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『目に見える暴力、見えない暴力』

 「ビレッジを歩いているとびっくりさせられるあるビルボードに出くわす。それは2人の男性がいちゃいちゃ砂浜に寝そべっているどでかい写真だ」「クリストファーストリートの周辺などにはゲイのパーティーを知らせるあからさまなポスターが街角のあちこちに貼ってあるし、ニューススタンドの店先には男性のヌード雑誌が見事なほどずらりと並べられている」「アメリカではゲイの人口が全体の10%を越えたといわれておりゲイの人たちの人権も確立されつつある」

 さて、これらの文章はじつはわたしのこのOCSの連載を読んで、東京のあるテレビプロダクションが「ニューヨークのゲイの世界をドキュメンタリーで放映したいのだがいろいろと教えてくれないか」と言ってきたときの、彼らの事前に用意していた台本の一部です。

 わたしは頭を抱えてしまいました。「参考までに」と渡されたこのスクリプトを、彼らの思考回路を測るための、本当に参考にしてもよろしいものなのか?

 じつはこういうことは以前にもかなりの頻度でありました。若い人たちにとても人気の『地球の歩き方』というガイドブックがあります。たとえばつい数年前まで、この本にはグリニッジビレッジが「クリストファー通りを中心にゲイの居住区として有名になってしまった。このあたり、夕方になるとゲイのカップルがどこからともなく集まり、ちょっと異様な雰囲気となる」というふうに描写されていました(さすがに現在の版ではこうした物言いは削除されていますが)。

 これらの表現を「ヘンだ」と感じないとしたら、あなたはかなりヘンです。ゲイの街として「有名になってしまった」と書くときの、その、わかったふうな道徳顔。「2人の男性がいちゃいちゃ寝そべって」とか「あからさまなポスター」とか、そんな非難がましい語句をなんの抵抗もなく書き連ねられる神経。

 この2つの根っこにあるのはおそらく同じものです。つまり「自分たちの読者/視聴者にはゲイはいない」という妄信です。だから、極端に言えば「どんなことでも言える」。だって、あいつらはいつもどこかほかの場所にいて、ここでこんなものを読んだりはしないんだから。

 それが「アメリカではゲイの人口が全体の10%を越えたといわれており」という表現につながります。
 そう、アメリカではホモが10%以上もいる。日本では考えられないことだ。

 そうなんですか? と思わず電話口で訊いてしまいました。するとディレクター氏は「え? なんせデータがないもので」。

 データがないのにこの人はアメリカと日本の同性愛者の比率は違うと、なぜか(データもないくせに)決めてかかっているのです。

 「自分たちの読者/視聴者にはゲイはいない」という妄信は、すなわち自分の知ってるやつには同性愛者などいないという無意識の思い込みにもつながります。いちばん最初の連載でも書いたことですが、同性愛者たちは隠れるのが得意です。隠れることに真剣です。そんじょそこらのことじゃ正体なんか見せてはやらないと思っているほどに。

 で、じつはある程度の確率で、あなたの周囲にいた、これまで最もやさしく寛大で、あなたのことをいつも好きでいてくれた友人のだれかは、おそらく同性愛者です。そしてあなたはそれに気づいていない。気づいていないばかりか彼/彼女を、傷つけるようなことを(なにげもなしに)あなたはしてきた。
 でも安心してください。彼/彼女はあなたのその無神経さをあらかじめ赦してすらくれていますから。
       *
 そんな例を、わたしたちは今月(1999年11月)のある裁判で知ることができます。
 それはいまからちょうど1年ほど前、ワイオミング州ララミーという町で、1人の同性愛者の大学生が殺された事件の裁判でした。

 殺された青年はマシュー・シェパードといいます。21歳でした。マシューは大学でもオープンリー・ゲイで通していました。身長156センチ、体重52キロの小柄な彼はしかしゲイバッシングの格好の対象だったようで、何度かいじめにも遭っています。その彼が昨年10月、地元のバーから「自分たちもゲイだ」とウソをついた2人の若者に連れ出され、ひとけのない牧草地の柵に十字架の形で縛り付けられ殴りつけられ、20ドルを奪われた上に零下の現場で意識不明のまま放置され、通行人の発見から5日後に、いちども意識を取り戻さないままに死亡したのでした。拳銃の銃座で18回も殴打された彼の頭蓋骨は陥没し、血が乾くよりも先に凍りついた彼の頬には、発見時に、涙の跡だけが白かったといいます。

 犯行の動機は、マシューがゲイであったことです。犯人の1人はすでにこの4月に2回の終身刑を言い渡されました。残った主犯のアーロン・マッキニー(22)にも今月4日、死刑だろうという大方の予想を裏切って同じく終身刑2回が言い渡されました。

 じつはこのマッキニーが死刑に処されるべきかで、米国のゲイたちの世論は見事なほどに真っ2つに分かれました。死刑に賛成は42・9%、反対は44・4%。米国の死刑賛成派は通常60%とか70%に上ります。ところがゲイたちは「それでも殺すな」と言っているようなのです。

 べつに怒っていないわけではないのです。むしろゲイたちはものすごく怒っている。マンハッタンに住んでいる方なら去年1998年、この事件が起こった後のプラザホテル前でのマシューを悼む「祈りの夜」にゲイやレズビアンら5千人もの人たちが集まり、それが結局はデモ届けをしていないということで規制を行おうとしたNY市警との間で久々の暴動騒ぎにまで発展したことを憶えているかもしれません。

 このところ社会的容認度も増えたかのようで脳天気に構えていたゲイたちが、本当に久々にマジに怒ったのがこのマシューの事件でした。でもその犯人をすら「殺すな」と言うゲイたちがいる。

 終身刑の判決後、マシューの父親が次のような声明を発表しました。
 「私はきみが死ぬこと以上にふさわしいことはないと思っている、ミスター・マッキニー。けれどもいまは癒しの始まりの時だ。いまはいかなる慈悲も示そうとしなかった者にも慈悲を与えるときだノノミスター・マッキニー、私はきみに命を許す。そうするのは私にはとても難しいことだが、それはマシューの遺志なのだ」
 マッキニー被告の死刑回避を働きかけたのは、じつは、マシュー・シェパードの両親でもあったのです。

 わたしのあるゲイの友人の1人も、たとえマッキニーに死刑判決が出ても、あるいは出たとしたらそれだからこそ、死刑減刑の嘆願がゲイたち自身から起きていたかもしれないと言います。それこそがむしろ「殺すな」のメッセージなのだ、という意味を込めて。

 そういう話を聞くと、わたしは人類にゲイという心強くやさしき人たちがいることがとても大きな誇りに思えてきます。人間もまだ捨てたもんでもないというような、そんな気になります。でも、彼らより、彼らを殺そうとする人間のほうが目立つのもまた事実なのです。ゲイだからという、そのことだけで殺される人はいまでも後を絶ちません。それが現在の民主党の、性的指向までをも視野に入れた連邦規模での「ヘイト・クライム(憎悪犯罪防止法)」法案の成立努力につながっているのです。
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 さすがに日本には、このマシュー・シェパード事件のようなことはありません、と書ければよいのですが、わかりません。なぜなら、表だった暴力は見えないかもしれませんが、表だたない暴力なら同じように蔓延しているからです。アメリカでは5時間に1人の割合で思春期の同性愛者が自殺すると推計されています。ある1つの命を救うために、私たちに与えられた時間はたったの5時間もないということです。

 では日本ではどうなのか。残念ながら思春期の少年少女の自殺の原因に、「同性愛」があるということすら日本では認識されていません。だってほら、「同性愛」とか「エイズ」とかって、「外国のもの」ですから。
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 95年の春に、日本の新聞各紙に、関東地方のある男子中学生の自殺記事が掲載されていました。ある新聞は動機について「日記に『好きな相手に冷たくされた』などの記述」があったと書いてありました。そこで別の新聞を見るとそこにも「日記に恋愛についての悩みが書かれており」とありました。

 この時代、思春期の恋破れくらいで自殺するとははて面妖な、とも思いつつさらにまた別の新聞を開くと、そこには「残された日記には男の友達に冷たくされたと思い込み、悩んでいる心境がつづられていた」とあったのです。

 それぞれに、なにかを記述することを回避するようなキーワードを束ね合わせれば、「冷たくされた」「好きな相手」が友情ではなく「恋愛」の対象で、さらに「男の友達」だったムムという新聞報道、あるいは警察発表がどこまで、またどれほどの事実なのかは、当時、わたしはそれ以上を確認しませんでした。したがって自殺した当の男子中学生その子本人が同性愛者だった、とは、ここでは言いません。

 しかし、同じような子で同性愛者の子は必ずいるでしょう。彼は、ちまたに蔓延する「2人の男性がいちゃいちゃ砂浜に寝そべっている」といった何気ない言説の積み重ねによって、「同性愛」というものが非難されるものであるという思いを募らせるのです。そしていやがおうにもやがてその重みにつぶされる。

 日本にはゲイに対する目に見える暴力がないだけマシだと言う人がいます。そういう問題ではありません。目に見えようが見えまいが、暴力なんぞ両方ともまっぴらだということなのです。

 頭を抱えているだけではだめなのでしょう。かのディレクター氏らのそんな暴力的な「同性愛」観をこれ以上たれ流しにさせないためにも、わたしは冒頭のテレビ番組の監修を引き受けるべきなのかもしれません。頭を抱えたくもなります。
(続く)

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