enough to argue about with the other side, when it comes to-- when it comes to our politics.
たいへん重要になるいくつかの場所で、今回の選挙区のことですが、これは私に凶と出るかもしれません。それでも、その、この問題がここワシントンでもどこでもどれだけ関心の的になるかを考えれば、前に出て「はっきりさせよう。これが私の信じていることだ」と言うことは私にとって重要なことだったんです。でも、私はこのことに自分の時間の大半を割くわけにもいきません。というのも率直に言って、大統領としての私の仕事はいま、私の最大の優先事項は経済を成長させること、国民を職場に戻すこと、アフガニスタンからの撤兵を効果的にやり遂げること、それらを確実なものにすることなのです。そういうことに私は焦点を定めています。それが我々の政治問題となるときには、共和党側とは十二分に議論することがあると思います。

(以下、経済問題などに話題は移りますので、ここまで)

April 28, 2012

ガラパゴスのいじめっ子たち

昨夏以来、米国では10代の少年少女たちの相次ぐいじめ自殺が社会問題化しています。米国では毎年、1300万人の子供たちが学校やオンラインや携帯電話や通学のスクールバスや放課後の街でいじめに遭っています。300万人がいじめによって毎月学校を休み、28万人の中学生が実際にけがをしています。しかしいじめの現場に居合わせていても教員の1/4はそれを問題はないと見過ごしてしまっていて、その場で割って入る先生は4%しかいません。

米国のこの統計の中には日本の統計には現れてこない要素も分析されます。いじめ相手を罵倒するときに最もよく使われる言葉が「Geek(おたく)」「Weirdo(変人)」そして「Homo(ホモ)」や「Fag(オカマ)」「Lesbo(レズ)」です。そのいじめの対象が実際にゲイなのかトランスジェンダーなのかはあまり関係ありません。性指向や性自認が確実な年齢とは限らないのですから。問題は、いじめる側がそういう言葉でいじめる対象を括っているということです。また最近はゲイやレズビアンのカップルの下で育つ子供たちも多く、その子たちが親のせいでいじめられることも少なくありません。LGBT問題をきちんと意識した、具体的な事例に対処した処方がいま社会運動として始まっています。

ところで日本のいじめ議論でいつも唖然とするのが「いじめられる側にも問題があるのでそれを解決する努力をすべきだ」という意見が散見されることです。この論理で行けば、だから「ゲイはダメだ」「同性婚は問題が多い」という結論に短絡します。「あいつはムカつく。ムカつかせるあいつが悪い。いじめられて当然だ」と言う論理には、ムカつく自らの病理に関する自覚はすっぽりと抜け落ちているのです。

問題はいじめる側にあるという第一の大前提が、どういう経緯かあっさりと忘れ去られてすり替えられてしまうのはなぜなのでしょう。先進国で趨勢な論理が日本ではなぜか共有されていないのです。

先日もこんなことがありました。あるレズビアンのカップルが東京ディズニーリゾートで同性カップルの結婚式が可能かどうかという問い合わせを行いました。なぜなら本家本元の米国ディズニーでは施設内のホテルなどで同性婚の挙式も認めているからです。ところが東京ディズニーの回答は同性カップルでも挙式はできるが「一方が男性に見える格好で、もう一方が女性に見える格好でないと結婚式ができない」というものでした。

これだとたとえば男同士だと片方がウェディングドレスを着なくちゃいけなくなります。それもすごい規定ですが、ディズニーの本場アメリカではディズニーの施設はすべてLGBTフレンドリーであることを知っていた件のカップル、ほんとうにそうなのかもう一度確認してほしいと要望したところ、案の定、後日、「社内での認識が不完全だったこともあり、間違ったご案内をしてしまいました」というお詫びが返ってきました。「お客様のご希望のご衣装、ウェディングドレス同士で結婚式を挙げていただけます。ディズニー・ロイヤルドリームウェディング、ホテル・ミラコスタ、ディズニー・アンバサダーホテルで、いずれのプランでも、ウェディングドレス同士タキシード同士で承ることができます」との再回答だったそうです。

米国ディズニーの方針に対して「社内での認識が不完全だった」。しかし今回はそうやって同性婚に関する欧米基準に日本のディズニー社員も気がつくことができた。しかし、ではいじめに関してはどうか? 他者=自分と異なるものに対する子供たちの無知な偏見が、彼らの意識下でLGBT的なものに向かうという事実は共有されているのでしょうか? どうして欧米では同性婚を認めようとする人たちが増えているのか、その背景は気づかれているのでしょうか? 議論を徹底する欧米の人たちのことです、生半可な反同性愛の言辞はグーの音も出ないほどに反駁されてしまうという予測さえ気づかれていないのかもしれません。

大統領選挙を11月に控え、米国では民主党支持者の64%が同性婚を支持しています。中間層独立系の支持者でも54%が支持、一般に保守派とされる共和党支持者ではそれが39%に減りますが、それでも10人に4人です。この数字と歴史の流れを理解していなければ、それは米国のいじめっ子たちと同じガラパゴスのレベルだと言ったら言い過ぎでしょうか。

January 10, 2012

新年に考えること

子供のころはおとなになったらわかると言われつづけてきましたが、おとなになってわかったことは、おとなになってもいろんな答えがわかるわけではないということでした。にもかかわらず、疑問の数は以前より確実に多くなっているような気さえします。

昨年末からずっと考えているのは民主主義のことです。アラブの春も、99%の占拠運動のアメリカの秋も、根は民主主義に関わることです。でもそこに1つ大きな誤解があります。それは、民主主義になれば自分の思っていることがきっと実現するという誤解です。

民主主義は、何かを実現するにはおそらく最も非効率的な制度だと思います。なぜなら、民主主義とは、何かをやるためではなく、何かをやらせないための制度だからです。

それは「牽制」の政体です。「抑制」の政体と言ってもいい。様々な歴史がある個人や集団の暴走で傷ついてきました。そのうちに傷つけられてきた「みんな」こそが歴史の主役なのだという考え方が広がってきました。そこでそのみんなで、付託した「権力」の独善や独断や独裁や独走を許さない仕組みを作っていった。それが民主制度でした。

ところが民主制度になると、何かを実行するにもいちいち特定の集団の利益や不利益に結びつかないかとかみんな(=議会)で検証しなくてはなりません。ものすごく面倒くさいし時間もかってまどろっこしいことこの上ない。
 
「アラブの春」で指導者を放逐した「みんな」は、これから民主的な政体ができると期待しているのでしょうが、心配はなにせそういうシチ面倒くさい仕組みですから、直ちに現れない変化に業を煮やしてまたぞろ過激な原理主義思想が台頭してくることです。

アラブに限ったことではありません。イギリスやイタリアでの若者たちの暴動も、ウォール街占拠運動も、世界はいま、急激に変質する経済や社会の動きに対応し切れていないこの民主制度の回りくどさに、辟易し始めているのではないか?

冒頭に、疑問は多くなる一方なのに答えはわからないままだと書きました。世の中は情報や物流や金融が世界規模でつながることでとても複雑になってきています。ギリシャの債務が日本のどこか片田舎の農家の借金に関係してくる。いままで「風が吹けば桶屋が儲かる」噺を笑い話にしていましたが、いまやそれは冗談ではなくなっているのです。なのにその論理の飛躍をより緻密な論理で埋めつつ理解する能力を、人間はいまだ持ち得ていない。これからだって持てる理由もありません。それは私たちの処理能力を越えているようにさえ思えます。

そんなときに「風」と「桶屋」との間を快刀乱麻で切り捨てる人物が魅力的に見えてきます。先の大阪市長選挙での橋下徹市長の誕生は、きっとそうした「みんな」のもどかしさを背景にしています。暴れん坊将軍や水戸黄門といっしょです。しち面倒くさい手間を省いて1時間で悪者を退治してくれるのです。そして「みんな」は、世直しなんぞにあまり努力する必要もなく楽に暮らせるわけです。

めでたしめでたし? いえ、この話はところがここでは終わりません。なぜなら、フセインもカダフィもムバラクもサーレハもみな当初は暴れん坊将軍や黄門様と同じくみんなの英雄として登場してきたからです。しかし権力は堕落する。絶対的な権力は絶対的に堕落します。独占的な権力は独占的に堕落し、阿呆な権力は阿呆なくらいに堕落する。そうして「切り捨てられる」余計として、また「みんな」が虐げられるのです。

民主主義の中から登場したものたちが、その民主主義を切り捨てるような手法でしか政治を断行できないと判断するようになる。それは自己否定であり自己矛盾です。これは民主主義の、いったいどういう皮肉でしょうか? その答えを、私はずっと考えています。

December 24, 2011

捏造された戦争のあとで

先日の野田首相の東電福島第1「冷温停止状態」宣言を聞いていて、なにかどこかで同じ気分になったことがあるなあと思ったら、ジョージ・W・ブッシュが2003年、イラク開戦50日ほどで空母リンカーンの上に降り立って行った「任務完了(Mission Accomplished)」の演説でした。これからの問題が山積しているのに任務が達成されたなんて、バカじゃないかってみんな唖然としたものです。そして彼はその後、史上最低の大統領の1人に数えられるようになりました。

ブッシュのその任務完了宣言から8年有余経った12月14日、オバマ大統領が米軍の完全撤退をやっと発表しました。クリスマスの11日前でした。

クリスマスというのは家族が集まる1年の〆の大イベントです。このタイミングでの発表は、実際にクリスマスに帰国できるかは別にしてとても象徴的なことです。その後ろにはもちろん今年11月の大統領選挙のことがあります。共和党の候補指名争いの乱戦というか混乱というか、ほんとくだらないエキセントリズムの応酬のあいだに、オバマは着々と失地を回復しているようにも見えます。失業率は若干ながら改善し、議会では給与減税法案の延長を拒んだ下院共和党に怒りの演説をしてみせて翌日には明らかに渋面の共和党の下院議長ベイナーから妥協を引き出しました。イラク撤退もオバマの成果になるでしょう。戦争の終わり方は難しい。とくにブッシュの始めた「勝利」のない戦争を終わらせることは、尚更です。

たしかに今も米兵が反政府派の攻撃にさらされているアフガニスタンに比べると、イラクはまだマシに見えます。しかし撤退後は米軍というタガがはずれて治安は悪化するでしょう。事実、12月22日には早くもバグダッドで連続爆弾テロがあり60人以上が死亡しました。政権が空中分解する恐れもまだ色濃く残っているのです。

さまざまな意味で、イラク戦争は新しい戦争でした。そもそも発端が誤った大量破壊兵器情報による「予防的先制攻撃」でした。ブッシュ政権は同時に9.11テロとイラクの関連付けも命じていました。イラク戦争はつまり捏造された戦争だったのです。

他にも、戦争の末端で多く民間の軍事請負企業が協力していることも明らかになりました。ブラックウォーターという軍事警備会社が公的な軍隊のように振る舞い、実際米軍とともに作戦を遂行していました。さらにはその途中の2007年9月17日、バグダッド市民に対する無差別17人射殺事件まで起こしたのです。ブラックウォーターはこの年、悪名をぬぐい去るかのように社名を“Xe”(ズィー)に変更、さらには今月には名称を"Academi"(アカデミー)というさらに何の変哲もないものに再変更して、すでに新たに国務省やCIAと2億5000万ドルの業務請負契約を結んでいるのです。

一方で、ウィキリークスが公開した、ロイターのカメラマンら2人を含む12人の死者を出した2007年の米軍ヘリによるイラク民間人銃撃事件は衝撃的でした。ウィキリークスには米陸軍上等兵のブラッドリー・マニングの数十万点に及ぶ米外交文書漏洩もあり、これも従来なかった戦争への異議の形でした。

マニングはいま軍法会議にかけられ、終身刑か死刑の判決を下されようとしています。米軍の検察側の言い分は「ウィキリークスに重要情報を漏洩したことでアルカイダ側がそれを知ることになった。従ってこれは敵を利する裏切り行為だ」というものです。それはすべての戦争ジャーナリズムを犯罪行為に陥れる可能性を持つ論理です。どんな隠された情報も、公開することで敵に知れるわけですから。そこに良心の内部告発者は存在しようがありません。国家が間違いを犯していると信じたとき、私たちはそれをどう止めることができるのでしょうか?

大手メディアは一様に米国側の死者が約4500人、イラク側の死者は10万人と報じていますが、英国の医療誌Lancetは実際のイラク市民の死者は60万人を超えるだろうと記しています。実際の死者数は永遠に誰にも明らかになることはないでしょうが、米国側の公式推定である10万人という数字ではないと私は思っています。

そしていま米軍が撤退しても、例の民間の軍事請負業者はだいたい16000人もまだイラクに残るそうです。戦争の民営化から、戦後処理の民営化です。こうしてイラクの管轄は米軍から米国務省(外務省に相当)に移ります。バグダッドの米国大使館は世界最大の大使館なのです。そんな中、“戦後復興”に向けてすでに多くの欧米投資銀行関係者がイラクを訪れていることを英フィナンシャル・タイムズが報道していました。将来的に金の生る木になるだろう国家再建事業と石油取引の契約に先鞭を付けたいのです。

イラクはまだ解決していません。お隣イランでは核開発疑惑でイスラエルや米軍がまた予防的に施設攻撃をするのではないかと懸念されています。そしてアジアでは金正日死亡に伴う北朝鮮の体制移譲。そのすべてが米国の大統領選挙の動向とも結びついてきます。

2012年はあまり容易ではない年になりそうです。

September 29, 2011

野田演説を書いたのはだれだ?

野田さんの首相としての外交デビューとなった今回の国連ニューヨーク訪問は、私の知る限り欧米メディアは一行もその中身を詳報しませんでした。原子力安全サミットでのスピーチも国連総会での演説も無視。かろうじて野田オバマ会談の内容がAPやAFP電などで型通りに伝えられただけです。

というのも、世界が注目している東電の原子力発電所事故の問題はすでに国会の所信表明などですでに伝えられていた内容だったし、冷温停止を年内に(2週間分だけだけど)前倒しするというのもこれにあわせたかのように細野原発相が直前に話していてすでにニュースではなかったからです。

それでも国連での第一声は震災支援への感謝と東電・福島第一原発事故の謝罪から始まりました。低姿勢なのは国会の所信表明と同じで、話し振りも真面目な人柄を表しているようでした。でも、震災から原発、金融危機回避の協調から、南スーダン国連PKOへの協力、中東やアフリカへの援助や円借款と種々多様なことを網羅して終わってみると、はて、何が言いたかったのか中心テーマが思い起こせない。

これは何なんでしょうか? 問題全般に配慮が行き届き、そつなくすべてに触れておく。どこからも文句の出ようのない及第点の演説テキスト。でも逆に、これだとすべての論点が相対化してしまって、主張も個性も埋没してしまう。なんだか「これもやりました、あれにも触れておきました」みたいな、学生の宿題発表みたいな印象だったのです。

総会演説は特にパレスチナの国家承認を訴えるアッバス議長、それに反対するイスラエルのネタニヤフ首相というアクの強い演説に挟まれて、さらには直後のブータンの仏教的幸福論にも高尚さと穏健さで負けて、これではニュースにしたのが日本からの随行記者たちだけというのも宜なるかな。まるでわざと、あまりニュースにならないように、目立たないように、と仕組んだみたいな演説構成だったのですから。

それを疑ったのが原発問題です。先に訪米した前原さんともども野田さんは「原子力発電の安全性を世界最高水準に高める」として、それを免罪符のように外国への原子力技術の協力や原発輸出を継続する考えもさりげなく表明したのです。でもこれって、欧米メディアで取り上げられていたら批判もかなり予想される発言じゃないですか?

考えても見てください。チェルノブイリ直後のゴルバチョフがそんなことを言っていたら世界はどう反応していたでしょう? 日本国内でだって、立派なはずのどっかの一流料亭が食中毒を起こして、それでも「これを教訓に安全面での最高水準を目指し、ご期待に沿うべく明日からすぐに弁当を売ります」などと言えますか?

だいたい日本の原発ってこれまでだって「世界最高水準の安全性」だったはず。にも関わらずこんな重篤な事故になり、だからこそ原発は危ないという話なのです。野田さんは「現在の放射性物質の放出量はいま事故直後の400万分の1」とさも自慢気でしたが、これだって事故後の放出が1週間で77万テラベクレル(テラは1兆)と天文学的ひどさなのに、それがたかだか400万分の1に減ったからと言って何の意味があるのか。おまけに累積残存放射性物質の問題はまるで片付いていないのですよ。

するってえと、野田演説は、誠実なのは話し振りだけで、肝心なところで実はチラチラとごまかしが仕込まれていたってことになります。しかも問題を指摘されそうな部分はみんな「演説全部をきちんと読んでもらえれば、それだけじゃないことも書いてある」「あくまで安全が徹底された上での話だ」という逃げができるように仕掛けられていました。こんな巧妙な、言質を取られないようにどうとでも読めるような、つまりはとても官僚的な演説を、いったい誰が考えたんでしょうね。

そうしたらこないだの毎日新聞、「野田佳彦首相が就任直後、政権運営について (1) 余計なことは言わない、やらない (2) 派手なことをしない (3) 突出しない、の「三原則」を側近議員らに指示していたことが分かった」と報じていました。これ、まさにそのままこんかいの国連演説にも言えることです。ということは、官僚的ながら、ひょっとすると自分で書いたのかもしれませんね。いやそれにしてもよくでき過ぎています。政権運営についても、だれか知恵のある官僚のアドバイスでもあったんじゃないかと勘ぐりたくもなります。

つまりはこの政権は既定路線からはみだそうとしない、波風立てずに長続きするように、という、ときどき爆発したり突出したりして官僚たちが右往左往した菅さんのときとはまた別の形の、官僚主導政治ってことでしょうか。民主党の拠って立つ政治主導はいったいどこに消えたんでしょうね。そりゃ難しいだろうけどさ。

オバマさんが「I can do business with him」と言ったそうですが、これを「彼とは仕事ができる」と日本語に訳してもちょっと意味が曖昧です。「仕事」っていろいろありますけど、ビジネスというのは、取引、商売のことです。ジョブやワーク(何かを為すため、作り上げるために動くこと)ではない。それもアメリカの企図している事業のための取り引きであって日本の都合は関係ありません。そんなビジネス、取引、契約の相手としてノダはふさわしいというニュアンスが窺えるのです。

選挙を控えて国の内外で問題山積の大統領は、安全牌のはずの日本にまで煩わされたくはない(鳩山さんのときには安全牌だったはずの日本にずいぶんと振り回されましたからね)。野田さんはまさに「米国の仕事上、もう煩う心配のない相手だ」という意味なのでしょう。そういや普天間やTPPでも米国の意向に沿って「宿題を1つひとつ解決していく」と表明していましたっけ。やれやれ。


【追記】というようなことをざっと先日のTBSラジオのdigなんかで話したのですが、途中、国連総会での野田演説がどうしてあの順番になったのか、パレスチナとイスラエルに挟まれてそこでも埋没しちまったみたいで、あれも仕組んだのかなんて勘ぐっちゃいましたが、いやそんなことはありませんでした。国連代表部に電話して訊いたら、そうそう、順番の決め方、思い出しました。あれは王様や大統領なんかの国家元首が最初にずらっと演説をするのですね。それから次に首相クラス、次に外相クラス、となる。

で、アッバスさんはパレスチナの暫定自治政府の大統領ながら、まだ国家として承認されていないので、最初の元首カテゴリーの最後に位置することになった。

次に首相クラスが来ます。ところでその前に、各国から国連事務局に、自国の代表が演説したい時間枠(何日目の午前か午後、という選択)というのを3つ提出するそうです。帰国日程もありますからね。

で、日本は初日は大統領クラスで埋まるので最初からそこの枠は選択せずに、2日目の午前が第1希望、3日目の午前が第2希望、2日目の午後を第3希望として出していました。「午後」というのは、みんな演説が長くなるので深夜になっちゃったりして大変だから午前を優先させたということです。で、結果、3日目の午前、アッバス大統領の後の、首相クラスのトップとして登場した、というわけです。

というか、同じ枠にイスラエルも希望してたんですね。国連事務局はそこで考えた。「パレスチナとイスラエルは同じ問題を話すだろうが、近すぎても刺激的過ぎる。で、そこに同じ枠希望の日本とブータンとをバッファーとして挿入しようと。日本は律儀に真面目な演説をするし15分の持ち時間を大きく越えるような真似もしたことがない。さらにブータンは仏教的平和国家で、緩衝剤としてはうってつけではないか」とまあ、この注釈は私の推測ですが、まあそんなところじゃないかなあ。

おかげでアッバスさんのときには満員だった総会場は野田さんのところでトイレタイムになっちゃって4割くらいまで聴衆は減りました(国連の日本代表部は、国連デビューの野田さんに、この順番なので聴衆は退席するかもしれないけれど、はんぶんも入っているのはいい方なのです、とガッカリしないよう説明していたそうです)。CNNも野田演説の前にカメラをスタジオに切り替えてアッバス演説の分析と解説の時間に使いました。で、次に総会場が映ったのはイスラエルのネタニヤフさんの演説だった、というわけです。あの人、そんなに演説はうまくないんだが、相変わらずドスが利いてましたね。もっとも、パレスチナの国家承認国連加盟に強硬に反対するネタニヤフさんでしたが、最新の世論調査では、69%ものイスラエル国民が「イスラエル政府は国連による独立パレスチナ国家承認を受け入れるべきだ」としているのです。調査はまた、占領地区に住むパレスチナ人の83%がこの国家承認の努力を支持していることも明らかにしています。

潮目は変わってきているのです。

June 07, 2011

6月はLGBTプライド月間

オバマ大統領が6月をLGBTのプライド月間であると宣言しました。今月を、彼らが誇りを持って生きていけるアメリカにする月にしようという政治宣言です。その宣言を、この末尾で翻訳しておきます。LGBTとはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどの性的少数者たちのことを指す頭字語です。

私がジャーナリストとしてLGBT問題を日本で広く伝えようとしてからすでに21年が経ちました。その間、欧米ではLGBT(当初はLGだけでしたが)の人権問題で一進一退の攻防もありつつ結果としてじつにめざましい進歩がありました。日本でもさまざまな分野で改善が為されています。性的少数者に関する日本語での言説はかつてはほとんどが私が海外から紹介したもののコピペのようなものだったのが、いまウィキペディアを覗いてみるとじつに多様で詳細な新記述に溢れています。多くの関係者たちが数多くの言説を生み出しているのがわかります。

この大統領宣言も私がクリントン大統領時代に紹介しました。99年6月に行われたのが最初の宣言でした。以降、ブッシュ共和党政権は宗教保守派を支持基盤にしていたので宣言しませんでしたが、オバマ政権になった09年から再び復活しました。

6月をそう宣言するのはもちろん、今月が現代ゲイ人権運動の嚆矢と言われる「ストーンウォール・インの暴動」が起きた月だからです。69年6月28日未明、ウエストビレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」とその周辺で、警察の度重なる理不尽な摘発に爆発した客たちが3夜にわたって警官隊と衝突しました。その辺の詳細も、今では日本語のウィキペディアで読めます。興味のある方はググってみてください。69年とは日本では「黒猫のタンゴ」が鳴り響き東大では安田講堂が燃え、米国ではニクソンが大統領になりウッドストックが開かれ、アポロ11号が月に到着した年です。

このストーンウォールの蜂起を機に、それまで全米でわずか50ほどしかなかったゲイの人権団体が1年半で200に増えました。4年後には、大学や教会や市単位などで1100にもなりました。こうしてゲイたちに政治の季節が訪れたのです。

72年の米民主党大会では同性愛者の人権問題が初めて議論に上りました。米国史上最も尊敬されているジャーナリストの1人、故ウォルター・クロンカイトは、その夜の自分のニュース番組で「同性愛に関する政治綱領が今夜初めて真剣な議論になりました。これは今後来たるべきものの重要な先駆けになるかもしれません」と見抜いていました。

ただ、日本のジャーナリズムで、同性愛のことを平等と人権の問題だと認識している人は、40年近く経った今ですらそう多くはありません。政治家も同じでしょう。もっとも、今春の日本の統一地方選では、史上初めて、東京・中野区と豊島区の区議選でゲイであることをオープンにしている候補が当選しました。石坂わたるさんと、石川大我さんです。

オバマはゲイのカップルが養子を持つ権利、職場での差別禁止法、現行のゲイの従軍禁止政策の撤廃を含め、LGBTの人たちに全般の平等権をもたらす法案を支持すると約束しています。「それはアメリカの建国精神の課題であり、結果、すべてのアメリカ人が利益を受けることだからだ」と言っています。裏読みすればLGBTの人々は今もなお、それだけ法的な不平等を強いられているということです。同性婚の問題はいまも重大な政治課題の1つです。

LGBTの人たちはべつに闇の住人でも地下生活者でもありません。ある人は警官や消防士でありサラリーマンや教師や弁護士や医者だったりします。きちんと税金を払い、法律を守って生きています。なのに自分の伴侶を守る法律がない、差別されたときに自分を守る法律がない。

人権問題がすぐれて政治的な問題になるのは当然の帰着です。欧米の人権先進国では政治が動き出しています。先月末、モスクワの同性愛デモが警察に弾圧されたため、米国や欧州評議会が懸念を表明して圧力をかけたのもそれが背景です。

6月最終日曜、今年は26日ですが、恒例のLGBTプライドマーチが世界各地で一斉に執り行われます。ニューヨークでは五番街からクリストファーストリートへ右折して行きますが、昨年からかな、出発点はかつての52丁目ではなくてエンパイアステート近くの36丁目になっています。これは市の警察警備予算の削減のためです。なんせ数十万人の動員力があるので、配備する警備警官の時間外手当が大変なのです。

さて、メディアでは奇抜なファッションばかりが取り上げられがちですが、数多くの一般生活者たちも一緒に歩いています。マーチ(パレード)の政治的なメッセージはむしろそちら側にあります。もちろん、「個人的なことは政治的なこと」ですが、パレードを目にした人はぜひ、派手さに隠れがちな地味な営みもまた見逃さないようにしてください。

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LESBIAN, GAY, BISEXUAL, AND TRANSGENDER PRIDE MONTH, 2011
2011年レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・プライド月間
BY THE PRESIDENT OF THE UNITED STATES OF AMERICA
アメリカ合州国大統領による

A PROCLAMATION
宣言


The story of America's Lesbian, Gay, Bisexual, and Transgender (LGBT) community is the story of our fathers and sons, our mothers and daughters, and our friends and neighbors who continue the task of making our country a more perfect Union. It is a story about the struggle to realize the great American promise that all people can live with dignity and fairness under the law. Each June, we commemorate the courageous individuals who have fought to achieve this promise for LGBT Americans, and we rededicate ourselves to the pursuit of equal rights for all, regardless of sexual orientation or gender identity.

アメリカのLGBTコミュニティの物語は、私たちの国をより完全な結合体にしようと努力を続ける私たちの父親や息子、母親や娘、そして友人と隣人たちの物語です。それはすべての国民が法の下での尊厳と公正とともに生きられるという偉大なアメリカの約束を実現するための苦闘の物語なのです。毎年6月、私たちはLGBTのアメリカ国民のためにこの約束を達成しようと戦ってきた勇気ある個人たちを讃えるとともに、性的指向や性自認に関わりなくすべての人々に平等な権利を追求しようとの思いを新たにします。

Since taking office, my Administration has made significant progress towards achieving equality for LGBT Americans. Last December, I was proud to sign the repeal of the discriminatory "Don't Ask, Don't Tell" policy. With this repeal, gay and lesbian Americans will be able to serve openly in our Armed Forces for the first time in our Nation's history. Our national security will be strengthened and the heroic contributions these Americans make to our military, and have made throughout our history, will be fully recognized.

大統領に就任してから、私の政府はLGBTのアメリカ国民の平等を達成するために目覚ましい前進を成し遂げました。昨年12月、私は光栄にも差別的なあの「ドント・アスク、ドント・テル」【訳注:米軍において性的指向を自らオープンにしない限り軍務に就けるという政策】の撤廃に署名しました。この政策廃止で、ゲイとレズビアンのアメリカ国民は我が国史上初めて性的指向をオープンにして軍隊に勤めることができるようになります。我が国の安全保障は強化され、ゲイとレズビアンのアメリカ国民が我が軍に為す、そして我が国の歴史を通じてこれまでも為してきた英雄的な貢献が十全に認知されることになるのです。

My Administration has also taken steps to eliminate discrimination against LGBT Americans in Federal housing programs and to give LGBT Americans the right to visit their loved ones in the hospital. We have made clear through executive branch nondiscrimination policies that discrimination on the basis of gender identity in the Federal workplace will not be tolerated. I have continued to nominate and appoint highly qualified, openly LGBT individuals to executive branch and judicial positions. Because we recognize that LGBT rights are human rights, my Administration stands with advocates of equality around the world in leading the fight against pernicious laws targeting LGBT persons and malicious attempts to exclude LGBT organizations from full participation in the international system. We led a global campaign to ensure "sexual orientation" was included in the United Nations resolution on extrajudicial execution — the only United Nations resolution that specifically mentions LGBT people — to send the unequivocal message that no matter where it occurs, state-sanctioned killing of gays and lesbians is indefensible. No one should be harmed because of who they are or who they love, and my Administration has mobilized unprecedented public commitments from countries around the world to join in the fight against hate and homophobia.

私の政府はまた連邦住宅供給計画におけるLGBTのアメリカ国民への差別を撤廃すべく、また、愛する人を病院に見舞いに行ける権利を付与すべく手続きを進めています。さらに行政機関非差別政策を通じ、連邦政府の職場において性自認を基にした差別は今後許されないとする方針を明確にしました。私はこれからも行政や司法機関の職において高い技能を持った、LGBTであることをオープンにしている個人を指名・任命していきます。私たちはLGBTの権利は人権問題であると認識しています。したがって私の政府はLGBTの人々を標的にした生死に関わる法律や、またLGBT団体の国際組織への完全な参加を排除するような悪意ある試みに対する戦いを率いる中で、世界中の平等の擁護者に味方します。私たちは裁判を経ない処刑を非難する国連決議に、「性的指向」による処刑もしっかりと含めるための世界的キャンペーンを率先してきました。これは明確にLGBTの人々について触れた唯一の国連決議であり、このことで、国家ぐるみのゲイとレズビアンの殺害は、それがどこで起ころうとも、弁論の余地のないものであるという紛うことないメッセージを送ってきました。何人も自分が誰であるかによって、あるいは自分の愛する者が誰であるかによって危害を加えられることがあってはなりません。そうして私の政府は世界中の国々から憎悪とホモフォビア(同性愛嫌悪)に反対する戦列に加わるという先例のない公約を取り集めてきました。

At home, we are working to address and eliminate violence against LGBT individuals through our enforcement and implementation of the Matthew Shepard and James Byrd, Jr. Hate Crimes Prevention Act. We are also working to reduce the threat of bullying against young people, including LGBT youth. My Administration is actively engaged with educators and community leaders across America to reduce violence and discrimination in schools. To help dispel the myth that bullying is a harmless or inevitable part of growing up, the First Lady and I hosted the first White House Conference on Bullying Prevention in March. Many senior Administration officials have also joined me in reaching out to LGBT youth who have been bullied by recording "It Gets Better" video messages to assure them they are not alone.

国内では、私たちはマシュー・シェパード&ジェイムズ・バード・ジュニア憎悪犯罪予防法【訳注:前者は98年10月、ワイオミング州ララミーでゲイであることを理由に柵に磔の形で殺された学生の名、後者は97年6月、テキサス州で黒人であることを理由にトラックに縛り付けられ引きずり回されて殺された男性の名。同法は09年10月に署名成立】の施行と執行を通してLGBTの個々人に対する暴力に取り組み、それをなくそうとする作業を続けています。私たちはまたLGBTを含む若者へのいじめの脅威を減らすことにも努力しています。私の政府はアメリカ中の教育者やコミュニティの指導者たちと活発に協力し合い、学校での暴力や差別を減らそうとしています。いじめは成長過程で避けられないもので無害だという神話を打ち払うために、私は妻とともにこの3月、初めていじめ防止のホワイトハウス会議を主催しました。いじめられたLGBTの若者たちに手を差し伸べようと多くの政府高官も私に協力してくれ、「It Gets Better」ビデオを録画してきみたちは1人ではないというメッセージを届けようとしています【訳注:一般人から各界の著名人までがいじめに遭っている若者たちに「状況は必ずよくなる」という激励と共感のメッセージを動画投稿で伝えるプロジェクト www.itgetsbetter.org】。

This month also marks the 30th anniversary of the emergence of the HIV/AIDS epidemic, which has had a profound impact on the LGBT community. Though we have made strides in combating this devastating disease, more work remains to be done, and I am committed to expanding access to HIV/AIDS prevention and care. Last year, I announced the first comprehensive National HIV/AIDS Strategy for the United States. This strategy focuses on combinations of evidence-based approaches to decrease new HIV infections in high risk communities, improve care for people living with HIV/AIDS, and reduce health disparities. My Administration also increased domestic HIV/AIDS funding to support the Ryan White HIV/AIDS Program and HIV prevention, and to invest in HIV/AIDS-related research. However, government cannot take on this disease alone. This landmark anniversary is an opportunity for the LGBT community and allies to recommit to raising awareness about HIV/AIDS and continuing the fight against this deadly pandemic.

今月はまた、LGBTコミュニティに深大な衝撃を与えたHIV/AIDS禍の出現からちょうど30年を数えます。この破壊的な病気との戦いでも私たちは前進してきましたが、まだまだやるべきことは残っています。私はHIV/AIDSの予防と治療介護の間口をさらに広げることを約束します。昨年、私は合州国のための初めての包括的国家HIV/AIDS戦略を発表しました。この戦略は感染危険の高いコミュニティーでの新たな感染を減らし、HIV/AIDSとともに生きる人々への治療介護を改善し、医療格差を減じるための科学的根拠に基づくアプローチをどう組み合わせるかに焦点を絞っています。私の政府はまた、ライアン・ホワイトHIV/AIDSプログラムやHIV感染予防を支援し、HIV/AIDS関連リサーチ事業に投資するための国内でのHIV/AIDS財源を増やしました。しかし、政府だけでこの病気に挑むことはできません。30周年というこの歴史的な年は、LGBTコミュニティとその提携者たちがHIV/AIDS啓発に取り組み、この致命的な流行病との戦いを継続するための再びの好機なのです。

Every generation of Americans has brought our Nation closer to fulfilling its promise of equality. While progress has taken time, our achievements in advancing the rights of LGBT Americans remind us that history is on our side, and that the American people will never stop striving toward liberty and justice for all.

アメリカ国民のすべての世代が私たちの国を平等の約束の実現により近づかせようとしてきました。その進捗には時間を要していますが、LGBTのアメリカ国民の権利向上の中で私たちが成し遂げてきたことは、歴史が私たちに味方しているのだということを、そしてアメリカ国民は万人のための自由と正義とに向かってぜったいに歩みを止めないのだということを思い出させてくれます。

NOW, THEREFORE, I, BARACK OBAMA, President of the United States of America, by virtue of the authority vested in me by the Constitution and the laws of the United States, do hereby proclaim June 2011 as Lesbian, Gay, Bisexual, and Transgender Pride Month. I call upon the people of the United States to eliminate prejudice everywhere it exists, and to celebrate the great diversity of the American people.

したがっていま、私、バラク・オバマ、アメリカ合州国大統領は、合州国憲法と諸法によって私に与えられたその権限に基づき、ここに2011年6月をレズビアンとゲイとバイセクシュアル、トランスジェンダーのプライド月間と宣言します。私は合州国国民に、存在するすべての場所での偏見を排除し、アメリカ国民の偉大なる多様性を祝福するよう求めます。

IN WITNESS WHEREOF, I have hereunto set my hand this thirty-first day of May, in the year of our Lord two thousand eleven, and of the Independence of the United States of America the two hundred and thirty-fifth.

以上を証するため、キリスト暦2011年かつアメリカ合州国独立235年の5月31日、私はこの文書に署名します。

BARACK OBAMA
バラク・オバマ

May 03, 2011

ビン・ラーデンの「死」

タイムズ・スクエアもグラウンド・ゼロもホワイトハウス前も数百人、数千人の人たちの歓声と「USA! USA!」の連呼で埋まりました。2日朝のトーク番組も「ジョイアス・デイ(歓喜の日)が明けました」と始める司会者がいました。CNNも「アメリカ人が最も望んでいたことが起きた」と言うし、NYポストは例によって「GOT HIM!」です。ひどかったのはフォックス・ニュースが(ドサクサに紛れて?)オサマじゃなくて「オバマ・ビン・ラーデン殺害」とやって相変わらずだったこと。まあ、イラクの位置をエジプトと間違えたり、日本の核施設にShibuya Eggmanを含めたりという放送局ですからね。

ところでこの狂喜のさまには見覚えがあります。湾岸戦争の時もイラク侵攻の時も、同じ種類の歓呼が起きました。アメリカ中が星条旗で溢れ、当時の両ブッシュ大統領の支持率も80%とかに跳ね上がりました。その他の声は掻き消されるか、あるいはもともと存在さえしないかのように思えました。

日本でもこんな狂騒ばかりが報道されているせいでしょう。「人を殺しておいてこんなに喜ぶなんてアメリカ人って信じられない」という反応が数多く見られます。

ただ、そういう人は日本にも、おそらくきっと同じくらいいる。日本にもこういうときに熱狂して国旗を振り回す人は少なくないはずです。そうして、こういうときはそういう人たちの国名の連呼の方が大きく聞こえるし、メディアもそういう人たちの声の方が伝えやすい。いまアメリカから見えているのはそういう部分です。

こういうときに「まだ容疑者だったのだから殺害せずに取り調べるべきだった」とか「アメリカって野蛮だ」とかと言うと、それこそ空気が読めないヤツということになりましょう。だからそういう内省的な声はいま、鳴りを潜めている。いつもこうでした。でも、アメリカにはそういう声が聞こえはじめる時が必ず来る。この国はそんな2つがせめぎあう国なのです。だいたいイラク戦争にだっていまでは50%以上が反対しているのです。そういう声はメディアでは大きく取り上げられませんが。

印象的な写真があります。NYタイムズが2日未明にツイッターで紹介していたものです。グラウンド・ゼロに集まって熱狂する人ごみから1人離れて、消防士なんでしょうか、FDNYと書いてあるTシャツを着た男性が金網にしがみついて泣いている写真でした。

9.11の後、遺族や343人もの同僚を失ったFDNYの消防士たちを取材して、仇討ちの成就に対するある種の歓喜はわからなくもないのです。しかしそれをわかった上で、空気を読めないからではなく読んでいるからこそ、仇討ちでは解決しないものがあると言わなくてはならない。個人の死は等しく悲しいと言わねばなりません。

そう思うんだ、と言ったら、アメリカ人の友人から次のような引用がメールで送られてきました。

"no problem can be solved with the same kind of thinking that created it"
-albert einstein

「いかなる問題も、それを生み出したと同じ種類の思考によっては解決に至らない」
 ──アルバート・アインシュタイン

ところで、ジョージ・W・ブッシュが9.11直後の10年前に言ってたことですが、「ビン・ラーデンというのはネットワークの代表者の名前だ」という事実は、ブッシュにしてはよいところをついたものでした。ビン・ラーデンは死にません。なぜならそれは概念の名前であり、個人の殺害とは無関係なのです。そう、だからこそCIAは殺害後すぐに彼を海の中に葬った(と発表した)のです。イスラム教もキリスト教も同じなのですが、とにかく聖遺物があるとそこが聖地になる。彼を殉教者として祀らせない、聖地を作らせない、それが水葬の意味でした。まあそれも、同じ種類の思考方法の中の、手当に過ぎませんが。

殺害の成功を報告する1日深夜の10分ほどのオバマの大統領会見は、9.11の回顧からこの10年をなぞって「私たちは1つのアメリカの家族として団結した」と総括しました。全体を貫く「アメリカ的なものを守った」というトーンは、もちろん来年の大統領選挙を見つめたものでもありました。

オバマの支持率はこれで少し回復するでしょう。とりわけ、7月に予定していたアフガン撤退が、ビン・ラーデンの殺害という一区切りを得ながら着手できるということは大きい。さらに、これで巨大な財政赤字の元凶である軍事費の削減にも手をつけられます。おまけに今年の9.11の10周年には、オバマはヒーローとして登場することになるはずですから。なにかと批判の多いリビア攻撃にも、これで「任せておけ」という雰囲気ができるかもしれません。なにより、ビン・ラーデン殺害を喜んでいるのは、かつてオバマを支持し、しかしいっこうに好転しない就職事情や政治状況に悲観的になってオバマ離れをしていた若者たちにも多いのですから、彼らのオバマ回帰が始まるかもしれないのです。

オバマもまた、彼を取り巻く人々によって作り上げられた大統領です。つまり、ビン・ラーデンの殺害をも選挙に利用するネットワークの代表者の名前でもあるのです。

September 28, 2010

まずは検察が変だ

尖閣諸島沖の中国漁船船長の逮捕・勾留は、「国内法に基づき粛々と対応する」という菅政権の方針に反して、那覇地検が国益や外交上の配慮を理由に処分保留での釈放という措置をとりました。これには呆気にとられました。

菅政権の対応のちぐはぐさも問題ですが、それ以前に変だったのは那覇地検次席の記者会見でした。職務外である外交上の配慮を被疑者釈放の理由にし、その権限逸脱を検察自らが記者会見で明かしたのです。なぜ記者会見で釈放の理由を「我が国国民への影響や今後の日中関係を考慮」したと述べる必要があったのか?

ここはむしろ、中国からの圧力とは関係なく、純粋に検察の職務である「捜査の結果」として処分保留の釈放を判断したと言い張っても何の不都合もなかった。それが茶番であることも重々承知の上で、そう言い切ることこそがこれまでの官僚たちの対応でした。

それが今回は違った。そもそも逮捕から勾留に進んでも外交問題には発展しないと外務省が読み違えたのがバカな話なのですが、いずれにしてもその結果、日本ではいまそんな官僚側の不手際を問題とするより「中国になめられた」「国辱だ」という対中国への怒りと不満が充満しています。

しかしあの那覇地検の会見を聞いて以来、いったい菅政権と検察のあいだに何があったのか、それが気になってしょうがない。中国になめられる云々前にそもそも検察が政府をなめてかかったんじゃないか、というのが1つの見方です。

船長釈放に当たって検察が政府から圧力を受けたことは確かです。検察が独自に勾留途中の被疑者を釈放するということはあり得ません。ところが検察としては、村木裁判での無罪、さらには証拠フロッピーの日付改ざん問題と、どんどん風当たりが強くなる現在、そこに勾留延長期間での船長釈放とでもなれば意味が通じない。ここはなんとしても自分たちの苦渋の判断を説明しなければならない。それでなければ対中国の日本の弱腰対応という批判が検察に集中してしまうことは目に見えています。そこでその「弱腰」の責任の所在を、「これは検察の判断ではなく政府の判断だ」と言い逃れをした、というのが今回の内情ではないか、という見方です。それこそ、そう発表することで日本の国益や外交上のメンツを著しく損なうことなどお構いなしに。

そうだとすると今回、検察は自己保全のためには国益をも犠牲にするのを厭わなかったということです。官僚制度vs民主党などという高尚な対決構図や意趣返しでも何でもない。これは後先かまわぬ自己防衛です。日本の官僚制はそこまで児戯に等しく幼児退行したということです。会見であんなことを言わなければ、船長釈放措置はこれほど「政治的」にはならなかったのですから。

しかしいま1つは、それを承知の上で菅政権が検察に罪を着せたという見方。面倒臭い外交上の言い訳も何も、ぜんぶ検察に言わせてしまえ、という政権の指図があったのか? まあねえ、そんなに今の内閣と検察が通じているとは思えないのですがね。

じつは中国政府の一連の抗議の中で「中国は強い報復措置をとる。その結果はすべて日本側が負うことになる」という警告が何度か発せられました。これはもちろん中国国内向けのアナウンスでもあるのですが、この文体、聞き覚えがあるでしょう? そう、あの北朝鮮とまったく同じものなんですね。ああ、中国ってこういう国だったんだ、と改めて思ったのは私だけではないでしょう。世界中の民主国のすべてがきっとそう感じたはずです。

そのとき、なめられようが国辱だろうが、そういう下品な恫喝のコメントを発する必要のない日本を私は誇らしく思いました。中国や北朝鮮とは違う、成熟した文化国家だと思った。むしろそれが外交上の重要な武器だとも思いました。実際、あの発言で、そして例のレアアースの禁輸措置で、世界各国の中国評価は一気に下がりました。というか熱が冷めて冷静になったと言いましょうか。事実、それらを背景にアメリカもまた中国への間接的なメッセージを発したのです。クリントン国務長官が尖閣諸島は日米安全保障の範囲内と発言したのは、その1つです。もっとも、実際に武力衝突が起きた場合に米軍が出るかというのはぜんぜん別問題ですが。

これは中国の敵失なのです。日本はこういうときにしっかりとそれを逆手に取って外交上の切り返しに使わねばならない。武力を行使しない日本は、そういう論理でしか対抗できないのですから。それが成熟した民主主義国の対応というものなのです。

しかしあの那覇地検の会見やその後の政府の答弁を聞いていて、ともするとこれは成熟などではなく、日本という国家システムの、単に未熟な幼児的思考放棄の姿だったのではなかったかとの思いもぬぐい去れない。今後、問題の漁船衝突のビデオは公開されるのでしょうか? 諸外国にどういうレアメタル貿易の需給構造の再構築を働きかけるのでしょうか? そういう経済的な安全保障をどう作って行くのでしょう? そのイニシアティヴを取ろうという意志も兆しも、菅政権に、はたして見えていますか?

中国の強硬姿勢は国内向けですからいずれ軟化するでしょうが、中国をやわらかく包囲する新たな外交システムを展開しなければならないときに、ともすると今回の那覇地検の会見に垣間見られたような日本国内での行政システムの崩壊が起きているのかもしれません。それは慄然とする話です。

August 04, 2010

クローゼットな言語

「イマーゴ」という、今はなき雑誌に依頼されて書いた原稿を、昨日のエントリーに関連してここにそのまま再掲します。書いたのは2001年3月って文書ファイル記録にあるんですけど、当のイマーゴは96年に休刊になってるんで、きっと1995年11月号の「ゲイ・リベレイション」特集でしょうね。へえ、私、15年前にこんなこと考えてたんだ。時期、間違ってたら後ほど訂正します。

では、ご笑読ください。

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クローゼットな言語----日本語とストレートの解放のために


 「地球の歩き方」という、若い旅行者の自由なガイドブックを気取った本の「ニューヨーク」グリニッチ・ヴィレッジの項目最初に、「(ヴィレッジは)ゲイの存在がクローズ・アップされる昨今、クリストファー通りを中心にゲイの居住区として有名になってしまった。このあたり、夕方になるとゲイのカップルがどこからともなく集まり、ちょっと異様な雰囲気となる」と書かれている。「ブルータス」という雑誌のニューヨーク案内版では「スプラッシュ」というチェルシーのバーについて「目張りを入れた眼でその夜の相手を物色する客が立錐の余地なく詰まった店で、彼ら(バーテンダーたち=筆者註)の異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」とある。マックの最終案内という文言に惹かれて買ったことし初めの「mono」マガジンと称する雑誌の「TREND EYES」ページに、渋谷パルコでの写真展の紹介があったが、ここには「〝らお〟といっても(中略)〝裸男〟と表記する。つまり男のヌード。(中略)男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」とある。

 この種の言説はいたるところに存在する。無知、揶揄、茶化し、笑い、冷やかし、文章表現のちょっとした遊び。問題はしかし、これらの文章の筆者たち(いずれも無記名だからフリーランス・ライターの下請け仕事か、編集部員の掛け持ち記事なのだろう)の技術の拙さや若さゆえの考え足らずにあるのではない。

 集英社から九三年に出された国語辞典の末尾付録に、早稲田大学の中村明が「日本語の表現」と題する簡潔にまとまった日本語概論を載せている。その中に、日本では口数の多いことは慎みのないことで、寡黙の言語習慣が育った、とある。「その背景には、ことばのむなしさ、口にした瞬間に真情が漏れてしまう、ことばは本来通じないもの、そういった言語に対する不信感が存在したかもしれない」「本格的な長編小説よりは(中略)身辺雑記風の短編が好まれ、俳句が国民の文学となったのも、そのことと無関係ではない」として、「全部言い尽くすことは避けようとする」日本語の特性を、尾崎一雄や永井龍男、井伏や谷崎や芥川まで例を引きながら活写している。

 中村の示唆するように、これは日本語の美質である。しかし問題は、この美しさが他者を排除する美しさであるということである。徹底した省略と含意とが行き着くところは、「おい、あれ」といわれて即座にお茶を、あるいは風呂の、燗酒の、夕食の支度を始める老妻とその夫との言葉のように、他人の入り込めない言語であるということだ。それは心地よく面倒もなく、他人がとやかく言える筋合いのものではない関係のうちの言語。わたしたちをそれを非難できない。ほっといてくれ、と言われれば、はい、わかりましたとしか言えない。

 この「仲間うちの言語」が老夫婦の会話にとどまっていないところが、さらに言えば日本語の〝特質〟なのである。いや、断定は避けよう。どの言語にも仲間うちの符丁なるものは存在し、内向するベクトルは人間の心象そのものの一要素なのだから、多かれ少なかれこの種の傾向はどの社会でも見られることだろう。しかし冒頭の三例の文言が、筆者の幻想する「わたしたち」を土台に書かれたことは、自覚的かそうではないかは無関係に確かなことのように思われる。「ゲイの居住区として有名になってしまった」と記すときの「それは残念なことだが」というコノテイションが示すものは、「わたしたち」の中に、すなわちこの「地球の歩き方」の読者の中に「ゲイは存在しない」ということである(わたしのアパートにこの本を置いていったのは日本からのゲイの観光客だったのだが)。「異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」というときの「変だというか、こんなんでよいのだろうかというか、予想外というか、つまり、ナンなんでしょうか?」という表現の節約にあるものは、「あなたもわかるよね」という読者への寄り掛かりであり、あらかじめの〝共感〟への盲信である。「男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」という、いわずもがなのわざわざの〝お断り〟は、はて、何だろう? 取材した筆者もあなたと同じく男の裸なんか見たくもないと思ってるんだが、そこはそれ、仕事だから、ということなのだろうか? それとも三例ともにもっとうがった見方をすれば、この三人の筆者とも、みんなほんとうはクローゼットのゲイやレズビアンで、わざとこういうことを書き記して自らの〝潔白〟を含意したかったのだろうか……。

 前述したように、内向する言語の〝美質〟がここではみごとに他者への排除に作用している。それは心地よく面倒くさくもなく多く笑いをすら誘いもするが、しかしここでは他人がとやかく言える類のものに次元を移している。彼らは家庭内にいるわけでも老夫婦であるわけでもない。治外法権は外れ、そしてそのときに共通することは、この三例とも、なんらかの問い掛けが(予想外に)なされたときに答える言葉を有していないということである。問い掛けはどんなものでもよい。「どうしてそれじゃだめなの?」でもよいし、「ナンでしたって、ナンなの?」でもよいし、「何が言いたいわけ?」でもよろしい。彼らは答えを持っていない。すなわち、この場合に言葉はコミュニケイトの道具ではなく、失語を際だたせる不在証明でしかなくなる。そして思考そのものも停止するのだ。


 ここに、おそらく日本でのレズビアン&ゲイ・リベレイションの困難が潜在する。

 ことはしかしゲイネスに限らない。日本の政治家の失言癖がどうして何度も何度も繰り返されるのか、それは他者を排除する内輪の言葉を内輪以外のところで発言することそのものが、日本語環境として許されている、あるいは奨励されすらしているからである(あるときはただただ内輪の笑いを誘うためだけに)。「考え足らず」だから「言って」しまうのではない。まず内輪の言語を「言う」ことがアプリオリに許されているのである。「考え」はその「許可」を制御するかしないかの次の段階での、その個人の品性の問題として語られるべきだ。冒頭の段落で三例の筆者たちを「技術の拙さや若さゆえの考え足らず」で責めなかったのはその由である(だからといって彼らが赦免されるわけでもないが)。どうして「いじめ」が社会問題になるほどに陰湿なのか、それは「言葉」という日向に子供たちの(あるいは大人たちの)情動を晒さないからだ。「言葉じゃないよ」という一言がいまでも大手を振ってのさばり、思考を停止させるという怠慢に〝美質〟という名の免罪符を与えているからだ。だいたい、「言葉じゃないよ」と言う連中に言葉について考えたことのある輩がいたためしはない。

 すべてはこの厄介な日本語という言語環境に起因する。この厄介さの何が困るかといって、まず第一は多くの学者たちが勉強をしないということである。かつて六、七年ほど以前、サイデンス・テッカーだったかドナルド・キーンだったかが日本文学研究の成果でなにかの賞を受けたとき、ある日本文学の長老が「外国人による日本文学研究は、いかによくできたものでもいつもなにか学生が一生懸命よくやりましたというような印象を与える」というようなことをあるコラムで書いた。これもいわば内輪話に属するものをなんの検証(考え)もなく漏らしてしまったという類のものだが、このうっかりの吐露は一面の真実を有している。『スイミングプール・ライブラリー』(アラン・ホリングハースト著、早川書房)の翻訳と、現在訳出を終えたポール・モネットの自伝『Becoming a Man(ビカミング・ア・マン--男になるということ)』(時空出版刊行予定)の夥しい訳註を行う作業を経てわたしが感じたことは、まさにこの文壇長老の意味不明の優越感と表面的にはまったく同じものであった。すなわち、「日本人による外国文学研究は、いかによくできたものであっても、肝心のことがわかっていない小賢しい中学生のリポートのような印象を与える」というものだったのである。フィクション/ノンフィクションの違いはあれ、前二者にはいずれも歴史上実在するさまざまな欧米の作家・詩人・音楽家などが登場する。訳註を作るに当たって日本のさまざまな百科事典・文学事典を参照したのだが、これがさっぱり役に立たなかった。歴史のある側面がそっくり欠落しているのだ。

 芸術家にとって、あるいはなんらかの創造者にとって、セクシュアリティというものがどの程度その創造の原動力になっているのかをわたしは知らない。数量化できればよいのだろうが、そういうものでもなさそうだから。だがときに明らかに性愛は創造の下支えにとして機能する。あるいは創造は、性愛の別の形の捌け口として存在する。

 たとえば英国の詩人バイロンは、現在ではバイセクシュアルだったことが明らかになっている。トリニティ・カレッジの十七才のときには同学年の聖歌隊員ジョン・エデルストンへの恋に落ちて「きっと彼を人類のだれよりも愛している」と書き、ケンブリッジを卒業後にはギリシャ旅行での夥しい同性愛体験を暗号で友人に書き記した手紙も残っている。この二十三才のときに出逢ったフランス人とギリシャ人の混血であるニコロ・ジローに関しては「かつて見た最も美しい存在」と記し、医者に括約筋の弛緩方法を訊いたり(!)もして自分の相続人にするほどだった。が、帰国の最中に彼の死を知るのだ。その後、『チャイルド・ハロルドの巡礼』にも当初一部が収められたいわゆる『テュルザ(Thyrza)の詩』で、バイロンは「テュルザ」という女性名に託した悲痛な哀歌の連作を行った。この女性がだれなのかは当時大きな話題になったが、バイロンの生前は謎のままだった。いまではこれがニコロのことであったことがわかっている。

 『草の葉』で知られる米国の国民詩人ウォルト・ホイットマンはその晩年、長年の友人だった英国の詩人で性科学者のジョン・アディントン・シモンズに自らの性的指向を尋ねられた際に、自分は六人も私生児を作り、南部に孫も一人生きているとムキになって同性愛を否定する書簡を送った。これがずっとこの大衆詩人を「ノーマルな人物だった」とする保守文壇の論拠となり、さらにホイットマンが一八四八年に訪ねたニューオリンズ回顧の詩句「かつてわたしの通り過ぎた大きな街、そこの唯一の思い出はしばしば逢った一人の女性、彼女はわたしを愛するがゆえにわたしを引き留めた」をもってしてこの〝異性愛〟ロマンスが一八五〇年代『草の葉』での文学的開花に繋がったとする論陣を張った。しかしこれも現在では、その詩句の草稿時の原文が「その街のことで思い出せるのはただ一つ、そこの、わたしとともにさまよったあの男、わたしへの愛のゆえに」であることがわかっている。『草の葉』では第三版所収の「カラマス」がホモセクシュアルとして有名だが、それを発表した後の一八六八年から八〇年までの時期、彼がトローリー・カーの車掌だったピーター・ドイルに送った数多くの手紙も残っており、そこには結びの句として「たくさん、たくさん、きみへ愛のキスを」などという言葉が記されている。

 これらはことし刊行された大部の労作『THE GAY AND LESBIAN Literary Heritage』(Henry Holt)などに記されている一部であるが、同書の百六十数人にも及ぶ執筆者の、パラノイドとも見紛うばかりの原典主義情報収集力とそれを論拠としているがゆえの冷静かつ客観的な論理建ては、研究というものが本来どういうものであるのかについて、日米間の圧倒的な膂力の差を見せつけられる思いがするほどだ。日本のどんな文学事典でもよい、日本で刊行されている日本人研究者による外国文学研究書でもよい、前者二人に限らず、彼ら作家の創造の原動力となったもやもやしたなにかが、すべてはわからなくとも、わかるような手掛かりだけでもよいから与えてくれるようなものは、ほとんどないと言ってよい。



 「日米間の圧倒的な膂力の差」と一般論のように書きながら、厄介な日本語環境の困難さとしてこれを一般化するのではなく象徴的な二つの問題に限るべきだとも思う。

 一つは「物言わぬ日本語」の特質にかぶさる/重なるように、なぜその「もやもやしたなにか」がまがりなりにも表記され得ないのかは、「性的なるもの」に関しての「寡黙の言語習慣」がふたたび関係してくることが挙げられる(「もやもやしたなにか」がすべて性的なもので説明がつくと言っているわけではない)。日本語において議論というものが成立しにくいことは「他者を排除する言語習慣」としてすでに述べたが、そんな数少ない議論の中でもさらに「性的な問題」は議論の対象にはなりにくい。「性的なこと」が議論の対象になりにくいのは「性的なこと」が二人の関係の中でのみの出来事だと思われているからである。すなわち、「おい、あれ」の二人だけの閨房物語、「あんたにとやかく言われる筋合いのものではない」という、もう一つの、より大きいクローゼットの中の心地よい次元。そうして多くみんな、日本では性的なことがらに関してストレートもゲイもその巨大なクローゼットの中にいっしょに取り込まれ続ける。

 性的なことがらはしたがって学問にはなりにくい。クローゼットの中では議論も学問も成立しない。すなわち、「性科学」なる学問分野は日本では困難の二乗である。九月に北京で行われた国連世界女性会議で「セクシュアル・ライツ」に絡んで「セクシュアル・オリエンテイション」なる言葉が議論にのぼったとき、日本のマスメディア(読売、毎日、フジTV。朝日ほかは確認できなかった)はこれを無知な記者同士で協定でも結んだかのようにそろって「性的志向」と誤記した。「意志」の力では変えられないその個人の性的な方向性として性科学者たちがせっかく「性的指向」という漢字を当ててきた努力を、彼ら現場の馬鹿記者と東京の阿呆デスクと無学な校閲記者どもが瞬時に台無しにしてしまったのである。情けないったらありゃしない。

 考えるべきもう一つはクローゼットであることとアウト(カミング・アウトした状態)であることの差違の問題だ。先ほど引用した『ゲイ&レスビアン・リテラリー・ヘリテッジ』の執筆陣百六十人以上は、ほとんどがいずれも錚々たるオープンリー・ゲイ/レズビアンの文学者たちである。押し入れから出てきた彼らの情報収集の意地と思索の真摯さについては前述した。彼/彼女らの研究の必死さは、彼/彼女らの人生だけではなく彼/彼女のいまだ見知らぬ兄弟姉妹の命をも(文字どおり)救うことに繋がっており、大学の年金をもらうことだけが生き甲斐の怠惰な日本の文学研究者とは根性からして違うという印象を持つ。一方で、クローゼットたちは何をしているかといえば、悲しいかな、いまも鬱々と性的妄想の中でジャック・オフを続けるばかりだ。日本の文学研究者の中にも多くホモセクシュアルはいるが、彼らは一部の若い世代のゲイの学者を除いてむしろ自らの著作からいっさいの〝ホモっぽさ〟を排除する努力を重ねている。

 ここで気づかねばならないのは、「ホモのいやらしさ」は「ホモ」だから「いやらしい」のではないということだ。一般に「ホモのいやらしさ」と言われているものの正体は「隠れてコソコソ妄想すること」の「いやらしさ」なのであって、それは「ホモ」であろうがなかろうが関係ない。性的犯罪者はだいたいがきまってこの「クローゼット」である。犯罪として性的ないやらしいことをするのは二丁目で働くおネエさんやおニイさんたちではなく、隠れてコソコソ妄想し続ける小学校の先生だったりエリート・サラリーマンだったり大蔵省の官僚だったりする連中のほうなのだ。かつてバブル最盛期の西新宿に、入会金五十万円の男性売春クラブが存在した。所属する売春夫の少年たちは多くモデル・エイジェンシーやタレント・プロダクションの男の子たちで、〝会員〟たちの秘密を口外しないという約束のカタに全裸の正面写真を撮られた。これが〝商品見本〟として使われているのは明らかだった。ポケベルで呼び出されて〝出張〟するのは西新宿のある一流ホテルと決まっていて、一回十万円という支払いの〝決済〟はそのクラブのダミーであるレストランの名前で行われた。クレジット・カードも受け付けた。請求書や領収書もそのレストラン名で送られた。送り先は個人である場合が多かった。が、中に一流商社の総務部が部として会員になっている場合もあったのである。〝接待〟用に。

 これがすべて性をクローゼットに押し込める日本のありようだ。話さないこと、言挙げしないこと、考えないこと、それらが束になって表向き「心地よい」社会を形作っている。ゲイたちばかりかストレートたちまでもがクローゼットで、だからおじさんたちが会社の女の子に声をかけるときにはいつも、寝室の会話をそのまま持ち込んだような、いったん下目遣いになってから上目遣いに変えて話を始めるような、クローゼット特有の、どうしてもセクシュアル・ハラスメントめいた卑しい言葉遣いになってしまう。あるいは逆転して、いっさいの性的な話題をベッド・トークに勘違いして眉間にしわを寄せ硬直するような。性的な言挙げをしないのが儒教の影響だと宣う輩もいるが、わたしにはそれは儒教とかなんだとかいうより、単なる怠慢だとしか思われない。あるいは怠慢へと流れがちな人類の文化傾向。むしろ思考もまた、安きに流れるという経済性の法則が言語の習慣と相まって力を増していると考えたほうがよいと思っている。


 そのような言語環境の中で、すなわち社会全体がクローゼットだという環境の中で、リベレイションという最も言葉を必要とする運動を行うことの撞着。日本のゲイたちのことを考えるときには、まずはそんな彼/彼女たちのあらかじめの疲弊と諦観とを前提にしなければならないのも事実なのだ。このあらかじめの諦めの強制こそが、「隠れホモ」と蔑称される彼らが、その蔑称に値するだけの卑しい存在であり続けさせられている理由である。

 「日本には日本のゲイ・リベレイションの形があるはずだ」という夢想は、はたして可能なのだろうか? 「日本」という「物言わぬこと」を旨とする概念と「リベレイション」という概念とが一つになった命題とは、名辞矛盾ではないのか?

 ジンバブエ大統領であるロバート・ムガベがことし七月、「国際本の祭典」の開催に当たってゲイ団体のブースを禁止し、自分の国ではホモセクシュアルたちの法的権利などないと演説した際、これを取り上げたマスメディアは日本では毎日新聞の外信面だけだった。毎日新聞はいまでもホモセクシュアルを「ホモ」という蔑称で表記することがあり、同性愛者の人権についてのなんらの統一した社内基準を有していない。あそこの体質というか、いつも記者任せで原稿が紙面化される。逆にこのジンバブエの特派員電のように(小さな記事だったが)、記者が重要だと判断して送稿すれば簡単に紙面化するという〝美質〟も生まれる。ところでそのジンバブエだが、ニューヨーク・タイムズが九月十日付けで特派員ドナルド・G・マクニールの長文のレポートを掲載している。首都ハラレでダイアナ・ロスのそっくりさんとして知られるショウ・パフォーマーのドラッグ・クィーンを紹介しながら、「イヌやブタよりも劣るソドミストと変態」と大統領に呼ばれた彼らの生活の変化を報告しているのだが、ハラレにゲイ人権団体が設立されていて女装ショウがエイズ患者/感染者への寄付集めに開催されていること、ムガベが「英国植民地時代に輸入された白人の悪徳」とするホモセクシュアリティにそれ以前から「ンゴチャニ」という母国語の単語があること、などを克明に記してとても好意的な扱いになっている。

 ニューヨーク・タイムズがほとんど毎日のようにゲイ・レズビアン関連の記事を掲載するようになったのは九二年一月、三十代の社主A・O・ザルツバーガー・ジュニアが発行人になってからのことだ。それ以前にも八六年にマックス・フランクルが編集局長になってから「ゲイ」という単語を正式に同新聞用語に採用するなどの改善が行われていたが、同時にゲイであることをオープンにしていた人望厚い編集者ジェフリー・シュマルツがエイズでもカミング・アウトしたことが社内世論を形成したと言ってもよい。

 アメリカが「物言うこと」を旨とする国だと言いたいのではない。いや逆に、「物言うこと」を旨としているアメリカの言論機関ですら、ホモセクシュアリティについて語りだしたのがつい最近なのだということに留意したいのである。ホモセクシュアリティはここアメリカでも長く内輪の冷やかしの話題であり、自分たちとは別の〝人種〟の淫らな「アレ」だった。日本と違うのはそれが内輪の会話を飛び越えて社会的にも口にされるときに、そのまま位相を移すのではなくて宗教と宗教的正義の次元にズレることだ。つまり〝大義名分〟なしにはやはりこのおしゃべりな国の人々もホモセクシュアリティについては話せなかったのである。

 わたしの言いたいのは、日本語にある含意とか省略とか沈黙といった〝美質〟を壊してしまえということではない。そのクローゼットの言語次元はまた、壊せるものでもぜったいにない。ならば新たに別の次元を、つまりは仲間うちではなく他者を視野に入れた言語環境を、クローゼットから出たおおやけの言語を多く発語してゆく以外にないのではないかということなのだ。そしてそれを行うに、性のこと以上に「卑しさ」と(つまりはクローゼットの言語と)「潔さ」との(つまりはアウトの言語との)歴然たる次元の差異を明かし得る(つまりは本論冒頭の三つの話者のような連中が、書いて発表したことを即座に羞恥してしまうような)恰好の話題はないと思うのである。ちょうど「セクハラ」が恥ずかしいことなのだと何度も言われ続けどんどん外堀を埋められて、おじさんたちが嫌々ながらもそれを認めざるを得なくなってきているように。そうすればどうなるか。典型例は今春、ゲイ市場への販売拡大を目指してニューヨークで開かれた「全米ゲイ&レズビアン企業・消費者エキスポ」で、出展した二百二十五社の半数がIBMやアメリカン航空、アメリカン・エクスプレス、メリル・リンチ、チェイス・マンハッタン銀行、ブリタニカ百科事典などの大手を含む一般企業だったことだ。不動産会社も保険会社もあった。西新宿の秘密クラブではなく、コソコソしないゲイを経済がまず認めざるを得なくなる。

 インターネットにはアメリカを中心にレズビアン・ゲイ関連のホーム・ページが数千も存在している。エッチなものはほんの一握り、いや一摘みにも満たないが、妄想肥大症のクローゼットの中からはムガベの妄想するように「変態」しかいないと誤解されている。ここにあるのはゲイの人権団体やエイズのサポート・グループ、大学のゲイ・コミュニティ、文学団体、悩み相談から出版社、ゲイのショッピング・モールまで様々だ。日本で初めてできたゲイ・ネットにも接続できる。「MICHAEL」という在日米国人の始めたこのネットには二千五百人のアクティヴ・メンバーがいて、日本の既存のゲイ雑誌とは違う、よりフレンドリーなメディアを求める会員たちが(実生活でカミング・アウトしているかは別にしても)新たなコミュニケイションを模索している。「dzunj」というネット名を持つ男性はわたしの問い掛けにeメイルで応えてくれた。彼は「実は僕がネットにアクセスする気になったのも、もっと積極的にいろいろなことを議論してみたいという理由からだった」が、「ネット上の会話」では「真面目な会話は敬遠されるようです。ゲイネットこそ絶好の場であるはずなのに……」とここでも思考を誘わないわたしたち日本人の会話傾向を嘆いている。しかし彼のような若くて真摯な同性愛者たちの言葉が時間をかけて紡ぎ出されつつあることはいまやだれにも否定できない。「Caffein」というIDの青年は日系のアメリカ人だろうか、北海道から九州までの日本人スタッフとともに二百九十ページという大部の、おそらく日本では初めての本格的なゲイ情報誌を月刊で刊行しようとしている。米誌『アドヴォケート』の記者が毎月コラムを書き、レックス・オークナーという有名なゲイ・ジャーナリストが国際ニュースを担当するという。



 「ホモフォビア」という言葉がある。「同性愛恐怖症」という名の神経症のことだ。高所恐怖症、閉所恐怖症、広場恐怖症と同じ構造の言葉。同性愛者を見ると胸糞が悪くなるほどの嫌悪を覚えるという。長く昔から同性愛者は治療の対象として病的な存在とされてきた。しかしいまこの言葉が示すものは、高所恐怖症の改善の対象が「高い場所」ではないように、広場恐怖症の解決方法が「広場」の壊滅ではないように、同性愛恐怖症の治療の対象が「同性愛者」ではなく、彼/彼女らを憎悪する人間たちのほうだということなのである。その意味で、日本の同性愛者たちをいわれのない軽蔑や嫌悪から解放することは、とりもなおさず薄暗く陰湿な日本のストレートたちを、まっとうな、正常で健全な状態にアウトしてやることなのだ。そうでなければ、日本はどんどん恥ずかしい国になってしまうと、里心がついたかべつに愛国者ではないはずなのに思ってしまっている。         (了)

June 16, 2010

ヘレン・トーマス

ユダヤ系アメリカ人の伝統継承月間だった5月末、ユダヤ系オンラインサイトの記者に「イスラエルに関してコメントを」と請われ、勢いで「とっととパレスチナから出て行け(get the hell out of Palestine)」と答えてしまったヘレン・トーマスさんが記者引退に追い込まれました。私もワシントン出張の際に何度か会ったことのある今年で御年90歳の名物ホワイトハウス記者でした。

米メディアでは、彼女が続けて「ポーランドやドイツに帰ればいい」と答えた部分がナチスのホロコーストを連想させて問題だった、なんて具合に分析していましたが、はたしてそうなんでしょうか。

米国ではイスラエル批判がほとんどタブーになっています。タブーになっていることさえ明言をはばかれるほどに。

今回も、賛否両論並列が原則のはずの米メディアがいっせいにヘレンさん非難一色に染まりました。しかしだれもイスラエル批判のタブーそのものには言及しない。ヘレンさんはレバノン移民の両親を持つ、つまりアラブの血を引くアメリカ人です。だからパレスチナ寄りなんだと言う人もいますが、ことはそんなに単純ではないでしょう。

たとえばヘレンさんのこの発言後の5月31日に、封鎖されているパレスチナ人居住区ガザへの救援物資運搬船団が公海上でイスラエル軍に急襲され、乗船の支援活動家9人が射殺されるという大事件が起きました。ところがこんなあからさまな非道にさえも、米メディアはおざなりな報道しかしなかったし、オバマ大統領までもがこの期に及んでまだイスラエル非難を控えています。それに比してこのヘレン・バッシングはなんたる大合唱なのでしょう。アメリカでもこんなメディアスクラムが無批判に起こるのは、ことがイスラエル問題だからに違いありません。

じつは06年にアメリカで出版され、大変な論争を巻き起こした(つまり多く批判が渦巻いた)ジミー・カーターの「パレスチナ」という著作を、「カーター、パレスチナを語る|アパルトヘイトではなく平和を」(晶文社刊)というタイトルで2年前に日本で翻訳・出版しました。批判の原因は、アメリカの元大統領ともあろうメインストリームの人がこの本で堂々とイスラエル批判を展開したからです。

でもこの本の内容は、イスラエルが国際法を無視してパレスチナ占領地で重大な人権侵害を続けていることの告発と同時に、いまや10年近くも進展のない和平交渉を再開・進展させるための具体的な提言なのです。前者の事例も拡大を続けるイスラエル入植地、入植者専用道路によるパレスチナ人の土地の分断、無数の検問所によるパレスチナ人の移動の制限、分離壁の建設による土地の没収など、すべてカーター自身がその目で見てきた、そして米国外では広く認められている事実ばかりなのです。

なのに米国内ではほとんど反射的にこの本へのバッシングが起きた。とくにイスラエル人入植地や分離壁の建設政策を悪名高いあの南アの「アパルトヘイト」と同じ名で呼んだことが親イスラエル派を刺激したのでしょう。私も当時、ユダヤ系の友人にこの本を翻訳していることを教えたところ、露骨に「なんでまた?」という顔をされたのを憶えています。

ヘレンさんが生きてきた時代はジャーナリズムでさえもが男性社会でした。女人禁制だったナショナル・プレス・クラブでの当時のソ連フルシチョフ首相の会見を、彼女ら数人の女性記者が開放させたのは1959年のことです。

そんな強気の自由人が米国に隠然と存在するイスラエルに関する言論規制には勝てなかった。公の場でのイスラエル批判がキャリアを棒に振るに至る“暴挙”なのだとすれば、彼女の引退の理由は彼女の「失言」ではなく、「発言」そのものが原因だったのでしょう。

January 19, 2010

再び、ハイチ地震と日本

距離的にも近いし移民の数も多いからでしょうが、アメリカのハイチ地震への対応の早さは官民ともに見事でした。あまりに素早くかつ大規模なので、アメリカはハイチを占領しようとしているという左派からの批判もあるようですが、まあ、そこは緊急避難的な措置ということでそう目くじら立てても、他にそういうことをやってくれるところはないわけですし、って思っています。確かに航空管制とかもアメリカが肩代わりしてるようですしね。で、軍事的な貢献はしないと決めている日本は、だからこそこういうときにいち早く文民支援に立ち上がってほしいところなのですが、しかし今回もまた、今に至ってもまったく反応が著しく鈍いという印象です。

折しも日本のメディアは阪神淡路大震災15周年の特集を組んでテレビも新聞も大々的にあの地震からの教訓を伝えようとしていました。ところが、いま現在進行中のハイチ地震の支援についてはほとんど触れなかったのです。いったいどういうことなのでしょう? まるで何も見えていないかのように、阪神阪神と言っているだけ。そりゃ事前取材でテープを編集して番組に仕立て上げるという作業があったのかもしれないが、すこしは直前に手直しくらいできたでしょうに。ハイチ地震発生は12日。それから阪神淡路の15周年まで5日間あったんですから。あるいは大震災の教訓とはお題目だけで、実際はなにも得ていないのだという、これは大いなる皮肉なのでしょうか。小沢4億円問題も大変ですが、検察リークの明らかな世論誘導や予断記事を少し削って、もうちょっとハイチの悲惨について紙面や時間を割けないものかと思ってしまいます。

西半球で最貧国のハイチにはビジネスチャンスもほとんどないからというわけではないでしょうが、日本企業の支援立ち上がりもまったく目立ちません。一方で米企業の支援をまとめているサイトを見ると大企業は軒並み社員の募金と同額を社として上乗せして寄付すると宣言したりで、不況をものともせず雪崩れを打ったように名を連ねています。まあ、企業として税金控除ができるという制度の後押しもあるせいでしょうが。

それらをちょっと、日本でも知られている企業の例だけでも適当に抜き書きしてみましょうか。

▼アメリカン・エクスプレス;25万ドルを米国赤十字社、国境なき医師団、国際救援委員会、世界食糧計画友の会に。その他、アメックス社員の募金と同額を上乗せして寄付など。
▼アメリカン航空グループ(AMR);サイトを通じてアメリカ赤十字に寄付した人にその金額分のボーナスマイルを付与。ポルトープランスへの救援物資の輸送。
▼AT&T;携帯電話のテキストメーッセージで10ドルの寄付が米赤十字社に簡単にできるように設定。
▼バンク・オブ・アメリカ;100万ドルを寄付。うち50万ドルは米赤十字社へ。
▼キャンベルスープ;20万ドル。
▼キヤノン・グループ;22万ドルを米赤十字社へ。
▼シスコ基金;250万ドルを米赤十字社へ。そのほか社員募金と同額の寄付(上限100万ドル)
▼シティグループ;救援隊、医療用品器具、援助物資、衛星電話。
▼コカコーラ;米赤十字社へ100万ドル。
▼クレディスイス;100万ドルを米およびスイス赤十字社へ。
▼DHL;災害対応チームを派遣して空港でのロジスティックスに当たらせる。
▼ダウ・ケミカル;50万ドルを米赤十字社ハイチ地震援助基金へ。社員募金相当分を上限計25万ドルで世界食糧計画などに寄付。
▼デュポン;10万ドルを米赤十字社ハイチ援助基金に。
▼フェデラルエクスプレス;42万5000ドルを米赤十字社、救世軍などに。救援物資78パレット分を災害地に。総計で100万ドル以上。
▼ゼネラル・エレクトリック(GE);250万ドル。
▼ジェネラル・ミルズ基金;25万ドル。
▼ゴールドマン・サックス;100万ドル。
▼グーグル;100万ドルをユニセフとCAREへ。
▼グラクソ・スミス&クライン;抗生物質などの主に経口医薬品と現金。地方インフラの回復を待ってさらに供給予定。
▼GM基金;10万ドルを米赤十字社へ。
▼ヒューレット・パッカード;50万ドルを米赤十字社国際対応基金へ。社員募金と同額を上限25万ドルでグローバル・インパクトへ。
▼ホームデポ基金;10万ドルを米赤十字社へ。
▼IBM;技術およびサービスで15万ドル相当分。
▼インテル;25万ドル。および社員募金同額分を該当NGOへ。
▼JPモルガン・チェース;100万ドル。
▼ケロッグ;25万ドル。
▼KPMG;50万ドル。
▼クラフト・フーズ;2万5000ドル。
▼メジャーリーグ・ベースボール(MBL);100万ドルをユニセフに。
▼マスターカード;会員のポイントをカナダ赤十字社への現金募金に替えて振り込めるようにした。
▼マクドナルド;50万ドルを国際赤十字社連盟に。傘下のアルゼンチン企業の社員募金も同額分上乗せで計50万ドル寄付の予定。
▼マイクロソフト;125万ドル。その他、社員募金12000ドルを上限に同額を寄付。現地で活動のNGO要員へのMS社対応チームの派遣。
▼モルガン・スタンリー;100万ドル。
▼モトローラ;10万ドル。その他、上限25000ドルで社員募金に同額上乗せで寄付。
▼北米ネスレ・ウォーターズ;100万ドル相当分の飲料水
▼ニューズ・コープ;25万ドルを米赤十字社と救世軍に。その他25万ドルを上限に社員募金に同額上乗せでNGOに。
▼ニューヨーク・ヤンキーズ;50万ドル。
▼パナソニック;10万9962ドル(1000万円)。
▼ペプシコ;100万ドル。
▼トヨタ;50万ドルを米赤十字社、セイヴ・ザ・チルドレン、国境なき医師団に。
▼トイザらス;15万ドルをセイヴ・ザ・チルドレンに。
▼ユニリーヴァー;50万ドルを国連食糧計画に。
▼ヴェライゾン基金;10万ドル。携帯テキストで米赤十字社に寄付できるように変えた。
▼VISA;20万ドルを米赤十字社へ。
▼ウォルマート;50万ドルを米赤十字社へ。10万ドル相当の食糧パッケージを赤十字社へ。
▼ウォルト・ディズニー社;10万ドルを米赤十字ハイチ地震救援基金に。

  ……等々。これらは日本でも知られている名前を適当にピックアップしたもので、リストはこの倍以上あります。なお、リストは米時間19日午前の時点のものです。

電話会社ヴェライゾンとAT&Tは携帯のテキストメッセージで10ドルを寄付できる方法を広め、米市民からの募金は17日までに(地震発生後5日間)で1600万ドル(15億円)を突破したそうです。上記リストにはありませんが、アップルはアイチューンズ・ストアで楽曲やソフトを買うように寄付ができるようにもしています。米大リーグやNYヤンキーズが募金に名を連ねたのは、ハイチからの野球選手が多くいるからでしょうね。

思えば9・11もインド洋大津波の時もそうでした。世界の大災害に当たって、欧米の大企業はそのホームページを続々とお見舞いのデザインに変えていました。でもそのときも、日本の企業のホームページは相も変わらず自社の宣伝だけ。こんなに世界が大わらわなときに、能天気というか、危機管理ができてないというか、現実問題と隔絶してるというか、最も安上がりで手間も時間もかからない企業の社会貢献マーケティングのチャンスをみすみす見逃しているのです。

とはいえ、上記リストにはトヨタとパナソニックも名を連ねていますね。素晴らしい。いま両社のホームページを見たら、ちょこっと、控えめではありますが義援金の拠出についてニュースとして報告してありました。「わが社は◎◎ドルを寄付しました」ってHPに書き加えたって、こういう場合、だれも売名だなんて思いません。企業ってのは稼いでなんぼです。稼いで、それで堂々と寄付もする。それも次の稼ぎにつなげてまた寄付をする。そう、こういうことならどんどん売名すべし、です。

日本の企業にまた呼びかけます。御社のホームページ(トップページ)にいますぐハイチへのお見舞いの言葉を書き込むことです。そうしてそこからクリックで日本赤十字社なりへの募金ページに飛べるようにすることです。それだけで企業の社会意識の高さが示せます。それがCRMの初歩というものでしょう。それをぜひとも企業としてマニュアル化してほしい。

何度も言っていますが、私たちは超能力者じゃないから、なんでも言葉にしなくては通じないのです。お見舞いの言葉もそう。たとえ日本語で書いてあっても、企業としてのそのお見舞いの表明は消費者としての日本国民のお見舞いの言葉と募金に姿を変えて世界に表明されるはずです。

今回も、民主党政府になってからさえも、日本はまたフロリダにいた自衛隊の輸送機を使えないものかと調整してそれで時間を食って出遅れたようです。べつに自衛隊を使う使わないはいいから、そうじゃなくて、とにかく文民の発想で援助にいち早く立ち上がる。それが憲法9条を掲げる日本の国際貢献の基本形だと思います。

January 14, 2010

地震で壊滅的なハイチ支援の緊急呼びかけ

アメリカのTVニュースではハイチの惨状がずっと報道されています。とんでもないことになっています。マグニチュードこそ7.0と阪神大震災(M7.3)より小さかったといえ、震源の浅さと脆弱な建物の倒壊のために被害の規模は何十倍にも及んでいます。死者はともすると十万人を超えるとか言っています。被災人口は300万人!

国連の仲裁で亡命大統領だったアリスティードが復帰した1994年に取材でニューヨークからハイチに入りました。ポルトープランスはとても貧しい首都で、首都でそうなのですから地方はもっと困窮した事態でした。建物はすべて2階建てか3階建てで、木造の他、セメントブロックをただ積み上げただけの家が並んでいました。支柱もないこれらの家屋が軒並み倒壊したのです。ツイッターにもフェイスブックにもハイチの人々の悲鳴が溢れています。

日本での報道がどうなっているのか、日本政府の対応がどうなのか、チェックしていません。
こういうとき、どうすべきか。

民主党でも、社民党でも、いや、自民党のだれか、ここが政治家の出番だ、売名行為といわれてもよい、すぐにテレビでもラジオでも日本国民に募金を呼びかけることです。500円でも100円でも1000円でも、政府のおカネの手配が遅れるなら、一般人がカネを出し合って送ってやることです。それをやってますか?

もう1つ、日本の企業各社のホームページ(トップページ)をいますぐハイチへのお見舞いの言葉で始まるデザインに書き換えることです。そうしてそこからクリックで国際赤十字なりへの募金ページに飛べるようにすることです。銀行は寄付金の振り込み料を無料にするようシステムを変えることです。

阪神・淡路大震災、9.11、インド洋大津波、世界中の大災害で欧米の各企業と各政府の反応の素早かったこと。日本の企業はぜんぜん駄目でした。とにかくお見舞いを表明すること、そこからいろいろな行動が始まります。政府がやるというのではなく、日本人がみんなでハイチを考えてください。それが日本という国なのだと表明してください。

いま、欧米の企業や政府がみんなそれに取りかかっています。企業もホームページを書き換えています。
これを読んだあなたの会社でも、そうしてください。

つい2日前のブログでハウツー本をけなしましたが、これこそ、ハウツーの重要さです。
思いは形にしなければ伝わらないのです。

December 14, 2009

年越しの果てに見えてくるもの

小沢幹事長の600人大訪中団や習近平中国副主席の天皇会見設定などを見ていると、普天間移設問題で結論を先送りにしている日本の民主党は、実は東アジア全体の安全保障の根本的再構築を狙っているのかと思ってしまいます。膨大な国債依存関係の米中接近を横目に、米中だけでは決めさせないぞとも言わんばかりの日中接近。

にもかかわらず日本での報道は相変わらずです。普天間先送りでは「米国が激怒」とまるで米政府の代弁者のような論調。小沢訪中団に関しても「民主党の顔はやはり小沢」と、些末な党内事情へと矮小化して報道する。

普天間問題で日本の新聞に登場する米国のコメンテイターたちはマイケル・グリーンやアーミテージなどだいたいが共和党系、あるいはネオコン系の人たちで、従来の「揺るぎない」日米関係、つまり「文句を言わない日本」との日米同盟を前提としてきた人たちです。メディアは彼らを「知日派」と紹介して鳩山政権の対応の遅れやブレを批判させているのですが、彼らの「知日」は自民党政府と太いパイプを持っていたという意味であって、「知日」というより自民党政権のやり方に精通しているという意味なのです。だから、民主党政権の(不慣れな)やり方に、やはり彼らも不慣れなために、「前のやり方はこうではなかった」という戸惑いや批判を口にしているにすぎない。その証拠に、自民党に同じ質問をしてごらんなさい。彼らと同じコメントが出てくるはずです。新聞は、そんな浅薄な、というかいちばん手近なやり方で論難しているのです。

米国のルース駐日大使に関してもそうです。岡田会談から始まる政権との会談で対応の遅れに不満表明と報じられていますが、大使というのも指名ポストながらも役人なのです。米政府の役人が米政府の従来路線の踏襲とその事務的な執行を目指すのは当然であって、これまでに決まった米国の立場を説明する以外の権限がないのだから「困った」と言うに決まっています。それ以外、何を言えるのでしょう? まさか、「わかった、私が政策転換をオバマに進言しよう」と言いますか? それが「ルース大使、声を荒げる」とか、見てきたような作文まで“報道”する新聞もありました。

米国のメディアは米国の国益を基に主張しますが、日本のメディアまでが米国の国益を主張するのはいったいどういうねじれなのでしょう。

普天間問題では、日米の取り決めは「合意」であって「条約」でも「協定」でもないのだから、それを検討し直すのは実は外交上は「あり得べからぬこと」ではないのです。もちろん重要な日米関係、事は慎重に進めねばなりませんが。

しかし8000億ドルもの米国債を保有する中国を抱えて、米国の東アジア安全保障の概念も、冷戦時とは大きく様変わりしています。日中の経済関係もますます重要になってきます。「対共産主義の防波堤」だったはずの日本の米軍基地の位置づけも、いまや不安定な中東への東側からの中継地へとシフトしています。沖縄に80%を依存する日本の米軍基地とはいったい何なのか? それは果たしてそもそも必要なのか?

日米中の3国によるここでの新たな枠組みの構築は、21世紀の枢要な安全保障へと発展するはず。小沢はそのあたりを見据えているのではないか? あるいはまた、鳩山の「常駐なき安保」という路線はあながち今も生きているのかもしれません。その枠組みの中で沖縄をどうするのか、そう考えるとこれは性急に結論を出せるものでもないのかもしれない。

習近平副主席の天皇会見で中国に貸しを作った民主党は、まずは直近の安全保障問題である北朝鮮に関して何かを狙っているのではないかといううがった見方もできます。政府要人か党首脳の電撃訪朝と拉致問題の解決・進展なんていうのもあり得ない話ではないかもしれません。新年に向けて期待したいところです。

September 16, 2009

セメンヤ

あの、「両性具有」だとアウティングされた南アフリカの陸上選手キャスター・セメンヤ、24時間自殺監視措置になった。だれとも会いたがらないそうだ。18歳の子に、なんとひどいことをしたんだろう。

あれはリークだったんだね。
メディアがそれに飛びついた。なんのために?
表向きは世界陸上の公正性のために。しかし、心理的には化け物がいると言いふらしたかったゆえに。

公式な、違う内容と違う形での発表が出来たはずなのに。
こんな残酷なことはない。

Gender Row Runner Semenya Placed On Suicide Watch

Monday, September 14, 2009 at 5:54:53 PM

South African runner Caster Semenya, who is at the center of a gender row, has been placed on suicide watch amid fears for her mental stability.

The Daily Star quoted officials as saying that psychologists are caring the 18-year-old round-the- clock after it was claimed tests had proved she was a hermaphrodite.

Leaked details of the probe by the International Association of Athletics Federations showed the 800m starlet had male and female sex organs - but no womb.

Lawmaker Butana Komphela, chair of South Africa's sports committee, was quoted as saying: "She is like a raped person. She is afraid of herself and does not want anyone near her. If she commits suicide, it will be on all our heads. The best we can do is protect her and look out for her during this trying time."

South African athletics officials confirmed Semenya is now receiving trauma counselling at the University of Pretoria.

Caster has not competed since the World Athletics Championships last month when the IAAF ordered gender tests on her amid claims she might be male.

Source-ANI
SRM

September 08, 2009

鳩山論文、その2

なにせこんな明確な政権交代は初めてのことなので、バタバタしているのは当事者だけでなくメディアも同じようなものです。岡田さんが外相と発表されるや、共同通信は米政府に「好感と懸念が混在」として、「野党代表の経験はあるものの政府機関を取り仕切るポストについたことがなく行政感覚が未知数である点を不安視する見方も」と配信しています。

しかしよく考えればそんなのは当たり前のことで、字数を費やすほどの情報ではない。どうもこの種の「言わずもがな」や「蛇足」の原稿が目につきます。その最たるものが例のNYタイムズ電子版で紹介された鳩山論文をめぐる顛末でした。

この前のエントリーでおかしいと書いたんですが、まあ、だいたい私の推測どおりでした。あれは寄稿ではなかったのですね。ちょっとこの顛末をまとめてみましょう。

最初に噛み付いたのは産経新聞です。鳩山代表が「寄稿した論文に対し米専門家らから強い失望の声」という記事で、同論文に対し「アジア専門の元政府高官は『米国に対し非常に敵対的であり、警戒すべき見方だ』とみる。米シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)のニコラス・セーチェーニ日本部副部長は『第一印象は非常に重要で、論文は民主党政権に関心をもつ米国人を困惑させるだけだ』と批判。『(論文を読んだ)人々は、日本は世界経済が抱える問題の解決に積極的な役割を果たすつもりはない、と思うだろう。失望させられる』」と紹介したのです。

ここで紹介されるコメントはCSISのアジア上級部長だったマイケル・グリーンなど、ブッシュ前政権の安全保障政策を担ったサークルです。まあ当然ながら自民党=共和党外交に精通した人たち。つまり、まず鳩山外交への疑問と批判ありき、のメンツなわけです。

さすがは「民主党さんの思うとおりにはさせないぜ」と公的メディアで発言した記者のいる新聞社、「失望」を語る人に「失望」をコメントさせたに過ぎません。しかもこのコメント者たちはこの「寄稿」が実はNYタイムズに寄稿したものではなく、鳩山氏が日本の月刊誌「Voice」9月号に寄稿した日本国内向け論文を、通信社が適当に抜粋して配信したものだということを知らなかった。ネタ元の精査なくあたかも「米国側」の代表のようにコメントするというチョンボは、研究者としていかがなものか。

もっとも、(前エントリーでも書きましたが)電子版でも「オプ・エド」という投稿ページでの掲載でしたから、鳩山氏の「寄稿」と勘違いするのもそう非難できません。でもなんだか変だった。なんでまたこんな時期(選挙直前の8月27日付)に唐突にこんなものをNYタイムズなんかに“寄稿”したのか意味がわからなかったからです。さらにおかしなことに、文末に「 Global Viewpoint/Tribune Media Service」と付記があった。これは通信社の配信を示唆します。テキストの冒頭には確かに「By Yukio Hatoyama」とあったが、それは筆者名のことであって寄稿ではないのではないか、と気づくべきでした。まあ、批判のネタを見つけたと気が急いたのでしょう。

さて、では実際の米側の受け止めはどうなのでしょうか?

米国の民主党は、腹芸の共和党に比べ、人権や環境問題などわりと大義名分や理想論を打ち出して行動する政党です。しかも外交というのは議論から始まります。核持ち込み密約など、異常だったこれまでの日米関係を正常化するためにもどんどん言葉を交わす、そんなディベートができる信頼関係が成立すれば、米国にとっても頼もしい日本であるはずなのです。つまり岡田外相に求められるのは、共同配信で「不安」とされた「行政感覚」などではなく、むしろ議論の能力なのです。

そのあたりを先日、東京新聞特報部の記事でコメントしたので、ここにも転載しておきます。

東京090905.jpg

April 30, 2009

豚インフルエンザから新型インフルエンザへ

なんだか知らない間に、日本の報道は全部「新型インフルエンザ」になってしまいましたね。

「豚インフルエンザ」だと、豚肉加工業界が打撃を受けるかもしれないという風評被害回避の措置なんでしょうが、「新型インフルエンザ」だとこのウイルスの発生の理由が鳥だか豚だかはたまた何だか、わからんくなってしまうでしょうに。日本の政府の対応を見ていると(最近、わたし、このMacの上で日本の地上波テレビがオン・タイムで見られる無料ソフト=MacKeyHoleを入手しまして、きゅうに日本のテレビ事情に精通しております)、豚肉関連業界保護の姿勢がわざとらしいくらいに強調されていて、ちょっとなんだかなあって感じがします。もちろんその背後にはアメリカやメキシコ、カナダからの輸入豚肉の圧力、つまりはアメリカ農務省からの要請や票田としての豚肉農家の思惑もあるんですが、こちらアメリカではまだそんな言い換えはしていません。Swine Flu は Swine Flu です。これってまた字面だけでごまかそうとする言葉狩りなんでしょうか。まったく、悪しき対応だと思います。

もう一点、日本の報道、とくにテレビは、一方で「正確な情報を」「落ち着いた対応を」と呼びかけてはいるくせに、その一方で豚フルーのニュースにおどろおどろしい効果音やら音楽ジングルをかぶせる。しかも例によって声優気取りのナレーションがまたまた低音恐怖フォントみたいなイントネーション。それはあまりにひどいんじゃないでしょうか? これは報道ですか? それともホラーですか? 視聴者を脅してどうするんでしょう。これをやめるだけでもずいぶんと「落ち着いた対応」が可能になるのではないでしょうか?

だって、まだ豚フルーの死者どころか感染者すら確認されていないのでしょう? 例の横浜の高校生にしたって、30日時点の簡易検査では陰性なのですし。なのにもう、アメリカよりもすごい騒ぎぶりです。アメリカの死者だって、じつは亡くなった男児は豚フルーの発症前から基礎疾患として免疫的な問題を持っていた子だったようです。

いや、この豚フルーが大した問題ではないと言っているのではありません。これは2つの意味で大変な問題です。それは後述しますが、ただ、大した問題ではあるが、同時にこういうのはパニックになってもどうにもならないんですね。どうしようもない。人ごみを避けるって言ったって、避けられない時だってあるでしょう。パンデミック、世界的蔓延の恐れ、と言ったって、これはあのエイズの場合と一緒で、いたずらに恐れて感染者の魔女狩りみたいなことになってもひどいでしょ? 現に、舛添厚生大臣が「横浜の高校生に感染の疑い」と、なんだか「情報の早期発表」なのか「フライング」なのかまたわからんような記者会見を行ったんで、ちょっと休んでる横浜の高校生みんな、あしたから大変ですよね。って、あ、ちょうど週末かつ黄金週間か。

そんなこと言ってもとにかくわかった段階で教えろ、というのは当然です。しかし、ああいう深夜1時半の、ドタバタした発表の仕方しかないもんでしょうか? もっとゆったりした顔で、ふつうに話せなかったものか? まあ、役者じゃなかったということですが、これは困ったもんだなあ。

この点を、産經新聞の宮田さんが的確に指摘していました。

http://sankei.jp.msn.com/life/body/090430/bdy0904300103001-n1.htm

「水際作戦とは感染した人の排除ではなく、可能な限り早い段階で治療を提供するためのものである」というのは、じつに重要な指摘だと思います。宮田さんは日本で最初期からエイズ問題を取材しつづけているベテランジャーナリストです。

ところで、冒頭部分で「アメリカやメキシコ、カナダからの輸入豚肉」と書きました。お気づきの方もいるでしょうが、この3国は、NAFTA(北米自由貿易協定)の3国です。昨日の「デモクラシー・ナウ」では、この豚インフルエンザを「NAFTAインフルエンザ」なのだとするこれまた重要な批判が掲載されています。

http://www.democracynow.org/2009/4/29/the_nafta_flu

つまり、豚フルーの背景には家畜産業革命と呼ぶべきものがあるというのです。第二次大戦前は米国でも家禽や豚というのは全米的に裏庭で育てられていたわけで、鶏の群れ(flock)というのは70羽単位で数えられていた。それが大戦後にはHolly Farms, Tyson, Perdueといった大手家禽精肉加工企業によって統合され、ここで家禽や養豚の産業構造は大きく変わることになり、いまは米国内の養鶏、養豚業は南東部の数州に限られるようになった。しかもそれらは大規模畜養で、70羽とじゃなくて3万羽とかの単位です。

このビジネスモデルは世界に広がり、1970年代には東アジアに拡大して、たとえばタイではCP Groupという世界第4位の家禽精肉加工企業が出来、その会社が今度は80年に中国が市場を開放した後に中国での家畜革命を起こすわけです。

そうやって、世界中に「家禽の大都市」「豚の大都市」が出来上がっていった。もちろんこれにはIMFとか世銀とかあるいは政府とかの財政的後押しもあって、借金まみれだった各国国内の弱小酪農家がどんどんと外部の、外国の農業ビジネス大企業に飲み込まれていくわけです。

そして1993年からのNAFTAがある。これがメキシコでの養鶏・養豚業に大きな影響を与えるわけです。結果、そこの支配したのは米国のSmithfield Foodsという企業の現地法人でした。ベラクルス州ラグロリアという小村にあるこの会社の大規模かつ劣悪な養豚環境が、今回のH1N1ウイルスの発生源とされているのです。そりゃそうですわね、なんらの規制も監視システムも設けないでそういう大型酪農工場を貧困国にどんどん設置していけば、何らかの疾病が起きたときにそれは人口過密の大都市で起きたのと同じく大量の二次感染、三次感染へと連鎖して、ウイルスの変異がどんどん進む。そのうちに鳥や人間のインフルエンザ・ウイルスとも混じり合って、やがて人間世界へ侵出してくるのは当然のことと思われます。

先に「2つの意味で大変な問題」と書いたのは、1つは今後の感染拡大の問題ですが、2つ目はこの、産業構造としての食品工業のことです。

つまり、まとめれば次のようなことです。

1)豚インフルエンザに騒いでもあわててもしょうがありません。感染する時は感染する。
2)感染したら早めに治療するだけの話です。
3)感染したからと言って回りがパニックになっても何の意味もありません。
4)元凶は、私たち人間の食を支える農業ビジネスの歪さかもしれませんね。
5)いずれにしても、ニュースにホラー映画まがいのナレーションや音楽や効果音をかぶせるのはもういい加減やめにしたほうがいいです。
6)日本政府も、水際作戦とやらの全力投球はいいけれど、後先考えずこんなんでずっと保つんですか? 疲れてしまってへたったときにふいっと感染爆発って起きるもんなんですよ。長期戦なりの作戦展開をして対応すべきでしょうに。


お時間があれば次のビデオクリップを見てください。
まあね、このクリップにも効果音楽が被されていますけどね。

上のは「Food Inc.」という映画の、下のは「Home」というドキュメンタリー映画の予告編です。


April 08, 2009

歴史的な採決

米北東部のバーモント州の州議会が7日、歴史を作りました。米国史上初めて採決によって同性婚の合法化を果たしたのです。これまでのマサチューセッツ、カリフォルニア、コネチカットの合法化は“過激派の最高裁判事”(By G.W.ブッシュ)による決定でしたからね。

バーモント州議会はじつは3月23日には州上院で、4月2日には州下院でそれぞれ同合法化案を可決していたのですが賛成票は拒否権に対抗できる数にまでは達していませんでした。そこで知事のジム・ダグラスが6日に拒否権を行使しこれを否決。しかし翌7日には、この拒否権の無効化に回る議員が増え、上院では23対5の圧倒的多数で、直後の下院でも100対49と、拒否権の無効に必要な3分の2以上の票を得て同性婚合法化案は再可決されたのです。

下院議長シャップ・スミスがこの最終投票結果を発表すると議場は大きな拍手喝采に包まれたようです。

そしていま、アイオワ州でも4月3日に州最高裁が判事全員一致で同性婚を禁じる州法を違憲とする裁定を行って、こちらの知事は最高裁の決定を尊重すると言っています。ですからこちらも合法化されます。

こうなると、カリフォルニアでのプロップ8が、いまさらながらバカみたいに見えてきます。だってアイオワですよ、アメリカ中部の田舎の代名詞みたいなところ、ハートランドですよ。

こういう、議会での同性婚賛成はここ数カ月でニューヨーク州、お隣のニュージャージー州、メイン州、ニューハンプシャー州でも増えてきています。次はきっとニューヨークとニュージャージーで議会による合法化がなされるでしょう。いやいや、戦いは佳境に入ってきました。

でもそれはすなわち、同性婚反対派がこれでまた恐怖をあおるキャンペーンを強化してくるということです。というか、もう、していますね。

下に映像をくっつけますので見てください。

これはゾンビではありません。死にそうな顔で同性婚合法化を憂う人たちです。すごいセンスです。言ってることも、「この問題をわたしたちの私生活に持ち込もうとしている」「わたしの自由が奪われる」「同性婚を認めない教会が政府によって罰せられる」「同性婚をオーケーと私の息子に教える公立学校の教師たちを親である私はただ黙って見ていることしかできない」ってめちゃくちゃ言いよるねん。揶揄ではなく、ほんとうにこの人たち、精神を病んでるのかしらって心配です。ほんとうに、ちゃんと病院に行くべきです。


April 06, 2009

我慢のチキンレース

そりゃあミサイルが降ってくるとなれば誰だって慌てます。しかしもしそうだとしたら、そのときに為政者が準備すべきは、1つは落下あるいは攻撃地点の被害の予防と事後の救助、そしていま1つはミサイルを射った国との戦争です。

ところが日本政府はどうもその1つも真剣には準備していないようでした。迎撃用ミサイルは配備しましたが、「当たるわけない」と発言する高官までいてどこまで本気だったのか。というかそもそもこれが日本を狙っての「ミサイル」だったとはだれも信じてなかったんでしょう。つまり、この件はどこまで大変なことだったのか? 本当はそう大したことではなかったんじゃないのか?

日本のメディアはものすごい騒ぎでした。おまけに政府は発射の誤認と誤報騒ぎを2度まで起こして、私なんぞはこれでアジア各国に「日本はこれほどに平和国家。あなたの国を侵略する意図なんぞ微塵もありません」と宣伝する最高の材料だったと、いや冗談ではなく真面目にそう思いました。これこそが軍事に走る北朝鮮や中国に対する見事なアンチテーゼだと開き直ることです。

ところで北朝鮮という国の行動パタンはいつも決まっています。数年に1度、軍事的脅威で挑発して、国際社会がその暴走を止めようとさまざまな懐柔の餌を投げ与えてくるのを画策する。

今回のミサイルも、そもそも94年に問題となった核弾頭の原料となり得るプルトニウム生成の黒鉛減速炉から引き続くものです。このときのクリントン政権は北朝鮮の爆撃も検討しましたが、結局は特使のカーター元大統領が当時の金日成と会って代替の軽水炉を無償で建設してやるということになったのです。

とはいえ、それも何度もウラン濃縮計画を口にしたり黒鉛減速炉を再開したり、果ては国際原子力機関を脱退したり次には核拡散防止条約から脱退したり核兵器保有宣言をしたりで、軽水炉事業はついに05年11月に中止になりました。で、06年には核実験の強行です。

この一連の動きの中に今回のミサイル、というかロケットですわね、その発射があった。これは人工衛星だろうがなかろうが、テポドンの精度と射程が改善したことを国際的に見せびらかすためのものでした。おまけに北朝鮮は9日に最高人民会議、15日に故金日成の誕生日、25日には朝鮮人民軍の創設記念日を迎えます。これらを前に、金正日の健康不安で国内的な示威も必要でした。

つまり、今回のロケットでは北朝鮮としても切り離しの1段目ブースターなどを下手に日本本土に落とすわけには絶対にいかなかったのです。そんなことになったら本来の挑発・かく乱の意味がぶっ飛んでマジで大変なことになってしまいますから。日本政府中枢だってそのくらいは読んでいたでしょう。

ですので問題は今回ではない。次なのです。北朝鮮はしばらくは国内イベントで忙しいが、その後にどう動いてくるか? 弾道ミサイルの開発は今後、たしかに急速に進むでしょうから。

日本では早くも自民党の政治家から「北が核ミサイルなら日本も核武装すべき」という声が出ています。オバマが核軍縮に向けて米国の具体的な行動を宣言している時に日本が核兵器を持って何をしようというのか? 核兵器を持つこと、保管することは実際には技術的にとても難しいので、そんな一朝一夕に配備できるなんてことはまったくありませんからこれはブラフあるいは無知な発言なんですけれど、しかしそれにしてもそういう心情を吐露できてしまう野卑な政治状況というのはますます深化するかもしれません。

冒頭にも書きましたが、しかし政治家がまずは準備すべき被害の予防の最大のものとは、まさにそんな戦争をしたたかに事前回避することなんですね。そして上記のような短絡的な政治家の勇ましさは往々にそこに生きるわたしたち無辜の命を忘れがちなのです。それは北朝鮮政府と同じくらい始末が悪い。

で、戦争を回避するにはどうすべきか?
それはいまのところ、挑発には絶対に乗らない、ということしかないんだと思います。相手のチキンレースを受ける必要はまったくありません。メディアも、視聴率狙いでけたたましい番組や記事は作らんことです。もっとおとなになりましょうよ。だってこれは国家の安全保障にかかわることですもの。命がかかってる。ぎゃーぎゃー騒ぐやつは一番先に撃たれるんです。

表向きは騒がず、ときには無視もする。そして水面下で米韓と協調して探り合いを続ける。

でもね、最終的には北の体制を変えることしかないんだろうなあとは、みんなわかってるんだと思います。さてそれを、どうやるかですわ。知られないようにね。

November 05, 2008

オバマ勝利と日本の外交

オバマの勝利演説を聴きながら、選挙ウォッチパーティーを開いていた友人たちが静かに涙を流していました。ボストン大学で先生をやっているやつが私の横に来て「この国もまだ捨てたもんじゃないだろう」と言います。それにうなずきながら、こういう演説のできる大統領を持つアメリカを少しうらやましく思いました。日本にはこんな政治家はいないなあ。小泉は私語がうまかっただけで、演説はうまくはなかったし。

アメリカというのはこうして4年に1度、やり直しのチャンスというか、ダイナミズムの更新というか、そんなモメンタムを作るわけですね。政体自体がそっくり入れ替わるんですから、そりゃすごいもんです。ただ米民主党政権というのは歴代どうも「日本に冷たく中国を重視する」傾向にあると言われてまして、それを心配する向きもあります。しかし考えてみてください。共和党ブッシュの8年間だって小泉政権の時は9・11の余波のゴタゴタの中でなんだかうまく行っていた、ように見えただけで現在は結局、対北朝鮮宥和政策への転換で面目丸つぶれです。米国が日本のご機嫌を見ながら外交政策を変えたことなどいちどもありません。米国はあくまで時刻の国益でしか動きません。そのアメリカの国益を、日本はさっぱり誘導できてこなかったのです。外交官たちの説得下手というか、ディベイト下手というか、しかしこれはよくよく考えれば元は日本の自民党政権の問題なのだと思います。

日本の外務省ももちろん現在、ワシントンを中心に次期政権のブレインになると目される人たちに盛んに接触中です。オバマの対日ブレインには東アジア専門家のジェフリー・ベイダーや日本の防衛研究所にいたマイケル・シファー、日本生活も長くボーイング・ジャパン社長だったロバート・オアーらがそろっています。経済分野ではブルッキングズ研究所にいたジェイソン・ファーマンなんかもいます。さらにはオバマのこと、超党派で共和党もブレインも入ってくるかもしれません。

しかし日本側の政権がこうもコロコロ変わるせいで米側には彼ら外務官僚たちの背後に控えているはずの政治家たちがよく見えない(もっとも、見えたところでロクでもないやツラばかりですが)。そんなことで外交官だけを相手にまともに話し合おうと思うか? ふつう、思いませんわね。それも、こういうのってものすごく個人的な力量ってのが必要で、パーティーに行ってうまく話せるか、演技できるか、っていうような人間性にも関わる才能が必要なんですね。そういうの、できない役人が多すぎる(役人だけじゃなく日本人全般がそうなんですが)。その間に日米関係はそうして私的な斟酌や腹芸の取り入るスキなく、どんどん建前の議論で(これをやらせたらああ言えばこう言うのアメリカ人にかなう者はきっといません)米国主導で押し切られることになるのが常なのです。


新政権はまずは米国内の経済危機に取り組むでしょうが、その一方でイラク戦争撤兵からアフガン戦争増派へのシフト、テロ対策などは公約のタイムテーブルどおりに進めなくてはなりません。

この場合、外交とは米国にとっては安全保障の問題にほかならないのです。それは日本にとっては思いやり予算などを含む従来の基地問題やアフガン戦争支援のインド洋給油問題です。これらはたとえオバマ政権になったとしてもなんら変更を認めないでしょう。さっきも書いたようにアメリカはアメリカのことしか考えていませんから、あるいはこの財政危機でさらなる物的・人的支援だって要求してくるでしょう。オバマはブッシュ政権の一国行動主義からの転換を謳って「国際協調」という名の責任分担を図るでしょうから。

そんな中で、日本の対米外交はどう対応すればよいのでしょう。米国に押し切られるばかりなのでしょうか?

ここに来て、どうして日本がいつも米国の言いなりにならざるを得ないのかわかってきます。それは日米同盟、日米安全保障という政治的取り決めが、日本国憲法を上書きしているという倒錯のせいなのです。

日本は、日本の平和憲法を対欧米外交の切り札として使ったことがありません。海外への自衛隊派遣の困難の「言い訳」「言い逃れ」として使ったことは何度もありますが、外交の「背骨」として使ったことは一度もない。憲法のことになると遠慮がちに口ごもる、そんな外交なのです。で、安全保障に関してはその都度の対症療法で逃れてきたわけですよ。

こんなんでまともな外交ができるわけがありません。これは自民党が平和憲法をなおざりにしてきたそのツケが貯まったものです。そんなヘドロの中で泳がねばならない外務官僚にはお気の毒と言うしかありません。

この倒錯を解消する道は2つあります。平和憲法を正々堂々と盾にして、環境対策と復興支援を安全保障の中心に据える新機軸を構築・宣言すること。それは20世紀的ではないので旧態依然の国際政治においてとても受けは悪いでしょうが、可能なのです。倒錯解消のもう1つの道は、平和憲法そのものをやめちゃうことです。こっちの方が簡単だが、その以後がかえって大変で、簡単そうに見えてじつはこれは不可能なのです。

それともまだのらりくらりで乗り越えようとするのでしょうか。
まったく、自民党政治までが役所仕事のようになっているんですね。

米国はオバマに変革の希望を託しました。
日本の政治変革はいつ起きるのでしょう。
で、総選挙、どこに行っちゃったんでしょうか?

October 14, 2008

テロ国家指定解除の欺瞞

どの国もそうなんですが、外交というものはあくまで国益を第一に考えるものです。
ブッシュ政権はつねに、最近ではライス国務長官も「日本の立場は理解している」あるいは「拉致問題の重要性は認識している」という言い方しかしませんでした。「テロ国家指定の解除はしない」とはひと言も言っていなかったのです。その結論はどうなるか、そんなことはわたしでもわかる。つまり外交のプロたる外務省の役人たちがわからないはずがない。

アメリカは指定解除をするだろうというのは読めていたわけです。それを、まるで「寝耳に水」と驚いてみせるのは、これは日本国民に対する欺瞞です。そんなはずではなかった、という言い方ですよね。われわれは十分に努力してきてアメリカもそれを理解していたはずなのに、急に寝首をかかれた、という言い方。

これは責任逃れのへりくつです。知っていたんですよ。それを、それじゃ日本国民に格好がつかないから「知らなかった」「予想外だった」と言っている。一番正直なところは中曽根外相あたりの言っていた「一両日中はないと思った」というセリフでしょう。一両日中はないはずだったが、その次の日にはあるかもしれない。そういうこと。

ブッシュは、史上最低の大統領として名を残すことになるのはすでに明らかです。まあ、イラク戦争しかり、イラン政策しかり、イスラエル・パレスチナ問題然り、それは確実なんですが、せめて北朝鮮でどうにか格好を付けたかった。それが正直なところでしょう。

ただし、今回は時間の問題があった。
北が核施設運転再開をちらつかせるのはいつものことです。
どっちが我慢できるか、そのチキンゲーム。
ところが今回はブッシュ政権の命脈が尽きるというタイムリミットがあった。
ただそれだけのことです。いつもなら、むこうが核施設の無効化をしてから、解除です。それが待ちきれなかった。どうにかして先に進める必要があったということです。で、テロ国家指定解除を先出のエサにした。

麻生としては、拉致問題にいささかも影響はない、カードを失ったというわけではない、という言い方しか出来ません。ならば、「はじめから拉致問題とは関係ない。指定解除どうぞどうぞ」と言ってればよかったようなもんですがね。しかしカードを失ったのは確かなのです。麻生は先月の国連総会の訪米でもブッシュに会えなかった。アメリカも北朝鮮も、出ては消える日本の自民党政府を本格長期政権として相手にしていないということです。困ったもんです。

冒頭に言いましたが、今回のテロ国家指定解除は、日本との関係を損なっても、北との核問題解決がアメリカの国益、いや、ブッシュの個人の利益にとって重要だったという判断なのです。簡単なことです。

August 31, 2008

頭打ちとなる石油

日本に帰る飛行機代に多額の燃料費なるものが加算されるようになったのはいつからでしたっけ? この燃費サーチャージ、10月からまた1万円ほど上がるんですね。つまり日航や全日空なら通常の航空運賃の他に燃費追加でさらに6万6千円を払う計算です。これって、ちょっとまえの往復格安航空券そのものの代金だった。いまはそれが倍以上出さないと日本に帰れないのです。参ったなあ。

それもこれも原油の高騰に原因があるのですが、石油がこのままなくなってしまった世界を考えるとぞっとしてしまいますわね。


石油がなくなったら、おそらく私たち人類は重力の呪縛に捕われてもう二度と長時間にわたって空を飛ぶことはできなくなるんじゃないでしょうか。ハンググライダーなんかは別ですが(とはいえあの羽根も石油からできた繊維でしたっけ?)、アメリカから日本に帰ること自体が不可能に近くなる。帆船はあるでしょうけれど石油エネルギーがなくてどうやって船自体を、工具を、釘を作れるのか? おまけに温暖化の気候変動で海は大荒れです。

自動車はかろうじて自然エネルギーから得た電力や天然ガスなどで動くかもしれないので「江戸時代みたいな生活」というわけではないでしょうけれど、それにしても通信や情報を含めてすべての分野の産業が極端なほどに縮小するのは間違いありません。あ〜、こりゃ大変だ。気づけば周りは何から何まで石油エネルギー頼りなのです。

さて、石油はほんとうになくなるんでしょうか。いえ、なくならないんですって。どういうことかっていうと、なくなるよりもずっと以前に、石油が使えなくなる日が来るのです。そっちのほうが差し迫った危機です。

というのは、埋蔵石油はまだあっても、採り出しやすい石油は採ってしまって、残っているのは、その石油を採り出すのに、その石油の持つエネルギー以上のエネルギーが必要になるような石油だけ、という時がいずれ来るってことです。そうすると石油を採取する意味がなくなってしまう。

これって、すごいことではないでしょうか。この世に金で買えないものはない、っていう前提で資本主義が発展してきているのだけど、その下支えになっているのがエネルギーです。よくわかんないけど、エネルギー本位制? 金10gを買うのに、金12gが必要、っていうのは論理矛盾だけど、石油10バレル掘るのに石油12バレルが必要という破綻が訪れるわけですね。

そういう、掘り出せない石油が増えてくると、石油生産がいずれ頭打ちになります。その生産のピーク、つまり後は年々産出量が減るしかないという「頂点」が、じつはもうすでに来ているのではないかという説があります。実際、埋蔵石油の発見は40年以上前の1960年代半ばにピークを迎え、その後の発見は減る一方。つまり私たちはいま、60年代以前に発見された石油のストックをどんどん食いつぶしているだけなわけです。増産はできるけど、その分、あとが続かなくなる。

いやまだ石油生産のピークには至っていない、とする石油会社などの研究結果もあります。しかしその研究にしても多くが石油生産はあと10年ほどで、天然ガスもあと20年ほどで頭打ちになる、と結論づけているのです。

そんなに早く? ならばもっとメディアが騒いでもよいのにとも思いますが、騒いでも事実が変わらないのだとすれば、パニック回避のためにも敢えて看過しているのかもしれません(あるいは事の重大さにほんとうに気づいていないか)。

すると……そう、冒頭の私の心配は杞憂ではなくなります。原油の現在の高騰はもちろん、石油の値段が実需によって決まっているのではなく、金融商品化しているせいです。つまり々として取引されているからなのですね。でも、単にそんな投機筋の一時的な利益狙いではなく、ともするともうほんとうに石油はなくなるのだという“インサイダー”情報が背景にあるのかもしれない……航空運賃への燃費加算は今後も廃止されることなく慣例化し、その額も増大する一方──それは究極の格差社会が訪れる前触れかもしれません。つまり、お金を持つものだけが石油エネルギーを享受できる社会です。

なんだか、「格差」なんていうなまっちょろい言葉じゃ捉えきれない新しい時代が来るような気もします。世の金持ちたちはいま、そんなときのためにせっせとカネを溜め込んでいるんじゃないか? 自分たちだけは生き残る、という本能。

「頭打ちとなる石油」を意味する「ピーク・オイル(Peak Oil)」というキーワードを憶えておいたほうがよいかもしれません。

August 13, 2008

うるわしき毒

スポーツというのはじつはジャーナリズムの中で最も記述の難しい分野ではないかと思っています。中立が旨である報道の中で、スポーツ記事だけがそのカセをはらってなんとも身びいきだったりします。したがって、NBCの五輪中継を見ていてもあんまり面白くないということになります。日本がさっぱり出てこないしね。主役ではないのですから。

しょせん私たちは自分の知りたい情報しか知りたくないのかもしれません。たとえば北京五輪の射撃の表彰台で、銀と銅を獲得したロシアとグルジアの女子選手が頬にキスし合って抱き合ったというニュースが朝日のウェブサイトで紹介されました。

ご存じのようにロシアとグルジアは南オセチア自治州の統治をめぐって戦闘状態に突入したばかりでした。そして朝日のサイトは2人仲好く並ぶ写真に「スポーツは政治を越える」というロシア選手のコメントを引用し、見出しも「表彰台に友情の花」と紹介していたのでした。

スポーツは政治を越え「ない」ことはだれもが知っています。それどころかスポーツはつねに政治に利用される。中国での五輪の開催はまさしく、世界の先進国社会に正式に仲間入りしたい中国の政治的思惑と、中国も五輪の体面上、国際的に反発を買うような外交決断や人権侵害は避けるようになるだろうといった西側の政治的思惑の交差したところに成立したものです。

にもかかわらず「スポーツは政治を越える」と言うのは、私たちがつかの間のそんな幻想を信じたいと思っているからでしょう。シビアな現実世界の、それは一服の清涼剤めいて、私にはそれを責める気はありません。私も新聞記者1年生のときは「読者が感動できる物語を探して書くんだ」と先輩記者に叩き込まれた口です。

かくしてオリンピック報道は往々にして選手やその周囲の美談と感動の根性物語になります。

そんなことをつらつら考えていると、今度は五輪開会式でソロを歌った「天使の歌声」の女の子がじつは口パクで、舞台裏ではその子よりも見た目のそうよくはない、しかし歌はうまい別の女の子が歌っていたのだというニュースがありました。なるほど、世界が見たいだろうと思うものを見せる、それはスポーツ報道に限らない。新聞なら美談で、テレビなら画面上の美しさ。それがなんで悪いんだ、というところでしょうか。で、同じくあの開会式の花火のCGです。ふむ、徹底していますな。

しかし日本だってエラそうなことはいえません。ヤラセと演出の違いに敏感なのは、とりもなおさずヤラセでも視聴率が取れるという現実が厳然として存在するからです。中にはヤラセとわかっていてわざとそれを楽しむなんていう高度な視聴技術さえ新しい世代には育ってもいる。

視聴者も読者も、そうやって美談という名の毒消しを求める社会は幸せな社会なのでしょうか。そしてあるとき、美談そのものが現実を直視しないうるわしい毒になって蔓延している。

新聞記者時代、もう1つ大先輩から教わったことがあります。「ときには読みたくないことも書かねばならない。その社会にとって都合の悪いことも書かねばならない。あるときは害であることですら書かねばならない。なぜかわかるか? なぜなら、それが事実だからだ」

中立とか中道とか、そういうバランス感覚の問題ではなく、あるいは社会の木鐸なんぞといった大仰な構えからでもなく、それが単に「事実だから」というだけの単純明快な基準に、若かった私はまさに目からウロコが落ちた思いでした。

五輪のドラマが続いています。NBCやNYタイムズから知る数少ない日本人選手の活躍ぶりは、あんまり面白くないし物足りなくもあるけれど、逆に熱狂的にあおられる感じもなくて、スポーツ観戦のなんだか不思議に新しい経験です。

July 10, 2008

いまの子供と50年後の子供

温室効果ガスの世界全体の排出量を「2050年までに半減する」ではなく、さらには「半減するという長期目標を共有する」ですらなくて、「2050年までに半減するという長期目標を共有することを目指す」っていう、この、動詞が3つも入ったヘタクソな日本語の3重に薄められた「G8宣言」というのはまさにいまのアメリカの断固たる及び腰と日本政府の遠慮とを象徴していて興味深いものでした。

いや、じつはこういう何重もの言質回避の表現は国連の安保理決議などでも蔓延しているので、政治宣言としては驚くほどのことでもないのですが、米国シェルパ(実質的な議論を担う交渉代理人)のダン・プライス大統領補佐官が「素晴らしいG8宣言文」と自画自賛するのを聞けば、さすがは弁護士出身、そりゃつまり自分に有利に導けたって意味ね、とすぐにわかるというもんです。

日本政府も自画自賛していますが、こちらは欧州勢と米国との板挟みになって、それでもいちおう文言をまとめあげるのに成功したという意味でしょうか。しかしなんだかこれも、安易に「自分をほめてあげたい」と言いのける今時の甘ったれ風潮そのもの。欧州勢から「日本のリーダーシップが見えない」とさんざん呆れられているのを、米国しか見ていないので気づかなかった、あるいは政治理念もなくただまとめることしか考えていなかったってことです。

たしかにまとめあげたことは認めます。それもたしかにひとつの政治でしょう。そのようにしかものごとは進んでいかないのもわかります。だが、このなんとはなしの「切羽詰まっていなさ」は、政治的想像力の不在というか、つまりはこのサミットに出席しているすべての人間たちが、おそらくは50年後にはもうこの世にはいない、ということに関係しているのではないかと、ふと思ったりもするのです。

まあ、そんなことを言うのはエキセントリックだと思われてしまう、われわれのいまの有り様もあるのですがね。

とどのつまり、今回のG8はエコロジー(生態系)とエコノミー(経済)の兼ね合いをどうするかという人類の宿命に関する議論の場でした。つまり50年後の子供たちといまの子供たちの、両方を救うにはどうすればよいかということです。アフリカなどでの食糧危機を見ればそれはより切羽詰まった課題として目の前に立ち現れます。

もちろん、いまの子供たちに心配のない先進国では50年後を考える余裕もありますが、いま現在飢えている国ではいかに産業をおこしそれを基に人びとが食べていけるかを探るに精一杯です。そんなときに温暖化ガス排出規制など気にしている余裕はない、いま生き延びなければ50年後もないのだ、という論理になります。それもまたもっともで、新興国も交えた8日の会議では先進国側が先に80-95%の排出ガス削減を行えといった主張もなされました。それももっともなことなのです。

ところがそれではアメリカは産業が立ち行かなくなる。ガス排出規制のすくない新興国に産業が移行してしまう。そうすればアメリカの50年後もない。それがこの洞爺湖宣言に及び腰だったアメリカの、いまのブッシュ政権の論理です。しかしブッシュは洞爺湖で終始緊張感のない顔をしていましたね。はっきりいって大統領職を投げ出しているような顔だった。北朝鮮問題といいこのG8といい、とにかく任期内でいろんなことをとにかくまとめればよいという、冒頭の日本政府の交渉役みたいな心情なんでしょうか。自分の任期のことだけしか頭にないような。

しかし次のオバマあるいはマケイン政権がどう出るかはまた別の話になると思います。特にオバマ政権になれば、あのゴアが環境関連の特命大臣に任命されるということですし。日本も次の選挙で民主党が勝利して小沢政権になったら果たしてどう変わるかわかりません。不明なところも多いのですが、環境問題でも新味を出してくるはずです。

しかしそれまではおそらくこの問題に関する政治の力の不在が続くかもしれません。
そうしてその間にも刻々と地球環境はいま現在のわたしたちの生態系を破壊するように変化しているのです。
世界の食糧危機を深刻に憂慮すると言ったその舌の根も乾かぬうちに18コースもの豪華な晩餐を囲むサミットリーダーたちを見ていると、まさに人間の活動そのものが宿命的に持つ反生態系の害毒を思わずにはいられません。エコノミーとエコロジーは、だれがなんといったって対立する項目なのです。そこを誤魔化さずに折り合いを見つける、といっても、しょせんそれは破滅を先送りする手段を講じているだけのような気もします。

April 16, 2008

国おこし、都市おこし、個人おこし

40日間も日本に行っていました。日本にいると、日本語に守られてるせいでしょうね、国際的な時事ニュースをぜんぜん自分に引き付けて考えられなくなります。なんかまったりしてみ〜んな他人事っぽくなる。で、ここにもなにも書かない、という結果に。てか、たんにだらんとしてただけなんでしょうけどね。

さてさて、帰ってきたとたんサンフランシスコでの聖火の混乱です。中国当局もよく続けるなあと思うのですが、開会式のボイコット気運も高まる中、この問題はどう考えればよいのでしょう。スポーツと政治、五輪と政治の問題ですわ。

私も若かったころは「スポーツと政治は別だ」などと憤慨していましたが、でもずっと以前から五輪と政治はじつは同じものだったんですよね。というか、五輪はその国際的な注目度から、世界に向けて政治的メッセージを送る絶好の檜舞台でありつづけているのです。

ベルリン大会は国威発揚というナチスの政治的思惑の場だったですし、メキシコでは黒人差別に抗議する米国選手2人が表彰台で黒手袋の拳を突き上げました。続くミュンヘンではパレスチナゲリラのイスラエル選手襲撃が行われ、76年のモントリオールでは南アフリカの人種差別問題でアフリカ諸国の大量ボイコットが起こった。80年のモスクワではソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する西側のボイコット、続くロサンゼルスはその報復的な東側の逆ボイコットと、五輪はまさに常に政治とともにありました。

だいたい中国自体も五輪と政治を結びつけて国際社会にいろいろとメッセージを発してきたんですよ。56年のメルボルンから、ローマ、東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール、モスクワと、なんと7大会連続で五輪ボイコットです。モスクワ大会を除いて6回はぜんぶ台湾の国際認知問題が背景でした。

そもそもどうして五輪を招致するのか? それは五輪という由緒ある国際大会を主催することで国際社会の責任の一端を担う、一丁前の国家として認められたいという思いが基になっています。同時に、関連施設の建設によって国内の景気浮揚を図りたいというハコモノ行政的な意図もあります。つまり五輪は村おこしならぬ「国おこし」のネタだったのですわね。つまり。ズバリ政治そのもののイベントなわけで。

これは64年の東京五輪もそうでした。あのとき東京は高度成長のまっただ中で、日本は戦後復興の総仕上げをして国際社会への復帰を果たそうと五輪を招致したのです。そこではスポーツはたんなるダシでした。もちろん、日本の復権はスポーツ選手個人の頑張りに投影されてじつに感動的だったのですが、ほんとうの主眼はスポーツ選手個人の威信ではなく、国家としての威信にあったのです。それはまさに政治的思惑でした。

すでに五輪が2周目以降に入っている先進国では、長野やアトランタがそうだったように五輪は国おこしを経ていまはホントに開催都市の村おこしイベントです。一方、周回遅れの中国にとっては(今後のアフリカ、中東諸国なども含め)五輪は遅れてきた第二次「国おこし」運動の原動力なのです。今回の北京五輪も、中国政府のそんな思惑と欧米諸国の、五輪開催を機に中国の人権・民主化改善を促そうという思惑が合致して決まったものですからね。

そんな政治の舞台なのですからチベットが登場してもだれも文句なんか言えない。中国が「スポーツと政治は別だ」だなんて、どの口で言えるのか、です。

そう、「スポーツの祭典だから政治はタブーだ」と言うからややこしくなるのです。どうせならもうこれは政治だと開き直って五輪を機にどんどん主張をぶつけ合えばいいんですわ。それで大会がつぶれるようならつぶれちゃえ。そうなったらでも中国だって面目丸つぶれ、欧米だって思惑外れ、チベットは墓穴を掘る。そういうところにしか反作用としての収拾努力のベクトルは生まれないんじゃないの? じっさいの政治としてはいささかドラスティックにすぎるけどね、ま、思考実験としてはだからこそいまと違った落としどころが見つかるかもしれない。まあ難しいでしょうけどねえ(他人事っぽいなあ)。

ところで再びの東京五輪招致が進んでいます。これはすでに国おこしでもなく都市おこしとしても新味に乏しいやね。何のためにやるんでしょう。私には、自己顕示欲が脂汗になってるあの都知事の「自分おこし」のために見えるんですわ。彼個人の人生最後のステージにとっては格好の大イベントですもん。しっかし、そんな個人行事に付き合うのはまっぴら。

だいたい、新銀行東京にしても、解決にはもう何年もかかるけど、やつの物理的寿命はその前に終わるでしょう。未来のないやつ、つまりあの都知事に、「責任を取る」という考え自体が通用しないんです。死を前にしたら、無敵だなあ。だから政治家は若くなきゃダメなの。あと30年生きてると思ったら、ヘタなことできないもんねえ。

September 25, 2007

安逸を求める

イランのアフマディネジャドが国連総会出席でNYに来ています。
今日の午後にはコロンビア大学で講演を行いました。
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もちろんQ&Aの時間が設けられていて、聴衆の1人はイランにおけるゲイの人権と死刑執行について質問しました。これに対して彼は性的指向の観点はまったく無視して米国でも死刑制度があることを指摘して直接の回答を回避しました。しかし司会役の学務部長はさらに回答を促しました。その結果の彼の返答はこうです。

「イランにはあなたの国とちがってホモセクシュアルたちはいません。私たちの国にはそういうのはないのです。イランには、そうした現象はない。私たちの国にもあるのだと、だれがあなたに言ったのか知りませんが」

アフマディネジャドはもちろん聴衆から失笑とブーイングを浴びました。まあ、彼の言いたかったことは、「われわれはホモセクシュアルたちを殺しているからイランにはそういうのはなくなっているのだ」ということだったのでしょう。2年前の2005年7月に行われた少年2人の絞首刑を、私たちは忘れてはいません。
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宗教というのは、答えの用意されている教科書です。巻末を見れば練習問題の答が書いてあるから、それを憶えればいちばん手っ取り早いし神様・お坊さま・司祭さまにも誉められる。それでめでたいので自分で考える必要などありません。はたまた質問そのものの正当性、さらには答えの真偽を疑うということもありません。なぜなら、それは「信じる」ことをすべての基本においているからです。「信じる」は「疑う」の対義語です。そうして「疑う」は「考える」の同意語です。宗教に「なぜ?」は必要ない。むしろ、邪魔で、いけないことです。

なぜ? と考えずに済む人生は、なんと安逸なものでしょうか。もっとも、宗教的生活を送っている人たちも、誠実であればあるほど宗教的回答を突き超えて必ず「なぜ」を考えてしまうものですが。

その辺のことは2005/02/22の「生きよ、堕ちよ」でも書いていますが、思えば、日本語訳ではいまいちその過激さが伝わっていないジョン・レノンの「イマジン」も、じつはすごい宗教否定の歌なのです。多くの戦争の背景に宗教があるということがわかりきっているとして、頭の上には天国なんてない、ぼくらの下にも地獄なんてないんだ、と宗教的迷妄を唾棄して歌は始まるのです。レノンにはもう1つ、「God」というすごい歌があって(というかそのままなんですけど)、そこでははっきり「神なんか、自分の痛みを測るためのメジャーでしかない」と宣言しているんですよね。

しかしアフマディネジャドなるものに対抗するには、どうすればいいのでしょう。
憎悪と嫌悪にまみれた、聖という名の邪悪。
しかも、われわれには憎悪と嫌悪という武器はないのです。手ぶらで、丸腰で、身1つで、戦わねばならない。こまったもんです。

August 27, 2007

恥で倒れた仏像

民主党の小沢代表が「アフガン戦争はアメリカの戦争」と言ってテロ特措法の延長に反対していますが、アフガン戦争とイラク戦争とを明確に区別できる人がいまどれくらいいるかというと、当事者のアメリカ人でさえあまりいないんじゃないかというのが正直な印象です。

日本だってそうでしょう。いまさっきもテレビで評論家諸氏がしっかりと「イラク戦争」と言い間違えてましたし。じつは小沢は、そんな“混乱”をうまく利用してテレビ中継までさせてシーファー大使に直かに反対を伝える政治演出を見せたんだと思ってるんですが、さて、どうなんでしょうね。

そもそも小沢の今回の特措法延長反対の宣言の真意は、確かに「アメリカにノーと言える政治家であるということの演出」ではありながらも、じつはアメリカそのものへの強気の「ノー」ではなくて、ブッシュ政権への「ノー」なのですね。ブッシュ不人気はもう米国内だけの現象ではなく、そうした国際的な「脱ブッシュ」の列に加わってみせたからといって日本の国益はそう損なわれまい。もし損なわれたとしても次のヒラリー率いる民主党政権(?)との関係でいくらでも修復できる、そうふんでの小沢一流の政治演出なのではないかと思えました。日本じゃテレビに登場する評論家たちのだれもそんなこと言ってないけど。

ただしこの小沢演出には落とし穴があるのです。

おさらいしてみましょう。
アフガン戦争のきっかけはイラク戦争と同じく例の9・11でした。ブッシュは世界貿易センタービルを破壊されて拳を振り上げた。それはよいのですが、さあさてそれをどこに振り落とせばよいのか、なにせ相手は国家ではなくて流浪のテロリスト、どこに拠点があるかも分からない。で、9.11の下手人としたオサマ・ビン・ラーディン率いる武装組織アルカイダを、アフガンのイスラム原理主義政権党タリバンがかくまっているとして、それでアフガニスタンに拳を振り下ろすことにした、というのが始まりでした。これで体裁は対アルカイダ=対タリバン=対アフガンという国家間の戦争になったのです。思い出してください。当時、アフガン空爆が「これは戦争か?」とさんざん議論されていたことを。

ところが数億ドルもかけて空爆・ミサイル攻撃しても破壊するのが数百円の遊牧テントだった。世界最貧国への攻撃というのは、じつにどうにも“戦果”が上がらない。箱モノ行政の逆ですね。おまけにどこに行ったかビン・ラーディンもさっぱり捕まらない。そこで国民の目をイラクの独裁者フセイン大統領に逸らせた、というのが次のイラク戦争でした。

米国では現在、撤退論かまびすしいイラク戦争に対して、アフガン戦争はあまり話題に上っていません。というのも、アフガン戦線はじつは昨年7月から軍事指揮権が北大西洋条約機構(NATO)に移行し、英・加・蘭・伊・独が主力構成軍です。米国はそうしてイラク戦とアフガンでのビン・ラーディン狩りに戦力を傾注した。なもんで、アフガン戦争を「アメリカの戦争」と言い切ってそれで済むかというと、それはちょっと違うのです。

しかもアフガニスタンは米国の石油戦略にとって重要な中央アジアからの天然ガス・石油パイプラインの敷設予定ルートでもあって、見捨てるわけにはいかない土地です。次期大統領を狙うヒラリーにしても撤退などは口にしていません。NATO諸国にとっても同じでしょうし、日本だってテロ特措法を成立させた当時の小泉政権は日米同盟と同時に石油のことも考えていたに違いありません。

そういう意味で、小沢のテロ特措法延長反対=アフガン戦線からの離脱宣言は、国内向けには演出で済むが、国際的にはよほど裏ですり合わせしなければならない事案なのです。日本の民主党は一刻も早く米民主党およびNATO諸国とそのあたりについてきちんと協議できるパイプを敷設すべきでしょう。

ただし、そこには問題があります。アフガン戦線はイラク戦争と同様に泥沼化してとんでもないことになっています。カルザイ政権も弱体のままです。アフガンへの関与は本来、自衛隊による給油活動などといった程度では済まされないはずのものです。もちろんそれは軍事後方支援などという単純なものではない。日本にはそうしたコミットメントの十全の覚悟があるのかどうか。

アフガンのあのバーミヤンの大仏がタリバンによって破壊されたとき、私たちはそれ以上に多くの人間の生と生活の破壊があったことも知らずに憤慨してみせました。あのときイランの映画監督マフマルバフはこう言ったものです。「あの仏像は誰が破壊したのでもない。仏像は恥のために倒れたのだ。アフガニスタンに対する世界の無知を恥じて」──私たちはまだ無知なままなのです。

August 26, 2007

転載;署名のお願い

現在イギリスに住むイラン人女性、ペガー・エマンバクシュさんは、レズビアンであることをカムアウトしている方です。パートナーが逮捕、拷問、死刑に処せられてから本国を脱出し、2005年にイギリスで難民申請を行いましたが却下され、あさって火曜日にイランに強制送還されることになりました。

イランは同性同士の性交渉を罰するいわゆるソドミー法があり、送還されればむち打ちと投石の刑を受けます。事実上の死刑です。

現在、強制送還に反対し、恩情的にイギリスに滞在する権利をペガーさんに与えるよう、世界的な署名活動が行われています。その呼び掛けが私のところにも来ました。

以下、転載します。

**

3分あれば出来るアクションです。
レズビアンがイランへ強制送還=鞭打たれて死刑、という事態をとめるためのネット署名(英語)はこちらから。
1分あればすぐ出来ます。
http://www.petitiononline.com/pegah/petition-sign.html

お願いします!!

■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■
 【緊急コクチ】
 たくさんの方々にひろめてください。
 28日火曜日まで目が離せません。
 
 ーー以下記事要約/転送歓迎ーー

ペガー・エマンバシュクさん、イラン人女性、40歳。2005年にイランを脱出し、イギリスで難民申請をしたが、それが認められずにあと数日で故郷のイランに強制送還されようとしている。彼女は、レズビアン。レズビアンであるということは、イスラム法の下、イランでは死を意味する。石打ちの刑に処されることもある。

殺される確率が高いとわかっていて、彼女をこのまま強制送還させていいのか。国際難民法の述べる難民の定義を引用するが、「…人種、宗教、国籍もしくは 特定の社会的集団の構成員であるということ又は政治的意見を理由に迫害をうけるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために国籍国の外にいる 者」(難民条約第1条)とは、彼女のことではないのか。

彼女の強制送還は、国による殺人である。これは許しがたい犯罪であり、人命の冒涜だ。国際社会は黙って見すごしていけない。ペガーさんのために一人一人のアクションを求めたい。

【英語サイト】
インディーメディア:
http://www.indymedia.org.uk/en/2007/08/379580.html

シェフィールドのメディア:
http://www.indymedia.org.uk/en/regions/sheffield/2007/08/378415.html

ネット署名(英語):
http://www.petitiononline.com/pegah/petition-sign.html


【日本語訳ブログ】:
http://pega-must-stay.cocolog-nifty.com/blog/

※記事は刻一刻と更新されて、新しい記事が出ていますので、トップから別の記事も見られます

June 22, 2007

従軍慰安婦、全面広告の愚

何か問題があったときにその問題を指摘した相手のことを同罪じゃないかと責めても問題解決にはまったくなりません。「◎×君は廊下を走りました」と言われて「△◆君も走ったじゃないか」と言っても帳消しにならないばかりか、そういう抗弁はとても子供じみたものに受け取られるのが普通です。

それを大人が、それも国を代表する国会議員やジャーナリスト、大学の先生までが真顔で言ったら「子供じみた」では済みません。私が14日付のワシントンポスト紙に掲載された「THE FACTS(事実)」と大書された全面意見広告を見て、これはまずいことになるぞと思ったのはそういうことです。

この広告は、いわゆる従軍慰安婦問題で櫻井よしこや元産経の花岡信明、すぎやまこういちらの呼びかけに応じた日本の国会議員らが連名で「第二次大戦中に日本軍が強制的に従軍慰安婦を徴収したことを示す歴史文書は存在しない」と訴えたものでした。「米国民と真実を共有する」とうたった同広告は、「慰安婦は『性奴隷』ではなく、当時の世界では一般的だった公娼制度の下で行われていて大切に扱われていた」「多くの慰安婦女性は佐官級将校やあるいは将軍級よりもはるかに多い収入を得ていた」などとする5つの「事実」を列挙しています。それだけでも言い訳がましく響くのに、ダメを押したのが次の文章です。

「事実、多くの国が自国兵による民間人強姦を防ぐために軍用の娼館を設置していた(例えば1945年には占領当局はアメリカ兵による強姦を防ぐため、日本政府に対し衛生的で安全な“慰安所”の設置を求めた)」

いったい、どういう神経がしれっとこういう文章を書くのか。この記述内容が間違いだとは言っていません。問題は書き方です。「言い訳がましく響く」どころか、これはまるで「おまえの母ちゃんデベソ」ではないか。こんなふうに言われて、アメリカが「ああ、そうでした」と銃をしまうとでもお思いか。

これは本来、膝を突き詰めて腹を割って直談判しているときに出てくる話でしょう。説得とはそうやってするものだ。複雑に入り組んでいる国際問題ならなおさら。ところがブッシュ一辺倒で来た自民党は、米議会で勢力を得た米民主党のキーパーソンとの親密なパイプをだれも持っていなかった。だれもこういう話が出来ないのです。そうして、何を勘違いしたか、本来ならば密室でのせめぎ合いの一端を新聞紙上でかくも公然と高圧的に講釈したもうた。バカじゃないのか。

案の定、これが火に油を注ぐことになりました。副大統領のチェイニーもこれに目を剥き、4月の安倍訪米での謝罪でなんとなく鈍化していた米議会も一気に日本非難決議採択でまとまりました。掲載がNYタイムズではなくワシントン・ポストでまだしもよかった。NYタイムズならあっというまに一般市民にまで反日気運が広まったかもしれません。

思えばこのすり替えの論理は従軍慰安婦に限ったものではありません。故松岡農相のナントカ還元水に始まる事務所費乱用問題では「(民主党の)小沢さんの使い方はどうなんですか」と気色ばみ、年金問題では「そのときの厚生大臣は菅(直人)さんじゃありませんか」といずれも相手の責任に問題をずらす総理大臣がいます。

見逃せない点がもう1つ。「強制はなかった」という言い方は、沖縄戦での集団自決に関して「日本軍の強制はなかった」という論理とじつに似通っている。問題は、従軍慰安婦も集団自決も、それを「強制した文書が存在する、しない」ということではないのに。

あの沖縄戦で、日本軍の基地建設にも関わった沖縄島民は米軍にとらわれて軍事機密を明かしてしまうことを懸念されていた。それで日本軍は鬼畜米英を強調し喧伝し、重要な軍事物資であった手榴弾を島民たちに手渡す。たとえそこに言葉や文書による命令がなかったとしてもそれは自決への明確な誘導であり、その体制での誘導とは精神的な強制以外のなにものでもなかったことは想像に難くありません。ふだんは「すべてを言わずにそれを斟酌するのが日本語の美徳」などと言っておきながら、右翼保守派はこういうときに限って「具体的な言葉がなかった」と逃げ道に使う。まったく、汚いことこの上ない。

同様に、従軍慰安婦でも問題はそれを生み出した戦時体制全体なのであって、慰安婦はその中の一具体例でしかないのです。強制を示す文書がなかったといって鬼の首でも取ったかのようにはしゃいで新聞に全面広告を出すなど、やぶへび以外のなにものでもありません。そんなことを証拠立てたって本質としての軍国体制そのものが赦されるものではない。ここには例の靖国問題の本質も通底しているのです。

こうした一連の自虐史観の書き換えは安倍政権にとっては「戦後レジームからの脱却」の作業の一環かもしれませんが、米国では「第二次大戦の敗戦の否定」「戦時体制の肯定」として映っています。そこを相手にせずに慰安婦は強制しなかったと言っても、「だから何だって言うんだ」なのです。

今回の非難決議は、端緒はたしかに一議員の選挙区事情に動機付けされた側面もあったでしょうが、しかし現在ではすでに、いまの安倍政権を右翼政権ととらえる米民主党の政治的警戒感の表れへと変容しているのです。憲法改正や靖国参拝など、安倍晋三の体質を祖父の岸信介にまで遡って右翼や宗教右派と結びつけて論じるのが米国の民主党系知識人の傾向です。ですから慰安婦問題を足場に自民党の右傾化を阻もうというもうひとつ大きな政治的意図──まさに米民主党からの、米次期政権からの、これは申し置き状だと思って対処したほうがよいのでしょう。米民主党とのパイプをないがしろにしてきたツケが回ってきているのです。

May 08, 2007

ワシントン詣でが明かしたもの

日本の新聞が何を有難がってか「ジョージ、シンゾーとファーストネームで呼び合う仲になった」とうれしそうに記事にしているのを見て、いったいそのどこがニュースなんだとひとりで突っ込んでいました。「ロン、ヤス」の場合は短縮形でもあるのですこしは意味があったのかもしれませんが、「ジョージ、シンゾー」ではひねりもなにもあったもんじゃありゃーせん。当たり前の話だってだけです。

ゴールデンウィークは日本の政治家たちの外遊ラッシュでした。その中で安倍と大臣格上げになった久間防衛相、それに麻生外相という閣僚を含め、ワシントン詣では計30人ほどにもなったそうです。

で、安倍は従軍慰安婦問題でこれまでの御説とどうにもチグハグな感の否めない「謝罪」を強調して意味がわからない。久間も「イラク攻撃は誤り」発言や「(普天間基地移転で)やかましい文句をつけるな」発言、さらにはイージス艦機密漏洩事件の不祥事をひたすら謝る旅になってしまいました。結果、軍事機密保持協定に合意したという、まんまと米国の術策にはまったようなことになった。

これが野党から「強硬右傾化」政権と批判されている同じ政府なのか、「押しつけ憲法を自主憲法に書き換えるぞ」と力む前に、自分の自主自立を図ったほうがよいような体たらくです。

久間が撤回した「イラク攻撃は誤り」はいまでは当の米国人の大半が結論づけている正論なんですよ。それでブッシュ政権は支持率28%という最悪状態になっている。それを一度チェイニーや中央軍司令官が会ってくれなかったからといってどうしてビビることがあるのか。ビビっているのはブッシュのほうなのです。英国のブレアが退陣寸前なのも、イラク戦争で米国と歩調を合わせているのが背景です。ブッシュ政権が大きな顔をしていられるのはいまや日本政府に対してだけなのです。

その大きな顔にこれまたすくんだか、普天間基地問題は沖縄の人たちに説明する前にシンゾーが「合意どおりに着実に実施する」とジョージとの首脳会談で表明してしまった。自国民に伝える前に米国大統領に約束する首相とは何者なのか? まさに主客を転倒して、それでどうして美しい国になれるのか、わけがわからない。

以前から繰り返しているように、米国では来年の大統領選で民主党政権が生まれるかもしれません。今回のワシントン詣でで、日本の政治家たちにそうした民主党のキーパーソンとの個人的なコネクション、それこそ報道用ではないファーストネームの関係を模索した陰の動きがあったのかどうか……はなはだ心もとないところです。

どんなに日本がおもねってみても米国という国は結局はそのときの政権の都合の良いようにしか動きません。いつのまにか北朝鮮の拉致問題が国務省のテロ白書で昨年の3分の1の記述に縮小され、北担当のヒル国務次官補が「いまはわれわれが辛抱すべき」と北擁護に回っているのですからね。アベちゃんよ、どうしてお得意の拉致問題をジョージ君のケツにねじ込んでやんなかったのか。ケツはねじ込むためのものであってキスするためのものではないのだよ(お下品、しかし米国語の表現ではそういうのです。すんません)。

小泉政権での郵政民営化も米国の思惑どおりで日本売りだという批判がありました。
安倍内閣は国内向けには日本第一のような勇ましいことを発言しつづけていますが、米国詣ででのこの平身低頭ぶりを見ると、ミサイル防衛システム参加や集団的自衛権の容認、つまりは憲法9条の“改正”もじつはアメリカの思惑どおりじゃないかと気づきます。さすればこれは日本売りなどという甘っちょろいもんじゃなく、じつは「押し付け憲法」の受け入れなんかよりもはるかに手の込んだ「売国」の一環なのではないかとさえ思えてきます。いや、それはなかなか的を射ているかもしれません。

さて、ここまできて、冒頭の「ジョージ、シンゾー」関係がじつは別の意味でニュースだったのだと気づくわけです。

アベちゃんは揉み手をしながら媚び諂いを込めてジョージと呼んでいるかもしれないが、ジョージ君のほうは意のままになるペットでも呼ぶように「シンゾー」と呼び捨てにしている。そういう関係である。それを言外に伝えるニュースだったのかもしれません。いやちょっとニュアンスが違うか。ジョージは、ミスターと呼び合う関係にはどうにも弱いんだ。正式な話をしなくてはならなくなるから。オフィシャルな発言は気をつけなくてはならないし、そういうのはどうも憶えきれないから苦手。しかしファーストネームで呼び合うような状況ではジョークで誤魔化せるし持ち前のエヘッエヘッという自信なさげな笑いで逃げることもできる。なので、「なあ、シンゾーって呼んぢゃっていいかなあ? まあ、あんまり硬く考えないで話しようよ。難しいことは事務方がやるからさ」って意味なんですね。それをシンゾーはこれは親密さの現れだと受け取ってまんまと相手のゲームに載ってしまった、というわけです。

米国からの敗戦憲法を廃棄する気概にあふれているなら、ここはひとつ「シンゾー」と呼んでいいかと訊かれて相好を崩して尾っぽを振るのではなく、「いや、ミスター・アベ、あるいはプライムミニスター・アベときちんと呼んでいただきたい」と返すくらいの毅然たる態度を取るべきだったのです。相手はレイムダックの大統領。これはギョッとする。こんどの相手には誤魔化しは利かない、と、私語でしか得点を稼げないおバカな男は襟を正すでしょう。そして力を持たないアメリカから出来る限りの譲歩を引き出す。こんな駆け引き、北朝鮮ですら出来ることですよ。

ですからアメリカとの外交は戦略的にもむしろ、「ミスター」と呼び合うことから始まると心得たほうがよいのです。しかしまあこれも、いまとなってはあとの祭りですが。はあ〜。

December 31, 2006

年が暮れる

やけに人の死ぬ12月だ。ジェラルド・フォードが死んだ。ジェイムズ・ブラウンが死んだ。青島も死んだし岸田今日子も死んだ。それでサダム・フセインは死刑になった。イラクでは開戦以来最も米軍兵士の死んだ月になった。

the Deadliest Month.

フセインの処刑を報じるCNNが、awaiting the first picture of the excution released というテロップを映しながら中継をしていた。アンダーソン・クーパーが「手に入り次第、お見せします。もちろん局内で内容を検討した上、事前に警告もおこなってから放送します」といっていた。見せねばならないんだろうな。

人は死に餓えているわけではないし、フセインの処刑は史実として記録が必要だろうが、その後放送された、首に吊るし縄を回されるフセインの映像を見ているときに、はてわたしはどう反応していいものか、考えはその先にどうしても行こうとしなかった。

わたしは死刑にはなんの効果もないと思っている。だから、効果を求めての死刑には反対だ。けれど、拷問され虐殺された148人の遺族の怨念が死刑を求めることに関して、わたしはなにも言えないと思う。

最も高貴な復讐は、赦すことである。
けれど、復讐がしたいのではない、ただ、永遠に赦したくないだけだ、という言葉に、対峙できる言葉をきっとわたしは持たない。

この死刑はさらにまた、刑罰ではなく政治的な権力闘争の結末として、歴史に多々在った死のひとつでもある。その場合もまた、わたしはそれを受け入れるしかないのだろうとも思う。そんなもんだ、と。

12月もまた、残酷な月である。
A Happy New Year というあいさつの空々しく響く大晦日の青空が暮れてゆく。

December 30, 2006

フセイン処刑間近

CNNはあと3時間後と言っています。
日本時間では正午までに。これがこの日のイラクの夜明けに当たるらしい。

アメリカによるイラク侵攻が始まったときに、わたしは次のように書きました。

2003/04「よい戦争のよくない未来」

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 第一、フセイン政権が崩壊したとしてでは次に誰がイラクを統治するのか。亡命イラク人に人材はいない。優秀な官僚機構を持つとされる唯一の政党バース党をフセイン色を一掃した上で傀儡政権として利用するのか。

 しかしそんな政権で誇り高きイスラム教徒が、近隣イスラム諸国が黙っているはずもない。米英がいくら共同声明で殊勝なことを言っても国連にいまさらなにを頼めるのか。米英が安保理を見限った傷は簡単には癒えない。

 したがってそんな新政権を支えるためには米軍の長期占領が必要となる。散発的な対米進駐軍ゲリラの危険は消えるはずもない。そのうち内戦が勃発する危険さえある。そうなったら次に生まれるのは反米政権でしかないのである。

 フセインの首を取ったとする(それは当初から圧倒的な軍事力を背景に時間の問題でしかない)。ではその次にどうするのか? 戦争は、実はそこから始まるのである。だからこの戦争の行方がわからないのだ。

 ところでテロはどこに行ったのだ? 最初は対テロ戦争だったんじゃないか? テロもまた、さて、そこからまたぞろ生まれるのである。米国とアラブの共栄どころか反米の世紀が始まるのである。いや、それはすでに始まっているのかもしれない。
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上記の予測はほとんど当たりましたが、ゆいいつ、フセインの絞首刑は予想していませんでした。フセインの「戦死」ならこれは事の推移として“自然”だったのだけれど、裁判から死刑判決そして処刑、ということになるとそこにより大きな米国の恣意が入り込んでくることになる(実際、死刑判決は米国の中間選挙の直前にアナウンスされたのですし)。それに「年内の執行」というこの「年内」という概念自体、欧米的ですしね。

この処刑がバース党の残党周辺にさらなる報復の火種を与えることになるかもしれない。しかしフセインを生かしておいてはこの内戦状態の中、いつフセインが獄中から逃げ出して復活するかもしれない、という恐れは現政権、および米政権にとっての最悪の悪夢ですから。

この処刑はですから、シーア派やクルドへの圧政と虐殺の罪と同時に、いやむしろ現時点での意義としては、政敵の抹殺ということであります。状況は違えど、本質的にスターリンとどう違うんだか。とはいえわたしに言えることなどそうあるわけでもなく、まあ、最初のパジャマのボタンの掛け違いを、しかしとにかく最後までやってしまわないことにはうかうかベッドにも入れない、ということなんだろうなあということ。もっとも、ベッドに入って寝ついてからも、きっとどこかがずれてて寝づらくて、きっと夜中に目を覚ますことになるんだろうなあということです。

歴史は残酷だね。

November 14, 2006

おお、南アフリカよ〜&その他の短信

14日、南アフリカの国会(下院)が、なんと230対41という圧倒的多数で、同性婚を容認しました。
くーっ、やってくれますね。「結婚を男女に限定するのは憲法に保障する平等権に違反する」っていう違憲判決が最高裁で出たんだけど、それに基づいて議会で審議していた。

オランダ、ベルギー、スペイン、カナダに次ぐ、国家としては5番目の同性婚容認国です。

southafricamap.jpg

南アフリカって、ネルソン・マンデラが大統領になったときに「いかなる差別も許さない」という、アパルトヘイトの反省を込めた厳しい憲法(1994)を作ったのですね。で、そこには世界で初めて性的指向による差別も禁止するという文言が明確に規定されていた。ですから時間の問題ではあったんだが、国論はやはり、この議会の票決のようには圧倒的ではなく、なかなかきわどい二分状態だったようですよ。

同性愛はアフリカのほとんどの国で刑法犯罪で、なかには強姦や殺人と同じ量刑であるという状態の中、南アにはゲイの人権団体「OUT」ってのがあります。そこのプログラムマネジャーってからうーん、行動計画部長? ま、そんな役職のメラニー・ジャッジさん、さっそく速報しているNYタイムズにこんなコメントをしてます。

「この問題は私たちの憲法がどのような価値を持っているかのリトマス試験紙でした。平等って本当にどういう意味なのか? それはどんな姿をしているのか? 平等というのはスライド制の中には存在しません」

いいこと言うねえ。

これは今後、今月中にも全州評議会(上院)で承認されたあと、大統領の署名で法律になります。発効はまだ先でしょうけど。
ただ、批判票をかわそうと、役場の窓口係員が宗教上の理由などで(良心・宗教・信念の自由ってやつね)個人として同性婚申請者を拒否することもできるようになってるのですわ。こりゃまずいってんで、これに関してはまたまた法廷闘争の動きもあるかもしれません。こんなことしてたら黒人と白人の結婚も個人の思想上宗教上の信念によって拒否していいってことになりますものね。

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パリで先週の木曜日に(ギネスの日だっけ?)「同じ場所で最も多くのひとがキスをする世界記録」ってやつがやられたんだけど、あつまったのは1188人でみごと失敗に終わりました。世界記録は昨年ブダペストで集まった総計11570人の同時キスなんだってさ。

でもでも、はい、あなたは何人、この写真の中で同性同士でのキスを見つけられますか?

いい写真だなあ。

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残念なニュース。
モントリオールで今夏開かれたアウトゲームズ、大赤字。
モントリオール市に350万ドル(カナダドルだから3億円くらいかな)の借金ですって。
シカゴのゲイゲームズも赤字だったので、やっぱり、2つの分裂は財政的には痛かったんだろうなあ。なんでも派手だったし。さて次回はどうなるのでしょう?

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デザイナーのトム・フォード、エステローダーの重役とのミーティングで、彼の新作香水「ブラック・オーキッド(黒蘭)」の香りを、「男性の股間の匂いにしたい」って、あんた……。
pagesix014b.jpg

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Gays.comのドメインネームが50万ドルで売れたそうです。6000万円。
そんなに価値があるんですね。
久しぶりのドメイン売買ニュース。
ちなみに「Gay.com」は有名サイトで、こっちは既存、健在です。

November 10, 2006

エルサレムで何が起きているか?〜その他ハガード続報

イスラエルの首都であり、古代からユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒の巡礼の中心地であるエルサレムで、数週間前から、きょう11月10日に開催されるゲイプライド「ワールドプライド」のパレードに反対する超保守派(ウルトラオーソドックス)のユダヤ教徒たちの暴動が起きています。パレード開催予定のハレディ地区では夜ごとに車がひっくり返されたり火をつけられたりと、なんともこの宗教的憎悪の激しさは神をも畏れぬ蛮挙です。もっとも彼らはそれが神の意思だと思っているのだからたちが悪い。去年も参加者が刺されるという襲撃事件が起きました。本来はことし8月10日に行われたワールドプライドですが、メインイヴェントだったパレードはレバノン・ヒズボラへの攻撃や度重なる妨害で2度にわたって延期され、規模の縮小も余儀なくされてきました。8月には「ソドムとゴモラの住人たち(同性愛者たち)を殺した者には賞金20000NIS(50万円)を与える」というお触れまで出たんですよ。

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イスラエルでは同性愛は違法ではありません。たしか2年前には史上初のゲイの国会議員も誕生している。商業都市であるテルアビブではもう何年も前から大規模にゲイプライドマーチが敢行されています。しかし聖地イスラエルは別なのでしょう。「去年の刃傷沙汰はことし起こることに比べたら子供だましだったとわかるだろう。これは聖戦の布告なのだ」とラジオ番組で宣言する右派指導者まで現れる始末です。

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米ボストングローブ紙には、わざわざブルックリン(ニューヨークのこの地区にはオーソドックスジュー=正統派ユダヤ教徒=の一大コミュニティがあります)から出向いている反ゲイ活動家のラビ、イェフダ・ラヴィンが「この共通の憎悪の強大さは、ユダヤ人とムスリムの共闘を生むほどだ」とコメントしていました。じじつ、世界三大宗教の代表者たちがそろって聖地でのゲイプライドの開催を禁止するよう政府に要求してもいます。パレスチナを巡って戦争までしているユダヤ人とアラブのイスラム教徒が、ホモセクシュアルを駆逐しようというその猛攻においてのみ結託できるというこの愚かさを、私たちはそれこそナチスのユダヤ人虐殺やキリスト教による十字軍の傲慢に喩えることができるのですが。

じつは今日11月10日は「クリスタルナハト=クリスタル(割れたガラス)の夜」の記念日なんですね。クリスタルの夜とは、ナチがユダヤ人の商店・住宅・教会堂を破壊し大虐殺を行った1938年11月9日から10日にかけての夜のことです。それもユダヤ教原理主義者たちの不興を買ったのでしょうが。

jerusalem2.jpg

そういうわけで、このパレードの開催に向けてまたもや警察が妥協策を提示して、これには8日のガザへのイスラエルの誤爆で市民が19人も死んで、パレスチナ側がその報復テロを予告しているのでその警備をしなくてはならないということが背景なんですがね、まさに前門の虎、後門の狼状態。場所をヘブライ大学構内のスタジアムに限定する野外集会ということになったようですが、それでパレードの代わりと言えるんだろうかという疑問も残ります。でもとにかくそれがあと数時間で始まります。警官隊は3000人体制で警備すると言っているのですが、さて週末にかけて予想されるこのエルサレムの混乱は日本では報道されるでしょうか。

しかしそれにしても、こんなにまで妨害されても暴力をふるわれても、どうしてゲイたちはパレードを行おうとするのでしょうね。
それがわからないひとには、たしかにこれはなんの意味も持たないニュースではあります。

**

全米福音派協会代表で自ら率いるニューライフ教会の司祭テッド・ハガードをアウトしたマイク・ジョーンズが、アウティングの行為によって福音派の連中から感謝されているというエピソードを紹介している。
コロラドスプリングスでホテルにチェックインした際、ニューライフ教会の信者という受付の男性が手を差し伸べてきて、「ありがとう。あなたのおかげで教会もテッドも救われた。テッドはこれで彼の必要とする助けを受けることができる」。
サイテー。
悔い改めよ、さらば救われん、ってことに収斂してしまっているようだ。

そのマイク・ジョーンズがもう1人をアウティング。

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ハガードの親友で全世界6000局で毎日放送されているラジオ番組「Focus on the Family」と、同名の非営利団体を持つ福音派クリスチャンの反ゲイ超保守派指導者、ジェイムズ・ドブソン=写真上=もゲイだ、と。

そのドブソン、ハガードのリハビリチームから「この重大な責任を負う仕事に対応できる時間がない」と辞去。神の助けを親友に与える時間のない宗教者とはいったい何ぞや。

そのハガードも登場した映画「ジーザス・キャンプ」(少年少女へのキリスト教洗脳サマーキャンプ)を率いるペンタコスタ派の司祭ベッキー・フィッシャー、「いまは危険な時期」ということでこのサマーキャンプを当面の間(数年間)中止すると発表。
おまえら、ずっと危険だったろ。

で、ハガードのリハビリとは、キリスト教系ニュースサイト「ChristianToday,com」によれば、

http://www.christiantoday.co.jp/news.htm?id=654&code=dom

**
ハガード元米福音同盟代表、長期リハビリに参加へ
2006年11月10日 14時06分
 男性との「性的不品行」の疑惑を受けて米国福音同盟(NAE)代表を辞任したテッド・ハガード氏が、同性愛者向けの長期リハビリを始めることが10日、米国メディアの報道でわかった。

 メディアによると、リハビリはキリスト教理念に基づいて行われる。集団および個人カウンセリングと祈りで構成され、3−5年を要する。回復には個人差があり、個々の必要に応じてプログラムを組み立てる。

 祈りやカウンセリングでは、キリスト教徒として高い水準の聖潔を維持している人々と長期間交流をしながら、患者が自分自身の罪、不道徳さ、課題に正面から取り組む。

 コロラド州コロラド・スプリングスに拠点を置く福音主義キリスト教団体、フォーカス・オン・ファミリーのロンドン副代表はリハビリについて、「成功率は50パーセント。失敗して途中で逃げてしまった患者は正気を失って持ち物を売り払い、人々を避けながら寂しく余生を送るケースがほとんどだ」とプログラムの過酷さを明かした。リハビリの成果は患者の強い精神力と、支援側の正しい判断力にかかっているという。

 同団体創設者、ジェームズ・ドブソン師は当初ハガード氏の治療に参加する予定だったが、日程が合わず辞退が決まった。これまでにジャック・ヘイフォード牧師(チャーチ・オン・ザ・ウェイ主任、カリフォルニア州)とトミー・バーネット牧師(フェニックス・ファースト・アッセンブリー・オブ・ゴッド主任、テキサス州)らメガチャーチ(1万人を超す大規模な教会)の代表らがカウンセラーとして名乗りを上げている。

リハビリを経たハガード氏が宣教復帰するかは不明。同氏の弁護士で親友でもあるレオナルド・チェスラー氏は「彼(ハガード氏)は人生を神にささげて献身的に行き、今後も神の導きに自身を委ねたいと願っている」と話した。

***
これって、いわゆる「エックス・ゲイ(元ゲイ)」運動の“リハビリ”でしょう? 「ゲイを治す」というやつ。ああ、神さま。やっぱりけっきょくこいつら、なにもわかってないようです。なんたることか。


(冒頭のニュースの続報アップデートです)
イェルサレムのゲイプライド「ワールドプライド」、無事開催。

とはいえ、当初予定のパレードではなくヘブライ大学スタジアムを利用した青空集会(ラリー)に縮小(ってのは冒頭のブログのとおり)。反ゲイのユダヤ教、キリスト教、イスラム教の暴動や襲撃事件だけでなく、8日にガザ地区にイスラエル軍が誤爆して子ども7人を含む19人の一般パレスチナ市民が死亡するという事件があったため、パレスチナによる報復テロを恐れてイスラエルはそれでなくとも厳戒態勢。金属探知機などを使った3000人の警官の物々しい警備の中、取材者発表で1万人、警察発表で2000人、ってことはつまり、だいたい4000人が集まったってことでしょうね。
ほんと、イェルサレムは快晴のようでした。

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ところで、やっぱりラリーに妥協じゃなくちゃんとパレードをというLGBTの流れも止められず、ガン・アハアモン公園という別の場所から(大学との位置関係わかりません。すんません)「自然発生的な」パレードを計画していたグループもあった。で、こっちはパレードを始めようとしてあっという間に警官隊ともみ合いになって、30人の逮捕者を出したもよう。

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プライド反対の宗教学生のグループ250人がプライド集会後にデモを行ったらしいが、目立った衝突はなかった。

この問題に関する英語を話すイスラエル人及び他国人の意見はイスラエルの新聞ハーレッツ(って読むのかしら?)のサイトで読めます。なかなか興味深いです。

http://www.haaretz.com/hasen/pages/ArticleNews.jhtml?itemNo=784991&contrassID=13&subContrassID=1&sbSubContrassID=0

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もう1人のアウティングされそうな隠れゲイ、共和党全米委員会(NRC)議長のケン・マールマン=写真上。先日のCNN「ラリー・キング・ライブ」でのビル・マーによる名指しが聞いたわけでもないんだろうが、どうも1月に議長職から退く予定らしいとのニュースが。まあ、選挙大敗の責任を取って、ということだろうが、“ゲイ疑惑”が弾けるまえに、ということなんでもあるんだろう。
しかしねえ……。
(さらに続報=マールマン、新年度はNRC議長職から退くことを発表しました。尻に火がついたんでね)

November 03, 2006

すっかりクレーマー〜朝日記事、続報

どんな組織でも、組織というのはすぐれた部分もあるし劣った部分もあります。ですから、例えば「朝日新聞をどう思いますか」と訊かれても「読売はどうですか」と言われても、応えはだいたい同じです。「すごい記者もいればひどい記者もいる。素晴らしいデスクもいればとんでもないデスクもいる。その比率はどの社もだいたい同じ」。

ですんで、新聞を読むときはいずれも記事を個別に判断しなければなりません。そうして同じ内容の、同じ題材を扱った他社の記事と比較してみれば、どの記事に何が足りないのか、何が余計なのか、何が舌足らずなのかがわかってきます。

先日の、朝日のイタリアの「ゲイの議員」の一件は、朝日新聞広報部から正式に「議員自身がゲイだと公表しているから」そう記したのだという回答をもらいました。しかし、実際は違うようです。善意に解釈して、ゲイとトランスジェンダーの違いがまだ行き渡っていない社会なので、朝日の筆者(ロイター電の訳者ですが)もそのイタリアでの言いに引っかかったのではないか、とも斟酌しましたが。

くだんのルクスリア議員は、自分では「ゲイ」と言っていないのです。

イタリアでゲイを公表している議員はGianpaolo Silvestriといい、ルクスリア議員と同じ選挙で初当選した、上院初のオープンリーゲイ議員です。一方、ルクスリア議員はイタリアではゲイの団体からも「Vladimir Luxuria, 1° deputata transgender d'Europa 」というふうに紹介されている。(参考=http://www.arcigay.it/show.php?1865)

英語版のウィキペディアでも以下の通りです。
「Luxuria identifies using the English word "transgender" and prefers feminine pronouns, titles, and adjectives.」
(http://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Luxuria)
「英語でのトランスジェンダーという言葉を使って自分をアイデンティファイしている」、つまり、自分はトランスジェンダーだと言っているわけです。

したがって「本人がゲイであると公表しているため」という朝日広報部の回答は、裏が取れない。確認できない。 適当にごまかせると思って嘘をついたとは思いたくはありませんが、回答は結果としてはまぎれもなく嘘です。まあここでも斟酌すれば、ゲイライツを標榜とか、イタリアでゲイプライドを始めたとか、そういう記述に引っ張られたのかもしれませんけれど。

**

それで終わればよかったのですが、翌々日にふたたびおかしな外信記事が朝日に載りました。以下のようなものです。

「お化け屋敷」で神の教え 若者呼ぼうと米で広がり

2006年11月01日03時13分
 ハロウィーンの“本場”の米国で、この時期、民間のお化け屋敷の形を借りてキリスト教の教えに基づく世界観を広めようとする「ヘルハウス」(地獄の家)が静かな広がりをみせている。若者を教会に引きつけようと、31日のハロウィーン本番にかけて、各地で人工妊娠中絶や同性愛の人たちが地獄に落ちる筋書きの「宗教お化け屋敷」が設営されている。

 ヘルハウスは、教会に通ったことのない10〜20代を主な対象にしている。七つの部屋を通り、最後は地獄と天国を体験する仕組み。同性愛、人工妊娠中絶、自殺、飲酒運転、オカルトなどにかかわった人たちが苦しむ様子が描かれる。

 ヘルハウスは30年以上前からあったが、95年に福音主義のニュー・デスティニー・クリスチャン・センターのキーナン・ロバーツ牧師が筋書きと設営の仕方をセットにして売り出して広まった。ハロウィーンを前に各地に設けられるお化け屋敷を利用した形だ。同牧師は「教会ドラマ」と呼ぶ。

 同牧師によると、800以上の教会が購入、米国の全州と南米を中心に20カ国に広がっている。米南部と西部が中心だが、ニューヨークでは今年、これを利用した舞台版のお化け屋敷も登場、連日大入りの人気だった。

**

この最後の部分、「ニューヨークでは今年、これを利用した舞台版のお化け屋敷も登場、連日大入りの人気だった。」というのが引っかかりました。こんな宗教右翼のプロパガンダがニューヨークで流行るはずがないのです。流行ったらそれこそ大ニュースで、だとしたら私の日々のニュースチェックに引っかかってこないはずがない。ってか、だいたい、こんな宗教右派の折伏劇を取り上げてなんの批判も反対も紹介しないで「静かな広がりをみせている」だなんて、おまえはキリスト教原理主義宣伝新聞か、ってツッコミを入れたくなっても当然でしょう。

で、NYタイムズなどのアーカイヴを調べました。そうしたら案の定、話はまったく違ったのです。

このニューヨーク版はブルックリン・DUMBO地区の小劇場で10月29日まで2週間ほど行われていたものですが、これには今年初めのロサンゼルスでの「ハリウッド・ヘルハウス」というパロディ版が伏線にあります。キーナン・ロバーツ牧師の売っている筋書きと設定をハリウッドのプロダクションが買って脚本を作り、面白おかしいパロディにして上演した。地獄を案内する狂言回しの「悪魔」役はいまコメディアンとしてHBOで人気トークショー番組(毎回、政界や芸能界やメディアなど各界の左右の論客を3人呼んでそのときの政治問題を侃々諤々と議論する1時間番組)ホストを務めるビル・マー。これだけでもこの劇を「嗤いもの」にしようとしている意図がわかろうというものです。

で、そのヒットにかこつけて今度はNY版が出来上がった。しかしこちらはそう明確なお嗤いにはしなかった。「悪魔」役こそ誇張されて変だけれど、展開する寸劇はより生々しくシリアスにおどろおどろしく、制作陣の意図はむしろこうしたキリスト教原理主義の教条をナマのままに差し出したほうが観客の自ずからの批判を期待できるのではないか、ということだったようです。ってか、ここに来るような観客はみんな地獄に堕ちろと言われんばかりのニューヨーカーなんですから。

NYタイムズの劇評(10/14付け)は「Obviously, “Hell House” is a bring-your-own-irony sort of affair.(言うまでもなく、「ヘルハウス」は自らこの劇の皮肉を気づくためのもの)」と結んでいます。まあふつうそうでしょう。これで信仰に帰依しちゃうようなナイーヴなひとはとてもニューヨークでは生きていけないもの。ちなみにこの劇団、例のトム・クルーズの没頭する変形キリスト教集団「サイエントロジー」をおちょくった「A Very Merry Unauthorized Children’s Scientology Pageant」なんて劇をやってたりするようなところですし。

つまり、言うまでもなく、朝日のこの記事の結語はまったくの誤解を与える誤訳なのです(じつはこれはそもそも、APの英文記事の翻訳原稿でしかありません)。文脈としてはまったく逆であって、全米の教会ではまともに布教活動の一環として素人演劇で行われているが、NYでの連日の大入りの背景は逆に、そんなキリスト教原理主義のばかばかしさを笑う、あるいは呆れる、あるいはそのばかばかしさに喫驚するための、エンターテインメントなのです。ね、ぜんぜん意味が違ってくるでしょう?

「同性愛や人工妊娠中絶の人たちが地獄に堕ちる」というような、とてもセンシティヴな話題を取り上げるとき、まずこれをどういった姿勢で書くのか、どういった背景があるのか(ことしの米国は中間選挙で、モラル論争をふたたび梃子にしようとする右派の動きとこの「ヘルハウス」は無縁ではありません)、さらに、書くことで傷つくひとはいないのか、ということをまずは考えなくてはいけません。それだけではない。新聞社にはデスクという職責があって、記者がそういうものを書いてもデスクで塞き止めるというフェイル・セーフ機構があるはずなのです。朝日のこの記事、および例のトランスジェンダー議員の記事、立て続けに出ただけに、おいおい、だいじょうぶかいな、という心配と腹立たしさが募りました。こういうことを書くことで「だからマスコミは」「だから新聞記者は」「だからジャーナリズムは」という安直な批判言説を生み出してしまうとしたら、その失うものは筆者やデスクやその新聞社の名前だけにとどまるものではないのです。

朝日は10月半ばにLGBT関係で大阪の記者がレインボーパレードを取り上げたり、同性愛者の「結婚」も市長が祝福という記事を書いたり、「ダブルに男性同士」宿泊拒否ダメ 大阪市、ホテル指導、と教えてくれたり、ヒットを連発してくれてとてもありがたい限りだったのですが。

ね、ですから、「朝日新聞をどう思いますか」と訊かれても、それは全体としては応えられないわけで、これはよかったけれど、あれはひどかった、としか言えないのです。

October 30, 2006

おいおい、朝日新聞よ

いったい何事かとびっくりして読んでみたら、へっ?

***

ゲイの議員の女子トイレ使用巡り大げんか 伊下院

2006年10月30日11時40分
 イタリア下院で27日、中道左派に所属するゲイの議員が女子トイレを使おうとしたところ、中道右派の女性議員から抗議されて大げんかになる騒ぎがあった。双方とも「セクハラ行為だ」と主張して譲らず、両派の院内総務による協議へ発展。下院議長に判断を仰ぐことで合意したという。

 抗議されたのは、今年4月の総選挙で当選し、「欧州初のトランスジェンダー議員」として注目されたブラジミール・ルクスリア議員。男性として生まれたが、日頃から「『彼女』と呼んでほしい」と求めている。休憩時間に女子トイレに入った際、ベルルスコーニ前首相率いる政党のエリザベッタ・ガルディーニ議員から「入るな」と怒鳴られたという。

 ルクスリア氏は「いつも女子トイレを使っているが、こんな経験は初めて。私が男子トイレに入ったらもっと大きな問題になる」。「トイレに『彼』がいたので驚いた。気分が悪くなった」とガルディーニ氏。

 判断を委ねられた議長は中道左派所属で、ルクスリア氏に同情的だ。

**

おいおい、ゲイの議員は女子トイレなんか使わんでしょうが。これ、引っかけ見出しですか?  だれが送稿した原稿でしょう? ローマ特派員?
ウェブサイト上では無署名でわかりませんが、休み明けの外信部の内勤がロイターかなんかを見て埋めネタで訳したんでしょうか? うーん、「女子トイレ」だもんねー。

本日夕刊内勤の外信部デスクおよび担当局デスク、こんな、サルでもわかるような基本的な間違いをスルーするなんて、いったいどういうデスク作業をしてるんだい?

呆れたぜメッセージは
http://www.asahi.com/reference/form.html
まで。

しかし、イタリアでのトランスジェンダー理解というのはこれほどにひどいのかなあ。文句を言ったこの女性議員って、中道右派ってことは、バカってことか。

こういうときに、「性同一性障害」っていう病理的な分類のターミノロジーが有効なんだってのは、とても哀しいけど、戦略上はそれが手っ取り早いのかね。わたしは手っ取り早くなくとも、出発点が早ければ結局はいまの時点でも本質的にも有効な言説が生まれていると思う。レトロスペクティヴにしかいえないが。だから、いまでも性同一性障害という言葉と同時に、トランスジェンダー/トランスセクシュアルという言説を日本でも生み出しておきたいと思う。それはきっと1年後のいま、回顧的に見てけっして戦略的という皮相なものではなく本質的に有効な足場になってくれると思うのです。

いま、新聞協会にね、こういう具体的な性的少数者に関する記事原稿の誤りを正すように申し入れしようと思っています。新聞協会は「新聞研究」という月刊誌を出しているのだけれど、そこへの寄稿もあり得ますね。こうしたなさけない具体例がいまでも数多簡単にピックアップできるという現状は、批判者にはおいしいが、ほんとはじつに哀しいです。

*****

で、上記内容を朝日新聞にメールしたところ、さっそく朝日新聞広報室からの回答が来ました。この辺はちゃんとしてますわね。回答文、すんごく短いけど。

以下転載します。


北丸雄二様

メール拝読しました。ご指摘の件ですが、トランスジェンダーのルクスリア議員を「ゲイの議員」と表現したのは、本人がゲイであることを公表しているため、とのことです。

朝日新聞広報部
**

ってわけで、次にコピペするのがこれに対するわたしの2信。でもいまその自分のを読み直して気づいたけど、「ゲイと自称」じゃなくてこの広報部の返事には「ゲイであることを公表」って書いてあるわい。つまりこれ、ひょっとして「カムアウト」の意味の誤解かな? She came out ってののcome outを「ゲイであることを公表する」って辞書に書いてある意味のまま理解したのかしら? トランスジェンダーとしてカムアウトしてるのかもしれないのに。だとしたら大ボケだ。

で、朝日の実際の紙面も友人が送ってくれました。夕刊2面のアタマの扱いだそうです。

じゃっかんウェブ版とは文言が異なります。トランスジェンダーの説明があるところが違いますね。


拝復、

さっそくの回答ありがとうございます。

ところで、「本人がゲイであることを公表している」としていますが、それは広義の「性的少数者」としての意味の「ゲイ」であって、一般の定義の「ゲイ」とは違うのです。それは自称の有無とは関係ありません。
もし彼女がゲイなら、「トランスジェンダーのレスビアン」、つまり、体は男でも心は女で、しかもゲイ(同性愛者)なら、好きなのは女性であるレズビアン、という意味になってしまいます。でも、ちがうでしょう?

トランスジェンダーの概念が行き渡っていない国ではそういう言葉がないのと同じですので、そういうところではトランスジェンダーのひとも「ゲイ」と自称したりするのです。
日本でもむかしはそうでした。トランスジェンダーもトランスベスタイト(異性装者)も性同一性障害者もゲイもみんないっしょくたに「おかま」だったでしょう? 違いますか? 今回の朝日の記述は、いま違うとわかっている上で、自称しているのだからと言ってあえてこの「おかま」という総称を使うのと同じことなのです(もちろん蔑称の意味を含んでいないのは承知しています)。

で、いまはどうか? 少なくともトランスジェンダーとゲイは違うということを、メディアの記述者は知っていなければならない。わたしが言っているのはそのことです。だって、「今年4月の総選挙で当選し、「欧州初のトランスジェンダー議員」として注目された」わけでしょう? 彼女はトランスジェンダーなのだって、メディアで確認されているのですから。筆者およびデスクはそこを配慮して記述すべきでしょう。この記事のままでは「ゲイ」への、また同時に「トランスジェンダー」への誤解を助長する、あるいは放置する。それは読者を混乱させるし、少なくともその混乱の素である「ゲイ」という単語を見出しに取ったことは賢明とはいえないと思います。(それに、こういう少数者の人権問題をトイレにかけて「落とし所どこ」とするのは、整理部記者冥利なんでしょうけれど、なんだかねえ……)

これにはロイターも配信していてロイター自身による日本語翻訳原稿もあるのですが、それもなんだかおちゃらけた感じ(当該議員を「元ドラァグクィーン」としたり「女装議員」と呼んだり、混乱しています)なのですが、こうしたことも含め、朝日新聞にはもう一歩、配慮のある対応をとっていただきたいものでした。ベテラン記者の郷さんなら、そのあたりのニュアンスをおわかりいただけると思うのですが。

いずれ、この問題は各紙の具体例を収集して新聞協会の「新聞研究」に載せたいと思っています。
この第2信に対する朝日新聞のコメントもいただけると助かります。

不一。

北丸雄二拝

***

そういうわけで、直後に第3信も追送しておきました。
私もヒツコイ
その文面は以下のとおり。

**

さきほど返信を送りましたが、もう一点、いま気づいて確認したいところがあります。

ご回答では「本人がゲイであることを公表しているため」とありましたのを、わたしは勝手に「ゲイであると自称している」と受け止めましたが、これはどちらなのでしょうか?
じつは、日本語のターミノロジーとして「ゲイであることを公表する」というのは、一般に英語の「come out」の辞書的定義の丸写しなのです。

まさか「She has already come out」という英文テキストを「本人がゲイであることを公表している」と理解した誤解、誤読、誤訳ではないでしょうね?

もし上記のような文だったならば、「She came out as gay」と「She came out as transgender」との2つの可能性があるのです。
彼女は「ゲイ」(イタリア語で何というのか知りませんけれど)と「自称」しているのでしょうか?(もっとも、英語で「She came out as gay」といったら先のメールでも触れたとおりレズビアンのことになりますが)。

ご面倒でもそのあたりも郷さんにご確認願えれば幸いです。
もしトランスジェンダーとしてカムアウトしているのをカミングアウトという言葉に引っ張られて「ゲイであることを公表」と訳していたのなら、ぜんぜん違う話になってしまいますから。

不一。

北丸拝

October 10, 2006

北の核実験の真意

バグダッドの米軍基地で大規模な爆発があったようです。CNNはそれをトップで報じています。でも犠牲者は出ていないっていってますね。いま現在、まだバグダッドは深夜なので原因は何なのか、現場がどうなっているかの映像も来ていませんが、あさになれば状況は変わるかもしれません。それにしてもこの2日間でバグダッド周辺では110人を超える死体が捨てられているのが見つかったとか、とんでもない状況が続いています。

それと北朝鮮ですが、どうも北朝鮮の核実験、失敗したんじゃないかという話が強くなっていますね。
4キロトンの爆発力が予想されていて(北があらかじめ中国にそう報告していたようです)、しかしどうも500トン、もしくは200トンくらいの爆発力しかなかったようだという話で、核爆発まで行っていないんじゃないかということまでいわれています。

そうすると、未確認ながらいまさっき行われたという再実験の動きというのも、じつはその失敗のためにさらに実験するということなのかもしれません。7月のテポドンの発射のときも失敗していますしね。

同時に、アメリカは軍事的な作戦の行使はないと断言し始めています。理由の1つはよい標的がないこと。もう一つは犠牲者が100万人にも及ぶだろうこと。

日本ではおそらく脅威ばかりが強調されているでしょうけど、ちょっと冷静になって考えてほしいのはね、北朝鮮はね、これで日本や韓国を核攻撃する、というわけではない、ということなのです。そうなれば北朝鮮自体がなくなってしまうということですから、そんなことはしない。それは北の脅しなんです。いつものはったり。今回の核実験というのは、あくまでそのハッタリの度合いを強める、そのハッタリの脅威を、真実味を強める演出でしかないんですよ。そこを読まなければならない。

もちろん米軍が攻撃したら核をぶっ放す、というか自滅覚悟でいわば国家単位の自爆テロをやらかすでしょうが、それはアメリカといえどもやりません。やらないって言ってる。

つまりね、この核実験は、核攻撃をするためではなくて、もう核実験をやらない、ってことを条件に米国から譲歩を引き出すためのネタ作りなんです。核実験をやらないから米国に二国間の直接交渉に出て来い、って、その要求を実現させるための、いわば都合の良くでっち上げたご褒美なんです。核実験もしない、核をテロリストや他の国家にも売らないから、という、自分でネタを作ってその自分のネタで揺すって、そのネタを引っ込めるからこうしろ、と迫るための、じつに稚拙なマッチポンプなんです。つまり、自分で日本刀振り回して、もう振り回さないからカネをくれって言ってるのと同じなんですね。だからここは、そのカネの中味、何が欲しいのか、どうして欲しいのかをはっきりさせた上で、それにどう対処するのかを戦略的に考えるべきなんです。
それを見極めた上での外交上の作戦を練るのが必要なんですよ。

いまおそらく日本では北に対抗するための核武装論や、憲法9条改正論がまた熱を帯びつつあるかもしれません。しかし、そりゃあ、ぜんぜん有効じゃない。日本が核武装してどうするんですか、余計に混乱するだけなんですよ。核武装論者で改憲論者の安倍さんはこれで勢いづくでしょうけど、それはちょっと、為にする議論です。

北が国家自爆テロにまで進んだらどうするか?
そんときは東アジアは壊滅状態です。日本がいまから核武装したって間に合わないし、間に合ったところで自殺テロ志願者にはなんの効果もないし、さらにはいま核武装していたとしたって壊滅を防ぐためのなんの役にも立たない。でしょ? わかります? だから、道は、北に自爆テロをやらせないためにはどうするかってこと。それを考えない限りどうしたってダメだってことです。そんで、それは日本の軍備拡張でも憲法改正でもぜんぜんないってことですわ。

しかし中国はこんかいで北への影響力というのをすっかり失っているということを証明してしまったね。テポドンの7月のときもそうだったけど、胡錦濤の官僚体制が、北との人間的な人脈を蔑ろにしてきた結果なんだろうね。そうすると北がいまどこに逃げ道を模索しているかというと、ロシアなんだろうなあ。今回の実験でも、中国より先にロシアに事前通告していたって、これはどういう兆候なのか、とても興味深いですね。

今朝の朝日の天声人語(さいきん、このコラムがまた甘っちょろくてかつての栄光はどこ行っちゃったんだろうねえっていうような文章しか載せてない情けない一面コラムに成り下がってますが)がアインシュタインの言葉を引用してました。

「第三次世界大戦がどのようにおこなわれるかは私にはわからないが、第四次世界大戦で何が使われるかはお教えできる。石だ!」

この引用以外は、またまたひどいテキストでしたが。

July 13, 2006

予防的先制攻撃論

安保理、難航してます。
中国、どうも北への交渉の窓口を失っているようです。韓国での南北協議も、北の代表は憮然として(本来の使い方と違うけど、ムッとして、という意味で)帰って行っちゃいました。
北は、ぜんぜん言うことを聞かないね。
中国が交渉に失敗して、なんの譲歩も北から引き出せないですごすごと帰ってきたら、中国はかなり国際社会でのメンツを失う。中国がいまでも安保理で存在意義を持っていられたのは、この北朝鮮カードがあったからという部分が大きい。さあ、どうするんだろう。

前回の続きですが、これって、戦略的に1度も歴史上“実験”されたことがないけど、「射つぞ、射つぞ」っていうやつに、最も有効な対処方法は、「射たないぞ、こっちは絶対に射たないぞ」って、世界中に聞こえるようにいうことなんじゃないかと思ったりするんですよね。そういうのって、相手として、一番いやなやつじゃないですか、喧嘩するときなんか。そんなやつを殴ったら、非難囂々ですよ、ふつう。つまり、そんな国にミサイル射り込んだら、それこそ周り、というか世界中が黙っていないでしょ。大変なことになりますわ。
もちろん、国際社会上の政治的言語としてどういうふうに言い回すかはありましょうが、そういうことを宣言するってのは、相手方の武力行使回避のとんでもない抑止力になるのではないか。

先制攻撃論は、相手にこそ先制攻撃の論拠を与える、という意味で、思っていても報道陣のいるところで口にしてはいけないもんです。本気でそれを考えているときは、相手にそれを気取られないところで一気に先制攻撃をしなくてはならない。おくびにも出してはいけない。そんなの、戦争の仕方の初歩中の初歩でしょうが。そうじゃなきゃ、相手に政治的にも外交的にも責め込まれちゃうんだから。

ですから、額賀とか安倍とかがそれを言うってことは、よっぽど迂闊か、あるいは為にするための国内向けの政治的発言以外の何ものでもないんでしょう。さて、では何のためかと言うと、もちろん9条憲法改正ですわね。

そんなことのために、ほんとうに、そんな形式的なことのために、額賀も、麻生も安倍も、北朝鮮に対して日本国民を人身御供に差し出すような、まかり間違えば相手の発射を誘発するような発言をしれっとするってえのは、政治家として売国的に言語道断だってことを、誰も言わんのはどうしてなんでしょう?

繰り返しますが、日本は、戦争をしたら只の国なんです。戦争をしたら弱いのです。戦争をしないから強いんですよ。

戦争をしないぞ、絶対にしないぞ、ぜったいにおまえなんか攻めてやらねえぞ、てめえ、この野郎、って大声で宣言することが、一番の武器なのだということに、気づけよなあ。

ってか、それこそが憲法9条なんでしょうにねえ。
この稀代の武器を、自民党政権は未だかつて、使ったことがないのです。
なんなんだろ、この憲法への背任行為は。

July 11, 2006

北朝鮮をどうしてくれよう

 横田めぐみさんの死亡説を繰り返すだけの元夫とか「ミサイル発射は平壌宣言に違反しない」と会見でしゃーしゃーとうそぶく外交官とか、まったく北朝鮮の連中は自分の言っていることが世界にもまともに聞こえると信じてるのか。もういい加減にしろよ、てめえ、ってそう、気色ばみたくなるのも当然ですわね。

 ただふと気づいたんだけど、前段の金英男さんも会見で虚勢を張った宋日昊(ソン・イルホ)日朝交渉担当大使も、なんだか自分でもうんざりしてるような顔つきでした。国際社会から繰り返される突き上げ質問にうんざりなのか、それらに同じように答えなければならない自分の現状にうんざりなのかは分かりませんが、以前はもっと毅然として強面だったような印象があるんだけど……。

 そのうんざりさ、げんなりさを知っている拉致被害者の1人、地村保志さんが金英男さんについて「彼も被害者の1人だ」と言っていました。洗脳というよりは恐怖から、彼らはそういうふうにしか言えない。ま、宋大使ほどのエリートにもその斟酌が適当かは分からんけど。

 そこを承知でなおかつ斟酌すれば、本当に「世界からの被害」妄想を信じさせられている人たち以外は、北朝鮮では支配層ですら体制にがんじがらめで、どうしたらよいか分からなくなっているんだと思うわけで。改革を唱えるのも体制批判。粛清渦巻いたスターリン時代の旧ソ連と同じで、互いが互いの脅威を妄想してだれもが動けない。まさに恐怖政治の硬直した成れの果て。こういう時に動けるのは軍部だけなのは歴史が示しています。それが今回のミサイル発射でもあるのでしょう。(それにしても、ゴルバチョフってのは、情況の後押しがあったとはいえ、勇気があったよねえ)

 いまや麻薬や偽ドル、偽タバコまで作っているそんな国家に、はたしてどんな策が有効か。だいたいこのミサイルだって、ひょっとしたら販売促進キャンペーンの一環の商品デモかもしれないのであって。

 日本国内での経済制裁と国連安保理を通じた制裁決議提案も「いい加減にしろ」というメッセージです。それは伝わるでしょう。ただし、それであの国が折れるかどうかは五分五分ですよ。逆に言えば、制裁発動もあの国に対するこちら側の瀬戸際外交になります。チキンゲームに参加ってこと。そうしてついに、北のミサイル発射基地に予防的先制攻撃を行えないか、という意味の発言が額賀防衛庁長官から出ました。「先制攻撃」って単語は注意深く回避されていたけど、これはブッシュのサダム・フセインに体する攻撃の口実になったものとまったく同じもんですわ。その米国もおそらくすでに北の軍部を一気に機能不全に陥れ、反攻を最小限に食い止めるような軍事作戦の立案を行っているでしょう。

 ダダをこねればアメを与える、といった従来回路を断ち切り、次の一歩を進めたいってのが例の六カ国協議の狙いです。次の一歩を、というのは北も同じなんでしょう。ただしその一歩が、体制のがんじがらめでこれまでと同じような方法でしか出せない。病理的にはガチガチの硬直部を内部から解きほぐしてやるような東洋医学的な説得と懐柔が一番の打開策なんでしょうが、そんなのんきな時間もない。本当にどうすればよいのでしょうか。

 言えることは、西洋的処方であるもう一方の軍事行動はどうしたってオプションではないということです。有事となれば数百万という北の難民が韓国や中国、ロシアへと流出し、それは東アジア全体のより重大な危機に直結します。ことは38度線の問題ではなくなり、黙視するはずもない中国の軍事行動は容易に台湾問題へとも飛び火するでしょう。先制攻撃論をぶつというのは逆に日本も相手方の先制攻撃の対象になるということで、それは危険を回避するどころか更なる危機を呼び込むことにもなるのです。国内向けの政治的発言であるという読みもできますが、すぐに国際的にニュースになってしまうようないまの状況でそういう発言をすることがどういうことなのか、額賀発言は到底そこまで覚悟した上とは思えないんですけどね。アメリカでは早くも各方面から日本の憲法改正や軍事大国化を予想/懸念するコメントや新聞社説まで登場しています。懸念の背景には、アジアが火種になれば、世界経済は崩壊するって読みがあるんでしょう。日本が振り上げる拳は、そこまでの責任を負えるのか? 拳ってものは、振り上げたあとの後味の悪さに必ず後悔するものなのです。それは個々人の人生の中でも充分に学習してきたでしょう。

 カギはやはり国連安保理なんだと思います。日本の手腕の見せどころは軍事ではなく世界をまとめる外交努力以外にはないのです。とにかく中国を動かすことです。腹芸でも脅しでも使えるものはなんでも使って。中国に平壌説得の時間的猶予を与えたのはその意味では正しいでしょう。六者協議への無条件復帰、それを中国が説得する。説得したのに失敗して、でも安保理では拒否権行使だっていうのは論理的にもおかしいですから、中国も今回ばかりはのっぴきならない状況に押し込まれました。とにかくあくまで外交というか、政治なんです。

 日本が戦争をするようになったらそこらの国と同じでチキンゲームです。日本は戦争をしない。だから強いのです。そうでなければ、これまで66年も、何のための平和国家だったのか分からんでしょう。平和国家の、手練手管を、しかしさて、外務省という最低の官僚組織は持ってるのかしらねえ。

February 22, 2006

生きよ、堕ちよ

 イスラム教の預言者ムハンマドの風刺漫画問題はなおも世界で拡大しています。先日もまたナイジェリアで、暴徒化したデモ参加者がキリスト教系住民16人を死なせるという惨事になりました。厳格な宗教戒律と縁の薄いわれわれ日本人には、あの9.11をも広義に含めて、さらには15年前に筑波大学構内で首を切られて惨殺されたサルマン・ラシュディ『悪魔の詩』翻訳者五十嵐一助教授の未解決事件をも含めて、何のための宗教なのかと眉をひそめたくなるような事件が続きます。

 風刺画問題はもちろん宗教と表現の自由との対立の問題です。

 どの宗教でも同じですが、宗教原理主義は聖俗の区別をゆるさず、すべてが「聖」であるために批判の入り込む余地はありません。批判というのは人類の生み出してきた「知」の産物なのですが、宗教原理主義においての「知」はすべて“神学”に寄与するためのものですから、宗教自体への批判は「知」ですらない蛮行なのです。

 これに対して西洋式の「知」はもとより宗教から乖離するように発展してきました。「知」は一切の外側にあって、その対象は対内的な権威を剥ぎ落とされ検証され論評され批判される。そこからこれまでに積み立てられた価値自体の解体である「脱構築」などという手法まで生まれました。

 いわば「知」にタブーはない。一方で「聖」は「聖」以外のものを、あるいは「聖」自体をもタブーにすることによって存在しています。世界各地のイスラム教徒の暴動はタブーとしてのこの宗教的「聖」と、タブーを認めない表現・言論の自由を基盤とする「知」との衝突なのです。

 そんな中で、「表現の自由は重要だが、相手の宗教に対する敬意を欠いてはいけない」という論調があります。ローマ法王までが「人類の平和と相互理解のためには、宗教とその象徴を尊重することが必要だ」と発言しました。しかしそれはもともと両立し得ないものです。表現の自由は元来、宗教的なるものへの異議申し立てを行っても殺されないようにと確立された概念なのですから。それは「それでも地球は動いている!」という叫びの後ろ盾なのです。それは、宗教への敬意を否定してもよいという「知」の覚悟のことなのです。どうしてそれらが共存し得ましょうか。

 ただし、巷間いわれるように、問題はイスラム教ではないのです。問題は「原理主義」のほうにある。イスラムでもカトリックでもユダヤでも同じ。ブルーノを火あぶりに処しガリレオを迫害したのはローマ・カトリックでした。それは原理主義カトリックの時代だった。いまだってキリスト教原理主義の人々はアメリカでもそれ以外の価値観に対してとても攻撃的で、一部では白人優越主義者と重なっていたりさえします。

 先日、イスラムに詳しい知人から、イスラム諸国の人たちの大半はニュースになるような過激な人たちじゃなく、むしろ、同じように俗っぽくて面白い人たちなんだと教わりました。それは原理主義への冒涜でしょう。でもそんな原理主義からの乖離、つまり宗教的な“堕落”こそが、私たちが歴史の中でいまやっと到達している「人間主義」なのです。

 イスラム諸国で、そういう“堕落”した人間主義の台頭する余地があるのかどうかはわかりません。シーア派とスンニ派でも違うようですし、中東とアジアでもまた違う。ただ,いまや世界宗教となっている広大なイスラム文化圏の内部でも、この人間主義と原理主義との葛藤がいつかかならず表面化するはずだとは、私はひそかに信じているのです。外部からの「知」の攻撃よりも、内部の「知」の、内部に見合った広がり方に期待しているのです。

October 18, 2005

小泉靖国参拝NYタイムズ社説

NYタイムズの本日の社説でした。
かなり厳しい論調ですな。ま、リベラルですから、タイムズは。

それにしても、「右翼国粋主義者が自民党のかなりの部分を構成している」とか、「靖国は神社とその博物館で戦争犯罪を謝罪していない」というのは、なかなか正確で明確な意見です。

靖国が戦争を謝罪していないのは、死んだらみんな神様だからってわけでしょうかね。あそこの従業員たちはけっこう過激です。国家護持を狙っているくらいですからね。ものすごい政治力ですもの。

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October 18, 2005
Editorial 社説
Pointless Provocation in Tokyo
東京での意味をなさない挑発行為

Fresh from an election that showcased him as a modernizing reformer, Prime Minister Junichiro Koizumi of Japan has now made a point of publicly embracing the worst traditions of Japanese militarism.

近代的改革者としての姿勢を見せつけた選挙から間もないというのに、首相小泉純一郎が今度は日本の軍国主義の最悪の伝統の公的な保持者であることを明らかにした。

Yesterday he made a nationally televised visit to a memorial in central Tokyo called the Yasukuni Shrine. But Yasukuni is not merely a memorial to Japan's 2.5 million war dead.

彼は昨日、全国放送される中、東京中心部にある靖国神社という追悼施設に訪問した。もっとも、靖国は日本の戦争犠牲者250万人を祀っているだけの施設ではない。

The shrine and its accompanying museum promote an unapologetic view of Japan's atrocity-scarred rampages through Korea, much of China and Southeast Asia during the first few decades of the 20th century.

同神社とその付属博物館は、20世紀初頭の数十年間、韓国朝鮮全土と中国・東南アジアの多くで極悪非道と恐れられた日本の残虐行為に関して悪びれることのない史観を標榜しているのである。

Among those memorialized and worshiped as deities in an annual festival beginning this week are 14 Class A war criminals who were tried, convicted and executed.

今週始まる例大祭で神として祝われ崇められる中には、裁判にかけられ有罪になり処刑された14人のA級戦犯も含まれている。

The shrine visit is a calculated affront to the descendants of those victimized by Japanese war crimes, as the leaders of China, Taiwan, South Korea and Singapore quickly made clear.

この神社参拝は、中国、台湾、韓国、シンガポールの首脳たちがすぐさま明確に指摘したとおり、日本の戦争犯罪によって犠牲になった人々の子孫への、計算ずくの侮辱である。

Mr. Koizumi clearly knew what he was doing. He has now visited the shrine in each of the last four years, brushing aside repeated protests by Asian diplomats and, this time, an adverse judgment from a Japanese court.

Mr.小泉は自分が行ったことを明確に認識している。彼はこの4年間、繰り返されるアジアの外交官たちの抗議を軽くいなし、さらに今回は日本の司法の違憲判決をも無視して、毎年この神社に参拝してきたのだから。

No one realistically worries about today's Japan re-embarking on the road of imperial conquest.

現実問題として、だれも日本が再び帝国主義的覇権の道を進むだろうなどとは心配していない。

But Japan, Asia's richest, most economically powerful and technologically advanced nation, is shedding some of the military and foreign policy restraints it has observed for the past 60 years.

しかしこの、アジアで最も裕福な、最も経済力を持ち技術的にも進んだ国家である日本は、過去60年間遵守してきた軍事的・外交的歯止めのなにがしかを切り捨てようとしているのである。

This is exactly the wrong time to be stirring up nightmare memories among the neighbors. Such provocations seem particularly gratuitous in an era that has seen an economically booming China become Japan's most critical economic partner and its biggest geopolitical challenge.

近隣諸国にあの悪夢の記憶を掻き回すのに、いまはまことにふさわしくない時期だ。このような挑発は、とくに経済的に急発展中の中国が日本の最も重大な経済的パートナーかつ最大の地政学的難題になりつつある時期にあって、まったく根拠のないものと思われる。

Mr. Koizumi's shrine visits draw praise from the right-wing nationalists who form a significant component of his Liberal Democratic Party.

Mr.小泉の同神社参拝は、彼の自民党の中でかなりの部分を構成する右翼国家主義者たちの賞賛を引き出した。

Instead of appeasing this group, Mr. Koizumi needs to face them down, just as he successfully faced down the party reactionaries who opposed his postal privatization plan.

このグループの要求を受け入れるのではなく、Mr.小泉は彼らを屈服させるべきなのである。ちょうど彼の郵政民営化案に反対した自民党反動派の連中を成功裡に屈服させたように。

It is time for Japan to face up to its history in the 20th century so that it can move honorably into the 21st.

名誉とともに21世紀に進んで行くために、日本はいまこそ20世紀の歴史を直視すべきなのである。

June 02, 2005

傭兵、反日、第9条

 こちらに帰ってくる間際、イラクで負傷・拉致されたという齋藤昭彦さん(44)が死亡したという情報が流れました。それ以後、その話はどうなったのでしょう。日本政府は、齋藤さんのような存在に対してどういう立場を取るのでしょう。それとも、死んだままで終わりなのでしょうか。ここまで届くニュースにはそのへんのことはまったく触れられていません。

 やまぬばかりかいまもなお激化する自爆テロに、イラクでは米英軍も自兵の犠牲者を出してはならじと、自軍を第三国の傭兵部隊に守らせるというなんとも倒錯的なやり方を採用しはじめました。英国系“警備”会社の齋藤さんはそんな中で襲撃され拉致されたのです。

 日本では齋藤さんを「ボスニアでも活躍した傭兵」「フランス外人部隊にも所属」と、なんだか奇妙に思い入れがあるような、あるいは“超法規的”な存在への興味を拭えないような伝え方をしていました。
 「警備会社」に勤務の「警備員」といいますが、戦時における、しかも前線における警備員とはあるしゅの兵力に他なりません。それを「傭兵」と呼びます。
 しかし「傭兵」というのは国際法上では不法な存在なのです。戦争とは国家間にのみ存在し、その国家の正規軍のみが武力の行使権を有します。相手が撃ってきたときに撃ち返す正当防衛はだれにも認められますが、傭兵は私兵であり、人を殺せばテロリストと同じであって超法規的な存在ではない。傭兵が作戦行動として相手を殺害したらこれは殺人罪が適用されます。傭兵に法的な後ろ盾はありません。ジュネーブ条約で認められる「捕虜となる権利」も持っていません。ただ現実として、戦争の混乱の中で罪の有無がうやむやにされるというだけのことなのです。

 いやそれよりもなによりも「戦争の放棄」を謳う憲法を持つ国の国民として、齋藤さんは二重の意味で私たちとは異なる。もし彼がいまも日本国籍を持つ日本国民だとしたら(それは確認されています)、齋藤さんは日本憲法にも国際法にとっても「背反者」なのです。はたしてその認識が、私たちにあるのかどうか。彼には、ぜひ生きて還ってきてほしかった。そしてその特異な存在の、この世界でのありようを、ぜひわたしたち日本人に突き付けてほしかった。そこで明らかになる「日本」と齋藤さんとのねじれを、わたしたちの次の思索のモメンタムにしたかったのですが、政府も、報道も、そのへんについてはすでに終わったものとして扱っているような感じです。
             *
 ところで、アメリカの軍隊もじつは傭兵みたいなものだという意見があります。裕福な白人層はもう従軍などせず、米軍ではイラク開戦前は黒人が24%を占めていました。イラクでの犠牲者が増えるにつれ現在ではそれが14%にまで落ちていますが、ブッシュ政権はボーナスや傷痍金・死亡手当の増額など、金銭的報奨によって兵員志願を“買おう”としているというわけです。
 米国籍を持っていない者でも米軍には入れます。少しは国籍取得に有利になるのでは、という不法移民の心理にも働きかける策ですが、正規軍とはいえ、これでは傭兵「外人部隊」と同じでしょう。さらにテレビで連日放送される新兵募集のCMでは、教育を受けていない若い白人らも取り込もうと「軍で教育が受けられる」「資格が取れる」などの利点を強調します。しかしこうした“未熟”な米軍の存在がまた“プロ”の傭兵の新たな必要性を生むわけで、これらはもう戦争というものの構造的などうしようもなさの連環のような気さえします。
            *
 国連安保理の常任理事国入りを目指す日本に、お隣り中国・韓国の「反日」「抗日」の気運が根強かったのも日本で感じたことでした。
 直接の理由は小泉さんの靖国参拝と竹島領有などに関する教科書記述問題でした。それが第二次大戦中の話にまで及び、日本への警戒心までがまたぞろ出てきていました。そんなものはもちろんなんの根拠もない(はずな)のですが、そのときの日本側の“釈明”がどうも小手先のものに見えて仕方がありませんでした。

 私たちは戦後60年、「平和国家」としてやってきました。先ほども書きましたが世界でゆいいつ「戦争の放棄」を謳う憲法を持ち、60年ずっといちおうは平和外交を展開してきました。それは中国と韓国を説得するときの最も本質的な論理なのだと私には思われます。

 もっとも、それは軍事活動をとらざるを得ないことのある国連の安保理常任理事国に入る資格としてはそれは矛盾になりますが、しかし中韓を説得するときになぜ誰ひとりとして現存の憲法9条を持ち出さないのか、私にはどうしてもわかりませんでした。自民党は憲法9条に恥じるような、あるいは憲法9条を恥じるようなことしかしてこなかったからでしょうか。
 きっとそうなのでしょう。

 現代の傭兵の発祥は中世のフランスです。齋藤さんに対してと同じく、私はこの日本政府にも中世へと逆戻りするような愚かしき勇ましさを感じます。いや、それよりなにより、憲法違反としてこちらも訴追の対象ですらあるのではないかとさえ思っています。

April 19, 2005

新法王 ラツィンガー

新法王に選ばれたヨーゼフ・ラツィンガーについて、「Becoming a Man」というポール・モネットの半自叙伝に次のような記述があります。彼は24年にわたって教理省長官を務め、教義において超保守的とされた前法王ヨハネ・パウロ2世の側近中の側近でした。バチカンのこの20数年間の超保守主義を形作って恥じなかった人物です。エイズ禍初期の80年代に、いかにひどい憎悪の言葉が彼らの口から発せられたか。そういう男が今度の法王です。

ただし、違う読みもあります。ラツィンガーはいま78歳。法王としてもっても数年でしょう。このラツィンガーで保守派の生き残り連中のガス抜きをして、改革派は次を狙っている。それが今回のコンクラーベ、比較的早く決まった理由だと。とりあえず花を持たせておいて保守派の顔も立て、さて、次がどうなるか。じつはバチカンの次回のコンクラーベはすでにいまこの時から始まったと言ってもいいのだと思います。

****以下、「Becoming a Man--男になるということ」からの抜粋訳

 「ローマ・カトリックの問題点は」と、ある司祭が残念そうにぼく【註;ポール・モネット】に語ってくれたことがある。「ずっと逆上ってアクィナス【註:トマス・アクィナス。中世イタリアのローマ・カトリック神学者でスコラ哲学の大成者。主著「神学大全」】に帰結する」と──13世紀カトリックのあの野蛮人。女性とゲイに関するやつの煮え滾ぎるナンセンスが聖書と同等の権威になったのだ。これは憶えておく価値がある。最初の千年王国では、教会はゲイとレズビアンをも歓迎する場所だった。既婚聖職者を受け入れていたと同じようにゲイとレズビアンをも受け入れていたのだ。さらにもう一つ、優しきヨハ2ネ23世【註:1958〜63年のイタリア人ローマ法王。62〜65年にかけ、第2ヴァチカン公会議を開催。キリストの死に対する新約聖書中のユダヤ人の「罪」を否定したことで有名】時代に、偏見と頑迷さとが俎上に上りそうになった瞬間があったことをぼくは知っている。第2ヴァチカン公会議が光を注いでいたそのときに、フェミニズム運動とストーンウォール革命とがあの家父長制度の目の前でぼくらへの鞭打ち刑を打ち砕いたのだ。その二つの出来事が時期を同じくしたのはけっして偶然ではない。

 しかし第2公会議は自らを去勢した。いまやバラ色の60年代ではすでになく、新たな異端審問が咆え声も高らかに全速力で疾走している。率いるのは錦織の法衣を着た狂犬病のイヌ、ローマ法王庁の枢機卿ラツィンガー【註:こいつが今度の法王】だ。ゲイを愛することは「本質的な邪悪である」という御触れを発布した悪意のサディスト神学者。エイズ惨禍のこの10年間、ぼくは道徳的堕落に関するグリニッジ標準時のごとき存在としてのあのポーランド人法王【註;ヨハネ・パウロ2世】の教会に何度か足を運んだ。ぼくなりのささやかなやり方でナチ突撃隊長【@シュトゥルムフューラー】ラツィンガーへの返礼をするために。法王の植民地の手先どもが一週間でもいいから黙っていてくれることはまずない||ニューヨークではオコーナー【註;1984年から2000年までNYのローマ・カトリック教会大司教で、法王の最高顧問である枢機卿の一人だった。2000年5月死去】が、ロサンゼルスではマホーニー【註;同じくLAの大司教・枢機卿】が、自分らの女性恐怖症と同性愛恐怖症とを辺りかまわず吐き散らかしている。セックスはついには死に至るのだと勝手に勝利に呆けながら。

 けれどぼくは、たとえそうでもカトリックそのものを憎むことはしないように努めている。これに関しては、神は罪は憎むが罪人を憎むのではないという法王さまたちご自身のお言葉に倣うのだ。そうしてぼくはミサにやってくるかよわい老婦人たちのために、あのブロケードの法衣の向こうにどうやるのか神を見ようとする貧しい異国の人々のために、さらには遠慮がちにこの恐怖の時代はやがて終わりますとぼくに手紙を寄越した怯える司祭たちのためにすら、舌を噛んでじっと言葉をこらえるのだ。

April 08, 2005

スワジランドって知ってる?

本日は次のような衝撃的なニュースが。

More than half of young Swazis are HIV-positive

According to the 9th HIV Sentinel Survey, conducted by the Swaziland National AIDS Task Force, 56% of the nation's adults ages 25-29 are infected with HIV. Data for the survey were taken from pregnant women who attended prenatal clinics in 2004; this group is considered a valid model for projecting the adult population's overall HIV rate. According to the survey, the HIV infection rate among people ages 19-49 rose to 42.6% from the 38.6% recorded last year. Helping to drive the epidemic, activists say, is a reluctance to test for HIV and a cultural taboo against admitting illness. Reuters obtained a copy of the report, which is to be released later this month by the health ministry. (Reuters)

スワジランドっていうのは南アフリカの中に包まれるようにあって、モザンビークと隣接している世界最貧国のひとつです。モザンビークはその4倍くらい貧乏ですけど。

上記のニュースはそのスワジランドのエイズ調査で、全国の25〜29歳の成人の56%がHIVに感染していることがわかったというものです。2004年に産婦人科に訪れた妊娠女性の追跡調査からわかったもので、19〜49歳の感染者は前年の38.6%から42.6%に上昇。感染拡大の原因はHIV抗体検査をなかなか受けないことと、病気であることを認めるのが文化的なタブーになっていること、だと書いてあります。詳細は今月中に保健当局から発表されるって。

しかし、56%って、すごすぎないか。 国が滅びるぞ、ほんと。

米国CIAの調べではスワジランドはキリスト系の土着信仰が40%、カトリッックが20%、英国国教会とかメソジストとかモルモンとかユダヤ教といった厳格宗教が合わせて30%だそうです。つまり、ポープの教えと似たり寄ったりでコンドームは使っちゃいけないというのもあるはず。というか、こういうところではコミュニティーの機能として教会が進んでコンドームを配布しないことには新しいコンドームも手に入らないし、そうすると古いのを使い回しして大変なのです。

ニューヨークのセントルークス病院でエイズ研究を80年代初期から続けている稲田頼太郎先生は最近毎年ケニアに入って地域医療検診を行ってエイズ教育にも力を入れてるんだけど、ぜんぜん追いつかないんだよ、って暗い表情です。先生のいつも行く地域でも、30代の女性の感染率が40%近いとか言っていました。とんでもない数字です。そうして、これらの数字のうしろには、ひとりひとりの悲劇がひとりひとりの名前とともに山積みになっている。

われわれにできることはなにか?
即効性のあることなんかほとんどありません。稲田先生のように現地に乗り込んでコンドームを配ったりする人もいるでしょうが。でもまずは事実を知ること。それを人口に膾炙させること。そこから動き出すものを信じるしかないのです。そうして各自が、各自でできることをやるしかない。

April 06, 2005

マンデート難民の取り扱い変更か?

朝日ウェッブ版に次の記事を見つけました。

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国連認定難民は強制収容せず 法務省が新方針

2005年04月07日00時05分

 法務省は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から難民と認定された外国人(マンデート難民)について、今後は原則として強制収容せず、在留特別許可を柔軟に与えていく方針を決めた。同省はこれまで「UNHCRの認定基準は、国が批准した難民条約と目的や対象が異なり、一律に扱えない」として本国へ強制送還するなどして、国際的な批判を浴びていた。

 関係者によると、国内には約25人のマンデート難民がいるが、03年ごろからは国連も新たなマンデート難民認定を日本ではしておらず、取り残された形だ。同省は、こうしたケースに一定の理解を示す一方、UNHCRにも他国への定住あっせんなどの努力を求め、問題解決をねらう。

 マンデート難民をめぐっては、今年1月、UNHCRが認定したクルド人アハメッド・カザンキランさん親子を政府がトルコへ強制送還。UNHCRや国際的な人権団体・アムネスティ・インターナショナルから「国際法の原則に反する」などと抗議を受けていた。

 このため法務省は対応を検討。難民認定の基準は変えないが、国連側との情報交換を増やすことで「新たな事実が判明したり、くむべき事情が明らかになったりした場合」などには、在留特別許可を与えることにした。

 また、難民認定をめぐる訴訟などで国側が勝った場合も強制退去とはせず、UNHCRと協力し、安全な第三国への定住をはかる。

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さて、「今後は」とありますが、これがはたしていつからの話なのか、シェイダさんは該当するのか、とても気になるところです。近々に支援グループからも報告があると思います。

それにしても1月にトルコに強制送還されたクルド人父子、その後、どうなっているのでしょうか。追跡調査はしているのでしょうか。ひょっとしたら外務省、法務省の追跡調査で収監されたとわかって急きょこの取り扱い変更に結びついたのでなければいいのですが。新聞各紙のトルコのカバーはどこの海外支局がやっているのかなあ。ぜひ取材してほしいです。

April 03, 2005

法王死す

ヨハネ・パウロ2世を「最低の法王」って書いたら、「やっぱりその理由をきちんと書かなくてはダメですね」っていうような意味のことをおそらく言っているんだろう人から罵詈雑言メールが来たんで、アカウンタビリティーっていうのとはちょっと違うけど、でも、まあ、これだけポープ礼賛コメントが溢れる中、流れに棹さすのも対抗文化的には意味がないことではないと思うので、メモ書きのように書き残すのもいいかしらと思いました。とはいえ、わたしはいままたブーレイに行って3人でおいしいワイン4本飲んで帰ってきたばかりなので、幸せにヨッパゲていますので、書くことも幸せな感じになってしまうかもしれません。差し引いてお読みください。(今日が万愚節ならいいんだけど)

共同電がこんなことを報じています。
「国営イタリア放送は2日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は死の瞬間まで意識があり、最期の言葉は「アーメン」だったと報じた。」

ひとりの有名な人間の死に関してある好ましい物語を付随させようというのはわからないことではありません。しかし偶像化はかの宗教も、なかでもカソリックは嫌うことではなかったか。とくに最期に際しては、すでに声も出なくなっていたと報じられたポープがとつぜん「アーメン」とどうやって「言葉」にしたのか、その辺はどうなのでしょう? いつの時点での「最期の言葉」なのか。

いえいえ、しかし問題はそういう、言ったか言わないか、ではないのです。「最期の言葉は「アーメン」だったと報じ」ること、もしくは「報じ」させることが期待する、人々に与える効果、の物語性なのです。ひとはそれを単なる事実としては聞かないでしょう。つまり、「あ、そうなの」では終わらない。「ああ、やっぱりそうだったか」となり、そこから始まって「いやいやさすが法王だよね」となって、カソリックにおける「敬虔」という意味を補強する契機となる。ま、そんなのはあたりまえですがね。そのつもりで発表してるんだから。わたしがいやなのは、その演出なのです。

これが或るカリズマ的な俳優ていどの人の死だったりしたときにはべつにわたしもかまいません。しかしポープの後ろには11億人がいるのです。11億人への演出。ひとりの人間の死に哀悼の意を表するのはやぶさかではありませんが、かれは「ひとりの人間」ではありませんでした。そういう地位を、かれは選んだのです(選ばれたといっても、互選ですからね、それをよしとしたわけです)。

ヨハネ・パウロ2世の功績として26年間の在位でポーランドの「連帯」を支持して旧ソ連・東欧の崩壊にも積極的に関わった、というのがあります。89年のベルリンの壁の崩壊は、いまでもくっきりとおぼえています。あのときに法王がどんな役割を果たしたのだったか。
そんなの、たいしたもんではありませんでした。あの当時の世界中の新聞を読んでごらんなさい、どこにも法王がどうしたこうしたから、とは書いてありません。あのあとです、そういえば法王も祖国ポーランドの自主労組「連帯」を支持してたよね、共産主義を非難してたよね、あ、そうなんだ、ヨハネ・パウロ2世も、世界史としてあの激動の時代に関わっていたんだよね、……と「記述」されたのは。

でも、待ってください。あの当時、イタリアもそうですけど西側社会でポーランドの「連帯」を支持していなかった「指導者」はいませんでした。ポープがそのone of themだったからといって、それは功績でしょうか? ベルリンの壁は、わけのわからないうちに民衆の力と情報の力によってたたき壊されたのです。法王は関与していたか? そう、まあ、せいぜい多く見積もって、というかカソリック教徒でハンマー持って壁まで繰り出していった連中のことを考慮に入れるとコンマ何%くらいは、というものでしょう。

毎日ウェッブサイトにはこうも書いてあります。「キリスト生誕2000年を祝う「大聖年」を主宰し、分裂したキリスト教会の和解や異宗教との対話に力を入れていた。」

これは2000年3月12日の「赦しを請う日」ミサで、ヨハネ・パウロがカトリック教会が過去にユダヤ人や女性、異端者、原住民などに対して残酷な扱いをしたことを「7つの罪」として謝罪したことを指しています。その7つは「一般的な罪」「真理への奉仕において犯した罪」「『キリストの体(教会)』の一致を傷つけた罪」「イスラエルの民に対して犯した罪」「愛と平和、諸民族の権利と文化・宗教の尊厳を犯した罪」「女性の尊厳・人類の一致を犯した罪」「基本的人権に関する罪」だそうです。かれはイスラエルにも訪問しましたしね。とくにナチス統治下で、カソリック教会がナチスの手下になってユダヤ人虐殺にも関与していたことを指すとはされますが、まあ、“懺悔”はまったく具体的ではありませんでした。

その点を問題にして、ニューヨークタイムズは「法王、2000年間の過ちに赦しを求める」という見出しでユダヤ人問題を中心にものすごく大きな記事を特集で掲載しました。ユダヤ人の数多く住むアメリカだからなのですが、第二次大戦中に当時の法王ピウス12世らカソリックの教会指導者がホロコーストに対して沈黙どころか黙認さえしていたのに、ヨハネ・パウロ法王とそれに続く枢機卿たちの謝罪の言葉に、具体的にホロコーストを示す言葉がひとつもなかったとユダヤ人たちが「失望」しているという話でした。

いえ、でもこれもべつにそんなことは問題ではないとわたしは思います。

だって、具体的にいおうがいうまいが、ホロコーストに当時のバチカンがかかわっていたというのは周知の事実ですし、問題はむしろ、そんなことをなぜ2000年まで(在位26年でなんと21年目の出来事です)はっきり謝らずに放っておいたのか、ということではないか。赦しを請うなら、もっと早くしていてこそ「ああ、さすがヨハネ・パウロだ」というものではないか。なぜならすでに1962年から65年にかけて、ヨハネ23世が開いた第2ヴァチカン公会議がキリストの死に対する新約聖書中のユダヤ人の「罪」を否定しているからです。もっとも、ヴァチカンはそのあとで再び反動期に入りましたけれど。

ヨハネ・パウロは病弱になった1994年ごろからさかんにカソリック教会の謝罪を口にしているのですが、謝罪する勇気があるからえらいのでしょうか。湾岸戦争やイラク戦争にもつよく反対していたのですが、それがえらいのかしら。だって、あなただってわたしだって反対していましたよ。法王だって反対するでしょう、そりゃ。聖職者として戦争に反対するのは当然のことですしね。ましてや、かつてナチスに加担した宗教ならばなおさらのこと。

わたしは「いまのヨハネ・パウロはこの時代にあって過去の遺物のような最低の法王だった」と書きました。振り返って見ると、かれは時代の流れに合わせて最後にのこのこと出てきて行動しているだけだからです。そんなのはだれでもできることではないのか。それをしたからといってえらいわけではないんじゃないか。それが「この時代にあって」と書いた理由です。「この時代」とはどんな時代だったか。それは、東西冷戦の激化を受けた時代であり、米ソの均衡が崩れた時代であり、エイズの襲った時代であり、新たな概念の宗教戦争およびテロが勃発しつつある時代でもあります。そのときに、かれは時代をなぞったかもしれないが、時代を新しく導くことはしなかった。数多くの人が知っている、もしくは信じたいことがらは言葉にしたが、そういう人々の誤謬を指摘する知恵と勇気は持たなかった。精力的に世界中を旅し、日本を含む130以上の国・地域を訪問して「空飛ぶ聖座」といわれた、と報じられてもいますが、そりゃこの時代、どの時代よりも空路が発達したのだから、聖座だって高級マグロだってかつてなく空を飛ぶでしょう。明仁天皇だって、歴代のどの天皇よりも外遊してるんじゃないでしょうか。そういうことです。

これが、ヨハネ・パウロを強いて評価する必要を感じない理由です。
では、「この時代にあって最低」と敢えて貶めるのはどういうことか。
それはね、ま、あまりにもマンマなんで、わざわざ書く必要もないでしょう。この手で書き記すことさえ汚らわしい。
ええ、そう、あなたも知っているとおり、そういうことです。

ここまで書いたら、さすがに酔いもすっかりさめてしまいました。
ああ、もったいない。くそ。

April 01, 2005

ローマ法王

こちらはただいままだ4月1日なわけで、そんなところに「ポープが死んだ」というニュースがものすごい勢いで米国メディアでもただいま取りざたされています。しかしバチカンはまだ死んでいないと発表するし、CNNも「ちょっとお待ちください」などと冷静を呼びかけているし、「しかしHe is dyingはまちがいないわけで」とか言っちゃうし。
なるほど、いずれにしても死期は近いからということでだれかがエイプリルフールに力を得てやっちゃったんだかも。こりゃ、四月でバカにされたかもしれませんな。

いまのヨハネ・パウロはこの時代にあって過去の遺物のような最低の法王だったとわたしは思っているけれど、彼が死んだからといって次がまともということはまあ、あり得ないことだと思います。宗教とは、いかに過去にしがみつくかをその存在のダイナミズムにしているからです。むしろこんな時代だからといってさらに保守的な法王が選出される、あるいは選ばれたひとが自分でそう思い込んでしまうというようなことになるのではと危惧しています。もちろん、そうならないことを望んではいますが。

それにしても、昨日のテリ・シャイボさんの尊厳死問題と合わせて、アメリカはこれでまた翼賛的なキリスト教礼賛が始まるのではないかと不安です。たしかに1人の法王の死は宗教右派にとっては確実に大きなモメンタムになるわけで、テリさんの栄養チューブを元に戻さなかった裁判所の判事たちへもいままた「過激派の判事」なる、あの同性婚のときのブッシュ政権からの攻撃と同じような心情を基にした非難が社会ばかりか議会でも渦巻いているような雰囲気です。バックラッシュというのでしょうか、反動というのでしょうか、後の世に、なるほどこういう時代だったのだと振り返られるような、そんな過ちはいまのうちから警戒しなくてはならないでしょう。テレビではすでにヨハネ・パウロの「いかに偉大だったか」「いかに庶民的だったか」「いかに若者に好かれていたか」についての、歯の浮くようなコメントが溢れはじめています。

テレビがクールメディアだと言ったのはどこのだれの嘘でしょう。

February 24, 2005

片腹痛し

ロイター電で、

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が22日に出版された自身の新刊の中で、同性婚は「新たな悪魔の思想」の一端であり、知らぬ間に社会を脅かしているとの見方を示した。同著では、同性婚以外にも中絶などの社会問題に触れ、20世紀に行われたユダヤ人などに対する撲滅行為にも匹敵する「合法的根絶行為」と言明。

なんて伝えられていて、まったく、病膏肓に入るとはこのことだと思いました次第。

ローマカトリックは、第二次大戦中、もちろんナチを支持していました。時のローマ法王はピウス12世です。ユダヤ人はカトリックの慈悲を受けない。彼はそう考えていた。同時にあの時代、LGBTたちはそのユダヤ人同様、ヴァチカンの戦況報告室で冷血に画策される虐殺の犠牲者だったわけでもあります。ピウスとは、ニュルンベルクが見逃した戦争犯罪人の名前なのです。

ローマンカトリックがそのことを謝罪したのはつい最近、1997年のことです。それまで頬っかむりをしてきた。それがどうでしょう、ピウスに連なるいまのヨハネ・パウロが、「ユダヤ人などに対する撲滅行為にも匹敵する」などとあたかも100年前からユダヤ人撲滅行為に反対していたかのような口ぶりでしれっとあらたな撲滅行為に加担する。歴史は繰り返す、というのは愚かしい彼のためにあるような成句です。恥を知っているなら、ふつうはそんな比喩は恐れ多くて口が腐ってもいえない。

かたはらいたし、とはこのことです。

いったい、この頑迷なる善意というのは、何に起因しているのでしょう。
こういうのは悪意より始末に悪い。

***
さらに再び

asahi.comから
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 フジテレビジョンの村上光一社長は24日の定例記者会見で、ライブドアによるニッポン放送株の取得を巡る他の民放各局の報道について「あまりにも、ちょっと狂騒曲的。ニュースはただおもしろおかしくやればいいのではない」と批判した。もっともフジ自身が娯楽路線をとってきただけに「自省を込めて」とも前置きした。
 村上社長は「(他の民放の)報道番組を見ていると、あまりにもちゃらちゃらして『えーっ』と思う例が頻発していた。いかがなものか。(ライブドアに)テレビは公共の電波だと言っている時期だからこそ、きちっとやらなければいけない」と強調した。
***

おいおい、ニュース番組のタイトルからかつて「ニュース」という単語を外してみせたのはどこの局だったっけ? ニュースに効果音入れたりオドロオドロしい音楽をかぶせて視聴率稼ごうとしたのはどこの局だよ。声優使ってドラマ仕立てで報道して視聴者の劣情をあおってきたのはどこのどなたさまですかってんだ。

フジテレビが「公共の電波」っていうのは、日テレが「公共の電波少年」っていうくらいにコントラディクションじゃあありませんかえ? どの口からそんな言葉が出てくるんだろ。まったく、社長ってのはどこまで厚顔にならんとできないもんなのか。この世で一番恥ずかしいことは、恥を知らないということなのだ。

ふむ、「デイリー・ブルシット」のブルシット叩きらしくなってきましたな。

しかし、わたしは罵詈雑言がかなりきつい、ということをある人から指摘された。
叩くときは、けっこう、完膚なきまでに言葉を連ねる、しかも、かなり強烈なグサグサの感じがするらしい。

先日の「怠けもん」発言も、けっこう、本来の標的とは別のところでグサグサ刺された感じがするという人がいるようだし、そういえばその昔、金原ひとみの「蛇にピアス」を叩きのめしたら、思いもかけぬ方向にいたぼせくんから「そういう言い方はない」的な叱責をいただいた。こちとら、ゲイの視点からあえてだれも触れないでいる蛇ピアのぬぐい去り難いホモフォビアを指摘しただけだと思っていたんだが。反省。

悪口は自分に返ってくる、って、なんてったっけ? なんか、成句があったような気がするけど。

くわばらくわばら。

January 26, 2005

インド洋大津波

 きのう銀行に小切手を入れに行って、自動振込機の初期画面がインド洋大津波の寄付金を呼びかける画像だったのに驚きました。

 インド洋大津波から今日で1カ月です。アメリカのテレビでは元大統領のブッシュ父と前大統領のクリントンとが2人仲良く並んで被災者支援の募金を呼びかける公共広告が流れています。いわく「起きたことは変えられません。しかし、これから起きることは(あなたの支援で)変えられます」。

 正月に日本に一時帰国していたのですが、同じアジアでの大災害にも関わらずこうした支援呼びかけはあまり目につきませんでした。中越地震の支援で目一杯だったからなのでしょうか。対してアメリカに帰ってみると、企業も芸能界もこぞってお金を出したり集めたりして遠いアジアの被災国に送ろうとしています。というか、その広報、プレゼンテーションの仕方がじつにうまいんですね。

 同じようなことを9・11のときにも感じました。あのテロの直後、米国企業のホームページは一斉に追悼を表したものに書き換えられましたが、米国内にある日系企業のホームページはまるでなにもなかったかのようにいつまでも“平時”の宣伝ページのままだったのです。企業広報というか、社会事象に対する対応の仕方がまるで鈍いのです。

 今回の大津波もそうです。これ聞こえよがしに「寄付をした」と吹聴はしていませんが、米国企業のウェッブサイトにはさりげなく自社の寄付実績が書き添えられ、同時に赤十字などへの寄付金の案内が書き加えられるようになりました。コカ・コーラは1000万ドル(10億円強)を寄付、同じくペプシコもインド、インドネシア、スリランカなどでボトル飲料水の無料配給など多大な寄付を行っているようです。アメリカン・エクスプレスは社員が100万ドルを集め、社としてもそれに同額の100万ドルを追加して計200万ドルを寄付しました。AOL、アマゾン、アップル・コンピュータ、ヤフーなどのホームページでもみんな義援金団体へのリンクが貼られ、テレビ各局も寄付を募る緊急番組をプライムタイムにCMなしで放送しました。ラジオもそうですね。クリア・チャンネルも全米1200局のラジオ網を使ってユニセフの広報キャンペーンに協力していました。

 ハリウッドの大物俳優たちや音楽家たちもノーギャラでそれに出演しては視聴者からの寄付金の電話を受け取ったりしているのです。NBCテレビですが、インド洋大津波の被災者救済のための募金2時間特番「ツナミ・エイド」をロサンゼルスのユニバーサルスタジオからCMなしで生中継しました。
 この番組にノーギャラで出演したのは音楽界からはマドンナやエルトン・ジョン、グラミー賞歌手のノラ・ジョーンズら。映画界からはお膝元とあってブラッド・ピット、レオナルド・ディカプリオ、マット・デイモン、ベン・アフレック、ニコラス・ケイジ、トム・セレック、ジェームズ・カーン、モーガン・フリーマンといったそうそうたる顔です。番組ではクリント・イーストウッドらが地震から津波発生までの過程や被災状況を報告し、数々の悲劇を言葉で再現しました。マドンナは犠牲者への哀悼を示して黒衣でジョン・レノンの「イマジン」を歌い上げ、ブラッド・ピットら多くのセレブは自ら電話オペレーターとなって視聴者からの寄付金の電話を受け付ける、といった演出です。

 じつは米国企業ではこうした“危機”あるいは“大事”に対処する部署が決まっていて、その場合にどうするかのマニュアルがシステムとして確立しています。このマニュアルは必要なものです。「まずいことをやらなかった」からよしとする消極的な対応は「よいこともしなかった」と同義であって、企業にとっては社会的怠慢と受け取られます。それはいまや減点の対象なのです。

 日本企業が、あるいは日本政府がいまひとつ世界にその存在感をアピールできないのは、こうした社会的責任へのアプローチを示すのに怠慢だからだと思えてなりません。やっと大企業が動き出していますが、おかしなことになんだかそろってついこのあいだ、1月24日付けでHPを書き換えているところが多い。はて、談合でもあったのかしらん。

 NHKで辞職なさるエラいさんの退職金が1億円だとかそれ以上だとか言われていますが、全部とはいわないけれど半分くらいポンとそれを寄付したりしたら、ずいぶんと汚名返上になるでしょうにね。

November 01, 2004

誤謬

香田さんのことを、「冬山に夏服で登って遭難した」だとか、「周囲が危険だと止めているのにライオンを見たかったからというのでライオンの檻に入っていって食われてしまった」とかいう比喩を使う人がいるようです。

とてもわかりやすい比喩です。
わかりやすいのは無意識に受けをねらっているからでしょうか。
受けをねらうと間違えます。
この比喩には決定的な欠陥がある。

相手を自然や動物に喩えているところです。
がさつな思考としか言いようがありません。
こういう思考からは、相手を征服する、あるいはねじ伏せる、という結末しか生まれてこない。簡単ですが、その論理が破綻しているということはいますこしの知恵があればわかるでしょうに。なさけない。

さて、あと24時間後には、選挙の行方も見えてきているでしょうか。

October 31, 2004

予想されたこととはいえ

かわいそうなことです。
ご冥福を祈ります。

憎悪の種子が、またどこかで芽吹くのかもしれません。

October 30, 2004

とりとめなく

情報の錯綜に翻弄される家族の心情を思い遣るといたたまれません。
本人の生命が危機に瀕していることは、連絡のあった遺体が別人とわかっても同じなのですから。

まだ頭が整理できていませんが、次のようなことは書き留めておいてよいと思います。

1)イラクには、このように人間の死体があちこちでみつかるのだということ。
2)おそらくそのうちの少なからぬ人たちが、死因も身元も確認されぬまま葬られるのだということ。
3)「香田さん発見」という報を出したアメリカ軍は、「一見、明らかに」イラク人だという遺体と日本人との区別もつかないのだということ。
4)その前日までにあった「遺体発見」のロシア情報や中国情報には飛びつかなかったにもかかわらず、対米追従の日本政府は、アメリカの情報はとにかくまずは正しいという固定観念を持っているらしいということ。
5)おそらくそれが、イラク開戦における「大量破壊兵器の存在」という誤情報への追随とも関連しているのだということ。

クウェートに搬送されたあの遺体は、いったい誰なんでしょう。彼はこれから、どうされるのでしょうか。

違うって!?

遺体が香田さんのものではない、と細田官房長官。
いったい、どうなっているのだろう。
先日の新潟の母子の生存情報の混乱といい、じつにお粗末な話だ。
ひとの生死に関わる情報が、こうも軽んじられている。

香田さんには、生きていてほしいものだ。

October 29, 2004

やっぱりそうでした

だめでしたか。ご両親、ご家族、そして本人も、無念でしょう。

今回の場合は、日本の国内でもおそらくあまり同情論は見られないのでしょう。
あんなところに、こんな時期に、しかも半ズボン、長髪ででかけたら、さあ捕まえてください、殺してくださいと言うようなものだ、というのはだれもがわかる物言いです。だれもが言える。おまけにイスラエルを経由して入っているということは、その形跡が見つかれば有無を言わさずにこれは彼らにとってはスパイです。

でも、だれにも言えることはその「だれにも」に任せておきましょう。
もっと本質的なことは、そもそも、ひとはこうして殺されてよいものなのか、という問いです。もっと突き詰めれば、先日、米軍によるイラク空爆や攻撃で、これまでに民間人10万人が死んだという推計が出ました。そのことです。そんな中でこの殺害が行われました。

前回はザルカウィ一派と書きましたが、香田さん拉致殺害の実行グループはなんとなく違うような気もします。心情的には一派なんでしょうが、なにか、血気盛んな周辺グループが日本のことも自衛隊のこともあまりわからないままとにかくザルカウィ本流と「同調的な行動」をとった、ということのような感じもします。

そういう闇雲な憎悪が生まれています。

こういう私自身も、もしイラクに生まれていたら、アラブに生まれムスリムだったら、おそらくアメリカを強く憎悪しているだろうと思うのです。で、その中で日本人を殺しているかもしれない。それが大義だと思っているかもしれません。

ひとは、大義がないとひとなど殺せないのです。殺せる人は怒りや嫉妬や憎悪で我を忘れていて、かつ、その憤怒が殺害実行中も持続するようなひとです。ふつうはとちゅうで揺らぎます。そうして意識や論理や理性を頭に上らせる。でも、それが大義だった場合、意識と論理と理性でも殺害の大義はなおさら補強されてしまう。みんな、正義の人になっているのです。

正義のひとブッシュは、そうやってイラクを攻撃しました。
アメリカの対イラク攻撃はじつは9/11の八つ当たりで、たまたま都合の良い標的だったのです。大義はここにも存在していました。大量破壊兵器の隠匿です。攻撃は正義だった。しかもビンラーデンとつながっている、と来れば、大義を為すのに何の躊躇もない。(でも、じっさいは石油利権というお金の問題が深く関与していたのですが、それはブッシュのへらへら笑いの奥に隠れたネオコン連中のお仕事でした)

そうして、イラクは絶対にゲリラ化して内戦状態になる、ということを多くのひとが予測し警告し開戦を急ぐなと繰り返していたのに、その後の始末を考えずにブッシュ政権は沙漠で10ドルのテントを1億円のミサイルで攻撃するという愚を冒さなければならないビンラーデンから矛先を変えて、建物も立派な目に見える攻撃対象イラクを選んだのです。

9/11はさかのぼればイスラエルとアラブ、パレスチナの問題が根です。
そうしてイスラエルとパレスチナではイラクと同じようなことが起きている。
ブッシュは、もうひとつのパレスチナ問題をイラクに移植してしまっただけなのです。それが軍事産業と石油屋を永遠に儲けさせるサイクルを作っている。

そして、ひとはそんな中で殺され合ってよいものなのかという問いがここに重なるのです。

よいはずがありません。イラク人だって、パレスチナ人だって、ユダヤ人だってアメリカ人だって日本人だって、そもそも、そうやって殺されてはいけない。

その状況の解決法はまた別の問題ですが、いま言いたいことは、殺された香田さんを馬鹿だとか呆れるだとか自業自得だという物言いは、じつはまったく意味のないことだということなのです。
合掌。

May 17, 2004

我も人の子、彼も人の子

 アルグレイブでの虐待がラムズフェルドの承認を得ていたという記事がニューヨーカーに載っていました。

 86年の三井物産マニラ支店長若王子信行さん誘拐事件のときに、犯人グループと接触しようとルソン島の山奥の村々を徘徊したことがあります。反政府組織の巣窟だなどとの情報でいったいどんなにヤバいところなのかと内心穏やかではありませんでしたが、しかしじっさいに現地に入ってみるとどこででも人は生活していて家庭を持ち子供は遊び、なんのことはない、これが人間なんだといまさらながら気づかされました。

 その印象はボスニア戦争でも同じでした。人は家庭人であり、そして狙撃手でもある。ペルーの日本大使館人質事件でも現地入りした親友が教えてくれた印象は同じでした。殺された犯人たちはみな若くテレビも見たことのない山村の青年団みたいな者たちだった。

 ぼくらはついついこの種のことを忘れがちです。この世にはショッカーみたいな純粋な「悪者」がいて、こいつらはなんらの背景も持たずに闇雲に「われわれ」を倒すことだけを考えている。それはハリウッドが描いたかつての「インディアン」であり、安物ギャング映画の悪漢像です。

 東京新聞のウェッブサイト(www.tokyo-np.co.jp/kousoku/)で、「拘束の三日間」という連載を読むことができます。バグダッド郊外で武装グループに拉致されたジャーナリスト安田純平さん(30)の手記です。拘束の模様を、安田さんは次のように書いています。

 「監視役として、私たちの傍らに座ることの多い家主のひざの上では五歳の男の子が寝ている。近所の子どもたちが珍しいもの見たさに集まってくると、家主が追い払った。近隣から続々と人々が訪ねてくる」「アラブの布クフィーヤを使った覆面の仕方を教えてもらった。大喜びした家主は、客人が訪ねてくるたびに『やってみせろ』と私を促す。やってみせると、部屋に笑いが広がった」「食後に移動した草原の星空の下で、新たに訪ねてきたイラク人男性が英語で言った。『米軍の攻撃で千人を超える死傷者が出ていることを知っているか。われわれの生活を脅かすならば、戦う』」

 テロだテロリストだというメディアの連呼に、ぼくらはついついプロの殺人鬼のような「敵」像を形作りがちです。アメリカにいる私たちにはファルージャで、ナジャフで、米軍に殺されている人たちの情報はまるで入ってきませんし。それどころか戦死米兵の情報すら具体的ではなく、やっとABCのテッド・コッペルが『ナイトライン』でイラク開戦以来の721人の犠牲者の顔を映し出し名前を読み上げ、USAトゥデイが一面トップを犠牲者の顔写真で埋め尽くすなどし始めたばかりです。

 人間のことなど考えていたら戦争はできません。だから死者たちは「数」に貶められ、捕虜たちは性的に拷問される。いったい、何のための戦争だったのでしょうか。

 4月のイラク側の死者は1361人。昨年3月の開戦以降、月間で最悪の数字だそうです。この1361人の顔と名が世界に読み上げられることは、おそらくありません。

May 07, 2004

イラクとベトナム

アメリカのメディアは連日、例のイラクの刑務所の性的拷問・虐待問題で大変。
当のアメリカ人はというと、困ってる感じなのですね。どう反応したらいいか。そりゃ、けしからんとは思ってるし、ひどい、とかって言うんだけどさ、でも、困ってる、当惑、ってのが近いかね。

外国に送っている兵士たちってのは、アメリカ人にとってはヒーローなわけだよね。そんなヒーロー像が瓦解するわけだから、まあ、いってみればバットマンが実は覆面の変態強姦魔だったって新聞でスッパ抜かれるときの子供たちの反応を思い浮かべればいいの。

これってね、ベトナム戦争のときのソンミ村を連想しました。1968年の事件だからわたしゃここにゃいなかったわけで実際は知らないのだが、きっと、同じような反応があったんじゃないかなあ、と。

ソンミ村ってのは、カレー中尉ってのが(ほんとはカリー中尉って発音するんだけど、当時の日本の新聞はみんな「カレー」ってやってた。カレーライスに引っ張られたんだわね)ソンミ村の非戦闘員の村民を皆殺しにしちゃったっていう事件。

ベトナム反戦運動の一つのモメンタムになった事件でね、イラクのこのアグレイブ刑務所問題も、ともするとラムズフェルド更迭、米軍撤兵、ということに結びつくかも。でも、まあ、所期の目的も達成せずに撤兵なんてことになったらブッシュはつぶれるけどね。

April 16, 2004

なんかいやらしい国だなあ

人質の解放が行われて、よかったよかったと思っていたら、自民党議員どもから自己責任論が噴出してるんだそうだ。まったくねえ、こいつら、いったい政府を何様だと思っているんだろう。政府とは、公僕の集まりなんだぜ。自国民を保護・救出するのが義務なんだ。下僕なのよ。それがなにを偉そうに、「政府のいうことを聞いてないからこうなった」だなどと、まるで政府が「日本」であるかのような物言いを。

これじゃ全体主義国家ではないかよ。大政翼賛、国家主義。そういう基本的なことも分らんのが政治をやっているということだ。

おまけに小泉まで「3人の解放について「大変難しい交渉だった。関係者や関係国に協力・支援いただき、感謝している」と語った。」(朝日・コム)だと。政府は本当に交渉したのか? その交渉が功を奏して解放されたのか? 違うだろうが。逆でしょ。

逢沢はアンマンだかで指くわえてなにもできなかったわけでしょう? 日本政府はこの解放にはむしろ抵抗勢力として働いたわけだよ。それがまるで自分が解放させたかのように。なんだよ、それって。日本政府の今回の自衛隊派遣が本来の友好的な日本像を逆転させて3人の拉致・誘拐を誘ったわけだ。謝るのは3人ではなく日本政府ではないのかね。

イラク復興支援の活動には別の路がたくさんあった。なのにそれを検討することもなく対米追随の路を選んだ。だからこうなった。猛省すべきは3人ではなく小泉政権だ。そんなことも分らんで論理をすり替えてまるで自分の手柄のように、居丈高に3人を叱責するアホどもがうじょうじょしてる。卑しい、さもしい、とんでもない国だ。本質を押さえないでシレッとして権力的に振る舞うとは、まったく、つくづく、なんとも馬鹿げて怒り心頭なのである。これだもの、いじめや嫌がらせがはびこるわけだよ。あー、腹が立つ。

April 15, 2004

帰米しました

昨夕、NYに帰宅しました。今回、初めてノースウエストに乗ったんだけど、ありゃ、すごいね。フライトアテンダントのおばさんたちなんか、自分の家でお洗濯してる最中にちょっと駆けつけたって感じの仕事ぶり。髪は輪ゴムでひっつめただけ、化粧はしてない、かろうじて制服ゴトキものは着ているが、何日続けて着ているのってな感じ。うーん、この割り切り方は見事というか見物というか。

えー、先日の二丁目での同性婚に関するお話会はけっこう人が集まって楽しかったね。お集りの皆さん、ありがとうござんした。その日の昼まで缶詰めだったものだからぜんぜん用意が悪くてちょっと恐縮。わしも上記ノースウエストのお洗濯おばさんみたいだったかも。

さてと、日本にいるときにどっかの新聞で、イラクの人質3人の実家に嫌がらせ電話が殺到しているという報道を見ました。それと、あの女性のホームページもひどい書き込みで閉鎖に追いやられたとか。そういうのはどこの国でもあることなのでそれ自体はそういうもんかなと思うけど、でも、この「量」はどこの国にもあるものではありません。

わたし、「よってたかって」というのがいちばん嫌です。人間のさもしさと卑しさと、それに対する自覚のなさとが重なって、本来そこにある以上の、さらにものすごく邪悪なものが新たにそこに生まれます。どんなに嫌なものでも、それに対してそれに見合う権力以上に大きな力でよってたかって責めて(攻めて)いったら、わたしはそれに対する「嫌さ」よりも、寄ってたかってそうすることの「嫌さ」のほうが嫌です。というか、「寄ってたかって」という言葉自体、力の差を前提としているのだから、そもそも「嫌さ」をあらかじめ含んでいるわけだけどね。

イラクの人質のことをいえば、「(復興支援は国がやっているのに)自分で進んでそういう危険なところに行ったのだから自業自得だ」というのが嫌がらせを言う人たちの背景になっている意見のようです。というか、こういうのってなんでもそうなんだけど、まず結論が先に出てくるのね。この場合で言えば「こいつら、自業自得じゃん」ってうの。そんでもって、そこから理由を考えていろいろ後付けする。もちろん、「なんでこんなこと(わざわざイラクなんかに行ってボランティア活動なんか)するのか、わけわからない」っていうのとか、「そういうのって自己満足でしょ」とか、「善行とかって、偽善じゃないの」とか、「難しいこと考えて自分でみんな背負っちゃってるような気になってるのって、勝手にやれば」とかっていう心象がまずあるわけ。それから、理由付けが行われる。そういう手順なのね、往々にして。

まあ、それはそれでわからなくもない。しかしさ、じつは「日本」っていう国のイメージは、「国」「外務省」がやっている以上に、外国の人にとってはこうした民間外交の善意(あるいは悪意)によって形作られていることが多いのです。外務省ってね、外国に大使館とか領事館とかおいていますが、あんまり仕事しないの。というか、一般レベルで言うとほとんど仕事してない。一般の人々に日本を発信するということは、ほとんどがNGOとかの民間外交が担っているわけです。それ以外にも、留学生とか、企業の駐在員とかね。そういうところでの個人的なつながりが外国人にとっての日本を形作っている。ですから、イラクでも、自衛隊が行けばいいというもんではなくて、その周辺にいろんなレベルでの民間の日本人がいて初めて「日本」という国家像ができてくるわけ。それは、日本でアメリカのこととか考えても同じでしょ。アメリカ大使館の活動なんか知らないけど、二丁目の外人バーならわかる、ってこと。

それをさ、「よけいなことしやがって、それで人質になってるんだから自業自得」ってのはさ、批判のスジ、外してるのよ。よけいなこと、なんかじゃなく、むしろ彼らこそが「日本」なの。それを助けずして、誰を助けるの? 自国民を見殺しにする国家は、はっきりいって、国家であることの体を成さないのです。「日本」を見殺しにする日本「政府」って、何よ、ということなのです。

この倒錯にのっかって、嫌がらせ電話をかけたりするなよなあ。それって、二重の意味でビョーキです。

April 09, 2004

いま日本

もう、渋谷のホテルに缶詰状態で働かされてます。
今週末には終わる予定。しかし、日曜には二丁目でお話し会をやらねばならない。テーマは米国の同性婚の行方。話すこと、なにも用意してないのですが。さて、どうなるか。

それよりも、あのイラクの3人。
政府は「それがテロリストの思うつぼなんですよ」って言うけど、ちょっと待てよ、あれって、そもそも「テロリスト」なのかね? あの連中をああいう行動に駆り立てたのは米国であり、それに追随した日本政府だわな。すると、方法論としてはテロリストの手口なんだが、そうさせたのは世界のコンセンサスもイラクのコンセンサスも無視して突っ走ったブッシュの生んだ「敵意」なんではないか? おまけにあのモスクの破壊だ。パンドラの箱を開けておいて、「(3人殺害予告のような)こういうことをやるのはけしからん」と言うのは、本末転倒なのではないか? おれがイラク人だったら、ぜったいに反米闘争に参加していたと思うもん。

イラクの現状はすでにテロではない。あれはゲリラ戦なんだ。ゲリラ戦が続いているところに世界の市民が出かけていっている。そこで起きた事件だ。

そう前提を立て替えてみると、自衛隊は撤退すべきなの。そもそもいくべきところではなかったのだから。
イラク復興に協力したいなら、撤退後に態勢立て直して再結集すべき。たとえそれに何億円かかろうとも、ね。