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March 03, 2019

一時代の終わり〜寿司田NY閉店

マンハッタンで34年の歴史を持っていた「寿司田」NY支店が2月28日で2店舗とも閉店したそうです。ネタもコメも見劣りしたNY本格寿司の黎明期、ミッドタウンで日本企業駐在社員のホームシックを癒してきた同店ですが、閉店理由はトランプ政権のビザ締め付け。新規、更新とも厳しく、日本から送り込む寿司職人が確保できなくなったと言います。

今のような東京の有名店進出がなかった90年代、寿司田は数少ない「ちゃんとした」寿司が食べられる店の一つでした。93年に私がNYに赴任した時に、加藤さんという私より若干若い板前さんも同じく東京から寿司田ロックフェラー店に異動してきてすぐに馴染みになり、色々と新しい寿司を実験しては私に食べさせてくれました。蛸には黒胡椒が合うとか、NYならではのスモークサーモンの皮を炙った手巻き寿司とか、若かった私が江戸前だけでなくNY寿司の自由さを教わったのもこの店でした。

寿司職人のビザは「H-1B(エイチ・ワン・ビー)」という特殊技能職ビザで、高度な技能を持つ専門職の外国人労働者が対象です。有効期間は3年ですが1度の更新が可能で、その期間内で永住権(グリーンカード)を取得すればそのまま独立したり店を渡り歩くことも可能です。なので「H-1B」は寿司職人に限らずアメリカン・ドリームを追い求める技術"移民"たちの最初のステップなのです。

このビザ締め付けは「アメリカ・ファースト」のトランプが就任直後の17年4月に署名した大統領令「バイ・アメリカン、ハイヤー・アメリカン(米国製品を買い、米国民を雇おう)」から始まりました。べつに「寿司職人をアメリカ人にしろ!」というのではないのですが、他分野での規制強化でとばっちりを受けたという形です。これで最も打撃を受けたのは、カリフォルニアのシリコンバレーなどで働いていたインド人ら海外からの優秀なIT技術者たちでした。

「H-1B」はオバマ政権下の2016年までは年間30万人前後に発給され、その7割がインド人技術者でした。それが現在は10万人余にまで発給が減ってきています。インド人だけではありません。これまでアメリカのIT産業を支えてきた海外からの技術者たちは、トランプ政権となってから4割がアメリカ以外の移住先を探し、うち3割がお隣カナダへと去っています。この大統領令が報じられた時、「アメリカはこれでIT分野での世界一の座を危うくするだろう」と懸念する声が上がりましたが、「ファーウェイ問題」などいま問題となっている中国などへのIT技術流出も、この大統領令によって新たに加速しているのかもしれません。

「寿司田」閉店のニュースは、私がツイートしたらあっという間に(きっと昔のNYで寿司田を知っている)数千もの人がリツイートして、それぞれ思い出を披露していました。

ちょっと拾ってみると……「寿司田の名物、具がぎっしりの太巻きが」「NYに住んでた時何度かお世話になりました。なんちゃって寿司が多い中きちんとした寿司が食べられるお店だったのに残念です(´・ω・`)」「私もお世話になりました。寿司田ほどの規模あるグループが撤退とは、、、」「NYの楽しみ!分かります。私はロックフェラーセンターの弊社オフィスの1階の寿司田。和食が壊滅的なDCからAmtrakでNY出張する時は、寿司田が楽しみの一つでした。ディール決めてブローカーに奢らせたwwwのも懐かしい。」「なんですと・・・お世話になりました。てか、助けられました。残念ですね」……云々。

まあ今は食べるだけで200ドル、300ドルも珍しくない本格江戸前の高額個人店が競い合うNYです。寿司田の閉店は一つの時代が終わった象徴のようにも思われます。

February 22, 2018

酒とワインと和食と洋食と

あのね、今日はちょっと蘊蓄を。NYに24年も住んでた身として、その間の日本の変わり具合もNYの変わり具合も、大変なものでした。で、何が変わったかというその1つが日本酒です。

これまでいろんな日本の醸造元の経営者たちともお会いする機会があって、そんで話してきたんですが、2000年以降ごろからでしょうかね、日本酒が欧米で飲まれるにはどうすればいいんでしょうね、ということをよく聞かれてたわけです。

かつてはジャパニーズ・レストランにしか、それもマスプロダクトの大衆酒しかなかった日本酒ですが、今ではすっかりNYに馴染んじゃって、和食店に行けば醸造元の大小を問わず様々な銘柄を見つけることができるし、フランス料理店でも珍しい日本酒を揃えるソムリエも増えました。まあ、結局日本酒はそうやって「欧米で飲まれる」ようにはなったのですが、ところが日本酒とワインでは本来、決定的、本質的に違うんです。

その違いというのは象徴的に、日本語で「酒を飲みに行こう」という言い方に表れています。「酒を飲む」といっても、「飲む」ためにはそのお店に様々な肴が用意されているのが普通です。ところが英語で「飲みに行こう」と言ったときにはだいたいはバーで、つまみはほとんどありません。あったとしてもバッファロー・ウィング(鶏の手羽元を揚げたり煮込んだりして酸っぱ辛く味付けた軽食)やフレンチフライくらいです。ナッツとかもあるけど。

日本では「酒を飲む」は「メシを食う」に通じます。つまり、そこでは料理は酒を飲むためにあります。それはご飯でも同じ。ご飯を食べるために他の料理がある。そして酒もご飯も「お米」です。様々な料理はその2つの「米」のために捧げられる。すべての料理は、お米を食べるためにこそ用意されるのです。そしてそのお酒、ご飯という2つの形態のお米は、自分のすぐ前、食卓の一番近いところに置かれます。それは紛うことなく、それこそが食事の主役だということです。

ところが西洋料理店で自分の一番前に置かれるのは、肉や魚やスープやサラダといった「他の料理」です。ご飯に当たるパンは左上ですし、お酒に当たるワインは右上です。これはどう見ても、その「料理」を食べるためのつなぎに、パンやワインが脇にある、という位置関係です。

つまりこういうことです。和食と洋食では、主客が逆転しているのです。日本では主食たる「お米」が目の前にある。西洋では主菜たる「料理」が目の前にある。ちなみに、欧米には「主食」という概念はありません。昔々、中学校で「私たち風には米を主食にしている」という日本語を英語にする例文があって、そこでは「We live on rice.」というふうに訳されていました。でもこれ、to live on って「主食」っていう意味じゃないですよね。 rice に乗っかって(頼って)生きている、という意味です。

でも、そんな感じの食べ物はアメリカにあるかなあ、何かなあ? と考えたのですが、それはパンじゃないし、肉でもない。主菜 main dish というのはあるけど、それはいつも食べる具体的な食材のことではないし、あくまで分類としての「主菜」です。日本語の「主菜」という言葉自体、これも「メイン・ディッシュ」からきた翻訳語でしょうね。日本だと「おかず」なんですけど、「おかず」に当たる「一汁一菜」はご飯をメインと考えた場合の、その添え物のことですから、日本の食卓では「主菜」にはなり得ないんですよね。「主菜」とは言っても、それは「おかず」の中でのメインであって、そもそも「おかず」ってのは「お数」のことであり、その他「数々」の副菜、ということで、「副菜」の中では「主=メイン」ではあっても、全体の食事の中の「主」というわけではないのです。格が違う。

「和食と洋食では主客が逆転している」と書きましたが、つまり和食の「主」はお米であるご飯やお酒。一方で洋食での「主」は数々の「おかず」で、そこでは酒類は「主」たるおかずをスムーズに楽しむためのお口潤しの添え物=「従」なる存在なのです。

ですので、日本酒が欧米でワインのように飲まれるためには、ワインのような「従」の地位に行かなければならなかった。つまり日本酒は「お米」=「主」であることをやめなければならなかったのです。

そのために日本酒はどんどんと精米を進め、お米を削りに削って吟醸、大吟醸へと変身しました。それは「お米」くささを捨て、「まるでワインのような」果実香を纏うことでした。つまり「お米」から「果実」に変わることで自ら主役の座を降り、その場所を「主菜」たちに明け渡したのです。それが今の海外での日本酒ブームの、あまり語られない、というかほとんど気づかれていない、舞台裏の謎解き物語です。

とは言え最近日本に帰ってきて気づいたのですが、そんな一時の大吟醸ブームの方向性に「日本酒らしさ」が失われていると感じた造り手が少なからずいたのでしょう、日本での日本酒はここ5年、10年で、海外での志向とは逆に再び「お米らしさ」を取り戻しているような気がします。雑味を消し去りながらもきちんと「日本酒」の日本酒らしさを取り戻した味のものが多くなっている。やはりいろんな酒がなくては面白くありませんからね。

もっとも、それが海外で浸透するためには、今度は本当にお酒が食卓での本来の位置、つまり「すぐ手前」に戻るような、飲み方、食し方自体の日本復帰を紹介することになるのかもしれません。そしてそれは、茶道のお茶が Tea ではなく日本のお茶として浸透しているように、きっと可能だと思います。

というわけでうんちく話は終わりますが、最後にもう1つお役立ち蘊蓄情報を。

先ほどパンは左上、ワインは右上と書きましたが、円卓で座っているとどちらが自分のパンかワインかわからなくなります。そんな時は左右の手でそれぞれ指を伸ばし、そこで親指と人差し指で丸を作ってください。左手は「b」の字、右手は「d」の字の形になりませんか? 「b」はブレッドの「b」、「d」はドリンクの「d」です。その手の先にあるのがあなたのパンとワインです。

August 09, 2017

遅ればせながら『この世界の片隅に』

映画『この世界の片隅に』が11日からニューヨークでもアンジェリカ・フィルムセンターなどで上映されます。ニューヨークだけではなく、サンフランシスコやロサンゼルスなどでも公開されるようですが、全米で何館での公開かはまだ定まっていないのか数字が出てきません。でも、イギリスの会社が欧米での配給権を買い取って、パリやロンドンでも映画祭などで好評を博しているようです。ニューヨークでも7月にジャパンソサエティで「Japan Cuts」という日本映画祭で最終日に上映され、260席が満席の人気だったと聞きました。アメリカで映画好きが参考にする映画評サイト「ロットゥン・トマト Rotten Tomato」では、評論家の評価総点が100%ポジティヴというものでした。何かしらネガティヴ評価があったりする中で、これはとても珍しいことです。

このアニメ映画は北海道に帰った今年初め、実は85歳になる母親を連れて雪の中を観に行ってきました。自称「老人性鬱病」の母親はこのところ外出もせず籠りがちで、戦争とはいえ主人公の「すずさん」と同じく自身の少女時代を描いた映画でも見せれば懐かしく元気になるのではないかと思ったのです。「すずさん」にはモデルがいて、その方は今もご存命で御年95歳と言いますから、母よりも10歳も年上ですが、母も13歳で終戦を迎えています。

ところで見終わった母の開口一番は「なんでこんなもの見なくちゃならないの」だったのでした。別につらい昔を思い出して不愉快だったという口調ではなく、ただアッケラカンと「ぜんぜん面白くなかった」と言うのです。「だって、みんな知ってる話なんだもの」と。

実を言うと私の感想も似たようなものでした。ものすごく評判の良いこの作品の、描かれるエピソードの一つ一つがすべて「知っていた話」でした。

戦死した遺体を回収できず、骨の代わりに石ころの入った骨箱だけが戦地から帰還してきたという話は、19歳の時に学生寮の賄いのおじさんに酒飲み話で聞かされて号泣しました。南方戦線でのジャングルの苛酷さやヒルの大きさは高校時代の友人のお父上から怪談のように聞かされ、防空壕での暗闇の生き埋めの恐怖や、特高や憲兵たちの人間とは思えぬ非情さは私の子供時代、トラウマになるほどに何度も何度も少年向け漫画やテレビで描かれていました。闇市や買い出し、食べ物の苦労は宴席で集まる親戚から笑い話のように聞かされましたし、米がなくて南瓜や豆や芋ばかり食べていたせいで、その3つは二度と口にしないと宣言していた年長の友人は4人はいます。大学で出てきた東京の池袋の駅には、あれは東口でしたか、いつも決まって片足のない傷痍軍人が白い包帯と軍服姿で通行人から援助を乞う姿がありました。いやそれ以前に、北海道の本家の玄関にもそんな人たちが何度も訪れてはお金を無心していたものでした。

戦争が狂気だという厳然たる事実は、そうして身にしみて思い知っていました。そんな狂気は何としてでも避けねばという平和主義はだから、理想論でも何でもなく戦後世代の私たちには確固たるリアリズムでした。

だから『この世界の片隅に』は、少なくとも母と私にはタネも仕掛けも知っている手品を見る思いでした。それをなぜ「世間」はかくも絶賛するのだろうかとさえ訝ったほどです。私が知らなかったのはただ、あの時の「呉」という軍港都市で、日本軍の撃った高射砲の砲弾がバラバラに砕けて再び地上の自分たちにピュンピュンと凶器となって降り落ちてきたという事実くらいでした。

そんなとき、3月21日のNYタイムズに「Anne Frank Who? Museums Combat Ignorance About the Holocaust(アンネ・フランクって誰? 博物館、ホロコーストの無知と戦う)」という長文記事が掲載されました。「若い世代の訪問者、外国からの客たちはホロコーストに関するわずかな知識しか持ち合わせていない。時にはアンネ・フランをまるで知らない者もいる」と。だから今、アムステルダムの「アンネ・フランクの家」などは今再び、あのホロコーストの地獄をどうにか手を替え品を替えて、若い世代に、戦争を知らぬ世代に伝え継ぐ努力を常に新たにしているのだ、と。

そのときに気づきました。ああ、あの映画は、あの時代の日常の物語というその一次情報の内容で絶賛されていると同時に、原作者のこうの史代さん(48)や映画版監督の片渕須直さん(57)ら製作陣の、その、すでに忘れられようとしている(私たちの世代にとっては当たり前の知識だった)その一次情報を、今再び伝え継ごうとする努力こそがまた絶賛の対象だったのだ、と。

戦争を生きた世代がどんどん亡くなって、彼らの話を聞いた私たち戦後第一世代は、直接自分が体験したわけではないそんな話を我が物顔で次の世代に語るのを、どこかでおこがましく感じていたのではないか? そんな我らのスキを衝いて、平和憲法を「みっともない憲法ですよ」と言ってのける人が総理大臣になっている時代なのです。

「アンネの日記」はかつて、誰もが知っている歴史的な共通認識でした。でもいまアンネ・フランクを知らない人がいる。広島や長崎も同じです。だから『この世界の片隅に』は、語り継ぐその内容だけではなく、語り継ぐその行為自体をも賞賛すべき映画なのです。語り継ぐことを手控えていた私(たちの世代)としては、代わりに語り継いでくれて本当にありがとうございますという映画、もう、ただ頭を下げて感謝するしかない映画なのです。

遅ればせながら『この世界の片隅に』

映画『この世界の片隅に』が11日からニューヨークでもアンジェリカ・フィルムセンターなどで上映されます。ニューヨークだけではなく、サンフランシスコやロサンゼルスなどでも公開されるようですが、全米で何館での公開かはまだ定まっていないのか数字が出てきません。でも、イギリスの会社が欧米での配給権を買い取って、パリやロンドンでも映画祭などで好評を博しているようです。ニューヨークでも7月にジャパンソサエティで「Japan Cuts」という日本映画祭で最終日に上映され、260席が満席の人気だったと聞きました。アメリカで映画好きが参考にする映画評サイト「ロットゥン・トマト Rotten Tomato」では、評論家の評価総点が100%ポジティヴというものでした。何かしらネガティヴ評価があったりする中で、これはとても珍しいことです。

このアニメ映画は北海道に帰った今年初め、実は85歳になる母親を連れて雪の中を観に行ってきました。自称「老人性鬱病」の母親はこのところ外出もせず籠りがちで、戦争とはいえ主人公の「すずさん」と同じく自身の少女時代を描いた映画でも見せれば懐かしく元気になるのではないかと思ったのです。「すずさん」にはモデルがいて、その方は今もご存命で御年95歳と言いますから、母よりも10歳も年上ですが、母も13歳で終戦を迎えています。

ところで見終わった母の開口一番は「なんでこんなもの見なくちゃならないの」だったのでした。別につらい昔を思い出して不愉快だったという口調ではなく、ただアッケラカンと「ぜんぜん面白くなかった」と言うのです。「だって、みんな知ってる話なんだもの」と。

実を言うと私の感想も似たようなものでした。ものすごく評判の良いこの作品の、描かれるエピソードの一つ一つがすべて「知っていた話」でした。

戦死した遺体を回収できず、骨の代わりに石ころの入った骨箱だけが戦地から帰還してきたという話は、19歳の時に学生寮の賄いのおじさんに酒飲み話で聞かされて号泣しました。南方戦線でのジャングルの苛酷さやヒルの大きさは高校時代の友人のお父上から怪談のように聞かされ、防空壕での暗闇の生き埋めの恐怖や、特高や憲兵たちの人間とは思えぬ非情さは私の子供時代、トラウマになるほどに何度も何度も少年向け漫画やテレビで描かれていました。闇市や買い出し、食べ物の苦労は宴席で集まる親戚から笑い話のように聞かされましたし、米がなくて南瓜や豆や芋ばかり食べていたせいで、その3つは二度と口にしないと宣言していた年長の友人は4人はいます。大学で出てきた東京の池袋の駅には、あれは東口でしたか、いつも決まって片足のない傷痍軍人が白い包帯と軍服姿で通行人から援助を乞う姿がありました。いやそれ以前に、北海道の本家の玄関にもそんな人たちが何度も訪れてはお金を無心していたものでした。

戦争が狂気だという厳然たる事実は、そうして身にしみて思い知っていました。そんな狂気は何としてでも避けねばという平和主義はだから、理想論でも何でもなく戦後世代の私たちには確固たるリアリズムでした。

だから『この世界の片隅に』は、少なくとも母と私にはタネも仕掛けも知っている手品を見る思いでした。それをなぜ「世間」はかくも絶賛するのだろうかとさえ訝ったほどです。私が知らなかったのはただ、あの時の「呉」という軍港都市で、日本軍の撃った高射砲の砲弾がバラバラに砕けて再び地上の自分たちにピュンピュンと凶器となって降り落ちてきたという事実くらいでした。

そんなとき、3月21日のNYタイムズに「Anne Frank Who? Museums Combat Ignorance About the Holocaust(アンネ・フランクって誰? 博物館、ホロコーストの無知と戦う)」という長文記事が掲載されました。「若い世代の訪問者、外国からの客たちはホロコーストに関するわずかな知識しか持ち合わせていない。時にはアンネ・フランをまるで知らない者もいる」と。だから今、アムステルダムの「アンネ・フランクの家」などは今再び、あのホロコーストの地獄をどうにか手を替え品を替えて、若い世代に、戦争を知らぬ世代に伝え継ぐ努力を常に新たにしているのだ、と。

そのときに気づきました。ああ、あの映画は、あの時代の日常の物語というその一次情報の内容で絶賛されていると同時に、原作者のこうの史代さん(48)や映画版監督の片渕須直さん(57)ら製作陣の、その、すでに忘れられようとしている(私たちの世代にとっては当たり前の知識だった)その一次情報を、今再び伝え継ごうとする努力こそがまた絶賛の対象だったのだ、と。

戦争を生きた世代がどんどん亡くなって、彼らの話を聞いた私たち戦後第一世代は、直接自分が体験したわけではないそんな話を我が物顔で次の世代に語るのを、どこかでおこがましく感じていたのではないか? そんな我らのスキを衝いて、平和憲法を「みっともない憲法ですよ」と言ってのける人が総理大臣になっている時代なのです。

「アンネの日記」はかつて、誰もが知っている歴史的な共通認識でした。でもいまアンネ・フランクを知らない人がいる。広島や長崎も同じです。

けれどこれは逆を言えば、アメリカではかつての世代では原爆は太平洋戦争を終結させるための必要悪だった、いや必要悪ですらなく、あれは善だった、という人々が圧倒的だったのでした。でも最近の世論調査では35歳以下では広島・長崎への原爆投下は実は不要だった、悪だった、と答える人たちが多数を占めるようになってきています。おそらくそんな世代へ、『この世界の片隅に』は新たに穏やかながら強い平和への訴えを届けるツールになるに違いありません。今回の北米都市部での上映にとどまらず、今後のネット配信やDVD化なども経て特になおさら、これから末長くゆっくりとけれど確実に、欧米のジャパニメーション世代に浸透してゆくと思います。

ですから『この世界の片隅に』は、語り継ぐその内容と同時に、語り継ぐその行為自体もまた賞賛すべき二段構えの映画なのです。語り継ぐことに気後れし、なんとはなしにそれを手控えていた私(たちの世代)としてはつまり、代わりに語り継いでくれて本当にありがとうございますという映画、もう、ただ頭を下げて感謝するしかない映画なのです。

June 07, 2016

置き去りの心

日本に戻って北海道・駒ヶ岳の男児置き去り"事件"に関するテレビの騒ぎ方や親御さんへのSNS上の断罪口調を見ていて、改めて世間の口さがなさを思い知っています。今朝退院したそうの大和くんはテレビで見る限りすっかり元気で、ほんと無事でよかったなあ、でいいはずなんですが、その後も教育論だのしつけ論などがなんともかまびすしいこと。

こういう問題はとても難しくて、この子に通じる「論」が他の子に通じるとは限らないし、例えば私も北海道民でしたが、子供のころはよく「そんなことしてたら置いてきぼりにするよ!」と叱られたものです。

実際に田舎の道端に置いてきぼりにされたこともあって、「しかし今思えばそうやって泣きながらサバイバルできる子供に育ったんだなあ」とふとツイッターでつぶやいたら、「そんなことしたら大阪ならすぐに人さらいに遭う」と本気か冗談かわからないリプライをくれる人や、中には「それは体罰だ。子供が取り返しのつかない心の傷を受けるのがわからんのか」とこれまたご自身の経験からか反発なさる方もいて(ある人には「普段はリベラルなふりをしてこういう時にマッチョなミソジニーが馬脚を露わす」なんていうふうに罵倒されました。すごい洞察力だこと……。)、全くもってこの件に関しては「物言えば唇寒し」の感が強いのです。

私はもちろん体罰の完全否定派ですから、体罰だとの指摘はちょいと応えました。ただ、子供のころにその心に何らかの負荷を与えられることは(その子が耐えられる負荷の多寡は斟酌しなくてはなりませんが)、その心の成長のためには絶対に必要なことだと思っています。それがトラウマになるかどうか、そのトラウマを経てさらに強くなれるかどうか、あるいはさらに優しくなれるか否かも、その子その子によって違うので見極めは実に難しいでしょうが。

もしアメリカで「置き去り」なんかしたら親は逮捕されます。自宅に子供を一人置いて出掛けることさえ時には逮捕の対象ですから。子供は親の所有物ではない、という思想もあります。社会全体の宝物だという考え方においては、親の身勝手な"しつけ"は許されません。でも、一方で「置き去り」の気分というのは味わっておいた方がいいとも思う自分がいます。

例えばある種の文学作品は、まるで体罰のように若く幼い私を打ち据えました。実際に殴られ血を流してはいずとも心はズタズタになった頃があります。死んでいたかもしれません。それは、体罰以上に過酷な刑罰でした。でも、誰もそのことを体罰だとは言わなかったし、禁止もしないどころかむしろ読書は奨励されていたのです。そこで暴かれる罪にどんな罰が待っているかも教えないままに。

そう考えると、私は大和くんが親に"置き去り"にされたことと、自分がある種の文学作品によって"置き去り"にされたこととの、その暴力性の違いがよくわからなくなるのです。どうやってそこから生き延びたのかも。

かろうじて今わかっていることは、幼い頃に叱られて置いてきぼりにされた時も、泣いている私を親たちは必ず私の見えないところからじっと見ていたのだろうということです。ちょうど、大和くんの親がすぐに彼の様子を見に、車でそっと戻ったように。

誰かがそっと見守っていてくれる。視点を変えれば、自分がそっと見守り続ける──それが(独りよがりの見守り方もあるでしょうが)暴力と鍛錬との分かれ目かもしれません。打ちのめされた若い私にも、思えばそっと見守ってくれていた友人や先生や親がいましたっけ。

大和くんは、おそらくそんな風にすでに親御さんとの関係性においてサバイバルの力を培っていたのかもしれません。もちろん、そんなことは穿った見方でほんとはまったく関係ないかもしれません。なので、私たち大和くん一家を知らない者たちによる一般論とその敷衍はあまり意味がないことなのです。だから、この話はそれでもういいじゃないですか。(とまあ、ツイッターで言いたかったことはそういうことでした)

August 30, 2014

氷のビショービショ

友人からチャレンジされて私もアイスバケットの氷水をかぶりました。筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病の支援を目的に7月末から始まったこのキャンペーンは有名人を巻き込んであっというまに300万人から計1億ドル以上を集めました(8月末現在)。昨年の同じ時期に米国ALS協会が集めた募金は280万ドルだったといいますから、このキャンペーンは大成功です。

フェイスブックやツイッターで映像画像を公開しているみなさんは嬉々として氷水をかぶっているようですが、スティーヴン・ホーキング博士も罹患しているこの病気はじつはとても悲惨なものです。四肢から身体全体にマヒが広がり、最後に残った眼球運動もできなくなると外界へ意思を発信する手段がなくなります。意識を持ったまま脳が暗闇に閉じ込められるその孤独を思うと、氷水でも何でもかぶろうという気になります。

啓発のためのこういうアイディアは本当にアメリカ人は上手い。バカげていても何ででも耳目を集めればこっちのもの。こういうのをプラグマティズムと呼ぶのでしょうね。もちろんチャレンジされる次の「3人」も、「幸福の手紙」みたいなチェーンメール方式と違って断る人は断ってオッケー、その辺の割り切り方もお手の物です。

レディ・ガガにネイマール、ビル・ゲイツやレオナルド・ディカプリオといった世界のセレブたちが参加するに至って案の定、これはすぐに日本でも拡散しました。ソフトバンクの孫さんやトヨタの豊田章男社長といった財界人から、ノーベル生理学・医学賞の山中教授、そして田中マー君も氷水をかぶりました。

ところがあるスポーツタレントがチャレンジの拒否を表明して、それが世間に知られると「エラい」「よく言った」と賞讃の声がわき起こったのです。ある意味それはとても「日本」らしい反応でした。その後ナインティナインの岡村隆史も「(チャリティの)本質とはちょっとズレてきてるんちゃうかな」と口にし、ビートたけしも「ボランティアっていうのは人知れずやるもの」と発言しました。こうした批判や違和感の理由は「売名行為」「一過性のブーム」「やっている人が楽しんでるだけで不謹慎」「ただの自己満足」といったものでした。

日本にはどうも「善行は人知れずやるもの」というストイックな哲学があるようです。そうじゃないとみな「偽善的」と批判される。しかし芸能人の存在理由の1つは人寄せパンダです。何をやろうが売名であり衆人環視であり、だからこそ価値がある。ビートたけしの言い分は自己否定のように聞こえます。

私はこれは日本人が、パブリックな場所での立ち振る舞いをどうすべきなのかずっと保留してきているせいだと思っています。公的な場所で1人の自立した市民として行動することに自身も周囲も慣れていない。だからだれかがそういう行動を取ると偽善や売名に見える。だから空気を読んで出しゃばらない。そんな同調圧力の下で山手線や地下鉄でみんな黙ってじっとしているのと同じです。ニューヨークみたいに歌をうたったり演説をする人はいません。

そういう意味ではアイスバケット・チャレンジはじつに非日本的でした。パブリックの場では大人しくしている方が無難な日本では、だから目立ってナンボの芸人ですら正面切っての権力批判はしない。むしろ目立つ弱者を笑う方に回る。

私は、偽善でも何でもいいと思っています。その場限りも自己満足も売名も総動員です。ALSはそんなケチな「勝手」を飲み込んであまりに巨大なのですから。

July 19, 2014

中古(ちゅうぶる)の大切さ

CNNとニューズウィーク・ジャパンがそろって先日、建て替えられる東京のホテル・オークラ本館を惜しむ記事を掲載しました。老朽化が進み,20年の東京五輪を前に建て替えてしまえというものですが、CNNは「時代の中に取り残されたような趣きが魅力だったタイムカプセル的ホテル」と重要性を強調し、ホテルの保全運動を支持しています。

こういうのを読むにつけ、私たちはどうしていつも外国人の指摘で日本のよいものに気づくのだろうと思います。

思えば世界無形文化遺産に登録された和食だって、私が日本を離れた20年前にはだれも騒いでいませんでした。だいたい懐石・会席料理だって料亭になんか一般人が入ることはまずなかった。政治家とか経済界の重鎮たちが行く密室料理のことだったのです。

それが急にロビュションやらデュカスやらが日本料理に注目しだして、そこに菊乃井の村田さん辺りが和食の普及に奮闘し、世界ばかりか日本国内に向けても同時売り出しをしたわけです。それまでは、日本では何かの折りの豪勢な食事と言えば中華やフレンチだったのですから。

遡れば桂離宮だって昭和8年に来日したブルーノ・タウトが「これは凄い」って言ったというので日本人も「ああ、そうなのか」と気づいた。京都そのものだってかつては単なる修学旅行の場所でした。それが世界中から観光客が溢れもてはやしてやっとふつうの日本人も広く「そうだ、京都に行こう」となった。

ニューズウィークにオークラを惜しむエッセイを書いたのはレジス・アルノーさんというフランス人なんですが、この人、六本木ヒルズや計画される新国立競技場も大嫌い。スカイツリーは東京の衰退の象徴とバッサリ。東京駅と東京ステーションホテルも「改装前の面影はほとんどなく、東京ディズニーランド駅だ」と情け容赦ない。

対してオークラは「最先端のホテルではない。『古風』と言ってもいい。だが、ホテルオークラのロビーは戦後の日本の卓越した力強さを見事に映し出している」とべた惚れ。CNNも「セイコーの時計が入った世界地図には今でもレニングラード(現サンクトペテルブルク)の時刻が表示される。バー『ハイランダー』では世界各地でとうに姿を消したカクテルが注文できる」「何でも取り壊して大きく作り直すのが主流のアジアにあって、ホテルオークラはかつて素晴らしかったものへの敬意を思い起こさせる存在だった」

世界にはものすごく古いものと、ものすごく新しいものが混在しています。その中間にオークラのようなものが存在している。この、中くらいに古いものがどうして大切かというと、これ、生きている人間たちの記憶だからです。生きてきた時代の記憶なのです。つまりノスタルジアの源だということです。

でもこの「中くらいに古いもの」、言葉を換えれば「中古」「中ブル」です。その重要性を敢えて意識していなければすぐに「建て替え」「買い替え」の対象です。

いま生きている日本人の大多数にとってはそれは「昭和」のことなんでしょう。オークラも前回の東京五輪前の昭和37年に開業しました。そうした昭和の記憶とノスタルジアとが、とても古いものととても新しいものとの橋渡し役を担っているのですが、私たちはついそのことを忘れがち。じつはこの中くらいに古いものが庶民の文化のカギを握っているのです。それがなければ歴史は脈絡を失ってバラバラにほどけてしまうのですから。それを、外国人に指摘されないまでも意識していたいと思うのですが。

July 08, 2014

勘三郎の感涙

勘三郎が亡くなったこともあって7年の間が空きました。平成中村座の3度目となるニューヨーク公演は、その勘三郎が平成に復活させ、亡くなる1年前に勘九郎(当時・勘太郎)に継がせた『怪談乳房榎(ちぶさのえのき)』でした。

初日を見てきました。自分の死を知っていたとは思いません。けれど04年の『夏祭浪花鑑』と07年の『法界坊』と、そして三遊亭円朝の怪談噺が原作の今回の演し物と、この手を替え品を替えの構成はまさに勘三郎の仕掛けた歌舞伎披露の壮大な計画だったように思えてなりませんでした。

最初の『夏祭浪花鑑』で、勘三郎(当時・勘九郎)は歌舞伎狂言の濃厚なダイナミズムを大捕り物に託して娯楽芸術の極みを提示してくれました。NYタイムズは「ハリウッド映画より刺激的で面白い」と絶賛しました。しかし次の『法界坊』で勘三郎はそんな芸術性への期待を見事に裏切ります。

このときのNYタイムズの事前記事で彼はこう説明しています。「能は時の権力者によってつねに保護されてきた。しかし歌舞伎は一般大衆が支えてきたものだ」。「ハイ・アート」を期待してきたニューヨーカーに彼は、歌舞伎はそんな気取ったもんじゃねえ、とばかりに猥雑な喜劇を見せつけたのです。

あのとき私の席の近くには10歳くらいの息子にタイとブレザーを着せた父親が座っていました。きっと「日本の歌舞伎という伝統芸術をこの機会だ、ちゃんと見ておきなさい」とでも言って連れ出してきたんでしょう。

でも幕が開いてやがて登場した笹野高史の「山崎屋勘十郎」、なんと美女「お組」を目にしてすぐにおニンニンをぴょこぴょことおっ勃てたわけです。袴がそれでぴょんぴょんはねる。禅と茶道と礼儀作法の国から「まさかこんな……」。あのお父さんも固まってしまっていました。

ただ、「猥雑」と言いましたがそれを表現する所作は見事に芸に裏打ちされた洗練の極みでした。法界坊のドタバタもじつにミニマルで流麗でまるでチャップリン。いやチャップリンの方が歌舞伎を真似ていたのか。

勘三郎は庶民のそんな野卑で生々しいエネルギーをもう一度現代の歌舞伎に注入したかったのでしょう。いつのまにか「優等生」扱いの歌舞伎に、原初的な破天荒さを取り戻す。その目論見は見事に勘三郎でした。

そして今回、私たちは勘三郎の“仕組んだ”歌舞伎そのものの力を目にすることになりました。勘九郎と獅童の若い2人の演技に勘三郎と橋之助の熟れと遊びを見ることはできません。けれど生真面目でまっすぐな勘九郎と獅童を、この芝居は「歌舞伎」という技術がしっかりと支える作りになっていたのです。それは前2回の作品とは異なる歌舞伎の形でした。

隣のアメリカ人カップルは勘九郎の早替わりのたびに、いやそれがどんどん増すごとに「おお」という感嘆の声を大きくしていきました。本来は数時間かかるこの大作を2時間半に刈り込んだ演出も切れの良い枠組みとして演技を支えました。それはまるで、勘三郎自体がこの舞台世界となって、その中で息子たちを動かしているような気がしたのです。いつしか私も身を乗り出して「おお」「おお」と声を出していました。

じつは私は勘三郎さんとは誕生日も9日違うだけの同い年でした。あのいたずら好きな、しかも計算しつくしたかのようなトリックスターだった勘三郎さんが、今日の息子さんたちを見て感涙にむせぶ姿を私はいま容易に想像できます。楽しかった。勘九郎さん、次回4回目のNY公演をまた楽しみにしていますよ。

January 10, 2012

新年に考えること

子供のころはおとなになったらわかると言われつづけてきましたが、おとなになってわかったことは、おとなになってもいろんな答えがわかるわけではないということでした。にもかかわらず、疑問の数は以前より確実に多くなっているような気さえします。

昨年末からずっと考えているのは民主主義のことです。アラブの春も、99%の占拠運動のアメリカの秋も、根は民主主義に関わることです。でもそこに1つ大きな誤解があります。それは、民主主義になれば自分の思っていることがきっと実現するという誤解です。

民主主義は、何かを実現するにはおそらく最も非効率的な制度だと思います。なぜなら、民主主義とは、何かをやるためではなく、何かをやらせないための制度だからです。

それは「牽制」の政体です。「抑制」の政体と言ってもいい。様々な歴史がある個人や集団の暴走で傷ついてきました。そのうちに傷つけられてきた「みんな」こそが歴史の主役なのだという考え方が広がってきました。そこでそのみんなで、付託した「権力」の独善や独断や独裁や独走を許さない仕組みを作っていった。それが民主制度でした。

ところが民主制度になると、何かを実行するにもいちいち特定の集団の利益や不利益に結びつかないかとかみんな(=議会)で検証しなくてはなりません。ものすごく面倒くさいし時間もかってまどろっこしいことこの上ない。
 
「アラブの春」で指導者を放逐した「みんな」は、これから民主的な政体ができると期待しているのでしょうが、心配はなにせそういうシチ面倒くさい仕組みですから、直ちに現れない変化に業を煮やしてまたぞろ過激な原理主義思想が台頭してくることです。

アラブに限ったことではありません。イギリスやイタリアでの若者たちの暴動も、ウォール街占拠運動も、世界はいま、急激に変質する経済や社会の動きに対応し切れていないこの民主制度の回りくどさに、辟易し始めているのではないか?

冒頭に、疑問は多くなる一方なのに答えはわからないままだと書きました。世の中は情報や物流や金融が世界規模でつながることでとても複雑になってきています。ギリシャの債務が日本のどこか片田舎の農家の借金に関係してくる。いままで「風が吹けば桶屋が儲かる」噺を笑い話にしていましたが、いまやそれは冗談ではなくなっているのです。なのにその論理の飛躍をより緻密な論理で埋めつつ理解する能力を、人間はいまだ持ち得ていない。これからだって持てる理由もありません。それは私たちの処理能力を越えているようにさえ思えます。

そんなときに「風」と「桶屋」との間を快刀乱麻で切り捨てる人物が魅力的に見えてきます。先の大阪市長選挙での橋下徹市長の誕生は、きっとそうした「みんな」のもどかしさを背景にしています。暴れん坊将軍や水戸黄門といっしょです。しち面倒くさい手間を省いて1時間で悪者を退治してくれるのです。そして「みんな」は、世直しなんぞにあまり努力する必要もなく楽に暮らせるわけです。

めでたしめでたし? いえ、この話はところがここでは終わりません。なぜなら、フセインもカダフィもムバラクもサーレハもみな当初は暴れん坊将軍や黄門様と同じくみんなの英雄として登場してきたからです。しかし権力は堕落する。絶対的な権力は絶対的に堕落します。独占的な権力は独占的に堕落し、阿呆な権力は阿呆なくらいに堕落する。そうして「切り捨てられる」余計として、また「みんな」が虐げられるのです。

民主主義の中から登場したものたちが、その民主主義を切り捨てるような手法でしか政治を断行できないと判断するようになる。それは自己否定であり自己矛盾です。これは民主主義の、いったいどういう皮肉でしょうか? その答えを、私はずっと考えています。

March 21, 2011

東京にて②

地震発生直後の週末はべつに買いだめなどパニックの兆候はありませんでした。それが週明けの月曜、14日あたりからスーパーではカップ麺やお米、牛乳の棚などに空きが目立ち始め、それはいまトイレットペーパーや納豆、パンなどに広がっています。

きっかけはツイッターでのつぶやきだったとか言われていますが、よくわかりません。実際に買い物に行って在庫の薄い店内を見ると「ああ、なんか買わなくちゃ」という気持ちに駆られます。テレビで他のスーパーでも売り切れ続出と見せられるといくらキャスターが「品物はあります。心配しないで」と言っても心が騒ぎます。

私の東京のアパートは四谷三丁目ですが、いつも賑やかな新宿通りはコンビニやスーパーなどの看板も節電で消され、開いている店内も奥半分しか蛍光灯が点けられていないので夜は薄暗くまるで違う場所みたい。人通りもまばらで、とても魅力的な飲食店街である杉大門通りも閑古鳥が鳴いています。これでは各地で3月の決算期を乗り切れない個人店が続出するかもしれません。

映画館も午後6時で閉館。演劇やコンサート、バレエ、イベントなどの興行も軒並み中止。私の母親が楽しみにしていた5月初めの「東アジア・ロシアをめぐる11日間クルーズ」も、いま彼女から嘆きの電話があったのですが、使用する外国船が放射能が怖いとかで日本への寄港を回避することに決定、急きょ中止になっちゃったそう。どこに停泊する予定だったのかと聞くと、長崎と室蘭ですって。関係ないでしょうにねえ。

「風評」被害はこれから国外からもやってくるでしょう。復興支援の輪は海外でも拡大するでしょうが、それ以上に日本への観光客は激減するでしょうし、魚介類を含め日本の産品がどう扱われるかも気になるところです。
もちろんその原因は原発にあります。東京電力はこの事故の直前まで妻夫木聡くんを起用した「オール電化」のCMを大量に流していました。そのすべては止めたり動かしたりを容易にできない原子炉から生まれる昼夜を問わぬ電力を消費させるためでした。民主党も自民党も「クリーンな電力」としての原発を推進してきました。それらの行き着いたところがこんな大惨事でした。

今後、原発行政は世界中で後退するでしょう。それは被災地だけでなく、 日本全体の国のあり方も変えるきっかけになるほどのものです。いやむしろ、これを力に変えるための第一歩を踏み出さねばなりません。なぜなら次にはすぐに、東海・東南海大地震が迫っているからです。

余震、節電、列車の運休と状況が違うので一概には言えませんが、9.11のとき、生き延びた私たちはとにかく早く「普通の生活」に戻ろうと声を掛け合いました。ブロードウェイも敢えて直ぐに再開しました。それが無差別テロに対するニューヨーカー一般の唯一の抗議の方法だったからです。

この大震災の復興の第一歩もまた、敢えて懸命に「普通の生活」をしようとすることだと思います。普通に生活をするということは普通の経済活動を取り戻すことです。それが税金になり、国の力になります。今後避難してくる多くの被災者の方々を受け入れる受け皿が「普通の生活」なのです。

もっとも、原発事故を機に、しらみつぶしに夜から闇をなくしてきた日本の大都会の「普通」の照明のあり方は、考え直した方がいいですね。夜は夜の暗さを楽しむもの。それもNYに暮らして学んだ1つです。

March 14, 2011

東京にて①

寒さも緩んだ午後、連れ合いといっしょに散歩がてら新宿の喫茶店の外でお茶をしていました。そこに地震が来ました。目の前の新しい十数階建てのビルが前後に大きくたわみ、鳥たちが騒がしく鳴きながら青空を飛び交いました。地鳴り、叫び声、窓ガラスの震動。通行中の車が停車し、ビルからは続々と人が出てきて靖国通りの大きな交差点の中央に集まりました。その場のすべてが揺れ、軋み、鳴っていました。とうとう東海・東南海大地震が来たのかと思いました。そのときはまだ震源が宮城沖だとは知りませんでした。その数十分後に、あの津波の第一波が現地を襲おうとしていたことも。

その後の展開はみなさんもご存じの通りです。9・11を体験した人ならばわかるでしょうが、こういうときこそ人びとの善意が輝きます。

計画停電が始まったとき、東電の準備不足と説明の不手際を責める大メディアを尻目に、若者たちはこれをネット上で「ヤシマ作戦」と名付け積極的に節電を呼びかけていました。あの大人気アニメ「新世紀ヱヴァンゲリヲン」で対「使徒」攻撃兵器の電力を集めるため日本中を停電にしたのと同じ作戦名です。自らの不便を捧げる善意の連帯です。

ツイッター上でもこの悲劇の中で起きたささやかな善意のエピソードが多く紹介されています。

▼ディズニーランドではショップのお菓子なども配給された。ちょっと派手目な女子高生たちが必要以上にたくさんもらってて「何だ?」って一瞬思ったけど、その後その子たちが、避難所の子供たちにお菓子を配っていたところ見て感動。子供連れは動けない状況だったから、本当にありがたい心配りだった▼ホームで待ちくたびれていたら、ホームレスの人達が寒いから敷けって段ボールをくれた。いつも私達は横目で流してるのに。あたたかいです▼1階に下りて中部電力から関東に送電が始まってる話をしたら、普段はTVも暖房も明かりもつけっぱなしの父親が何も言わずに率先してコンセントを抜きに行った。少し感動した▼昨日、歩いて帰ろうって決めて甲州街道を西へ向かっていて夜の21時くらいなのに、ビルの前で会社をトイレと休憩所として解放してる所があった。社員さんが大声でその旨を歩く人に伝えていた。感動して泣きそうになった。いや、昨日は緊張してて泣けなかったけど、今思い出してないてる▼避難所でおじいさんが「これからどうなるんだろう」と漏らした時、横にいた高校生ぐらいの男の子が「大丈夫、大人になったら僕らが絶対元に戻します」って背中さすって言ってたらしい。大丈夫、未来あるよ▼韓国人の友達からさっききたメール。「世界唯一の核被爆国。対戦にも負けた。毎年台風がくる。地震だってくる。津波もくる…小さい島国だけど、それでも立ち上がってきたのが日本なんじゃないの。頑張れ頑張れ」ちなみに僕いま泣いてる。

地震後2日間は携帯も固定電話もなかなかつながりませんでした。その一方でツイッターやスカイプは常につながりました。大切な人の消息を知るためにも、ネット接続のできる環境を日本中でいち早く整備すべきだと痛感しています。

そんな中、またまた都知事に立候補した石原慎太郎がこの大震災を天罰だと発言しました。米国のキリスト教原理主義者にもこれとまったく同じ発想をする人たちがいますが、石原こそがこんな人を選んだ都民への天罰のようです。

January 19, 2011

年の初めにイッパツかます

大晦日の夜、「紅白」の裏のTBSラジオで、1年を振り返る時事座談会に出演していました。「フリーランス座談会 信頼崩壊の2010年」というのがタイトル(ポッドキャストでいまでも聞けますが、いつまでサーバーに残っているのでしょう?)。お相手はジャーナリストの江川紹子さんと神保哲生さん。とはいえこれは帰国していた12月半ばに収録したもので実際の大晦日には私はメキシコに避寒に行っていたのですが。

でも今回書きたいのはそのことではありません。座談は大まかな流れだけ決めてすべて自由だったのですが、スタート直後の番組紹介などは司会役でもあった私の役目で、それはしっかりとセリフが決まっていました。でも台本どおりしゃべるのがどうにも嫌で(この日の台本のことではありません。いつもそうなの)、それも何の気なしにアドリブでしゃべっちゃいました。録音なので後で編集できるからよかったのでしょうが、生放送だったら制作スタッフはヒヤヒヤだったでしょう。すんません、TBSラジオのみなさん。

台本どおりが嫌、というのは、たとえ台本以上の面白いことが言えたにしてもともすると失敗する危険もあります。ですので制作側が台本どおりの無難なところでまとめたいと思うのはまったくもって至極ごもっとも。それを責めるのは筋違いです。私もそんな気は毛頭もありません。

でもこうして言挙げしているのはそれを敷衍していまの日本社会を論じちゃおうという魂胆です。最近日本に帰る機会が多く、帰るたびにとても心地よいぬっくりした感じに包まれるのですが、そのうち次第に時間が経ってくるとなんだかフラストレーションがたまってくるのを禁じ得ない。それはべつに私の周囲の人たちに感じているのではなくて、テレビで報道される政治家や官僚やそれを報道するキャスターや記者やコメンテーターたちにイライラが募ってくるのですね。なんともチマチマとお行儀よくまとまっていて、だれもあまり仕事で冒険も遊びもしない彼らを見ていると、なんだかだんだんイラっとしてくるのです。アドリブを嫌う社会。台本どおり。慣例どおり。つつがなく、つつがなく。それはつまり、予定調和を至上として、失敗を恐れる過度の事前警戒を、「普通のこと以上のことをしない」怠惰の言い訳にしている社会のことです。

江川さんは昨年、某テレビでスポーツ評論をする張本勲さんの「喝!」に思わず「えー?」と異論の感嘆詞を挙げたところその張本さんの逆鱗に触れ、番組を降ろされちゃったようです。そこでは台本上、江川さんは発言しないことになっていたからで、張本さん、プロのオレの野球評論にエー?とは何事だ、素人は黙ってろ、となったらしい。ま、翻訳すればそれはつまり女子供は口を出すなってことみたいな響きですけど、まあそうなんでしょう。そうやって日本のテレビ番組では侃々諤々の論争はほとんど起こりません。みんな司会者の「そうですよね」の言葉でうなづき合って次のコーナーへ移るのです。まあ、視聴者の日本人自身が論争を嫌うから、そういうの見たくないってのもあるでしょうけどね。そういうの、すぐに「放送事故」扱いですし。「事故=失敗」を事前に警戒してその恐れをしらみつぶしに排除してゆく。それが「安全=成功=事無し」に至る道です。それをできるのが優秀なスタッフ、ということ。これはじつは皮肉でもなんでもありません。

じつはあの普天間も同じようなメカニズムが働いたのでした。外務省も防衛省も「端から無理」と失敗を警戒して、鳩山さんの外堀を埋め身動きとれないようにした。それが「安全=成功=事無し」に至る道でした。それを見た菅さんが政権延命だけを目的に失敗を恐れてなにも変革せず、官僚たちの言いなりに消費税増税だけを目指すのは当然かもしれません。消費税増税は、まさにいまの体制を維持するため、つまりは同じく「安全=成功=事無し」であるために必要な手段なのですから。そこに横並びで台本どおりの政治部報道メディアの応援があれば下手はしないだろうという目論見です。その屋台骨はすでに世論の波で揺らいでいるのに、です。

また放送局の例で申し訳ないけれど、たとえば自動車会社の提供する番組ではスポンサー社製の車の批判や車社会の弊害には触れてはいけないことになっています。でもそれはべつに提供企業がそう規制しているわけではないんですよ。じつは番組の制作側がそう慮って事前に出演者になんとなくそう伝え、事無きを期するわけです。先ほども書きましたがそれは制作側としては当然の配慮でしょう。そういうたしなみのあるところじゃないと逆に危なくて番組なんか提供できるものではありません。でも本当にそれがいいのでしょうか?

いや、「それが」というのは違うな。「それだけを金科玉条とするだけでことはすべてうまく運ぶのでしょうか?」というようなところが私の気持ちに正確な疑問文です。批判は財産だとして積極的にそれを聞こうとする会社は、自動車会社に限らず逆に伸びるでしょうし、むしろ誠実だとして信頼すらされるのではないか? それは「普通」以上の効果です。事前にすべて段取りしてちんまりまとまる事無かれ主義よりも、むしろ敢えて少しは波風立っても議論して問題の本質を見極めた方が会社や社会の飛躍になるはず。

ところがその判断ができる勇者が少な過ぎる。日本には、企業や社会というプールの中で「溺れると嫌だから」と立ち泳ぎしてる人ばかりが目立ちます。なにも全員がグーグルやアップルの社員みたいに自由に泳いで発想しろと言っているのではないけれど、そういうアドリブのための余地を用意していないとブレークスルーは絶対に起きない。

台本、慣例、マニュアル──いろいろな呼び名はあるでしょうが、もっと楽しく自由に仕事をしようじゃありませんか。もちろんアドリブはしっかりと基本を押さえていないと無理だし、そういうのができないのにしゃしゃり出てくるやつが多いと「おまえはマニュアルどおりにやってればいいんだよっ!」と怒鳴りたくなるのもわかるんですがね。アメリカにいると日本とは逆に、面白いやつはたくさんいるけどそうした台本どおりの基本動作ができない輩が多すぎて、そっちの点でイラっとすることが多いのですから困ったもんです。

段取りと事前警戒を怠らないきっちりしたスタッフがいる。でも同時に、自由にアドリブでやれるスタッフもいる。そしてその双方がお互いを必要としていることを自覚し尊敬し合っている──どうして人間社会ってそんなふうにバランスよく両方を兼ね揃えることができないんでしょう。うまくいかないもんですねえ。

政権交代から2年目です。このパラダイムシフトには未知の状況を切り拓く当意即妙の胆力が必要なのはわかっていたはずなのに、日本社会の個人個人はそれに対応し切れていません。減点されない普通のことをするのではなく、得点しなくちゃ勝てないのだけれど。まあ、こんなことを新年早々考えているのは、ええ確かに、私がジャズやロックのアドリブが大好きだったサッカー少年として育ってきたせいかもしれませんけど。

December 31, 2010

不思議な街

私が台本を翻訳したブロードウェイ・ミュージカルの東京公演が12月にあり、それを見るために一時帰国していたのですが、一通り用事を済ませて帰米する前夜に入った四谷・荒木町のお鮨屋さんで、隣に座ったのが鈴木大介さんというクラシック・ギタリストでした。なにやら鈴木さんも明日にニューヨークに飛ぶとか話してらして私もそうなんですと告げると、じつはカーネギーホールのザンケルホールで武満徹の生誕80年記念のコンサートを行う予定なのだとおっしゃる。私も武満は大好きな作曲家なので酒の席もあって話が弾み、鈴木さんがなんと私を招待してくれる運びになったのでした。

さてコンサートは帰米後2日目の夜でした。酷寒のニューヨーク、カーネギーの中ホールであるザンケルホールはほぼ満員でした。大ホールでは例の小澤征爾の復帰コンサートが中日の休みを迎えていた日です。「日本週間」の趣きの中、鈴木さんとクアルテットを組むのはジャズギターの渡辺香津美、アコーディオンのcoba、パーカッションのヤヒロトモヒロの面々。錚々たるもんでしょ。

武満は96年に亡くなりましたが、世界に誇る現代音楽の作曲家です。私は大江のエッセーで彼のことを知りました。高校か大学のころです。で、最初に聴いたのが「エクリプス」。たしかNHKで見たのです。ジャズしか聞いていなかったそのころの私に、それはなによりも先進的で衝撃的でした。エクリプスという言葉の意味も、そのときに辞書を引いて知って、それ以後、忘れられない単語になった。ディカプリオにもそんな映画があって、しかもベルレーヌとランボーですから、なんか、武満から運命的に教わった気さえしたほどです。

さて彼を難解だと敬遠する向きもありますが、ザンケルのこの日は「伊豆の踊り子」や「どですかでん」「他人の顔」などのわかりやすい映画音楽をおおいにアレンジしてたいへんに熱く鋭い演奏会となりました。

鈴木さんもクラシック・ギタリストとは思えぬノリようで、ストロークの音の切れること切れること。それまでテレビでしか知らなかった金髪のアコーディオニストのcobaさんは、テレビから受けた印象とは大違いで鬼気迫る見事な詠いようでした。私もまさかカーネギーで体を揺すり足を鳴らして音楽を聴くことになろうとは思ってもいませんでした。

予定の曲がすべて終了した後はアンコールですが、アメリカ人のクラシックファンをナメていたのか(笑)1曲しか用意していなかったようです。もちろん総立ちの観客はそれが終っても拍手を続けて帰ろうとはしません。その熱い反応に4人はものすごくうれしそうでした。

終演後の楽屋にもお邪魔すると、武満と親交のあった詩人の谷川俊太郎さんもいらしてました。帰宅後、谷川さんのツィッターを覗くと「カーネギーホールで(略)息の合った武満徹を聴いてホテルに戻ったところ、聴衆総立ち拍手鳴り止まず、武満に聴かせたかった。NYは零下、露出している顔が冷たいけど気持ちは元気です。 俊」と呟いていらっしゃいました。

ここは不思議な街です。
「ニューヨーク」という魔法の言葉が、日本の鮨屋でも私と鈴木さんを結びつけてくれました。このコンサートはあまり新聞に載りませんでしたが、私には2010年に出逢ったものの中でベスト3に入る名演奏でした。きっと、生涯でもトップ10に入るはずです。

July 25, 2010

ashes to ashes

ちょいと間が空きました。
NYの長年の友人が手術後の吐血で亡くなってしまって、手術するとなんだかみんな死んでしまいます。まあ、手術しないと生きてられなかったのも確かなんですが。

彼のお葬式にはNY仏教会としては前代未聞の100の花と延べ800人もの人が集まって、「香典袋がどこでも売り切れてしまってて……」と普通の封筒で恐縮しながらお香典を差し出す人も多かったです。NYの日本スーパーや紀伊国屋で売っている香典袋の合計数なんて知れていますが、それでも改めて彼の生前の付き合いの範囲の大きさに感心しました。

式後、初めてブロンクスにある霊園に行って遺体を荼毘に伏しました。ヴァン・コートランド公園の横にあるこれまた大きなウッドローン墓地。きれいなところでした。でも、日本の火葬と違って、返ってくる遺骨は「お骨」というよりも「灰」だそうです。そういや、お骨って、英語では ashes であって borns じゃないんですものね。形の残るお骨はなんだか勝手に舞台裏で捨てられて、さらさらの灰だけが骨壺に入って返ってくるそうです。うちの義経が死んだときもそうでした。ちっちゃなブリキの缶に、さらさらの灰が入ってました。ashes to ashes という言葉もありますし。

合掌。

March 18, 2010

恋する世代

日本産品の海外進出の柱の1つがスシや茶道を取り巻く食文化ですが、もう1つの柱がソニーやトヨタなどがコツコツと積み上げてきたまじめなモノ作りでした。ところが最近それらに元気がない。こないだ、アカデミー賞を見ていて気づいたんですが、トヨタは例のブレーキ問題で自粛したのかCMを1本しか出してなかった。で、それに代わって目立ったのが韓国の現代自動車です。「ヒュンデ」って発音するんですけどね、こっちでは。なんか、ソニーもパナソニックもいまやサムソンに追い越されそうになってるんだか追い越されたんだか、アメリカではそんな日韓の入れ替わりというかせめぎ合いが熾烈になってきています。

で、そんなモノ作りに代わって日本ブランドとして頭角を現して久しいのはキティちゃんや村上隆デザインの「可愛いグッズ」。これはまだ他に脅かされる分野ではない、独壇場です。なんといっても2年前でしたか、中国の観光客誘致で当時の自民党政権が親善観光大使に選んだのはそのキティちゃんでしたから、日本は国を挙げて(意識してかしないでか)そんな日本印の「子供っぽさ」を販促用のアイデンティティとして使ってるのです。

先日、東京で宮台真司や東浩紀らそうそうたる頭脳を集め、その村上隆らの描く「子供っぽい日本」についてのシンポジウムが行われました。そこにパネリストとして招かれたボストン大学で日本文学を教えるキース・ヴィンセントと事前にそのテーマで話をしていて、興味深い現象を知りました。いまアメリカの大学で日本のことを勉強しようとしている若者たちは、80年代のいわゆるバブル経済期とは違って、日本を勉強することが今後の自分の職業人生にとって有利に働くからとかというのではあまりないそうです。そういうオトナの動機を持つ学生たちが専攻しているのはいまや日本ではなくて中国であるらしい。

ただし一方で、日本の経済がこうしてデフレ・スパイラルのとんでもないことになっていても、日本に興味を持つ学生たちの数というのはそんなに減ってはいないそうです。ではどんな学生たちが来るのかというと、その多くはアニメやマンガといった日本の大衆文化のファンたちだというんですね。ま、それは予想に難くない。

そのせいか、日本学科の学生たちというのは、たとえばフランス語や中国語を勉強したいという学生たちとはなんだかすごく違うらしいんですよ。日本留学を希望している学生たちは面接などで日本の、例えば食べ物が好きだ、ファッションが好きだ、ポップカルチャーが好きだとかと言いつつ、ほとんど必ず「日本自体を愛している」と口にするらしいのです。で、しばしばその「愛」は、子供時代からずっと続いているのだと打ち明けてくるんだそう。

そこで、この子たちが「日本を愛してる」と口にするそのなにか強迫観念的な、オタクっぽい感じには何が潜んでいるのか、キースは考えました。

結論は、彼らにとっての日本は単に「どこかもう1つの別の国」ではなく、他には存在しない「どこか違う、約束の地」なんじゃないかということだったそうです。

中国学科の学生たちは中国の経済発展の凄まじさに魅了されている。ロシア学科の学生たちは新興財閥とヤミ経済に好奇心を抱いている。その文化や言語を大人になるために必要な勉強としてとらえているのですね。アメリカのフランス語専攻の学生たちの夢というのもまあ大人っぽさへの憧れでもあって、いまでも例えばパリに住んでセーヌの左岸のカフェでワインを飲んでカミュを読んで、という感じなんだといいます。

ところがいまの日本学科の学生たちは、全部とはもちろん言いませんが、頭までズッポリと日本に恋しちゃってる。そしてこの恋愛感情の奇妙な強烈さは、おそらく彼らが日本文化を自分の子供時代に結びつけていることと関係しているのではないか。というのも、彼らの記憶の最初期は必ずポケモンやセーラームーンを通して日本とつながっていて、それでどこか無意識のレベルで、日本で勉強したら自分のあの幸せな子供時代をもう一度追体験できる、みたいな、そんなふうに想像しているようなフシがあると言うのですね。

今回のこの話に残念ながらオチはありません。その学生たちが今後、日米の双方の社会でどのような役割を果たしていくのかは、まだだれにもわからないからです。いったい、どういう新しい日米関係が彼らの世代を通して出来上がっていくのでしょうね。なんだかすごく興味があります。

February 22, 2010

ワインと日本酒と

いまニューヨークではいろんな分野の日本ブランドの紹介が盛んに行われています。この1カ月だけでも長芋やゆず酢や包丁、醤油やお香や磁器や牛肉などありとあらゆる日本産品が目白押しでした。中でも毎月のように行われているのが日本酒のプロモーションです。そんなところに顔を出すとよく、海外で日本酒をワインのように飲んでもらうにはどうしたらよいだろうかと相談されもします。

これはとても難しい問題です。というのも、じつは日本酒とワインとでは、飲食という文化の中で立ち位置がまったく違うからです。それは、やはりご飯とパンがまったく違うのと一緒なんです。

私たち日本人は基本的に「コメっ食い」なんですね。食事の中心にはご飯があるんです。極端なことを言えば、ご飯を食べるためにおかずがあるんですね。おかずを食べるためにご飯があるのではない。逆です。すべてはご飯のためです。「ごはんがススムくん」というネーミングの良さもまさにそこにツボがあるからです。みそ汁だってスープと違って全部一度に飲むものではないでしょ? その都度口内をさっぱり流して、「さてまたもう一回」とご飯(とおかず)に再度取り組むためのものですよね。つまりはこれもまたご飯のため。

対してパンは、これも極端を言えば、逆に前菜や主菜を食べるためのものなんです。パンを食べることを目的に前菜や主菜を食べるのでは(ほとんど)ない。あくまでも前菜や主菜がメインで、それをよりよく楽しむために、口直しにパンに中継ぎをさせるみたいな感じなのです。ソースをすくうときとかもね。

だから、「主食」っていう概念もよくわからないんです。私たちは学校で「日本人の主食はご飯です」って教わりましたが、でも、そういうのを英語でなんと言うのか、そもそもそういう叙述が有効なのか、どうもしっくり来ないんです。We, the Japanese, live on rice. なんですけど、この live on というのが英語で使うかというと、「アメリカではパンが主食です」ってふうに言えるのか、また、live on の次にくるのがパンなのか肉なのかもじつはよくわからない。少なくとも「ご飯」とか「お米」とかがすんなり出てくるようには常識にはなっていない感じです。

よく、「ひとはパンのみにて生きるにあらず」といいますが、聖書の時代はほかに大した食べ物もなかったんでしょうね。だからそのころはパンはまだ食事の中での主役だったのかもしれません。でもいまは食事をするという意味で「パンを食べたい」と言うひとはいないなあ。日本語だと「ああ、ご飯食べたい」って、「食事したい」という意味と「(パンや麺モノではなく)お米のご飯が食いたい」という2つの意味で常套句ですが。

ワインもそうです。マルゴーとかムートンとかのビッグ・ワインなら違うかもしれませんが、一般的なテーブルワインは前菜・主菜で疲れた味覚(パレット)を立ち直させるためにあります。マリアージュと言ってワインと料理の相性の良さでもっと美味しくするための出会いの演出もあります。いずれにしても基本的には、前菜・主菜を食べるためにワインが存在します。ワインはむしろ日本の食文化の中でのみそ汁と似ているかもしれませんね。

で、日本酒はそうじゃありません。お酒はみそ汁の立ち位置ではなく、ご飯と同じ位置なのです。つまり日本酒もご飯なのです。ご飯同様、日本酒を飲むときは日本酒が主役なのです。食事をするためにお酒を飲むのではなく、お酒を飲むために食事が要るのです。その食事を酒のサカナと言います。漢字で書けば「酒菜(さかな=さけのおかず)」です。なので、お酒のあるときはご飯は食べず、ご飯のときはお酒は飲まない。この2つは基本的に同じもの、「お米」だからです。お鮨とお酒をいっしょにする人もいますが、本当はお鮨にはお茶です。そうじゃないと米と米で重複しちゃう。リダンダンシーです。

ワインとパンにはそういう関係はありません。しかもこういう、ワインを中心にした飲食の仕方はワインではあまりしません。うーん、食事が済んだあとのチーズのコースのときがやや酒飲みの感覚というか、酒と酒菜の関係に似ている感じでしょうか。いや、スパインのタパスとか、日本の酒の飲み方に近いかもなあ。そうね、日本酒って、基本的に小皿料理をお供にするんだな。あと、イタリアのバールでも立ち飲みでいろいろ小皿を出してくれる。でも、日本の会席料理みたいに、本格的な料理がワインを軸として供されるということは、ワイン飲みの会みたいなイベント以外はあまりないように思います。

ですから、ニューヨークのレストランで日本酒をワインのように飲んでもらうには、という問い掛けには、チーズコースとは言いませんが、なにか、食事がメインのコースの後か先にでも、お酒に合う肴の小皿コースを供してもらわねばならないということになりますか。ちょうどお鮨にスイッチする前のお造りの段階のような、そんな新しいコンセプトのコースが必要になってくるのだと思うのです。しかもそのとき、お酒はワインのように右手奥にあるのではなく、食事の皿をも差し置いて、食べる人の直近の中央に位置しなくてはならない。なぜならそこが主役たるお酒の位置なのですから。

このところ、ワインのような大吟醸酒が増えています。これはこれでとても素晴らしいですが、悲しいかな、輸送費がかかって日本で飲む時の倍ほどの値段がします。しかも「ワインのような大吟醸」なら、同じ値段のワインを飲んだ方がよほど美味しいのです。

先日、ある和食のシェフが各界の名士を招待してのディナーイベントで腕を振るった際、日本人の招待客に「まるでフレンチのシェフみたいで格好いいわね」と言われて憤慨していました。

フレンチの方が格好よいというのではなく、和も仏もそれぞれの本来の立ち位置で堂々と存在できる、そういう時代にしていきたいものです。

January 21, 2010

電子ブックと出版革命

アップルのタブレットMacが27日にも発表になるらしいと聞いて、これで日本でも電子書籍販売が加速するんじゃないかとちょっと期待しています。

というのも、電子書籍ってのはデータファイルですから、製本化する必要がないわけで、つまりは手元にあるいろんな原稿を「自費出版」する必要なく「販売」できるってことにつながりますよね。いや、拙文をちまちまと売ろうなんて魂胆ではなくて、じつはちゃんとアメリカで出版されたベストセラーなどの翻訳をしながらも、日本の出版社の都合で急に出版が取りやめになっちゃった原稿がいくつか手元にあるのです。それをどうにかできないかなあとつらつら思っていたのですが、根が無精なもので自分から別の出版社を探すでもなく売り込むわけでもなく、そのままほったらかし。それが出版側のリスクなく、というか出版が必要ないのだから誰のリスクを心配することもなく直接の販路を得ることになるわけで、これって、確実に現在の出版社の機能の大きな一部を削ぎ取っちゃうような、革命的出来事です。

まあ、出版というのは「本になる」といういっしゅ物神崇拝的な実体化を愛でる部分もあるわけで、その意味では出版社のその機能は失われることはないでしょうが、しかしこれはまさしくレコードが電子ファイルになってしまったと同じ流れが著述界にもやってくるということでしょう。

iTunesストアではそういう音楽界のインディーズのアウトプットは受け付けてるんだよね。
でも、大物アーティストたちがレコード会社というかCD会社?にいまもこだわってくっついているのはどういうことなんだろう? ああ、イベントとかプロモーションとかいろいろ抱き合わせでやってくれるからかな。それに、従来からの契約もあるだろうしね。

でも、出版界なんてそんな縛りはない。お抱え作家、なんてものは一時、半村良が「太陽の世界」を角川パッケージで書き続けると宣言したときくらいでしょう(←古い)。

これ、すごいことだなあ。

と思ってたら、先ほどこんなニュースが!!!!

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アマゾン、「Kindle」向け電子書籍の印税を引き上げ--「App Store」と同率に

CNET Japan
文:David Carnoy(CNET News)
翻訳校正:矢倉美登里、長谷睦
2010/01/21 12:24  

 Amazonが「Kindle Digital Text Platform(DTP)」を利用する作家や出版社に支払う印税を、電子書籍の表示価格の70%に引き上げると発表した。今回の動きは、米国時間1月27日にタブレット型端末を発表する可能性が濃厚なAppleに対する先制攻撃なのかもしれない。70%という印税率は従来の35%から大幅な引き上げとなるが、「App Store」でアプリを販売する開発者にAppleが支払う売上配分と同じであり、これは偶然の一致ではなさそうだ。

 Amazonによると、6月30日以降、印税率70%の新オプションを選ぶ作家や出版社は、Kindle向け電子書籍が売れるたびに、表示価格の70%から配信コストを引いた額を受け取ることになるという。この新しいオプションは、既存のDTP標準印税オプションを置き換えるものではなく、追加される形となる。従来の印税オプションは、印税率が35%で、表示価格の65%をAmazonが受け取っている。

 App Storeは、AmazonやBarnes & Nobleといった電子書籍ストアなどが提供する電子書籍リーダーアプリ(Kindleや「Stanza」)のほか、独立型アプリとして何千もの電子書籍を提供しているが、Amazonは、新しい価格体系がAppleがApp Storeで実施している印税プログラムに対応するものであるのかどうかについては、コメントしていない。ただし配信コストは、ファイルサイズに基づいて計算され、料金は1Mバイト当たり15セントになる点は明確にしている。

 Amazonのニュースリリースには以下のような記述がある。「現在のDTPファイルサイズのメジアン(中央値)である368Kバイトの場合、配信コストは売上部数当たり6セント未満になる。したがって、この新しいプログラムでは、作家と出版社は書籍が売れるたびにより多くの利益を得ることができる。たとえば、価格が8.99ドルの書籍だと、作家の手取りは標準オプションでは3.15ドルだが、新しい70%オプションでは6.25ドルになる」

 今回の発表は、印税率70%オプションの適用条件も定めている。このオプションを利用するには、以下の条件を満たしている必要がある。

 *作家または出版社が設定した価格が2.99~9.99ドルの範囲内である。

 *電子書籍の価格が、紙媒体の書籍の最低価格より20%以上安い。

 *作家や出版社が権利を持つすべての地域で作品の販売が可能。

 *テキスト読み上げ(text-to-speech)機能など、「Kindle Store」の幅広い機能に対応している。こうした機能は、AmazonがKindleおよびKindle Storeに機能を追加し続けるのにあわせて増えていく。

 *他店の価格(紙媒体の書籍の価格を含む)以下で提供される。Amazonがこのプロセスを自動化するツールを提供し、70%の印税はこの最低価格を基準として算出される。

 *著作権のある作品が対象で、1923年以前に出版された作品(パブリックドメインの書籍)は対象外。当初は米国で販売される書籍のみが対象となる。

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びっくりするのは電子書籍の印税ってアメリカでは35%もあったってこと。しかもそれを今度は倍の70%にするってことです。

ええええ!? 日本じゃ単行本でもせいぜい売価の10%。翻訳物だと8%。文庫だと5%ですよ。出版不況だから今はもっと安いかもしれない……。つまり2000円の本1つ売れても、日本じゃ書いた人には高々200円(税引き前)しか手に入らないってこと。初版なんて今きっと3000部がいいところだろうから、2000円の本1つ書いて出しても全部で60万円にしかならないということです。これじゃ生きてけないわね。でもこれがアメリカだったら420万円だ。うーん、俄然やる気が出てくるね。

そういやアメリカって、作家がものすごい前払金をもらったりしてますものね。それにしてもこんなに印税取ってたとは知らなんだ。てか、日本の出版社のほうがすごい搾取をしてるってことか。まあ、製本とか抜群にきれいですけど。

でも道理で大手出版社の社員は結構な高給取り。講談社とか集英社とか新潮社とかの社員ってエリートっぽいもんねえ。しかも作家は本を出していただけるところですから下手な文句も言えず、なんせ「東販/日販がこれじゃあ売れないって言うんで」という一言で、はあ、と言わざるを得ない。

ところが自分の時価の販路ができるとあれば話は違います。まあ、宣伝とかは必要でしょうが、私のような、べつに大して売ろうと思っていないのは読みたい/読ませたい人にだけ届けばよいわけで、これはうれしい。これは出版革命ですわ。

アメリカの一般の本屋さんはアマゾンの成長でどんどん閉店しています。統廃合と再編が進んで大手ブックチェーンだけがかろうじて生き残っている。それが今度は「本」そのものがなくなろうとしているのでしょう。もちろんここでも人間の「物」への執着はなくならないでしょうから本屋さんが完全に消滅することはないにしても、商売のメインストリームからは消えてゆく運命なんでしょうね。だからその大手書店チェーンも今、自社チェーンというかサイトでの電子書籍販売システムの構築に躍起になっているのです。

まあ、わたしが考えてるくらいですから日本の関連業者さんはすでに新たなビジネスモデルとビジネスチャンスをねらってがんばっているんでしょうけれど。

もっとも、次のようなニュースも

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Amazon、Kindle向け自費出版サービスを米国外に拡大

【世界中の出版社や個人が、電子書籍リーダー「Kindle」向けのコンテンツをKindle Storeで販売できるようになった。ただし対応する言語は英語、ドイツ語、フランス語のみ】

1月18日10時49分配信 ITmedia エンタープライズ

 米Amazonは1月15日、米国でのみ提供してきた電子書籍の自費出版サービス「Kindle Digital Text Platform(DTP)」を、米国外でも利用可能にしたと発表した。対応する言語は英語に加え、ドイツ語とフランス語。そのほかの言語についても段階的に対応していくという。

 DTPは出版社や個人がコンテンツをKindle Storeで販売できるようにするサービス。HTMLやテキスト、PDFファイルなどをアップロードするとKindleのフォーマットに変換され、Kindle Storeに登録される。書籍の価格は利用者が設定でき、売り上げの35%を受け取ることができる。これまでは米国の銀行口座と米国在住を証明するための社会保障番号(SSN)などが必要だったが、米国外の利用者はそれらの情報を記入せずに登録できるようになった。売上金の受け取りは小切手で行う。

 Kindleで表示できる文字は現状ではLatin-1と呼ばれる1バイトコードのみで、日本語などの2バイトコードに対応する見込みは具体的に明らかにされていない。
最終更新:1月18日10時49分

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日本語という言葉によって、日本はここでも守られて入るんですが、猶予の時間はそう長くはないと思います。

February 05, 2009

アルターボーイズ

このところすっかりブログを更新せずになってました。
なんというか、多忙というほどでもないんだけれど、わたわたと気ぜわしいというか、気乗りがしないというか、だいたい、これとは別の「脂肪肝」ブログもなんだかねえ、どこのレストランに行っても、なんだかみんな同じだなあって感じが付いて回ってすっかりやる気がそげている状態です。

で、じつはいま東京にいます。
オフブロードウェイの人気ポップミュージカル「アルターボーイズ」というのをわたしが翻訳し、歌詞も当てはめ、すべてを日本語の台本にして、この10日から新宿FACEというところで公演するのです。18公演あります。おかげさまでチケットはだいたいはけてしまいました。

そんでこないだからその稽古場がよいをしているのです。
というのも、全12曲ある歌の歌詞がうまくメロディーにはまっているか、セリフが噛み合っているか、いいづらくはないか、これらはやはり現場で動いている俳優たちを見ながらでないと修正できないので、それをやっているのですね。

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登場人物は5人。カソリックの教会の、神の愛を伝えるボーイバンドが日本にもやってきて、コンサート会場のファンたちの迷える魂を浄化する、という設定です。この5人がそのボーイバンドのメンバーというわけです。

不勉強にしてわたし、この5人の俳優というかダンサーというか歌手というか、知っていたのは田中ロウマくんだけでした。リーダー役のマシューには東山義久くん、マーク役に中河内雅貴くん、ルーク役に田中ロウマくん、フアン(Juan)役に植木豪くん、そしてなぜかユダヤ人のアブラハム役に良知真次くんです。

で、こんなに大量のセリフと歌と踊りがあるのに、この5人の日本の若者たちは通常の演劇の準備期間と同じ1カ月の稽古(主催のニッポン放送がタカをくくってたんでしょう)で本番に臨むという、過酷な試練に現在へろへろながらも意気軒昂です。しかしすごい子たちなんだ、これが。

一昨日、初の通し稽古2回。
2回目は衣装やマイクなどを着けての本番さながらのもの。
2回は体力的にだって相当きつい。
なのにそれからセリフと歌と仕草とダンスのダメ出しで夜は10時にもなる。

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2回目の通しで、アブちゃん役の良知真次くんは最後に涙を流しながらセリフを言い、そのセリフを書いた私を泣かせました。うーん、物書き冥利に尽きる。
良知くんっていったい何者? と思ってグーグルしたら、いろいろホームページとかあるんですね。でも、この子は写真に写っている姿形より実物が100倍いい。オンラインにある写真の彼とはぜんぜん違う。その実物のよさをアピールできたら、彼は今後どんどん人気が出て来るんじゃないだろうかって思います。

マーク役の中河内くんはこれまたじつに面白い役者です。ちょいと訳ありな役どころなんですが、きちんと自分の個性の上にその役を載せようとしている。いまどきの男の子の、その「いまどき」な感じが、ステレオタイプに陥っているNY版のマークよりずっといい。キャラが立ってるっていうのですかね。なにより歌も踊りもすごく頑張っているのが、「いまどき」感とのギャップになってじつに興味深いのです。

フアン役の植木豪くんは、見事としか言いようのない体の動きでステージを支えています。演技はもちろんうまいし。5人の中でいちばん年上だというんですが、ときどき10代の男の子に見えたりする不思議な淡さがあるんですね。きっと性格がいいんだろうな。目が合うとニコッとして、おじさんはそういうのにも感動しています。しかし、あんなすごいダンスで、ケガしないかとわたしは気が気じゃありません。本人はいたって平常心なんですが。

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田中ロウマくんは「レント」に続いての(ほぼ休みなしでの)ミュージカルで、さすがな歌を披露してくれます。というか、ソロの部分はもちろん、バックコーラスが彼の存在によって堅固になっている。ありがたいことです。「レント」の時にも指摘したんだけれど、セリフ回しに彼の素の部分が入ってきて、それはアマチュアリスティックな要素ではあるんだけど、彼の場合はなにかそれがとてもいいんだね。これも植木くんと同じく彼自身の性格の素直さなんだと思う。

東山義久くんはこのボーイズバンドのリーダー役です。じっさい、稽古でもみんなにリーダーと呼ばれていて、現実に歌よし踊りよしのオールマイティなプレイヤー。グループのみんなに代わって演出や制作にいろいろ逆提案したりして、それもこれも彼のこれまでの経験がきちんと血肉となっているからなんでしょう。植木くんとはまたひとあじ違うとてもキレの良い踊りと、このミュージカルで最もセリフが多く最も重要な舞台回しを、しっかりとこなしています。プロだねえ。NY版のマシューより色気もあって、彼が日本版のアルターボーイズ全体の日本らしさを支えています。

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この5人、そしてなにより仲が良い。東山くんはみんなへのダメ出し役も買って出ているが、ほかの4人はそれを真剣に聞いているし、そうじゃないときはみんなでじゃれ合ってて、稽古場の雰囲気がすごくいいですね。

さあ、昨日からはバンドが入っての実際の音合わせに移りました。
こまかい遊びやおかずがこれから付け加えられていく。
本番まで、もうあまり時間がなくて、5人の疲労もピークだろうけど、これはなかなかいいステージになりそうです。


November 27, 2008

ウニタの遠藤さん、死去

ウニタ書舗の元店主遠藤忠夫さんの訃報があった。

エリカっていう神田の薄暗い喫茶店で、よく話を聞いたなあ。
あの店、まだあるのかしら。

20年前の当時のぼくは警視庁の公安担当で、遠藤さんには取材で会う必要があったのだけれど、この歴戦の目撃者は妙にひょうひょうとしていてタバコなんぞをくゆらしながら新左翼の連中を温かく批判していた。当時は彼がゆいいつ重信房子なんかの日本赤軍とのパイプ役で、「こないだ重信に会いに行ってきたんだけど」と彼の語るベカー高原だとかゴラン高原だとかは、いまよりもはるかに少ない情報の中で妄想に近い地形となってぼくの頭の中で黄土色の風を吹かせていた。

そういえば彼は北朝鮮の赤軍の連中ともパイプを持っていた。あの大韓航空機爆破事件の蜂谷真由美こと金賢姫の一件でもずいぶんと裏の話を聞いた。あのころの公安は丸岡の逮捕とか泉水の逮捕とか、中核の圧力釜爆弾とか革労協のロケット弾とかスパイ事件もあって、なんでとつぜん思い出したように忙しかったんだろう。 そういえばあれが昭和の終わりだったんだ。

新聞記者のいいところは、新聞記者であるってことだけで業務と関係なくともいろんな人の話を聞けたことだった。記事にならない百万のエピソード。むしろそのほうが大切だったような気がする。

そういう意味では会社勤めのジャーナリストというのはかなり恵まれている。書かないときでも給料をもらえるんだから。わたしもその恩恵をずいぶんと受けてきた。いまでもそれが貯金だし。減らないし。ただ、アップデートは難しいかな。

遠藤さん、享年83歳。
そうか、あのころ遠藤さん、62、3だったんだ。
合掌。

September 22, 2008

アルター・ボーイズの公演ですよ

今年2サイクル目のヘドウィグに続いて、来年2月にまたわたしの翻訳したオフブロードウェイのミュージカル『アルター・ボーイズ』公演が東京で行われます。

http://www.altarboyz.jp/

アルターボーイズ(altar boys)というのは、キリスト教会の礼拝儀式で司祭を助ける侍者の少年たちのことです。で、ミュージカルの中の物語は、このクリスチャンのアルターボーイたちが5人組ボーイバンド Altar Boyz を結成して、世界巡業で歌と踊りの公演布教活動をしているという設定。その旅公演の先々で、神の教えを説きながら聴衆の魂を救うというわけさ。まあ、だいたい全編ボーイバンドのコンサート仕立てですね。これがロックありポップありバラードありヒップホップありラテンありで楽しい楽しい。

で、これがオフブロードウェイ版のCM。

アメリカではボーイズバンドいまちょっと下火だけど、まあその辺も教会ってことでややズレ気味の流行っていう設定か。でも、韓国ではこの韓国版公演がかなりヒットしてたらしいです。あそこもいまボーイバンド全盛だしね。アメリカでもシカゴやLAなどでツアー大盛況、ヨーロッパにも飛び火して、なんとハンガリーとかでもやってるんだわね。その世界サークルの中にこんどは日本も加わる、というわけです。

さてそして、今度こそ、今回こそ、歌はぜんぶ日本語です(笑)。
私がニューヨークの深夜にひとり、毎夜このiMacのキーボードの前でオルターボーイズのオリジナルCDを聞きながら、メロディーとリズムに合わせて日本語の音韻を1つ1つ振り分け、しかもCDといっしょに自分で日本語で歌ってみもしながら、書いては直し歌っては直しして日本語に当てはめた歌詞です。大労作! はあ〜、疲れた。

いやしかし歌詞は難しいわ。英語と日本語では一音節の情報量がぜんぜん違うんだもん。でもそこはあーた、言語フェチのわたし。ほとんど情報をそっくり入れ込んで、なおかつ日本語にして無理のない歌詞に仕上げた。そのへん、適当なところで諦めて原語の意味をばっさり削ぎ落として“意訳+超訳+捏造”してしまうそこらの輩とはわけが違います。えへん。

で、出演者はこの5人。

やたらと脱いでしなってのはレスリー・キーがまたこの宣伝用の写真を撮ってくれたからです。レスリーはとてもいい。
でもおぢさん、正直いうと田中ロウマくんしか知りません……とほほ。
なんせ、NYに住んでるんで日本の芸能界知らないの。
しかしプロデューサーたちに聞いたところによれば、あまりテレビの露出はないけどステージで活躍してるダイヤモンドドッグスというグループのメインの子だとかもいて、なかなか伸び盛りの面白い才能たちらしい。もうすぐわたしも実際に彼らに会ってみます。若い才能が、またこのミュージカルをきっかけに新しく伸びていってほしいです。

ところで、「神の教えを説きながら聴衆の魂を救う」って紹介しましたが、わたしはこの「神」ってのがダメなのですね。まあ、赦してやってるけど。

そのわたしがなぜにこのような物語を翻訳したか、というと、まあ、これ、表向きはキリスト教を題材にしてるけど、随所にいろいろひねりがあって、わかるでしょ、ちょっと違うのです。不信心者の多いニューヨークでヒットしてるってのも、その証左ではありましょう。たとえば、この5人組の中にユダヤ人が1人いるんだよね。ユダヤ人ってのはキリスト教ではなくてユダヤ教なのだ、本来は。その彼が、歌詞を作る才能を買われてこのバンドにリクルートされてる。それからもう1つ、キリスト教といっても、アメリカはプロテスタントが多いんだが、この5人は少数派であるカトリックのボーイ・バンド。ね、ちゃんとマイノリティ問題が入ってるでしょ? そして、そうなれば言わずもがなですが、もちろん、ゲイのテーストも。すべてのマイノリティ問題がこれにかぶさって表現されるわけ。うふふ。キリスト教にはゲイってのはタブーなんだけど、いまどきのショーはTVも演劇も映画もミュージカルも、すべてこのゲイな感じが入らなければ成立しないのかもしれませんね。

いやしかしこれはキリスト教をおちょくったりしてるわけじゃありません。まじめに取り扱っています。でも、それをちゃんとショーにしてる。現代のエンターテインメントとして取り上げているわけで、やはり裏方はかなり知的なんだろうなって思います。まあ、日本ではその辺の宗教的背景も共有されていないから受け取り方もやや違うだろうけど、そのあたりはわたしの翻訳台本でまたちゃんとわかるようになっていますことよ。

まあ、ご覧あれかし。
公演間近になったらリマインダーとしてまた告知します。

September 15, 2008

再び9.11です。

前回のブログで紹介した9.11の再現リポートですが、ほかの原稿も取りまとめて「Still Wanna Say?」のページで載録しました。

ここをクリック

あの事件から1年後にあちこちを取材して再現したものです。
証言集、被害データ、コラムなどもいっしょにしてあります。
写真もあるのですが、サイズの変更など面倒くさいので、それはいずれぼちぼちと。でも、まあ、あまり期待しないで待っててください。

September 12, 2008

9.11ーリプレイ

あの日は朝の7時近くまで仕事をしていて、それからベッドに入ってちょうどいい感じで寝ているところに東京からの電話が入って叩き起こされたのでした。それは新聞記者の後輩で、また与太話でもしようと電話をかけてきてるんだと思って「いま寝たばっかりなんだよ〜」と愚痴ったものです。そうしたら「起きてテレビをつけてみてくださいよ」と言います。「なんで?」「とにかく、テレビをつけて。大変なことになってるんですよ」。
そこでベッドからはい出してテレビをつけると、WTCが映っています。煙が出ている。見ると側面に斜め一文字に穴があいている。

ことがそれほど大事だと思わなかったのは、CNNのアナウンサーも、どの局のアナウンサーも、(こちらのアナウンサー、リポーターはみなそうなのですが)ぜんぜん興奮したそぶりを見せないで淡々とリポートしていたからです。そのうちになんか別の黒いものが画面に現れ、それが背後からもう一棟にぶつかった。

テレビは小さく「あ」とでも言ったのだったろうか。
寝ぼけているわたしには何が起きているのか即座には理解できませんでした。それが生放送であることもじつはよくわかってなかったのかもしれません。

以下が、翌年までに私が取材し、まとめた、あの日に起こったことです。

***

◆09/11 08:46am 
●ブルックリンの緊急通信センター 通信専門員ジャネット・ハーモン

 いつもと同じくよく晴れたきれいな朝だった。ニューヨ−ク市マンハッタン区の東対岸、ブルックリン区にある緊急通報センターで、通報受信オペレーターを15年間務めてきたベテラン通信員ジャネット・ハーモン(53)はいつもの朝のシフトで受信モニターに向かっていた。

 緊急通報センターは日本の110番と119番を統合したすべての種類の緊急電話を受け取る。米国の緊急電話番号は911番。1日平均3万2000件、年間では1200万件近い電話がかかってくる。受信装置はコンピュータと直結した105台。そこに常時最低でも60人が待機している。その背後には多民族都市ニューヨークならではの140カ国語に対応する通訳も控えている。

 そのとき、一本の電話が鳴る。70人ほどがシフトに入っていただろうか、たまたまハーモンがその電話を受けた。そのとたん、「オペレーター、オペレーター!」と緊迫した女性の声がヘッドフォンから飛び込んできた。「お願いだから、どんなことがあってもこの電話を切らないで!」。事件事故の通報を受ける場合、最も肝心なのは相手を落ち着かせることだとハーモンは知っている。「マダム」とあえて低い声でハーモンは応対する。「落ち着いて。どこからかけているの?」。女性が答える。「いまブロードウェイを車で下っているところ。いま、目の前で、世界貿易センターのタワービルに747(実際はボーイング767型機)がぶつかったの! ビルが火の玉なの! わざとぶつかったように見える!」。予断を挟まないこと、聞いたことそのままをコンピュータに打ち込んで、主観を交えないこと。車内での携帯電話なのだろうその女性の声の向こうから、同乗しているらしい男性の声が叫んでいるのが届いた。「全員をよこせと言うんだ! とにかく、警察も消防も全員を出動させてくれと言うんだ!」。

 ジャンボ機がぶつかった? 確認する自分の声がうわずっているのが自分でもわかった。そのとき、周りの受信モニターが連鎖反応のようにいっせいに鳴り出した。当の貿易センターの高層階から「閉じ込められた」と助けを求める電話もあった。応答する70人のオペレーターの声が受信センターのフロアで低く強く渦を巻きはじめた。

◆09/11 08:55am
●ブルックリン橋 NY消防長官トーマス・ヴォン・エッセン

 前夜やや夜更かしをしたせいもあってトーマス・ヴォン・エッセン消防長官はその日の朝のピックアップを8時半でいいと運転手に告げていた。自宅から消防本部のあるブルックリンには、マンハッタン島の東岸を南北に走る高速道FDRドライブを通ってブルックリン橋を渡る必要がある。

 夜更かしをしたのは31年前、初めて消防士になったときに赴任したサウス・ブロンクス区の第42はしご車隊で懇親会が催されたからだ。かつての同僚や師と仰いだ先輩たちと旧交を温めた翌朝の空は、やっとやや秋めいてきたようで爽快だった。そうしてブルックリン橋にさしかかろうとしたとき、何気なく見上げた窓の外に、何かが見えた。

 「あれは、雲かな?」とエッセンは運転手のジョン・マクラフリンに声をかける。ちらと視線を上げたマクラフリンはハンドルを握ったまま「いや、仕事のようですな」と答えた。だが、そのときはまだマンハッタン・ダウンタウンのビル群が視界を遮り、その黒い雲の立ちのぼる場所がどこなのか、見当はつかなかった。

 いったいどこなんだ、と見つめる西の空がビル群の間から覗いた。目を疑った。世界貿易センターの北タワーにぐっさりと穴が開き、そこから炎と黒煙が立ちのぼっていた。

 「なんてこった! 貿易センターに飛行機がぶつかったみたいだ!」とエッセンは叫んでいた。

 そのころすでに、ブルックリンの緊急通報センターのジャネット・ハーモンの打ち込んだコンピュータ情報は出動センターのモニターに流れ、消防本部の指令系統から第2次出動命令が発信された。それは十数秒後には第3次、第4次出動に、そしてたちどころに最大動員の第5次出動に変わった。

 マクラフリンは長官専用車の消防無線のスイッチを入れた。「ワールドトレードセンター、北タワーで爆発」。交信が錯綜する。第5次出動。エッセンは寒気を覚えた。黒く不吉な煙の噴出を見つめながら、「1000人単位の犠牲者……」とつぶやいたことを彼は憶えている。

◆09/11 08:58am
●FDNY ニューヨ−ク市内に位置する212消防署

 NY消防本部は全部で消防車隊が203隊、はしご車隊が143隊、ほかにも泡消火部隊の10隊などで構成され、人員は計1万1500人。その朝の勤務者はおよそその半数だった。夜勤と朝番との交替シフトは朝の9時。だがその日、朝のシフト交替はついに終わらないままだった。

 NY市警の警察官らは「ニューヨークの最たる精鋭たち(Finests)」と呼ばれる。対してNY消防本部(FDNY)の消防士たちには「ニューヨークで最たる勇者たち(Bravests)」という尊称が付いている。あまたの大火災にも恐れることなく立ち向かい、幾多の犠牲者を出してもつねに生活者の味方でありつづける消防士たち。1966年にはマンハッタン・ダウンタウンの「23丁目大火」で一度に消防署長2人を含む12人の消防士が殉職したこともあった。それが過去最悪の出来事だった。

 最初の出動命令は世界貿易センター(WTC)にほど近いグリニッチ・ストリートにある第10消防車隊に出された。「WTCで爆発」との報。その出動命令はすぐさま市内全域に拡大した。ニューヨーク中にけたたましいサイレンとクラクションの音が鳴り響いた。

 通常の火災はまず担当地区の消防車隊が対応し、そこにはしご車隊などが増員される。それで対応できないときはその地区全体の消防隊が「大隊(バタリオン)」として派遣される。それでもだめならより大きく地域(ディビジョン)全体の消防署の出動となる。そしてそれでも困難なら、市内全域の消防士が現場に急行する。しかしそんなことはかつてなかった。

 第一陣の現場到着隊は第10消防車隊を含みいずれもWTCに隣接する地区の消防署だった。夜勤を終えて交替して帰宅するはずだった60人の消防士たちもその中に加わっていた。現場に急行する消防車には通常の2倍の消防士たちが乗っていた。もっとも、午前9時29分には非番を含め市内の全消防士に出動および待機命令がかかったから、すでに非番もなにもあったものではなかった。現場ではだれが出てだれが出ていないかを点呼するゆとりもなかった。無線機も持たずに急行する者も多かった。周辺ビルまでもが炎上しはじめていた。どこから手を付ければいいのか、この道数十年のベテランたちでさえもたじろいでいた。現場は混乱を極めた。だが、混乱を見せてはいけなかった。逡巡を振り切るように、勇者たちは各自行動を起こしたのだ。ある者たちは自分の経験だけを頼りに果敢にタワービル上層階へと階段を駆け上っていった。数千人が避難を待っているのだ。

 まさか、この世界最強のビルがすぐにも崩壊しようとは、その時点ではだれも考えていなかった。

◆09/11 09:03am
●2機目が南タワーに突入

 消防、警察、救急隊の全体が事態の重大さに対応しはじめたとき第2弾が待ち受けていた。マンハッタンの南側から轟音とともに超低空飛行してきた航空機が、今度は無傷だった南タワーに激突したのだ。こちらの衝撃は北タワーよりも甚大だった。飛行機の速度は1機目よりも160キロ速い時速800キロ。総重量160トンのボーイング767は南タワーの78〜84階部分の南東のコーナーを切り裂くようにぶち抜いた。3万6000リットルものジェット燃料がビル内部に注ぎ込まれた。3分の1が衝突時に一瞬のうちに引火し大爆発を起こし、残り3分の2がビル内部で気化して充満するか火とともに伝い落ちていった。おそらく、そのとき何十人という人間たちが熱と圧力で蒸発した。

 南タワーにも即座に第5次出動命令が発動された。北タワーに展開していた消防士たちがここにも駆け込んでいった。数千段もの階段を駆け上がり、内部の数千人を安全に避難誘導するために。

 だが、その時点で両タワービルの火災温度は1100度にも達していた。フロアを支える鋼鉄のトラス群が熱にやられて溶けはじめていた。

 熱と煙に耐えきれず、高さ300メートル以上の上層階から自ら飛び降りる人も続出した。消防士にもすでに負傷者が出ていた。なにより、トラック大の瓦礫が断続的に地上に降り注ぎ、後続隊は燃えさかるタワーに近づくことも難しくなっていった。

◆09/11 09:59am
●南タワー、「もっと部隊をよこせ!」

 2機目でこれはテロだと断じられた。北タワーに1機目が突入した際、南タワーではこちらは被害がないから各自自分のデスクに戻るようにと館内アナウンスが行われていた。だから南タワー上層階で相当数の人々が閉じ込められてしまったのだ。

 そこに真っ先に飛び込んでいったオリオ・パーマー大隊長とロナルド・ブッカ消防隊長が、40分をかけていまやっと78階まで徒歩でたどり着いていたのだった。これまで消防士がたどり着いたのはおそらくせいぜい50階までだったろうと思われていた。だが、翌2002年8月に見つかった無線交信のテープに、激突部分であるまさにその78階で、多数のけが人の救出にあたる彼らの声が分析されたのだ。

 午前9時45分ごろの録音。パーマー大隊長が78階にいたけが人数人を含む10人のグループを41階のエレベータまで向かわせたと連絡している。そのエレベーターが、最後まで動いていたただ一基のものだった。

 南タワーを担当したドナルド・バーンズ指揮官の声も残っていた。「もっと部隊をよこしてくれ!」と何度も繰り返し叫んでいた。しかし、救助に向かった消防士たちは階段を降りてくる避難者たちに行く手を阻まれ、さらにいったいどちらのタワーのどこに行けばよいのかも混乱したままだった。

 14分後、午前9時59分、南タワーが内部へ向けて沈み込んでいった。崩壊速度は時速320キロ。ビル全体が崩落するのに10秒しかかからなかった。パーマー大隊長らの交信はそこで途絶える。41階に向かっていたはずの被救助者たちにとっても、14分という時間は外に出るにはあまりにも短すぎた。

 その直前、ワシントンDC郊外では国防総省にボーイング757が突入していた。さらに午前10時10分、ピッツバーグ郊外では別のハイジャック機が、明らかに乗客の抵抗に遭って突入目標に達することなく墜落した。

◆09/11 10:28am
●北タワーも……2万5000人を退避させて

 午前10時28分、そして北タワーもついに崩落した。立ちのぼる粉塵と炎の下でなおも消防士間の無線交信は雑音混じりで続けられていたが、それらもいっせいに静まりかえった。動けなくなった携帯者の位置を知らせるPASS(個人警報安全システム)モニターの音だけが瓦礫の下から聞こえていた。だが、崩壊とともにそれらは消防士たちの手から放れていた。音の聞こえるところに消防士はいなかった。

 消火用水を供給する水道本管ももう破断されて機能していなかった。近接のハドソン川から消防船が水を供給していたが、それではもちろん十分ではなかった。WTCの計6棟が崩落または炎上していた。約2万坪が燃え上がっていたのだ。

 ピート・ガンチ消防本部長、ウィリアム・フィーハン消防第一副長官、レイモンド・ダウニー救助(レスキュー)本隊長が殉職した。大隊長の18人、消防副隊長の77人も殉職した。第1レスキュー隊は消防士11人を一度に失った。第20はしご車隊は7人、第22消防車隊は4人を失った。消防全体では343人が亡くなった。消防車など装備の損壊損失は4800万ドル(当時レートで5700億円)に及ぶ。しかし、彼らの犠牲によって世界貿易センターの2塔からは計2万5000人が脱出できたのだ。

 火は以後、崩壊した地下で4カ月間にわたって燃え、くすぶりつづけることになる。

July 23, 2008

逝く者、去る者、生きる者

ちょっと前の話になるんですがね、ある年の感謝祭に友人にサウスカロライナの実家まで招待されたことがあります。七面鳥も食べて、さて翌日は私からのお礼ということで、友人のご家族をどこかにお連れしたいと申し出ました。「せっかくですからジャパニーズレストランは?」と提案すると「ああ、あります、あります」と言われて案内されたところが「鉄板焼き」でした。

なるほど、いまでこそ「スシ、サシミ」は有名ですが、いまでもきっと南部や中西部、いやいやニューヨークから少しでも出たら「ジャパニーズ・レストラン」とは「ヒバチ・ステーキ」屋さんのことなのでしょう(こちらではあの鉄板焼きをなぜかヒバチ(火鉢)ステーキって呼ぶんです。火鉢焼きはまた別にちゃんと火鉢のがあるんですがね、謎です)。友人の甥っ子の小学生は、ナイフやスパチュラをくるくる回しながら野菜やエビの頭を宙に飛ばすニホン人ふう料理人に大喜びでした。

15年もニューヨークに住んでいるのですが、じつは私はベニハナに行ったことがありません。ロッキー青木には1、2度会いしましたが、ろくに話もしませんでした。いつかそういう機会も来るだろうとのんびり構えて、敢えてその時を作ろうとは思っていなかった。そうして先日の訃報を目にしたのです。


そんなときに野茂の引退表明も行われました。
彼がこちらに渡ってきたのは13年前の95年でした。その前年から野茂の大リーグ挑戦はメディアで取り上げられていたのですが、それは好意的なものだけではけっしてありませんでした。「世話になった近鉄を捨てて、他の迷惑も考えずに米国に行く自分勝手な恩知らず」、たしかそんな論調でした。それはむろん、そう感じる者が少なからずいたという当時の日本社会の反映でもあったのです。いまでは信じられませんが、石もて野茂を追ったと同じニホン人たちが大リーグでの活躍で掌を返して彼を絶賛したのです。

野茂は批判にもなにも反論しませんでしたが、しかしあの彼の寡黙のどこに、単身アメリカに渡って野球をしなければならないという切実さが秘められていたのでしょう。インタビューでもする機会があったら聞こうと思っていたのですが、当時、その1年後に例の伊良部がヤンキーズに入ってきて、NY駐在の私としてはそっちを取材する機会はあったものの、野茂にはけっきょくいまも会ったことのないままです。

そんなことを思い出しながら、ロッキー青木のことをまた考えました。彼が留学生として渡米したのは48年前、1960年。NYのベニハナ・オブ・トーキョーの開業は1964年だそうです。

私がベニハナに行ったことがないのは、じつはどこかであれはニホンじゃないと恥ずかしく思っていたからです。いま私たちはそういうレストランを「なんちゃってジャパニーズ」って言ってバカにしています。味がどうのこうのというより以前に、まず、コンセプトから鼻で嗤っている。それはでも、ふと思うに、野茂を「ああいうはみだし者はニホン人じゃない」と非難した“世間”と本質的に同じじゃないか?

ロッキー青木が「ニホン」を伝えるためにどんなに必死にアイディアを振り絞ったか、私はその苦労すら顧みようと思ったことがありませんでした。そりゃ大変だったろうに。

そしていまロッキー青木も野茂英雄も、彼らの渡米は、ひょっとすると職業的な野心とか野望とかいうのとはちょっと別の、もっと個人的な、やむにやまれぬ自己実現のなんらかの手段だったのではないかと思い至るのです。

先週末、東京から出張でやってきたTV局の友人と会食しました。NYでとあるイベントを行うその下準備でさまざまな関係者に会いに来たそうですが、その彼が言うには「NYの日本人はみんな濃いですね。日本では周囲の評価がその人を決めるみたいなところがありますが、NYではみんな自分で自分の評価を決めているみたいな」

なるほどそうかもしれないなあ。
自ら選んでこっちで生きている人間はみんなどこかで見果てぬ自己実現を目指し、つまりはみんななんかヘンなやつなのかもしれません。最近の駐在で日本から派遣された会社員たちは違いますが、60年代、70年代にこっちに渡ってきたようなひとたちはそりゃもうひどく濃い。

変なやつって、英語ではweirdoって言います。
もっとはっきり言えば Queer ってことですわね。ふふ。

July 09, 2008

ずいぶんと間を空けてしまった

お久しぶりでございます。(ってだれにいってるんだか)

こういうときに問題なのは、現在いろいろと書くことがあってもまずは順番にこの空白期のことを書き記さねば次に行けないと思ってしまうことで、そうやってウダウダしているうちにいま書かねばならないことも古くなって書く機を逸してしまって、けっきょくは空白期も現在もペンディングのまままた次の月になってしまうってことです。そうして3カ月近くが真っ白いまま。

ということでもうしょうがないからこの間のことをかいつまんで報告しますと、5月は所用で忙しく過ぎ、そんで5月27日から札幌に帰って、ヘドウィグ&アングリーインチの札幌公演を見てきました。わたしの翻訳したこのクイアミュージカルは山本耕史がこの札幌公演でとんでもなく緊張感を持ったパフォーマンスをやってくれて、わたしは自分が訳した自分の決め言葉が彼の口から出るたびに涙を流していました。山本耕史はその月、じつは大阪公演で相手役のソムン・タクが韓国に一時帰国後書類不備で再入国できないという事故に見舞われて、急きょ代役を立てたもののほとんどこの劇を一人芝居にして演じるという、ぎりぎりの選択を迫られていたのです。

結果、わたしはこの俳優をこころから畏怖することになりました。ふだんはほんと、いまどきの若者、なんですがね、さすが子役から鍛えられているというか、プロフェッショナルとして背骨というか気骨というか、そういうものを持ち合わせた役者でした。歌もビックリするくらいうまいし。これは日本の役者としてじつに珍しい資質です。

ということで北海道で母親と一週間を過ごし、それから3日に東京に移動して、こちらではメリル・リンチ・ジャパンで2度、社内講演を行いました。「ダイヴァーシティ委員会」というものを社内に設置したのだが、その中でLGBT問題だけがきちんと説明してくれる人がいなかった、ということで私に白羽の矢が立ったわけです。この講演の内容はいずれアップします。

それからヘドウィグの東京公演ファイナルを厚生年金で行い、あ、そのまえにわたしの大切な人の芝居をこれもやはり2度ほど友人たちを誘って観に行って、それからオリジナル・ヘドウィグであるジョン・キャメロン・ミッチェルを迎えるためにまずはソウルに一泊で出向き、そして成田で彼らの一行3人を出迎えて、ヘド・コンサートのために通訳として東京でアテンドしておったわけです。

ヘド・コンサートは中野サンプラザで21日の土曜日に行われましたが、大変な盛り上がりと劇的な構成で大好評でした。詳細はきっとあまたあるヘドファンたちのブログで明らかになっていると思います。

ということで、キャッチアップ終わり。

おまけ写真。ヘドコンサート後の打ち上げパーティー。左から中ちゃん、ジョン、耕史くん。

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©北丸雄二(無断で転載はしないでください。法律違反になりますよ)

September 20, 2007

おもうわよ!

毎日チェックしているブログの中でも、なんといっても舌を巻くのは「きっこの日記」です。

ほかのチェック先はだいたい学者のとかジャーナリストとかので、まあ、そいつらは立派なこと書いてあってもそれでカネもらってる職業上の延長の話だからそうだろうそうだろうと思うだけなんだけど、「きっこの日記」はそうじゃないんだわね。一介のフリーの美容師のおねえちゃんが、とんでもないネタを披露する。ネタだけじゃなくて俳句からパチンコから釣りからF1からキュウリのキュウちゃんまで信じられないくらい幅広いのね。ご存知でしょうけど。

尊敬する人の欄に私は「きっこ」と書きたいくらい(母親の名前と同じでもあるの、はは)。

で、ふつうは意地でも(笑)むやみに引用したりはしないのですが、本日の日記には泣きました。

http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20070919

東京の離島、青ヶ島では、お別れのとき、「さようなら」とはいわないらしいです。別れの挨拶は「おもうわよ」っていうんだってさ。きみと別れて離れても、きみのことを「おもうわよ」。ずっとずっと「おもうわよ」。

思う、想う、憶う、念う、面う。

「おもう」の語源はあなたの顔=面(おも)なんだということも民俗学者の菅田正昭さんのサイトを挙げて紹介しています。
つまり、きみの顔を頭に描くこと、きみのことを念うこと。
死んでゆく人にだって、「さようなら」じゃなくて「おもうわよ〜!」だ。

離れ小島で、島を出て行く人には本当にもう二度と会えないかもしれない、そんな環境がこの言葉を産んだんだろうかなあ。別れとは、引き裂かれる思いを記憶によって繋ぎ止める始まりのことを指すのかもしれないね。

これから、「さよなら」とか「じゃあね」とか「バイバイ」とかの代わりに、「おもうわよ〜」って言うことにしようと、心に強く誓う私であります。

美しい言葉。「美しい」というのは、こういうときに使う。

** 蛇足**「おもうわよ」のエピソードで思い出した詩。たしか、寺山がどっかで紹介していたのを憶えたんだっけ……。

夜のパリ
     ジャック・プレヴェール

夜のなか つぎつぎ点ける三ぼんのマッチ
最初のはすっかりきみの顔を見るため
二ほんめはきみの目を見るため
最後のはきみの唇を見るため

のこった闇はそれらすべてを思い出すため
この腕にきみを抱きしめて。

May 10, 2007

瀬戸内寂聴と小田実

寂聴さんが、こんなことを書いていた。
涙が止まらない。くそ。酔っぱらってるせいだろう。
同時に、寂聴に、嫉妬している。こんな文章。こんな手向けを書けるのだなあ。

東京新聞からの引用。ほんとは著作権のことでこういうことはだめなんだと思う。でも、人の死の前で、著作権も何もないだろう。

無断引用御免。

東京新聞_2007年05月02日 夕刊文化面

あしたの夢 瀬戸内寂聴

小田実さんとの仲

 小田実さんとの交友は旧(ふる)い。小田さんが『何でも見てやろう』のベストセラーをだしたころ、もうお友だちの一人だった。今でも鮮明に覚えているのは、私が東京・御茶ノ水の駅から駿河台の坂を下りていったら、下の方から小田さんが上がってくるのに、ばったり出逢(であ)った。
 坂を上がってくる若き日の小田さんがとてもいきいきと魅力的だったことも忘れていない。ベ平連の運動で代表者として華々しく活躍しているころは小田さんの周りは若い知的な女性たちが群れ集っていて、時代の思想的ヒーローのように見えた。

 巨(おお)きな体に無造作に服を着て、マフラーを巻きつけただけのスタイルが、粋に見えたのである。女性のファンは小田さんの文学より、存在感に憧(あこが)れている人の方が多いように見えた。つまり、七〇年安保時代の市民の良心の象徴として、大げさにいえば神さまであった。すでに混迷の相を表していた世相の中で、若者たちは、力強い指導者を求めていたのだ。大きな声で、自分の信念を自信を持って語る小田実は、その頼もしい風貌体躯(ふうぼうたいく)とともに、頼りがいのある男として、安心感を人に、特に女に与えた。そして全身に不思議な色気があった。

 この魅力的な小田実と大方半世紀に及ぶつきあいの中で、一度も艶(つや)めいた関係に及んだことはない。いつでも相方に恋人がいたためでもあろうが、恋の相手より、もっと肉親的な友情につながっていた。

 映画界で最高の人気スターの岸恵子さんが、小田さんの本を読んで感激して、逢いに行ったことがある。その時、小田さんは病気で、徳島のお兄さんの病院に入院していた。恵子さんは東京から徳島まで飛んで行ったのだ。岸恵子さんは文学好きで読書家だったから、小田さんの本に興奮したのだろう。

 さて、病室に入って恵子さんはいかに小田さんの本に感激したかを、熱っぽく伝えた。一時間もいたのか、やがて暇(いとま)を告げた岸恵子さんに向かって、ベッドの小田実が言った。

 「ところで、あなたはどなたですか」

 この話は、たしか、小田さんからじかに聞いた。その後、フランスの岸さんのところへ小田さんが訪ねている。帰国した小田さんと、また街角でばったり逢った。小田さんの服は、ぐっとセンスがよくなって別人のようだった。

 「わっ、岸恵子に磨かれて変身しちゃった!」

 私の言葉に、にやっとして、小田実は幸福そうな笑顔を見せた。

 小田さんが玄順恵さんと結婚した時、たくさんの女たちが失望したのを聞いている。小田実が普通の男のように結婚するなんて! 彼女たちは怒っていた。

 新妻を私は小田さんから紹介された。美しい聡明(そうめい)な若い彼女は、小田さんを惚(ほ)れきったまなざしでうっとり見つめ、幸せそうだった。小田さんの甘い表情も幸福そのものだった。二人の間にならちゃんが生まれた。

 私が敦賀の女子短大の学長をしていたころ、講演会の講師として小田さんにお願いした。小田家三人家族がそろって敦賀入りしてくれてとてもうれしかった。

 先年、岩波書店から、同じ一九二二(大正十一)年生まれの鶴見俊輔さん、ドナルド・キーンさん、私の鼎談(ていだん)形式で『同時代を生きて』という本が出版された。その時、鶴見さんとキーンさんが小田実について、実に熱烈な好意を持って、文学と人となりを語ってくれた。私はなぜか自分の出来のいい弟か息子をほめられているようで幸福な気分で聞いていた。

 小田実から突然、長いファクスが届いた。体調の悪い中、フィリピンで起きている民衆の弾圧を告発する「恒久民族民衆法廷」の判事の一人としてオランダのハーグに出かけたり、古代ギリシャの民主主義と自由を裏から支えた植民都市を訪ねてトルコに出かけたりしていた小田さんが、がんの宣告を受けたという。私はあわてて電話をいれた。

 「もう手遅れと医者はいうんや、もっと生きたいよう、死にとうないわ。寂聴さん、元気になるお経あげてや」

 声は明るく冗談めいていた。私は絶句して、泣いていた。(せとうち・じゃくちょう=作家)

May 09, 2007

小田実のことなど

小田実があと数カ月で死ぬのだという。胃がんが、けっこう末期のものが、見つかったとニュースになっていた。小田が死ぬのか。そういう時代になっていたんだ、と思った。物理的にも、思想的にも。

そう思ったのは数日前にこのニュースが報じられたときに、ミクシの中でその死に関して言挙げされたさまざまな連中の言辞の醜さからだ。こういうのはいまに始まったことではないから特筆するようなことでもないだろうけれど、小田は90年代か、「朝まで生テレビ」に出ていたらしく、それで新しい世代を、いい意味でよりも悪い意味で引っ付けたんだろう。きっと連中は、「実」が「まこと」と読むことも知らなかったりするんだろう。悪貨は良貨を駆逐する。

学生時代、東京に出たてのころは何でも珍しくてよくいわゆる有名人文化人知識人の講演会なんぞに出かけていたものだ。小田はそのころ岩波から「状況から」という同時代時評を出して、それは大江の「状況へ」という本とカップリングになっていて、この「から」と「へ」の助詞の相違がこの2人の立場の相違を表しているようで面白かった。「状況から」はとにかく現場主義だった。具体例にあふれた行動主義の本だった。そんな小田の話を何度か直に聴きにいった。

小田実の思想はアメリカの草の根民主主義のいちばんの実践主義的な理想を体現したものだった。日本の戦後民主主義の文化人がみんな、というかほとんどが、青っちろいアカデミアからのそりと首を出して何かを言っては言いっぱなしだったのに対して、このひとはとにかく体を張ってた。知識人が男らしくても、いや、こんなに雄々しく熱く勇ましく怒りに満ちていてもいいのだということを教わったのはこのひとからだった。「世渡り」ではなく「世直し」だということも、このひとの本から発想した。このひとは言うことはみごとに人道的な優しいものなのに、「殺すな!」というその柔さの背後にじつに硬派なマチズムがあったわけだ。マチズムはふつう、「殺せ!」に向かうはずなのにね、このひとのマチズムに裏打ちされた「殺すな!」は、だからいまでもだれも論破できない。というか、それを見越して発されたタイトルだからさ。そのことをいま、どれほどの日本人が知っているんだろう。小田に匹敵するのは、いまじゃ一水会の鈴木邦男くらいかもしれんなあ(笑)。

あの当時、喧嘩の仕方はこの人と中上健次と吉本隆明から教わった。3人とも個人的にはとてもやさしい人で、照れ屋で私語がへただった。なのにいったんペンを取って敵を叩くときはじつに徹底していた。中上さんはペン以外でも叩いてたけど。そうして完膚なきまでに、逃げ道もすべて塞いで追いつめる。それは呆れるほどに爽快な職人芸だったし。んで、この3人はそう仲がよいわけではないというのも知っていた。大人って面白いなあって彼らを眺めながら思ってたもんだ。あはは。

小田のニュースがあったと同じ日、朝日のニュースで次のようなのがあった。

**
後ろに座る学生、教員に厳しく自分に甘く 産能大調べ
2007年05月05日13時13分

教室の後方に座る学生はテストの成績は悪い一方、講義への評価は厳しかった──。産業能率大(神奈川県伊勢原市)の松村有二・情報マネジメント学部教授が約140人の学生を対象に調べたところ、そんな傾向が明らかになった。自由に座席を選べる講義では、前に座る学生ほど勉強に取り組む姿勢も前向きのようだ。
(中略)

試験では、前方の平均点が51.2点だったのに対し、後方は30.9点と、20点以上開いた。一方、授業評価では、「配布資料の役立ち具合」「教員の熱意」「理解度」など全項目で前方より後方の方が厳しい評価をした。後方グループには、教員に厳しく、自分に甘い姿勢がうかがえる。
(後略)

**

なんだかネットでギャーたれているやつらの印象と重なる。挑発の言葉だけがお上手。ところがみなさん二の句が続かない。映画のセットと同じ。看板やファサードのカッコよさだけを気にして、組み立てを気にしない。四六時中パンチラインだけを拾い集め、単文でしか話が出来ない。まるで玄関の呼び鈴押しのイタズラみたいに一発ぶちかましてさっと身を隠す。そうやって相手をけなすことだけで自分が何者かであるような、その効果だけに縋って生きている。

そうせざるを得ない生き方というのもあるのだろう。もうやり直しのきかない人生。そうやって憂さを晴らすしかない人生。

話はどんどん飛ぶけれど、やはりこれも昨日TVジャパンでやっていたNHKの憲法9条をめぐるドキュメンタリーで、若者たち、フリーターたちで戦争を望む連中たちの声を紹介していた。もうこんなにガチガチに社会が決まっていて自分たちはもう浮き上がる術もない。あとは戦争にでもなってみんなめちゃくちゃになればその暁にはどうにかなるのではないか、という見通し。

そういうのはむかしからある。一発逆転願望。ただし戦争の影がまだ長く伸びていたころにはそれは革命願望だったりした。それから終末願望。勉強していないテストの前夜に大地震が来て学校が壊れればいいのにと妄想したり、核ミサイルで世界が終わりになればどうにかなるんじゃねえかと思ったり。

でも、自分から進んで戦争にするというのはなかったなあ。
マイクを向けられていた30くらいのフリーターの1人は9条が変わったら軍隊に入って職業訓練にもなるし、とか言っていた。いますぐにでも自衛隊に入ればそんなのもすぐに手に入るという選択肢は彼にはないんだろうか。

戦争、戦争。
戦争はするまでが花。
してしまったらみんな後悔する。
だいたい、死体も見たことのない連中がいちばん勇ましく、死体への想像力がないものだから実際にそれを目の当たりにしたら吐く。
あるいはショックで思考停止になる。
で、その後は死体愛好になるか、というと、あまりそううまくは事は運ばない。みんな心に傷を負って壊れていくのだ。そうしてその回復途上で反戦を唱えるようになる。そのときは遅い。あるいはすでに時代はぐるりと一巡してる。あわよく生き延びたひとびとの周りで友人たちはもう亡くなっている。石原慎太郎が制作総指揮をしたという「俺は、君のためにこそ死ににいく」とかいう戦争映画のタイトルの、すでに破綻したはずの論理のゾンビさ具合よ。やれやれ。
まあ、この映画がヒットするほど日本人はどうしようもないとは思っていないが。しかし岸恵子もなんでこんなのに出たんだろう。私が愚劣だと言っているのは「特攻の毋」のことではない。この映画を作る連中の意図のことだ。

しっかし、小田も体調悪いときにどうして病院行かなかったかなあ。胃がんなんて定期検査して早めに見つけられるのに。早めに見つかれば治せるのに。まったく、なあ。残念だなあ。手術も出来ない状態だって、どうしてそれまでほうっておいたかなあ。

小田は、人間は畳の上で死ななければならないって言っていた。それが人間の死だ、と。しかもそれは畳の上で胃がんで死ぬことではなくて、きちんとしっかり平和に死ぬということのはずだったんだよね。

無念だなあ。
本人はそんな素振りはおくびにも出さぬだろうが。

May 07, 2007

World Index 更新しました

先月発売のバディ連載コラム掲載のワールドインデックス、更新しました。
上のバナーの「World Index」をクリックして飛んでください。

今回は、NBAでカムアウトしてCM契約を獲得した元選手アミーチと、そのカムアウトに対してホモフォビックなコメントを発してCMばかりかイベントの参加も降ろされた元選手との比較考察です。

April 05, 2007

ワールドインデックス更新しました

今回は目前の統一地方選挙、および7月の参院選挙を前に、LGBTと政治との歴史と意義を書いてみました。
上のバナーの「World Index」をクリックして飛んでください。

March 07, 2007

ニューヨーク帰還

ほぼ1カ月の日本滞在からさきほどNYの自宅に戻りました。
今回は今年秋と来年に出す本のこと(LGBTとはぜんぜん関係ない本なんですが)と、ヘドウィグの公演と、それと4月の統一地方選に出る候補に関連して、いろいろと忙しく過ごしていました。

そんな中、ヘドウィグの歌詞に関して、「あるヘドヘッドな方」から私の訳詞の一部について次のような貴重なご指摘がありました。

ヘドウィグの訳詞の中、Midnight Radioの部分で一カ所、気になる部分がございました。
Here's to Pattiのパティは、パティ・ラベルではなく、パティ・スミスのことではないでしょうか?
なぜかというと、ジョン・キャメロン・ミッチェルは色々な取材に対して、パティ・スミスのことを語っておりますので。たとえば、この記事などです。
http://www.amazing-journey.com/htm/hedwig/h-vv-398.htm


いやはや、頭が下がります。
たしかにこれを読むと限りなく「パティ・スミス」ですね。
パティ・ラベルもものすごいゲイ・アイコンの歌手で、私はてっきりラベルのほうだと思い込んでいてパティ・スミスの名前は横切りもしませんでした。ごめんなさい。
さっそくブログにあげた訳詞を差し替えておきました(差し替えが反映しない人はキャッシュが残っているせいです。reloadしてみてください)。
ご指摘くださったNさん、ありがとうございました。ほんと、翻訳って全方位の情報が必要っす。

でね、甘えついでに次に続く「ノナ」と「ニコ」についてもご存じではないかとNさんにお訊きしたところ、

一方でノナとニコについては、まだジョン本人の言葉がみつからないので、何とも。推測では、Nona Hendryx?とか(とすると、パティ・ラベルとも近いですね)思いますし、Nicoはおそらくかなりの確率でVelvet UndergroundのNicoに違いないだろうな、とも思うのですが、断定するのはちょっと怖いです(特に、Nonaはほかに見当たらない、という程度の類推でしかありませんので)。

とのご回答。すばらしい。
これもみなさん、参考になさってください。

えっとー、それから、中野で「石坂わたると多様性のある中野を作る会」という、石坂さんの中野区議選への意欲を受けた学習会があってね、そこで「セクシュアリティと政治」というテーマで1時間ほど話をしましたが、それがakaboshiさんという(ビデオ)ブロガーの方の尽力でYouTubeにアップされています。「北丸」で検索すれば出てくるのかな?
ってか、以下のakaboshiさんのブログでもまとめて見られますね。

フツーに生きてるゲイの日常

興味のある方はお時間おあるときにでもどうぞ。

ニューヨークはただいま零下10度です。信じられない寒さ。ひー。

March 02, 2007

World Index 更新しました

先月発売のバディのコラムを掲載しました。

いまとなってはやや旧聞に属してしまいましたが、柳沢発言を取り上げています。
http://www.kitamaruyuji.com/worldindex/

February 17, 2007

ヘドウィグ訳詞集

M1 TEAR ME DOWN=あたしを倒してみるがいい

あたしを生んだのはあっち側よ
二つに裂かれた町のあっち側
それでもあの分断の壁を乗り越えて
あんたのとこに行くわ

敵やら何やら押し寄せて
よってたかって引き裂こうとするの
あたしがほしい? ベイビー、だったら
やってみてよ、引き倒してみてよ

あの医者の手術台から立ち上がったのよ
墓の穴から立ち上がったラザロみたいにね【訳注:イエスが死からよみがえらせた】
そしたら今度はみんなが立ち上がって
あたしをナイフで彫り込んだりするの

血と唾にまみれた落書きで

敵やら何やら押し寄せて
よってたかって引き裂こうとするの
あたしがほしい? ベイビー、だったら
やってみてよ、引き倒してみてよ

***

M2:愛の起源(THE ORIGIN OF LOVE)

地球がまだ平らで
雲は火でできていて
山が空に向かって背伸びして
ときには空よりも高かったころ
人間は地球をゴロゴロと
大きな樽みたいに転がってた
見れば腕が二組と
脚も二組あって
大きな頭には顔も二つ
付いていて
それであたりが全部見渡せて
本を読みつつ話もできて
そして愛については無知だった
愛がまだできる以前のこと

愛の起源

そしてそのころ性別は三つ
ひとつは男が二人
背中と背中でくっついたやつ
そいつらの名前は太陽の子たち
それと同んなじ形して
地球の子らというのもいたの
見た目は二人の女の子
それが一つになったもの
それから月の子供たち
ちょうどスプーンに挿したフォークみたいで
はんぶん太陽はんぶん地球
はんぶん娘ではんぶん息子

愛の起源

そのうち神々が怖れだした
人間の強さと不敵さに
それでトールがこう言った
「おれが皆殺しにしてやろう
このおれの大槌(おおづち)で
あの巨人どもを倒したときみたいに」
そしたらゼウスが言葉を継いで
「いやいやおれにやらせておくれ
この雷(いかづち)をハサミに使って
クジラの足をちょん切ったときみたいに
恐竜たちを小間切れトカゲに変えたときみたいに」
それからおもむろに稲妻をつかみあげ
一回、ガハハと笑ってから
いわく「おれがやつらをまっぷたつにしてやろう
上から下に引き裂いて半分にしてやろう」
そしたら頭上で嵐の雲がもくもくと
集まりやがて大きな火の玉

そこから炎が稲妻になって
真っ逆さまに落ちてきた
光はじけるナイフの
刃(やいば)
それが切り裂く
一直線の肉体
太陽の子ら
月の子供ら
地球の子供ら
そこにインドの神まで現れて
傷口を縫って寄せて穴にして
おなかの真ん中にもってきた
この罰の大きさを忘れないように
次にオシリスとナイルの神々が
雨風をまとめあげて
ハリケーンを巻き起こし
あたしら人間をちりぢりに吹き飛ばした
風と雨は荒れ狂い
高波までが襲ってきて
人間はもう流されバラバラ
それでもよい子にしてないと
またまたもっと切られてしまう
しまいにゃ一本足で飛び跳ねて
目玉一つで見なきゃならなくなる

このまえあなたを見たときは
あたしたちはちょうど二つに裂かれたばかり
あなたはあたしを見つめてて
あたしはあなたを見つめてた
なんだかすっごく懐かしい感じがしたけど
でもそれがなんだか分らなかった
だってあなたの顔は血みどろで
あたしの目にも血がしみて
でもぜったいに分ったの、あなたのその感じで
あなたの心の底にある痛みは
私のここにあるのと同じもの
この痛み
一直線の切り込みが
心臓をまっぷたつに貫いてる
それをあたしたち、愛と呼んだわ
だからたがいに腕をまわして
どうにか元どおりに一つになれないかと
けんめいに抱き合い愛を交わした
愛を交わした
冷たく暗い夜だった
もうあんなにむかし
ユピテルの無敵の手でもって
あたしたちがどうやって
二本脚のさみしい生き物になったのか
それは悲しい物語
それは愛の
起源の物語
それが愛の起源
愛の起源

***

M3 シュガーダディ

あたしはめっちゃ甘党で
リコリスドロップ、ジェリーロール、大好き
ねえ、シュガダディ
ハンセルはボウルにシュガーが欲しい
テーブルクロス敷いて上等の陶器を並べ
クローム銀器をこすってあげる【訳注:ベッドの上でのセックスを暗喩】
もしシュガーが手に入ったら
シュガダディ、あたしのとこまで持ってきて

黒くドロドロしたモラーシス(糖蜜)
あんたはあたしの蜂蜜クマさん
あたしにヴェルサーチのジーンズを買って
下着はデザイナーズの黒がいいな
ドレスはミラノやローマの
ディスコ狂いのジェット族ふうに【訳注:自家用ジェット機で遊び回る金持ち連中のこと】
もしシュガーが手に入ったら
シュガダディ、あたしのとこまで持ってきて

オー、人を操るスリル
ロックンロールの興奮と同じ
最高に甘い陶酔ね
だからがんばってよ、シュガダディ、持ってきて

ミツバチたちがお買い物
そいつは見もの
野の花たちに群がって
女王様のために蜜を集める
もらえるものなら何ででも
あたしは蜂蜜みたいにとろけちゃう
もしシュガーが手に入ったら
シュガダディ、あたしのとこまで持ってきて

オー、人を操るスリル
ロックンロールの電撃と同じ
最高に甘い陶酔ね
もしシュガーが手に入ったら、あたしのとこまで持ってきて
だからがんばってよ、シュガダディ、持ってきて

ウイスキーにフランス煙草
高速ジェットエンジン付きオートバイ
電動歯ブラシにフードプロセッサーも必要
それにアレルギー処理したわんちゃんも欲しい
現代の贅がすべて欲しい
リリアンヴァーノンの通販カタログ【訳注:家庭用品全般の通販ブランド】
全ページ全商品をあたしにちょうだい

ルーサー:「ベイビー、一つ考えた。おまえにバッチリ似合うはず。ヴェルヴェットのドレスにハイヒール、それにアーミンの毛皮のストールなんてどうだい?」

ハンセル:「オー、ルーサー、ダーリン。言っとくけど、ぼく、女の服なんか着たことないよ。たった一回、ママのキャミソールは着たことあるけど」

じゃあ男を本当に愛せるのは
女だけだっていうわけ?
じゃああたしにドレスを買ってよ
女以上になってやる
あんたみたいな男だっていちころ
チョコレートの貝殻に立ってるあんたのヴィーナスよ
マシュマロの泡々の上にあたしの姿よ
だからシュガーが手に入ったら
シュガダディ、あたしのとこまで持ってきて

人を操るのがあたしらの伝統
エリック・ホーネッカーやヘルムート・コール【訳注:前者は東ドイツの国家元首、後者は西ドイツの首相だった人】
ウクライナからローヌ地方まで
優しき祖国はすべてを支配する
主よ、あたしもいまその仲間!
だからさ、シュガダディ、あたしを祖国に連れ帰って!

***

M4 怒れる1インチ THE ANGRY INCH

あたしの性転換は大失敗
あたしの守護神は居眠りしちゃって見逃した
そんであたしのお股はバービーの穴なしお股
おまけに怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ
6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ

あたしの出身は嘆きの国
あたしはうんざり、ぜんぶを切り離したかった
そんであたしは名前を変えて変身を試した
そしたら怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ
6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
列車がもう来るっていうのにあたしは線路に縛られて
起き上がろうとするんだけどぜんぜん緩まない
だから怒れる1インチ、怒れる1インチ

母は粘土で乳首を作ってくれた
彼氏はあたしを連れ去ってくれると言った
そんであたしは医者に引きずって行かれ
けっきょく怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ
6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ

手短に話すわ
まんまの意味で
手術を終えて目覚めると
下のほうから血が出てた
お股のあいだの裂け目から血が出てた
あたしの最初の女の日が
いきなり初潮の日になった
でも二日したら
穴は閉じて
傷は治って
そしてあたしの
お股に1インチのお肉の突起
あたしのペニスがあったところ
あたしのワギナがないところ
お肉の1インチの突起、傷がズッパリ入ってて
まるで目のない顔の
そっぽを向いたしかめっ面みたい
ちょっぴり突起
それが怒りのアングリーインチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
列車がもう来るっていうのにあたしは線路に縛られて
起き上がろうとするんだけどぜんぜん緩まない
だから怒れる1インチ、怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
隠れてるんだ、夜が真っ暗になるまで
あたしには1インチ、攻撃準備完了
だから怒りのアングリーインチ、アングリーインチ

***

M5 箱の中のカツラ WIG IN A BOX

こんな夜には
世界もちょっとずれちゃって
明かりも消えて
真っ暗なトレーラーパーク
横になれば
だまされた感じがして
気が狂いそうになって
そのときタイムカードにパンチの時間
メークをして
テープを流して
そんでまたカツラを頭に戻す
はい、ミス中西部の出来上がり
真夜中のレジの女王
それが家に帰るまで
ベッドに潜るまで

出てきたところを振り返る
出来上がった女の自分を見ている
世にも奇妙なことが
いつかふとありきたりに変わる
ベルモットのオンザロックから目を上げれば
ギフトラップのまんまのカツラが
ヴェルヴェット模様のひょろ長い箱の中

お化粧をして
ラヴァーン・ベイカーをかけて【訳注:R&Bの歌手】
棚からカツラを引っぱり降ろしてくれば
はい、ミス・ビーハイブ1963年の出来上がり
目が覚めて我に返るときまで

普通の女の子ならお気楽に
好きなようにカツラをつける
フレンチカールで派手にして
香水付き雑誌も手に持って
かぶるのよ
載っけなさい
それがいちばんいい方法
すてきに見えるベストウエイ

メークをして
テープをかけて
棚からカツラを引っはりおろせば
はい、ミス・ファラ・フォーセットの出来上がり
テレビでおなじみ
目が覚めて
我に返るまで

シャギーカット、段カット、ボブヘア
ドロシー・ハミル・スタイル
ソーセージ巻き、チキンウィング結び
それもこれもあなたのため
ドライアーをかけて、フェザーバックにして
トニ・ホーム式ウェーブもかけて
フリップヘア、アフロヘア、ちりちりカール、フロップヘア
それもこれもあなたのため
それもこれもあなたのため
それもこれもあなたのため

メークをして
テープをかけて
棚からカツラを引っぱりおろせば
はい、パンクロックのスターの誕生
ステージや映画の
もう戻らない
あたしは前には戻らない

***

M6 邪悪なこの街 WICKED LITTLE TOWN

きみの瞳には太陽が宿る
ハリケーンも雨も
暗雲たれ込める空も

あの丘を駆け上がったり駆け下りたり
気分次第でノッたりダレたり
夢中になれるもんなんてここにない
落ち込む理由もないけど
ほかにしようがないなら
ぼくの声をたどればいい
暗がりの向こう側
邪悪なこの街の騒音を越えて

オー、レディー、運命がきみを連れてきた
やつらはひどくねじれてるから
きみをダメにしないか心配だ

信仰、憎悪、献身的
きみは裏返っちゃうまで客を取り
風は焼けるように冷たい
きみはやけくそ、くわえ回り
ほかにしようがないなら
ぼくの声をたどればいい
暗がりの向こう側
邪悪なこの街の騒音を越えて

運命は意地悪、冷酷至極
きみは覚えが悪いから願いは二つ使ってしまった
バカみたい

そのうちきみはきみでなくなる
ジャンクションシティは意味がなくなる
ソドムのロトの奥さんみたいに
振り返って塩の柱になっちゃったあの女みたいに
ほかにしようがないなら
ぼくの声をたどればいい
暗がりの向こう側
邪悪なこの街の騒音を越えて

***

M7 長いインチキ THE LONG GRIFT

あんたがしてくれたこと
このジゴロ野郎
あたしが惚れてたのを知ってるくせに、ハニー
知りたくなかった
あんたのクールな
そそられるセレナーデが
あんたの商売道具
だったなんて
くそジゴロ野郎

調べ上げた金持ち連中
巻き上げられるものみんな
つまりあたしってただの金づる
ずいぶん長いインチキだわね

あんたがしてくれたこと
このジゴロ野郎
またまたカモろうとしてるわけ
でも今度は知るべき
このカモはもう
意のままにはならない
あんたの商売道具
になんて、もう
くそジゴロ野郎

あたしはただの次の金づる
あんたのペテンの次のカモ
台本どおりのいちころのエサ
長い長い詐欺の手の中
あたしをとりこにした愛は
ただの長い長いペテン

***

M8 ヘドウィッグの悲嘆

あたしが生まれたのはあっち側
二つに裂かれた町のあっち側
どんなに懸命にがんばっても
傷と痣とで終わるだけ

あの手術台から立ち上がったの
心の一部をなくしながら
でもいまみんながナイフを手に
あたしをバラバラに切り刻む

かけら一つを母にあげた
かけら一つは男にあげた
かけら一つをロックスターにあげた
そしたら心も取られて逃げられた

***

M9 優美な屍骸

オー、神さま
あたしはつぎはぎだらけ
無情のメスの切り口
体中に傷の地図
その線をたどれば
惨めさの見取り図を越えて
あたしの体を横切る地図

コラージュ
つぎはぎだらけ
モンタージュ
つぎはぎだらけ

針と糸とのランダムパターン
病気の流行図と重なる道筋
竜巻模様の体を走り
手榴弾模様の頭にも
脚には恋人二人が絡み合う

中身は空っぽ
外身は紙の張り子
それ以外はぜんぶ幻想
意思と魂があるってのも
運命を操れるなんてのも幻想
混沌と混乱にゃお手上げよ

コラージュ
つぎはぎだらけ
モンタージュ
つぎはぎだらけ

オートマティストほぐれてく
世界のねじも緩んでく
時間がつぶれ空間もゆがみ
崩壊と廃墟が見えてくる
「だめだめだめだめ、
そんな優美な屍骸じゃダメ」

あたしはつぎはぎだらけ
無情のメスの切り口
体中に傷の地図
その線をたどれば
惨めさの見取り図を越えて
あたしの体を横切る地図

コラージュ
つぎはぎだらけ
モンタージュ
つぎはぎだらけ

***

M10 邪悪なこの街(再)

許して
知らなかったんだ
だってぼくはただのガキで
きみはずっと大きかった

神が意図したよりも大きく
女よりも男よりも大きかった
いまわかった、ぼくが盗んだものの大きさも
すべてが崩れ始めるいま
きみはそのかけらを地面からはがし
この邪悪な街に見せる
美しく新しいその何かを

運命がきみを
そこに置き去りにしたと思ってる
でもきっと空には
空気しかないんだ

神秘的なデザインもない
運命で結ばれた宇宙の恋人たちもいない
見つけられるものはない
見つけられないものもない
だって、きみのここまでの変化は
きみ自身がつねに他人だったってこと
またひとりぼっちの、新しい
この邪悪な街で

だから、ほかにしようがないなら
ぼくの声をたどればいいんだ
暗がりの向こう側
邪悪なこの街の騒音を越えて

オー、ここは邪悪な街
グッバイ、邪悪な街

***

M11 真夜中のラジオ MIDNIGHT RADIO

雨が強い
燃やしてく
夢を
歌を
そのせいできみが
期待しては打ちのめされた
ものたちを

息をして感じて愛して
自由を与えて
魂を探って
流れる道を知る血のように
心から頭まで
自分は一つだと知って

いまきみは輝いて
夜空の星みたい
トランスミッション
真夜中のラジオ
きみはくるくる回って
まるで45回転レコード
きみのロックに
合わせるバレリーナみたいに

パティ(スミス)のために
ティナ(ターナー)に
ヨーコ(オノ)に
アリサ(フランクリン)に
ノナに
ニコに
そしてあたしに
すべてのへんてこロックンローラーに
それでいいの、正しいの
だから手をつないで
今夜は歌い続けなきゃ

いまきみは輝いて
夜空の星みたい
トランスミッション
真夜中のラジオ

きみはくるくる回って
新しい45回転レコード
みんなはみ出しもの、落ちこぼれ
そうさ、だからみんなロックンローラー
回るんだ、自分のロックンロールに乗せて

手を掲げろ!

***
(All lyics are translated by Kitamaru Yuji)

(了)

February 05, 2007

World Index更新しました

ワールド・インデックス、昨年末に書いたものをアップしました。
来年の米大統領選挙に向けて、ヒラリーがいま政治上の施策をどのように考えているのかをまとめたものです。
上記バナーのリンクから移動してください。

January 09, 2007

World Index更新

ワールドインデックスを更新しました。
昨年12月に発売のバディに掲載した原稿の画像ファイルです。
日本でじわじわと広がるいやな雰囲気を「父権」というキーワードで読み解いています。
上のバナーのWorld Indexをクリックして進んでください。

December 25, 2006

12月の俳句

このところ、CSI というこちらの犯罪ドラマにはまってまして、Crime Scene Investigation というもともとはCBSの番組なんですが、ラスヴェガスを舞台にした科学捜査班の物語、これが面白いんだなあ。で、数週間前からじつは午後6時から10時まで、Spike TVという別チャンネルでこの再放送を毎日やってるのに気づいて、それを見だしたら、毎日この時間帯、4時間も、テレビを見るだけで他になにもできない状態。

本日はクリスマスイヴ。うちで少人数で鍋でもしようということで、これから食材の買い出しに行ってきます。

**

セーターのほつれ止まらぬ夜の望郷
(せーたーのほつれとまらぬよのぼうきょう)

蓋のなか闇ふつふつと蕪煮ゆ
(ふたのなかやみふつふつとかぶらにゆ)

日めくりの明日はや透けて今朝の冬
(ひめくりのあすはやすけてけさのふゆ)

赤値札この冬牡蠣の堅き口
(あかねふだこのふゆがきのかたきくち)

数多なる可能剥ぎ終え暦果つ
(あまたなるかのうはぎおえこよみはつ)

乳見せて眠る雌猫レノンの忌
(ちちみせてねむるめすねこれのんのき)

わが嘘の語尾弱まりてマリア像
(わがうそのごびよわまりてまりあぞう)

売れ残る聖樹寄り添ひ街眠る
(うれのこるせいじゅよりそいまちねむる)

赦すことなほできぬまま聖夜かな
(ゆるすことなおできぬまませいやかな)

December 24, 2006

隔数日刊─Daily Bullshit移転再開

半年がかりでちんたら引っ越し作業を進めてきた本サイトを、公開します。
大もとのHPは
New York Journal〜北丸雄二.com
っていうもの。
そこにメニューがあって、その下の階層の1つがこのDaily Bullshitなわけです。
以下のようなメニューです。

デイリー・ブルシット(日々のたわ言) =これが最もひんぱんに更新される予定です。ここのことです。
ワールド・インデックス(バディ誌の連載コラムの再掲) =これは月末に更新。
まだ言うか?(Still Wanna Say?)(その他の依頼原稿の再掲) =これは適当です。
内省的な脂肪肝(Introspective Fatty Liver=極私的レストラン評) =これは気晴らしです。おいしいところに行き当たったら気ままに更新されます。

などと遊んでいます。

まだ不具合もありますが、いつまで待ってもブログというのはその性格上、完成形というのは存在しない増殖系なのだと悟りました。
おいおい他の過去のテキストもアップしていけばよいかな、と。
字が小さいですが、その場合はブラウザで「字を大きく」を選択してお読みください。これもいずれ直して参ります。それからワールド・インデックスはポップアップで拡大版が出ますが、小さなモニターだと端が切れてしまうことがわかりました。それで、その場合は「別ウィンドウで開く」で見てください。これもそのうちにクリックすれば自動的に別ウィンドウが開くように直します。画像アップを一つ一つ変更するの、面倒くさいの。

定期的にご訪問いただけるとちっぽけながらも強固な私の自己顕示欲が満たされます。
またお手数ですが、すでに旧サイトのブックマークなどをお持ちの方にはリンク先のご変更をいただければ幸いです。このブログだけへのリンクだけでもいいですし、HPアドレスでもどちらでも。

ご感想などもいただければうれしい限りです。
ってか、各ブログでは原則的にコメント記入欄を設けてません。コメントをいただくと返事をしなくちゃ失礼なので、しかし、なかなか面倒だったりもするわけでして。
ですので、コメントがある場合はメールでいただければ幸いです。アドレスはHPにあります。

では、告知終わり。

October 01, 2006

Hand-Holding(手を取り合うこと)

こないだ、NYタイムズに興味深い記事が載ってました。5日付だったかな。

さいきん、NYの街なかで手を握って歩いている人たちが目立つってことから、STEPHANIE ROSENBLOOM記者が、あちこちの心理学者や社会学者に電話取材とかして一本の長文リポートをまとめてるのです。世相を社会心理学で分析するっていうジャンルね。

要旨はね、むかしは手を握り合うことは次のセックスに進む2人の親密さの初期のワンステップだったんだけど、いまはもっと進んだ関係のアナウンスメントの要素というか、周りに手をつないでいることを見せることで自分は「他の人求めてません」て表すと同時に、キス以上に相手に対する愛情や保護や慰撫を示す行為になっている、ってもんでした。手をつなぐことはいま、キスよりもマジで真剣な愛情表現なのだってことっすね。

いわれてみりゃそうですわね。たしかに手をつなぐってことはむかしはまだキスができない時点で(その前段階として、あるいはその代償として)の行為だったけど、いまではすでにキスもセックスもしたあとで手をつなぐ。じぶんたちは深い関係性の中にあるってことが、手をつなぐ行為におのずから示されている。手を握ってる連中はもう「いい仲」なわけですよ。むかしは、手を握ってるのは「うぶな仲」のシニフィエだったんだけど。

もちろん、こうした変化は性革命(性を公にすることは恥ずかしいことではない、という意識革命から派生したさまざまな性的事象の急変)を経たアメリカだから、の話だろうと思います。

また中村中の話を持ち出すけどさ、あの詩の「手をつなぐくらいでいい/並んで歩くくらいでいい/見えているだけで上出来」というのに登場する「手をつなぐくらい」という行為はもちろん、そんなところまで至っていない、ロマンスの初期段階でのささやかな願いですわね。とてもとても、このNYタイムズの取り上げているところになんぞ至っていない。

05hands.600.jpg

で、街なかで手をつないで歩いているのはNYではゲイの男の子たちも多いんですね。チェルシー地区なんか、カップルは必ず手をつないでますし。NYタイムズの記事のちなみ写真はそんな男の子たちの手つなぎでした=上の写真。で、これにはもう1つ要素があって、それは「ゲイプライド」の示威行為、デモンストレーションにもなってるわけですよ。もちろんゲイバッシングなんかの危険も伴うけど、手をつなぐ2人は互いを互いで守り合うって意気込みだぞ(これは私のinterpretation)。あるいは2人で手をつないで逃げるのかも?(笑)。でも、いずれにしても手をつなぐのはいいもんだ。

手をつなぐことは、ときにはキスよりも気恥ずかしかったりしますわね。おかしいね、この心理。でもだからこそいま意識的にトゥマと手をつないでみる、握ってみる、トゥマと手を取り合ってみる、そういうことって、いいんじゃないかって思うよ。(あ、ちなみに、この「トゥマ」というのは、「妻・夫」の古語の発音です。自分の性愛の対象を指すジェンダーニュートラルな名詞で、尊敬する大塚隆史さんが「パートナー」とか「連れ」とか「相方」という言葉の代わりに広めようと提唱している言葉です) 。

キスだけでなく、手をつないでもごらん、若者たちよ。
こころがすこしジュンッとする。

(ところで「hold your hand」の「hold」、日本語にならないって書いてて気づきました。握るのともちょっとちがう=ちなみに握手の英語はshakehandsで、これは取った手を揺する行為を指した言葉。Hold は「つなぐ」でも「取る」でもない、「保持する」って感じね。大和言葉、なし、ってホントかよ)

August 09, 2006

義経

さきほど、9日午後2時40分(日本時間10日午前3時40分)、永眠しました。

立派なもんでした。ちゃんと、ゆっくりと、しずかに、でも5回喘ぎましたが、ぼくの腕の中でひとりで死んだ。えらいな、よしくん。

一昨日から動けなくなって、ずっといっしょにいた。昨晩はバスルームに枕を持ち込んで一緒に寝てたら変な姿勢だったんでこっちの脚が吊ったけど。
今朝がたからはちょっと呻いたりしてた。11時ころからは水も飲まなくなった。苦しいんだろうなって思って安楽死も考えた。どこまでが私のわがままでどこからが彼の平穏なのか。でもその間もなく、ちゃんと自分で死んだ。ぼくはたすけられた。

えらいもんだ。ほんと。
それにしても、3年連続で夏はなにかを喪う季節だな。
きょうは、清々しい快晴だった。

May 19, 2006

共謀罪

うちの猫が、義経というのですが、ガンになっちゃったかもしれなくて、先週から病院に行って検査、検査です。右前肢の、人間でいう二の腕の部分が腫れ上がっていて、原因不明。ビッコ引いてるんだよね。かわいそうに。おまけに右肺にも影が見つかりました。レントゲン、生検、CTスキャン、生検、と繰り返して、来週半ばまで結果が出ない。

6年前、ヨシくんの母親のギャビちゃんが右前肢をひょいと上げてビッコを引くようになったのでお医者さんに連れて行ったのですが、原因不明。それから数週間後に引きつけを起こし、病院に急行し、入院し、その夜に死んでしまった。最後にはお医者さんの診察台の上で目も見えなくなっちゃって自分でパニックを起こしてみゃーみゃー鳴いて、かわいそうだった。脳腫瘍だったんだろうって、あとからお医者さんにいわれて、わかってもどうすることもできなかったと慰められたけど、先週の月曜にこんどはヨシくんが右前肢をひょいと上げているのに気づいて、わたしは、ああ、血の気が引くってのはこのことだってわかりました。

まあ、脳腫瘍でもない、骨にも異常はない、ということで、いまのところ本人も痛がってはいないようで、でも、きっと軟組織の肉腫の疑いが強いってことなんですわね。腕を取っちゃったら予後はいいんだろうか。

ネットで同じような症状を検索しても出てこないんです。

ま、というわけでヨシくんのことにかまけてますけど、日本では共謀罪の成立が土俵際のせめぎあいになっています。あまりにも唐突な話題転換。でも、そうなんだからしょうがない。

まったく、いろんな悪法が自民党によって強行採決されてきたけど、これも歴代トップ級のとんでもない法律だってこと、肝に命じておいてほしいです。

難しいことわからない人、おれを信じろ。この法律は通してはダメだ(といってきた法案はすべて通っちゃってきてるけどねえ)。

こういうときに必ず聞こえてくるのが「べつに自分で罪を犯していないなら心配する必要はないじゃないか」というやつです。「悪いことさえやらないなら、きみには関係のない法律だ」、すなわち、「そういうのに神経を尖らせるのは、なにかやましいことがあるからだ」となって、「そういう法律、べつにあったっていいんじゃないの?」「ダメだっていう理由ないじゃん」という結論になるわけですよ。

でも違うの。
法律ってのはね、たとえ政府が変わっても、この法律があれば大丈夫ってものを作っていく、それが基本。まあ、クーデタなんかだと法体系自体が無視されちゃうけど。

で、自民党支持者は、たとえ共産党が政権を取っても、この法律はきちんと運用されると思うのか、というふうに考えてみる。まあ、共産党が政権を取ることはないだろうし、そして、現在の日本共産党は自民党の毛嫌いしたかつての政党とは違ってしまっているけど、それは今という刹那のこと。そうじゃなくて、たとえ、とんでもない連中が政権を取ってもこの法律を安心して存続させていられるのかどうか、そこを考えなくちゃダメなのですわ。そんじゃなくては、怖くてしょうがない(いまの自民党だって怖いのに)。だいたいね、法律ってのは、恣意的に使いたくなるもんなの、権力を持つと。だからなおさらそこを締めなきゃならんのです。だって、こないだだって日テレのアナウンサーの炭谷宗佑(26)っていうバカが女子高生のスカートの中を盗み撮りしたのに、日テレは個人情報保護法なんだかどーだか知らんが、「プライバシーに関わることなのでコメントできない」とかって、あんた、報道も扱っているメディアの言うこととは思えないコメントだもんね。なによ、その不公平は。

そういうもんなんすよ。奢れるものって。

そう考えたら、共謀罪、危なくて、自民党ですら反対すると思いますよ。
だからダメなの、これ。

つまり、自分が悪事をするかどうかではなくて、政府を信頼するかどうか、なのですわ、問題は。そんで、その政府ってのは、いまの政府だけではなく、その法律が続く限りの、未来永劫のいろんな可能性の政府を含めて、なわけ。

あなたの嫌いなやつらが政権を取ったと想像してみてください。そんで、ここが肝心なのだけど、そいつらもあなたが大嫌いなのです。そんなやつらがこの共謀罪を大嫌いなあなたみたいな連中にどう使ってくるか、怖くありませんか? そういうことなのです。そこまで責任を持った上でこの法律はいいのかどうか。

法律というのは万事、だから徹底して、恣意的に運用され得ないものを作らなくてはいけないのです。

あちこちの人権派のHPで、こんな場合も逮捕される危険があります、こんなことをしても訴追されるかもしれません、という脅しの宣伝をやっていますけど、あれ、基本的にあんまり効果ないと思うんですよね。だって、ふつうの人は「悪いことさえやらないなら、わたしには関係ないもん」だもん。そういう人には、脅しにすらなってないんですよ。

豪腕・小沢の腕の見せ所。「国際条約に関する法律を政争の具にするのはよくない」と河野衆院議長が自民党に要請しているようですが、いや逆の意味でこれはまさに小沢民主党最初の政局です。どんどんぶつかる覚悟でやっていただきたいわね。

March 31, 2006

月は非情な女主人

The Moon is a Harsh Mistress.

この曲がここひと月ほど耳について離れない。
Chalie Haden & Pat Metheny で聞きはじめたんだが、Joe Cocker が歌ってるのもいいんだなあ。あと、女声で、Rigmor Gustafsson、それにかわいいヴァージョンではTone Damli Aaberge も。

Brokeback の原作者のアニー・プルーも聴いていた曲。これを聞きながらあの物語を書いた。Beyond the Missouri Sky というアルバムに入ってる。

わたしにとっては、この曲の前に取り付かれた曲は、Jeff Buckley の Hallelujah だった。彼から始まって、いろんなやつのハレルヤを聴いていた。k.d.langとかね。これも滲みる曲。

そのまえは、アポリネールの詩を歌った、ミラボー橋だった。シャンソンだけどね、金子由香利がいい。あのひと、おれの母親に似てる(ちょっとだけど)。これはつらい時だった。時が早く過ぎ去れば、という逆説として。

そのまえの曲は、もう憶えていない。2年前。幸せなときは、歌は要らない。

記憶の最初にある、最初の好きな歌は、小学校の音楽の教科書にあった「ごろすけほっほ」だった。
「わたしは森の見張り番、怖いオオカミ、キツネなど、来させないからネンネしな。ゴロ助ホッホ、ゴロ助ホッホ」ってやつ。

どっちが先だったか、当時、「ヨット」という、すっげえ不自然なマイナーの曲もあった。
「波を切って、うねりを乗り越えて、白い帆のヨットは、走る走る走る。(転調)海は広い、広くて青い。波の歌はピープー、カモメの歌は、(なんだっけ? イイ〜ヨー、イーヨ〜?)」

みんな短調だね。転調する部分で、脳みそがよじれるような感覚がしたもんだ。こんな変な歌があるんだって、10歳のぼくは初めて知的興奮を覚えた。ま、それよりさきに、うらがなしい感じが好きだったんだ。10歳と書いたが、わからん。小学校3年生だったような気もするし。

でも、こういうのが好きだったのって、そういうのって、どの遺伝子が反応してるんだろう。もっと記憶を遡れば、小学校3年生のときに親戚の引っ越しを手伝う父と母にくっついて、トラックの荷台で聞いたオルゴールの、「白鳥の湖」の、あのテーマが、その後ずっと、かなりのあいだつきまとっていた。母親にこれはなんていう曲なのって訊いたりして。でも、チャイ子の悲哀が直感として好きだったなんて。ひー。

そうそう、やはり小学校何年生かのときに、おばちゃまが歌ってくれた、「泣いて泣い〜て〜、つぶれた〜目〜」っていう歌も好きだった。歌謡曲。

これがなんという題名の曲なのか、ず〜っとわからなかった。わかるはずもないと思ってた。だって、ぼくが知っているのはその歌の一行だけだったし。

それが、大人になってから、大人になってからかなりたってから、新宿2丁目の、おかまバーの、「近藤」という、シングル盤のレコードを裸で山のように棚に重ねて所有していたマスターに、ひょっとしたら、と思って、でも、ダメもとで、訊いたら、知ってた。

「関東エレジー」っていうんだ。即答だった。

信じられなかった。ぼくは死ぬほどうれしかった。いや、奇跡だとおもった。まるで、この人に、やっとまるで運命のように数十年後に訊いて答えてもらうためにいままでずっと謎だったのだ、という気がした。

で、あろうことか、そのオリジナルを、彼は、持ってた。
で、かけてくれたの。店の、ブチッと針を落とす旧式のちゃちなプレイヤーで。
そう、それはおばちゃまが歌ってくれた、あの歌だった。

新宿二丁目、畏るべし。あの時代のおかま、畏るべし。

そのマスターは、それから1年後の月夜の未明に、その店で首を吊って死んだ。

月は非情な女主人。

August 07, 2005

小泉解散?

弟の四十九日法要のためまた帰省中です。ところが今夏の北海道もまるで北海道じゃないみたいに暑い日が続きます。おまけに尋常じゃないほど蒸すんだ。まいったね。

弟の息子である4年生の甥っ子が夏休みにどこかに行きたいというので土日を使って高校時代の友人たちを呼び出し、積丹半島の海水浴場に一泊のキャンプをやってきました。ちょうど同じ年齢の子供もいてね、カニや貝やエビなんかも捕まえて大喜びしてましたわ。食事はジンギスカン。翌朝は隣のテントからお裾の牛肉処理のためにビールでシチューつくったらこれまたうまかった。甥っ子ははしゃぎ疲れで帰ってくる車の中ではもちろん爆睡。私は茹でガニみたいに日焼けで真っ赤です。いま体が火照って起きだしてきたところ。庭のキュウリをすりおろしてヘチマコロンの代わりに顔や体に塗ったくったところっす。これ、けっこう効きますよ。

さて本日は小泉解散の日ですか。
わたしが小泉だったら解散はしないと思うんだけどね。

解散総選挙って、総理が信念の正否を問うものだけど、解散総選挙になって、「小泉の信念やよし」とする者がどういう投票行動に出れば「よし」ということになるのか、それがまったくわからないでしょ、今回。
小泉支持だから自民党に入れる? それは郵政法案をつぶしたところへのミソも糞も(失礼)いっしょの投票行動ですよね。たとえ亀井一派が新党を作って戦うと言っても、当選後は自民党に戻るって言ってるんだから同じこと。

つまり、解散総選挙をしたって小泉支持、郵政民営化賛成の意思の表明のしようがないわけですよ。そんな選挙なんて、小泉にとってはやるだけおかしい。それでもとにかく選挙ではぜったいに自民党批判票が増えるでしょ。そうすれば、結局は自民党敗北=下野の責任も小泉が自分で取ることになってしまう。 おかしいやな、そりゃ。

そんな損な役回りを彼がやるかなあ。 森は「変人以上だ」って言ったらしいが、それとは別の意味で、総選挙をやるってのは「変人以上」ですわね。

わたしなら辞職しますね、総理も総裁も。「いつも言ってたでしょ、総理総裁の職に恋々としないって。私の腹を、わかってなかったんだなあ、みなさん」とか言ってさ。

そんで次の総裁総理が自民党から出てくるわけですよ。
すると支持率15%ですよ。
するとそこでこそ総選挙だ。
そうやって下駄を預けてから、自民は総選挙敗北ですよ。小泉を辞めさせた党ですからね。ここで初めて郵政民営化賛成、小泉支持の投票行動が現れる、表し得るわけでね、結果、その敗北の責任を自分とは別物になった自民党に取らせることになるわけですよ。
そんでもって、郵政民営化公約毀損の鬱憤を、もう1つのかねてからの公約、「自民党をぶっ壊す」の成就で晴らすんだなあ。

そんなこと、どこの新聞も書いてないが、そういうシナリオ、あるんじゃないですかね。ま、あと十数時間でわかることですが。

June 29, 2005

今年2月より入院治療中だった弟は6月28日午後8時7分、敗血症のため千葉市の千葉東病院にて他界しました。メールなどでのみなさまのお心遣いに深く感謝しつつ、謹んでお知らせさせていただきます。

なお、遺体は30日午前10時より千葉市緑区の千葉市斎場で荼毘に付し、同日午後に羽田より空路、遺骨として居住地の北海道に持ち帰って1日午前10時より葬儀を執り行うこととなりました。
30日の火葬終了後はそのまま北海道に行き、1日の葬儀を行い、3日には東京に戻って翌4日にNYへと帰米いたします。その後2週間ほどNYにてたまった仕事を処理してから再度、ややしばらく北海道江別市の実家に滞在するつもりでおります。

落ち着いたらまたブログを再開します。

June 22, 2005

へなちょこでも弱虫でも

 じつは日本への一時帰国の飛行機で、偶然、同じテーマを扱った映画を見ました。「ミリオンダラー・ベイビー」と「海を飛ぶ夢」です。前者は今年のオスカーで圧倒的な受賞率だった佳作、後者も同じく今年度オスカーの外国語映画賞を受賞した力作です。(以下“ネタばれ”になりますのでこれからの方はご注意を)

 二つともが全身麻痺を患った人の、尊厳死を扱った映画でした。「ミリオンダラー・ベイビー」はボクシングで首の骨を折ってしまった女性。「海を飛ぶ夢」は、引き潮の海へダイブして海底でやはり首の骨を折った男性の話です。

 その二作で、全身麻痺の主人公たちは同じように自らの命を絶つことを望みます。前者の主人公はだれも自死を手伝ってくれないと知ると自分で舌を噛み切ったりします。後者の主人公は尊厳死を求めて裁判に訴えます。しかし聞き入れられず、ついには自ら青酸カリを飲めるように用意してくれる組織の手助けで命を絶つのです。

 両映画の中で何度も「生」の意味が問い返されます。それは重く説得力があるだけにとてもやるせない。その土台にあるのは「個人の尊厳」という考え方でしょう。「自分の人生は自分で決める」という強靭な意志こそが現代の欧米社会の成立の基盤になっている。そうした「強い個人」が尊ばれているのです。

 尊厳死の問題では米国では最近ではあのテリー・シャイボさんのすったもんだもありました。けっきょく彼女も「生前の希望だった」と夫が説く尊厳死を“選んだ”形で栄養供給装置がはずされ、餓死という結末を迎えました。

 「死」に際しても「強い意志」で「自分で決める」。それはとても立派で潔い半面、わたしなんぞから見るとなんだかすごく疲れる、というか、そこまで頑張らなくてもいいのに、という感じがしてしまうのです。

 介護する周囲の人びとへの思いもあるし、なによりそうした身動きならぬ自分への苛立ちや無辺の絶望もあるでしょうから、当事者ではないわたしがなにかいえるものではないかもしれません。ただこうも「尊厳死」を英雄的に描くと、逆に「尊厳死を選ばない尊厳」というものも描いてくれないと、ちょっとつらい思いをする人もいるだろうなあ、と思ったりするのです。そこまで「意志」を介在させなくてもいいのに、と。ある意味で、そんな「意志」尊重主義が逆に自分への苛立ちや絶望を加速させる部分だってあるだろうに、と。

 へなちょこで弱よわしくて「尊厳死」などとても選べずにただ生きるしかない、そんなだっていいじゃないか。意識の定まらない弟に付き添いながら、日々その思いが強くなります。

June 15, 2005

緊急帰国

弟の病状悪化で、こないだNYに帰ってきたばかりなのに再度東京入りしています。
そういうわけで、定期的な締め切りのあるルーティーン以外の仕事、遅れています。
各出版社の関係者の方々、ごめんなさい。
今月末のNYプライドもパスの可能性大。
こちらにも、あまり書き込みをアップできないと思います。
せっかくお立ち寄りのみなさん、申し訳ありません。
しばらく、おちつくまでご寛恕のほどを。

June 01, 2005

帰米

18泊19日の日本でした。滞日中、今回もみなさんにいろいろとお世話になりました。
ありがとうございました。

もっとも、昼間はだいたい弟のいる千葉の病院に行っていたので、夜もあまり遠くには出歩かず、とくに新宿にはいちども足を運びませんでした。こんなことって初めてですが、新宿方面の皆様にはまことに失礼をいたしました。申し訳ありません。渋谷の友人宅に滞在していたのですが、病院にはバスに乗ることもあって往路も復路も2時間以上かかり、帰ってきたらもうなんとなく一日も終わって、さあ、近くでメシ食って、という感じになっておりました。

その渋谷、青山近隣地区ではいろいろとおいしいものを食わせていただきました。とくにどこに行ってもイベリコ豚イベリコ豚と、かの地では日本のグルメのせいでイベリコ豚が全滅するのではと心配されるほどの人気ぶり。アメリカでは食えない、ジュワッと甘い脂身を堪能してきました。

今回のお星さまレストランは、西麻布のエピセ(☆)でしょうか。
四川中華とワインをあわせて一品ずつデギュスタシオンのごとくサーヴするという趣向に酔いました。もともと四川は調味香辛料の宝庫。豆板醤と豆鼓とを使えばなにを作ってもうまいというのはじつは公然の秘密なのですが、1つ1つの皿がとても丁寧で、たとえば付け合わせの搾菜ひとつとってもきちんと日本ネギを刻んで辣油とともに和えてあるという具合で、それはそれは神経の行き届いた料理です。
また、食事の最後に厨房から出ていらしたシェフの、いまどきのシェフらしからぬ腰の低さと自信なさげなへなへな笑顔が、料理の鋭さと確実さとにじつに対照的でなんだかうれしくなってしまいました。

つぎは白金台の看板のないレストランでしょうか。ここはお星さまが付くか付かないかの、なかなかよい線をいっています。こちらではそのイベリコ豚のグリルなどを食いました。
いずれもシンプルな調理法で料理がすっとまっすぐに提示されます。イタリアンというか、日本料理の率直さもあいまって、シンプルとはいえここもとても丁寧な仕事ぶりです。なにより山田さんと前田さんというおふたりのサーヴィングスタッフがカジュアルながらしっかりした対応をしてくれます。その気持ちよさにのっかって、ここでは4人で4本のワイン(あれっ、5本だっけ?)を空けてしまいました。
当然のことですが、それで結構なお値段になってしまいました。(けっきょく、ここもわたしの友人が1人で支払ってくれたのですが)。

日本はワインが高いですね。
NYではワインは市価の2倍。原価の3倍でレストランで売られます。日本ではこの原価が高いんですね、きっと。NYでは80ドルのワインなんか、最高級レストランでもさて、頼むかなあ、という感じです。50ドルでけっこううまいワインが飲める。ところが日本ではおいしそうなものはのきなみ1万円近くですものね。

帰米前々夜には四谷の名店から分かれて南青山に昨年できたという若いお寿司屋さんにもその友人と参りました。大将は33?35歳?。お店のインテリアも落ち着いてよろしく、他に客の目に見えるところで働く2人の店員も20代できびきびとかつ初々しく好感が持てます。ネタもとてもよいものを仕入れていることが一目で分かります。
ただ、どうも肝腎のお寿司にメリハリがありません。この微妙な違いが、店を出てからの印象におおきな差異をもたらすのですね。つまり、店を出たとたんに忘れてしまうのです、なにを食べたか、その味を。

まず酢飯がどうもうまく仕上がっていないのです。米粒のまわりが柔らかく中心がしっかりしているという二層になった仕上がりで、わたしはどちらかというと米粒は周りも中心部もおなじしっかりさ、さっぱりさのものが好きです。あまり粘らずに口の中でさらりとほぐれるようなのが理想だと思っています。お米はなにを使っているのか、大将が即答できなかったのもいただけません。
つぎに、どうも酢の切れがなかった。魚もいろいろと〆てあるのですが、酢の力でうまさを際立たせるということにあまり成功していないようです。
おいししかったのはカレイと赤貝ですか。いずれもそのままで出されたものです。
あと、添えの甘酢の端噛みですが、酢になじむように叩いてあるのかしら、ちょっとふにゃふにゃとやわらかすぎで、しかも甘みが酸味や塩気に勝ってだらりとした感じで、どうも口直しの役に足りないのでした。そう、この店の寿司の味の全体の印象がこの感じなのです。どうもキレがない。難しいですね。
こういう若いお店はどんどん客が店を育ててあげるのがよいと思います。
ここはまだまだ☆無しです。1年くらいしたらまた行ってみようかしら。

別の友人の誘いで、日本橋のおそば屋さんで日本酒の利き酒会というものにも参加させてもらいました。
14種類もの今年の出品酒を味わいました。いやあ、おいしいお酒というものはあるんですね。舌の上で転がしてじんわりとうまい酒が数種類ありました。ワインの話をしましたが、日本じゃ日本酒を飲むのが正解です。もっとも、こういううまい日本酒がレストランですぐ手にできればですが。

なかでも感銘を受けたのが群馬県館林市の龍神酒造の「尾瀬の雪どけ」という大吟醸でした。これはもう、乳酸発酵のようなほのかな酸味がとても効果的に行き渡っている美酒でした。うまい。じんわりくくくっ、という味。雑味がまったく感じられない。ああ、思い出すだけで唾が出る。もいっかい飲みたいなあ。

こうやって書くとなんだか食って飲んでばかりの日本みたいですね。
さ、6月はみっちり仕事をしなければ。

February 14, 2005

蛇足─アメリカ文化、日本文化

(先に02/05、02/12を読んでね。その続きなのだ)

さて、そうやって考えていくと、日米あるいは日欧米間の方法論の相違というのは、つまりは「怠け心」を奮起させて、やっぱやんなきゃだめかなあ、って思わせるための方法論の違いなんですね。「運動でなにをやるか、どうやるか」ではなく、もっと基本の基本、スタート地点に立つための方法論、あるいは立たせるための方法論の違い。

「運動」っていう言葉自体、翻訳語、翻訳概念ですからして「運動」そのものってのはそもそも端からすでに欧米型なんであって。ただしそれはちょっとしたアレンジやアイディアで日本“的”に持っていくことは可能だし、現にそういうふうなことはけっこう成功してもきた。日本文化って大陸や半島の影響を受けていたころからそうでしたから。

さて、そこでただし問題は、その「運動」なり「ムーヴメント」に到達する以前の、「怠けないでコミットしようよ」っていうことを、どう折伏するか、どう納得させるか、どう奮起させるか、ということなのでしょう。そこを、アメリカとかではキリスト教なり聖書の倫理観なり、あるいは社会契約みたいなものといった共通意識で一気にピョ〜ンと越えることも可能なんだけれど、そのような共通意識が(幸か不幸か)希薄ないまの日本の社会では、まずそこから始めなくてはならない。その大きなひと手間、それが苦労の原因の1つなんだなあ、ということなのです。そうしてそれこそが「日本的」の意味するところなのだということです。 そんな共通意識の、決定的な不在。

そこをはっきりさせるために「怠けもん」というキーワードは必要なのではないかと思うわけでした。

「アメリカアメリカアメリカアメリカ」ってみんな一言でいってますけど、知ってのとおりいろんなアメリカがあって、最近はブッシュの体現するようなアメリカを指すことが多いけどさ、ゲイプライドを成功させるようなアメリカ、同性婚を木で鼻をくくったように議論にも乗せたくないアメリカ、それに涙を流して抗議しようとする人たちのアメリカもあるでしょ。そうした種々様々な人間かつ社会のダイナミズムはどこから来ているのかなあ。

わたしはキリスト教なり宗教なりというのは唾棄したい人間ですが、だが、それを信じて慈善活動を続ける善意のアメリカ人というのはなかなか唾棄できない。たとえその善意がじつに恣意的な善意であったにしても、そのクリスチャニティーっていうものの実体性を、虚構性を含めて、その存在性を、日本の空洞部分に比較してよい意味でも悪い意味でもすげえもんだなあと思うのです。

底支え、というか、前回エントリーの「とー」さんのコメントで相応するものとしての「儒教・仏教的倫理観とか美意識」とかいう基盤部分が、そういうもんは共同幻想だと知っている上での知的なある人間社会の共通意識が、必要だなあって思うけど、まあ、共通意識ばかりが先走るとブッシュ・アメリカになっちまうわけで、そこをひとつひとつ検証しながらその都度作り上げていくというのはかなり大切な作業なんだと一方で信じてもいるのですけど、さて、そこで最初にも言った「怠けもん」の原則がふたたびノソノソと顔を出し作用して、そういうものを「ひとつひとつ検証しながらその都度作り上げていく」ということなどしないもんだ、という堂々巡りになるわけなんですよね。で、そこで思考停止。だれかやるでしょう症候群の千年寝太郎。

まあ、かんたんにはっきり言ってしまうとね、あなたの思っているとおり、「この国、何か、すごく間違ってるわ」状態なんだなあ。

教育なんだよね。学校教育ばかりか、社会教育までもが慎太郎的空疎に煽動されていて、そこをどう変えていくか。それを変えればどんなところでも10年以内で変わるのだ。

February 12, 2005

補足─アメリカ文化、日本文化

2月5日の“「日本とアメリカは違う」という物言い”に関しての付け足しなんですけどね。「アメリカ式のゲイリブは日本では根付かないのではないか」という命題について、ずっとむかしから、まあ、そりゃそうだろうけど、でも、どこまではパクれて、どこらからパクれなくなるのかなとつらつら考えているうちに、和の文化だとか、論破と納得の文化の違いだとか、ディベートの論理だとか、そういう文化論って、どこまで本当なんだろうかなあって思い至ります。

けっきょく、人間って、ほぼ共通して、面倒くさいことはできればやりたくない、という意識を持ってるでしょ。怠けもんなんですね。それがキーなんじゃないか。

そういうの、日本の「文化」なんていう立派なもんじゃなくて、「雰囲気」みたいなものって、とどのつまり「怠けもん」ってことじゃないのか。国会も地方議会も、話すの面倒だから議論しないってだけじゃないのって。そんでいままでは怠けていてもどうにかうまくやってこれた。それは戦後のお父さんやお母さんたちが築き上げてくれたものを食い潰すことでやってきたんですね。

だから、初期設定としての怠けもんでもよかったの。蓄積された文化/社会資本があったから。

で、アメリカって何が違うかっていうと、「怠けてちゃダメ」っていう、なんていうんでしょう、嫌いな言葉だけど「倫理」ってのが共通認識としてある。そういう、アンチ「怠けもん」の論理って、日本にないんじゃないか? キリスト教もないですしね。

アメリカには議論で勝つのに3つの決め言葉があります。
It is not fair.  それは公平ではない
It is not justice.  それは正義ではない
It is not good for children.  それは将来の子供たちに禍根を残す

この三つをいわれると、相手は怒ります。そんなことはない、とかって反論します。犯罪人だってこの三つには逆らえない。言い訳はするけど。

対して、日本でこういう共通認識ってあるのかしら、と思うわけ。共通認識なんて、ろくなもんじゃねえ、という考え方もしっかりと知的に押さえつつ、それでもコミュニティとして力を維持していけるような共通認識。

私たちの“世代”というのは、大昔の高校生のときに「かっこいいってことは、なんてかっこわるいことなんだろう」とか、「きみは空を行け、ぼくは地を這う」だとか、「愛と友情の連帯」だとか、そういうフォークシンガーや漫画家たちの“名言”を倫理めいた教訓譚の代わりに肝に銘じたことがあったんだけど、もちろんそんなのは行き渡らないですわね。学生運動はそうして終焉した。

そんで現在、アメリカ型ゲイリブが方法論として日本ではうまく行かない理由は、「日本の私たちは怠けもんだから」ってだけの話じゃないんでしょうかって思うわけ。

文化論みたいな難しいこというけど、そんなご立派なものじゃなくてほんとはものすごく単純なことじゃないの? 社会へのコミットメントに関して、怠けていてなーんにも考えてこなかったし、考えるの面倒だと思っててもだいじょうぶだからなんじゃないですか? じゃあ、日本に合う運動って、つまりは怠けもんでもできるような運動とはどういうものがあり得るか、ってことではないのか?

ねえよ、そんなの。
そこで、アメリカ式は合わない、ってのは、単なる怠慢の言い訳なのではないか、って思っちゃったりするわけなのです。ま、もちろん違う要素もありますけどね。

「怠けもん」ってのは、それは固有で決定的な「文化」なんかじゃなくて、教育で6年あれば変えられることでもあると思います。明治の教養人は議論をしたし、大正リベラリズムなんて時代もあったんですから。

問題はさ、怠けないでコミットしましょうってことなんではないか。そんで、ブッシュみたいな単純なひどい側面が出てきたら困っちゃうけど、それこそそこで日本の「和」の文化がフェイルセーフの機能を果たしてくれるはずだと信じつつ。

January 24, 2005

やっと起き出した

しかしすごい風邪でした。まる5日間、寝っ放し。
本日起き出して、冷蔵庫に食うものがほとんどなくなったんで買い物に出かけたら、途中でめまいがしてきました。ニューヨークは一面の雪でして、きらきらと遠近感がなくなるというか、目の焦点調整がうまくいかないというか、そんでもってぶっ倒れそうになってしまって。両手には重いショッピングバッグだし。

でもまあ、こうやって書き込んでいるんですから。

さて、ずいぶんと時間が経ってしまいましたが例のジャーナリストネット、15日に東京の方々で時間のある方と2丁目のアクタでお会いしました。フジテレビ、TBS、にじ書房の永易さん、東京新聞の特報部デスク、岐阜聖徳学園大学非常勤講師(ジャーナリズム)の5人プラス私が顔合わせしました。1時間の予定が、なんだかんだと話し込んで3時間にもなりました。

その中で気づいたことは、メディアの現場にいると、社会の雰囲気というか時代の匂いというか、そういうものがふだん気づくやり方とは別の感じ方で気づかされるという実感です。たとえば最近のテレビで、政府自民党に噛み付く評論家がだんだん外されて来ているというようなこと、きづけばそういう評論家はみんな権力に都合の良いコメント、当たり障りのない意見を言う連中に偏ってきてしまっている。そんなことをみんなで話したりしました。

まあ、LGBTのジャーナリスト、あるいはテレビ人、新聞人という固定した観念というより、よりよいジャーナリスト、テレビ人、新聞人であれば自ずからLGBTあるいはひろく少数者たちの感覚を共有できるのでしょう。あるいは、LGBTであるということから鍛えられたそうした足場を持ちつつ、プロのメディア人として仕事をこなしている人たち。

このジャーナリストネットワークも、たとえば30人、40人という数になれば(現在は14人です)かなりの影響力を持つのではないかと思います。そこからたとえば新聞協会なりにLGBTをジャーナリズムで扱う場合での基準、コード作りなどを働きかけることもできると思われます。

さて、そうこう話しているうちになんとなく見えたのは、とにかくもう少し参加者を募ろうということ。NHK、朝日、読売、毎日、共同からもぜひ参加してほしいものです。さらに、日本でのこのネットワークの拠点を、大学内のジャーナリズム専攻のどなたかの研究室に置いて、日本の新しいジャーナリズムの動きとして研究がてら参加・協力してもらう、という方法をとりたいということでした。社会学としてLGBTを扱っている先生たちは多いのですが、ジャーナリズムとしてLGBTを研究している先生はいまのところ日本ではいないのではないかということです。その意味ではとても面白い研究テーマでもあるでしょうし。

さて、そのうえでどうにかこの夏ごろまでにはネッッとワークの形を作りたいと思っています。そうして、�外部の人を呼ぶメディア関連の勉強会を開催する�ネットワーク内でのワークショップを開く�大学生を対象に講演会を開く�一般を対象にLGBT関連の啓発活動を行う�LGBT関連の事象(同性婚、憎悪犯罪、人権運動、歴史)についてプロのジャーナリストや研究者が活用できるようなデータベース・資料サイトを構築して公開する�ネットワーク参加者相互の情報交換のサイト(mixiなんかどうかしら?)を作る……などの活動を具体化していくということになろうかと思います。

じつはこの顔合わせの後で、わたしは別のネットワークの主催者と会いました。
それは女性ジャーナリストのネットワークで、数年前に立ち上げてすでに100人からの参加者がいるそうです。ネットワークの名前はなんと「薔薇トゲ」という、じつにキャンピーでビッチーで、オキャマ心をそそる命名ですが、主催者の女性はぜんぜんそういう意識はなくて、わたしと会って「そうね、そっちと提携しても面白いですよね」などと言ってくれました。この女性ジャーナリストネットも定例でいろんな著名人を呼んで勉強会を開いているそうです。「ビアンはいないの?」と聞いたら、「調べたことないわ」ということですが、まあ、アメリカの高校や大学でよくあるゲイ&ストレート・アライアンス(ゲイであろうがストレートであろうがいっしょに性的少数者の人権を守ろうと活動する同盟運動体)みたいな感じになればよろしいかと。

こうやって考えてみると、なかなか面白い活動ができそうです。
そう思いません?

さあ、もう少しリクルート活動を展開しようと思っています。
皆さんも是非ご協力ください。

January 19, 2005

風邪

日本から帰ってきました。
ですが、飛行機を降りたとたん、風邪を引きました。
15日のジャーナリストネットの顔合わせの報告をしたいのですが、頭がぼやぼやで、ダメです。当日は1時間程度と思っていたのが3時間びっしりとみなさんとお話しすることになり、とても面白かったです。やはりメディアの内部にいると、様々なものが見えてくるようです。それをともに書き留めておかなければならない必要性、またその種の情報交換や確認作業、また情報発信の必要性をひしひしと感じました。イッシューはLGBTにとどまりませんでした。同時に、互いに勉強会もしていきたいものです。
なんとなく、方向性も自ずからみえてくるような。
詳しくはもうちょっとお待ちください。
いまはとりあえず寝てます。
あー、つらい。

January 11, 2005

東京入り

実家のオンライン環境は電話線の接続のためぜんぜんここにもアクセスできませんでした。
先ほど東京入り。いやあ、札幌では飲み明かしました。

とはいえ、昨年クリスマス前からの右胸の赤いポツポツ、各種の軟膏を塗ってもいっこうによくならず、だんだん痛くなってきて病院に行ったらあっさりと「帯状疱疹」だっていわれちゃいました。原因は過労、ストレス、老化。ほな、老化かいな、と思いきや、先生曰く、「それって70歳くらいのことよ」。

ふうむ、年末の原稿ダッシュのせいかや? でもね、それって毎年のことだからべつにたいしたことないし、昨年は逆にちょっとお怠けしてネタのたらい回しみたいなことやっちゃったからけっこう楽だったわけで。ほな精神的なストレスなんじゃわなあ。なるほどねえ、あちきもけっこうやわい心を持って、というか、心と肉体とはこうして連動してたんですねえ。

生命って、閉鎖回路の中の複雑な現象の絡み合いの結果みたいなもんなんですよね。そんで、その命あっての意識ってのは、そりゃ、その現象系のセルフモニタリング機能のループ状の現象の結果なんだわなあ、と。

というわけで、オンライン復帰。

さて、例のジャーナリストネットの途中報告です。
ネットにはこれまで12人の方々から参加へのご関心を表明していただきました。内訳はテレビ局関係が3人、新聞関係が3人、文筆業が2人、ラジオが1人、学術関係が1人、他分野2人、学生2人(カテゴリー重複あり)です。プラス、私です。

で、産經新聞でHIV/AIDSを追ってきた友人の宮田一雄さんにも参加をお願いしたところ快諾いただきました。このネットはしたがって、セクシュアル・アイデンティティの如何によって門戸を閉じたりはしないことにしたいと思います。

で、いろいろとみなさんからのメールを受け取り、文面をうかがいつつなんとなく見えてきたことは、このネットにおける活動の概要はLGBTのジャーナリズム活動の相互啓発・情報共有・意見交換・後進教育・情報発信、ということになろうかということです。

なにせ私はふだんはニューヨークですので、会員同士でのコミュニケーションを司るためのメディアも、たとえば会員専用の掲示板なりが必要だろうとも思います。正式に発足する前に、発足メンバー同士もどこまで自分についての情報を開示できるかも確認し合わなくてはならないでしょう。その辺りの、確認事項について、あるいは何を確認事項とすべきかなどについて、みなさんのお知恵を拝借したいと思っています。また、このネットワークの名称も決めていませんしね。

この東京滞在中の1月15日(土)の午後に、ご都合のよい方々とお会いすることになっております。引き続き、メンツを募集しております。活動の具体はまだ先になりますが、基盤は大きい方がよいですからね。ご興味のある方はメールを下さい。ではでは。

December 23, 2004

あるクリスマス、ある新年

 クリスマスの週の夕食会の後、友人とさらに飲み直そうといことになってミッドタウンのバーに入った。カウンターで飲んでいるうちに右どなりの男性の話が耳に入ってきた。イラクから帰ってきて、来週またイラクに戻るのだという。
 その彼はジェリーさんといった。39歳、離婚したが2歳と4歳の子供がいる。その子らに会うのが今回のクリスマス休暇の目的だ。
    *
 米兵ではない。例のハリバートンの子会社KBRのイラク建設事業に、自分で建設請負会社を設立して参画し、04年3月からバグダッドに入っている。危険は厭わない。
 「ニューヨークで生きてきたんだ。いまじゃここもアメリカで最も安全な街の一つになったが基本は同じ。後ろに注意する。周りをよく見る。知らないやつは信じない」
 イラクで仕事をするには3つの「P」があるという。「Be Professional(プロであること)」「Be Polite(地元の人間に丁寧に接すること)」、そして「Be Prepared to kill(ひとを殺さなければならないときは躊躇なく殺せるようにいつでも心構えしておくこと」。この3Pを怠ったときは、自分が殺される(かもしれない)ときだ。
    *
 そんなところに身を投じたのは、90年代の証券市場やレストラン事業での失敗を「イラク」という大きなビジネスチャンスでオセロゲームよろしく一発逆転させるためだった。「イラク」はいま、どんなものでも求めている。そこに入り込めれば、一攫千金は夢ではない。危険は頭を使えば回避できる。
 日本人が殺されたのも知っている。斬首されたアメリカ人の通信技術者も、仕事仲間から聞いた話では「いいやつ過ぎた」らしい。「だめなんだ、それじゃ」と彼はいう。
 至る所に反米勢力のスパイはいる。仕事を通じて親しくなったイラク人に結婚式によばれたこともある。行かなかった。信じていないわけではない。しかしそういうときは万が一のリスクでも回避する方を取る。それだけのことだ。だいたい、危険だといっても2年近く戦争をしてきて米軍側の死者が1300人というのはけっこういい数字じゃないかと彼はいう。アメリカでは交通事故で年間4万人以上が死ぬのだ。
    *
 バグダッドでは米軍基地に暮らす。軍関連の仕事を請け負うハリバートンの関係だ。イラク復興事業に関与するイギリスやトルコなど数カ国の民間事業者もその米軍基地を拠点として活動するようになっている。ほかに安全なところがないからだ。危険なところに放置して拉致され、救出しなければならないとなったらなおさら厄介だからだ。
 橋やビルや学校など建設事業はKBRが一括管理し、その都度下請けの入札や談合が行われる。そこにジェリーさんのようなさまざまな中小事業者が仕事を求めて群がる。
 ジェリーさんの会社がビル建設を落札したら、そこから地元バグダッドの個人建設会社を孫請けにしてイラク人労働者を雇い入れ、工事に着手する。1万ドルあれば引退して悠々自適の生活ができるというイラクで、今年初めの労賃は1日3ドル以下だったのが、その後5ドルになり、10ドルになり、いまでは20ドルに近づいているという。
    *
 イラクの人々は「スウィートだ」とジェリーさんはいう。やさしい人びと。だが、そうやって割のいい仕事を求めて群がる彼らが、子供までもが物乞いのように雇用を懇願する。それを見るのは忍びない。だが、それが現実だ。
 「現実ってのは、これからどうするかってことだよ。アメリカ人がイラクにいる権利は本当はないのかもしれない。だが、もういるんだ。もしいまアメリカが手を引けば、この無政府状態のイラクにイランが侵攻してくるだろう。するとトルコもイランに攻め込むかもしれない。するとヨルダンがどう動くか。そんなことになったらまたアメリカがイラクに戻ってこなくてはならなくなる。そうなったらいまよりひどい混乱が起きるだけだ」
    *
 砂嵐は二度経験した。外になど出ていられない。それよりも怖かったのはゴルフボール大の雹(ひょう)の嵐だ。米軍宿舎がごんごんごんごん音を立てるものだから何だと思ったら雹だった。その雹よりいやなものが虫だ。凶暴なハエ。透明なサソリ。そして毒蛇。「おれはやっぱりニューヨーカーなんだ」と笑う。
 この経験は自分にとって何になるかと聞いてみた。「よりよい人間になると思う」と即答された。
 よりタフな人間?
 「いや、ベターな人間さ。ものをよく考え、状況を判断し、そして、ひとを裏切らない人間」。なぜなら、「なんといっても、イラクでの仕事の魅力は友情、同志愛なんだ。あそこくらい男の世界はないからな」
 すべて仕事が終わったら金を持ってニューヨークに戻ってくるのか? 「次はイランだな、イランに行く」
 そこまで聞いて零下11度の未明に別れた。
    *
 まだ酔いの残る翌朝、ベッドから起き上がってニュースをチェックすると、イラク北部、モスルの米軍基地がロケット弾で攻撃されたという記事が飛び込んできた。昼食中の米兵ら22人が死亡。ハリバートンの子会社KBRの社員4人も死亡していた──バグダッドではないとはいえ、それはジェリーさんの語った軍とKBRの話そのものだ。その話をしていた1時間後、時差8時間先での出来事だった。
    *
 ジェリーさんの話には数字のウソがある。
 米国の交通事故死は3億人の総人口に対する値だ。イラク派兵数は15万人。15万人当たりの交通死者は年20人に過ぎない。
 そしてもうひとつ。「P」はおそらく3つでは足りない。
 新しい年はイラクにもやってくる。ただしそれは、私たちの新年とは違うのも確かだ。

December 17, 2004

年末年の瀬年の暮れ

年末年始の原稿の締め切りに追われて、といってもそのおかげで年末年始は原稿を書かなくてもいいんですけど、しかしいずれも締め切り間際までぜんぜん書くモードに入れず、書いては休み書いては眠り書いては飲んで、なんかちんたらちんたら引きこもりでうちから一歩も外に出ない日が続きます。どうせ外は寒いからね、とか言っても、じっさいは冷凛たる外気に当たればそれはそれでしゃきっとして、じじつ今週初めにタイムズスクエアに出たときなんか気持ちよかったなあ。北海道で生まれ育ったから、きんきんに冷えるとぷはーってはじけたくなるんですわ。外に出ないとなあ。

9月以来の鬱屈した精神状態もどうにか時間とともに風化してくるような感じがして、そうね、ここは年内でどうにか浮き上がって、来年はきれいに息をしたいなあと思ってます。

英語で好きな言い回しにね
Today is the first day of the rest of your life.
ってのがあってね、そうだよなあ、って思いませんか。
きょうは、残りのじぶんの人生の、最初の日。

好きつながりでかっこいいと思ってる英語の格言に
The noblest vengeance is to forgive.
ってのもあります。
最も崇高な復讐は、ゆるすことである。
涙が出るね。

そんでもって最近ずっとiTunesが奏でているのがJay-Jay Johansonっていう歌手の声です。先月はずっとクラシックだったけど、この2週間は一転こんなメローさ。このひと、Queer as Folk の第2シリーズだったかなあ、たしか最後のシーンで流れたんですよね、Suffering っていう曲。歌詞がね、いいんだ。どこの国のひとなんだろ。英語がすごく聞き取りやすいんで、アメリカ人じゃないんだろうな。

そうそう、例のジャーナリストネットの方達とも、東京関係は私の今回の一時帰国(渡米12年目にして初めて日本で年越しをします)のさいに声をかけてお会いできる方にはお会いしたいなと思います。明日の夜もじつはニューヨークで声をかけてくれた写真をやっている方とお会いして食事がてら話をしてくる予定です。おお、外に出るじゃないか。

なんか、ずいぶん久しぶりの近況報告モード……。
もともとこのブロッグは「ブルシット」といって、たわけなヨタ話=「たわごと(bullshit)」を余所さま構わずに書き殴る、あるいはたわけな余所さまの話を「bullshit!!」と罵倒する、という趣旨で始めたんだけど、とちゅうからけっこうひとが読んでるということがわかって、けっこう大人しくなっちまいました。小心者です。

いつからを晩年と呼ぶや冬銀河 (母親の俳句を盗用改作)

November 14, 2004

ダウン

数日、サーバがダウンしてたようでここにアクセスできませんでしたね。
本日は復旧したようです。

先日、天皇ネタを書いたばかりですが、今回のあのお嬢さんの婚約内定報道を見るにつけ、皇室メディア(ってものがあるわけではないのですが、皇室に触れるその書き方、話し方)の気持ち悪さがたまりません。おいおい「くろちゃん」って何よ、ですわ。

日本のコミュニティって、自分以外は、身内か、よその人か、それともお客さんか、の3種類しか存在しないのですね。よその人は関係ないので、どんな罵詈雑言を言っても向こうには聞こえないと思っているし聞こえても関係ないと思っている。対して、親しくなったり親しくなりたいひとはみんな身内に準じてしまって、どんどんづけづけとその人の私生活に入り込んでも構わないと思っている、もしくは入り込むことこそが関係性を強化するものだと信じて止まない。

で、どこにも、自己と対等の他己、ってのが成立しないので、「公」が育たない。
まあ、この「他者」っても「公」ってのももともと西洋の概念なんでしょうけど、あんまりみなさん美容室でオカマかぶってるおばさん状態というか焼き鳥屋で説教垂れてるおじさんモードというか、そういうふうになっちゃってるのは、というか、それだけっていうのは、微笑ましいながらもなんとも鬱陶しいところもあるわけですわ。

身内モードって、心地よいですけどね、でも、「このスーパーでこれと同じ服を買った模様です」ってあの曽我さん母娘のショッピングをリポートされた日には、何なの、それ? じゃあないですかね。きっと今回もおなじようなレベルの話がこれからどんどん出てくるでしょう。どうでもいいんですけどね、どうでもいいことはどうでもいいってことを押さえておいてくれないと、なんとも情けない。

まあ今回は朝日は他紙が夕刊で後追いできないように日曜の朝刊でぶつけて、スクープって形なんでしょうか。でも、各社ともみんな知ってた本来はシバリのニュースなのでしょうから、いまごろ宮内庁記者クラブは朝日の抜け駆けにプンプンでしょう。クラブ出入り禁止とかの懲罰措置を話し合っているのでしょうか。

それにしても「紀宮さまと黒田さん、メールで愛育む」って見出し(朝日続報)は言葉を失います。本文はべつに悪くはない(とはいえ、「これまで候補者は何人も浮かんだ。しかし、『これまでは宮さまがどうしても胸に飛び込みたいとまで気持ちを動かされるには至らなかった』と、ある関係者は振り返る。」というのはすごい言い回しですけど)のですが、見出しはここまで俗悪にキャッチーにならざるを得ないのかなあ。

November 10, 2004

キャッチアップ

1)iPod Photo を見たときに、なんでこんな写真機能なんて持たすのかなあ、あんまりピンと来ないなあ、なんて思ってたら、昨日、アメリカ人に会ってわかった。こっちのひとってみんな家族とかの写真を持ち歩いてるのね。財布をパンパンにして。あ、これなんだわ。これからジョブちゃん、発想したんだわい。なるほどね。でも、日本人のぼくにはわからないかも。そうだなあ、持ち歩くべき写真。そういうもの、あるといいけれど。
 ちなみに、これ、iPhod って名付ければよかったのに。アメリカ人にはなんだかわからんだろうから意味ないけど、日本人にはわかるわね。

2)20年前に小説出したときに、「そんなうちに大相撲は大関陣全員黒星で幕を明け、西武は二位になっていた。」っていう文を入れました。そのときに、巨人のことに触れるのは意地でもいやで、それで西武を選んだんだけど、同時に、ずっと未来になっても西武なら存続しつづけるだろう、とふんだからなのです。というか、その小説はちょっと近未来で、その近未来でも存在しているようなものじゃないとだめだったわけで。
 その西武の身売り話が出て、栄枯盛衰というよりも、なんてんでしょう、あのライブドアと楽天の新規参入に関する審査というんですか、あの茶番を思ったわけで。だれも今後将来にわたってどこが存続するかなんてわからない。しかも、それをすべて球団経営に失敗して赤字を出しているようなところのオーナー連中が“審査”する。おいおい、審査されるべきはおまえたちなんじゃねえの、と、こりゃきっと堀江さんも三木谷さんも、内心、思っていたに違いないなあ、ってね。

3)たしか今春、2丁目のアクタで話をしたときに家族制度というか結婚制度の話で天皇制のことに話題が及んだときに、わたしとしてはいま、天皇が抑圧の象徴として出てくるという歴史的背景は横に置いておいて、もっと現実的というか日常のレベルでは、平和主義の象徴として登場してくることのほうが多くなるのではないか、それが日本の政界の反動連中に拮抗力を持つのではないか、むしろすでに、自民党右派の連中には、天皇は目の上のたんこぶなのではないのか、という話をしました。
 米長某が褒められたがりの小学生みたいに「日の丸を揚げ君が代を歌わせるようにしています」と言って点数稼ぎを図ったときに、「強制にならないようにね」と言った明仁は、まさしく彼らにはじつに邪魔な、おまけに厄介な存在だった。
 面白いですね。こういう傾向はかくじつに浩宮(なんていうんだっけ、いまは?)に引き継がれるでしょうから、日本の戦後平和憲法はすごいところで象徴的な平和主義者かつ民主主義者を産み出していたわけです。さあ、反動右派は、天皇制度排斥に動けるのでしょうか。右派=天皇主義であった近代日本の文脈の中で、彼らは重大なアイデンティティ・クライシスを迎えているのかもしれませんね。

4)ふと気づいた。あと、人生、20年しか残っていないかもしれない。アメリカに来て12年。20年って、そういう具体。iPhod 買おうかな(ウソ)。

November 09, 2004

ひとを裏切るということ

Uちゃんへ。

裏切りというのは、おそらくだれの心の中でもだいたいはマイナス価値の上位に位置するものだろうから、おそらく裏切りを為す人は、だれかが憎くて進んでそうするという確信犯以外は、自分じゃそれを裏切りだとは認識していない、というか、もっと別の理由付けを自動的に貼り付けていてそれ自体は裏切りだとは思わないとか、それはしょうがなかったのだとか思うようになっている、というか、もっと別の大義を意識の中心に置いてその裏切り自体のことは意識に上らせていない、ということなんだろうと思います。だから、裏切られた人はかんたんに、全面的に、裏切られたという事態をいつまでも引きずることになるが、裏切った当の本人のほうはというと、ぜんぜん関係ないところでのうのうというかぬくぬくというかノンシャランというか、ヘッチャラな顔して楽しくやっているんですね。そうじゃないと、ひとなんか裏切れない。不誠実とか、不実とか、不義とかも、きっとそうなんでしょう。みんな、じぶんにはとても甘い。自分にとっての言い訳はいくらでも湧いて出てくるけれど、ひとにとっての感じ方はかんたんにネグレクトできる。そうじゃないと、自己嫌悪で生きていけないからでしょうね。ひどい話だけど、きっとそうやって生きつづけるひとがいるんです。弱いんだろうね。かわいそうに。そうして、そうやってひとを裏切ったことのあるひとは、それを認識しない限り、かならずこれからもなんどもだれかをおなじように裏切るのです。

わたしたちにできることは、でも、そういうひとを哀れんだり怨んだりすることではなくて、忘れることぐらいなのかもしれません。昨日は記憶でしかなく、明日は空想でしかない。そして、今日は記憶の焚き木なのです。たとえ火傷のように熱くても、早く燃やして,灰にするしかないのです。

November 05, 2004

おお

画像貼付けに成功した。
やってみるもんだ。

さて、つぎはこのブロッグを他のブロッグのようにトラックなんとかとかコメントなんとかとかが出るようにしたいんだが。はて、それは次の課題か。ふむ。いろんな窓が多すぎてわからん。

こんなん見っけ

Newmap.jpg

選挙後3日目、いまだ鬱症状改善されず。
上記、地図のごとく、カナダと合併すべし。
残りは「ジーザスランド」となって朽ち果てよ、ってか。
ふむ、第二次南北戦争の地図割りのようでもあるな。

November 04, 2004

ふて寝の果てに

こういう気分は前回に続いて2回目ですからね、もう学習していて、防衛本能が働くんでしょう、私の心はぜんぜん大統領選挙などなかったかのようなモードに入っています。選挙はなく、ただこれまでの政権が続くんだ、と、そういうような日常ですか。

でもいちおういろんなことはあちこちに書かねばならないので、まるで他人事のように頭の中をパーティションで区切って、そんでそっちのほうで考えて書いてる、みたいな。

で、わたしなりの分析は、先ほどバディ用に書き終えました。もうそれ以上書く気はしません。まあ、また別の分析が頭に浮かんだら書くでしょうが、そうじゃない限りはもう知らんぷりモードです。いいじゃないすか、それで。あはは。

どうしてブッシュが勝ったか、それはバディでお読みください。
日本の新聞でもワシントンの連中がそれぞれに分析をするでしょうが、ま、同じかどうか、どちらが説得力を持つかは、読み比べてご判断を。とはいえ、私のはバディで20日発売ですか、すこし旬を過ぎるかもしれませんね。でも、まあ、熱気も冷めたところでお読みいただいてもまあそれもそれかな、と。

さあ、気分を変えましょ。
そうじゃないと世界が滅びる前に自分が滅びるわ。

November 01, 2004

女子大生

ハロウィンの今宵、日本から大挙してやってきた某大学の国際学科? メディアスタディーズ? のゼミの? 女子大生16人? 17人?とお話をしてきました。

いやあ、女の子はいいなあ。まっすぐで、いっしょけんめいで。
男の子のまっすぐ(ストレート)さとは違うね(とひとくくりにしてはいけないけれど)。マチズモに侵食されていないまっすぐさというのはきわめて貴重なんだと改めて気づかされました。

ジャーナリズムの話とか、いまの世界情勢とか、大統領選挙の話とか、まあ、ここにつらつら覚え書きしてあるようなことをひとまとめにして話してきたのですが、ときどきはああいうつぶらな目の集団にさらされてみるのもいいなあ。ゲイでよかった。ハグしても、キスしても、セクハラにならないしね(ってこうやって字面に書いてみると妙にいやらしいが)。

で、最後にゲイの話をしました。
みなさん、私のことをゲイだとはもちろん知らずに(なんといっても肩書きは国際ジャーナリストっすから(ってエアヘッド舛添みたい))話を聞いてくれていたもんですから、けっこう無防備に「いやあ、気持ち悪いっての、ありますよね」とか「どうしてもセックスのことになっちゃいます」とか、「笑わないと話せない」とか、まんまと乗ってくれまして、はい。その後の展開はおもしろかったです。

で、おもしろかったというのは、なぜかというと、いったん、そういう世間のモードをはがしてやると、彼女たち、ほんと、すぐ、とてもすなおにシフトしてくれるんだ。

若いって、無惨だけど、ほんと、希望はある。(いや、むしろ、希望しかない、ときもあるけれど)
わたしのこのサイトを教えたから、あと数日して日本に帰ったらこれもきっと読んでくれるでしょう。持つべきものはゲイの友だちだよって言ったら最後はすごく納得して頷いていたから、ここの読者の皆さん、「持つべきものはゲイの友だちだよ」という幻想を、おおくの彼女たちにすこしは持たせてあげて下さいね。

October 17, 2004

紅葉詣で

またまたマサチューセッツの別荘に来ています。(って、ひとのうちだけど)

この週末、紅葉が見事だというので車で3時間かけて連れてきてもらいました。
それはそれはきれいです。ここらあたりはアパラチア山脈の一部で、1000mくらいを最高になだらかな山々が続いています。赤、黄色、橙、茶色と、さまざまにグラデーションをもって山々が暖色のセーターを着ているようです。そうそう、アメリカ人って紅葉狩りとか紅葉詣でとかしないというけど、けっこうみんな車で山を回ってた。あちこちで車を止めては外に出てうわーきれいとかいって写真撮ったりとか。まあ、花見も月見も紅葉観賞も、ファッション(風習)にはならんが、個人的にはみなさん、楽しんでいるのでしょうね。こういう文化背景を必要としないきれいなものはだれもがきれいと思うもんです。そんなのは当然だわ。

ところで、この家から車で30分ほど行ったところに、ウィリアムズ・カレッジという18世紀から続く私立の大学があり、町の名もウィリアムズタウンという瀟洒な家並みの続く(というか敷地が広いんで家並み、の「並み」はじつは途切れ途切れで続いてない……うーん、家並みが続く、というのはとても日本的な表現であったか)町があります。そこに、クラーク美術館という、ミシンで有名なシンガーの創設家のクラーク家の一員でスターリング・クラークという、20世紀の大金持ちのコレクションで作ったこじんまりとした美術館があるのですが、これがとてもいいのですわ。

とにかくサイズがよい。メットみたいに大きいと見ている方が疲れてしまいますが、ここはほんと、1〜2時間で見て回れる大きさ。しかも、そこにモネやシスレーやルノワール、ドガ、ゴーギャンなどの印象派の佳作がずらっと飾られているのです。そればかりではありません。

サー・ローレンス・アルマ=タデマ
http://www.clarkart.edu/museum_programs/collections/nineteenth_eur/content.cfm?marker=9&nav=1

ジョン・シーガー・サージェント
http://www.clarkart.edu/museum_programs/collections/amer_paintings/content.cfm?ID=146&marker=1&start=1&nav=1

ジャン-レオン・ジェローム
http://www.clarkart.edu/museum_programs/collections/nineteenth_eur/content.cfm?marker=7&nav=1

これら、もう、あーた、知らなかった逸品がずらり。
日本から連れてきてあげたい友達がたくさんいるなあ。しかも、いまかの安藤忠雄がこの美術館の別館を作るんですってよ。なるほどねえ。

ちなみに寝起きしておるこの別荘は建坪で100坪(300平米)、それで三階建てだから床面積は計1000平米っすもん。ゴージャスを絵に描いたような家で、紅葉真っ盛りの庭の先にはのどかにゴルフコースですもんね。
おいしいワイン、おいしい食い物。よい週末を過ごさせてもらってますわ。

しかし人生、どこで間違ったかねえ。
清貧、悔いることなし、ではあるが。
ブッシュが勝ちそうだけど、そうなったら、あたしゃもう俗世から足を洗ってあちこち旅行して回ろっと。どーせ、ひとりだもんね。心はいつも孤独な旅人よ。くそ。

September 28, 2004

さてさて

最低の九月が過ぎようとしている。
もうぐちゃぐちゃ。早く過去形になってくれりゃいいと思いつづけるような。

帰米一週間。時差ぼけ、いまだ。おまけに某局の2時間ドラマ台本の英訳を突貫で依頼され、ほとんど眠れず。

さっき、弟から携帯メールが届いた。
点滴が外れたとのこと。腎臓がへたって、透析まで始めていたのだが、そっちもあと2日くらいやれば終了と言われたようで、体調もよいらしい。ひとまず安心。でも、日本で初めての手術なんで、担当医も次がどうなるか、どうなったら何なのかがわからないらしく、いちいちアメリカの大学病院に問い合わせるような進み具合。予断はゆるさないんだわね。

神無月。
神など信じないが、いるならいるで赦してやろうね。

さて、書き込みをしないうちにいろんなことがやはり起きるもので、世界はわたしの個人的事情などおかまいなしに進んでいく。そんなもんだ。

「薔薇族」が廃刊とか。
センチメントとしては、日本のゲイコミュニティーはマーケットの気概としてさえも、こういう老舗雑誌を支え切れないほどにノンシャランなのかね、という倦怠感。
でもさ、ビジネスというのはセンチメントとは次元を別にして考えなくちゃね。
「薔薇族」路線というのは、なんというんでしょうかね、自己憐憫と黴臭さと僻目みたいな生来の目つきが、この時代、ダメだったんでしょ。そういうのは寺山修司の時代には新しかったでしょうが、そういう時代の産物なんだと思う。

前者のセンチメントは、むしろ、MLMやアドンの南さんとか、ファビュラスの東ちゃんには持ったけど、伊藤文学には持てないな。

ビジネスと言えばライブドアである。(強引)

三木谷社長の楽天に決まるんだろうなあ。
ライブドアの堀江社長を「おれも知らんような」といった御仁の新聞社のサイトから「食」のところをクリックすると、自動的に食材購入のサイトは「楽天」になります。ま、そういうことじゃないだろうけど、トヨタとか三井住友とかを援軍に加えるなど、両義的な意味で「後塵を拝しながら」というのがじいさん連中に脅威ではなく映っているのでしょうね。だいたい、堀江社長に会わないながらもその慇懃さを保っているところが、あ、こりゃ後ろで話がついてるね、ってなにおいがプンプンしますね。

堀江社長つぶしは、ありゃ、世代闘争です。プラス、組織内抗争。ばかみたい。堀江社長、それを知ってるから、ものすごくカッカしてるんでしょうね、ここ数日。かわいそうに。
堀江社長、こんなことでつぶれるなよ! っておれが言ってもしょうがないが、カッカもする必要もない。ダメ元でやるのは嫌いな人なんでしょうが、今回のじいさん連中にはそう構えるしかない。あいつら、だいたい、会社員なんですね。わたしも昔、野球チームを持つ新聞社の会社員でしたから球団社長にどんな人がなるのかは知っていますが、堀江社長みたいな人がいちばん怖いわけですよ。というか、邪魔。偉いさんに睨まれないようにせっせせっせとass-kisserであったような連中が、本社のスジでは無理だったけど、やっと球団社長に横滑りさせてもらったわけです。その既得権を、どうして堀江社長のような風雲児に掻き乱されたいか。いろいろ、これまで経営者側に非難がましいコメントもしちゃってたしね。

その意味で、三木谷社長ならすこしは安心。というか、ぜったいナベツネとも後ろでつながってますね。だから堀江社長とも話をしない。

出来レースだよなあ。
じゃあ、堀江社長、ダイエーに肩入れして共同球団経営に持ってけば? って、そんな話でもないか。

というわけで、So much for today.

August 26, 2004

日本にいます

父の七回忌ということで一時帰国しました。が、今夏はじつは母から弟への生体膵臓移植が行われて、その予後でふたりともまだ千葉で入院中で、まだ札幌へは帰っていません。来週早々にも退院できる母といっしょに帰郷予定なんですが、弟の具合があまり良くなく、それもまだわかりません。

そんなわけで、七回忌のセレモニーは延期中です。まあ、うちはぜんぜんセレモニーに無関心なのでべつにどうでもいいんですけど。

昨日、見舞いの帰りに金子由香利のゴールデンベストってアルバム買いました。
アポリネールのミラボー橋なんかも入っていて、いいなあ、このおばさま。

August 18, 2004

久しぶりに小説を書きあげた

今年になって2月から単身赴任状態になっているので、なんとなく書きはじめた小説がちんたらちんたら書いたり休んだりして半年かかってとうとう最後までいった。80枚ちょっとの短篇だけど。こんなにストレス感じずに書いたのは、ストレス感じたらそのままずっとほったらかして書かなかったからだろね。いやあ、これなら楽だ。まあ、職業小説家の書き方ではない。あんなのは20代すぎたら私の場合、社会人の生活できなくなって無理だったもんね。

できたてのほやほやでまだ書いた頭も書かれた字面も熱くていいもんだかわるいもんだかわからん状態ではあるけど、ま、なんとなく、宿便を落としたって感じは昔のとおり。

冷めてからもういっかい手を入れ直して、ぼくのもっとも信頼する友人の2人に読んでもらいたいんだが、そのうちのひとりはいま鬱でさ、こいつは21のときに某文学新人賞を取ったやつなんすけどね、読んでもらっていいもんかどうか。

なんせ、わしの書くもんと来たらせつないもんばっかりだからなあ。ふむ。ま、いっか。

March 19, 2004

俳句でもひねるか

ほのあまき春甘藍の葉は透けて

山焼きの天を濁音で行く軍機

ねこに恋われも狂気を持て余す

リラ冷えや終日解けぬ謎ひとつ

ちちの忌の母に七度の山笑ふ

きみの小言何だったっけ春うらら

苦きこともちぎって春のサラダ喰ふ

春愁ふ惰眠のねこを呼び捨てに

春雨じゃショパンの雨じゃ濡れてこか

草の芽は精霊のごと地に満ちて

January 26, 2004

祝再開

どうもー。

わが本サイトが一応の再開を見たようですね。私のこのサイトはね、フリスコのタカヒロ君がぜーんぶ作ってくれているのです。デザインセンス、なかなかいいでしょ。新年っぽいのと、それから、これから春を迎えるにあたってのなにやらそこはかとなく華やいだ、それでいてミニマリズムのデザイン。わたしはけっこう、彼のセンスを信頼しています。

そんでもって、彼はね、大阪人で、まだ若くて、いやもっと若いときから(つまりは十代ね)、キャマであることをべつにどーでもいいと思ってた世代でね【筆者註;「どーでもいいと思ってた」ということを、デフォルトの、エフォートレスの、自動的な所作と思ってはいけませんだよ。川の流れの白鳥はそこにとどまって涼しい顔をしているけど、水面下では懸命な足掻きをしているのだってキンパチ先生もどきの中学校くらいの先生が言ってなかった?】、そんで、そうでいてもというかそうだからこそというか、けっこう大阪で仲間内からバッシングにあってたらしいのさ。大学の同級生からとかね。ま、そういうのはそっちが馬鹿なんだということはわかるが、でも10年前とか、やっぱり、なかなか大変だったと思うよ。10年前って、けっこう、日本も、アメリカですら、いまとはちがうからね。

でもさ、彼はそれでもやっぱりアメリカに来ていろんなことを吸収したんだと思う。いまではほんと、彼のサイトを見ればいろいろとモノを考えて、さりげなく立派なこと言ってるんだわ(ま、昔から言うことはいっちょまえすぎてた嫌いもあるけど)。

いや、本日はそんなことを書きたいわけではなく、そんなにもよい才能とかよろしい性格とかなかなかの能力とか膂力とか理解力とか想像力とか、そういうのを持ってて、なおかつゲイだってのが、けっこう目に見えるようになってきたのだよね。そりゃ当然だわな。同じ確率だけ面白いやつがいる。すごいやつもへんなやつもいらーね。でね、そんななかの別のひとりがさ、

と書いていって、削除した。やめた。悪口に受け取られそうだったから。そうじゃないんだけど、それが正確に伝わるだろう書き方ができない。

ま、いいや。
とにかくさ、ゲイだって、日本に帰ると言いたくない子も、21世紀になったいまも、まだたくさんいるのね、ってなことさ。べつにいいじゃん、どーでも、って言えるには、けっこうな努力と、どーでもよくない思惟力がいるんだよ。

ゲイであろうがなかろうが、そういう思索力というのは、ぜったいに役に立つよ。物事の論理をきちんとわかって筋道立てて分析もできるようになること、これはね、人類の滅亡を遅らせるためにも(あるいはこんな人類を滅亡させるためにも?)、必要なのよ。

あ〜あ、削除したら、何がなんだかわからん書き込みになってしまいました。
でも、せっかく書いたんだから掲載しましょうっと。

October 26, 2003

お久しぶりでございます

いやあ、これだけブロッグをさぼってると、いったい、どうやってブロッグを書き込むページにアクセスできるんだかそれ自体も忘れちまって、この書き込みウィンドウを探すのにウロウロしちまったぜい。

いや、わたし、8月28日付け以降何をしていたかといいますと、ええ、北大医学部のワークショップにお呼ばれしまして高座を務めて参りまして、それから3週間ほどずっと日本におったわけです。そんで9月の暮れに帰ってきたはいいけど、そのまま時差ボケを引きずって数週間が過ぎ、そのうちに自分の日記メモも付けず、何もする気が起きず、必要最低限の仕事だけをこなしてぼけぼけの毎日を送っている始末。

ほしたら昨日、このデイリーブルシット、ファンだという、旧友から再開を促すメールをもらいまして、あっらら、なるほどね、とかって、そろそろもうちょっと気を入れてやらんとすぐに年末だわなあ、と、ぶるるしてきたわけで。はい。

で、ほんじつはアイドリング。なにもブルシット、書くわけではありません。
というか、おくさん、知ってます? バディJPのニュース欄読んだら、ちょっとぉ、2丁目のジョナサンの店長、オカマのお客さんには来てほしくないってなこと、むれむれに臭わせるような発言をしたんですってよ。
以下参考
http://www.badi.jp/kiji/2003/10/nw0310241.html

はい、この店長、クビですね。
おれが東京にいたら店の前でプラカード持って威力業務妨害で逮捕かしら。

さあ、みなさん、久しぶりにまたEメールでいじめてやりましょう。
ジョナサンの「各店舗に関するご提案」ページはこちら。
http://www.jonathan.co.jp/jona_top/new_page_kuya5.asp

あくまでもこういうのはシャレ心を忘れずにビッチーに攻めるべき。
文体は各自、凝るようにね。

では、いってらっしゃ〜い。

August 04, 2003

反省

最近ね、なんかやけに腹を立てているんだわね。というか、何かを書こうとすると、どうしても腹の立つことを徹底的にやっつけたくなってしまうわけさ。するとね、いきおい文章を書き殴るということになる。さするとまた、やけに「バカ」とか「頭が悪い」とか、そういうことばかり書き連ねることになる。

よくないね。
たとえ私的な文章でも、そのトーンはやがて私生活を覆うようになるもん。

30歳になったときにね、こういう事態を予測していたフシがありましてね、「このままではオレは憤ってばかりいるじいさまになってしまうだろう」と感じて、ならばそれを先取りしていまのうちに怒っていれば穏やかな老後が暮らせるかもしれないと、75歳の怒っている男を主人公にした1000枚の小説を構想したんだけど、200枚で挫折しました。このまま書いていたら3000枚になってしまいそうだと気づいて、めまいがして書き進めなくなった。

題名はね、『クーパーの蝶』というの。かっこいいでしょ。この「クーパーの蝶」の意味自体が1つの大きな謎なわけで、そんでもっていろいろあって人類は滅びるべきだってのが結論の小説。あのころ、だれもそんなこと言ってなかったけど、その数年後にそういう概念が台頭してきて、なるほどね、考えることというのは世界同時多発するもんなんだねえと知った次第。いつかまた、どこかにしまっちゃったそれを引っ張り出してきて(ほら、あのときはまだコンピュータでもワープロでもなく手書きだったわけで)中断した部分からの続きを書きつなごうと思うような日が来るんだろうか。

July 29, 2003

間が空きましたですね

なんか、東京、寒いんだってね。梅雨明け、まだだっけ?
これってひょっとしたら冷夏? 冷害でまた日本経済打撃かなあ。

冷害といえば93年の大冷害がありました。おぼえてらっしゃいます? 日本中、お米が足りないとか、そんなパニックになった時でなかったでしたっけ?

わたしはすでにニューヨークにおりまして、タイのジャスミン米やらインドのバスマティやら、イタリアのアルボリオやらといろんな米がそれこそとんでもない安さで、日本米だってあなた、美味しいカリフォルニアのコシヒカリみたいな米が三分の一の値段でしてね、えらく感動していたところに、日本で米が足りない、でしょ。そんで緊急輸入したタイ米を、おいおいちょっと、「くさい」はないんでないかい、と思いましたですよ。

あれはアロマティックライス、いわゆる香り米といってさ、ああいうもんなんだ。おまけに政府は、一級品のカリフォルニア米は輸入しなかった。あんなうまいものをアメリカではこんな値段で売ってると民たちに知れたらまずいという判断でした。これ、ほんと。で、カリフォルニア米は三級米だけの輸入。これって、ブッシュのイラク戦情報操作に匹敵するほどの民心に対する詐欺行為ですよい。

やっぱり日本の米はうまいよね、ってあんたねえそりゃちょっとちがうんでないかい?

なんとまあ失礼な国民になりはててしまったものだとわたしゃ当時、コラムに書きました記憶があります。思えば、あのころから日本は壊れてきたのかもね。情報処理能力の無さ。だから情報が頭の中で氾濫してとつぜんキレちゃうんだかも。

情報処理能力ってさ、結局はコミュニケーションなのよ。
ふだんからいろんなひとと話をして鍛えられていくもんなの。
それをしないと、情報が偏るだけでなく処理方法もバラエティに欠けるんだ。
で、あるときにっちもさっちもどうにもブルドッグになるのよ。んでキレる。
キレやすい子供たちって、けっきょくはひととまともにコミュニケートできない社会の中で必然的に再生産される存在なわけ。
黙っていることをよしとする教育を、いますぐやめなきゃね。

July 07, 2003

ロブスター

6日の日曜に、車で1時間ほどのジョンズビーチに行ってまいりまして、3時間ほどいましたら本日、体が真っ赤になって、もうなにもできません状態であります。ロブスターのような赤さなのです。ビーチはもう、ゲイゲイしていて、そういう状態のセクションが波打ち際2キロほど続くのですね。いやあ、壮観です。このBLOGって、写真載せられるのかしら。

でも、ヒリヒリして痛いよぉ〜。

July 04, 2003

ふと思ったんだけど

こうやってここにひんぱんに書いていたら、バディとか、他にもいろいろと頼まれてあちこちにコラムを書いてるんですけど、そこで書くことと重複してしまうんじゃないかって、あらら、そうなったら書くことがなくなるかも。まずいかなあ。

まずくはねえよね。
いくらでも書くことはあるし。
ここは、いわば、下書きみたいに書けばいいよね。

私には、いま気になる人が何人かいる。
1人はね、テレビのドラマの制作者なんだけど、ま、彼の才能云々が気になるんじゃなくて、というか、才能はあるのだ。だからそれはいいのです。でもね、鬱なんだよね、彼。かわいそうに。パッと見はね、それこそ、非の打ち所のないエリートテレビマンよ。でもね、いろんなこと考えてるんだな。それに感受性も強い。そしてそれをあまり表に出すことを潔しとしない。ま、問題はこの「表に出すことを潔しとしない」という部分にあるのかもしれないけど、出したら?といって出してそれで問題が解決するならとっくに解決してるでしょ。ぼくはね、彼のことを、東京にいるんだけどさ、いまは、毎日、気にしてる。

もう1人はね、トランスジェンダーの子でね、これもまた日本じゃ“珍しい”存在でしょ。いまじゃゲイとかレズビアンとかは相対的に「あ、知ってる」という存在になってきたけど、TG/TSはね、昔からの「オキャマ」とか「ニューハーフ」とか、だいたい、ゲイの間でだってはっきりわかってないんだ、どういう存在なのか。世田谷で上川あやさんという区会議員が当選したけど、ぼくはね、これは日本のすごいとこだと思ってる。同時に、日本の手強いところでもある。そうそう、そのTGの子、その大変さが、ぼくにはとても気になる。力添えできるものなら、力添えしたいけど、いまのところはその子の存在に私の方が力づけられているという感じだね。

そうしてもう1人、この子は、病気なんだ。ゲイであろうがあるまいが、病気というのは降りかかってくる。白血病なのね。やっぱり大変な病気よ、こりゃあ。私にできることはなにひとつありません。まいります。そういうときにね、難しいこと考えてもね、彼には直接的には有効じゃないんだわね。おまけに、この子、頭がいい子でさ、まだ20歳そこそこなのに、人の心の機微がわかっちゃうんだな。もうちょっとのんびりしてたら楽なんだろうになあとおもうけど、そんなこと、言ってもしょうがないやね。

サルトルがさ、(サルトルって、古いか?)、「飢えた子供の前で文学は有効か」ってのを60年代に言ってるんだよね。わしゃあね、それも命題の立て方が違うんでないかいって、ずっとそういうふうにこなしてきたけど、しかし、その命題はそれはそれで、じつはたしかに存在するんだわな。

けっきょくは、そういう、現実的なレベルと、概念なレベルと、二股かけて考えかつ対処してゆかねばなんねえってことなんだろね。

二股掛けるの、得意になんなきゃ。時代はマルチよ、やっぱり、うん。