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January 30, 2019

大坂なおみという「窓」

昨秋の全米に次いで全豪オープンでも優勝という快挙、そして世界ランキング1位という大坂なおみ選手に日本中が湧いています。一方で、彼女が「国際」的になればなるほど彼女を「日本人」として持ち上げる日本のメディアの「非・国際」的あり方が異様に映ることにもなっています。

その一例が彼女のスポンサーでもある日清食品のネットアニメCMでした。そこで描かれた彼女の容姿が肌も白く髪の毛もふんわりしていて「大阪選手に見えない」との声が挙がり、それを欧米メディアが「ホワイトウォッシュ(白人化)」として取り上げたことで、日清側が急きょこのCMを公開中止にするという事態にもなりました。

まあ、アニメに描かれるキャラクターというのはだいたいが「非・日本人」的に目が大きかったり髪が黒じゃなかったりほぼ無国籍化しているんですが、日清側=アニメ作家側が彼女をどう見ても「非・大坂なおみ」的に「白く」変身させてしまった理由は何だったのでしょう? ともすると「黒く」描くことが逆に失礼に当たると"斟酌"した? だとすれば、それこそ「ホワイトウォッシュ」を肯定する大きな考え違いです。

日本の世間はどうも人種問題やそれに絡む人権問題については何周も遅れてしまっていて、自分たちが今どこにいるのかさえ考えていないようです。なので相変わらずコントなどでは黒人の役で顔を黒塗りにする「ブラックフェイス」が行われたり、黒人役のセリフが田舎弁だったりします。

60年代の黒人解放運動を通して「Black is Beautiful」と自尊を訴え、70年代にはアリサ・フランクリンが「I'm Gifted and Black(私は才能があって黒人)」と歌った意味を、日本社会では知る必要がなかった。対してハイチの父と日本の母の間に生まれた大阪選手は自分が白く描かれたことに関して「なぜみんなが怒っているのかはわかる」と、もちろん理解していました。

実はもう一つ、人種問題ではなく女性問題でも大阪選手は日本の世間の周回遅れを炙り出しています。それはやはり優勝記者会見で、日本のTVリポーターが対戦相手の感想を「日本語でお願いします」と求めた時のことです。

大阪選手は日本語では表現し切れないと思ったのでしょう、「英語で話します」と言ってクビトバ選手が2年前に強盗に利き手を刺される重傷を負ったこと、それを克服して決勝で戦ったことを称える立派なコメントをしました。

ところでなぜ「日本語でお願いします」と求められたのでしょう?

おそらくこれは、大阪選手のたどたどしく可愛らしい日本語を聞くことで、日本の視聴者とともに彼女を「カワイイ〜」と言って微笑ましく言祝ごうという企図だったのだろうと思います。それは無意識にであっても女子選手に、いや女子たち全般に、「可愛らしく微笑ましい」存在であることを強制する仕草になります。それは、日本ではあまり意識されませんが「国際的に」は明確に男性目線のセクシズムです。

しかも彼女の優勝以来、日本のTVのワイドショーでは大阪選手がいかに「日本人」らしいか、いかに「日本の誇り」かの話題を続けています。彼女が頭角を現してきた1年前には、彼女の褐色の肌やチリチリの髪を見て「日本人には見えないよなあ」と言っていた人も少なくなかった日本の世間が、いまは手のひらを返して「日本人」を強調するのです。

そんなとき私はいつも歌人枡野浩一さんの「野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない」という短歌を思い出します。

大阪選手が、世界が日本を見る窓になっています。私の願いは、彼女が同時に、日本から世界を見る窓になってくれることです。もちろんそれは彼女の仕事ではなく、私たち日本に住む日本人の仕事です。

August 20, 2018

LGBTバブルへの異和感

私がこれから書く異和感のようなものは、あるいは単なる勘違いかもしれません。

現在のいわゆるLGBT(Q)ブームなるものは2015年の渋谷区での同性パートナーシップ制度開始の頃あたりからじわじわと始まった感じでしょうか。あるいはもっと以前の「性同一性障害」の性別取扱特例法が成立した2003年くらいにまで遡れるのでしょうか。とはいえ、2003年時点では「T」のトランスジェンダーが一様に「GID=性同一性障害」と病理化されて呼称されていたくらいですから、「T」を含む「LGBT」なる言葉はまだ、人口に膾炙するはるか以前のことのように思えます。

いずれにしてもそういう社会的事象が起きるたびに徐々にメディアの取扱量も増えて、25年前は懸命に当時勤めていた新聞社内で校閲さんに訴えてもまったく直らなかった「性的志向/嗜好」が「性的指向」に(自動的あるいは機械的に?)直るようにはなったし(まだあるけど)、「ホモ」や「レズ」の表記もなくなったし、「生産性がない」となれば一斉に社会のあちこちから「何を言ってるんだ」の抗議や反論が挙がるようにもなりました。もっとも、米バーモント州の予備選で8月14日、トランスジェンダーの女性が民主党の知事候補になったという時事通信の見出しはいまも「性転換『女性』が知事候補に=主要政党で初-米バーモント州」と、女性に「」が付いているし、今時「性転換」なんて言わないのに、なんですが……。

そんなこんなで、ここで「LGBTがブームなんだ」と言っても、本当に社会の内実が変わったのか、みんなそこに付いてこれているのか、というと私には甚だ心もとないのです。日本社会で性的指向や性自認に関して、それこそ朝のワイドショーレベルで(つまりは「お茶の間レベル」で)盛んに話題が展開された(そういう会話や対話や、それに伴う新しい気づきや納得が日常生活のレベルで様々に起きた)という記憶がまったくないのです。それは当時、私が日本にいなかったせいだというわけではないでしょう。

そんなモヤモヤした感じを抱きながら8月は、例の「杉田水脈生産性発言」を批判する一連のTVニュースショーを見ていました。そんなある時、羽鳥さんの「モーニングショー」でテレ朝の玉川徹さんが(この人は色々と口うるさいけれどとにかく論理的に物事を考えようという態度が私は嫌いじゃないのです)「とにかく今はもうそういう時代じゃないんだから」と言って結論にしようとしたんですね。その時に私は「うわ、何だこのジャンプ感?」と思った。ほぼ反射的に、「もうそういう時代じゃない」という言葉に納得している人がいったい日本社会でどのくらいいるんだろうと思った。きっとそんなに多くないだろうな、と反射的に突っ込んでいたのです。

私はこれまで、仕事柄、日本の様々な分野で功成り名遂げた人々に会ってもきました。そういう実に知的な人たちであっても、こと同性愛者やトランスジェンダーに関してはとんでもなくひどいことを言う場面に遭遇してきました。40年近くも昔になりますが、私の尊敬する有名な思想家はミシェル・フーコーの思索を同性愛者にありがちな傾向と揶揄したりもしました。国連で重要なポストに上り詰めた有能な行政官は20年ほど前、日本人記者たちとの酒席で与太話になった際「国連にもホモが多くてねえ」とあからさまに嫌な顔をして嗤っていました。いまではとてもLGBTフレンドリーな映画評論家も数年前まではLGBT映画を面白おかしくからかい混じりに(聞こえるような笑い声とともに)評論していました。私が最も柔軟な頭を持つ哲学者として尊敬している人も、かつて同性愛に対する蔑みを口にしました。今も現役の著名なあるジャーナリストは「LGBTなんかよりもっと重要な問題がたくさんある」として、今回の杉田発言を問題視することを「くだらん」と断じていました。他の全てでは見事に知的で理性的で優しくもある人々が、こと同性愛に関してはそんなことを平気で口にしてきました。ましてやテレビや週刊誌でのついこの前までの描かれ方と言ったら……そういう例は枚挙にいとまがない。

それらはおおよそLGBTQの問題を「性愛」あるいは「性行為」に限定された問題だと考えるせいでしょう。例えば先日のロバート・キャンベル東大名誉教授のさりげないカムアウトでさえ、なぜそんな性的なことを公表する必要があるのかと訝るでしょう。そんな「私的」なことは、公の議論にはそぐわないし言挙げする必要はないと考えるでしょう。性的なことは好き嫌いのことだからそれは「個人的な趣味」とどう違うのかとさえ考えるかもしれません。「わかってるわかってる、そういうのは昔からあった、必ず何人かはそういう人間がいるんだ」と言うしたり顔の人もいるはずです。

でも「そういうの」ではないのです。けれど、「『そういうの』ではない」と言うためのその理由の部分、根拠の空間を、日本社会は埋めてきたのか? 「ゲイ? 私は生理的にムリ」とか「子供を産めない愛は生物学的にはやはり異常」だとか「気持ち悪いものは気持ち悪いって言っちゃダメなの?」とか、「所詮セックスの話でしょ?」とか、そういう卑小化され矮小化され、かつ蔓延している「そこから?」という疑問の答えを詰めることなく素通りしてきて、そして突然黒船のように欧米から人権問題としてのLGBTQ情報が押し寄せてきた。その大量の情報をあまり問題が生じないように処理するためには、日本社会はいま、とりあえず「今はもうそういう時代じゃないんだから」で切り抜けるしかほかはない。そういうことなんじゃないのか。

「生産性発言」はナチスの優生思想に結びつくということが(これまでの戦後教育の成果か)多くの人にすぐにわかって、LGBTQのみならず母親や障害者や老人や病人など各層から批判が湧き上がりました。それは割と形骸化していなくて、今でもちゃんとその論理の道筋をたどることができる。数学に例えれば、ある定理を憶えているだけではなくてその定理を導き出した論理が見えていて根本のところまで辿り帰ることができる。けれど「生理的にムリ」「気持ち悪い」「所詮セックス」発言には、大方の人がちゃんと言い返せない。そればかりか、とりあえず本質的な回答や得心は保留して「でも今はそういう時代じゃないんだ」という「定理」だけを示して次に行こうとしている。でも、その定理を導き出したこれまでの歴史を知るのは必要なのです。それを素通りしてしまった今までの無為を取り戻す営み、根拠の空白を埋める作業はぜったいに必要。けれどそれは朝の情報番組の時間枠くらいではとても足りないのです。

この「とにかく今はもうそういう時代じゃないんだから」は、私が引用した玉川さんの言とはすでに関係ない「言葉尻」としてだけで使っています。前段の要旨を言い換えましょう。この言葉尻から意地悪く連想するものは「LGBTという性的少数者・弱者はとにかく存在していて、世界的傾向から言ってもその人たちにも人権はあるし、私たちはそれを尊重しなくてはいけない。それがいまの人権の時代なのだ」ということです。さらに意訳すれば「LGBTという可哀想な人たちがいる。私たちはそういう弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている。そういう時代なのだ」

近代の解放運動、人権運動の先行者であるアメリカの例を引けば、アメリカは「そういう弱者をも庇護し尊重する時代」を作ってきたわけではありません。これはとても重要です。

大雑把に言っていいなら50年代からの黒人解放運動、60年代からの女性解放運動、70年代からのゲイ解放運動(当時はLGBTQという言葉はなかったし、LもBもTもQもしばしば大雑把にゲイという言葉でカテゴライズされていました)を経て、アメリカは現在のポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=PC)の概念の土台を築いてきました(80年代を経るとこのPCは形骸的な言葉狩りに流れてしまいもするのですが)。

それはどういう連なりだったかと言うと、「白人」と「黒人」、「男性」と「女性」、「異性愛者」と「同性愛者(当時の意味における)」という対構造において、その構造内で”下克上"が起きた、"革命"が起きたということだったのです。

「白人」の「男性」の「異性愛者」はアメリカ社会で常に歴史の主人公の立場にいました。彼らはすべての文章の中で常に「主語」の位置にいたのです。そうして彼ら「主語」が駆使する「動詞」の先の「目的語(object=対象物)」の位置には、「黒人」と「女性」と「同性愛者」がいた。彼らは常に「主語」によって語られる存在であり、使われる存在であり、どうとでもされる存在でした。ところが急に「黒人」たちが語り始めるのです。語られる一方の「目的語=対象物」でしかなかった「黒人」たちが、急に「主語」となって「I Have a Dream!(私には夢がある!)」と話し出したのです。続いて「女性」たちが「The Personal is Political(個人的なことは政治的なこと)」と訴え始め、「同性愛者」たちが「Enough is Enough!(もう充分なんだよ!)」と叫び出したのです。

「目的語」「対象物」からの解放、それが人権運動でした。それは同時に、それまで「主語」であった「白人」の「男性」の「異性愛者」たちの地位(主格)を揺るがします。「黒人」たちが「白人」たちを語り始めます。「女性」たちが「男性」を語り、「同性愛者」が「異性愛者」たちをターゲットにします。「主語(主格)」だった者たちが「目的語(目的格)」に下るのです。

実際、それらは暗に実に性的でもありました。白人の男性異性愛者は暗に黒人男性よりも性的に劣っているのではないかと(つまりは性器が小さいのではないかと)不安であったし、女性には自分の性行為が拙いと(女子会で品定めされて)言われることに怯えていたし、同性愛者には「尻の穴を狙われる」ことを(ほとんど妄想の域で)恐れていました。それらの強迫観念が逆に彼らを「主語(主格)」の位置に雁字搦めにして固執させ、自らの権威(主語性、主格性)が白人男性異性愛者性という虚勢(相対性)でしかないことに気づかせる回路を遮断していたのです。

その"下克上"がもたらした気づきが、彼ら白人男性異性愛者の「私たちは黒人・女性・同性愛者という弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている」というものでなかったことは自明でしょう。なぜならその文章において彼らはまだ「主語」の位置に固定されているから。

そうではなく、彼らの気づきは、「私たちは黒人・女性・同性愛者という"弱者"たちと入れ替え可能だったのだ」というものでした。

「入れ替え可能」とはどういうことか? それは自分が時に主語になり時に目的語になるという対等性のことです。それは位置付けの相対性、流動性のことであり、それがひいては「平等」ということであり、さらには主格と目的格、時にはそのどちらでもないがそれらの格を補う補語の位置にも移動可能な「自由」を獲得するということであり、すべての「格」からの「解放」だったということです。つまり、黒人と女性とゲイたちの解放運動は、とどのつまりは白人の男性の異性愛者たちのその白人性、男性性、異性愛規範性からの「解放運動」につながるのだということなのです。もうそこに固執して虚勢を張る必要はないのだ、という。楽になろうよ、という。権力は絶対ではなく、絶対の権力は絶対に無理があるという。もっと余裕のある「白人」、もっといい「男」、もっと穏やかな「異性愛者」になりなよ、という運動。

そんなことを考えていたときに、八木秀次がまんまと同じようなことを言っていました。勝共連合系の雑誌『世界思想』9月号で「東京都LGBT条例の危険性」というタイトルの付けられたインタビュー記事です。彼は都が6月4日に発表した条例案概要を引いて「『2 多様な性の理解の推進』の目的には『性自認や性的指向などを理由とする差別の解消及び啓発などを推進』とある。(略)これも運用次第では非常に窮屈な社会になってしまう。性的マイノリティへの配慮は必要とはいえ、同時に性的マジョリティの価値が相対化される懸念がある」と言うのです。

「性的マジョリティの価値が相対化される」と、社会は窮屈ではなくむしろ緩やかになるというのは前々段で紐解いたばかりです。「性的マジョリティ(及びそれに付随する属性)の価値(権力)が絶対化され」た社会こそが、それ以外の者たちに、そしてひいてはマジョリティ自身にとっても、実に窮屈な社会なのです。

ここで端なくもわかることは、「白人・男性・異性愛者」を規範とする考え方の日本社会における相当物は、家父長制とか父権主義というやつなのですね。そういう封建的な「家」の価値の「相対化」が怖い。夫婦の選択的別姓制度への反対もジェンダーフリーへのアレルギー的拒絶も、彼らの言う「家族の絆が壊れる」というまことしやかな(ですらないのですが)理由ではなく、家父長を頂点とする「絶対」的秩序の崩れ、家制度の瓦解を防ぐためのものなのです。

でも、そんなもん、日本国憲法でとっくに「ダメ」を出されたもののはず。ああ、そっか。だから彼らは日本国憲法は「反日」だと言って、「家制度」を基盤とする大日本帝国憲法へと立ち戻ろうとしているわけなのですね。それって保守とか右翼とかですらなく、単なる封建主義者だということです。

閑話休題。

LGBTQに関して、「わかってるわかってる、そういうのは昔からあった、必ず何人かはそういう人間がいるんだ」と言うのは、この「わかっている」と発語する主体(主語)がなんの変容も経験していない、経験しないで済ませようという言い方です。つまり「今はもうそういう時代じゃないんだから」と言いながらも、「そういう時代」の変化から自分の本質は例外であり続けられるという、根拠のない不変性の表明です。そしてその辻褄の合わせ方は、主語(自分)は変えずに「LGBTという可哀想な人たちがいる。私たちはそういう弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている」という、「LGBTという可哀想な人たち」(目的語)に対する振る舞い方(動詞)を変えるだけで事足らせよう/乗り切ろう、という、(原義としての)姑息な対処法でしかないのです。

これはすべての少数者解放運動に関係しています。黒人、女性、LGBTQに限らず、被差別部落民、在日韓国・朝鮮人、もっと敷衍して老人、病者、子供・赤ん坊、そして障害者も、いずれも主語として自分を語り得る権利を持つ。それは特権ではありません。それは「あなた」が持っているのと同じものでしかありません。生産性がないからと言われて「家」から追い出されそうになっても、逆に「なんだてめえは!」と言い返すことができる権利です(たとえ身体的な制約からそれが物理的な声にならないとしても)。すっかり評判が悪くなっている「政治的正しさ」とは、実はそうして積み上げられてきた真っ当さの論理(定理)のことのはずなのです。

杉田水脈の生産性発言への渋谷駅前抗議集会で、私は「私はゲイだ、私はレズビアンだ、私はトランスジェンダーだ、私は年寄りだ、私は病人だ、私は障害者だ;私は彼らであり、彼らは私なのだ」と話しました。それはここまで説明してきた、入れ替え可能性、流動性の言及でした。

ところで"下克上""革命"と書いたままでした。言わずもがなですが、説明しなくては不安になったままの人がいるでしょうから書き添えますが、「入れ替え可能性」というのはもちろん、下克上や革命があってその位置の逆転がそのまま固定される、ということではありません。いったん入れ替われば、そこからはもう自由なのです。時には「わたし」が、時には「あなた」が、時には「彼/彼女/あるいは性別分類不可能な三人称」が主語として行動する、そんな相互関係が生まれるということです。それを多様性と呼ぶのです。その多様性こそが、それぞれの弱さ強さ得意不得意好き嫌いを補い合える強さであり、他者の弱虫泣き虫怖気虫を知って優しくなれる良さだと信じています。

こうして辿り着いた「政治的正しさ」という定理の論理を理解できない人もいます。一度ひっくり返った秩序は自分にとって不利なまま進むと怯える人もいます(ま、アメリカで言えばトランプ主義者たちですが)。けれど、今も"かつて"のような絶対的な「主語性」にしがみつけば世界はふたたび理解可能になる(簡単になる)と信じるのは間違いです。「LGBTのことなんかよりもっと重要な問題がある」と言うのがいかに間違いであるかと同じように。LGBTQのことを通じて、逆に世界はこんなにも理解可能になるのですから。

さて最後に、「ゲイ? 私は生理的にムリ」とか「子供を産めない愛は生物学的にはやはり異常」だとか「気持ち悪いものは気持ち悪いって言っちゃダメなの?」とか、「所詮セックスの話でしょ?」とか、そういう卑小化され矮小化され、かつ蔓延している「そこから?」という疑問の答えを、先日、20代の若者2人を相手に2時間も語ったネット番組がYouTubeで公開されています。関心のある方はそちらも是非ご視聴ください。以下にリンクを貼っておきます。エンベッドできるかな?

お、できた。



August 19, 2018

匿名のQ

8月16日、全米の新聞社の3割にあたる300社とも400社とも言われる新聞媒体がトランプの一連のメディア攻撃を批判する社説を一斉に掲載しました。ことあるごとに自分の意に沿わないニュースを「フェイク・ニュース!」と断じ、7月20日のNYタイムズのA.G.ザルツバーガー発行人(38)との会談では「フェイク・ニュース」ジャーナリストを「国民の敵 Enemy of the People」とまで言ったトランプに対し、ボストン・グローブ紙が呼びかけたこの対抗運動のSNS上でのハッシュタグは「#EnemyOfNone(誰の敵でもない)」です。

こうしてジャーナリズムが自らを「敵ではない」と言わなければならないのは、合衆国憲法の初っぱなの修正第1条で「表現の自由」「報道の自由」を謳うような国で、その報道が具体的な暴力の対象になりかねない危機感を現場ジャーナリストたちが抱き始めているからです。

その兆候が7月31日のフロリダ・タンパでのトランプのMAGA(Make America Great Again)集会でした。そこでCNNのホワイトハウス担当キャップであるジム・アコスタが現場リポートをしようとしたところ、その中継が「CNN SUCKS(CNNは腐ってる)」の罵声で囲まれました。「FUCK the MEDIA(メディアをやっつけろ)」のTシャツを着た人、「Tell the truth!(本当のことを言え!)」と叫ぶ人たちの中で「Q」という文字の付いたキャップやTシャツを着ている人たちも目立ちました。中には大きく「Q」と切り抜いたプラカードを掲げている人もいました。

「Q」は昨年10月に「4chan(日本の2ちゃんねるに相当)」という電子掲示板に現れた匿名の人物(集団?)です。匿名=Anonymous を意味する「Anon」を付けて「QAnon(キュー・エイノン)=匿名のQ」と呼ばれてもいます。「Q」は米政府の極秘情報へのアクセス権を持つ政府高官だと信じられています。「Q」はその後、「4chan」が汚染されたとして投稿の場を「8chan」に変えましたが、今もまるでノストラダムスの予言めいた直接的には意味不明の暗号めいた情報の断片を投稿してはフォロワーたちをその解読に夢中にさせています。なぜなら「Q」の使命は、トランプとともに「ディープ・ステート」の企みを暴くことだからです。

「ディープ・ステート」は予てからある陰謀論の1つで、オリジナルは17世紀にも遡ります。現在のアメリカでは共和・民主の党派に関係なくいわゆるエスタブリッシュメントの政治家や官僚、財閥・銀行、CIAやFBI、メディアまでを含む、既得権益を握る「影(裏、闇)の国家(政府)」のことで、ロスチャイルド家だとかイルミナティーだとかフリーメイソンだとかのお馴染みの名前が出てきます。「Q」の説ではトランプはこの「ディープ・ステート」と戦うために軍部に請われて出現した大統領なのです。

「Q」によれば、金正恩はトランプを攻撃したいCIAの操り人形・手先です。ヒラリー・クリントンやオバマやジョージ・ソロスらはトランプ政権の転覆を画策しつつ一方で国際児童売春組織のメンバーです。モラー特別検察官はトランプのロシア疑惑捜査をしているフリをして実は民主党のそんな不正を捜査しています。トム・ハンクスやスピルバーグら民主党支持のハリウッドスターたちは、この小児性愛者のネットワークに所属しています。

笑い話ならそれでよいのですが、大統領選挙期間中の「ピザゲート」事件ではそんな陰謀論を信じた男が武器を持ってワシントンDCのピザ店を襲撃して発砲しました。その陰謀論の流れは今も脈々と続いており、そこに「Q」が現れた。荒唐無稽すぎて「QAnon」一派は最初は共和党の中の実に瑣末な一部に過ぎなかったのですが、ここ数ヶ月で一気にトランプ支持層の大きな本流へと成長してきているのです。ジョージア州などには「QAnon」と大書したビルボードが幹線道路脇に建ち、今年6月15日のネヴァダ州のフーバーダム近郊ではこの「QAnon」の"情報"を信じたフォロワーの男が司法省に対し陰謀資料を公表しろと90分にわたりハイウェイをAR-15や拳銃持参で武装封鎖して逮捕されました。彼らは大手メディアのニュースを「フェイク・ニュースだ!」と連呼するトランプの言を信じています。ワシントン・ポスト紙のマーガレット・サリヴァン記者は7月31日のタンパでの集会が、まるでこの「QAnon」支持者=陰謀論者たちの「カミングアウト・パーティーだった」とツイートしていました。

こんなにあちこちで破綻している陰謀論がどうしてこうも広くトランプ支持者の間で信じられているのか、よく理解できない人が多いでしょう。でも、トランプは選挙前から、少なくともこの3年にわたってこの根拠のない嘘話を数々と繰り出し吹聴してきた。選挙期間中から「バラク・オバマはアメリカ生まれではない」と何度も何度も繰り返しているうちにトランプ支持者たちはそれを信じました。大統領就任式に集まった群衆はメディアによって不当に矮小化されたと繰り返しているうちにトランプ支持者たちはそれを信じました。ヒラリー・クリントンの私的メールサーヴァー捜査も不正を隠蔽していると言い続けるうちに彼女はすっかり「crooked(詐欺師で)」「criminal(犯罪者」になった。これまで何百とファクトチェックで「嘘」と断じられたトランプの虚言も、そのファクトチェックすらメディアの「フェイク・ストーリー!」だと繰り返すことで真実になっている。思い返せば就任2日目に例の就任式の参加者数に関してケリーアン・コンウェイが用いた言葉「オルタナティヴ・ファクツ(もう一つの事実)」が、この政権を支えてきたのです。その積み重ねが大きな「QAnon」を作り上げてしまった。米タイム誌は6月末の号で、「Q」をインターネット上で最も影響力のある25人のうちの1人に挙げました。

ジャーナリズムへのこの執拗な攻撃、政権による特定メディアへの名指しの非難。なんだか日本でも同じことが起きているので気持ち悪くなるのですが、そういえば2016年11月、トランプ当選が決まってすぐにトランプタワーに彼を表敬訪問した安倍首相、自分とトランプとの共通点だとして言ったセリフが「あなたはNYタイムズに徹底的にたたかれた。私もNYタイムズと提携している朝日新聞に徹底的にたたかれた。だが、私は勝った…」でした。大統領首席戦略官となるスティーヴ・バノンは安倍を指して「Trump before Trump(トランプが登場する前のトランプ」と形容したそうです。

さてこうした「匿名のQ」への支持拡大で困るのは(日米で共通して)議論の土台が崩壊してしまうことです。私たちの「知」が拠って立つ共通の事実がなくなることです。でも「Q」の支持者たちは頑なに「Q」を信じる。なぜならトランプその人が「Q」の存在をほのめかすようなことを言ったりするからです。例えば何の脈絡もなく「17」という数字を持ち出してくるとか……例のタンパでの集会でもトランプは大統領就任前にワシントンDCに訪れたのは「17回だ」と4回も演説で触れていました。アルファベットで、Qは17番目の文字なのです。

タンパ・ベイ・タイムズ紙の演説書き下ろしによるとそれは次のような、文脈不明の「17」の羅列でした。
You know(なあ), I told the story the other day(この話は前にもしたんだが), I was probably in Washington in my entire life 17 times(人生でワシントンに言ったのは多分17回だ). True(マジで), 17 times(17回). I don’t think I ever stayed overnight(泊まったことはないと思うが)… Again(もう一度言うが), I’ve only been here about 17 times(17回だ、あそこに行ったのは=【訳注:タンパにいるのにワシントンのことを here って、「ここはどこ?」状態なんでしょうか?】). And probably seven of those times was to check out the hotel I’m building on Pennsylvania Avenue(で、おそらくその中の7回はペンシルベニア・アベニューに建てているホテルの様子を見に行ったんだ=【訳注:これも時制がおかしいわ】) and then I hop on the plane and I go back(行ってもすぐに飛行機に乗って帰ったがな=【訳注:同前】). So I’ve been there 17 times(だから、行ったのは17回だ), never stayed there at night(泊まったことは一度もない). I don’t believe(ないと思う).

何なんでしょう、この演説は? ただしこれは「Q」支持者にとっては、トランプが明らかに「17」を通して「Q」と「Q」支持者を意識している、という暗号になるわけです。

さて、ところでいったい「Q」は誰なのか? 

大手メディアでニュースとして取り上げられるようになったこの「Q」に関して、ハッカー集団「アノニマス」が8月に入って宣戦布告をしました。彼らのハッキング技術を駆使して、必ずや「Q」の正体を暴き出してやる、と表明したのです。

昨年2017年にアメフトの全米選手権を制したアラバマ大のチームがホワイトハウスに表敬訪問した際、トランプに贈ったユニフォームの背番号が「17」でした。これが「Q」支持者の間でいまさら話題になっています。その「17」こそが「Qの存在を証明する暗号だったから」というのです。そして、それが彼らに意味したのは、トランプこそが「Q」その人なのかもしれない、ということなのです。おお。

ちなみにNYタイムズによれば、同じくアラバマ大が全米選手権で優勝してオバマを表敬した際は、贈呈されたユニフォームの背番号は「15」でした。2015年度の優勝だったからです。

August 08, 2018

「生産性」という呪縛

安倍首相自らのリクルートによって比例代表で当選した自民党の杉田水脈衆院議員が「LGBTは子供を作らない。つまり『生産性』がない」と「新潮45」に寄稿して大きく物議を醸しています。少子化対策という大義名分に照らしても「そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と反語で疑問を呈していて、この発言はインディペンダントやガーディアン、CNNなどの海外ニュースでも問題視されています。その中でも最も厳しい論調だったのが、若者に人気のある米国のニュースサイト「Daily Beast デイリービースト」のTOKYO発8月4日付の記事でした。

JAKE ADELSTEINとMARI YAMAMOTOの共同執筆となるそれは、見出しからして「Ugly, Ignorant, Pathological Anti-LGBT Prejudice Reigns in Japan's Ruling Party(醜悪で無知で病的な反LGBT偏見が日本の支配政党に君臨する)」とかなりキツイ。そして「日本の、そう自由でもそう民主的でもない自由民主党が、2012年の安倍政権発足以来、ヘイトスピーチで問題になっている。ここ何年もの間、日本の問題は少数派の「在日韓国・朝鮮人」へ向けられてきたが、ここ数週間で、出生率の低下や社会問題の新しいスケープゴートが生まれた。LGBTコミュニティである」と書き始めます。

注目すべきは、日本のメディアではほとんど指摘されていませんが、ここではすぎた発言を明確に「ヘイトスピーチ」と断じている点です。これは国際基準でいえば明らかに憎悪発言であり、政治家ならば一発でアウトの事例です。もっとも、トランプ時代のアメリカにあってはその大前提も揺らいではいますが。

記事はそこから、安倍首相自らがリクルートして自民党に入った杉田議員の今回の発言内容を紹介します。しかし問題の核心は杉田個人の発言にとどまりません。まさに彼女を許してきた自民党だと切り込みます。

For weeks, Sugita’s party seemed to condone her views. But the Japanese people and even the self-censoring media are not letting this one slide, and now even within the LDP there have been angry and pointed exclamations of disgust.
「杉田の党は数週間にわたって彼女の見解を問題視しないでいたが、日本人およびセルフセンサリング・メディア(政権批判を自己検閲する日本のメディア)も今回は見逃さなかった。自民党の内部ですらも怒りと非難の声が上がった」

But were any lessons learned?
「しかし、教訓は学ばれたのか?」

杉田議員はこの寄稿の中で「リプロダクティヴィティ(生殖・再生産性)」を「プロダクティヴィティ(生産性)」と故意か無学か混同し、論理を飛躍させているのですが、言うまでもなく人間を「生産性」で語ることは、ナチスの優生思想です。アウシュビッツなどの強制収容所では連行したユダヤ人を「手に職を持つ者」と「持たない者」に分け、後者は「ノミ・シラミを洗い落とすためのシャワー室」という名のガス室に送り込みました。そこには当然、老人や病人や女・子供が含まれます。

同時に杉田議員の言う通り、ナチスは「生産性のない」身障者や同性愛者(当時はLGBTという細分化した言葉がなく、みなホモセクシュアルで一緒くたにされていました)たちをも数十万人規模で"処理"したのです。

デイリービーストは性的少数者を取り巻く日本での現状も説明します。

Currently, roughly 8 percent of the population identify themselves as LGBT. While Japan does not legally recognize same-sex marriage at a national level, local governments, including the Shibuya and Setagaya wards of Tokyo, have used ordinances to recognize same-sex partnerships. Other prefectures are taking similar measures.
「自らをLGBTとする人々は現在およそ8%だが、日本では同性婚は法的に認められず、渋谷や世田谷などの地方レベルで同性パートナーシップが条例で認知されるだけだ」

Beverage maker Kirin, e-commerce giant Rakuten, and some other Japanese corporations are moving ahead with policies to provide the same paid leave for marriage, childbirth, and other life-changing events to same-sex couples. (Note that even Japan’s stodgy corporations are able to conceive something that LDP politicians can’t seem to grasp: yes, even same-sex couples can have children.)
「キリンや楽天など日本の大企業には同性カップルの従業員にも結婚・出産やその他人生の大事なイヴェントにおける有給休暇など福利厚生を拡大している。(注:日本の野暮な企業でさえ自民党の政治家が考えられないこうした事例を考えつける。そう、もちろん同性カップルでも子供を持つことは可能だから)」

その上で国際アムネスティの言葉を借りて、「日本でLGBTピープルは家庭内、職場、教育現場、医療サービスで差別を受けている」「政治家や政権幹部が公の場で極めてホモフォビックな発言をしさえする」と紹介。それを安倍総裁率いる自民党の体質として次のように分析しています。

興味深いのは今回の杉田寄稿文は朝日新聞攻撃の文章だと説明してからの安倍首相の人物像です。

The Asahi Shimbun is one of the more liberal newspapers in the country and has been compared to the New York Times. The Asahi is strongly disliked by Prime Minister Abe, who has publicly attacked the paper, and who has in his meetings with President Donald Trump told him, “I hope you can tame the New York Times the way I tamed the Asahi.”  Long before Trump was calling the press, “the enemy of the people,” Abe was making effective use of that tactic. (When Steve Bannon called Abe, “Trump before Trump” he wasn’t far off the mark.)
「朝日はニューヨークタイムズに例えられる日本のリベラル紙だ。安倍首相にひどく嫌われている新聞で、彼はこれまでも公然と同紙を攻撃してきた。トランプとの最初の会談【訳注:2016年11月の、当選直後のトランプタワーでの会談】で彼は「私が朝日新聞を飼いならしたようにあなたもニューヨーク・タイムズを飼い慣らせるよう望んでいる【訳注:正確には「あなたはニューヨーク・タイムズに徹底的にたたかれた。私も朝日新聞に叩かれたが勝った。あなたもそうしてくれ」と言ったとされる】」と伝えた。。トランプがメディアを「国民の敵」と呼ぶようになるずっと以前から、安倍はこの戦略を有効に使ってきたのだ。スティーブ・バノン(元大統領首席戦略官)は実際、安倍を『トランプ以前のトランプ』と呼んでいた。その言いはそう間違ってはいない」

デイリービーストはここから「同性婚を認めたら兄弟婚や親子婚、ペット婚まで行くかもしれない。海外ではそういう人も現れている」という杉田の発言を詳報して、そこにネット上で反対の声に火がつき、さらにそれに反対するネトウヨの自民党支持者が参戦してきた様子を紹介する。7月27日夜に行われた自民党本部前での大抗議集会の様子も描写し、若い女子大生ら参加者の声も拾っています。つまりこれは自民党自体の体質への、LGBTのみならず広い層からの異議申し立てなのだということにまで踏み込むのです。

Mio Sugita, who was not available for comment, is, like many female politicians welcomed into the LDP, an extreme right-winger and fiercely loyal to Abe. This is important to understand because she is a microcosm of the few women that manage to gain power within the LDP, which has more or less been ruling Japan since the party was founded in 1955. Even when LDP lawmakers are female in gender they are rarely feminists and often echo the sexist and extremist views of Nippon Kaigi, the right-wing Shinto cult, or are members of it. This group helped Abe stage a political comeback after his bumbling exit from power in 2007; most of his handpicked cabinet members belong to the group.
「杉田はコメントを出していないが、自民党に歓迎されて入った多くの女性政治家たちと同様、極端な右翼思想の持ち主で安倍に強烈な忠誠を尽くす。ここを理解することが重要だ。なぜなら彼女は、自民党で権力を握る少数の女性たちのマイクロコズム(小宇宙=縮図)だからだ。自民党の女性政治家たちはジェンダーこそ女性だが、フェミニストであることはまずなく、むしろしばしば性差別主義者で日本会議や神社本庁などの極端な右翼の声を反映し、あるいはそのメンバーであったりする。これらの組織が安倍のカムバックを演出し、安倍は彼らのメンバーから閣僚人事を行っている」

The tone-deaf attitude towards the LGBT community by Japan’s ruling party is part of a pattern of picking on the weak in society, blaming them for being weak and then for society’s wider problems. When people dare to assert they have rights, the LDP pushes back even harder, whether against LGBT people, or foreign workers, or women, or third-generation Korean-Japanese, or the press –– when things go wrong the minorities get blamed.
「日本の支配政党のLGBTへのこの無知な=音が聞こえていない=態度は、日本社会の弱い者いじめ、弱者攻撃のパターンの一部だ。その弱者、少数者たちがより広い社会問題の元凶だと非難するのだ。そういうグループが果敢に権利を主張すれば、自民党の反撃はさらに酷いことになる。LGBTだけでなく、外国人労働者、女性、在日韓国人朝鮮人三世、そして報道機関にすらもそれは向けられる。よくないことが起きればそれはマイノリティのせいなのだ」

Partially blaming LGBT for Japan’s declining birth-rate is not as difficult as addressing the real reasons people don’t have children: a lack of real job opportunities for women, gender inequality, single-parent poverty, the destruction of labor laws so that lifetime employment is a pipe-dream, endemic overtime resulting in (karoshi) people working to death, sexual harassment on the job, maternity harassment. The wealthy old men who run the party don’t have any conception of working hours so long and wages so low that dating is difficult, getting married a challenge, and raising children is impossible. All of this while there is rising poverty as Abenomics fizzles out.
「日本の出産率低下でLGBTを攻撃するのは、子供を持たない本当の理由を解決するよりも簡単だからだ。日本では女性たちの仕事の機会が欠けている。男女格差、性差別、シングルペアレントの貧困、終身雇用制の崩壊、過労死、職場のセクハラ、マタハラ。この政党を運営する裕福な老人男性たちは、労働時間がひどく長くて賃金がひどく低くてデートすることも難しく結婚することはチャレンジで子供を育てることが不可能だということをさっぱり理解していない。これら全てがアベノミクスが立ち消えになろうとする中、立ち現れる貧困の一方で起きていることだ」

そして、結語が次の一文です。

It’s a lot easier to wage a war on LGBT people than it is to wage a genuine war on poverty.
「貧困問題に本当の戦争を仕掛けるよりも、LGBTを叩いている方がずっと簡単なのだ」

デイリービーストは報道と同時にオピニオン誌の傾向も強いのは確かです。しかし、杉田発言への今回のこの抗議のかつてない盛り上がりは確かに、LGBTのみならず、不妊の夫婦や障害者や病人や老人を含めた多くの「生産性がない」とされる人々を巻き込んでいること、そしてその背景に日本の自民党が見逃している、あるいは故意に見捨てている大きな政治的空白が存在していることを指摘するこの記事は、かなり正鵠を射ていると思います。自民党とその周辺の日本のオトコ社会だけを見ていたら、これほどの抗議拡大の理由はわからないままなのです。

April 25, 2018

告発の行方

セクハラの裏には必ずパワハラがくっついています。「おっぱい触っていい?」「手ぇ縛っていい?」と言われても相手に自分に関係する何の権力も持っていなければ「バァカ!」の一言で済みます。

こちらが記者で相手が政治家や幹部官僚、あるいは取材対象の警察官なら話は違います。常識はずれの深夜に呼び出されても私だってノコノコと出向いて行くでしょう。ウォーターゲート事件のディープスロートとは言いませんが、ジャーナリストなら万が一の「何か」を求め暗い地下駐車場でも深夜の飲み屋にでも行く。相手が断らないと知っているからこそ、福田次官だって彼女を呼び出したのです。

彼女がその場で強く非難しなかったことも、報告を受けた上司が事を荒立てない方向に動いたのも確かです。しかしがんじがらめの男社会の中、告発が恐らくは直ぐにどこかへと吸収されて消えてなくなり、どこにも届かないばかりか声を出した方こそが"非常識な"ことをしたかのように疎んじられる「空気」がその理由であることは、昨年からの#MeToo運動での欧米女性たちの後悔からも明らかです。

その上で私はまず、テレ朝のセクハラ発表の1つの項目が気になりました。テレ朝は「社員が取材活動で得た情報を第三者に渡したことは報道機関として不適切な行為で遺憾」としました。

これは、このセクハラに社として対応出来なかった結果、「社員が取材活動で得た情報を第三者(週刊新潮)に渡さざるを得ないような状況を作ったことは報道機関としても不適切な行為で遺憾」とすべきではないのか。さらに言えば、このセクハラの録音データは「取材活動で得た情報」ではありません。週刊新潮に渡したのは、取材活動の際にたまたま録音された「不適切行為の記録」なのです。

それでも中には録音を告げずに録音したのは記者倫理にもとる、と言う人もいます。それも違うと考えます。福田次官はかねてより同様の発言を繰り返していた。今回の録音はちょうど「ここではよくチカンやスリが起こるので防犯カメラを設置したら案の定その犯罪現場が録画された」というのと同じことです。その情報を放置したらそれこそ社会正義にもとる行為でしょう。それは「公益通報」といいます。

しかしそれ以上に、その後に出て来た安倍政権の言葉のひどさに辟易としています。中でも任命責任者の麻生財務大臣の妄言。テレ朝の対財務省抗議文には「もう少し大きな字で書いてもらった方が見やすいなと思った程度に読んだ」。次官のセクハラ認定には「(告発者)本人が出てこなければどうしようもない」「(次官が)はめられて訴えられているんじゃないかとか、ご意見はいっぱいある」と、公平さを装ってその実は脅しているという、この政治家の底意地の悪さが透けている。

この麻生大臣に呼応して、次官なき後のトップである矢野康治財務省官房長も「その方が弁護士さんに名乗り出て、匿名でおっしゃるということが、そんなに苦痛なことなのですか」と実に「(セクハラ認識が)相当高い」と自称する答弁を財務金融委員会で行い、下村元文科相も麻生発言のコピーのように「隠しテープで録って週刊誌に売ること自体、はめられていますよね。ある意味で犯罪だ」と演説する始末です。これらはけれど、SLAPP訴訟(社会的地位や経済的余裕のある比較強者が、比較弱者を被告にして恫喝的に起こす訴訟)の脅しの論理と同じものなのです。

案の定、麻生大臣は「(セクハラだと騒ぐなら)次官の番記者を男に変えれば済む話だろ?」とも言った。その愚劣な顔に向け、誰か「逆に次官を女に変えるというのも一策だぜ」と返してやれば良かったのにと思わざるを得ません。ほんと、麻生に対してはメディア側はもっと即応できるへらず口の質問者を用意すべきですね。

1つ言っておきましょう。セックスのことばかり口にして「女好きのスケベ」と評判の男は総じてミソジニスト(女嫌い)です。性的対象(獲物?)の枠組みからはみ出す「人格を持った女」が大嫌い。だからセクハラをするのです。思い当たる男たちがウンザリするほどたくさんいます。

閑話休題。

テレ朝は「女性社員を守る」と言いました。「守る」というのはどういうことなのでしょうか? 彼女は財務省担当を外されないか? 経済部から異動されないか?

聞けば彼女の「上司」も女性だそうです。その「上司」もおそらく同じようなセクハラ体質の男性主義社会を生き延びて来たと思います。その上司も守らなければなりません。

もしこの「騒動」でメディア側が教訓を得るならば、それは、こういう場合の対応をマニュアル化するかルール化して機械的に決めてしまうことです。様々な忖度はその都度、その個別のケースでそれぞれに働きましょう。でもその基盤に、例えば「即刻抗議する」「抗議に正しい対応がなければそれを報道する」「事前に記者クラブへ抗議への協力を要請する」「当該被害者は希望がない限り現状の職務を保障する」などのスタンダードを決めておけば、現場が迷うことはありません。

実は取材記者たちへのセクハラのケースは中央省庁よりも、地方支局の記者1年生、2年生のまだ何もわからない、取材とはこういうものなのかとすぐに思い込んでしまうかもしれない若手記者に対しての、警察官によるものが多いと聞きます。ちなみに、新人記者は警察担当から始まります。地方支局なら、その町(普通は支局のある県庁所在地)の警察署の事件・事故担当です。そして四六時中警察署およびその県内の各警察署に詰めたり通ったりすることになる。その警察社会もまた極端な男社会です。セクハラというより、取材警官による性的虐待(Sexual Abuse)、性的攻撃(Sexual Agression)、あるいはレイプ未遂という明確な犯罪行為もあると聞きます。

となるとこれはメディア一社の問題ではなく、当該官庁の記者クラブ全体の、あるいは報道機関全体、日本新聞協会、日本民放連、日本記者クラブなどの全体組織で取りまとめるスタンダードであるべきかもしれません。さて、テレ朝以外の報道各社はいま現在、このジャーナリズム界の#MeTooの動きに呼応する態勢になっているのでしょうか?

January 10, 2018

『火と憤怒 Fire and Fury』

そもそもどこの「精神的にとても安定した天才」が自分のことを「精神的にとても安定した天才だ」と言うだろうか、という疑義がまずあるものですから、この本自体の信憑性への細かな疑問がすっ飛ばされて、とにかく「さもありなん」で読み進んでしまうのがこの本の怖いところです。とにかくKindle版で購入して、ざっと一通り最後まで読んでみました。

いみじくもセクハラ辞任したFOXニュースの元CEOロジャー・アイルズがトランプに関して冒頭部分でこう語っています。「あいつは頭を殴られても、殴られたと分からずに攻撃し続ける」。アイルズはトランプのそんな「恥知らずさ」が好きなのだそうです。そう、この『火と憤怒』(もちろんこの題名はトランプによる北朝鮮への脅し文句から取っています)は、トランプの非常識と破廉恥と無知ぶりの暴露を欲している人々に、それらを惜しみなく与えるように書かれています。だから驚きよりも「やっぱり」と思ってしまう。だいたい、大統領になんかなりたくないんじゃないか、という話は選挙前にこのコラムでもさんざん書いてきましたし、政権発足後の政権内の人物関係の軋轢も、既に知っている文脈から外れていません。もっとも、この本には脚注も出典も引用元も書いていないので、まるで見ていたような描写は一体どういうものなのか引っかかりはするのですが。

著者のマイケル・ウルフはニューヨーク・マガジンやハリウッド・リポーター誌などで業界ウラ話的なコラムを書いていた人です。私の知人で出版事情に詳しい版権エージェントの大原ケイさんが、そのウルフが選挙期間中からやたらとトランプを持ち上げる記事を書くのを変だなあと思っていたそうです。それもこれも彼がトランプ政権に食い込むしたたかな作戦だったようで、実際、彼はそんな記事が気に入られてトランプと知り合い、ホワイトハウスでは大統領執務室のあるウエストウィングで「壁のハエ」になれるほどどこでも出入り自由、雑談自由だったと取材の舞台裏を明かしています。大原さんは、トランプ政権のスタッフにしても彼のことを知っていたらヤバイとわかりそうなものだけど、政権内で本を読むのはスティーブ・バノンぐらいだったから気づかれなかったのだろうと呆れています。

かくして暴露された内輪話は、数々の細かな事実誤認はあるものの、イヴァンカが解説したあの髪の秘密とか、メラニアを「トロフィーワイフ」と呼んではばからないとか、毒殺を恐れて歯ブラシには触らせないとかマクドナルドしか食べないとか、あるいは合衆国憲法のことも共和党下院議長だったジョン・ベイナーの名前も知らなかったとか、さらには友人の妻を寝取るためにわざとその友人と浮気話をして、それをその妻にスピーカーフォン越しに聞かせたとか、それはそれは唖然とする話ばかりです。

一方で反ユダヤのバノンがジャレッド・クシュナーとどう折り合っていたのかが不思議だったのですが、案の定ジャレッドとイヴァンカの夫婦を民主党支持のリベラルなバカだと非難して「ジャーヴァンカ」とまとめて呼んでいたとか、バノンがジョン・ケリーらを軍人官僚と呼んで毛嫌いしていたとか、政権スタッフたちのそれぞれの悪口の応酬も書かれていて、だから1年も経たないうちに主要スタッフの30%が辞めてしまうという機能不全状態なのだなと、妙に納得するようにもなっています。

政権としてもよほどこの本を恐れているのか、というか言い返せねば気が済まないトランプの性格を忖度してか、上級政策顧問スティーヴン・ミラーが先日、CNNに登場してこの暴露本を「ガーベージ作家によるガーベージ本」と呼んでヒステリックにトランプ擁護をまくし立てていました。ミラーのセリフは「24時間政権攻撃してるんだから3分だけこちらの言い分を話させろ」というものですが、その3分間は同じことの繰り返しで、結局司会のジェイク・タッパーにマイクを切られてしまいました。しかしそのまま番組が終了しても退席せず、結局セキュリティによって強制排除されたそうです。32歳で若いとはいえ、あまりにも拙く幼い。まあ、政治の素人みたいなもんで、政権がたち至らなくなったら自分の行く先も危うくなる身の上、必死であることはわかりますが。

けれどやや不可解なのはこの暴露本の主要部分を構成したスティーヴ・バノンです。発売から3日経ってやっと自分の話したことの「謝罪」と「後悔」を口にするのですが、部分的に誤った引用があるというもののデタラメだとは言わないのです。トランプがフェイク・ブックだとわめきたてても、このバノンの態度がこの本に一定のクレディビリティを持たせてしまっています。バノンは政権をクビになってからもトランプをは毎日連絡を取り合っているとか、100%支持しているとか、先月は日本に来てもそう言っていましたが、殊勝なふりをして実はこの暴露話は政権崩壊を狙っているのではないかとも勘ぐられるほどです。まあ、どうでもいいんですけど。

というか、バノン、このせいでブライトバートの資金スポンサーからも見限られ、あるいはブライトバート自体をも追われかねない状況です。政権崩壊よりも自らが崩壊しそう。

そのバノンがこの本の最後のところでも再び登場してきます。彼の見立てるトランプ政権の今後は、モラー特別検察官チームが弾劾に追い込む確率が33.3%、修正憲法25条、つまり職務遂行できない(精神の不安定?)として排除される前にトランプが自ら辞任する確率が33.3%、どうにか1期を終えるのが33.3%(しかし2期目はない)と見ている、とこの本は締めくくっているのです。

はてさてどうなることやらのトランプ政権2年目の新年の幕開けです。

December 15, 2017

告発の行方

アメリカのような「レディー・ファースト」の国でどうしてセクハラが起きるんですかと訊かれます。セクハラは多くの場合パワハラです。それは「性」が「権力」と深く結びつくものだからです。「性」の本質はDNが存続することですが、そのためには脳を持つ多くの生き物でまずはマウンティングが必要です。それは、文字どおり、かつ、比喩的にも、「権力の表現形」なのです。

なので、権力がはびこるところではセクハラも頻発します。個人的な力関係の場合も社会的な権力の場合もあります。男と女、年長と年少、白人と黒人、多数派と少数派──パワーゲームが横行する場所ではパワハラとセクハラ(あるいは性犯罪)は紙一重です。

この騒動の震源地であるハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴィー・ワインスティンや、オスカー俳優ケヴィン・スペイシーへの告発は以前から噂されていました。トランプは大統領になる前はセクハラを自慢してもいました。けれど告発が社会全体の問題になることはほとんどありませんでした。結果、これまではコメディアンのビル・コスビーやFOXニュースのビル・オライリーなど、ああ、1991年、G.W.ブッシュが指名した最高裁判事ののクラレンス・トーマスへのアニタ・ヒルによる告発の例もありましたね、でもいずれも個人的、散発的な事件でしかありませんでした。それがどうして今のような「ムーヴメント」になったのか。

私にはまだその核心的な違いがわかっていません。女性たち、被害者たちの鬱積が飽和点に達していた。そこにワイントンポストやNYタイムズなどの主流メディアが手を差し伸べた。それをツイッターやフェイスブックの「#MeToo」運動が後押した……それはわかっていますが、この「世間」(アメリカやヨーロッパですが)の熱の(空ぶかしのような部分も含めて)発生源の構成がまだわかり切らない。わかっているのは、そこにはとにかく物事を表沙汰にして徹底的に正しく解決しようという実にアメリカ的な意志が働いていることです。ヒステリックな部分もありますが、恐らくそれもどこかふさわしい共感点へたどり着くための一過程なのでしょう。

   *

日本でもそんなアメリカの性被害告発の動きが報道されています。ところが一方で、TBSのTV報道局ワシントン支局長だった男性のレイプ疑惑が、国会でも取り上げられながらも不可解なうやむやさでやり過ごされ、さっぱり腑に落ちないままです。

同支局での職を求めて彼と接触したジャーナリスト伊藤詩織さんが、就労ビザの件で都内で食事に誘われた際、何を飲まされたのか食事後に気を失い、激しい痛みで目を覚ますとホテルの一室で男性が上に乗っていたというこの件では、(1)男性に逮捕状が出ていましたが執行直前に警視庁から逮捕中止の指示が出たこと、(2)書類送検されたがそれも不起訴で、(3)さらに検察審査会でも不起訴は覆らず、その理由が全く不明なこと。そしてそれらが、その男性が安倍首相と公私ともに昵懇のジャーナリストであることによる捜査当局の上部の「忖度」だという疑い(中止を指示したのも菅官房長官の秘書官だった警視庁刑事部長)に結びついて、なんとも嫌な印象なのです。

性行為があったのは男性も認めているのに、なぜ犯罪性がないとされたのか? 何より逮捕状の執行が直前で中止された事実の理由も政府側は説明を回避しています。言わない理由は「容疑者ではない人物のプライバシーに関わることだから」。

しかし問うているのは「容疑者でない」ようにしたその政府(警察・検察)の行為の説明なのです。アメリカの現在のムーヴメントには「物事を表沙汰にして徹底的に正しく解決しよう」という気概があると書きましたが、日本ではレイプの疑惑そのもの以前の、その有無自体を明らかにする経緯への疑義までもが「表沙汰」にされない。ちなみに、当の刑事部長(現在は統括審議官に昇進)は「2年も前の話がなんで今頃?」と週刊誌に答えています。「(男性が)よくテレビに出てるからという(ことが)あるんじゃないの?」と。

   *

折しも12月12日はアラバマ州での上院補選でした。ここでも40年前の14歳の少女への性的行為など計8人の女性から告発を受けた共和党のロイ・ムーアの支持者たちが、「なぜ40年前の話が選挙1カ月前になって?」と、その詩織さん問題の元刑事部長と同じことを言っていたのです。性犯罪の倫理性には時効などないし、しかも性被害の告訴告発には、普通と違う時間が流れているのです。

しかしここはなにせアラバマでした。黒人公民権運動のきっかけとなった55年のローザ・パークス事件や、65年の「血の日曜日」事件も起きたとても保守的な土地柄。白人人口も少なくなっているとはいえ70%近く、6割の人が今も定期的に教会に通う、最も信仰に篤いバイブル・ベルトの州の1つ。ムーアも強硬なキリスト教保守派で州最高裁の判事でした。そして親分のトランプと同じように、彼自身も性犯罪疑惑などという事実はないの一点張りの強硬否定。性被害を訴えるウェイトレスたちのダイナーの常連だったのにもかかわらず、その女性たちにはあったこともないと強弁を続けました。
 
案の定、告発そのものをフェイクニュースだと叫ぶ支持者はいるし「ムーアの少女淫行も不道徳だが、民主党の中絶と同性婚容認も同じ不道徳」「しかもムーアは40年前の話だが、民主党の不道徳は現在進行形だ」という"論理"もまかり通って、こんな爆弾スキャンダルが報じられてもこの25年、民主党が勝ったことのない保守牙城では、やはりムーアが最後には逃げ切るかとも見られていました。おまけにあのトランプの懐刀スティーブ・バノンも乗り込んで、民主党候補ダグ・ジョーンズの猛追もせいぜい「善戦」止まりと悲観されていたのです。

それが勝った。

トランプ政権になってからバージニアやニュージャージーの州知事選などで負け続けの共和党でしたが、その2州はまだ都市部で、アラバマのような真っ赤っかの保守州での敗北とはマグニチュードが違います。

バイブル・ベルトとラスト・ベルト──支持率30%を割らないトランプ政権の最後の足場がこの2つでした。アラバマの敗北はその1つ、バイブル・ベルトの地盤が「告発」の地震に歪んだことを意味します。来年の中間選挙を考えると、共和党はこうした告発があった場合に、否定一本で行くというこれまでの戦略を変えねばならないでしょう。とにかくいまアメリカはセクハラや性犯罪に関しては「被害者ファースト」で社会変革が進行中なのです。

November 08, 2017

おもてなし外交のウラ事情

ビル・マーというコメディアンが面白おかしく且つ辛辣に政治批評を展開する「Real Time with Bill Maher」というHBOの人気番組があります。先週末のその冒頭は、拍手喝采の中で登場したその彼が「いや、みんななんでそんなにご機嫌なのかわかってるって。ついさっきトランプがアメリカから出てったからね」と口火を切りました。ハワイとアジア歴訪に旅たった大統領を揶揄したものです。「ずいぶん気が楽になった。子供たちをサマーキャンプに送り出した親の気分だ」と。

軽口はまだ続きます。
▼12日間のアジア旅行。トランプに、あんたがいなくなったら一体この国の面倒は誰が見るんだと誰かが聞いたらしいんだが、トランプが言うには「誰だっけ? 俺がいる時には?」
▼訪れるのは中国、日本、フィリピン、ヴェトナム、韓国......トランプの「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」の帽子を作ってる国だ。
▼中でも中国は重要だよ。トランプはあそこに壁を視察に行くわけだから。あの壁(万里の長城=the Great Wall)のおかげで、あそこでメキシコ人の姿はもうずっと見ていない。あの壁はすごい。
▼それからヴェトナムだね。彼が昔、徴兵逃れで行かなかった国。それで今度はやっと大統領として行けたわけだ。誰だっけ、ドジャーズが負けたって言ったのは? (ドジャーズは「身をかわす人たち」の意味。つまり「徴兵回避の人たち」。ナショナルリーグの優勝決定戦で負けてワールドシリーズに行けなかったドジャーズに掛けて、実世界のドジャー=徴兵逃れのトランプはちゃっかり負けていないという皮肉)
▼ハロウィーン、子供たちに何を配ったかは知らんが、ロバート・モラーの家では起訴状が配られたね。
▼ニューヨークのテロ。トランプが即座にツイートしてた。「バカで弱腰の大統領のせいでこうなるんだ。あ、ちょっと待て、今の大統領は俺だった」
▼ツイッターの従業員が退職最後の日にトランプのツイッターアカウントを11分間、消した。まあ色々あるが、私はその彼に言いたい。「Thank you for your service! (お務め、ありがとう!)」

その話にもあったロシアゲートですが、今週はマナフォートの次にあのマイケル・フリンが息子ともども逮捕・起訴されるという観測が出ました。ワシントン・ポストはトランプ周辺の計9人が選挙中及び就任移行期間中にロシアと接触したと報じ、大統領は大変な不機嫌の中で旅立ったとされています。そのせいか、エアフォース・ワンの中での同行記者の質問「今や中国の中で権力基盤を固めた習近平は世界で最も力のあるリーダーではないかと言われるが?」に、トランプはムッとしたのか「So am I(オレも同じだ)」と答えたそうです。常に誰かと比較して自分を位置付ける、そういう性格なのでしょう。

そんな中での日本の「おもてなし」でした。イヴァンカへの歯の浮くようなチヤホヤした日本のTVカヴァレッジはアメリカでも報道されましたから父親も知っていたでしょう。とにかく日本はこの親子に対してとても気分がいいようです。世界で日本だけです。ゴルフ接待もそうでしたが、安倍=トランプの個人的な蜜月ぶりをことさら強調してウキウキしている国は。昨年11月の当選後真っ先にトランプ・タワーを訪れた安倍首相一行にしても、実はトランプ陣営もそんなに早く来るとは思っていず「慌てて断ろうとしたがすでに機上の人でキャンセルできなかった」というエピソードをトランプ自身がジョークとして披露するくらい"ブッチャケた"仲なのです。

それはいずれおそらくは米国務省の対日外交にも影響し、「大統領とアベがああも仲がいいのだから」と、日本にそうはきつい政策は取らないでおこうとの「忖度」が働くかもしれません。しかしそれは今回はまだ十分ではなかったようです。

2日間にわたる会談を終えて共同記者会見に臨んだトランプは日本の経済を称賛し、そこでアドリブに転じて「I don’t know if it’s as good as ours. I think not, okay?(だが我々の経済ほどいいかはわからない。私は違うと思うよ、オーケイ?)」とすかさず自国民へのメッセージに変えました。

ワシントン・ポストはこの「オーケイ?」をまるで子供にウンと言わせる時の親の口調、と評しています。「And we’re going to try to keep it that way. But you’ll be second.(我々はずっとそのまま(1位)でいるつもりだが、でもキミたちが2番手なのは確かだ)」とトランプは続けました。安倍首相は隣でニヤニヤと曖昧に笑っていました。

もう1つ、この仲の良さの歪つさが垣間見られた時がありました。トランプが「アベ首相が米国からより多くの兵器を購入すれば、北朝鮮のミサイルを上空で撃ち落とせるだろう」と言った時です。「重要なのは米国から大量の兵器を買うことだ。そうすれば米国で多くの雇用が生まれ日本には安全をもたらすだろう」と。

今夏の北のミサイルの日本"上空"通過の際に「日本はなぜ撃ち落とさなかったのか」とトランプが言っていた、と報じられたのはこの伏線だったのでしょう。もちろん高度3500kmは「上空」でも「領空」でもない宇宙空間で、撃ち落とす権利や能力はどの国にだってありません。けれど安倍は「日本の防衛力を拡充していかなければならない。米国からさらに購入していく」と鸚鵡返しに応じました。それはまさに「100%共にある」と言った日本の首相の言葉通りの姿勢であり、それが米国民向けのプロパガンダであることも容認するお追従ぶりです。

もちろんそれには裏事情があります。日本の保守や右翼が純粋な国家主義と親米という相矛盾するねじれた2本柱で成立しているのは、戦後日本で民主的で平和的でリベラルの象徴のような憲法を作りながら一方で冷戦の暗雲が立ち込めた時にそのアメリカ自身が戦前戦中の守旧派政治家や軍人や右翼フィクサーを「復活」させた「大恩人」だったからです。戦後の民主平和国家は、一方で防共の砦として右翼と保守とが政治の表と裏の両方の舞台に配置された国へと変貌させられていたのです。岸信介や児玉誉士夫のことを思えばそれは容易に得心できるでしょう。

そんなねじれが安倍首相に見事に受け継がれています。どんなことがあってもアメリカの機嫌を損ねたら自分の権力が危ないことを、彼はまさに岸信介から教わったのです。たとえそれが彼の被害妄想であったとしても、その彼が今の日本の最高権力者。最高権力者の妄想は最高に強いのです。

こんなにおカネを使って「おもてなし」をしたのはそういう事情です。売り込みに当たっては日本の都合など斟酌せずにどんどん「アメリカ・ファースト」で押し通すのがトランプの勝手な「国益」だと重々知っていても、それを隣でニヤニヤ笑って受け止めるしかない。それでもせめてもどうにか”ご斟酌”していただきたいと、「お土産外交」「おもてなし外交」を懸命に展開しているわけです。外交というゴリゴリにパブリックな交渉を、プライベートな場に引き込んでどうにかできると考えるのはあまりに日本的でナイーブな話なのですが、安倍サイドにはそれしかすがるものがないのでしょう。実際、共同記者会見の二人を見ていて、私はついひと月余り前の米自治領プエルト・リコの知事とトランプの共同会見を思い出していました。

9月20日のハリケーン・マリアの上陸で甚大な被害を受け全島停電にまで陥り、すがるものと言ったら米国大統領だけという悲惨な状況の中、知事はそれでも2週間経ってやっとやってきたトランプを歓迎し窮状を訴えました。けれどかの島は今も復旧ままならず、今も停電下の生活を強いられている住民は多く、劣悪な生活環境は続いています。トランプは、自らに関係のないことにはかくも無頓着かつ他人事の対応しかしない。あるいは、自分に都合が悪くなると「友情」であってもなんであって、さっさと排除してしまうことは、これまでにクビを切られた(そしてこれからクビを切られる)異様な数の閣僚たちのことを思い出せば明らかでしょう。

NYタイムズはタクシーの後部座席から運転手の安倍首相に拡声器でバンバン命令するトランプ大統領の風刺画を載せましたが、欧米メディアにはなべて日本が米国の従順で都合の良い下僕のように映っている。それは今回の訪日でほぼ確定した日本像、安倍政権像となりました。イメージ戦略として失敗ですが、それもしょうがない。レッテル貼りだ、印象操作だ、などと抗弁しようにも関係ありません。そしてその間もホワイトハウスからはロシア疑惑や歴史的低支持率を吹き飛ばしてしまおうという「北への武力行使準備」のキナ臭い情報が聞こえ続けているのです。デビュー間もない村上龍が著した『海の向こうで戦争が始まる』という小説の題名が、私の頭のどこかで微かに明滅しています。

October 09, 2017

ティラーソン解任?

先週、ティラーソン国務長官に関するニュースがいくつもメディアに登場しました。7月に囁かれたティラーソン辞任説に関してNBCが再調査し、彼がトランプを「モロン(低脳)」と呼んだと報じたのが端緒でした。7月のボーイスカウトの全国大会のスピーチでトランプが場違いにも「フェイク・メディア」やオバマケアをこきおろしたりワシントンの政界を「汚水場」呼ばわりしたりする政治発言を続けたので、ボーイスカウトの全米総長でもあったティラーソンが激怒して「モロン」発言につながったというわけです。ティラーソンって人は少年時代からボーイスカウトに参加してイーグルスカウトにもなったことを誇りに思っている人です。そんな場に政治を持ち込むこと、しかも自分の自慢ばかりするような政治演説をしたことが赦せなかったのでしょう。

息子の結婚式でテキサスに行っていたティラーソンはもうワシントンに戻らないと伝えます。この時はマティス国防長官や現首席補佐官のジョン・ケリーが「ここであなたが辞任するような政権混乱はどうしたってまずい」と慰留に成功しはしたのですが、さて今になってまたティラーソンが辞めるのでは、あるいは解任されるのではという観測が持ち上がっているのです。

特に4日、乱射事件のラスベガスに訪問してワシントンに戻ったトランプが自分のニュースを期待してテレビを見たら、そこではティラーソンの「モロン」発言で持ちきり。トランプは激怒し、それをなだめるためにケリーは予定の出張をキャンセルして対処したとか。しかしティラーソンはその後の"釈明"の記者会見でも大統領を「スマートな(頭の良い)人」と言っただけで「モロン発言」自体は否定はしませんでした。ホワイトハウス内の情報源によれば、2人の間はもう修復不可能だというのです。

報道はそれにとどまりません。ニューヨーカー誌はティラーソンの長文の人物伝を掲載。これまでの輝かしい経歴からすれば彼が「今やキレる寸前」でもおかしくないと思わせる感じの評伝でした。さらにはティラーソンとマティス、そして財務長官のムニュチンが3人で「suicide pact(スーサイド・パクト)」を結んでいるという報道もありました。3人の中で誰か1人でも解任されたらみんな揃って辞任するという「心中の約束」のことです。6日にはAXIOSというニュース・サイトで、トランプがティラーソンの後任に福音派の共和党右派政治家であるポンペオCIA長官を当てようとしているという報道がありました。

ちなみにポンペオは全米ライフル協会の終身(生涯)会員で銃規制に反対、オバマ・ケアにも強く反対ですし、オバマ政権がCIAの”水責め”などの拷問(強化尋問)を禁止したことに対しても、拷問をおこなったのは「拷問者ではなく、愛国者だ」と発言するほどの反イスラムの「トランプ的」人物です。

こんなにまとまってティラーソン国務長官のことがいろんな角度で報じられるというのは、メディアがいま彼の辞任・解任に備えて伏線作り、アリバイ作りをしているという兆候にも見えます。

そうなると問題の1つは北朝鮮です。表向き「核を放棄しない限り対話はない」と強硬姿勢一枚岩だったトランプ政権ですが、その実、ティラーソンの国務省が北朝鮮側と様々なチャンネルで対話の機会を探っていることが最近明らかになっていました。それに対してトランプが7日、「25年間の対話や取引は無に帰した。アメリカの交渉は馬鹿にされている」「残念だが、これをどうにかする道は1つしかない」とツイート。軍事行動を暗示して「今は嵐の前の静けさ」とも言ったのです。

私はこれまで、トランプ政権が「グッド・コップ、バッド・コップ(仏の刑事、鬼の刑事)」を演じ分けて北朝鮮をどうにか交渉の席につかせようとしているのではないかと、希望的に願ってきました。けれどこうしてティラーソンとトランプの不仲が表面化してみると、本当にカッカして北を潰そうと言うトランプを国務長官、国防長官、首席補佐官がマジになだめ抑えている、という構図が本当だったかもしれないと思い始めています。上院外交委員長でもある共和党コーカー議員がトランプを激しく批判しているのも、そんなティラーソンの国務省の姿勢と符合しています。

彼はNYタイムズの電話インタビューに「ホワイトハウスが今毎日毎日トランプを抑え込むのに苦労していることを知っている」などと語ったのですが、そもそも攻撃したのはトランプの方が先でした。コーカーはティラーソンに関して「国務長官はとてつもなく腹立たしい立場に立たされている」「国務長官は得るべき支援を得られていない」と擁護したのです。上院外交委員長として国務長官(外務大臣)を思いやるのは当然の話ですが、例によってトランプはコーカーへのツイート攻撃を開始したのです。まるで坊主憎けりゃ袈裟まで、みたいな攻撃性です。

ティラーソンが解任されたら北への軍事攻撃の恐れが一気に現実味を帯びます。北は自滅につながる先制攻撃を絶対に仕掛けません。けれどトランプは単に自分のやり方じゃないといって予防的な先制攻撃を仕掛けるかもしれない。そのとき日本はどうするのか? いや、その前に日本は何もしないのか?

22日の総選挙はそんな「兆し」だけでも大きく安倍自民党に有利に動くかもしれません。まさかそれを見越して安倍は「対話は何も役に立たない」とトランプをけしかけていたわけじゃないでしょうが。

June 08, 2017

「内心の自由」

コミーFBI長官を辞めさせたことで却ってロシア疑惑が深まり窮地に陥っているトランプ大統領。前川文科省事務次官の引責辞任から全く別筋と思われた加計学園の「総理のご意向」問題が火を噴いている安倍首相。

日本ではトランプ政権の破茶滅茶を笑う人が多いのですが、なんのなんの、この2人は"covfefe”や"unpresident"といった英語のミスと「云々(でんでん?)」といった漢字の誤読まで含めて実はとてもよく似ています。だって、身内びいき、マスメディア攻撃、御用メディアの多用、大統領令と閣議決定の多発、「フェイクニュース!」や「印象操作!」といった金太郎アメ反論、歴史の捏造と歴史の修正、「文書は確認できない」といったオルタナファクトに基づいた政権運営──ほら、ほとんど相似形でしょ? しかも磐石な支持層はオルトライト・白人至上主義団体とネトウヨ・日本会議というところまで合致している。

似ていないのは、トランプ政権の方は司法長官の辞任話やコミー証言なども出てきて今やもうメタメタなのに対し、安倍首相の方は今も国会無視の強気の政権運営を続けられていることです。その差異はおそらく政権の長に対する日米の議会と司法の独立性、そしてジャーナリズムの力の違いを背景にしているのでしょう。

なんとも情けない話ですが、さっきCNNで中継されていた上院情報委員会公聴会での委員(上院議員)たちと証人(アンドリュー・マッケイブFBI長官代理、ロッド・ローゼンスティン司法副長官、ダン・コーツ国家情報局長、マイケル・ロジャーズ国家安全保障局長)たちとの丁々発止のやり取りを見ていると、そもそも議論とか質疑応答というものに対する熱量というか、対応の真剣さがまるで違うんですね。ああ言えばこう言うの応酬で、この公聴会ではトランプと彼らの間で交わされた/交わされなかった会話の内容はほとんど明らかにされなかったですが、その「明らかにされなかった」具合の攻防が、ディベイトとはかくあるものかというほどに青白く燃え盛っていました。

一方、そんなアメリカを尻目に安倍政権はいま着々と「共謀罪」の強行採決に向けて進んでいます。共謀罪は過去3回も廃案になった無理筋の法案です。なのに今回は「五輪を前にしたテロ対策だ」という名目で再提出されました。テロ対策なら必要じゃないか、という世論が圧倒的ですが、「テロ等準備罪」という看板を掲げたものの当初は法案内に「テロ」という文言さえ存在しなかった代物なのです。しかも「この法律がなければ国連組織犯罪防止条約(TOC条約)を批准できず国際的批判を受け、オリンピックも開けない」という政権側の説明は「虚偽」。さらにこの条約は金銭目的の組織犯罪に対するもので、「テロ」とは無関係ということもわかってしまいました。


テロと関係ないなら現行法で既に対応できています。おまけに「花見客が双眼鏡を持っていたらテロの下見かもしれない」といったアホみたいな答弁を繰り返す法務大臣が管轄する案件とあって、国会審議は全く噛み合っていないどころか、そもそもまともな説明も回答も皆無なのです。

嘘や説明回避を繰り返しながらのこの前のめりは、いったい何が目的なのでしょう?

ロシアに亡命中のあのエドワード・スノーデンが日本向けに「これは政府の大衆監視をさらに容易にするための法律だ」と説明しています。なぜ監視しなければならないのか? その方が政権運営が簡単だからです。特に警察の活動が容易になります。そしてこれで公安警察の予算がまた増える。1980年以降、どんどん減っている公安警察の活動の場が、これでまた増えることになります。

社会正義と秩序のためにも警察には大いに活躍してもらいたい。それは当然でしょう。しかしその一方で公安警察が、社会正義と秩序を旗印にとんでもない国民弾圧をしてきた歴史も厳然と存在しています。共謀罪と同じような治安維持法で、拷問や冤罪や政治の政権に都合の悪い「一般人」たちへの「予防的な排除」がなされてきました。

警察組織の性格というのは、じつは世界中で今も同じです。だって「今月はスピード違反検挙率が悪いから、ちょっとネズミ捕りやって増やそうか」という「警察の性格」は私たちの誰もが経験的に知っているはずじゃないですか。それが交通警察なら罰金や免停で済みます(それだって酷い話ですが)、それが刑事警察や公安警察の場合だったら、話は取り返しもつかず人生に関わってきます。交通警察と刑事・公安警察の差は、その警察活動が目に見えてわかるかどうか、の違いだけです。どちらにしても警察組織の胸三寸で容赦なく検挙できます。

共謀罪では「内心の自由」が侵される、と心配されています。実際の「内心」など誰にもわかるはずないから、それが直接的に侵されるはずもない、杞憂だよ、と言う人もいるでしょう。けれど問題は、その知られるはずもない「内心」の中身を、自分が決めるのではなく他人が勝手に判断するという点なのです。

「内心」を他人に勝手に決め付けられない権利を「内心の自由」と言います。だから「自分は(共謀罪の対象になるような)そんな恐ろしい反社会的なことは考えないから大丈夫」という問題ではありません。共謀罪の恐ろしさは「あなたは(共謀罪の対象になるような)そんな恐ろしい反社会的なことを考えた」と他人から決め付けられることなのです。

February 15, 2017

対米追従外交

日米首脳会談に関して官邸や自民党は「満額回答」と大喜びです。安倍首相も帰国後のテレビ出演でトランプがゴルフで失敗すると「悔しがる、悔しがる」とまるでキュートなエピソードでもあるかのように嬉々として紹介していました。でも、これ、アメリカ男性にはよくある行動パタンなんですよね。「少年っぽくてキュートでしょ」と思わせたいというところまで含んだ……。

「満額」とされる日米の共同声明は日本政府がギリギリまで文言を練ってアメリカ側に提起したものでした。安保条約による尖閣防衛などに関してはすでにマティス国防長官の来日時に言質を取っていたものの、外交というものはとにかく「文書」です。文字に記録しなければ覚束ない。

対するトランプ政権はアジア外交の屋台骨もまだ定まっていませんでした。日本の専門家もいません。そこに日本の官邸と外務省が攻め込み、まんまと自分たちの欲しかったものの文書化に成功したわけです。

でも、その共同声明の中にひとつ気になる文言があります。

「核及び通常戦力の双方によるあらゆる種類の軍事力を使った日本の防衛に対する米国のコミットメントは揺るぎない」

日本政府は米国の核抑止力に依存していることは認めています。しかしここにある「核を使って」とまで踏み込んだ発言を、これまで日本はしていたでしょうか? 「抑止力」とは核を実際には使わずに相手の攻撃を防ぐ効果を上げる力のことです。でも、その「核」を「使う」と書いた。これは大きな転換ではないのでしょうか? どの日本メディアもその点について書いていないということは、私のこの認識が違っているのかもしれませんが。

いずれにしてもアベ=トランプの相性は良いようで、産経新聞によると安倍首相は「あなたはニューヨーク・タイムズに徹底的にたたかれた。私もNYタイムズと提携している朝日新聞に徹底的にたたかれた。だが、私は勝った…」と言って、「俺も勝った!」と応じたトランプの歓心を得たとか得ないとか。

ただですね、報道メディアを攻撃するのはヒトラーの手法です。歴史的には褒められたもんじゃ全くないのですよ。

さて、マール・ア・ラーゴでの2日目のテラス夕食会で「北朝鮮ミサイル発射」の一報がホワイトハウスからトランプのもとに飛び込んできて、前菜のレタスサラダ、ブルーチーズドレッシング和えを食そうとした時にテーブルは慌ただしく緊急安保会議の場と化したんだそうです(CNNの報道)。その時の生なましい写真が会食者のフェイスブックにアップされて、一体こういう時の極秘情報管理はどうなんているんだと大問題になっています。安全保障上の「危機」情報がどうやって最高司令官(大統領)に届くのか、それがどう処理されるのか、というプロトコルは最高の国家機密です。つまりはアジア外交どころか絶対にスキがあってはいけない安保関連ですら、トランプ政権はスカスカであることを端なくも明らかにしてしまったわけです。大丈夫か、アメリカ、の世界です。

そこには血相を変えたスティーブ・バノン首席戦略官とマイケル・フリン安保担当大統領顧問も写り込んでいました。そしてそれから2日も経たないうちにそのフリンが辞任するというニュースも飛び込むハメと相成りました。

フリンはそもそもオバマ政権の時に機密情報を自分の判断で口外したり独断的で思い込みの激しい組織運営のために国防情報局(DIA)局長をクビになった人物です。当時のフリンを has only a loose connection to sanity(正気とゆるくしか繋がっていない)と評したメディアがあったのですが、事実と異なる情報を頻繁に主張したり、確固たる情報を思い込みで否定することが多く、そういうあやふやな情報は職員からは「フリン・ファクツ Flynn Facts」と呼ばれていました。まさに今の「オルタナティブ・ファクツ(もう一つ別の事実)」の原型です。

そんなフリンが昨年12月、オバマ大統領によるロシアの選挙介入に対する制裁があった際に、その解除についていち早く駐米ロシア大使と電話で5回も話し合っていたというのが今回の辞任の「容疑」です。そもそも彼は「宗教ではなく政治思想だ」と主張するイスラム教殲滅のためにロシアと手を組むべしという考えを持っていた人です。そのためにオバマにクビになってからはロシア政府が出資するモスクワの放送局「ロシア・トゥデイ」で解説役を引き受けたりもしていました。ロシアとはそもそも縁が深い。

今回の辞任は民間人(当時)が論議のある国の政府と交渉して、政府本来の外交・政策を妨害してはいけないというローガン法という決まりがあって、それに違反していると同時に、政策に影響を与えるような偽情報を副大統領ペンスに与えていた(ペンスには当初「制裁解除の交渉はしていない」と報告したそうですが、その後にその話は「交渉したかどうか憶えていない」と変わり、ならばそんな記憶力のない人物に安全保障担当は任せられないという話にもなりました。要は、法律違反、利敵行為、情報工作、職務不適格)という話です。まあしかし、それもフリンのそんな電話会議のことをペンスが承知の上だったなら副大統領までローガン法違反の”共犯”ということになりますから、それはそう言わざるを得ないのかもしれませんし。

つまり疑惑は辞任では収まらないということです。疑惑はさらに(1)こんな重要案件でフリンが自分一人の判断でロシア大使と会話したのか(2)その交渉情報は本当にトランプやペンスらに伝わっていなかったのか(3)ロシアとは他に一体何を話し合っていたのか、と拡大します。おまけにトランプ本人の例の「ゴールデンシャワー」問題もありますし。

実はトランプ陣営でロシア絡みで辞任したのは選挙期間中も含めこれでポール・マナフォート、カーター・ペイジに次いで3人目です。ここでまた浮かび上がるのがトランプ政権とロシアとの深い関係。だってトランプ自身も昨年7月の時点ですでにクリミア事案によるロシアへの制裁解除を口にしていたのですよ。この政権がロシアゲートで潰れないという保証はだんだん薄く、なくなってきました。

ところでそんな懸念はどこ吹く風、ハグとゴルフでウキウキのアベ首相は3月に訪独してメルケルさんに「トランプ大統領の考えを伝えたい」とメッセンジャー役を買って出る前のめりぶりです。トランプ政権の誕生で戦後日本の国際的な位置付けや対米意識により独立的な変化が訪れるのではないかと期待した向きもありますが、自民党政権によるアメリカ・ファーストの追従外交には、今のところまったく変化はないようです。

ところでこの「追従」って、世界的には「ついじゅう」と「ついしょう」の両方で捉えられています。就任1カ月もたたないうちにメキシコ大統領と喧嘩はする、オーストラリア首相とは電話会談を途中で打ち切る、英国では訪英したって議会演説や女王表敬訪問などとんでもないと総スカンばかりか英国史上最大の抗議デモまで起きるんじゃないかと言われている次第。こうして西側諸国から四面楚歌真っ最中のトランプ大統領が、アベ首相をキスでもしそうなくらいにハグし歓待したのも、そういう状況を考えると実に頷けるわけであります。

さあトランプ政権、次は誰が辞めさせられるのか? ショーン・スパイサーか、ケリーアン・コンウェイか、はたまたスティーヴ・バノンか──この3人が辞めてくれればトランプ政権もややまともになるとは思うのですが、しかしその時はトランプ政権である必要がなくなる時でもあります。アメリカは今まさに「ユー・アー・ファイアード」のリアリティ・ドラマを地で行っているような状況です。

January 15, 2017

不名誉な情報

トランプ記者会見は日本ではとても奇妙な報道のされ方をしました。トランプにとって「不名誉な情報」のニュースが日本ではほとんど報道されないままだったので、彼と記者たちがなぜあそこまでヒートアップしているのかがまるでわからなかったのです。

で、彼の興奮は例によっていつもと同じメディア攻撃として報じられ、速報では「海外移転企業に高関税」とか「雇用創出に努力」とかまるで的外れな引用ばかり。NHKに至っては「(トランプは)記者たちの質問に丁寧に答えていた」と、一体どこ見てるんだという解説でした。

日本のメディアのこの頓珍漢は、米国では報じられていた「モスクワのリッツ・カールトンでの売春婦相手の破廉恥な性行為」が事実かどうか、裏が取れなかったことに起因しています。

日本のTVってそれほど「裏取り」に熱心だったでしょうか。例えば最近の芸能人らの麻薬疑惑。逮捕されれば即有罪のように断罪口調で飛ばし報道するのに、結果「検尿のおしっこがお茶だった」となると急に手のひら返しで「さん付け」報道。つまりはお上のお墨付き(逮捕)があれば裏は取れたと同じ、お上がウンと言わねば報じもしないというへなちょこでは、権力監視のための調査報道など、いくら現場の記者たちが頑張ったとしてもいつ上層部にハシゴを外されるか気が気じゃありません。

しかも今回のCNNの報道は、未確認情報を真実として報道したのではありません。CNNが報じたのはその未確認情報を米情報当局がトランプ、オバマ両氏へのロシア選挙介入のブリーフィングにおいて2枚の別添メモで知らせた、という事実です。これはトランプが指弾したような「偽ニュース」などではありません。しかもそれが大変な騒ぎになることは容易に予想できたのに日本のメディアはその事情すら報じ得なかった。

一方「バズフィード」はその「不名誉な情報」を含むロシアとの長期に渡る関係を記したリポート35枚をそのままサイトに掲載してしまいました。「米政府のトップレベルにはすでに出回っていた次期大統領に関する未確認情報を、米国民自らが判断するため」という理由です。

こちらは難しい問題です。「噂」を報じて国民をミスリードする恐れと、情報を精査して真実のみを伝えるジャーナリズムの責務と、精査できるのはジャーナリズムだけだというエリート主義の奢りと、そしてネット時代の情報ポピュリズムの矛盾と陥穽と。

いずれにしても日本のメディアは丸1日遅れで氏の「不名誉な情報」に関しても報道することになりました(裏取りは吹っ飛ばして)。その間にTVは勝手な憶測でトランプ氏を批判したり援護したりしていました。しかもCNNを排除した次の質問者の英BBCを、氏が「That's another beauty(これまた素晴らしい)」と言ったのを皮肉ではなく「ほめ言葉」として解説するという誤訳ぶり。BBCが「これまた素晴らしく」トランプ氏に批判的であることを彼らは総じて知らなかったわけです。

いや問題はそんなことではありません。問題の本質は、トランプがプーチン大統領に弱みを握られているのかどうか、米国政治がロシアに操られることになるのか、ということです。

真偽はどうあれ、今回の「暴露」でその脅迫問題云々がこの新大統領にずっと付きまとうことになります。いや、いっそのこと、「ああ、やりましたがそれが何か?」と開き直っちゃえばいいのにとさえ思います。そもそも女性器をgropingしたとかおっぱいを鷲掴みにしたとかしないとか、そんな山のような女性醜聞をモノともせずに当選したのです。「ゴールデンシャワー」など、脅しのネタなんかに全然ならないはずですからね。

January 06, 2017

「脱真実」の真実

米国にはCIAやFBI、その他国家安全保障省や各軍などに属する計17もの情報機関があります。そのいずれもが今回の大統領選挙でロシアのハッキングによる介入があったと結論づけているのですが、次期大統領ドナルド・トランプは、利益相反も懸念されるフロリダの自社リゾートホテルでの大晦日パーティー会場で、「私は誰も知らない情報を知っている」としてその介入がロシア以外のものであることを示唆し、その情報は「3日か4日にはわかる」と話していました。

1月6日現在、しかし彼しか知らないというその情報の確固たるものは開示されていません。それを紛らわすかようにトランプは「情報当局によるブリーフィングが金曜(6日)まで延期された」と、これまた延期された事実もない「情報」を、あたかも前述の情報に関連づけるかのようにツイートしていました。

「脱真実(Post-Truth)」とは、事実に裏打ちされた情報よりも自分にとって耳ざわりの良い恣意的な主張や解釈が好まれる世相のことです。非難と中傷が飛び交う大統領選が、脱真実の状況が拡大する格好の舞台を提供しました。フェイスブックやツイッターなどのソーシャルメディア(SNS)が最強の増幅器として機能したからです。

事実無根の情報を生み出すのは、既存のニュースサイトのように装った新興のネットメディアです。そこではアクセス数によって広告収入が得られるため、より多くの読者が飛びつくような"ニュース"が金ヅルです。そこで「ローマ法王がトランプ支持表明」「ヒラリー児童買春に関与」「ヒラリーとヨーコ・オノが性的関係」といった偽ニュースが量産されました。それらはSNSで取り上げらることで偽ニュースの元サイトがアクセス数で稼ぎ、それがサイト自身の拡大と増殖につながり、さらにそれがまたSNSで拡散し……というスパイラル構造が出来上がったのです。

情報サイト『バズフィード』(こちらはポッと出ではないニュース・サイトです)は、マケドニアの片隅でせっせとトランプ支持者受けする"ニュース"を紡ぎ出し、それらを無数のサイトから発信してカネ儲けをしていた十代の若者たちの姿をリポートしていました。それらを読みたがるのはヒラリーではなくトランプの支持者層でした。つまりこれは政治の話ではなく、経済の話だったのです。

トランプ政権入りのスティーヴ・バノンの関わる保守派サイト『ブライトバート・ニュース』も、そうした「脱真実」新興メディアの1つです。数多くの「バイアス報道」と「偽ニュース」を今も拡散しています。

偽ニュースの蔓延に対して、フェイスブックは先月、「ニュース」と思しき掲載情報の事実確認をABCニュースなどの外部のプロ報道機関とともに行うとに発表しました。でもそのABCニュースも、ブライトバートにかかれば「左傾バイアス」によって「ウソや捏造記事を歴史的に配信してきた企業」でした。つまりは「脱真実」を好む層にとって、ABCニュースやCNNなどの従来のニュースこそが、左寄りバイアスのかかる「偽ニュース」なのです。「事実を無視している」と言うその「事実」こそが、「バイアスのかかった事実」だと思われているわけです。

端的に言えばそのバイアスとは、黒人や女性や移民や性的少数者などの社会弱者(マイノリティ)たちの視点に立つバイアスです。つまりは「政治的な正しさ(PC)」の圧力です。実はそれこそが現在のジャーナリズムの立脚点です。それはトランプではなくヒラリーの標榜した「政治的な正しさ」でした。

一方、そこで捨て置かれていたのがマジョリティ(強者)の視点でした。つまり白人で男性で異性愛者の欧州系アメリカ人にとっての「事実」が不足していた。そこをブライトバートやトランプが掬い取ったのです。

それは「政治的に正しく」ないですが、彼らトランプ支持層の求める、彼らを主人公とする物語でした。「脱真実」とは「脱PC」のことであり、「PC」から自由な事実認識のことに他なりません。彼らの需要を満たして、それがカネと票とに繋がったのです。

その結果誕生した新しい大統領は、今度は「彼らの」というよりは冒頭の例のような、「自分の」読みたい物語を吹聴するツイートを連発するようになっています。かくして「脱真実」の傾向は米国で最大の権力者によって今年、さらに推進されることになります。その行方は誰にもわかりません。

November 01, 2016

「女嫌い」が世界を支配する

投票日11日前というFBIによるEメール問題の捜査再開通告で、前のこの項で「勝負あったか?」と書いたヒラリーのリードはあっという間にすぼみました。州ごとの精緻な集計ではまだヒラリーの優位は変わらないとされますが、フロリダとオハイオでトランプがヒラリーを逆転というニュースも流れて、なんだかまた元に戻った感じでもあります。

だいたい今回のメール問題の捜査対象は、ヒラリーの問題のメールかどうかもわかっていません。ただFBIがまったくの別件で捜査していたアンソニー・ウィーナーという元下院議員の15歳の未成年女性を相手にしたエッチなテキストメッセージ(sexting)問題で彼のコンピュータを調べたところ、中にヒラリーのメールも見つかったので、それをさらに捜査しなくてはならない、というだけの話なのです。もっと詳しく言えばそのウィーナーのコンピュータは彼が妻と強要していたもので、かつその妻がヒラリーの側近中の側近として働いてきたフーマ・アベディンという、国務長官時代は補佐官を務め、今は選対副本部長である女性なんですね。ということで、そのアベディンのメールも調べることになっちゃう。だからその分の捜査令状もとらなくちゃならない、ということで、「ヒラリーのメール問題」とすること自体もまだはばかられる時点での話なのです。

つまりそのメールが私用サーバーを使った国家機密情報を含んでいるものとわかったわけでもなんでもないのですが、とにかくFBIのジェイムズ・コミー長官は自分の机の上に10月半ばまでに「ヒラリーのメールがあった」という書類が上がってきたものだから、これはこのまま黙殺はできない。捜査はしなくてはならないが、捜査のことを黙っていたりその情報自体を黙殺でもしたら後で共和党陣営にヒラリーをかばうためだったと非難されるに決まっている。しかしだからと言って捜査を開始したと言ったら選挙に影響を与えてしまうとして民主党側からも非難される。どっちが自分のためになるか、おそらく彼は苦渋の決断をしたんだと思います。その辺のジレンマの心境は実は彼がFBIの関係幹部に当てた短文のメールが公表されているのでその通りなんでしょう。でも、それは保身のための決断だった印象があります。

そもそもFBIの捜査プロトコルでは、捜査開始のそんな通告を議会に対して行う義務はないし、むしろ選挙に関係する情報は投票前60日以内には絶対に公表しないものなのです。つまり彼はヒラリーの選挙戦に悪影響を及ぼしても自分が職務上行うことを隠していたと言われることを避けた。そちらの方がリスクが高いと判断したんでしょう。つまりリスクの低い道を選んだわけです。誰にとってのリスクか? そりゃ自分にとってのリスクです。つまり保身だと思われるわけです。

で、週末にかけて、アメリカのメディアはコーミーのそんな保身を責めたり、いや当然の対応だと擁護したりでこの問題で大騒ぎです。

ところが問題はもう1つ別のところにあります。

8年前のヒラリー対オバマの大統領選挙の時も言ってきましたが、なぜヒラリーはかくも嫌われるのか、という問題です。なぜ暴言の絶えないトランプが支持率40%を割ることなく、2年前には圧勝を噂されたヒラリーが最終的にかくも伸び悩むのか?

この選挙を、「本音」と「建前」の戦いだと言ってきました。「現実」と「理想」とのバトル。そしてその後ろで動いているのが、もう明らかでしょう、実はアメリカという国の、いや今の世界のほとんどの国の、拭いがたい男性主義だということです。これまでずっとアメリカという国の歴史の主人公だった白人男性たちが今や職を奪われ、家を失い、妻や子供も去って行って、残ったのが自分は男であるという時代錯誤の「誇り」だけだった。いや、職も家も妻子も奪われていなくとも、もうジョン・ウェインの時代じゃありません。当たり前と思ってきた「誇り」は今や黒人や女性やゲイたちがアイデンティティの獲得と称してまるで自分たちの所有する言葉のように使っています。そこで渦巻くのは、アイデンティティ・ポリティクスに乗り遅れた白人男性たちの、白人(ヘテロ)男性であることを拠り所とした黒人嫌悪であり女性嫌悪でありゲイ嫌悪です。ヒラリーに関してもこの女嫌いが作用しているのです。

マイケル・ムーアの新作映画『Michael Moore in Trumpland』で、彼も私と同じことを言っていました。ムーアは昨年、映画『Where to Invade Next?』を撮るためにエストニアに行ったそうです。かの国は出産時の女性の死亡率が世界で一番少ない国です。なぜか? 保険制度が充実しているからです。アメリカでは年間5万人の女性が死んでいるのに。

そこの病院を取材した時にムーアは壁にヒラリーの写真が飾ってあることに気づきます。彼女もまた20年前に同じ目的で同じ病院に来ていたのです。国民皆保険制度を学ぶために。一緒に写る男性を20年前の自分だと言う医師がムーアに言います。「そう、彼女はここに来た。そして帰って行った。そして誰も彼女の話を聞かなかった。それだけじゃない。彼女を批判し侮辱した」

20年前、国民皆保険導入を主導したヒラリーは一斉射撃を浴びました。「あなたは選ばれてもいない、大統領でもない。だから引っ込んでいろ」と。それから20年、アメリカでは保険のない女性が百万人、出産時に亡くなった計算です。保険制度を語る政治家は以来、オバマまで現れませんでした。

ムーアは言います──ヒラリーが生まれた時代は女性が何もできなかった時代だった。学校でも職場でも女性が自分の信じることのために立ち上がればそれは孤立無援を意味した。だがヒラリーはずっとそれをやってきた。彼女はビルと結婚してアーカンソーに行ってエイズ患者や貧者のための基金で弁護士として働いた。で、ビルは最初の選挙の時に負けた。なぜか? 彼女がヒラリー・ロドムという名前を変えなかったから。で、次の選挙でヒラリーはロドム・クリントンになった。で、その次はロドムを外してヒラリー・クリントンになった。彼女は高校生の頃から今の今までそんないじめを生き抜いてきたのだ、と。

そんな彼女のことを「変節」と呼ぶ人たちが絶えません。例えば2008年時点で同性婚に反対していたのに今は賛成している、と。でも08年時点で同性婚に賛成していた中央の政治家などオバマをはじめとして1人としていなかったのです。

マザージョーンズ誌のファクトチェッカーによればヒラリーは米国で最も正確なことを言っている主要政治家ランキングで第2位を占めるのですが、アメリカの過半が彼女を「嘘つきだ」と詰ります。トランプは最下位ですが、どんなひどい発言でも「どうせトランプだから」の一言で責めを逃れられています。同ランク1位のオバマでさえ再選時ウォール街から記録破りの資金提供を受けていたのに、企業や金融街との関わりはヒラリーに限って大声で非難されます。大問題になっているEメールの私用サーバー問題だってブッシュ政権の時も同様に起きていますが問題にもなっていません。クリントン財団は18カ国4億人以上にきれいな飲み水や抗HIV薬を供与して慈善監視団体からA判定を受けているのに「疑惑の団体」のように言われ、トランプはトランプ財団の寄付金を私的に流用した疑惑があってもどこ吹く風。おまけにこれまで数千万ドル(数十億円)も慈善団体に寄付してきたと自慢していたトランプが実は700万ドル(7億円)余りしか寄付をしてこなかったことがわかっても、そんなことはトランプには大したことではないと思う人がアメリカには半分近くいるのです。

これは一体どういうことなのでしょう? よく言われるようにヒラリーが既成社会・政界の代表だから? 違います。だって女なんですよ。代表でなんかあるはずがない。

嫌う理由はむしろ彼女が女にもかかわらず、代表になろうとしているからです。ヒラリーを嫌うのは彼女が強く賢く「家でクッキーを焼くような人間ではない」からです。嫌いな「女」のすべてだからです。「女は引っ込んでろ!」と言われても引っ込まない女たちの象徴だからです。違いますか?

日本では電車の中で化粧する女性たちを「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」と諌める"マナー"広告が物議を醸しています。みっともないと思うのは自由です。でもそれを何かの見方、考え方の代表のように表現したら、途端に権力になります。この場合は何の権力か? 男性主義の権力です。男性主義を代表する、男性主義の視線そのものの暴力です。「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」は、どこをどう言い訳しても、エラそうな男(的なものの)の声なのです。

ヒラリーが女であること、そしてまさに女であることで「女」であることを強いられる。それはフェアでしょうか?

この選挙は、追いやられてきた男性主義がトランプ的なものを通して世界中で復活していることの象徴です。私が女だったら憤死し兼ねないほどに嫌な話です。そしてそれはたとえ7日後の選挙でヒラリーが勝ったとしても、すでに開かれたパンドラの箱から飛び出してきた「昔の男」のように世界に付きまとい続けるストーカーなのです。

October 10, 2016

勝負あったか?

前回、トランプに対するジャーナリスムの総攻撃が始まったと書きました。トランプをここまでのさばらせたのもマスメディアです。いざとなったらその落とし前をつけて、アメリカのジャーナリズムは選挙前に事実チェックでトランプ降ろしを始めるだろうと言ってきましたが、まさにそれが今度はワシントン・ポストによって実践されました。しかも今度は「Grab them by the pussy」という発言の録音ビデオです。

この問題はトランプによる一連の女性蔑視発言ではありません。「わいせつ」発言です。

ピューリタンが建国した米国で「卑猥な人格」は致命的でさえあります。たとえ「ロッカールーム・トーク」だと弁明しても、それは血気盛んなプロアスリートでも人気の芸能人でもありません。大統領候補です。

共和党のポール・ライアン下院議長はこれを受けて第2回討論会の席でなんと「投票先未定者」の聴衆席に座り、翌日には「トランプを支持しないし選挙応援もしない」と態度を変えました。彼だけではありません。トランプ支持取りやめは共和党の中でどんどん拡大しています。

背景には大統領選と同時に行われる下院選と上院改選があります。トランプへの嫌悪で、本来の共和党支持者たちが実際の投票所でトランプを支持する共和党の候補者たちの名前を選ぶことを忌避するかもしれない。それを避けるために自ら「そんなトランプは支持しない」と表明しておく必要があるわけです。ライアン下院議長もその辺りを睨んで、「今後は下院での過半数を確保することに集中する」と方針転換したわけです。

第2回討論会は実際、自分のことは棚に上げて全ての質問とその答えを相手への個人攻撃に転じさせたトランプにクリントンも応酬して下世話感甚だしく、メディアのコメンテイターが口々に形容するところによれば「テレビ放送が始まった1960年以降で『最低』『前代未聞』のもの」になりました。

象徴的なシーンはその「わいせつ発言」を責められたトランプが「俺は言葉だけだが、ビル・クリントンは実行したんだからもっとひどい」と言い返したところです。まるで小学生のようなすり替え、責任転嫁。もう1つは自分が大統領になったらEメール問題でヒラリーに特別検察官を立てて再捜査させるとするトランプに彼女が「彼のような感情的な人間がこの国の法の番人でなくてよかった」と言った際、「俺ならお前を牢屋に入れちゃうからな」と横槍を入れたシーンです。

政敵を刑務所に入れるのは民主主義ではない独裁国家の話です。これほど反アメリカ的な(あるいは子どもっぽい敵意剥き出しの)発言は「前代未聞」なのです。

クリントンとトランプの支持率の差は調査によっては11とか15ポイントの差まで広がりました。この時点での2桁の差は、とうとう勝負あったかの感さえあります。

しかしここで考えなければならないのは、トランプ支持層の中核をなすとされる、これまで政治になど関心のなかった学歴のない白人男性労働者層の他に、実はかなり知的な層にも「隠れトランプ支持者」がいるのではないかという説です。

ニューヨークなどの民主党の牙城の大都会で、おおっぴろげにトランプ支持を話せる人は多くはありません。お前はバカかと言われるのがオチです。ところが、"知的"に考えれば考えるほど「人権が第一」「移民も平等に」「差別はいけない」と言った「政治的正しさ(PC)」が行き詰まりを迎えるのは確実だ、と思っている人も相当数いるはずです。また、おそらくは富裕層(あるいは中流層以上)であろうそんな"知的"な人たちが、富裕層への課税を増やすというクリントンに反発し、税制を始めとして富裕層の自分自身が損をしないような政策しか絶対にとらないであろうトランプの方を支持するのはさらに確実だと思われるのです。

つまりは表向き「国のためにはクリントン」のPC顔をしながら、いざ投票となったら「自分のためにトランプ」支持に回ることも大いにあり得る。極端な格差社会とはそういうものです。解消できっこない、ならばこの道の延長戦でも、自分の世界だけはカネの力を使ってでも確保しておきたい、それが「神は自ら助くる者を助く」であると。

最後の3回目の討論会は19日のラスベガスですが、残念なことにそこでの焦点は経済ではなく外交問題です。彼らにトランプへの投票を確実にさせるような話題ではありませんが、しかしトランプ支持層というのは"知的"であろうがなかろうが、討論会はどうでもいい層なのかもしれません。だいたい彼は政策のことなどはなから全く話してなんかいないのですから。

October 03, 2016

ジャーナリズムの総攻撃が始まった

大統領選挙があと一月で決着します。ここにきて大手メディアが相次いで「トランプ大統領阻止」の論陣を張り、総攻撃を行っている感もあります。

驚いたのはUSAトゥデイです。ご存じのようにこの新聞は全米50州すべてで発行されていてどのホテルに泊まってもだいたい置いてあります。創刊34年というまだ新しい新聞ですが発行部数は190万部。政治的中立を謳ってこれまでの大統領選挙でどんな候補への支持も表明してきませんでした。曰く「私たちはその方針を変える必要性を感じてきませんでした。今の今までは(...Until Now.)」と。そして新聞社論説委員室の全員一致の総意として「トランプ候補は大統領として不適格」と結論付けています。しかもその理由の列挙で、「気まぐれで発言する」「偏見を振りまく」と続いた後で最後に「シリアル・ライアーである」と、まるで「シリアル・キラー(連続殺人犯)」みたいな「嘘つき魔」認定。結果、「彼には投票すべきではない」と明言しているのです。

激戦州かつ重要州のオハイオ州でも、これまで1世紀近く共和党候補しか支持してこなかった大手紙「シンシナティ・エンクワイアラー」がヒラリー支持に回りました。カリフォルニア州で148年間も共和党候補を支持し続けてきた「サンディエゴ・ユニオン・トリビューン」もヒラリー支持。アリゾナ州最大手の「アリゾナ・リパブリック」紙も創刊126年の歴史で初めて、さらに「共和党(リパブリカン)」というその新聞名の由来にも反して、トランプを「能力も品位もない」と断じました。ブッシュ元大統領の出身地であり最大の保守州であるテキサス州でさえ、主要紙「ダラス・モーニング・ニュース」が「トランプ氏の欠点は次元が違う」としてヒラリー支持という「苦渋の選択」をしました。大手メディアで正式にトランプを推したものは10月3日時点ではまだ存在しません(ヒラリーは30紙以上)。共和党予備選の時点ではマードック率いるニューズコーポレーションの「NYポスト」やゴシップと宇宙人ネタで売る「ナショナル・エンクワイアラー」など4紙が彼を支持していたのですが。

そんな中でトランプの連邦所得税の納税回避の可能性がNYタイムズによってスクープされました。発端は9月23日に同紙ローカルニュース担当記者に届いたマニラ封筒です。封筒はトランプの会社のもので、差出人の住所もマンハッタンの「トランプタワー」。中にあったのは、これまでトランプ陣営が公表を拒否してきた1995年の納税申告書のコピー3ページ分。そこにあった申告所得額は「9億1600万ドル(916億円)の赤字」でした。

当時の税制度では不動産会社がこうした巨額損失を計上した場合、その赤字を翌年以降に繰り越して、1年に5000万ドル(50億円)を上限としてその年の利益と相殺することが出来ます。つまり毎年の利益がその範囲内なら18年以上に渡って税金を納めなくてもよい計算になるわけです(ちなみにそれ自体は法律違反ではありません)。

さて、どこの誰が何のためにこんなコピーをタレ込んだのでしょう? トランプ陣営及び企業の内部の人間であることは間違いないでしょう。投票間際でも支持者離れを加速させるような暴言を繰り返すトランプのことです、これまでの選挙戦で十分パブリシティ効果も得られたことだし、今後のビジネスもそれで安泰。ひょっとしたら本当は面倒臭い大統領になんかはこれっぽっちもなりたくなんかなくて、「妻のメラニアに出させたんじゃないの?」という陰口まで聞こえています。いやはや。

ジャーナリズムの総攻撃が始まった

大統領選挙があと一月で決着します。ここにきて大手メディアが相次いで「トランプ大統領阻止」の論陣を張り、総攻撃を行っている感もあります。

驚いたのはUSAトゥデイです。ご存じのようにこの新聞は全米50州すべてで発行されていてどのホテルに泊まってもだいたい置いてあります。創刊34年というまだ新しい新聞ですが発行部数は190万部。政治的中立を謳ってこれまでの大統領選挙でどんな候補への支持も表明してきませんでした。曰く「私たちはその方針を変える必要性を感じてきませんでした。今の今までは(...Until Now.)」と。そして新聞社論説委員室の全員一致の総意として「トランプ候補は大統領として不適格」と結論付けています。しかもその理由の列挙で、「気まぐれで発言する」「偏見を振りまく」と続いた後で最後に「シリアル・ライアーである」と、まるで「シリアル・キラー(連続殺人犯)」みたいな「嘘つき魔」認定。結果、「彼には投票すべきではない」と明言しているのです。

激戦州かつ重要州のオハイオ州でも、これまで1世紀近く共和党候補しか支持してこなかった大手紙「シンシナティ・エンクワイアラー」がヒラリー支持に回りました。カリフォルニア州で148年間も共和党候補を支持し続けてきた「サンディエゴ・ユニオン・トリビューン」もヒラリー支持。アリゾナ州最大手の「アリゾナ・リパブリック」紙も創刊126年の歴史で初めて、さらに「共和党(リパブリカン)」というその新聞名の由来にも反して、トランプを「能力も品位もない」と断じました。ブッシュ元大統領の出身地であり最大の保守州であるテキサス州でさえ、主要紙「ダラス・モーニング・ニュース」が「トランプ氏の欠点は次元が違う」としてヒラリー支持という「苦渋の選択」をしました。大手メディアで正式にトランプを推したものは10月3日時点ではまだ存在しません(ヒラリーは30紙以上)。共和党予備選の時点ではマードック率いるニューズコーポレーションの「NYポスト」やゴシップと宇宙人ネタで売る「ナショナル・エンクワイアラー」など4紙が彼を支持していたのですが。

そんな中でトランプの連邦所得税の納税回避の可能性がNYタイムズによってスクープされました。発端は9月23日に同紙ローカルニュース担当記者に届いたマニラ封筒です。封筒はトランプの会社のもので、差出人の住所もマンハッタンの「トランプタワー」。中にあったのは、これまでトランプ陣営が公表を拒否してきた1995年の納税申告書のコピー3ページ分。そこにあった申告所得額は「9億1600万ドル(916億円)の赤字」でした。

当時の税制度では不動産会社がこうした巨額損失を計上した場合、その赤字を翌年以降に繰り越して、1年に5000万ドル(50億円)を上限としてその年の利益と相殺することが出来ます。つまり毎年の利益がその範囲内なら18年以上に渡って税金を納めなくてもよい計算になるわけです(ちなみにそれ自体は法律違反ではありません)。

さて、どこの誰が何のためにこんなコピーをタレ込んだのでしょう? トランプ陣営及び企業の内部の人間であることは間違いないでしょう。投票間際でも支持者離れを加速させるような暴言を繰り返すトランプのことです、これまでの選挙戦で十分パブリシティ効果も得られたことだし、今後のビジネスもそれで安泰。ひょっとしたら本当は面倒臭い大統領になんかはこれっぽっちもなりたくなんかなくて、「妻のメラニアに出させたんじゃないの?」という陰口まで聞こえています。いやはや。

September 10, 2016

いつか来た道

北朝鮮の核実験やミサイル発射でこのところ日米韓政府がにわかに色めき立って、韓国では核武装論まで出ているようです。日本での報道も「攻撃されたらどうする?」「ミサイル防衛網は機能するのか?」と「今ここにある危機」を強調する一方で、どうにも浮き足立っている感も否めません。

でも少し冷静になれば「攻撃されたらどうする?」というのは実はこれまでずっと北朝鮮が言ってきたことなのだとわかるはずです。戦々恐々としているのは北朝鮮の方で、彼らは(というか"金王朝"は)アメリカがいつ何時攻め込んできて体制崩壊につながるかと気が気ではない。何せ彼らはイラクのサダム・フセインが、リビアのカダフィが倒されるのをその目で見てきたのです。次は自分だと思わないはずがありません。

そこで彼らが考えたのが自分たちが攻撃されないための核抑止力です。核抑止力というのは敵方、つまり米国の理性を信じていなければ成立しません。理性のない相手なら自分たちが核兵器を持っていたら売り言葉に買い言葉、逆に頭に血が上っていつ核攻撃されるかわからない。しかし金正恩は米国が理性的であることに賭けた。

実はこれはアメリカと中国との間でかつて行なわれた駆け引きと同じ戦略なのです。冷戦下の米国は、朝鮮戦争時の中国への原爆投下の可能性を口にします。その中で中国が模索したのが自国による核開発でした。米ソ、中ソ、米中と三つ巴の対立関係の中で、核保有こそが相手側からの攻撃を凍結させる唯一の手段だと思われたのです。

そうして60年代、中国はロケット・ミサイルの発射実験と核爆発実験とを繰り返し、70年から71年にかけて核保有を世界に向けて宣言するわけです。それこそがどこからも攻め込まれない国家建設の条件でした。

慌てたのはアメリカです。どうしたか? 71年7月、ニクソン政権のキッシンジャー大統領補佐官が北京に極秘訪問し、それが翌72年のニクソン訪中へと発展するのです。米中国交正常化の第一歩がここから始まったのです。

今の北朝鮮が狙っているのもこれです。北朝鮮という国家が存続すること、つまりは金正恩体制が生き延びること、そのために米国との平和協定を結び、北朝鮮という国家を核保有国として世界に認めさせること。おまけに核兵器さえ持てば、現在の莫大な軍事費を軽減させて国内経済の手当てにも予算を回すことができる。

もちろん中国とは国家のスケールが違います(実際、アメリカが中国と国交を回復したのはその経済的市場の可能性が莫大だったせいでもあります)が、北朝鮮の現在の無謀とも見える行動は、アメリカに中国との「いつか来た道」をもう一度再現させたいと思ってのことなのです。

そんなムシのよい話をしかし米国が飲むはずもない。けれどいま米韓日の政府やメディアが声高に言う「北朝鮮からいまにも核ミサイルが飛んでくるかもしれない」危機、というのもまた、あまりにも短絡的で無駄な恐怖なのです。そんな話では全くないのですから。

さてではどうするか? 国連による経済制裁も実は、北朝鮮と軍事・経済面でつながりを持つアフリカや中東の国々では遵守されているとは言いがたく、そんな中での日本の独自制裁もそう圧力になるとは思えません。たとえ制裁が効果を持ったとしても国民の窮乏など核保有と国家認知の大目的が叶えばどうにでもなる問題だと思っている独裁政権には意味がないでしょうし、中国も手詰まりの状態です。なぜなら金正恩は金正日時代の条件闘争的な「瀬戸際外交」から、オバマ政権になってからの放置プレイにある種覚悟を決めた「開き直り外交」にコマを進めたからです。「いつか来た道」の再現には「この道しかない」わけですから。

金正恩の一連の行動は全て、動かないオバマの次の、新たなアメリカ大統領に向けてのメッセージなのだと思います。さて、彼女は/彼は、どう対応するのでしょう。

June 07, 2016

置き去りの心

日本に戻って北海道・駒ヶ岳の男児置き去り"事件"に関するテレビの騒ぎ方や親御さんへのSNS上の断罪口調を見ていて、改めて世間の口さがなさを思い知っています。今朝退院したそうの大和くんはテレビで見る限りすっかり元気で、ほんと無事でよかったなあ、でいいはずなんですが、その後も教育論だのしつけ論などがなんともかまびすしいこと。

こういう問題はとても難しくて、この子に通じる「論」が他の子に通じるとは限らないし、例えば私も北海道民でしたが、子供のころはよく「そんなことしてたら置いてきぼりにするよ!」と叱られたものです。

実際に田舎の道端に置いてきぼりにされたこともあって、「しかし今思えばそうやって泣きながらサバイバルできる子供に育ったんだなあ」とふとツイッターでつぶやいたら、「そんなことしたら大阪ならすぐに人さらいに遭う」と本気か冗談かわからないリプライをくれる人や、中には「それは体罰だ。子供が取り返しのつかない心の傷を受けるのがわからんのか」とこれまたご自身の経験からか反発なさる方もいて(ある人には「普段はリベラルなふりをしてこういう時にマッチョなミソジニーが馬脚を露わす」なんていうふうに罵倒されました。すごい洞察力だこと……。)、全くもってこの件に関しては「物言えば唇寒し」の感が強いのです。

私はもちろん体罰の完全否定派ですから、体罰だとの指摘はちょいと応えました。ただ、子供のころにその心に何らかの負荷を与えられることは(その子が耐えられる負荷の多寡は斟酌しなくてはなりませんが)、その心の成長のためには絶対に必要なことだと思っています。それがトラウマになるかどうか、そのトラウマを経てさらに強くなれるかどうか、あるいはさらに優しくなれるか否かも、その子その子によって違うので見極めは実に難しいでしょうが。

もしアメリカで「置き去り」なんかしたら親は逮捕されます。自宅に子供を一人置いて出掛けることさえ時には逮捕の対象ですから。子供は親の所有物ではない、という思想もあります。社会全体の宝物だという考え方においては、親の身勝手な"しつけ"は許されません。でも、一方で「置き去り」の気分というのは味わっておいた方がいいとも思う自分がいます。

例えばある種の文学作品は、まるで体罰のように若く幼い私を打ち据えました。実際に殴られ血を流してはいずとも心はズタズタになった頃があります。死んでいたかもしれません。それは、体罰以上に過酷な刑罰でした。でも、誰もそのことを体罰だとは言わなかったし、禁止もしないどころかむしろ読書は奨励されていたのです。そこで暴かれる罪にどんな罰が待っているかも教えないままに。

そう考えると、私は大和くんが親に"置き去り"にされたことと、自分がある種の文学作品によって"置き去り"にされたこととの、その暴力性の違いがよくわからなくなるのです。どうやってそこから生き延びたのかも。

かろうじて今わかっていることは、幼い頃に叱られて置いてきぼりにされた時も、泣いている私を親たちは必ず私の見えないところからじっと見ていたのだろうということです。ちょうど、大和くんの親がすぐに彼の様子を見に、車でそっと戻ったように。

誰かがそっと見守っていてくれる。視点を変えれば、自分がそっと見守り続ける──それが(独りよがりの見守り方もあるでしょうが)暴力と鍛錬との分かれ目かもしれません。打ちのめされた若い私にも、思えばそっと見守ってくれていた友人や先生や親がいましたっけ。

大和くんは、おそらくそんな風にすでに親御さんとの関係性においてサバイバルの力を培っていたのかもしれません。もちろん、そんなことは穿った見方でほんとはまったく関係ないかもしれません。なので、私たち大和くん一家を知らない者たちによる一般論とその敷衍はあまり意味がないことなのです。だから、この話はそれでもういいじゃないですか。(とまあ、ツイッターで言いたかったことはそういうことでした)

April 20, 2016

個人的なことは政治的なこと

ニューヨークの予備選では「勝ち方」が問題でした。クリントンもトランプも有利が伝えられていましたから、あとはどのくらいの差で勝利するかだけがポイントでした。特に両候補とも直前の他州での”負け方”が気になっていたので、トランプはこのままでは7月の党大会の前に大議員数で過半数に達しないのではという懸念が生まれていたのでなおさらです。

民主党のクリントンとサンダーズの場合は得票率の差が二桁になるか一桁になるかがカギでした。十数%ポイントならクリントンの強さが示されて指名獲得へやっと最終ストレッチに入ることになります。逆に10%ポイント以下ならサンダーズの強さが改めて示され、まだもつれる可能性がありました。開票直後のCNNは独自の出口調査からかその差が開いていないとしてクリントンに当確を打つのをためらっていたから、クリントン陣営はヒヤヒヤだったでしょう。もっとも、結果はCNNの出口調査を全く裏切る15%ポイント差と、予想以上の大差でしたが。

一方の共和党はさすがに「ニューヨークの価値観」を非難した宗教右翼クルーズを選ぶわけにもいかず、トランプ以外に投票する積極的な動機はなかったのでしょう。かろうじてケイシックが2位につけたのはニューヨークの”良心”だったでしょうか。しかし60%もの得票率でNY州代議員95人をほぼ総取りできたのは、危ぶまれた指名獲得を引き戻した感もあります。

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それにしても今回の選挙で思うのは人々の個人的な本音の思いの強さです。ロングアイランドシティ、イーストリバー沿いのサンダーズの集会に行って話を聞くと、みんな口々に「政治的革命だ」と言います。「解決策(リゾルーション)がないなら革命(リボリューション)だ」というTシャツのアフリカ系の女性もいました。「クリントンはウォール街から巨額の選挙資金を受け取っているから金持ち優遇を止められるはずがない」と吐き捨てる黒人男性もいました。確かに1回の講演料が20万ドルとか30万ドルとか言われ、昨年から3回講演したゴールドマン・サックスでは計60万ドル(現レートで6600万円)が支払われたというので「こりゃダメだ」と思ったかつての支持者たちのサンダーズ流れが加速してもいるのでしょう。

上位1%の富裕層が世界全体の富の半分以上を所有していると言われます。先日、ボストン大学で講演してきましたが(私の講演料は数百ドルですw)、そこで聞いたのは米国の大学の授業料はいまや年間6万ドルもして、学生たちには卒業時には10万ドル台のローンがのしかかっているという話でした。聴衆の学生たちは中国の富裕層の子女もかなり目立ちました。講演が終わって雑談や立ち話になって、その中の1人の女子学生がニューヨークでいちばんの日本レストランはどこかと聞いてきました。私が「東京レベルの素晴らしい店もあるけど、すごく高いよ」と応えると、「大丈夫、お父さんに頼むから」と言われました。

若者たちにさえそんな歴然とした格差が存在する。そしてそれは米国内だけではなく世界単位で進んでいます。私たちを取り巻くそんな現状にはもう処方箋など残っていず、「革命だ」と叫ぶ以外にないような気がするのはわかります。

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何度も言いますが、米国はそうした個人の本音を公的な建前に昇華して歴史を作ってきた国です。黒人奴隷の問題は「私」的財産だった黒人たちが公民権という「公」の人間になる運動に発展しました。女性たちは60年代に「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを手にして社会的な存在になりました。そして同性愛者たちも「個人的な性癖」の問題ではなく人間全部の「性的指向」という概念で社会の隣人となり結婚という権利をも手にしました。

それらの背景には私的な問題を常に社会的な問題に結びつけて改革を推し進めようという強い意志と、それを生み出し受け止める文化システムがありました。「私」と「公」の間に回路が通っている。そうでなければ「本音」はいつまでたってもエゴイズムから旅立てません。その双方向の調整装置が最大に稼働するのがこの4年ごとの大統領選挙なのでしょう。

日本ではなかなかこの私的な「本音」が公的な「建前」に結びつきません。「建前」はいま「偽善」だとか「嘘」だとかという意味が付随してしまって、人々から軽んじられ、嫌われ、疎まれてさえいる。

しかし考えてもみてください。理想、理念はすべて建前の産物です。「人権」も建前、「差別はいけない」も建前、「平等」も「公正」も「正義」もみんな建前を追求して獲得してきたものです。ところがそういうもの一般が、日本ではあまり口にされない。口にする人間はいま「意識高い系」と呼ばれて敬遠されさえします。だから問題を言挙げすると「我慢している人もいるのに自分勝手だ」「目立てばなおさら事態が悪くなる」と足を引っ張る。そうして多くの個々人が感じている不具合は、公的に共有され昇華されるより先に抑圧される。

日本をより美しくするにはこの「私」と「公」とをつなぐ回路を作らねばなりません。「個人的なことは政治的なこと The Personal is Political.」という50年も前の至言を知らねば、いまアメリカで起きているこの「革命」めいた混乱を理解することもできないのだと思います。

February 23, 2016

丸山発言のヤバさ

CNNが「日本の国会議員が『黒人奴隷』発言で謝罪」という見出しで報道した自民党の丸山議員の発言は、大統領=オバマ=黒人=奴隷という雑な三段(四段?)論法(というか単純すぎる連想法)が、人種という実にセンシティブな、しかも現在進行形の問題で応用するにはあまりにもお粗末だったという話です。たとえ非難されるような「意図」はなかったとしても、そもそも半可通で引き合いに出すような話ではありません。とにかく日本の政治家には人種、女性、性的マイノリティに対するほとんど無教養で無頓着な差別発言が多すぎます。

この人権感覚のなさ、基準の知らなさ具合というのは、何度もここで指摘しているようにおそらく外国語情報を知らない、日本語だけで生きている、という鎖国的閉鎖回路思考にあるのだと思います。日本では公的な問題でもみんな身内の言葉で話すし、そういう状況だと聞く方も斟酌してくれる、忖度してくれる→そうするとぶっちゃけ話の方が受けると勘違いする→すると決まって失言する→がその何が失言かも勉強しないまましぶしぶ謝罪して終わる→自分の中でうやむやが続く、という悪循環。そういう閉鎖状況というのは昭和の時代でとっくに終わっているはずなのに、です。

かくして丸山発言は当事者の米国だけではなく欧州、インド、ベトナム、アフリカのザンビア等々とにかく全世界で報じられてしまいました。

このところこのコラムで何度も繰り返している問題がここにもあります。日本では本音と建前の、本音で喋るのが受けるという風潮がずっと続いています。建前は偽善だ、ウゾっぽい、綺麗事だ、とソッポを向かれます。だから本音という、ぶっちゃけ話で悪ぶった方がウケがいい。

しかし世界は建前でできています。綺麗事を目指して頑張ってるわけです。綺麗事のために政治がある。そうじゃなきゃ何のために政治があるのか。現状を嘆きおちょくるだけの本音では世界は良くなりはしない。

まあ、トランプ支持者にはそういう綺麗事、建前にうんざりしている層も多いのですが、CNNはじゃあこの丸山議員はわざと建前を挑発して支持者を増やそうとする「日本のトランプなのか?」と自問していて、しかし、そうじゃない、単に「こうした問題に無関心かつ耳を傾けないこの世代を象徴する政治家だ」と結論づけているのです。

さてしかし私は、今回のこの丸山発言、問題は報道されたその部分ではなくて実はその前段、「日本がアメリカの51番目の州になり、日本州出身の大統領が誕生する」と話した部分なんだと思います。

発言はこうです。日本が主権を放棄して「日本州」というアメリカの「51番目の州」になる。すると下院では人口比で議員数が決まるからかなりの発言力を持つし、上院も日本をさらに幾つかの州に分割したらその州ごとに2人が議員になれるから大量の議員役も獲得できる。さらに大統領選出のための予備選代議員もたくさん輩出するから「日本州出身大統領」の登場もおおいにあり得るぞという話。そこでこの「奴隷でも大統領になれる国」という発言が飛び出すのです。

日本がアメリカの属国状態だというのは事実認識としてわかりますが、しかし「日本が主権を放棄する」って「売国」ですか? いやもっと言えば、売国するフリしてアメリカを乗っ取ってしまおう、って話じゃありませんか?

これはヤバいでしょ。しかしそこはあまり問題にならないんですね(日本のメディアが詳報しないんで外国通信社もそこを報道しないため気づかれていないということなんでしょうが)。ま、日本のメディアが報道しないのは、そういうのはどうせ居酒屋談義だと知ってるからでしょうけど、政治がこういう居酒屋談義、与太話で進んでいる状況というのはいかがなんでしょうか。そして何より、この丸山発言に対して、当の自民党が総裁を始め幹部一同まで明確にはたしなめも断罪もしないという状況が、対外的メッセージとしてはそれを容認しているということになってしまって(まあ、事実そうなんですけど)さらにヤバいと思うのですが。

October 15, 2015

一億総活躍

第三次安倍改造内閣の目玉ポストと位置付けられている「一億総活躍」担当相とはいったい何なのか、海外メディアが説明に困っています。ウォールストリート・ジャーナルはこれを有名な映画の題に掛けて「ロスト・イン・トランスレーション」と見出しを打って説明しています。

そもそも「一億総ナントカ」というのは日本語でこそ聞き慣れてはいますが、外国語においては熟語ではないのでどう呼ぶのか思案にくれるわけでしょう。アベノミクスの「新3本の矢」を強力に推進していくというのですが、「強い経済」なら経済再生相、「子育て支援」と「社会保障」なら厚労相とどう違うのかもよくわからない。そんな内容以前にまずはそのネーミングをどう翻訳するかもわからない、というわけです。

WSJ紙はまず直訳を試みます。「All 100 Million(一億総)Taking Active Parts(積極参加)」。ところが「ワン・ハンドレッド・ミリオン」が日本国民のことだとは普通はわかりません。「アクティヴ・パーツ」は何への参加なのかもわからない。

そこで米国の通信社であるAP電の表記を引いてみます。するとAPは「一億」の部分の翻訳を諦めていて、で、「経済を強化し出生率を増やすことで人口を安定させ国家が浮揚し続けることができるようにする大臣」としていました。

これでは長すぎて話になりません。ではその内容をよく知っている日本の新聞の英字版はどうなんだろうと、そちらを当たってみます。すると毎日新聞は「minister to promote '100 million active people'」(一億の活動的な国民をプロモートする大臣)。読売は「promoting dynamic engagement of all citizens」(全市民のダイナミックな参画を推し進める)。ジャパンタイムズは、これまた長いですが「minister in charge of building a society in which all 100 million people can play an active role」(一億国民全員が積極的役割を担えるような社会を建設する担当大臣)。

ところがロイター電はちょっと違っていました。一応の説明をした後で安倍首相の「一億総〜」のスローガンを「戦時中のプロパガンダの不気味な残響」と注釈したのです。そうです、あの「一億総特攻」とか「一億総玉砕」「一億総懺悔」です。

そもそも「一億総〜」というネーミングはこれまで、戦中のプロパガンダへの反省や揶揄を込めて「一億総白痴化」だとか「一億総中流」だとかといった、何らかの恥ずかしさを伴った批評の文脈でしか使われてきませんでした。

そもそも「一億総〜」というネーミングは、戦後70年かけて培ってきた、一人一人が違っていいのだという成熟した民主社会とは真逆の呼びかけです。「神は細部に宿る」というせっかくの気づきを台無しにするベタ塗りの文化です。

そういえば「行きすぎた個人主義」だとか「利己的」だとかは安倍政権周辺の人たちが最も好む、パタン化した非難のフレーズです。「一億総〜」というのは確かに「個」ではなく「全体」を重視する発想ですしね。

そんなことを考えていたらある人から「一億総活躍」にピッタリの英語熟語があると言われました。「ナショナル・モービライゼーション National Mobilization」。国家国民を(National)全て動かすこと(Mobilization)、はい、すなわち日本語の熟語で言うところの「国家総動員」という言葉です。

ちなみにこの新大臣に任命された安倍首相の右腕、加藤勝信衆院議員は「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい」などの政府批判メディア弾圧発言が相次いだ自民党「文化芸術懇話会」の顧問格でした。

一億総活躍

第三次安倍改造内閣の目玉ポストと位置付けられている「一億総活躍」担当相とはいったい何なのか、海外メディアが説明に困っています。ウォールストリート・ジャーナルはこれを有名な映画の題に掛けて「ロスト・イン・トランスレーション」と見出しを打って説明しています。

そもそも「一億総ナントカ」というのは日本語でこそ聞き慣れてはいますが、外国語においては熟語ではないのでどう呼ぶのか思案にくれるわけでしょう。アベノミクスの「新3本の矢」を強力に推進していくというのですが、「強い経済」なら経済再生相、「子育て支援」と「社会保障」なら厚労相とどう違うのかもよくわからない。そんな内容以前にまずはそのネーミングをどう翻訳するかもわからない、というわけです。

WSJ紙はまず直訳を試みます。「All 100 Million(一億総)Taking Active Parts(積極参加)」。ところが「ワン・ハンドレッド・ミリオン」が日本国民のことだとは普通はわかりません。「アクティヴ・パーツ」は何への参加なのかもわからない。

そこで米国の通信社であるAP電の表記を引いてみます。するとAPは「一億」の部分の翻訳を諦めていて、で、「経済を強化し出生率を増やすことで人口を安定させ国家が浮揚し続けることができるようにする大臣」としていました。

これでは長すぎて話になりません。ではその内容をよく知っている日本の新聞の英字版はどうなんだろうと、そちらを当たってみます。すると毎日新聞は「minister to promote '100 million active people'」(一億の活動的な国民をプロモートする大臣)。読売は「promoting dynamic engagement of all citizens」(全市民のダイナミックな参画を推し進める)。ジャパンタイムズは、これまた長いですが「minister in charge of building a society in which all 100 million people can play an active role」(一億国民全員が積極的役割を担えるような社会を建設する担当大臣)。

ところがロイター電はちょっと違っていました。一応の説明をした後で安倍首相の「一億総〜」のスローガンを「戦時中のプロパガンダの不気味な残響」と注釈したのです。そうです、あの「一億総特攻」とか「一億総玉砕」「一億総懺悔」です。

そもそも「一億総〜」というネーミングはこれまで、戦中のプロパガンダへの反省や揶揄を込めて「一億総白痴化」だとか「一億総中流」だとかといった、何らかの恥ずかしさを伴った批評の文脈でしか使われてきませんでした。

そもそも「一億総〜」というネーミングは、戦後70年かけて培ってきた、一人一人が違っていいのだという成熟した民主社会とは真逆の呼びかけです。「神は細部に宿る」というせっかくの気づきを台無しにするベタ塗りの文化です。

そういえば「行きすぎた個人主義」だとか「利己的」だとかは安倍政権周辺の人たちが最も好む、パタン化した非難のフレーズです。「一億総〜」というのは確かに「個」ではなく「全体」を重視する発想ですしね。

そんなことを考えていたらある人から「一億総活躍」にピッタリの英語熟語があると言われました。「ナショナル・モービライゼーション National Mobilization」。国家国民を(National)全て動かすこと(Mobilization)、はい、すなわち日本語の熟語で言うところの「国家総動員」という言葉です。

ちなみにこの新大臣に任命された安倍首相の右腕、加藤勝信衆院議員は「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい」などの政府批判メディア弾圧発言が相次いだ自民党「文化芸術懇話会」の顧問格でした。

October 10, 2015

断言の条件

物事は、知れば知るほど断言することが難しくなります。情報が多ければ多いほど判断がつかなくなる。他人に非難されるようなことになった友人を、それでも私たちがなかなか断罪できないのは、友情と同時に、その彼/彼女のいろんな事情を、つまりは情報をたくさん知っていて一概に、一面的に、簡単に断ずることがはばかれるからです。

ニューヨーク在住の複数の関係者に、あるテレビ番組の下請け会社から問い合わせのメールが届いています。年末の番組で特集をしたいので「海外にある日本文化の勘違い料理店やカルチャースクールを探しております」というのです。なので知っていたら教えてほしい、と。

昨今の海外での日本ブーム、クールジャパン展開もあります。その中で「勘違いのニッポン」を探すのは、敢えて予断で言えば、それは日本国内で「嗤い合う」ためでしょうか? それとも10年近く前に農水省がやろうとして「そんな上から目線で」と批判されて方向転換した「寿司ポリス」みたいな「正しいニッポン普及」の話なんでしょうか?

そのメールが「勘違いニッポン」の具体例として挙げているのは「日本料理として奇想天外なメニュー」「日本文化とは思えぬ内装」「間違い日本語による接客や変な日本語店名」「日本文化を間違っている空手師範」「日常では使わなさそうな例文を教える日本語教室」などでした。

こういう話はいくらテレビ番組側の事情を知っていてもなんだかいやな感じがします。日本の「洋食」の無国籍ぶりやフレンチやイタリアンのメニュー誤表記、変な英語Tシャツなどは、それこそ日本国内で枚挙にいとまがない「どっちもどっち」な話でしょうに。

そういえば「寿司ポリス」の話が持ち上がった当時も、あるニュースサイトは米国にある日本食レストランで「日系人オーナーの店は10%以下」「経営者の多くは中国や韓国、ベトナムなどのアジア系」「つまり『ニセ日本食』の提供者は中国人や韓国人、ベトナム人だったわけだ」と書いていました。またその話をぶり返したいわけなのでしょうか?

そのころからです。日本社会がやたら「嫌韓」「嫌中」に傾き、「ニッポンすごい」「ニッポン最高」を連呼するようになったのは。そうそう、「国家の品格」などという根拠の曖昧なニッポン文化礼賛本が発売されたのも10年前でした。

そんな風潮は10年を経てさらに攻撃的で断罪口調になり、いまでは安倍政権を批判するとすぐに「おまえは朝鮮人だろ」「中国政府からいくらもらってる」というような罵倒が飛んでくるようになりました。そしてあろうことか安保法制反対のあの学生組織SEALDsの奥田愛基さんとその家族へ、殺害予告が届くまでに悪化しています。

何気ない揶揄や嘲笑が巡り巡って殺害予告にまでたどり着く。自国礼賛とゼノフォビア(外国嫌悪)が容易に結びつくことは歴史が証明しています。冒頭に書いたように、諸外国の人々や文化を嫌ったり排除したりすることは、他者への一面的な理解しか持っていないことの反映です。むしろ持っていないからこそ断言口調になれる。

そう書くと「おまえはいつも断言口調じゃないか」と言われそうです。まあそうですね。情報を集めて集めて、それでも断じなければいけない時があります。私はそんな時に、批判の対象が権力を持っているかどうかを常に考えるようにしています。持っていなければ批判はしません。私のその断言が正しいかどうかは、あとは読者諸氏の断じるところです。

October 06, 2015

仲良し会見

首相官邸などでの公式記者会見で「円滑な進行のため」に、日本の報道各社が事前に質問を取りまとめて提出するように求められるのは何十年も前から慣行化しています。この場合は政治部ですが、首相官邸だけでなく様々な官庁にある記者クラブ内にはどこでも「幹事社」と呼ばれる取りまとめ役が月ごと(あるいは2カ月ごと)の持ち回りでいて、そこが当局と話して質問の順番が決められるのです。

政府側が説くその「必要性」は国会質疑におけるそれと同じで、「事前に質問を知っていれば十全な情報を用意できるので、報道上も都合が良いだろう」というものです。そう言われればそうかなと思ってしまいそうですが、しかしその慣行によってお手盛りの記者会見はもちろん形骸化し、よほどの大事件でもあった場合は別にしてもほとんどは何ら「問題」の起こらない予定調和の場になっています。

記者クラブ側が、あるいは報道機関がそれ自体を「問題」だとも、問題と思ってもそれを変えようとも思わなくなっているのも、さらには変えねばと思っても「空気」に圧されて手がつけられなくなっているのも、実はこれまでも何度も指摘されてきました。ところが記者たちもまたその記者クラブには持ち回りで属するだけでせいぜい2年で担当が変わったりしますから、意思決定も流動的で定まらないから変えられない、という事情もありましょう。かくして記者会見はその内容を報じる記事もまるでつまらない、「予定稿」でも済むような退屈なものになってしまうのです。

で、そのほころびが先日の安倍首相の国連記者会見で浮き彫りになりました。国連総会での一般演説の後に記者会見に臨んだ安倍首相が、そんな「事前提出」の質問表にはなかったロイター通信のベテラン記者による質問に、とんでもない回答をしてしまった。

この会見も本来は恙無く執り行われるはずでした。首相官邸が取りまとめた質問の内容と順番は次のようなものでした。

NHK(日露関係について)→ロイター(新アベノミクスの3本の矢について)→共同通信(内閣改造の日程について)→米公共放送NPR(普天間移設について)→テレビ朝日(国連改革について)

ところが2番目に立ったロイター記者は、予定質問に次いで、予定としては提出していなかった次の質問を追加したのです。「日本はシリア難民問題で追加支援すると表明したが、日本が難民の一部を受け入れることはないか?」

安倍首相の眉がクイっと上がりました。首相はアドリブで答えざるを得なかったわけです。で、その答えは次のようなものでした。

「これはまさに国際社会で連携して取り組まなければならない課題であろうと思います。人口問題として申し上げれば、我々は移民を受け入れる前に、女性の活躍であり高齢者の活躍であり出生率を上げていくにはまだまだ打つべき手があるということでもあります」

大挙して押し寄せる難民をどう受け入れをするか欧米が深刻に悩んでいる時です。彼はそれを国内の少子化、人口減少問題に絡めて、その問題を解決し、不足を補充する「移民問題への対処法」の是非として答えてしまったわけです。そもそも難民問題を自らの国の問題としてはほとんど考えてはいなかったのでしょう。なのでこれは「勘違い」というよりも、自分の頭の引き出しから、似たような問題への回答模範を引っ張り出してきたらこうなってしまった、ということなのかもしれません。

ところがそんな「出まかせ」を、「予定調和」の記者会見など知らない、あるいはそんなものを記者会見とは呼ばない真剣勝負の欧米ジャーナリズムは「真に受けた」。

「アベ:日本はシリア難民受け入れより国内問題の解決が先」(ロイター)
「日本は難民支援の用意はあるが、受け入れはしない」(ワシントンポスト)
「アベ:シリア難民受け入れの前に、国内問題の対応が不可欠と話す」(英ガーディアン)

即応した欧米メディアに比して(ガーディアンは日本の移民・難民事情についてかなり詳しく紹介していました)日本の報道は当初はこれを問題視もせずにほぼスルーしました。いつもの記者会見のつもりで「予定外」のニュースに慣れていなかったせいでしょうか。あるいはこれは「真に受けてはいけない間違い答弁」だと斟酌してやるいつもの癖が出たのか。

問題だと気づいたのは、先の見出しが欧米の主要ニュースサイトで踊ってからです。安倍さんも日本の同行記者たちも、現在の難民問題に関するメッセージの重要性の認識が、なんとも実にお粗末であることをはしなくも露呈した形です。

実は予定外の質問はロイターだけではありませんでした。NPRの記者もまた辺野古移転の沖縄の世論の問題を「予定通り」質問した後でさらに、「辺野古移設に関連した環境汚染の問題についてどう考えるのか?」と畳みかけたのです。これにもまた安倍首相は日本式の的を得ない、はぐらかしの、言質を取られないような、四の五の言う長い答えでお茶を濁していたのです。

こういう「予定質問のやらせ会見」というのは「政治部」だけの話では実はありません。実は社会部マターでも経済部でも運動部の会見でも、相手が大物の定例記者会見などという場合には少なからず見られる慣習です。

海外の他の国の事情は詳かではありませんが、少なくともアメリカでは記者会見で事前に質問を提出するなんてことは経験したことはありません。なので鋭い質問が飛んでくると、質問された政治家や官僚や関係者は「それはいい質問ですね」とまずは言っておいて、そこで適当な答えを組み立てる時間稼ぎをするのです。

そもそも質問が事前に分かっているぬるい世界では、「それはいい質問ですね」などという定型句は生まれようもありませんものね。

なので、会見というのは実はとてもピリピリした緊張感が漂い、しかもそれをいかに和ませるか、いかに緊張していないかを演出する度量をもまた試される場になるわけです。そういうのを、視聴者は、読者は、有権者は、見ているのですから。

安倍政権になってから、欧米ジャーナリズムは「日本のメディアは政権に牛耳られている」と折りあるごとに報じてきました。今回の国連記者会見では、その「折り」が実は常態化しているのだということが明らかになってしまいました。

October 03, 2015

文章教室

毎日新聞神奈川版のコラムにこんなのが載った。まあ、書き方からいってまだ一年生とか二年生記者だろうから経験も浅いのだろうが、こういう現場の話も聞かないで単なる思いつきだけで書くテキストの結論が、恣意によってどうとでもなることを例示したいと思う。支局記者は、まず現場、とにかく現場、そこを虚心に歩き回り疲れるほど話をし話を聞き、そしてその中でどういう自分を書いてゆくのか、時間をかけて深く考えていってほしい。

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記者のきもち:ノーパサラン /神奈川
毎日新聞 2015年10月01日 地方版

 「ノーパサラン」という言葉をご存じだろうか。安全保障関連法案を審議する参議院特別委員会が16日に横浜市で開いた地方公聴会の会場の周辺で、法案に反対するデモの参加者の一部が国会議員の車両を取り囲んで何度も叫んでいた。

 「憲法9条を守れ」とのボードを掲げた初老の男性が、困惑の表情を浮かべていた。「何という意味ですか」。尋ねられた私も分からない。インターネットで検索し、「やつらを通すな」という意味のスペイン語らしいと知った。

 デモを否定するつもりはないが、意味が通じる仲間による仲間に向けた大合唱に、近寄りがたさを感じた。「法案反対」に共感するデモの参加者にさえ理解できない言葉が、遠巻きに眺める人々の心に届くのかと疑問を抱いた。

 2時間後。異様な熱気は消え、数人がビラを配るだけになった。受け取る人はわずかだったが、法案に反対する理由がしっかりと書かれていた。「ノーパサラン」の連呼が、法案について考えてみようとする人の機会を奪う「通せんぼ」にならなかったか。地道な活動を続ける人たちを前に思った。【水戸健一】


***私的改訂版
記者のきもち:ノーパサラン

 「ノーパサラン」という言葉をご存じだろうか。安全保障関連法案を審議する参議院特別委員会が16日に横浜市で開いた地方公聴会の会場の周辺で、法案に反対するデモの参加者の一部が国会議員の車両を取り囲んで何度も叫んでいた。

 「憲法9条を守れ」とのボードを掲げた初老の男性に聞かれた、「何という意味ですか」。ネットで検索してみた。スペイン内戦の際の合言葉だった。「やつらを通すな」。フランス語にも英語にも存在する、自らの立場を死守しようという国際的な合言葉。

 なるほどこのデモは、意味が通じ合う仲間うちだけの集まりではないのだと感じた。世界中の歴史的な民主勢力の思いが、実は今この日本の横浜に集まる人々にも通じている。そんなことを教えてくれる大合唱。「法案反対」デモの参加者は、実は知らないところで世界ともつながっている。それはやがて遠巻きに眺める人々の心にも届くかもしれない。

 2時間後。異様なほどの熱気は消え、数人がビラを配るだけになった。受け取る人はわずかだったが、法案に反対する理由がしっかりと書かれていた。「ノーパサラン」という不思議な言葉の連呼が、法案について考えてみようとする人の好奇心を少しでも刺激してくれるかもしれない。後片付けのゴミ拾いをする人たちを前にそう思った。【現場で取材してもいないのに取材したみたいに作文する北丸雄二】

August 03, 2015

真夏の錯乱

日本に来ています。いま安保法制に関する反対が各界各層から溢れ出ています。大学生らの抗議グループSEALDs(シールズ)に影響されてか、お年寄りたちの多い巣鴨ではOLDS(オールズ)という年配者たちのデモも行われました。先日は高校生たちが呼びかけたデモが気温35度という猛暑の渋谷で5000人を集めて行われ、「だれの子どもも殺させない」という切実なシュプレヒコールの続くママさんたちのベビーカー・デモもありました。

こんな現象は戦後70年で初めて見るものです。とにかく戦争はダメだという平和憲法の精神がいま危機感として噴出しています。

対して集団的自衛権の確立を訪米で公約してしまった安倍さん側はシンパたちが援護射撃に躍起です。

驚いたのはSEALDsについて、自民党の36歳という武藤貴也衆院議員が「彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせい」とツイートしたことです。この人は「基本的人権の尊重」を「これが日本精神を破壊した主犯だと考えている」と公式ブログで表明している人です。「この基本的人権の尊重という思想によって滅私奉公の概念は破壊されてしまった」とまで言いのける錯乱は、いったいどういう倒錯から生まれたのでしょう。

彼だけではありません。田村重信・自民党政務調査会調査役はSEALDsを「民青、過激派、在日、チンピラの連合軍」と呼びました。これがデマの吹聴であることに加え、問題はもう一つ、彼が明らかに「在日」を侮蔑語で使っていることです。自民党では50万人以上いる「在日韓国・朝鮮人」をそういうカテゴリーで見ているのでしょうか? ヤバいでしょう、それは。

援護射撃どころか自爆テロみたいになってしまっているのはこの安保法制を中枢で推進してきた礒崎首相補佐官の「法的安定性は関係ない」発言も同じです。これは法の支配そのものの否定だけではなく、「安保法制は違憲だけどそんなこと言ってられん」と具体的に白状したということですから、自民党にとっても本来は懲罰もんのはずです。しかしいま私たちが目撃してるのは、その暴走をまたネグろうとしてる権力の錯乱です。

日本はとてもおかしなことになっています。原爆の日の近い長崎では先月、老齢の被爆者を招いてのある公立中学での講話会で、話者が被爆体験の後にアジア侵略の写真などを示しながら日本の戦争責任や原爆と同じ放射線を出す原発の問題に触れたところ、校長が「やめてください!」と大声で遮ったそうです。まるで戦前の官憲による「弁士中止!」です。NHKニュースによると、その後に校長はこの老人を校長室に呼び「写真はでっちあげだ」とか「自虐史観だ」などと話したといいます。

この話にしてもSEALDsや高校生デモに関する誹謗中傷にしても、なぜ日本の権力は政治的な意見表明を抑制しよう、黙らせようと動くのでしょうか。

校長は「政治的中立性が守られない」と弁解したようですが、中立性を守るための対策は、それらの言論を封じる事なかれ主義ではなく、賛否両論の表明の保証、談論風発の奨励のはずです。

ちなみに最近の仰天ニュースは、日テレの「安倍首相批判の落書きが駅トイレで見つかった。警視庁が器物損壊容疑で捜査している」というものでした。ここは北朝鮮か旧ソ連かと、今度は私が軽い錯乱を覚えたほどです。

February 03, 2015

「あらゆる手段」って……

もう40年以上もニューヨークに住む尊敬する友人から電話がかかってきて「ねえ、教えて。安倍さんはどうして海外で働いている私たちを危険にさらすような演説をしたの? 最後の一人まで助けるとか言っておいて何もできないなら、何のための政府なの? 私たちは平和を貫く日本人だったのに、これからはテロや誘拐の対象になったの?」と聞かれました。それは私の問いでもあります。

安倍首相のエジプトでの2億ドル支援声明の文言が拙かったことは2つ前のこのブログ「原理には原理を」で紹介しました。日本人人質の2人が「イスラム国」の持ち駒になっていて、この犯罪者集団がその駒を使う最も有効なタイミングと大義名分を探っていた時にまんまとそれらを与えてしまった。そのカイロ演説がいかに拙かったかは、首相自身と外務省が自覚しているのです。なぜなら人質発覚後のイスラエル演説の語調がまるで違っていたからです。「イスラム国」の名指しは最初の呼びかけだけ。あとは「過激勢力」という間接表現。内容も日本の平和主義を前面に押し出したきわめて真っ当でまっすぐなもの。カイロ演説の勇ましさが呼び水だったと自覚していなければ、なぜこうも変わったのか。逆にいえば、なぜ初めからそういう演説をしなかったのか。

そして後藤さんも殺害されてしまいました。3日の国会で、安倍首相は「中東での演説が2人の身に危険を及ぼすのではないかという認識はあったのか?」と問われ「いたずらに刺激することは避けなければいけないが、同時にテロリストに過度に気配りする必要はない」と答弁しました。テロリストへの気配りなんか言っていません。「人質の命」への気配りでしょうに、この人は自分の保身のためにはこんな冷酷なすり替えをするのです。こんな時の答弁くらいもっと正面から堂々ときちんと誠実に答えたらどうなのでしょう。

おまけに言うに事欠いて「ご質問はまるでISILに対してですね、批判をしてはならないような印象を我々は受けるわけでありまして、それは正にテロリストに私は屈することになるんだろうと、こう思うわけであります」。この人は批判や疑義をかわすためならそんな愚劣な詭弁を弄する。

まだあります。安倍首相は後藤さん殺害を受けての声明で事務方が用意した「テロリストたちを決して許さない」との文言に「その罪を償わせる」と書き加えたのだそうです。

以前からこの人の言い返し癖、勇ましさの演出に危惧を表明してきましたが、この文言はCNNやNYタイムズなどでは「報復/復讐する」と紹介されています。NYタイムズの見出しは「Departing From Japan’s Pacifism, Shinzo Abe Vows Revenge for Killings(日本の平和主義から離れて、シンゾー・アベ 殺害の報復を誓う)」でした。それは日本政府として抗議したんでしょうか? 抗議してもシンゾー・アベの政治的言語の文脈ではそういう意味として明確に英訳した」と言われるのがオチでしょうが。

平和主義のはずの日本がなんとも情けない言われ様ですが、これはつまり平和憲法を変えてもいないのに、戦後日本の一貫した平和外交も変えてないのに、一内閣の一総理の積極的「解釈」変更と各種の演説によって、日本は世界に向けた「平和国家」という70年間の老舗看板を、勝手に降ろされてしまっているということなのでしょうか?

早くも政府は閣議で、今回の人質事件では「あらゆる手段を講じてきた。適切だった」との答弁書を決めたそうです。一方で菅官房長官は「イスラム国」は「テロ集団なので接触できる状況でなかった」とも明かしました。接触もできなかったのに「あらゆる手段を講じた」? 例えば接触して人質解放を成功させたフランス経由も試さなかった? つまり「イスラム国」のあの時の突然の要求変更は、2億ドルの身代金云々を告げたのに日本政府がぜんぜん何も接触してこなかったので、詮無く交渉相手をヨルダンに変えた、ということだったでしょうか? つまり初めから後藤さんらを救うための交渉などしてこなかったということなのでしょうか?

それを裏打ちするように、これも3日の参院予算委で岸田外相が、2人の拘束動画が公開された1月20日まで、在ヨルダン日本大使館に置いた現地対策本部の人員を増員していなかったことをしぶしぶ明らかにしました。つまり昨年8月の湯川さん拘束後の5カ月間、後藤さん拘束が発覚した11月になっても、現地はなにも対応を変えなかった。こういうのを「あらゆる手段を講じてきた」と言うのでしょうか?

冒頭に紹介した友人の「最後の一人まで助けるとか言っておいて何もできないなら、何のための政府なの?」という切実な問いに、いまの私は答えを知りません。

January 27, 2015

素晴らしい日本

湯川さんが殺害され、後藤さんの解放が焦眉の急となっている状況で、欧米のメディアが日本人社会の不可解さに戸惑っています。再び登場した「自己責任」社会の冷たさや、2人の拘束されている画像を面白おかしくコラージュ加工したものがツイッター上に多く出回っているからです。

ワシントンポストなどは「自己責任」論に関して04年のイラク日本人人質事件に遡って解説し、あの時の人質の3人は「捕らえられていた時より日本に帰ってきてからのストレスの方がひどかった」という当時の担当精神科医の言葉なども紹介しています。タイム誌は今回の事件でもソーシャルメディア上で溢れる非同情的なコメントの傾向を取り上げ、ロイター電は「それらは標準的な西洋の反応とは決定的な違いをさらけ出している」としています。

確かに米国でも「イスラム国」に人質に取られたジャーナリストらの拘束映像が放送されました。しかしどこにも自己責任論は見られませんでしたし、ましてや彼らをネタに笑うようなことは、少なくとも公の場ではありませんでした。そんなものがあったら社会のあちこちで徹底的に口々に糾弾されるでしょう。80年代にあった「政治的正しさ(PC)」の社会運動は、批判もあるけれどこういうところで社会的な下支えとしてきっちりと共有され機能しているのだなあと改めて感じます。

ちなみに「自己責任」に直接対応する英単語もありません。それを「self-responsibility」とする訳語も散見されますが、英語では普通は言わないようです。また、後藤さんのお母様が記者会見で最初に「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と謝ったことも欧米ではあまり理解できない。そもそも悪いのは「イスラム国」であって「息子」たちではない。

日本語の分かる欧米人は「自己責任」と聞くと「自分の行動に責任を持つ」という自身の覚悟のニュアンスとして、つまり立派なものとして受け止めるようです。でもそれをもし他者を責める言葉として使うならば、それは「It's your own fault」や「You were asking for it」というふうに言う。つまり日本で今使われる「自己責任」とはまさに「自業自得」という切り捨ての表出でしかないのですね。

2人の拘束画像を茶化すようなツイッター画像の連投は「#ISISクソコラグランプリ」つまり「クソみたいなコラージュ」という意味のタグを付けられて拡散しています。例えば拘束の後藤さんと湯川さんの顔がアニメのキャラクターやロボットの顔にすげ替えられているものや、黒づくめの「イスラム国」男が逆に捕らわれているように入れ替えられているもの、その男がナイフをかざしているのでまるで料理をしているように背景を台所に加工しているもの、と、それはそれは多種多様です。外電によればそんなパロディ画像の1つは投稿後7時間でリツイートが7700回、お気に入りが5000回という人気ぶりだったそうです。

こういう現象に対し「人が殺されようというときになぜそんなおふざけができるのか?」「日本人ってもっと思いやり深く優しい人たちじゃなかったのか?」という反応は当然起こるでしょう。

もっともこれを「アニメ文化の日本の若者たちらしい」「イスラム国を徹底的におちょくるという別の戦い方だ」と見た欧米メディアもありました。しかしそれはあまりに穿った見方だと思います。これらの投稿のハシャギぶりは、実際には「イスラム国」への挑発でしかなく、「イスラム国」関係者とみられるあるツイッターのアカウントは「日本人は実に楽観的だな。5800km(おそらく8500kmの誤記)離れているから安全だと思うな。我々の兵士はどこにでもいる」と呆れ、「この2人の首が落とされた後でお前たちがどんな顔をするか見てみたいものだ」と返事をしてきたのです。

「日本は素晴らしい国だ、凄い国だ!」と叫ぶネトウヨ連中に限ってこういうときに「自己責任だ」として他人を切り捨て、嘲り、断罪する。そういう日本は素晴らしいのでしょうか? それは自己矛盾です。そうではなく、「日本を素晴らしい国、凄い国にしたい」という不断の思いをこそ持ち続けたいのです。

January 19, 2015

運動としての「表現の自由」

仏風刺誌「シャルリ・エブド」襲撃事件はその後「表現の自由」と「自由の限度」という論議に発展して世界中で双方の抗議が拡大しています。シャルリ・エブドの風刺画がいくらひどいからといってテロ殺人の標的になるのが許されるはずもないが、一方でいくら表現の自由といっても「神を冒涜する権利」などには「自由」は当てはまらない、という論議です。

私たちはアメリカでもつい最近同じことを経験しました。北朝鮮の金正恩第一書記をソニーの映画「ジ・インタビュー」が徹底的におちょくって果てはミサイルでその本人を爆殺してしまう。それに対してもしこれがオバマ大統領をおちょくり倒してついには爆殺するような映画だったら米国民は許すのか、というわけです。

日本が風刺対象になることもあります。最近では福島の東電原発事故に関して手が3本という奇形の相撲取りが登場した風刺画に大きな抗議が上がりました。数年前には英BBCのクイズ番組を司会していたスティーヴン・フライが、「世界一運が悪い男」として紹介した広島・長崎の二重被爆者の男性の「幸福」について「2010年に93歳で亡くなっている。ずいぶん長生きだったから、それほど不運だったとも言えないね」と話したところ在英邦人から抗議が出てBBCが謝罪しました。

シャルリ・エブドの事件のきっかけとなった問題は、風刺の伝統に寛容なフランス国内でも意見は分かれるようです。18日に報じられた世論調査結果では、イスラム教預言者ムハンマドを描写した風刺画の掲載については42%が反対でした。もっとも、イスラム教徒の反対で掲載が妨げられてはならないとの回答は57%ありましたが。

宗教批判や風刺の難しさは、その権威や権力を相手にしているのに、実際には権威や権力を持たない市井の信者がまるで自分が批判されたかのように打ちのめされることです。そして肝心の宗教そのものはビクともしていない。

でも私は、論理的に考え詰めれば「表現の自由に限度はない」という結論に達せざるを得ないと思っています。何が表現できて、何が表現できないか。それはあくまで言論によって選択淘汰されるべき事柄だと思います。そうでなくては必然的に権力が法的な介入を行うことになる。つまり風刺や批評の第一対象であるべきその時々の権力が、その時々の風刺や批評の善悪を決めることになります。自らへの批判を歓迎する太っ腹で寛容で公正な「王様」でない限り、それは必ず圧力として機能し、同時にナチスの優生学と同じ思想をばら撒くことになります。

もちろん、表現の自由の限度を超えると思われるようなものがあったらそれは「表現の自由の限度を超えている」と表現できる社会でなければなりません。そしてその限度の境界線は、その時々の言論のせめぎ合いによってのみ決まり、しかもそれは運動であって固定はしない。なので表現の自由とその限度に関する議論は止むことはなく、だからこそ自ずから切磋琢磨する言論社会を構成してゆく、そんな状態が理想だと思っています。

ヨーロッパというのは宗教から離れることで民主主義社会を形成してきました。青山学院大学客員教授の岩渕潤子さんによると「ヴァチカンが強大な権力を持っていた時代、聖書の現代語訳を出版しようとしただけで捉えられ、処刑された。だからこそヨーロッパ人にとってカトリック以外の信教の自由、そのための宗教を批判する権利、神を信じない権利は闘いの末に勝ち取った市民の権利だった」そうです。

対してアメリカは宗教とともに民主主義を培ってきた国で、キリスト教の権威はタブーに近い。しかしそれにしても市民社会の成立は「神」への永遠の「質問」によって培われてきたし、信仰や宗教に関係するヘイトスピーチ(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの差別や排斥の表現)も世界の多くの国々で禁止されているにもかかわらず「表現の自由」の下で法的には規制されていず、あくまでも社会的な抗議や制裁によって制御される仕組みです。もちろんそれが「スピーチ(表現)」から社会的行動に転じた場合は、「ヘイトクライム(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの犯罪行為)」として連邦法が登場する重罪と位置付けられてもいるのです。いわば、ヘイトスピーチはそうやって間接的には抑圧されているとも言えますが。

「表現の自由」の言論的な規範は、歴史的にみればそれは80年代の「政治的正しさ(PC)」の社会運動でより強固かつ広範なものになりました。このPC運動に対する批判もまた自由に成立するという事実もまた、根底に「正しさ」への「真の正しさ」による疑義と希求があるほどに社会的・思想的な基盤になっています。

でもここでこんな話をしていても、サザンの桑田佳祐が紅白でチョビ髭つけてダレかさんをおちょくっただけで謝罪に追い込まれ、何が卑猥かなどという最低限の自由を国民ではなく官憲が決めるようなどこぞの社会では、何を言っても空しいままなのですが。

August 30, 2014

氷のビショービショ

友人からチャレンジされて私もアイスバケットの氷水をかぶりました。筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病の支援を目的に7月末から始まったこのキャンペーンは有名人を巻き込んであっというまに300万人から計1億ドル以上を集めました(8月末現在)。昨年の同じ時期に米国ALS協会が集めた募金は280万ドルだったといいますから、このキャンペーンは大成功です。

フェイスブックやツイッターで映像画像を公開しているみなさんは嬉々として氷水をかぶっているようですが、スティーヴン・ホーキング博士も罹患しているこの病気はじつはとても悲惨なものです。四肢から身体全体にマヒが広がり、最後に残った眼球運動もできなくなると外界へ意思を発信する手段がなくなります。意識を持ったまま脳が暗闇に閉じ込められるその孤独を思うと、氷水でも何でもかぶろうという気になります。

啓発のためのこういうアイディアは本当にアメリカ人は上手い。バカげていても何ででも耳目を集めればこっちのもの。こういうのをプラグマティズムと呼ぶのでしょうね。もちろんチャレンジされる次の「3人」も、「幸福の手紙」みたいなチェーンメール方式と違って断る人は断ってオッケー、その辺の割り切り方もお手の物です。

レディ・ガガにネイマール、ビル・ゲイツやレオナルド・ディカプリオといった世界のセレブたちが参加するに至って案の定、これはすぐに日本でも拡散しました。ソフトバンクの孫さんやトヨタの豊田章男社長といった財界人から、ノーベル生理学・医学賞の山中教授、そして田中マー君も氷水をかぶりました。

ところがあるスポーツタレントがチャレンジの拒否を表明して、それが世間に知られると「エラい」「よく言った」と賞讃の声がわき起こったのです。ある意味それはとても「日本」らしい反応でした。その後ナインティナインの岡村隆史も「(チャリティの)本質とはちょっとズレてきてるんちゃうかな」と口にし、ビートたけしも「ボランティアっていうのは人知れずやるもの」と発言しました。こうした批判や違和感の理由は「売名行為」「一過性のブーム」「やっている人が楽しんでるだけで不謹慎」「ただの自己満足」といったものでした。

日本にはどうも「善行は人知れずやるもの」というストイックな哲学があるようです。そうじゃないとみな「偽善的」と批判される。しかし芸能人の存在理由の1つは人寄せパンダです。何をやろうが売名であり衆人環視であり、だからこそ価値がある。ビートたけしの言い分は自己否定のように聞こえます。

私はこれは日本人が、パブリックな場所での立ち振る舞いをどうすべきなのかずっと保留してきているせいだと思っています。公的な場所で1人の自立した市民として行動することに自身も周囲も慣れていない。だからだれかがそういう行動を取ると偽善や売名に見える。だから空気を読んで出しゃばらない。そんな同調圧力の下で山手線や地下鉄でみんな黙ってじっとしているのと同じです。ニューヨークみたいに歌をうたったり演説をする人はいません。

そういう意味ではアイスバケット・チャレンジはじつに非日本的でした。パブリックの場では大人しくしている方が無難な日本では、だから目立ってナンボの芸人ですら正面切っての権力批判はしない。むしろ目立つ弱者を笑う方に回る。

私は、偽善でも何でもいいと思っています。その場限りも自己満足も売名も総動員です。ALSはそんなケチな「勝手」を飲み込んであまりに巨大なのですから。

June 16, 2014

6年後のニッポン

このところの日本のスポーツ報道の過剰な思い入れとか浪速節調などにちょっとした異和感を感じています。ソチ五輪のときもそうでしたが今回はもっとひどい。「今回」とはもちろんワールドカップのことです。

アメリカにいるとサッカー熱がそれほどでもないのでなおさら彼我の差として目につくのでしょう。いちばん気持ち悪かったのは朝日の本田圭佑の記事でした。「本当に大切なものは何か 自問自答した4年間」という見出しのこの読み物、まるで高校野球の苦悩のエースを取り上げたみたいな書き方でした。プロで莫大なカネを稼いでいるオトナに、「もともとはサッカーがうまくなりたいだけだったのに、ビジネスの要素が大きくなった。純粋な気持ちだけでサッカーをすることが難しくなった」と言わせる。「純粋な気持ちだけでは難しい」って、まるでプロを否定するようなこの切り口はないでしょう。

果たしてW杯予想でも初戦での日本の敗北をだれも口にできない幇間ぶり。大方が2−1での日本勝利予測で勝手に盛り上がり、こういうのを手前味噌というのではなかったか。こうしたうたかたの極楽報道は何かに似ているなと思ったら、そうそう、あの小保方さんの割烹着記事のニヤケ具合もこんな感じでした。

W杯報道はTVも新聞もみんな太鼓持ちになったみたいに総じて気持ち悪く進んでいます。

私は88年のソウル五輪を取材しました。事前の企画連載から本大会まで、ベン・ジョンソンの金メダル剥奪をスクープした東京新聞チームにいたのです。なのでいまもはっきり憶えています。あのころは「ニッポン、ニッポン」ばかりの報道は格好悪いから(どの社も)極力避けようと意識して報道していました。ちょうど国際化、グローバリゼーションなどという言葉が新聞にも登場し始めていたころです。いまのような「愛国」も「嫌韓」もありませんでした。

思えば88年というのはバブル経済真っ盛りのころでもあります。日本人には余裕というか、根拠のない自信もまた大いにあったのでしょうね。だから当時だっておそらくはいたはずのネトウヨ体質の人たちにしても、いまみたいに爬虫類よろしくすぐに噛み付いたりはしなかったのかもしれません。というか、政治的には圧倒的に少数派でしたから、いまの安倍のような守護神も集まる場もなくただただ逼塞するしかなかった。

あれから26年、「ニッポンすごい!」「ニッポン最高!」のしつこいほどの念押しが時代の様変わりを如実に示しています。背景にあるのは日本の余裕と自信のなさなのでしょう。だからいま改めて賛辞以外のいかなるメッセージも拒絶している。賛辞が聞こえない場合は自己賛辞で補填している。アメリカに住んでいると日本への賛辞はいろいろな機会に聞こえてくるので、そんなに不安になる必要はないと思うのですが、日本国内だと違うみたいですね。

おそらくもっと中立的、客観的な報道も出来るのでしょう。でも最も簡単でかつ喜ばれるのは読者・視聴者におもねるやり方です。だれもひとに嫌われたくなんかありませんし、とくにW杯みたいな「お祭り」ではそんなおべんちゃらもゆるされると思っているメディアの人間たちも多い。でもそれはジャーナリズムではありません。

この過剰な思い入れは戦争のときの高揚感に似ているのだと思います。中立でも客観でもなく、根拠もなく「イケる」と思ってしまう。まあ、そう思わない限り戦争なんか始められません。開戦というのはいつもそんな幻想や妄想と抱き合わせなのです。

不安の裏返しの「ニッポン最高!」の自己暗示。それは数多のJポップの歌詞に溢れる「自分大好き!」にも通底し、そこに愛国心ブームがユニゾンを奏でている──6年後の東京オリンピックではいったいどんなニッポンが現れているのでしょうね。

April 28, 2014

尖閣安保明言のメカニズム

「尖閣諸島は安保条約の適用対象」という文言が大統領の口から発せられただけで、鬼の首でも獲ったみたいに日本では一斉に一面大見出し、TVニュースでもトップ扱いになりました。でも本当に「満額回答」なんでしょうか? だって、記者会見を聴いていた限り、どうもオバマ大統領のニュアンスは違っていたのです。

もちろんアメリカ大統領が言葉にすればそれだけで強力な抑止力になります。その意味では意味があったのでしょう。しかしこれはオバマも「reiterate」(繰り返して言います)と説明したとおり、すでに過去ヘーゲル国防長官、ケリー国務長官も発言していたこととして「何も新しいことではない」と言っているのです。

Our position is not new. Secretary Hagel, our Defense Secretary, when he visited here, Secretary of State John Kerry when he visited here, both indicated what has been our consistent position throughout.(中略)So this is not a new position, this is a consistent one.

ね、2度も言ってるでしょ、not a new position ってこと。これは首尾一貫してること(a consistent one)だって。

それがニュースでしょうか? それにそもそも安保条約が適用されると言ってもシリアでもクリミアでも軍を出さなかったオバマさんが「ロック(岩)」と揶揄される無人島をめぐる諍いで軍を動かすものでしょうか? だいたい、上のコメントだって実は中国をいたずらに刺激してはいけないと「前からおんなじスタンスだよ、心配しないでね」という中国に対する暗黙の合図なのです。

それよりむしろオバマさんが自分で安倍首相に強調した( I emphasized with Prime Minister Abe)と言っていたことは「(中国との)問題を平和裏に解決する重要さ(the importance of resolving this issue peacefully)」であり「事態をエスカレートさせず(not escalating the situation)、表現を穏やかに保ち(keeping the rhetoric low)、挑発的な行動を止めること(not taking provocative actions)」だったのです。まるで中学生を諭す先生のような言葉遣いです。付け加えて「日中間のこの問題で事態がエスカレートするのを看過し続けることは深刻な誤り(a profound mistake)であると首相に直接話した(I’ve said directly to the Prime Minister )」とも。

さらにオバマさんは「米国は中国と強力な関係にあり、彼らは地域だけでなく世界にとって重大な国だ(We have strong relations with China. They are a critical country not just to the region, but to the world)」とも言葉にしているのですね。これはそうとう気を遣っています。

注目したいのは「中国が尖閣に何らかの軍事行動をとったときにはその防衛のために米軍が動くか」と訊いたCNNのジム・アコスタ記者への回答でした。オバマさんは「国際法を破る(those laws, those rules, those norms are violated)国家、子供に毒ガスを使ったり、他国の領土を侵略した場合には(when you gas children, or when you invade the territory of another country)必ず米国は戦争に動くべき(the United States should go to war)、あるいは軍事的関与の準備をすべき(or stand prepared to engage militarily)。だが、そうじゃない場合はそう深刻には考えない(we’re not serious about those norms)。ま、その場合はそういうケースじゃない(Well, that’s not the case.)」と答えているのです。

どういうことか?

実は尖閣諸島に関しては、オバマさんは「日本の施政下にある(they have been administered by Japan)」という言い方をしました。これはもちろん日米安保条約の適用対象です。第5条には次のように書いてある;

ARTICLE NO.5
Each Party recognizes that an armed attack against either Party in the territories under the administration of Japan would be dangerous to its own peace and security and declares that it would act to meet the common danger in accordance with its constitutional provisions and processes.
第5条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危機に対処するように行動することを宣言する。

でもその舌の根も乾かぬうちにオバマさんは一方でこの尖閣諸島の主権国については「We don’t take a position on final sovereignty determinations with respect to Senkakus」とも言っているのですね。つまりこの諸島の最終的な主権の決定(日中のどちらの領土に属するかということ)には私たちはポジションをとらない、つまり関与しない、判断しない、ということなのです。つまり明らかに、尖閣諸島は歴史的に現在も日本が施政下に置いている(administrated by Japan)領域だけれども、そしてそれは同盟関係として首尾一貫して安保条約の適用範囲である(the treaty covers all territories administered by Japan)けれど、主権の及ぶ領土かどうかということに関しては米国は留保する、と、なんだかよくわからない説明になっちゃっているわけです。わかります?

つまり明らかに合衆国大統領は尖閣をめぐる武力衝突に関しての米軍の関与に関して、言葉を濁しているんですね。しかももう1つ、安保条約第5条の最後に「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危機に対処するように行動する」とあって、この「手続き」って、アメリカはアメリカで議会の承認を経なきゃならないってことでもありますよね。米国連邦議会が「岩」を守るために軍を出すことを、さて、承認するかしら? ねえ。

この共同会見を記事にするとき、私なら「尖閣は安保条約の適用対象」という有名無実っぽいリップサービスで喜ぶのではなく、むしろ逆に「米軍は動かず」という“見通し”と「だから日中の平和裏の解決を念押し」という“クギ刺し”をこそ説明しますが、間違っているでしょうか? だってリップサービスだってことは事実でしょう? 米軍が守るというのはあくまで日本政府による「期待」であって、政治学者100人に訊いたら90人くらいは「でも動きませんよ」と言いますよ。

ところがどうも日本の記者たちはこれらの大統領の発言を自分で解読するのではなく、外務省の解釈通り、ブリーフィング通りに理解したようです。最初に書いたようにこれは「大統領が口にした」というその言葉の抑止力でしかありません。そりゃ外務省や日本政府は対中強硬姿勢の安倍さんの意向を慮って「尖閣」明言を「大成功」「満額回答」と吹聴したいでしょう。でもそれは“大本営発表”です。「大本営発表」は「大本営発表」だということをちゃんと付記せねば、それは国民をだますことになるのです。

私がこれではダメだと思っているのは、何故かと言うと、この「尖閣」リップサービスで恩を売ったと笠に着て、米国が明らかにもう1つの焦点であったTPPで日本に大幅譲歩を強いているからです。ここに「国賓招聘」や「すきやばし次郎」や「宮中晩餐会」などの首相サイドの姑息な接待戦略は通用しませんでした。アメリカ側はこういうことで恐縮することをしない。ビジネスはビジネスなのです。

思えばオバマ来日の前週に安倍さんが「TPPは数字を越えた高い観点から妥結を目指す」と話したのもおかしなことでした。「高い観点」とはこんな空っぽな安保証文のことだったのでしょうか? 取り引きの材料になった日本の農家の将来を、いま私は深く憂いています。

April 26, 2014

勘違いの集団自衛権

みんな誤解してるようだけど、日本が戦争をしかけられるときには集団的自衛権は関係ないんだよ。つまり尖閣での中国との衝突なんて事態のときは、集団的自衛権は関係ないの。どうもその辺、混同してるんだな。集団的自衛権が関係するのは、日本の同盟国である米国が攻撃されたとき。それを米国と「集団」になって一緒に防衛するってこと。つまり米国が攻撃されたらそこに日本が出て行くってこと。米国と同盟国だから。さてそこでそれを「限定的に使うことを容認したい」って言い始めてるのが安倍政権。どこまでが「限定的」なのかは、そんなの、難しくて言えない、ってさ。個別に判断するようです。でも「地球の裏側にまで出かけることはない」とも言ってるけど、「じゃあどこなら行くの?」には答えられていない。

一方、尖閣でなにかあったときに米国が日本を助けてくれるのは、これは米国側からの集団自衛権、それと、それをもっと明確にしての日米安保条約。だから、尖閣の有事の時のために集団自衛権が必要だ、と思い込んでる人は間違いなの。で、今回の日米共同声明では、尖閣も含んだ日本の施政下の場所は、それは「安保条約第5条の適用下にある」ってこと。

いわば、米国から守ってもらいたいがために、日本も米国を一緒になって守りますよ、っていう約束がこんかいの「集団的自衛権の行使」容認に向けた動きなのです。つまり、なんかあったら日本もやりますから、という証文。先物取り引きみたいなもの。約束。だから、日本になんかあったらよろしくね、というお願いとのバーター取引なのね。

でも、じつはこれ、バーターにしなくてももう昔からそう決まっていたの。だって、安保条約、前からあるでしょ? 集団的自衛権行使します、なんて決めなくても、もうそれは約束だったんだから。

じゃあ、なんでいままたそんなことを言いだしたの? というのでいろいろ憶測があって、それは、1つは靖国参拝、1つは従軍慰安婦河野発言見直し、つまりは「戦後レジームからの脱却」「一丁前の国=美しい国」──そういうアメリカが嫌がることをやらなきゃオトコじゃねえ!と思い込んでるアベが、嫌がることの代償にアメリカが有り難がってくれることをやってやればあまり強いこと言わんだろう、ま、だいじょうぶじゃね?という思惑で(というか、もちろんそれはちゃんと武力行使もできるような「一丁前のオトコらしい国家」であることの条件でもあるんでそこはうまく合致するんだけど)、それで前のめりになっているわけ。だってほら、昨年12月26日の靖国参拝で「disappointed」なんて言われちゃったから、なおさら機嫌直さないといけないでしょ。

アメリカだって、助けてくれると言うのをイヤだなんて言いません。そりゃありがとうです。でも、要は、そんなこんなでアメリカが日本の戦争に巻き込まれるような事態はいちばん避けたいわけです。でも日本が集団自衛権行使容認に前のめりになればなるほど、中国や北朝鮮を刺激してそういう事態が訪れる危険度が高まるというパラドクスがあるわけ。だから、アメリカもアメリカに対して集団自衛権を行使してくれるのはありがたいけど、まあちょっとありがた迷惑な感じが付き纏う。

だから、こんかいの共同声明では、集団自衛権の「行使容認に向けての動き」を歓迎・支持する、ではなくて、集団的自衛権の行使に関する事項について「検討を行っていること」なわけよ、歓迎・支持の対象は。

でね、オバマが強調したのは「尖閣も守られるよ」ってことじゃないの。オバマが強調したのは「対話を通した日中の平和的解決」であり、オバマは「尖閣諸島がどちらに属しているかに関してはアメリカは立場を明確にしない」と繰り返したんです。さらに「米国は軍事的関与を期待されるべきではない」とも話した。

そりゃね、大統領が明言し共同声明にも「尖閣諸島を含む日本の施政下の土地」は安保条約第5条の対象だと明示したことは、それだけで他国からの侵略へのけっこうな抑止力になります。これまでに繰り返された国務長官、国防長官レベルの談話よりは抑止力になる。その意味ではよかった。でもそれだけです。

だいたい日米安保条約第5条にはこう書いてある。

「各締結国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するよう行動する」

つまりは、まずは尖閣をめぐって攻撃されても、まずは「自国の憲法上の規定及び手続きに従って行動する」わけ。武力行使なんて、ここには明記されていない。

でもってこれ、「施政下」というのがじつはキモでね、「日本の領土」じゃないのよ。オバマは「尖閣諸島がどちらに属しているかに関してはアメリカは立場を明確にしない」と言って、「尖閣」とともに中国名の「釣魚島」の名前も言ってるのね。で、尖閣はいまは日本の実効支配下にあるけど、いったん中国が奪い取ったらこれは中国の施政下に入って、安保5条の適用される日本の施政下の領域じゃなくなるわけよ。ね? つまり、その時点で安保によって守られることから除外されるわけ。スゴい論理だよね。

そもそもあそこは無人島なんですよ。英語では「rock」と呼ばれるくらいに単なる岩なわけです(ほんとは海洋資源の権利とかあってそうじゃないんですけどね)。シリアやクリミアで軍事介入しなかったアメリカが、無人島奪還のために軍事介入しないでしょう。大義名分、ないでしょう。アメリカ議会、承認しないでしょう。するわけないもん。

だからここまで考えると、日本のメディアが今回の日米首脳会談、TPPはダメだったけど安全保障の上では尖閣の名前を出してもらって「満額回答だ!」「日米同盟の強固さに関して力強いメッセージをアピールできた!」なんて自画自賛してる政府や外務省の思惑どおりの報道をしてるけど、それ、自画自賛じゃなくて我田引水だから。実質的には何の意味もないってこと、わかるでしょ?

だから「尖閣、危ないじゃん、だから集団自衛権、必要なんじゃね?」と思ってるそこのキミ、それ、違うからね。

集団自衛権ってのは、日本が攻撃されていないのに、同盟国が攻撃されたときにそこに(友だちがやられてるのに助けないのはオトコじゃねえ!って言って)自衛隊派遣して、そんでお国のため、というよりも別の国のために、誰かが死ぬかもしれないってことだから。ま、その覚悟があるんならいいけど、そんで、誰か自衛隊員が不幸なことに殺されたら、それはもうそっからとつぜん日本の国の戦争ってことになって、そんで戦争になっちゃうってことだから。で、日本国が攻撃されるかもしれないってことだから、その覚悟、できてる? ていうか、それって、憲法、解釈変更だけでできちゃうの? ウソでしょうよ、ねえ。

そゆこと。

もいっかい言うよ、集団自衛権と尖閣は関係ない。なんか、オバマ訪日の安倍政権の物言いではまるでそうみたいだったけど、尖閣と関係するのは安保条約。集団自衛権は、その見返りとして日本が別の戦争に加わること。

でさ、その「別の戦争」だけど、友だちを助けないのはオトコじゃねえ、と反射的に思う前に、その喧嘩の仲裁に入るのがオトコでしょう、って思ってよ。そっちのほうが百倍難しい。それをやるのがオトコでしょうが。

というわけで、今回、アメリカの妥協を引き出せなかったTPPのほうが具体的な現実世界ではずっと大事なんです。私昔からTPP反対ですけど。

March 29, 2014

48年間の無為

48年という歳月を思うとき、私は48年前の自分の年齢を思い出してそれからの月日のことを考えます。若い人なら自分の年齢の何倍かを数えるでしょう。

いわゆる「袴田事件」の死刑囚袴田巌さんの再審が決まり、48年ぶりに釈放されました。あのネルソン・マンデラだって収監されていたのは27年です。放送を終えるタモリの長寿番組「笑っていいとも」が始まったのは32年前でした。

48年間も死刑囚が刑を執行されずにいたというのはつまり、死刑を執行したらまずいということをじつは誰もが知っていたということではないでしょうか? なぜなら自白調書全45通のうち44通までを裁判所は「強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの」などとして任意性を認めず証拠から排除しているのです。残るただ1通の自白調書で死刑判決?

また、犯行時の着衣は当初はパジャマとされていましたが、犯行から1年後に味噌樽の中から「発見」された5点の着衣はその「自白」ではまったく触れられていず、サイズも小さすぎて袴田さんには着られないものでした。サイズ違いはタグにあったアルファベットが、サイズではなく色指定のものだったのを証拠捏造者が間違ったせいだと見られています。

いずれにしてもその付着血痕が袴田さんのものでも被害者たちのものでもないことがDNA鑑定で判明し、静岡地裁は「捏造の疑い」とまで言い切ったのでした。

ところがその再審決定の今の今まで、権力の誤りを立ち上がって正そうとした者は権力の内部には誰ひとりとしていなかった。それが48年の「無為」につながったのです。(1審の陪席判事だった熊本典道は、ひとり無罪を主張したものの叶わず、半年後に判事を辞して弁護士に転身しました。そして判決から39年目の2007年に当時の「合議の秘密」を破って有罪に至った旨を明らかにし、袴田さんの支援運動に参加しました。ところが権力の内部にとどまった人たちに、熊本氏の後を追う者はいなかったのです)

こうした経緯を考えるとき、私はホロコースト裁判で「命令に従っただけ」と無罪を主張したアドルフ・アイヒマンのことを思い出します。数百万のユダヤ人を絶滅収容所に送り込んだ責任者は極悪非道な大悪人ではなく、思考を停止した単なる小役人だった。ハンナ・アーレントはこれを「悪の凡庸さ」と呼びました。

目の前で法や枠組みを越えた絶対の非道や不合理が進行しているとき、非力な個人は立ち上がる勇気もなく歯車であることにしがみつく。義を見てせざる勇なきを、しょうがないこととして甘受する。そうしている間に世間はとんでもない悪を生み出してしまうのです。その責任はいったいどこに求めればよいのでしょう?

ナチスドイツに対抗したアメリカは、この「悪の凡庸さ」に「ヒーロー文化」をぶつけました。非力な個人でもヒーローになれると鼓舞し、それこそが社会を「無為の悪」から善に転じさせるものだと教育しているのです。

こうして内部告発は奨励されベトナム戦争ではペンタゴンペーパーのダニエル・エルスバーグが生まれ、やがてはNSA告発のエドワード・スノーデンも登場しました。一方でエレン・ブロコビッチは企業を告発し、ハーヴィー・ミルクは立ち上がり、ジェイソン・ボーンはCIAの不法に気づいてひとり対抗するのです。

対して日本は、ひとり法を超越した「命のビザ」を書き続けた杉原千畝を「日本国を代表もしていない一役人が、こんな重大な決断をするなどもっての外であり、組織として絶対に許せない」として外務省を依願退職させ、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答し続けた。彼が再び「存在」し直したのは2000年、当時の河野洋平外相の顕彰演説で日本政府による公式の名誉回復がなされたときだったのでした。すでに千畝没後14年、外務省免官から53年目のことでした。

それは袴田さんの名誉が回復される途中である、今回の「48年」とあまりに近い数字です。

March 09, 2014

「一滴の血」の掟

アメリカ南部州にはかつてワンドロップ・ルール(一滴の血の掟)というのがあって、白人に見えても一滴でも黒人の血が混じっていたら「黒人」と定義されていた時代がありました。奴隷制度では白人たちは黒人を性的にも所有し、奴隷を増やすためにも混血は進んだのでしょう。もちろんそれだけではなく純粋に人種を越えた恋愛や結婚もあるわけで、いま「一滴の血」ルールを適用したらアメリカの白人の3人に1人は黒人になるとも言われます。

Jリーグの浦和vs鳥栖戦のあった3月8日の埼玉スタジアムで、浦和サポーター席入り口のコンコースに「JAPANESE ONLY」という横断幕が掲げられる“事件”が起こりました。浦和サイドはこれを問題視したサポーターからの通知で事を知りますが、どうすべきかわからずそのまま1時間ほど放置。一方では問題視したサポーター氏にその写真をネットにアップしないように要求。横断幕が撤去されたのは試合後しばらく経って、欧米系の観客が写真を撮って初めてスタッフが慌てて外したのだそうです。

右翼国粋主義と形容される安倍内閣から始まって嫌中嫌韓の見出し踊る週刊誌、そしてアンネの日記破損問題と、このところの日本社会はまさに「ナチスの手口にマネ」ているようです。で、今回の「日本人以外お断り」の横断幕。そしてそれに即応できない大のオトナの思考停止。

それにも増して意味不明なのは、この期に及んでこの「JAPANESE ONLY」を、浦和の8日の先発・ベンチ入り選手が全員日本人だったことから「日本人だけで戦う」だとか「日本人だけでもJリーグを盛り上げよう」だとかの意味だと言い張る“愛国”者たちがいることです。挙げ句の果てにこの横断幕の何が問題なのかわからない、という開き直り同然の差別主義者まで。

同じ言い逃れを、昨年12月の安倍靖国参拝の際の米国務省「失望」声明でも聞いたことがあります。例の「The United States is disappointed」を、いかにも英語通であるかのように「よくある表現で重大なことではない」などと勝手に講釈する右派評論家が後を絶ちませんでした。

今回も新聞やTVニュースの論調までもがどういうわけかこれを「差別」とは断定せず、「差別的な意味にも取れる」「差別的とも解釈されかねない」などと奥歯に物が挟まったような報道ぶりです。誰がどういう意図で書いたかは関係ないのです。表現とは、表現されたその「モノ」こそが自立した表現なのであって、「JAPANESE ONLY」は差別表現に他ならないのです。

「日本人」にワンドロップ・ルールを適用したら、古く縄文時代から続く中国・朝鮮半島からの渡来人との混血は限りなく「日本」人など1人もいなくなります。さらにはそもそもこの島国は大陸と陸続き。人種も民族もあったもんじゃありません。

ワンドロップ・ルールは、本来はそれによって白人の立場を死守しようとした人たちが作ったものですが、実際には逆に機能して、結果、白人という立場がいかに実体のないものかを浮き彫りにしてしまいました。同じように“チョン”だ“チュン”だと純血主義けたたましい人は、自分の血の一滴に気づいて自爆するしかないのです。生き残れるのはその決まりを唾棄できる者だけ。

この浦和での一件を知って、翌日のFC岐阜のサポーター席には「Say NO to Racism」の文字の横断幕が掲げられたそうです。偏狭な愛国心をあおるのもスポーツならば、それを糾弾するのもスポーツなのです。

後者のスポーツをこそプロモートしていかなくてはならないのに、それでもまだ「スポーツは信条表明の場ではない」などという人もいます。ねえ、友情とか、親交とか、差別反対とか、そういうのだって立派な「信条」なのです。どうしてそんなにみんな信条や思想を表明することにアレルギーを持つのでしょう? スポーツを、堂々と麗しき信条を表明する場にしてなにがいけないのでしょうかね。

February 23, 2014

拡大する日本監視網

浅田真央選手のフリーでの復活は目を見張りました。ショートでの失敗があったからなおさらというのではなく、それ自体がじつに優雅で力強い演技。NBCの中継で解説をしていたやはり五輪メダリストのジョニー・ウィアーとタラ・リピンスキーは直後に「彼女は勝たないかもしれない。でも、このオリンピックでみんなが憶えているのは真央だと思う」と絶賛していました。前回のコラムで紹介した安藤美姫さんといい、五輪に出場するような一流のアスリートたちはみな国家を越える一流の友情を育んでいるのでしょう。

一方でそのNBCが速報したのが東京五輪組織委員会会長森嘉朗元首相の「あの子は大事な時に必ず転ぶ」発言です。ご丁寧に「総理現職時代から失言癖で有名だった」と紹介された森さんのひどい失言は、じつは浅田選手の部分ではありません。アイスダンスのクリス&キャシー・リード兄妹を指して「2人はアメリカに住んでるんですよ。米国代表として出場する実力がなかったから帰化させて日本の選手団として出している」とも言っているのです。

いやもっとひどいのは次の部分です。「また3月に入りますとパラリンピックがあります。このほうも行けという命令なんです。オリンピックだけ行ってますと会長は健常者の競技だけ行ってて障害者のほうをおろそかにしてると(略)『ああまた27時間以上もかけて行くのかな』と思うとほんとに暗いですね」

日本の政治家はこうして自分しか知らない内輪話をさも得意げに聴衆に披露しては笑いを取ろうとする。それが「公人」としてははなはだ不適格な発言であったとしても、そんな「ぶっちゃけ話」が自分と支持者との距離を縮めて人気を博すのだと信じている。で、森さんの場合はそれが「失言癖」となって久しいのです。

しかしこういう「どうでもいい私語」にゲスが透けるのは品性なのでしょう。そのゲスが「ハーフ」と「障害者」とをネタにドヤ顔の会長職を務めている。27時間かけてパラリンピックに行くのがイヤならば辞めていただいて結構なのですが、日本社会はどうもこういうことでは対応が遅い。

先日のNYタイムズは安倍政権をとうとう「右翼政権」と呼び、憲法解釈の変更による集団自衛権の行使に関して「こういう場合は最高裁が介入して彼の解釈変更を拒絶し、いかなる指導者もその個人的意思で憲法を書き換えることなどできないと明確に宣言すべきだ」と内政干渉みたいなことまで言い出しました。国粋主義者の安倍さんへの国際的な警戒監視網はいまや安倍さん周辺にまで及び、というか周辺まで右翼言辞が拡大して、NHKの籾井会長や作家の百田さんや哲学者という長谷川さんといった経営委員の発言から衛藤首相補佐官の「逆にこっちが失望です」発言や本田内閣官房参与の「アベノミクスは力強い経済でより強力な軍隊を持って中国に対峙できるようにするためだ」発言も逐一欧米メディアが速報するまでになっています。

日本人の発言が、しかも「問題」発言が、これほど欧米メディアで取り上げられ論評され批判されたことはありませんでした。安倍さんはどこまで先を読んでその道を邁進しようとしているのでしょうか? そのすべてはしかし、東アジアにおけるアメリカの強大な軍事力という後ろ盾なくては不可能なことなのです。そしてそのアメリカはいま、日本経済を建て直し、沖縄の基地問題を解決できると踏んでその就任を「待ち望んだ安倍政権を後悔している」と、英フィナンシャルタイムズが指摘している。やれやれ、です。

February 17, 2014

自信喪失時代のオリンピック

安藤美姫さんが日本の報道番組でソチ五輪での女子フィギュア競技の見通しに関して「表彰台を日本人で独占してほしいですね」と振られ、「ほかの国にもいい選手はいるから、いろんな選手にスポットライトを当ててもらえたら」と柔らかく反論したそうです。

五輪取材では私は新聞記者時代の88年、ソウル五輪取材で韓国にいました。いまも憶えていますが、あのころは日本経済もバブル期で自信に溢れていたせいか、日本の報道メディアには「あまりニッポン、ニッポンと国を強調するようなリポートは避けようよ」的な認識が共有されていました。それは当時ですでに24年前になっていた東京オリンピックの時代の発展途上国の「精神」で、「いまや堂々たる先進国の日本だもの、敢えてニッポンと言わずとも個人顕彰で十分だろう」という「余裕」だったのだと思います。

でもその後のバブル崩壊で日本は長い沈滞期を迎えます。するとその間に、就職もままならぬ若者たちの心に自信喪失の穴があくようになり、そこに取って替わるように例の「ぷちナショナリズム」みたいな代替的な擬制の「国家」の「自信」がはまり込んだのです。スポーツ応援に「ニッポン」連呼が盛大に復活したのもこのころです。

知っていますか? 現在の日本では街の書店に軒並み「嫌韓嫌中」本と「日本はこんなにスゴい」的な本が並ぶ愛国コーナーが設けられるようになっているのです。なにせその国の首相は欧米から「プチ」の付かない正真正銘の「ナショナリスト」のお墨付きをもらっているのですから、それに倣う国民が増えても不思議ではありません。だからこそ64年の東京五輪を知らない世代の喪失自信を埋め合わせるように、日本が「国家的自信」を与える「東京オリンピック」を追求し始めたのも当然の帰結だったのでしょう。

そこから冒頭の「表彰台独占」コメントへの距離はありません。さらに首相による羽生結弦選手への「さすが日本男児」電話も、あざといほどに短絡的です。80年代にはあったはずの日本人の、あの言わずもがなの「自信」は、確かにバブルのように消えてしまったよう。まさに「衣食足りて」の謂いです。

そんな中で安藤美姫さんも羽生選手も自信に溢れています。それはやるべきことをやっている人たちの自信でしょうが、同時に海外経験で多くの外国人と接して、その交遊が「日本」という国家を越える人たちのおおらかさのような気がします。そしてその余裕こそが翻って日本を美しく高めるものだと私は思っています。じっさい、安藤さんのやんわりのたしなめもとても素敵なものでしたし、羽生選手の震災に対する思いはそれこそじつに「日本」思いの核心です。

スポーツの祭典は気を抜いているとことほどさように容易に「国家」に絡めとられがちです。だからヒトラーはベルリン五輪をナショナリズムの高揚に利用し、それからほどなくしてユダヤ人迫害の大虐殺に踏み切ることができました。ソチ五輪もまたロシア政府のゲイ弾圧に国際的な黙認を与えることかどうかで議論は続いています。

オリンピックはいつの時代でも活躍する選手たちに「勇気を与えてくれた」「感動をありがとう」と感謝の声をかけたくなります。そして表彰台の彼らや日の丸につい自己同一してしまう。そんなとき、私はいつも歌人枡野浩一さんの短歌を思い出します──「野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない」

はいはい、わかってはいるんですけどね。

December 29, 2013

I am disappointed

クリスマスも終わってあとはのんべんだらりと年を越そうと思っていたのに、よいお年を──と書く前に驚かされました。安倍首相の靖国参拝自体にではなく、それに対して米国ばかりかヨーロッパ諸国およびEU、さらにはロシアまで、あろうことかあの反ユダヤ監視団体サイモン・ウィーゼル・センターまでもが、あっという間にしかも実に辛辣に一斉大批判したことに驚かされたのです。

中韓の反発はわかります。しかし英語圏もがその話題でもちきりになりました。靖国神社が世界でそんなに問題視されていることは、日本語だけではわからないですが外国に住んでいるとビシビシ刺さってきます。今回はさらにEUとロシアが加わっていることもとても重要な新たなフェイズと認識していたほうがよいでしょう。

こんなことは7年前の小泉参拝のときには起きませんでした。何が違うかと言うと、小泉さんについては誰も彼が国粋主義者だなんて思ってはいなかった。でも安倍首相には欧米ではすでにれっきとした軍国右翼のレッテルが張られていました。だって、3カ月前にわざわざアメリカにまで来て「私を右翼の軍国主義者だと呼びたいなら呼べばいい」と大見得を切った人です(9/25ハドソン研究所)。それがジョークとしては通じない国でです。そのせいです。

例によって安倍首相は26日の参拝直後に記者団に対し「靖国参拝はいわゆる戦犯を崇拝する行為だという誤解に基づく批判がある」と語ったとされますが、いったいいつまでこの「誤解」弁明を繰り返すのでしょう。特定秘密保護法への反発も「誤解」に基づくもの、武器輸出三原則に抵触する韓国への弾薬供与への批判も「誤解」、集団的自衛権の解釈変更に対する反対も「誤解」、この分じゃ自民党の憲法改変草案への反発もきっと私たちの「誤解」のせいにされるでしょう。これだけ「誤解」が多いのは、「誤解」される自分の方の根本のところが間違っているのかもしれない、という疑義が生まれても良さそうなもんですが、彼の頭にはそういう回路(など)の切れている便利な脳が入っているらしい。

果たしてニューヨークタイムズはじめ欧米主要紙の見出しは「国家主義者の首相が戦争神社 war shrine」を参拝した、というものでした。それは戦後体制への挑戦、歴史修正主義に見える。ドイツの新聞は、メルケル首相が同じことをしたら政治生命はあっという間に終わると書いてありました。英フィナンシャルタイムズは安倍首相がついに経済から「右翼の大義」の実現に焦点を移したと断言しました。

問題はアメリカです。クリスマス休暇中のオバマ政権だったにもかかわらず、参拝後わずか3時間(しかもアメリカ本土は真夜中から未明です。ケリー国務長官も叩き起こされたのでしょうか?)で出された米大使館声明(翌日に国務省声明に格上げされました)は、まるで親や先生や上司が子供や生徒や部下をきつく叱責する文言でした。だいたい「I am disappointed in you(きみには失望した)」と言われたら、言われたほうは真っ青になります。公式の外交文書でそういう文面だったら尚更です。

アメリカ大使館の声明の英文原文を読んでみましょう(ちなみに、米大使館サイトに参考で掲載されている声明の日本語訳はあまり日本語としてよくなくて意味がわかりづらくなっています)。

声明は3つの段落に分かれています。前述したようにこれはアメリカで人を叱りつけるときの定型句です。最初にがつんとやる。でも次にどうすれば打開できるかを示唆する。そして最後にきみの良いところはちゃんとわかっているよと救いを残しておく。この3段落テキストはまったくそれと同じパタンです。

第一段落:
Japan is a valued ally and friend. Nevertheless, the United States is disappointed that Japan's leadership has taken an action that will exacerbate tensions with Japan's neighbors.
日本は大切な同盟国であり、友好国である。しかし、日本の指導者が近隣諸国との関係を悪化させる行動を取ったことに、米国は失望している。

これは親友に裏切られてガッカリだ、ということです。失望、disappointedというのはかなりきつい英語です。
というか、すごく見下した英語です。ふつう、こんなことを友だちや恋人に言われたらヤバいです。もっと直截的にはここを受け身形にしないで、You disappointed me, つまり Japan's leadership disappointed the United States, とでもやられたらさらに真っ青になる表現ですが。ま、外交テキストとしてはよほどのことがない限りそんな文体は使わないでしょうね

ちなみに国連決議での最上級は condemn(非難する)という単語を使いますが、それが同盟国相手の決議文に出てくると安保理ではさすがにどの大国も拒否権を行使します。で、議長声明という無難なところに落ち着く。

第二段落;
The United States hopes that both Japan and its neighbors will find constructive ways to deal with sensitive issues from the past, to improve their relations, and to promote cooperation in advancing our shared goals of regional peace and stability.
米国は、日本と近隣諸国が共に、過去からの微妙な問題に対処し、関係を改善し、地域の平和と安定という我々の共通目標を前進させるための協力を推進する、建設的方策を見いだすよう希望する。

これはその事態を打開するために必要な措置を示唆しています。とにかく仲良くやれ、と。そのイニシアティブを自分たちで取れ、ということです。「日本と近隣諸国がともに」、という主語を2つにしたのは苦心の現れです。日本だけを悪者にしてはいない、という、これもアメリカの親たちが子供だけを責めるのではなくて責任を分担して自分で解決を求めるときの常套語法です。

そして第三段落;
We take note of the Prime Minister’s expression of remorse for the past and his reaffirmation of Japan's commitment to peace.
我々は、首相が過去に関する反省を表明し、日本の平和への決意を再確認したことに留意する。

これもあまりに叱っても立つ瀬がないだろうから、とにかくなんでもいいからよい部分を指摘してやろうという、とてもアメリカ的な言い回しです。安倍首相が靖国を参拝しながらもそれを「二度と戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくるという決意を伝えるため」だという意味をそこに付与したことを、われわれはちゃんと気づいているよ、見ているよ、とやった。叱責の言葉にちょいと救いを与えた、そこを忘れるなよ、と付け加えたわけです。

でも、それを言っているのが最後の段落であることにも「留意」しなくてはなりません。英文の構造をわかっている人にはわかると思いますが、メッセージはすべて最初にあります。残りは付け足しです。つまり、メッセージはまぎれもなく「失望した」ということです。

参拝前から用意していたテキストなのか、安倍首相はこの自分の行動について「戦場で散っていった方々のために冥福を祈り、手を合わす。世界共通のリーダーの姿勢だろう」と言い返しました。しかし、世界が問題にしてるのはそこじゃありません。戦場で散った人じゃなく、その人たちを戦場で散らせた人たちに手を合わせることへの批判なのです。これはまずい言い返しの典型です。この論理のすり替え、詭弁は、世界のプロの政治家たちに通用するわけがありません。とするとこれはむしろ、国内の自分の支持層、自分の言うことなら上手く聞いてくれる人たちに「期待される理由付け」を与えただけのことだと考えた方がよいでしょう。その証拠に、彼らは予想どおりこの文脈をそっくり使ってFacebookの在日アメリカ大使館のページに大量の抗議コメントを投げつけて炎上状態にしています。誘導というかちょっとした後押しはこれで成功です。(でも、米大使館のFB炎上って、新聞ネタですよね)

さてアメリカは(リベラルなコミュニティ・オルガナイザーでもあり憲法学者でもあるオバマさんは安倍さんとは個人的にソリが合わないようですが)、しかし日本の長期安定政権を望んでいるのは確かです。それは日本の経済回復やTPP参加で米国に恩恵があるから、集団自衛権のシフトや沖縄駐留で米国の軍事費財政赤字削減に国益があるからです。そこでの日本の国内的な反発や強硬手段による法案成立にはリベラルなオバマ政権は実に気にしてはいるのですが、それは基本的には日本の国内問題です。アメリカとしては成立してもらうに不都合はまったくない。もちろんできれば国民が真にそれを望むようなもっとよい形で、曖昧ではないちゃんとした法案で、解釈ではなくきちんと議論した上で決まるのが望ましいですが、アメリカとしては成立してもらったほうがとりあえずはアメリカの国益に叶うわけです。

しかしそれもあくまで米国と同じ価値観に立った上での話です。ところが、安倍政権はその米国の国益を離れて「戦後リジームからの脱却」を謳い、第二次大戦後の民主主義世界の成り立ちを否定するような憲法改変など「右翼の大義」に軸足を移してきた。

今すべての世界はじつは日本だけではなく、あの第二次世界大戦後の善悪の考え方基本のうえに成立しています。何がよくて何が悪いかを、そうやってみんなで決めたわけで、現在の民主主義世界はそうやって出来上がっているわけです。それが虚構であろうが何であろうが、共同幻想なんてみんなそんなものです。そうやって、その中の悪の筆頭はナチス・ファシズムだと決めた。だから日本でも戦犯なんてものを作り上げて逆の意味で祀りあげたのです。そうしなければここに至らなかったのです。それが「戦後レジーム」です。なのにそれからの「脱却」? 何それ? アメリカだけがこれに喫驚しているのではありません。EUも、あのプーチンのロシアまでがそこを論難した。その文言はまさに「日本の一部勢力は、第2次大戦の結果をめぐり、世界の共通理解に反する評価をしている」(12/26ロシア・ルカシェビッチ情報局長)。安倍首相はここじゃもう「日本の一部勢力」扱いです。

なぜなら、今回の靖国参拝に限ったことではなく、繰り返しますが、すでに安倍首相は歴史修正主義者のレッテルが貼られていた上で、その証左としてかのように靖国参拝を敢行したからです。そうとして見えませんものね。だからこそそれは東アジアの安定にとっての脅威になり、だからこそアメリカは「disappointed」というきつい単語を選んだ。

何をアメリカがエラそうに、と思うでしょうね。私も思います。

でも、アメリカはエラそうなんじゃありません。エラいんです。なぜなら、さっきも言ったように、アメリカは現在の「戦後レジーム」の世界秩序の守護者だからです。主体だからです。そのために金を出し命を差し出してきた。もちろんそれはその上に君臨するアメリカという国に累が及ばないようにするためですし、とんでもなくひどいことを世界中にやってきていますが、とにかくこの「秩序」を頑に守ろうとしているそんな国は他にないですからね。そして曲がりなりにも日本こそがその尻馬に乗ってここまで戦後復興してきたのです。日本にとってもアメリカは溜息が出るくらいエラいんです。それは事実として厳然とある。

それはNYタイムズが26日付けの論説記事を「日本の軍事的冒険は米国の支持があって初めて可能になる」というさりげない恫喝で結んでいることでも明らかです(凄い、というか凄味ビシバシ。ひー)。そういうことなのです。それに取って代わるためには、単なるアナクロなんかでは絶対にできません。そもそもアメリカに取って代わるべきかが問題ですが、独立国として存在するためには、そういうアナクロでないやり方がたくさんあるはずです。

それは何か、真っ当な民主主義の平和国家ですよ。世界に貢献したいなら、それは警察としてではなく、消防士としてです。アナクロなマチズム国家ではない、ジェンダーを越えた消防国家です。そうずっと独りで言い続けているんですけど。

いまアメリカは安倍政権に対する態度の岐路に立っているように見えます。「日本を取り戻す」のその「取り戻す日本」がどんな日本なのか、アメリカにとっての恩恵よりも齟齬が大きくなったとき、さて、エラいアメリカは安倍政権をどうするのでしょうか。

July 24, 2013

ロシアの反ゲイ弾圧

ニューヨークタイムズ22日付けに、ハーヴィー・ファイアスティンの寄稿が掲載されました。
プーチンのロシアの反LGBT政策を非難して、行動を起こさずにあと半年後のソチ冬季五輪に参加することは、世界各国が1936年のドイツ五輪にヒットラーのユダヤ人政策に反発せずに参加したのと同じ愚挙だと指摘しています。

http://www.nytimes.com/2013/07/22/opinion/russias-anti-gay-crackdown.html?smid=fb-share&_r=0

以下、全文を翻訳しておきます。

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Russia’s Anti-Gay Crackdown
ロシアの反ゲイ弾圧
By HARVEY FIERSTEIN
ハーヴィー・ファイアスティン

Published: July 21, 2013


RUSSIA’S president, Vladimir V. Putin, has declared war on homosexuals. So far, the world has mostly been silent.
ロシアの大統領ウラジミル・プーチンが同性愛者たちに対する戦争を宣言した。いまのところ、世界はほとんどが沈黙している。

On July 3, Mr. Putin signed a law banning the adoption of Russian-born children not only to gay couples but also to any couple or single parent living in any country where marriage equality exists in any form.
7月3日、プーチン氏はロシアで生まれた子供たちを、ゲイ・カップルばかりか形式がどうであろうととにかく結婚の平等権が存在する【訳注:同性カップルでも結婚できる】国のいかなるカップルにも、または親になりたい個人にも、養子に出すことを禁ずる法律に署名した。

A few days earlier, just six months before Russia hosts the 2014 Winter Games, Mr. Putin signed a law allowing police officers to arrest tourists and foreign nationals they suspect of being homosexual, lesbian or “pro-gay” and detain them for up to 14 days. Contrary to what the International Olympic Committee says, the law could mean that any Olympic athlete, trainer, reporter, family member or fan who is gay — or suspected of being gay, or just accused of being gay — can go to jail.
その数日前には、それはロシアが2014年冬季オリンピックを主催するちょうど半年前に当たる日だったが、プーチン氏は警察官が同性愛者、レズビアンあるいは「親ゲイ」と彼らが疑う観光客や外国国籍の者を逮捕でき、最長14日間拘束できるとする法律にも署名した。国際オリンピック委員会が言っていることとは逆に、この法律はゲイである──あるいはゲイと疑われたり、単にゲイだと名指しされたりした──いかなるオリンピック選手やトレイナーや報道記者や同行家族やファンたちもまた監獄に行く可能性があるということだ。

Earlier in June, Mr. Putin signed yet another antigay bill, classifying “homosexual propaganda” as pornography. The law is broad and vague, so that any teacher who tells students that homosexuality is not evil, any parents who tell their child that homosexuality is normal, or anyone who makes pro-gay statements deemed accessible to someone underage is now subject to arrest and fines. Even a judge, lawyer or lawmaker cannot publicly argue for tolerance without the threat of punishment.
それより先の6月、プーチン氏はさらに別の反ゲイ法にも署名した。「同性愛の普及活動(homosexual propaganda)」をポルノと同じように分類する法律だ。この法は範囲が広く曖昧なので、生徒たちに同性愛は邪悪なことではないと話す先生たち、自分の子供に同性愛は普通のことだと伝える親たち、あるいはゲイへの支持を伝える表現を未成年の誰かに届くと思われる方法や場所で行った者たちなら誰でもが、いまや逮捕と罰金の対象になったのである。判事や弁護士や議会議員でさえも、処罰される怖れなくそれらへの寛容をおおやけに議論することさえできない。

Finally, it is rumored that Mr. Putin is about to sign an edict that would remove children from their own families if the parents are either gay or lesbian or suspected of being gay or lesbian. The police would have the authority to remove children from adoptive homes as well as from their own biological parents.
あろうことか、プーチン氏は親がゲイやレズビアンだったりもしくはそうと疑われる場合にもその子供を彼ら自身の家族から引き離すようにする大統領令に署名するという話もあるのだ。その場合、警察は子供たちをその産みの親からと同じく、養子先の家族からも引き離すことのできる権限を持つことになる。

Not surprisingly, some gay and lesbian families are already beginning to plan their escapes from Russia.
すでにいくつかのゲイやレズビアンの家族がロシアから逃れることを計画し始めているというのも驚くことではない。

Why is Mr. Putin so determined to criminalize homosexuality? He has defended his actions by saying that the Russian birthrate is diminishing and that Russian families as a whole are in danger of decline. That may be. But if that is truly his concern, he should be embracing gay and lesbian couples who, in my world, are breeding like proverbial bunnies. These days I rarely meet a gay couple who aren’t raising children.
なぜにプーチン氏はかくも決然と同性愛を犯罪化しているのだろうか? 自らの行動を彼は、ロシアの出生率が低下していてロシアの家族そのものが衰退しているからだと言って弁護している。そうかもしれない。しかしそれが本当に彼の心配事であるなら、彼はゲイやレズビアンのカップルをもっと大事に扱うべきなのだ。なぜなら、私に言わせれば彼らはまるでことわざにあるウサギたちのように子沢山なのだから。このところ、子供を育てていないゲイ・カップルを私はほとんど見たことがない。

And if Mr. Putin thinks he is protecting heterosexual marriage by denying us the same unions, he hasn’t kept up with the research. Studies from San Diego State University compared homosexual civil unions and heterosexual marriages in Vermont and found that the same-sex relationships demonstrate higher levels of satisfaction, sexual fulfillment and happiness. (Vermont legalized same-sex marriages in 2009, after the study was completed.)
それにもしプーチン氏が私たちの同種の結びつきを否定することで異性婚を守っているのだと思っているのなら、彼は研究結果というものを見ていないのだ。州立サンディエゴ大学の研究ではヴァーモント州での同性愛者たちのシヴィル・ユニオンと異性愛者たちの結婚を比較して同性間の絆のほうが満足感や性的充足感、幸福感においてより高い度合いを示した。(ヴァーモントはこの研究がなされた後の2009年に同性婚を合法化している)

Mr. Putin also says that his adoption ban was enacted to protect children from pedophiles. Once again the research does not support the homophobic rhetoric. About 90 percent of pedophiles are heterosexual men.
プーチン氏はまた彼の養子禁止法は小児性愛者から子供たちを守るために施行されると言っている。ここでも研究結果は彼のホモフォビックな言辞を支持していない。小児性愛者の約90%は異性愛の男性なのだ。

Mr. Putin’s true motives lie elsewhere. Historically this kind of scapegoating is used by politicians to solidify their bases and draw attention away from their failing policies, and no doubt this is what’s happening in Russia. Counting on the natural backlash against the success of marriage equality around the world and recruiting support from conservative religious organizations, Mr. Putin has sallied forth into this battle, figuring that the only opposition he will face will come from the left, his favorite boogeyman.
プーチン氏の本当の動機は他のところにある。歴史的に、この種のスケープゴートは政治家たちによって自分たちの基盤を固めるために、そして自分たちの失敗しつつある政策から目を逸らすために用いられる。ロシアで起きていることもまさに疑いなくこれなのだ。世界中で成功している結婚の平等に対する自然な大衆の反感に頼り、保守的な宗教組織からの支持を獲得するために、プーチン氏はこの戦場に反撃に出た。ゆいいつ直面する反対は、彼の大好きな大衆の敵、左派からのものだけだろうと踏んで。

Mr. Putin’s campaign against lesbian, gay and bisexual people is one of distraction, a strategy of demonizing a minority for political gain taken straight from the Nazi playbook. Can we allow this war against human rights to go unanswered? Although Mr. Putin may think he can control his creation, history proves he cannot: his condemnations are permission to commit violence against gays and lesbians. Last week a young gay man was murdered in the city of Volgograd. He was beaten, his body violated with beer bottles, his clothing set on fire, his head crushed with a rock. This is most likely just the beginning.
レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルの人々に対するプーチン氏の敵対運動は政治的失敗から注意を逸らすためのそれであり、政治的利得のためにナチの作戦本からそのまま採ってきた少数者の魔女狩り戦略なのだ。私たちは人権に対するこの戦争に関してなにも答えないままでいてよいのだろうか? プーチン氏は自らの創造物は自分でコントロールできると考えているかもしれないが、歴史はそれが間違いであることを証明している。彼の非難宣告はゲイやレズビアンたちへの暴力の容認となる。先週、州都ヴォルゴグラードで1人の若いゲイ男性が殺された。彼は殴打され、ビール瓶で犯され、衣服には火がつけられ、頭部は岩でつぶされていた。これは単なる始まりでしかないと思われる。

Nevertheless, the rest of the world remains almost completely ignorant of Mr. Putin’s agenda. His adoption restrictions have received some attention, but it has been largely limited to people involved in international adoptions.
にもかかわらず、そのほかの世界はほとんど完全にこのプーチン氏の政治的意図に関して無関心のままだ。彼の養子制限はいくらか関心を引いたが、それもだいたいは国際養子縁組に関係している人々に限られている。

This must change. With Russia about to hold the Winter Games in Sochi, the country is open to pressure. American and world leaders must speak out against Mr. Putin’s attacks and the violence they foster. The Olympic Committee must demand the retraction of these laws under threat of boycott.
この状況は変わらねばならない。ロシアはいまソチで冬季オリンピックを開催しようとしている。つまりこの国は国際圧力にさらされているのだ。アメリカや世界の指導者たちはプーチン氏の攻撃と彼らの抱く暴力とにはっきりと反対を唱えなければならない。オリンピック委員会は五輪ボイコットを掲げてこれらの法律の撤回を求めなければならない。

In 1936 the world attended the Olympics in Germany. Few participants said a word about Hitler’s campaign against the Jews. Supporters of that decision point proudly to the triumph of Jesse Owens, while I point with dread to the Holocaust and world war. There is a price for tolerating intolerance.
1936年、世界はドイツでのオリンピックに参加した。ユダヤ人に対するヒトラーの敵対運動に関して何か発言した人はわずかしかいなかった。参加決定を支持する人たちは誇らしげにジェシー・オーウェンズ【訳注:ベルリン五輪で陸上四冠を達成した黒人選手】の勝利のことを言挙げするが、私は恐怖とともにそれに続くホロコーストと世界大戦のことを問題にしたい。不寛容に対して寛容であれば、その代償はいつか払うことになる。

Harvey Fierstein is an actor and playwright.
ハーヴィー・ファイアスティんは俳優であり劇作家。

June 01, 2013

2013年プライド月間

私が高校生とか大学生のときには、それは1970年代だったのですが、今で言うLGBTに関する情報などほとんど無きに等しいものでした。日本の同性愛雑誌の草分けとされる「薔薇族」が創刊されたのは71年のことでしたが、当時は男性同性愛者には「ブルーボーイ」とか「ゲイボーイ」とか「オカマ」といった蔑称しかなくて、そこに「ホモ」という〝英語〟っぽい新しい言葉が入ってきました。今では侮蔑語とされる「ホモ」も、当時はまだそういうスティグマ(汚名)を塗り付けられていない中立的な言葉として歓迎されていました。

70年代と言えばニューヨークで「ストーンウォールの暴動」が起きてまだ間もないころでした。もちろんそんなことが起きたなんてことも日本人の私はまったく知りませんでした。なにしろ報道などされなかったのですから。もっともニューヨークですら、ストーンウォールの騒ぎがあったことがニュースになったのは1週間も後になってからです。それくらい「ホモ」たちのことなんかどうでもよかった。なぜなら、彼らはすべて性的倒錯者、異常な例外者だったのですから。

ちなみに私が「ストーンウォール」のことを知ったのは80年代後半のことです。すでに私は新聞記者をしていました。新聞社にはどの社にも「資料室」というのがあって、それこそ明治時代からの膨大な新聞記事の切り抜きが台紙に貼られ、分野別、年代別にびっしりと引き出しにしまわれ保存されていました。その後90年代に入ってそれらはどんどんコンピュータに取り込まれて検索もあっという間にできるようになったのですが、もちろんその資料室にもストーンウォールもゲイの人権運動の記録も皆無でした。

そのころ、アメリカのゲイたちはエイズとの勇敢な死闘を続けていました。インターネットもない時代です。その情報すら日本語で紹介されるときにはホモフォビアにひどく歪められ薄汚く書き換えられていました。私はどうにかアメリカのゲイたちの真剣でひたむきな生への渇望をそのまま忠実に日本のゲイたちにも知らせたいと思っていました。

私がアメリカではこうだ、欧州では、先進国ではこうだ、と書くのは日本との比較をして日本はひどい、日本は遅れている、日本はダメだ、と単に自虐的に強調したいからではありません。日本で苦しんでいる人、虐げられている人に、この世には違う世界がある、捨てたもんじゃない、と知らせたいからです。17歳の私はそれで生き延びたからです。

17歳のとき、祖父母のボディガード兼通訳でアメリカとカナダを旅行しました。旅程も最後になり、バンクーバーのホテルからひとり夕方散歩に出かけたときです。ホテルを出たところで男女数人が、5〜6人でしたでしょうか、何かプラカードを持ってビラを配っていたのです。プラカードには「ゲイ・リベレーション・フロント(ゲイ解放戦線)」と書いてありました。手渡されたビラには──高校2年生の私には書いてある英語のすべてを理解することはできませんでした。

私はドキドキしていました。なにせ、生身のゲイたちを見るのはそれが生まれて初めてでしたから。いえ、ゲイバーの「ゲイボーイ」は見たことがあったし、その旅行にはご丁寧にロサンゼルスでの女装ショーも組み込まれていました。でも、普通の路上で、普通の格好をした、普通の人で、しかも「自由」のために戦っているらしきゲイを見るのは初めてだったのです。

私はその後、そのビラの数十行ほどの英語を辞書で徹底的に調べて何度も舐めるほど読みました。そのヘッドラインにはこう書かれてありました。

「Struggle to Live and Love」、生きて愛するための戦い。

私の知らなかったところで、頑張っている人たちのいる世界がある。それは素晴らしい希望でした。そのころ、6月という月がアメリカ大統領の祝福する「プライド月間」になろうとも想像だにしていませんでした。

オバマが今年もまた「LGBTプライド月間」の宣言を発表しました。それにはこうあります。

「自由と平等の理想を持続する現実に変えるために、レズビアンとゲイとバイセクシュアルとトランスジェンダーのアメリカ国民およびその同盟者たちはストーンウォールの客たちから米軍の兵士たちまで、その歴史の次の偉大な章を懸命に書き続けてきた」「LGBTの平等への支持はそれを理解する世代によって拡大中だ。キング牧師の言葉のように『どこかの場所での不正義は、すべての場所での正義にとって脅威』なのだ」。この全文は日本語訳されて米大使館のサイトにも掲載されるはずです。

この世は、捨てるにはもったいない。今月はアメリカの同性婚に連邦最高裁判所の一定の判断が出ます。今それは日本でもおおっぴらに大ニュースになるのです。思えばずいぶんと時間が必要でした。でも、それは確実にやってくるのです。

February 26, 2013

アメリカ詣で

オバマ大統領にとって5人目の日本の首相が就任後の挨拶回りにやってきました。訪米前から日本側はメディアの報道も含めてTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉への参加問題こそが今回の首脳会談の主要テーマとしていましたが、それは結局はTPP参加に進むと心に決めている安倍がいかにオバマから「聖域あり」との(参院選に向けた、自民党の大票田であるコメ農家の反対をなだめるための)言質を引き出すかといった、安倍側のみの事情であって、米国側にとってはとにかくそんなのは参加を決めてくれない限り主要問題にもなりはしない、といったところでした。

その証拠に、首脳会談の最初の議題は東アジアの安全保障問題だったのです。TPPはその後のランチョンでの話題でした。

東アジアの安全保障とはもちろん北朝鮮の核開発の問題であり、そのための日韓や日中関係の安定化のことです。とにかく財政逼迫のアメリカとしては東アジアで何か有事が発生するのは死活問題です。しかも米側メディアは安倍晋三のことを必ず「右翼の」という形容詞付きで記事にする。英エコノミストも「国家主義的な日本の政権はアジアで最も不要なもの」と新年早々にこき下ろしました。NYタイムズも「この11年で初めて軍事予算を増やす内閣」と警戒を触れ回ります。同紙は河野談話の見直しなど従軍慰安婦問題でも「またまた自国の歴史を否定しようとする」と批判しており、米国政府としても竹島や尖閣問題で安倍がどう中韓を刺激するのか気が気ではない。まずはそこを押さえる、というか釘を刺しておかないことには話が進まなかった。

会談では冒頭、オバマの質問に応える形で安倍がかなり安保や領有問題に関して持論を展開したようではありますが、中国との均衡関係も重視するアメリカは尖閣の領有権問題では踏み込んだ日本支持を表明しなかったのです。なぜなら中国は単に米国にとっての最大の貿易相手というだけでなく、北朝鮮を押さえ込むための戦略的パートナーであり、さらにはイランやシリアと行った遠い中東での外交戦略にも必要な連携相手なわけですから。ただ、この点に関しては安倍自身も夏の参院選が終わるまではタカのツメを極力隠すつもりですから、結果的にはそれはいまのところは米国の希望と合致した形になって、今回の首脳会談でも大きな齟齬は表に出はしなかった。しかしそれがいつまで続くのかは、わからないのです。安倍は、アメリカにはかなり危ないやつなのです。

読売などの報道では日本政府筋は概ねこの会談を「成功」と評価したようですが、ほんとうにそうなのでしょうか。アメリカにとっては単に「釘を刺す」という意味で会談した理由があった、という程度です。メディアも「警戒」記事がほとんどで成果などどこも書いていません。そもそもここまで慣例的になっているものを「成功」と言ったところでそれに大した意味はありません。もし今回の日本側の言う「成功」が何らかの意味を持つとしたら、それは唯一TPP交渉参加に関して「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ約束することを求められるものではない」という共同声明をギリギリになって発表できたということに尽きます。

しかしこの日本語はひどい。一回聞いてもわからないでしょう? 安倍や石原らが「翻訳調の悪文」として“改正”しようとしている憲法前文よりもはるかにひどい。「一方的に」「全ての」「あらかじめ」「約束」「求められる」と、条件が5つも付いて、「関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に全ての関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ求められるものではない」でもありません。その「約束」を「求められるものではない」という五重の外堀に守られて、誰も否定はしないような仕掛け。それを示された米側が、しょうがねえなあ、と苦笑する姿が目に見えるようです。

これは国際的には何の意味もありません。ただただ日本国内および自民党内のTPP反対派に示すためだけに安倍と官僚たちが捩じ込んだ作文です。現に米国の報道は日本での「成功」報道とはまったく違って冷めたものでした。基本的にほとんどのメディアが形式的にしか日米首脳内談に触れていませんが、NYタイムズはそんなネジくれまくった声明文を「たとえそうであっても、この貿易交渉のゴールは関税を撤廃する包括的な協定なのである(Even so, the goal of the trade talks is a comprehensive agreement that eliminates tariffs)」と明快です。もちろん自民党内の反対派だってこんな言葉の遊びでごまかされるほどアホじゃないでしょう。TPP参加は今後も安倍政権の火種になるはずです。

というか、アベノミクスにしてもそれを期待した円安にしても株高にしても、実体がまだわからないものに日本人は期待し過ぎじゃないんでしょうか。TPPでアメリカの心配する関税が撤廃されて日本の自動車がさらに売れるようになると日本側が言っても、日本車の輸入関税なんて米国ではたった2.5%。為替レートが2〜3円振れればすぐにどうでもよくなるほどの税率でしかありません。おまけに日本車の70%が米国内現地生産のアメリカ車です。関税なんかかかっていません。

それにしても日本の首相たちのアメリカ詣でというのは、どうしてこうも宗主国のご機嫌取りに伺う属国の指導者みたいなのでしょう。それを慣例的に大きく取り上げる日本の報道メディアも見苦しいですが、「右翼・国粋主義者」とされる安倍晋三ですら「オバマさんとはケミストリーが合った」とおもねるに至っては、ブルータスよ、お前もかってな感じでしょうか。

まあ、日本っていう国は戦後ずっと自国の国益をアメリカに追従することで自動的に得てきたわけで、それを世界のリジームが変わっても見て見ない振りしておなじ鉄路を行こうとしているわけです。そのうちに「追従(ついじゅう)」は「追従(ついしょう)」に限りなく近づいていっているわけですが。

こうなると安倍政権による平和憲法“改正”の最も有力な反対はまたまたアメリカ頼みということにもなりそう。やれやれ。

January 29, 2013

実名報道とは何か

日本では匿名報道とかボカシ報道が広がっています。読者・視聴者はそうして現場のナマの個人の証言や現実を知らずに済んでいます。アルジェリアの天然ガス施設の人質事件でも「実名にしなくとも」とか「遺族が可哀相」という反応が多くありました。

私は元新聞記者として実名報道こそが基本だと教わってきました。実名がわからないと取材元がわからない。取材できないと事実が確認できない。大袈裟な話をすれば、事実確認できない状態では権力が都合の悪い事実を隠蔽したり別の形に捏造する恐れがある。すべてはそこにつながるが故の、実名報道は報道の基本姿勢なのです。

しかし昨今の被害者報道を見ていると「実名」を錦の御旗にした遺族への一斉取材が目に余る。メディアスクラムというやつです。遺族や関係者だって心の整理がついていない時点での取材は、事実に迫るための手法とは確かに言い難いでしょう。

ただ、それを充分承知の上で、日本社会が「なにも実名にしなくとも」という情緒に流れるのには、なにか日本人の生き方に密接に関わっていることがあるからではないかと思っています。

苛酷な事件や事故で自分が死亡したとき、自分の死に様を報道してほしいかどうかはその人本人にしか決められないでしょうし、そのときの状況によっても違う。

それは人生の生き方、選び方なのでしょう。実際、苛酷で悲惨なドキュメンタリーや報道を好まない人もいるでしょうしその人はそういう現実になるべく心乱されない人生を送りたいのかもしれません。しかしそれでも誰かがその悲惨と苛酷とを憶えていなければならない。それも報道の役割の1つです。

記録されないものは歴史の中で存在しないままです。「存在しないままでいいんです」という人もいます。でも、その「存在しないままでいいと言う人たち」の存在も誰かが記録せねばならない。それは報道の大きな矛盾ですが、それも「書け」と私たちは教わってきました。なぜならそれは事実だからです。

「そんなことまで書くなんて」とか「遺族が可哀相」とか言っても、同時に「そこまで書かねばわからなかったこと」「別の遺族がよくぞ書いてくれたと思うこと」もあります。どちらも生き残った者たちの「勝手」です。私たちはその勝手から逃れられない。そのとき私たちは「勝手」を捨てて書く道を選ぶ。

それは、今の生存者たちだけではなく未来の生存者たちに向けての記録でもあるからです。スペイン戦争でのロバート・キャパの(撮ったとされる)あの『兵士の死』は、ベトナム戦争のエディ・アダムズのあの『サイゴンでの処刑』は、そういう一切の勝手な思いを超えて記録されいまそこにあります。それは現実として提示されている。

匿名でいいんじゃないか、遺族が悲しむじゃないか、その思いはわかります。実際、処刑されるあのベトコン兵士に疑われた男性の遺族は、あの写真を見たらきっと泣き叫ぶ。卒倒する。でも同時に、もしあの写真がなかったら、あの記事がなかったらわからなかった現実がある。反戦のうねりも違っていたでしょう。

解釈も感想も人それぞれに違う。そんなとき私たちは読み手の「勝手」を考えないように教えられた。それはジャーナリストとしての、伝え手としての「勝手」にもつながるからです。そうではなく、書く、写す、伝える、ように。なぜならそれは「勝手」以前の事実・現実だからだと教わったのです。そして読者を信じよ、と。

「読者を信じよ」の前にはもちろん、読者に信じられるような「書き手」であることが大前提なのですが。

日揮の犠牲者については、報道側もべつに「今すぐに」と急ぐべきではないと思います。こういう事態は遺族や企業の仲間の方々にも時間が必要です。今は十全に対応できないのは当然です。むしろ報道側には、ゆっくりじっくりと事実を記録・検証する丁寧さが必要とされている。1カ月後、半年後、10年後も。

大学生のときに教えていた塾の教材でだったか、ずいぶんと昔に目にした、(死者は数ではない、だから)「太郎が死んだと言え/花子が死んだと言え」という詩句がいまも忘れられません。誰の、何という詩だったんだろう──そうツイッターでつぶやいたら、ある方が川崎洋さんの『存在』という詩だと教えてくれました。

「存在」  川崎 洋

「魚」と言うな
シビレエイと言えブリと言え
「樹木」と言うな
樫の木と言え橡(とち)の木と言え
「鳥」と言うな
百舌鳥(もず)と言え頬白(ほおじろ)と言え
「花」と言うな
すずらんと言え鬼ゆりと言え

さらでだに

「二人死亡」と言うな
太郎と花子が死んだ と言え

January 09, 2013

2013年を日本で迎えて

久しぶりに日本で新年を迎えました。帰国するとその間の日本社会のちょっとした変化に気づいたりします。今回はテレビ画面の右下に小さく現れる「CM上の演出です」というテロップでした。1つはキムタクが出ている宝くじのCMで、彼が手筒花火をぶっ放しているものです。もう1つは乗用車が迷路を疾駆している車のCM。ほかにもありました。で「CM上の演出です」と来る。これって前からありましたっけ? 今回初めて気づいたんですが。

以前から「これは個人の感想です」とやるカンキローやコージュンやセサみんやクロズやなんかのインフォマーシャルはありました。が、今度は「これはCM上の演出です」って、いくらなんでもそんな言わずもがなのことを、わざわざ断らなければならない事情はいったいなぜなんでしょう。そもそも演出のないCMなど存在しないって、常識ではないのでしょうか?

こういうテロップはすべて視聴者からの苦情に対する予防措置なんですね。「こんなことを真似して事故を起こしたらどうする?」。なので前もって警告しておく、あるいは断り書きをしておく。でも健全な社会には「こんなことは安易に真似しない」というもう1つの予防教育があるはずです。あるいは「これは演出だ」と判断できる常識的な知力も。

日本はクレイマー社会だという説もあります。しかしこうした断りはもともとは米国のテレビで始まりました。「これはPaid Advertisementです」からそのつもりで見てください、という。苦情はアメリカ社会のほうがずっと厳しく多い。モンスターペアレンツだってきっとアメリカの方が手強い。

でも何が違うかと考えると、アメリカ社会は苦情にも簡単に謝らない。毅然と対処(あるいは理不尽なほどにも反論)する。対して日本社会は謝罪するんですね。謝罪することがあらかじめ当然のように期待されている。身分制度の名残が売り手と顧客の関係にも影響しているのしょうか? 日本語の「客」は確かに「カスタマー」や「ゲスト」やはてさて「神様」までをも取り込んだ強力な概念ですし。

でも、そうやって何か悪いことが起こらないようにと事前警戒ばかりして予防線を張り巡らす社会というのは、みんなとても窮屈でヘマをしないようにおどおどビクビクしている社会に見えてしまいます。さらにそれが何かの際に、人々を発作的な激高に煽ってしまうような、そんな悪循環。

かくして日本では普通のニュース映像でも通行人の顔や事件現場の背景のことごとくにボカシが入って、万が一のプライバシー上の苦情にも万全の予防措置を講じています。事故を目撃した人の証言までその人の足しかテレビには映っていない。もちろん背景には例の個人情報保護法みたいなものがあるのですが、それは見ていてあまりにパラノイア的ですらあります。

私がニューヨークに来て最初に気づいたことの1つは、地下鉄の駅に時刻表がないという事実でした。さらにはちゃんとしたアナウンスもなく勝手に駅を飛ばしたりルートを変更したりする。でも利用者たちはそれでも平然としてるし、そのうちに私も「ああ人間社会ってこんなもんなんだ」と思うようになってきました。あるいは近所のスーパーやファストフード店でも客あしらいがとんでもなくぞんざいで、あるいは商品だっていい加減で、トマトだってブドウだって下の方がつぶれていたり腐っていたり、まあ、そんなことに腹を立ててもしょうがない。自分でどうにかするしかない。だいたい、ニコニコと平身低頭な店員や時刻表通りに運行される列車なんて、世界中で日本くらいにしか存在しないんだと妙に得心している次第です。

ただしアメリカだってもちろんテロ警戒は空港に行くたびに物凄いですし、重要施設の入館チェックも神経質すぎると感じるほど厳重です。ただ、社会全体としては事前警戒と事後対処の覚悟のバランスが取れている。何がおかしいかって、「携帯電話は他の人に迷惑です」と言っていながら東京の地下鉄では現在、携帯の電波が走行中でも通じるようにどんどん工事が進んでいるんですよ。ま、データ通信やテキスティングのためでしょうけど。

「何か悪いことが起きないように」という心配や警告はいまやだれもが気づいているように「悪いことが起きてもこちらの責任が回避できるように」という言い訳になっています。リスク管理上それらも必要なことではあるでしょう。ただし、いくら事前警告していてもそれでも何か悪いことは起きるものです。その場合に「だから言っていたでしょう」という言い訳は責任回避のなにがしかを担うかもしれませんが、問題の解決には何の役にも立ちません。

リスク管理の成否とはむしろ、問題が起きたその際にどう毅然と対処できるか、ということに掛かっていると思います。予防教育と常識の強化ではなく事前警戒の責任回避のみに執心している社会は、肝心の時の対処に必ず抜かりを生じるのではないかと、新年早々、日本社会を見ていてとても心配なのです。

ちなみにこれは「個人の感想です」。

November 14, 2012

自由か平等か

今回の大統領選挙で驚いたのは各種世論調査の正確さでした。NYタイムズのネイト・シルバーの「全州正解」には唖然としましたが、それも各社世論調査に数多くの要素を加味した数理モデルが基でした。ただ、それが可能だったのもオバマ民主党とロムニー共和党の主張の差が歴然としていたからでしょう。

大きな政府vs小さな政府、中間層vs富裕層、コミュニティvs企業、リベラルvs宗教保守、共生vs自律と種々の対立軸がありましたが、日本人に欠けがちな視点はこれが平等vs自由の戦いでもあったということです。

「自由と平等」は日本では今ひとつ意味が曖昧なままなんとなく心地よりスローガンとして口にされますが、アメリカではこの2つは往々にしてとても明確な対立項目です。この場合の自由は「政府という大きな権力からの自由」であり、平等は「権力の調整力を通しての平等」です。つまり概ね、前者が現在の共和党、そして後者が民主党の標榜するものです。

宗教の自由も経済の自由も小さな政府もすべてこの「自由」に収斂されます。アメリカでは自由はリベラルではなく保守思想なのです。何度も書いてきていますが、なぜならこの国は単純化すれば英国政府や英国教会の権力を逃れてきた人々が作った国であり、そこでは連邦政府よりも先にまずは開拓者としての自分たちの自助努力があり、協力のための教会があり、町があり、そして州があった。州というのは自分たちの認める最小の「邦 state」でした。それ以上に大きな連邦政府は、後から調整役として渋々作ったものでした。

アメリカが選挙のたびに真っ二つになるのもこの「古き良きアメリカ」を求める者たちと、そうじゃない新たなアメリカを求める者たちの対立が明らかになるからです。その意味でオバマの再選は、旧来の企業家たちにIT関連の若く新しい世代が多く混入してきたこと、それによりアメリカの資本構造が資本思想、経営思想とともに変わってきたこと、それによって成立する経済・産業構造とその構成員が多様化していること、などを反映した、逆戻りしないアメリカの変身を感じるものでした。オバマへの投票は言わば、元々の自由競争と自助努力の社会に、それだけではない何かを付加しないと社会はダメになるという決意だったように思えるのです。

翻って日本はどうでしょう? 新自由主義のむやみな適用で傷ついた日本社会に、民主党はこの「オバマ型」の平等社会を標榜したマニフェストを打ち立てて政権を奪取しました。けれどその際に「官僚から政治を取り戻す」とした小沢一郎はほとんど「いちゃもんレベル」の嫌疑で被告人とされ、前原ら党内からもマスメディアからもほとんど個人的怨恨のごとき執拗さで袋叩きに遭って政権中央から追われました。いまの野田政権は結局はマニフェスト路線とことごとくほとんど逆のことをやって民主党消滅の道を邁進しています。

野田は結局、民主党つぶしの遠謀深慮のために官僚機構が送り込んでいた「草」だったようにしか思えません。マニフェスト路線にあることは何一つやらず、ことごとくが「かつての民主党」雲散霧消のための道筋を突き進んだだけという、あまりにもあからさまな最後の刺客。日本に帰ってきたとたん年内解散、総選挙と言われても、これでは「平等」路線は選択肢上から消えてしまい、対する「自由」路線も日本型ではどういう意味かさえ曖昧で、そんな中で選挙をして、どこに、誰に投票するか、いったいどのように決められるのでしょう? そうして再び自然回帰だけを頼りにして自由民主党ですか?

指摘しておきますが、自民党はかつては「総合感冒薬」みたいに頭痛鼻水くしゃみ悪寒どんな症状にも対処する各種成分(派閥)が多々入っていましたが、いまはそうではありません。たとえば宏池会というのがありました。ここはかつて“優秀”だったとされる時代の官僚出身者たちを中心に穏健保守の平和主義者たちが集まる派閥で、経済にもめっぽう強かった、それがいまや二派に分裂して下野以降に外れクジをあてがわれた谷垣前総裁の派閥に成り果てる体たらく。時代は多様性なのにそれと逆行して、自民党はどんどんわかりやすく叫びやすい右翼路線に流れました。総合感冒薬から、いまは中国との戦争や核武装まで軽々に口にする安倍晋三が総裁の、威勢の良いだけのエネルギードリンクみたいなものです。何に効くのかもよくわからないまま昔のラベルで売り出してはいるのですが、中身が違っていて経済をどうするかの選択肢すら書いていないのです。

そこにメディアが煽る「第三極」です。それが男性至上主義ファシズムの石原慎太郎や橋下徹が中心だと聞くと、対立軸もヘッタクレもありゃあしません。ひょっとしたら野田も前原も民主党解党後にそそくさとこちらに鞍替えして何食わぬ顔をして連合政権にしがみつこうとしているのでしょうか。日本のメディアは、マニフェストを作った本来の民主党として本来の対立軸の「平等」路線を示し得た小沢一郎の「国民の生活が第一」を徹底して無視して、いったいこの国の何をどうしたいのでしょうか? それは言論機関としても支離滅裂にしか映らないのです。

March 26, 2012

メディア化する会社

こちらで「LAW&ORDER」や「CSI」などのテレビドラマを見ていると本当にのめり込んでしまって仕事がはかどりません。日本でなぜこういう優れた番組が作れないのか役者の友人に聞いたら、日本では資金を管理するプロデューサーがほとんどそのテレビ局の人で、ドラマの制作現場におカネがあまり落ちてこないからじゃないかと言っていました。

おカネがないから優秀な才能が集まらない。だから出来上がったものがつまらない。それはテレビに限らずどこの業界でも同じ理屈に思えます。もちろんおカネがなくとも頭角を現す才能はいつの時代にも存在します。しかしどうしておカネがないのか?

「みんなテレビ局の社員の給料になっちゃってるからじゃないの?」と友人が続けます。「いまでこそ社内監査が厳しいけど、それでもプロデューサーって給料の他に接待だ何だってぼくらから見たら夢みたいなおカネを使えてる。ぼくらもそれにお相伴させてもらってるんだけどね」

日本の中央の、いわゆる大手マスコミ社員というのはかなりの給料をもらいます。テレビ局に限らず大手の出版社、広告会社の社員も30代で年収1千万円以上も珍しくありません。

対して米国のメディアでそんな給料をもらえている人はあまりいません。もちろん名前を出して仕事をするワン&オンリーの人たちは日本とは比べ物にならない報酬を得ていますが、テレビ局や出版社の社員はあくまでメディア=仲介役に徹して薄給で働いています。「オレはマスコミだ」と肩で風など切れません。

それでたとえば作家は本の売上の25%とか30%の印税をもらえます。アマゾンで電子書籍を売れば65%前後が手許に入ってきます。でも日本は単行本で10%。文庫本だと5%前後しか払ってもらえません。日本の電子書籍はフォーマットとおカネの取り分で揉めていてまださっぱり形になっていません。かくして出版社の社員の方が作家先生たちよりもずっとお金持ちという倒錯した現象が起きている。

テレビや演劇や音楽の世界も同じでしょう。アメリカではコンテンツとその提供者は別物です。発送電分離じゃないけれど、プロデューサーは独立していて、集めてきたおカネはメディアの社員の給料を支払うためには使われない。自ずからプロダクション内の、作家や作曲家、役者やスタッフなど作り手の現場に落ちるようになっています。もちろん下働きもものすごく多いですが、作り手は作り手として独立して産業を形作っている。メディアとは一線を画しているわけです。

ことはメディア業界だけじゃありません。世界経済の金融資本化と同じく、銀行だけでなく多くの企業もメディア化して現業やモノ作りの現場から離れていき、現場を支配しています。実際にモノを作っている外部の人々の労働を安く買い叩き、その分で浮いた利益を会社内部の人間だけの互助会・互恵会的な運営に回す仕組みを作っているのです。

会社に入った方が(楽じゃないにしても)カネになるのなら、バカらしくてモノ作りなどやってられません。「そのために苦労して大企業に入ったんです。そういう社員たちだけの特権的な互恵組織の機能を持っていても、べつにそう悪いことではないでしょう」と言う人もいるでしょう。でも組織というものは「互助機能を持つ」とよほど律していないとその互助機能こそを自己目的化してしまうものなのです。そうして閉鎖サーキットの中で自らを喰い潰すことになる。会社はそうやってダメになっていきます。会社だけじゃなくやがてはその社会も、その国も。

日本経済の停滞、日本企業の低迷、官僚組織の怠慢と政界の混迷、それらはすべて中間メディアが肥大するだけの、そんなおカネの回り具合のまずさで起きているような気がします。しかもそのおカネを、メディアのいずれもが既得権として絶対に手放そうとしない。

かくして日本のテレビでは下手な脚本のドラマと芸人が浮かれるだけの低予算番組が隆盛なのでしょう。なんともチャンネルを変えたくなるような話です。

December 24, 2011

捏造された戦争のあとで

先日の野田首相の東電福島第1「冷温停止状態」宣言を聞いていて、なにかどこかで同じ気分になったことがあるなあと思ったら、ジョージ・W・ブッシュが2003年、イラク開戦50日ほどで空母リンカーンの上に降り立って行った「任務完了(Mission Accomplished)」の演説でした。これからの問題が山積しているのに任務が達成されたなんて、バカじゃないかってみんな唖然としたものです。そして彼はその後、史上最低の大統領の1人に数えられるようになりました。

ブッシュのその任務完了宣言から8年有余経った12月14日、オバマ大統領が米軍の完全撤退をやっと発表しました。クリスマスの11日前でした。

クリスマスというのは家族が集まる1年の〆の大イベントです。このタイミングでの発表は、実際にクリスマスに帰国できるかは別にしてとても象徴的なことです。その後ろにはもちろん今年11月の大統領選挙のことがあります。共和党の候補指名争いの乱戦というか混乱というか、ほんとくだらないエキセントリズムの応酬のあいだに、オバマは着々と失地を回復しているようにも見えます。失業率は若干ながら改善し、議会では給与減税法案の延長を拒んだ下院共和党に怒りの演説をしてみせて翌日には明らかに渋面の共和党の下院議長ベイナーから妥協を引き出しました。イラク撤退もオバマの成果になるでしょう。戦争の終わり方は難しい。とくにブッシュの始めた「勝利」のない戦争を終わらせることは、尚更です。

たしかに今も米兵が反政府派の攻撃にさらされているアフガニスタンに比べると、イラクはまだマシに見えます。しかし撤退後は米軍というタガがはずれて治安は悪化するでしょう。事実、12月22日には早くもバグダッドで連続爆弾テロがあり60人以上が死亡しました。政権が空中分解する恐れもまだ色濃く残っているのです。

さまざまな意味で、イラク戦争は新しい戦争でした。そもそも発端が誤った大量破壊兵器情報による「予防的先制攻撃」でした。ブッシュ政権は同時に9.11テロとイラクの関連付けも命じていました。イラク戦争はつまり捏造された戦争だったのです。

他にも、戦争の末端で多く民間の軍事請負企業が協力していることも明らかになりました。ブラックウォーターという軍事警備会社が公的な軍隊のように振る舞い、実際米軍とともに作戦を遂行していました。さらにはその途中の2007年9月17日、バグダッド市民に対する無差別17人射殺事件まで起こしたのです。ブラックウォーターはこの年、悪名をぬぐい去るかのように社名を“Xe”(ズィー)に変更、さらには今月には名称を"Academi"(アカデミー)というさらに何の変哲もないものに再変更して、すでに新たに国務省やCIAと2億5000万ドルの業務請負契約を結んでいるのです。

一方で、ウィキリークスが公開した、ロイターのカメラマンら2人を含む12人の死者を出した2007年の米軍ヘリによるイラク民間人銃撃事件は衝撃的でした。ウィキリークスには米陸軍上等兵のブラッドリー・マニングの数十万点に及ぶ米外交文書漏洩もあり、これも従来なかった戦争への異議の形でした。

マニングはいま軍法会議にかけられ、終身刑か死刑の判決を下されようとしています。米軍の検察側の言い分は「ウィキリークスに重要情報を漏洩したことでアルカイダ側がそれを知ることになった。従ってこれは敵を利する裏切り行為だ」というものです。それはすべての戦争ジャーナリズムを犯罪行為に陥れる可能性を持つ論理です。どんな隠された情報も、公開することで敵に知れるわけですから。そこに良心の内部告発者は存在しようがありません。国家が間違いを犯していると信じたとき、私たちはそれをどう止めることができるのでしょうか?

大手メディアは一様に米国側の死者が約4500人、イラク側の死者は10万人と報じていますが、英国の医療誌Lancetは実際のイラク市民の死者は60万人を超えるだろうと記しています。実際の死者数は永遠に誰にも明らかになることはないでしょうが、米国側の公式推定である10万人という数字ではないと私は思っています。

そしていま米軍が撤退しても、例の民間の軍事請負業者はだいたい16000人もまだイラクに残るそうです。戦争の民営化から、戦後処理の民営化です。こうしてイラクの管轄は米軍から米国務省(外務省に相当)に移ります。バグダッドの米国大使館は世界最大の大使館なのです。そんな中、“戦後復興”に向けてすでに多くの欧米投資銀行関係者がイラクを訪れていることを英フィナンシャル・タイムズが報道していました。将来的に金の生る木になるだろう国家再建事業と石油取引の契約に先鞭を付けたいのです。

イラクはまだ解決していません。お隣イランでは核開発疑惑でイスラエルや米軍がまた予防的に施設攻撃をするのではないかと懸念されています。そしてアジアでは金正日死亡に伴う北朝鮮の体制移譲。そのすべてが米国の大統領選挙の動向とも結びついてきます。

2012年はあまり容易ではない年になりそうです。

December 05, 2011

沖縄を「犯す」

7週間ほどどっぷり日本に浸かってきました。おかげさまで私の翻訳したブロードウェイ・ミュージカル「ロック・オブ・エイジズ」は西川貴教さん、川平慈英さんほかキャスト・バンド・スタッフのみなさんの奮闘で東京、大阪、北九州と無事に公演を終えることができました。よかったよかった。

またいろいろと美味しいものも食べてきましたが、ところで本日の話題はまた沖縄の話です。

日本にいて楽なのは、なんとなくふうわりと過ごすことができるところです。換言すればすべてを言わずとも通じるところ。逆に居心地の悪さもまた、すべてを言わないから論理が通じないところです。そしてその意味の通じなさ/おかしさを言論メディアまでもが黙過しているので、居心地の悪さはいつかイライラに嵩じてしまう。

今回もそんなことがありました。沖縄防衛局長が米軍普天間飛行場の辺野古移設に関する環境影響評価書の遅れについて「(女性を)犯す前に犯すとは言わない」という比喩を使って更迭されました。そのことに関するメディアの論調がどうも表面的で片手落ちだったのです(ちなみに、「片手落ち」は片手のない人への揶揄とは関係ない語源を持つ言葉ですからね)。

確かに「犯す前に犯すとは言わない」とは、こりゃ非道い言い方です。女性の人権無視も甚だしい。野田さんも「女性や沖縄の方々を傷つけ不愉快な思いをさせ申し訳ない」と謝罪しましたから、更迭の理由はその表現方法なんでしょう。

でも、それはとてもおかしな理由付けです。

環境アセスは、これが出たら一応下調べも済んだということで次に工事へと進みます。つまり「工事」を「やる」という宣言にもなります。防衛局長はこの「工事」を「犯る」と言い換えた。問題の核心はここです。

つまり辺野古移設は沖縄を「犯す」=蹂躙する行為だと彼は(図らずも?)示唆した。それは沖縄県民の過半数が思っていることでもあります。だから辺野古移設も反対だし、米軍基地という「犯す」主体が丸ごといなくなってほしいとも願っています。

もしこれが当の沖縄県民の発言だったら、自虐的ではあるがそれ以外に表現しようのない事として問題にはならなかったでしょう。それは発言者の「当事者性」というものです。

ならば防衛局長は沖縄県民の代弁者として「本当の事」を言ったのか? 本当の事だが政府は違う立場に立っている。発言はそれに反する。だから更迭したのだ──この場合は沖縄の代弁者たるこの局長の更迭に、沖縄県民は怒って然るべき、という見方も出てきます。

一方で、逆にこの沖縄防衛局長の人柄がとんでもないという場合もありましょう。本当に女性蔑視の男性至上主義者なのかもしれません。同じような発言の前歴もあるイヤな奴で、だから報道メディアもオフレコ発言とはいえ横紙破りを承知の上で今回ついに問題にしたのかもしれない。

それを指摘しつつ、では実際にこのオフレコ発言を最初に記事にした琉球新報の編集局長談話を見てみましょう。彼は掲載理由をこう記します。「人権感覚を著しく欠く発言であり、今の政府の沖縄に対する施策の在り方を象徴する内容でもある」。なるほど、私が前段で指摘したような、あまり踏み込んだ見方も説明もしていません。新聞メディアとしてはまあそこまで触れる必要もないでしょうし。しかし明らかに、局長はここで問題は2つあると併記しています。「人権感覚を著しく欠く発言」とそれに象徴される「今の政府の沖縄に対する施策の在り方」。

そう、2つです。でも、政府謝罪にはその後者がすっぽりと抜け落ちている。「女性や沖縄の方々を傷つけ不愉快な思いをさせ」たという野田さんの謝罪は前者に対するものだけであり、むしろより重く本質的な後者=沖縄施策の非人間性、から視線を逸らさせる詭弁なのです。政府はまさに、また黙って気づかれないように沖縄を「犯そう」としているのです。

そういえば以前も同じようなことがありましたね。「福島=死の町」発言。これも「福島の人に不快感を与えた」から辞任。以前にもこのブログで指摘しましたが、問題の核心は福島が実際に死の町であるという事実です。言葉尻の問題ではない。

自民党時代も民主党政権になってからも、政治家と官僚がこういう表面的な言い換えで問題の本質をごまかすのは変わっていません。次は4年間上げないと言っていた消費税の引き上げを、どういう理由でごまかすのかを見ているとよいでしょう。

September 29, 2011

野田演説を書いたのはだれだ?

野田さんの首相としての外交デビューとなった今回の国連ニューヨーク訪問は、私の知る限り欧米メディアは一行もその中身を詳報しませんでした。原子力安全サミットでのスピーチも国連総会での演説も無視。かろうじて野田オバマ会談の内容がAPやAFP電などで型通りに伝えられただけです。

というのも、世界が注目している東電の原子力発電所事故の問題はすでに国会の所信表明などですでに伝えられていた内容だったし、冷温停止を年内に(2週間分だけだけど)前倒しするというのもこれにあわせたかのように細野原発相が直前に話していてすでにニュースではなかったからです。

それでも国連での第一声は震災支援への感謝と東電・福島第一原発事故の謝罪から始まりました。低姿勢なのは国会の所信表明と同じで、話し振りも真面目な人柄を表しているようでした。でも、震災から原発、金融危機回避の協調から、南スーダン国連PKOへの協力、中東やアフリカへの援助や円借款と種々多様なことを網羅して終わってみると、はて、何が言いたかったのか中心テーマが思い起こせない。

これは何なんでしょうか? 問題全般に配慮が行き届き、そつなくすべてに触れておく。どこからも文句の出ようのない及第点の演説テキスト。でも逆に、これだとすべての論点が相対化してしまって、主張も個性も埋没してしまう。なんだか「これもやりました、あれにも触れておきました」みたいな、学生の宿題発表みたいな印象だったのです。

総会演説は特にパレスチナの国家承認を訴えるアッバス議長、それに反対するイスラエルのネタニヤフ首相というアクの強い演説に挟まれて、さらには直後のブータンの仏教的幸福論にも高尚さと穏健さで負けて、これではニュースにしたのが日本からの随行記者たちだけというのも宜なるかな。まるでわざと、あまりニュースにならないように、目立たないように、と仕組んだみたいな演説構成だったのですから。

それを疑ったのが原発問題です。先に訪米した前原さんともども野田さんは「原子力発電の安全性を世界最高水準に高める」として、それを免罪符のように外国への原子力技術の協力や原発輸出を継続する考えもさりげなく表明したのです。でもこれって、欧米メディアで取り上げられていたら批判もかなり予想される発言じゃないですか?

考えても見てください。チェルノブイリ直後のゴルバチョフがそんなことを言っていたら世界はどう反応していたでしょう? 日本国内でだって、立派なはずのどっかの一流料亭が食中毒を起こして、それでも「これを教訓に安全面での最高水準を目指し、ご期待に沿うべく明日からすぐに弁当を売ります」などと言えますか?

だいたい日本の原発ってこれまでだって「世界最高水準の安全性」だったはず。にも関わらずこんな重篤な事故になり、だからこそ原発は危ないという話なのです。野田さんは「現在の放射性物質の放出量はいま事故直後の400万分の1」とさも自慢気でしたが、これだって事故後の放出が1週間で77万テラベクレル(テラは1兆)と天文学的ひどさなのに、それがたかだか400万分の1に減ったからと言って何の意味があるのか。おまけに累積残存放射性物質の問題はまるで片付いていないのですよ。

するってえと、野田演説は、誠実なのは話し振りだけで、肝心なところで実はチラチラとごまかしが仕込まれていたってことになります。しかも問題を指摘されそうな部分はみんな「演説全部をきちんと読んでもらえれば、それだけじゃないことも書いてある」「あくまで安全が徹底された上での話だ」という逃げができるように仕掛けられていました。こんな巧妙な、言質を取られないようにどうとでも読めるような、つまりはとても官僚的な演説を、いったい誰が考えたんでしょうね。

そうしたらこないだの毎日新聞、「野田佳彦首相が就任直後、政権運営について (1) 余計なことは言わない、やらない (2) 派手なことをしない (3) 突出しない、の「三原則」を側近議員らに指示していたことが分かった」と報じていました。これ、まさにそのままこんかいの国連演説にも言えることです。ということは、官僚的ながら、ひょっとすると自分で書いたのかもしれませんね。いやそれにしてもよくでき過ぎています。政権運営についても、だれか知恵のある官僚のアドバイスでもあったんじゃないかと勘ぐりたくもなります。

つまりはこの政権は既定路線からはみだそうとしない、波風立てずに長続きするように、という、ときどき爆発したり突出したりして官僚たちが右往左往した菅さんのときとはまた別の形の、官僚主導政治ってことでしょうか。民主党の拠って立つ政治主導はいったいどこに消えたんでしょうね。そりゃ難しいだろうけどさ。

オバマさんが「I can do business with him」と言ったそうですが、これを「彼とは仕事ができる」と日本語に訳してもちょっと意味が曖昧です。「仕事」っていろいろありますけど、ビジネスというのは、取引、商売のことです。ジョブやワーク(何かを為すため、作り上げるために動くこと)ではない。それもアメリカの企図している事業のための取り引きであって日本の都合は関係ありません。そんなビジネス、取引、契約の相手としてノダはふさわしいというニュアンスが窺えるのです。

選挙を控えて国の内外で問題山積の大統領は、安全牌のはずの日本にまで煩わされたくはない(鳩山さんのときには安全牌だったはずの日本にずいぶんと振り回されましたからね)。野田さんはまさに「米国の仕事上、もう煩う心配のない相手だ」という意味なのでしょう。そういや普天間やTPPでも米国の意向に沿って「宿題を1つひとつ解決していく」と表明していましたっけ。やれやれ。


【追記】というようなことをざっと先日のTBSラジオのdigなんかで話したのですが、途中、国連総会での野田演説がどうしてあの順番になったのか、パレスチナとイスラエルに挟まれてそこでも埋没しちまったみたいで、あれも仕組んだのかなんて勘ぐっちゃいましたが、いやそんなことはありませんでした。国連代表部に電話して訊いたら、そうそう、順番の決め方、思い出しました。あれは王様や大統領なんかの国家元首が最初にずらっと演説をするのですね。それから次に首相クラス、次に外相クラス、となる。

で、アッバスさんはパレスチナの暫定自治政府の大統領ながら、まだ国家として承認されていないので、最初の元首カテゴリーの最後に位置することになった。

次に首相クラスが来ます。ところでその前に、各国から国連事務局に、自国の代表が演説したい時間枠(何日目の午前か午後、という選択)というのを3つ提出するそうです。帰国日程もありますからね。

で、日本は初日は大統領クラスで埋まるので最初からそこの枠は選択せずに、2日目の午前が第1希望、3日目の午前が第2希望、2日目の午後を第3希望として出していました。「午後」というのは、みんな演説が長くなるので深夜になっちゃったりして大変だから午前を優先させたということです。で、結果、3日目の午前、アッバス大統領の後の、首相クラスのトップとして登場した、というわけです。

というか、同じ枠にイスラエルも希望してたんですね。国連事務局はそこで考えた。「パレスチナとイスラエルは同じ問題を話すだろうが、近すぎても刺激的過ぎる。で、そこに同じ枠希望の日本とブータンとをバッファーとして挿入しようと。日本は律儀に真面目な演説をするし15分の持ち時間を大きく越えるような真似もしたことがない。さらにブータンは仏教的平和国家で、緩衝剤としてはうってつけではないか」とまあ、この注釈は私の推測ですが、まあそんなところじゃないかなあ。

おかげでアッバスさんのときには満員だった総会場は野田さんのところでトイレタイムになっちゃって4割くらいまで聴衆は減りました(国連の日本代表部は、国連デビューの野田さんに、この順番なので聴衆は退席するかもしれないけれど、はんぶんも入っているのはいい方なのです、とガッカリしないよう説明していたそうです)。CNNも野田演説の前にカメラをスタジオに切り替えてアッバス演説の分析と解説の時間に使いました。で、次に総会場が映ったのはイスラエルのネタニヤフさんの演説だった、というわけです。あの人、そんなに演説はうまくないんだが、相変わらずドスが利いてましたね。もっとも、パレスチナの国家承認国連加盟に強硬に反対するネタニヤフさんでしたが、最新の世論調査では、69%ものイスラエル国民が「イスラエル政府は国連による独立パレスチナ国家承認を受け入れるべきだ」としているのです。調査はまた、占領地区に住むパレスチナ人の83%がこの国家承認の努力を支持していることも明らかにしています。

潮目は変わってきているのです。

September 13, 2011

「死の町」

実際、政治部や政治記者クラブには現役の大臣や首相が気に食わないと言って「絶対に辞めさせてやる」と豪語する“猛者”がいつの時代にも存在します。「産経新聞が初めて下野なう」「民主党さんの思い通りにはさせないぜ」(あ、これは社会部選挙班だったか)とか言ってしまう勘違い土壌が昔から延々と続いているのです。

朝日新聞のサイト(9日18時16分)によれば、鉢呂経産相の「死の町」発言は9日午前の閣議後記者会見で出てきたもので、前後の文脈まで入れると「残念ながら周辺町村の市街地は人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった。私からももちろんだが、野田首相から『福島の再生なくして、日本の元気な再生はない』と。これを第一の柱に、野田内閣としてやっていくということを、至るところでお話をした。」ということだったそうです。

これがどういう失言なのか、私にはわかりません。

でもそんな「問題」発言をしたから、フジテレビがその前夜にオフレコの囲み取材で出た、放射能をうつしてやる、という旨の発言をも“暴露”して「ほらこんなやつなんです」と視聴者に知らしめた。【追記:そうしたら13日時点でフジテレビの記者、じつはその囲み取材の中にもいなかった、という話が出てきました。最初に報じたフジも伝聞でやっちゃったわけ? へっ? そりゃ、なんじゃらほい?】

毎日サイト(10日2時31分)の神保圭作、高橋直純、田中裕之の3記者連名記事によると、この「『不用意』では済まされない発言」で、コメントを求めたフクシマ関係者は一様に「怒りをあらわにし」「あきれた様子だった」とか。産経(10日11時37分)に至っては「人間失格だ」とまで言わせています。

ふむ、百歩譲って「死の町」と表現することが住民たちの愛郷心や帰郷の希望を傷つけたとしましょう。でもだれがどう取り繕おうともフクシマ原発の周囲が現在「死の町」である現実は変わりません。あの、牛舎につながれたまま餓死し、文字どおり骨と皮だけになって累々と畳み重なるように死んでいた牛たち。その責任は「死の町」と呼んだ人にはありません。死の町にしてしまった人にあります。それをまるで「王様は裸だ」と言ってはいけないと、言論の雄たる報道メディアが事実を糊塗してどうするのか。ストロンチウム90やセシウム137を「死の灰」と言ってきたのは、それがまさにそうだからであり、ここを「死の町」と言わなければ、再出発も再興もうつろなごまかしです。

そこを「死の町」にしたのは東電や原発政策です。それらはいまも抜本的な責任を取らずに処分もありません。あれだけの大事故なのに東電には警察の捜査も入っていないんです。報道が責めるべきはそちらでしょう。

おまけに例の「放射能うつす」は毎日の記者への発言とされるものでした。囲み取材でも聞いていない記者がほとんど【前段の追記参照】。なのにフジが報じるや他紙他局もみんな伝聞でこれを記事にした。結果、時事は「放射能つけちゃうぞ」、朝日は「放射能をつけたぞ」、産経は「放射能をうつしてやる」、読売なんか「ほら、放射能」。テレビも「放射能をうつすという趣旨の発言」と濁していました。【追記2:視察から帰ってきて服も着替えていないと愚痴った鉢呂に、どこかの記者の方から「じゃあ、放射能ついてるんじゃないですか」と言われて、それに応じる形で「じゃあつけてやろうか」とすり寄った、という情報まで流通しているそうです。なんともはや……。だから伝言ゲームはダメなのです】

報道記者は、裏の取れない情報は、それがいかに重大でも泣く泣く捨てねばならないのです。もし政治家が図太い嘘つきだったら、言った言わないの水掛け論に持ち込むでしょう。そのときに傷つくのは歴代築き上げてきた報道への信頼です。いや逆に、報道した記者が冒頭の政治記者のようなやつだったらどうするのか? ジャーナリズムは体制の転換にまで影響を及ぼせます。だからこそ事実に謙虚でなければならないのに、発言の趣旨の確認や裏取りの基本も捨てたこのメディアスクラムは唖然以外の何物でもない。

鉢呂さんは原発慎重派でした。震災後には福島の学校を回ってクーラーをつける手配をしたり子供たちの年間被曝線量を20ミリシーベルトから1ミリに下げるのに尽力しました。大臣就任後はエネルギー審議会に原発慎重派を入れるべきと発言したり、将来の原発ゼロにも言及しました。

こんなに簡単に謝って辞任してしまう人が自説を貫いて官僚や原発推進派と渡り合えたかどうかはおぼつかないですが、日本の政治の機能不全の一因は、いまの政治報道にもあるのは確かでしょう。だいたい、毎日が「『不用意』では済まされない発言」と書いていたあの記事(産経もほとんど同じトーンです)、あれ、書き方が、典型的な作文記事の書き方なのです。筆が主観に走ってる走ってる。質問とその答えのコメントも誘導尋問のにおいがプンプンする。読んでいると、その浅ましさがわかっちゃうんですよね。よい記事は、ああは下品じゃないのです。

June 15, 2011

演劇もまた語れよ

今週発表されたトニー賞でベスト・プレイ賞を受賞した「ウォー・ホース(軍馬)」も、ベスト・リバイバル・プレイを獲った「ノーマル・ハート」も、見ていて考えていたことはなぜかフクシマについてでした。

ウォーホースは、第一次大戦中に英国軍の軍馬として戦地フランスに送られたジョーイと、その元々の飼い主アルバート少年の絆を描いた劇です。舞台上を動き回る実物大の模型の馬は人形浄瑠璃のように3人で操られるのですが、次第に操り師たちの姿が気にならなくなり、いつしかそんな馬たちに感情移入してすっかり泣いてしまいました。

それは、敵味方の区別なくひたすら人間に仕える動物の姿を通し、戦争という人間の罪業を描く試みでした。健気な馬たちを見ながら私がフクシマの何を思い出していたかというと、あの避難圏内に取り残された動物たちのことです。

荷物の取りまとめに一時帰宅を許された住民たちは、帰宅してすぐにペットフードを山盛りに与えて連れて行けない犬や猫をいたわります。それらを記録したTVドキュメンタリーでは、時間切れで再び圏外へと去ってゆく飼い主をどこまでも必死に追いかけ走る犬を映し続けていました。それが、劇中のジョーイのひたむきさに重なったのです。

ノーマルハートは80年代前半のエイズ禍の物語ですのでこれもまたぜんぜんフクシマと関係ないのですが、全編、無策な政治と無関心な大衆への怒りに満ちていて、あの時代の欺瞞を鋭く弾劾し検証する作品でした。それが、見ている私の中でまた原発を取り巻く同様の欺瞞と無為への怒りに転化していたのです。

エイズの話など、いまはぜんぜん流行らないのに、どうしてかくも力強くいまもまだこの劇が観客の心を打つのか、わかるような気がしました。それは演劇人の、時代を記すという決意のようなものに打たれるからです。

エイズ対策を求めてやっと市の助役とミーティングを持てた場面で、遅れてやってきた助役は主人公のネッドに「いちいち小さな病気の流行にまで我々がぜんぶ対応できるものではないんですよ」と言います。「それより、あなた、少しヒステリックになってるのを抑えてくださいな」

「わかった」とネッドは言います。「サンフランシスコ、ロサンゼルス、マイアミ、ボストン、シカゴ、ワシントン、デンバー、ヒューストン、シアトル、ダラス──このすべての街でいま新しい患者が報告されている。それはパリやロンドンやドイツやカナダでも発生している。でもニューヨークだ。おれたちの街、あんたが守ると誓った街が、それらぜんぶの半数以上の患者を抱えてる。1千人の半分だ。そのうちの半分が死んでいる。256人が死んでるんだ。そしてそのうちの40人は、おれの知ってるやつらだ。もうこれ以上死ぬやつを知りたくない。なのにあんたはこれっぽちもわかってない! さあ、おれたちはいつ市長に会えるんだ? ランチに出てます、ランチに出てますって、市長は14カ月もずうっとランチしてるわけか!」

ここにあるのは過ちと誤りの清算の試みです。時代に落とし前を付けてやるという気概です。演劇とは、それを通して自分たちで歴史の不正義を記録してゆくのだという、責任と覚悟の表明なのです。

そう思いながらこれを書いていると、HBOであのリーマンショック後の政財界の内幕を描いた「Too Big To Fail(破綻させるには大き過ぎる)」がウィリアム・ハートの主演で放送されていました。NYタイムズの記者によるノンフィクションを、こんな短期間で上質のドラマに仕上げた。

こういうのを見ると本当にかなわないなと思ってしまいます。 AKB48の「総選挙」を責めるわけじゃないけれど、あれをどの局もそろってニュースの一番手に持ってくるならその一方で、テレビも演劇もジャーナリズムも、もっともっと社会への取り組みがあってもいいじゃないかと思ってしまう。

東電と政府の欺瞞と怠慢とを、日本の演劇や映画やテレビは必ず作品に昇華してもらいたいと思います。どこでどういうウソがつかれ、どこでどういう悲劇が生まれたかを、ドラマもまた語ってほしいと切に願います。

ブロードウェイという華やかな娯楽の街で、拍手を忘れるほどの怒りが渦巻き、涙ながらの喝采が渦巻くのはなぜなのか? それは人間の言葉の力です。すべてを語ることで対処しようとする文化と、すべてまで語らぬことをよしとする文化の膂力の違いを、フクシマを前にした今ほど恨めしいと思ったことはありません。

でも恨めしく思っているだけでは埒も開かないので、とりあえず、私はこの「ノーマル・ハート」を翻訳してみようと思います。いつの日か日本で上演できることを画策しながら。

June 07, 2011

6月はLGBTプライド月間

オバマ大統領が6月をLGBTのプライド月間であると宣言しました。今月を、彼らが誇りを持って生きていけるアメリカにする月にしようという政治宣言です。その宣言を、この末尾で翻訳しておきます。LGBTとはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどの性的少数者たちのことを指す頭字語です。

私がジャーナリストとしてLGBT問題を日本で広く伝えようとしてからすでに21年が経ちました。その間、欧米ではLGBT(当初はLGだけでしたが)の人権問題で一進一退の攻防もありつつ結果としてじつにめざましい進歩がありました。日本でもさまざまな分野で改善が為されています。性的少数者に関する日本語での言説はかつてはほとんどが私が海外から紹介したもののコピペのようなものだったのが、いまウィキペディアを覗いてみるとじつに多様で詳細な新記述に溢れています。多くの関係者たちが数多くの言説を生み出しているのがわかります。

この大統領宣言も私がクリントン大統領時代に紹介しました。99年6月に行われたのが最初の宣言でした。以降、ブッシュ共和党政権は宗教保守派を支持基盤にしていたので宣言しませんでしたが、オバマ政権になった09年から再び復活しました。

6月をそう宣言するのはもちろん、今月が現代ゲイ人権運動の嚆矢と言われる「ストーンウォール・インの暴動」が起きた月だからです。69年6月28日未明、ウエストビレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」とその周辺で、警察の度重なる理不尽な摘発に爆発した客たちが3夜にわたって警官隊と衝突しました。その辺の詳細も、今では日本語のウィキペディアで読めます。興味のある方はググってみてください。69年とは日本では「黒猫のタンゴ」が鳴り響き東大では安田講堂が燃え、米国ではニクソンが大統領になりウッドストックが開かれ、アポロ11号が月に到着した年です。

このストーンウォールの蜂起を機に、それまで全米でわずか50ほどしかなかったゲイの人権団体が1年半で200に増えました。4年後には、大学や教会や市単位などで1100にもなりました。こうしてゲイたちに政治の季節が訪れたのです。

72年の米民主党大会では同性愛者の人権問題が初めて議論に上りました。米国史上最も尊敬されているジャーナリストの1人、故ウォルター・クロンカイトは、その夜の自分のニュース番組で「同性愛に関する政治綱領が今夜初めて真剣な議論になりました。これは今後来たるべきものの重要な先駆けになるかもしれません」と見抜いていました。

ただ、日本のジャーナリズムで、同性愛のことを平等と人権の問題だと認識している人は、40年近く経った今ですらそう多くはありません。政治家も同じでしょう。もっとも、今春の日本の統一地方選では、史上初めて、東京・中野区と豊島区の区議選でゲイであることをオープンにしている候補が当選しました。石坂わたるさんと、石川大我さんです。

オバマはゲイのカップルが養子を持つ権利、職場での差別禁止法、現行のゲイの従軍禁止政策の撤廃を含め、LGBTの人たちに全般の平等権をもたらす法案を支持すると約束しています。「それはアメリカの建国精神の課題であり、結果、すべてのアメリカ人が利益を受けることだからだ」と言っています。裏読みすればLGBTの人々は今もなお、それだけ法的な不平等を強いられているということです。同性婚の問題はいまも重大な政治課題の1つです。

LGBTの人たちはべつに闇の住人でも地下生活者でもありません。ある人は警官や消防士でありサラリーマンや教師や弁護士や医者だったりします。きちんと税金を払い、法律を守って生きています。なのに自分の伴侶を守る法律がない、差別されたときに自分を守る法律がない。

人権問題がすぐれて政治的な問題になるのは当然の帰着です。欧米の人権先進国では政治が動き出しています。先月末、モスクワの同性愛デモが警察に弾圧されたため、米国や欧州評議会が懸念を表明して圧力をかけたのもそれが背景です。

6月最終日曜、今年は26日ですが、恒例のLGBTプライドマーチが世界各地で一斉に執り行われます。ニューヨークでは五番街からクリストファーストリートへ右折して行きますが、昨年からかな、出発点はかつての52丁目ではなくてエンパイアステート近くの36丁目になっています。これは市の警察警備予算の削減のためです。なんせ数十万人の動員力があるので、配備する警備警官の時間外手当が大変なのです。

さて、メディアでは奇抜なファッションばかりが取り上げられがちですが、数多くの一般生活者たちも一緒に歩いています。マーチ(パレード)の政治的なメッセージはむしろそちら側にあります。もちろん、「個人的なことは政治的なこと」ですが、パレードを目にした人はぜひ、派手さに隠れがちな地味な営みもまた見逃さないようにしてください。

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LESBIAN, GAY, BISEXUAL, AND TRANSGENDER PRIDE MONTH, 2011
2011年レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・プライド月間
BY THE PRESIDENT OF THE UNITED STATES OF AMERICA
アメリカ合州国大統領による

A PROCLAMATION
宣言


The story of America's Lesbian, Gay, Bisexual, and Transgender (LGBT) community is the story of our fathers and sons, our mothers and daughters, and our friends and neighbors who continue the task of making our country a more perfect Union. It is a story about the struggle to realize the great American promise that all people can live with dignity and fairness under the law. Each June, we commemorate the courageous individuals who have fought to achieve this promise for LGBT Americans, and we rededicate ourselves to the pursuit of equal rights for all, regardless of sexual orientation or gender identity.

アメリカのLGBTコミュニティの物語は、私たちの国をより完全な結合体にしようと努力を続ける私たちの父親や息子、母親や娘、そして友人と隣人たちの物語です。それはすべての国民が法の下での尊厳と公正とともに生きられるという偉大なアメリカの約束を実現するための苦闘の物語なのです。毎年6月、私たちはLGBTのアメリカ国民のためにこの約束を達成しようと戦ってきた勇気ある個人たちを讃えるとともに、性的指向や性自認に関わりなくすべての人々に平等な権利を追求しようとの思いを新たにします。

Since taking office, my Administration has made significant progress towards achieving equality for LGBT Americans. Last December, I was proud to sign the repeal of the discriminatory "Don't Ask, Don't Tell" policy. With this repeal, gay and lesbian Americans will be able to serve openly in our Armed Forces for the first time in our Nation's history. Our national security will be strengthened and the heroic contributions these Americans make to our military, and have made throughout our history, will be fully recognized.

大統領に就任してから、私の政府はLGBTのアメリカ国民の平等を達成するために目覚ましい前進を成し遂げました。昨年12月、私は光栄にも差別的なあの「ドント・アスク、ドント・テル」【訳注:米軍において性的指向を自らオープンにしない限り軍務に就けるという政策】の撤廃に署名しました。この政策廃止で、ゲイとレズビアンのアメリカ国民は我が国史上初めて性的指向をオープンにして軍隊に勤めることができるようになります。我が国の安全保障は強化され、ゲイとレズビアンのアメリカ国民が我が軍に為す、そして我が国の歴史を通じてこれまでも為してきた英雄的な貢献が十全に認知されることになるのです。

My Administration has also taken steps to eliminate discrimination against LGBT Americans in Federal housing programs and to give LGBT Americans the right to visit their loved ones in the hospital. We have made clear through executive branch nondiscrimination policies that discrimination on the basis of gender identity in the Federal workplace will not be tolerated. I have continued to nominate and appoint highly qualified, openly LGBT individuals to executive branch and judicial positions. Because we recognize that LGBT rights are human rights, my Administration stands with advocates of equality around the world in leading the fight against pernicious laws targeting LGBT persons and malicious attempts to exclude LGBT organizations from full participation in the international system. We led a global campaign to ensure "sexual orientation" was included in the United Nations resolution on extrajudicial execution — the only United Nations resolution that specifically mentions LGBT people — to send the unequivocal message that no matter where it occurs, state-sanctioned killing of gays and lesbians is indefensible. No one should be harmed because of who they are or who they love, and my Administration has mobilized unprecedented public commitments from countries around the world to join in the fight against hate and homophobia.

私の政府はまた連邦住宅供給計画におけるLGBTのアメリカ国民への差別を撤廃すべく、また、愛する人を病院に見舞いに行ける権利を付与すべく手続きを進めています。さらに行政機関非差別政策を通じ、連邦政府の職場において性自認を基にした差別は今後許されないとする方針を明確にしました。私はこれからも行政や司法機関の職において高い技能を持った、LGBTであることをオープンにしている個人を指名・任命していきます。私たちはLGBTの権利は人権問題であると認識しています。したがって私の政府はLGBTの人々を標的にした生死に関わる法律や、またLGBT団体の国際組織への完全な参加を排除するような悪意ある試みに対する戦いを率いる中で、世界中の平等の擁護者に味方します。私たちは裁判を経ない処刑を非難する国連決議に、「性的指向」による処刑もしっかりと含めるための世界的キャンペーンを率先してきました。これは明確にLGBTの人々について触れた唯一の国連決議であり、このことで、国家ぐるみのゲイとレズビアンの殺害は、それがどこで起ころうとも、弁論の余地のないものであるという紛うことないメッセージを送ってきました。何人も自分が誰であるかによって、あるいは自分の愛する者が誰であるかによって危害を加えられることがあってはなりません。そうして私の政府は世界中の国々から憎悪とホモフォビア(同性愛嫌悪)に反対する戦列に加わるという先例のない公約を取り集めてきました。

At home, we are working to address and eliminate violence against LGBT individuals through our enforcement and implementation of the Matthew Shepard and James Byrd, Jr. Hate Crimes Prevention Act. We are also working to reduce the threat of bullying against young people, including LGBT youth. My Administration is actively engaged with educators and community leaders across America to reduce violence and discrimination in schools. To help dispel the myth that bullying is a harmless or inevitable part of growing up, the First Lady and I hosted the first White House Conference on Bullying Prevention in March. Many senior Administration officials have also joined me in reaching out to LGBT youth who have been bullied by recording "It Gets Better" video messages to assure them they are not alone.

国内では、私たちはマシュー・シェパード&ジェイムズ・バード・ジュニア憎悪犯罪予防法【訳注:前者は98年10月、ワイオミング州ララミーでゲイであることを理由に柵に磔の形で殺された学生の名、後者は97年6月、テキサス州で黒人であることを理由にトラックに縛り付けられ引きずり回されて殺された男性の名。同法は09年10月に署名成立】の施行と執行を通してLGBTの個々人に対する暴力に取り組み、それをなくそうとする作業を続けています。私たちはまたLGBTを含む若者へのいじめの脅威を減らすことにも努力しています。私の政府はアメリカ中の教育者やコミュニティの指導者たちと活発に協力し合い、学校での暴力や差別を減らそうとしています。いじめは成長過程で避けられないもので無害だという神話を打ち払うために、私は妻とともにこの3月、初めていじめ防止のホワイトハウス会議を主催しました。いじめられたLGBTの若者たちに手を差し伸べようと多くの政府高官も私に協力してくれ、「It Gets Better」ビデオを録画してきみたちは1人ではないというメッセージを届けようとしています【訳注:一般人から各界の著名人までがいじめに遭っている若者たちに「状況は必ずよくなる」という激励と共感のメッセージを動画投稿で伝えるプロジェクト www.itgetsbetter.org】。

This month also marks the 30th anniversary of the emergence of the HIV/AIDS epidemic, which has had a profound impact on the LGBT community. Though we have made strides in combating this devastating disease, more work remains to be done, and I am committed to expanding access to HIV/AIDS prevention and care. Last year, I announced the first comprehensive National HIV/AIDS Strategy for the United States. This strategy focuses on combinations of evidence-based approaches to decrease new HIV infections in high risk communities, improve care for people living with HIV/AIDS, and reduce health disparities. My Administration also increased domestic HIV/AIDS funding to support the Ryan White HIV/AIDS Program and HIV prevention, and to invest in HIV/AIDS-related research. However, government cannot take on this disease alone. This landmark anniversary is an opportunity for the LGBT community and allies to recommit to raising awareness about HIV/AIDS and continuing the fight against this deadly pandemic.

今月はまた、LGBTコミュニティに深大な衝撃を与えたHIV/AIDS禍の出現からちょうど30年を数えます。この破壊的な病気との戦いでも私たちは前進してきましたが、まだまだやるべきことは残っています。私はHIV/AIDSの予防と治療介護の間口をさらに広げることを約束します。昨年、私は合州国のための初めての包括的国家HIV/AIDS戦略を発表しました。この戦略は感染危険の高いコミュニティーでの新たな感染を減らし、HIV/AIDSとともに生きる人々への治療介護を改善し、医療格差を減じるための科学的根拠に基づくアプローチをどう組み合わせるかに焦点を絞っています。私の政府はまた、ライアン・ホワイトHIV/AIDSプログラムやHIV感染予防を支援し、HIV/AIDS関連リサーチ事業に投資するための国内でのHIV/AIDS財源を増やしました。しかし、政府だけでこの病気に挑むことはできません。30周年というこの歴史的な年は、LGBTコミュニティとその提携者たちがHIV/AIDS啓発に取り組み、この致命的な流行病との戦いを継続するための再びの好機なのです。

Every generation of Americans has brought our Nation closer to fulfilling its promise of equality. While progress has taken time, our achievements in advancing the rights of LGBT Americans remind us that history is on our side, and that the American people will never stop striving toward liberty and justice for all.

アメリカ国民のすべての世代が私たちの国を平等の約束の実現により近づかせようとしてきました。その進捗には時間を要していますが、LGBTのアメリカ国民の権利向上の中で私たちが成し遂げてきたことは、歴史が私たちに味方しているのだということを、そしてアメリカ国民は万人のための自由と正義とに向かってぜったいに歩みを止めないのだということを思い出させてくれます。

NOW, THEREFORE, I, BARACK OBAMA, President of the United States of America, by virtue of the authority vested in me by the Constitution and the laws of the United States, do hereby proclaim June 2011 as Lesbian, Gay, Bisexual, and Transgender Pride Month. I call upon the people of the United States to eliminate prejudice everywhere it exists, and to celebrate the great diversity of the American people.

したがっていま、私、バラク・オバマ、アメリカ合州国大統領は、合州国憲法と諸法によって私に与えられたその権限に基づき、ここに2011年6月をレズビアンとゲイとバイセクシュアル、トランスジェンダーのプライド月間と宣言します。私は合州国国民に、存在するすべての場所での偏見を排除し、アメリカ国民の偉大なる多様性を祝福するよう求めます。

IN WITNESS WHEREOF, I have hereunto set my hand this thirty-first day of May, in the year of our Lord two thousand eleven, and of the Independence of the United States of America the two hundred and thirty-fifth.

以上を証するため、キリスト暦2011年かつアメリカ合州国独立235年の5月31日、私はこの文書に署名します。

BARACK OBAMA
バラク・オバマ

January 19, 2011

年の初めにイッパツかます

大晦日の夜、「紅白」の裏のTBSラジオで、1年を振り返る時事座談会に出演していました。「フリーランス座談会 信頼崩壊の2010年」というのがタイトル(ポッドキャストでいまでも聞けますが、いつまでサーバーに残っているのでしょう?)。お相手はジャーナリストの江川紹子さんと神保哲生さん。とはいえこれは帰国していた12月半ばに収録したもので実際の大晦日には私はメキシコに避寒に行っていたのですが。

でも今回書きたいのはそのことではありません。座談は大まかな流れだけ決めてすべて自由だったのですが、スタート直後の番組紹介などは司会役でもあった私の役目で、それはしっかりとセリフが決まっていました。でも台本どおりしゃべるのがどうにも嫌で(この日の台本のことではありません。いつもそうなの)、それも何の気なしにアドリブでしゃべっちゃいました。録音なので後で編集できるからよかったのでしょうが、生放送だったら制作スタッフはヒヤヒヤだったでしょう。すんません、TBSラジオのみなさん。

台本どおりが嫌、というのは、たとえ台本以上の面白いことが言えたにしてもともすると失敗する危険もあります。ですので制作側が台本どおりの無難なところでまとめたいと思うのはまったくもって至極ごもっとも。それを責めるのは筋違いです。私もそんな気は毛頭もありません。

でもこうして言挙げしているのはそれを敷衍していまの日本社会を論じちゃおうという魂胆です。最近日本に帰る機会が多く、帰るたびにとても心地よいぬっくりした感じに包まれるのですが、そのうち次第に時間が経ってくるとなんだかフラストレーションがたまってくるのを禁じ得ない。それはべつに私の周囲の人たちに感じているのではなくて、テレビで報道される政治家や官僚やそれを報道するキャスターや記者やコメンテーターたちにイライラが募ってくるのですね。なんともチマチマとお行儀よくまとまっていて、だれもあまり仕事で冒険も遊びもしない彼らを見ていると、なんだかだんだんイラっとしてくるのです。アドリブを嫌う社会。台本どおり。慣例どおり。つつがなく、つつがなく。それはつまり、予定調和を至上として、失敗を恐れる過度の事前警戒を、「普通のこと以上のことをしない」怠惰の言い訳にしている社会のことです。

江川さんは昨年、某テレビでスポーツ評論をする張本勲さんの「喝!」に思わず「えー?」と異論の感嘆詞を挙げたところその張本さんの逆鱗に触れ、番組を降ろされちゃったようです。そこでは台本上、江川さんは発言しないことになっていたからで、張本さん、プロのオレの野球評論にエー?とは何事だ、素人は黙ってろ、となったらしい。ま、翻訳すればそれはつまり女子供は口を出すなってことみたいな響きですけど、まあそうなんでしょう。そうやって日本のテレビ番組では侃々諤々の論争はほとんど起こりません。みんな司会者の「そうですよね」の言葉でうなづき合って次のコーナーへ移るのです。まあ、視聴者の日本人自身が論争を嫌うから、そういうの見たくないってのもあるでしょうけどね。そういうの、すぐに「放送事故」扱いですし。「事故=失敗」を事前に警戒してその恐れをしらみつぶしに排除してゆく。それが「安全=成功=事無し」に至る道です。それをできるのが優秀なスタッフ、ということ。これはじつは皮肉でもなんでもありません。

じつはあの普天間も同じようなメカニズムが働いたのでした。外務省も防衛省も「端から無理」と失敗を警戒して、鳩山さんの外堀を埋め身動きとれないようにした。それが「安全=成功=事無し」に至る道でした。それを見た菅さんが政権延命だけを目的に失敗を恐れてなにも変革せず、官僚たちの言いなりに消費税増税だけを目指すのは当然かもしれません。消費税増税は、まさにいまの体制を維持するため、つまりは同じく「安全=成功=事無し」であるために必要な手段なのですから。そこに横並びで台本どおりの政治部報道メディアの応援があれば下手はしないだろうという目論見です。その屋台骨はすでに世論の波で揺らいでいるのに、です。

また放送局の例で申し訳ないけれど、たとえば自動車会社の提供する番組ではスポンサー社製の車の批判や車社会の弊害には触れてはいけないことになっています。でもそれはべつに提供企業がそう規制しているわけではないんですよ。じつは番組の制作側がそう慮って事前に出演者になんとなくそう伝え、事無きを期するわけです。先ほども書きましたがそれは制作側としては当然の配慮でしょう。そういうたしなみのあるところじゃないと逆に危なくて番組なんか提供できるものではありません。でも本当にそれがいいのでしょうか?

いや、「それが」というのは違うな。「それだけを金科玉条とするだけでことはすべてうまく運ぶのでしょうか?」というようなところが私の気持ちに正確な疑問文です。批判は財産だとして積極的にそれを聞こうとする会社は、自動車会社に限らず逆に伸びるでしょうし、むしろ誠実だとして信頼すらされるのではないか? それは「普通」以上の効果です。事前にすべて段取りしてちんまりまとまる事無かれ主義よりも、むしろ敢えて少しは波風立っても議論して問題の本質を見極めた方が会社や社会の飛躍になるはず。

ところがその判断ができる勇者が少な過ぎる。日本には、企業や社会というプールの中で「溺れると嫌だから」と立ち泳ぎしてる人ばかりが目立ちます。なにも全員がグーグルやアップルの社員みたいに自由に泳いで発想しろと言っているのではないけれど、そういうアドリブのための余地を用意していないとブレークスルーは絶対に起きない。

台本、慣例、マニュアル──いろいろな呼び名はあるでしょうが、もっと楽しく自由に仕事をしようじゃありませんか。もちろんアドリブはしっかりと基本を押さえていないと無理だし、そういうのができないのにしゃしゃり出てくるやつが多いと「おまえはマニュアルどおりにやってればいいんだよっ!」と怒鳴りたくなるのもわかるんですがね。アメリカにいると日本とは逆に、面白いやつはたくさんいるけどそうした台本どおりの基本動作ができない輩が多すぎて、そっちの点でイラっとすることが多いのですから困ったもんです。

段取りと事前警戒を怠らないきっちりしたスタッフがいる。でも同時に、自由にアドリブでやれるスタッフもいる。そしてその双方がお互いを必要としていることを自覚し尊敬し合っている──どうして人間社会ってそんなふうにバランスよく両方を兼ね揃えることができないんでしょう。うまくいかないもんですねえ。

政権交代から2年目です。このパラダイムシフトには未知の状況を切り拓く当意即妙の胆力が必要なのはわかっていたはずなのに、日本社会の個人個人はそれに対応し切れていません。減点されない普通のことをするのではなく、得点しなくちゃ勝てないのだけれど。まあ、こんなことを新年早々考えているのは、ええ確かに、私がジャズやロックのアドリブが大好きだったサッカー少年として育ってきたせいかもしれませんけど。

October 13, 2010

検察審査会もおかしいぞ(10/18、加筆あり)

小沢一郎という政治家はよほど嫌われているんでしょう。検察審査会の2回もの議決で強制起訴が決まり、それでも議員辞職も離党もしないと言うので、各紙の世論調査によると6割とか7割の人たちがけしからんと思っているようです。

じつは公務員の場合、刑事事件で起訴された時点で「通常な勤務が不可能になる」「公務につくことに疑惑や疑念が生じる」ために休職扱いとなります。ただしそこで被告人本人が罪を認めている場合は、本人に確認した上で懲戒免職の処分が下されたりします。でも本人が罪状を否認している場合はあくまでも「推定無罪」の原則で免職にしたりはできません。

ところが日本では、逮捕されたら即、犯人という印象が強いですよね。だから起訴の段階で会社を辞めさせられたりすることもあるかもしれません。あるいは世間的にそういうふうに思い込んでいる人も多いでしょうね。これはひとえに優秀な日本の警察への信頼があって、さらにそれに乗っかった上でメディアの報道があるからです。新聞記者もテレビ記者も、事件や事故の場合は日常的にほとんどが捜査当局の情報が主たる第一次情報なので、自ずと視点はまずは捜査当局のものと同じになります。

捜査当局の視点とは、事件においては、あくまでも容疑者を捜し出し、そいつは有罪だと思って邁進するという視線です。メディアも推定無罪原則はいったん棚に上げ、とりあえずは手っ取り早く手に入るそうした容疑者情報を基にすることになります。それが同時に、読者に読まれるような(事件が解決してよかった、いったいどんなやつが犯人なんだ?的な)記事を提供するということにつながる。それが期待されるニュースなのですね。

新聞もテレビも商売です。推定無罪を掲げて容疑者の人物像や事件の背景を伝えなかったら(それはまだ捜査当局の思い描く「筋読み」の物語でしかないのですが)だれも買っても見てもくれません。せめてバランスをとって容疑者側の言い分を伝えようにも、勾留期間中は弁護士以外は接見禁止だったりして直接取材ができないので、警察や検察経由の供述内容を伝聞報道するしかないのです。記者による独自の調査報道というのもありますが、よほどの大きな事件でないと徹底取材は難しい。それだっていわゆる世間の関心を見諮りながらやるわけだし、強制捜査件があるわけではない新聞社には人材や労力も限られています。

かろうじて事実に近いものが明らかになるのが裁判ですが、そんなころにはみんな当の事件の内容すら忘れています。とてもそれまで待てません。じつは裁判原稿はきちんと追うとかなり興味深いものがあるのですが、なにしろ事件から時間が経っている上に公判も小間切れで、1回1回の間隔が長い(最近の裁判官裁判は違いますが)。自ずから読者も限られてきます。

かくしてジャーナリズムは、いまも瓦版時代の一時的・短期的なセンセーショナリズムから脱却しきれない。まあ、日本の検察の起訴有罪率は99%以上ですから、そこに乗っかって記事を書いてもあまりハズレはないわけですが。

しかし今回、厚労省局長だった村木さんの裁判で恐ろしいことが発覚しました。前回のコラムで書いたように、検察は自分たちの有罪物語に合わせて証拠を捏造することもあるのかもしれないという重大な疑義が生まれたのです。そのことに世間が気づいた。じつはこれに合わせて新聞報道やテレビ報道というのもじつはすごく危ないのではないかということもわかったのですが、これは当の新聞やテレビが触れないのであまり話題になっていませんよね。

でも、こんなのがありました。
朝日新聞社の今年の会社案内です。まずは9月初め時点でウェブサイトなどで宣伝されていたこの紙面を見てください。

そしてこれが10月になって掲載されている同じ、というか改訂された宣伝文です。

どう変わったかわかりますか?

改訂前は、この郵便不正が局長逮捕にまで及んだ大事件で、それを「朝日新聞は、特捜部のこうした捜査の動向や、事件の構図なども検察担当の記者たちがスクープ」と自慢していたのですが、改訂後には「一方、(中略)厚生労働省の局長が逮捕・起訴されましたが、大阪地裁で2010年9月、無罪判決が出されました。朝日新聞は、逮捕の前後から局長の主張を丹念に紙面化すると同時に、特捜部の捜査の問題点を明らかにする報道も続けました」となって、掲載した新聞紙面の写真も、真ん中のが村木さんの写真まで付けた「厚労省局長を逮捕」の紙面から差し障りのないものにすげ替えられているのです。

村木さんが逮捕・起訴されたときのメディアの報じ方は、やはり前述した「犯人扱い」でした。なんだか女性の出世頭であることが悪いことかのように、まるで(言葉は悪いけど端的に言えば)「やり手ババア」みたいな書き方をしていたんですよ。そのことにホッカムリして、しれっとこれはないでしょう、という気がします。ま、朝日に限りませんが。

村木さんだけではありません。今年は足利事件の菅家さんの再審無罪もありました。そんな大げさな事件でなくとも、たとえば痴漢の事件などでかなりの無罪判決が出ています。これは07年に公開された「それでもボクはやってない」という映画でも描かれていたパタンです。

そういうときはみんな「無実なのに有罪にされるなんて、怖いなあ」と思うのですが、でもやはり誰か容疑者がつかまるとどうしても懲罰心理が働いてしまう。「赦せない」「懲らしめてやれ」という感情がその人に集中します。その心理を煽るようにまたメディアもそうした流れに添った情報を売るのです。

話を最初に戻しましょう。小沢一郎に対するこの検察審査会による「起訴」は、そんな「一般」の「市民」の「感情」を背景にしているのでしょう。朝日は社説で「知らぬ存ぜぬで正面突破しようとした小沢氏の思惑は、まさに『世の中』の代表である審査員によって退けられた」と書きました。他紙も異口同音です。本当にそうなのでしょうか?

ここまでを踏まえた上で、次に検察審査会の問題に触れたいと思います。

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September 15, 2010

菅とオバマのシンクロ具合

「いよいよこれから政権の本格運営」と言いながらも、菅さんの政策が実はいまもよくわかりません。民主党国会議員412人の「全員内閣」というのも、はたして小沢陣営との人事面での折り合いはつくのかどうか。

そもそも告示の前後で小沢さんに人事面で配慮をすると言っていたのをいったん白紙に戻す修正を行い、その後またいつの間にか「全員内閣」と言っているのはどういうことなのか? さらに小沢さんの「政治主導」や「地方主権」という決まり文句を、選挙戦後半では菅さんも言い始める始末。いやいや、全員内閣も官僚政治打破も地方重視も実に結構なことですから、菅内閣がそれで行ってくれるなら小沢派だって大歓迎、べつに小沢総理でなくとも実を取ればそれで民主党的には大団円、めでたしめでたしでしょう。しかし菅さんの場合、ほんとにそうなの? 思いつきでパクってるだけでしょ? という感じで、どうも額面どおりには受け取ってよいものかおぼつかない。

菅さんはこれまで民主党の代表選には9回も立候補しています。ならばもっと日本を率いる具体策や理念があって然るべきなのに、どうも言葉が上滑りして「雇用、雇用、雇用」と言う「新成長戦略」も具体的に何をどうすると言いたいのかよくわからない。今回が初めて総理大臣に直結する出馬だったせいか、政策モットーはこの選挙戦を通じて紡ぎ出した感さえあります。結果、日本のマスメディアでは「政策論争が盛り上がってよかった」との論調まで出た。でも、菅さんの主張に首尾一貫さがないのは消費税10%発言を筆頭に明らかなのでした。

わたしが懸念するのは「長期本格政権を目指す」という発言が(実際、3カ月前の首相就任時にそう言ったのです。「普天間も片付いたから」と)、菅さんにとって目的化していることです。長期政権であるために必要な手っ取り早い方法は「自民党化」することです。つまり、体制を維持し、体制不安につながる抜本改革を行わないこと。つまり、政権交代を狙って民主党の掲げたマニフェストを引き揚げること、なあなあに済ますことなのです──国家戦略局なんて滅相もない。

今回の代表選で菅さんが勝利したというのは、このマニフェスト修正に民主党とその支持者がお墨付きを与えたということです。いや、そうではない、反小沢票が消極的に菅さん支持に回っただけで、マニフェストの理念そのものは否定されていない、と言う向きもいるでしょうが、民主党はそうは動かないでしょう。

菅政権は何をどうしたいのか? そしてそれはかつての自民党の政治とどう違うのか? 第2次菅政権はそれを明確に示し得るのでしょうか?

菅さんのこの3カ月の日和見ぶり、いや腰砕けを見ていると、与野党協調を謳うあまりにどっちつかずになって改革を進められないオバマ政権を見ているような気になります。「チェンジ」を掲げながら、アメリカは変わったでしょうか? イラクの戦闘部隊撤退も形だけ、アフガンは泥沼化、国内には反イスラムの連鎖が顕在化し、同時に同性愛者の従軍問題も拙速が目立つばかり。金融改革も中途半端でまたまたウォール街を利するだけですし、環境問題もメキシコ湾原油流出企業への甘い事前検査が明らかになり、なおかつ環境汚染の危険性の高い海洋油田掘削規制はまったく手つかずです。唯一の成果とされる医療改革と国民皆保険制度も実際はどっちつかずの改革に落ち着いて、大統領就任時の熱狂的ともいえた国民の変革への希求は、なんだか尻すぼみになりつつあるのです。

そこで中間選挙です。貧富だけではなく、アメリカでは保守とリベラルの両極化が進んで、とりとめがありません。リベラルなオバマ政権下で、どうして共和党のティーパーティー(お茶党)みたいな右翼が出てくるのでしょうか? それはまさに例のグラウンドゼロ・モスク問題の反イスラム感情勢力と重なります。そうしてオバマ民主党は中間選挙での敗北が予想されている。

それは、同じくどっちつかずの菅政権の道行きと重なりはしないのでしょうか? 政局ではなく、私は日本とアメリカが心配です。まあ、これまでもいつも「心配」してきたわけですからいまさらどうのという感じもありますが、しかし心配してきた一つひとつはかなりその心配に沿って現実のものになっています。いつどこでそれがロバの背を折る一本の藁になるのか、心配はその線へとシフトしていっています。

August 24, 2010

今野雄二の死去と大橋巨泉

「フツーに生きてるGAYの日常」というウェブサイトを運営しているakaboshiくんが、「今野雄二の訃報コメントがフジテレビに“添削”された顛末」を書いた大橋巨泉のことを紹介していました。

「彼の同性愛者らしい細やかなセンスを買っていただけに残念」という彼の表現が、フジテレビ側から「文章の中の『同性愛者』という表現が、死んだ人に対する表現としては使えないので、それを取って『彼らしい細やかなセンスを・・・』とさせていただきたいのですが」「上司と相談したところ、矢張りある程度同業者の中では知られていても一般的な事ではなく、人が亡くなった時という特殊な時期なので、今回はその表現を控えさせて頂きたい」という事情で書き換えられたという話です。

「人の死に“同性愛者”はふさわしくないのか?日本にはタブーが多すぎる」●今野雄二さんの訃報コメント変更で大橋巨泉さん注目発言

添削されてもブチ切れるんじゃなくて、「もう寝た後の話でどうしようもありませんでしたね。こちらは一向にかまいません。ただこのことは週刊現代に書くつもりです」と、事の顛末を自身の連載コラムで発表するというところがこの人の軽やかさ。メディアで生きてきた人ならではです。

で、わたし、藤村有弘が死んだときのこの大橋巨泉の弔辞もはっきりと憶えています。もう30年近くも前の話ですから、うわあ、すごいこと言うなあ、この人、と思ったものですが、アウティングされた本人とも「巨泉さんならしょうがないか」というような付き合いをしていた、というその自負と自信からの宣言なのでしょうね。

そんなアウティングは、その人個人の責任として為されるもので、当然それなりの覚悟もあるものです。アウティング行為にケチを付けるやつも、アウティング対象の友人にケチを付けるやつも、そういう連中はぜんぶおれんとこに来い、相手してやる、ということなんでしょう。それは世間一般でいう、他人に対するアウティングとはちょいと違います。

それをさておき、「死んだ人」を知りもしない赤の他人が、おこがましくもそこに口を挟む。今野雄二も、巨泉さんになら代弁をしてもらいたいが、フジテレビのサラリーマンに自分の代弁をしてほしいと頼んだ覚えはない、というところでしょう。ま、そのことに乗じて私たちもなんやかんや今野雄二のアウティングに対してコメントする資格もないわけですが……。

しかしいったい、ゲイだと言ったらフジテレビにどういうクレームが来るのかなあ。サラリーマン体質っていうのか役人根性というのか小市民的というのか、減点評価に極端に神経質になっちゃって風が吹くのにもおびえる桶屋の商売敵がほんと多すぎます。ひいてはそれが日本社会の衰退の元凶なのよね(←大袈裟)。

大橋巨泉は希代の遊び人で、むかしから1本芯の通った数寄者です。11PMでも終戦だとか原爆だとか同和だとか硬派企画をどんどんやっていて、そこにこの人の何とも不思議な「日本人離れ」したコメントが重なる。北海道の少年時代に11pmを見ていると、ジャズだとかゴルフだとか英語だとかパイプカットだとかの話題も加わって、ああ、東京の人ってすごいなあ、って唖然としたものです。

18で初めて東京に出てきたときも、わたしが怯んだのは頭のいい人たちではなくて大橋巨泉的な都会人に対してでした。なんだか、生きてきた人生がぜんぜん違うのね。だって、芸能人とか文化人とか芸術家だとかと、子供のころから親交があったりする。これはもう取り返しもつかず、ただただ口を開けるか脱帽するしかないわけで。

今野雄二のこの件も、巨泉さんのこのコラムで、歴史として残ることになりました。「事実」は、いずれにしても書き残さねばならないのです。ところで織田裕二、どうしちゃったんでしょうね。って、関係ないか。

ではごきげんよう。来週半ばからはまた日本です。


***
とまあ、上記のような「日記」を先週、ミクシで書いたところ、フジTVに務める私のマイミクさんの1人が次のようなコメントを寄せてくれました。上記の私のテキストに足りない要素が指摘・補填されていて、合わせてお読みくださると問題の重層的な部分が見えてくると思いますので、コメント者の了解を取って採録しますね。


***

2010年08月22日 04:27
僕は生憎、その件の担当ではありませんでしたが、それでも、僕はその弊社スタッフと結果的に同じ対応を取ったと思います。

僕と、そのスタッフ(たち)の思考経路がどのような展開の末に、同じ結論に至ったのかには相違があると思いますが、僕の場合、まずご遺族・存命の関係者の存在について考えたでしょう。

そして、今野さんが生前、ご自身の意思として、カムアウトしていたのか、していなかったのか、確認が既に容易には取れないその時点で、当人がもしかすると隠していたかもしれない性的指向をメディア・サイドの判断でおおっぴらにしていいものか、その権利がメディアにあるのか、ということを考えると思います。

大橋さんが自分の土俵で語ることについては、大橋さんの責任で負えばいい。大橋さんは今野さんのゲイとしてのスタンス、ご家族について、などご存じだったかもしれない。

が、そういった手がかりのない1メディア担当としては、もし当人がセクシュアリティを隠していたという可能性が少しでもあったら、遺族・関係者の手前、それをアウティングすることはできない、と判断します。

もちろん最善は、遺族・関係者に連絡を取り、このようなコメントが出ますが、問題ございませんか、などと確認を取ることだと思うのですが、自殺というショッキングな状況に対応しているご遺族に、そのタイミングで、この確認は、僕の気持ちとしてはできない。また、報道が出るまでの限られた時間の中ですべての関係者についてそれを網羅することはとうていできない。

弊社スタッフがとったと同じ対応をおそらく自分も取っただろう、というのは、アウティングということに対する僕自身の見解にもよるものでしょう。

社会的な影響力を少なからず持っている同性愛者が、反ゲイに価する言動を行う、またはその人が沈黙していることが、ゲイの立場の向上に反している、そのような限定条件下で、アウティングは行われるべきものだというのが私見です。

自分自身のセクシュアリティに悩んでいる・結論の出ていない、迷える同性愛者(及びその家族)を徒にアウティングすることには反対です。

以上、私見でした。
ご意見・ご反論ございましたら、承ります。


***
このコメントに対して、わたしもコメントを返しました。それが以下のものです。


***
2010年08月22日 06:08
なるほどなるほど、そういや、自殺だったんだ。私の上記の書き物にはその視点が一切欠けていました。つまり2重のスティグマというわけです。そうね、その場合は少しでもそれを軽減させようとするのもメディアたるものの立ち位置かもしれないね。

ただここで肝心なのは、きみの註釈したように当の担当者が思考したという跡すじが、巨泉さんのテキストを読む限りではいっこうに窺えないということです。「結果的に同じ対応を取る」ことと、その問題はまったく別のことです。おそらく巨泉サイドが、上記のきみのような意を尽くした事情説明のコメントを聞いていたら、彼はおそらくそのこともきっとコラムに書くんじゃなかろうか? 結果として、彼のコラムは変わっていたのではないか? ま、わたしも直接フジの担当者に当たったわけでもなく巨泉サイドに確認したわけでもないから、適当にしか言えんのですが。

じっさい、きみの書いた上記コメントは、十分に思考された説得力のあるものですから、たとえ結果が「添削」という同じもので終わっていたとしても、わたしはそこでは両者間にある共通認識が生まれ、これはまた次のステップに進むための一歩になり得たはずだと確信します。

それがしかし「死んだ人に対する表現としては使えない」「人が亡くなった時という特殊な時期」というようなだけの説明では、これはどこにも行き着くところのない言い訳、言い逃れに過ぎなく聞こえてしまうでしょう。じっさい、巨泉さんはそうやって聞いた。そこにはきみのコメントにある説得力はなかった。そういうことではないのでしょうか。

貴社の担当者としては、もし仮にきみのいうようにその辺の遺族への配慮が行き届いていたのだったとしら、コメントを要望した相手への配慮と事情説明もまた行き届いていて然るべきだった、と、ま、そういうことでしょうか。しかしまた、後者がそうではなかった以上、前者もまた、恐らく違っていたのではないか、と推察できてしまう。私はそれを「サラリーマン体質っていうのか役人根性というのか小市民的というのか、減点評価に極端に神経質になっちゃって」と非難したいのです。

いかがなもんでしょうかね。


***
かくして、再びそのコメントをくれた本人から次のような返事が。


***
2010年08月22日 07:09

そうだね。
「死んだ人間には使えない」って説明がヘンだものね。

多分、直接、巨泉さんサイドと対応したスタッフはあまりものがわかってない、ただのメッセンジャーだったのかもしれないですね。

俺としては、少なくとも、彼が相談したという「上の人間」というのは、俺と同じような考え方をした、と考えたいところだけれど。(多分、クラス的に、その「上の人間」は今の俺と同程度の職歴・年齢であるはずなのね。)

ただ、間に立っていたそのメッセンジャーくんが、それをうまく伝えられなかった、と僕は思いたい。

でも、ま、わからないですな。
差別の問題はほんと難しい。
ゲイに関しては、自分がそうだから、一応わかるんだが、同和のこととか、まったくわからないもん。
みんなが避けて、隠してしまうトピックだから、見えて来ないんだよね。だから、きちんと学べない。

もっと見える存在にならなければならない、というのは本当に、真の命題ですな。


***

テレビ局にもいろいろ考えている人間はいるわけです。
もちろんゲイもレズビアンもトランスジェンダーもいるわけですから。
というわけで、この問題に関してはこんなもんですか。
彼がコメントを寄せてくれたおかげで、わたしも問題の多面性を紹介できたと思います。

August 10, 2010

ママの憂鬱

7月下旬、34歳の日テレの女性アナウンサーが5カ月の乳児を残して仙台の高層マンションから飛び降り自殺しました。日本の朝やお昼のニュースショーでは男性のコメンテイターやキャスターたちが深刻顔で「育児ストレス」や「育児ノイローゼ」に関した通り一遍のコメントをしていました。いわく「育児が大変な仕事だという周囲の理解と協力が必要」──しかし育児ストレスというものの正体が何なのかという「理解」は、当のコメンテイターたちにもあまりないようでした。

事件後ややして「育児ストレス」は「産後うつ」という言葉に置き換わりました。そう診断されていたと女性アナのお兄さんが明かしたからです。けれどそれがどういう病気なのかは「優秀で、きまじめで完全主義な人」がかかりやすいだとか、「最後まで仕事にこだわり、育児を割り切れない」のが原因だとか(いずれも産経新聞iZa β版http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/425362/)、なにもわかっていないままでした。

テキサス州ヒューストンの郊外で9年前の2001年、生後6カ月から7歳までの子供5人全員が36歳の母親の手で浴槽で溺死させられたという事件がありました。母親はその2年前に四男を出産し、その後、うつ病になっていたのです。そう「産後うつ」です。

このとき、NYタイムズなどの米紙は事件に絡め、出産に関連する女性のホルモンや代謝の変化の、男性たちの想像もつかない複雑さを詳細にリポートしていました。

こういうことです。出産と同時に胎盤が出てしまうと、女性の体内では卵胞ホルモンであるエストロゲンも数分あるいは数時間以内で急激に下降します。黄体ホルモンも同じく急降下し、その一方でお乳を司る脳下垂体が普段の2倍にまで膨張するのです。それまで9カ月間にわたって母胎を守ってきたシステムそのものがとつぜん切り替わってしまうのです。これはまさに「変身」の衝撃が母体を襲うということです。

その結果、米国では85%もの母親が出産後3日以内に「ベイビー・ブルーズ(産後の気のふさぎ)」という症状を経験するのだそうです。気分の波が激しく、2週間にもわたって鬱々とした状態が続くのです。

85%、とはほとんど全員です。しかしもっと驚くのはそのうちの10人に1人がただの気のふさぎでは済まずに本当に「産後うつ病」に移行するということです。こうしたお母さんたちは疲弊感と孤独感にさいなまれ、母になった喜びも感じられずしばしば涙に暮れ、食事や睡眠も不規則になるのだとか。おそらくこれらの数字に日米の差はあまりないと思います。違いがあるとしたら、それは母親たちを取り巻く環境の差でしょう。とはいえ、それもいまはそんなに変わらないと思いますが。

うつ状態よりも厳しい症状は「産後精神障害」と呼ばれます。米国では新生児の母親の千人に1人という発症率ですが、これはふだんの精神障害発生率の16倍という数字だそうです。この場合は出産直後から妄想が現れ、「赤ちゃんを殺せ」「この子は死んだほうが幸せだ」という幻聴まで聞こえたりするとか。米国ではこうした母親による赤ん坊殺しが毎年百件前後も発生しています。

産後のうつ症状にはホルモン療法が効果的とも言われますが、もちろん同時に家庭内での理解と支援が必要です。もちろんこれはお題目的な理解ではなく、前述した女性の化学のメカニズムを男性たちも含めた周囲のみんながきちんと知っての理解です。そのためにはメディアもきちんと科学的な情報を提供することが欠かせません。何も知らない人たちがテレビで適当にコメントを出し合っても、そんなものは何の役にも立たないのですから。

最近、日本でも子供の虐待死が相次いでいます。男性の手になるものは何をか言わんやですが、それが母親による育児放棄や虐待である場合、私たちが「育児ストレス」と簡単に呼び捨ててしまいがちなケースのその裏側には、甚大な産後の肉体的変調が関わっている可能性もあるのかもしれません。

August 04, 2010

クローゼットな言語

「イマーゴ」という、今はなき雑誌に依頼されて書いた原稿を、昨日のエントリーに関連してここにそのまま再掲します。書いたのは2001年3月って文書ファイル記録にあるんですけど、当のイマーゴは96年に休刊になってるんで、きっと1995年11月号の「ゲイ・リベレイション」特集でしょうね。へえ、私、15年前にこんなこと考えてたんだ。時期、間違ってたら後ほど訂正します。

では、ご笑読ください。

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クローゼットな言語----日本語とストレートの解放のために


 「地球の歩き方」という、若い旅行者の自由なガイドブックを気取った本の「ニューヨーク」グリニッチ・ヴィレッジの項目最初に、「(ヴィレッジは)ゲイの存在がクローズ・アップされる昨今、クリストファー通りを中心にゲイの居住区として有名になってしまった。このあたり、夕方になるとゲイのカップルがどこからともなく集まり、ちょっと異様な雰囲気となる」と書かれている。「ブルータス」という雑誌のニューヨーク案内版では「スプラッシュ」というチェルシーのバーについて「目張りを入れた眼でその夜の相手を物色する客が立錐の余地なく詰まった店で、彼ら(バーテンダーたち=筆者註)の異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」とある。マックの最終案内という文言に惹かれて買ったことし初めの「mono」マガジンと称する雑誌の「TREND EYES」ページに、渋谷パルコでの写真展の紹介があったが、ここには「〝らお〟といっても(中略)〝裸男〟と表記する。つまり男のヌード。(中略)男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」とある。

 この種の言説はいたるところに存在する。無知、揶揄、茶化し、笑い、冷やかし、文章表現のちょっとした遊び。問題はしかし、これらの文章の筆者たち(いずれも無記名だからフリーランス・ライターの下請け仕事か、編集部員の掛け持ち記事なのだろう)の技術の拙さや若さゆえの考え足らずにあるのではない。

 集英社から九三年に出された国語辞典の末尾付録に、早稲田大学の中村明が「日本語の表現」と題する簡潔にまとまった日本語概論を載せている。その中に、日本では口数の多いことは慎みのないことで、寡黙の言語習慣が育った、とある。「その背景には、ことばのむなしさ、口にした瞬間に真情が漏れてしまう、ことばは本来通じないもの、そういった言語に対する不信感が存在したかもしれない」「本格的な長編小説よりは(中略)身辺雑記風の短編が好まれ、俳句が国民の文学となったのも、そのことと無関係ではない」として、「全部言い尽くすことは避けようとする」日本語の特性を、尾崎一雄や永井龍男、井伏や谷崎や芥川まで例を引きながら活写している。

 中村の示唆するように、これは日本語の美質である。しかし問題は、この美しさが他者を排除する美しさであるということである。徹底した省略と含意とが行き着くところは、「おい、あれ」といわれて即座にお茶を、あるいは風呂の、燗酒の、夕食の支度を始める老妻とその夫との言葉のように、他人の入り込めない言語であるということだ。それは心地よく面倒もなく、他人がとやかく言える筋合いのものではない関係のうちの言語。わたしたちをそれを非難できない。ほっといてくれ、と言われれば、はい、わかりましたとしか言えない。

 この「仲間うちの言語」が老夫婦の会話にとどまっていないところが、さらに言えば日本語の〝特質〟なのである。いや、断定は避けよう。どの言語にも仲間うちの符丁なるものは存在し、内向するベクトルは人間の心象そのものの一要素なのだから、多かれ少なかれこの種の傾向はどの社会でも見られることだろう。しかし冒頭の三例の文言が、筆者の幻想する「わたしたち」を土台に書かれたことは、自覚的かそうではないかは無関係に確かなことのように思われる。「ゲイの居住区として有名になってしまった」と記すときの「それは残念なことだが」というコノテイションが示すものは、「わたしたち」の中に、すなわちこの「地球の歩き方」の読者の中に「ゲイは存在しない」ということである(わたしのアパートにこの本を置いていったのは日本からのゲイの観光客だったのだが)。「異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」というときの「変だというか、こんなんでよいのだろうかというか、予想外というか、つまり、ナンなんでしょうか?」という表現の節約にあるものは、「あなたもわかるよね」という読者への寄り掛かりであり、あらかじめの〝共感〟への盲信である。「男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」という、いわずもがなのわざわざの〝お断り〟は、はて、何だろう? 取材した筆者もあなたと同じく男の裸なんか見たくもないと思ってるんだが、そこはそれ、仕事だから、ということなのだろうか? それとも三例ともにもっとうがった見方をすれば、この三人の筆者とも、みんなほんとうはクローゼットのゲイやレズビアンで、わざとこういうことを書き記して自らの〝潔白〟を含意したかったのだろうか……。

 前述したように、内向する言語の〝美質〟がここではみごとに他者への排除に作用している。それは心地よく面倒くさくもなく多く笑いをすら誘いもするが、しかしここでは他人がとやかく言える類のものに次元を移している。彼らは家庭内にいるわけでも老夫婦であるわけでもない。治外法権は外れ、そしてそのときに共通することは、この三例とも、なんらかの問い掛けが(予想外に)なされたときに答える言葉を有していないということである。問い掛けはどんなものでもよい。「どうしてそれじゃだめなの?」でもよいし、「ナンでしたって、ナンなの?」でもよいし、「何が言いたいわけ?」でもよろしい。彼らは答えを持っていない。すなわち、この場合に言葉はコミュニケイトの道具ではなく、失語を際だたせる不在証明でしかなくなる。そして思考そのものも停止するのだ。


 ここに、おそらく日本でのレズビアン&ゲイ・リベレイションの困難が潜在する。

 ことはしかしゲイネスに限らない。日本の政治家の失言癖がどうして何度も何度も繰り返されるのか、それは他者を排除する内輪の言葉を内輪以外のところで発言することそのものが、日本語環境として許されている、あるいは奨励されすらしているからである(あるときはただただ内輪の笑いを誘うためだけに)。「考え足らず」だから「言って」しまうのではない。まず内輪の言語を「言う」ことがアプリオリに許されているのである。「考え」はその「許可」を制御するかしないかの次の段階での、その個人の品性の問題として語られるべきだ。冒頭の段落で三例の筆者たちを「技術の拙さや若さゆえの考え足らず」で責めなかったのはその由である(だからといって彼らが赦免されるわけでもないが)。どうして「いじめ」が社会問題になるほどに陰湿なのか、それは「言葉」という日向に子供たちの(あるいは大人たちの)情動を晒さないからだ。「言葉じゃないよ」という一言がいまでも大手を振ってのさばり、思考を停止させるという怠慢に〝美質〟という名の免罪符を与えているからだ。だいたい、「言葉じゃないよ」と言う連中に言葉について考えたことのある輩がいたためしはない。

 すべてはこの厄介な日本語という言語環境に起因する。この厄介さの何が困るかといって、まず第一は多くの学者たちが勉強をしないということである。かつて六、七年ほど以前、サイデンス・テッカーだったかドナルド・キーンだったかが日本文学研究の成果でなにかの賞を受けたとき、ある日本文学の長老が「外国人による日本文学研究は、いかによくできたものでもいつもなにか学生が一生懸命よくやりましたというような印象を与える」というようなことをあるコラムで書いた。これもいわば内輪話に属するものをなんの検証(考え)もなく漏らしてしまったという類のものだが、このうっかりの吐露は一面の真実を有している。『スイミングプール・ライブラリー』(アラン・ホリングハースト著、早川書房)の翻訳と、現在訳出を終えたポール・モネットの自伝『Becoming a Man(ビカミング・ア・マン--男になるということ)』(時空出版刊行予定)の夥しい訳註を行う作業を経てわたしが感じたことは、まさにこの文壇長老の意味不明の優越感と表面的にはまったく同じものであった。すなわち、「日本人による外国文学研究は、いかによくできたものであっても、肝心のことがわかっていない小賢しい中学生のリポートのような印象を与える」というものだったのである。フィクション/ノンフィクションの違いはあれ、前二者にはいずれも歴史上実在するさまざまな欧米の作家・詩人・音楽家などが登場する。訳註を作るに当たって日本のさまざまな百科事典・文学事典を参照したのだが、これがさっぱり役に立たなかった。歴史のある側面がそっくり欠落しているのだ。

 芸術家にとって、あるいはなんらかの創造者にとって、セクシュアリティというものがどの程度その創造の原動力になっているのかをわたしは知らない。数量化できればよいのだろうが、そういうものでもなさそうだから。だがときに明らかに性愛は創造の下支えにとして機能する。あるいは創造は、性愛の別の形の捌け口として存在する。

 たとえば英国の詩人バイロンは、現在ではバイセクシュアルだったことが明らかになっている。トリニティ・カレッジの十七才のときには同学年の聖歌隊員ジョン・エデルストンへの恋に落ちて「きっと彼を人類のだれよりも愛している」と書き、ケンブリッジを卒業後にはギリシャ旅行での夥しい同性愛体験を暗号で友人に書き記した手紙も残っている。この二十三才のときに出逢ったフランス人とギリシャ人の混血であるニコロ・ジローに関しては「かつて見た最も美しい存在」と記し、医者に括約筋の弛緩方法を訊いたり(!)もして自分の相続人にするほどだった。が、帰国の最中に彼の死を知るのだ。その後、『チャイルド・ハロルドの巡礼』にも当初一部が収められたいわゆる『テュルザ(Thyrza)の詩』で、バイロンは「テュルザ」という女性名に託した悲痛な哀歌の連作を行った。この女性がだれなのかは当時大きな話題になったが、バイロンの生前は謎のままだった。いまではこれがニコロのことであったことがわかっている。

 『草の葉』で知られる米国の国民詩人ウォルト・ホイットマンはその晩年、長年の友人だった英国の詩人で性科学者のジョン・アディントン・シモンズに自らの性的指向を尋ねられた際に、自分は六人も私生児を作り、南部に孫も一人生きているとムキになって同性愛を否定する書簡を送った。これがずっとこの大衆詩人を「ノーマルな人物だった」とする保守文壇の論拠となり、さらにホイットマンが一八四八年に訪ねたニューオリンズ回顧の詩句「かつてわたしの通り過ぎた大きな街、そこの唯一の思い出はしばしば逢った一人の女性、彼女はわたしを愛するがゆえにわたしを引き留めた」をもってしてこの〝異性愛〟ロマンスが一八五〇年代『草の葉』での文学的開花に繋がったとする論陣を張った。しかしこれも現在では、その詩句の草稿時の原文が「その街のことで思い出せるのはただ一つ、そこの、わたしとともにさまよったあの男、わたしへの愛のゆえに」であることがわかっている。『草の葉』では第三版所収の「カラマス」がホモセクシュアルとして有名だが、それを発表した後の一八六八年から八〇年までの時期、彼がトローリー・カーの車掌だったピーター・ドイルに送った数多くの手紙も残っており、そこには結びの句として「たくさん、たくさん、きみへ愛のキスを」などという言葉が記されている。

 これらはことし刊行された大部の労作『THE GAY AND LESBIAN Literary Heritage』(Henry Holt)などに記されている一部であるが、同書の百六十数人にも及ぶ執筆者の、パラノイドとも見紛うばかりの原典主義情報収集力とそれを論拠としているがゆえの冷静かつ客観的な論理建ては、研究というものが本来どういうものであるのかについて、日米間の圧倒的な膂力の差を見せつけられる思いがするほどだ。日本のどんな文学事典でもよい、日本で刊行されている日本人研究者による外国文学研究書でもよい、前者二人に限らず、彼ら作家の創造の原動力となったもやもやしたなにかが、すべてはわからなくとも、わかるような手掛かりだけでもよいから与えてくれるようなものは、ほとんどないと言ってよい。



 「日米間の圧倒的な膂力の差」と一般論のように書きながら、厄介な日本語環境の困難さとしてこれを一般化するのではなく象徴的な二つの問題に限るべきだとも思う。

 一つは「物言わぬ日本語」の特質にかぶさる/重なるように、なぜその「もやもやしたなにか」がまがりなりにも表記され得ないのかは、「性的なるもの」に関しての「寡黙の言語習慣」がふたたび関係してくることが挙げられる(「もやもやしたなにか」がすべて性的なもので説明がつくと言っているわけではない)。日本語において議論というものが成立しにくいことは「他者を排除する言語習慣」としてすでに述べたが、そんな数少ない議論の中でもさらに「性的な問題」は議論の対象にはなりにくい。「性的なこと」が議論の対象になりにくいのは「性的なこと」が二人の関係の中でのみの出来事だと思われているからである。すなわち、「おい、あれ」の二人だけの閨房物語、「あんたにとやかく言われる筋合いのものではない」という、もう一つの、より大きいクローゼットの中の心地よい次元。そうして多くみんな、日本では性的なことがらに関してストレートもゲイもその巨大なクローゼットの中にいっしょに取り込まれ続ける。

 性的なことがらはしたがって学問にはなりにくい。クローゼットの中では議論も学問も成立しない。すなわち、「性科学」なる学問分野は日本では困難の二乗である。九月に北京で行われた国連世界女性会議で「セクシュアル・ライツ」に絡んで「セクシュアル・オリエンテイション」なる言葉が議論にのぼったとき、日本のマスメディア(読売、毎日、フジTV。朝日ほかは確認できなかった)はこれを無知な記者同士で協定でも結んだかのようにそろって「性的志向」と誤記した。「意志」の力では変えられないその個人の性的な方向性として性科学者たちがせっかく「性的指向」という漢字を当ててきた努力を、彼ら現場の馬鹿記者と東京の阿呆デスクと無学な校閲記者どもが瞬時に台無しにしてしまったのである。情けないったらありゃしない。

 考えるべきもう一つはクローゼットであることとアウト(カミング・アウトした状態)であることの差違の問題だ。先ほど引用した『ゲイ&レスビアン・リテラリー・ヘリテッジ』の執筆陣百六十人以上は、ほとんどがいずれも錚々たるオープンリー・ゲイ/レズビアンの文学者たちである。押し入れから出てきた彼らの情報収集の意地と思索の真摯さについては前述した。彼/彼女らの研究の必死さは、彼/彼女らの人生だけではなく彼/彼女のいまだ見知らぬ兄弟姉妹の命をも(文字どおり)救うことに繋がっており、大学の年金をもらうことだけが生き甲斐の怠惰な日本の文学研究者とは根性からして違うという印象を持つ。一方で、クローゼットたちは何をしているかといえば、悲しいかな、いまも鬱々と性的妄想の中でジャック・オフを続けるばかりだ。日本の文学研究者の中にも多くホモセクシュアルはいるが、彼らは一部の若い世代のゲイの学者を除いてむしろ自らの著作からいっさいの〝ホモっぽさ〟を排除する努力を重ねている。

 ここで気づかねばならないのは、「ホモのいやらしさ」は「ホモ」だから「いやらしい」のではないということだ。一般に「ホモのいやらしさ」と言われているものの正体は「隠れてコソコソ妄想すること」の「いやらしさ」なのであって、それは「ホモ」であろうがなかろうが関係ない。性的犯罪者はだいたいがきまってこの「クローゼット」である。犯罪として性的ないやらしいことをするのは二丁目で働くおネエさんやおニイさんたちではなく、隠れてコソコソ妄想し続ける小学校の先生だったりエリート・サラリーマンだったり大蔵省の官僚だったりする連中のほうなのだ。かつてバブル最盛期の西新宿に、入会金五十万円の男性売春クラブが存在した。所属する売春夫の少年たちは多くモデル・エイジェンシーやタレント・プロダクションの男の子たちで、〝会員〟たちの秘密を口外しないという約束のカタに全裸の正面写真を撮られた。これが〝商品見本〟として使われているのは明らかだった。ポケベルで呼び出されて〝出張〟するのは西新宿のある一流ホテルと決まっていて、一回十万円という支払いの〝決済〟はそのクラブのダミーであるレストランの名前で行われた。クレジット・カードも受け付けた。請求書や領収書もそのレストラン名で送られた。送り先は個人である場合が多かった。が、中に一流商社の総務部が部として会員になっている場合もあったのである。〝接待〟用に。

 これがすべて性をクローゼットに押し込める日本のありようだ。話さないこと、言挙げしないこと、考えないこと、それらが束になって表向き「心地よい」社会を形作っている。ゲイたちばかりかストレートたちまでもがクローゼットで、だからおじさんたちが会社の女の子に声をかけるときにはいつも、寝室の会話をそのまま持ち込んだような、いったん下目遣いになってから上目遣いに変えて話を始めるような、クローゼット特有の、どうしてもセクシュアル・ハラスメントめいた卑しい言葉遣いになってしまう。あるいは逆転して、いっさいの性的な話題をベッド・トークに勘違いして眉間にしわを寄せ硬直するような。性的な言挙げをしないのが儒教の影響だと宣う輩もいるが、わたしにはそれは儒教とかなんだとかいうより、単なる怠慢だとしか思われない。あるいは怠慢へと流れがちな人類の文化傾向。むしろ思考もまた、安きに流れるという経済性の法則が言語の習慣と相まって力を増していると考えたほうがよいと思っている。


 そのような言語環境の中で、すなわち社会全体がクローゼットだという環境の中で、リベレイションという最も言葉を必要とする運動を行うことの撞着。日本のゲイたちのことを考えるときには、まずはそんな彼/彼女たちのあらかじめの疲弊と諦観とを前提にしなければならないのも事実なのだ。このあらかじめの諦めの強制こそが、「隠れホモ」と蔑称される彼らが、その蔑称に値するだけの卑しい存在であり続けさせられている理由である。

 「日本には日本のゲイ・リベレイションの形があるはずだ」という夢想は、はたして可能なのだろうか? 「日本」という「物言わぬこと」を旨とする概念と「リベレイション」という概念とが一つになった命題とは、名辞矛盾ではないのか?

 ジンバブエ大統領であるロバート・ムガベがことし七月、「国際本の祭典」の開催に当たってゲイ団体のブースを禁止し、自分の国ではホモセクシュアルたちの法的権利などないと演説した際、これを取り上げたマスメディアは日本では毎日新聞の外信面だけだった。毎日新聞はいまでもホモセクシュアルを「ホモ」という蔑称で表記することがあり、同性愛者の人権についてのなんらの統一した社内基準を有していない。あそこの体質というか、いつも記者任せで原稿が紙面化される。逆にこのジンバブエの特派員電のように(小さな記事だったが)、記者が重要だと判断して送稿すれば簡単に紙面化するという〝美質〟も生まれる。ところでそのジンバブエだが、ニューヨーク・タイムズが九月十日付けで特派員ドナルド・G・マクニールの長文のレポートを掲載している。首都ハラレでダイアナ・ロスのそっくりさんとして知られるショウ・パフォーマーのドラッグ・クィーンを紹介しながら、「イヌやブタよりも劣るソドミストと変態」と大統領に呼ばれた彼らの生活の変化を報告しているのだが、ハラレにゲイ人権団体が設立されていて女装ショウがエイズ患者/感染者への寄付集めに開催されていること、ムガベが「英国植民地時代に輸入された白人の悪徳」とするホモセクシュアリティにそれ以前から「ンゴチャニ」という母国語の単語があること、などを克明に記してとても好意的な扱いになっている。

 ニューヨーク・タイムズがほとんど毎日のようにゲイ・レズビアン関連の記事を掲載するようになったのは九二年一月、三十代の社主A・O・ザルツバーガー・ジュニアが発行人になってからのことだ。それ以前にも八六年にマックス・フランクルが編集局長になってから「ゲイ」という単語を正式に同新聞用語に採用するなどの改善が行われていたが、同時にゲイであることをオープンにしていた人望厚い編集者ジェフリー・シュマルツがエイズでもカミング・アウトしたことが社内世論を形成したと言ってもよい。

 アメリカが「物言うこと」を旨とする国だと言いたいのではない。いや逆に、「物言うこと」を旨としているアメリカの言論機関ですら、ホモセクシュアリティについて語りだしたのがつい最近なのだということに留意したいのである。ホモセクシュアリティはここアメリカでも長く内輪の冷やかしの話題であり、自分たちとは別の〝人種〟の淫らな「アレ」だった。日本と違うのはそれが内輪の会話を飛び越えて社会的にも口にされるときに、そのまま位相を移すのではなくて宗教と宗教的正義の次元にズレることだ。つまり〝大義名分〟なしにはやはりこのおしゃべりな国の人々もホモセクシュアリティについては話せなかったのである。

 わたしの言いたいのは、日本語にある含意とか省略とか沈黙といった〝美質〟を壊してしまえということではない。そのクローゼットの言語次元はまた、壊せるものでもぜったいにない。ならば新たに別の次元を、つまりは仲間うちではなく他者を視野に入れた言語環境を、クローゼットから出たおおやけの言語を多く発語してゆく以外にないのではないかということなのだ。そしてそれを行うに、性のこと以上に「卑しさ」と(つまりはクローゼットの言語と)「潔さ」との(つまりはアウトの言語との)歴然たる次元の差異を明かし得る(つまりは本論冒頭の三つの話者のような連中が、書いて発表したことを即座に羞恥してしまうような)恰好の話題はないと思うのである。ちょうど「セクハラ」が恥ずかしいことなのだと何度も言われ続けどんどん外堀を埋められて、おじさんたちが嫌々ながらもそれを認めざるを得なくなってきているように。そうすればどうなるか。典型例は今春、ゲイ市場への販売拡大を目指してニューヨークで開かれた「全米ゲイ&レズビアン企業・消費者エキスポ」で、出展した二百二十五社の半数がIBMやアメリカン航空、アメリカン・エクスプレス、メリル・リンチ、チェイス・マンハッタン銀行、ブリタニカ百科事典などの大手を含む一般企業だったことだ。不動産会社も保険会社もあった。西新宿の秘密クラブではなく、コソコソしないゲイを経済がまず認めざるを得なくなる。

 インターネットにはアメリカを中心にレズビアン・ゲイ関連のホーム・ページが数千も存在している。エッチなものはほんの一握り、いや一摘みにも満たないが、妄想肥大症のクローゼットの中からはムガベの妄想するように「変態」しかいないと誤解されている。ここにあるのはゲイの人権団体やエイズのサポート・グループ、大学のゲイ・コミュニティ、文学団体、悩み相談から出版社、ゲイのショッピング・モールまで様々だ。日本で初めてできたゲイ・ネットにも接続できる。「MICHAEL」という在日米国人の始めたこのネットには二千五百人のアクティヴ・メンバーがいて、日本の既存のゲイ雑誌とは違う、よりフレンドリーなメディアを求める会員たちが(実生活でカミング・アウトしているかは別にしても)新たなコミュニケイションを模索している。「dzunj」というネット名を持つ男性はわたしの問い掛けにeメイルで応えてくれた。彼は「実は僕がネットにアクセスする気になったのも、もっと積極的にいろいろなことを議論してみたいという理由からだった」が、「ネット上の会話」では「真面目な会話は敬遠されるようです。ゲイネットこそ絶好の場であるはずなのに……」とここでも思考を誘わないわたしたち日本人の会話傾向を嘆いている。しかし彼のような若くて真摯な同性愛者たちの言葉が時間をかけて紡ぎ出されつつあることはいまやだれにも否定できない。「Caffein」というIDの青年は日系のアメリカ人だろうか、北海道から九州までの日本人スタッフとともに二百九十ページという大部の、おそらく日本では初めての本格的なゲイ情報誌を月刊で刊行しようとしている。米誌『アドヴォケート』の記者が毎月コラムを書き、レックス・オークナーという有名なゲイ・ジャーナリストが国際ニュースを担当するという。



 「ホモフォビア」という言葉がある。「同性愛恐怖症」という名の神経症のことだ。高所恐怖症、閉所恐怖症、広場恐怖症と同じ構造の言葉。同性愛者を見ると胸糞が悪くなるほどの嫌悪を覚えるという。長く昔から同性愛者は治療の対象として病的な存在とされてきた。しかしいまこの言葉が示すものは、高所恐怖症の改善の対象が「高い場所」ではないように、広場恐怖症の解決方法が「広場」の壊滅ではないように、同性愛恐怖症の治療の対象が「同性愛者」ではなく、彼/彼女らを憎悪する人間たちのほうだということなのである。その意味で、日本の同性愛者たちをいわれのない軽蔑や嫌悪から解放することは、とりもなおさず薄暗く陰湿な日本のストレートたちを、まっとうな、正常で健全な状態にアウトしてやることなのだ。そうでなければ、日本はどんどん恥ずかしい国になってしまうと、里心がついたかべつに愛国者ではないはずなのに思ってしまっている。         (了)

June 23, 2010

ハッピー・プライド!

NHK教育で「ハーバード白熱教室」という番組を12週にわたって放送していて、これがすこぶる面白いものでした。政治哲学教授のマイケル・サンデルが「正義」と「自由」を巡って大教室で学生たちに講義をするですが、このサンデルさん、学生たちが相手だからか論理が時々ぶっ飛んで突っ込みどころも満載。ところが話し上手というか、ソクラテスばりの対話形式の講義でNHKの「白熱」という命名はなかなか当を得たものです。学生たちもじつに積極的に議論していて、その議論の巧拙やコミュニタリアンのサンデルさんの我田引水ぶりはさておき、なるほどこうして鍛えられて社会に出ていくのだから、外交交渉からビジネスの契約交渉まで、種々の討論で多くの日本人が太刀打ちできないのも宜なるかなと、やや悲しくもなりました。

で、6月20日に放送されたその最終回の講義テーマが「同性結婚」でした。実は6月は米国では「プライド・マンス Pride Month」といって同性愛者など性的少数者たちの人権月間。もちろんこれは有名なストーンウォール暴動を記念しての設定で、オバマ大統領もそれに見合った声明を発表するので、NHKはそれを知って6月にこの最終回を持ってきた……わけではないでしょうね。

同性婚が政治的に大きな議論となっているのは米国に住む日本人なら誰しも知っています。ところがほとんどの在留邦人がこの件に関しては関心がない、というか徹底的に我関せずの態度を貫いています。ほかの政治的話題ならば仲間内で話しもするのに、この問題に関してはほとんど口にされることがありません。その徹底ぶりは「頑なに拒んでいる」とさえ映るほどです。

ところが日本からやってくる学生さんたちがまずは通うニューヨークの語学学校では(というのは米国に住むにはVISAが必要で、まずはこの語学学校から学生ビザをスポンサーしてもらうのが常套だからです)、ここ15年ほどの傾向でしょうか、「ハーバード白熱教室」ではないですが、だいたいどのクラスでもこの同性婚や同性愛者の人権問題が英語のディベートや作文にかこつけて必ずと言っていいほど取り上げられるのです。

日本人学生はほとんどの場合ビックリします。だって、同性愛なんて日本ではそう議論しないしましてや授業で扱うなんてこともない。お笑いのネタではあっても人権問題という意識がないからです。しかし語学学校の先生たちは、まあ、若いということもあるでしょうが、これぞニューヨークの洗礼とばかりに正義と社会の問題として同性愛を取り上げるのです。ええ、この問題は正義と公正さを考えるのに格好のテーマなのですから。

私もNY特派員時代の90年代半ば、この同性愛者問題を、黒人解放、女性解放に続く現代社会の最も重要な課題の1つだとして記事を書き続けました。もちろん当時はエイズの問題も盛り上がっていましたから、その話題とともになるべく社会的なスティグマを拭い去れるようにと書いてきたつもりです。ところが日本側の受けはあんまりよろしくなかった。で、気づいたのです。日本と欧米ではこの問題への向き合い方が違っていました。日本人は同性愛を、セックスの問題だと思っているのです。そして、セックスの話なんて公の場所で話したくない。

これは以前書いた「敢えてイルカ殺しの汚名を着て」で触れた、あの映画の不快の原因は「すべての動物の屠殺現場はすべて凄惨です。はっきり言えば私たちはそんなものは見たくない」ということだ、という論理にも似ています。イルカだろうがブタだろうが牛だろうが鶏だろうが、同じような手法で映画で取り上げれば、どこでもだれでもおそらくは「なんてことを!」という反応が返ってくるはずだということです。

セックスの話も同じ。同性愛者のセックスはしばしば公の場で取り上げられます。おそらく好奇心とか話のネタとかのためでしょうが、それで「気持ち悪い」とか「いやー」とかいう反応になる。しかしこれは異性愛者のセックスにしても、そういうふうに同じ公の土俵で取り上げられれば「要らない情報」だとか「べつに聴きたくないよ」だとかいった、似たような拒絶反応が返ってくるのではないか、ということ。

じつはこの米国でも、宗教右派からの同性愛攻撃は「同性愛者はセックスのことばかり考えている不道徳なヤツら」という概念が根底にあります。欧米でだって、セックスという個人的な話題はもちろん公の議論にはなりません。でも同性愛の場合だけセックスが槍玉にあがり、そしてそんな話はしたくない、となる。

ところがいまひろくこの同性愛のことが欧米で公の議論になっているのは、逆に言えばつまりこれが「セックスという個人的な話題」ではないからだということなのではないか。そういうところに辿り着いているからこそ話が挙がっているということなのではないだろうか?

しかしねえ……、と異論を挟みたい人もいることでしょう。私もこの件に関してはもう20年も口をスッぱくして言い続けているのですが、宗教とか、歴史とか、医学とか精神分析とか、もうありとあらゆる複雑な問題が絡んできてなかなか単純明快に提示できません。しかし、前段までで説明してきたことはとどのつまり「ならば、同性愛者と対と考えられる「異性愛者」は性的存在ではないのか?」という問いかけなのです。

この問いの答えは、もちろん性的ではあるけれどそれだけではない、というものでしょう。これに異論はありますまい。そしていま、同性愛者たちが「性的倒錯者」でも「異常者」でも「精神疾患者」でもないと結論づけられている現実があり(世間的には必ずしも周知徹底されていないですけど、それもまた「性的なことだから表立って話をしない」ということが障壁になっているわけで)、この現実に則って(反論したい人もいるでしょうが、ここではすでにその次元を通過している「現実の状況」に合わせて)論を進めると、同性愛者も異性愛者と同じく生活者であるという視点が必然的に生まれてくるのです。同性愛者もまた、性的なだけの存在ではない、ということに気づくのです。

そういうところから議論が始まってきた。いま欧米で起きていること、同性カップルの法的認知やそれを推し進めた同性婚の問題、さらに米国での従軍の可否を巡る問題など各種の論争は、まさに「同性愛者は性的なだけの存在」という固定観念が解きほぐされたことから始まり、そこから発展してきた結果だと言えるのです。

毎年6月の最終日曜日は、今年は27日ですが、ニューヨーク他世界各国の大都市でゲイプライドマーチというイベントが行われます。ここニューヨークでは五番街とビレッジを数十万人が埋めるパレードが通ります。固定観念を逆手に取ってわざと「性的」に挑発する派手派手しい行進者に目を奪われがちですが、その陰には警察や消防、法曹関係や教育・医療従事者もいます。学生やゲイの親たちや高齢な同性カップルもいます。

かく言う私も、じつはそういう生活者たちとしての同性愛者を目の当たりにしたのはじつはこのニューヨークに住み始めてからのことでした。90年当時、日本ではそういう人たちは当時、ほとんど不可視でした。二丁目で見かけるゲイたちは敢えて生活者ではなかったですしね。いまはずいぶんと変わってきましたが、それでもメディアで登場するゲイたちは決まり事のようになにかと性的なニュアンスを纏わされているようです。まあ、当のゲイたちもそれに乗じてより多く取り上げられたいと思っているフシがありますが、それは芸能界なら誰しも同じこと。責められることじゃありません。

とにかく、生活者としての性的少数者を知ること。同性愛者を(直接的にも間接的にも)忌避する人たちは、じつのところホンモノの同性愛者を具体的に、身近に知らないのです。そしてそのような視点を持たない限り、私たちはハーバード白熱教室にも入れないし、先進諸国の政治的議論にも置き去りのままなのだと思います。

June 16, 2010

ヘレン・トーマス

ユダヤ系アメリカ人の伝統継承月間だった5月末、ユダヤ系オンラインサイトの記者に「イスラエルに関してコメントを」と請われ、勢いで「とっととパレスチナから出て行け(get the hell out of Palestine)」と答えてしまったヘレン・トーマスさんが記者引退に追い込まれました。私もワシントン出張の際に何度か会ったことのある今年で御年90歳の名物ホワイトハウス記者でした。

米メディアでは、彼女が続けて「ポーランドやドイツに帰ればいい」と答えた部分がナチスのホロコーストを連想させて問題だった、なんて具合に分析していましたが、はたしてそうなんでしょうか。

米国ではイスラエル批判がほとんどタブーになっています。タブーになっていることさえ明言をはばかれるほどに。

今回も、賛否両論並列が原則のはずの米メディアがいっせいにヘレンさん非難一色に染まりました。しかしだれもイスラエル批判のタブーそのものには言及しない。ヘレンさんはレバノン移民の両親を持つ、つまりアラブの血を引くアメリカ人です。だからパレスチナ寄りなんだと言う人もいますが、ことはそんなに単純ではないでしょう。

たとえばヘレンさんのこの発言後の5月31日に、封鎖されているパレスチナ人居住区ガザへの救援物資運搬船団が公海上でイスラエル軍に急襲され、乗船の支援活動家9人が射殺されるという大事件が起きました。ところがこんなあからさまな非道にさえも、米メディアはおざなりな報道しかしなかったし、オバマ大統領までもがこの期に及んでまだイスラエル非難を控えています。それに比してこのヘレン・バッシングはなんたる大合唱なのでしょう。アメリカでもこんなメディアスクラムが無批判に起こるのは、ことがイスラエル問題だからに違いありません。

じつは06年にアメリカで出版され、大変な論争を巻き起こした(つまり多く批判が渦巻いた)ジミー・カーターの「パレスチナ」という著作を、「カーター、パレスチナを語る|アパルトヘイトではなく平和を」(晶文社刊)というタイトルで2年前に日本で翻訳・出版しました。批判の原因は、アメリカの元大統領ともあろうメインストリームの人がこの本で堂々とイスラエル批判を展開したからです。

でもこの本の内容は、イスラエルが国際法を無視してパレスチナ占領地で重大な人権侵害を続けていることの告発と同時に、いまや10年近くも進展のない和平交渉を再開・進展させるための具体的な提言なのです。前者の事例も拡大を続けるイスラエル入植地、入植者専用道路によるパレスチナ人の土地の分断、無数の検問所によるパレスチナ人の移動の制限、分離壁の建設による土地の没収など、すべてカーター自身がその目で見てきた、そして米国外では広く認められている事実ばかりなのです。

なのに米国内ではほとんど反射的にこの本へのバッシングが起きた。とくにイスラエル人入植地や分離壁の建設政策を悪名高いあの南アの「アパルトヘイト」と同じ名で呼んだことが親イスラエル派を刺激したのでしょう。私も当時、ユダヤ系の友人にこの本を翻訳していることを教えたところ、露骨に「なんでまた?」という顔をされたのを憶えています。

ヘレンさんが生きてきた時代はジャーナリズムでさえもが男性社会でした。女人禁制だったナショナル・プレス・クラブでの当時のソ連フルシチョフ首相の会見を、彼女ら数人の女性記者が開放させたのは1959年のことです。

そんな強気の自由人が米国に隠然と存在するイスラエルに関する言論規制には勝てなかった。公の場でのイスラエル批判がキャリアを棒に振るに至る“暴挙”なのだとすれば、彼女の引退の理由は彼女の「失言」ではなく、「発言」そのものが原因だったのでしょう。

June 02, 2010

鳩山政権を倒したもの

前回のエントリーと重複しますが、鳩山辞意表明を受けてNYの日本語新聞に依頼されて以下の文章を取りまとめました。ご参考まで。

***

原稿も見ずに正直な思いを語って、鳩山さんの辞意表明演説は皮肉なことにこれまででいちばん心に響くものでした。これをナマで視聴していたかどうかで今回の政局の印象はかなり変わると思います。この演説の本質は、これまでのマイナス面のすべてを逆転させて起死回生を図ったということでしょう。

そもそも辺野古問題の5月末決着宣言が自縄自縛の根因なのですが、社民党の連立離脱と総理辞任の「一石二鳥」のその石となった日米共同声明を外務省のサイトで読んでみると、実に象徴的なことが見えてきます。

日英両語で掲載されているこの共同声明、見ると日本語には「仮訳」とあるのです。つまり米国との共同声明ってのは英語がベースなんですね。日本語の声明文はそれを翻訳したもの。なるほど沖縄のことなのに日本語じゃないってのは、まあ米側は日本語、わからんからね……などと納得してはいけません。日本と外交交渉をする米側の役人はふつう日本語もペラペラです。しかし交渉では日本語は絶対に話さない。ぜんぶ英語。

そういうところからしてもイニシアチヴは端から米国にあった。日米関係というのはそういうものなのです。NYタイムズは「とどのつまり辺野古移設を謳った06年合意を尊重しろというワシントンの主張が勝利したのだ(won out)」と書きましたが、物事はそうなるように、そうなるようにと出来ていたのです。

そこを転換するに「5月末」は性急に過ぎた。しかも日本のメディアは各番組コメンテイターも含めて「米軍のプレゼンスが日本を守る抑止力である」という大前提の検証をすっ飛ばし、すべてを方法論に矮小化しました。また「米軍のプレゼンス」はいつのまにか「米海兵隊のプレゼンス」にすり替わり、まるで海兵隊が日本を守ってくれるという幻想を植え付けて、県外・国外移設を頭から幼稚なものと決めつけたのでした。

海兵隊はいまや第一波攻撃隊ではなく、戦闘初期では自国民=アメリカ人の救出隊なのです。それは抑止力ではない。第一波攻撃は圧倒的な空爆およびドローン無人攻撃機のより精緻な掃討だというのは湾岸戦争からアフガン、イラクへの侵攻を見ていれば明らかです。ではいったい、抑止力とは何なのでしょう? 海兵隊が沖縄に残らねばならぬ理由は何だったのでしょう?

社民党の辻元清美前国交副大臣によれば、あの首相の「腹案」というのはグアム移設案だったそうです。ですが今回も、外務省、防衛省の官僚たちが米国の意向を口実にしてつぶした。自民党時代も、米側はグアム全面移転を進めようとしたがそれに待ったを掛けたのはじつは日本側だと言われています。なぜか?

それは論理的に日本の「自主防衛」につながるからです。それは日米関係の構造の大転換につながります。そしてその場合、沖縄の「核」の抑止力も消えることになるからです。それが幻想であるか否に関係なく。

こうした変化を望まない勢力というのが日米双方に存在します。そうして図ってか図らないでか、自覚してか無自覚なのか、日本の新聞・テレビがそれを側面支援した。検察という“正義の味方”までがそこに巧妙に混じり込んでいたことにも無頓着に。

事業仕分けもそうでしたが、鳩山短期政権の功績は様々な問題を私たちの目の前にさらけ出してくれたことです。困ったことはそれらのすべてが予想を超える難題で、次の内閣でも別の政党でも、にわかには解決できないことがわかってしまったことなのです。参院選とか政局とか、事はそんなちっちゃな問題ではないようです。

May 29, 2010

普天間日米共同声明

日本での動きのあまりの速さに、この隔数日刊ではとても対処できないんですけど、でもここは書き留めておかねばならないでしょう。

外務省のサイトで日米共同声明の日本語の仮訳と英語版を見比べてみます。と書きながら、これ、不思議じゃありませんか? 日本語は「仮訳」なんです。つまり、これはまず英語で書かれていて、それをもとに日本語に訳しているんですね。ふうん、アメリカとの外交文書、共同声明ってのは、英語ベースなんだ。沖縄のことを書いているのに、日本語じゃない。なんとなく腑に落ちませんが、アメリカ側は日本語、わからんからね、……などと思ってはいけません。日本と外交交渉をするアメリカ側の役人はふつう日本語ぺらぺらです。でもってしかし、交渉では日本語は話さない。日本側に英語を話させたり、あるいは通訳を使って交渉します。でも英語ベースであるというそういうところからしてもう交渉のイニシアチヴは握られています。これはとても象徴的なことです。

その仮訳で、6段落めにこうあります。

両政府は,オーバーランを含み,護岸を除いて1800mの長さの滑走路を持つ代替の施設をキャンプ・シュワブ辺野古崎地区及びこれに隣接する水域に設置する意図を確認した。

英語ではこうです。

Both sides confirmed the intention to locate the replacement facility at the Camp Schwab Henoko-saki area and adjacent waters, with the runway portion(s) of the facility to be 1,800 meters long, inclusive of overruns, exclusive of seawalls.

日本語では「1800mの長さの滑走路」とある部分が英語では「the runway portion(s) of the facility to be 1,800 meters long」と、runway portion(滑走路部分)(s)となっています。つまり、複数形にもなり得ると書き置いているわけです。これはつまり、2006年の「現行案」と同じV字型滑走路に含みを持たせる表現でしょう。いったん土俵を割るとどこまでもずるずると下がってしまう、日本外交の粘りのなさがここにも現れてしまうのでしょうか。

そうやって英語で話が進められたとはいえ、しかし米国ではこの問題は大きな事案として報じられてはいません。これが「原案」回帰という辺野古移設じゃなければ大きなニュースになっていたんでしょうが、いまはアメリカでは例のメキシコ湾の原油流出と同性愛者の従軍解禁がトップニュースで、すべてそっちに目がいっています。おまけに軍の展開に関してはとても複雑で専門的な話が絡んで来るので、日本でもそうでしょうが一般のアメリカ人が関心があるかというと普通はそうじゃないでしょう。そして事はなにごともなかったかのように進んでゆく。NYタイムズのマーティン・ファックラーが23日の沖縄の抗議集会を伝えた記事で、「とどのつまり、辺野古移設をうたった2006年合意を尊重しろというワシントンの主張が勝利したのだ(won out)」と書いてるんですけど、そういうことだったのです。

昨年の時点から言っていますが、アメリカはいま(というか前から)沖縄のことで煩っているヒマはない。というか、すべてのシステムというのは、とにかくこれまでのとおりに事が進むことを至上の目標としています。これまでどおりなんだから過ちや危険や破綻は起きないはずなのです。それが保守主義。その中で、しかし世界情勢はそうは上手くは問屋がおろさない。韓国もフィリピンもあんなに従順だった時代を経ていつしかアメリカに反旗みたいなのを翻すようになって基地が要らないなんて言い出して、けっきょくは縮小されてしまった。その度に東アジア極東の軍事再編です。面倒臭いことこの上ない。そして唯一日本だけがそういう懸念から自由な安全パイだったわけです。

ところがその日本が変なことを言い出した、のが昨年の政権交代でした。しかしアメリカとしては実にまずい時期に言ってくれた。なにせこちらも政権交代の発足間もないオバマ政権が、アフガン、イラクの戦争でにっちもさっちもいかなくなっている。おまけに日本がやってくれていたインド洋の給油だってやめるとか言うわけです。これは困ったことです。

しかし、一方でオバマ政権もまた当時は、政権交代という同じダイナミズムを経験した日本の民主党政権と、新たな安全保障を築き上げる構えはあったのだと思います。当時、日本の保守メディアでさんざん紹介された旧政権、米共和党と日本の自民党の間で禄を食んでいたジャパン・ハンドラーの人たちとは違い、ジョセフ・ナイを始めとする米民主党の知日派たちは日本の民主党の、これまでの対米従属とは異なる自主防衛の芽を模索するかのような動きに注目していたのでした。そこから10年後20年後の新たな極東安全保障体制が出来上がるかもしれない期待を込めて。なにせ、長い沈滞の政治を経て、日本国民の70%もが支持した政権が発足したのです。この民意をアメリカ政府は恐れた。それこそがかつて韓国、フィリピンから米軍を追い出したものだったからです。

ところが、日本は思いもかけなかった動きを見せました。ここの国民たちは、沖縄の基地移転問題で、そもそもの原因であるアメリカを責めるのではなく、時の政権の不明瞭な態度を責め立てたのでした。

28日付けのNYタイムズは、A-7面という地味な位置取りの東京電で、「これで長引いた外交的論争は解決したが、鳩山首相にとっては新たな国内問題の表出となる」と書き始め、いみじくも次のようなフレーズで記事を〆ました。

Despite the contention over the base, most anger has been directed at Mr. Hatoyama’s flip-flopping on the issue, not the United States. Opinion polls suggest most Japanese back their nation’s security alliance with the United States.
(米軍基地をめぐる論議にも関わらず、怒りの向きはほとんどが米国ではなく、言を左右した鳩山首相へと向かっていた。世論調査ではほとんどの日本人が米国との安全保障同盟を支持している)

これはアメリカにとって僥倖というか、おそらくなんでなのかよくわからない日本人のねじれです。しかしこの間の日本メディアの報じ方を知っているわれわれにはそう驚くことでもありません。なぜなら、メディアのほとんどは、ワイドショーのコメンテイターも含めて、「米軍のプレゼンスが日本を守る抑止力である」ということを大前提にして論を進めていたからです。その部分への疑義は、最後の最後になるまでほとんど触れられさえしませんでした。

しかも精査してみれば、「米軍のプレゼンス」はいつのまにか「米海兵隊のプレゼンス」になり、まるで海兵隊が日本を守ってくれるような論調にもなった。そしてそのウソに、ほとんどのTVコメンテイターや社員ジャーナリストたちは気づかないか、気づかないフリをしたのです。

12000人のその海兵隊の8000人がグアムに移転するとき、海兵隊は分散配置できない、というウソが露呈しました。残るは4000〜5000人、という海兵隊のプレゼンスの減少は問題とされませんでした。しかも、海兵隊は第一波攻撃隊というかつての戦争のやり方がもはや通用しないにもかかわらず、いまもそれこそが抑止力なのだと信じる人たちが自明のことのように論を進めたのです。

イラクでもアフガンでも、攻撃の第一陣は圧倒的な空爆です。そこでぐうの音も出ないほどに敵を叩き、さらにはドローン無人攻撃機でより緻密に掃討する。そこからしか地上軍は進攻しない。それはもうあの湾岸戦争以来何度も見てきたことではなかったか。

では海兵隊はなにをするのか? 海兵隊は進攻しません。海兵隊は前線のこちら側で、もっぱら第一にアメリカ人の救出に当たるのです。アメリカ人を助け上げた後は場所にもよりますがまず英国人やカナダ人です。次に欧州の同盟国人です。日本人はその次あたりでしょうか。

この救出劇のために海兵隊は「現場」の近くにいなくてはならないのです。
で、これは抑止力ですか? 違います。日本を守る戦力ですか? それも違うでしょう。

いったい、鳩山さんが勉強してわかったという「抑止力」とは、どう海兵隊と関係しているのか? それがわからないのです。昨日の記者会見でその点を質す記者がいるかと思ったがいませんでした。

これに対する、ゆいいつ私の深くうなづいた回答というか推論は、うんざりするほど頭の良い内田樹先生のブログ5月28日付《「それ」の抑止力》にありますが、それはまた別に論じなくてはならないでしょうね。もし「それ」が本当ならば、すべての論拠はフィクションであり、フィクションであるべきだということになってしまうのですから。

それはさて置き、というふうにしか進めないのですが、もう1つ、この問題でのメディアの対応のある傾向に気づきました。じつは昨日、日本時間の夜の11時くらいから某ラジオに電話出演し、日米共同声明のアメリカでの報じられ方に関して話をしました。そのときにそこにその局の政治部記者も加わって、少ししゃべったんですね。その記者さんの話し方を聞いていて、ああ、懐かしい感じ、と思った。聞きながら、なんだかこういうの、むかし、聞いたことがあるな、と頭の隅のほうで思っていたのです。

彼は盛んに政権の不手際を指摘するのですが、なんというのでしょう、その、いちいちもっともなその口調、その領域内ではまったくもって反論できない話し方、それ、そういえばずいぶんとむかし、国会の記者クラブで他社や自社の記者仲間を相手に、いちばん反論の来ない論理の筋道を、どうにかなぞって得意な顔をしていた、かつての自分のしゃべり方になんだか似てる、と気づいたんです。

記者クラブでつるんでいるとなんとなくその場の雰囲気というか、記者同士の最大公約数みたいな話の筋道が見えてくる。それでまあ、各社とも政治部とか、自民党担当の主みたいな記者がいて、下手なこと言ったり青臭いこと言ったりしたらバカにされるんですよ。それでみんな、バカにされないようにいっちょまえの口を利こうとする。そうするときにいちばん手っ取り早く有効な話は、「あいつはバカだよ」ということになるのです。自分がバカだと言われないように、先にバカだというヤツを用意しちゃう。褒めたりはしない。なんか、自分がいちばん通な、オトナな、あるいは擦れ切った、という立ち位置に立つわけですね。そうしているうちに、それこそが最強のコメントだと思い込むようになる。そしてその記者クラブ的最大公約数以外の論の道筋が見えなくなってくるんです。というか、相手にしなくなってくる。

一昨日にテレ朝の「やじうま」とかいう番組に江川紹子さんが出ていたときもその感じでした。スタジオが鳩山の普天間迷走を責める論調になったときに、彼女が1人で「そうは言っても自分の国の首相が何かをしようとしているときに後ろから鉄砲を撃つようなことをしていたメディアの責任も問われるべき」みたいなことを言ったんですね。そうしたら、隣のテレ朝政治部の三反園某と経済評論家の伊藤某が、まるで彼女が何を言ってるのかわからないといった呆れ顔で(ほんとうにそんな顔をしたんです。信じられない!って感じの)いっせいに反論をわめきました。そのときもきっとそうだったです。彼らの反応を見る限り、彼らにはほんとうに、彼女が指摘したような「足を引っぱっていた」という意識はなかった。それは思いも寄らなかった批判だったのだと思います。そういう意見があるということすら、彼らは知らないのかもしれない。

したがって、日本のテレビに登場してくる各社の記者たちのコメントが多く一様にそういう利いた風な感じなのは、きっと記者クラブのせいなんだと、不覚にもいま思い至りました。これもピアプレッシャーというか、プレッシャーとすら感じられなくなった、システムとしては理想的な保守装置です。

うー、何を書いてるのかわからなくなってきたぞ。あはは。

あ、そうそう、で、ラジオで話していて、そのときもはたしてここは論争の場にしていいのか、それともどこか予定調和的にうなづいて終わるようにすべきか、私も日本人ですね、ちょいと逡巡しているあいだに10分間が過ぎて話は終わったのですが。

結論を言えば、鳩山政権のこの問題への取り組みは誠に不首尾だったと言わざるを得ません。
しかし、不首尾は政権だけではないし、民主党だけでもない。
自民党だって不首尾であり続けてきたし、言論機関だってそうだった。

そして、沖縄問題はたしかにいままさにこの不首尾から始まったのです。

May 18, 2010

相互依存便宜供与的身内社会の官房機密費(長い!)

例の、政治評論家やジャーナリストたちに渡った官房機密費(官邸報償費)問題ですが、大手メディアの中で週刊ポストと東京新聞の特報部がこれを報じ始めました。が、その他の大手新聞やTVはやはり反応が鈍いようです。とはいえ、NYにいるんで東京新聞もポストもまだ読めてません(汗)。特報部のサイト、ウェブから見ようとしたんですがあれは携帯からしか見られないのでしょうか? 月100円ちょっとと安いからいいなと思ってるんですけど。

そもそも、東京新聞というのは中日新聞社の東京本社の出している新聞なのですが、中日新聞とは別の紙面作りをしています。中日は名古屋で7割とかの圧倒的なシェアを持つ新聞ですが、その紙面は実におとなしく堅実で東京的にはあまり面白くない。それで東京新聞は名古屋の中日と関係なく紙面作りをするわけ。しかもかなり他社から引き抜いた記者も多く、中日プロパーのラインの記者もわりと独自色を出そうと気骨のある記事を書きます。とくに特報部はそれが存在理由なんで、けっこうさいきんも頑張って他紙の書かないことをやっているようです。

さてこの機密費問題の追及をほぼ孤軍奮闘で続けようとしているのは20代のときに鳩山邦夫の公設第一秘書だった上杉隆さんという人で、つぎにNYタイムズの東京取材記者となり、さらにフリーランスになって、さいきんはテレビの露出も多いようですね。鳩山邦夫との関連がきっかけだったのかしら。私も4月だったか、東京にいたときにTOKYOFMに出演依頼されてスタジオまで出かけたんですが、それもじつはオーガスタ取材で不在だった上杉氏のコーナーの代役出演でした(笑)。

閑話休題。で、彼はNYタイムズにいたせいもあってか日本の既存メディアや記者クラブのあり方を批判しているんですね。彼の立場は明確です。官房機密費は政府として必要だが、それをマスメディア関係者や評論家たちに渡すのはジャーナリズムと民主制度の根底を揺るがす大問題だ、というものです。

その上杉さんが先日、大阪読売テレビの「たかじんのそこまで言って委員会」という番組で機密費受領疑惑の毎日新聞出身御用政治評論家である三宅久之と対峙しました。YouTubeに出てたのをすかさず見つけて見たんですけど、いまそれは削除されてます。ほかの「委員会」の映像はそのまま放置されてるんですが、その回のは読売テレビからの要請で削除、ってなってますわ。どうしてでしょうかね? まあ、いずれにしても記憶を辿ると、そこで三宅さんは、自民党政治家が出席できなくなった講演会に代理で講演してくれと頼まれ、その講演料はもらったことがあると明かしてました。だれだったかなあ、藤波官房長官だったか? でも、機密費なんか「もらってない」と、言ったような……。ポケットマネーだった、とか(でもそんなのわからんわね)。それから領収書は書いてないみたいですね。

なるほど、「盆暮れに500万」という現金ならば機密費もあからさまですが、それが講演や政治勉強会名目で招聘され、一般相場より割のいい講演料やお車代をもらうとしたら政治評論家もジャーナリストもじつに「もらいやすい」だろうな、と思い至りました。

三宅某は自分の供与された金銭を不労所得の現金ではなく労働実体のある講演料だ、と名目上の具体に誘導し、避難・言い逃れるしているわけです。しかしそれでも講演料は法外ではなかったのか、領収書書いてないなら税金は申告してないでしょ! という問題は強く残ります。

だがその番組、辛坊というアナウンサーがやたらうるさくて、上杉氏のそれ以上の追及を邪魔するんですね。辛坊は「私の知ってる限り、機密費をもらった人など1人もいないですよ!」って見栄を切るんだけど、それに何の意味があるんでしょう。取材調査もしないオマエになんかにゃ聞いとりゃせんわ、ボケ、です。で、野中から「唯一機密費を断った人」とされた田原総一朗もそこに出演して座ってはいたんですが、彼もこの件ではムニャムニャと歯切れ悪いこと甚だしく、何なんでしょうね。同業者をかばう日本的な思いやり? それとも自身もまだなにか話してないことがある?

上杉氏も指摘していましたが、NYタイムズなど米国のメディアには取材対象から金銭的な供与を一切受けてはならないという社内規定があります。たとえばスターバックスのコーヒー1杯程度ならよいが、2ドル相当を越えたら解雇される、というほどの厳しいものです。

ところが日本の新聞社やテレビの報道部局にはそういう明確な規定はありません。というか、記者クラブの便宜供与もそうなのですが、その辺、わりと大雑把なんです。政治部では政治家に食い込めば食い込むほど彼らとの会食やゴルフなんかの機会も出てくる。そのときにきっかりと自分の分の代金を払っているのかどうかははなはだ心もとないところだし、経済部だって企業の商品発表の記者会見などではその商品そのものなどお土産がたくさん。ま、原資は税金じゃないからこちらはまだいいでしょうが、おもらい体質はそうやって培われていくんでしょう。

社会部の事件担当記者にはそういう金銭の絡む関係というのはあまりないですが、しかし情報のおもらい体質というのは存在します。警察や検察からの情報を「もらう」ことに、どんな政治的な作為があるのか、その辺に無自覚にそちらからの情報だけで書いてしまう恐ろしさというのは、昨今の東京地検特捜部のあからさまな情報操作リークでも明らかになってきたところでしょう。

そうしてふと気づくのは、このおもらい体質というのはそもそも日本社会全体が中元・歳暮に限らず、かなりな身内志向的相互便宜供与社会だということと通底しているんじゃないか、ということです。

こないだの大阪の講演でも言ったことですが、例の「身内社会」の成立要件が、この付き合い方なのです。つまり、このわたしたちの社会って、なんらかの付き合いがあれば赤の他人だった人同士でも身内にしようとする、なろうとするように動く社会なんですね、わが日本は。そんな中で贈り物が、挨拶として日常茶飯に行われてきました。それが渡る世間というものなのです。

旅に行くと、出張でもそうですけど、とにかくみなさんその旅先でお土産を買って帰るでしょ。そして同僚・上司やご近所に配る。そんなの、アメリカではあんまり見かけません。贈り物はあくまで個人の領域ですることで、公的な場面ではそれは賄賂や買収です。ですからすでに親しくなった人たちにはするけど、これから親しくなろうとする人を対象にするのは、好きな人に花を贈るときくらいで、そのほかはその意図があからさまに透けて(恋人候補には、逆にその意図が透けないとダメだからいいんですけど)、さもしく映るんです。それは格好わるいから。

さらに日本ではそこに上下関係も出てきます。メシをおごると言われているのに割り勘を主張するのは可愛くないヤツです。それが続けばさらになんとイケ好かないヤツだということになります。メシをおごるのは太っ腹な上司の器量の見せ所なんであって、そういうのを便宜供与だとは意識しない。上司と部下の仲、あるいは利害関係のある仲でも(身内同然の)オレとオマエの仲じゃないか、とうのが理想とされる付き合いなのですからそこに向けて限りなく引っ張られていくのですね。

ふむ、「社会」と「世間」が、日本じゃ実に巧妙に入り組んでるんですな。

ただ、ジャーナリストはそれでは絶対にいけない。ジャーナリストはときに付き合いの悪い、空気の読めない、嫌なヤツだと思われることを恐れてはいけないのです。「社会」と「世間」を混同してはならない。あくまで社会に生きねばならない。そうじゃないと対象の不正を暴けないですからね。

そういう覚悟ができているか? それとも、基本的に世間的な「いい人」でありたいのか?

先に書いたように、メディアでもの申す人物に機密費が渡るときに「盆暮れに500万」という現金ならこれはもうど真ん中で追及しやすいですが、名目上、講演料や車代などのなんらかの「実体」のある対価として渡る場合には、たとえその意図が見え透いていても日本の世間的には批判が和らぐのを、どう論破するのか予防的に考えておいた方がよいと思います。だって、それならおそらくいろんなひとがカネ、もらってる。舛添なんて政治家になる前は自民党関連の勉強会で引っ張りだこでしたしね。それに、新聞記者やTV報道記者もかなりそういうのでは引っかかってきます。だから、なかなかキャンペーンを張れない。東京新聞特報部はまだ若手の一匹狼的記者がピアプレッシャーの主体だから書けたんでしょうけどね。

いみじくも「言って委員会」で三宅が言っていましたが、「会社員は給料もらってるからダメだが、私なんぞはフリーでそういうのでカネを稼いでるんだ。それをダメだと言われたらたまらん」(私の記憶からの書き起こしできっと不正確)みたいなこともある。彼なんぞはとくにもうジャーナリストじゃないし、たんなる政界の政局的内情通でしかないわけで、御用コメンテイターとして雇われてんだ、その何が悪い、と開き直りかねません。そのときに、なんと断罪するか? それもそれは彼を切るだけが目的なのではなく、先に触れた相互便宜供与で成り立っている日本のこの世間が納得する話の筋でなければならないのです。

うーむ、難しい。

そこらへんすっ飛ばして、官房機密費、10年後もしくは20年後(あるいは関係者の死後)に公表します、ってやっちゃえばいいんでしょうね。そうしたら自ずから、もらう方が判断しますよ。しかも歴史の重層が明らかになるし。

そうだ、そうだ、そうしちゃえ、というのが本日の結論であります。ふう。

May 11, 2010

このグッタリ感の理由

続報を期待しているのにさっぱり出て来ないニュースがあります。98〜99年に小渕内閣で官房長官だった野中広務が最近、官房機密費(官邸報償費)を当時「毎月5000万〜7000万円くらいは使っていた」と暴露した件です。使途については▼総理の部屋に月1000万円▼自民党の衆院国対委員長と参院幹事長に月500万円▼政界を引退した歴代首相には盆と暮れに200万円ずつ▼外遊する議員に50万〜100万円▼政治評論をしておられる方々に盆と暮れに500万円ずつ──などとし、「言論活動で立派な評論をしている人たちのところに(おカネを)届けることのむなしさ。秘書に持って行かせるが『ああ、ご苦労』と言って受け取られる」とも話しました。

この話はじつは以前にも細川内閣の武村元官房長官も明かしていますから、その人たちの名簿は歴代の官房長官に慣例として引き継がれていたらしい。領収書や使途明細の記録を残してはいけないというこの官房機密費は、93〜94年の細川政権時代は月4000〜5000万円だったらしいですが、自公政権の末期にはほぼ毎月1億円国庫から引き出されていたそう。しかも政権交代直前には当時の河村建夫官房長官が通常の2.5倍もの2億5000万円を引き出したことがわかっています。平野官房長官が、金庫は空っぽだったと言ってますからね。

これらの正当性に関する論及を探しているのですが、日本から帰ってきてしまったせいかマスメディア上で探してもなかなか出て来ない。ネット上の未確認情報では、野中から機密費を受け取った政治評論家は渡部昇一、俵孝太郎、細川隆一郎、早坂茂三、竹村健一らだとされており、これら“過去の人”のほかにも最近では三宅久之や宮崎哲弥、河上和雄、岸井成格、岩見隆夫、後藤謙次、星浩、果てはテリー伊藤や北野たけしといった人たちの名前まで取りざたされていて、いやはやホンマかいなの状態。しかもテレビや新聞がそれらの真偽をまったく追及しないのもじつはメディア幹部に内閣からこのカネが流れているからだなんて話まであって、身を以て真偽が知れる「幹部」になる前に新聞社を辞めた自分の不明を悔いています(笑)。

しかし事は冗談で済む話ではない。いったい世論の何が操作され、何が操作されていないのか? テレビでかまびすしく持論を垂れるあれらの顔のどれが本物でどれがヒモ付きなのか? これはジャーナリズムの根幹に関わる問題であり、民主主義の土台を揺るがす大事件です。このことがうやむやなまま検証されなければ、政治評論家の存在自体が政治アパシーを加速させ、全体主義の台頭をゆるしかねない。ただそれら名前の挙がった人たちに事実の有無を訊いて回ればよいだけなのに、「噂の段階で聞くのは失礼」という奥ゆかしい日本的配慮なのかさっぱり埒が明きません。おまけに鳩山政権が機密費開示に消極的なのは野党時代にそこから巨額のカネを受け取っていたからだという話もあながちウソではないでしょうから余計タチが悪い。

政権交代とは、こうした旧体制の旧弊を白日にさらす重大な契機になります。そして、鳩山政権の支持率の急落理由は、世論操作?はさておき、こうした旧弊がせっかく明らかになってきているのに、それらのヘドロをぜんぜん処理できないことにあります。

沖縄基地問題の矛盾、高速料金の不思議、独立行政法人のムダ、天下りの甘い汁、年金行政のデタラメ……結果、毎日ヘドロを見ざるを得ない私たちはなんだかひどく疲弊しちゃうのです。

このグッタリ感は、参院選に向けての見え見えな人寄せパンダ候補者の発表でさらに募ります。とにかく初心に戻って、このヘドロ処理の行程表をとにかくいま一度示してくれるのでない限り、ヤワラちゃんだってイスタンブール歌手だってまるで逆効果でしかないですわね。もっとも、相手方も三原順子とか杉村太蔵とか元野球選手だとか、なんだかわけわかんないですけど。

May 04, 2010

突破力と粘着力

鳩山の沖縄・普天間基地の県外移設断念で、内閣支持率はきっと10%台あるいはそれ以下に急落しているに違いありません。政権交代というモメンタムを以てしてもこの政権に「突破力」がなかったことはこれで確実にわかりました。

ただ問題は、普天間がこの腰折れで終わり、「公約」違反の鳩山退陣で片をつけたら、続く政権は今後何年も沖縄を鬼門としてなんら基地問題を解決するような公約すら出さずにお茶を濁すだけでスルーしようとするのではないかという心配です。それはどう考えたってまずいでしょう。じゃあ、どうするのがいいのか? この政権にまだ問題解決の「執着力」や「粘着力」(っていうんでしたっけ?)を求めてなお期待をつなぐのか、それとも見限るのか?

じつはこの数週間でパラオやテニアン島の議会が米議会に対し普天間の海兵隊4000人の移設先に立候補しています。

アメリカの自治領であるテニアン島には60年以上前に4万人規模の米軍基地が建設されていました。島の面積の2/3がいまもその基地機能の再開を念頭に米国防総省に100年契約で貸与されているのです。テニアンにしてもパラオにしても、もちろん今回の基地誘致の議会決議は雇用創出やその他の経済的利益を見越してのことです。

そういう経済の思惑は両島に限りません。日本側だって辺野古への杭打ち移設で日本企業に流れる8600億円ともいわれる利権がある。それが、すでに滑走路が3本もあるテニアンなら一銭にもならない「恐れ」があります。

一方、アメリカ政府にしても普天間の移設先として「グアムとテニアンが最適」というドラフトを用意しながら(鳩山も沖縄訪問で「将来的にはグアム、テニアンが最適」と発言していました)、アフガンやイラクでの戦費がかさんでいるのとリーマン・ショック後の歳入不安で、そんなときに大規模な基地移転なんかでカネを使いたくないという事情も見えてきました。まあ、沖縄にいるかぎり例の思いやり予算で米側の負担はずいぶんとラクチンなのですから。

こうしたカネの事情をすっ飛ばして「5月末決着」を打ち出した鳩山の政治的ナイーブさが現在の彼の政権の苦境を生み出しているわけですが、このままでは県内移設反対の社民党がいつ政権を離脱してもおかしくない。それを見越して永田町は一気に政局へと傾くかもしれません。以前から言っていますが、「現状維持」を旨とする官僚システム内にはこれでほくそ笑んでいる向きも多々あるはず。じつはこの辺も普天間県外移設の、最大の影の抵抗勢力だったかもしれません。特に北沢防衛大臣など、いかにも面倒臭いことはしたくない官僚任せ閣僚の風情ですしね。

それにしても相変わらず新聞論調はダメですな。例によって読売は「だが、米側は、他の海兵隊部隊の駐留する沖縄から遠い徳之島への移転に難色を示す。杭打ち桟橋方式にも安全面などの理由から同意するかどうかは不透明だ」。産経も「米側は日本国内の動向を注視している。首相の腰が定まらなければ、日米協議も進展しまい」と、まるでいまでも米国の代弁者。沖縄の負担を軽減するための言論機関としての提案はぜんぜんやってこなかった。日米新時代への言論機関としての気概はまるでないんだから。

この政権に「突破力」がなかった、と冒頭に書きましたが、いまさらながらこうしたすべての事情が沖縄問題の「壁」であったわけで、それらを一気に「突破」するのは容易なもんじゃないと改めて思います。

それでも沖縄問題は続きます。私たちが鳩山政権を見限っても、冷戦構造崩壊後も残る沖縄の「異状」は存在し続けます。求められているのは政権の突破力や問題解決の粘着力ではあるんですが、じつは私たち国民の突破力と粘着力もまた必要なわけで、簡単に匙を投げる我々を沖縄の人たちはさてどう見てるんでしょうか。

April 28, 2010

性急な、あまりに性急な

日本の民主党政権の人気浮揚策となるのか、あの事業仕分けの第2弾が始まってます。で、朝昼のワイドショーのニュース談義を見ていて気づいたことがあります。日本ではいろいろな職種の人たちがコメンテイターとしてスタジオに座っています。その人たちが、どうも予定調和的にある一方向のコメントを発する傾向があるのですね。

例えば、仕分け対象になった「独立行政法人都市再生機構」を論じた際にある局では慶応の先生が「本来なら独法は全廃してそこから必要なものだけを再生させるのがスジ」と言えば、隣の政治評論家が「民主党のマニフェストも本来はそれを約束していた」と言葉を継ぐ。そうしてスタジオ全体がそうだそうだという雰囲気になってくる。そこには全廃した際に解雇される膨大な人々の雇用問題をどうするかとか、実際に機能しているプロジェクトの継続をどうするかといった現実的なステップがすっ飛んでしまっています。

こういうのをコメンテイター同士のピア・プレッシャーというんでしょうか。ピア・プレッシャーというのは「仲間の圧力」という意味で、みんなと一緒でなければいけないと、周囲からそういう暗黙の圧力があるように思い込んでしまっていることなんですが、まさに「空気」というやつです。「空気を読めよ」っていうやつ。それが無意識のうちに働いてしまっているようで、どうにもそのスタジオ内では出演者同士の論争を避けているふうな印象を受けるのです。それでなんとなくいまは予定調和的に政権批判の論調に落ち着く。この辺は世論調査の内核支持率とも連動していて、政権発足時の支持率7割のときは賞賛論調でまとまることも多かった。

いやそこは手だれのコメンテイターたち、ときには異論を唱えるのが見事な人たちもいます。でもそれはそこでは論争にはならない。なんとなく司会者やキャスターが引き取って、「それにしても〜〜ですよね」で、うんうん、とまとまっちゃうようなことが多い、そんな印象。もっとも、放送ではコメントする時間はあっても論争する時間はないのが普通ですから無理もないのかもしれませんが、周囲の「空気」を読んでまとまっちゃうこの感じ、これはすごく日本的だなあと思いました。

米国の報道番組ではCNNはじめほとんど必ず論者を対峙させる作りになっています。Foxですらコメンテイターを呼んでモノを言わせるときはスタジオのキャスターとの論争の形を取る。出演依頼したみんなで同じことを言い合って「そうだ、そうだ」ということはまずありません。必ず反対論者が用意されていて、違う視点をぶつけ合い、それで視聴者は視聴者で自分でどうなのか判断するという流れ。「朝まで生テレビ」のミニチュア版が常に行われている、と言ったらわかりやすいかも。医療保険改革案にしても賛成・反対・公的オプション派などが相手の「空気」などお構いなく、侃々諤々か喧々囂々なのか、とにかくあちこちでかまびすしい議論が展開していました。

私はいまでも日本の政権交代は意義があったと思っています。何といっても民主党になっていろいろ隠れていた政治・行政の過程が見えるようになった。事業仕分け然り、揉めている高速道路の無料化公約と実質値上げの新料金制度との問題だって、小沢さんのオトナ気ない前原さんイジメを除けば、米国のニュース番組みたいに賛否両論がなんと政権政党内から提示されて実に興味深い。普天間の問題だってメディアの誤報まで含めてまるで見世物です。だいたい沖縄のことに、それこそ主婦まで含めてみんながこんなに注目したのも初めてのことではないでしょうか?

自民党時代にはそんなゴタゴタはなかったとしてこれらを民主党政権の「迷走」ととるのは簡単です。が、自民党時代の、国民に伝えられるときも国会でも「すでに自民党内で決まったことで決定」という既決感はあまりに空しかった。

鳩山政権の支持率はすでに20%台。でも政権発足8カ月というのは、客観的に言って成果が出せるような期間じゃありません。いくら何でもこの判断は性急すぎるんじゃないのかしらって思うんですよね。だって55年間つづいた自民党独裁の垢落としですよ、そんな簡単に成果が出るわきゃあない。独法全廃、議員定数削減、沖縄基地問題の解決、年金改革、財政均衡……そろって大問題です。「みんなの党」に期待をかけてる人たち、その期待は昨年の選挙前に民主党にかかっていた期待と同じものなんでしょうけど、もし同じように性急ならばその期待は同じように裏切られます。

子供の育て方と同じ。ダメだダメだ、ではなく、この場合は、頑張れ、もう少し頑張れ、うん、そこはいい、ではないのかなあ。

とは言えまあ問題は、民主党下でじゃあこれからどんな成果が出てくるのか、なのですが、その成果創出も、検察審査会の「小沢一郎起訴相当」決定でまた逆風下です。

でもねえ、この検察審査会にしても、いったいどういうひとがやっているのかいっさい謎。米国の陪審員というのは当該事件に関していかに予断を持っていないか、それまでの報道など不確定な“事実”にいかに汚染されていないか、対象案件と利害関係はないか、などをじつに厳しく精査されて選出されるんですが、日本では陪審員制度に似ている裁判員制度ですらあまりそこらは厳密には追及されないようですし、ましてや検察審査員というのはそこら辺、だいじょうぶなんでしょうか?

検察審査会が有効な時というのは、検察が起訴したくなかったやつを案の定起訴しなかったときに、「そうじゃないだろう!」と突き返す時です。たとえば同じ検察官だとか警察官だとかへの、身内かばいの起訴猶予や不起訴が往々にしてあるでしょう? そういうときに市民感覚で、「それは違うだろう、身内に甘いのは許さん!」というのは正しい。でも、起訴したくてしたくてしょうがないのにできなかった場合、小沢の場合はこれに相当しますが、それを起訴しろっていうのは、それこそ証拠がないのに締め上げろって、まさに冤罪の捏造と同じではないのか? それって、検察審査会の役目じゃないような気がします。しかも、「起訴相当」案件が不動産の取得時期と代金支払いの時期との2カ月余りの「期ズレ」に関してだというから、そんなの政治資金規正法上、立件するようなものなんでしょうか。

メディアでみんな同じ方向で論じているのであえて言いますが、「起訴相当」が一般の人たちの感情、という論調も、その詳細をすっ飛ばして小沢は西松から不正資金を受け取っているに違いないという雰囲気を後押しにしています。それは「ポピュリズム」を批判してきた新聞の言うことではないだろうという気がします。それこそ「悪しきポピュリズム」って、民主党発足時にさんざん批判してきた新聞社は、どう整合性を持たせるつもりでしょうか。そのあたり、じつにいい加減。論説室にそういうこと気づくひといないのかしら? それともこれもピア・プレッシャー?

小沢断罪の各紙の今朝の社説はほんと横並びでひどいものでした。言論機関といえどもどう考えても論拠がない。「起訴相当」は「起訴」ですらないのに、そして「起訴相当」対象は期ズレという形式的な問題だというのに、この人たちはよっぽどひとを裁判なしで裁きたいらしい。それが自らにも返ってくる諸刃の論理だということを知らぬはずもないのに。

いや、この体たらく、明るい未来は一筋縄ではいかないもんです。

March 10, 2010

敢てイルカ殺しの汚名を着て

アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞に日本のイルカ漁を扱う「ザ・コーヴ」が選ばれ、案の定日本国内からは「食文化の違いを理解していない」「牛や豚の屠殺とどう違うんだ」「アメリカ人による独善の極み」と怒りの反応が出ています。あるいは「アカデミー賞も地に墜ちた」とか。

まあ、賞なんてもんは芥川賞だって日本レコード大賞だってトニー賞だってノーベル平和賞まで、そもそも販売促進、プロモーションから始まったもので、それにいかに客観性を持たせるかで権威が出てくるのですが、ときどき先祖返りしてお里が知れることもなきにしもあらずですから、まあここは怒ってもしょうがない。ヒステリックになるとあのシーシェパードと同じで、それじゃけんかにはなるが解決にはなりません。というか、このコーヴ、日本じゃ東京映画祭とかなんとかで上映したくらいでしょ? ほとんどのひとが見ていないはず。見ているひとは数千人じゃないのでしょうか? あるいは多く見積もっても数万人? うーむ、いや、そんな多くはないか……。

「ザ・コーヴ」は毎年9月から3月までイルカ漁を行う和歌山県太地町をリポートした映画です。とはいえ、イルカの屠殺現場は凄惨なので、これがどう描かれるか心配した地元側が撮影隊をブロックしました。そこで一行は世界中からその道のプロを集めて太地町を隠し撮りしたのです。

隠し撮りの手法というのは、ジャーナリスティックな意義がある場合は認めて然るべきものだと私は思います。でも、それ以外は米国ではじつはものすごく厳しい倫理規定があって、一般人を映画に撮影する場合は、道路を行く名もなき人々なんかの場合以外はかならずその映画のプロデューサー側がその人に、「編集権には口を挟まない」かつ「上映を承諾する」、という旨の書類にサインをもらうことになっています。そうじゃなきゃ、この映画気に食わない、といって自分が映っていることで上映差し止めを求める訴訟を起こされたりすることもあり得ますから。

で、このコーヴは、これは告発ドキュメンタリーだと位置づけているのでしょう。だから太地町の人たちにはサインを求めなかった。そしてドキュメンタリーだから映っている人たちの顔にボカシも入れなかった。この辺はなんでもボカシャいいと思ってる日本の制作サイドとは違います。ところが映画の作りはそれはもう大変なサスペンス仕立てで、太地町vs撮影隊、というこの対立構図がとてもうまく構成されているんですね。撮影クルーはなにしろ世界記録を持つ素もぐりダイバー夫婦だとか水中録音のプロだとか航空電子工学士だとかまで招集して、まるで「スパイ大作戦」に登場するような精鋭たち。隠しカメラを仕込んだ「岩」や「木」はあの「スターウォーズ」のジョージ・ルーカスの特撮工房が作り上げた模型です。それらを設置する真夜中の模様も暗視カメラで記録されて、まるで戦場映画のようなハラハラドキドキ感。なにせ町中の人間が彼らを監視し、警察までが「グル」なのですから、こんな演出が面白くないはずがない。

しかしそれは最後のシーンで衝撃に変わります。そこには、入り江(コーヴ)に追いやられた大勢のイルカたちが漁民たちのモリでズボズボと突かれ、もがきのたうつ彼らの血で海が真っ赤に染まるようすが映っているのです。これはサカナ漁ではない映像です。これは屠殺です。

じつは今回のオスカーにはもう1作「フード・インク」という、食品産業をめぐるおぞましいドキュメンタリーも候補に上っていました。こちらは米国の食ビジネスの大量生産工業化とそのぞっとする裏面を取り上げたもので、米国人の日常生活の根幹を揺るがすショッキングな食の事実が満載です。でもこれに賞をあげたら食関連のスポンサーがいっせいに退くだろうなあ、と思っていたらやっぱり取れなかった。もっとも、映画としてはコーヴの方が確かに面白いのですが。

「イルカの屠殺現場は凄惨なので」と最初に書きました。でも思えばすべての動物の屠殺現場はすべて凄惨です。はっきり言えば私たちはそんなものは見たくない。

コーヴの不快の本質はそこにあります。それは、生き物は他の生き物を殺して食べるしか生きられないという現実を、私たちがどこかで忌避しているからです。みんなそれをやってるが、だれもそれを語りたくない。その結果、近代社会では屠殺の現場をどんどん分業化し、工業化し、近代設備の清潔さの装いの向こう側に囲い込んで見えなくしていったのです。それは、生活の快適さ(のみ)を求める近代化の当然の帰結でした。私たちは牛や豚や鶏の屠殺の現場すら知らない。でもそれは言わない約束だったでしょ? でも、どうしてイルカだけ、こうして「言っちゃう」わけ? しかも「告発」されちゃうわけ? コーヴでは、こうしてそこに制作者側への「自分たちのことは棚に上げて」感という「目には目を」の反発が加わり、より大きな反感が生まれたわけです。そっちがそういうつもりなら、こっちにも考えがあるぞ、です。戦争って、国民の意識レベルでは往々にしてそうやって始まるんです。

そういうときに「日本人は食べ物を粗末にしない。いただきます、と感謝して食べている」という反論は効き目がない。しかもそれ、ウソですから。食品ゴミの量は人口差をならすと日米でほぼ変わりなく、両国とも世界で最も食べ物を粗末にする国なのです。日本じゃ毎年2200万トンの食品ゴミが出てるんですよ。カロリー換算だと食べ物の30%近くが捨てられている。また、「食文化の差」という反論もこれだけ欧米化している時代にそう説得力を持たない。「日本食」の3大人気メニューはカレーにハンバーグにスパゲティでしょ? 古い? あるいは牛丼、ホルモン、回転寿しか? いずれもイルカやクジラではないわけで、そういう中途半端な反駁はすぐにディベートの猛者であるアメリカ人に突っ込まれてグーの音も出なくなります。

もっとも、彼らの振り回す、よくある「イルカは知能が高いから殺すな」という論理には簡単に対抗できます。それはナチスの優生学のそれ(劣った人種は駆逐されるべき)と同じものだ、きみはナチスと同じことを言っているのだ、と言えばいいんです。これはナチス嫌いのアメリカ人への反駁の論理としてはとても有効です。

なんとなく整理されてきました。だとすると、この映画が提起する問題で本当に重要なのは、「イルカの肉に含まれる水銀量は恐ろしく多く、それを知らされずに食べている消費者がいる」という点だけ、だということです。

ところが、私の知る限り、これに対し日本のどこも反論のデータを教えてくれていない。

それは、怒り過ぎているからか、それとも怒りを煙幕に事実隠しをしているからか?

私にはそれだけが問題です。それに対して「水銀量は多くない」というデータで反証できれば、この「ザ・コーヴ」は、敢てイルカ殺しの汚名を着ても、なに後ろ暗いことなく、いや生きることにいままでどおりすこしは悲しい気持ちで、しかしそうではあっても別段これを機に気に病むこともなく、そしてなおかつそうカッカと怒らずでもよい映画である、と明言(ちょっとくどいけど)できるのですが。

February 14, 2010

寄ってたかっての背後にあるもの

ロック少年だったせいで、若いころからさんざん髪を切れ切れとうるさく言われ続けてきました。おまけに高校時代には当時あった制服着用規則に何ら合理性がないと、これまた七面倒くさい論理を考えだして生徒会で制服自由化を決めてしまったクチです。

なので、バンクーバー五輪のスノーボード出場の国母選手が、成田空港で日本選手団の公式ウエアのネクタイをゆるめ、シャツの裾を出し、ズボンは腰パンで登場して問題になったと聞いても、そんなことどうでもいいじゃないのというのが第一の反応でした。

ところが日本ではいっせいにこの国母選手へのバッシングが始まりました。なんでこんなやつを選んだんだという抗議の電話がスキー協会に殺到し、弱冠21歳の彼は選手村入村式への出席を取りやめる謹慎措置となった。さらに反省の会見で記者に攻められ「チッ」と舌打ち後「っるっせーな」とつぶやいちゃった。「反省してまーす」と言ったのも後の祭り。しかもこの反省も語尾を伸ばしたことでまたまた顰蹙を買い、今度は五輪開会式にも参加不可というお仕置きが待っていました。

そういや十代の私も「髪を切れ」といわれて「うるせえなあ」と言い返したことがあったかも。「反省してます」とは意地でもいわなかったですけど。

抗議の人たちは「五輪出場は日本の代表。税金を使って行ってるんだ。代表らしくちゃんと振る舞え」と言っています。まあ、その気持ちはわからぬでもありませんが、どうしてみんなそんなに怒りっぽいのでしょう? まるで沸騰社会みたい。

もっとも、今時の若者なドレッドヘアと鼻ピアスの国母君もそうした「着くずし」をべつに理論武装してやってるわけじゃないようで、なんとなくへなちょこな感じ。そこらへんがむかしの私らと違うところで、会見の様子からもどうして着崩しちゃダメなのか今ひとつ理解していない様子。だから反省の弁に気持ちがこもってないのは当然でしょう。てか、かつての大阪の吉兆の女将さんみたいに、YouTubeで見たらあれ、隣のコーチかなんかが反省してると言えって指示してますよね。まあ、あの会見でみんなピキッと来たんでしょう。

でも、スノボー一筋の21歳のこの子はきっと、自分たちのスノボー仲間以外の、外の社会というものを知らないで生きてきたんですよ(だからこそここまで、ってどこまでかよう知らんけど、五輪出場のすごい選手になったのかもしれません)。そりゃね、行儀のよいお利口さんやロールモデルをスポーツ選手に求めたくなるのもわかりますけど、それができるのは石川遼君という天才くらい。遼君はあれは、ほんと、儲け物なんです。普通はあり得ない。なのにあれをノームにしちゃダメでしょう。しかも国母君はスノボー。スノボー文化というとても狭量な環境の中では、行儀の良い子のいられる場所などそうはない(って勝手に思い込んでますけど)。外の社会を知らないできた国母君は、今回初めて五輪というとんでもない社会的行事にさらされてわけがわからないのだ、というくらいの話なんじゃないですか。しかもオリンピックは彼がぜんぶ自分の実績で勝ち取ったものです。勝手に国をしょわせられても困るってもんじゃないでしょうか。

それとね、スノボーってスキー連盟傘下だって今回初めて知ったけど、ここがふだんからスノボー界をちゃんとサポートしてたのかも疑問です。オリンピック競技だからって急ごしらえで対応してるだけなのに、そこの会長さんがまるでずっと面倒見てきた親父みたいに恩着せがましく激怒したっていうのも、なんだかなー、です。

いつも言っていることですが「寄ってたかって」というのがいちばん嫌いなもので、国母君へのこの寄ってたかっての大上段からの叱責合戦には異和感が先に立ちます。腰パンも裾出しシャツも日本じゃ街中に溢れてる。そいつらへの日ごろの鬱憤がまるで憂さ晴らしのように国母君に集中している感じ。そんなに怒りたいなら、渋谷に行って公道を占拠する若者たちを注意すればよいのに、それができないから代わりに国母君を吊るし上げてる、みたいな。

この国母問題、服装のことなどどうでもいいんじゃないと言うのは50代や60代に多いそうです。まあ、たしかにそういう時代に生きてきましたからね。でも、20代、30代には逆に「国の代表なのに」だとか「日本の恥」だとかを口にする人が多いらしい。そういえば朝青龍も「国技」の横綱にふさわしくないとさんざんでした。

「国」と言えば何でも正義になってしまうのは違うと思います。日本はそんな国家主義の反省から民主主義を担いだ。私はだから、“名言”とされる例のJ.F.ケネディの「国が何かをしてくれると期待するな。あなたが国に何ができるかを考えよ」も実は(米国のあの当時の時代背景を考慮せずに引用するのは)好きじゃありません。オリンピックも、80年代はたしかソ連のアフガニスタン侵攻やボイコット合戦の影響で「国を背負うんじゃなく純粋なスポーツの祭典として楽しもう」という空気がありました。なのに、それがいつのまにかまた「国の代表」です。で、それにふさわしくないと見るやまるで犯罪者扱い。例によって、マスメディアの煽りもありますけれどね。なんってたって、産経なんか国母君お記者会見の写真説明、「服装問題で開会式自粛を余儀なくされた国母だが、会見では座ったままで頭を下げた=12日午後、バンクーバーのジャパンハウス(鈴木健児撮影)」ですからね。これ、頭を下げるときは立ってやれ、って抗議するよう読者を煽ってる文章です。さらに共同が配信した記事じゃあ「バンクーバー市内のジャパンハウス(日本選手団の支援施設)で行われた会見。白と紺色の日本選手用のスポーツウエアを乱れなく着ていたが、トレードマークのドレッドヘアとひげはそのまま。」って、ヒゲまでダメですか? いやらしい書き方するなよなあ。

私としては、せめて「寄ってたかって」にはぜったいに加担しない、という意地を張り続けるしかないですな。

February 08, 2010

検察と報道の大罪

米国では刑事裁判で一審で無罪となった場合は、検察はそれが不服であってももう控訴できません。検察というのは国家権力という実に強力な捜査権で被疑者を訴追しています。そんな各種の強制権をもってしても有罪にできなかったのですから、これ以上個人を控訴審という二度目の危険にさらす過酷をおかしてはならないと決めているのです。「ダブル・ジェパーディ(二重の危険)」の回避と呼ばれるこの制度はつまり、検察にはそれだけの絶大な権力に伴う非常に厳しい責任があるのだということの表れです。

ところが民主党の小沢幹事長不起訴にあたっての日本の検察、東京地検特捜部の対応はまことに見苦しいものでした。「有罪を得られる十分な証拠はそろった」が、起訴には「十二分の証拠が必要」だったと語った(産経)り、「ある幹部は『心証は真っ黒だが、これが司法の限界』と振り返った」(毎日)りと、まるで未練たらたらの恨み節。新聞各紙までまるで検察の“無念”さを代弁する論調で、元特捜部長の宗像紀夫までテレビに出てきて「不起訴だが、限りなくグレーに近い」と援護射撃するんじゃあ、世論調査で「小沢幹事長は辞任すべきか?」と聞くのも「これは誘導尋問です」と言わないのが不思議なくらいの茶番じゃないですか?

しかもこれは冒頭で紹介した裁判の話ですらない。起訴もできない次元での話なのです。つい先日、足利事件の菅谷さんのえん罪判明で検察とメディアの責任が大きく問題となっていた最中のこの「何様?」の断罪口調。カラス頭もここに極まれり、です。

いや、小沢は怪しくないと言っているのではまったくありません。ただ、怪しいと推断するなら、ジャーナリストならまた独自取材を始めればよろしいのであって、報道が検察と心中するかのようにこうも恨みつらみを垂れ流すのは異常としか思えないと言っているのです。産経なんぞ「ほくそ笑むのはまだ早い」「“次の舞台”は検察審査会」ですからね、どこのチンピラの捨て台詞ですか? 他人事ながらこんなもんを書いた産経新聞社会部長近藤豊和の精神状態が心配です(あら、いまネットで検索したら、この「ほくそ笑む」の記事、産経のサイトから消えてるわ。でも魚拓がたくさんあるようで、検索できますね。すばらしい)。

いや、小沢は権力者だから金の出納は厳しく精査すべし、というのも一理あります。しかし小沢個人より、検察や報道機関が権力を持っているのは事実なのです。なぜなら、検察や報道は、その内部の匿名の個人が失敗してもそんなもんは簡単に入れ替わり立ち替わりして、組織としては常に権力を維持するものだからです。これは政治家と言えども個人なんかが戦える相手ではない。田中角栄しかり、ニクソンしかり、それは洋の東西を問いません。もちろん警察や検察、そして報道機関の正しくない社会はとても不幸です。だからまずは信じられるような彼らを育てることが健全な社会の第一の優先事項です。そうしていつしか、その両機関は、その(本当はあるはずもない)無謬性を信じる多くの大衆の信頼と善意に守られていることになる。

それは一義的には正しいでしょう。ただし、何者も無謬ではあり得ない。わたしたちはそんな無謬神話を批判しながら歴史を進めてきたのです。これはかつて宗教のことを書いたブログ「生きよ、墜ちよ」でも触れましたが、日本の検察もまたいま、やっと歴史の審判に面しているのかもしれません。脱構築の対象になっていなかった、最後のモダン的価値の牙城ですものね(古い)。

つまり私が言っているのは、だからこそ報道は個人への断罪機関ではないということを徹底しなければならない、検察は恣意的に法律をもてあそんではいけない、ということなのです。

なのに今回は、1年以上も捜査して西松事件でも陸山会事件でも結局「虚偽記載」などという“別件”の形式犯でしか起訴できなかった。これは特捜部の完全な敗北です。恣意的な捜査だったと言われても反論できないはずです。ですから、負け犬はギャーギャー吠えずに引き下がれ、なのです。臥薪嘗胆のそのときまで泣き言を漏らすな、なのです。なのにこのていたらく。

で、そんなことよりもっと重要なことを記しておきましょう。

一連の小沢問題で、あんなに面白かった政治ニュースが最近はさっぱり面白くなくなりました。こうして国民がまた政治に飽き、日本という国がよくなるかもしれない期待もしぼみ、政治家にも飽き民主党にも飽きて、だから民意に応えようとあんなに張り切っていた民主党の政治家たちもいまやなんだかすっかり鳴りを潜めている。

するといま、その一方で日本の官僚たちがホッと一息ついているのです。「政治主導」におびえた官僚機構が、また無駄ばかりの、予算ばかり取ってろくな仕事をしない、前の自民党政権時代と同じ体制に戻ろうとしているのです。

私は、特捜部の今回の失敗は、その力量の低下だけでなく日本の転換のモメンタムを破壊したという意味でも一番罪が重いと思います。もっとも、官僚たる彼らは、あるいは彼ら個々人ではなくそのシステムは(システムに思考があるかどうかはまた別にして)、そんな破壊をこそ狙っていたのかもしれませんが。報道の書き散しも含め、これは私たちにとっての、とんでもない悲劇です。

実は、関係ないようですがこうして民主党の支持率が下がってくると、アメリカが日本を見る目も変わってきます。オバマ政権が普天間の移設問題に関して妥協する姿勢を見せてきていたのも、鳩山政権に対する国民の支持が背景に見えたからです。ところがその支持がなくなれば、普天間の移設、沖縄からの基地撤去もまた遠ざかることになります。国民が望んでいない政権と真剣に交渉しても始まりませんからね。なんという悲劇か。

どうにかこの悲劇から、回復できないものでしょうか?
みんな、飽きやすいからなあ。

January 21, 2010

電子ブックと出版革命

アップルのタブレットMacが27日にも発表になるらしいと聞いて、これで日本でも電子書籍販売が加速するんじゃないかとちょっと期待しています。

というのも、電子書籍ってのはデータファイルですから、製本化する必要がないわけで、つまりは手元にあるいろんな原稿を「自費出版」する必要なく「販売」できるってことにつながりますよね。いや、拙文をちまちまと売ろうなんて魂胆ではなくて、じつはちゃんとアメリカで出版されたベストセラーなどの翻訳をしながらも、日本の出版社の都合で急に出版が取りやめになっちゃった原稿がいくつか手元にあるのです。それをどうにかできないかなあとつらつら思っていたのですが、根が無精なもので自分から別の出版社を探すでもなく売り込むわけでもなく、そのままほったらかし。それが出版側のリスクなく、というか出版が必要ないのだから誰のリスクを心配することもなく直接の販路を得ることになるわけで、これって、確実に現在の出版社の機能の大きな一部を削ぎ取っちゃうような、革命的出来事です。

まあ、出版というのは「本になる」といういっしゅ物神崇拝的な実体化を愛でる部分もあるわけで、その意味では出版社のその機能は失われることはないでしょうが、しかしこれはまさしくレコードが電子ファイルになってしまったと同じ流れが著述界にもやってくるということでしょう。

iTunesストアではそういう音楽界のインディーズのアウトプットは受け付けてるんだよね。
でも、大物アーティストたちがレコード会社というかCD会社?にいまもこだわってくっついているのはどういうことなんだろう? ああ、イベントとかプロモーションとかいろいろ抱き合わせでやってくれるからかな。それに、従来からの契約もあるだろうしね。

でも、出版界なんてそんな縛りはない。お抱え作家、なんてものは一時、半村良が「太陽の世界」を角川パッケージで書き続けると宣言したときくらいでしょう(←古い)。

これ、すごいことだなあ。

と思ってたら、先ほどこんなニュースが!!!!

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アマゾン、「Kindle」向け電子書籍の印税を引き上げ--「App Store」と同率に

CNET Japan
文:David Carnoy(CNET News)
翻訳校正:矢倉美登里、長谷睦
2010/01/21 12:24  

 Amazonが「Kindle Digital Text Platform(DTP)」を利用する作家や出版社に支払う印税を、電子書籍の表示価格の70%に引き上げると発表した。今回の動きは、米国時間1月27日にタブレット型端末を発表する可能性が濃厚なAppleに対する先制攻撃なのかもしれない。70%という印税率は従来の35%から大幅な引き上げとなるが、「App Store」でアプリを販売する開発者にAppleが支払う売上配分と同じであり、これは偶然の一致ではなさそうだ。

 Amazonによると、6月30日以降、印税率70%の新オプションを選ぶ作家や出版社は、Kindle向け電子書籍が売れるたびに、表示価格の70%から配信コストを引いた額を受け取ることになるという。この新しいオプションは、既存のDTP標準印税オプションを置き換えるものではなく、追加される形となる。従来の印税オプションは、印税率が35%で、表示価格の65%をAmazonが受け取っている。

 App Storeは、AmazonやBarnes & Nobleといった電子書籍ストアなどが提供する電子書籍リーダーアプリ(Kindleや「Stanza」)のほか、独立型アプリとして何千もの電子書籍を提供しているが、Amazonは、新しい価格体系がAppleがApp Storeで実施している印税プログラムに対応するものであるのかどうかについては、コメントしていない。ただし配信コストは、ファイルサイズに基づいて計算され、料金は1Mバイト当たり15セントになる点は明確にしている。

 Amazonのニュースリリースには以下のような記述がある。「現在のDTPファイルサイズのメジアン(中央値)である368Kバイトの場合、配信コストは売上部数当たり6セント未満になる。したがって、この新しいプログラムでは、作家と出版社は書籍が売れるたびにより多くの利益を得ることができる。たとえば、価格が8.99ドルの書籍だと、作家の手取りは標準オプションでは3.15ドルだが、新しい70%オプションでは6.25ドルになる」

 今回の発表は、印税率70%オプションの適用条件も定めている。このオプションを利用するには、以下の条件を満たしている必要がある。

 *作家または出版社が設定した価格が2.99~9.99ドルの範囲内である。

 *電子書籍の価格が、紙媒体の書籍の最低価格より20%以上安い。

 *作家や出版社が権利を持つすべての地域で作品の販売が可能。

 *テキスト読み上げ(text-to-speech)機能など、「Kindle Store」の幅広い機能に対応している。こうした機能は、AmazonがKindleおよびKindle Storeに機能を追加し続けるのにあわせて増えていく。

 *他店の価格(紙媒体の書籍の価格を含む)以下で提供される。Amazonがこのプロセスを自動化するツールを提供し、70%の印税はこの最低価格を基準として算出される。

 *著作権のある作品が対象で、1923年以前に出版された作品(パブリックドメインの書籍)は対象外。当初は米国で販売される書籍のみが対象となる。

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びっくりするのは電子書籍の印税ってアメリカでは35%もあったってこと。しかもそれを今度は倍の70%にするってことです。

ええええ!? 日本じゃ単行本でもせいぜい売価の10%。翻訳物だと8%。文庫だと5%ですよ。出版不況だから今はもっと安いかもしれない……。つまり2000円の本1つ売れても、日本じゃ書いた人には高々200円(税引き前)しか手に入らないってこと。初版なんて今きっと3000部がいいところだろうから、2000円の本1つ書いて出しても全部で60万円にしかならないということです。これじゃ生きてけないわね。でもこれがアメリカだったら420万円だ。うーん、俄然やる気が出てくるね。

そういやアメリカって、作家がものすごい前払金をもらったりしてますものね。それにしてもこんなに印税取ってたとは知らなんだ。てか、日本の出版社のほうがすごい搾取をしてるってことか。まあ、製本とか抜群にきれいですけど。

でも道理で大手出版社の社員は結構な高給取り。講談社とか集英社とか新潮社とかの社員ってエリートっぽいもんねえ。しかも作家は本を出していただけるところですから下手な文句も言えず、なんせ「東販/日販がこれじゃあ売れないって言うんで」という一言で、はあ、と言わざるを得ない。

ところが自分の時価の販路ができるとあれば話は違います。まあ、宣伝とかは必要でしょうが、私のような、べつに大して売ろうと思っていないのは読みたい/読ませたい人にだけ届けばよいわけで、これはうれしい。これは出版革命ですわ。

アメリカの一般の本屋さんはアマゾンの成長でどんどん閉店しています。統廃合と再編が進んで大手ブックチェーンだけがかろうじて生き残っている。それが今度は「本」そのものがなくなろうとしているのでしょう。もちろんここでも人間の「物」への執着はなくならないでしょうから本屋さんが完全に消滅することはないにしても、商売のメインストリームからは消えてゆく運命なんでしょうね。だからその大手書店チェーンも今、自社チェーンというかサイトでの電子書籍販売システムの構築に躍起になっているのです。

まあ、わたしが考えてるくらいですから日本の関連業者さんはすでに新たなビジネスモデルとビジネスチャンスをねらってがんばっているんでしょうけれど。

もっとも、次のようなニュースも

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Amazon、Kindle向け自費出版サービスを米国外に拡大

【世界中の出版社や個人が、電子書籍リーダー「Kindle」向けのコンテンツをKindle Storeで販売できるようになった。ただし対応する言語は英語、ドイツ語、フランス語のみ】

1月18日10時49分配信 ITmedia エンタープライズ

 米Amazonは1月15日、米国でのみ提供してきた電子書籍の自費出版サービス「Kindle Digital Text Platform(DTP)」を、米国外でも利用可能にしたと発表した。対応する言語は英語に加え、ドイツ語とフランス語。そのほかの言語についても段階的に対応していくという。

 DTPは出版社や個人がコンテンツをKindle Storeで販売できるようにするサービス。HTMLやテキスト、PDFファイルなどをアップロードするとKindleのフォーマットに変換され、Kindle Storeに登録される。書籍の価格は利用者が設定でき、売り上げの35%を受け取ることができる。これまでは米国の銀行口座と米国在住を証明するための社会保障番号(SSN)などが必要だったが、米国外の利用者はそれらの情報を記入せずに登録できるようになった。売上金の受け取りは小切手で行う。

 Kindleで表示できる文字は現状ではLatin-1と呼ばれる1バイトコードのみで、日本語などの2バイトコードに対応する見込みは具体的に明らかにされていない。
最終更新:1月18日10時49分

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日本語という言葉によって、日本はここでも守られて入るんですが、猶予の時間はそう長くはないと思います。

January 19, 2010

再び、ハイチ地震と日本

距離的にも近いし移民の数も多いからでしょうが、アメリカのハイチ地震への対応の早さは官民ともに見事でした。あまりに素早くかつ大規模なので、アメリカはハイチを占領しようとしているという左派からの批判もあるようですが、まあ、そこは緊急避難的な措置ということでそう目くじら立てても、他にそういうことをやってくれるところはないわけですし、って思っています。確かに航空管制とかもアメリカが肩代わりしてるようですしね。で、軍事的な貢献はしないと決めている日本は、だからこそこういうときにいち早く文民支援に立ち上がってほしいところなのですが、しかし今回もまた、今に至ってもまったく反応が著しく鈍いという印象です。

折しも日本のメディアは阪神淡路大震災15周年の特集を組んでテレビも新聞も大々的にあの地震からの教訓を伝えようとしていました。ところが、いま現在進行中のハイチ地震の支援についてはほとんど触れなかったのです。いったいどういうことなのでしょう? まるで何も見えていないかのように、阪神阪神と言っているだけ。そりゃ事前取材でテープを編集して番組に仕立て上げるという作業があったのかもしれないが、すこしは直前に手直しくらいできたでしょうに。ハイチ地震発生は12日。それから阪神淡路の15周年まで5日間あったんですから。あるいは大震災の教訓とはお題目だけで、実際はなにも得ていないのだという、これは大いなる皮肉なのでしょうか。小沢4億円問題も大変ですが、検察リークの明らかな世論誘導や予断記事を少し削って、もうちょっとハイチの悲惨について紙面や時間を割けないものかと思ってしまいます。

西半球で最貧国のハイチにはビジネスチャンスもほとんどないからというわけではないでしょうが、日本企業の支援立ち上がりもまったく目立ちません。一方で米企業の支援をまとめているサイトを見ると大企業は軒並み社員の募金と同額を社として上乗せして寄付すると宣言したりで、不況をものともせず雪崩れを打ったように名を連ねています。まあ、企業として税金控除ができるという制度の後押しもあるせいでしょうが。

それらをちょっと、日本でも知られている企業の例だけでも適当に抜き書きしてみましょうか。

▼アメリカン・エクスプレス;25万ドルを米国赤十字社、国境なき医師団、国際救援委員会、世界食糧計画友の会に。その他、アメックス社員の募金と同額を上乗せして寄付など。
▼アメリカン航空グループ(AMR);サイトを通じてアメリカ赤十字に寄付した人にその金額分のボーナスマイルを付与。ポルトープランスへの救援物資の輸送。
▼AT&T;携帯電話のテキストメーッセージで10ドルの寄付が米赤十字社に簡単にできるように設定。
▼バンク・オブ・アメリカ;100万ドルを寄付。うち50万ドルは米赤十字社へ。
▼キャンベルスープ;20万ドル。
▼キヤノン・グループ;22万ドルを米赤十字社へ。
▼シスコ基金;250万ドルを米赤十字社へ。そのほか社員募金と同額の寄付(上限100万ドル)
▼シティグループ;救援隊、医療用品器具、援助物資、衛星電話。
▼コカコーラ;米赤十字社へ100万ドル。
▼クレディスイス;100万ドルを米およびスイス赤十字社へ。
▼DHL;災害対応チームを派遣して空港でのロジスティックスに当たらせる。
▼ダウ・ケミカル;50万ドルを米赤十字社ハイチ地震援助基金へ。社員募金相当分を上限計25万ドルで世界食糧計画などに寄付。
▼デュポン;10万ドルを米赤十字社ハイチ援助基金に。
▼フェデラルエクスプレス;42万5000ドルを米赤十字社、救世軍などに。救援物資78パレット分を災害地に。総計で100万ドル以上。
▼ゼネラル・エレクトリック(GE);250万ドル。
▼ジェネラル・ミルズ基金;25万ドル。
▼ゴールドマン・サックス;100万ドル。
▼グーグル;100万ドルをユニセフとCAREへ。
▼グラクソ・スミス&クライン;抗生物質などの主に経口医薬品と現金。地方インフラの回復を待ってさらに供給予定。
▼GM基金;10万ドルを米赤十字社へ。
▼ヒューレット・パッカード;50万ドルを米赤十字社国際対応基金へ。社員募金と同額を上限25万ドルでグローバル・インパクトへ。
▼ホームデポ基金;10万ドルを米赤十字社へ。
▼IBM;技術およびサービスで15万ドル相当分。
▼インテル;25万ドル。および社員募金同額分を該当NGOへ。
▼JPモルガン・チェース;100万ドル。
▼ケロッグ;25万ドル。
▼KPMG;50万ドル。
▼クラフト・フーズ;2万5000ドル。
▼メジャーリーグ・ベースボール(MBL);100万ドルをユニセフに。
▼マスターカード;会員のポイントをカナダ赤十字社への現金募金に替えて振り込めるようにした。
▼マクドナルド;50万ドルを国際赤十字社連盟に。傘下のアルゼンチン企業の社員募金も同額分上乗せで計50万ドル寄付の予定。
▼マイクロソフト;125万ドル。その他、社員募金12000ドルを上限に同額を寄付。現地で活動のNGO要員へのMS社対応チームの派遣。
▼モルガン・スタンリー;100万ドル。
▼モトローラ;10万ドル。その他、上限25000ドルで社員募金に同額上乗せで寄付。
▼北米ネスレ・ウォーターズ;100万ドル相当分の飲料水
▼ニューズ・コープ;25万ドルを米赤十字社と救世軍に。その他25万ドルを上限に社員募金に同額上乗せでNGOに。
▼ニューヨーク・ヤンキーズ;50万ドル。
▼パナソニック;10万9962ドル(1000万円)。
▼ペプシコ;100万ドル。
▼トヨタ;50万ドルを米赤十字社、セイヴ・ザ・チルドレン、国境なき医師団に。
▼トイザらス;15万ドルをセイヴ・ザ・チルドレンに。
▼ユニリーヴァー;50万ドルを国連食糧計画に。
▼ヴェライゾン基金;10万ドル。携帯テキストで米赤十字社に寄付できるように変えた。
▼VISA;20万ドルを米赤十字社へ。
▼ウォルマート;50万ドルを米赤十字社へ。10万ドル相当の食糧パッケージを赤十字社へ。
▼ウォルト・ディズニー社;10万ドルを米赤十字ハイチ地震救援基金に。

  ……等々。これらは日本でも知られている名前を適当にピックアップしたもので、リストはこの倍以上あります。なお、リストは米時間19日午前の時点のものです。

電話会社ヴェライゾンとAT&Tは携帯のテキストメッセージで10ドルを寄付できる方法を広め、米市民からの募金は17日までに(地震発生後5日間)で1600万ドル(15億円)を突破したそうです。上記リストにはありませんが、アップルはアイチューンズ・ストアで楽曲やソフトを買うように寄付ができるようにもしています。米大リーグやNYヤンキーズが募金に名を連ねたのは、ハイチからの野球選手が多くいるからでしょうね。

思えば9・11もインド洋大津波の時もそうでした。世界の大災害に当たって、欧米の大企業はそのホームページを続々とお見舞いのデザインに変えていました。でもそのときも、日本の企業のホームページは相も変わらず自社の宣伝だけ。こんなに世界が大わらわなときに、能天気というか、危機管理ができてないというか、現実問題と隔絶してるというか、最も安上がりで手間も時間もかからない企業の社会貢献マーケティングのチャンスをみすみす見逃しているのです。

とはいえ、上記リストにはトヨタとパナソニックも名を連ねていますね。素晴らしい。いま両社のホームページを見たら、ちょこっと、控えめではありますが義援金の拠出についてニュースとして報告してありました。「わが社は◎◎ドルを寄付しました」ってHPに書き加えたって、こういう場合、だれも売名だなんて思いません。企業ってのは稼いでなんぼです。稼いで、それで堂々と寄付もする。それも次の稼ぎにつなげてまた寄付をする。そう、こういうことならどんどん売名すべし、です。

日本の企業にまた呼びかけます。御社のホームページ(トップページ)にいますぐハイチへのお見舞いの言葉を書き込むことです。そうしてそこからクリックで日本赤十字社なりへの募金ページに飛べるようにすることです。それだけで企業の社会意識の高さが示せます。それがCRMの初歩というものでしょう。それをぜひとも企業としてマニュアル化してほしい。

何度も言っていますが、私たちは超能力者じゃないから、なんでも言葉にしなくては通じないのです。お見舞いの言葉もそう。たとえ日本語で書いてあっても、企業としてのそのお見舞いの表明は消費者としての日本国民のお見舞いの言葉と募金に姿を変えて世界に表明されるはずです。

今回も、民主党政府になってからさえも、日本はまたフロリダにいた自衛隊の輸送機を使えないものかと調整してそれで時間を食って出遅れたようです。べつに自衛隊を使う使わないはいいから、そうじゃなくて、とにかく文民の発想で援助にいち早く立ち上がる。それが憲法9条を掲げる日本の国際貢献の基本形だと思います。

January 13, 2010

日米外相会談

さきほどTBSラジオからハワイで行われたクリントン-岡田会談に関してコメントを求められました。また5分程度だったんで思うように喋られず。早口になっちゃうんですよね。ダメポです。

というか、こちらはいまハイチの地震報道一色で外相会談に関してなんらテレビでは速報も続報もありません。新聞がかろうじてAPやロイター電を伝えているのですが、ワシントンポストがかなり今回の雰囲気の変わり具合を如実にというか、なんとなく描写していて面白いです。そこには、日米関係に詳しい人たちが「たかだか40機のヘリコプターの移設問題くらいで日米関係をハイジャックさせてはいけない」って言っている、って書いているのです。NYタイムズもまた、今回の会談を日本との関係を修復するためのものだと位置づけていたし、あらら、なんだか日本で伝えられているのとは違う感じです。(って、私は前から言っていたんですけどね)。

日本の報道をオンラインでチェックしてみたら、「普天間、平行線」という見出し。でもそれって「5月までに決める=5月までは決めない」ってことだからすでにわかってることで、いまのこの時点で見出しになるようなことではないはずです。ことさら日米の「亀裂」を取り上げてみて、この人たちは何が言いたいのか? というかどこに着目しているのか?

アメリカの新聞もかねてから普天間および沖縄にはかなり同情的な視線を持っていたのでしたが、今回はややそれとも報道の仕方が違うようです。より積極的に、日米の不協和音を鎮めるようなトーンが目立って、NYタイムズは「普天間という個別問題で日米同盟という大きな枠組みは壊れない(indestructible)のだ」ってクリントン国務長官が言ってることを取り上げています。

もちろん米国は「これまでの日米同盟こそがベストの道」という主張を崩してはいません。しかしそれはどういうことかというと、意地悪い言い方ですけど、これから20年先を見越した東アジアの安全保障のためにベストという意味じゃなくて、とりあえず今年のいまの時点のオバマ政権にとって一番いい、という意味なんですよね。というのもいまオバマ政権は内憂外患というか、支持率、昨日の NBCの調査で50%を初めて切って、46%になっちゃったんです。アフガン戦争の行方が見えないこと、失業率が10%を超えたままであること、税金を投入して救った金融業界へのボーナスがまた平均で5千万円だとかいうニュースが出始めて、国民の不満がたまりにたまっている。そういう大わらわなときに、これまでいつも助けてくれていた日本までが面倒臭いことを言い始めて、とことん困っているんです。ここはどうあっても、合意どおりに進めてほしい、それがベストな道なのだっていわざるを得ないでしょう。

で、そうしたうえでで、新聞の見出しはクリントン国務長官が日本の決定の遅れをアクセプトした、受け入れた、というトーンになっているのです。

じつはこれには伏線があります。1月6日のNYタイムズに、ジョセフ・ナイが、この人はハーバード大の名誉教授でリベラル派の国際学者といわれてる人で、民主党のカーターやクリントン政権で外交や軍事政策に関わった専門家でもあるんですが、この重鎮が、普天間移設問題に関して寄稿して「some in Washington want to play hardball with the new Japanese government. But that would be unwise(ワシントンの一部には、日本の新政権に対して強硬な姿勢をとりたがっている連中がいるけれども、そりゃバカだ)」といって、「忍耐強く交渉にあたるよう求めた」(朝日新聞)のです。

これを報じた朝日新聞を引きましょう。
同紙は「ナイ氏は『個別の問題よりも大きな同盟』と題する論文で、『我々には、もっと忍耐づよく、戦略的な交渉が必要だ。(普天間のような)二次的な問題のせいで、東アジアの長期的な戦略を脅かしてしまっている』とした。
 東アジアの安全を守る最善の方法は、『日本の手厚い支援に支えられた米軍駐留の維持』だと強調」した、というわけです。

まあ、「論文」というか、全体で750語ほどの新聞用の短い寄稿文なんですが、これとまったくおなじ文脈でクリントンが今回の岡田会談に臨んだように見受けられます。「中国の軍事的な台頭を考慮して」という部分ももちろん共有しています。

ナイはじつはクリントンの外交上の知恵袋でもあって、一時は駐日大使になるかとも思われた人なんですけど、結局はオバマの選挙スポンサーだったルースが大使になったという経緯があります。で、そのオバマがナイを嫌った理由の1つが、ナイってのがかなりこれが戦略的な人でして、これも日本の事情を慮ってというよりはアメリカの国益がどうか、東アジアのアメリカの覇権をどうするか、という(まあ、もっともな)立場なんですね。末尾にこの寄稿文全体を貼付けておきますが、この中で朝日が触れていないニュアンスとしてかれはこう言っています。

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Even if Mr. Hatoyama eventually gives in on the base plan, we need a more patient and strategic approach to Japan. We are allowing a second-order issue to threaten our long-term strategy for East Asia. Futenma, it is worth noting, is not the only matter that the new government has raised. It also speaks of wanting a more equal alliance and better relations with China, and of creating an East Asian community — though it is far from clear what any of this means.
たとえ鳩山氏が結果的に基地計画で折れたとしても、われわれは日本に対してより我慢強く戦略的なアプローチをしていかねばならない。われわれがいまやっていることは東アジアのためのわれわれの長期的戦略を二次的な問題で脅かしているという事態なのである。普天間は、そんなものは屁みたいなもんだし、日本の新政権が持ち出してきた数多くの問題の1つでしかない。新政権が言っているのはより平等な同盟関係とか、中国とのよりよい関係とか、東アジアのコミュニティの創造だとか、まあ、意味ははっきりとはわからないまでもそういうことなのだ。

When I helped to develop the Pentagon’s East Asian Strategy Report in 1995, we started with the reality that there were three major powers in the region — the United States, Japan and China — and that maintaining our alliance with Japan would shape the environment into which China was emerging. We wanted to integrate China into the international system by, say, inviting it to join the World Trade Organization, but we needed to hedge against the danger that a future and stronger China might turn aggressive.
東アジア戦略に関して1995年にペンタゴンの報告書を手伝ったときに、われわれの見据えたことはこの地域に3つの大国が存在しているという現実だった。すなわち、米国、日本、中国である。われわれが日本との同盟関係を維持することが中国が台頭してくるその環境を決定づけるのである。われわれは中国が国際的なシステムの中に入ってくるよう望んでいた。たとえば世界貿易機関(WTO)に参加するなどして。しかしわれわれは同時に未来のより強大になった中国が好戦的に変わる危険にも備えなくてはならなかったのだ。

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かなりしたたかでしょう。
そう、日本が中国を見ているように、アメリカもまた中国との関係で日本はとても重要な国なのです。その三つ巴の(?)バランスを上手く保たねば、この地域でのアメリカの覇権も危うい。そのためには普天間など取るに足らない問題だ、というわけです。おそらくこれはクリントン国務省の考え方と同じと考えてよい。

ワシントンポストはまさにそこを次のように書いています。(翻訳文のカッコ内は私の註です)

The new tone also stems from a growing realization in Washington and Tokyo that the base issue cannot be allowed to dominate an alliance crucial to both countries at a time when a resurgent China is remaking Asia, signing trade deals and staking claims to ocean resources.
ワシントンと東京で、再び台頭してきた中国がアジアを再構築し貿易問題をまとめ海洋資源の所有権を主張しようとしているとき、米日両国にとって死活の問題である同盟関係を基地問題などで右往左往させてはならないという認識が育ってきて、(日米間の亀裂、不協和音とは違う)あらたな傾向が出てきた。

(中略)
But Tuesday, Clinton was understanding.
火曜日(12日=日米外相会談の日)、クリントンは(日本の立場を)理解していた。

"We are respectful of the process that the Japanese government is going through," she said. "We also have an appreciation for some of the difficult new issues that this government must address," including the widespread opposition to the U.S. military presence on Okinawa.
「日本政府が経験している過程はわれわれも尊重している」と彼女(クリントン)は言った。「またこの(日本の)政府が困難で新たな問題のいくつかに取り組んでいることも私たちは評価している」と。その問題には沖縄の米軍の駐留に対する広い反対意見のことも含まれている。

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ね、いかに「普天間、平行線」という見出しが間違っているか、これでわかるでしょ?
岡田外相と、その報告を受けた鳩山首相が上機嫌そうだったのは、こういうことなのです。

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以下、ナイのエッセーを添付しときます。時間があったら翻訳しますけど、いまはちょっと全部は無理。

SEEN from Tokyo, America’s relationship with Japan faces a crisis. The immediate problem is deadlock over a plan to move an American military base on the island of Okinawa. It sounds simple, but this is an issue with a long back story that could create a serious rift with one of our most crucial allies.

When I was in the Pentagon more than a decade ago, we began planning to reduce the burden that our presence places on Okinawa, which houses more than half of the 47,000 American troops in Japan. The Marine Corps Air Station Futenma was a particular problem because of its proximity to a crowded city, Ginowan. After years of negotiation, the Japanese and American governments agreed in 2006 to move the base to a less populated part of Okinawa and to move 8,000 Marines from Okinawa to Guam by 2014.

The plan was thrown into jeopardy last summer when the Japanese voted out the Liberal Democratic Party that had governed the country for nearly half a century in favor of the Democratic Party of Japan. The new prime minister, Yukio Hatoyama, leads a government that is inexperienced, divided and still in the thrall of campaign promises to move the base off the island or out of Japan completely.

The Pentagon is properly annoyed that Mr. Hatoyama is trying to go back on an agreement that took more than a decade to work out and that has major implications for the Marine Corps’ budget and force realignment. Secretary of Defense Robert Gates expressed displeasure during a trip to Japan in October, calling any reassessment of the plan “counterproductive.” When he visited Tokyo in November, President Obama agreed to a high-level working group to consider the Futenma question. But since then, Mr. Hatoyama has said he will delay a final decision on relocation until at least May.

Not surprisingly, some in Washington want to play hardball with the new Japanese government. But that would be unwise, for Mr. Hatoyama is caught in a vise, with the Americans squeezing from one side and a small left-wing party (upon which his majority in the upper house of the legislature depends) threatening to quit the coalition if he makes any significant concessions to the Americans. Further complicating matters, the future of Futenma is deeply contentious for Okinawans.

Even if Mr. Hatoyama eventually gives in on the base plan, we need a more patient and strategic approach to Japan. We are allowing a second-order issue to threaten our long-term strategy for East Asia. Futenma, it is worth noting, is not the only matter that the new government has raised. It also speaks of wanting a more equal alliance and better relations with China, and of creating an East Asian community — though it is far from clear what any of this means.

When I helped to develop the Pentagon’s East Asian Strategy Report in 1995, we started with the reality that there were three major powers in the region — the United States, Japan and China — and that maintaining our alliance with Japan would shape the environment into which China was emerging. We wanted to integrate China into the international system by, say, inviting it to join the World Trade Organization, but we needed to hedge against the danger that a future and stronger China might turn aggressive.

After a year and a half of extensive negotiations, the United States and Japan agreed that our alliance, rather than representing a cold war relic, was the basis for stability and prosperity in the region. President Bill Clinton and Prime Minister Ryutaro Hashimoto affirmed that in their 1996 Tokyo declaration. This strategy of “integrate, but hedge” continued to guide American foreign policy through the years of the Bush administration.

This year is the 50th anniversary of the United States-Japan security treaty. The two countries will miss a major opportunity if they let the base controversy lead to bitter feelings or the further reduction of American forces in Japan. The best guarantee of security in a region where China remains a long-term challenge and a nuclear North Korea poses a clear threat remains the presence of American troops, which Japan helps to maintain with generous host nation support.

Sometimes Japanese officials quietly welcome “gaiatsu,” or foreign pressure, to help resolve their own bureaucratic deadlocks. But that is not the case here: if the United States undercuts the new Japanese government and creates resentment among the Japanese public, then a victory on Futenma could prove Pyrrhic.

December 31, 2009

オバマの1年

年末、TBSや東京FMや大阪MBSラジオなど、いろんなラジオ局から大統領がオバマになったアメリカの1年を振り返ってのコメントを求められました。オバマは「Change」と「Yes, we can」で大統領になったが、アメリカは変わったのか、うまく行っているのか、という質問です。それを5分とかで喋れと言われてもなかなかきちんと説明できなかったので(MBSは25分くれました、感謝)、ここでちょっと詳しくおさらいしてみることにします。

12月は青森と大阪で講演があって日本にいるのですが、ちょっと戸惑うのはオバマに対する評価の日米の温度の差です。なんだかある時期のゴルバチョフを連想させるようなところもあります。というのも、2009年を振り返るTVの特集などがこの時期あちこちで放送されていますが、そんな中には「オバマが世界を動かした」などと見出しを打ってはしゃいでいる番組もあったのです。しかしアメリカにいた私にはどうもそうは思えなかった。小浜市を初めとして世界は勝手にオバマに期待して動いたかもしれませんが、世界は動いてもアメリカだけはオバマでも動かなかったと言っていいかもしれません。

なぜならオバマの今年は、とにかく、前政権ブッシュの後始末に追われた1年だったからだと思います。チェンジに取りかかろうにも、まずは後始末しなければならなかった。そのためにはリベラル派と保守派との間で、彼は実に慎重な手探りの政策を続けざるを得なかったのです。それははたから見ていてじつに見事な綱渡りのようにも見えましたが、もちろんそれはリベラル派から見ればじつに欲求不満の募るやり方でした。なぜならオバマの1年はまた、国内で3割を占めるコアなこの保守・右派層の心証を害しないように布石を打った1年でもあったからです。

その一例が核廃絶宣言です。プラハ演説で核廃絶を述べたと思ったら、ノーベル平和賞のオスロでの演説では戦争の必要性、正当性をも説いた。じゃあいったいどっちなんだ、と世界は戸惑っているようでした。

しかし、アメリカではあのプラハ演説、画期的な宣言ではあったがだれも直近の問題とは受け取らなかったのです。つまりだれも真に受けなかったのですね。これだけ軍事・兵器産業が肥大化している大国が、ギアをシフトしてハンドルを回すにはものすごい時間とエネルギーが必要であることをみんな知っているからです。そんなことでははしゃげない。

あれは短期的視野ではなく、彼一流の理想論でした。ノーベル平和賞の委員会はおそらく賞のダイナミズムを彼のリベラリズムの推進力の1つとして加勢したいと思ったのでしょうが、あれは米国内ではむしろやぶ蛇だった面もあります。賞の受諾スピーチでニコリともしなかったオバマ自身がそれを痛いほど感じていたはずです。だからオスロではああして「正しい戦争」を言葉にしたのです。あれは、世界への演説ではなくて米国の保守右翼たちへ向けた演説でした。米国の大統領はかくも自国の、自国のみの国益を考えて行動するものだということをまざまざと感じさせてくれた演説でした。

イラク戦争からの撤退もそうでした。これは保守強硬派からは非難囂々でしたが、その顰蹙を買うのを避けるために戦争自体はやめられなかった。つまり、アフガン戦争にシフトしただけだったわけです。オバマはここでも綱渡りして保守派からもなんらかの安心を勝ち取ったのです。

彼は計算高いのでしょうか? そうかもしれません。同じように3割を占める国内のコアなリベラル派にはオバマ以外の選択肢はないのですから、いくらリベラルな政策が出てこずに苛ついても、それは保守反動からの反発とはまったく意味合いが違います。「裏切り者」となじっても、どこかにオバマへの期待を首の皮一枚でつないでいる、みたいな……。

景気や経済対策も大変でした。リーマン・ショック後の後始末です。GMの破綻。AIGやシティバンクやメリルリンチもそうです。これらを潰すことなく巨額の公的資金を注入しました。これも「大きな政府」を嫌う本来の共和党支持者たちの反発と、大企業優遇に不公平感を募らせるリベラルな民主党支持層と、金融資本で生きている影の共和党支持の金持ちたちの意向との、じつに捩じれた世論の中での決断でした。なのにいま莫大な税金を使って救った金融や保険企業が、景気回復はまだなのに勝手にまた儲け始め、ものすごい高額報酬を復活させ、なおかつ税金を返していないという問題が明るみに出ています。アメリカは失業率が10%なんですよ。どうしてこんな格差が生まれているのでしょう。

にっちもさっちもいかなかったオバマの1年でしたが、じゃあ、まったく成果が出ていないかというと、ここにきて国民医療保険改革がやっと形になってきたということはあります。こないだ、クリスマス前に連邦上院で医療改革法案が可決しました。これは大変なことです。ヒラリー・クリントンが議会にも出せずに頓挫・失敗した健康保険です。国民保険って、アメリカ社会にとってはほとんど革命にも近い大事業なのです。

なぜにそんな大問題なのかというと、アメリカという国家は、この健康保険問題にも象徴されるように、政府が国民のことについてなんだかんだ出しゃばってやってやる、あるいは規制してくるというのを可能なかぎり否定してきた国なんですね。自助努力をモットーにするというか、もともと国の成り立ちがそうだからなんですけど、とにかくまず自由人、自由な個人という存在があって、その後に国が出来る。その「国」の政府というのは、自由な個人に対しては最小限な規制しかしない。それが自由な国だ、というわけなのです。銃の規制が進まないのもそういう背景があるからです。

で、健康保険なんていうのも、国が個人の面倒を見るわけでしょ?、するとそれは社会主義的な制度だという批判が起こる。この「社会主義」という言葉は、アメリカではもう悪の権化みたいな響きです。ずっと米ソ冷戦構造で育ってきたひとたちですから、頭の中で「社会主義=悪者」という刷り込みが出来上がっています。

で、オバマに対して批判する人たち,保守・右翼層というのは、これはおそらく彼が黒人だということも深層心理にはあるんだと確信してるんですけど、「オバマはは社会主義者だ」という大々的な批判キャンペーンを繰り広げてきたのでした。オバマをヒトラーになぞらえる批判キャンペーンもありました。ヒトラーも国家社会主義政治家として登場してきたわけだからでしょう。まあ、ほとんどデマみたいなレベルの批判だったのですが、これが米国内ではけっこう功を奏したわけです。そこにFOXTVなどという保守メディアまでが結託して支持率は急落したわけです。

保守派からのオバマ批判はそれはそれは大変な1年でした。

そしてそんな中で、普天間が出てきたのです。

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よく日本の新聞の見出しなどで出てくる「米政府が不快感」というのは、まずはこうした背景を理解しておく必要があるでしょう。つまり、「もー、こんなにあちこちでめっちゃ大変なのに、えー、今度はニッポンまで? なんでだよー? いままではぜんぜん文句も言わなかった安全パイだったのに、よりによってなんでこんな大変なときに一度合意したことを急にダメって言ったりするわけえ?」ってなことです。アメリカの政治家も官僚も人の子ですからね。

鳩山政権の発足当初の、というか普天間合意見直し発言の当初の米政府の反応はまずはそういう次元でした。ぼやきレベルなのではっきり「不快感」を示すのも大人げないからオバマ政権だって時間稼ぎで成り行きを見ていたのです。そのうちに日本のメディアが米「側」の不快感を先取りしていろいろ言い出します。それに反応してアメリカのメディアも加わり、同じネタを日米のメディア間で紹介し合ったり孫引きしたりでたらい回しすることになります。そのうちにオバマ政権内でもそれまでの心理的なぼやきから派生したいろいろな理論武装が始まります。理論武装したらあとは言ってくるだけです。

で、そこからなのです。話し合いというのは。

普天間の問題は、基本的に2つの問題に集約されます。

1つは、20年後の日米同盟と、20年後のアジアと世界の安全保障がどうなっているかという問題。
もう1つは、沖縄に基地が集中している問題。

沖縄の基地集約問題はいずれ解決しなければならない問題だと言い続けてもう数十年経ちました。自民党政府は解決をずっと先送りしてきたのです。したがって、これを解決するときはつねに「何でいま?」という抵抗が起きます。それはもう宿命です。つまりこの「唐突感への抵抗」は、この問題に関する新しい障害ファクターではない。それはすでに織り込み済みのこととして考えるべきものなのです。

つまり、沖縄の基地負担は軽減しなければならない。これはすでに至上命題です。異論はない。では次の問題はいつ、どのように、ということになってきます。

それを20年後の日米同盟と、20年後のアジアと世界の安全保障に絡めて考えなければならないのです。その場合、沖縄の基地、日本国内の米軍基地そのものの存在意義にまで立ち入って考えていかなければならない。

沖縄の基地の役割は、冷戦構造下での共産主義体制への防波堤という意味からは大きく変わっています。当時は中国・ソ連が相手だった。でも今は違う。中東への中継地、あるいは北朝鮮への即応基地。でもね、普天間移設の海兵隊というのは、ぜんぜん即応部隊ではないんです。この無人遠隔攻撃の時代に、海兵隊というのは今でも最も勇敢な人的作戦展開の部隊なのです。つまり即応ではなく、最後に乗り込んで残る敵を殲滅するのが役割。するととうぜん沖縄にいなければならない部隊ではない、という結論になるのです。

さらに言えば、20年後を見据えた東アジアの安全保障は、すでに中国の協力なしには不可能です。アメリカが8000億ドルも中国に国債を買ってもらっている現在、いったい米中のどんな「有事」が成立できるのでしょう。北朝鮮問題だって、沖縄の基地なんかよりも中国こそが有効なのです。こないだの中国の副主席の天皇面会問題も、政治利用と言われましたが、これは深く国家の安全保障の問題のように見えます。戦争が始まるかもしれないときに、天皇をも総動員してその戦争を回避しようとするのは、それは政治利用とかそういう卑小な問題ではないのではないか。

そんなこんなの事情が背景にある普天間問題です。アメリカの、オバマ政権の都合を斟酌して「米政府が不快感」というのは、あまりにも問題を矮小化している。

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前述しましたが、アメリカはもとよりどの国だってまずは自国の利益にのみ則って外交を展開します。もちろん相手への斟酌は必要ですが、それは交渉の中ではぜったいに表立って出してはいけないのが常識です。ところがどうしても日本外交は笑顔外交なんですね。相手の気持ちを先取りして、ついつい退いてしまう。

もともとこの普天間・辺野古の移転にしても、3年前の日米合意に先立ってアメリカには全部グアムに移転するというオプションもあったのです。なのに当時の自民党政府と防衛庁は、まあ、急に全部いっぺんに行かれちゃ日本の安全保障もおぼつかなくなるし日本側の準備だって間に合わない、そんなにドラスティックなシフトではアメリカ側の負担にもなるだろうと考えた。で、日本側として普天間案をプッシュしたのです。アメリカとしては「そんなにまでおっしゃるのなら」ですよ。「じゃあ普天間で行こう。せっかくの思いやり予算もあるし、日米地位協定もある。そこまでいわれて据え膳食わぬは」です。カモが葱しょってるみたいなのですから。

アメリカの交渉というのはこれなんです。元々相手側からの思いやりなどは期待していません。交渉における品やカモネギなどは期待してないのです。アメリカ側が期待するのはじつはカウンターオファーです。えげつなくとも、それが交渉するときの役割分担です。言い合うことを第一の前提にして、その中でより良い結論を探り合う。これは裁判の検察と弁護人との立場にも似ています。どんなに悪いやつでも弁護人はそいつのいいところを言い立てるのが仕事ですし、どんなに情状酌量があろうとも検察は悪いところを言い募るのが仕事です。そういう中から結論を導き出すシステム。

交渉とはまさにそうなのです。心を鬼にして、そういう立場で言い立てる、吹っかける、吹っかけ返す。それがどうも日本人には分かっていません。外務省の官僚がワシントンの連中と交渉するのを見たことがありますが、彼らも分かってないんじゃないでしょうか? だいたい、議論に臨むときに笑顔を見せるということからしてダメなのです。官僚たちはみんなええとこのボンボンみたいになってしまって、ニコニコ相手の顔色をうかがいながら日本側の主張を出している。そんなことをずっと続けてきたのです。笑顔を見せていると、アメリカ人は「何が可笑しいんだ? なんか笑えることがあるのか?」とマジに思うんですよ。笑顔は彼らにとっては挨拶ではないのです。笑顔は「笑っちゃうこと」の表示なのです。ましてや交渉の潤滑剤ではけっしてありません。

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私は、極論を言えばアメリカが「世界の警察」を標榜するなら、日本は「世界の消防」を標榜すればよいのにと思っています。どうして日本は平和憲法を盾にして「日本は世界の消防だ」っていわないのかなあ、って思っています。

警察は権力をまとうので人に嫌われることもやらねばならないこともある。でも、消防を恨む人なんて、いませんよ。消防署、消防団員は、尊敬されることはあっても「消防出て行け」なんていわれたことはない。

アフガンでもイランでもイラクでも、日本は消防なんだ、サンダーバードの国際救助隊なんだ、って宣伝すればいいんです。それは最大の武器です。そんな人たちに鉄砲向けたりしたら、バチが当たる、そう思ってもらうことです。それがアメリカの手先と思われるから一緒になって攻撃されたり殺されたりする。警察と消防を、日米で分担するんですよ。それが何よりもこれからの安全保障の基盤だと思っています。丸腰で、もくもくと火を消し、人を救助し、復旧を手伝う。それを宣伝することが一番の,ソフトとしての実に有効な防衛手段なのです。軍服を着ている人間を攻撃するやつはたくさんいますが、丸裸の人間に切りつけられる人はそうはいません。まあ、丸腰で戦場に臨むというのは、ものすごく勇気の要ることですがね。

そういう立場に立って、私は沖縄の、日本国内の米軍基地はなくなるべきだと思っています。まあ、なくならないだろうという現実認識を担保にしている嫌いもなきにしもあらずですが、だからこそそう言い続けています。

December 14, 2009

年越しの果てに見えてくるもの

小沢幹事長の600人大訪中団や習近平中国副主席の天皇会見設定などを見ていると、普天間移設問題で結論を先送りにしている日本の民主党は、実は東アジア全体の安全保障の根本的再構築を狙っているのかと思ってしまいます。膨大な国債依存関係の米中接近を横目に、米中だけでは決めさせないぞとも言わんばかりの日中接近。

にもかかわらず日本での報道は相変わらずです。普天間先送りでは「米国が激怒」とまるで米政府の代弁者のような論調。小沢訪中団に関しても「民主党の顔はやはり小沢」と、些末な党内事情へと矮小化して報道する。

普天間問題で日本の新聞に登場する米国のコメンテイターたちはマイケル・グリーンやアーミテージなどだいたいが共和党系、あるいはネオコン系の人たちで、従来の「揺るぎない」日米関係、つまり「文句を言わない日本」との日米同盟を前提としてきた人たちです。メディアは彼らを「知日派」と紹介して鳩山政権の対応の遅れやブレを批判させているのですが、彼らの「知日」は自民党政府と太いパイプを持っていたという意味であって、「知日」というより自民党政権のやり方に精通しているという意味なのです。だから、民主党政権の(不慣れな)やり方に、やはり彼らも不慣れなために、「前のやり方はこうではなかった」という戸惑いや批判を口にしているにすぎない。その証拠に、自民党に同じ質問をしてごらんなさい。彼らと同じコメントが出てくるはずです。新聞は、そんな浅薄な、というかいちばん手近なやり方で論難しているのです。

米国のルース駐日大使に関してもそうです。岡田会談から始まる政権との会談で対応の遅れに不満表明と報じられていますが、大使というのも指名ポストながらも役人なのです。米政府の役人が米政府の従来路線の踏襲とその事務的な執行を目指すのは当然であって、これまでに決まった米国の立場を説明する以外の権限がないのだから「困った」と言うに決まっています。それ以外、何を言えるのでしょう? まさか、「わかった、私が政策転換をオバマに進言しよう」と言いますか? それが「ルース大使、声を荒げる」とか、見てきたような作文まで“報道”する新聞もありました。

米国のメディアは米国の国益を基に主張しますが、日本のメディアまでが米国の国益を主張するのはいったいどういうねじれなのでしょう。

普天間問題では、日米の取り決めは「合意」であって「条約」でも「協定」でもないのだから、それを検討し直すのは実は外交上は「あり得べからぬこと」ではないのです。もちろん重要な日米関係、事は慎重に進めねばなりませんが。

しかし8000億ドルもの米国債を保有する中国を抱えて、米国の東アジア安全保障の概念も、冷戦時とは大きく様変わりしています。日中の経済関係もますます重要になってきます。「対共産主義の防波堤」だったはずの日本の米軍基地の位置づけも、いまや不安定な中東への東側からの中継地へとシフトしています。沖縄に80%を依存する日本の米軍基地とはいったい何なのか? それは果たしてそもそも必要なのか?

日米中の3国によるここでの新たな枠組みの構築は、21世紀の枢要な安全保障へと発展するはず。小沢はそのあたりを見据えているのではないか? あるいはまた、鳩山の「常駐なき安保」という路線はあながち今も生きているのかもしれません。その枠組みの中で沖縄をどうするのか、そう考えるとこれは性急に結論を出せるものでもないのかもしれない。

習近平副主席の天皇会見で中国に貸しを作った民主党は、まずは直近の安全保障問題である北朝鮮に関して何かを狙っているのではないかといううがった見方もできます。政府要人か党首脳の電撃訪朝と拉致問題の解決・進展なんていうのもあり得ない話ではないかもしれません。新年に向けて期待したいところです。

December 02, 2009

世界エイズデー

1日は世界エイズデーでした。いま講演会のために日本に来ているのですが、メディアも含め、日本ではほとんどエイズは話題になっていませんでした。じつはこの日はニューヨークで30年近くもエイズ医療に携わってきたセントルークス病院の稲田頼太郎先生と、同じく日本のエイズ報道の第一人者である産經新聞の宮田一雄記者に会って話をしていたのです。

稲田先生は来年、エイズ危機の続くアフリカのケニアに活動拠点を移すために、日本に戻って企業各社からの寄付集めに奔走しているところでした。しかし日本もいま景気後退とデフレと円高で、先生の活動に共鳴はするもののなかなか資金的な援助が出てこない。

一方、宮田さんは今春からの新型インフルエンザに対する日本社会の対応があまりに排他的であり続けていることに、エイズ禍からの教訓をなんら活かしていないと嘆いていたのでした。

米国のエイズ禍で私たちが学んだことは、第一にパニックを煽らないこと、そして患者・感染者を決して排除しないことです。それが危機をしっかりと受け止め、それにきちんと対処できる社会を作る基本なのです。

ところが今春からの新型流感に関して、日本政府はすべてその逆をやった。厚労相だった舛添さんは「いったい何事か」というべき異例の深夜1時半の記者会見を開き、まだ感染の事実すらはっきりしない「疑い例」なる高校生の存在を発表してパニックを煽りました。しかもこの高校生をまるで犯罪者のように「A」と呼び捨てにし、図らずも患者・感染者への排除の姿勢を身を以て示してしまったのです。

あの緊急記者会見を見ながら、せめて「Aくん」と呼んでやれよ、と思ったのは私だけではありますまい。まるで感染した者が悪いのだといわんばかりの日本社会のバッシング体質。エイズ禍でも初期は「感染者探し=犯人探し」が横行しましたっけ。

果たしてこの高校生はその後、実際には新型流感には感染していなかったことがわかり、校長が涙を流して安堵している様までがメディアを通じて流されました。

これは例の「自己責任論」にも通じる狭量さです。つまり「新型流感がはやっているのを承知でどうして海外渡航などしたのだ。自業自得じゃないか」という非難です。

エイズ禍でも同じ反応でした。「セックスして感染したのなら自業自得だ」というものです。そんなことを責めても感染危機には何の役にも立たないどころか、そんなことに目を奪われていては対策の遅れにもつながりかねません。

人類はエイズから数多くのことを学んできたはずなのです。

宮田さんはそれを「パニック映画じゃないんだからヒーローはいらないってことですよ」とまとめます。実務的な、地道な対応システムの構築が重要で、深夜の会見みたいなスタンドプレーは不要ということです。

稲田先生は「排除すれば感染者は隠れる。受容すれば感染は食い止められる」というエイズ禍での逆説的な教訓を力説します。新型流感でも「感染者を隔離する」とやればだれだって検査すら受けたくなくなる。でも「感染した人をみんなで助ける」となればいち早く検査を受けて助けてもらおうとする。

感染者に優しい社会は危機に最も強い社会である。それを閑散たる国際エイズデーの東京で3人で語り合ったのでした。

October 27, 2009

メディアの立ち位置

鳩山の所信表明を読みながら、初めて欧米の政治家指導者たちのような、個人的に何を伝えたいのかがよくわかる内容だったと思いました。まあ、鳩山という人はこないだの国連気候変動演説でも理念を語らせるとなかなか雄弁な政治家で、この所信表明もきっと自分で草稿を練ったのでしょうね。問題はさて、果たしてここで言ったうちのどれほどが具現するかということだというのは当然でしょう。

ところで、自民党の谷垣総裁がこれに対して応じる民主党議員を指して「ヒトラーユーゲント」を想起させた、というのはやや無理しゃりの感があります。まあ、自民党政治の残したものを指して「戦後行政の大掃除」「無血の平成維新」といわれれば何がなんでも批判を言い返さねばならないのでしょうが、なんだか表面的な批判ばかりの普通の平凡な野党に成り下がった感じです。ここはひとつ、字面の揚げ足取りではない、本質的な批判、政治のあり方と政府のあり方を常に見据えた論戦を挑んでほしいんですが……。

でもね、もともと現在の多くの社会問題は確かにすべてほとんど自民党の政治責任を問われるような種類のものですから、なかなか攻めづらいところもあるんでしょう。だからこそ、今度の執行部は過去の自民党執行部と決別するような布陣であるべきだったのです。民主党を攻める前に、まずは自分たちの過去を責める、みたいな。そうして初めて民主党攻撃が出来るというものなのですから。

谷垣という人は宏池会という「政策に強いが政局に弱い」派閥の出だからこそ、こんな廃残の自民党を任されちゃった、みたいなところがあります。かつては「保守本流」と呼ばれた派閥だったのですが、今の自民党内ではハト派、リベラル派、知的、という場末な印象。もっともその線こそが臨まれているのだからそれでやりゃあいいのに、それじゃ民主党とかぶるところが多すぎて(じっさい、政界再編となれば真っ先に民主党のリベラル派と結ぶのは彼らだったはずですから)、戦略的にはもっと保守・反動に傾かなければならない、という事情があるわけです。そこで飛び出したヒトラーユーゲント発言なのかもしれません。

同時に、日本のメディアの書くこと言うことの首尾一貫のしていなさというか、表面的なことのあげつらいがなんだか最近すごく目につきます。これも今回の政権交代の副産物か、メディア側も混乱してるんだなあという印象です。

自民党に対しては戦後50年以上も政権の座にあったわけで、そのキャラも定着していたために各メディアの立ち位置はある程度は定まっていました。ところが今度の民主党政権には、どう対応すべきかはまだ場当たり的で、とりあえずは批判的ツッコミをしておけば無難か、みたいな報道の仕方が目につくんですね。

最近の例で言うと、日本郵政への斎藤次郎元大蔵事務次官の社長就任。「脱官僚、天下り根絶」の看板が早くも揺れたと騒ぎますが、そもそも「杓子定規の官僚外しは不合理。優秀な人材なら官僚でも登用して使いこなすべし」というのがこれまでのメディアのだいたいの論調でした。

しかし今回の斎藤元次官の起用批判は、起用そのものに対する是非というより、政権の天下り禁止路線との不整合、さらには民主党が野党だった昨年3月の、武藤敏郎元大蔵次官の日銀総裁起用の際の国会での不同意との齟齬に対する批判なのですね。

で、斎藤の起用はそもそも人材として良いのか悪いのか? 言行不一致を衝くのはジャーナリズムの重要な役割の1つなのでそれはいいのですが、同時にこの本質的な問題に触れないのでなんだかピンと来ない。斉藤氏が小沢幹事長と親しいことも取りざたされますが、「あれとあれがつながってるからねえ」という通好みの仄めかしだけでなく、わたしとしてはもっと真正面からの分析も教えてもらいたいところなのです。で、あいつは駄目なの? どうなの?

米軍の普天間基地移設問題になるともうちょっと複雑です。これは自民党政権のネジレとも関係するのですが、日本の保守層というのは本来の「国益」主義者の顔と、もう一方で安保条約に基づく米国追従者の顔の2つを持っています。この2つは本当は両立しないはずですが、自民党は内には右翼的な勇ましい顔を向けながら、米国には「思いやり予算」その他で不平等な地位協定のおべっかを振りまいてきました。安倍や町村や麻生など、ときどき日本の核武装をぶつ自民党政治家がいますが、彼らは内心これに忸怩たるものを持っていた人たちなのでしょう。自分たちでまいた種なのに。
 
同じことはメディアにも言えます。普天間問題などでワシントン・ポストやウォールストリート・ジャーナルが立て続けに「最近、厄介なのは中国ではなく日本」「鳩山外交は日米同盟をむしばむ恐れ」と書けば、米政府の「深刻な懸念」をあたかもそのメディア自身も懸念しているかのように報じる。例のNYタイムズの鳩山論文転載問題のときもそうでした。

でも外交というのは本来は丁々発止やり合って最後にニッコリ握手するのが成功というもの。ワシントン・ポストが伝えた「日米関係はこれまで不変の居心地のよいものだった」という国務省高官の感慨には、コンフォタブル(居心地のよい)という言葉の向こう側にコンビニエント(都合のよい)が透けて見えるのです。しかしこれも国益第一の米国なら当然の主張で、というか、どの国だってまずは自国の利益に立って主張するのが当たり前ですから、そういわれたってべつに驚くことはない。

なのに日本のメディアはこれまでもそうでしたが、あまりに外国での評判を気にしすぎる。やれ鳩山が外国のメディアでどう報じられたか、やれ日本の映画が、日本のアニメが、日本料理が、日本のピアニストが、日本のなんとかが、……とまるで外国での評判がそのままそのものの評価であるような。これじゃ先生にほめられることだけを目標にして行動している小学生みたいです。

そして本来ならこういう時に、日本の主体性を基に米国に噛み付いて然るべき保守メディアが、目先の政権批判にかまけてしまうのはなんだか面白いネジレだなあと思うわけなのです。まあ、基地問題では、これで国防の幾分かは米国任せで安く済む、という帳簿計算があるのだけれど、「保守」って本来は、そういう姑息な帳尻合わせは好きじゃないはずなのにね。もっとも、沖縄は「国益」の「国」の中には入っていない、彼らにとっては辺境の属国なのかもしれませんが。

いや、日本の国益を主張せよと、わたしが国粋主義者になっているわけではありません。政権交代という現象への対応を構築中の日本のジャーナリズムに、表層的なことだけではない、本質的な問題への視点も常に忘れずに提供してほしいと思っているのです。そしてじつは、民主党に対する最も必要なチェックポイントは、この、「米国と対等の同盟関係」なのです。この「対等」という言葉によって国内に台頭してくるだろう国家主義。自民党時代のネジレの鬱憤を一気に解消し晴らそうとする声の大きな国民たち、つまりは右派の熱狂です。

その意味において、じつは先に取り上げた谷垣自民党総裁の「ヒトラーユーゲント」発言は、文脈も意味も違うけれど、なんとも暗喩に満ちた正鵠を射るものであると思うのです。

悪しきポピュリズム(これに関しては3つ前のエントリーで触れました)を、ジャーナリズムと野党が、表面的ではないツッコミを忘れないことで回避してほしいと思います。

October 26, 2009

デモクラシー・ナウ!

デモクラシー・ナウ!という米国の独立系ニュース報道サイトがあります。けっこう人気のあるメディアで、大手メディアの報道しないことをいつも丁寧に取り上げ、解説し、関係者にインタヴューして紹介しています。この6月にはゲイの従軍禁止政策に関しても放送しました。

このサイトの日本語版サイトもあって、じつはここにわたしも翻訳と監修で関係しています。その6月のゲイの従軍問題のインタビュー放送が日本語字幕付きでさきほどやっと公開されました。字幕作業で時間がかかるのでタイムラグがあるのはしょうがないのです。みんな、ほとんどボランティアスタッフが作業を進めているので、ご寛恕を。

さて、表題の話題は、10月11日にワシントンで行われた平等を求める政治行進の企画者であるあのクリーヴ・ジョーンズ(ミルクの映画でも出てきました)へのインタビューから始まります。ジョーンズのこのマーチへの思いやハーヴィー・ミルクとの関係が語られます。
http://democracynow.jp/submov/20090619-2

2回に分けて放送されています。後半が「ドント・アスク、ドント・テル(上官や同僚はその人が同性愛者であるかどうかを質問ないし、ゲイの兵士も自分からそうだと公言もしない限りにおいて、同性愛者も従軍できる)」とした従軍規定に関するものです。
http://democracynow.jp/submov/20090619-3

どうぞ時間のあるときにでも視聴してください。
米国では、メディアもこうして性的少数者の人権問題に正面から取り組んでいます。

October 13, 2009

平等を求める全米政治行進

毎年10月11日は米国では「全米カミングアウトの日 National Coming-Out Day(全米カミングアウトの日)」とされています。もっとも、これはべつに政府が定めた記念日ではありません。アメリカのゲイ・コミュニティが、まだ自分をゲイだと言えない老若男女に「カム・アウトする(自分が同性愛者だと公言する)」ことを勧めようと定めた日です。今はゲイだけでなくLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)と総称される性的少数者全体のカムアウトを奨励する日として、この運動はカナダや欧州にも広がっています。

その制定21年目に当たる今年の10月11日(日)、快晴のワシントンDCで数万人の性的少数者とその支援者を集めて「The National Equality March(平等を求める全米政治行進)」が行われました。日本ではほとんど報じられませんが、性的少数者たちの人権問題は米国では最大の国内的政治課題の1つです。

若い人たちがことのほか多く参加しています。なんか、ヒッピー・ムーヴメントみたいな格好をした人たちもたくさんいますね。このビデオの最後にはあのハーヴィー・ミルクの“弟子”であるクリーブ・ジョーンズも登場しています。インタビューアーが、このマーチが終わってみんな帰ってから何をすればよいか?と問いかけています。クリーブ・ジョーンズはすべての選挙区で自分たちの政治家に平等の希望を伝える組織を作るように勧めています。「私たちはこのマーチをするために組織化したのではない。組織化するためにマーチしたんだ」と話しています。

ところで National Equality March のこの「平等」とは、現在最大の議論の的である「結婚権の平等」をめぐってスローガン化しました。同性愛者たちも同じ税金を払っている米国民なのだから、同性婚も異性婚と同じく、平等に認められて然るべきだという議論です。そこから、これまで取り残してきた「雇用条件の平等」や「従軍権の平等」も含めて、LGBTの人権を異性愛者たちと等しく認めよという大マーチが企画されたわけです。

この行進の前日10日、オバマ大統領はLGBTの最大の人権組織ヒューマン・ライツ・キャンペーンの夕食会で演説し、選挙期間中の公約であった「Don't Ask, Don't Tell(訊かない、言わない)」政策の撤廃を改めて約束しました。

これはクリントン政権時代に法制化されたもので、それまで従軍を禁止されていた同性愛者たちが、それでも兵士として米国のために働けるように、上官や同僚たちが「おまえはゲイ(レズビアン)か?」と聞きもしないし、また本人が自分から「自分はゲイ(レズビアン)だ」とも言ったりはしない、と取り決めた規定です。つまり、ゲイ(レズビアン)であることを公言しない限り、ゲイではないとみなして従軍できる、としたもので、オバマ大統領は選挙戦時点からこれは欺瞞だとして廃止を宣言していました。ところがいまのいままでオバマ政権は、撤廃に向けての手続きを具体的にはなにも行っていなかったのです。

ノーベル平和賞とは、和平・平和への取り組みだけでなく人権問題での活躍に対しても表彰されます。まあ、まさかそれが後押ししたのでもないでしょうが、今回の公約再確認は、いつどのように具体化されるのか、見守っていきたいと思います。

ところでいまCNNが、カリフォルニア州での「ハーヴィー・ミルクの日」の制定に拒否権を行使するとしていたシュワルツェネッガー州知事が、一転、拒否権行使を否定し、制定を認めると発表したというのを報じていました。今も全米で同性婚の権利を勝ち取ろうという闘いが議会や住民投票の動きの中で続いています。

おそらく明日13日、デモクラシー・ナウ!という独立系報道メディアの'日本語版翻訳サイト'で、6月に放送されたLGBT問題のインタビューもアップされると思います。直接のリンクがわかったらここでも貼付けるようにします。

September 16, 2009

セメンヤ

あの、「両性具有」だとアウティングされた南アフリカの陸上選手キャスター・セメンヤ、24時間自殺監視措置になった。だれとも会いたがらないそうだ。18歳の子に、なんとひどいことをしたんだろう。

あれはリークだったんだね。
メディアがそれに飛びついた。なんのために?
表向きは世界陸上の公正性のために。しかし、心理的には化け物がいると言いふらしたかったゆえに。

公式な、違う内容と違う形での発表が出来たはずなのに。
こんな残酷なことはない。

Gender Row Runner Semenya Placed On Suicide Watch

Monday, September 14, 2009 at 5:54:53 PM

South African runner Caster Semenya, who is at the center of a gender row, has been placed on suicide watch amid fears for her mental stability.

The Daily Star quoted officials as saying that psychologists are caring the 18-year-old round-the- clock after it was claimed tests had proved she was a hermaphrodite.

Leaked details of the probe by the International Association of Athletics Federations showed the 800m starlet had male and female sex organs - but no womb.

Lawmaker Butana Komphela, chair of South Africa's sports committee, was quoted as saying: "She is like a raped person. She is afraid of herself and does not want anyone near her. If she commits suicide, it will be on all our heads. The best we can do is protect her and look out for her during this trying time."

South African athletics officials confirmed Semenya is now receiving trauma counselling at the University of Pretoria.

Caster has not competed since the World Athletics Championships last month when the IAAF ordered gender tests on her amid claims she might be male.

Source-ANI
SRM

September 08, 2009

鳩山論文、その2

なにせこんな明確な政権交代は初めてのことなので、バタバタしているのは当事者だけでなくメディアも同じようなものです。岡田さんが外相と発表されるや、共同通信は米政府に「好感と懸念が混在」として、「野党代表の経験はあるものの政府機関を取り仕切るポストについたことがなく行政感覚が未知数である点を不安視する見方も」と配信しています。

しかしよく考えればそんなのは当たり前のことで、字数を費やすほどの情報ではない。どうもこの種の「言わずもがな」や「蛇足」の原稿が目につきます。その最たるものが例のNYタイムズ電子版で紹介された鳩山論文をめぐる顛末でした。

この前のエントリーでおかしいと書いたんですが、まあ、だいたい私の推測どおりでした。あれは寄稿ではなかったのですね。ちょっとこの顛末をまとめてみましょう。

最初に噛み付いたのは産経新聞です。鳩山代表が「寄稿した論文に対し米専門家らから強い失望の声」という記事で、同論文に対し「アジア専門の元政府高官は『米国に対し非常に敵対的であり、警戒すべき見方だ』とみる。米シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)のニコラス・セーチェーニ日本部副部長は『第一印象は非常に重要で、論文は民主党政権に関心をもつ米国人を困惑させるだけだ』と批判。『(論文を読んだ)人々は、日本は世界経済が抱える問題の解決に積極的な役割を果たすつもりはない、と思うだろう。失望させられる』」と紹介したのです。

ここで紹介されるコメントはCSISのアジア上級部長だったマイケル・グリーンなど、ブッシュ前政権の安全保障政策を担ったサークルです。まあ当然ながら自民党=共和党外交に精通した人たち。つまり、まず鳩山外交への疑問と批判ありき、のメンツなわけです。

さすがは「民主党さんの思うとおりにはさせないぜ」と公的メディアで発言した記者のいる新聞社、「失望」を語る人に「失望」をコメントさせたに過ぎません。しかもこのコメント者たちはこの「寄稿」が実はNYタイムズに寄稿したものではなく、鳩山氏が日本の月刊誌「Voice」9月号に寄稿した日本国内向け論文を、通信社が適当に抜粋して配信したものだということを知らなかった。ネタ元の精査なくあたかも「米国側」の代表のようにコメントするというチョンボは、研究者としていかがなものか。

もっとも、(前エントリーでも書きましたが)電子版でも「オプ・エド」という投稿ページでの掲載でしたから、鳩山氏の「寄稿」と勘違いするのもそう非難できません。でもなんだか変だった。なんでまたこんな時期(選挙直前の8月27日付)に唐突にこんなものをNYタイムズなんかに“寄稿”したのか意味がわからなかったからです。さらにおかしなことに、文末に「 Global Viewpoint/Tribune Media Service」と付記があった。これは通信社の配信を示唆します。テキストの冒頭には確かに「By Yukio Hatoyama」とあったが、それは筆者名のことであって寄稿ではないのではないか、と気づくべきでした。まあ、批判のネタを見つけたと気が急いたのでしょう。

さて、では実際の米側の受け止めはどうなのでしょうか?

米国の民主党は、腹芸の共和党に比べ、人権や環境問題などわりと大義名分や理想論を打ち出して行動する政党です。しかも外交というのは議論から始まります。核持ち込み密約など、異常だったこれまでの日米関係を正常化するためにもどんどん言葉を交わす、そんなディベートができる信頼関係が成立すれば、米国にとっても頼もしい日本であるはずなのです。つまり岡田外相に求められるのは、共同配信で「不安」とされた「行政感覚」などではなく、むしろ議論の能力なのです。

そのあたりを先日、東京新聞特報部の記事でコメントしたので、ここにも転載しておきます。

東京090905.jpg

September 02, 2009

鳩山論文 on NY Times

鳩山論文のNYタイムズ寄稿あるいは転載の問題、なんで日本のメディアはNYタイムズに直接聞かないんだろう? 聞けばすぐにわかるのに。

読売は次のように書いてるけど、これ、せっかく電話取材してるのに、意味わかんない。
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民主・鳩山氏「米紙論文、反米ではない」

 鳩山代表は31日、党本部で記者団に対し、米国のニューヨーク・タイムズ紙に掲載された鳩山氏の論文が米国内の一部から批判されていることについて、「決して反米的な考え方を示したものではないことは、論文全体を読んでいただければわかる」と強調した。

 論文は、米国主導のグローバリズムや市場原理主義を批判し、アジア中心の経済体制の構築などを主張している。鳩山氏は「寄稿したわけではない。(日本の)雑誌に寄稿したものを、抜粋して載せたものだ」と述べた。論文は日本の月刊誌「Voice」9月号に掲載されたもので、英訳は鳩山事務所で行ったという。同紙関係者は本紙の電話取材に対し、「紙幅に合わせて短縮し、いくつか不明瞭(めいりょう)な単語を変えたが、内容で本質的なことが編集で変えられたことは断じてない」と強調した。

(2009年8月31日22時04分 読売新聞)

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ね、何言いたいんだかわかんない記事でしょ。鳩山事務所が行った「英訳」ってのはVoiceの論文の英訳のことで、これはすでに鳩山サイトで公開済み。それを寄稿したのかしてないのか、って肝心部分をタイムズは応えてない(読売は聞いていない、あるいは字にしてない)し、そもそも「同紙関係者」ってだれよ? この記事、オレがデスクなら突っ返すわ。

とにかくあの“寄稿文”、NYタイムズの体裁では著者が By Yukio Hatoyama ってなってて、しかもOP-ED(opposite editorial page)っていう普通は寄稿などを載せるページに掲載してあるから、最初に報じた毎日が「鳩山側が寄稿した」ってとるのはまあ、宜なるかな、なんですがね、しかし、そういう寄稿文にしては不思議なことに、最後に「Global Viewpoint/Tribune Media Service」って添え書きがあるんですわ。これ、普通、コピーライトとか書き添える位置なんです。

これ、ウェブサイトからのスクリーンショットです。かの“寄稿文”の最後の部分です。
で、これにはね、「この論文のもっと長いバージョンは日本の月刊誌「Voice」9月号に掲載された」ってあるんですわ。これもおかしいわね。つまりこれが抜粋なのか、それとも端から長短2つのバージョンが用意されていて、それでこれはその鳩山本人が書いた短文バージョンなのか、ってこともわからん。

hatoyama_end.jpg


ですから、私としては、この、何気なく付記されている「Tribune Media Servise」がサービス(仲介)したんじゃないのかね、って思ってる。鳩山論文の英文はもともとあるわけだから、それをトリビューンの部局が鳩山事務所の了解を取るか取らずか、これは重要ってことで配信頒布した。で、トリビューンかNYタイムズが(読売は「同紙」って書いてたけど、わたしとしてはトリビューンが配信してるならふつうは前者だろうなあと思う)字数の関係でずいぶんと端折って(じゃっかん、英単語の入れ替えもあるようだけど)、アメリカに関係する議論のありそうな部分だけを抜粋した。鳩山事務所としてはそこまで明確に抜粋引用の条件を提示していなかった(これは甘いけどね)、って感じなのではないのだろうか?

しかし、それにしても、NYタイムズが「By Yukio Hatoyama」として彼が直接寄稿したような体裁にしたのは、これはほんと、まずいと思う。 それも、最後の「Global Viewpoint/Tribune Media Service」の付記を、何の説明もしていないというのも、姑息な感を否めない。それとも、こういうの、今までたくさんやっていて、慣例になっていることで、わたしがたまたま見逃し続けていたってことだけの話なのかもしれないですが。

だからこれは直接タイムズのOP-EDの担当者に取材すべきなんですわ。
わたしなんぞの個人がやっても時間かかるので、だれかやってくださいな。
てか、わたしこれから飛行機に乗ってまた東京なので、やれないのです。

ネットではいろいろとみなさん憶測で持論を展開しているが、そんなの屁にもならん。ちなみに、わたしの上記の憶測も、何の意味もないです。あしからず。

August 20, 2009

貧すれば鈍する

わたしはまあ、ウッドストック世代といいますか(ああ、先週末が40周年でしたね。これに関しても書きたいことがあったんだけど、時機を逸したかなあ)、ヒッピー世代とか、なんとでもいいんですけど、そうね、カウンター・カルチャー、対抗文化ってのを見てきて育ってきたせいか、既成概念を端から疑ってかかる傾向があるのは認めます。だから脱構築とか、そういうのに出遭ったときには、何の抵抗もなくそうだそうだおもしろいと食いついた口です。

で、というわけでしょう、国旗を切り刻んだって、それは、国旗というものはそういうもんでしょうと思うだけで、切り刻まれるのはなぜならそれが国旗だからであって、ただの布切れだったらだれも切り刻まない、というよりも切り刻んでもだれも問題にしないし、それは布切れの宿命であるわけですから、新聞沙汰にはならないです。

「国旗を切り刻んだ」という行為は、それ自体あらかじめ確信犯です。というか20世紀後半はそうでした。いまでもそうでしょう。そこには主張がある。沖縄の知花昌一さんが沖縄国体で日の丸を焼いたのは、あれは主張でした。国旗を焼くことで表現される主張。焼かねば表現されない主張です。焼くしかなかったわけです。

でももう1つの視点。
それは物神崇拝です。フェティシズムです。
「国旗を切り刻むなんて」「あなたはこんなことができますか?」という言説があふれているけど、そんなの、どうなんでしょう。大切なことでしょうか? ぼくはできるな。簡単。でも、それは国旗の象徴するものを切り刻むんじゃないし、国旗という仮装を纏った布切れを切り刻むだけだと思えばどうでもいいことです。いや、隠れキリシタンが、どうしてもマリアの像を踏めなかった。その心性は痛いほどわかります。でも、その歴史もじゅうじゅうわかっている。そのときに、その枠組みを超えることしか、踏み絵という抑圧を躱すことはできないと私たちはすでに学んでいるはずです。だから、いまは、マリアの像を、踏めるな。簡単に。そうでしょ? それが知性というものです。

ただ、で、民主党の、なんだっけ? 鹿児島で行われた立候補予定者の決起集会での日の丸切り貼り問題は、それほど哲学的でもないんじゃないかとは思うわけで、そんな、切羽詰まった命題ではないでしょう。確信犯じゃないんじゃないの?

日の丸切り貼り.jpg

でも、古森のおじちゃまのブログページには、出典も裏も取れないまま、こんなコメントが。

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Commented by scottsdale さん
某サイトより転載します。

436 :名無しさん@十周年:2009/08/18(火) 02:08:22
集会に参加した従兄からの情報
彼の周辺10名ぐらいの参加者が旗を見て、「ホント、やりよった」と、
檀上を指しながら大はしゃぎ、爆笑してたと。
その時従兄は何のことか、わからなかったとも言っていたが。

初から日の丸を侮辱するつもりで切り刻んでやると
計画的に作ったんだね。
気味悪いわ。民主党

162 :名無しさん@十周年:2009/08/18(火) 12:40:45 ID:viS8Ji000
民主の鹿児島支部の知り合いから聞いた話。
もともと支部にはきちんとした支部の旗は存在していた。
ただ、日教組の党員関係者がこういうの出そうよと提案。
一応支部長である議員にも話通す、面白いやってやれ。
と、いう感じで党ぐるみで行われていた。鳩山党首が
このこと知らないはずもなく、当然上にも報告が行っていた。
**

これに対して、当のおじちゃま、ジャーナリストらしからず、先ほど言ったように裏も確かめずに次のようなコメントを返す始末。

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Commented by 古森義久 さん
scottsdale さん

日の丸の切り裂きをみて、「ホント、やりよった」と大はしゃぎ、ですか。

不気味ですね。
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耄碌したというわけではなく、古森のおじちゃまは以前からこういうところの恣意性が甘いんですけど、まあ、しょうがないか。

で、まあ、「ホント、やりよった」のだとしても、これはじつに程度の低い、ほんとうはまな板に載せるのも憚れるようなイタズラです。お巫山戯が過ぎるのもほどがある、で済む話でしょう。つまり、追及するにも筋が悪い。

でも突っ込みたいんでしょうなあ。自民党総裁ともあろう人が、17日の党首討論会でこれを指摘して「国旗を刻むとはどういうことか。信じたくない。とても悲しく許しがたい行為だ」。

そうか、悲しいですか。

で、20日もまた霧島市での街頭演説で「(民主党が)日の丸の旗をひっちゃぶいた。ふざけた話でしょうが。日の丸ですらきっちりできない」と。

筋が悪いこのエピソードを自民党がどこまで大げさに追及するのかわかりませんが、何が言いたいかというと、じつは国旗のことではありません。

民主党が政権を取るだろうことで、自民党の天下の陰に安穏と惰眠を貪っていた(一部はそれでも歯ぎしりしてたでしょうが)右翼が、むくむくと蠢き出すだろうということです。そうして、麻生自民党は、そんな彼らをも動員して票の目減りを止めようとする。あるいは次の跳ね板にしようとする。自民党の穏健勢力はこれを苦々しく思うのですが、脈々と続く自民党内の反動右派はこの政権交代を機にこうして先鋭化するに違いありません。こういうのを愚劣というのです。

同じことがじつはいま米国でも起きています。
オバマ政権の医療改革案に、右派勢力がオバマを社会主義者、ヒトラーと呼び慣わすものすごいキャンペーンを繰り広げています。各地で行われているタウンミーティングに、そうした右派勢力の代弁者が続々と送り込まれて協議をズタズタにしています。

米国で最も力のあるキリスト教原理主義運動の1つに、ザ・フェローシップ、あるいは「ザ・ファミリー」と称させる秘密主義の政治団体があります。ザ・ファミリーの熱心なメンバーには連邦議会議員、企業首脳、軍首脳、外国国家元首もいます。そこがいままた、反オバマに蠢いているのです。

民主党政権の誕生は同時に、日本の反動の再生でもあるのかもしれません。

ああ、忘れてました。
この鹿児島の国旗切り貼り問題を報じた産經新聞の記事ですが、次のような文章があります。

**
 海外では国旗への侮辱行為に刑事罰を科す国も多い。

 フランスでは公衆の面前で国旗に侮辱行為をした場合、7500ユーロ(約100万円)の罰金刑を定めている。

 集会で同じ行為をすれば、加重刑として6カ月の拘禁刑が科せられる。中国やカナダ、ドイツ、イタリア、米国も国旗への冒涜(ぼうとく)や侮辱、損壊などに処罰規定を設けている。
**

米国では、この処罰規定は否定されています。
ベトナム反戦運動とか、いわゆる「確信犯」としての星条旗焼き捨て事件なんかが続発した歴史を持つ国です。1989年に連邦最高裁は次のように言いました。

「われわれは、国旗への冒瀆行為を罰することによって国旗を聖化することはしない。これを罰することは、この国旗の重要な象徴が表するところの自由を損なうことになる」

つまりね、アメリカの国旗が象徴するものはなによりも「自由」ということなのだ。だから、たとえその国旗を別の象徴(例えばアメリカ帝国主義の象徴とか)として焼き捨てるにしても、本来の象徴として国旗の中にある「自由」が、それを許すのだ、ということです。で、国旗を冒瀆する行為を処罰することは憲法違反だというの。すげえ。ねえ、かっこよくね?

これに対して連邦議会の保守勢力はやっきになって最高裁判決を法律で覆そうとする。で国旗冒瀆処罰法もまた出したりするけど、90年にはまたそれを憲法修正1条に違反するとした。2006年のブッシュ政権の時にも6月にまた憲法修正案で国旗冒瀆を許すまじとしようとしたけれど、これもまた上院で賛成が1票届かずに否決されたという経緯もあります。

産經新聞、ウソを書くなよなあ。

May 19, 2009

最悪の事態の想定

先生たちの目の届かないところで子供たちが遊んでケガでもしたら大変だからと、放課後の校庭から子供たちを閉め出したり、個人情報がどんなふうに悪用されるかわからないからとPTAの連絡網さえ作れない学校があります。

日本のTV番組に映り込む自動車は、神経質なくらいにナンバープレートにボカシが入るようになっていて、先日見た番組ではついに路線バスのナンバーまでがぼかされていました。

そういえば最近では日本のTVニュースでは街の人のコメントでも顔があまり映らなくなりました。事件や事故の周辺の証言でもみんな胸から下しか映りません。あれで守っている個人情報とは「顔」なんでしょうか?

だとしたら、大相撲中継とか野球中継で映り込む観客の人の顔にも、いずれボカシが入るようにならない理由がない。なにせ路線バスのナンバーまで隠すんですから。でもそれははて、一体どういう意図だったんでしょう。実際、グーグル日本のストリートビューでは通行人や住人の顔にボカシが入れられるようになりましたし。

一番悪い事態を想定してそれに備えた対策を講じる。例えばテレビに映った大変な高級車のナンバーから、陸運局なんかでその「お金持ち」の名前や住所までがわかってしまって泥棒被害に遭う恐れはあります。前述のストリートビューから表札や車のナンバーにボカシが入れられたのも同じ理由でしょう。事件の周辺住民のコメントの場合では最悪、犯人に逆恨みされてともすると狙われる恐れさえあるのかもしれません。でも事故現場の周辺住民のコメントの場合の顔隠しってのは、うーむ、何だろう?

最悪な事態を想定するのはべつに悪いことではないです。でも、そればかりに気を取られる過ぎると、なんか違うんじゃないかという気がするのです。

たとえば自分の子供とその友達も誘ってキャンプに行くとします。この場合、最悪の事態を想定すれば大変です。クマに襲われるかもしれないし(ええ、私は北海道出身です)、川で流されるかもしれない。いやもっとよくあることとして、木登りして落っこちてケガでもしたら、走って転んで骨でも折ったら、森に迷って遭難したら……。でもそんなことを考えていたらキャンプになんか連れて行けない。よそ様のお子さんを預かるなんてのももってのほかだ。で、結果、子供も親も、安全だけど楽しいこともうれしいこともない、そんなつまらない事態になってしまう。

回りくどかったですが言いたかったのはじつはまた豚フルーの話です。

そりゃ政府としては直近の課題として「最悪の事態」を想定した対策を講じてきたのでしょう。何事にも万全を期する。それが数十億円もかけた例の「水際作戦」の大騒ぎでした。そうしていま、海外の学会などでは日本人だけが軒並み欠席し、日本による海外イベントも軒並み中止。国内でも神戸まつりなど公共イベントは続々中止となり、公共施設の一時閉鎖の波も広がりつつあります。このままでは都市機能や経済活動までマヒしそうです。

行政としては最悪の事態を想定してかからないと、後でおおごとになったときに責任を問われてしまいます。だからハンカチ落しのハンカチをとにかく早く拾って早くだれかのもとに落とさなければならない。そうせざるを得ないのは、だからある意味わからないでもないのですが。

でもそうやっているうちに気づけばいつのまにか子供がひとりも遊んでいない校庭とボカシだらけのTV番組のような、最悪の想定におびえるだけで家に引き蘢っている、そんな神経症的な社会になってしまう。いや、すでにいま確実に、日本社会はそうなりつつあるんだと危惧するわけです。じつはそれこそが「最悪の事態」なのではないでしょうか。

そんなふうになってから急に舛添さんが「これは季節性のインフルエンザと変わらない」と火消しに回ったって、なかなか簡単にはもとには戻らない。だってそれまではあの深夜未明の記者会見とかさんざん騒いできたんですもの、いまさらしれっと「軽めの症状に合わせた対応に変えたい」って言っても、ほんとにそれでいいのかよ、って突っ込みたくもなるでしょう。初めからそう言って「落ち着け」メッセージを発していたらよかったんだけどねえ。

断食するときは断食してるような顔をするなって、聖書でしたっけ?
われわれは万全を期しているから、国民は落ち着いていてだいじょうぶ、って、そんな頼れる父権的な政府ってのもあんまり信用できないが、バタバタしてるばかりの麻生政権を見てると、つくづくものが見えてない場当たり的な政府なんだなあと思い知ります。

目先の対策と、大所高所からの判断、要はそのバランスの問題なんですがね。

May 13, 2009

水際作戦という欺瞞

日本に帰国する飛行機の中で、自分の座席の2メートル以内に発熱した人がいて、その人がもし新型インフルエンザ(豚フルー)の感染者・患者だったら自動的に10日間ホテルに隔離されるそうです。ホテル代は国持ちらしいですけど、帰国が10日以内の予定ならそれで日程のすべてを使って余りある(っていう日本語も変かしら?)。

根拠となっているのは検疫法。
でも、それを聞いただけでNYに住む私たちはげんなりしてしまいます。

これを日本政府は「水際作戦」と称して、新型フルーを日本に上陸させないための有効な手段として喧伝しています。でも、よく考えてみましょう。新型フルーにも潜伏期間があって、その間には発熱もしません。現在の第1次検疫はこの発熱の有無で行うので、潜伏期間の感染者は成田でも大阪でも停め置かれることなくスルーして日本国内に入ってしまいます。

水際作戦は、これでも政府の喧伝するようにウイルスの上陸阻止に「有効」なのでしょうか? むしろ確率を考えるとウイルスはすでに日本に入っていると思った方がいい。いや、百歩譲ってまだだとしても、いずれは入るでしょう。そういうもんです。したがって、水際作戦はそれほど「有効」ではないんです。

では、水際作戦はこの「上陸」を遅らせ、その間に国民にウイルス対策感染予防を周知させる猶予期間として有効活用できるから有用なのでしょうか? でも国民には「手洗い、うがいの励行」「人の集まる場所には行かない」「早めに病院へ」と言うだけで、こんな3つならもう周知されているでしょう。それ以上に連日の報道はパニックをあおるだけで、いたずらに国民をおびえさせているようにしか見えません。日本政府は、わが国民をそんなに脅されなければ動かない愚民と思っておるのかしら? おまけに、この間を利用して病院の態勢を整えることもできるはずなのに、脅されたせいか、ぎゃくに感染の疑いのある人たちを断る病院が出てきているという情けなさ。脅しても脅さなくてもダメってことです。

水際作戦はつまり、ウイルスの侵入を防ぐためのものとしてはまったく無効なのです。そうではなく、前回の繰り返しですけど、ウイルスは入り込むかもしれないが、しかし感染者を早期に発見し一刻も早くその彼・彼女を救うことができる、そうすればその彼・彼女からの二次感染も最小限にできる、という意味においてのみ有効なのです。

言ってみれば、水際作戦を排除の論理としてではなく、救済の論理として位置づける。これだけでも社会はずいぶんとやさしくなれます。そうは思いませんか? そういう国なら一時帰国したときに停留・隔離させされたって、ああ、ありがたいなあって思えるんじゃないでしょうか?

なのに、日本はまた排除に動いています。シカゴで6歳の男児が「日本人で初の感染」って、何がニュースなのでしょうか? で、日本のメディアがシカゴ市街の映像を流し、その子の通っていた日本人学校を取材する。それに何の意味があるのか? ほっといてやれよ、です。

実際、厚生労働省のウェブサイトのQ&Aでは、感染の疑いがあっても「健康監視されていることは秘密にしてもらえますか?」という問いに「検疫所と都道府県および保健所の担当者により、厳格に個人情報は保守されますので、御安心ください」と答えてます。なのに、外務大臣や厚生大臣がどこそこの誰それが感染と、まるで犯罪者扱い。おまけに成田での検疫も「この時期に海外に行く方が悪い」という輩がいたりと、また例の自己責任論なのか非国民扱いです。

何度でも言います。小沢騒動からこの前の草彅くんのとき狂騒といい、最近の日本、ちょっとおかしい。おかしいというより、危うい。

新型フルーは長期戦です。その作戦も立てずに最初からフルスロットルで突っ走っていれば、私たちはすぐにこのフルー情報に疲れ果てます。そのときです、本当の感染爆発が起きるのは。

何度でも言います。いまからでも遅くありません。長期戦としての態勢の立て直しを図るべきなのです。私たちはいつもと同じ生活を続ければよいと思います。いつもよりちょっとだけ健康と予防に注意して。無理をしないこの「ちょっと」が効果的なのです。

May 07, 2009

いい加減にしたらどうでしょうか?

はい、もちろん、例の「感染の疑い例」の逐一発表・報道のことです。
いまさっきも朝日が「ロスから帰国の男性、新型インフル陰性と判明」とオンライン版で速報です。
速報しなくちゃならないのは、そのまえに「都内でも疑い例、ロスから帰国した名古屋の男性」とやったからです。もちろん、これには都から厚生省にその「疑い例」が報告されたからで、それをいち早く厚生省が発表したからです。

これを見て、私はハンカチ落しを思い出しました。
成田でだれかがハンカチを見つける。そのハンカチをそこの係員が都の衛生局?に落とす。落とされた都は、このままでは大変と、それを国・厚生省の背中に落とす。厚生省はそれをそのままでは大変とメディアの前に落としてみせる。メディアは、ありゃりゃと、それを国民の前に落としてみせて、はい、これでゲームは終了。というか、責任は果たした、というわけです。責任ってのは、そういうもんでしょうか?

じつは朝日は2、3日前に東京本社で「疑い例は報道しない」というお達しが全記者に回されたのです。その意気や壮とすべし。ところがすぐにそれも朝令暮改。川崎だかどっかだかの女性がまた「疑い」となって、他社の横並び圧力に負けたのか、デスク間の連絡の不備か徹底の不完全か、翌日くらいにすぐまた字にしちゃった。

それと同じころ、確か東京都も「疑い例」はいちいち発表しない、と決めたんじゃなかったでしたっけ? それが都側の発表じゃあなくてそれを受けての厚生省のせいなのかもしれませんが、また「疑い例」がダダ漏れした。

オオカミ少年そのもののエピソードが続いています。
アメリカの感染者や死者のニュースだって、当のアメリカよりも日本の方が徹底して騒いでる。
これは「倒錯」と言います。
かならず、後世、というほどの後のことではなく、「あのときはひどかった」と新聞協会かなんかの討議で総括されることは目に見えているのに、それをやめられないのはただただ、各新聞社内に自社だけでもそれをやめようと統御できるだけの人材がいないからです。そりゃ会社員だし、では他にどんな有効な対処の仕方があるのか、対案もないしね。

ほんとに対案はないのでしょうか?

メディアとしては、とにかく感染例の第一号を国内で見つけるまではこのまま「疑い例」のいちいちをぜんぶ報道してゆく構えなんでしょう。というのも、かならずもうそろそろ見つかるころだと思っているからです。もうちょっとだ、もう少しの辛抱だ、あと少しのドタバタのみっともなさだ、というわけです。

でもねえ、本質的な問題はそれからなのでしょう。
そうやってはなからフルスロットルでぶっ放しちゃったら、息が続かないでしょう。ほんとうに大変なころにはもう豚インフルエンザの話なんかもう考えたくなってしまっていませんか? いや、メディアではなく、メディアに翻弄された読者・視聴者たちが、です。国民をそうやってどうでもいい情報に疲弊させてしまって、どうするのか?

もうそろそろ、「疑い例」はいいんじゃないか?
確定を発表する態勢でいいんじゃないでしょうか?
こないだの最初の高校生のときも、病院まで押し掛けて、というか、病院まで発表したんでしょう? そういうのはやめましょう。まったく必要ないもの。

いまからでも遅くありません。
これは、長期戦としての報道態勢を考えるべきです。国・政府自民党がバタバタしてるのを尻目に、メディアとして情報の整理をしつつ対処してゆく。情報統制ではなく、整理です。政府発表を報道しないのが怖いならせめて報道する際は「疑い例」の時はにベタにするとか、「今日の疑い例」みたいなワッペン囲みにしちゃうとか、それで「感染例」が発表された時にも感染者を追い回すことはしない、とか、決めてしまえばいいのです。これは報道の統御ではなく、報道者として覚悟を決めるということです。

それで、あくまでも医学的・科学的な今後の展望と対処を報道すればよいのであって、その感染者がどうだこうだは、必要最低限にとどめる覚悟。

アメリカでは、年間3万5千人がインフルエンザで死亡しています。まあ、これは超過死亡といって、間接的な原因も入っていますが、日本だって超過死亡では1万人以上死んだりしています。新型インフルエンザが蔓延すれば3、4万人が死ぬかもしれないとされていますからこれは大変なことですが、でも、われわれとしてはどうしようもない。せいぜい手を洗いうがいをし、という標準的な事前警戒(Standard Precaution)で対処する以外にない。人ごみに行かないようにって言われたって、行かねばならぬ時もあるわけでね。感染したら早期に民フル処方ですよ。それしかないですもの。死ぬときゃあ死ぬんだって、まあ、そこまで言ったらそれはその人の人生観に関係してくることになりますけど。

「水際作戦」という言葉から連想するのは、まるで侵入者を許さない、国内に入ってくるのを阻止する、ということですが、成田到着の飛行機の中で体温モニター使ってやっているあれ、侵入者を排除するという意味においてはほとんど何の意味もありません。感染者を国内に入れない、という目的でなら、あれは意味がないのです。なぜなら、インフルエンザにももちろん潜伏期間あって、あそこで熱出してなくても感染しているかもしれないんですから。

それでも水際作戦が有効だと言えるのは、それは「つかまえる」ためのものではないからなのです。あれは、1人でも多くの感染者たちを早めに救助するための手段としてなら、あるいはそのためにのみ、有効なのです。感染してるかもしれない人を、いち早く助ける、ためのものなんです。水際作戦とは本来そういうものであるべきだ、というのは、前々回のここで産経の宮田一雄記者の記事で紹介した「哲学」です。

それを履き違えて、あんな隠れキリシタン探しみたいなことやってるの、日本と韓国とイギリスくらいですか?
また6月に帰国するのですが、機内に2時間も3時間も居残りさせられるの、いやだなあ。
それだけで病気になりそうです。

May 02, 2009

魔女狩り

米から帰国のトヨタ社員、新型インフル疑いで検査…政府高官
5月1日23時28分配信 読売新聞

 政府高官は1日夜、米国から帰国した名古屋市のトヨタ自動車社員が、新型インフルエンザに感染した疑いで検査を受けていることを明らかにした。

 同高官によると、この社員は一次の簡易検査で陽性反応を示し、遺伝子検査(PCR検査)を行っているという。

***

新型インフルの感染否定=米国から帰国の男性−名古屋
5月1日23時51分配信 時事通信

 名古屋市は1日、米国から帰国後、発熱やせきなどの症状を訴えた30代の男性患者が簡易検査でA型インフルエンザの陽性反応を示し、市衛生研究所が遺伝子レベルの「PCR検査」を実施したところ、新型インフルエンザではないことが確認されたと発表した。 

****

横浜の高校生が終わったら、次はこれです。
昔のエイズ騒動とまったく同じ。
とにかく感染第一号を見つけなければメディアの狂想曲は終わらない。
というか、第一号をぶちあげたらそれで終わるのかしら。
100人くらいまでそれぞれに「また感染」「また感染」ってやるつもりなのでしょうか。

新聞社もテレビ局も、報道幹部、そういうこといまぜんぜん考えてないんだと思う。
止まらないんですね。 思考停止状態。

で、もっと考えると、これ、ぜんぶ政府発表なのね。
高校生のあの深夜の舛添会見といい、なんか、この政府、ずいぶんとバタバタしてませんか?
「やってます」アピールが過ぎる。選挙対策?でこんなパフォーマンスやられたら困るんです。

みっともない。
いやそれ以上に、危うい。

April 30, 2009

豚インフルエンザから新型インフルエンザへ

なんだか知らない間に、日本の報道は全部「新型インフルエンザ」になってしまいましたね。

「豚インフルエンザ」だと、豚肉加工業界が打撃を受けるかもしれないという風評被害回避の措置なんでしょうが、「新型インフルエンザ」だとこのウイルスの発生の理由が鳥だか豚だかはたまた何だか、わからんくなってしまうでしょうに。日本の政府の対応を見ていると(最近、わたし、このMacの上で日本の地上波テレビがオン・タイムで見られる無料ソフト=MacKeyHoleを入手しまして、きゅうに日本のテレビ事情に精通しております)、豚肉関連業界保護の姿勢がわざとらしいくらいに強調されていて、ちょっとなんだかなあって感じがします。もちろんその背後にはアメリカやメキシコ、カナダからの輸入豚肉の圧力、つまりはアメリカ農務省からの要請や票田としての豚肉農家の思惑もあるんですが、こちらアメリカではまだそんな言い換えはしていません。Swine Flu は Swine Flu です。これってまた字面だけでごまかそうとする言葉狩りなんでしょうか。まったく、悪しき対応だと思います。

もう一点、日本の報道、とくにテレビは、一方で「正確な情報を」「落ち着いた対応を」と呼びかけてはいるくせに、その一方で豚フルーのニュースにおどろおどろしい効果音やら音楽ジングルをかぶせる。しかも例によって声優気取りのナレーションがまたまた低音恐怖フォントみたいなイントネーション。それはあまりにひどいんじゃないでしょうか? これは報道ですか? それともホラーですか? 視聴者を脅してどうするんでしょう。これをやめるだけでもずいぶんと「落ち着いた対応」が可能になるのではないでしょうか?

だって、まだ豚フルーの死者どころか感染者すら確認されていないのでしょう? 例の横浜の高校生にしたって、30日時点の簡易検査では陰性なのですし。なのにもう、アメリカよりもすごい騒ぎぶりです。アメリカの死者だって、じつは亡くなった男児は豚フルーの発症前から基礎疾患として免疫的な問題を持っていた子だったようです。

いや、この豚フルーが大した問題ではないと言っているのではありません。これは2つの意味で大変な問題です。それは後述しますが、ただ、大した問題ではあるが、同時にこういうのはパニックになってもどうにもならないんですね。どうしようもない。人ごみを避けるって言ったって、避けられない時だってあるでしょう。パンデミック、世界的蔓延の恐れ、と言ったって、これはあのエイズの場合と一緒で、いたずらに恐れて感染者の魔女狩りみたいなことになってもひどいでしょ? 現に、舛添厚生大臣が「横浜の高校生に感染の疑い」と、なんだか「情報の早期発表」なのか「フライング」なのかまたわからんような記者会見を行ったんで、ちょっと休んでる横浜の高校生みんな、あしたから大変ですよね。って、あ、ちょうど週末かつ黄金週間か。

そんなこと言ってもとにかくわかった段階で教えろ、というのは当然です。しかし、ああいう深夜1時半の、ドタバタした発表の仕方しかないもんでしょうか? もっとゆったりした顔で、ふつうに話せなかったものか? まあ、役者じゃなかったということですが、これは困ったもんだなあ。

この点を、産經新聞の宮田さんが的確に指摘していました。

http://sankei.jp.msn.com/life/body/090430/bdy0904300103001-n1.htm

「水際作戦とは感染した人の排除ではなく、可能な限り早い段階で治療を提供するためのものである」というのは、じつに重要な指摘だと思います。宮田さんは日本で最初期からエイズ問題を取材しつづけているベテランジャーナリストです。

ところで、冒頭部分で「アメリカやメキシコ、カナダからの輸入豚肉」と書きました。お気づきの方もいるでしょうが、この3国は、NAFTA(北米自由貿易協定)の3国です。昨日の「デモクラシー・ナウ」では、この豚インフルエンザを「NAFTAインフルエンザ」なのだとするこれまた重要な批判が掲載されています。

http://www.democracynow.org/2009/4/29/the_nafta_flu

つまり、豚フルーの背景には家畜産業革命と呼ぶべきものがあるというのです。第二次大戦前は米国でも家禽や豚というのは全米的に裏庭で育てられていたわけで、鶏の群れ(flock)というのは70羽単位で数えられていた。それが大戦後にはHolly Farms, Tyson, Perdueといった大手家禽精肉加工企業によって統合され、ここで家禽や養豚の産業構造は大きく変わることになり、いまは米国内の養鶏、養豚業は南東部の数州に限られるようになった。しかもそれらは大規模畜養で、70羽とじゃなくて3万羽とかの単位です。

このビジネスモデルは世界に広がり、1970年代には東アジアに拡大して、たとえばタイではCP Groupという世界第4位の家禽精肉加工企業が出来、その会社が今度は80年に中国が市場を開放した後に中国での家畜革命を起こすわけです。

そうやって、世界中に「家禽の大都市」「豚の大都市」が出来上がっていった。もちろんこれにはIMFとか世銀とかあるいは政府とかの財政的後押しもあって、借金まみれだった各国国内の弱小酪農家がどんどんと外部の、外国の農業ビジネス大企業に飲み込まれていくわけです。

そして1993年からのNAFTAがある。これがメキシコでの養鶏・養豚業に大きな影響を与えるわけです。結果、そこの支配したのは米国のSmithfield Foodsという企業の現地法人でした。ベラクルス州ラグロリアという小村にあるこの会社の大規模かつ劣悪な養豚環境が、今回のH1N1ウイルスの発生源とされているのです。そりゃそうですわね、なんらの規制も監視システムも設けないでそういう大型酪農工場を貧困国にどんどん設置していけば、何らかの疾病が起きたときにそれは人口過密の大都市で起きたのと同じく大量の二次感染、三次感染へと連鎖して、ウイルスの変異がどんどん進む。そのうちに鳥や人間のインフルエンザ・ウイルスとも混じり合って、やがて人間世界へ侵出してくるのは当然のことと思われます。

先に「2つの意味で大変な問題」と書いたのは、1つは今後の感染拡大の問題ですが、2つ目はこの、産業構造としての食品工業のことです。

つまり、まとめれば次のようなことです。

1)豚インフルエンザに騒いでもあわててもしょうがありません。感染する時は感染する。
2)感染したら早めに治療するだけの話です。
3)感染したからと言って回りがパニックになっても何の意味もありません。
4)元凶は、私たち人間の食を支える農業ビジネスの歪さかもしれませんね。
5)いずれにしても、ニュースにホラー映画まがいのナレーションや音楽や効果音をかぶせるのはもういい加減やめにしたほうがいいです。
6)日本政府も、水際作戦とやらの全力投球はいいけれど、後先考えずこんなんでずっと保つんですか? 疲れてしまってへたったときにふいっと感染爆発って起きるもんなんですよ。長期戦なりの作戦展開をして対応すべきでしょうに。


お時間があれば次のビデオクリップを見てください。
まあね、このクリップにも効果音楽が被されていますけどね。

上のは「Food Inc.」という映画の、下のは「Home」というドキュメンタリー映画の予告編です。


April 24, 2009

草彅くんね

ミクシにも書きましたけど、かわいそう。
騒ぎ過ぎですよ、メディアで発言するみなさん。
メディアの性格上、騒ぎ過ぎるのはわかりますが、その中でも「騒ぎ過ぎ」って言ってやりつづけることはできると思いますから、そう言ってやってもらいたいです。

まあ、全裸になるってのはよく覚醒剤(アンフェタミン)をやった連中の行動パタンなので(尾崎もそれで全裸になって民家の庭先で暴れて死んだんです)、警視庁としてはそれを疑って家宅捜索までしてるんだろうけど、尿検査で出てきてないのに公然猥褻で自宅のガサまでやるなんて、それはすごくひどい話です。なんか、こないだの小沢とは全然次元が違うが、ゲシュタポとかKGBとかの跋扈した警察国家みたいな話ですよ。

酒飲んで、酔っぱらって裸になって大声で叫ぶのはぜんぜん誉められたもんじゃないけど、そんな顰め面して「最低の人間だ」「絶対にゆるさない」って大臣が公然と断罪するほどのことでもないでしょう。泥酔して国家のハジをさらした同僚大臣にはそんなこと言わなかった輩が、相手が若造だと知るとここぞとばかりに道徳親父面しやがる。こういうのを権力を傘に着て、という。まったくひどいサイテーの人間。

毎日と読売、東京(追加)がさっそく翌24日付けの一面コラムで書いてますね。

「草食系男子も楽ではなさそうだが、どうか周囲のしかめ顔は肝に銘じてほしい。」(毎日)

べつにしかめ面なんかしてないよ。あらら、と思っただけだ。酔っ払いに甘いと時に批判もある社会ではあるが、これって、公然猥褻ながら露出でも陳列でもない。そういうのとは、違うでしょ。もし薬物が出てないなら、これって、完全にストレスアウトの話だから、しかめ面する前に心配してやるべき話じゃないかって思うもん。それが人間社会ってもんじゃないですか?

「呼び捨てではなく、「クン」を付けずにはいられない清潔感と温かい人柄がにおう人に、深夜の公園での泥酔、全裸は似合わない」「才能があって、売れて、皆に愛されて、それでも法と常識を超えなくては晴らせなかった鬱屈(うっくつ)とは、何だったのやら。どれも持ち合わせぬ身は、何を脱いだらいいのか分からない。」(読売)

これもいやらしい書き方だなあ。「似合わない」って、勝手に想像してたイメージを前提にして言われたって、困っちゃうよ。人間ってのはね、他人のわからない心の襞の奥の奥を必ず抱えて生きているの。新聞記者って、まずそれを尊重することから始まるの。「似合わない」って言うのは、そういう他者という存在に対して、畏れを知らぬものすごく不遜な言い方です。おまけに読売の一面コラム子ともあろうものが「どれも持ち合わせぬ身は、何を脱いだらいいのか分からない」って、なに卑下してかっこつけてるのか。これを結語とするなど、ナルシシズムの極みです。だっておじさん、いろいろと持ってるでしょうに。大新聞の一面コラム子ですよ。それとさ、「法と常識を超えなくては晴らせなかった」と言ってますが、そんな大げさなもんじゃないのです。大げさにしてるのは、そうやって書くからで、酒飲んで酔っぱらって裸になってなんて、それ、「法と常識を超えなくては晴らせなかった鬱屈」とかいう形容詞で書くべきもんじゃあないでしょ。もっと個人的なものでしょう。

「確かに、酔っぱらうと、同じようなことをしたがる人もいないではない。だが、最もアイドルらしからぬ酒癖だろう。あの商売もあれでストレスが多いのだろうか。」(東京)

芸能界、ストレス多いって、知らないのでしょうか? いや、芸能界に限らず、どんな分野の仕事でも。
そういう視点を持たずに、よくコラムなんか書いてられる。

ああ、いやだいやだ。

しかし、どうして当日中に釈放されなかったのでしょう。
こういうのは、だいたいは、立派な大人なんだからバカなことはもうやめなさい、ってきつくお説教して、はい、じゃあ、帰りなさい、ってその日のうちに帰されるもんです。
なんかすごく変です。

まあ、出たら出たでまたものすごい騒ぎになるでしょうが、そういうのはさっさと済ませてしまうしかないでしょうね。

私はべつに草彅くんのファンでもなんでもないですが、ストレスアウトしてたかもしれない人間を無神経に論評しちらかす世間はいやなのです。

April 21, 2009

東京地検特捜部の衰退

あれはいったい何だったんでしょう?

小沢の公設第一秘書の起訴から1カ月が経とうとしています。で、なにも起こらない。二階の逮捕もどこに行っちゃったんだ?

当初、だれもが「特捜部は最終的にはトンネル献金による斡旋利得処罰法での立件を目指している。そうじゃなければやらない」と思っていました。でもそんな気配はありません。東京地検特捜部というのは、私の取材していたころとは様変わりして虎の威を借るなんとかに成り下がったのでしょうか? ほんとに政治資金規正法での起訴だけなのか? うそでしょ? ほんとだとしたら、なんでそんなバカみたいな先走りを見せちゃったわけですか? 泣く子も黙る東京地検特捜部までがいま悪しき官僚制度の頭でっかちな世間知らずのボンボンで占められちゃってるのかしら? 

当初、政治資金規正法違反という逮捕容疑が起訴の時点でも同じ罪状ならそれは検察の敗北だ、といろんな政治評論家がかまびすしく語っていました。そこにはもちろん「次は斡旋収賄で小沢本人だ」という“読み”があったからで、それこそがこれまでの特捜部のやり方だったからです。それがこの尻すぼみ……。

にもかかわらず、いま現在も小沢に自ら辞任決断をと迫る論調が続いています。その理由の最大のものは、「記者会見での小沢代表の説明では納得できないという世論が圧倒的だ」、というものです。

でもこれはおかしい。ちょっと考えてみると、この間の国民の小沢への疑問は、新聞やテレビで垂れ流された数多くの検察リーク情報を基にしています。たとえば東北で接待的な権力を誇るとされる小沢陣営の公共事業口利き「天の声」っていう話、陸山会のおかしな不動産取得のこと、西松建設への献金方法を具体的に指南したのは小沢の秘書だという話、小沢に献金しなければ村八分に合うという業者の話……等々。これらはすべて検察が立件を捨てたゴミ情報ですよ。しかし今回は検察回りの記者たちがさんざん書き散らした。とくにNHKと朝日がひどかったですね。NHKも朝日も、いやしかしどうでもいい話をよくもまあ。秘書が容疑を認めたって話は、どこに行ったんでしょう? そうやって世論の小沢イメージは形成されていったのです。

新聞記者仲間ではこういうのを「書き得」と呼びます。検察回り、警察回り、国税回り、そういう摘発関連の記者たちは夜ごと捜査当局を回っていろんな話を聞いてきます。で、立件できるほど証拠もないし筋が悪いさまざまな情報が日々、どんどんたまっていく。苦労して時間を使って集めたのに書けないわけですね。そういうのを、関連の摘発があるとどさくさにまぎれてここぞとばかりに吐き出すのです。まあ、つなぎの紙面を埋めるための記事も必要ですし、デスクは朝刊、夕刊、テレビの場合は朝のニュース昼のニュース、夜のニュースでなにかないか、面白い話はないかってうるさくせっつくわけですから、それにも応えられてちょうどいいわけです。つまり、報われなかった夜討ち朝駆けの苦労もこの吐き出しでカタルシスを迎えられるのです。

今回は、そういうゴミ情報を基に国民はなんだかわからない「疑惑」の印象を小沢に抱くようになった。というか、もしこれが国策捜査ならば、まさに自民党の思うつぼです。べつに小沢が逮捕されなくたっていい。似たような状況がメディアスクラムで作られてしまっている。

さて、問題はそこです。「会見での小沢説明では納得できない」という世論が圧倒的。これ、そもそも納得できるはずがないのです。なぜなら、小沢は、秘書の政治献金規正法の罪状だけではなく、じつはそれ以外に有象無象に垂れ流されたゴミ情報にまみれてしまっているの。そんなもの、いくら時間があっても説明なんかできるもんじゃない。あるいは説明する、釈明する義理だってないわけです。だって、立件されてない、裏のない話なんですから。おまけに秘書の罪状はトンネル献金だけです。その罪状さえ否認しているので、小沢としても公的には釈明のしようがない。せいぜい「世間を騒がせて申し訳ない」ということでしかない。それ以上謝ったら秘書の公判にまで影響が出てしまうからです。

これが「小沢の説明は納得いかない」のメカニズムです。「疑惑」を釈明すれば疑惑の存在を認めることにもなるから触れることもできない。だからどうしたって説明不足の印象だけが残る。そういう結論。一流の識者までがそのメカニズムを理解せずに「説明責任を果たしていない」と批判するのは的外れです。異様に企業献金が多い、というのだって、そういうシステムの中での集金マシンとしてのボス政治家像の好悪の問題です。企業献金が違法となっていない現行の司法制度の中では、それが多すぎるとしても罷免に値するものではないでしょう。

いや、私は、小沢に「辞めるな」と言っているわけではありません。
むしろ辞めた方が現状では政権交代に近いかもしれない。
しかし、これで辞めたら、何かが違うと思っているのです。

そうして小沢・民主党人気は沈没したままです。小沢沈没と同時に麻生内閣の支持率がまんまと回復しています。タイミングもよいことに日本では定額給付金の支給手続きも始まりました。高速道路の値引きもそうですが、選挙を前にしてこういうのは票をカネで買っているのとどう違うのか? もちろんそのカネはじつは自分のカネが戻っているだけというごまかしなのですが、政権政党とはこういう“不正”もレトリックという名のトリックでやり遂げられるのです。

だから私のこの文章は、敢えて小沢に甘いバイアスをかけて書いてます。私だって小沢には聞きたいことがたくさんあるし、政治家としてそういった、たとえ裏のない疑惑にでも答える責任はあると思いますよ。しかしそれ以上に、今回は麻生政権の問題と疑惑のほうが重篤だと思うからです。たとえばこう考えてみてください。政治資金規正法犯罪という形式犯罪で、小沢の秘書が通常のように(逮捕されずに)在宅で起訴されていたら、検察担当メディアがやいのやいの書き散らしたゴミ情報は出てこなかった。そうしたら麻生政権はいままで保っていたかどうか? 今回の秘書逮捕と起訴と、その間のメディアへの検察リークはまさに世論操作です。その証拠が麻生政権の支持率回復ですもの。そう、小沢が辞めたら、それは世論操作によって辞めることになる、という異和感です。

まあ、そんなこといまさら言ってもしょうがないのはしょうがない。世間は小沢にそういう印象を持つようにしむけられてしまったんだから。

ただね、そんなバイアスもなにもなく、客観的に見て麻生の残す日本の未来は大変だと思います。だって、この分じゃあ政権交代しても、民主党に残されているのは莫大な借金の後始末だけだっていうのは、私にはまぎれもない客観的事実だと思われるのですよ。

高速道路の値下げだって民主党が言ったときにゃそんなものは将来に禍根を残す天下の愚策だと切り捨てたのに、自分たちがそのアイディアをパクったときにはこれで消費行動に結びつくですもんね。金をばらまくだけばらまいて、さて、選挙がそろそろうごめき出しているようです。

まったくね、ものすごい権力闘争が、こうやって「あれはなんだったんでしょうね」ということになっちゃったんですね。

April 06, 2009

我慢のチキンレース

そりゃあミサイルが降ってくるとなれば誰だって慌てます。しかしもしそうだとしたら、そのときに為政者が準備すべきは、1つは落下あるいは攻撃地点の被害の予防と事後の救助、そしていま1つはミサイルを射った国との戦争です。

ところが日本政府はどうもその1つも真剣には準備していないようでした。迎撃用ミサイルは配備しましたが、「当たるわけない」と発言する高官までいてどこまで本気だったのか。というかそもそもこれが日本を狙っての「ミサイル」だったとはだれも信じてなかったんでしょう。つまり、この件はどこまで大変なことだったのか? 本当はそう大したことではなかったんじゃないのか?

日本のメディアはものすごい騒ぎでした。おまけに政府は発射の誤認と誤報騒ぎを2度まで起こして、私なんぞはこれでアジア各国に「日本はこれほどに平和国家。あなたの国を侵略する意図なんぞ微塵もありません」と宣伝する最高の材料だったと、いや冗談ではなく真面目にそう思いました。これこそが軍事に走る北朝鮮や中国に対する見事なアンチテーゼだと開き直ることです。

ところで北朝鮮という国の行動パタンはいつも決まっています。数年に1度、軍事的脅威で挑発して、国際社会がその暴走を止めようとさまざまな懐柔の餌を投げ与えてくるのを画策する。

今回のミサイルも、そもそも94年に問題となった核弾頭の原料となり得るプルトニウム生成の黒鉛減速炉から引き続くものです。このときのクリントン政権は北朝鮮の爆撃も検討しましたが、結局は特使のカーター元大統領が当時の金日成と会って代替の軽水炉を無償で建設してやるということになったのです。

とはいえ、それも何度もウラン濃縮計画を口にしたり黒鉛減速炉を再開したり、果ては国際原子力機関を脱退したり次には核拡散防止条約から脱退したり核兵器保有宣言をしたりで、軽水炉事業はついに05年11月に中止になりました。で、06年には核実験の強行です。

この一連の動きの中に今回のミサイル、というかロケットですわね、その発射があった。これは人工衛星だろうがなかろうが、テポドンの精度と射程が改善したことを国際的に見せびらかすためのものでした。おまけに北朝鮮は9日に最高人民会議、15日に故金日成の誕生日、25日には朝鮮人民軍の創設記念日を迎えます。これらを前に、金正日の健康不安で国内的な示威も必要でした。

つまり、今回のロケットでは北朝鮮としても切り離しの1段目ブースターなどを下手に日本本土に落とすわけには絶対にいかなかったのです。そんなことになったら本来の挑発・かく乱の意味がぶっ飛んでマジで大変なことになってしまいますから。日本政府中枢だってそのくらいは読んでいたでしょう。

ですので問題は今回ではない。次なのです。北朝鮮はしばらくは国内イベントで忙しいが、その後にどう動いてくるか? 弾道ミサイルの開発は今後、たしかに急速に進むでしょうから。

日本では早くも自民党の政治家から「北が核ミサイルなら日本も核武装すべき」という声が出ています。オバマが核軍縮に向けて米国の具体的な行動を宣言している時に日本が核兵器を持って何をしようというのか? 核兵器を持つこと、保管することは実際には技術的にとても難しいので、そんな一朝一夕に配備できるなんてことはまったくありませんからこれはブラフあるいは無知な発言なんですけれど、しかしそれにしてもそういう心情を吐露できてしまう野卑な政治状況というのはますます深化するかもしれません。

冒頭にも書きましたが、しかし政治家がまずは準備すべき被害の予防の最大のものとは、まさにそんな戦争をしたたかに事前回避することなんですね。そして上記のような短絡的な政治家の勇ましさは往々にそこに生きるわたしたち無辜の命を忘れがちなのです。それは北朝鮮政府と同じくらい始末が悪い。

で、戦争を回避するにはどうすべきか?
それはいまのところ、挑発には絶対に乗らない、ということしかないんだと思います。相手のチキンレースを受ける必要はまったくありません。メディアも、視聴率狙いでけたたましい番組や記事は作らんことです。もっとおとなになりましょうよ。だってこれは国家の安全保障にかかわることですもの。命がかかってる。ぎゃーぎゃー騒ぐやつは一番先に撃たれるんです。

表向きは騒がず、ときには無視もする。そして水面下で米韓と協調して探り合いを続ける。

でもね、最終的には北の体制を変えることしかないんだろうなあとは、みんなわかってるんだと思います。さてそれを、どうやるかですわ。知られないようにね。

March 17, 2009

死んでゆく新聞

NYタイムズの本社ビルの一部が売りに出されたり、有名なサンフランシスコ・クロニクル紙が廃刊しそうだとかある新聞は全部オンラインに移行するだとか、「旧メディア」としての新聞の危機が叫ばれています。とはいえ、心配しているのはわたしたち新聞に関わっている者たちだけかもしれません。42%のアメリカ人は自分の住む町からそこの地方紙がなくなっても困らないと答えたことが最近の世論調査で明らかになりました。

べつにアメリカに限った話ではありません。日本でも新聞離れが言われて久しいし、じっさい、若者たちはニュースのほとんどを無料のオンライン新聞で得ています。あるいはニュースそのものをどこからも得ていないのかもしれませんが。

先月、創刊150周年を目前にしたコロラド州デンバーのロッキーマウンテン・ニューズ紙が廃刊に追い込まれました。最終発行日のその日、同紙のウェブサイトには「ファイナル・エディション(最終号)」と称して同社編集部の様子や記者・従業員へのインタビューが動画で掲載されました。

20分ほどのそのビデオで、ある記者が悲しそうな顔で訴えていました。

「新聞がなくなったらこれから誰が質問するんだ? ブロガーは質問なんかしないよ。それでいいのか?」

新聞はこれまで、莫大な金と時間を投資して有意の若者たちを訓練し一丁前のジャーナリストに育て上げてきました。時の権力のさまざまな形に「質問」の力で対峙できるように訓練してきたのです。新聞はしばしば「ペン」に喩えられますが、ペンよりも以前に権力の不正や怠慢や欺瞞を見逃さずに質問し調べ上げる「取材」の力によって支えられていたのです。もちろんその途中で権力にすり寄ったり自分を権力と同一化して弱い者いじめに加担するエセ・ジャーナリストも数多く生まれましたが、勘違いするやつが生まれるのはどの業界でもまあだいたい同じようなもんでしょう。

とにかくいまインターネット上にはそうして得られた情報が無料で開示されています。そうしてそれらを基に、多くの第2次、第3次情報が取材調査もしない手先の情報処理だけでえんえんと生み出されている。

そこには「ペン」だけがあって、その事実を支える種々の努力が欠如しがちです。そうすると何が起こるか? 「ペンは剣よりも強し」ではなく、ペンは剣と同じくひとを傷つける怖いものにも成り果てる。それは「2ちゃんねる」などの中の一部掲示板で繰り広げられる「あらし」や「まつり」にも如実に表れています。先日の日テレの「バンキシャ」虚偽証言タレナガシ岐阜県庁裏金作り報道も、結局はネット情報だけでやっちゃった結果なんでしょう?

だれが事実を検証するのか? だれが権力に対峙できるだけの知識と手法とを駆使して真実を知らせるのか? それはよほどの「ブロガー」でなければできないでしょう。もちろんそれは、よほどのジャーナリストでなければできないことでもありますが、「よほどのブロガー」はそんな「よほどのジャーナリスト」たちの第1次情報をネタ元の1つにしているのも確かなのです。

新聞を殺してもよいのか? そんな問いはしかし無効です。新聞はいずれ死にます。さらに、新聞が何ほどのもんだという批判もあるでしょう。しかし社会構造として新聞社が組織的に担っていた対抗権力の大量生産能力には小さからぬ意義があったと思うのです。

そうやって新聞が行ってきたジャーナリストの製造、つまり「質問」と「調査」の新しい担い手を、わたしたちの社会は早急に見つけ出さねば、あるいは育て上げねばならないのだと思います。

無理かもしれませんけどね。

March 06, 2009

なるほど麻生が粘ったわけだ

わたしはべつに民主党の支持者でも小沢の信奉者でもありません。ただ、自民党からの政権交代が逐次行われるような政治体制でないとダメだとかねてから思っていて、そのために多少の瑕疵には目をつぶっても民主党の政権を作ることのメリットのほうが大きいと思っています(あの、なんで民主党にいるのかわからない、自民党のスパイみたいな薄ら笑い前原は好きになれんが)。

いわゆる自民党的なるものというのは、すでに賞味期限を過ぎて、日本の政治には新しい流れであるとか新しいパラダイムというのが差し挟まれなければどうにも機能不全なのだという思いが強いです。それこそがとにかく日本という国家のためであるという信念は揺るぎません。しかし、自民党はそうじゃないらしい。自分たちが政権に固執していることこそが日本のためという振りをして、それはしょせん自分たちの保身のためでしかないことは明らかです。なぜなら、彼らのいうのはいつも「このままでは選挙を戦えない」であり、「このままでは日本はダメになる」という発想ではいちどもないからです。

麻生が二進も三進も行かなくなって、解散も内閣改造も、そして選挙すらもできない、という状況であるのは確かなのですが、しかしこのところの政権へのしがみつき具合はいったい何なのか、と疑問に思っていました。予算、補正、給付金、二次補正と、とにかく隙を与えずに次の飛び石に向けて邁進する。先の見えないこのガムシャラぶりはいつか破綻すると決まっていたのですが、なるほどそれもこれもすべて、この東京地検特捜部の動きと連動していたわけです。

しかし東京地検特捜部も、今回はえげつないことをしたものです。
特捜部の捜査というのはいつもかならず政治的なものです。「巨悪を眠らせない」といったあの時代も、じつは巨悪だけでなく小悪も中悪も、いろいろと目配りして手や口を突っ込んでいて、それは国民の雰囲気を読みながら刑法を背景にしたもうひとつの政府だったのです。しかし、これまではつねに「選挙」には細心の注意を払って、そこへ腕を突っ込むような、刑法によるあからさまな政治的介入だけは避けてきたはずです。むかし、私が新聞記者だった時は、選挙があるときは警察・検察は敢えて動かない、と教えられたものなのに。すべては選挙のあとだ、と。なのに、今回は選挙の前にこれをやった。

確かに一部が今月末で時効となる事案だったかもしれません。しかし、そうであったとしても「この種の捜査で逮捕者を出したことなどない」と言う小沢の指摘は正しいものです。なのにこれをやった。そういえば、司法が自民党の保身に加担するようになったこの傾向は、あの辻元清美が(政治家ならだれでもやっていた、そして辻元はまだやっていた、というのに過ぎなかった)秘書給与流用で警視庁捜査2課に逮捕されたころからでしょうか。「あくまでも容疑があれば捜査をするだけ」という建前が建前であることは司法というものを少しだけでも知っている者ならだれでも知っています。それが社会的にどういう意味を持つか、それが国民のどれだけの支持を得るか、その捜査がどれだけ勧善懲悪の顔をしているか、そのへんをいろいろと計算して強制捜査に入るのです。

そうやって眺めると、東京地検特捜部を指揮するいまの法務大臣は麻生派の森英介です。
こいつ、こないだ東京に帰った時の鮨屋でたまたま同じカウンターに座ったんだが、魚は養殖がいいとか、何を言ってるんだかわからんことを披瀝して、聞いていてこちらが恥ずかしくなってしまった。一応相手が権力者だから言うけど、この男は、バカである。
さて、とにかくもそういうわけで麻生は西松捜査が小沢に向かうことを知っていたわけで、とにかくそこまで生き延びれば起死回生の一手となる、とふんだわけなのです。それまではとにかく国会審議と外遊(アメリカに次いで、すぐに中国です)を連発してつないでいく。なるほど、権力というのはかくもえげつなく恐ろしい。それを知ると情けなくもしかたないが。

小沢への強制捜査はあるのでしょうか?
しかし、こうやって新聞社を離れて見ると、新聞報道もかなりいい加減です。検察リークを基にしてしか書いてない。以前からそういうもんではあったのですが、司法からのリークは裏を取る必要なく記事になるので、なるほどこれも政権への補強と傾くのは当然なんですね。
いやはや、これで小沢の首を取れなかったら、検察当局は次は首相になった小沢から大粛清を食らうでしょう。なぜってリーク情報で言えばこれは明らかに大規模な受託贈収賄事件なんですからね。
双方、命がけの攻防です。

面白いと言えば面白いが、その間にも日本はどんどんと腐ってゆくんだなあ。
疑惑が本当なら、小沢も二重に罪なことをしたことになります。
そうじゃなきゃ、麻生・自民党こそが諸悪の根源ということです。

November 17, 2008

オルバーマン翻訳


Finally tonight as promised, a Special Comment on the passage, last week, of Proposition Eight in California, which rescinded the right of same-sex couples to marry, and tilted the balance on this issue, from coast to coast.

最後に、お伝えしていたとおり先週カリフォルニアで可決された提案8号のことについて特別コメントをします。同性カップルが結婚する権利を廃棄する、というものです。同性婚問題に関する均衡がこれで揺るがされました。全米で、です。

Some parameters, as preface. This isn't about yelling, and this isn't about politics, and this isn't really just about Prop-8. And I don't have a personal investment in this: I'm not gay, I had to strain to think of one member of even my very extended family who is, I have no personal stories of close friends or colleagues fighting the prejudice that still pervades their lives.

前置きとしてわたしの基準を言います。これはエールを送っているのでもなく、駆け引きをしようとしているのでもなく、そして本当は単に提案8号のことでもありません。わたしにはこの問題に関して個人的な思い入れもありません。わたしはゲイではないし、自分の家族親族の中にゲイがいるかと考えると、ずいぶんと範囲を広げても考え込んでしまうほどです。近しい友人や同僚たちの中に彼らの暮らしにいまも影を落とすこの偏見と闘っている者がいる、という私的なエピソードもありません。

And yet to me this vote is horrible. Horrible. Because this isn't about yelling, and this isn't about politics. This is about the human heart, and if that sounds corny, so be it.

しかし、そうではあっても、この投票はひどい。ひどすぎる。なぜならこれはエールでも駆け引きでもなく、人間の心の問題だからです。もしこの言い方が陳腐だと言うならば、そう、陳腐で結構。

If you voted for this Proposition or support those who did or the sentiment they expressed, I have some questions, because, truly, I do not understand. Why does this matter to you? What is it to you? In a time of impermanence and fly-by-night relationships, these people over here want the same chance at permanence and happiness that is your option. They don't want to deny you yours. They don't want to take anything away from you. They want what you want—a chance to be a little less alone in the world.

もしあなたがこのプロポジションに賛成票を投じたのなら、あるいは賛成した人を支持する、あるいはその人たちの表明する意見を支持するのなら、わたしはあなたに訊きたいことがある。なぜなら、ほんとうに、わたしには理解できないからです。どうしてこの問題があなたに関係あるんですか? これはあなたにとって何なんですか? 人と人との関係が長続きもせず一夜で終わってしまうような時代にあって、ここにいるこの人たちはただ、あなたたちが持っていると同じ永続性と幸福のチャンスを欲しいと思っているだけです。彼らはあなたに対し、あなたの関係を否定したいと思っているのじゃない。あなたたちからなにものかを奪い取りたいわけでもない。彼らはあなたの欲しいものと同じものを欲しいと思っているだけです。この世にあって、少しばかりでもさみしくなくいられるようなチャンスを、です。

Only now you are saying to them—no. You can't have it on these terms. Maybe something similar. If they behave. If they don't cause too much trouble. You'll even give them all the same legal rights—even as you're taking away the legal right, which they already had. A world around them, still anchored in love and marriage, and you are saying, no, you can't marry. What if somebody passed a law that said you couldn't marry?

それをあなたは彼らにこう言う──だめだ。そういう関係では結婚は許されない。ただ、行儀よくしているならば、きっと似たようなものなら。そんなに問題を起こさないなら、あるいは。そう、まったく同じ法的権利をあなたたちは彼らに与えようとさえするんでしょう。すでに彼らが持っていた法的権利を奪い取るのと引き換えに。彼らを取り巻く世界はいまも愛と結婚に重きを置くくせに、しかしあなたたちが言うのは、ダメだ、きみらは結婚できない。もしだれかがあなたは結婚できないと断じる法律を成立させたら、どういう気持ちですか?

I keep hearing this term "re-defining" marriage. If this country hadn't re-defined marriage, black people still couldn't marry white people. Sixteen states had laws on the books which made that illegal in 1967. 1967.

ずっと聞いているのは、結婚の「再定義」ということばです。もしこの国が結婚を再定義してこなかったなららば、黒人は白人といまでも結婚できていないはずです。1967年時点で、16の州がそれを違法とする成文法を持っていたんです、1967年に。

The parents of the President-Elect of the United States couldn't have married in nearly one third of the states of the country their son grew up to lead. But it's worse than that. If this country had not "re-defined" marriage, some black people still couldn't marry black people. It is one of the most overlooked and cruelest parts of our sad story of slavery. Marriages were not legally recognized, if the people were slaves. Since slaves were property, they could not legally be husband and wife, or mother and child. Their marriage vows were different: not "Until Death, Do You Part," but "Until Death or Distance, Do You Part." Marriages among slaves were not legally recognized.

この合州国の次期大統領になる人の両親は、彼らの息子がいずれこの国の指導者になろうと成長しているそのときに、この国の3分の1近くの州では結婚できなかったのです。いや、もっとひどいことがある。もしこの国が結婚を「再定義」してこなかったなら、黒人のある人々は他の黒人ともいまも結婚できていなかった。それはほとんどの人々が見逃しがちな、われわれの悲しむべき奴隷制度の歴史の最も冷酷な部分の1つです。なぜなら奴隷は所有物だったから、彼らは法的には夫にも妻にもなれなかった。あるいは母にも子供にもなれなかった。彼らの結婚の誓いは違うものだったのです。「死が汝らを分かつまで」ではなく、「死が、あるいは売り渡される距離が、汝らを分かつまで」だった。奴隷間の結婚は法的には認められていなかったのですから。

You know, just like marriages today in California are not legally recognized, if the people are gay.

そう、ちょうど、カリフォルニアの結婚が今日、もしゲイならば、法的に認められなくなったのと同じです。

And uncountable in our history are the number of men and women, forced by society into marrying the opposite sex, in sham marriages, or marriages of convenience, or just marriages of not knowing, centuries of men and women who have lived their lives in shame and unhappiness, and who have, through a lie to themselves or others, broken countless other lives, of spouses and children, all because we said a man couldn't marry another man, or a woman couldn't marry another woman. The sanctity of marriage.

われわれの歴史の中で、世間に強いられて異性と結婚したり、偽装結婚や便宜上の結婚や、あるいは自分でもゲイだと気づかないままの結婚をしてきた男女は数知れません。何世紀にもわたって、恥と不幸にまみれて生き、自分自身と他人への嘘の中でほかの人の人生を、その夫や妻や子供たちの人生を傷つけてきた男女がいるのです。それもすべては、男性は他の男性と結婚できないがため、女性が他の女性と結婚できないがためなのです。結婚の神聖さのゆえなのです。

How many marriages like that have there been and how on earth do they increase the "sanctity" of marriage rather than render the term, meaningless?

いったいそんな結婚はこれまでいくつあったのでしょうか? それで、そんな結婚がいったいどれほど結婚の「神聖さ」を高めているというのでしょうか? むしろそれは「神聖さ」をかえって無意味なものにしているのではないのか?

What is this, to you? Nobody is asking you to embrace their expression of love. But don't you, as human beings, have to embrace... that love? The world is barren enough.

これは、あなたにとって何なのですか? だれもあなたに彼らの愛情表現を信奉してくれとは言っていません。しかしその愛を、人間として、あなたは、祝福しなくてよいのですか? 世界はもうじゅうぶんに不毛なのに。

It is stacked against love, and against hope, and against those very few and precious emotions that enable us to go forward. Your marriage only stands a 50-50 chance of lasting, no matter how much you feel and how hard you work.

愛は追い込まれています。希望もまた。わたしたちを前進させてくれるあの貴重で数少ない感情が、劣勢にあるのです。あなたたちの結婚は50%の確率でしか続かない。どんなに思っていても、どんなにがんばっても。

And here are people overjoyed at the prospect of just that chance, and that work, just for the hope of having that feeling. With so much hate in the world, with so much meaningless division, and people pitted against people for no good reason, this is what your religion tells you to do? With your experience of life and this world and all its sadnesses, this is what your conscience tells you to do?

そうしてここに、その50%の見込みに、そのがんばりの可能性に、そしてその思いを持てることの希望に大喜びする人たちがいるのです。世界に蔓延する憎悪や無意味な分裂や正当な理由もなくいがみ合う人々を目にしながら、これがあなたの宗教があなたに命じた行為なのですか? これまでの人生やこの世界やそのすべての悲しみを知った上で、これがあなたの良心があなたに命じたことなのですか?

With your knowledge that life, with endless vigor, seems to tilt the playing field on which we all live, in favor of unhappiness and hate... this is what your heart tells you to do? You want to sanctify marriage? You want to honor your God and the universal love you believe he represents? Then Spread happiness—this tiny, symbolic, semantical grain of happiness—share it with all those who seek it. Quote me anything from your religious leader or book of choice telling you to stand against this. And then tell me how you can believe both that statement and another statement, another one which reads only "do unto others as you would have them do unto you."

人生というものが、むしろ不幸や憎悪の方を味方して、私たちみんなの拠って生きる平等な機会を何度も何度も揺るがしがちだと知っているくせに、それでもこれが、あなたの心があなたにこうしろと言っていることなのですか? あなたは結婚を聖なるものにしたいのでしょう? あなたはあなたの神を崇め、その神が体現するとあなたの信じる普遍的な愛というものを栄光に包みたいのでしょう? それなら、幸せを広めなさい。このささやかで、象徴的で、意義のある、一粒の幸せを広めてください。そういう幸せを求めるすべての人たちと、それを共有してはどうですか。だれか、あなたの宗教的な師でもいい、然るべき本でもよい、そんな幸せに反対せよとあなたに命じているものがあるとしたらなんでもいい、それをわたしに教えてほしい。そうして、どうしてその教えと、もう1つの教えの、両方をあなたが同時に信じていられるのかを教えてください。「自分が為してほしきものを他人に為せ」という教えです。

You are asked now, by your country, and perhaps by your creator, to stand on one side or another. You are asked now to stand, not on a question of politics, not on a question of religion, not on a question of gay or straight. You are asked now to stand, on a question of love. All you need do is stand, and let the tiny ember of love meet its own fate.

あなたはいま、あなたの国によって、そしてたぶんあなたの創造主によって、どちらかの側に立つようにと言われています。あなたは、政治の問題ではなく、宗教の問題でもなく、ゲイとかストレートとかの問題でもなく、どちらかに立つように求められているのです。何に基づいて? 愛の問題によってです。行うべきことはただ立つこと。そうしてそのささやかな愛の燃えさしが自身の定めを全うすことができるようにしてやることです。

You don't have to help it, you don't have it applaud it, you don't have to fight for it. Just don't put it out. Just don't extinguish it. Because while it may at first look like that love is between two people you don't know and you don't understand and maybe you don't even want to know. It is, in fact, the ember of your love, for your fellow person just because this is the only world we have. And the other guy counts, too.

べつにそれを手助けする必要はありません。拍手を送る必要もない。そのためにあなたが戦う必要もない。あなたはただ、その火を消さないようにしてほしい。消す必要はないのです。最初はそれは、あなたの知らない2人の人間のあいだの愛のように見えるかもしれない。あなたの理解できない、さらにはきっと知りたくもない2人の人間の愛です。しかしそうすることはあなたの、仲間の人間に対する愛の残り火なのです。なぜなら、私たちにはこの世界しかないのですから。その中でほかの人がそれをこそ頼りにしているのですから。

This is the second time in ten days I find myself concluding by turning to, of all things, the closing plea for mercy by Clarence Darrow in a murder trial.

この10日間で、こともあろうにこのコーナーを、ある殺人犯裁判での弁護人クラレンス・ダローの、慈悲を求めた言葉で閉じるのは2度目です。

But what he said, fits what is really at the heart of this:

しかし彼の言ったことは、この問題の核心にじつにふさわしい。

"I was reading last night of the aspiration of the old Persian poet, Omar-Khayyam," he told the judge. It appealed to me as the highest that I can vision. I wish it was in my heart, and I wish it was in the hearts of all: So I be written in the Book of Love; I do not care about that Book above. Erase my name, or write it as you will, So I be written in the Book of Love."

彼は裁判官に向かってこう言っています。「わたしは昨晩、昔のペルシャの詩人オマル・ハイヤームの強い願いについて読んでいました」と。「それはわたしの想像しうる至高の希求としてわたしに訴えかけてきました。それがわたしの心の中にあったなら、そしてそれがすべての人々の心の中にもあったならと願わざるを得ません。彼はこう書いています;故に、我が名は愛の書物(the Book of Love)の中に刻みたまえ。あの天上の記録(Book above)のことは関知せず。我が名が消されようが、好きに書かれようが、ただしこの愛の書物の中にこそは、我が名を記したまえ」

November 12, 2008

キース・オルバーマン

MSNBCのニュースキャスターです。
翻訳してここに載せようとしたのですが、時間がなくて、まずはとにかく掲載したほうがよいと判断しました。
英語のわからない人も、彼の言いたい気持ちは伝わると思います。

自分はゲイでもなんでもないし、家族にもゲイはいないが、あのプロポジション8は、「ホリブル、ホリブル!(ひどい!)」と繰り返します。「これは人間の心の問題だ。この私の言葉が陳腐に聞こえると言うなら、陳腐に聞いていろ」と言います。そして「ゲイたちの愛が、あなたたちに何の関係があるんだ? あなたたちから何を奪うというのだ!」と続けるのです。どうしてそれを規制しようというのか、と。1967年に、アメリカでは黒人と白人の結婚できない州が16州もあった。奴隷は結婚を認められていなかった。あなたはそれと同じ不自由をゲイに強いているのだ、と言っています。

筑紫哲也が死にましたが、「少数派」を援護して来た彼なら、日本でも同じことを言ったでしょうか。
言ったかもしれませんね。勢いや情感は違うにしても。
この提案8号、日本ではあまり話題になっていないのでしょうか。

長いですが、まずは見てください。


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August 13, 2008

うるわしき毒

スポーツというのはじつはジャーナリズムの中で最も記述の難しい分野ではないかと思っています。中立が旨である報道の中で、スポーツ記事だけがそのカセをはらってなんとも身びいきだったりします。したがって、NBCの五輪中継を見ていてもあんまり面白くないということになります。日本がさっぱり出てこないしね。主役ではないのですから。

しょせん私たちは自分の知りたい情報しか知りたくないのかもしれません。たとえば北京五輪の射撃の表彰台で、銀と銅を獲得したロシアとグルジアの女子選手が頬にキスし合って抱き合ったというニュースが朝日のウェブサイトで紹介されました。

ご存じのようにロシアとグルジアは南オセチア自治州の統治をめぐって戦闘状態に突入したばかりでした。そして朝日のサイトは2人仲好く並ぶ写真に「スポーツは政治を越える」というロシア選手のコメントを引用し、見出しも「表彰台に友情の花」と紹介していたのでした。

スポーツは政治を越え「ない」ことはだれもが知っています。それどころかスポーツはつねに政治に利用される。中国での五輪の開催はまさしく、世界の先進国社会に正式に仲間入りしたい中国の政治的思惑と、中国も五輪の体面上、国際的に反発を買うような外交決断や人権侵害は避けるようになるだろうといった西側の政治的思惑の交差したところに成立したものです。

にもかかわらず「スポーツは政治を越える」と言うのは、私たちがつかの間のそんな幻想を信じたいと思っているからでしょう。シビアな現実世界の、それは一服の清涼剤めいて、私にはそれを責める気はありません。私も新聞記者1年生のときは「読者が感動できる物語を探して書くんだ」と先輩記者に叩き込まれた口です。

かくしてオリンピック報道は往々にして選手やその周囲の美談と感動の根性物語になります。

そんなことをつらつら考えていると、今度は五輪開会式でソロを歌った「天使の歌声」の女の子がじつは口パクで、舞台裏ではその子よりも見た目のそうよくはない、しかし歌はうまい別の女の子が歌っていたのだというニュースがありました。なるほど、世界が見たいだろうと思うものを見せる、それはスポーツ報道に限らない。新聞なら美談で、テレビなら画面上の美しさ。それがなんで悪いんだ、というところでしょうか。で、同じくあの開会式の花火のCGです。ふむ、徹底していますな。

しかし日本だってエラそうなことはいえません。ヤラセと演出の違いに敏感なのは、とりもなおさずヤラセでも視聴率が取れるという現実が厳然として存在するからです。中にはヤラセとわかっていてわざとそれを楽しむなんていう高度な視聴技術さえ新しい世代には育ってもいる。

視聴者も読者も、そうやって美談という名の毒消しを求める社会は幸せな社会なのでしょうか。そしてあるとき、美談そのものが現実を直視しないうるわしい毒になって蔓延している。

新聞記者時代、もう1つ大先輩から教わったことがあります。「ときには読みたくないことも書かねばならない。その社会にとって都合の悪いことも書かねばならない。あるときは害であることですら書かねばならない。なぜかわかるか? なぜなら、それが事実だからだ」

中立とか中道とか、そういうバランス感覚の問題ではなく、あるいは社会の木鐸なんぞといった大仰な構えからでもなく、それが単に「事実だから」というだけの単純明快な基準に、若かった私はまさに目からウロコが落ちた思いでした。

五輪のドラマが続いています。NBCやNYタイムズから知る数少ない日本人選手の活躍ぶりは、あんまり面白くないし物足りなくもあるけれど、逆に熱狂的にあおられる感じもなくて、スポーツ観戦のなんだか不思議に新しい経験です。

January 10, 2008

もうそろそろ新聞も

以下のニュースはTBS報道局の特ダネです。でも、どの新聞社の記事もそれに触れていない。
それは情報として十全なのか。

**

【朝日.com】年賀再生紙はがき、無断で古紙配合率低く 日本製紙
2008年01月10日12時47分

 製紙大手の日本製紙は9日、同社が作った「年賀再生紙はがき」の用紙について、古紙の配合率が受注時の取り決めを大幅に下回っていたと発表した。発注元である日本郵政や、購入者への謝罪文も同時に公表した。

 日本製紙によると、配合率は40%と取り決めていたが、古紙が多いと不純物が増えて要求される品質を満たせないと判断し、日本郵政に無断で1〜5%しか使っていなかった。いつから基準を下回っていたかは調査中という。年賀はがきの98%は「年賀再生紙はがき」で、その用紙の日本製紙のシェアは約8割。

 日本郵政は、はがきを印刷会社に発注し、印刷会社が用紙を日本製紙などから調達している。日本郵政は「印刷会社など関係者から調査し、結果を待って今後の対応策を検討する」としている。

【毎日.com】再生紙はがき:年賀はがき配合率「古紙40%」、実は1% 納入元、無断で下げ

 日本郵政グループの古紙40%の年賀はがき(再生紙はがき)で、古紙成分が1~5%のものがあったことが9日、分かった。納入元の日本製紙が、無断で配合率を下げていたことを認めた。日本郵政は「環境重視のイメージが傷つきかねない」と反発し、調査を行う。

 年賀はがきの発行数は毎年約40億枚。うち97・5%が再生紙を利用している。日本製紙は年賀はがき用の紙の約8割を納入しており、古紙の割合が基準に達しない紙が大半とみられる。

 日本製紙は「古紙の割合を多くすると、紙にしみのようなものができるなど品質が下がるため、配合率を低くした」と説明している。同社は、社内調査を始めたが、数年前から配合率を下げていた可能性が高いという。【野原大輔】

【読売】「古紙40%」年賀はがき、実は一部で1~5%

商品偽装
 環境への配慮をうたって古紙を40%利用して作ることになっていた年賀はがきの一部で、実際には1~5%しか古紙が含まれていなかったことがわかった。


 日本郵政(東京都千代田区)などによると、はがき用の紙を納入した日本製紙(同)が品質を向上させるため無断で古紙の配合率を下げたという。

 問題となっているのは、昨年末に全国の郵便局で販売された「再生紙はがき」。経済産業省によると、「再生紙」と表記する場合、含有する古紙の割合について規定はないが、年賀はがきについては日本郵政側が印刷会社と、全体の40%を古紙とする契約を結んでいたという。

 しかし、印刷会社に納入された紙のうち、日本製紙が納入した分で、パルプの割合が極端に高いことがわかった。古紙にはちりなどが多く含まれ、紙のきめが粗くなるため、古紙配合率を下げたとみられる。

 日本製紙は「詳細は答えられない」としている。日本郵政では、「イメージダウンとなるので、明確な契約違反が確認できた場合、損害賠償請求も検討している」としている。

****

アメリカに住んで驚いたことは、新聞もテレビも、他紙あるいは他局の特ダネを、自分のところでぜんぜんおかまいなしに「◎◎がこう報じた」と報道することでした。昨日のCNNも、ヒラリー・クリントンの当選確実をAP通信が打つと「APが当確を打ちました」とやりました。日本のテレビ局ニュースが「共同通信がいま当確を打ちました」とか「NHKが当確としていますが、私たちはまだ不確定要素があるとして打ちません」とか言うのは聞いたことがありません。いやそれよりも、私は毎日新聞と東京新聞で新聞記者だったのですけれど、例えば朝日とか読売がなにかすごい特ダネを抜いたときに、それがどんなに重要なニュースであっても、そう、建前は自分で調べたことじゃないから=つまり自分でほんとうのことかどうか確認できないから、それを掲載することはできない、とするのですね。それは当然です。でも、そうなのかなあ、と思ったのは、自分でそれが本当だったと確認できたとしますわね、つまり、後追いですわ。そのとき、そのニュースを書いても、整理さんに扱いを小さくしてくれとデスクなんかが言うんですわね。「いや、抜かれネタでね」とか。

それって、まだ続いているようですね。
でも、いいじゃないのかなあ、って思うの、もう、そういうの。
「TBSが報じたところによると、」っていうことのほうが、読者・視聴者にとって必要な情報じゃないのかなあ。いや、どっかの地裁で例えそうやって報じたとしてもそれが虚報だった場合にそれによって生じる損害は伝聞ででも報じたそのメディアが負う、みたいな判決が出ましたわね、具体的にはどういう事件でどういう内容だったかは忘れましたけど。

いや、たとえ冒頭のこの古紙再生偽装、このニュース、「日本製紙」が認めたことで初めて他社・他紙が書けるニュースになったんですが、その場合でも、この事態の発覚の敬意として「TBSに内部告発の手紙が来て、」というふうに報じるのが、十全の情報ではないか? そうじゃなきゃ、なんでこのことが明らかになったのか、読者としてはわからんのですよ。まさか、日本製紙が誰にも何も言われないのに懺悔したってか?ってことですわ。おまけにTBSは今回、全国の系列局報道部に指示したのかあちこちの郵便局で再生紙ハガキを購入してそれをどっかの分析所に持ち込んで古紙の混合率を計算させてまでいて、かなり用意周到にがんばって日本製紙にその事実を突きつけ、どうだ、参ったかってやったんですわ。発覚の敬意くらいTBSに敬意を示したっていいんじゃないのかい?

だって、それを言わないってのは、それは十全の事実ではないんだもの。言わないことはウソではないが、言わないことによって伝えるべきことを伝えないという事実を放っておく、未必の故意ですよね。

同じような、なんというか、意味があるのかないのかわからんような「縄張り意識」みたいなのが日本のメディアにはほかにもまだ残っています。

たとえば他局の番組のこと、口にできない、というか口にしないのが礼儀とされるでしょ? 礼儀と言って違うなら、あるいは暗黙のルール? それもじつにくだらんのです。そこにリンゴがあるのをみんなわかっているのに、リンゴがない振りをしてリンゴの話を絶対にしないかのような。むかし、紅白歌合戦で絶対その直前に決まったレコード大賞のことを言わなかったんですよ。そのことに触れるようになったのは20年くらい前からかなあ。そのまえは、レコード大賞獲って駆けつけた歌手のこと、知らんぷりして曲紹介してた。レコード大賞の権威が落ち始めたころに、言うようになったんだけどね。

で、アメリカのトークショートかで俳優がゲストに来ると、ぜんぜんかまわないで他局や他系列の映画会社の映画の話とかするんです。たとえば「笑っていいとも」にゲストで出てきた俳優が日本テレビの新番組について話すのと同じです。へえ、こういう話をするんだって最初はビックリしたけど、聞いてればべつになんの異和感もなくなる。だって、事実だもんね。もっとビックリするのは、他局で、他局の番組の番宣CMが流れたりするのよ。これも日本じゃ考えられない。

これは、あれかね、大映とか日活とか東宝とか、俳優たちがみんな映画会社のお抱えで他の社の映画には出られなかった時代の名残でしょうね。自分の出演作、出演会社にがんじがらめになって、それ以外のものは存在しないも同然、っていう。

対してこちらは俳優は組合もあるし(いままだ脚本家組合のストが続いていて番組製作が大混乱に陥っているように、かなりパワフルなのです)、まずは話が「会社」つながりではなく、「俳優」本人つながりだということなんでしょうね。その俳優の前作がパラマウントであろうがフォックスであろうがワーナーであろうが、CBSだろうがABCだろうがNBCだろうが、主語はその俳優であって映画会社やTV局ではない、ってこと。ここら辺も個人主義と会社主義とかの違いなんでしょう。

こう考えるとどうでもいいのになあと思われることもバカみたいな歴史的背景や文化背景があったりするのがわかりますが、それはトートロジーっぽく言えばやはりしょせんバカみたいなことなのです。

そういう呪縛から逃れて、わかってることはみんな教えてよって、思うんですがね。

October 30, 2007

時野谷浩というアホ

ひさしぶりにとんでもないタワケを見つけました。

時野谷浩.jpg

こいつは何者なのでしょう?
しかし、こんな記事を載せるゲンダイネット(って日刊ゲンダイ?)ってどういうタブロイド紙に成り下がったのかしら?

まずは以下をゲンダイネットから引用しましょう。

**
おネエキャラ“全員集合”はメシ時に放送する番組か
2007年10月29日10時00分

 23日に注目の「超未来型カリスマSHOW おネエ★MANS」(日本テレビ、火曜夜7時〜)がスタートした。昨年10月から土曜日の夕方に放送され、今月からゴールデンタイムに格上げされた全国ネットのバラエティーだ。

 番組の内容はタイトル通りで、“おネエ”言葉を話すおかまキャラの出演者が大騒ぎするというもの。レギュラーはIKKO(美容)、假屋崎省吾(華道)、植松晃士(ファッション)ら9人。

 23日の放送で特に目立っていたのはIKKOで、胸がはだけた黒いドレスを着て、ハイテンションで「どんだけ〜」を連発していた。視聴率は11.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。これを世帯数にすると関東だけで200万世帯近くが見た計算になる。

 東海大教授の時野谷浩氏(メディア効果理論)がこう言う。
「私は番組の冒頭を見て、夕食時に見る番組としてふさわしくないと判断したので、チャンネルを変えました。アメリカでは、不快に思う人に配慮してホモセクシュアルの男性をめったにテレビに出演させないし、もし登場させるとしても、ノースリーブの衣装は着させないなどの工夫を凝らします。日本のテレビ局にもそういった配慮が必要だと思います。特にゴールデンタイムは子供もテレビを見るし、夕食をとる人が多い時間帯だからなおさらです」

 メシがまずくなる。それが問題というわけだ。

***

>アメリカでは、不快に思う人に配慮してホモセクシュアルの男性をめったにテレビに出演させない

どこのアメリカなのでしょう?
すくなくとも私の住んでいるアメリカではホモセクシュアルの男性はかなりの番組で、ネタかとも思えるほどに出ているんですが……。

と思いながら再読すると(再読なんかに値するようなテキストではないのですが)

>もし登場させるとしても、ノースリーブの衣装は着させないなどの工夫を凝らします

あ〜、わかった、こいつ、ドラァグクイーンのことを「ホモセクシュアルの男性」だといってるんだ!
ひえー。いまどき珍しい、すげえアナクロ。
ドラァグクイーンというのはトランスヴェスタイトの商売版みたいなもんで、いわゆる女装しているプロたちですね。こういう基礎的なことも誤解しているようなひとを、東海大学はよう雇い入れてますな。

この時野谷、じつは先日も産経にこんなコメントを寄せていました。
記事はゲンダイネットのそれとじつは同じネタです。ふーむ。おもしろいねえ。

***
性差を超えたエンタメ人気 社会モラル崩壊の象徴?
2007.10.7 21:50

 性差を超えたエンターテインメントが世界的なブームだ。日本では中性的な男性タレントが大挙して出演するテレビ番組や、女性歌手のヒット曲を男性歌手がカバーした企画盤が人気を獲得。米ハリウッドでは男優が太った中年女性、女優が男性ロック歌手を演じ話題だが、「テレビ文化がけじめなき社会を作り上げた証明」と批判する専門家もいる。(岡田敏一)

 流行語「どんだけ〜」の生みの親で知られる美容界のカリスマ、IKKOさんや、華道家、假屋崎省吾さんら大勢の中性的な男性タレントが、最新ファッションや美容、グルメ情報などを紹介する日本テレビ系のバラエティ番組「超未来型カリスマSHOW おネエ★MANS」。

 昨年10月から毎週土曜日の午後5時半から約30分間放映しているが、「普通、女性ファッション誌によるテレビ番組の取材は皆無なのに、この番組には取材が殺到しました」と日本テレビ。

 夕方の放送にも関わらず若い女性の支持を獲得し、今月末から放送日時が毎週火曜の午後7時から約1時間と、ゴールデンタイムに格上げ、全国ネットに登場する。

 音楽の世界では、ベテラン男性歌手、徳永英明さんが、小林明子さんの「恋におちて」や、松田聖子さんの「瞳はダイアモンド」といった有名女性歌手のヒット曲をカバーした「VOCALIST(ボーカリスト)」のシリーズが人気だ。

 男性歌手が女性歌手の楽曲に真正面から挑むという業界初の試みだが、平成17年9月の第1弾以来、毎年ほぼ同時期に発売。今回の第3弾(8月発売)までの売り上げ累計は計約150万枚。

 発売元であるユニバーサルミュージックの邦楽部門のひとつ、ユニバーサルシグマでは「主要購買層は20代から30代の女性ですが、予想以上の売り上げ」と説明する。

 ハリウッドでは「サタデー・ナイト・フィーバー」などでおなじみのスター、ジョン・トラボルタが、人気ミュージカルの映画化「ヘアスプレー」(日本公開20日)で特殊メイクで太った中年女性を熱演。

 また、ヒース・レジャーやリチャード・ギアら6人の俳優が米ロック歌手ボブ・ディランを演じ分けるディランの伝記映画「アイム・ノット・ゼア」(米公開11月)では、オスカー女優ケイト・ブランシェットが男装し、エレキギターを抱えて1960年代中期のディランを演じる。

 こうしたブームについて、松浦亜弥さんのものまねなどで人気のタレント、前田健さんは「歌舞伎や宝塚歌劇のように日本では男が女を演じる文化があるが、最近のブームは女性受けを狙ったもの。今の芸能界では女性の人気を獲得しなければスターになれないですから」と分析する。

 一方、メディアの変遷などに詳しい東海大学文学部広報メディア学科の時野谷浩(ときのや・ひろし)教授は「テレビの登場以前は社会のモラルが明確だった。男は男らしく、女は女らしかった。そのけじめを壊したのがテレビ文化。社会秩序を破壊している」と批判的に見ている。

****

もう、いかがなもんでしょうと問うのもバカ臭くなるような情けない作文です。

岡田というこの記者はたしかロサンゼルスでオスカーを取材したりしていた芸能記者だったはずです。ブロークバック・マウンテンとクラッシュのときのオスカーの授賞式(2005年?)ではもちょっとまともなことを書いていたように記憶していますが、なんでまたこんな雑な記事を書くようになってしまったんでしょう。いずれにしても東京に帰ったんですね。

だいたい、日本では徳永以前から演歌界では女歌を男が歌うというジェンダーベンディングの伝統があって、それはまあ、歌舞伎から続く男社会の伝統とも関係するのですが、そういうのをぜんぶホッカムリしてこういう作文を書く。大学生の論文だってこれでは不可だ。

いやいや、時野谷なるキョージュの話でした。

>テレビの登場以前は社会のモラルが明確だった。男は男らしく、女は女らしかった。そのけじめを壊したのがテレビ文化。

口から出任せ?
こいつ、ほんとに博士号を持ってるんでしょうか?
恥ずかしいとかいう以前の話。
反論の気すら殺がれるようなアホ。
どういう歴史認識なのでしょうねえ。

テレビの登場以前は、云々、と書き連ねるのも野暮です。ってか、なんで小学生に教えてやるようなことをここで書かねばならないのか、ま、いいわね、どうでも。

しかし、いま私がここで問題にしたいのは、じつはこの時野谷なる人物が、同じ論調の、同じネタで同じように登場してきたというその奇妙さです。もちろん同じネタとコメンテーターのたらい回しという安いメディアの経済学というのは存在します。でも、あまりにも露骨に同じでしょう、上記の2つは?

同じ論調、同じバカ、ってことで思い出したのは、あの、都城や八女市での男女共同参画ジェンダーフリーバッシングのことです。これ、似てませんか? 後ろに統一教会、勝共連合でもいるんでしょうかね。時野谷ってのも、その子飼いですかな。しかし、それにしてもタマが悪いやね。

<参考>
安倍晋三と都城がどう関係するか

May 02, 2007

「銃」と「人種」の不在

 バージニア工科大乱射事件から2週間が経ちました。いろいろと報道を追い、犯人の書いた「劇脚本」なるものも読んでみたのですが、なんだか肝心のことが茫漠としていて形にならず、ただ彼に蓄積された怒りの巨大さがわかっただけで、その発散のありようであったその字面のとげとげしさと今回の凶行との相似に鬱々とした気持ちになるだけでした。「脚本」はいずれも10枚ほどの短いフィクションなんですが、1つは「義理の父親」への、1つは「男性教師」へのありとあらゆる罵詈雑言で埋め尽くされていました。

 凶行のあいまに彼がNBCへ送りつけた犯行声明ビデオの言葉も基本的にそれと同じものでした。8歳のときから米国に移り住みながらまだアクセントの残る英語で発せられる同じような罵倒の数々はむしろ若い彼の孤立を際立たせて痛々しく、しかもやはりこの犯罪の理由のなにものをも説明していませんでした。

 そんな中、各局各紙ともこの事件報道から(犯人は中国系という誤報はありましたが)人種問題を注意深く除外していたのが印象的でした。チョ青年へのいじめめいたからかいや揶揄もあったようですが、そこに人種的なバイアスがかかっていたかどうかはあまり問題となっていませんでした。また、日本なら両親が謝罪を強要されるような状況が生まれていたかもしれませんがそういうプライヴァシーに無碍に踏み込むようなこともなく、むしろ韓国から“逆輸入”されるニュースのほうが人種や責任問題に敏感になっているようでした。

 もう1つ“除外”されていたのが銃規制の必要性でした。いまごろになってバージニア州知事が精神科医にかかった者のすべての履歴を警察のデータベースに登録して銃を買えないようにするという知事令を出したりしていますが、なんだか枝葉だけがサワついている印象で肝心要の部分は揺らぎもしていない。これについては大統領選を控え民主党が保守票にも食い込むため遠慮しているのだとか、悲劇を政治的に利用すべきではないとの空気が支配的だからなどの解説もありますが、私にはどうも銃規制を訴え続ける徒労感というか、諦観めいた思考停止があるような気がしてなりません。

 15年前にバトンルージュで起きた服部君射殺事件の裁判を現地でずっと取材していたことがあります。あのころは銃規制賛否どちらももっと熱心に議論を戦わせていた。ところがこの議論は実に単純で、「銃を持った強盗が襲ってきたときに銃で対抗する権利はだれにでもある」というのと「銃で銃を防ぐことは不可能だし時に事態をより悪くさせる」という意見に集約されてそれ以外はない。「規律ある民兵は必要だから」という、この国の建国史に関わる憲法条項もどちらの主張にもエサになって議論は平行線のまま。

 そうしてコロンバインが起き、今度は大学です。衝撃に加えうんざりとげんなりもが合わさって、マンネリな銃規制議論などだれも聞きたくないのかもしれません。この行きどころのなさは、泥沼なイラク戦争への閉塞感ともなんとなく似ています。考えるのに疲れているんですよね。

 でも、敢えて言えば「人種」と「銃」、この2つの問題の中立化と除外とが逆にこの事件への対応の方向性を見失わせているのかもしれないとも思うのです。事件はもちろん犯人青年の個別的な人格や精神状態に負うところが多いでしょうが、どんな犯罪にもなんらかの社会問題が影を落としているもの。

 PC(政治的正しさ)で無用な人種偏見を煽らない風潮は定着しましたが、大学女子バスケチームを「チリチリ頭の売女ども」と呼んでクビになった人気ラジオホストがいるようにこの国の人種差別はなくなっているわけではありません。犯人青年への「いじめ」に人種偏見は絡んでいなかったのか。この国に住む私たち日本人の経験からも、それは強く疑われもします。

 敢えて人種や銃の問題も新たに考え直して議論してみる。そんな局面が必要なのかもしれません。そういうぐったりするような議論を繰り返すことでしか(それこそがアメリカの原動力でもあったはずです)、次の暴力の芽を摘むことはできないのではないか──もっとも、1つを摘んでも別の1つが摘めるかどうかはだれにもわからないのですが。

 もう1つ、この事件、いやほとんどの大量殺人乱射事件に共通する要素があります。それは犯人(たち)の抱えるミソジニーとホモフォビアなのです。女性嫌悪と同性愛嫌悪。自分の男性性を回復するために、この2つを総動員して暴力に訴える。暴力こそが自分の男らしさの復元装置および宣伝吹聴器なのです。この点に関してはとても面白いのでじつはバディ誌の今月の原稿で書いて送ってしまいました。なので詳細はそちらでお読みくださいね。今月20日ごろに発売されるはずです。

March 30, 2007

オーディナリーという言葉

NHKで「夢見るタマゴ」って番組、ニューヨークでもTV Japanで放送されていて、例のあのダウンタウンの浜田が司会で、きのうは男性美容員っていう、デパートの化粧品売り場で客たちの化粧品相談やメーキャップ相談や実地をやってる男の子が出てきました。で、思ってたとおりの展開になるわけですね。つまり、浜田が「そっちのほうに間違えられへん? その世界、メケメケが多いやろ」ってなふうにいじって、あ〜あ、と思ってたら、その美容員も控えめながら「ぼく、あの、ノーマルです」って返事して、予定調和というか何というか sigh...。(この辺のノーマルのニュアンスへの引っかかりは、すでに10年近く前に書いたマジためゲイ講座の第一回目をご参考に)

まあ、きっと「ノーマル」という言葉は日本では外来語ボキャブラリーの偏狭さから「ストレート」という意味で使ってるんでしょうが、それでスタジオはまたパブロフの犬に成り果てたごとくお嗤いで反応して、いったいこの人たちっていつまでこういうことを続けてれば気づくんだろうとすでにパタン化した暗澹たる思いを横目に、そういやNHKだからってんで浜田もオカマを「メケメケ」と言い換えてるのか、その辺の放送コードはすでに確立してるのかねとか思うものの、言い換えててもけっきょくは同じだけどね、とか思いつつ、はたと膝を打ったのでした。

その膝を打ったことはあとで述べますので、まずは次のクリップを見てくださいな。
これは「2人の父親 Twee Vaders」ってタイトルの歌です。
どうもオランダのテレビ番組らしく、毎回、このKinderen voor Kinderen(子供たちのための子供たち?)という子供たちのグループが、いろんなメッセージソングを作って歌う番組らしい。


さて、英語の字幕によれば、歌の主人公の男の子はバスとディードリックという2人の男性カップルに1歳のときに養子にもらわれたと歌います。で、バスは新聞社で働く人で、ディードリックは研究所で働いてる人です。
歌詞は次のように続きます。

「バスはぼくを学校に送ってくれるし、ディードリックはいっしょにバイオリンを弾いてくれる。3人で家のTVでソープオペラを見たりもする。ぼくには2人の父さんがいる。2人の本物の父さんたち。2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、でもすごくうまくいってる。ぼくには2人の父さんがいる。2人の本物の父さんたち。で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる」

2番以降は以下のごとし。
**
ぼくがベッドに入るとき、
ディードリックが宿題をチェックしてくれる。
バスは食事の皿を洗ったり、洗濯をしてたり。
病気になって熱があるときなんか
ディードリックとバス以上に
ぼくのことを心配してくれる人なんかだれもいない。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、
でもすごくうまくいってる。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる。

ときどき学校でいじめられもする。
もちろんそんなことはイヤだけど。
おまえの親、あいつらホモだぞって。
それをヘンだって言うんだ。
そんなときはぼくは肩をちょっとすくめて
だから何だい? おれ、それでも父さんたちの息子さ。
そういうのはよくあることじゃないけど
ぼくにとってはぜんぜんオッケーさ。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、
でもすごくうまくいってる。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる。
**

これを見たあとでも浜田は「メケメケ」といって嗤えるんだろうか。(反語形)
ただたんに浜田は、このような情報を持っていなかったためにこういうことをお嗤いにしてしまえるのでしょう。(斟酌癖)
それを思うとそうした愚劣さを気づかずにさらしている彼が哀れでもありますが。(ちょっと本音)

さて、この歌詞の3番に、学校でおそらく浜田のようなガキどもから「あいつらホモだろ」といじられた主人公の少年が、「It's not ordinary」と述懐する部分があります。「But for me, it's quite ok」(でもぼくにとっちゃそんなのぜんぜんオッケーさ)と。

このオーディナリー、「それって普通じゃないけれど」と訳すとうまく伝えきれないものがあります。「普通」という言葉だと、多数決に基づく「正常さ、標準さ、規範的さ=ノーマル」という意味にもとられてしまうので。
で、ここはordinaryですので、日本語では「よくあること」と訳したほうがニュアンスが近い。
で、「はたと膝を打った」のは何かというと、父親が2人いることは「It's not ordinary」と歌うのを聞いてて、ああ、これ、使えるかも、と、さきほどの「ノーマル」に対比して思ったということなのです。

これから、ヘテロセクシュアルの人は、自分のことを「ノーマル」の代わりに「オーディナリー」です、って言えばいいんじゃないのかしら。(意地悪、入ってます)

で、ゲイはオーディナリーじゃないのね。
何か?

エクストローディナリー Extraordinary に決まってるんじゃないですか! (笑)

(付記)
じつは、この番組でプチッとキたのはほんとは上記の部分じゃなくて、「子供が言うことを聞かないときに浜田さんはどうしますか」という出演者からの問いに、浜田が「ぶん殴るよ、男だから」とかいうことを平気で口にして、それに合わせてスタジオのゲストの中尾彬だの加藤晴彦なのが「そうだそうだ」「すばらしい」と平気で賛成してたことでした。

いま日本のあちこちで頻発している児童虐待で死者まで出してることを、この人たち、どう思ってるのかなあ。そう言えば「オレの言ってる意味はぜんぜん違う」って返ってくるのは予測できるけれど、それとこれとが根でつながっていることには気づいていない。
ニュース見てないのかもしれないけど、ま、こういう輩はニュース見てても同じか、プライベートで言うことと、テレビでパブリックに言えることとの、場合分けがない。それは子供のすることです。まあ、「子供」とはいえ、上記ビデオで紹介した子供たちはそういうことはしないでしょうけどね。
だとすれば浜田以下のこの人たちは、きーきー騒いではしゃぐだけの猿と同じじゃねえか。
恥ずかしいなあ。

そしてもう1つ、こういうのを平気でオンエアーするのは、これが「将来の夢をひたむきに追いかける若者たちを紹介するバラエティー」と紹介しているように、なんでもありのジャンルの番組だというふうに思ってるからなのでしょうかね、NHK。
情けないことです。

追記)

しっかし、いまやってたんだけど、子供向けロボットドラマ「ダッシュマン」ってのでさ、悪者役の紫色の口紅塗ってる宇宙人みたいなのが、これまたオカマ言葉でしゃべってるのって、いったい何なのでしょう。

なんだかこれだけ続くとウンザリというか、ゲンナリというか。
いやがらせかよ、おい。
まいったなあ。

March 19, 2007

中国人を犯人にしない

いまに始まったことではないんだけどさ、ということではなく、いまもまだこんな体たらく、という感じですかね。TVジャパンの日曜番組で水谷豊の「相棒IV」ってのをやってて、今日のは「殺人生中継」なるタイトルでテレビ局の女子アナ殺人事件だったんですが、犯人はその女子アナを恋い慕って局に入った新人お天気キャスターのアナウンサー。「こんなに愛しているのに報われないなら、いっそこの手であなたを殺す」っていうストーカーまがいの脅迫状ってことは、つまりレズビアンのねじれた愛憎の結末、ってわけですか。
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女子アナ、レズビアン、愛憎、殺人、ともう、このとてもわかりやすい妄想世界はまさに世の“普通”の男性たちの典型ものなのかしら。ところがドラマのセリフではレズビアンも同性愛も単語としては出てこなくて、水谷豊の「相棒」である寺脇なんちゃらっていう刑事がもっともらしく愛ってもんを諭す場面まであってですね、なんだかその「倒錯性」はスルーなんです。べつに問題にもならない。ふうん、それって、人権遠慮? でもしっかりとレズビアンの関係性には殺人というスティグマをベタ塗りしてしまってるのにさ。

ま、それだけだったら私も見流してたんだけど、そのドラマが終わったら今度は続いて「アウトリミット」っていう、これまたへんてこなドラマ。元はWOWOWのドラマだったんですか? 岸谷五朗が主演のめちゃくちゃな刑事ドラマ。ここでもさ、麻薬密売のヤクザなんだかギャングなんだか、へんてこなスキンヘッド+タトゥーの兄貴と茶髪のチンピラが突然のホモ関係。よくわからんねえ。なんなんですかね。
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なんたっけ、あの芥川賞、蛇にタトゥー、か。ちがった。蛇にピアスだ。あれでも殺人犯が限りなくサド趣味の男性同性愛者に設定されていて、そのときも「おいおい」って書いたんですが、またこれですもんね。ちょっとメモとして書いておいてもよいかな、と。

人権メタボリックともいちぶでいわれる日本には、すでに謂れのないスティグマを負われている社会弱者に、さらに犯罪者という別のスティグマを塗り付ける惰性と安易が無自覚に繰り返されています。踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、死者に鞭、ですよ。そうでなくてもパンチドランクでヘロヘロしてる同性愛という関係性を、またさらにそんなにいじめて、どうしたいのよ? 同性愛という言葉の持つ「変態性」「倒錯性」の雰囲気という先入観に寄り掛かったストーリーって、いい加減、拙いって気づきましょうよ。当のプロデューサーたちに「いじめってどう思います?」と訊けばしたり顔で「赦せません」って言うだろうくせに、これ、いじめですよ。どう? そうじゃない?

最近は「うたう警官」や「警察庁から来た男」などで注目の作家、佐々木譲さんと2年前にそんなことを話したときに、「そういえば、アメリカの推理小説ではかつて、中国人は犯人にしない、という暗黙のルールがあったんですよ」って教えてくれました。50年代、60年代かな、人種マイノリティだった中国移民への偏見と差別が蔓延してた時代、プロの作家たるもの、そういう偏見に安易にのっかって彼らを真犯人に設定するのは沽券に関わったんでしょうね。

どうなのよ、日本のプロデューサーたち。きみたちの沽券はどこよ?

January 26, 2007

喰えないヤツだね

CNNの中でもタフマンとされるウルフ・ブリッツァーが、ブッシュの一般教書演説のあとで副大統領のチェイニーに対面インタビューを行ないました。日本の新聞報道などでは上記映像の前半部分、つまり、ブッシュによるイラク増派政策への民主党からの批判を聞き、ブリッツァーが「イラク政策の失敗が政権の信頼を損ね、共和党内にも増派への疑問が広がっている」と言うと、チェイニーがひとこと、「ホグウォッシュ(hogwash=豚のエサ)」と吐き捨てるように一蹴した、という部分がニュースになっていますが、まあ、この男、ほんと、凄みがありますわね。

ホグウォッシュってね、このブルシット(牛の糞)と同じく、だれも喰わない戯言、っていう意味。それもこいつ、鼻で笑いながらこういうことを口の端でいうんだ。吐き捨てるように言う、というのがどういうことか、この映像は教科書だね。ブリッツァーもいちいち言葉に詰まるほどだもんなあ。はは。

で、日本ではニュースにならない部分を抜き出しましょう。同じインタビューでこの映像の最後の部分の質問は、あの娘のメアリーさんの妊娠問題についてです。そんなことも訊くわけです。
それはつぎのようなやりとりでした。
それにしてもどうしてこんなプライヴェートなことまで質問するのか?
それは、まさに先日、私がここで記した槙原カムアウト問題で触れたことです。
妊娠はプライヴェートなこと。しかし、レズビアンであるメアリーさんの妊娠は、いま最も議論の起きている人権問題に関わることだからです。ゲイのカップルに生まれる子供のこと。そうしてそのカップルと子供への法的保護。だからブリッツァーは質問しようとした。ところが……。

さあ、顛末は次のようなものでした。文字に起こします。

**
Q We're out of time, but a couple of issues I want to raise with you. Your daughter Mary, she's pregnant. All of us are happy. She's going to have a baby. You're going to have another grandchild. Some of the -- some critics, though, are suggesting, for example, a statement from someone representing Focus on the Family:
"Mary Cheney's pregnancy raises the question of what's best for children. Just because it's possible to conceive a child outside of the relationship of a married mother and father, doesn't mean it's best for the child."
(Q;もう時間がないんですが、もう1つ2つお訊きしたい。あなたの娘さん、メアリーのことです。妊娠なさった。とてもうれしいことです。赤ん坊が生まれるんですからね。あなたにまたお孫さんができるわけです。ただ、批判する人も、まあ、何人かいて、例えばですね「家族の価値」を標榜する代表者なんかからは「メアリー・チェイニーの妊娠は子供たちにとって何が最良なのかという問いを提起している」と声明を出したりしています。つまり結婚している母親と父親の関係の外で子供が生まれてもいいと思われたりして、それは子供にとってベストなことではない、と)
Do you want to respond to that?
(そういう発言について何か言いたいですか?)

THE VICE PRESIDENT: No, I don't.

(副大統領;いや、言うことはない)

Q She's obviously a good daughter --
(もちろんとても素晴らしい娘さんで……)

THE VICE PRESIDENT: I'm delighted -- I'm delighted I'm about to have a sixth grandchild, Wolf, and obviously think the world of both of my daughters and all of my grandchildren. And I think, frankly, you're out of line with that question.
(遮るように=筆者註)(うれしいことだ……6人目の孫が生まれようとしてるのだから、それはうれしいことだ、ウルフ、それにもちろん、娘2人の世界のことや私の孫たちみんなのことを考えるとね。で、思うに、率直に言えば、きみのその質問はルール違反だ)

Q I think all of us appreciate --
(たじたじになって)(いや、みんな評価すると思いますが、その……)

THE VICE PRESIDENT: I think you're out of -- I think you're out of line with that question.
(きみは論点から……その質問は、論点から逸れていて訊くべきことではないと思う)

Q -- your daughter. We like your daughters. Believe me, I'm very, very sympathetic to Liz and to Mary. I like them both. That was just a question that's come up and it's a responsible, fair question.
(しどろもどろ状態で)(あなたの娘さん、あなたの娘さんたちを気にかけているのです。私を知ってるでしょう、私はリズにもメアリーにも、とても、とても同情的だ。2人とも大好きです。これはただのふつうの質問ですよ。ふつうに頭に浮かんだ質問。それを責任をもって公正に質問しているのです。

THE VICE PRESIDENT: I just fundamentally disagree with your perspective.
(わたしは基本的に、そのきみの考え方には同意しない)

**
以上。そんなけ。
すごいでしょ。はは。
この"out of line"というのは、「線を越えてる」「はみ出している」「出過ぎだ」「分(ぶ)をわきまえない」「常軌を逸している」「規則違反だ」っていう、かなりきつい意味の婉曲な言い回しですわな。つまりね、ほんとはチェイニー、「たわごとだ」「何を言ってるんだ、バカ」「言って良いことと悪いことがあるぞ」という脅しをしてるわけです。脅し。でも、本質は何かというと、このおやじ、逃げてるんだ。都合が悪くなるとこうして脅して逃げる。

チェイニーは、同じこのインタビューで、イラクから手を引くことは「「アメリカ人は戦う根性がないとテロリストに言われる。それが最大の脅威だ」とも発言しています。彼の思考回路にはそれしかない。つまりメアリーさんのときと同じなんですね。都合が悪くなるとこうして「脅威だ」と言って脅すのです。で、なにも答えていない。「戦う根性」以外のものを相手に示し得ない、そういう思考回路こそがテロリストを煽るのだということに触れない。

こういうのを虚仮威しというのです。ホグウォッシュとは、まさにチェイニーに向けてこそ発せられるべき罵倒語です。おまえは豚も喰わねえわ、ってね。

January 24, 2007

宮崎県下のゲイは総勢……

以下、zakzak1/22より転載
http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_01/g2007012207.html
(きっといずれすぐ消えるのでリンクしないで済ませます)
***
そのまんま東の知事当選にゲイが“ひと肌”


梅川新之輔ママとマドンナちゃん(写真の中央後方)も昨夜、そのまんま東さん(右)のお祝いに駆けつけた
 宮崎県知事選で劇的な圧勝を収めたそのまんま東氏だが、意外な応援団から熱烈な支持を得ていた。宮崎市内の会見場には2人の“和服美女”が登場し、東氏をねぎらう姿が見られたが、この2人、宮崎市内のゲイバー「こけっと」の梅川新之輔ママとマドンナちゃん(共に年齢不詳)=写真。

g2007012207geiba.jpgg2007012207higasiouen.jpg

 東氏はマドンナちゃんの高校時代の先輩という縁で、タレント時代から同店にたびたび遊びに行っており、今回の知事選で2人がひと肌脱いだというわけだ。

 「宮崎県内のゲイの大御所」(マドンナちゃん)という梅川ママの協力のもと、県下のゲイ全員に東氏への投票を呼びかけたところ、全員が快諾。つまり東氏は宮崎県内では「ゲイからの支持率100%」を達成したわけだ。

 ちなみに、梅川ママによると、宮崎県内のゲイは総勢約20人。わずかな数字だが、このような勝手連が東氏を知事に押し上げたのも事実。梅川ママは「今までのネオン街は死んだみたいだったけど、これで宮崎の景気もよくなるわぁ〜」と色気たっぷりに話していた。

**

ふうん、そうなんだ。20人ねえ。
ちなみに例のジェンダーフリー条例の都城もこの宮崎県。
ちなみにzakzakはフジ産経グループのタブロイド紙のウェブ版です。
この程度です。

January 20, 2007

槙原ケイムアウト?

このところ注目のakaboshiくんのブログが、槙原敬之のカムアウトのテキストを見つけたことでなんだかよくわからないことが起きています。日本テレビのウェブサイトで「第2日本テレビ」というのがあって、そこで見られると言うんだけれど、ぼくのコンピュータはMacなので見られない。といってるあいだに、どうも、その該当の動画ファイルが削除されてしまうということになっているようなのですね。

問題の動画はakaboshiくんによれば「2007年1月15日に放送された『極上の月夜〜誰も知らない美輪明宏の世界』という番組のインタビュー収録の場で語られたことであり、放送ではオンエアされなかったようです。しかし、ネット上に現在公開されている「槇原敬之インタビュー(後編)+槇原敬之『ヨイトマケの唄』ライブ」にて見ることができます」ということだったらしい。

akaboshiくんのブログには、しかし、いまも字に起こされた槙原の発言が載っています。よくはっきりしないけれど、でもまあ、文脈を辿ればカムアウトしたってことなんでしょうね。
akaboshiくんの再録したこの文字テキストは削除できないでしょう。
しかし、そのおおもとの動画ファイルがいまなくなってしまったというのはさて、いったいどういうことなんでしょうね?

ぼくはむかし槙原が覚醒剤で逮捕され、その際になんとかくんというこちらはゲイの男性とともに逮捕されたことで同性愛“疑惑”が週刊誌で仰々しく報じられたときに、てっきり彼も覚悟を決めてカムアウトするものだとばかり思っていました。だって、どうしたってその“疑惑”は蓋然性からいっても事実であって隠しようがなかったから。だから、それを見越して、バディのコラムで、「さて、ぼくらはどうするのか、槙原を見捨てるのか?」と書きもしました。

ところが、隠したんですね。どうしたもんだか彼は、自分はゲイではない、と言った。
おかしなもんでそして当時、日本の芸能マスコミはそれを通用させたんです。
それは何だったのか?

きっとね、ゲイであることは汚辱だってことだったんだとおもいます。汚辱だけれど法律に触れることではない。だから責めるべきことではない。だからそれはプライヴァシーに関することとしてマスから隠してやるべきことでもある。だからこれを不問に付すのが芸能メディアとしての取るべき道である、と判断したのでしょう。なんとまあ慈悲にあふれた対応か。

それは芸能マスコミのやさしさだったのでしょうか? スキャンダルとして、それは離婚や不倫や浮気や隠し子よりも“ヤバい”ことだった。だから、ほんとうにそんなにヤバいことだから、書かないでいてやるのが情けだ、と。そう、離婚や不倫や浮気や隠し子は「書ける」ことです。しかし「同性愛」はマジな部分では「書けない」こと。お笑いやからかいでは書けるけれど、マジな次元では書けないこと。マジでヤバいことだった。

ここにとても複雑な、メディアのズルさがあります。なぜ書けないのか? 書くとそれが人権問題になることを知っているからです。しかし、彼らはそれを人権問題として書かないのではない。プライヴァシーの問題だ、として書かないのです。

このレトリック、あるいはもっと明確に、トリックが、わかりますか?
もし同性愛が人権問題ならば、言論・報道機関はそれを書かねばならないのです。しかし、これがプライヴァシーの問題であるとすれば、彼らはそれを書かない口実を得ることになる。その境界線を行き来することで、日本のメディアはずっと同性愛に触れないできた。いや、触れないできた、というよりどっち付かずの態度を取りつづけてこられた、というべきかもしれません。そうしてここで明らかになるのは、先に書いた「慈悲」とは、同性愛者に対する慈悲ではないということです。あの「慈悲」は、彼ら自身に対する慈悲、自分たちのどっちつかずに対する優しい甘さ、怠けに対する赦しなのです。

さて槙原に戻りましょう。
槙原の動画ファイルが消えた。これは何を意味するのか?
日テレに聞いてみなきゃわからんでしょうけれどね、あるいは槙原サイドからやっぱりありゃあまずい、と削除依頼を受けたのか。

なんとなく察しうるのは、槙原本人も、それとその本人をいちばん近くから見ている“スタッフ”も、カムアウトしたい、そろそろそんなことから楽になりたい、ということです。もう、いいじゃねえの、そんなこと、という感じ。美輪明宏の影響もあると言うか、美輪明宏の名前を出してその神通力に頼ると言うか、そういう含意もあるでしょうね、あの文脈では。ただし、本人サイドはほんと、もうバレバレだし見え見えだし、ええい、やっちゃえ、という勢いだったのだと思うのです。

ところが、それはやっぱりまずかった。よくよく考えると、やっぱ、削除だろう、となった。そんなところではないでしょうか? その背景にはakaboshiくんが書いてる「可視化するホモフォビア」とともにもう1つ、ホモフォビアへのプレコーション(事前警戒)、というのもあるのだと思う。怖いんですよ、マーケットが。

マーケットとは企業のCM、そのCMで成り立っているテレビ番組、諸々のパブリシティ用の印刷メディア、そうしてそれらに誘導される一般購買層です。事前警戒とは、おそらくホモフォビアがあるに違いないと事前に予測して、それよる損害を回避しようと行動することです。つまり、「やっぱ、削除だろう」なのです。

ただね、こうした姿勢って、商売としてそろそろだめになってくると思います。つまりね、ホモフォビアを抱えているような購買層というのは、どうしたって賢い消費者ではないわけですよ。企業及びビジネス自体が必要としているのは賢い購買層なの。槙原がゲイだって分ったって、それでもいいじゃん、という消費層あるいはファン層こそがCMを打って効果的なターゲット層なわけで、ホモフォビアを抱えてるような連中なんてどこにでも流れるような連中で当てにならない。後者だけを見ていて恐れていもだめなのです。ビジネスとしてはこの2層に別々の戦略が必要になってくると思うのですよ。

もっとも、日本ではすごく賢い人でもピアプレッシャー(同輩圧力)のせいでホモフォビックだったりしてね、それを治療するには同じくピアプレッシャーを利用してカムアウトした人を周囲に増やすしかないんだけど。

ま、それはまた別のときにでも再び。

(上記テキストに一部誤りがあったので差し替え訂正しました=1/21。大麻で逮捕と思ったのは覚醒剤でした。それと、放送日時が去年暮れではなくてこないだの15日だったそうです)

December 31, 2006

年が暮れる

やけに人の死ぬ12月だ。ジェラルド・フォードが死んだ。ジェイムズ・ブラウンが死んだ。青島も死んだし岸田今日子も死んだ。それでサダム・フセインは死刑になった。イラクでは開戦以来最も米軍兵士の死んだ月になった。

the Deadliest Month.

フセインの処刑を報じるCNNが、awaiting the first picture of the excution released というテロップを映しながら中継をしていた。アンダーソン・クーパーが「手に入り次第、お見せします。もちろん局内で内容を検討した上、事前に警告もおこなってから放送します」といっていた。見せねばならないんだろうな。

人は死に餓えているわけではないし、フセインの処刑は史実として記録が必要だろうが、その後放送された、首に吊るし縄を回されるフセインの映像を見ているときに、はてわたしはどう反応していいものか、考えはその先にどうしても行こうとしなかった。

わたしは死刑にはなんの効果もないと思っている。だから、効果を求めての死刑には反対だ。けれど、拷問され虐殺された148人の遺族の怨念が死刑を求めることに関して、わたしはなにも言えないと思う。

最も高貴な復讐は、赦すことである。
けれど、復讐がしたいのではない、ただ、永遠に赦したくないだけだ、という言葉に、対峙できる言葉をきっとわたしは持たない。

この死刑はさらにまた、刑罰ではなく政治的な権力闘争の結末として、歴史に多々在った死のひとつでもある。その場合もまた、わたしはそれを受け入れるしかないのだろうとも思う。そんなもんだ、と。

12月もまた、残酷な月である。
A Happy New Year というあいさつの空々しく響く大晦日の青空が暮れてゆく。

November 08, 2006

神戸新聞のこの連載はすごい!

最近、日本の新聞づいておりますが、今日のはたまたま、ホントにたまたま仕事途中の逃避行動でネットサーフィンしていて見つけたもの。

神戸新聞のこの夏の連載記事です。
こんな良い企画ものが載ったことをいままで知りませんでした。

例の、神戸で“見つかった”性同一性障害の7歳の男の子(心は女の子)の調査報道です。
タイトルは「ほんとうのじぶん —性同一性障害の子どもたち」
筆者は「霍見真一郎」記者。
筆致はあくまで真摯。余計な飾りのない、素晴らしい原稿です。

地方新聞にこうした良質な記事を書ける記者がいる。うれしいなあ。しかも男の人ですよ! こういう原稿、男イズムにかまけている男性記者たちにはなかなか書けない。いつもLGBT関係は女性記者の独壇場なのです。彼女たちはセクシズムに侵されてない、というより侵されてそれを弾こうと意識的なのだから。

時間があるときに読んでみてください。
最初のページはここです。
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200607gid/01.htm

私は読んでいて、不覚にも3度ほど涙が出ました。
一部、以下に抜粋。

**
 母は信じられず、日を置いて、幾度か同じ問いを投げかけ、そのたびに泣かれた。
 あるときは、「いつから女の子になりたいと思っていたの」と聞いた。春樹の答えはこうだった。
 「なりたいんじゃなくて、(生まれたときから)女の子なの」

**

くーっ。この春樹ちゃん、いろんな意味で、なかなかすごいんだ。
ちょっと遅きに失したけどおもわず賞賛のメールを送ろうとしたら、神戸新聞のサイト、読者からのフィードバックを受け付ける窓口がどこにあるのかわかりません。
webmasterにメールすればいいのかしら?
ぜひ、この霍見真一郎記者に謝意を伝えたいものです。
在り難いとは、まさにこのように、存在が稀であることへの謂いなのです。

November 03, 2006

すっかりクレーマー〜朝日記事、続報

どんな組織でも、組織というのはすぐれた部分もあるし劣った部分もあります。ですから、例えば「朝日新聞をどう思いますか」と訊かれても「読売はどうですか」と言われても、応えはだいたい同じです。「すごい記者もいればひどい記者もいる。素晴らしいデスクもいればとんでもないデスクもいる。その比率はどの社もだいたい同じ」。

ですんで、新聞を読むときはいずれも記事を個別に判断しなければなりません。そうして同じ内容の、同じ題材を扱った他社の記事と比較してみれば、どの記事に何が足りないのか、何が余計なのか、何が舌足らずなのかがわかってきます。

先日の、朝日のイタリアの「ゲイの議員」の一件は、朝日新聞広報部から正式に「議員自身がゲイだと公表しているから」そう記したのだという回答をもらいました。しかし、実際は違うようです。善意に解釈して、ゲイとトランスジェンダーの違いがまだ行き渡っていない社会なので、朝日の筆者(ロイター電の訳者ですが)もそのイタリアでの言いに引っかかったのではないか、とも斟酌しましたが。

くだんのルクスリア議員は、自分では「ゲイ」と言っていないのです。

イタリアでゲイを公表している議員はGianpaolo Silvestriといい、ルクスリア議員と同じ選挙で初当選した、上院初のオープンリーゲイ議員です。一方、ルクスリア議員はイタリアではゲイの団体からも「Vladimir Luxuria, 1° deputata transgender d'Europa 」というふうに紹介されている。(参考=http://www.arcigay.it/show.php?1865)

英語版のウィキペディアでも以下の通りです。
「Luxuria identifies using the English word "transgender" and prefers feminine pronouns, titles, and adjectives.」
(http://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Luxuria)
「英語でのトランスジェンダーという言葉を使って自分をアイデンティファイしている」、つまり、自分はトランスジェンダーだと言っているわけです。

したがって「本人がゲイであると公表しているため」という朝日広報部の回答は、裏が取れない。確認できない。 適当にごまかせると思って嘘をついたとは思いたくはありませんが、回答は結果としてはまぎれもなく嘘です。まあここでも斟酌すれば、ゲイライツを標榜とか、イタリアでゲイプライドを始めたとか、そういう記述に引っ張られたのかもしれませんけれど。

**

それで終わればよかったのですが、翌々日にふたたびおかしな外信記事が朝日に載りました。以下のようなものです。

「お化け屋敷」で神の教え 若者呼ぼうと米で広がり

2006年11月01日03時13分
 ハロウィーンの“本場”の米国で、この時期、民間のお化け屋敷の形を借りてキリスト教の教えに基づく世界観を広めようとする「ヘルハウス」(地獄の家)が静かな広がりをみせている。若者を教会に引きつけようと、31日のハロウィーン本番にかけて、各地で人工妊娠中絶や同性愛の人たちが地獄に落ちる筋書きの「宗教お化け屋敷」が設営されている。

 ヘルハウスは、教会に通ったことのない10〜20代を主な対象にしている。七つの部屋を通り、最後は地獄と天国を体験する仕組み。同性愛、人工妊娠中絶、自殺、飲酒運転、オカルトなどにかかわった人たちが苦しむ様子が描かれる。

 ヘルハウスは30年以上前からあったが、95年に福音主義のニュー・デスティニー・クリスチャン・センターのキーナン・ロバーツ牧師が筋書きと設営の仕方をセットにして売り出して広まった。ハロウィーンを前に各地に設けられるお化け屋敷を利用した形だ。同牧師は「教会ドラマ」と呼ぶ。

 同牧師によると、800以上の教会が購入、米国の全州と南米を中心に20カ国に広がっている。米南部と西部が中心だが、ニューヨークでは今年、これを利用した舞台版のお化け屋敷も登場、連日大入りの人気だった。

**

この最後の部分、「ニューヨークでは今年、これを利用した舞台版のお化け屋敷も登場、連日大入りの人気だった。」というのが引っかかりました。こんな宗教右翼のプロパガンダがニューヨークで流行るはずがないのです。流行ったらそれこそ大ニュースで、だとしたら私の日々のニュースチェックに引っかかってこないはずがない。ってか、だいたい、こんな宗教右派の折伏劇を取り上げてなんの批判も反対も紹介しないで「静かな広がりをみせている」だなんて、おまえはキリスト教原理主義宣伝新聞か、ってツッコミを入れたくなっても当然でしょう。

で、NYタイムズなどのアーカイヴを調べました。そうしたら案の定、話はまったく違ったのです。

このニューヨーク版はブルックリン・DUMBO地区の小劇場で10月29日まで2週間ほど行われていたものですが、これには今年初めのロサンゼルスでの「ハリウッド・ヘルハウス」というパロディ版が伏線にあります。キーナン・ロバーツ牧師の売っている筋書きと設定をハリウッドのプロダクションが買って脚本を作り、面白おかしいパロディにして上演した。地獄を案内する狂言回しの「悪魔」役はいまコメディアンとしてHBOで人気トークショー番組(毎回、政界や芸能界やメディアなど各界の左右の論客を3人呼んでそのときの政治問題を侃々諤々と議論する1時間番組)ホストを務めるビル・マー。これだけでもこの劇を「嗤いもの」にしようとしている意図がわかろうというものです。

で、そのヒットにかこつけて今度はNY版が出来上がった。しかしこちらはそう明確なお嗤いにはしなかった。「悪魔」役こそ誇張されて変だけれど、展開する寸劇はより生々しくシリアスにおどろおどろしく、制作陣の意図はむしろこうしたキリスト教原理主義の教条をナマのままに差し出したほうが観客の自ずからの批判を期待できるのではないか、ということだったようです。ってか、ここに来るような観客はみんな地獄に堕ちろと言われんばかりのニューヨーカーなんですから。

NYタイムズの劇評(10/14付け)は「Obviously, “Hell House” is a bring-your-own-irony sort of affair.(言うまでもなく、「ヘルハウス」は自らこの劇の皮肉を気づくためのもの)」と結んでいます。まあふつうそうでしょう。これで信仰に帰依しちゃうようなナイーヴなひとはとてもニューヨークでは生きていけないもの。ちなみにこの劇団、例のトム・クルーズの没頭する変形キリスト教集団「サイエントロジー」をおちょくった「A Very Merry Unauthorized Children’s Scientology Pageant」なんて劇をやってたりするようなところですし。

つまり、言うまでもなく、朝日のこの記事の結語はまったくの誤解を与える誤訳なのです(じつはこれはそもそも、APの英文記事の翻訳原稿でしかありません)。文脈としてはまったく逆であって、全米の教会ではまともに布教活動の一環として素人演劇で行われているが、NYでの連日の大入りの背景は逆に、そんなキリスト教原理主義のばかばかしさを笑う、あるいは呆れる、あるいはそのばかばかしさに喫驚するための、エンターテインメントなのです。ね、ぜんぜん意味が違ってくるでしょう?

「同性愛や人工妊娠中絶の人たちが地獄に堕ちる」というような、とてもセンシティヴな話題を取り上げるとき、まずこれをどういった姿勢で書くのか、どういった背景があるのか(ことしの米国は中間選挙で、モラル論争をふたたび梃子にしようとする右派の動きとこの「ヘルハウス」は無縁ではありません)、さらに、書くことで傷つくひとはいないのか、ということをまずは考えなくてはいけません。それだけではない。新聞社にはデスクという職責があって、記者がそういうものを書いてもデスクで塞き止めるというフェイル・セーフ機構があるはずなのです。朝日のこの記事、および例のトランスジェンダー議員の記事、立て続けに出ただけに、おいおい、だいじょうぶかいな、という心配と腹立たしさが募りました。こういうことを書くことで「だからマスコミは」「だから新聞記者は」「だからジャーナリズムは」という安直な批判言説を生み出してしまうとしたら、その失うものは筆者やデスクやその新聞社の名前だけにとどまるものではないのです。

朝日は10月半ばにLGBT関係で大阪の記者がレインボーパレードを取り上げたり、同性愛者の「結婚」も市長が祝福という記事を書いたり、「ダブルに男性同士」宿泊拒否ダメ 大阪市、ホテル指導、と教えてくれたり、ヒットを連発してくれてとてもありがたい限りだったのですが。

ね、ですから、「朝日新聞をどう思いますか」と訊かれても、それは全体としては応えられないわけで、これはよかったけれど、あれはひどかった、としか言えないのです。

October 30, 2006

おいおい、朝日新聞よ

いったい何事かとびっくりして読んでみたら、へっ?

***

ゲイの議員の女子トイレ使用巡り大げんか 伊下院

2006年10月30日11時40分
 イタリア下院で27日、中道左派に所属するゲイの議員が女子トイレを使おうとしたところ、中道右派の女性議員から抗議されて大げんかになる騒ぎがあった。双方とも「セクハラ行為だ」と主張して譲らず、両派の院内総務による協議へ発展。下院議長に判断を仰ぐことで合意したという。

 抗議されたのは、今年4月の総選挙で当選し、「欧州初のトランスジェンダー議員」として注目されたブラジミール・ルクスリア議員。男性として生まれたが、日頃から「『彼女』と呼んでほしい」と求めている。休憩時間に女子トイレに入った際、ベルルスコーニ前首相率いる政党のエリザベッタ・ガルディーニ議員から「入るな」と怒鳴られたという。

 ルクスリア氏は「いつも女子トイレを使っているが、こんな経験は初めて。私が男子トイレに入ったらもっと大きな問題になる」。「トイレに『彼』がいたので驚いた。気分が悪くなった」とガルディーニ氏。

 判断を委ねられた議長は中道左派所属で、ルクスリア氏に同情的だ。

**

おいおい、ゲイの議員は女子トイレなんか使わんでしょうが。これ、引っかけ見出しですか?  だれが送稿した原稿でしょう? ローマ特派員?
ウェブサイト上では無署名でわかりませんが、休み明けの外信部の内勤がロイターかなんかを見て埋めネタで訳したんでしょうか? うーん、「女子トイレ」だもんねー。

本日夕刊内勤の外信部デスクおよび担当局デスク、こんな、サルでもわかるような基本的な間違いをスルーするなんて、いったいどういうデスク作業をしてるんだい?

呆れたぜメッセージは
http://www.asahi.com/reference/form.html
まで。

しかし、イタリアでのトランスジェンダー理解というのはこれほどにひどいのかなあ。文句を言ったこの女性議員って、中道右派ってことは、バカってことか。

こういうときに、「性同一性障害」っていう病理的な分類のターミノロジーが有効なんだってのは、とても哀しいけど、戦略上はそれが手っ取り早いのかね。わたしは手っ取り早くなくとも、出発点が早ければ結局はいまの時点でも本質的にも有効な言説が生まれていると思う。レトロスペクティヴにしかいえないが。だから、いまでも性同一性障害という言葉と同時に、トランスジェンダー/トランスセクシュアルという言説を日本でも生み出しておきたいと思う。それはきっと1年後のいま、回顧的に見てけっして戦略的という皮相なものではなく本質的に有効な足場になってくれると思うのです。

いま、新聞協会にね、こういう具体的な性的少数者に関する記事原稿の誤りを正すように申し入れしようと思っています。新聞協会は「新聞研究」という月刊誌を出しているのだけれど、そこへの寄稿もあり得ますね。こうしたなさけない具体例がいまでも数多簡単にピックアップできるという現状は、批判者にはおいしいが、ほんとはじつに哀しいです。

*****

で、上記内容を朝日新聞にメールしたところ、さっそく朝日新聞広報室からの回答が来ました。この辺はちゃんとしてますわね。回答文、すんごく短いけど。

以下転載します。


北丸雄二様

メール拝読しました。ご指摘の件ですが、トランスジェンダーのルクスリア議員を「ゲイの議員」と表現したのは、本人がゲイであることを公表しているため、とのことです。

朝日新聞広報部
**

ってわけで、次にコピペするのがこれに対するわたしの2信。でもいまその自分のを読み直して気づいたけど、「ゲイと自称」じゃなくてこの広報部の返事には「ゲイであることを公表」って書いてあるわい。つまりこれ、ひょっとして「カムアウト」の意味の誤解かな? She came out ってののcome outを「ゲイであることを公表する」って辞書に書いてある意味のまま理解したのかしら? トランスジェンダーとしてカムアウトしてるのかもしれないのに。だとしたら大ボケだ。

で、朝日の実際の紙面も友人が送ってくれました。夕刊2面のアタマの扱いだそうです。

じゃっかんウェブ版とは文言が異なります。トランスジェンダーの説明があるところが違いますね。


拝復、

さっそくの回答ありがとうございます。

ところで、「本人がゲイであることを公表している」としていますが、それは広義の「性的少数者」としての意味の「ゲイ」であって、一般の定義の「ゲイ」とは違うのです。それは自称の有無とは関係ありません。
もし彼女がゲイなら、「トランスジェンダーのレスビアン」、つまり、体は男でも心は女で、しかもゲイ(同性愛者)なら、好きなのは女性であるレズビアン、という意味になってしまいます。でも、ちがうでしょう?

トランスジェンダーの概念が行き渡っていない国ではそういう言葉がないのと同じですので、そういうところではトランスジェンダーのひとも「ゲイ」と自称したりするのです。
日本でもむかしはそうでした。トランスジェンダーもトランスベスタイト(異性装者)も性同一性障害者もゲイもみんないっしょくたに「おかま」だったでしょう? 違いますか? 今回の朝日の記述は、いま違うとわかっている上で、自称しているのだからと言ってあえてこの「おかま」という総称を使うのと同じことなのです(もちろん蔑称の意味を含んでいないのは承知しています)。

で、いまはどうか? 少なくともトランスジェンダーとゲイは違うということを、メディアの記述者は知っていなければならない。わたしが言っているのはそのことです。だって、「今年4月の総選挙で当選し、「欧州初のトランスジェンダー議員」として注目された」わけでしょう? 彼女はトランスジェンダーなのだって、メディアで確認されているのですから。筆者およびデスクはそこを配慮して記述すべきでしょう。この記事のままでは「ゲイ」への、また同時に「トランスジェンダー」への誤解を助長する、あるいは放置する。それは読者を混乱させるし、少なくともその混乱の素である「ゲイ」という単語を見出しに取ったことは賢明とはいえないと思います。(それに、こういう少数者の人権問題をトイレにかけて「落とし所どこ」とするのは、整理部記者冥利なんでしょうけれど、なんだかねえ……)

これにはロイターも配信していてロイター自身による日本語翻訳原稿もあるのですが、それもなんだかおちゃらけた感じ(当該議員を「元ドラァグクィーン」としたり「女装議員」と呼んだり、混乱しています)なのですが、こうしたことも含め、朝日新聞にはもう一歩、配慮のある対応をとっていただきたいものでした。ベテラン記者の郷さんなら、そのあたりのニュアンスをおわかりいただけると思うのですが。

いずれ、この問題は各紙の具体例を収集して新聞協会の「新聞研究」に載せたいと思っています。
この第2信に対する朝日新聞のコメントもいただけると助かります。

不一。

北丸雄二拝

***

そういうわけで、直後に第3信も追送しておきました。
私もヒツコイ
その文面は以下のとおり。

**

さきほど返信を送りましたが、もう一点、いま気づいて確認したいところがあります。

ご回答では「本人がゲイであることを公表しているため」とありましたのを、わたしは勝手に「ゲイであると自称している」と受け止めましたが、これはどちらなのでしょうか?
じつは、日本語のターミノロジーとして「ゲイであることを公表する」というのは、一般に英語の「come out」の辞書的定義の丸写しなのです。

まさか「She has already come out」という英文テキストを「本人がゲイであることを公表している」と理解した誤解、誤読、誤訳ではないでしょうね?

もし上記のような文だったならば、「She came out as gay」と「She came out as transgender」との2つの可能性があるのです。
彼女は「ゲイ」(イタリア語で何というのか知りませんけれど)と「自称」しているのでしょうか?(もっとも、英語で「She came out as gay」といったら先のメールでも触れたとおりレズビアンのことになりますが)。

ご面倒でもそのあたりも郷さんにご確認願えれば幸いです。
もしトランスジェンダーとしてカムアウトしているのをカミングアウトという言葉に引っ張られて「ゲイであることを公表」と訳していたのなら、ぜんぜん違う話になってしまいますから。

不一。

北丸拝

October 19, 2006

前のブログ、訂正

この下のブログで、司法記者クラブの記述に関して、「麻雀なんて、もうやってませんよ」と最近の同クラブを知る現役記者から教え諭されました。かつてわたしの在職時代とは雰囲気も違うようです。

お恥ずかしい。現況の取材もしないで、わたしの記憶の印象だけで誹謗中傷しました。

もう1つ、藤田社長の会見に関しても、記事にしていないのではなく、ネット上には転載されていなくとも本紙で原稿にしている社もあるようです。

これも、ネットのみ閲覧して判断してしまったわたしの短絡です。これも誹謗でした。当該司法記者に謝罪します。

下記ブログは、自戒のために削除せずにそのままにしておきます。
こういう間違いの典型としてお嗤いください。
「そもそもねえ〜」という態度で書き始めるとロクなことがない、という好例です。

ただし、偽装事件に関する藤田社長の告発は、追跡して調査報道する価値が大いにあるということに関しては訂正しません。志のある若い記者はぜひ頑張っていただきたい。

もうひとつの耐震偽装事件

東京新聞社会面サイトに次のような記事が出ていました。
興味深い、というか、なんだかとても大変なことが書かれてるんですよ、これが。

まずはお読みください。

『アパ3物件も偽装』

藤田元社長暴露


判決後、会見で別の耐震偽装疑惑を述べる藤田被告=18日午前、東京・霞が関の司法記者クラブで

 「国がどうやって真実をねじ曲げてしまうか、みんな知らない」。耐震強度偽装事件の“登場人物”の一人とされ、東京地裁で十八日、有罪判決を受けた民間確認検査機関「イーホームズ」(廃業)元社長藤田東吾被告(45)が判決後、記者会見で「爆弾告発」をした。「アパグループの物件でも偽装が行われた」。藤田被告は激高した口調で、国や捜査当局を「耐震偽装を隠ぺいするために私を逮捕した」と批判、マスコミに真実を追及するよう訴えた。

■首都圏マンションなど

 藤田被告は判決後、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、「イーホームズが確認検査をしたホテル・マンション大手『アパ』グループの三つの物件でも耐震強度の偽装があった」と述べた。

 アパは今年六月、「イーホームズより構造計算書に一部不整合があるとの報告を受け、検証中」と明らかにしていた。

 藤田被告によると、イーホームズが偽装を確認したのは(1)埼玉県鶴ケ島市のマンション「アップルガーデン若葉駅前」(2)千葉県成田市のマンション「アパガーデンパレス成田」(3)川崎市内の物件−の三物件。偽装に気付いたのは今年二月。アパグループの物件の構造設計を請け負っている富山市内の設計事務所の代表がイーホームズに来社し、藤田被告に打ち明けたという。

 この後、アパの役員らがイーホームズを訪れ、計画の変更を要請。「アップルガーデン」と「ガーデンパレス」は「計画変更も再計算も適切ではない」と判断し、工事は現在中断しているという。

 藤田被告は「国に通報して、アパの物件を調査するように要請したのに、担当者は『関知しない』と取り合わず、アパは工事を止めなかった」と述べた。

 その上で「本質は確認検査ではなく、偽装が可能なレベルの構造計算プログラムの問題だ」と主張。「その責任は、プログラムの運用プロセスを認定した国土交通省と同省の天下り団体である『日本建築センター』にある」と訴えた。
**

この原稿、他社は書いていない。
東京新聞の司法記者だけが書いたんですね。
朝刊回しなのかもしれないが、司法記者クラブでの判決後会見なのだから「特ダネ」というものではない。みんなそこにいて告発内容を記した紙切れももらってるんでしょうし。

ただし、特ダネには結びつきそうなことは書いてるんですよ。だいたい藤田社長の逮捕・起訴が偽装事件とはまったく関係のないものだとこの日の東京地裁判決で認められているのだから、この藤田社長の告発の奥に何かがあるだろうことは想像に難くないでしょう。ですから、ふつうはどう転んでもいいように、これは本来なら司法記者が書いておくべき原稿ですね。書き方はいろいろあります。が、とにかくアリバイとしてでもいいから載せておく、そういう判断をするのが普通です。

でね、司法記者クラブというのはけっこうベテラン記者たちがそろっていて、いつも余裕で記者同士が麻雀をしているようなクラブなんですよ。各社のブースの他にソファのある居間みたいなスペースがあってね、そこで卓を囲んでるわけ、いつも。そんでまあ、お上の動きがないと、というか、検察、裁判所、といった「お上」の動き(のみ)をウォッチしていればデスクに叱られない記者クラブ、だと記者たち自身も思っているところがあるんですな。

特オチ(特ダネを自分だけが書かない失敗)というのは基本的にこのお上関連の特ダネを落とすことをいいます。イーホームズの藤田社長の告発など、いわば民間の、なんの権威もない、裏も取れてない(つまりは自分で裏を取らねばならないような面倒くさい)、「街ダネ」に過ぎない、ということで、怠けていられるのでしょう。

でもそれでいいのかねえ。この「『アパ』グループの三つの物件でも耐震強度の偽装」ってのは、まえまえからいわれている「耐震偽装はこれだけじゃない」ってやつの具体例だろう。じつにヤバい話ではないのか。

なのに、「耐震偽装報道は、もーいっか。飽きたよ」という雰囲気が、新聞メディアにあるのだとしたら、こりゃ、たまったもんじゃない。こういうときですよ、いつもはメタクソにいわれる週刊誌が頑張るのは。東京新聞もぜひ特報部で追跡報道してほしいもんです。がんばってください。

October 18, 2006

大阪ってすごいね

こんな記事が朝日・コムに載ってました。

http://www.asahi.com/national/update/1018/OSK200610180030.html

「ダブルに男性同士」宿泊拒否ダメ 大阪市、ホテル指導
2006年10月18日15時23分
 ダブルの部屋に男性2人で宿泊するのを拒否したのは旅館業法(宿泊させる義務)違反にあたるとして、大阪市保健所が同市内のホテルに対し、営業改善を指導していたことが18日、わかった。宿泊を拒まれたのは22日に同市の御堂筋で開かれる同性愛など性的少数者らによる「関西レインボーパレード2006」に参加予定だった東京都内の教員の男性(26)で、「イベント開催地での宿泊拒否は納得いかない」と話している。

 男性らの話によると、16日にインターネットの宿泊予約サイトを通じ、ホテルのダブルの部屋に、21日から1泊の予定で予約を入れた。しかし同日夜、ホテル側は「男性同士でダブルは利用できない」と電話で宿泊を拒否。17日、ホテルに再度連絡したが、同様に断られたため、保健所に通知したという。

 旅館業法などでは、宿泊業者が客を拒否できるのは、感染症の患者や賭博などの行為をする恐れがある場合などに限られている。ホテル側は「お客様が間違って予約されたものと判断し、ツイン部屋の利用を勧めただけだ。男性同士だから拒否したわけではない」と話している。

**

これ、いいねえ。
いいのは、大阪保健所の「迅速な対応」。保健所としてはちんたら対応することもできたんだろうけど、対応した担当者が即決したってことがすごい。

もっといいのは、この事実を保健所に届けた「都内の教員(26)」。うまい! えらい! 攻めどころを知ってる! 若い!(関係ない)
怒りをクローゼットに閉じ込めてはいけないのだ。

さらに僥倖は、大阪朝日のこの筆者の存在。

じつはこのところ、大阪朝日は

性的少数者らが御堂筋でパレードを開催へ 大阪
2006年10月12日

 同性愛や性同一性障害など性的少数者とその支援者が22日、性の多様性を認め合う社会の実現を訴える「関西レインボーパレード2006」を大阪市の御堂筋で開く。関西では初の開催で、約600人が中之島公園から難波まで、約1時間半かけてパレードする。

 実行委員会事務局長の尾辻かな子・大阪府議は「性的少数者はテレビの中にしかいないと思われている。地域で共に暮らしている姿を見てもらうことが、多様な社会を考えるきっかけになればいい」と話す。

という記事のほか、きょうも早朝の段階で


同性愛者の「結婚」も市長が祝福 大阪市が活性化戦略
2006年10月18日08時07分

 大阪市民であれば、ゲイやレズビアン同士の「結婚」を、市長が祝福します——大阪市は17日、街の活性化を目指す「創造都市戦略」骨子案を公表し、参考としてこんなプランを披露した。担当者は「議論はあるだろうが、多様性を許容するざっくばらんさが、大阪らしいのではないか」と話している。

 新戦略作成をめぐっては6月、市各局・区から選ばれた中堅職員30人がプロジェクトチームを結成。「交通利便性の向上」「大阪の売り出し」など5テーマを掲げ、15の事業案を考え出した。

 お金をかけない「既存施設の活用」の項目で挙がったのが、結婚祝福式だった。市内に住むカップルを月1回、10組ほど募り、市役所1階ホールで、市長がお祝いカードや握手などで祝福する。

 同性愛者ら国内では法的に結婚できないカップルも対象。行政が多様な人の生き方を積極的に認めることで、「本当に人にやさしいまち大阪」を目指すという。

 ほかの事業案は18日午前10時から、市経営企画室のホームページで確認できる。

っていう記事を連発しているのです。

これは市内版担当、市役所担当でしょう、ってことは筆者は若い記者でしょうかね。
同じ記者なんだろうか。
もしそうだとすると彼/彼女、やはりおいしいところに目をつけた。
別人だとすると、大阪朝日の人材はいいねえ、ってことになる。
やっとこういうのを旬な話題だと、さらには他社が書かないから書き得だと気づいたライターが出てきた。
書かない他社がいつまで無視できるか。かえって依怙地になる場合も多々あるけどね。

大阪朝日の社会部に、よくやってくれてるね、さんきゅーメッセージを届けましょう。あるいはこれらの記事の筆者への、感謝・賞賛メッセージですわな。
http://www.asahi.com/reference/form.html

さらには、大阪市役所、大阪保健所にもね。
http://www.city.osaka.jp/shimin/opinion/index.html


**
で、今回の教訓

同性2人でホテルに泊まろうとして、まあ普通は泊まれますが、それがダブルで、と申し込んだ場合に拒否されたとしたらどうするか。
マニュアルとして憶えていたほうがいいでしょうね。

**

宿泊拒否にあったら、え、なんで? と思うこと。

思ったら、これってヘン、って怒っていいということ。

怒ったら、その怒りが冷めないうちにすぐに都道府県の旅館業法を担当している部署(政令指定都市なら市)に電話して報告すること。東京都の場合は福祉保健局環境衛生課です。まあだいたい、保健課、衛生課、観光課みたいなところでしょう。
メールよりやっぱり電話だろうね。向うもこっちの申告・告発が虚偽じゃないってわかりたいし。ま、名前は仮名でもいいでしょう。

同時に、国の法務局、都道府県、市町村の人権を担当する部署に人権侵害があったことを連絡すること。
(今回の「都内の教員(26)」さんも実際に市と府の人権担当に連絡を入れたそうですよ)

根拠は「旅館業法第5条」です。
同性2人でも、宿泊拒否は許されないんだってことを知識のワクチンとして持っておましょう。

よく男2人はお断りっていうラヴホテルがあると聞きますが、ラヴホテルだってじつはおんなじでしょう。(ん? あれ、風俗営業法の管轄じゃないよね=いまちょっと調べたら、両方で規制されてる。not sure。法曹関係者、教えて)

さらにもし、その都道府県(政令市)の動きが悪ければ、国の厚生労働省に訴えて下さい。もしくは「では厚労省に告発します」と言うこと自体も有効かもしれませんね。

October 06, 2006

フォーリー報道について

5日配信の以下の共同通信の記事に、例によって同性愛者にいわれなき汚名を与える記述がありましたので指摘しましょう。

***
米議員の少年へのわいせつメールで波紋

 米与党共和党の前下院議員、フォリー氏が少年にいかがわしい内容の電子メールを送った問題で、議会上級スタッフは4日、AP通信に対し、少なくとも3年以上前に同氏の「不適切な行動」の存在を知り、ハスタート下院議長側近に注意喚起していたと語った。

 議長はメール問題を昨年知らされたが、文面については「先週まで知らなかった」と釈明。しかし、議長が早くから同氏の不審な行動を把握していた可能性が浮上した。中間選挙で下院共和党の敗北を確実視する声も出始める中、フォリー氏の議員辞職で幕引きを図る考えだった議長への辞任圧力が強まりそうだ。

 同通信によると、証言したのは、かつてフォリー氏の部下でもあったカーク・フォーダム氏。中間選挙で下院共和党の選対本部長を務めるレイノルズ議員の首席補佐官だったが、4日に辞職。フォリー氏はメール疑惑浮上を受け9月29日、議員を辞職した。

 フォーダム氏は数回にわたり、同性愛者のフォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取っていることを知り、議長側に伝達していたと指摘した。

 与党内では議長への不信感が高まっており、遊説先で議長の応援演説を断る議員も出始めた。 (共同)
[ 2006年10月05日 10:08 速報記事 ]
**

問題の箇所は第4段落、「同性愛者のフォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取っている」という部分です。

少年少女への「不適切な」性的行動は、ペドフィリア(少年/少女性愛)といわれます。
ペドフィリアとホモセクシュアルとは無関係で、別個の問題とされます。なぜなら、ほとんどのペドフィリアは異性愛者によるもので、しかも家庭内で起こる事例が多い。

ところがここで「同性愛者のフォーリー氏が」「不適切な行動」というふうに結びつけられると、一般的に「同性愛は異常、変態、不適切」という偏見がはびこる社会では、「同性愛者だからこういう不適切な行為もした」と容易に結論づけられることになります。

したがって、この問題を報じる米国では、つねに「同性愛と少年愛は別の問題」という但し書きが(テレビの場合は口頭での解説が)付けられています。とくに、フォーリー氏は今回、この(複数の)ページボーイとの関係に関して「アルコール依存症が原因」とか、「同性愛者ではあるがペドファイル(少年性愛愛好者)ではない」として“言い逃れ”しようとしています。

おそらく、筆者は「同性愛者ではあるがペドファイル(少年性愛愛好者)ではない」という部分の米国での報道情報を、自分の翻訳原稿の中にも手短に組み込もうとこのように1つの文でくっつけて書いてしまったのでしょうが、読解の結果は微妙に変わってしまいます。米国では今回の一件は「同性愛者のフォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取った」というテキストとしては、絶対に、報道されていませんし、公的に発表される文章としてはまったくの「不適切」と考えられます。

いっぱんの読者も、または編集者(デスク)もつい読み流してしまうような部分ですが、こうしたさりげない「刷り込み」が偏見と差別の下支えをしています。「同性愛者の」という形容句を抜かして、たんに「フォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取った」でも、なんら重要情報の欠如はなかったでしょうに。

いま最も先鋭な人権問題である性的少数者問題ですが、それに関する記述では、日本ではきちんとしたマニュアルもまだ出来上がっていません。

共同通信の記者ハンドブックでも、被差別部落や外国人に関する記述の厳然たる注意条項はありますが、性的少数者に関するものはおそらくまだまとめられていないのではないでしょうか? したがってスポーツ紙や夕刊紙では、90年代よりは幾分ましになったとはいえ、まだまだ時に目も当てられない野放し状態が続いています。

ことは今回のフォーリー事件に関する一件だけではありません。
共同通信にはぜひ、同性愛などの性的少数者問題への記述の指針を、過去の多数の事例を基に早急に明文化してもらいたいものです。そうすれば朝日、読売、毎日の三大紙のハンドブックも追随する(テレビや地方紙は共同マニュアルを転用しています)ことになっていますからね。

ということで、共同通信にメールで上記の申し入れをしておきますわ。
しっかし、こういうのは重箱の隅を突つくようなアラ探し、みたいなふうに受け取られるんだろうなあ。ほんとはそうじゃないんだけどよ、書いてるほうも疲れるわ。
やれやれ。

October 04, 2006

アメリカでいま一番のニュース

日本ではあまり報じられていませんが、まあ、それもうなづけます。日本には関係のない話だし、国際的なニュースでもない。しかし連日、いまアメリカのTV各局のニュースはこの話「下院議員マーク・フォーリーのページボーイ性的チャット問題」で持ち切りです。ページボーイってのは、政治家の雑用係のアルバイト少年たちのこと。ペンシルバニアのアーミッシュの学校での女児射殺事件や、北朝鮮の核実験宣言などを差し置いて、やはり下ネタというのは求められるんでしょうね。おまけに取材も簡単だ。

foley-mark-thumb.jpg

朝日が書いていたので引用すると以下のようなもの。そうですね、こうして中間選挙に絡めてしか書けないかもね。

わいせつメールで下院議員スキャンダル 米中間選挙
2006年10月04日20時35分
 米与党・共和党のマーク・フォーリー前下院議員(52、フロリダ州)が10代のアルバイトの少年にわいせつなメールを送っていた疑惑が浮かび、11月の中間選挙を前に波紋が広がり始めた。共和党にとっては新たな逆風になりかねない。

 独身の同氏は6期を務めたベテラン。先月29日に突然、辞職し、アルコール依存症の治療などを理由に施設に入っている。米メディアによると、少年にメールを送り、「服を脱がしたい」「興奮させたか」などと伝えた、とされる。

 下院が独自調査を決めたほか、連邦捜査局(FBI)が捜査を開始。野党・民主党は与党の「セックス・スキャンダル」を攻撃する構えだ。

 児童の権利保護を推進する議連の会長だったこともあって、共和党内でもモラルに厳しい保守派が反発。同党のハスタート下院議長の辞任を求める声もあがっている。

しかしね、このフォーリーって男、どこまでゲスなんだか。
辞職してこないだは「アルコール依存症のリハビリに入る」とかいって酒のせいにして、次には「十代のときに教会の司祭にいたずらされたことがあって」と言い訳し、さらに昨日は「私はペドフィリア(小児性愛者・少年少女愛好者)じゃない」って言って(ペドフィリアだとそれで即、犯罪ですからね)、「でもゲイだということは知ってもらいたい」だってさ。へっ、人権を斟酌されるべき「ゲイ」?

おいおい、いい加減にしろよ、です。どこまで「なにか」の所為にするつもりなんだろう。

こちらのニュースではかならずこうした事件を報じるときに、「これはホモセクシュアルの問題ではありません。これはペドフィリアの問題です」っていうコメントが入ります。つまり、こうした犯罪は同性愛者だから起こすのではなく、異性愛者でも起こす、つまりは未成年者への違法な性的アプローチという犯罪なのだ、という論理立てを明確にしておくわけ。そうじゃないと性的少数者への言われない偏見をまた助長することになるから。その辺の建前はしっかりしています。

それでもってさらに、いやいや百歩譲って彼がもしゲイだとしても、こいつはクローゼットでいままでゲイだなんてことをこれっぽっちも言ってこなかった隠れホモなんですね。それが急に「ゲイだ」なんて言うことで、いったい何を「知ってほしい」というのでしょうか。

アメリカでは隠れホモセクシュアルはそれこそ「自己責任」なのです。処世としてホモセクシュアルであることをひた隠して余計(と思われるよう)な風当たりを回避する。

「ゲイ」という言葉には2つの意味があります。1つはホモセクシュアルということ。これは単純に性指向上の用語です。もう1つは、「ホモ」から解放されて「ゲイ」になった歴史的な経緯をふまえて、誇り高きその人格形成上のアイデンティティを示す言葉です。なので、彼は性指向はホモセクシュアルでも、人格的にはプライドとともに語られるゲイなんかじゃない。しかも共和党の政治家で、同性婚や性指向による差別禁止に関しても、1996年の結婚防衛法(DOMA=結婚は男女間に限ると規定した初の連邦法)では成立に賛成票を投じた。マーク・フォーリーはそういう輩です。そんなやつがいまごろ「私がゲイだということを知ってほしい」って、どのツラ下げて言えるんでしょう。

ですからこの犯罪は、クローゼットのメカニズムが生み出した行為でもある。そんで、この記事の最後に出てくるハスタート下院議長ってのが、これがまた数年前からフォーリーのこうした“性癖”を知っていたっていうんだな。共和党も裏と表の使い分けが狡猾というかなんというか……。ちなみに保守派で知られるFOXニュースは昨日の人気番組「オライリー・ファクター」で、フォーリーを3回も「フロリダ選出の民主党議員」って間違えてました。わざとなんだかどうだか、まったくねえ。

ところでね、アメリカでこれがこうも大きく連日ニュースで取り上げられるのは、やっぱ、どうしたってこれが異性愛ではなく同性の未成年への破廉恥行為、という、ホモフォビアも絡んだ、そういう下世話な要素があるのは否めないとは私も思うんですわ。そういうのも自覚しながらニュースを見ております。

ちなみに、朝日にある「メール」というのは、正確にはインスタントメッセージです。チャットみたいなもんね。このテキストを先月末、ABCニュースがすっぱ抜きました。当の少年と2003年時点で交わされたもの。いやはや、なんともえげつない内容。

「今週末はどっかの女の子が手で抜いてくれるのかな?」とか「それじゃ自分でマスかくのかい?」とか「キミくらいの年じゃあ毎日だろう」とか、少年が「そんなにエロくないよ、週に2、3回だ」と答えると「シャワーの中でとか?」って訊きやがるの。「シャワーは朝、さっと入るだけだからやらない」といえば、「じゃあベッドで仰向けかな?」だもんね。さらに少年が「いや、下を向いて」と書くと「ほんと? どうやって? ひざまずいて?」「いや、手は使わない。ベッド自体を使う」「じゃあどこに出すんだ?」「タオルの上」「ほんと! 全裸で?」「まあね」「それはいい。かわいいお尻が飛び跳ねてるわけか」

まだ行きますか?

それでローションだとかタオルの堅さだとかいろいろ詳細に訊きまくって、このエロおやじ、どんなフェティッシュがあるだとかも訊くわけよ。で、もちろん、「いま何着てる?」「普通のTシャツとショーツだよ」「大きくなってるのか?」「ああ」「脱がしてみたいなあ」「はは」「それで1つ眼の怪獣(おちんちんのこと)を握りしめてる?」「いや、今夜はやらないよ。そんなに興奮しないでよ」「でも硬くはなってるんだろ?」「それは事実」「測って長さを教えてくれないか?」「前にも言ったじゃん。7インチ半だよ」

ってな塩梅です。
原文は
http://abcnews.go.com/WNT/BrianRoss/story?id=2509586&page=1
から始まってます。
お好きな方はどうぞ。

October 01, 2006

Hand-Holding(手を取り合うこと)

こないだ、NYタイムズに興味深い記事が載ってました。5日付だったかな。

さいきん、NYの街なかで手を握って歩いている人たちが目立つってことから、STEPHANIE ROSENBLOOM記者が、あちこちの心理学者や社会学者に電話取材とかして一本の長文リポートをまとめてるのです。世相を社会心理学で分析するっていうジャンルね。

要旨はね、むかしは手を握り合うことは次のセックスに進む2人の親密さの初期のワンステップだったんだけど、いまはもっと進んだ関係のアナウンスメントの要素というか、周りに手をつないでいることを見せることで自分は「他の人求めてません」て表すと同時に、キス以上に相手に対する愛情や保護や慰撫を示す行為になっている、ってもんでした。手をつなぐことはいま、キスよりもマジで真剣な愛情表現なのだってことっすね。

いわれてみりゃそうですわね。たしかに手をつなぐってことはむかしはまだキスができない時点で(その前段階として、あるいはその代償として)の行為だったけど、いまではすでにキスもセックスもしたあとで手をつなぐ。じぶんたちは深い関係性の中にあるってことが、手をつなぐ行為におのずから示されている。手を握ってる連中はもう「いい仲」なわけですよ。むかしは、手を握ってるのは「うぶな仲」のシニフィエだったんだけど。

もちろん、こうした変化は性革命(性を公にすることは恥ずかしいことではない、という意識革命から派生したさまざまな性的事象の急変)を経たアメリカだから、の話だろうと思います。

また中村中の話を持ち出すけどさ、あの詩の「手をつなぐくらいでいい/並んで歩くくらいでいい/見えているだけで上出来」というのに登場する「手をつなぐくらい」という行為はもちろん、そんなところまで至っていない、ロマンスの初期段階でのささやかな願いですわね。とてもとても、このNYタイムズの取り上げているところになんぞ至っていない。

05hands.600.jpg

で、街なかで手をつないで歩いているのはNYではゲイの男の子たちも多いんですね。チェルシー地区なんか、カップルは必ず手をつないでますし。NYタイムズの記事のちなみ写真はそんな男の子たちの手つなぎでした=上の写真。で、これにはもう1つ要素があって、それは「ゲイプライド」の示威行為、デモンストレーションにもなってるわけですよ。もちろんゲイバッシングなんかの危険も伴うけど、手をつなぐ2人は互いを互いで守り合うって意気込みだぞ(これは私のinterpretation)。あるいは2人で手をつないで逃げるのかも?(笑)。でも、いずれにしても手をつなぐのはいいもんだ。

手をつなぐことは、ときにはキスよりも気恥ずかしかったりしますわね。おかしいね、この心理。でもだからこそいま意識的にトゥマと手をつないでみる、握ってみる、トゥマと手を取り合ってみる、そういうことって、いいんじゃないかって思うよ。(あ、ちなみに、この「トゥマ」というのは、「妻・夫」の古語の発音です。自分の性愛の対象を指すジェンダーニュートラルな名詞で、尊敬する大塚隆史さんが「パートナー」とか「連れ」とか「相方」という言葉の代わりに広めようと提唱している言葉です) 。

キスだけでなく、手をつないでもごらん、若者たちよ。
こころがすこしジュンッとする。

(ところで「hold your hand」の「hold」、日本語にならないって書いてて気づきました。握るのともちょっとちがう=ちなみに握手の英語はshakehandsで、これは取った手を揺する行為を指した言葉。Hold は「つなぐ」でも「取る」でもない、「保持する」って感じね。大和言葉、なし、ってホントかよ)

September 12, 2006

東京入りしました

26日まで滞在します。

札幌レインボーパレードと行き違いで(日本語、正しいか?)こっちに来てしまいましたが、レインボーのほうにはちゃんと挨拶してきました。みなさま、札幌を盛り上げてくださいね。参加者は千人くらいなので、沿道の通りすがりの人たちといかにコミュニケートするかってのがカギだと思います。そうしてそれが日本のパレードと欧米のパレードとがいちばん雰囲気の違うところ。

都城の一件もあるし、それもアピールしないとね!
他力本願のわたしですけど、参加の皆さん、よろしくお願いします。
札幌、このところずっと快晴だし、気持ちいいよ。涼しいし。

わたしはこちらで新聞社の人たちと少し会ってみます。
都城の話は、尾辻さんの活躍もあって宮崎日々新聞に記事、社説ともに掲載されました。

尾辻さんのブログへ飛びます


なかなかちゃんと的を射た記事及び社説です。
あとは全国紙での掲載ですわね。

September 08, 2006

安倍晋三と都城がどう関係するか

こういうのはかつて学生運動華やかなりしころは常識だったんですが、いまじゃそうじゃないでしょうね。左翼が元気なころは右翼への警戒と分析が継続していたんですが、いまじゃだれも右翼のことを見張るようなことをしないから、いったい、都城の条例改悪の背景にだれがいるのか、それがどことつながっているのかということがわからず、なんとなく単発の事例として受け取られるような雰囲気もあります。でも、これらはすべて根はつながっているわけで、で、今回は、そういう状況背景のおさらいをすることにしましょう。個別の事象については自分で調べてね。ここでは「流れ」を見ていくということで。

都城市のあの条例が一票差で採択されたとき、いや、それ以前から、この「性別および性的指向にかかわらず」という人権条項に関する一大反対キャンペーンを繰り広げていたのが「世界日報」です。世界日報は、これに限らず、一連のジェンダーフリー施策・教育の反対キャンペーンを2002年あたりから本格化させています。

世界日報というのは「統一協会」(世界基督教統一神霊協会)の機関紙です(表向きは無関係と言っていますがね、だれもそんなブルシットは相手にしてません)。統一協会というのは、ご存知、霊感商法や合同結婚式などで悪名高い国際カルト宗教集団で、欧州では信者とわかると入国制限されている“危険団体”扱いです。創設者は、文鮮明です。

さて、都城のあのジェンダーフリー条例への反対をあおっているのがこの統一協会の日本支部であるというわけですが、この統一協会と深い関係にあるのが「国際勝共連合」です。歴代会長は全員、統一協会員。役員もほとんどが重なります。

この「国際勝共連合」は文鮮明が1968年1月に韓国で立ち上げた反共産主義団体です。同年4月にはあの笹川良一(一日一善のおじいさん、っていってももうわからんかなあ)の別荘に、文鮮明と日本の統一協会会長の久保木修己もやって来て日本の国際勝共連合を作った。で、この久保木が初代会長、さらに名誉会長が笹川良一ということになったわけです。勝共と言えば笹川と仲良しの児玉誉士夫なんていう右翼ブローカーも登場してくる(後のロッキード事件のメンツでもあります)。

さて、当時(70年代〜)の東西冷戦を背景に、この勝共は自民党の支持団体としても成長を続けます。それで、このときの自民党の右派の重鎮がこの勝共に深く関与していくことになる。これがA級戦犯不起訴となり復権していた岸信介だったわけです。

kishi.jpg
【1974年11月に、統一協会本部で文鮮明と会談する岸信介=右】

岸信介って、日米安保条約の調印批准のときの総理大臣でね、治安維持法の再来と言われた警察職務執行法(警職法)の改定案を出したり(後に撤回)、教職員への勤務評定の導入を強行したりとかなりの全体主義者(ファシスト)で、けっきょくは安保反対闘争の激化(デモの東大生樺美智子圧死事件が引き金でした)で退陣に追い込まれたんですけど、まあ、日本政界の化けもんですわ。

んでもって、この岸が、いわずとしれた安倍晋三の祖父なんですね。もちろん、安倍晋三は岸信介マンセー、です。

おさらい。
つまり「岸信介=国際勝共連合=統一協会」というつながりがいま、「安倍晋三=国際勝共連合=統一協会」に移行しているというわけです。

その証拠が、今年5月13日に福岡マリンメッセで行われた統一協会の合同結婚式に安倍が祝電を打ったという事実です(各新聞のリンクを示したかったんだが、もう4カ月前でリンク切れでした。適当に探せばどっかにあると思いますけど)。おまけに、現在ベストセラーの安倍晋三の(ゴースト本)「美しい国へ」とかっていう本、これ、前述の統一教会会長久保木の「美しい国/日本の使命」って本のパクリなんですわな。題名まで似てるでしょ。こういう情緒的なものいいで誤摩化す(つまりは言語化=論理化を避ける)のが好きなんだなあ、右翼ってのは。「論理じゃない、言葉じゃないんです!」ってのが決まり文句だもんねえ。議論になんか、さいしょからする気がないわけですわ。頭ごなしですから。

で、この自民党=勝共=統一教会という日本右翼の腐れ縁、ファシスト連合が、都城をはじめとするジェンダーリベラリズムにも猛然と牙を剥いているわけです。頭ごなしに「ホモは死ね」ですから。憲法改正、ってのも、ともすると勢いをかって第24条の強化にまでつながるかもしれません。

で、わたしが「日本の現代LGBTコミュニティは、初めて有形の政治権力を相手にすることになるかもしれません」「戦争が始まると覚悟しといたほうがよいかも」と9月4日付けのこのブログで書いた意味が、これですこしはわかると思います。

September 04, 2006

次から次へと

東京新聞2日付けの佐藤敦社会部長の石原慎太郎インタビュー。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20060902/mng_____thatu___000.shtml

「メンタル面では、日ごろの情操を培う基本的なものを精錬するとかね。新宿の二丁目と歌舞伎町は美観とはいえないよね。銀座でもごてごてと色があるし。景観法ができたし、規制力のある条例を今年中に作ります。」

東京五輪を名目に、2丁目はつぶされますね。
さてどうしたものか。

日本の現代LGBTコミュニティは、初めて有形の政治権力を相手にすることになるかもしれません。だれでしょう、日本の差別は欧米とは違うなんて言っていたのは。「目立たないようにやれば、日本ってゲイでも生きやすい社会だから」と、うまくだましだましすり抜けてきた世渡りとしての生き方ですが、もうそんな世渡りでは済まなくなってくるかもしれませんね。

おまけに、あの九州・都城市が、町村合併に伴って、男女共同参画社会ってのを定義した条例文「性別や性的指向にかかわらずすべての人の人権が尊重され、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会をいう」っていう条項から、「性別又は性的指向にかかわらず」って部分を削除する流れになっているらしい。今月22日の議会で採決だって。

どうなんでしょう、このバックラッシュというか、いやそもそも前に進んだことなど微々たるものだったのだから、バックラッシュというよりも妖怪がとうとう姿を現したな、という感じに近い。

こっちは大阪府議、尾辻かな子さんのブログに反対表明の仕方と事情の詳細が。
http://blog.so-net.ne.jp/otsuji/

反対メールは次のメアドに名前と肩書きを書いてその旨を伝えれば尾辻さんが取りまとめてもくれるようです。これは12日まで。
otsuji_office@osaka.nifty.jp

いやはやしかしまったくもって、これから安倍政権ですぞ、みなさん。
こりゃ、戦争が始まると覚悟しといたほうがよいかもなあ。もっともそれも、わがほうに闘う気概があればの話なのだが。

August 29, 2006

ちょうど150人

報道機関への要望書間は、締め切り後の作業中もメールでの連名の申し出が続き、結局150人分を添付し、報道各社に送りました。在京新聞社の編集局長及び社会部長、在京テレビ局の報道局長及び報道部長、あるいは、報道番組のキャスター、プロデューサー宛です。この後、手がすいたら新聞社の一面コラム氏にも送ろうと思っています。

みなさんのご協力に感謝します。
ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。

北丸雄二拝

August 20, 2006

ありがとう;署名最終結果

連名署名の受け付けを締め切ります。
ありがとうございました。

私の手元に、120人の名前をお預かりしました。これからカウントされた方々(まだ返事をお出しするひまがなかった方々)に返事を出します。
大半がわたしのこれまで知らなかった人たちです。16歳の大分の高校生という方からも署名をいただきました。ちょっとうれしかった(べつに年齢差別じゃないけどね、笑)。
このほかにも、他の方にとりまとめを頼んだ名前がまだ挙がってくるはずです。

で、最終稿の文面を少し変えました。
これで行きますが、この文面だと賛同できないという方はお手数ですがまたメールを下さい。お名前を外します。だいたい同じですが、ある部分ではさらに主張が明示的になっています。そのくらいの違いだと思います。

もう一つ、ぜひお願いがあります。
各新聞社・通信社で働いている皆さん、おたくの編集局長の名前、社会部長の名前、を教えて下さい。
テレビ局の場合は、新聞社の編集局長・社会部長に該当する報道局長? 報道部長? というのでしょうか、その方々の名前を私宛のメッセージでお知らせ下さい。
手紙は、個人名も含めて出したほうがよいと思いますので、ぜひ、ご協力下さい。
教えてもぜんぜん問題はないよね?

ということで文面again but a final versionです。
****
前略 編集局長ならびに社会部長さま(ここには各社における個人名を入れる予定です)

とつぜん長文の手紙を差し上げる無礼をお赦しください。
私たちは先日8月12日(土)午後に東京・渋谷から新宿にかけて行われた「東京レズビアン&ゲイパレード2006」を準備し、あるいは参加し、あるいは関心を持って見つめていた同性愛者などの性的少数者とそれに寄り添う異性愛者の有志のグループです。今回のこの手紙は、私たちのこの人権パレードが、翌日の新聞各紙でなにひとつ、あるいはテレビニュースでもほとんど取り上げられていなかったという事実に少なからぬショックを受けてお出しするものです。

12日当日は、東京はご存じのように激しい雷雨に見舞われ、午後3時から予定していたこの人権パレードもあわや中止に追い込まれるところでした。しかし中止にすることはどうしてもできませんでした。このパレードは1年近い大変な準備の末に行われる、性的少数者の年に1度の東京での示威行動です。もっとも「示威」といっても、もちろん私たちにはなんの「威力」もありません。私たちがこのパレードで目指しているのは「威」というよりもただただまずは「存在」を世に「示」したいということです。なぜなら私たちは、性的少数者への差別は、性的少数者の実際を知らない、あるいは実在すら知らない、多くの人たちのその無知と偏見から来ているものだと知っているからです。これを正していくには、第一に当事者たちの存在を具体的に示すこと以外に方法はないのだろうと考えています。私たちにとって、それは「カムアウト」という言葉で表されています。このような英語で表記せざるを得ないのは、それが日本的な方法ではないからなのでしょう。しかしとりあえずいまの私たちにはそれしかない。しかも欧米先進国に比べて著しく潜在している、あるいは言語化すらされていない差別感を抱える日本社会で、カムアウトすること自体にも大きなリスクが伴うのは確かです。ですから、このパレードには、取材されて顔が出ては困るという参加者のために例年、「取材および写真撮影不可」という隊列カテゴリーももうけているほどです。

あの激しい雷雨で山手線がスットップしていたこともあり、今年は参加者の激減が危惧されました。ですがあの雨の中、それでも昨年とほぼ同じ2292人が出発地点の代々木公園に集合し、予定の15分遅れで行進が開始となりました。雨は不思議と止んだのでした。沿道からの応援やイベント会場の参加者を合わせると私たちの数は計3800人にもなりました(デモ行進扱いのマーチは、東京では3000人を超える行進者は認められないようです)。東京ばかりではなく、みんなこの日のために全国から集まってくれた人たちです。ゲイとかレズビアンとか単純にカテゴライズされるけれど、中には学校の先生がおり、医師や看護師、ソーシャルワーカーなどのグループもいました。HIV/AIDSの支援団体の人もいれば、会社員も弁護士も会計士もコンピューター技術者もフリーターも学生も、それにメディアで働くゲイやレズビアンも参加してくれました。日本で初めて政治家としてレズビアンであることをカムアウトした尾辻かな子大阪府議会議員や、トランスセクシャルを公言する上川あや世田谷区議会議員も歩きました。社会民主党の保坂展人さんは国会議員として初めてこのマーチに参加してくれ、そのもようをご自身のブログでも公開してくれました(http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/d/20060812)。事実上の同性婚を法的に保障している英国のロンドン市長ケン・リビングストン氏からは、このイベントは「日本のレズビアンやゲイの方々の貢献をたたえ、目下の課題である人権問題や法的平等を勝ち取るための戦いを知らしめる絶好の契機だ」(Tokyo Pride is a timely opportunity to celebrate the contribution of Japanese lesbian and gay people and to acknowledge their ongoing struggle for human rights and legal equality.)とのメッセージが寄せられました。その他にも多数の欧米の政治家、人権団体代表の方々からメッセージをもらいました。日本の政治家からは、上記御三方以外のものは、ありませんでした。

ご存じのように、同性愛者など性的少数者の人権問題は宗教問題を絡めながらも現在の先進諸国の最大の政治課題です。にもかかわらず日本では、そのことを議論するどころか口にすることすらも忌避される傾向にあります。欧米で真剣に議論されている同性結婚の問題も、日本の新聞で読むとなにか「遠い異国の話」でしかない。そんな風潮は、もともと「性的なこと」を話題に上らせるのをよしとしないという、日本の文化的背景も一因であろうとは承知しています。さらには議論して衝突することを嫌う社会であるせいでもありましょう。でも「結婚」は、たんに性の話でしょうか?

でも、私たちが「示」したいのは、私たちの「性」の話ではありません。それらもすべて含めた、私たちの「生」のことなのです。そのために私たちは年に1度のこのパレードで私たちの「生命」と「生活」の存在を世間に示しています。それが差別と偏見をなくしていく最初の一歩だということを、先輩諸国の人権運動の歴史が示してくれているから、だからこそ私たちはリスクを冒しても顔を見せ手を振って公道をパレードしているのです。また、そうでなくては、欧米諸都市での数万人、数十万人規模のゲイ・パレードの説明もつきません。そこに参加する警察官の、消防士の、裁判官や検事や弁護士など法曹界の、政治家の、銀行や会計事務所や一般企業の、ありとあらゆる分野の参加者たちの動機を説明できないのです。ロンドンやパリやニューヨークなどでは、市長や国会議員が先頭に立ってこの人権パレードを歩く。その意味を、読者・視聴者に伝え得た日本の新聞・テレビはほぼ皆無です。それは、日本のメディアに従事するほとんどのジャーナリストがその意味を即答できないことでも明らかでしょう。それは、政治的な点数稼ぎのためではすでにありません。

このパレードに先立つ7月に、東京・新木場公園で同性愛者を狙った強盗傷害事件が起きました。
時事通信による配信では次のような事件でした。

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◎同性愛者襲い、現金奪う=「届けないと思った」−高校生ら4人を逮捕・警視庁
 (時事通信社 - 07月27日 14:10)

 同性愛者の男性を襲い、現金を奪ったとして、警視庁城東署は27日までに、強盗傷害容疑で、東京都江東区内の都立高校生(18)ら少年4人を逮捕した。4人は中学時代からの遊び仲間で、調べに対し「同性愛者なら、被害に遭っても警察に届けないと思った」と話しているという。

 調べでは、高校生らは8日午後9時5分ごろ、同区の夢の島総合運動場内の遊歩道で、衣服を着けずに歩いていた板橋区の男性(34)に殴るけるの暴行を加え、現金2万1000円を奪うなどした疑い。男性は全身打撲の重傷を負った。
**

この記事の書き方のせいでもありましょうが、このニュースはインターネット上のブログやミクシィというSNSコミュニティ内で「突っ込みどころ満載」と形容され、さんざん面白おかしく取り上げられました。「衣服を着けずに歩いていた」のにどこに「現金2万1000円」を持っていたの? 「衣服を着けずに歩いていた」って、それって犯罪じゃないの? 両方とも犯罪者じゃないの? 「衣服を着けずに歩いていた」って、何をしてたの? どうして被害者が「同性愛者」だって分かったの? あそこはそういう場所なの? というふうに、“異様”な同性愛者たちの“異様な生態”の方に論が進んでいったのです。そうしてこの被害者は、強盗傷害の犯人と同列に、あるいは揶揄の点からはそれ以上に非難されることになった。自業自得、自己責任、というふうにしか発想しないこの本末転倒、ニュースを読む側の倒錯。こうした日本社会の非情の背景にはいったい何があるのでしょう。それをめぐって東京のゲイ・コミュニティでは70人が出席する緊急討論会も行われたほどです。もちろん、それも報道はされませんでしたが。

私たちがなぜ性的少数者への差別の解消を訴えているのか。
それは、性的少数者を差別しない社会は、他のすべての差別や卑下に関しても許さない正しい社会になるだろうと思うからです。日本でこれまでほとんど知的議論の対象になってこなかった性的少数者という存在を理解することは、あるいはとても難しいことかもしれません。それでなくとも日本社会には面白おかしい「ハードゲイ」像とか「おかま」像とかしか表面化していないのに、いったいどうやってそんな固定観念から自由に同性愛者というものを受け入れていくことができるのか。あるいはいまだに同性愛というものを「そっちのセックスのほうが好きだから自分で選んでそうなった」と思っている無知がはびこる中で、どうやって正しい知識を広める機会を持てるのだろうか。私たちの課題はとてつもなく大きく、重たいものです。でも、それを超えて、日本というこの社会をもっと真っ当なものにしたいからこそ、これからもパレードを続けていこうと思っているのです。なぜなら、同性愛者たちにきちんと向き合える社会は、病者や老人や外国人など、いわれなき偏見と差別にうちひしがれているすべての種類の人びとにもきちんと向き合える社会だと信じているからです。

しかし、それを日本でも成功させるには私たちだけの力では足りません。私たちにも、どうしてもメディアの力が必要なのです。欧米でももちろんそうでした。マスメディア各社の力添えがない限り、私たちの3800人のパレードは沿道わずか数十メートルの幅の、延長わずか数キロでしかないその通りすがりの人びとにしか伝わらない。いや、通りすがりの人びとにすら無視されるかもしれないのです。お願いです。貴メディアの力をお貸しいただきたい。私たちのことを、興味本位のものではない、ジャーナリズムの目を通して報道してください。私たちの現在は、人種、宗教、病気、性別、階級、障害、年齢、それら歴史上のすべての差別問題の再現なのです。私たちは、歴史です。それも現在進行形の。

私たちが最も恐れることは、私たちが単なる情報として消費されてしまうことです。HIV/AIDSの問題でもそういう消費と疲弊とが進行しています。それは教育と啓発の問題なのに、いつのまにかファッションの問題に置き換わってしまっている。結果、日本は先進諸国中ゆいいつHIVにとても脆弱な国家になってしまっています。

私たちは生きています。私たちを、私たちという歴史を記録してください。
今後末永く、少しずつでいいですから私たちをジャーナリズムに載せていってください。
そのために、いますぐでなくとも、性的少数者の問題を長期的に「生」の問題として扱う社内態勢あるいは社内コンセンサスを形作っていただきたいのです。

パリのドラノエ市長も、ニューヨークのブルームバーグ市長も、スペインのサパテロ首相も、私たちが求めればニュースになるようなメッセージくらいいくらでも送ってくれるでしょう。現在の東京都知事に期待できることはまったくないにしても、しかしこれくらいのことは「外圧」を必要とせずに私たち日本社会の中でやり遂げたい。
どうか、この困難な人権運動にお力添えください。

長文の、一方的なお願いの手紙になりました。
貴重な時間を割いて読んでいただいたことを感謝いたします。

お願いついでにもう一件。
来る9月17日(日)に、北海道札幌市中心部でこの種のパレードの第二弾となる「第10回レインボーマーチ札幌」が行われます。他都府県からも多くの参加者が札幌に向かいます。札幌の上田文雄市長は、この人権マーチに賛同を表明している数少ない日本の行政執行者・政治家の一人です。紙面の余裕がありましたら、ぜひ取材・報道してみてください。
詳細は「www.rainbowmarch.org/」にあります。

貴社の、ますますのご発展をお祈りいたしております。

不一。

             在NYジャーナリスト 北丸雄二拝

この書簡に賛同する方の連名署名をネット上の私のブログなどで募ったところ、5日間で次の方々から私宛のメールでお名前をお貸しいただきました。全員のメールアドレスは私が保管してあります。ご覧のようにメディア関係者のほとんどは残念ながら匿名・仮名での署名でした。本来ならばメディア内部の私たちの仲間が率先して社内啓発に努めるべきなのでしょうが、現在の日本で、社内「カムアウト」することの複雑困難な背景が存在するという事情をこのことからもご高察くだされば幸いです。このお願いの手紙は、貴社内で公開くださってもかまいません。
この手紙に関するお問い合わせ、ご意見は、遠慮なく私宛にお返しください。

(以下、連名署名を並べます)

August 16, 2006

連名で要望を出しましょう

先日の東京LGパレードが、けっきょくどこの新聞でも報道されなかったということを知って、私はすごくショックを受けました。それで、次の内容で東京の報道メディア各社(朝・毎・読・日経・東京・産経・共同・時事、それとテレビ各局)に手紙、まあ、要望書ですね、それを送りたいと思っています。北海道新聞にも送ろうかしら。

この書簡の内容に、連名で名前を載せてくれるひとを募ります。
あなたの名前を貸してください。

肩書き(職業、なるべく具体的な社名)と名前をください。名前を出せないひとは、たとえば職業のほうは本当のものを書いて「TBS社員、何乃誰平(仮名)」とかいうふうにしてください。 パレードの準備委員会だった方、あるいはボランティアをしていた方は、その役付きも表記してください。

お名前は、わたし(yuji_kitamaru@mac.com)宛に、メールでその旨を知らせてください。この要望内容に賛同する方ならどなたでも結構です。
ここのブログのコメント欄でもよかったのですが、このコメント欄、不具合で使えません。
申し訳ない。近々、ブログページ自体を変えますのでお待ちください。

また、みなさん、ここにリンクを張ってこの連名署名への参加者を呼びかけていただけるとうれしいです。

で、書簡の内容です。長文注意。


***
前略 編集局長ならびに社会部長さま

とつぜんお願いの手紙を差し上げる無礼をお赦しください。
私たちは先日8月12日(土)午後に東京・渋谷から新宿にかけて行われた「東京レズビアン&ゲイパレード2006」を準備し、あるいは参加し、あるいは関心を持って見つめていた同性愛者などの性的少数者とそれに寄り添う異性愛者の有志のグループです。今回のこのとつぜんの手紙は、私たちのこの人権パレードが、翌日の新聞各紙あるいはテレビニュースでなにひとつ取り上げられていなかったという事実に少なからぬショックを受けてお出しするものです。

12日当日は、東京はご存じのように激しい雷雨に見舞われ、午後3時から予定していたこのパレードもあわや中止に追い込まれるところでした。しかし中止にすることはどうしてもできませんでした。このパレードは1年近い大変な準備の末に行われる、性的少数者の東京での年に1度の示威行動です。もっとも「示威」といっても、もちろん私たちにはなんの「威力」もありません。私たちがこのパレードで目指しているのは「威」というよりもただただまずは「存在」を世に「示」したいということです。なぜなら私たちは、性的少数者への差別は、性的少数者の実際を知らない、あるいは存在すら知らない、多くの人たちのその無知と偏見から来ているものだと知っているからです。これを正していくには、第一に当事者たちの存在を示すこと以外に方法はないのだろうと考えています。私たちにとって、それは「カムアウト」という言葉で表されています。もちろん、欧米先進国に比べて著しく潜在している差別感を抱える日本社会で、カムアウトすること自体にも大きなリスクが伴います。ですから、このパレードには、取材されて顔が出ては困るという参加者のために例年、「取材および写真撮影不可」という隊列カテゴリーももうけているほどです。

あの激しい雷雨で山手線がスットップしていたこともあり、今年は参加者の減少が予想されました。が、それでも昨年とほぼ同じ2292人が行進し、沿道からの応援やイベント会場の参加者を合わせるとその数は計3800人にもなりました。東京ばかりではなく、この日のために全国から集まってくれた人たちです。中には学校の先生がおり、医師や看護師、ソーシャルワーカーなどのグループもいました。HIV/AIDSの支援団体の人もいれば、会社員も弁護士も会計士もコンピューター技術者もフリーターも学生も、それにメディアで働くゲイやレズビアンも参加してくれました。日本で初めて政治家としてレズビアンであることをカムアウトした尾辻かな子大阪府議会議員や、トランスセクシャルを公言する上川あや世田谷区議会議員も歩きました。事実上の同性婚を法的に保障している英国のロンドン市長ケン・リビングストン氏からは、このイベントは「日本のレズビアンやゲイの方々の貢献をたたえ、目下の課題である人権問題や法的平等を勝ち取るための戦いを知らしめる絶好の契機だ」(Tokyo Pride is a timely opportunity to celebrate the contribution of Japanese lesbian and gay people and to acknowledge their ongoing struggle for human rights and legal equality.)とのメッセージが寄せられました。その他にも多数の欧米の政治家、人権団体代表の方々からメッセージをもらいました。尾辻、上川両氏以外の日本の政治家からは、ありませんでしたが。

ご存じのように、同性愛者など性的少数者の人権問題は宗教問題を絡めながらも現在の先進諸国の最大の政治課題です。にもかかわらず日本では、そのことを議論するどころか口にすることすらも忌避される傾向にあります。新聞で読んでもなにか「遠い海外の話」でしかない。そんな風潮は、もともと「性的なこと」を話題に上らせるのをよしとしないという、日本の文化的背景も一因であろうとは承知しています。さらには議論して衝突することを嫌う社会であるせいでもありましょう。

でも、私たちが「示」したいのは、私たちの「性」の話ではありません。それらもすべて含めた、私たちの「生」のことなのです。そのために私たちは年に1度東京に集まってこのパレードで私たちの命の存在を世間に示したい。それが差別と偏見をなくしていく第一の道だということを、先輩諸国の運動の歴史が示してくれています。だからこそ私たちはリスクを冒しても顔を見せ手を振って公道をパレードしているのです。そうでなくては、欧米での数万人、数十万人規模のゲイ・パレードの説明もつきません。そこに参加する警察官の、消防士の、裁判官や検事や弁護士など法曹界の、政治家の、銀行や会計事務所や一般企業の、ありとあらゆる分野の参加者たちの動機を説明できないのです。

このパレードに先立つ7月に、東京・新木場公園で同性愛者を狙った強盗傷害事件が起きました。
時事通信による配信では次のような事件でした。

**
◎同性愛者襲い、現金奪う=「届けないと思った」−高校生ら4人を逮捕・警視庁
 (時事通信社 - 07月27日 14:10)

 同性愛者の男性を襲い、現金を奪ったとして、警視庁城東署は27日までに、強盗傷害容疑で、東京都江東区内の都立高校生(18)ら少年4人を逮捕した。4人は中学時代からの遊び仲間で、調べに対し「同性愛者なら、被害に遭っても警察に届けないと思った」と話しているという。

 調べでは、高校生らは8日午後9時5分ごろ、同区の夢の島総合運動場内の遊歩道で、衣服を着けずに歩いていた板橋区の男性(34)に殴るけるの暴行を加え、現金2万1000円を奪うなどした疑い。男性は全身打撲の重傷を負った。
**

この記事の書き方のせいでもありましょうが、このニュースはインターネット上のブログやミクシィというSNSコミュニティ内で「突っ込みどころ満載」と形容され、さんざん面白おかしく取り上げられました。「衣服を着けずに歩いていた」のにどこに「現金2万1000円」を持っていたの? 「衣服を着けずに歩いていた」って、それって犯罪じゃないの? 両方とも犯罪者じゃないの? 「衣服を着けずに歩いていた」って、何をしてたの? どうして被害者が「同性愛者」だって分かったの? あそこはそういう場所なの? というふうに、“異様”な同性愛者たちの“異様な生態”の方に論が進んでいったのです。そうしてこの被害者は、強盗傷害の犯人と同列に、あるいは揶揄の点からはそれ以上に非難されることになった。自業自得、自己責任、というふうにしか発想しないこの本末転倒、ニュースを読む側の倒錯。こうした日本社会の非情の背景にはいったい何があるのでしょう。それをめぐって東京のゲイ・コミュニティでは70人が出席する緊急討論会も行われたほどです。もちろん、それも報道はされませんでしたが。

私たちがなぜ性的少数者への差別の解消を訴えているのか。
それは、性的少数者を差別しない社会は、他のすべての差別や卑下に関しても許さない正しい社会になるだろうと思うからです。日本でこれまでほとんど知的議論の対象になってこなかった性的少数者という存在を理解することは、あるいはとても難しいことかもしれません。それでなくとも日本社会には面白おかしい「ハードゲイ」像とか「おかま」像とかしか表面化していないのに、いったいどうやってそんな固定観念から自由に同性愛者というものを受け入れていくことができるのか。あるいはいまだに同性愛というものを「そっちのセックスのほうが好きだから自分で選んでそうなった」と思っている無知がはびこる中で、どうやって正しい知識を広める機会を持てるのだろうか。私たちの課題はとてつもなく大きく、重たいものです。でも、それを超えて、日本というこの社会をもっと真っ当なものにしたいからこそ、これからもパレードを続けていこうと思っているのです。なぜなら、同性愛者たちにきちんと向き合える社会は、病者や老人や外国人など、いわれなき偏見と差別にうちひしがれているすべての種類の人びとにもきちんと向き合える社会だと信じているからです。

しかし、それを日本でも成功させるには私たちだけの力では足りません。私たちにも、どうしてもメディアの力が必要なのです。欧米でももちろんそうでした。マスメディア各社の力添えがない限り、私たちの3800人のパレードは沿道わずか数十メートルの幅の、延長わずか数キロでしかないその通りすがりの人びとにしか伝わらない。いや、通りすがりの人びとにすら無視されるかもしれないのです。お願いですから力を貸してください。私たちのことを、ワイドショー的な興味本位のものではない、ジャーナリズムの目を通して報道してください。私たちの現在は、人種、宗教、病気、性別、階級、障害、年齢、それら歴史上のすべての差別問題の再現なのです。

どうか、私たちのこの運動にお力添えください。
今後末永く、私たちをジャーナリズムに載せていってください。
性的少数者の問題を長期的に「生」の問題として扱う社内態勢を形作っていただきたいのです。

長文の、一方的なお願いの手紙になりました。
貴重な時間を割いて読んでいただいたことを感謝いたします。

お願いついでにもう一件。
来る9月17日(日)に、札幌中心部でこの種のパレードの第二弾となる「第10回レインボーマーチ札幌」が行われます。紙面の余裕がありましたら、ぜひ取材・報道してみてください。
詳細は「www.rainbowmarch.org/」にあります。

貴社の、ますますのご発展をお祈りいたしております。

不一。

August 06, 2006

新・新木場事件に思う

 2000年2月11日早朝、東京・新木場の「夢の島緑道公園」内でゲイ男性とおぼしき若い男性が頭や顔から血を流して倒れているのをジョギング中の会社員が見つけるという事件が起きました。やがてこの男性への強盗殺人容疑で江東区東雲2、無職、中野大助(25)=当時=と同区立中学3年の少年(14)、同区都立高校1年の少年(15)=同=ら計7人が強盗殺人容疑で逮捕されました。これはいわゆる、日本で初めて殺人にまで発展した「ホモ狩り」、ゲイバッシング殺人事件ですが、裁判では、この被害者男性の遺族であるお母さまの事情も鑑みて、事件をゲイバッシング=ヘイトクライム(憎悪犯罪)と規定するに至らず、たんなる通行人を狙った小遣い稼ぎの凶行、と認定するにととどまりました。

ところが同じようことが6年半後の先月、同じ場所で起きました。

以下、時事通信の記事です。

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◎同性愛者襲い、現金奪う=「届けないと思った」−高校生ら4人を逮捕・警視庁
 (時事通信社 - 07月27日 14:10)

 同性愛者の男性を襲い、現金を奪ったとして、警視庁城東署は27日までに、強盗傷害容疑で、東京都江東区内の都立高校生(18)ら少年4人を逮捕した。4人は中学時代からの遊び仲間で、調べに対し「同性愛者なら、被害に遭っても警察に届けないと思った」と話しているという。

 調べでは、高校生らは8日午後9時5分ごろ、同区の夢の島総合運動場内の遊歩道で、衣服を着けずに歩いていた板橋区の男性(34)に殴るけるの暴行を加え、現金2万1000円を奪うなどした疑い。男性は全身打撲の重傷を負った。

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 この事件は、ミクシィというSNSの中での日記書き込みで万人に「突っ込みどころ満載」と形容されました。そうしてまずは面白可笑しく取り上げられていったのです。「衣服を着けずに歩いていた」のに、どこに「現金2万1000円」を持っていたの? 「衣服を着けずに歩いていた」って、それも犯罪じゃないの? 逮捕されないの? 両方とも犯罪者じゃないの? で、「衣服を着けずに歩いていた」って、何をしてたの? どうして被害者が「同性愛者」だって分かったの? あそこはそういう場所なの? というふうに、“異様”な同性愛者たちの“異様な生態”の方に論が進んでいったのです。

 こうしてこの新・新木場事件は、各人が各様に(これはゲイであるかストレートであるか関係なく)「突っ込みどころ」のユニークさとその「突っ込み方」の面白さを競うような(あるいは競ってはいなくともここでなにか一言でも言っておきたいというような)対象となっていきました。もちろんすぐに「そうじゃないだろう」という対抗言説も生まれましたが、また同時に、同じゲイの中からも「こんな全裸徘徊をしているから襲われるんだ」「新木場は危ないと知っていてそういうことをしているのなら、それは自己責任ではないのか」という批判も生まれました。

 こうした反応をさまざまなブログやミクシィ内の日記などで読みながら、私はこれは基本的には社会的なコンセンサスの問題ではないかと思いました。コンセンサスとは、人びとに共通の、社会の大多数の人びとが同じようにもっともだと思う、その共通認識のことです。もちろん自然と形作られていくようなものもありますが、ゲイに関すること、LGBTに関わることでは、情報自体がいつもどこででも公になるというものではないですから、公のコンセンサスというものは、黙ったまま何もしないでいるといつまでもできてこないものです。

 たとえばこの新・新木場事件に10の論点があるとしたら、私の印象は、みんなが順不同に3を言ったり5を言ったり7を言ったり4を言ったり2を披露し合った、というものです。ときにはまだだれも言っていないからと6.5の部分を指摘したり、と。そうして、私たちは10の論点のすべてを消費しました。で、結果、なんらかのコンセンサスは得られたのか?

 『バディ』というゲイ雑誌の編集もしている斎藤靖紀さんは、ミクシィ内で「実際に既に重傷を受けている人間がいるのに、その罪よりも、そこにいたった行動のほうを問題にするのは、お願いだから別の機会にやってほしい」と書き込みました。これを受けて、同じく編集者であるみさおはるきさんが「今回の事件に対して『自己責任』とか『自業自得』って意見を出した人は、これが二丁目の近くでゲイを狙った事件で、たまたまそこに通りかかった自分が襲われて被害者になったとしたら「ゲイが集まることで有名な二丁目に行ったから自分は襲われたんだ、自業自得で自己責任だから仕方がない」なんて」言えるんだろうか、という視点を補足しました。

 斎藤さんがまとめたこの事件に対する人びとの反応はつぎのようなものです。

「事件が報道されたというのが最初の衝撃。

「被害者の変態行動どうよ」な声がワッと出たのが第一の反応

それを見て、「被害者の変態行動どうよな非情発信はどうよ」、というのがその次の反応↓

それを見て、「被害者の変態行動どうよな非情発信はどうよという言論統制的圧迫はどうよ」というのがその次の反応」

 このまとめはじつに要領を得たものでした。こうして、この事件に関する10の論点のほぼすべてが網羅されました。
 そういう書き込みを読みながら、私には、みさおさんにしても、斎藤さんにしてもみんなが一様に、最初の「被害者の変態行動どうよ」というものへの対抗言説として、様々な視点からこの事件に対してどういう態度を取るのが正しいのか、それを懸命に模索しているという印象を受けたのです。とにかく足場が必要だ。その足場がなければ、次のところに進めない。先ほどの物言いでいえば、その足場こそがコンセンサス、共通認識です。みんなが、あるいは少なくとも大多数がそうだと合意できるような、論理的な、しかも万人が納得するような平易な足場。斎藤さんがミクシの中で言っていたことはまさにそういうことでした。10ある論点のうち、1が定まらなければ2に行けないのに、どうしてみんな先に5とか7とか8とか9とかの話をするんだ? どうして1に関して、あるいはその派生としての2に関してきちんと合意もできていないまま3に進んじゃったり6を知ってるってひけらかしたりするんだ?

 そういうことなんだろうと思います。わたしたちは、こういうゲイバッシングに関して、いったいどこでどういうコンセンサスを形成してきたのか? いや、ゲイバッシングにのみ関係する問題ではありません。ゲイに対してまずは公の言説がほとんどなされていない日本という社会のなかで、言説がないのにコンセンサスが生まれるはずもありません。ではバッシングに関してはどうなのかというと、はて、いじめの問題は、いじめられる側にも問題がある、という物言いが平然と訳知り顔で公言されるような社会で、いったいどんなコンセンサスが真っ当なものなのでしょうか。

 思えば現代日本社会は、私の知る限り、公の議論と公のコンセンサスというものをないがしろにして成熟してきた社会のように思えます。戦後30年ほどは、つまりは1975年くらいまでは、いちおう、戦争をしないというコンセンサスがあったように記憶しています。もっとも、それもなんとなく戦後という時代の空気がそうだったのであり、べつに議論してそうなったのではなかった。だからいま、言葉としての伝達がないままになって久しく、ついに憲法9条もまたコンセンサスたり得なくなっている。

 すべてがこの調子です。日本社会は衝突を嫌う社会だという紹介が欧米では為されています。衝突を嫌うあまりに、議論をしなくなってしまった。自分たちの思考を言葉で切磋琢磨することを避けてきてしまった社会です。言葉がないところに、コンセンサスは生まれない。みんな、なんとなくそうでしょう、という雰囲気だけがフワフワと漂っていて、そしてひとたび問題が起きるや、そのなんとなくそうだという幻想の化けの皮がはがれることになる。え、そうじゃなかったの? と慌てるのです。そんな雰囲気だったのに、という共通認識は、じつは各自の勝手な思い込み、思い込みででっち上げられた誤解なのです。

 7月最終の週末に、つまりいまからつい1週間ほど前に、カリフォルニア州サンディエゴでゲイプライド・フェスティバルが行われました。29日夜の公園でのプライドコンサートの帰り道、3人のゲイ男性が、若者5人組に野球バットとナイフで襲撃されるという事件が起きました。3人は命に別状はなかったものの重傷を負い、容疑者の16歳から24歳までの男性が逮捕・起訴されました。前述のみさおさんが指摘した、「ゲイが集まることで有名な」ゲイプライドなんかに行ったから襲われた、のかもしれません。しかし、アメリカにおけるコンセンサスはすでに違います。

 サンディエゴの市長ジェリー・サンダーズは、すぐさま次のようなスピーチを行いました。
 「こんな下劣な犯罪を行うような輩に、あるいはこんなふうに人間を襲撃しようと企てているような連中に、言うべき言葉はわずかだ。きみたちは卑怯者だ(You are cowards.)。犯人たちは3人をバットで殴りながらゲイに対する卑劣な罵倒語を浴びせかけていた。これはヘイトクライムの、まさに定義そのものの犯罪だ。あきらかに、このケモノたちは被害男性たちをまたクローゼットに押し戻したかったのだろう。わたしたちは、ぜったいに、そんなことをさせないし、許しもしない」

 その前月の6月には、NYのゲイプライドに登場するはずだったケヴィン・アヴィアンスがやはり16-20歳の若者4人組に襲撃され、顎の骨を折る重傷を負いました。このときにはNY市長のマイケル・ブルームバーグが即座に「こんなヘイトクライムをしでかして逃げ仰せると思っていたら、それは悲しいくらいの大間違いだ」という声明を発表しています。

 学校での同性愛嫌悪的ないじめをなくすためにイギリスで先ごろ教師向けに作られたDVDの中で、ロンドン市長のケン・リヴィングストンは「私たちの目の前には、gay という言葉を侮辱的に用いるような低レベルな偏見・差別をなくすために、しなければいけないことがたくさんある」と訴えています。

 これがいまの欧米社会の世論の足場です(もちろん現実にはバッシングは頻発しているにしても)。そうしてこれさえあれば、私たちはみずからどんなジョークを言おうがあるいはだれかから笑い話にされようが迷うことはありません。なぜなら、これがいまの社会の背骨だという正義に支えられるからです。もちろんその背骨はアメリカではまだかぼそく、ちょっと横にずれて同性結婚とかの話になるとそれこそ屋台骨が揺らいだりするのですが、しかし暴力に関してはすでにこのサンダース市長らの言説に面と向かって反論することはできない。反論するには、面と向かわない、横を向いた、それこそ卑怯者のやり方でしかできない。

 今回の新・新木場事件で、私たち日本人社会はこの市長たちが代弁したようなコンセンサスを得てはいません。こんな基本的なことが、暴力を振るった者に対するこの絶対の批判が、社会で共有されていないのです。6年半前のあのオリジナルの新木場事件のときよりも、たしかに談論風発ではありましょう。いろんな意見が飛び交いました。相変わらず能天気で問題の核心をはずしているストレートのパッパラパー連中のことは別にしても、ゲイ・コミュニティ(もしそういうものがあるとしたら、ですが)、そしてそのコミュニティに寄り添おうとしているストレートの人びとの中で、たしかにかつてないほどの意見の披瀝と忌憚ない批判がありました。それは6年半という時間を感じさせる展開だと思います。

 ただしそれらは、足場がない限りどこにも行けないのです。10の論点を我れ先に見つけて発表し合うだけで、だからといってすごいね、よくわかったね、気づいたね、と褒められても、あるいはなにかを書き込んだことで自己充足していても、そこから私たちはいったいどこに行けばよいのでしょうか。このままでは私たちは、10の論点を情報として消費してしまったに過ぎない。私たちは、情報を消費するだけで、なんら新しい情報を作ってはいないのです。私たちは私たちのコンセンサスを作ってはいない。

 コンセンサスは、ゲイ・コミュニティの内部だけで作るものではありません。圧倒的な数を誇るヘテロセクシュアルの社会を巻き込まなければ、いえ、われわれの生きるそうした社会全体のなかでこそコンセンサスを作っていかなければ、意味がない。それはどういう運動かというと、じつは、大げさに聞こえるかもしれないけれど、日本の社会を変える運動なのです。たんにゲイに関するコンセンサスの話ではない。ゲイのことを軸にしながらいまの日本の社会のどうしようもなさを変えてゆくことにつながる、もっと大きな運動のことなのです。

 さてそのコンセンサスをどうやって形作ってゆくか。それは、先ほども言ったとおり、情報を消費するだけでなく、情報を作ってゆくことなのです。ゲイに関する、多種多様な情報を社会に向けて発信していく。これまではゲイコミュニティ内部への情報発信だったのを、これからはそれを外部へとつないでゆくこと。私たちの情報を一般社会へと広げてゆくことだと思うのです。これまでの10年間が個々人のカミングアウトの時代だとすると、そこを経ていま、今度はゲイコミュニティ自体が、一般社会へとカムアウトする時代になっていくのだと思います。

 おそらくそれにはまた10年を要するでしょう。でもそのとき、私たちの社会はいまよりもすこしだけ真っ当になっていることは確かだと思う。いやしかしまた、もしそうなっていないとしたら、それはつまり、だれもが不満を抱えているような、嫌な日本の病状が進行してしまっていることになるのだと思います。

 ですから、方法はやはり明らかです。ハーヴィー・ミルクが殺されて28年が経とうとしているいまも、彼が言ったことはだれがどこでどんな屁理屈をでっち上げようが保留をもうけようが、結論としてはぜったいに正しいものです。もちろん過程としてはさまざまな方法論や手練手管はあるでしょうけれど、それは28年を経ていままでだれもだれひとりとしてそのことを否定できなかったという歴史が証明しています。

 「カムアウト! カムアウト!」

 これを否定できた人はいません。すくみあがりたじろぎ留保したひとは多くいるけれど、否定できたひとはだれもいないのです。たとえカムアウトした先に死刑が待っていようとも、その死刑を覆すにはやはりカムアウトするしかないのだという理を、否定できはしない。
 それは、私たち自身を作り上げることです。私たちをこそ情報として発信することです。全裸徘徊が情報として誤解だと思うならば、全裸徘徊ではない自分自身をもまた伝えればよいだけの話です。

 「カムアウト! カムアウト!」

 このことをこそ、まずは私たちのコンセンサス、共通認識にする。いまはカムアウトできなくともよいのです。ただし、いまカムアウトできなくとも、カムアウトすることは正しいことなのだという結論は、揺らぎのないものなのだという歴史的な事実だけは知っておく。そういうことなのだと思います。そうみんなが思っていれば、それだけでも社会は確実に真っ当な方向に進んでゆくはずなのです。

July 04, 2006

中田はさ

くっだらねえなあ、と思ってやめたんだよなあ。移動のバスん中でゲームボーイして遊んでるチームメイトにゃ、そりゃあ何じゃらほいと思うでしょう。絶望というよりもまあ、もうやってられないわ、一抜けた、って感じかしら。すべきことはしつ、かね。

あの引退宣言を、自らの商品価値を高めるためとかなんだとか非難がましく解説している御仁もいるが、いいんじゃないかね、それだけのことをやってもいいだけのことを、中田英寿はやってきたと思う。

18だか19だかで私の目の前に現れたあの少年は、しなやかで伸びやかで、ただひとり、つるつるっとした、まるでバターみたいなサッカーをしていた。それまでの泥臭く百姓一揆みたいなサッカーとはまるで違っていた。久しぶりに帰った日本でテレビを見たとき、「だれ、あれ?」と思わず訊いていたもんだ。

くっだらねえ最右翼はまたまた「産経抄」である。

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伝えられるチーム内での孤高ぶりが、理解してくれない相手に話をしても仕方がないという生き方からきているとすれば、こんな不幸なことはない。▼いや、やめよう。半可通記者の推測ほど中田選手が忌み嫌うものはない。ただ、これだけはいいたい。日本の中心選手として、心情を吐露するだけでなく、敗因をもっと具体的に語ってほしいのだ。なぜ決勝トーナメントに行けなかったのか、チームに何が足りないのか。
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バカじゃないのか、こいつ。
何が足りないのか、分からないから負けたんだ。
敗因を具体的に語っても、何にもならないから語らないのだよ。
甘えるのもいい加減にしろって感じだわ。
まったく、ふだんは強面の右翼のくせに、こんなときだけなよなよしいのね。

June 14, 2006

FOXにもこんなキャスターが!

いやいや、すばらしい。
このYouTubeのビデオ、5分ありますが、5分見続ける価値あり。

<該当のYouTubeビデオ、著作権問題で削除>

イラクで亡くなった米兵の葬儀に、「こいつはゲイだ」として墓地への埋葬にデモ隊を送り出してたウエストボローバプティスト教会(カンザス州)の一派があるんだが、その広報の女性に、FOXニュースのジュリー・バンデラスがピチッと切れて烈火の如き猛攻撃。

こいつらね、9/11もイラクの戦死者もAIDSもなにも、すべて神の思し召しだっていうわけだ。いまのこの世の悪行がすべて報いとなって現れているんだというわけね。ゲイプライドなんてものは倒錯を誇ってることで、そんなんがあるせいで天罰が下っているってのさ。

いやはや、ジュリーさん、怒りようが尋常じゃない。「Oh, really?」ってのは、けっこうけんか腰の物言いでね、「あら、ほんと、はあ?」ってな感じ。よく見ると首を横に揺らしてる、もうこりゃ、本気だね。聖書のレヴィ記を引用する相手のシャーリー・フェルプス・ローパーに真っ向から噛み付き、おまけに声がきれいだから相手のきんきん声を圧倒してなおさら小気味よい。しかしこのおばちゃんも最初は低〜い声で穏やかぶってたんだけど、いやいやどんどん声は高くなるし叫ぶし、がははは。
しかしFOXって、保守派だと思ってましたが、こういうキャスターもいるのね。

「神の言葉が憎悪だなんて、そんなことはあるはずがない!」
「だれがあんたに神の代弁をさせる権利を与えてるの? 何者なのあんたは? 説教者?」
「あなたが憎悪をばらまいてるのよ。あなたこそが悪魔よ。聖書を信じてるって? なら、あなたこそが地獄に堕ちなさい!」
「あなたみたいな人はアメリカ人じゃないわ。その教会を持ってどこか他の国に行くべきよ!」

以上全部、ジュリーの発言。ふだんは同じ文句をゲイの方が言われているのに、それをそっくりお返ししてやっているという構図。これは、前から考えてないと出てこないしゃべりですね。お見事!

March 14, 2006

yes 創刊2号 本日発売


日本時間で本日15日発売(地方はちょっと遅れるかも)のタワーレコードの雑誌「yes」(880円)で、「ブロークバック・マウンテン」の小特集が組まれております。

ヒース・レッジャーのインタビュー、BBMの分析「ブロークバック山の案内図」、雑学情報集「ブロークバック付録袋(ふろくぱっく)」などが掲載されています。
一般書店、もしくはタワーレコード各店、あるいは以下のアマゾンでも買えます。

アマゾンに飛ぶにはここをクリック

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ヒース・レッジャーのインタビューのさわり

Q この映画がLGBTの観客にとっていかに大事な映画になるかということをあなたに言ってきたゲイの友人はいた? 「こいつは重要だぜ、失敗するなよ」って?

H そういうこと、友だちに言ってもらわなくてもわかるからね(笑)。これが重要な物語であるということは理解してたし、これまで正しく語られてきたことのない話であるということもわかってた。これをやることで責任が生じるということも知ってた。

Q この役を手にするってことについてはどう? この映画ならいろんな俳優がやりたがっただろうなって思うけど。

H 実際のところ、ちょっと変でもあった。台本を読んでこれはすごいと思ったんだ。こんなに美しい脚本を読んだことがなかった。ほんとにそう。おれのエージェントに「制作サイドがきみにやってもらいたいって言ってきてる」って言われてね。で、そのときは、おれの役はジャックの方だったんだよ。で言ったわけ。「いや、ジャックってのはどうやってやったらいいのかおれにはわかんないな。エニスだったらやれるけど。2人のうち、エニスの物語だったらできる」って。それからプロダクションは他の俳優を当たってたみたいで、しばらくおれもその話は忘れてたんだ。オーストラリアに帰って家族に会ったりとかしてね。そうしたらまたその話が来てさ、「きみの希望どおりにやってみるってさ。エニスがきみでジェイクがジャックをやるって案だ。アン(・リー監督)に会うかい?」って言うから「もちろん会いたい」って言って〜〜〜(続く)


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映画分析記事のさわり

 朝ぼらけのワイオミングの山あいの道路をトラックが行き、グスタボ・サンタオラヤのスチール弦が冷気を貫き、エニス・デル・マーが美しい八頭身でトラックから静かに降り立ったとき、その歓喜と悲劇の物語はすでにそこにすべてが表現されていた。歓喜は遠い山に、悲劇は降り立った地面と地続きの日常に、そうしてすべての原因は不安げに結ばれるエニスの唇と、彼を包む青白い冷気とに。

 「Love is a Force of Nature」というのがこの物語の映画版のコピーだ。「愛とは自然の力」。a force of nature は抗し難い力、有無をいわせずすべてを押し流してしまうような圧倒的な力のことだ。「愛とはそんなにも自然で強力な生の奔流。だからそれに異を唱えることはむなしい」──そのメッセージ。

 しかしここにはもう1つの意味が隠されてある。(中略)このコピーの二重性は象徴的である。〜〜(続く)

March 10, 2006

ブロークバックはただじゃ終わらない

オスカーに抗議して、「我々の作品賞はブロークバック・マウンテンです」という新聞一面広告=写真参照=を出そうという運動が始まりました。 「ありがとう;ブロークバック・マウンテン」という、ファンたち自身からの最優秀作品賞の授与ですね。

これがブログで紹介されるや、48時間で400人以上から17500ドル(200万円)が集まった。

呼びかけはアメリカでの熱狂的ファンサイト「the Ultimate Brokeback Forum」。落選の怒りをあたりかまわずぶちまけたりひたすら落ち込んだりという非生産的な行為の代わりに、この映画への制作陣への敬意と賞賛とを表明しようと新聞広告を打とうというわけです。画像にもあるように、2005年のベスト作品賞受賞映画賞を網羅して圧巻です。ただ1つ、オスカーだけがない。アカデミー会員のじいさんたちはこれをみて畏れ多くないか、ってわけですね。

言い出しっぺは私もこの欄とか自分のサイトとかでいろいろとネタ元にしていたDave Cullenくん。ふーん、本物だ、このブロークバック好きさ加減は。

こんなことはハリウッド映画史上かつてありませんでした。
面白いねえ。

ジャックとエニスの愛が社会によって否定されていたことに関する映画が、再び社会によって否定された(作品賞の落選)に我慢がならんというわけですね。アメリカ人の行動力って、ほんとこういうときに凄いと思います。

まずはハリウッドで最も読まれている映画関連新聞の「デイリーヴァラエティ」紙の本日10日付けで全面広告を打つとのこと。

さらに寄付を集めて他の雑誌や新聞にも、同様の広告を打つようです。
で、コピーは
「We agree with everyone who named 'Brokeback Mountain' best picture」
「わたしたちは、ブロークバック・マウンテンを最優秀映画賞に決めたすべての人々に賛同します」

で、日本からももちろん寄付できます。
http://www.davecullen.com/brokebackmountain/adcampaign.html
に行って、peypalのところをクリックして寄付が出来ます。
10ドルでもいいわけ。もちろん1ドルでもね。
でも、ビザかマスターカードを持ってないと難しいかも。

日本の新聞社にも教えましょうね。
こりゃぜったいに面白いネタだ。

March 08, 2006

ブロークバックの衝撃2

 今年のアカデミー賞は「クラッシュ」が作品賞を獲ったということより「ブロークバック・マウンテン」がそれを獲らなかったということのほうがニュースになっています。昨年12月の公開以来アメリカ社会にさまざまな「衝撃」を与えてきた「ブロークバック」ですが、作品賞を「クラッシュ」に横取りされた別の「衝撃」が返ってきちゃいました。記事の見出しも「アカデミー賞でのドンデン返し」とか「ブロークバックのバックラッシュ」とかですものね。

 アカデミー賞はその選考投票の内容を明らかにすることはありませんが、新聞各紙やロイターやAPなどがさまざまな見方を示しています。

 NYタイムズは作品賞を逃したことを;
 ブロークバックをだれも止められないと思っていた。だが最後に思わぬ事故(クラッシュ)が待ち受けていた。再びの屈辱的な教訓。アカデミーはだれかにどうこうすべきと言われるのが好きではないのだ。ジャック・ニコルソンが最後の封筒を開けたとき、すべての賭け金、一般の思惑、これまでの受賞暦が無に化した。「ホワー」とニコルソンは言った。

 たしかにニコルソンの反応は面白かった。「何たること!」という感じでしたものね。

 クラッシュはロサンゼルスのある交通事故が、いろんな場所のいろんな人々のいろんな話をない交ぜて思わぬ展開を見せていくというものです。そこには人種問題、貧富の問題、階級の問題、職業の問題、いろいろあって、オリジナル脚本賞も取っただけあってじつによく書けている。

 ところが、これが「今年の映画」かというと、正確にはアカデミー賞は去年の映画を対象とするのですが、その「いまのこの年の映画か」というと違うんじゃないか、というのが正直な印象です。「クラッシュ」のこの手法というのは「群像劇」の手法で、たとえばロバート・アルトマンの「ショートカッツ」(94年)なんかの手法なのです。またかよ、という感じ。

 さてそのうえで、NYタイムズとかAPでも共通しているブロークバックの敗因は、まず、ロサンゼルスという地の利/不利のことでした。NYタイムズの見出しは「ロサンゼルスがオスカーの親権を維持した」でしたし。
 つまりクラッシュはお膝元のロサンゼルスが舞台で、しかも登場するのはものすごい数の有名俳優たち。ブレンダン・フレイザーやサンドラ・ブロックの役などほんのちょいでなくてもかまわない、マット・ディロンもこれで助演男優賞候補?ってぐらいに出演時間もちょっと。そういう使い方をしてる。でもこれはハリウッドの俳優陣総出演というか、見事にむかしの東宝東映大映松竹オールスター大江戸花盛り、みたいな映画で、まさに化粧直しした新型ハリウッド映画なのです。対してブロークバックはカナダで撮影され、ロサンゼルス=西海岸資本が作った映画ではなくて、ニューヨーク=東海岸の資本が作った映画なんですね。これはいわばボクシング試合などのホームタウン・デシージョンではなかったか、そういう分析です。

 あるいはかねてから言われていたように、「ブロークバック」を、アカデミーの会員のご老人たちは観てもいないのではないか、という説。
 アカデミーというのは映画に関係するすべての職業の人から構成されていて、現在の会員は6000人くらい。そのうち投票するのは4500人とか5000人なんですが、ほかの賞のグループ、監督協会とか評論家協会とかよりも高齢化が進んでいて、そこに候補作品のDVDが送られてくるという仕組みです。それで自分で見る。日本にも何人も会員はいて、そこに字幕付きのも送られてます。
 だが、このカウボーイ同士のゲイの恋愛もの、そういうご年配の会員たちにとって、黙ってても観てくれる種類のものだろうかというと……。 「クラッシュは私たち自身が生きて働くこの業界をよく体現した映画だ( 'Crash' was far more representative of the our industry, of where we work and live)」とあるハリウッド関係者がNYタイムズの記事でコメントしています。対してブロークバックは「神聖なハリウッドのアイコン偶像に挑戦した、アカデミーのご年配方がそういうアメリカのカウボーイのイメージが壊れるのを観たいだろうかというと、答えは明らかだろう('Brokeback' took on a fairly sacred Hollywood icon, the cowboy, and I don't think the older members of the academy wanted to see the image of the American cowboy diminished.)」ということです。
 脚本を書いたラリー・マクマートリーもまた「Perhaps the truth really is, Americans don't want cowboys to be gay,(きっと真実はたぶん本当に、アメリカ人はカウボーイがゲイであってはほしくないということなんだろう)」と「bittersweet」なオスカーの夜を振り返っています。

 でも肝心なのはそれだけではないようです。
 クラッシュの配給会社は大手のライオンゲートですが、ここがクラッシュが候補に上ったとたん、じつはものすごいキャンペーンを展開したというんですね。というのも、その時点でもうクラッシュのアメリカでの劇場公開は終わっていて、DVDが発売されていた。このDVDを映画関係者に13万本以上もバラまいたというのです。対してブロークバックはDVDは市販用にはまだ出来ていない。だからバラまきようがない。13万本も作ったら破産してしまう。ふつう候補作は1万本とかが郵送されるようですが、クラッシュはその10倍以上です。ライオンゲートはほかの三流映画で稼いだお金をぜんぶつぎ込んでこのクラッシュをプロモートしました。何度も何度も、いろんな賞のたびに送るんです。そりゃ家に10本もたまったら観ますよね。クラッシュはこのプロモーションで数十万ドルつまり1億円近く使っています。そのほかにもパーティーはやるわ、贈り物はするわ、で、選挙運動じゃないですからそういうの、べつに逮捕されたりしませんからね。そういう背景があった。これはかつてあのイタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」のときに問題になったやり方です。あの映画もものすごいパーティーをやり、アカデミー会員に贈り物攻勢をかけ、あの主役のなんとかっていうコメディアンが愛嬌を振りまいた。で、オスカーを獲った。まるでオリンピックの招致合戦のような様相を呈しているわけですね。

 おまけに、クラッシュは「街の映画」でテレビ画面で見てもあまり印象は変わりませんが、ブロークバックは「山の映画」で、たとえ幸運に見てもらったとしても、あの広大な自然の美しさをバックに描かれる愛が、テレビの画面ではいまいち伝わらない。そういう不利もあったろう、と。

 つまり、今回の作品賞の顛末は、クラッシュが作品賞を獲る理由と、ブロークバックが作品賞を獲らない理由が、うまく二重合わせになった結果なのだろうということです。

 ま、しかし、冷静に考えるとBBMはいかにそれがエポックメーキングだとはいえ、アメリカ国内での興行成績はまだ8000万ドルに過ぎません。ゲイ関連の映画で、1億ドルを超えたのは過去にあのロビン・ウィリアムズの「バードケージ」(フランス版「ラ・カージュ・オ・フォー」のリメーク)だけなのです。BBMの観客数はこれまでで米国内1500万人くらいでしょうか。で、リピーターも多いから、つまりアメリカ人の95%以上はこの映画を観てもいないのですね。映画というのはそういう媒体です。テレビのヒット作なんか一日の1時間の番組で3000万人が見たりするのに。だから4200万人が視聴する中、94年4月にエレン・デジェネレスがテレビのコメディドラマでカムアウトしたときのほうがインパクトは強かったのかもしれない。

 あれから12年、時代の先端部分はたしかにBBMのような映画を作れるようにはなってきました。
 ただし、ジェイク・ジレンホールとヒース・レッジャーもインタビューで自分たちで言っていたように、「キスシーンでは最初、どうしても笑ってしまった」のですね。彼らですらそうなのですから、映画館であの男同士のキスシーンを見て笑ってしまわざるを得ない男たちというのはまだまだ相当数いるわけです。笑うだけではなく、「オーゴッド!」とか「カモン(やめてくれ)!」とか「グロース(キモイ)!」とか茶々を入れなきゃ見てられない連中だって。この映画を観た男性たちの中には、あえて「そんなに大した映画じゃなかった」という感想を、あえて表明しなければならない、というプレッシャーを感じている輩も多いのです。
 それはもちろんそういうホモセクシュアルな環境に耐えられない自分の中のホモセクシュアルな部分をごまかすためであり、あるいは一緒に映画を見ている仲のよい友人たちとの相互のピアプレッシャーでもあり、そういうのはさんざんわかっているのですが、やはりそういうのはまだ強い。ましてや、社会から隔絶して引退生活を送っているアカデミーの終身会員のお歴々がBBMに関して何を思っているのか、いや、なにも思っていない、ということは、つまりは見る必要性を感じない、というのは、ある意味当然ではあるのでしょう。

 歴史というのは、手強いのです。

 ただし、わたしには確実に空気が変わったのは感じられるのです。
 日本の配給会社ワイズポリシーの用意した掲示板に行ってみると(すこしでも映画にネガティブなことを書くと速攻で削除されるという恐ろしい掲示板らしいですが)、さまざまな人たちがゲイのことについて、あるいは自分はゲイであると明かして、さまざまに書き込みをしています。こういうことは「メゾン・ド・ヒミコ」でもあったようですが、あのときはオダギリ・ジョーのファンの女性たちに気圧されて掲示板でそう主人公にはなれなかった。でも、今回はBBMファンの女性たちと渡り合って余りある勢いや思いも感じられます。

 こういうのは「クラッシュ」には起きない。BBMの崇拝者は生まれていますが、クラッシュの崇拝者というのは聞いたことがない。
 ですんで受賞を逃したのはそれはそれでいいんじゃないかと。それが2006年という時代の断層なのではないかと思うわけです。BBMが、今後のハリウッド史の中で「アカデミーに作品賞を与えられなかったことが衝撃を与えた作品」として、長く語り継がれるだろう映画であることは間違いないのですから。

December 20, 2005

千葉香奈子という売文奴

日刊スポーツ、12/20日付ハリウッド直行便に映画「ブロークバックマウンテン」のコラムが載っていました。

ゲイ恋愛映画がアカデミー賞本命に急浮上

千歳香奈子っていうロサンゼルスに住んでる自称「ライター」が、みすぼらしい文章をさらけ出しています。

たとえば、冒頭から
「いくつかの州では同性婚が認められており、日本に比べると同性愛がオープンなお国柄とは言え、「ゲイの恋愛」を真正面から描き、男性同士の濃厚ラブシーンもあるこのような作品が、アカデミー賞の本命となるのは少々驚きです。」

いくつかなんかありません。マサチューセッツ州だけです。「少々驚」いているヒマがあったら取材しなさい。プロなのですか、あなた、ほんとに。アルバイト気分でえらそうにコラムなんか発表していると怪我をしますよ。

さらにこれ、
「ゲイのカップルを演じるヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールは、共にもちろんストレート。」「しかし、作品の中での2人のラブシーンは、愛し合う恋人そのもの。ハリウッドにはゲイと噂される俳優も多いのですが、あえて完ぺきにストレートの2人をキャスティングしたことがうまく行ったように思います。もし、ゲイ疑惑のある俳優を起用すれば、観客は生々しさを感じ、思わずプライベートを想像してしまったことでしょう。」

ロサンゼルスに住んでるのに、「ギレンホール」って呼び間違えてはいけません。英語、話せるし、聞けるんでしょう? 毎日芸能ニュースで「ジレンホール」「ジレンホール」っていっているのを耳にしていないんですか? 日本で間違ってるのをそのまま使わないこと。正しく伝えることが物書きの第一歩。ほんとにあなた、LAで「ハリウッドスターのインタビューや映画情報を取材」してるのですか?
それと、「共にもちろんストレート」「完ぺきにストレート」って何でしょう、それ。ロック・ハドソンなんかも、あなたからいわせても「もちろん完ぺきにストレート」だったんです。で、この「もちろん」の自信は、取材の結果? それとも間接情報? 噂?  セクシュアリティに関するその揺るぎない自信はどこから来るのです? そもそもストレートって何? 知ってるの、その「完ぺきに」曖昧な定義を? 男なんてね、木の又とでもできるんだよ。ま、「完ぺきに」ストレートな連中だけど。
それとさ、もう、あいもかわらず「ゲイ疑惑」って何でしょう。耐震構造計算偽装疑惑じゃないんですから、「疑惑」って日本語、使えますか、こういうときに? 文筆業やってるんでしょ。恥ずかしいでしょ? わかりますか、いってること?
さらに、「思わずプライベートを想像してしまったことでしょう」ってさ、それ、あなた、下品というんですよ、そういうの。下司っていうんです(漢字、読めるかな?)。そういう人に限って、ゲイ「疑惑」なんかなくても、想像してるんです、スケベなこと。ま、スケベでもぜんぜんいいんですけどね、それをニヤけて書くのはとてもみっともない。人間の知性と品性の問題です。

おまけに、
「さらに、ヒースもジェイクもなかなか良い! 特にジェイクのヒースを見つめる目は、本当に恋する目をしているのです。うっとりとした目で互いを見つめあい、キスを交わす。純愛であり、儚い恋だけにその悲恋ぶりがたまらない。淡々と雄大な自然の風景と共に描く手法も、作品を清々しさを与えています。」 ときた。

ほら、やっぱり想像してる。これ、ボーイズラブとかやおいの感想文と同じ、「夢見る乙女文体」ですもんね。
エッチな純愛を想像してるから、「悲恋ぶり」と「清々しさ」って、それ、いってること、整合しないでしょ、あなた、頭ん中。困ったもんだ。

千歳さん、「1972年3月29日 札幌生まれ。92年に渡米」ってさ、きみ、なに13年間もアメリカで見てきたの? ゲイの友達、いないの? いる? いたら、あんた、この文章、そいつに読ませられるか?

恥を知りなさい。
物書きは売文業ではあっても、無神経でいいはずはないのです。

December 03, 2005

LGBT雑誌「yes」創刊へ

タワーレコード初のゲイライフスタイル・マガジン「yes」
2005年12月8日創刊!

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 日本のタワーレコードが来週、音楽、ファッション、映画、アートほか様々なジャンルを網羅した新たなLGBTライフスタイル・マガジン「yes」を創刊します。値段は880円(ページ数は100ページとちょっと薄いが全ページフルカラー)。

 この雑誌は〈Read The Truth〉というコンセプトのもと、LGBTのセンスや視点で迫る野心的なカルチャー・マガジンです(とはいえ、一介の配本業者であるはずの東販、日販の強圧的な編集権介入的指導によって「ゲイ」という文字は表紙には出せず)。12月8日発売予定となる創刊号では、ご存知、お正月映画「僕の恋、彼の秘密」に主演するトニー・ヤンが表紙を飾るほか(彼はゲイ雑誌だと知っても表紙モデルを快諾したそうです)、新作『Confessions On A Dancefloor』がヒット中のマドンナにもロンドンでインタビューしました(マドンナは5日に来日予定。この「yes」のプロモートにも一役買ってくれるかもしれないとの思惑のもと、ひそかに戦略を画策中)。

 また米国メディア大手バイアコム系列のLGBT向け初のベーシックケーブルTV局「LOGO」ほか、世界で拡大するLGBT TV事情の詳細や、来年開催のゲイゲームズとアウトゲームズの両方も紹介。さらにシドニーのマルディグラも押さえてあるし、ディズニーばかりか米大リーグ界にも拡大中のゲイ・デイ(Gay Day)のイベントも本邦初紹介。この部分は私が18ページにわたってすべて取材・執筆を担当しました。

 それと橋口亮輔さん、しりあがり寿さんなどの連載、特集記事も充実掲載しています。詳細は下記の通りとなります。

 この雑誌は、広告も含めてポルノのない、日本で初めてのゲイ雑誌です。というか、これまでのゲイ雑誌はゲイのコミュニティ内部に向けて情報を発信してきたけれど、このyesはゲイの視点からゲイ以外の外部の一般社会へ情報を発信してやれ、というもくろみでもあるわけで。
 この雑誌を成功させて、ビジネスチャンスとしてのゲイマーケットというのを日本でもそろそろ顕在化させてやろうじゃないか、というのがスタッフの意気込みです。前述のLOGO開局など、欧米ではすでにその波は確立されていますし。


▼「yes」創刊号掲載予定記事

 - 表紙&特別対談:トニー・ヤン(お正月映画「僕の恋、彼の秘密」主演俳優;ルイ・ヴィトンモデル)

 - Special Feature:マドンナ・インタビューin London、カイリー・ミノーグ、ロビー・ウィリアムスほか

 - 特集:「US LGBT TV最新事情 New Yorkルポ」
  MTV、CBSとおなじバイアコムが今夏、初めて基本ケーブルサービスで設立したLGBT TV局「LOGO」。視聴世帯数1800万世帯までにぐんぐん成長しています。この設立までの道のりや、CNNでも活躍していた若手リポーターをメインキャスターに据えたLGBT関連専門ニュースチームの立ち上げをインタビューを交えて詳細にリポートしています。話題の番組コンテンツと合わせての紹介は、日本初のメディア露出です。

 - ファッショングラビア:リーバイス2006年春夏デニム in New York

 - 連載コラム:橋口亮輔(映画監督)、しりあがり寿(漫画エッセイ)

 - カルチャーレビュー:
  音楽:アルミナムグループをGreat3片寄氏が紹介
  映画:ジョージ・マイケルとボーイ・ジョージの映画
  アート:横浜トリエンナーレ
  本:糸井重里主宰「ほぼ日」連載時から話題の「新宿二丁目のほがらかな人々」著者ジョージ氏インタビューほか
  健康:フィットネス

 - 占い:鏡リュウジ

October 24, 2005

取材源の秘匿

 NYタイムズなどによるCIA工作員漏洩事件が大きな政治問題になってきました。ともするとチェイニー副大統領の辞任にも結びつきそうな雰囲気です(希望的観測)。しかしこれは最初からおかしな事件でした。

 発端は一昨年夏、アフリカ・ガボンの米国大使の妻がCIAのスパイだと報じられたことです。最初からおかしかったというのは、CIAのスパイであるという事実を報道することに何の意味もニュース価値もないからでした。いったいそんなニュースが誰の得になるのか、何のためになるのか、まったく意味をなさなかったからです。

 そこでわかってきたのは、この奥さんの夫である米国ガボン大使ジョセフ・ウィルソン氏が、ブッシュ政権がイラク開戦の理由だった大量破壊兵器疑惑を「脅威を誇張して事実をねつ造した」と批判していたという背景でした。ここで初めて利害関係が見えてきたのです。ウィルソン氏の奥さんがスパイだと露呈すれば著しい生命の危険にさらされる。つまり、政権批判への報復のために、肉体的・心理的嫌がらせをねらってホワイトハウスが意図的かつ巧みにそのスパイの人定情報をリークしたのではないか、というものでした。

 思えば、タイムズ記者のジュディス・ミラーが情報源の秘匿を盾に証言拒否で収監されたときも、米メディアはなにかが歯に挟まっているようなかばい方をしていました。なぜならこの場合、情報源を隠すことで守られていたのはブッシュ政権そのものの方だったわけですから。もともとの記事だって、前述したようにニュース価値のないものだったのですから。ふつうはそういう情報を握ってもまともな記者なら書きはしません。脅迫事件に加担するようなもんですもの。

 手元に文藝春秋の9月号があるのですが(芥川賞の発表があったのでそっちが目的で買ったのです)、ぐうぜん面白いものを見つけました。いつもはメディア批判で筆鋒鋭い「新聞エンマ帖」の欄が「取材源の秘匿が揺らいでいる」と題してとんでもない勘違い原稿をさらしているんですね。

 「ジャーナリストならば、情報提供者の秘密を守るため、その名前を明かしてはならないことは誰でも知っている」として、これを「最も重要な職業論理」と書いているのはいいのですが、ミラー記者の収監に関して日本の新聞はみな「対岸の火事的な報道に終止した」として「悪しき日本の新聞の習性を見る思いがした」と筆を滑らせるのです。

 エンマ帖氏は「仮に権力によって取材源の秘匿が否定され、ジャーナリストがそれを守らなくなれば、人々のジャーナリズムへの信頼は地に堕ちる」と説き、「日本のジャーナリスト」は「だが、いざという時、果たしてニューヨークタイムズの記者のように行動できるのか」と心配してくださっている。

 しかし事の顛末は逆でした。タイムズのミラー記者のように行動してしまえば、権力こそが取材源の秘匿によって守られ批判に頬かむりしていられるのです。ミラー記者ほか一連の漏洩情報の報道者たちはいずれも大量破壊兵器疑惑にも簡単に乗って検証もなく記事を大量生産し米国民の開戦意識をあおった、ブッシュ政権のいわゆる“御用記者”だったのです。

 これは情報漏洩事件ではなく、政権中枢である大統領補佐官カール・ローブや副大統領補佐官ルイス・リビーをリーク源とする、人命をも顧みない冷酷な情報操作と報復の事件でした。権力者の思い上がりも甚だしい、じつに恐ろしい話です。

さてブッシュ政権がどう後始末をつけるか。
チェイニーは辞めるのか。
政権末期のレイムダック化が進むのか。
これからいろいろと展開があるでしょう。

October 18, 2005

小泉靖国参拝NYタイムズ社説

NYタイムズの本日の社説でした。
かなり厳しい論調ですな。ま、リベラルですから、タイムズは。

それにしても、「右翼国粋主義者が自民党のかなりの部分を構成している」とか、「靖国は神社とその博物館で戦争犯罪を謝罪していない」というのは、なかなか正確で明確な意見です。

靖国が戦争を謝罪していないのは、死んだらみんな神様だからってわけでしょうかね。あそこの従業員たちはけっこう過激です。国家護持を狙っているくらいですからね。ものすごい政治力ですもの。

***
October 18, 2005
Editorial 社説
Pointless Provocation in Tokyo
東京での意味をなさない挑発行為

Fresh from an election that showcased him as a modernizing reformer, Prime Minister Junichiro Koizumi of Japan has now made a point of publicly embracing the worst traditions of Japanese militarism.

近代的改革者としての姿勢を見せつけた選挙から間もないというのに、首相小泉純一郎が今度は日本の軍国主義の最悪の伝統の公的な保持者であることを明らかにした。

Yesterday he made a nationally televised visit to a memorial in central Tokyo called the Yasukuni Shrine. But Yasukuni is not merely a memorial to Japan's 2.5 million war dead.

彼は昨日、全国放送される中、東京中心部にある靖国神社という追悼施設に訪問した。もっとも、靖国は日本の戦争犠牲者250万人を祀っているだけの施設ではない。

The shrine and its accompanying museum promote an unapologetic view of Japan's atrocity-scarred rampages through Korea, much of China and Southeast Asia during the first few decades of the 20th century.

同神社とその付属博物館は、20世紀初頭の数十年間、韓国朝鮮全土と中国・東南アジアの多くで極悪非道と恐れられた日本の残虐行為に関して悪びれることのない史観を標榜しているのである。

Among those memorialized and worshiped as deities in an annual festival beginning this week are 14 Class A war criminals who were tried, convicted and executed.

今週始まる例大祭で神として祝われ崇められる中には、裁判にかけられ有罪になり処刑された14人のA級戦犯も含まれている。

The shrine visit is a calculated affront to the descendants of those victimized by Japanese war crimes, as the leaders of China, Taiwan, South Korea and Singapore quickly made clear.

この神社参拝は、中国、台湾、韓国、シンガポールの首脳たちがすぐさま明確に指摘したとおり、日本の戦争犯罪によって犠牲になった人々の子孫への、計算ずくの侮辱である。

Mr. Koizumi clearly knew what he was doing. He has now visited the shrine in each of the last four years, brushing aside repeated protests by Asian diplomats and, this time, an adverse judgment from a Japanese court.

Mr.小泉は自分が行ったことを明確に認識している。彼はこの4年間、繰り返されるアジアの外交官たちの抗議を軽くいなし、さらに今回は日本の司法の違憲判決をも無視して、毎年この神社に参拝してきたのだから。

No one realistically worries about today's Japan re-embarking on the road of imperial conquest.

現実問題として、だれも日本が再び帝国主義的覇権の道を進むだろうなどとは心配していない。

But Japan, Asia's richest, most economically powerful and technologically advanced nation, is shedding some of the military and foreign policy restraints it has observed for the past 60 years.

しかしこの、アジアで最も裕福な、最も経済力を持ち技術的にも進んだ国家である日本は、過去60年間遵守してきた軍事的・外交的歯止めのなにがしかを切り捨てようとしているのである。

This is exactly the wrong time to be stirring up nightmare memories among the neighbors. Such provocations seem particularly gratuitous in an era that has seen an economically booming China become Japan's most critical economic partner and its biggest geopolitical challenge.

近隣諸国にあの悪夢の記憶を掻き回すのに、いまはまことにふさわしくない時期だ。このような挑発は、とくに経済的に急発展中の中国が日本の最も重大な経済的パートナーかつ最大の地政学的難題になりつつある時期にあって、まったく根拠のないものと思われる。

Mr. Koizumi's shrine visits draw praise from the right-wing nationalists who form a significant component of his Liberal Democratic Party.

Mr.小泉の同神社参拝は、彼の自民党の中でかなりの部分を構成する右翼国家主義者たちの賞賛を引き出した。

Instead of appeasing this group, Mr. Koizumi needs to face them down, just as he successfully faced down the party reactionaries who opposed his postal privatization plan.

このグループの要求を受け入れるのではなく、Mr.小泉は彼らを屈服させるべきなのである。ちょうど彼の郵政民営化案に反対した自民党反動派の連中を成功裡に屈服させたように。

It is time for Japan to face up to its history in the 20th century so that it can move honorably into the 21st.

名誉とともに21世紀に進んで行くために、日本はいまこそ20世紀の歴史を直視すべきなのである。

September 06, 2005

尾辻さんの軌跡

テレ朝が6日、大阪府議、尾辻さんのカムアウトの軌跡を朝のワイドショー『スーパーモーニング』の一コマとして(はかなり丁寧に)取り上げています。
この下のリンクで飛んで見られますよ。
まずは見てください。

http://dp23055276.lolipop.jp/tv.htm(現在もうリンク切れ)

さて、そこで敢えて苦言を呈します。

1)「性的指向自体は疾病ではない」って、意味不明でしょう。テロップにもフリップにもして2回も強調しているのですが、「性的指向」というのは異性愛というのも含まれているんだからさ。はしなくも、どうも他人事です。自分は含まれていないってことですから。

2)「ドメスティックパートナーシップ制度」を、結婚との比較で「名前の違いで、法的にはまったく同じ」と物知り顔のコメンテーター(だれ? ディレクターかな=後にどっかの弁護士と判明しました。TVによく出ている人のようです)が話してますが、「ほぼ同じ」と言うべきでしょう。養子がとれるかどうか、や、外国での扱いなどがまったく違うのですからね。

3)アメリカではカリフォルニア州などがドメスティックパートナーシップ制度を認めている、とフリップで紹介していたけれど、マサチューセッツ州の同性婚制度があるのですから、それをそのフリップの上段、「同性婚を認めているところ」にオランダやベルギー、スペイン、カナダと並べて含めるべきでしたね。

つまり、これらのことは、誤報なのです。ふつうの新聞記事やテレビニュースなら訂正を出さなくてはならないところです。

とても丁寧に、バランスよく取り上げていたことは評価しますが間違いはいけません。「でも、せっかくとりあげてくれたんだし」という問題とはまったく関係ありません。これは「間違いは報道ではゆるされない」という鉄則を外した、というふうに考えるべきです。プロとはそういうものです。これなら、「はい、とてもよく調べましたね」と褒められて喜んでいる学生レベルのリポートであって、プロのやることではありません。

つまり、これほどまでに肝入りで取り組みながら、そこらすらもクリアできないという一般レベルでの知的惨状がはからずも浮き彫りにされているのですね。鳥越俊太郎さんが一言も発していないのは賢明と言わねばならないでしょう。知らないことはしゃべらない。こういう問題で知ったかぶりはできない。そういう判断だったのだろうと思います。

このビデオでいちばんよかったのは、尾辻さんのカムアウトに対して街の声でいちばん多かったのが「まあいいんじゃないですか」「べつにいいんじゃないですか」「ひと、好き嫌いはあるし」とかいうコメントだった、というところでした。それを「他人に対する無関心」としての「受容」ではないのかと示唆しているのです。

これだよ。ここだよね。
この部分こそ、コメンテーターが引き取ってなにかを言うべき勘所だったのに。鳥越さん、ここくらいはなんか言ってよ、って感じでした。だれも引き取らなかった。

でも、尾辻さん、相変わらずかわいかったな。かっこかわいいというのは、彼女のことをいうんだ。こんな彼女を、次の府議選挙がどう扱うのか、「まあいいんじゃないですか」は、票にはならないですからね。彼女を泣かしたくないとつよく思う。

September 03, 2005

カトリーナ

昨日あたりから人種問題が出てきました。
被災地の7割がアフリカ系住民だったことから、ブッシュは黒人のことなどかまっちゃいない、とか、ここが白人地域だったらトラックが到着するまで5日もかからなかったとか、なによりブッシュ自身が休暇をすぐに取りやめて現地入りしていただろうとか(9.11のときのあの8分間の空白を引き合いにして、今回は2日間もぼけーっとしていたとか)、そういう話。

面白い(と言っては不謹慎だが)写真が配信されているのです。

あの沢田教一の「自由への逃走」を想起させる、ニューオリンズの泥水の中を胸まで浸かりながらどこかへ行こうと必死な若い黒人男性のAP写真。両手にはどこかから調達してきた食べ物らしきもの。キャプション「強奪品を手に泥水の中を行く男性」。
まったく同じような構図で白人男女二人が泥水の中を食糧を手に移動するAFP写真。キャプション「どこかで見つけた食糧を手に避難する男女」。

メディアが「強奪」というふうに言うと、ニューオリンズのダウンタウンに残っている黒人層がみんな強奪者のならずものに見えてくるけれど、よくよく考えると食べるものも水もない状況で、近くのスーパーに行って、売ってもらおうにも誰も店員のいないところからとにかく飲食物を確保しようとしたらみんな強奪者になってしまうわね。まあ、あそこからテレビとか貴金属を奪おうとするやつらは強奪者というか火事場泥棒だろうが、水につかったテレビなど取ろうとするやつなどいまのところメディアでは見ないし、衣類だって必要だろ、そういうのをいっしょくたに強奪者扱いではあまりにも理不尽だわなあ。

10年前に中西部の大洪水を取材したことがあるけれど、あのときも堤防決壊。しかし水は今回のような「津波」状態ではなかったから住民は避難もできた。今度のはしかし、ひどすぎる。行政当局の、ひいてはブッシュの責任問題が出てくるはずです。

June 02, 2005

傭兵、反日、第9条

 こちらに帰ってくる間際、イラクで負傷・拉致されたという齋藤昭彦さん(44)が死亡したという情報が流れました。それ以後、その話はどうなったのでしょう。日本政府は、齋藤さんのような存在に対してどういう立場を取るのでしょう。それとも、死んだままで終わりなのでしょうか。ここまで届くニュースにはそのへんのことはまったく触れられていません。

 やまぬばかりかいまもなお激化する自爆テロに、イラクでは米英軍も自兵の犠牲者を出してはならじと、自軍を第三国の傭兵部隊に守らせるというなんとも倒錯的なやり方を採用しはじめました。英国系“警備”会社の齋藤さんはそんな中で襲撃され拉致されたのです。

 日本では齋藤さんを「ボスニアでも活躍した傭兵」「フランス外人部隊にも所属」と、なんだか奇妙に思い入れがあるような、あるいは“超法規的”な存在への興味を拭えないような伝え方をしていました。
 「警備会社」に勤務の「警備員」といいますが、戦時における、しかも前線における警備員とはあるしゅの兵力に他なりません。それを「傭兵」と呼びます。
 しかし「傭兵」というのは国際法上では不法な存在なのです。戦争とは国家間にのみ存在し、その国家の正規軍のみが武力の行使権を有します。相手が撃ってきたときに撃ち返す正当防衛はだれにも認められますが、傭兵は私兵であり、人を殺せばテロリストと同じであって超法規的な存在ではない。傭兵が作戦行動として相手を殺害したらこれは殺人罪が適用されます。傭兵に法的な後ろ盾はありません。ジュネーブ条約で認められる「捕虜となる権利」も持っていません。ただ現実として、戦争の混乱の中で罪の有無がうやむやにされるというだけのことなのです。

 いやそれよりもなによりも「戦争の放棄」を謳う憲法を持つ国の国民として、齋藤さんは二重の意味で私たちとは異なる。もし彼がいまも日本国籍を持つ日本国民だとしたら(それは確認されています)、齋藤さんは日本憲法にも国際法にとっても「背反者」なのです。はたしてその認識が、私たちにあるのかどうか。彼には、ぜひ生きて還ってきてほしかった。そしてその特異な存在の、この世界でのありようを、ぜひわたしたち日本人に突き付けてほしかった。そこで明らかになる「日本」と齋藤さんとのねじれを、わたしたちの次の思索のモメンタムにしたかったのですが、政府も、報道も、そのへんについてはすでに終わったものとして扱っているような感じです。
             *
 ところで、アメリカの軍隊もじつは傭兵みたいなものだという意見があります。裕福な白人層はもう従軍などせず、米軍ではイラク開戦前は黒人が24%を占めていました。イラクでの犠牲者が増えるにつれ現在ではそれが14%にまで落ちていますが、ブッシュ政権はボーナスや傷痍金・死亡手当の増額など、金銭的報奨によって兵員志願を“買おう”としているというわけです。
 米国籍を持っていない者でも米軍には入れます。少しは国籍取得に有利になるのでは、という不法移民の心理にも働きかける策ですが、正規軍とはいえ、これでは傭兵「外人部隊」と同じでしょう。さらにテレビで連日放送される新兵募集のCMでは、教育を受けていない若い白人らも取り込もうと「軍で教育が受けられる」「資格が取れる」などの利点を強調します。しかしこうした“未熟”な米軍の存在がまた“プロ”の傭兵の新たな必要性を生むわけで、これらはもう戦争というものの構造的などうしようもなさの連環のような気さえします。
            *
 国連安保理の常任理事国入りを目指す日本に、お隣り中国・韓国の「反日」「抗日」の気運が根強かったのも日本で感じたことでした。
 直接の理由は小泉さんの靖国参拝と竹島領有などに関する教科書記述問題でした。それが第二次大戦中の話にまで及び、日本への警戒心までがまたぞろ出てきていました。そんなものはもちろんなんの根拠もない(はずな)のですが、そのときの日本側の“釈明”がどうも小手先のものに見えて仕方がありませんでした。

 私たちは戦後60年、「平和国家」としてやってきました。先ほども書きましたが世界でゆいいつ「戦争の放棄」を謳う憲法を持ち、60年ずっといちおうは平和外交を展開してきました。それは中国と韓国を説得するときの最も本質的な論理なのだと私には思われます。

 もっとも、それは軍事活動をとらざるを得ないことのある国連の安保理常任理事国に入る資格としてはそれは矛盾になりますが、しかし中韓を説得するときになぜ誰ひとりとして現存の憲法9条を持ち出さないのか、私にはどうしてもわかりませんでした。自民党は憲法9条に恥じるような、あるいは憲法9条を恥じるようなことしかしてこなかったからでしょうか。
 きっとそうなのでしょう。

 現代の傭兵の発祥は中世のフランスです。齋藤さんに対してと同じく、私はこの日本政府にも中世へと逆戻りするような愚かしき勇ましさを感じます。いや、それよりなにより、憲法違反としてこちらも訴追の対象ですらあるのではないかとさえ思っています。

May 06, 2005

何が見苦しいかといって

いつも言ってることなんですが、「寄ってたかって」というのがいちばん見苦しい。

JR西の、事故車両から離れてさっさと仕事場に行ってしまったという社員2人にしても、そりゃ「あんな大惨事でその場で助けなきゃ人間じゃない」というひとの意見はもちろん分ります。そういうことを、その現場で駆けつけて救助作業を手伝った多くの近隣住民が呆れ顔で口にするのはまったくもってそのとおりだし、たしかにそういうことを言ってほしい、よくぞ言ってくれた、というふうに思いもします。

が、同時に、すくなからず自分も車内で衝撃を受けて転がっちゃったりした“被害者”ならば気が動転していて、さらには脱線衝突車両からはやや離れていた車両だったらば、ショック状態のままそこからのこのこと現場に割り入っていくのだってなかなか大変だと思うのです。しかも「上司の指示」もあって出勤、というお墨付きももらって、人間心理としてはそっちの楽な方に向かっちゃったのは分らないでもない。ぱっと判断してぱっと行動できるのは、事故の当事者ではなく横で一部始終を客観的に見ていた者たちだからです。当事者は、なかなかそうはいかない。それでもできるひとは、それは美談の対象になるでしょ? たとえば怪我をしていながらもその場で必死に他の人を救助していたJR社員がいたとしたら、TVはこれを絶対に美談で取り上げますよ。「あたりまえの話」ではなく伝えるはずです。あるいは「当たり前と言われれば当たり前だが、そういうときというのは気が動転していてなかなかそうはとっさにできないですよね」というふうに。

ホリエモンが「どうせ物語を作るんでしょ、ぼくは物語なんかありませんよ」とそういうニュースの取り上げ方を拒否したり否定していたりしましたが、彼が言っていたのはそういうことです。新聞もテレビも、ニュースをたしかになんでも物語として伝えたがる傾向がある。というか宿命なんだな、それは。

そのときにあるのは、安っぽい物語か、そうじゃないか、です。かつて現場にいた人間としては、安っぽい物語は極力排除したい。安っぽくしかならないときは物語性をあらかじめ放棄すべきなんですよ。

だから、あれはああも何度もテレビやなんかで「乗り合わせていたにもかかわらずそのまま出社した」とかと非難がましく言わなくたっていいじゃないの、って思います。伝えるのは重要ですが、しかし、それは一回か二回の報道で事足ります。それを、鬼の首でもとったみたいにその話題になると何度も何度も呆れたふうに繰り返す原稿を書くニュースデスクは、なんともチープで浅ましくなくないですか。

こういう非難がましさは、JR西の「遅刻→懲戒→再教育」とまったく同じなメディアのいじめ体質です。そりゃ呆れる話だが、アナウンサー、あんたに代わって呆れてもらわなくたっていいんだよって感じになりません? 呆れるのは私にまかしてほしい。ニュースを読む連中にその呆れを先取りしていただかなくて結構。そのくらいは自分でできます、って感じに。

それはボウリング大会にもいえます。
こっちはもっとたしかにひどい。しかし、それにしたって報道は一報と続報、そして調査報道の3回でじゅうぶん。いちいち「こともあろうに」とか「そればかりでなく」とか、そういうふうに主観を交えてさも憎らしげに視聴者をあおるのはいかがなものか、フジTV。「さらに明らかになりました」とかというのはたしかに続報の範囲内ですが、ボウリングの二次会に出ていた人数がもうちょっと多かったからと言って、だからなんだというんでしょう。呆れた、怒った、もっと叱りつけてやれ、ってことですか?

みなさんそうやってすぐに簡単なところで悪者を作って発奮して叱りつける、いじめる。

もっと大人になりましょうよ、報道現場にいる人たちも、デスクにいる人たちも。
視聴者だって大衆だって、あおられるのが好きな人たちばかりではないでしょう。
ここで報道が問題とすべきは、JR西の企業・組織としての危機管理の甘さと、その職員たち個人の危機対処の訓練・指導の甘さです。それは組織構造上の欠陥かもしれないし、個々の士気や誇りの低下の問題かもしれません。それは叱るべきことではありますが、いつまでもぎゃーぎゃーと叱り続けるべきことではありません。

キリキリ絞めつけたって、効果を持つのは最初の段階だけです。そこで止めるべきなのです。それ以上続けたら、結果はなんらプラスには働かないどころか、限界を超えるとゴムが切れるみたいにこんなふうな事故を起こすことにつながったりもするのです。そのふたつはまったく同じなんだもの。

そんでね、じつをいうとさ、そうやって煽るような人ほど、じつは同じような状況になったときに事故現場をそそくさと立ち去って我関せずで出勤するような人たちなんですよね。ちゃっかりボウリング大会に行っちゃってたりするタイプのひとなんですよ。

みんな、そんなに怒りたいのかしらね。いやそんなことはない。怒っていたらとっくに政府は倒れているだろうはずだし銀行や証券会社はもっとまともになってるはずだ。
そうじゃなくて、だれかを叱りつけたいんだな。だれかを人身御供にしたいんだ。政府や銀行はなかなか叱りつけ方が難しい。しかし適当な個人を見つけ出して怒鳴りつけるのは簡単です。それはたしかにインスタントなストレスの発散法です。だが、問題の解決法ではまったくない。

90秒の遅れを認めなかったのは、JR西の社長ではなく、そういういい加減さ=よい加減さのありようを見極められないで人身御供がいさえすればすぐにキリキリ絞めつけ上げるばかりの(日本社会に多く見られる)人たちなんではないでしょうか。だって、90秒の遅れは認められないくせに何年待ってもちっとも増えない銀行利子とかにはぜんぜん余裕で待ち続けられるんですからね。まあ、みんなの責任だなどと、一億総懺悔=責任の一億総拡散化みたいなことは言いませんが、背景認識としては必要かもしれない、程度で。

いずれにしても、呆れ顔で将来的な展望もなくただただ怒鳴りつけたり叱りつけたりするのは、まともな人間のすることじゃありません。それが「寄ってたかって」ならもう、なにをかいわんや、です。

February 24, 2005

片腹痛し

ロイター電で、

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が22日に出版された自身の新刊の中で、同性婚は「新たな悪魔の思想」の一端であり、知らぬ間に社会を脅かしているとの見方を示した。同著では、同性婚以外にも中絶などの社会問題に触れ、20世紀に行われたユダヤ人などに対する撲滅行為にも匹敵する「合法的根絶行為」と言明。

なんて伝えられていて、まったく、病膏肓に入るとはこのことだと思いました次第。

ローマカトリックは、第二次大戦中、もちろんナチを支持していました。時のローマ法王はピウス12世です。ユダヤ人はカトリックの慈悲を受けない。彼はそう考えていた。同時にあの時代、LGBTたちはそのユダヤ人同様、ヴァチカンの戦況報告室で冷血に画策される虐殺の犠牲者だったわけでもあります。ピウスとは、ニュルンベルクが見逃した戦争犯罪人の名前なのです。

ローマンカトリックがそのことを謝罪したのはつい最近、1997年のことです。それまで頬っかむりをしてきた。それがどうでしょう、ピウスに連なるいまのヨハネ・パウロが、「ユダヤ人などに対する撲滅行為にも匹敵する」などとあたかも100年前からユダヤ人撲滅行為に反対していたかのような口ぶりでしれっとあらたな撲滅行為に加担する。歴史は繰り返す、というのは愚かしい彼のためにあるような成句です。恥を知っているなら、ふつうはそんな比喩は恐れ多くて口が腐ってもいえない。

かたはらいたし、とはこのことです。

いったい、この頑迷なる善意というのは、何に起因しているのでしょう。
こういうのは悪意より始末に悪い。

***
さらに再び

asahi.comから
***
 フジテレビジョンの村上光一社長は24日の定例記者会見で、ライブドアによるニッポン放送株の取得を巡る他の民放各局の報道について「あまりにも、ちょっと狂騒曲的。ニュースはただおもしろおかしくやればいいのではない」と批判した。もっともフジ自身が娯楽路線をとってきただけに「自省を込めて」とも前置きした。
 村上社長は「(他の民放の)報道番組を見ていると、あまりにもちゃらちゃらして『えーっ』と思う例が頻発していた。いかがなものか。(ライブドアに)テレビは公共の電波だと言っている時期だからこそ、きちっとやらなければいけない」と強調した。
***

おいおい、ニュース番組のタイトルからかつて「ニュース」という単語を外してみせたのはどこの局だったっけ? ニュースに効果音入れたりオドロオドロしい音楽をかぶせて視聴率稼ごうとしたのはどこの局だよ。声優使ってドラマ仕立てで報道して視聴者の劣情をあおってきたのはどこのどなたさまですかってんだ。

フジテレビが「公共の電波」っていうのは、日テレが「公共の電波少年」っていうくらいにコントラディクションじゃあありませんかえ? どの口からそんな言葉が出てくるんだろ。まったく、社長ってのはどこまで厚顔にならんとできないもんなのか。この世で一番恥ずかしいことは、恥を知らないということなのだ。

ふむ、「デイリー・ブルシット」のブルシット叩きらしくなってきましたな。

しかし、わたしは罵詈雑言がかなりきつい、ということをある人から指摘された。
叩くときは、けっこう、完膚なきまでに言葉を連ねる、しかも、かなり強烈なグサグサの感じがするらしい。

先日の「怠けもん」発言も、けっこう、本来の標的とは別のところでグサグサ刺された感じがするという人がいるようだし、そういえばその昔、金原ひとみの「蛇にピアス」を叩きのめしたら、思いもかけぬ方向にいたぼせくんから「そういう言い方はない」的な叱責をいただいた。こちとら、ゲイの視点からあえてだれも触れないでいる蛇ピアのぬぐい去り難いホモフォビアを指摘しただけだと思っていたんだが。反省。

悪口は自分に返ってくる、って、なんてったっけ? なんか、成句があったような気がするけど。

くわばらくわばら。

January 24, 2005

やっと起き出した

しかしすごい風邪でした。まる5日間、寝っ放し。
本日起き出して、冷蔵庫に食うものがほとんどなくなったんで買い物に出かけたら、途中でめまいがしてきました。ニューヨークは一面の雪でして、きらきらと遠近感がなくなるというか、目の焦点調整がうまくいかないというか、そんでもってぶっ倒れそうになってしまって。両手には重いショッピングバッグだし。

でもまあ、こうやって書き込んでいるんですから。

さて、ずいぶんと時間が経ってしまいましたが例のジャーナリストネット、15日に東京の方々で時間のある方と2丁目のアクタでお会いしました。フジテレビ、TBS、にじ書房の永易さん、東京新聞の特報部デスク、岐阜聖徳学園大学非常勤講師(ジャーナリズム)の5人プラス私が顔合わせしました。1時間の予定が、なんだかんだと話し込んで3時間にもなりました。

その中で気づいたことは、メディアの現場にいると、社会の雰囲気というか時代の匂いというか、そういうものがふだん気づくやり方とは別の感じ方で気づかされるという実感です。たとえば最近のテレビで、政府自民党に噛み付く評論家がだんだん外されて来ているというようなこと、きづけばそういう評論家はみんな権力に都合の良いコメント、当たり障りのない意見を言う連中に偏ってきてしまっている。そんなことをみんなで話したりしました。

まあ、LGBTのジャーナリスト、あるいはテレビ人、新聞人という固定した観念というより、よりよいジャーナリスト、テレビ人、新聞人であれば自ずからLGBTあるいはひろく少数者たちの感覚を共有できるのでしょう。あるいは、LGBTであるということから鍛えられたそうした足場を持ちつつ、プロのメディア人として仕事をこなしている人たち。

このジャーナリストネットワークも、たとえば30人、40人という数になれば(現在は14人です)かなりの影響力を持つのではないかと思います。そこからたとえば新聞協会なりにLGBTをジャーナリズムで扱う場合での基準、コード作りなどを働きかけることもできると思われます。

さて、そうこう話しているうちになんとなく見えたのは、とにかくもう少し参加者を募ろうということ。NHK、朝日、読売、毎日、共同からもぜひ参加してほしいものです。さらに、日本でのこのネットワークの拠点を、大学内のジャーナリズム専攻のどなたかの研究室に置いて、日本の新しいジャーナリズムの動きとして研究がてら参加・協力してもらう、という方法をとりたいということでした。社会学としてLGBTを扱っている先生たちは多いのですが、ジャーナリズムとしてLGBTを研究している先生はいまのところ日本ではいないのではないかということです。その意味ではとても面白い研究テーマでもあるでしょうし。

さて、そのうえでどうにかこの夏ごろまでにはネッッとワークの形を作りたいと思っています。そうして、�外部の人を呼ぶメディア関連の勉強会を開催する�ネットワーク内でのワークショップを開く�大学生を対象に講演会を開く�一般を対象にLGBT関連の啓発活動を行う�LGBT関連の事象(同性婚、憎悪犯罪、人権運動、歴史)についてプロのジャーナリストや研究者が活用できるようなデータベース・資料サイトを構築して公開する�ネットワーク参加者相互の情報交換のサイト(mixiなんかどうかしら?)を作る……などの活動を具体化していくということになろうかと思います。

じつはこの顔合わせの後で、わたしは別のネットワークの主催者と会いました。
それは女性ジャーナリストのネットワークで、数年前に立ち上げてすでに100人からの参加者がいるそうです。ネットワークの名前はなんと「薔薇トゲ」という、じつにキャンピーでビッチーで、オキャマ心をそそる命名ですが、主催者の女性はぜんぜんそういう意識はなくて、わたしと会って「そうね、そっちと提携しても面白いですよね」などと言ってくれました。この女性ジャーナリストネットも定例でいろんな著名人を呼んで勉強会を開いているそうです。「ビアンはいないの?」と聞いたら、「調べたことないわ」ということですが、まあ、アメリカの高校や大学でよくあるゲイ&ストレート・アライアンス(ゲイであろうがストレートであろうがいっしょに性的少数者の人権を守ろうと活動する同盟運動体)みたいな感じになればよろしいかと。

こうやって考えてみると、なかなか面白い活動ができそうです。
そう思いません?

さあ、もう少しリクルート活動を展開しようと思っています。
皆さんも是非ご協力ください。

January 11, 2005

東京入り

実家のオンライン環境は電話線の接続のためぜんぜんここにもアクセスできませんでした。
先ほど東京入り。いやあ、札幌では飲み明かしました。

とはいえ、昨年クリスマス前からの右胸の赤いポツポツ、各種の軟膏を塗ってもいっこうによくならず、だんだん痛くなってきて病院に行ったらあっさりと「帯状疱疹」だっていわれちゃいました。原因は過労、ストレス、老化。ほな、老化かいな、と思いきや、先生曰く、「それって70歳くらいのことよ」。

ふうむ、年末の原稿ダッシュのせいかや? でもね、それって毎年のことだからべつにたいしたことないし、昨年は逆にちょっとお怠けしてネタのたらい回しみたいなことやっちゃったからけっこう楽だったわけで。ほな精神的なストレスなんじゃわなあ。なるほどねえ、あちきもけっこうやわい心を持って、というか、心と肉体とはこうして連動してたんですねえ。

生命って、閉鎖回路の中の複雑な現象の絡み合いの結果みたいなもんなんですよね。そんで、その命あっての意識ってのは、そりゃ、その現象系のセルフモニタリング機能のループ状の現象の結果なんだわなあ、と。

というわけで、オンライン復帰。

さて、例のジャーナリストネットの途中報告です。
ネットにはこれまで12人の方々から参加へのご関心を表明していただきました。内訳はテレビ局関係が3人、新聞関係が3人、文筆業が2人、ラジオが1人、学術関係が1人、他分野2人、学生2人(カテゴリー重複あり)です。プラス、私です。

で、産經新聞でHIV/AIDSを追ってきた友人の宮田一雄さんにも参加をお願いしたところ快諾いただきました。このネットはしたがって、セクシュアル・アイデンティティの如何によって門戸を閉じたりはしないことにしたいと思います。

で、いろいろとみなさんからのメールを受け取り、文面をうかがいつつなんとなく見えてきたことは、このネットにおける活動の概要はLGBTのジャーナリズム活動の相互啓発・情報共有・意見交換・後進教育・情報発信、ということになろうかということです。

なにせ私はふだんはニューヨークですので、会員同士でのコミュニケーションを司るためのメディアも、たとえば会員専用の掲示板なりが必要だろうとも思います。正式に発足する前に、発足メンバー同士もどこまで自分についての情報を開示できるかも確認し合わなくてはならないでしょう。その辺りの、確認事項について、あるいは何を確認事項とすべきかなどについて、みなさんのお知恵を拝借したいと思っています。また、このネットワークの名称も決めていませんしね。

この東京滞在中の1月15日(土)の午後に、ご都合のよい方々とお会いすることになっております。引き続き、メンツを募集しております。活動の具体はまだ先になりますが、基盤は大きい方がよいですからね。ご興味のある方はメールを下さい。ではでは。

December 19, 2004

スポーツ・芸能ジャーナリズム

NBAのサンズが田臥勇太を解雇してしまいました。

スポーツ報道を見ていてなんとなく思うんですが、アメリカで活躍する日本人選手を、日本のスポーツジャーナリズムはけっこう贔屓目で書いているんだなあ。日本のスポーツ新聞までいちいちチェックしてないけど、共同とか時事の(客観報道であるはずの)配信記事を読んでいても、田臥にかぎらずけっこう上げ底なんでしょうかね、あるときとつぜん「解雇」とか「放出」とかのニュースが出てきて、え、なんか調子のいいこと書いてあったのを読んだばかりなのに、どうして? って思うことがしばしばあります。まあ、日本人活躍のそういう威勢の良い記事を読みたいという暗黙の読者圧力ってのがあるのかもしれんが、そうじゃないとわかったときの落差がひどい。伏線がないんだもの。小説だったら欠陥商品だわね。「本当のところ」を知りたいって読者もたくさんいるだろうに。

芸能はもっとそうですね。
宇多田ヒカルの全米デビューを華々しく書き上げてはいたんだが、こっちにいると、何それ?って感じで、何の話題にもなってない。松田聖子のときも同じで、ハリウッドに出たとか日本のメディアでは騒いでいたが、なに、おバカな買い物狂いのニホン人役で最初にちょこっと出てきただけでキャーキャー言ってる間に崩れてきたビルのせいで死んじゃった、とか、こっち版の、なんちゅうんでしたっけ、「ビデオシネマ」? そんな感じのしょぼい映画で喫茶店の外を掃除してる女の役とかで出てきて、なんじゃこりゃ、と思ったことがありました。藤原紀香と噂のあった加藤雅也なんか、ハリウッドで俳優活躍中とか書かれていたときに、こっちの深夜テレビで「レッドシューズ・ダイアリー」とかいうこれもそのVシネマっぽい半分エロのなまめかしシリーズをやってるのを見てたらなんと半裸で出てきて金髪女優と絡まってました。あらら、活躍ってこういうことなのねって感じですわ。

ハリウッドとかブロードウェイとかメジャーリーグとかNBAとか、本当に活躍して評価を受けているのはイチローと松井秀喜と野茂くらいのもんです。あとはみんな上げ底だね。

でも、おれ、イチローってこっちに来る前に主婦との不倫騒ぎがあって、そのときの、女なんかどうにでもできるって感じの不遜さがどうも記憶に残っていて、野球はすごいなあとは思うが好きになれないんだなあ、ああいう男。人間として、なんて常套句は使いたくないけど、生理的にダメなんだ。そういうこと言ってたら世界の一流になれない、っていう物言いもあるが、そんなの関係ないやね。そんなら一流人はみな不実、背信的かね。必要十分条件だ。

ああ、そうそう、今年の夏にリンカーンセンターの特設歌舞伎小屋でやった平成中村座の中村勘九郎は、あれはほんとうによかった。勘九郎の小さいときからのハードワークが、歴史というか、そういうものにも裏打ちされてきちんと具体化してるって思いました。

NYタイムズにしたってじつは、日本からのそういうお客さまに対しては一般的にお客さま扱いの丁寧な記事で対応しますよ。なんせ、自分の知らない文化を背負っているわけですから、いちおう謙虚さは示す。でも、ウソは書かない。あの平成中村座は、まさにタイムズもひれ伏してましたものね。なんといっても面白かったし、演出も凝っていた。しかし、日本のジャーナリズムの日本人活躍記事は、芸能・スポーツに関してはほとんどがウソだ。そう思っていたほうがいいかもしれません。

December 04, 2004

酷評

宮本亜門の「太平洋序曲」が時事では「NYタイムズも大絶賛」とかってなっていて、え? と思ってもういっかいタイムズを読んでみたんだけど、やっぱりどう読んでもこれは酷評です。時事の記者は最初の段落しか読んでないんだな。それで「絶賛」となったんだね。ところがその批評文はどんどん辛辣になっていって、最後にゃ、「断片断片をまとめあげ、ソンドハイムが喜ぶであろう筆舌に尽くしがたいハーモニーを作った瞬間はほんのわずかに過ぎない」と結んでいるのです。

で、時事はろくにタイムズの記事も読まずに

宮本亜門がブロードウェー征服」NYタイムズ大絶賛

 【ニューヨーク3日=時事】米紙ニューヨーク・タイムズは3日、ブロードウェーで始まった宮本亜門さん=写真=演出のミュージカル「太平洋序曲」について、「宮本亜門氏という日本人の演出家が米国、少なくともブロードウェーと呼ばれる小さいながらも華麗な街道を征服した」と絶賛した。
 同紙は、1976年に初演されたオリジナル作品と比較し、「西欧の帝国主義に対する外部者による冷静な視点を提供している」と解説。「宮本氏は、太平洋序曲のマジックを再び成功させる要素を持っている」と同氏の演出を評価した上で、「敬意の賛辞」を保証できる作品だと結論付けた。

でもって、共同通信は以下のように

亜門氏演出の「序曲」酷評 NYタイムズ紙

 【ニューヨーク3日共同】3日付の米紙ニューヨーク・タイムズは、日本人演出家としてブロードウェーに初進出した宮本亜門氏演出のミュージカル「太平洋序曲」を取り上げ、「太平洋を渡る飛行機で眠れず、時差ぼけに苦しむ人のような、かすんで混乱した」内容だと酷評した。
 同紙は、ステージ上には「自信喪失の危機」が漂っていると指摘。出演者が、優しく歌い愛想笑いを振りまいていても「わたしはここで何をしているのだろう」と自問しているかのように見える、と痛烈に批判。振り付けは「ぶざまに感じる」とこき下ろした。

まったく正反対の記事でしょ。
NYタイムズだけではなく、同じ日に配信されたAPの評も「太平洋で難破?」「粗雑」「不安定」「コミカルな部分ははずしっぱなしで犯罪的」とまでさんざん。昨年の日本語版では激賞されたのに、英語版でこうも違うのはどうしてなんでしょうね。

ジェンダーベンダーの要素もあると聞いていて、落ち着いたらこっそり見に行ってみようかなとも思っていたのですが、もういいっすわ。

しかし、なにより、なにが似合わないかって、宮本が自分のことを「オレ、オレ」とことさらに自称するのがひどく気持ち悪い。どーでもいいんですけど。

December 03, 2004

平井堅って

ニューアルバムのSENTIMENTALoversを聞いていたら、「鍵穴」でのけぞりました。
あまりにまんまで、もうちょっとひねればいいのに、とおもったけど、まあ、右曲がりってことでひねってるのかもね。

平井堅って、いろいろ縁があって、直接はまだ会ったことはないんだけど、彼のNYのアパートメントビルディングって私がいちばん初めに住んでいたところだったり、ビンビン話が入ってくる。まあ、どこまでほんとかは知らんが。

「鍵穴」でゆいいつ微妙なところは鍵穴を「新しい世界こじあけたい」「きみが隠してる鍵穴にジャックしたいな」と表現してるところでしょうか。女の子のカギ穴だったら、べつに「新しい世界」じゃないだろうし、「隠して」るわけじゃねえだろ、って感じの読みができる。でもまあ、まんまの解釈だからなあ、あんまり知的な重層性はないわけで。

平井堅の歌で面白いのは「even if」です。
あれ、カシスソーダとバーボンが出てきて、てっきり「ぼく」がバーボンを飲んでいて、終電で帰ってしまう「きみ」がカシスソーダを飲んでいると思ったら、最後の最後で、「残りのバーボンを飲み干して、時計の針を気にした」のは、「きみ」のほうなんです。逆なんですね。
これには、やられました。

そういうクイアリーディングができるのはあと、サザンの「恋のジャックナイフ」です。
これも、色濃くゲイです。桑田がこの曲を作った当時、やっぱりそういうLGBTへの応援歌を作ろうという時代の雰囲気があったんでしょうね。そういうものに、松任谷由実とか桑田とかはさすがに敏感なんだなあと思いました。

さて、例のジャーナリズムネットですが、またすこしメールが届いています。
うれしいことです。

そんな中、遅れていた今月のバディの原稿を昨日やっと出しました。
今回は、アメリカのジャーナリズムにおける最近のおかしな報道のありかたを取り上げました。

一つはマシュー・シェパード事件を先日、ABCの「20/20」が取り上げ直したその取材と報道の仕方についてです。「6年後の新事実」というその謳い文句のいい加減さについて書いています。
もう一つは同じく先日、ニューヨークタイムズが宮本亜門(こちらでいま「太平洋序曲」という彼による初の日本人演出ブロードウェイミュージカルが始まったところです)の人物紹介をやったその長文の記事の書き方のいやらしさについてです。

両方とも、なんともブッシュ再選以降のアメリカのジャーナリズムのろくでもなさを象徴するような報道でした。お読みくだされ

November 28, 2004

永易さん──「にじ」休刊にあたり

おそらく、海外事情を伝えられようと、日本の事情を伝えられようと、あるいは隣家の事情を伝えられようと、自分のリアリティをさえ遮断してしまっているときにはむしろ逆に「痛み」を感じないようにと、自分自身の内部ですら立ち回るのかもしれません。すべてはそうやって遮断されるのです。個人が世界と断絶しているのも、日本が世界と遮断されているという幻想も、みなそういうメカニズムなのでしょう。日本はLGBTだけではなく、社会そのものが巨大な身内のクローゼットのようです。

無反応の理由、というよりも、「無反応」のなりから抜け出さないでいる理由の根っこはわかっているのです。「にじ」に、無反応だったというのではなく、無反応のなりをしているのがいちばん楽だった、ということなのでしょう。カムアウトしないのがいちばん楽であると思うとき、私たちはリアリティを犠牲にせざるを得ない。そしてその犠牲をすらも楽だと思う擬勢が、次のウソを発明するのです。

私は、カムアウトは時と場合による、という謂いをじつは信じていません。処世としてはいろいろな方法もTPOもあるでしょう。しかし、それは時と場合にはよらず、結論として絶対にカムアウトなのです。そうして初めて批評の土壌に出ても行けると思っています。そうしてその場合、カムアウトはべつにセクシュアリティの固定化には関与しません。むしろおっしゃるサムソン高橋さんの変遷こそがカムアウトなのだ、という意味においてのカムアウト。身内のクローゼットからの大きなカムアウト。それは自己の問題だけではなく、他者を認識するという問題でもあるはずです。

「ほとんど反応はありませんでした」とお嘆きなさるな。
私たちはそこから始めたのではなかったか。そこ以下には引き下がりようもなく、また引き下がらぬとの意志的な思いにおいても。

あなたが「にじ」を始めたのは、そうする以外になかったあなたの誠実であり、あなたの切実でもあったと思います。「自分がゲイもの企画をやったり、『にじ』を自媒体で紹介して、「疑われる」のは困る」という人々は、しかし、そういうウソのほうを楽だと感じているのでしょう。ですが、あなたといちばん最初にお会いした14年前にはいなかった軽々とした若者たちが育っているのも確かです。

「当事者である書き手のがわの内面化されたホモフォビアをかえって刺激し,沈黙させるしかなかった」という事情は、日本の(あるいは東京のギョーカイの)事情を知らぬ私には論評しかねますが、私はホモフォビアともう一つ、もっと日常的な、ゲイネスですらクローゼットなりに急速に日常化してしまうような情報消費社会のかったるさが相手なのではないかと思っています。ちょうど、「なべてこの世は事もなし」と呟きつづけた大江健と、風呂に浸かりながらこの平和な日常に負けたのだと思った高橋和巳の呟きの表裏一体さのような。

LGBTのジャーナリストネットワークというのは、おっしゃるように、自分のネタを共有し合うようなものではないでしょう。書き手はつねに、その種の共同作業が苦手なものです。わたしが新聞社を辞めた理由も、じつは共同作業を監督責務とするようなポストになってしまうからでした。

書き手と編集者という共同はありますが。ご紹介したNLGJAもそういうことは行っていません。各自、自分の仕事は自分でやり、この場は若いジャーナリスト志望者へのセミナーやワークショップを行ったり、あるいは講演会を催したりといったことに使っているようです。さらには、LGBT関連の優れたジャーナリズムの業績の顕彰活動。また、LGBT報道への監視ですね。

もうひとつ例に挙げたAGPも多くのワークショップを行っているようです。AGPのように、LGBT関連のジャーナリズムに関するレクチャーやワークショップを開催するのも面白いと思います。ジャーナリズムに限らず、広くマスメディア一般にかんすることでも。

とにかく数を集めたい。そうして、本名は出せなくとも責任をもって、そのネットワークの名前で発言も行っていきたい(ジャーナリズムのネットワークとしては政治的にはニュートラル=不偏不党ではありますが)。

事務局作りとか、そういうロジスティックももちろん必要でしょうが、まずは参加者の数です。永易さん、あなたの目にかなうようなネットワークを作りたいと思います。その際にはぜひお力添えください。

引き続き、このネットワークのリストへお名前をお寄せください。
yuji_kitamaru@mac.com
です。

November 26, 2004

ハッピー・サンクスギビング

ぼせさん、KREATIVE35さん、前回のブログへのコメントありがとうございます。

おかげさまで、ぽつ・ぽつ・とではありますが反応のメールもいただいています。
メールをくださった方々もありがとうございます。

しかし、よく考えると、「プロのジャーナリストのみなさんへ」というのは正確ではなかったかもしれません。

プロのジャーナリストはもちろんのこと、プロのジャーナリストを目指す人も、あるいは情報・意見を責任をもって広めたい人も、さらにはLGBT以外のジャーナリストでLGBTに同伴したいと思っている人も、いろんな人への呼びかけでありたいと思います。ぼせさんのブログ(http://blog.livedoor.jp/bose_web/)から飛んできてわたしにメールをくださった方は報道の世界には直接関係はなくても、情報を発信することを通じてこのコミュニティーになにかを為したいとおっしゃっています。

まだまだ「ネットワーク」を構成するに至るには時間がかかるかもしれませんが、こういうのは歴史ですから、拙速は目指しません。具体的な構想もまだですけれど、いま私のアタマの中にあるのは、日本ではLGBTの医療・社会福祉関係者のネットワークであるAGP(http://homepage2.nifty.com/AGP/)の活動とか、ひいては米国のThe National Lesbian & Gay Journalists Association(The National http://www.nlgja.org/index.html)に匹敵するようなものへの発展です。

また段落ごとにご報告します。
気長にお見守りいただければ幸いです。

さ、今日はこちらはサンクスギビング。
友人宅にお呼ばれだったのですが、そこのオブンが壊れてしまって、急きょ我が家でパーティーをやることになりました。七面鳥を焼くのは久しぶりです。4年ぶりかな? 15kgあるので4時間はぶっ込んでないとダメですかね。

ではでは。

November 21, 2004

プロのジャーナリストの皆さんへ

バディの新しい号が届きました。
DVDも付いていて、これで1500円というのは安いかもしれませんね。レインボウマーチのクリップだけでなくちゃんとポルノも入っていて、きちんと買うとこういうのは日本じゃもっとするでしょうに。ふむ。メディアミックスというわけですか。企業努力でしょうね。

その中でいつも読んでいる伏見君のコラムで、コミックやフィクションの(当事者の)フリーの書き手は育ってきている,「大きく水準が上がってきている」、にもかからず、ノンフィクションが弱い、ということが載っていました。

まさにそのとおりなのです。
わたしもその分野にいるのでわかるのですが、その理由は、おそらく伏見君もノンフィクション、というかルポルタージュにトライしたことがあるからわかっていると思うのですが、あれはカネがかかるのです。おそらく、ひとえにそれが理由です。

小説とかコミックは、あれは1人でできる作業です(違う人もいますが、基本的に、ということで)。夜、ひとりで書くことができる。
しかし、ルポルタージュは、昼に作業をしなくてはならない。いろんな人に会って、その人の時間をもらい、そうして、信頼をも勝ち取って、さらにそれがどういうように形になって世に出るのかということまでを折伏して、そうして初めて作業を進めることができる。これは大変な労力です。インタビューをただまとめるのとはまたちがう。生活のほとんどをかけなくてはできないのです。

そうやって時間と労力と、つまりはひいてはお金とをつぎ込んで、しかも、ジャーナリズムの訓練もきびしく積んでいなくてはならない、という場合、これは、個人の努力ではなかなか難しい。小説を書くのとは次元が違うのです。もちろん、フィクションとノンフィクションの、どっちの次元がすごいというものではなく、たんに物理的に違うのです。それがいまのマーケットで、コストパフォーマンスからいってどちらが有利なのか、という、たんにその違いなのではないか、と思うのです。小説は、自分の経験からいっても、気が楽なんだ(精神の消耗の仕方が違うという意味で)。

伏見君は産經新聞の宮田くんのことを引き合いに出していますが、ぶっちゃけた話、エイズ関連でずっと彼が第一線でやってこれたのも、あれは産經新聞に勤めていたからです(宮ちゃん、言わせてね)。彼も何度もフリーになろうとした。しかし、それはできなかった。フリーになってエイズのことだけを追っていては食っていけないし、そればかりかエイズの記事を載せてくれる媒体すら見つからない、という現実があります。だからこそ彼は産經新聞内で頑張ってくれているのです。

それは、社会の問題です。つまりは、マーケットの問題です。ノンフィクション分野の成育ほど、社会の様相を反映しているものはないのではないかとおもいます。ジャーナリズムの国、アメリカですら、LGBT関連のノンフィクションは、ジャーナリズムは、他の分野に遅れて最後に形成されたのです。

ではどうすれば育つのか。
それは、フリーランスではかなり難しい。
そのフリーランスの土壌を開くためにも、もうそろそろ、メディア内部のGLBTをまとめあげる時なのかもしれません。ずっと考えていたことなんですが。
いや、なにをすべきというのではなく、まずはニュースレターなどを回して、緩やかなネットワークを形成する。さてさらにそのあとに、どうするか。

いまアメリカのLGBTのニュースメディアは、ジャーナリズムのプロの集合体であるブロッグ形式でのニュース投稿をやりはじめています。この大統領選挙の前後では特にブロッグへの移行が目立ちました。

ただしネットの落とし穴は、みんなが発信者になってしまって、どれが信頼のおける情報なのかわからなくなっているということです。デマですら体裁の良いニュース記事の顔を装うことができる。ブロッグでもそうです。

そういうときに、プロのメディアの連中がメンバーとして自分なりにニュースソースを咀嚼して責任をもってブロッグ投稿する、そういう掲示板的なサイトが必要かもしれません。
そこから何が生まれるかは、わかりません。
でも、何かが生まれるかもしれない。
さて、それをそろそろやってみましょうか?

これを読んで下さっているプロのジャーナリストの皆さん、フリーランス、あるいは企業内記者の方、自分の仕事の空いている時間に、LGBT関連のニュースを自分の取材範囲の中から取り上げ、どこかに発表・投稿したいと思っている方々、わたしまでまずはメールでご連絡いただけませんか。

そういう方が、10人、あるいは20人くらいになったら、そういうプロのジャーナリズムのブロッグ板を立ち上げるというのはどうでしょう。

私も忙しいですが、どうにか事務局を立ち上げたいと思います。
参加してもよいとおっしゃる方、わたしまでメールで連絡ください。
まずは参加者のリストを作ってみます。とりあえずはネットワークです。
わたしのメールは
yuji_kitamaru@mac.com

ここに、ご自身の名前(本名の他、ハンドルでも,あるいは両方でももちろん結構です)、所属報道機関名、またそこでの経歴、経験年数(ご年齢でも結構)、あるいはフリーランスならばどういう分野でどういうお仕事をなさって来たかということ、ご住所,電話番号、メールアドレス、さらにはどういう分野でのLGBT関連の報道に興味があるかということ、あるいはご要望、ご意見などを添えて、メールいただけませんか?

ネットワーク内でも、情報は開示してよいもの以外は開示いたしません(わたしだけが知っているということになりますが)。

さて、この提案は、どこまで届くでしょうか。
ご検討ください。

北丸雄二拝

October 20, 2004

“経験”ってねえ……

まあ、いちいちコメントすべきことでもないんだろうけどさ。
スポニチの記事だって、これ。
****
オダギリ“経験”生かして演技

 オダギリジョー(28)、柴咲コウ(23)主演の映画「メゾン・ド・ヒミコ」(監督犬童一心)の製作発表が19日、都内のホテルで行われた。

 フィリピンに実在するゲイ専門の老人ホームに着想を得たオリジナルストーリー。米留学時代のルームメートがゲイだったというオダギリは「すごいショックでしたが、タブーを乗り越える何か、普通の生活では感じ得ないものに興味はあった」と、初挑戦の役どころに“経験値”で勝負する構え。ホームの住人役で本物のゲイも出演しており、柴咲は「話し方やしぐさがきれいで、“負けた”と思いました」と苦笑い。来年公開予定。
(スポーツニッポン) - 10月20日

****

バカじゃないの、このコメント? スポニチの記者の引用間違いじゃないなら、何言ってるか、意味通じないが、何を言いたいんだろ? 柴咲も「負けた」で笑い取る時代じゃないだろがねえ。これ、原稿自体がアナクロなんだなあ。「本物のゲイ」って、あはは、力抜けちゃう。「経験値で勝負する」って何なんかしら?
***
って思ってたら、やっぱ、他のスポーツ紙もみんな同じような書き方でござんした。オダギリジョーの発言もぜんぜんニュアンスが各紙でまちまち。そのへんのことを意識しないで発言しちゃうと、こんなふうにバイアスがかかるわけです。ま、みなさん、頭っからそういう文脈なんでしょね。

いちいち目くじら立てるほどじゃあないのかねえ。もともと、ジャーナリズムじゃないんだもん。スポーツ紙の芸能部って、ほんと、業界癒着の最たるもんだから。音楽担当なんて、レコード会社から送られてくるサンプルCDを自分のうちに持って帰って、貯まりに貯まったそのCDの重みで二階の床が抜けたってひとを私、知っております。太鼓持ち、提灯記事。たしかに芸能欄ってのはそういう輩の書くような記事の吹きだまりです。

July 28, 2004

締めくくらねば

<人権救済>バングラ国籍男性が日弁連に申し立て

 不法就労などの捜査で国際テロ組織・アルカイダとの関係を疑われ、被害を受けたとして、バングラデシュ国籍の携帯電話販売会社「リョウインターナショナル」社長、イスラム・モハメッド・ヒム氏(33)が27日、日本弁護士会連合会に人権救済を申し立てた。

 ヒム社長は今年5月〜6月、不法滞在の弟らを会社で働かせたなどとして、入管法違反(不法就労助長)などで神奈川県警と警視庁に逮捕され、罰金30万円の略式命令を受けた。

 計43日間拘置された捜査では、国内に一時潜伏していたアルカイダ中堅幹部とされるリオネル・デュモン容疑者(昨年12月、ドイツで逮捕)と数回通話したことがあり、関係を追及されたうえ、関係があるかのように報道された。しかし、デュモン容疑者がアルカイダ中堅幹部とされることを知らずに商取引の話をしただけと判明した。

 会見したヒム社長は「全世界にウソが流された結果、仕事を打ち切られ、銀行送金もできない。破壊された生活を回復させてほしい」と訴えた。弁護人は「当局は、不当な情報を報道機関にリークした」と批判した。【坂本高志】(毎日新聞)[7月27日21時7分更新]

******

ここで5月26日付、6月18日付けで触れたので、締めくくりを書かねばなりません。例の「別件逮捕」と「おどろおどろ報道」は上記の結果になりました。「嫌疑不十分でまさに微罪での略式起訴、釈放、罰金、国外追放で終わりかもしれません。で、アルカイダ? という「誤報」の汚名は晴らされることなく、日本人の記憶にシミとして残るのです。」と書きましたが、まさに略式起訴、罰金30万円。国外退去処分はないようですが、日本での仕事が立ち行かなくなれば、結果的に日本を去るしかない。同じことです。かわいそうに。

逮捕したのは警視庁公安部外事三課です。外国のスパイ事件を担当するところ。

公安記者というのは自分ではほとんど情報を取れない。スパイとか過激派が相手なもんで、捜査対象だって新聞記者に与える情報はどこまで恣意的か知れたもんじゃないですからね。で勢い、警察情報に頼るしかなくなる。その警察も公安という特殊な組織で、こりゃもう超法規的な活動をするわけです。人権とか関係ないから法律が通じないの。だって、「公共の安全=公安」というのは、国民全体の安全を図るために個々人の自由は一定程度規制してよい、あるいは規制せざるを得ない、というコンセプトの下で成り立っているわけですからね。

でも、そこで問題なのはやはり報道する側ですよ。

このヒムさんの記事が上がってきたときに、ちゃんとしたデスクならぜったい「おい、この話、スジはいいのか?」って執筆記者に聞いてるはずです。その一方で「アルカイダ」という“旬”なキーワードが入っている原稿だ、どうにかでかく派手にやって世論を喚起しようとかあるいは見栄えのよい紙面に使用とかいう欲も働いている。どうせ立件がつぶれても、警察情報ですから裁判になっても「報道すべき真実と信じるに足る根拠があった」ということで言い逃れできる、とも思うでしょう。

でもね、公安情報というのは「報道すべき真実と信じるに足る根拠」がないことは、歴代の公安記者の経験から明らかなわけで、だからこそプロのジャーナリスト、あるいは報道者としての判断が必要なわけです。

しかも、警察というのは自分が行った捜査を上層部に評価してもらうには、新聞記事しかないわけ。つまり、いかに新聞で大きく取り上げられたか、その大きく取り上げた事犯をやったのだ、ということを報告するために、事件摘発後にはせっせせっせと自分のやった事件の新聞記事を切り抜きしてぜんぶそろえてレイアウトよく紙に糊で貼って、そんで上司に報告して褒賞の対象にする、ということをやってるわけ。だもの、記者へのリークだって大言壮語になってしまうのは当然でしょう。おまけに裏の取れない公安情報だったらなおさらのこと、新聞記事を手玉に取ることなど簡単です。

で、結果として公安記事というのは、ほとんどが竜頭蛇尾、大山鳴動ネズミ一匹。あとにはなにも悪いことをしていないのに傷つき疲れた個人が残される、というわけです。

ヒムさんのケースは、それこそ絵に描いたような典型的なものです。
前にも書いたが、フジテレビのニュースはほんとうにひどい。安藤さんも木村さんも、よく続けているなあと思いますね。まあ、ものすごい金をもらっているフリーランスのアンカーパースンとしては、その仕事を手放せば次の仕事が確保されていない限り路頭に迷うわけだから、というか、あの人たちは引く手数多で迷うことはないだろうけど、局の方針を変えるのに貢献するほどまでには金も権限ももらっていないということなんでしょうね。

June 18, 2004

ゲイゲイ月間

6月はご存じのとおりアメリカはゲイ月間で、テレビでは連日、いちいちタイトルなんかおぼえてられないほどものすごい数のゲイ関連の映画やドキュメンタリーを放送しています。一昨日は橋口さんの「ハッシュ」も字幕でやっていました。こちらでは「料理の鉄人」の中のとてもよく笑うコメンテーターとしてのみ広く知られていた秋野暢子が、あんなふうなちゃんとした女優なんだと知ってみんな驚いてましたね。

ほかにはイスラエルの若い男娼たちのドキュメンタリーとか、オーソドックス・ジューと言われる正統派ユダヤ教徒のゲイのドキュメンタリーとか、ゲイポルノ男優をしてるストレート男に恋しちゃったゲイの男の物語とか、メジャー、マイナーひっくるめ、おそらくいろんな映画祭で好評を博した映画なんでしょうね、そういうのが目白押しで、なかなか見応えがあって深夜の、本来は仕事をしているべき時間帯についついテレビを見てしまうといった困ったことにもなっています。もうこれは、ゲイとかゲイでないとか、そういうのとはあまり関係ない、いまの世界に関する映画群なんですね。日本でもこういうふうにごそっと見られる機会があるといいのにねえ。BSとかCSのコンテンツ、不足してるんでしょうから、ぽつりぽつりとはいずれリリースされるかもしれませんけど。アメリカでは来春からゲイ専門チャンネルも始まりますが、コンテンツの心配はないみたいですな。

まあ、べつになんという話でもないですが。

【追記】そういえばひと月ほど前に書いた例のアルカイダ関連の日本での逮捕劇、つぎのようなクリップを見つけました。やっぱり「大山鳴動ネズミ一匹も出ず」みたいで、アルカイダなんかとはまったく関係ない「違法行為を隠す目的で虚偽の会社登記をしていた」という最初の逮捕容疑自体もでたらめで、フルに勾留延長をつけた上で釈放されてたんだ。だがでもしかし、なんと再逮捕なのね。まったく、今度の逮捕容疑も難くせに近い。いったい、何を調べたいんでしょう、警視庁公安は。これ以上何も出てこないってわかってるくせに。ヒムさん、どうみても筋がいいとは思えぬもん。かわいそうにねえ。

ヒム容疑者を再逮捕 入管難民法違反、弟ら経営会社で働かす

 国際テロ組織アルカーイダ傘下組織幹部の日本潜伏事件で、警視庁公安部は十六日、入管難民法違反(不法就労助長)の疑いで、電話機器販売会社「リョウインターナショナル」経営、イスラム・モハメッド・ヒム容疑者(三三)=バングラデシュ国籍=を再逮捕した。
 公安部はヒム容疑者とアルカーイダなどのイスラム過激派テロ組織との関係についても追及する。
 調べでは、ヒム容疑者は密入国した弟のファイシャル・アフメド被告(二六)=入管難民法違反罪で起訴=ら不法滞在中のバングラデシュ人二人を事務員として同社で働かせていた疑い。
 ヒム容疑者は虚偽の会社登記をしたとして先月二十六日、電磁的公正証書原本不実記録容疑で神奈川県警に逮捕されていたが、横浜地検は十六日、「違法行為を隠す目的で虚偽の会社登記をしていたことなどの裏付けが得られなかった」として、処分保留のまま釈放した。

May 26, 2004

アルカイダなの?

アルカイダの関連グループのメンバーとされるリオネル・デュモンがドイツで逮捕されたせいで日本で接触のあった外国人が逮捕されましたね。しかし、こういう公安事件というのは訴追の手順がとてもひどいことが多くて、わたしも実は若いころ警視庁の公安担当記者を2年ほどやっていたんですが、普通は逮捕しないよなあということを、公安警察だと逮捕できちゃうんです。というか逮捕しちゃうんだな。そうして未決勾留をぼんぼんつけて、裁判なんか関係なしにずっと拘束しておく。アメリカのグアンタナモみたいな、あるいはイラクのアルグレイブみたいなことをやってるわけです。考えたら怖いよな、これは。

今回も逮捕された人たちを見ると、バングラデシュ国籍の中古車販売会社の社長さんとか、ほとんど逮捕容疑はいちゃもんですね。まあ、不法入国した人もいるけど、こういうのはみんないわゆる「別件逮捕」。新聞ももう別件逮捕に異議を挟まなくなってしまいました。そういうもんだって、玄人になっちゃって、疑念を持たなくなっちゃってるんですね。困ったことです。

取材したわけじゃないから本当にこの逮捕の五人がアルカイダとつながっていないのかどうかわかりませんが、なんだか単にデュモンのネットワークの解明だけのために逮捕された感もしないではありません。中古車とか売りさばいて金を稼いでいた。それをアルカイダの資金に流した。でも、これって、それ自体は犯罪じゃないでしょう。アルカイダの資金に流したというところが外為法かなんかに引っかかる可能性はあるかもしれませんが、それにしても逮捕容疑にはなくて、新聞は“玄人”っぽく見出しで先読みをしてみせるが、ほんとうはそれはジャーナリズムじゃないし、ひょっとしたら嫌疑不十分でまさに微罪での略式起訴、釈放、罰金、国外追放で終わりかもしれません。で、アルカイダ? という「誤報」の汚名は晴らされることなく、日本人の記憶にシミとして残るのです。

なんかそこまで見えると、ネットで逮捕の模様の映像を見ていてこの五人、かわいそうな気がします。とくに、フジTVのニュースって、どうしてあんなにナレーションがおどろおどろしいんだろう。声優なんか雇っちゃダメだよねえ、ニュースに。本当にアルカイダとつながっているならば、それが立証され判明した時点で調査報道すればよいのです。おどろおどろしくする必要はまったくない。

そうそう、それと蓮池さん、地村さんの帰国家族の報道も、フジテレビだけじゃないかもしれないけど、スーパーで何を買っただのこれと同じものだの、と、すごい踏み込むのね。踏み込むって、どこに踏み込むのかっていうと、彼らの生活にです。彼らの家にずかずかと入り込んでいくのと同じなのです。こういうの、やめることはできないのかしら。

これって何かというと、身内志向なんだなあって思います。みんな身内になりたがっているような、だからずかずか入り込んでもだいじょうぶなんだっていう、でも、それは奢りです。

プライバシーとかいう横文字の問題ではなくて、東アジア型の社会ってこういう「身内かよそ者か」という二つしかないのかもなあ。アルカイダつながりのあの五人はもちろん「よそ者」。だから何を書いてもいいんだ。
あとじつはもう一つあって、それは「お客さま」という領域ね。他人にはこの「よそ者かお客さまか」しかない。そしてこの二つはなんの根拠もなくとつぜん入れ替わったりするから気が抜けない。

ところで拉致被害者家族会に、小泉首相を「あなたにはプライドがあるのか」って詰問したことなどに関して批判が殺到しているそうな。例のイラクの拉致人質事件と似た「バッシング」のメールや電話ですね。わたしも蓮池さんのお兄ちゃんには「この人、だれ?」って思うことはあるけど、それにしても批判の優先順位としてははるかに低い。ましてやあの「プライド」発言なんかは、逆にああ言わざるを得ない残された家族会の精一杯の、弱者としての意思が込められていて、そういうもんだろうなあとしか思えませんでした。

にもかかわらずすぐこうして、たとえ弱い者でも「分を越えた物言いは許さない」といったいじめに流れる世論がある。もうひとつ、これは身内から身内への叱責の仕方にも似ているなあとも気づきました。一個の別人格としての他人への批判というより、そういう人格を無視しての身内的な頭ごなしの一喝という感じがします。なんだか、ひどくさもしくあさましく、卑しくつまらない人びとがたくさんいるのか、と。

この、バッシングの欲望というか、ネガティブな悪意というか、そういうのが日本社会に渦巻いているのでしょうか。もしそうだとすると、それはそのままでよいのでしょうか。decent, decentって書き連ねる大江健三郎がここ最近、なんだかずっと厭われているようなのもこの社会だからなのかもね。

ついでに言ってしまえば、あの雅子さんの人格否定発言をした皇太子に関しても、なんか、まあタブーですから表面には出ていないでしょうが、そういうふうにバッシングしたい向きがたくさん潜んでいるような気がします。
これ、いつか吹き出すんじゃないでしょうか。
皇室って、ヒロヒト亡き後、じつはいまの保守反動右翼勢力にとっては、目の上のたんこぶみたいな存在になっているんですよ。じつに逆説的に、いまの皇室ほど平和憲法を体現して平和志向である存在はないんですもの。しかも雅子さんの「基本的人権」だ。

January 18, 2004

もう正月下旬っすね、ごめん

新年の挨拶もしないまま、すでに中旬を超えんとして、この間、ニューヨークは連日マイナス15度以下の厳寒が続いておりました。
ぼくのね、ボーイフレンドが日本に帰っちまうのさ。ビザの関係で。そんでもって、しばらく心機能停止にして、日々を送っているのである。いやさ、つらいわな。まあね、単身赴任と思えばいいんだけどね。ぐすん。

とはいえ、さてさて、2004年一発目のブルシットは毎日新聞大阪社会部のエイズ企画「告知されて」だす。こんど、毎日とお仕事することになるかもしれないんでちょっと迷ったが(ウソ)、どかんと問題点をつきましょう。というか、連載はもう去年の12月に始まってたんだけど、気づかなかったの。でもまあ問題は問題、ということで、また、はい。

*****連載初回の記事っす******

見出しは「道子さん、幸せ一転」

 「HIVは不特定多数の人との性行為で感染する。そんな誤りを載せるのはやめてください」
 エイズウイルス(HIV)感染者の取材を始めてしばらくたったころ、投書してきた30代の女性に会うことができた。「援助交際」「風俗」「同性愛」……。HIVやエイズを、こんな言葉でくくっていた記者の考えを女性は否定した。

 何気なく見ていたテレビに、骨髄バンクのCMが流れた。傍らでは生まれて間もない子どもが寝息を立てている。
 「この子のおかげですべてが変わった。生まれながらに病気がちの子どもを持つ親はどんな気持ちなのか。自分に出来ることってなんだろう」
 幸せの絶頂にいた道子さん(仮名)はそう思い、骨髄バンクへ登録に行った。同じ日、軽い気持ちで血液検査を受けた。呼び出しの電話は、3日後だった。医師は「HIVに感染しています」と切り出し、専門病院の紹介状を手渡した。
 「まさか」「どういうこと?」「何かの間違いじゃない」。胸の鼓動は高鳴り、それからの記憶は途切れた。エイズという病名は、もちろん知っていたが、ごく限られた人の病気というイメージしかなかった。自分とエイズが、どうしても結びつかなかった。
 映画でもテレビドラマでも、感染者は死んでいく。死の恐怖と絶望感だけが押し寄せてきた。紹介された病院の待合室でも涙があふれた。
 夫と知り合ったのは3年前。年下で、明るく背の高いスポーツマン。快活でおおらかなところにひかれた。結婚生活は絵に描いたように幸せだった。子どもが生まれ乳首に吸い付かれた時、この子のために生きているという幸せを感じた。その直後の告知だった。
 普通分娩(ぶんべん)で血まみれになって生まれてきたわが子。母乳が顔いっぱいにかかったこともある。高熱が出て慌てたこともあった。
 幸せを思い出すたびに逆に胸が締め付けられ、母である自分を責めた。「どうぞ、子どもに感染していませんように」。神様にすがりつきたい気持ちだった。感染の心当たりは一人しかいない。
 「もしも子どもに感染していたら……絶対許さない」。あれほど愛し、信頼していた夫だった。

*************************以上です。

なんか、あたしゃとても違和感を感じましたが、どうですか?
どうしてなのか。少し難しいことを書くけど、まあ付き合ってね。

第2段落で記者はこう書いてるわけ。

「援助交際」「風俗」「同性愛」……。HIVやエイズを、こんな言葉でくくっていた記者の考えを女性は否定した。

女性の否定の言葉は冒頭にありますね。

「HIVは不特定多数の人との性行為で感染する。そんな誤りを載せるのはやめてください」

このふたつの文章から、この記事はまず、「記者」の偏見を浮かび上がらせます。
その偏見とは「HIVは不特定多数の人との性行為で感染する」というものですね。これはたしかに「誤り」です。

ただし、ここで言外に非難されているものがあるの。それは何か。
「不特定多数の人との性行為」っす。そうしてその例として「「援助交際」「風俗」「同性愛」……。」という名称が与えられます。冒頭の女性の言葉は、この「記者の考え」を否定しているのですが、しかし、ここで描かれているのは「「援助交際」「風俗」「同性愛」……。」に対する偏見がいけない、ということではありません。それはそのままにして、つまり、「そういう、不特定多数との性行為をする“自業自得の人たち”以外にも、感染することがあるのです」ということを示しているのです。

エイズの啓発活動では、まず、感染者を感染経路で区別しない、というのが大前提となっています。そうでなければ感染予防の訴えはすべての人には届かないし、抗体検査を受けましょうという呼びかけも、感染者差別を前提にしていると受け取られてしまうから。そんな呼びかけに、誰が応えるかいな。そもそも、それがいちばん知られたくないことなんだからさ。

しかも、これもほんとよくあることで、しかもよく見逃しがちなんだけど、「援助交際」「風俗」「同性愛」を一括りにしているってのがだめなのね。

なぜなら「援助交際」「風俗」は売春という社会的・法的に問題のある行為なんだけど、「同性愛」は違うでしょ。これ自体は「問題」ではないもんね。違法でもない(アメリカのソドミー法の違憲判決はこういうところで効くのだ)。同性愛の中での「問題」をあえて挙げなさいと問えば、たしかにおそらく「不特定多数との性行為」ということを挙げる人がいるかもしれん。だがしかし、その「不特定多数との性行為」は「異性愛」であっても「問題」なのであって、同性愛だから「不特定多数との性行為」が問題なのではありませんことよ。そして、同性愛者であってもその種の性行為をしないひとも多数存在する。すると、これは「同性愛」のそもそもの属性ではないということになる。そして、ここが肝心なのですが、「同性愛」は不特定多数との性行為をしがちだ、と直接にも間接的にも記述することが、新たな誤解と新たな差別・偏見を生むことにつながってしまうのですね。しかも、当の同性愛者たち自身さえもが、情報の行き届かないクローゼットの社会ではその誤解と偏見に自らはまっていくかもしれない。これも大きいのよ。

もう一度書きましょ。「「援助交際」「風俗」「同性愛」……。HIVやエイズを、こんな言葉でくくっていた記者の考えを女性は否定した。」という記述はしかし、この「考え」を否定してはいながら、この三つを同列に扱うこと自体を誤りだとは言っていない。つまり、「そのこと自体は正しいながら、別の経路もあり得るのだ」ということを言っているのにすぎない、ということなのです。おわかり? これが違和感の正体だったのよ。

日本とアメリカは事情が確かに違うもんね。でもさ、「不特定多数の人と性行為をしなくてもHIVに感染することがある」ということを記事で知らしめるために、別の誰か(社会的グループ、しかも弱者である性的少数者)を足蹴にして啓蒙するような記述は誤りなの。一つの足蹴は、次の足蹴をも内包しています。そういうタイプの思考方法なのです。違う書き方を、つまりは、違う考え方を探るべきなのです。エイズへのそもそもの偏見を見極めるには、その手前にある様々な偏見に対しても敏感でなければなりません。それを模索せずに安易な書き方をして、「同性愛」者たちを不心得者のようにして例示するのは、エイズへの戦いで常に第一線を担ってきた同性愛者たちへの、大変な不敬ってなもんよ。そんなことをしても書かねばならないエイズ記事など存在しないわ。

この「告知されて」は、初回から書き方を間違いました。エイズ問題は、現在の人権問題に対する深い理解と共感がなくては書けません。これはおそらくは若い筆者の責任であるというより、デスクの監督不行き届きでしょうね。悲しいことです。だから、ということでもないでしょうけど、この連載、安易なドラマタイズばかりで、なにかいっこうに共感が湧かんのですわ。

エイズ記事、最近、少ないから書かれないよりはマシだわっていう意見もあろうけど、でもね、新聞を作る側としては、売り物なんだからね、書くならちゃんと書かねばプロじゃねえわなあ、とまあ、こんなふうに思ってしまうわけで。はい。

ほんじゃまた。

December 09, 2003

お笑い種

ブルシットのネタに困ったときは産経抄だね。
昨日のはまたまた開いた口が閉まらなかった。

ちょっといいかな、全文引用

***
 「え、日本とアメリカが戦争したことがあったの? それでどっちが勝ったの?」と聞く子がいるといわれたことがある。とんでもない話、困った話の例として挙げられたが、十二月八日はその日米開戦の日。その日から六十二年がたった。▼日本が大東亜戦争に駆り立てられた動機ははたして「侵略」にあったのか。明治維新によって近代国家になった日本にとって、ロシアの南下政策は大きな脅威であり、アジアへ進出した西欧列強も日本をおびやかした。しかし「列強に伍して自国を守ろうとした」という主張は東京裁判で封じられた。▼ところが日本占領の元帥マッカーサーは一九五〇(昭和二十五)年十月、大統領トルーマンとのウェーク島会談で「東京裁判は誤りだ」と告白したという。翌五一年五月の米議会聴聞会で次の証言も、近年注目されている。▼「原料の供給を断ち切られたら、一千万人から一千二百万人の失業者が日本で発生するだろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」▼マッカーサーは日本は自衛戦争をしたと述べたのだが、そういう日本の「戦争責任」がいまもしばしば論じられている。執拗(しつよう)に責任を追及するものがいる。しかしもし戦争を起こした側に責任があるとすれば、戦争を起こさせた側にもそれがあるはずである。▼イラク戦争を見ればはっきりするだろう。先制攻撃をしたのはアメリカだが、ではその単独行動主義の戦争責任だけが責められるのか。サダム・フセイン政権のクルド人虐殺やテロ支援や独裁や専制に問題はないのか。戦争責任をいうなら戦争を起こさせた側にもあるというべきだろう。

****

ね〜、すごいっしょー。
ふつう、書いてて気づくよねえ、あ、やべっ、とかさ。
「戦争を起こさせた方にも責任がある」って、これ、禁句でしょ?

だって、そうなるとフセイン政権のクウェート先制攻撃も認めざるを得なくなる。
それどころか、世界貿易センターを破壊させたきっかけを作ったアメリカも悪い、ということになる。
それどころか、フセインに武器を貯めさせるようなことをしたアメリカも悪い、って、そういうこと、言いたいわけではなかったのでしょうが、あの産経抄だけ書き続けて30数年のI御大は。

こういうの、いじめ問題でもそうだよね。
「いじめは、いじめる側だけではなく、いじめられる側にも、いじめを起こす何かがあったのだから、それは悪い」ってのと似てるでしょ。これって、戦争とはメカニズムが違うけどある部分でじつに極めて産経抄的に同じでね、産経抄のこのおっさんがいじめに関してどんなことを書いてるか検証してもいませんが、きっと、こういうこと、言ってると思うよ。きっとじゃなく、絶対に言ってるね、こいつは。

この人、前のジェンダーフリーの時もそうだったけど、ほんとうにバカなんだと思います。
産経東京本社も、確信犯というより、ここまでくると無慈悲だね。
かわいそうだと思わないのかしら、こういう人を堂々と一面で晒し者にして。

それとも、何? あれ、わざと逆説を暗示してるの? 身を捨ててのすごいシニシズム?
へっ、まさか、そんな高度な芸当、できるわけ、ねえよなあ。
ね〜?

August 28, 2003

再び産経抄

本日また、あまりの反響の多さからか(これって、みなさんのおかげですよね)、産経抄子が次のようなブルシットを書いておったです。

****************
十八日付小欄で「ジェンダーフリー(性差解消)というばかげた風潮」について書いたところ、たくさんの反響をいただいた。それには感謝いたしますが、不思議なことがある。これは十八日付コラムなのに、二十四日を過ぎてから一斉にメールが殺到した。

 ▼察するに何かの組織や団体があって、「けしからんコラムがある。やっつけよ」という指示が出たのかもしれない。日常の読者ではないようである。まじめなご意見には耳を傾けたが、多くは「だれが書いているのか」「お前は馬鹿だ」といった悪口雑言Wだった。

 ▼小欄は“はっきりものをいうコラム”を目指しているが、このメール攻勢には自分と少しでも異なる論は封じてしまう圧力、あるいは恫喝(どうかつ)のようなものが感じられた。いつかの特定歴史教科書の不採択を要求するファクス攻撃と似ているかもしれない。

****************
「察するに何かの組織や団体があって」

これはおそらく団体でも組織でもありません。
草の根の同性愛者たちが、あるいは性同一性障害者たちが、次から次へと知り合いにメールを送って、つまりは「これってちょっとおかしくない? どうやったら反論できるの?」とさまざまに声を掛け合って産経新聞社に送り届けた抗議のメールです。
なぜそうだとわかるのかというと、わたしのところにも、別々の人から、5通ものメールが、べつべつの意見を書いて、べつべつに怒りかつ悲しんで、どうすればよいのかと問い合わせてきたからです。

産経抄子は、この国で、組織も団体も持てずに、隠れざるを得ない人々がいまだいることを想像できないのです。かれらはネットを通じてのみ他者を知っている。いや、それは誇張に過ぎるかもしれません。都会のLGBT(性的少数者)たちはすでにもっとおおっぴらになりましたから。しかし、田舎にはその百倍の人々が隠れています。その彼らを代弁するためにも、一人一人が産経にメールを送った、それが正確なところでしょう。

次の段で抄子はこう書きます
*******
▼ついでながらメールという機能には、人が感情を爆発させる何かがあるらしい。「ハンドルを握ると人が変わる」などというが、メールに向かうとやはり人が変わるという。手紙では決してそういうことにはならない不思議な作用が働くようなのである。
*******
このいかりは、決してメールだから筆が走ったのではない。
彼らは真に怒り、真に憤っていた。
産経抄子はメールのせいにしていますが、それは彼のふたたびの誤謬です。
かれらは「自分と少しでも異なる論は封じてしまう圧力、あるいは恫喝(どうかつ)のようなものが感じられた」からこそ、その産経抄子の論理に怒った。それは、論を封じ込まれても生き延びられる産経抄子とは違い、彼ら一人一人の、命の問題ですから。

最後の段を引用します。
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▼批判の多くに小欄が同性愛を否定しているとあったが、よく読んでいただきたい。けっして否定なぞしていない、それを「過剰に強調」する風潮を戒めているのである。過激なフェミニズムには反対する。何度でも繰り返して書くが、「行き過ぎたジェンダーフリーは国を危うくさせる」。

そうでしょうか。
彼は18日付でこう書いています。
「そういう人たちは両性具有とか同性愛を過剰に強調し、男女間の性愛と同列に扱う。男女間の性愛をことさらに「異性間情愛」と呼んだりしている。こうなるとなにが正常なのか」

これはつまり、「同性愛は異常である」と言っていることです。異常なことを、否定しているのではないか、自分たちは否定されているのではないか、そう思っても、当然な書き方ではないでしょうか。「よく読ん」だら、そういうことだ。それ以外のどんな読解が可能でしょう。

「行き過ぎたジェンダーフリーは国を危うくさせる」。それはそうです。行き過ぎたものにはすべて、害があるでしょう。それはしかしジェンダーフリーのせいではない。それは「行き過ぎ」のせいです。

そういうことをわからないから、産経抄子は「バカだ」と悪口雑言をいわれるのではありません。
そういうことをわからないまま、人を傷つけるから「バカだ」なのです。

ほらまた予定調和的に、この書き物は「バカだ」で終わります。
ふむ。

August 21, 2003

ジェンダーフリー

産経抄っていう、産経新聞の天声人語みたいなコラムが18日付でつぎのような文章を載せましたんねん。

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  ジェンダーフリー(性差解消)という名のばかげた風潮は、とどまるところを知らない。東京の港区が男女共同参画政策の一つとして区の刊行物八千部を全職員に配った。その刊行物で「ちょっと待った! そのイラスト」と、いろいろ注文をつけていたという。

 ▼たとえば保育園の送り迎えの風景で、女性だけが描かれているイラストは「固定観念にとらわれている」からダメ。父親もカバンを持って登園する絵にされた。また女性の晴れ着だけの成人式風景は男性を加えたものに改められた。

 ▼先日、同じ東京の大田区で「変わりゆく社会と女男」「女男が自分らしく働く環境」などと表記した運動のことを書いた。日教組が「男女混合名簿」という名称を「女男混合名簿」と変えよと提唱したこともある。男女はいけない、女男ならよろしい…と。

 ▼そういう人たちは両性具有とか同性愛を過剰に強調し、男女間の性愛と同列に扱う。男女間の性愛をことさらに「異性間情愛」と呼んだりしている。こうなるとなにが正常なのか、判断する常識を人びとから、とくに子供から奪っていくことになる。

 ▼先に“ばかげた風潮”と書いたが、決して軽視することはできない。男らしさ・女らしさを否定するジェンダーフリー教育の弊害は、国を危うくすることになりかねないからだ。日本の伝統や文化も無視されていくことになる。そのうち“夏らしさ”といった季節感も否定されてしまうだろう。

 ▼日曜の楽しみの一つは産経俳・歌壇に目を通すことだが、きのうの俳句に「ピアスして少年無口青嵐」、短歌に「日に焼けて人力車曳く女子(をみなご)の胸当て黒き鎌倉の谷戸」というのがあった。これは前記のイデオロギーとは無縁の時代風景らしい。

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産経抄ってのはおバカさんで有名なんだけど、例の性同一性障害者の戸籍変更の法案の辺りから、こういう反動的なのが目立つようになってきてはいるんだよね。とうとう、鈍い日本の「異性愛情交男性」諸氏もやっと気づきはじめて、おいおい、こりゃ、なんなんだ、いままで何もきいてなかったぞ、とステゴザウルスよろしくおっぽを踏まれてから5秒後にチクッと感じたんだろうなあ。でも、こういうのってもう20年前の言説でさ、こいつらはPCとかも知らないんだわね。

 ▼たとえば保育園の送り迎えの風景で、女性だけが描かれているイラストは「固定
観念にとらわれている」からダメ。父親もカバンを持って登園する絵にされた。また
女性の晴れ着だけの成人式風景は男性を加えたものに改められた。

これは、「ダメ」とか「された」、とか、被害者意識もろだしで、そういうところが彼にとっていやなだけで、別にその事実自体はなんでもないんじゃない? ってレベルでしょ。

 ▼先日、同じ東京の大田区で「変わりゆく社会と女男」「女男が自分らしく働く環
境」などと表記した運動のことを書いた。日教組が「男女混合名簿」という名称を
「女男混合名簿」と変えよと提唱したこともある。男女はいけない、女男ならよろし
い…と。

これはhistoryをhertoryに変えた、とかいう、ジェンダーの意識化の最初にかならずおきる問題で、こういうのは淘汰されて落ち着くところに落ち着くんだから騒ぐ必要なしって、保守派ならそのくらいはいつもの論法なのにね、こういう時に限って過敏になって、なにそれ、「女々しい」んじゃなくって、だわ。

 ▼そういう人たちは両性具有とか同性愛を過剰に強調し、男女間の性愛と同列に扱
う。男女間の性愛をことさらに「異性間情愛」と呼んだりしている。こうなるとなに
が正常なのか、判断する常識を人びとから、とくに子供から奪っていくことになる。

「ことさらに」って、異性間情愛の何がいけないのでしょうね。
ちなみに、「常識」は判断しない。「常識」は、判断なし、思考なしに、自動的に結論が決まっているのです。
そういう「判断しない常識」というのに、再考を促そうというものなんだから、当然のことでしょうに。
おまけにこのおやじ、「子供」なんてのをここで人質に出すなよなあ。おめえみたいなのが子供の判断を奪ってるんだからさ。
またまたおまけに、「両性具有」って何よ? このひと、こうは書いても、ぜったいインターセックスのひとたちのことを念頭に置いてるわけじゃないね。古い辞書って、バイセクシュアルを「両性具有」って訳語を振ってることがあるんだけど、そのレベルでしょう、きっと。100円賭けてもいい。このおじさん、「両性具有」の意味、知らないぜ。

 ▼先に“ばかげた風潮”と書いたが、決して軽視することはできない。男らしさ・
女らしさを否定するジェンダーフリー教育の弊害は、国を危うくすることになりかね
ないからだ。日本の伝統や文化も無視されていくことになる。そのうち“夏らしさ”
といった季節感も否定されてしまうだろう。

どうして「夏らしさ」に飛んじゃうのかなあ。
すごいなあ。
「ばかげた風潮」を云々する前に、自分の「ばかさ加減」を考えた方がよいわね。
「ジェンダーフリー教育の弊害」がなくても、もうとっくにこの国は危ういんだわさ。
だから変えようっていうのにさ。

ああ、またバカとか言っちゃった。
まあね、「デイリー・ブルシット」のコラムだから、しょうがないのかも。
とほほ。人格者になりたいよん。

June 18, 2003

SMAP

日テレのSMAPの特番で、「中国・瀋陽の日本総領事館で起きた北朝鮮の『ハンミちゃん一家駆け込み事件』をパロディーにしたコーナーが放送され、同局に100件を超える抗議電話が寄せられた」っていうのがニュースになっていて思ったんだが、昨日の書き込みといい、おとついの書き込みといい、けっきょく、根っこは同じコレなんだわね。
つまりさ、物事を揶揄するとき、パロディーにするとき、あるいはジョークのネタにするとき、それが自分より強いものか弱いものかっていうのが重要な判断の分岐点になるわけさ。つまり、相手が権力を持っているかいないかが肝心な要素なの。権力を持っているものには揶揄していいのだよ、ぜんぜんかまわない。ところが、その相手が弱者の場合、揶揄とかパロディーはたんなる脳天気な弱いものいじめや差別や侮辱に直結する危険をまとうわけさね。
そういうことを考えたことがないんだ、昨日のプロデューサー氏もこの日テレの同様氏も。でもそれって、本当はメディアに働く者はきちんと押さえなければならないところなのよ。だって、そういうこと考えてないのって、かっこわるいもの。そういうかっこわるいことは、とても放送でパブリックに流すことなんてできない。そうでしょ? 飲み屋でのプライヴェートな戯れ言じゃないんだからね。
さて、そうすると次に弱者とは何か、権力とは何か、という話になるけど、ま、それはここではまだいいね。
本日は眠たいのでここまで。