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物見の塔の王子が見たもの ──プリンスと「エホヴァの証人」考

プリンスが「エホヴァの証人」に改宗したという報が一般に広まったのは2001年5月27日付のAP電による。同月号の「ゴッサム」誌のインタヴュー記事を基に、「エホバの証人」であるプリンスが次のように語ったと紹介する記事だった──「汚い言葉を使うとその言葉が過去に起こしたすべての怒りやネガティヴな経験を呼び起こすことになる。それは自分自身に向けられる。そんなこと、イヤだろう?」「暴力を目にすると親は一体どこにいるんだと思う。彼らの人生で神はどこにいるんだと思う。子供っていうのはどんなプログラムでも取り入れてしまうコンピュータみたいなもんで、おかしなことが起きるんだよ。子供なのにタバコを吸ったりセックスしたり」

見出しは「G-rated Prince?」というものだった。「X-rated」の歌詞やケツ出しパンツのヴィデオクリップを作ってきたプリンスが、「G–General Audiences(一般向け)」にレイティングされるアーティストになったのが信じられないというニュアンスだった。

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プリンスの訃報を受けて世界中で彼の音楽的な功績や革新性を讃えるテキストが溢れた。日本も例外ではない。ただ、彼と「エホヴァの証人」に関するもの、なぜ彼の音楽が変わっていったのかについて書かれたものはあまり目にしない。

音楽の起源が祭祀と労働にあるのだとすれば、それが宗教や政治という社会的なメッセージを自ずから纏うのは至極当然のことと思われる。ゴスペルに限らず、アメリカではキリスト教絡みのカントリーやポップスを専門に流す教会系のラジオ局がいくつも存在し、それらはテレビ伝道師のメガチャーチとも繋がって(80年代をピークに)小さからぬマーケットを築いてきた。(政治的なメッセージを含む楽曲およびアーティストに関しては説明するまでもないだろう)

あのボブ・ディランでさえ、1979年にキリスト教への入信を公にし、その新たな信仰を基としたとされるアルバムを3枚リリースした。ディランはそうして数年にわたってツアーのステージ上から説教をしていたのである。しかし彼がキリスト教音楽のサブカルチャーの一部になることはなかった。ディランのファンは常にそんな彼に懐疑的だったし、宗教を説く彼にカネを払うこともすぐに飽きてしまった(Encyclopedia of Contemporary Christian Music by Mark Allan Powell, 2002)。かくしてディランは1981年にはもう宗教を歌うことをやめてしまう。批評家もファンもそれを大いに歓迎した。

しかし、ことは『Jack U Off』や『Sexy MF』『Cream』という曲を書いてきたプリンスの話である。たとえ「ゴッサム」誌やAP電の記事でもにわかには信じられることがなかった。ちなみに『Jack U Off』は「おまえを手でイカせる」という意味だし、「MF」は最大の忌避語「マザーファッカー」の頭字語、『Cream』とは「精液」のことだ。

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「エホヴァの証人」とは、キリスト教主流派の「神とキリストと聖霊の三位一体」を否定し、唯一神エホヴァを崇拝の対象することからキリスト教の異端もしくは非キリスト教とされる宗教集団だ。近い将来に現在の世界を破壊するハルマゲドンが起きて地上は千年の時を経て創世記に描かれる楽園「神の王国」に回復されるとする。そしてそれこそが人間の直面する問題を解決する唯一の方法であると説くのである。

「血を避けるべき」とする聖書の記述により輸血を拒否するため、日本でも1985年6月6日、10歳の小学生男児が交通事故に遭い、両親が輸血拒否したことにより死亡したとされる「川崎学童輸血拒否事件」、また、「戦いを学ばない」「剣を取るものは剣によって滅びる」という聖書の記述を理由に格闘技への参加も禁止していて、これも日本では学校での必須科目の剣道を履修せずに退学や留年となったケースを最高裁(1996年3月8日)まで争った「神戸高専剣道実技拒否事件訴訟」で名を知られている。

伝道者数は世界で820万人、キリストの死に感謝する「主の記念式」には世界で2000万人の信者が出席するとしている。その教義はことごとくプリンスのそれまでの歌詞の示唆してきたもの──淫行、肉欲、乱行、強欲、マスターベーション──と相入れない。「エホヴァの証人」以外の信仰を持つ者や非信仰者とは付き合ってはいけないし軍隊に入ることも国旗を掲揚することも選挙で投票に行くことも禁じている。ヨガもスポーツも喫煙も薬物もダメだし、クリスマスもヴァレンタイン・デイも祝うことはない。

そこに2003年10月15日付の「エンターテインメント」誌が(これも地元ミネアポリスの「セントポール・スタートリビューン」紙の記事を基に)戸別訪問して勧誘するプリンスの伝道師ぶりを全米に報じて、改めてその改宗が確認されたのだった。

曰く──ミネソタ州エデンプレーリーのロシェルという女性が同紙に語ったところによると、前週の日曜の午後2時に家のドアがノックされ、彼女の夫が出てみるとそこに紫のポップスターが宗教勧誘に立っていた。彼は「プリンス・ロジャーズ・ネルソン」という本名を名乗って、一緒にいたファンクバンド、スライ&ザ・ファミリーストーンの元ベーシスト、ラリー・グラハムとともに家に入ってきた。彼女は最初「なんてクール(最高)なこと!」と思ったが、プリンス・ネルソンは「エホヴァの証人」の話を始めた。そこで彼女が「ここはユダヤ人の家よ。お門違いだと思う」と言うと、彼はそれでも最後まで話したいと言うのである。横にいたグラハムが聖書を取り出してユダヤ人とイスラエルの土地のところを読みだし、それから話は25分ほど続いた。やがて「ものみの塔」のパンフレットを取り出すと、彼らはそれを渡して家を出、外に停めてあって大きな黒いトラックに乗り込んだ。助手席には長い黒髪の女性が乗っていて(おそらくブリンスの2番目の妻マヌエラ・テストリーニ)、面白いことに他の家にはまったく立ち寄らずにそのまま走り去った。「すごく変な感じで笑うしかなかった」とロシェルは言う。「(ユダヤ教で最も重要な日とされる)『贖罪の日』の数時間前にユダヤ人の家に来て改宗を試みるなんて、きっとよく知らなかったんだわ」と。

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死の直後に「ビルボード」誌などが伝えたのは、プリンスの最初のバンド「ザ・レヴォルーション」の結成メンバーだったウェンディ・メルヴォインとリサ・コールマンのエピソードだ。

二人は幼なじみで恋人同士でもあった。プリンスの音楽上での家族がいたとしたら、彼女たちがそれだ。その二人が2000年にレヴォルーションのツアーをやろうとプリンスに持ちかけたとき、彼女たちは当然「イエス」という答えが返ってくると思っていた。しかし違った。「彼はやらないと言った。何故なら私が同性愛者だから。それに半分ユダヤ人の血が入っているからだと」。そしてもし一緒にやりたければ記者会見を開いて、そこで自分の同性愛を反省し、「エホヴァの証人」に改宗すると発表しろと言われたのだという。「もう二度と彼から連絡が来ることはないだろうと思った」とメルヴォインは言う。

しかし実際はその6年後、三人はロンドンの同じステージに立つことになる。メルヴォインとプリンスは互いに肩をぶつけ合いながらギターを弾き、コールマンはピアノを弾いていた。

バンドの最初期には二人が同性愛者であることを知った上でそれを受け入れ、次にはそれを理由に手ひどく拒絶し、次にはまた何もなかったかのように受け入れる。40年近くの彼の音楽人生で、享楽的な性の追求と敬虔な信仰をめぐるこの謎だらけの矛盾がプリンスを貫いている。言い方を換えれば性と快楽を歌うのと同じ分だけ、神と天罰の恐怖が彼の人生と音楽に漂っていたのかもしれない。

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彼の最初で最大の世界的ヒットとなった『When Doves Cry』(これを『ビートに抱かれて』という邦題にした1984年の日本のセンスはここでは問わない)は映画『パープルレイン』の中心的テーマとされる。この半自伝的物語は自分の内面と外部世界との葛藤・衝突を描くのだが、『Doves』の歌詞は自分と相手との、汗の重なる濃厚なキスを描いて始まる(Dig if you will the picture /Of you and I engaged in a kiss /The sweat of your body covers me)。

第二連でそれはさらに幻想的に飛躍し、紫スミレの満開の中庭でサカる姿の獣たちの夢想へと誘う(Dream if you can a courtyard /An ocean of violets in bloom /Animals strike curious poses /They feel the heat /The heat between me and you)のだが、そうした極めて性的な連想が第三連では不意に現実の人生へと引き戻されるのである。

「どうしてこんな冷酷な世界に僕をひとりぼっちに置き去りにするんだ?(How can you just leave me standing? /Alone in a world that's so cold? )」
「きっと自分のせいだ。父みたいに厚かましいからだ。そしてきみは母のように不満ばかりだ(Maybe I'm just too demanding /Maybe I'm just like my father too bold /Maybe you're just like my mother /She's never satisfied)」
と。

とはいえ、ここでも「bold」は性的な厚かましさや大胆さを、「satisfied」も性的な充足感を暗喩している。いや逆に、性的な意味が明示され、性格としての「図々しさや不満」の方が暗喩なのかもしれないが。

そして歌詞はリフレインされるサビに続くのである。

Why do we scream at each other
どうして僕らは怒鳴り合うのか?
This is what it sounds like
その声はまるで
When doves cry
鳩が泣くときのよう

「性」と「生」とがここでも軋み合う。鳩が「鳴く」ときの「クー、クー(Coo)」という性的な囁きや喘ぎ声を思わせながら、その実、彼は「泣く、叫ぶ(cry)」という動詞を置くのだ。そしてそれは誰もが気づくように「平和」がかき乱されていることを共示する。なぜなら、破壊的な父親から距離を置こうとすればするほど、その父親のように性的に「bold」で快楽的な自己に気づくから。この曲はそして最後に、「泣かないでくれ(Don't cry)」と何度も繰り返しながら終わるのである。

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あの時のプロモーションヴィデオは湯気立つバクタブから立ち上がる全裸の(と思われる)プリンスを映し出していた。彼は「heat(サカリ)」にある獣のように思わせぶりに四つん這いでフロアを移動した。長い睫毛に整形した細い鼻梁、小柄で華奢な体に華美な衣装、クネクネした走り方に化粧をした艶めかしい頬笑み、そして登場した暴力的な父親と虐げられる母親像──80年代半ばにあってそのすべてが「ゲイの匂い」を漂わせていた。あるいは異形の者としての「クイア(おかま)」感を。「精液」の意味だと紹介した『Cream』(1991)の「U got the horn so why don't U blow it? / U are filthy cute」の歌詞も、「勃起してるなら射精しちゃえよ。おまえはめちゃくちゃ可愛い」という意味だ。こんなに"ゲイ"な歌詞はそうはない。

当然のように、そしてあからさまに、当時のゲイ男性たちはそれらを"誤解"した(もっとも『Cream』は、鏡に映った自分を見ながら書いたとしている)。エイズ禍のさなかにあった彼らが、それでも露骨に性を謳歌する彼のファンになっていったのは言うまでもない。今でも「プリンスはゲイだ」と言う"プリンス信者"も数多い。

しかし80年代にあって、「黒人」であって「ゲイ的」であるというのは(たとえその意匠を纏うだけであっても)大変な”矛盾”だった。マッチョな黒人コミュニティにあって、精神的にも肉体的にも繊細に育ちあがった青年がその繊細さを逆手に取って露悪的な戦略を取ったのだとしても、次には白人社会からの好奇の目が襲ったろうことは想像に難くない。セクシュアリティはしばしば人種という権力構造に絡みついている。

友人でかつ音楽上の協力者だったシーラ・Eが「ビルボード」誌で回想しているのは神を信じていた最初期のプリンスと、その後に「何も信じていないようになった」中期のプリンスと、そして「エホヴァの証人」になってからのプリンスの3人だ。「彼のためには、何かを信じることは何も信じないよりはいいことだと思った」と彼女は言う。彼にはそんなにも屈強な何かが必要だったのだろうか。

プリンスの家庭は「カオスだった」と同誌に寄稿したジャーナリスト、クレア・ホフマンも指摘している。両親はキリスト教の別の保守的宗派、時に異端ともされる「セヴンスデイ・アドヴェンティスト(Seventh Day Adventist=安息日再臨派)」の信者で、ペンシルヴェニア大学の宗教学教授サリー・バリンジャー・ゴードンによれば「セヴンスデイとエホヴァの証人は核心部分で多くの信義を共有している」という。「両者とも終末の日に向けて準備しており、魂の救済こそが人類の目指すものであって、神に魂を届けることこそが最も重要な使命だと考えている」

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80年代初めにプリンスは立て続けに3枚のアルバムを出している。『Dirty Mind』(80)『Controversy』(81)『1999』(82)だ。メイクアップを施し、ヒールを履き、ボタンを外したブラウスを着て、彼の書いた歌詞はいずれもジェンダーとセクシュアリティの垣根を押し広げるような(あるいはただ単に卑猥なだけと映る)ものだった。前述の『Jack U Off』も『Controversy』からのシングルカットで、ただただどうやって性的なオルガスムを得るかという歌だ。

それでも『Controversy』では「天にまします我らの父よ。願わくは御名を崇めさせたまえ」で始まる「主の祈り」が唱えられ、曲の終わりに向けて「僕のことをみんなルード(無礼)と言うけど/みんなヌードだったらいいと思うし/黒人も白人もなければいいと思うし/ルールもなければいいと思うし(People call me rude / I wish we all were nude / I wish there was no black and white / I wish there were no rules)」といたって"真面目"なメッセージが繰り返される。

『1999』は「2000年でパーティーは終わる(Two thousand zero zero Party over)」という審判の日の暗喩がポップなメロディーで繰り返され「人生はパーティー、パーティーはいつかは終わる(But life is just a party / and parties weren't meant 2 last)」というシニカルな終末のイメージが明るい曲調と裏腹に散りばめられるのだ。

「エホヴァの証人」になる以前から、「セヴンスデイ」の終末の日のイメージは色濃く彼の歌に影を落としていた。そしてまたシーラEが証言したように、再び「何も信じていないようになった」プリンスは、その後に「ニッキーという女の子を知ってた。セックスの鬼だったね(I knew a girl named nikki / I guess u could say she was a sex fiend)」で始まる、歌詞通りのセックス狂いの歌『Darling Nikki』(1984)をも歌う支離滅裂さだった。

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白状すれば私は、89年の『バットマン』のサウンドトラック以降、90年代のプリンスをほとんど追っていない。ワーナー・ブラザーズとのゴタゴタや、「かつてプリンスとして知られたアーティスト(the Artist Formerly Known As Prince)」などの呼び名といった、音楽以外の話題ばかりがうるさくて辟易していたこともある。そのうちに冒頭で紹介した例の「エホヴァの証人」のニュースが耳に届くことになった。

「エホヴァの証人」の有名人であるマイケル・ジャクソンやテニスのヴィーナスとセリーナ・ウィリアムズ姉妹、ノトーリアスB.I.G.らがその信者(証人)の家で育ったのに対し、プリンスは「セヴンスデイ」から改宗した「証人」だ。母親からの強い勧めがあったともされるが、広く知られるように直接彼に2年がかりの入信勧誘を行ったのはスライ&ザ・ファミリー・ストーンのラリー・グラハムだ。

ワシントン・ポスト紙との2008年のインタビューでプリンスはそれを「改宗というよりはもっと、realization(気づいた、わかった、という感覚)だった」と話している。そしてグラハムとの関係を「(映画『マトリックス』の中の)モーフィアスとネオのようだった」と例えている。それはキリスト教で広く言われる「ボーン・アゲイン・クリスチャン」、つまり新たに生まれ変わったようにクリスチャンとして霊的に覚醒するパタンと同じだ。先に触れたボブ・ディランもそうだし、急に宗教的保守右翼に変身したテッド・ニュージェントやリトル・リチャード、クリフ・リチャードらもそうだ。政治家たちも、ジョージ・W・ブッシュを筆頭に、過去の不始末を一掃するかように突然「ボーン・アゲイン・クリスチャン」を名乗ることも少なくない。

過去の不始末やカオス、自己同一性に関する不安、自信のなさ、迷い──人間は様々な理由から宗教に救いを求め、すがりつく。「エホヴァの証人」もまた、真実の自分を見出し、自身との啓示的で平和的かつ安定的な関係をもたらしてくれる宗教なのだろうか?

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プリンスの死が報じられた2016年4月21日のわずか2日前、4月19日付で、ゲイニュースサイト「gaystarnews.com」に掲載されたエッセイがある。「Secrets of a gay Jehovah's Witness: how I escaped the religion and rebuilt my life(ゲイの「エホヴァの証人」の秘密:いかにして私はその宗教から逃れ自分の人生を築き直したか)」と題したその記事は、英国で「エホヴァの証人」の一家に生まれたゲイの青年ジョシュ・ガタリッジ(Josh Gutteridge)の手記だ。かいつまめば次のような物語である。

「17歳の時に男性と初めての経験をした。人生はまったく違うものになった。すぐに両親と「証人」コミュニティに告白した。三人の年配の「証人」たちの前に座らされ、包み隠さずに話すように言われた。しかしうまく行かなかった。言われたのは「同性愛行為をしない同性愛者であれ」ということだった。母は同性愛者でなくなるための本を渡してきた。苦しいと打ち明けると努力が足りないと言われた。

父は、僕が弟や妹とのセックスを夢想したりするのかと聞いてきた。彼にとって同性愛者は小児性愛者と同じものだった。父はHIVが感染すると言って僕の歯ブラシを別のところに置いた。

学校での成績は学年でトップだった。けれど16歳で学校は終わった。「エホヴァの証人」では大学などの高等教育を目指してはならないと言われるから。状況を変えようと19歳でフランスに渡ることに決めたが、そこのホストファミリーも「エホヴァの証人」で、英語を話す人々への伝道を行うのが条件だった。英国に戻ったのは23歳の時で、セラピーを始めた。初めてのボーイフレンドが出来た。彼と彼の家族が、本当に人に受け入れられるというのがどういうことかを教えてくれた。けれどそれは二重生活の始まりでもあった。常に両親が、僕がボーイフレンドと一緒にいるところを見るのではないかと怯えていた。

2014年11月、もう同性愛者でないふりを続けることはできないと両親に話した。これは「共同絶交」を意味した。家族も友人も知人も、「エホヴァの証人」仲間からは二度と口をきいてもらえなくなることだ。その日からそれが始まった。両親からはテキストメッセージさえも送られてこなかった。2015年には道で父親とすれ違ったが、彼は僕を存在しないものとして通り過ぎて行った。新しい人生を始めようと決心したきっかけはそれだった。ボーイフレンドと一緒にロンドンに移ることに決めた……」。

──彼はいま、新たなパートナーとともにウェブベースのブランディング・エージェンシーを経営する一方で、LGBTQIの人々が直接会って話せるサポート・ネットワーク「KRUSH」(krushnetwork.com)を5月に立ち上げた。やっと自分を否定する宗教コミュニティから自立できたという。

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「改宗」が伝えられた2001年の11月、プリンスは、9年ぶりに「プリンス」に戻って初の、24番目のアルバム『The Rainbow Children』をリリースした。ジャズィーなアレンジも多い中でのコンセプトは、やはり信仰とセクシュアリティ、そして愛とレイシズムだった。描かれるのはマーティン・ルーサー・キング牧師に着想したような(実際、師の演説音源も使われている)架空のユートピアへと向かう社会運動の物語。

アルバム最後の曲のタイトルは『Last December』。人生最後の12月が来たらどうするか、と問うこのスローナンバーは最後に、

In the name of the father
父なる神の名において
In the name of the son
その子キリストの名において
We need to come together
我らは共に手を携え
Come together as one
心を一つにして共に行こう

と繰り返されて終わる。

「USAトゥデイ」紙はこのアルバムを「これまでで最も果敢で魅惑的な作品の一つ。たとえこれを神への謎めいた求愛と受け取ろうとも」と評した。「ボストン・グローブ」紙も「傑作」とは言わないまでも「1987年の『Sign 'O' The Times』【編注:この「O」はピースマークです】以来の、最も一貫して満足できるアルバム」とした。

しかし「ローリング・ストーン」誌はやや違った。「神聖なる正義のシンセサイザーを振る説教壇の奇人に先導された、砂漠を渡る長いトボトボ歩き」と形容したのだ。「説教壇の奇人(Freak in the Pulpit)」とはもちろんプリンスのことである。「フリーク」を「奇人」と訳したが、実はそれよりももっと強いニュアンスがある。「バケモノ」とか「畸形」とか、とにかくゾッとする奇怪な生き物のことだ。

リベラルな若者文化を先導する「ローリング・ストーン」誌が、プリンスの「信仰」を快く思わなかったのはそこからも明らかだ。そして多くのゲイのファンたちもまた、裏切られたと感じていたに違いない。前出のクレア・ホフマンが行ったあるインタビューでは、プリンスは同性婚に反対してソドムとゴモラを連想させるような次のような発言をしている。「神が地上に降り立って人間があちこちでくだらないことをやったりしているのを見て、それでみんな全部いっぺんにきれいに片付けたんだ。『もう十分だ』って具合に」

同時に「エホヴァの証人」のコミュニティにとってもまた、たとえ彼が政治的には共和党を支持する保守派のスターだったとしても、「説教壇のフリーク」を迎え入れることは奇怪なことだったに違いない。

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トム・クルーズやジョン・トラボルタなどの有名人を広告塔のように利用する「サイエントロジー」とは違って、「エホヴァの証人」の本部組織である「ものみの塔(聖書冊子)協会」は建前上は有名人を特別扱いしない。プリンスの死後に掲載された英デイリーメイル紙の記事には、昨年夏の「エホヴァの証人」地区大会にラリー・グラハムと並んで座っているプリンスの姿が写真に収められている。濃い色のシャツに白いスーツらしき服を着た彼は、他の普通の「証人」たちとともに参加者席にいる。死の1カ月足らず前の3月23日のキリストの死の記念日にも、彼は普通に地元の集会に姿を見せていた。

もし特別扱いをしているとすれば、それはあれだけ卑猥な歌を歌ってきた彼を組織の中に招き入れたことだ。それまでの彼の「罪」をいっさい問うことなしに。

「それは彼の圧倒的な富のおかげだ」と、元「証人」で、そこからの脱退の経緯を『Cowboys, Armageddon, and The Truth(カウボーイ、アルマゲドン、そして真実)』という本に上梓したスコット・テリーは説明する。

「証人」たちには通常、決められた会費はないが、それぞれの「王国会館(Kingdom Hall)」(「神の王国」を崇める彼らの教会の呼び名だ)のドアには寄付金を入れる箱が置いてあり、さらには戸別訪問での寄付集めも行われるという。テリーは「証人」のフェイスブックのページで、プリンスが死の6カ月前に他の「証人」たちと同じようにその寄付集めを行っていたという投稿を読んだという。もっとも、4人のボディーガード付きでリムジンで乗り付けた、とはいうが。

やはり元「証人」で今は脱退信者たちの支援活動を行っているアレクサンドラ・ジェイムズは、プリンスの遺産がどれほど「ものみの塔協会」に寄付されるかに注目している。いまのところ遺産に関する遺書の存在は明らかになっていないが、プリンスの資産は死の影響もあって今後も急増するとされ、彼のミネソタ州のペイズリー・パークの自宅兼スタジオには今後200年間毎年アルバムを作れるほどの未発表曲も遺されているという。遺産総額は一説で3億ドル(300億円)以上だ。

ジェイムズによれば、「ものみの塔協会」は最近、「証人」たちに自分の遺産を「非信仰者」の家族にではなく教会に、つまり同じ「証人」たちにこそ寄付すべきだという説得の圧力を強めているのだという。「エホヴァの証人」自体も、プリンスがこれまでにすでに「相当な贈り物と支援」を行ってきたことを認めている。もっとも、巨額の寄付は、教義によって秘密裏に行わなければならないとされるが。

ほとんど声明というものを出さない「協会」が、プリンスの死を聞いて「悲嘆している」と異例の広報をした。プリンスの信仰と遺志とがいかなるものであったかに関わらず、宗教組織には常によくわからないままの莫大な金が動いている。

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興味深いことに、ボブ・ディランが「物見の塔 Watchtower」を歌にしている。のちにジミ・ヘンドリックスがカヴァーした傑作『All Along the Watchtower(見張り塔からずっと)』(1967)だ。聖書の「イザヤ書」にある、バビロンの崩壊を知る物見の塔からの眺めをテーマにしている。登場するのは冒頭からいきなり道化師と泥棒だ。

“There must be some kind of way out of here,”
Said the joker to the thief.
「出て行く道はあるはずだ」と道化師が泥棒に言う。

──なぜ出て行こうとするのか?

“There’s too much confusion,
I can’t get no relief.
Businessmen, they drink my wine,
Plowmen dig my earth.
None of them along the line
Know what any of it is worth.”
「混乱と不安。ビジネスマンは俺のワインを飲んじまう。農夫たちは俺の土地を耕してくれる。でも意味がわからない。価値もわからない」

“No reason to get excited,”
The thief he kindly spoke.
“There are many here among us
Who feel that life is but a joke.
But you and I, we’ve been through that,
And this is not our fate.
So let us not talk falsely now,
The hour is getting late.”
「そう騒ぎなさんな」と泥棒がやさしくも言う。「人生はただのジョークだという奴がたくさんいるが、俺らはそれを生き抜いてきた。ジョークじゃない。だから戯言はやめよう、時間も遅いし」


──ここで場面が転じる。不意に物見の塔が現れる。

All along the watchtower,
Princes kept the view,
While all the women came and went —
Barefoot servants too.
ウォッチタワーからずっと、王子たちは見張りを続ける。女たちは行き来し、裸足の召使いたちもまた─

Outside in the cold distance,
A wildcat did growl.
外の遠く寒い荒野から、山猫が吠える。

Two riders were approaching, and
The wind began to howl.
馬に乗った2つの人影がやってくる。そして風が鳴り始める。

──冒頭の2人がここにつながる。あの道化師と泥棒だ。何かが起きた。彼ら、別の生き方が近づいてくる。嵐が来る。

ここに登場するディランの「プリンス(王子)」たちもまた、物見の塔から道化師と泥棒、そして山猫──城の外側の世界を、一早く見つけている。それは「プリンス・ロジャーズ・ネルソン」の見たものと、同じものなのだろうか、違うものなのだろうか。
(了)

《現代思想2016年8月臨時増刊号・総特集プリンス》掲載

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