2003/08「正しくなさ」の小さな芽
子どもには頭ごなしに教え込まなければだめな時期がある。理屈より先に大人が怒る姿を見せなければならない時もある。理屈を考えられるようになるまでは理詰めで説いても無駄なのだ。
そのうちに良いことと悪いことの事例が刷り込まれ蓄積される。そうなれば自然とどうしてそうなのかを考えはじめる。なぜ大人が怒ったのか。そのときに理を教えてやるのだ。それは善悪の定義を言葉で補強してやることである。教育とはけっきょくはその二段構えなのではないか。どちらが欠けても子どもは混乱する。
その頭ごなしと理詰めの使い分けはアメリカでは一般にティーンエイジャーかどうかで決まる。ティーンエイジャーとは英語で「ティーン」の付く13歳(サーティーン)からのことで12歳(トゥエルブ)まではそうではない。この違いはかなり大きい。
13歳になれば「もう子どもじゃない」と見られる。対して12歳以下は「まだ子供」だ。12歳まではお小遣いの捻出も自宅前でレモネードを作って近所の人に買ってもらうのが関の山だが、13歳になれば子守のアルバイトもできるしボーイスカウトでは上級生。好きな子とのデートもなんとなく公認されるし学校ではダンスパーティーも行われる。
子どもの発育は個人差が大きいから単純に年齢で区切れるものでもないが、なぜ13歳かといえばおそらくそれは、思春期を迎えるかどうかの違いだろうと思う。
長崎の12歳の少年もティーンになる渦中だった。性的な変身に頭の回路が飛んでいたのかもしれない。それは程度の違いこそあれ、じつは私たち男のほとんどが身に覚えのあることだ。犯罪を踏みとどまれた私たちと、踏みとどまれなかった少年の違いは何なのだろうか。
アメリカで犯罪の低年齢化が問題化してきた1970年代末、各州が少年法の厳罰化に着手しはじめた。その結果、刑事責任を問える最低年齢は14歳とか13歳、州によっては8歳、7歳にまで引き下げられた。最低年齢規定をあえて設けず、重大犯罪なら何歳でも、という州も多い。
ただし、厳罰化しても犯罪の抑止には直接の効果はなかった。効果を上げているのはむしろゼロ・トレランス(犯罪への非寛容)策である。犯罪を見つけたら軽微なものでもすぐに警察が摘発するというこの施策は、一方で「割れ窓理論(the Broken-Window Theory)」とも連動してジュリアーニ前市長の下のニューヨークの犯罪が劇的に減少した。
「割れ窓理論」とは、割られた窓をたった1つでも放置していると、他の窓まで割られる誘因になるという考え方だ。1つの落書きを放置していれば次から次へと別の落書きが増えるのと同じ。ここは落書きをしても、ガラスを割ってもいいのだと思わせてしまうからだ。だからとにかく、小さな「正しくなさ」でも許してはいけない。
もっとも、最近のニューヨークは赤字財政の穴埋めをしようというのか、地下鉄の階段に腰掛けた妊婦や夜の公園を横切った歩行者などに「それも法律違反」と、警官がやたらと市民に罰金切符を切るというなんとはなしの息苦しさが満ちはじめているが。
そんな極端は御免だが、小さな「正しくなさ」の芽が日本に蔓延しているのも確かだろう。親も、学校も、社会もそれを黙過して、長崎の12歳は、理詰め以前の叱正も理詰め以後の説諭もない暗い穴に落ちていたのかもしれない。