2003/04「よい戦争のよくない未来」
はっきり言って、この戦争はわからない。どう終わるのかわからない。どこで終わるのかわからない。終わった後にどうなるのかもわからない。かろうじてわかっていることは、この戦争でアメリカは逆にもっと危険にさらされるだろうということぐらいだ。
12年前、湾岸戦争で中東軍司令官だったノーマン・シュワルツコフ将軍はどうしてフセインを狙わないのかと質されて「この戦いは個人が相手ではない。万一フセインを追わなくてはならなくなったとしてもイラクは広大な国だ。そんなことは不可能だ」と断言した。なのに今回のブッシュの目的はただ一つ、フセインの首でしかないのがこの戦争だ。
そのフセインが4月7日の1トン爆弾バンカーバスター4発の直撃を食らって爆死したという報道が米国では流れている。こんどばかりはそうかもしれない。しかし、国家元首の暗殺、いや、公然の殺害である。CIAで暗殺できないなら戦争で殺すぞという、なんともすごい論理だと、個人としての人間はひそかに口をつぐむしかないのだろうか。
初めにフセイン打倒ありき……不況対策、父の仇討ち、石油利権、いろいろと理由はあろう。それもこれもネオ・コンサバティブ(新保守派)と呼ばれるブッシュ政権の米国覇権世界拡大政策。欧米型の自由と民主主義を絶対的な善とする善悪二元論。
その「善」の普及と「悪」の根絶のためには予防的でもなんでも先制攻撃も辞さないというブッシュ・ドクトリン。ブッシュ政権というのは、恐怖支配による新たなパックスアメリカーナを志向しているのだろう。
そうして圧倒的なハイテク軍事力を前面に押し出し、イラクに米国型の民主主義政権を樹立することで周辺の石油王国でも民主化が進み富の再配分が進み、米国もアラブもともに(しかも米国が世界の頂点に立って)繁栄することができるはずだという、なんともおめでたい妄信。それが今回の戦争の正体である。
元来、保守主義とは厳粛な現実認識を基に慎重に行動していこうという思考の形態であったはずだ。それに幻想や妄想を付与して「ネオ・コン」と呼び慣わしたのは誰なのだろう。妄信と保守とは相容れない。妄信と相容れるのは保守ではなくて幼く愚かな右翼思想なのである。
第一、フセイン政権が崩壊したとしてでは次に誰がイラクを統治するのか。亡命イラク人に人材はいない。優秀な官僚機構を持つとされる唯一の政党バース党をフセイン色を一掃した上で傀儡政権として利用するのか。
しかしそんな政権で誇り高きイスラム教徒が、近隣イスラム諸国が黙っているはずもない。米英がいくら共同声明で殊勝なことを言っても国連にいまさらなにを頼めるのか。米英が安保理を見限った傷は簡単には癒えない。
したがってそんな新政権を支えるためには米軍の長期占領が必要となる。散発的な対米進駐軍ゲリラの危険は消えるはずもない。そのうち内戦が勃発する危険さえある。そうなったら次に生まれるのは反米政権でしかないのである。
フセインの首を取ったとする(それは当初から圧倒的な軍事力を背景に時間の問題でしかない)。ではその次にどうするのか? 戦争は、実はそこから始まるのである。だからこの戦争の行方がわからないのだ。
ところでテロはどこに行ったのだ? 最初は対テロ戦争だったんじゃないか? テロもまた、さて、そこからまたぞろ生まれるのである。米国とアラブの共栄どころか反米の世紀が始まるのである。いや、それはすでに始まっているのかもしれない。