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May 01, 2010

「私」から「公」へのカム・アウト──エイズと新型インフルエンザで考える

(これは2009年12月12日、大阪のJASE関西性教育セミナー講演会で話したことを要約しまとめたものを(財)日本性教育協会が『現代性教育研究月報』4月号で採録、さらにその原稿をこのブログ用に加筆したものです。実際にはいろいろ与太話なんかまで含めて1時間ほどの講演でした)


▼社会を映し出す病気

 私が新聞記者になったのは80年代初めですから、アメリカでのエイズ騒ぎが日本でも報道されるようになってきたころでした。最初に配属される地方支局の、これまた担当の県警記者クラブのスプリングのいかれたソファのうえで、このスキャンダラスな病気のスキャンダラスな週刊誌記事なんぞを読みながら、おい、病原体に、人間がゲイかゲイでないかを見分ける能力なんてあるわけねえじゃないかと、呆れながらも不愉快になっていたことを思い出します。あのころは誰もなにもわかっていなかった。わかっていないで口を開くものだからすべてが神話やSFみたいな主観の色を帯びていたのです。(エイズの当時の仮称だった)「ゲイ関連免疫不全(GRID)」だなんて、非科学極まりない呼称を許す社会とは何だったのでしょう。まさにバカじゃねえの、です。

 けれど不謹慎な言い方をすれば、この病気はとても興味深いものでした。この病は、歴史上のすべての差別病と同じく、その社会自体の病を逆に照射して余りあるものでしたから。エイズの厄災の半分(以上)は、じつはその社会の罹っている病理のせいだったのです。それがわかってきたころから私は、エイズは新聞ネタではなく、教育ネタなのだと言い続けてきました。患者・感染者探しに薄暗い功名心をあおられたイエロージャーナリズムは所詮どこにも行き着く先はなく、ただ子供たちへの地道で退屈な反復作業だけが彼らを守り社会の病を軽減することができるのだ、と。もちろん日本の教育界や政治の世界に直接それを伝えるチャンネルは持っていなかったので、もっぱら新聞紙面で、しかもそれから10年後にはもうニューヨークにいたのでニューヨーク発の記事の中でしかそれを言う機会はなかったのでしたが。さていまエイズは、教育界ではどうネタになっているのでしょうか。

 日本ではいま、毎年百数十万人が人生で初めてのセックスに出遭います。おそらくその半数ほどは十代だと思います。いや、二十代も多いかな。そのときに必要なのは、一過性のスキャンダラスなニュースやポルノではなくてきちんと系統立てた教育だというのは、ちょっと考えればだれにもわかることなのに。

 でもじつは私も、80年代はそんなセンセーショナルな新聞報道に関与しなければなりませんでした。毎日新聞から東京新聞に移った86年、社会部で夜勤をこなしていたときに、ある大物俳優が「エイズで入院した」といううわさが芸能部から伝えられ、何をどう報道すべきか、あるいはそもそもそれは報道できるのか、という指針も方針も見込みもないまま私もまた東京某所のその俳優の私邸にまで押し掛けたのでした。

 結局それは(その大物俳優のゲイの噂に付随した)デマだったのですが、これはちょうどその前年、アメリカのやはり大物俳優だったロック・ハドソンがエイズで亡くなった事件と好対照を為していたのでした。

 これはアメリカの歴史全般に言えることですが、とても乱暴に言ってしまえば、アメリカはその都度カム・アウトしながら歴史の転換を進めてきたのだと思います。日本ではこの「come out」という言葉を、まるでたんに「他人に知られていない秘密を打ち明ける」という意味でいろんなことに敷衍して軽々しく使っていますが、come out は自動詞です。目的語は取りません。それはたんに「秘密を」という目的語に卑小化してはならないことなのです。そうではなく、あえて説明すれば「自分というまるごとの存在」が、主語として外に、つまり公の場所に出て行く行為のことです。どこかのニヤケ顔の司会者が「◯◯県民、カミング・アウト!」と言うのは、誤用なのです。

▼「カミング・アウト」の真意

 さて、現代アメリカのカミング・アウト運動は大きく4つあったと言ってよいと思います。ひとつは50年代からの黒人たちのそれです。続いて60年代の女性たちのそれ。そうして60年代末から70年代にかけての(そしていまも続く)ゲイやレズビアンたち性的少数者たちのカミング・アウト運動。そうして80年代から90年代にかけての、HIV・エイズ患者・感染者たちのそれです。

 史的にはそれは日本語では「〜〜解放運動」と呼ばれます。でもそれはちょっと違うんじゃないかと思います。解放というのは他動詞で、だれかがだれかを解放するのです。すると黒人解放運動は、白人たちが黒人たちを解放したことになる。女性解放運動は、男性が女性を解放してやったことになります。そうじゃない。黒人は白人によって解放されたんじゃありません。それまでずっと「目的語」としてしか語られることのなかった彼らが、今度は彼ら自身が「主語」となって主体的に社会の中で自らを語りだしたのです。ゲイの話でいえば、それまでは常に病理学的な(性的倒錯の)対象症例者としてしか語られることになかった彼ら自身が、自分たちの言葉でその二元論的な言説の誤りを正し、多義的な別の言説を対峙させた運動でした。それが「カミング・アウト」なのです。(もちろんそれらの大前提として、liberationってのは自分で自分自身を解放するという、本来の他動詞の再帰用法的語義が基なんですけどね)

 ロック・ハドソンに話を戻しましょう。ロック・ハドソン自身はしかし、ゲイとしてもHIV感染者としても実際にカム・アウトはできませんでした。けれど85年の彼の死は何よりも雄弁に、彼の信頼する友人たちの(ドリス・デイやエリザベス・テイラーらの)補足的で親愛的な語りも得て(ボーイフレンドによるヒステリックな遺産相続と損害賠償訴訟の発覚も含め)彼の苦悩をカム・アウトさせたのでした。アメリカのエイズ人権運動はここで大きな転換を迎えることになりました。アメリカの息子、アメリカの男の中の男だった(はずの)ロック・ハドソンが、ゲイでエイズだったという事実をどう解釈すべきか、そのことをアメリカ国民の半数が親身になって考え抜いたのです。

 エイズ禍で社会的抑圧も増加したゲイ・コミュニティもこれに果敢に対応しました。ジャーナリズムやメディアもまた、患者・感染者を差別する側が悪いとするPC(政治的な正しさ)の公理を徹底させました。結果、その後、バスケットのマジック・ジョンソンや血液製剤感染のライアン・ホワイトくんや、HIVエイズの患者・感染者にカミング・アウトが続出するようになったのです。中にはそれまでカム・アウトできなかったゲイたちまでが、エイズのカム・アウト運動の「正しさ」に後押しされ、少なからず勢いでゲイで感染者だとカム・アウトしたりしたほどでした。

 アメリカ人の物事への対処法はかくもあからさまに力技的で、いろんな要素をすべて明るみに引っ張りだしてきてそれをどうにか言葉で片付けようとするものです。精神分析なんかまさにそれです。無意識の、記憶の奥底にあるものを引きずり出してきてそれを徹底して意識化し、片をつけてしまおうとする。それで精神分析医に1時間400ドル(4万円)も払って話を聴いてもらうのです。でも日本人は精神分析医のところに行く代わりに4000円持って飲みに行き、はっきりと口に出さないままなんとなくそこの優しい女将さんに慰めてもらってどうにか生きつなぐ。

 この、「はっきりと口に出さないまま、生きつなぐ」という処世が、じつはいまこの高度に情報化して交通化している現代日本社会で、急速に実効力を失いつつあるというのが、話半ばに至っての今回の私の論点なのです。従来のまことに日本人的な「なんとなく」の対処法だけでは、どうにも私たちは立ち行かなくなっているのではないか? それはこないだの新型インフルエンザのときの日本社会の右往左往に如実に現れていたようにも思うのです。

▼「身内」と「赤の他人」が構成する日本社会のあれやこれ

 私たち現代日本人の「なんとなく」の対処法は、周りが気心の知れた身内や仲間たちに囲まれているときにのみ有効です。日本人社会はずっとこれで通用してきました。というのも、私たちには自分以外の「他者」の分類として、どうも「身内」か「赤の他人」か、の2つしか存在しなかったからかもしれないと思うからです。

 携帯電話が普及し始めたころ、私は日本に帰ってくるたびに「車内での携帯電話は周りの人の迷惑になるのでご遠慮下さい」と繰り返される電車やバスや地下鉄でのアナウンスに、このしつこさは何なんだろうと考えていました。そりゃ電話口で普段より大声になってしまう人は多いし、それをうるさいと思う人もいるでしょうが、はっきり言ってこのアナウンスの方がうるさかった。言葉は丁寧だがその実ひとを子供扱いしているようなこの慇懃無礼な命令はいったい何なんだろう、と感じていたのです。

 対してアメリカでは、というかニューヨークなどの都会では、街角でもビルの中でもスーパーの中でも、他人に声を掛けることにあまり抵抗がないように思えます。ひとにぶつかりそうだったらエクスキューズ・ミーと言うし、ぶつかっちゃったらソーリーと言う。バスでも地下鉄でもよく堂々と会話してるし、高齢者に席を譲る場合もきちんと言葉を掛けて、譲ったあとでもそれで終わらずけっこう長々となにかをしゃべったりもしているのです。こういうのはパーティーでも差が出ます。日本人の私は最初、ぜんぜん見ず知らずのひとたちに何を話してよいものか、いやそもそも話し掛けて失礼に当たらないか、なんてことを考えて時間が経っていました。それがアメリカ人たちはじつに自然に話題を振って、なんでこんなにおしゃべりなんだろうと思うくらい会話を続けるのです。映画館でもそうです。こないだ日本で母親といっしょに映画を見に行って、私がおかしい場面で大声で笑うものだから、見終わったあとで母親に「あんた、アメリカ人みたいね」と言われてショックを受けました。そういえば日本じゃ他人に囲まれている映画館で1人で大声で笑ったりはしない。アメリカじゃ笑いや拍手やため息や感嘆の発声はそう珍しいことではないのですが。

 逆に、アメリカ人のけっして口にしないことが、日本ではよく言葉になることがあります。いろんなおしゃべりをしながらも、アメリカ人はその相手のプライベートな部分に入っていくことは微妙に回避しているのです。たとえば、結婚しているのかどうか、恋人はいるのかいないのか、子供はいるのか、などの身元調査みたいな質問はよほど親しくならなければ訊いてきません。対して日本人というのは、話のきっかけ、というかそういう初対面の場面で何を話していいのかわからないからなのか、最初の質問から逆にそういうとても個人的なことだったりします。「ご家族は?」「カノジョ、いるの?」

 これは、べつにその質問の答えがほんとうに聞きたいというわけでもないのですね。では何かと言うと、こういう私生活、プライベートな部分に立ち入ることで、その相手と「身内」のような関係性を擬似的に創り上げるためのものなんです。それが彼らにとっての仲良しになるための唯一の道なのです。

 日本の政治家って、特に自民党政権時代、すごく失言が多かった。それはなぜかというと、あれ、みんな内輪話の最中にやっちゃうんですね。自分の後援会のパーティーとか、息のかかった地方政治家の応援会とか、みんな身内しか集まっていないと思ってるからその中で内輪だけに話せる冗談やら陰口やら大ボラやらを吹く。するとみんな、身内扱いされたと思って聞いている方もその「先生」を「なかなかこなれた人だ」「打ち解けた人だ」となって、いつか自分とツーカーの身内のように感じる。で、そういうインナーサークルを作って、そこで阿吽の呼吸で「みなまで言うな」の関係が成立している(ように感じる)のですね。

 そこでは身内以外はみんな「政敵」か「赤の他人」です。そして「赤の他人」はときには人間ですらない。

 満員電車の中でギューギュー詰めになっているときに、それを不快だと思わずにいられる方法は、身体を密着させている他人が人間だと思わないことです。ジャガイモかなんかだと思えば耐えられます。日本ではそれが直近の「他者」との付き合い方です。そんなジャガイモ=赤の他人が急に携帯電話で話して人間に戻ったら、それは「困惑」しますし「迷惑」だし「気持ち悪い」。私たちは、身内以外に他人とのうまい付き合い方を知らないのですから。それがあの神経症的な車内アナウンスの反復の理由なのではなかったか? 電車の中では、いや、公共の場では、日本人は友達同士でもないかぎり、人間ではないフリをしてじっと存在を消しています。映画館でもエレベーターの中でも。それが日本社会の身の処し方なのではないか? 極論を言えばつまり、「公共」に、人はいないのです。だから平気で電車の中で化粧もできるし、行き倒れのホームレスを見て見ぬフリもできる。

 対してアメリカ型社会は、プライベートとパブリックが並立しています。「私」と「公」の間を個人が行き来しています。他者は、自分とは違う可能性として他者のまま存在しているのです。そこではひとは「公」の場でも個人であり続ける。そしてなぜか、「私」と「公」の間に、自然な回路が通じてるんですね。だから簡単に他者に声も掛けるし、発言もするし、不正に抗議したりもする。

 ここから各種の社会運動が生まれたのです。「私」が「公」の部分へとカム・アウトすることを公民権運動と言います。そうやって黒人たちも女性たちも性的少数者たちも、そしてエイズ患者・感染者たちも主体としての人権を訴え、それを獲得してきました。

 現代日本には他者は「身内」と「赤の他人」しかいないと言いましたが、じつはだからといって「公」の場面が存在しないというわけではありません。たとえば街頭でTVインタビューなんかされると、政治に関しても経済に関してもさいきんの日本人は老若男女、とてもうまくしっかりと話したり意見を表明したりします。街頭や電車の中や行き倒れの人たちへの対応だって東京と大阪では違うかもしれませんから一概には言えません(ほんと、論を書きながら白状するのもおかしいですが、こういうのは本当のところはスパッと断言なんかできないんですがね)。でも、「私」と「公」とを行き来する回路になんかちょっとしたスイッチがあって、米国型社会よりもそのスイッチが入りづらいということはあると思う。これは、コミュニティの性格と、それを基にした教育の違いなんでしょう。

 それと他者なんですが、じつは日本には「身内」「赤の他人」の他にもう1つあります。英語で言う guest と customer というのが一緒くたになった「お客さん」という概念です。これもとても日本的なもので、お店に行くと日米では対応がぜんぜん違います。なので正確には、私たち日本人の他人との関わり方は「身内」と「赤の他人」と「お客さん」の3つに大別されると言った方がいい。もっとも、「お客さん」というこの心地よいカテゴリーを論じるにはちょいと横道が必要なんで、その詳細はまた別の機会に譲ることにしましょう。

▼排除は感染拡大につながり、 受容は感染を食い止める

 さて、日本人は「身内」以外の他者との付き合い方を(あとは「お客さん」としてでしか)知らない、と書きました。「公共」という「他者との共通の場」が普段からは成立しにくいからです。そこに「公」に「共」に生きる他者はなかなか見えてこない。これはありとあらゆる機会に破綻を来します。たとえばエイズ患者はどう考えればよいのでしょうか?

 日本人の付き合い方は一方で身内の温かさを持ったとても心地よいものでもあります。でも、エイズ患者を身内に持つことを考えられるでしょうか? いや、優しい日本人はきっとそれをも厭わないでしょう。「私があなたを身内として守る」という思いを熱く抱くひとは必ずいる。むしろたくさんいるはずです。でも、そのことは往々にして「他の人には言わない方がいいかもしれない」となる。なぜなら、そのエイズ患者を「他の人」と共有する公共の場がないのですから。すべては身内の内側で対処するしかないのです。ゲイの場合もそうです。「よくゲイだと打ち明けてくれた。私はずっと友だちだ。でも、それは他の人には言わない方がいいかもしれない。なぜなら、他の人も私と同じように理解があるとは限らないから」。なぜなら、他の人と思いを同じくできる共通の「公共」の場が常設されていないからです。

 かくしてエイズ・パニックのときに日本社会は破綻を来しました。どう対処するかさっぱり指針を決められないまま、犯人探しのような感染者探しが続きました。エイズ患者がカム・アウトしていく先の「公」の場がないので、2010年の今でも、エイズの患者・感染者は不可視のままです。

 同じことが新型インフルエンザの騒ぎでも起きています。自民党政府が行ったことは新型流感の感染者(らしき人たち)をまさに「赤の他人」の領域に隔離することだったのです。それは「身内」からの排除の論理に他なりません。そしてこの排除の論理がまったく有効でないことは、すでにエイズ禍のときに学習していなければならないはずのものだったのです。なのにそれをしていなかった。

 米国のエイズ禍で私たちが学んだことは、第一にパニックを煽らないこと、そして患者・感染者を決して排除
しないことでした。それが危機をしっかりと受け止め、それにきちんと対処できる社会を作る基本だったのです。なぜならば、排除すれば感染者は隠れるだけだからです。しかし受容すれば感染は明るみの中でどうにかみんなで食い止められる。それはまさに「身内」の力なのですが、その身内の力を徹底させるために他者の存在を認める「公共」の場からの言説が必要だったのです。

 09年春からの新型流感に対して、自民党政府がやったのはすべてその逆でした。厚労相だった舛添さんは「いったい何事か」というべき異例の深夜1時半の記者会見を開き、まだ感染の事実すらはっきりしない「疑い例」なる高校生の存在を発表してパニックを煽りました。しかもこの高校生をまるで犯罪者のように「A」と呼び捨てにし、図らずも患者・感染者への排除の姿勢を身を以て示してしまったのです。

 あの緊急記者会見を見ながら、せめて「Aくん」と呼んでやれよ、と思ったのは私だけではありますまい。まるで感染した者が悪いのだといわんばかりの日本社会のバッシング体質。エイズ禍でも初期は「自業自得」論が大手を振っていましたっけ。これは例の「自己責任論」にも通じる狭量さで、「疑い例」の高校生には「新型流感がはやっているのを承知で海外渡航したのだから自業自得だ」といううんざりするくらい同じ非難が浴びせかけられました。おまけに「他人の迷惑を考えない」という携帯電話と同じ理屈も。そんなことを責めても感染危機には何の役にも立たないどころか、そういうことに目を奪われる分、対策の遅れにもつながりかねないのに。

 果たしてこの高校生はその後、実際には新型流感には感染していなかったことがわかり、校長が涙を流して安堵している様までがメディアを通じて流されました。

 もう一度言いましょう。排除すれば感染者は隠れる。受容すれば感染は食い止められる。新型流感でも「感染者を隔離する」とやればだれだって検査すら受けたくなくなります。でも「感染した人をみんなで助ける」となればいち早く検査を受けて助けてもらおうとするのが人情というものでしょう。

 欧米ではそうやってHIVの感染を抑えることに成功してきました。エイズやセックスにまつわる多くのスティグマを解体しながら、欧米の教育現場では「公」に「共」に生きるという言説を、飽きることなく繰り返し子供たちに教えることで未来をつないできたのです。もちろんそのすべてが成功しているわけではありません。ただ、そういう地道な教育活動なしで、何かが成功するということもまたないのです。

 日本人の身内社会の温かさと心地よさを、そうしてどうにか「公共」の次元にも広げていきたいものです。それを担える学校の先生たちの仕事は、苦労する甲斐のあるものだと私は信じています。
(了)

September 15, 2008

2001/09/11 再現

9.11WTC攻撃

◎あの日、何が起こったのか?

◆09/11 08:46am 
●ブルックリンの緊急通信センター 通信専門員ジャネット・ハーモン

 いつもと同じくよく晴れたきれいな朝だった。ニューヨ−ク市マンハッタン区の東対岸、ブルックリン区にある緊急通報センターで、通報受信オペレーターを15年間務めてきたベテラン通信員ジャネット・ハーモン(53)はいつもの朝のシフトで受信モニターに向かっていた。

 緊急通報センターは日本の110番と119番を統合したすべての種類の緊急電話を受け取る。米国の緊急電話番号は911番。1日平均3万2000件、年間では1200万件近い電話がかかってくる。受信装置はコンピュータと直結した105台。そこに常時最低でも60人が待機している。その背後には多民族都市ニューヨークならではの140カ国語に対応する通訳も控えている。

 そのとき、一本の電話が鳴る。70人ほどがシフトに入っていただろうか、たまたまハーモンがその電話を受けた。そのとたん、「オペレーター、オペレーター!」と緊迫した女性の声がヘッドフォンから飛び込んできた。「お願いだから、どんなことがあってもこの電話を切らないで!」。事件事故の通報を受ける場合、最も肝心なのは相手を落ち着かせることだとハーモンは知っている。「マダム」とあえて低い声でハーモンは応対する。「落ち着いて。どこからかけているの?」。女性が答える。「いまブロードウェイを車で下っているところ。いま、目の前で、世界貿易センターのタワービルに747(実際はボーイング767型機)がぶつかったの! ビルが火の玉なの! わざとぶつかったように見える!」。予断を挟まないこと、聞いたことそのままをコンピュータに打ち込んで、主観を交えないこと。車内での携帯電話なのだろうその女性の声の向こうから、同乗しているらしい男性の声が叫んでいるのが届いた。「全員をよこせと言うんだ! とにかく、警察も消防も全員を出動させてくれと言うんだ!」。

 ジャンボ機がぶつかった? 確認する自分の声がうわずっているのが自分でもわかった。そのとき、周りの受信モニターが連鎖反応のようにいっせいに鳴り出した。当の貿易センターの高層階から「閉じ込められた」と助けを求める電話もあった。応答する70人のオペレーターの声が受信センターのフロアで低く強く渦を巻きはじめた。

◆09/11 08:55am
●ブルックリン橋 NY消防長官トーマス・ヴォン・エッセン

 前夜やや夜更かしをしたせいもあってトーマス・ヴォン・エッセン消防長官はその日の朝のピックアップを8時半でいいと運転手に告げていた。自宅から消防本部のあるブルックリンには、マンハッタン島の東岸を南北に走る高速道FDRドライブを通ってブルックリン橋を渡る必要がある。

 夜更かしをしたのは31年前、初めて消防士になったときに赴任したサウス・ブロンクス区の第42はしご車隊で懇親会が催されたからだ。かつての同僚や師と仰いだ先輩たちと旧交を温めた翌朝の空は、やっとやや秋めいてきたようで爽快だった。そうしてブルックリン橋にさしかかろうとしたとき、何気なく見上げた窓の外に、何かが見えた。

 「あれは、雲かな?」とエッセンは運転手のジョン・マクラフリンに声をかける。ちらと視線を上げたマクラフリンはハンドルを握ったまま「いや、仕事のようですな」と答えた。だが、そのときはまだマンハッタン・ダウンタウンのビル群が視界を遮り、その黒い雲の立ちのぼる場所がどこなのか、見当はつかなかった。

 いったいどこなんだ、と見つめる西の空がビル群の間から覗いた。目を疑った。世界貿易センターの北タワーにぐっさりと穴が開き、そこから炎と黒煙が立ちのぼっていた。

 「なんてこった! 貿易センターに飛行機がぶつかったみたいだ!」とエッセンは叫んでいた。

 そのころすでに、ブルックリンの緊急通報センターのジャネット・ハーモンの打ち込んだコンピュータ情報は出動センターのモニターに流れ、消防本部の指令系統から第2次出動命令が発信された。それは十数秒後には第3次、第4次出動に、そしてたちどころに最大動員の第5次出動に変わった。

 マクラフリンは長官専用車の消防無線のスイッチを入れた。「ワールドトレードセンター、北タワーで爆発」。交信が錯綜する。第5次出動。エッセンは寒気を覚えた。黒く不吉な煙の噴出を見つめながら、「1000人単位の犠牲者……」とつぶやいたことを彼は憶えている。

◆09/11 08:58am
●FDNY ニューヨ−ク市内に位置する212消防署

 NY消防本部は全部で消防車隊が203隊、はしご車隊が143隊、ほかにも泡消火部隊の10隊などで構成され、人員は計1万1500人。その朝の勤務者はおよそその半数だった。夜勤と朝番との交替シフトは朝の9時。だがその日、朝のシフト交替はついに終わらないままだった。

 NY市警の警察官らは「ニューヨークの最たる精鋭たち(Finests)」と呼ばれる。対してNY消防本部(FDNY)の消防士たちには「ニューヨークで最たる勇者たち(Bravests)」という尊称が付いている。あまたの大火災にも恐れることなく立ち向かい、幾多の犠牲者を出してもつねに生活者の味方でありつづける消防士たち。1966年にはマンハッタン・ダウンタウンの「23丁目大火」で一度に消防署長2人を含む12人の消防士が殉職したこともあった。それが過去最悪の出来事だった。

 最初の出動命令は世界貿易センター(WTC)にほど近いグリニッチ・ストリートにある第10消防車隊に出された。「WTCで爆発」との報。その出動命令はすぐさま市内全域に拡大した。ニューヨーク中にけたたましいサイレンとクラクションの音が鳴り響いた。

 通常の火災はまず担当地区の消防車隊が対応し、そこにはしご車隊などが増員される。それで対応できないときはその地区全体の消防隊が「大隊(バタリオン)」として派遣される。それでもだめならより大きく地域(ディビジョン)全体の消防署の出動となる。そしてそれでも困難なら、市内全域の消防士が現場に急行する。しかしそんなことはかつてなかった。

 第一陣の現場到着隊は第10消防車隊を含みいずれもWTCに隣接する地区の消防署だった。夜勤を終えて交替して帰宅するはずだった60人の消防士たちもその中に加わっていた。現場に急行する消防車には通常の2倍の消防士たちが乗っていた。もっとも、午前9時29分には非番を含め市内の全消防士に出動および待機命令がかかったから、すでに非番もなにもあったものではなかった。現場ではだれが出てだれが出ていないかを点呼するゆとりもなかった。無線機も持たずに急行する者も多かった。周辺ビルまでもが炎上しはじめていた。どこから手を付ければいいのか、この道数十年のベテランたちでさえもたじろいでいた。現場は混乱を極めた。だが、混乱を見せてはいけなかった。逡巡を振り切るように、勇者たちは各自行動を起こしたのだ。ある者たちは自分の経験だけを頼りに果敢にタワービル上層階へと階段を駆け上っていった。数千人が避難を待っているのだ。

 まさか、この世界最強のビルがすぐにも崩壊しようとは、その時点ではだれも考えていなかった。

◆09/11 09:03am
●2機目が南タワーに突入

 消防、警察、救急隊の全体が事態の重大さに対応しはじめたとき第2弾が待ち受けていた。マンハッタンの南側から轟音とともに超低空飛行してきた航空機が、今度は無傷だった南タワーに激突したのだ。こちらの衝撃は北タワーよりも甚大だった。飛行機の速度は1機目よりも160キロ速い時速800キロ。総重量160トンのボーイング767は南タワーの78〜84階部分の南東のコーナーを切り裂くようにぶち抜いた。3万6000リットルものジェット燃料がビル内部に注ぎ込まれた。3分の1が衝突時に一瞬のうちに引火し大爆発を起こし、残り3分の2がビル内部で気化して充満するか火とともに伝い落ちていった。おそらく、そのとき何十人という人間たちが熱と圧力で蒸発した。

 南タワーにも即座に第5次出動命令が発動された。北タワーに展開していた消防士たちがここにも駆け込んでいった。数千段もの階段を駆け上がり、内部の数千人を安全に避難誘導するために。

 だが、その時点で両タワービルの火災温度は1100度にも達していた。フロアを支える鋼鉄のトラス群が熱にやられて溶けはじめていた。

 熱と煙に耐えきれず、高さ300メートル以上の上層階から自ら飛び降りる人も続出した。消防士にもすでに負傷者が出ていた。なにより、トラック大の瓦礫が断続的に地上に降り注ぎ、後続隊は燃えさかるタワーに近づくことも難しくなっていった。

◆09/11 09:59am
●南タワー、「もっと部隊をよこせ!」

 2機目でこれはテロだと断じられた。北タワーに1機目が突入した際、南タワーではこちらは被害がないから各自自分のデスクに戻るようにと館内アナウンスが行われていた。だから南タワー上層階で相当数の人々が閉じ込められてしまったのだ。

 そこに真っ先に飛び込んでいったオリオ・パーマー大隊長とロナルド・ブッカ消防隊長が、40分をかけていまやっと78階まで徒歩でたどり着いていたのだった。これまで消防士がたどり着いたのはおそらくせいぜい50階までだったろうと思われていた。だが、翌2002年8月に見つかった無線交信のテープに、激突部分であるまさにその78階で、多数のけが人の救出にあたる彼らの声が分析されたのだ。

 午前9時45分ごろの録音。パーマー大隊長が78階にいたけが人数人を含む10人のグループを41階のエレベータまで向かわせたと連絡している。そのエレベーターが、最後まで動いていたただ一基のものだった。

 南タワーを担当したドナルド・バーンズ指揮官の声も残っていた。「もっと部隊をよこしてくれ!」と何度も繰り返し叫んでいた。しかし、救助に向かった消防士たちは階段を降りてくる避難者たちに行く手を阻まれ、さらにいったいどちらのタワーのどこに行けばよいのかも混乱したままだった。

 14分後、午前9時59分、南タワーが内部へ向けて沈み込んでいった。崩壊速度は時速320キロ。ビル全体が崩落するのに10秒しかかからなかった。パーマー大隊長らの交信はそこで途絶える。41階に向かっていたはずの被救助者たちにとっても、14分という時間は外に出るにはあまりにも短すぎた。

 その直前、ワシントンDC郊外では国防総省にボーイング757が突入していた。さらに午前10時10分、ピッツバーグ郊外では別のハイジャック機が、明らかに乗客の抵抗に遭って突入目標に達することなく墜落した。

◆09/11 10:28am
●北タワーも……2万5000人を退避させて

 午前10時28分、そして北タワーもついに崩落した。立ちのぼる粉塵と炎の下でなおも消防士間の無線交信は雑音混じりで続けられていたが、それらもいっせいに静まりかえった。動けなくなった携帯者の位置を知らせるPASS(個人警報安全システム)モニターの音だけが瓦礫の下から聞こえていた。だが、崩壊とともにそれらは消防士たちの手から放れていた。音の聞こえるところに消防士はいなかった。

 消火用水を供給する水道本管ももう破断されて機能していなかった。近接のハドソン川から消防船が水を供給していたが、それではもちろん十分ではなかった。WTCの計6棟が崩落または炎上していた。約2万坪が燃え上がっていたのだ。

 ピート・ガンチ消防本部長、ウィリアム・フィーハン消防第一副長官、レイモンド・ダウニー救助(レスキュー)本隊長が殉職した。大隊長の18人、消防副隊長の77人も殉職した。第1レスキュー隊は消防士11人を一度に失った。第20はしご車隊は7人、第22消防車隊は4人を失った。消防全体では343人が亡くなった。消防車など装備の損壊損失は4800万ドル(当時レートで5700億円)に及ぶ。しかし、彼らの犠牲によって世界貿易センターの2塔からは計2万5000人が脱出できたのだ。

 火は以後、崩壊した地下で4カ月間にわたって燃え、くすぶりつづけることになる。


◎WTC崩壊その後〜救助作業から撤去作業へ

▼NY市の緊急司令センターはタワー北隣のWTC7番棟にあった。このビルも炎上の末11日午後5時20分に崩落した。市長ジュリアーニは現場の司令センターとして無線指令車を導入した。

▼テロリストたちが突入させた航空機に化学兵器、生物兵器が搭載されていなかったか、市はその日のうちにWTC近隣3カ所に空気サンプルの採取装置を設置して化学分析に回した。結果はいずれも陰性だった。

▼テロの夜が明けて2日目からグラウンドゼロは連邦緊急事態管理庁(FEMA)の管轄となった。同庁から1300人が派遣され、そこに米国赤十字、連邦捜査局(FBI)、NY市警(NYPD)、NY消防(FDNY)から2000人が加わって生存者の救出作業が続けられた。24時間以内に、現場には260台の特殊重機が運び込まれ、240台のトラックが稼働しはじめた。

▼NY都市圏から若者たちのボランティアも集まりはじめた。その数はたちまち数万人にふくれあがり、FEMAの組織管理力をはるかに越える数になった。

▼全米およびカナダの各地の消防隊も陸路NYに到着しはじめた。飛行機はすべて発着禁止だったのでみな自前のトラックやバスや列車でやってきた。グランドセントラル駅ではそんな応援隊の到着のたびに周囲から拍手と歓声が挙がった。カリフォルニアからは、同地に多い地震で活躍する土中の生存者探索班が到着した。各地の消防署長の多くは、NYに助けに行きたいという彼らを有給扱いで送り出した。

▼陸軍工兵隊も投入された。しかし陸軍のベテランたちにもこの光景は初めてだった。「1995年のオクラホマ連邦ビル爆破事件の悲惨さも、この壮絶さの比ではなかった」と工兵隊のジョン・オダウド大佐は話している。

▼瓦礫の撤去は初め、手作業でバケツで行われた。重機の投入はいるかもしれない生存者の命を危険にさらす恐れがあったためだ。しかし結局、生存者は事件発生後48時間で5人しか見つからなかった。

▼1週間で7万トンの瓦礫が撤去された。1日75台のトラックが20マイル先のスタッテン島の瓦礫選別所にそれらを運んだ。そこでもまた人骨の収集が行われていた。同時に、WTC崩落のメカニズムを探るために大学や研究所から専門家が送り込まれ、鉄骨やコンクリートブロックの断裂の実態を詳細に調査していった。

▼現場の2万坪の瓦礫の山は部分部分に落とし穴があり弱い構造があり、さらに地下へと潜れる隘路があった。しかし危険なことに、正確な全体の位置関係はだれも把握できていなかった。そこで1500メートルの上空から航空機で地表にレーザーを照射し、コンピュータによる解析で3Dマップを作成する方法がとられた。「光探知測量(Light Detection And Ranging)」、または頭文字を取って「LIDAR(ライダー)」と呼ばれる最新技術だった。3次元で描かれたコンピュータ・グラフィクスの現場地図を見て、実地でそれを知っている消防士たちは「ここがあれだ」と即座に位置関係を飲み込んでいった。LIDARの誤差はわずか±15センチだった。

▼WTCからわずか数ブロックしか離れていないウォール街のNY証券取引所は17日の月曜に再開した。テロからわずか1週間の間に、不通だった電話も電話会社ヴェライゾンが3000人の人員を投入して4万回線を復旧させた。停電だった電気も1900人の作業員が延べ60キロに及ぶ仮ケーブルを敷設して19日には供給を再開した。それはおそらく、アメリカ人の意地だった。

▼9月24日、ジュリアーニ市長は「これ以上生存者を発見することは不可能だろう」と苦渋の宣言を行った。この時点から、作業は公式に救助から遺体収集、瓦礫撤去へと変わった。

▼WTCは地下に駐車場や地下鉄駅や商店街などが7層にわたって配置されていた。地下へと潜ってゆく消防士たちにはこの現場に特化したGPS(衛星測位システム)装置が配布された。グラウンド・ゼロはすでにそのころ、消防士たちの間では「ザ・ピット(奈落)」と呼ばれていた。

▼現場からは瓦礫の下に埋まったおびただしい数の車両も回収された。その中には消防車両91台、警察車両は144台もあった。修復はいずれも不可能な状態だった。

▼事件後6カ月の2002年3月11日、WTC跡地に強力なサーチライトが88基用意された。その夜から32夜にわたって、サーチライトはニューヨークの夜に鎮魂の光のタワーを2本浮かび上がらせつづけた。それは十数キロ先からも見える幻の塔だった。

▼2002年5月30日、瓦礫の撤去作業は正式に終了した。要した人員と時間は150万人・時間、瓦礫の総量トラック10万7000台分180万トン。


◎証言集

■WTC現場で取材していたNYデイリーニューズ・カメラマン、デイヴィッド・ハンシャー
 南タワーの崩落で生き埋めになった。もう息ができず、死ぬんだと覚悟した。ヘルプと何度も叫んだ。どのくらい経ったか、そのとき声が聞こえた。「心配するな、ブラザー、すぐに助け出してやる」。その声を忘れない。消防士たちが互いに「ブラザー」と呼び合っていることを知っていた。近くに何人も消防士たちがとを思い出した。助かる、とそのとき思った。

■FDNYカメラマン、ジョージ・ファリナーチ
 現場に到着したときはすでにカオスだった。無線も聞こえなかったし、この混沌に見合う装備も何もなかった。手にしていたのは斧とかハンマーとか。何も持っていない者はすでに潰れた消防車から使えそうな物を引っ張り取っていた。しかしそれもゴミ漁りにしか役立たないような代物だった。それで作業を始めなければならなかった。しかもあの日は消防学校の卒業式から間もなく、9月11日はまさに現場に出るのがまったく初めての消防士たちも多かったんだ。

■フリーランスジャーナリスト、ピーター・フォーリー
 タワーが倒れた後でさえも、数百人の消防士たちが現場に駆け戻っていった。足下には落とし穴が待ち受け、周囲のビルからもガラスや窓枠の金属などが断続的に降り注いでいた。逃げるではなく進んでゆく人々。救急隊も恐れを知らなかった。現場はものすごい熱だった。彼らを見ていて、感動に心臓が止まりそうだった。

■消防船「ジョン・J・ハーヴィー」号船長。ハントリー・ギル
 ハドソン川沿いの現場に到着したのは2つ目のタワーが崩壊してまもなくだった。ちょうど沿岸警備隊の無線がイースト川やバッテリー公園沖のすべての船舶に協力を要請しはじめた。WTCの現場近くでは逃げようもなく川沿いに押しやられた人々でいっぱいだったから。あの日、民間も含めてボートが大変な威力を発揮した。トンネルも閉鎖、橋も閉鎖、道路もままならにときに、1万人から2万人もの人々がニュージャージー側に逃げようとしていた。ボートだけが逃げる手段だった。旅客運航などしたこともないボートが数十台もハドソン川を猛スピードで行き来していた。

■海兵隊安全局大尉、スコット・シールズ
 水がなかった。供給システムがダウンしていた。それでもまだ火は燃えつづけていた。我々を取り囲む周辺のビルもすべて同様に燃えはじめ、トラックの大きさの瓦礫があちこちで落ちてきていた。火と戦う水がほしかった。そのとき、消防船がやってきた。ジョン・J・ハーヴィー号だ。あれは古くてもうスクラップだというのでNY市が5万ドル(当時レートで600万円)で消防に払い下げた船なんた。でも、ハーヴィーは他のどの消防船よりも水を大量に汲み上げられた。WTC北西の岸辺に停泊して水を供給してくれたハーヴィーは我々のヒーローだった。

■連邦緊急事態管理庁(FEMA)、マイケル・リーガー
 あのとき救助の人々を衝き動かしていたものはただ、希望だった。だが、その希望も色あせていった。おぼえているが、3日目だ。もう生存者はいないとどこかでわかったのは。実際、翌12日の朝に5人の生存者が見つかっただけで、それ以後はだれも生きて発見されなかった。

■星条旗を掲げる3人の消防士を撮影した「ザ・レコード」紙のカメラマン、トーマス・フランクリン
 もうフィルムが残っていなかった。最後の40枚を撮ってから帰ろうと現場を振り返ったときに、30メートルほど先で3人の消防士が星条旗を揚げようとしているのが目に入った。淡々と、儀式めいたところも何もなく、ただ黙って、仕事のように旗を揚げようとしていた。写真を撮りながら、ジョー・ローゼンタールの硫黄島の写真を思い出していた。これが私たちの連帯と誇りとを示すポジティヴな写真と受け取られていることをうれしく思う。

■第5はしご車隊、スティーヴン・ナポリターノ
 あの現場でおぼえているのはバケツだね、バケツ・リレー。あんな巨大な作業で、そんな小さな道具を使っていたんだ。何百人もが何百個ものプラスチックのバケツで延々と土砂を取り除いていた。皮肉なもんだね。そんなことが頭を去らないんだ。

■第4はしご車隊 ジェイムズ・ダフィー
 南タワーが崩れたとき、ぼくは北タワーのロビーにいて、生まれて初めてあんな大きな音を聞いた。一瞬のうちに10メートルくらいぶっ飛んだよ。そのとき手に持っていた斧もハロゲンランプもなくしてしまった。でも、ハロゲンは翌日、他の人に見つけられて戻ってきた。

■第1消防車隊 ネルソン・ロス・ジュニア
 救助作業の現場で足場に目を落とすと、隙間から地下が覗けたんだ。見ると自分の足の下に車やらバスやらが埋まっていた。これはきっと駐車場だと思って他の仲間を呼ぶと、これは駐車場じゃない、ここは道だったところだと言われてね。そのときわかったね、これが110階のビルが潰れた跡なんだって。道であろうが公園であろうが関係なく覆い被さっている。そのときのショックはいまでも忘れられない。

■NY市警副調査官 ジェイムズ・ルオンゴ
 瓦礫、残骸が一時集積されるフレッシュキルで遺品などの回収を担当していた。ところがね、あれほどの残骸の中で、物の無さが私にとってはショックだった。あんなにたくさんの残骸の中に、ドアがない、電話機もない、コンピュータもない。ドアノブさえないんだ。みんな溶けてなくなったか溶けて塊になってしまったか。でもなぜかプラスチックのIDカードがたくさん回収されたね。革の財布にでも入っていたからだろうか。そう、現金も全部で7万5000ドルほど回収された。だれのものかは永遠にわからないだろうが。

■第5はしご車隊副隊長 ケネス・クリスチャンセン
 おぼえているのは現場の静かさだ。ひどく静かだった。きっと混乱してすごいだろうと思っていたが、実際に到着してみると、あるのは粉塵と金属の塊だった。なにもなかった。椅子もない。全部つぶされて何が何だか分からなかった。

■第24消防車隊 ジョン・オトランドー
 スミソニアン博物館や港湾委員会、NY歴史学会などは事件発生当初からこのテロを記憶するためにさまざまな遺品や遺物を収集している。そういう物は博物館に飾れるからいいよね。でも、本当に後世に伝えたいものは、あの時のみんなの働きぶりだよ。みんなが力を合わせて懸命に救助作業を続けていた。私の見たその努力と善意を博物館に飾ることができたらどんなにすばらしいことか。

◎「英雄たちのカレンダー」

 全米大都市の消防本部では選りすぐりのハンサムな消防士たちをモデルに毎年カレンダーを作っている。収益金を地域の消防教育や啓蒙基金に回しているのだ.

 FDNYも例外ではない。しかし02年版のそのカレンダーは昨年9月28日の発売を前に急きょ中止になった。343人の犠牲者を出したばかりでなく、モデルになった中にもロバート・コルディス、トーマス・フォーリー、アンヘル・フアルベの3人の殉職消防士が含まれていたからだ。

 だが今年、さまざまな追悼を経て殉職者のためにもぜひそのカレンダーを復刊させてほしいとの思いが寄せられた。そうしてFDNYはこれを来年03年版カレンダーとして復活させたのだ。

 これまで同カレンダーは「消防署のハンク(マッチョマン)たち」という名だった。が、今回の03年版はまさに「ヒーローたちのカレンダー」と改名。カバーも世界貿易センターだった昨年版の背景をエンパイアステート・ビルに差し替えた。3殉職者の1月、5月、10月のカレンダー写真には黒いリボンが喪章として添えられている。
(了)

◎「トゥー・マッチ以上」の心の傷を抱えつつ、逝った仲間たちを忘れず
                    ──第152消防署インタビュー


 マンハッタンの南端からさらにフェリーで25分ほど南下したニューヨーク湾上にニューヨーク市の5番目の区、スタテン島がある。人口は40万人ほど、面積はマンハッタン島の3倍近い150平方キロ。そこにももちろん20の消防署がある。その中の、隊員わずか17人の第152消防車隊もまた愛する仲間を失った。ロバート・コルディス消防士(当時28)。じつは彼は9.11のちょうど2週間前にブルックリン区の第1スクワッド(特別救助)隊に異動になっていた。しかし隊舎2階にはいまでも彼のロッカーが当時のまま残っている。ピーター・デフィーオ署長(51)、スティーヴ・ザザ主任消防士(43)、アンソニー・フラッシオーラ消防士(38)に話を聞いた。

       *
Qロバートの異動したスクワッド隊というのは?

デフィーオ署長 あれはレスキュー隊のもっと機動的なものでね、いちばん忙しくて危険なエリート部隊みたいなもんだ。ロブ(ロバート)はここで2年働いていたんだが、いつももっと忙しくて注目を浴びるようなところで活躍したいと思ってた。だからあの現場で真っ先にタワーに飛び込んでいったと聞いても、まあ、あいつならそうするだろうなと思ったよ。

Q異動は喜んでいた?

デ署長 ああ、これでまた女にモテるってな(笑)。若かったから仕事以外はぜんぶ女だ(笑)。とにかくうちにいた2年間、なんにでも積極的だった。オフの日は近くのバーでバーテンもしてたくらいだ。人気者だったよ。町のみんながやつを知っていた。

フラッシオーラ消防士 おれもよくあいつに遊びに誘われてたんだが、こっちは女房持ちだしね、なかなか付き合いきれなかった。あいつはよくマンハッタンまで出かけて飲んでたな。それに、2002年のFDNYのカレンダーにもモデルとして採用されて、それもとても喜んでいた。2階のワークアウト室でいつも体を鍛えてたからそれは誇りにしてたよ。もちろん、またこれでモテるぜってのもあったろうが(笑)。

ザザ主任 カレンダー、見たか? ウォールストリートの雄牛の像に上半身裸でまたがってるやつさ。

デ署長 そうそう、そういえばロブのガールフレンドだっていう若い娘さんがあの事件の後でうちの署にやって来たよ。3人も、だ(笑)。

フ消防士 あいつは料理も上手でね。パスタなんか、最初に作ってくれたのはチキンが載ってるやつでこれが美味かった。褒めてやったら照れてたけどな。

Q死んだと知らされて?

フ消防士 ……そうだな、なんだか……頭が熱くなった。やつだけじゃなく、他の親友も死んだんだ。ロブの報せを受けたのは14日だったかな。それまでだれが死んだのかもわからなかった。ぽつりぽつりと噂のように死者の名前が伝わってきた。毎日増えていった。トゥー・マッチ(ひどすぎる)だと思った。トゥー・マッチ以上だ。

Qショックはいまでも?

フ消防士 正直言って、ぶり返すね、ときどき。

デ署長 われわれは四六時中いっしょにいるからね。シフトは朝の9時から夕方の6時までの9時間と、その夕方6時から朝9時までの15時間の2交替。仕事もメシも風呂もその間ずっといっしょだ。家族? 家族以上だよ。

Qセラピーは?

フ消防士 受けてるやつもいるが、おれはやってない。家に帰って犬を蹴飛ばしてストレス解消だ(笑)。

デ署長 おいおい、女房は蹴飛ばすなよ(笑)。

ザ主任 死んだということもじつはどこかで認めたくないんだな。死んだって言葉を、言いたくないんだ。

Qあの朝はどうやって?

ザ主任 第一報を受けて大隊長を乗せてすぐにフェリー桟橋まで隊の車で飛んでいった。真正面にマンハッタンの南端が見えるから。1機目の突入後間もなくで煙はまだ白かった。そうしたらおれたちのすぐ頭の上をものすごい低空飛行で別の旅客機が飛んでいったんだよ、そのマンハッタンの方に向かって。何だ、と思って見ているとそれで見ている前でまたビルにヒットした。信じられなかった。これは大変だって目が覚めた。それでそのまま車で橋を使ってブルックリンに渡り、そこからトンネルを通って現場に急行したんだ。途中でもう一人大隊長を拾ってね。

フ消防士 おれはたまたま非番でブルックリンにいてね、橋が閉鎖されてスタテン島には戻れなかった。現場急行の指令が出ていたので近くにいたスクールバスに頼み込んで他の消防士たちといっしょにとにかくマンハッタンに向かったんだ。現場はすごかった。到着したときは2棟目も崩れた後でどこもかしこもぜんぶ粉だらけになっていた。あとは鉄の塊。何をしていいのか、どこから手を付ければいいのかわからない。とにかく近くにいた隊に合流してホースラインを引いて、それからけが人を捜した。

ザ主任 1棟目は爆発したんだ。ものすごい音だった。あの上層階部分が落っこちてきたんだ。一瞬のうちにあたりはみんな煙だな。雲が襲ってきた感じだ。そして気づくと音が消えてた。何も聞こえない。雲の向こうに消防車の点滅する明かりは見えたが、逃げる途中で道具もマスクもなくなっていた。いっしょにいた別の主任消防士は血だらけだった。煙がうっすらと晴れてあたりを見ると、そこにはちょうど飛行機の残骸がちらばっている場所だった。タイヤとか飛行機の窓とか。すごい光景だった。生きている人間はおれたち以外にはだれもいないんじゃないかと思った。

Q2棟目は?

ザ主任 あれは潰れ込むようだった。爆発音ではなく、地響きのようなとどろきが上の方から聞こえてきた。これは死ぬと思った。逃げても逃げても巨大な鉄の桁や梁が降ってくるんだ。それにつぶされてみんな死んでるんだ。よく生きてたと思う。何なんだろうな、その違いってのは。

フ消防士 現場でおぼえているのはフラストレーションだ。無力感。

ザ主任 1年前にいっしょに現場に行った車はいま署の中にあるよ。窓は破れてボンネットもぼこぼこだったんだが、それでもみんな修理が済んで復帰してきた。

デ署長 ロブのロッカーもまだ2階に残してあるよ。

フ消防士 ヴィン・ディーゼルっていう最近人気のマッチョ俳優を知ってるか? あれがロブに似ているってんでロッカーの扉にはその俳優の写真が貼ってあるんだ。後で見せるよ。

デ署長 あいつは一人息子でね、母さんは去年の感謝祭(11月下旬)にこの署に挨拶に来たが、つらそうだったな。毎年感謝祭には署で七面鳥を焼くんだが、さすがに去年はいつもと違った。事件から1年が経ったと言ってもな、まだまだ忘れることはできないし忘れようとも思わないよ。むしろ忘れないようにしてるんだ。
(了)

◎FDNYフットボールチームの再建

 ニューヨークでは警察と消防は永遠のよきライバルでもある。とくに両者間では毎年、各種のスポーツ競技会がチャリティー名目で開催される。NYPDの精鋭(ザ・ファイネスト)たちとFDNYの勇者(ザ・ブレイヴェスト)たち。だが、ことしのアメフト大会はやや様相を異にした。

 9.11から間もない昨年10月初め、FDNYの「ザ・ブレイヴェスト・フットボール・クラブ」のメンバーの間で熱い議論が起こっていた。30年間続いたこの伝統のチームを解散させるのか否か。343人の殉職者の中にこのチームの中心メンバー22人も含まれていたのだ。チームの二本立てのクォーターバックであるパット・ライオンズとトム・カルンの2人も亡くなった。「パットのためならなんでもやってやるという気になったんだ」とチームメイトのウッディー・マッケイルは言う。「ハドルの中にパットが入ってくると、彼の自信がおれたちみんなに乗り移ってきたんだ」

 このままではチームの士気も運営もままならなかった。精神的ショックから立ち直れなかった。アメリカの消防士たちはほとんど家族にも似た同胞愛で結ばれている。一日いっぱいを共に過ごし、共に料理をし、共に働き、共に教え合い、共に学び合う。一人の人生はみんなの人生とつながっている。

 フルバックのトム・ナルドゥッチが訴えた。「今年、おれたちは120人もの新人の加入サインを受けてるんだ。こんなことは前にはなかったことだ。みんな、生きるってことの意味が変わったんだ。フットボールは、おれたちにとってもう単なるスポーツじゃないんだ」

 FDNYチームは例年、全米の消防や救急隊からなる公共安全機関フットボールリーグなどで試合を続け、それから5月のNYPDとの恒例の対抗試合に臨む。それがメイン・イヴェントだ。「今年の試合の意味は、前と同じことをやるということなんだ」とNYPD側の監督ピート・ムーグも言う。「テロで変えられてたまるか。これがアメリカのやり方なんだ、というところを見せてやらなくてはならない」

 5月19日、ニューヨークのお隣ニュージャージー州のジャイアンツ・スタジアムで、第30回「ファン・シティー・ボウル」が1万2000人の観客を集めてキックオフされた。22人のチームメイトの遺族も招待されていた。殉職したプレイヤーのジャージーが一枚一枚額に入れられてその遺族に贈呈された。そこには「我らがチームの永遠のヒーロー」とのプレートが付いていた。

 試合は10対0でNYPDの勝利に終わった。FDNYでMVPに輝いたディフェンスのスティーヴン・オーは言う。「去年は一緒に戦った仲間が今年はいない。それは変な気持ちだ。だがひとたび試合が始まればあとは勝つことしか考えないからいい」
(了)


◎マイケル・ジャッジ通り(31st Street between 6th and 7th Avenue)

 全米の消防署にはそれぞれ所属の司祭がいる。被災現場で犠牲者を弔い遺族をいたわり、殉職消防士の葬儀も司る。FDNYにはマイケル・ジャッジ神父(当時68)がいた。ブルックリン生まれのちゃきちゃきのニューヨーカーで子供のころは靴磨きもした。気さくで冗談が好きでやさしく温かく、だれもにファーザー・マイクとファーストネームで呼ばれるニューヨークの名物神父だった。消防士たちといっしょにどんな現場にも真っ先に駆けつけた。昨年9月11日の朝も同じだった。燃えさかる北タワーの現場に神父はいた。安全なところに避難してくださいと若い消防士たちに促されても頑として彼らとともに行動していたのだ。

 瀕死の重傷を負った消防士が仮指揮所を設けたロビーに運び込まれた。神父は彼に駆け寄った。彼に最後の祈りを与えてやらねばいけなかった。そのために神父はヘルメットを脱いだ。そのとき、南タワーが崩落した。北タワー・ロビーに飛び込んできた瓦礫の一片が神父を直撃した。即死だった。世界貿易センターテロで、公式に名前の確認された最初の殉職者の一人がこのファーザー・マイクだった。

 ファーザー・マイクの居所はマンハッタン中心部、西31丁目のアッシジ聖フランシス教会だった。通りを挟んで目の前がFDNYの第1消防車隊兼第24はしご車隊だ。ここにいるだれもがファーザー・マイクを悼み、いまも神父の写真を署に掲げている。

 NY市議会議長と当時のジュリアーニ市長が共同提案者という異例の扱いで、神父のいた31丁目の六番街と七番街までの間が「ファーザー・マイケル・ジャッジ通り」と命名された。それだけではない。神父の人生をしのぶ1時間枠のドキュメンタリー番組も制作され、東90丁目とウォールストリートを結ぶ通勤フェリーも「ファーザー・マイク」号と改名された。

 消防に尽くしただけではなかった。神父はゲイ男性でもあり、エイズ禍の最初期から他の教会にも見捨てられたエイズ患者の世話を見てきた。クリントン前大統領夫妻も神父と親友づきあいをしていた。

 神父をよく知るデイヴィッド・フューラム消防士は「神父が大好きだった」と話す。「私と妻の結婚式も長女の洗礼式もみなファーザー・マイクがやってくれた。神父は私の人生の一部だった。あんなに大きな心を持った人はいない。彼を知っている人はみんな彼に感動していたんだよ」
(了)


December 23, 2004

2004年のクリスマス

 クリスマスの週の夕食会の後、友人とさらに飲み直そうといことになってミッドタウンのバーに入った。カウンターで飲んでいるうちに右どなりの男性の話が耳に入ってきた。イラクから帰ってきて、来週またイラクに戻るのだという。
 その彼はジェリーさんといった。39歳、離婚したが2歳と4歳の子供がいる。その子らに会うのが今回のクリスマス休暇の目的だ。
    *
 米兵ではない。例のハリバートンの子会社KBRのイラク建設事業に、自分で建設請負会社を設立して参画し、04年3月からバグダッドに入っている。危険は厭わない。
 「ニューヨークで生きてきたんだ。いまじゃここもアメリカで最も安全な街の一つになったが基本は同じ。後ろに注意する。周りをよく見る。知らないやつは信じない」
 イラクで仕事をするには3つの「P」があるという。「Be Professional(プロであること)」「Be Polite(地元の人間に丁寧に接すること)」、そして「Be Prepared to kill(ひとを殺さなければならないときは躊躇なく殺せるようにいつでも心構えしておくこと」。この3Pを怠ったときは、自分が殺される(かもしれない)ときだ。
    *
 そんなところに身を投じたのは、90年代の証券市場やレストラン事業での失敗を「イラク」という大きなビジネスチャンスでオセロゲームよろしく一発逆転させるためだった。「イラク」はいま、どんなものでも求めている。そこに入り込めれば、一攫千金は夢ではない。危険は頭を使えば回避できる。
 日本人が殺されたのも知っている。斬首されたアメリカ人の通信技術者も、仕事仲間から聞いた話では「いいやつ過ぎた」らしい。「だめなんだ、それじゃ」と彼はいう。
 至る所に反米勢力のスパイはいる。仕事を通じて親しくなったイラク人に結婚式によばれたこともある。行かなかった。信じていないわけではない。しかしそういうときは万が一のリスクでも回避する方を取る。それだけのことだ。だいたい、危険だといっても2年近く戦争をしてきて米軍側の死者が1300人というのはけっこういい数字じゃないかと彼はいう。アメリカでは交通事故で年間4万人以上が死ぬのだ。
    *
 バグダッドでは米軍基地に暮らす。軍関連の仕事を請け負うハリバートンの関係だ。イラク復興事業に関与するイギリスやトルコなど数カ国の民間事業者もその米軍基地を拠点として活動するようになっている。ほかに安全なところがないからだ。危険なところに放置して拉致され、救出しなければならないとなったらなおさら厄介だからだ。
 橋やビルや学校など建設事業はKBRが一括管理し、その都度下請けの入札や談合が行われる。そこにジェリーさんのようなさまざまな中小事業者が仕事を求めて群がる。
 ジェリーさんの会社がビル建設を落札したら、そこから地元バグダッドの個人建設会社を孫請けにしてイラク人労働者を雇い入れ、工事に着手する。1万ドルあれば引退して悠々自適の生活ができるというイラクで、今年初めの労賃は1日3ドル以下だったのが、その後5ドルになり、10ドルになり、いまでは20ドルに近づいているという。
    *
 イラクの人々は「スウィートだ」とジェリーさんはいう。やさしい人びと。だが、そうやって割のいい仕事を求めて群がる彼らが、子供までもが物乞いのように雇用を懇願する。それを見るのは忍びない。だが、それが現実だ。
 「現実ってのは、これからどうするかってことだよ。アメリカ人がイラクにいる権利は本当はないのかもしれない。だが、もういるんだ。もしいまアメリカが手を引けば、この無政府状態のイラクにイランが侵攻してくるだろう。するとトルコもイランに攻め込むかもしれない。するとヨルダンがどう動くか。そんなことになったらまたアメリカがイラクに戻ってこなくてはならなくなる。そうなったらいまよりひどい混乱が起きるだけだ」
    *
 砂嵐は二度経験した。外になど出ていられない。それよりも怖かったのはゴルフボール大の雹(ひょう)の嵐だ。米軍宿舎がごんごんごんごん音を立てるものだから何だと思ったら雹だった。その雹よりいやなものが虫だ。凶暴なハエ。透明なサソリ。そして毒蛇。「おれはやっぱりニューヨーカーなんだ」と笑う。
 この経験は自分にとって何になるかと聞いてみた。「よりよい人間になると思う」と即答された。
 よりタフな人間?
 「いや、ベターな人間さ。ものをよく考え、状況を判断し、そして、ひとを裏切らない人間」。なぜなら、「なんといっても、イラクでの仕事の魅力は友情、同志愛なんだ。あそこくらい男の世界はないからな」
 すべて仕事が終わったら金を持ってニューヨークに戻ってくるのか? 「次はイランだな、イランに行く」
 そこまで聞いて零下11度の未明に別れた。
    *
 まだ酔いの残る翌朝、ベッドから起き上がってニュースをチェックすると、イラク北部、モスルの米軍基地がロケット弾で攻撃されたという記事が飛び込んできた。昼食中の米兵ら22人が死亡。ハリバートンの子会社KBRの社員4人も死亡していた──バグダッドではないとはいえ、それはジェリーさんの語った軍とKBRの話そのものだ。その話をしていた1時間後、時差8時間先での出来事だった。
    *
 ジェリーさんの話には数字のウソがある。
 米国の交通事故死は3億人の総人口に対する値だ。イラク派兵数は15万人。15万人当たりの交通死者は年20人に過ぎない。
 そしてもうひとつ。「P」はおそらく3つでは足りない。
 新しい年はイラクにもやってくる。ただしそれは、私たちの新年とは違うのも確かだ。

December 20, 2003

2003/12「ギャンブルで未来を占う」

 「ブッシュ政権はわれわれにジョージ・オーウェル式の、みだりにプライバシーに立ち入るビッグブラザー国家への道をたどらせている」──11月9日、ワシントンに集まった全米のリベラル派法曹関係者2500人を前に久しぶりに講演したゴア前副大統領は厳しいブッシュ批判を展開した。

 攻撃の的は特に9.11後の混乱の中でできた米国愛国者法。連邦捜査局(FBI)はこれで市民の個人情報を容易に入手できる権限を持ち、市民は捜査されたことさえ外部に明かせない。隣人が互いに不審な目撃情報を申告し合いその情報をデータベース化する「魔手(Talon)」というコード名の、まるで密告のシステム化のような計画の存在も明るみに出た。背後にはアシュクロフト司法長官やウォルフォウィッツ国防副長官らネオコン閣僚の指示があった。

 そんな政権を、逆に市民が監視するシステムを作ろうじゃないかというリベラル派の巻き返しが出てきても不思議ではない。

 夏以降、まずマサチューセッツ工科大学(MIT)メディア研究所のチームがブッシュ政権の行動予測を行う「政府情報認知(Government Information Awareness)」というサイトを開設した。

旅行、クレジットカード、医療などの個人データにアクセスしてテロ行動の予測を図る国防総省の「テロ情報認知」プログラムに対抗するものだった。同じくMITやイェール、ニューヨーク大学などの研究者たちによる「アメリカン・アクション・マーケット(AAM)」という情報先物市場の開設も進行中だ。そこではホワイトハウスが次に何をするかという予測を“売買”する。

 「すべては国防総省のテロ情報先物取引市場の計画がきっかけだ」とAAMで広報役を務めるボブ・オスタータグ氏は説明する。

 7月に明るみに出た国防総省のこの計画は、テロ攻撃や指導者暗殺の可能性についての情報先物市場をネット上に設置する構想だった。そのための準備サイトでは当時、取引例として「アラファト議長暗殺」や「北朝鮮のミサイル攻撃」の可能性といったものまでが掲載されていた。

 仕組みはこうだ。次の1年を四半期に区切り、それぞれの期間にテロや政権転覆などの「ある事柄」が起きるかどうかを売買する。例えば「04年第1四半期内でサダム・フセインは米軍に捕捉もしくは殺害される」あるいは「されない」という上場先物の売買が行われる。契約額の多寡は投機家が各自で決める。

 「される」の買いが全体の7割になれば、その起こる可能性も7割あるという見方もできる。その期ごとに決済が行われ、実際に起きた(あるいは起きなかった)結果を先物契約していた投機家が、予測の外れた契約金分を総取りするという仕組み。情報の売買ではあるが、契約金はギャンブルでの賭け金に近い。

 賭け金を張る以上、トレーダーたちは世界中の情報網を駆使するだろう。その結果、賭けの内容という形でさまざまな情報が集積される。賭け金が上がれば上がるほどその情報の確度も増す。石油価格やオレンジ価格など、従来から先物市場の情報収集能力は折紙付きだ。「先物」が「テロ情報」に変わっても原理は同じ。米国政府もこうした市場情報の公開がテロを牽制・察知する契機になるとふんでのことだった。

 とはいえ、資金豊富なテロ組織自体がトレーダーとなって市場をかく乱したらどうなるか。暗殺に賭けた投機家がテロリストでもないのに暗殺者を雇いはしないか。そもそも殺人とか破壊とかで賭場を開くことは正しいことか||非難が渦巻いて計画はあっというまに中止に追い込まれた。

 それでも現政権に対するリベラル派の不信は募る一方だ。AAMの先物情報の取引システムはテロ先物市場と同じだが、内容は逆に「ブッシュが次に最後通牒を突きつけるのはどの国か」「中央情報局(CIA)との関係を断って次にお尋ね者リストに入れられる外国元首は誰か」など。AAMではこうした予測情報の先行によってネオコン政権の独断専行自体に抑制が働くことを期待している。

 もっとも、市場は政治的思惑に関わりなく動く。開設予告からこの4カ月ほどで、AAMの準備サイトには日本人も含む世界各国の投機家から数千件も問い合わせが殺到した。同様の情報先物市場はほかにも「オピニオン・エクスチェンジ(OX)」が来年半ばに開設予定。国防総省の挫折したテロ先物市場も、共同計画していた民間企業が来年3月に独自に開設すると発表した。

 ただし、米国ではオンライン・ギャンブルは禁止。スポーツばかりか政治問題でも賭けを行う「トレードスポーツ・コム」などの現存サイトはいずれも英国などの外国籍。米国の各選挙結果を予測するアイオワ大学の「アイオワ電子市場」は非営利だ。

 AAMのオスタータグ氏は「テロ先物市場を構想したペンタゴンは少なくともそれを違法とは思わなかった。ならばわれわれも法の下で平等だ」とは言うが、実際は売買を第三者に迂回させるなどの方策を検討中だという。

 MITの「政府情報認知」サイトにはフランクリン・ルーズベルトの言葉が掲げられている。「自由を保持するための唯一確固たる土塁は国民の利益を守るに十分な強さを持った政府と、そしてその政府を主権者として管理し続けるに十分な強さと情報を持った国民なのである」。

 「情報」売買をめぐる代理合戦めいたリベラルvsネオコン攻防の表面化。これももちろん、来年の大統領選挙をにらんでのことだ。

November 20, 2003

2003/11「ボギーの時代」

 シュワルツェネッガーの加州知事選圧勝で喉に引っかかった小骨のように気になったのは、もはや「セクハラ」も「ヒトラー礼讃」も大した問題ではないのかなあという思いだった。

 この2点はとても象徴的で、シュワちゃんに否定的な人はまさにそんな2つに象徴される彼の「男オトコした単純さ」が苦手なのだ。逆に言えば彼の圧勝は、巷間いわれるような「政治のアウトサイダーへの期待」とか「変化への期待」とかとは別に、そんな「男オトコした単純さ」が望まれたということでもあるのだろうか。

 「ボギー、ボギー、あんたの時代はよかった」とジュリーが歌ったのは25年も前である。思えば阿久悠もすごい歌詞を書いたもんだ。アメリカはそれからいわゆる「PC(政治的正しさ)の時代」を通り抜けた。「聞き分けのない女の頬をひとつふたつ張り倒して」なんて滅相もない。それは歴とした犯罪、不正義になった。

 だが、あるいはだからこそ、「女どもは小賢しいことを言いはじめ、おまけにゲイなんて連中も人権だの性的指向だのとワケのワカランことを言うようになった」みたいな、七面倒くさい理屈から来る鬱憤が溜まりに溜まって、「ええい、面倒くせえっ!」とばかりに「男オトコした単純さ」の逆襲がいま始まっているのだろうか。

 いや、それは「いま」に始まったことではない。ヒトラー礼讃のネオナチは欧州で1970年代から台頭し、フェミニズムへの逆風はフェミニズムの誕生時から顕在していた。ブッシュ政権への高支持率もこれにつながるところがある。

 複雑なことは言わない。世界は善と悪、男と女に2分され、やかましいことを言うやつはなんでもテロリストとして先制攻撃。あとのことはあとになってから考えればいいーーそうしてイラク情勢は、「だから言っただろ」という決まり文句がはまりすぎるほど見事に予告的に、ゲリラ化・泥沼化の様相を呈しはじめている。「テキサスの男らしさ」を看板に掲げた、その実、ネオ・コンサヴァティズムの性急な力業の落ち着き先がこれである。

 翻って日本でも、千羽鶴が焼かれたのも記憶に新しい広島で、今度はまた原爆ドームの石碑が手形で汚された。「セクハラ」や「ヒトラー」同様、「ヒロシマ」も大した問題ではなくなっている。そういや「憲法」なんてものも、自民党による「改正」の道筋が決まる。狙いはもちろん、憲法第9条である。対立軸であるべきはずの民主党にしても改憲派が多数を占めるのだから。

 かつては確かに存在していたはずの、大きな「正しさ」の象徴だったものたちの空洞化。というか、大きな「正しさ」だけを掲げてその実地を育み維持する努力を怠ってきた(いやむしろ自民党政権にとっては「はぐくみ維持する努力こそが邪魔だった」その)結果が、理念とか倫理とかいうもののスカスカの骨抜き状態であることは自明の理なのだ。

 その空っぽになった空間を、いまからふたたび埋め直す作業というのは、はて、可能なのだろうか。それとも何かまるで別の道を行くべきなのだろうか。

 かつて、ヒトラーの国家元帥にまでなりつめ失脚したヘルマン・ゲーリングが、戦後の戦勝国連合によるニュルンベルグ裁判で次のようにうそぶいた。

 ◆◆Naturally, the common people don't want war, but after all, it is the leaders of a country who determine the policy, and it is always a simple matter to drag people along whether it is a democracy, or a fascist dictatorship, or a parliament, or a communist dictatorship. Voice or no voice, the people can always be brought to the bidding of the leaders. This is easy. All you have to do is to tel them they are being attacked, and denounce the pacifists for lack of patriotism and exposing the country to danger. It works the same in every country.

(当然のこととして、庶民というものは戦争など望まない。しかし、とどのつまり国家の方針を決めるのはその国の指導者たちである。そうして民主制度であろうとファシストの独裁政権であろうと、あるいは議会制であろうと共産主義独裁であろうと、人々を引きずり動かす事情というのは常に単純なことがらだ。声を出そうが出すまいが、国民というものはいつだって指導者層の命令に従うよう仕向けることができる。簡単なことだ。国民たちに、おまえたちは攻撃されようとしていると言う、ただそれだけでよい。そうして平和主義者たちを愛国心に足りず国家を危険に晒している者たちだと非難すればよい。これはすべての国家で等しく通用する)
        

 「おまえたちは攻撃されようとしている」というのはさしづめ、いまの日本にとっては北朝鮮だろうか。いや、「日本が北朝鮮にミサイル攻撃されようとしている」という関係だけでなく、北朝鮮の「庶民」にとってはおそらく「北朝鮮が日本に攻撃されている」という反転した関係になっている、その相互の意味においても。

 自民党の自称「危機管理派」は、今まさに「こんな時にも平和だ平和が大事だと言っている脳天気がいる。平和が大切なのは当たり前です。その平和のためにも自衛のための軍備が必要なのです」として、「平和主義者たちを愛国心に足りず国家を危険に晒している者たちだと非難」しているのだから、北と日本のどちらがゲーリングの講釈した煽動なのか。

 まあ、どっちもどっちだろうと分かっていながら、こういうのはたしかに「すべての国家で等しく通用する」謂いであるには違いない。

 さて、憲法第9条というのは、戦争など望まない普通の庶民が戦争へと向かう上記ゲーリングの披瀝したからくりを充分に咀嚼(そしゃく)した上での、一つの結論だった。それは「単純な男っぽさ」をけっして志向しないという、新たな時代の意志だった。

 しかし、それもそろそろまたもう一度、そうした意志を共有するためにはそんなばかげたからくりにまたもや自ら騙されてみなければならないという、痛みの体験が必要になるほどの時間が経ってしまったのかもしれない。

 「だから言っただろ」と言わなくて済むように、何を、今すればよいのだろうか。とりあえず選挙である。ひとつ言えることは、「政権交代の可能性」というのはそれ自体、それだけでも政治をよりシャンとさせるということである。

 聞き分けのないやつはひとつふたつ張り倒せばいいという時代は、逆行であろうが進歩であろうが、どちらとも勘弁ねがいたい。

October 20, 2003

2003/10「お客様」の領域

 前回も触れたが、先月3週間ほど日本に行っていたのはまずは北大医学部のエイズに関するワークショップに招かれて札幌で講演を行ってきたためである。題目は「若者のエイズ予防におけるメディアの役割」。米国の例を挙げてマスメディアがいかにこの問題に取り組んできたかを紹介し、日本のメディアとの差を検証してみた。

 それにしても、エイズに対する、いやエイズに限らずおそらくほとんどの社会事象に対する人びとの向き合い方の、日米間にある種ぬぐい去りがたいこの温度差の正体はいったい何なのだろうかと飛行機の中でもつらつら考えていて、成田空港に降り立ったときに、ああ、これなんだと気づいた。なんと清潔で、かつすみずみまで接客の行き届いた場所なのだろう!

 日本ではしばしばパブリックとプライベートが混同される。公的な話と私的な話とが見境なく混じり合う。「他人」行儀が疎まれ、「身内」になることが他人との関係性の究極の目標とされる。つまり、この世には「身内」と「それ以外の人」しかいないのである。

 身内付き合いが究極の目的なのでセクハラもどきの軽口さえ「身内の証拠だ」と信じている人がいる。政治家の失言も同じくこの種の身内話の延長にある。身内だけのジョークとして言ったのに新聞なんかが書くからああいうことになる、といまでも勘違いして自分は悪くないと思っている日本の政治家はじつはかなり多い。

 他人と個と個として向き合う、真っ当というかそれゆえに頭を使う対等の付き合いは敬遠され、それが高じて身内になり得ない、関係のないやつらは目に見えなくなる。どうでもよくなるのだ。

 こうして電車内で傍若無人に振る舞い、人混みでぶつかっても「失礼」とさえ言わずに立ち去る輩が出てくる。パブリックな場、他人と客観的に向き合う公の場での立ち振る舞いが蔑(ないがし)ろになるのである。「他人」とは「関係ないやつら」に他ならないからである。

 では日本には他人と付き合う場はないのかというと、成田空港に降り立って気づいたのは「お客様の領域」というべきものなのである。これはアメリカにはない。いや、大富豪や貴族階級を相手にする「お得意様の領域」というのは欧米にも存在するのだが、一般を相手にこれほど気配りの行き届いた「場」はまずない。

 空港はきれいだ。デパートの接客は丁寧だ。銀行の窓口もすばらしい笑顔。対して、米国の空港はなんとも殺伐とし、デパートの売り子は怖いほど。銀行もつっけんどんでスーパーなんぞ買った品をショッピングバッグに投げ入れられる始末。日本に帰ってきて「お客様」扱いされると、それだけで「ああ、なんていい国なんだ!」と思ってしまう。

 しかし、なぜまた「エイズ」の話でこんなことを考えたかというと、ところがただし、「お客様の領域」では議論が成り立たないということからである。

 「お客様」とは議論できない。「お客様」にはひたすら謝るのみである。そうしてとにかくお引き取り願って、その後でアッカンベエだ。かつ「身内」でも議論はじつは成り立たない。「まあまあ、おたがい仲間なんだから」ということで対立は(対立ではなく建設的な叩き台ですら)触れる前から回避されてしまうのである。

 そうするとどうなるか。議論とか話し合いとか、そういう「他者」との客観的なつながりを作るための行為がないと「社会」は形成されない。この社会がじつは多くの他人が存在する「公」という部分なのである。日本では「公」と「私」が混同されるというが、じつは混同ではなくて「公」がないのだ(「官」はありつづけているが)。そしてその「公」の部分が「お客様の領域」で置き換わっている。

 「他人」とは「関係ないやつら」と書いたが、「お客様」とはそんな中でゆいいつの「関係ある他人」だ。というか、他人との関係性を「客」か「客でない」かでしか計れない、日本人はそういうところに陥ってしまっているのではないか。

 個と個が対等に付き合える「公」がなければコミュニティーとしての強さは出てくるはずもない。そんな社会は、エイズでもなんでも、さまざまな脅威にとても弱い社会である。「若者のエイズ予防」だなどと言っても、それはゆいいつ心に届く(?)「身内話」にはなりようがないから、端から耳に入ってこない。そんなからくり……。

 アメリカで暮らしていて、時々とても疲れるのはどこでも議論が成立してしまうせいでもある。ある意味それが煩わしさよりも理に適って割り切りやすさにもつながるのだが、ところがスーパーマーケットの店員やタクシーの運転手とも議論しなくてはならないときがあってそんなときはまったく腹立たしい。こっちは客なんだぞと捨て台詞のつもりで言ってみてもそれは議論をなおさらややこしくさせるだけだ。

 対して日本はこの「お客様の領域」へのこだわりを活かして産業も成功した。いかにお客様を喜ばせるかを徹頭徹尾考えて、ウォークマンも生まれたし、レクサスも世界の最高級車に進化した。コンビニ弁当を含めマクドナルドやKFCまで日本のファストフードははるかに美味しいし、デパ地下の商品バラエティーなどアメリカのプロの料理人が見たら卒倒しかねない。

 とても心地よい「身内の領域」と世界的にもユニークなその「お客様の領域」の二つながらをきちっと残しながら、それでいて個と個とが対等に接し合えるもう一つの「公」という場も育てられたら、日本は実にやさしくかつ心強い、世界に誇れる社会になれるのに、というのが、今回のワークショップでの私の講演の結論だった。

 それはおそらく、来月の日本の総選挙での投票でも肝心な点だ。「身内」ではなく、いかに「公」を知っている候補者を選ぶか。議論が成立する場としての、日本の「公」を育てるのにどの候補がよいのか。それを基準に私も海外投票を行いたい。

September 20, 2003

2003/09「座頭市」が受賞した理由

 一時帰国の日本で「座頭市」を見た。尊敬するニッポン放送のKくんに「ぜったいに見てください。ぼくは涙が出ましたよ」と薦められたからで、ふつうなら見ないで過ごすところだった。

 北野武の映画はこれまで、いずれもなんだかとてもわざとくさくて好きになれなかった。あの、まったく話さない演出とか、ほとんど話さない演出とか、むやみな暴力の噴出とか、作り手の意図がいかにもあからさまに透けて見えるのがどうもいやだった。

 それが「座頭市」では端からチャンバラ劇である。わざとらしさ、作り物っぽさはすでに前提だから、そのぶん北野映画の“臭さ”が気にならなかったのかもしれない。しかしそれだけでヴェネチアで、トロントで、賞が取れるだろうか。

 「座頭市」は米国でもリメイクがある。「ブレードランナー」のルトガー・ハウアーが盲目の刀使いを演じた「ブラインド・フューリー」(1989)は三隅研次監督の「座頭市・血煙り街道」(1967)を下敷きにしたものだ。

 「北野座頭市」自体もリメイクだから、盲目の居合の達人というこの映画の基本コンセプトは欧米の映画通にもすでに既知のものだった。結局はおおいにそれに乗じていて、物語の巧みさといっても悪党たちの秘密はすぐにわかるし、浅野忠信の窮状もストーリー上の目新しい背景ではない。

 「最強」を謳うヒーロー性にしても、最強がカギならば「ゴジラ」が受賞してもおかしくはないし、時代劇としては往年の人気TVドラマ「必殺・仕掛け人」の方が爽快で入り組んでいるほどだ。ではどうしてこの娯楽アクションが外国で大きな賞を取れたのか。

 それは、最後のシーンに近いただ2つの台詞のせいである。一つは橘大五郎演じる「おせい」の一言。もう一つはこの「北野座頭市」その人の台詞である。(作品を観て、その台詞を見つけて下さい)

 この2つの台詞のせいで、北野「座頭市」はジェンダーとマイノリティーと、そしてアイデンティティー・ポリティクスという、欧米でいまも旬でありつづけているポストモダンの意匠をまとった。

 「主体は変幻できる」。それが受賞の理由である。さらにKくんの「涙」の理由でもある。欧米の観客や評論家はそこに反応する。痛快な娯楽アクションがオセロゲームの見事な一手のように不意に遡及的に知的な装いをまとうのである。

 「そんなに複雑な話じゃないさ」と、この映画をくだらないと唾棄した友人に言われたが、そのとおり。べつに複雑な話ではない。むしろそのことを実に単純な図式で示してしまった簡潔性は娯楽映画の必要条件。ただし、その簡潔さゆえに、この2つの台詞の重大な歴史性を、ジェンダーとマイノリティーとアイデンティティーの問題に疎い日本の観客がなんとなく分かっているふうに見過ごしてしまうのは往々にしてあり得るだろう。

 北野「座頭市」に関して、そのあたりにきちんと言及した批評は書かれているのだろうか。日本映画でこのことをこうして映画上の言葉にしたのは、この北野「座頭市」が初めてだということは覚えておいてよいのだ。

 これは大島渚の愚劣なバケモノ映画「御法度」(2000)と対極をなすものである。「衆道」という“欧米受けしそう”なテーマを中心に据え、しかも「オオシマ」というビッグネームが冠されていたのにあの映画が欧米でいっさいの映画賞を逃したのはなぜだったか、その理由が皆目わからないとばかりに大島は当時ただただ憮然とした表情をしていたが、そこにも出演していた北野武がまさにその巨匠に「座頭市」で理由を突きつけた格好になった。

 おそらく彼はそのへんも計算尽くである。勉強家というか、目の付け所を知っているというか、そんなビートたけしに、だから「続編」をねだってはいけない。続編はすでに座頭市ではない。

 米国での公開が待たれる。公開時期もあいまって、これはひょっとしたらひょっとするかもしれない。娯楽映画としてストーリー自体の浅さは否めないものの、ジェンダーとマイノリティーとアイデンティティーの問題を擦り込ませた演出の妙はいまの米国人の琴線に触れる。

 ポストモダンを理解したチャンバラ映画なんて、なんといっても世界初なのだから。

August 20, 2003

2003/08「正しくなさ」の小さな芽

 子どもには頭ごなしに教え込まなければだめな時期がある。理屈より先に大人が怒る姿を見せなければならない時もある。理屈を考えられるようになるまでは理詰めで説いても無駄なのだ。

 そのうちに良いことと悪いことの事例が刷り込まれ蓄積される。そうなれば自然とどうしてそうなのかを考えはじめる。なぜ大人が怒ったのか。そのときに理を教えてやるのだ。それは善悪の定義を言葉で補強してやることである。教育とはけっきょくはその二段構えなのではないか。どちらが欠けても子どもは混乱する。

 その頭ごなしと理詰めの使い分けはアメリカでは一般にティーンエイジャーかどうかで決まる。ティーンエイジャーとは英語で「ティーン」の付く13歳(サーティーン)からのことで12歳(トゥエルブ)まではそうではない。この違いはかなり大きい。

 13歳になれば「もう子どもじゃない」と見られる。対して12歳以下は「まだ子供」だ。12歳まではお小遣いの捻出も自宅前でレモネードを作って近所の人に買ってもらうのが関の山だが、13歳になれば子守のアルバイトもできるしボーイスカウトでは上級生。好きな子とのデートもなんとなく公認されるし学校ではダンスパーティーも行われる。

 子どもの発育は個人差が大きいから単純に年齢で区切れるものでもないが、なぜ13歳かといえばおそらくそれは、思春期を迎えるかどうかの違いだろうと思う。

 長崎の12歳の少年もティーンになる渦中だった。性的な変身に頭の回路が飛んでいたのかもしれない。それは程度の違いこそあれ、じつは私たち男のほとんどが身に覚えのあることだ。犯罪を踏みとどまれた私たちと、踏みとどまれなかった少年の違いは何なのだろうか。

 アメリカで犯罪の低年齢化が問題化してきた1970年代末、各州が少年法の厳罰化に着手しはじめた。その結果、刑事責任を問える最低年齢は14歳とか13歳、州によっては8歳、7歳にまで引き下げられた。最低年齢規定をあえて設けず、重大犯罪なら何歳でも、という州も多い。

 ただし、厳罰化しても犯罪の抑止には直接の効果はなかった。効果を上げているのはむしろゼロ・トレランス(犯罪への非寛容)策である。犯罪を見つけたら軽微なものでもすぐに警察が摘発するというこの施策は、一方で「割れ窓理論(the Broken-Window Theory)」とも連動してジュリアーニ前市長の下のニューヨークの犯罪が劇的に減少した。

 「割れ窓理論」とは、割られた窓をたった1つでも放置していると、他の窓まで割られる誘因になるという考え方だ。1つの落書きを放置していれば次から次へと別の落書きが増えるのと同じ。ここは落書きをしても、ガラスを割ってもいいのだと思わせてしまうからだ。だからとにかく、小さな「正しくなさ」でも許してはいけない。

 もっとも、最近のニューヨークは赤字財政の穴埋めをしようというのか、地下鉄の階段に腰掛けた妊婦や夜の公園を横切った歩行者などに「それも法律違反」と、警官がやたらと市民に罰金切符を切るというなんとはなしの息苦しさが満ちはじめているが。

 そんな極端は御免だが、小さな「正しくなさ」の芽が日本に蔓延しているのも確かだろう。親も、学校も、社会もそれを黙過して、長崎の12歳は、理詰め以前の叱正も理詰め以後の説諭もない暗い穴に落ちていたのかもしれない。

July 20, 2003

2003/07「笑いがいじめに変わるとき」

 知り合いのニューヨーク大学の先生から「マーガレット・チョーの新しいビデオが手に入ったから見に来ない?」と誘いがかかった。

 彼女は韓国系アメリカ人のコメディエンヌで、韓国の風習をひきずる自分の両親の珍妙な話をさんざん披露しては観客を大笑いさせる、現在のアメリカで最もとんがった人気コメディエンヌの1人だ。

 自分のことも「韓国系で、ブスでおまけにバイセクシュアルで、これで三振アウトよ」と公言してはばからない。先生宅にはほかの教授先生も集まって、ワインを飲みながら涙を流しながらの爆笑に次ぐ爆笑観賞会と相成った。

 ニューヨークの街角には「スタンダップ・コメディ」と看板のかかるナイトクラブがいくつもある。「立ったままのコメディ」という意味だが、いわば飲食付きの漫談専門寄席みたいなものだ。

 アメリカの笑いの主流はエッチな話、人種ジョーク、政治家への揶揄。そうしてほぼ共通して舌鋒鋭く笑われる対象は決まって「権力」、同時にもう一つ、コメディアン/コメディエンヌ自身という「自分」である。「他人」は、それが権力を持った人間である以外は笑いの対象にならない。あるいは、「してはいけない」という不文律が確立されている。

 人種ネタでもたとえばユダヤ人ネタがあり黒人ネタがあるが、それをジョークにできるのは当のユダヤ人、黒人など本人たちだけなのだ。それ以外の、たとえばユダヤ人が無自覚に黒人ネタをやったらこれはすぐにも人種差別になる。抗議の暴動だって起こりかねない。

 50年代のスタンダップコメディの鬼才レニー・ブルースは、ステージから「今日は何人、ニガーが来てるんだ?」と問いかけた。客たちは静まりかえった。ニガーというのは黒人に対する最大級の侮蔑語。しかし彼は自分が黒人と同じ「最低」なユダヤ人だという意識を背景に言葉の偽善やタブーを衝いたのだった。

 お笑いは、じつは呑気じゃやってられない仕事である。つねに権力の所在に敏感で、自虐をネタにできる頭の強さが要求される。いまハリウッドで活躍するトム・ハンクスもロビン・ウィリアムズもみんなこのスタンダップ・コメディ出身。そんな彼らのジョークは、ぜったいに弱者をネタにしない。ネタにして笑っているときは自分がその弱者といっしょであるという覚悟のある時だけである。

 ちょっと以前、日本テレビのSMAPの特別番組で中国・瀋陽の日本総領事館で起きた北朝鮮「ハンミちゃん一家駆け込み事件」のパロディが放送され、同局に多数の抗議電話が寄せられたというのがニュースになった。

 これはいったい何を笑ったのか? 権力を持った北朝鮮か、中国の警察当局か、日本の外務省をか? それとも、権力から最も遠いハンミちゃん一家をか?

 笑いは、その当事者とともにあるという覚悟がなければいじめと同じ効用しか持たなくなる。それはプロの芸ではないし電波を使って見せるものでもない。冒頭のマーガレット・チョーの笑いにしても、本人以外の者がああいうジョークを言ったらたちまち人種・ジェンダー・性的少数者の3大差別になるのだ。

 日本のお笑いは基本的に「他人」を笑う。年寄りをからかうことが堂々と笑いのネタになる。社会進出をしている女性が「恐い存在」として笑われ、気弱な男性も「おかま」として笑われる。コメディアンたちはそうして年寄りでもなく、女でもなく、「おかま」でもない。自分は安全地帯にいるのだ。

 それは弱い者いじめとどう違うのだろう? こういうことを自覚できないプロデューサーやお笑い芸人は、そこらのいじめっ子とどう違うのだろう?

June 29, 2003

2003/06「なぜ、日本にとんど報道されないのか?」

 米国最高裁が6月26日、テキサス州の「ソドミー法」をプライバシー侵害で違憲とする判決を下した。それだけでなく、ジョージア州のソドミー法を合憲とした1986年の判決も覆し、全米13州に残るソドミー法の全廃を示したのである。

 日本の多くのメディアは、どうしてこれを報道しないのだろう?(毎日新聞は27日報道)。思うに、これが何を意味するのか、多くの特派員ともおそらくよく理解していないのだ。

 こういうことなのである。

 米国には、違法な性行為を規制する「ソドミー法」というのが存在する。「ソドミー」とは旧約聖書のソドムとゴモラのあのソドムから出た言葉で、日本語では「男色」とか「同性愛」と訳されるが、英語ではじつは広く異性間性交渉も含んで婚姻内受胎に関わらぬ性行為すべてを指す言葉である。

 たとえば、女性をむりやり性行為の対象にすることも「ソドマイズ」という。レイプというのは実際の交合を指すが、ソドマイズはもっと広い意味だ

 さて、そのソドミー法の実際の条文はたとえばマサチューセッツ州では「忌避・嫌悪すべき、自然に反する罪を犯した者は重罪である」「いかなる反自然の淫らな行為を為してもその者は重罪を犯したことになる」と曖昧かつ広い。

 同性間に限ったものとしてはカンサス州「同性の者同士のソドミーは軽犯罪である」、ケンタッキー州「同性の他の者と異常な性交に関わることは軽犯罪である」。そのほかにも「淫らな」「倒錯した」(メリーランド州)、「著しく猥褻な」(ミシガン州)、「公共の品位を著しく犯す」(オクラホマ州)などといった恣意的な表記がほとんど。

 ニューヨーク州にも1965年に発効したソドミー法があった。それにはこうある。「異常な性交は軽犯罪である」「異常な性交とは結婚していない者同士がペニスとアヌス、口とペニス、あるいは口と外陰部とを接触させる性行為を意味する」。つまりこれを厳密に当てはめるとほとんどの若者がソドミー法違反になるだろう。

 だが、これがじっさいに適用される例はほとんどなかった。現行犯じゃないとわからないからだ。

 今回の裁判の事の起こりは1982年にさかのぼる。アトランタで深夜、ゲイバーから出てきた従業員のマイケル・ハードウィックが酒酔い運転で警官に摘発された。罰金の支払いで行き違いの生じたハードウィックの自宅に、後日ある夜、当のその警官が家宅捜索令状を持って入り込む。

 そのとき、ハードウィックは寝室で他の男性と性行為を行っていたのだった。警官はその2人の性行為を陰から観察し、2人ともをジョージア州のソドミー法違反の現行犯で逮捕したわけだ。

 ハードウィックは逆にソドミー法は憲法の保障するプライヴァシー権違反だとして、州を相手取り、同法の無効を求めて訴訟を起こした。これは最終的に連邦最高裁まで行き、86年、当時の最高裁は5対4という僅差で同州のソドミー法をプライバシーを侵害したものではなく公共の利益の観点から合憲としたのだった。

 当時の新聞の見出しには「最高裁、ゲイセックス禁止にOK」。ここで“晴れて”同性愛者の性行為は違法になったわけである。昨日までずっと違法だったのだ。

 しかし、ここで気をつけたいのは、アメリカのいかなる法も同性愛それ自体は違法とはしていないということ。同性愛者にとって違法なのはその性行為なのである。

 が、さらに重要なことは、にもかかわらずこれらのソドミー法が同性愛者自体を「生来の犯罪者」として見なす絶対的な風潮を生んだということである。つまり、存在は“合法”とせざるを得ないが、同性愛者たちは「どうせベッドで犯罪を犯している連中」であり「二級市民」だったのである。

 ここからすべてが始まる。住居の選定や就職問題から親権やドメスティック・パートナーシップにいたるまで、いかなる領域でも差別と偏見を持って然るべきなのだというその法的根拠は、このソドミー法なのだった。

 今回の最高裁の判決はこのハードウィック裁判を直接再審で裁いたわけではないが、同じような事件があったテキサス州のソドミー法に関して違憲と宣言したその切って返す刀で、86年のハードウィック裁判での最高裁の“誤り”をも認めたのである。そして、現在13州に残る「ソドミー法」(これは68年には全州に存在していた。6年前の97年時点でもまだ半数の25州で有効だった)すべてが違憲である、と言った。

 「同性愛者をその性行為によって貶めてきた最高裁判決は誤りだった」と、その当の最高裁が謝罪したのである。

 さあ、これは大変なことだ。

 日本のメディアはいままでヨーロッパのオランダやベルギーでの同性間結婚のことを報道してきた。カナダもつい最近同性間結婚の合法化に踏み切ると宣言した。そして、アメリカのこの動きである。それも保守的なブッシュ政権下でのこの最高裁判断。昨日は1日中、米国ではあちこちのテレビのニュースショーで大討論会が繰り広げられていた。

 大統領選に立候補したこともある保守派の論客パット・ブキャナンなど「プライバシーの名に隠れて、これではベッドルームではどんな犯罪行為をやってもよいということになる」と発言し、人権活動家から「同性愛は犯罪ではない」と反論され、「しかし、多くの米国人はホモセックスは異常だと思っている」と抗弁したとたん、最新の世論調査を示され言葉を濁した。

 その調査は「アメリカの成人の65%は、同性間セックスも異性間セックスと同じように合意の2成人の間では認められるべきと考えている」というものだった。65%というのは、大多数といっていい数字である。だいたい、どこの国家が他人の寝室に踏み込んで犯罪を摘発しようとしたか。それは全体主義国家のすることである。

 これは「同性間結婚」とか「ソドミー法違憲」とか、そういう現象的なことを報道するだけではほんとうはダメではないのだろうか。何か大きな、パラダイム自体の変容が今、欧米で起きている。それは何なのか。それを、こんな旬なジャーナリスティックな歴史の胎動を、日本の新聞・テレビの報道人はそろって見過ごしている。そう感じられる。これはいったいどうしたことなのだろう。

 揺り戻しも激しいアメリカのことだから、これからも紆余曲折はあるだろうが、しかし確実に言えることはアメリカもまた足かせだったソドミー法が消えることで同性間結婚に向けて動き出すということだ。同性愛者を犯罪とするいかなる法的根拠もなくなるわけだから。

 アメリカがそうなったら日本はどうなるのか? 今からでも準備しておかないと、それはけっこうきつい話になるのではないか。いったい、なにがどうなっているのか、欧米という「世界」の趨勢を、今からでも遅くはない、きょとんとしていないで新聞・テレビという大衆メディアこそがリポートすべきなのである。

June 20, 2003

2003/06「もう1つのゴジラ効果」

 アメリカでは野球場はボールパークという。パークとはみんなが楽しむ公園のこと。ここはお父さんがピクニック気分で子供たちを連れてくる場所なのだ。

 日本ではプロ野球は12球団しかないが米国には大リーグの30球団の他、二軍に相当のマイナーリーグが4レベル182球団。さらに大リーグ機構とは別の、各地方都市が経営参加する独立リーグ50球団もあってプロチームは計262球団にもなる。

 そのそれぞれが地域密着の球場を持ち、入場券は4ドル前後から。球団も格安ホットドッグの日から花火大会、コンサートまであの手この手で地元ファンを喜ばせる。届ければ誕生日の人の名をアナウンスしてくれて観客みんなでハッピーバースデーを歌ったりもする。

 さて、第1号満塁本塁打という鮮烈なNYデビューを果たした松井は5月初めに国連本部そばの新築超高層アパートに引っ越しを完了、さてこれでやっと私生活も落ち着いて……と思いきや家具の片づけもそこそこにまたロードに発ち、また帰り……年間162試合もあるのだから大変だ。

 開幕前、NYに訪れていたある日本の球団関係者と食事をした。話は自然と松井のことになり、どのくらいの成績を残せるだろうかと聞くとこう答えた。「松井ってね、すごくいいやつなの。まじめで紳士で昔の王選手のタイプなんだね。だから考えすぎたりするとだめね。気を遣いすぎるのも心配。でも、実力は折紙付きだから、どんなことがあっても最後には帳尻が合うはずだよ」

 ぶつかるのは初めての投手ばかり。ストレスは想像に余りある。最近はその「考えすぎ」なのか、あまり調子がよろしくない。イチローのようにミートに徹すればそれなりに成績も出るのだろうが、期待はミートではなくてその先にあるスタンド入りだから重圧もいや増す。

 なのに打てなくとも彼は試合後にきちんと報道陣と話をするのである。取材の向こうにファンがいることを知っている。かつて同じチームに所属した日本人投手とは大違い。じつに大人だ。NYにいるときはお昼のセントラルパークで市民たちにまじってひとり黙々とジョギングしていたりもするのだ。

 野球は家族で見るもの。だから選手には子供たちのお手本たることが求められる。もう一つ、NYでスポーツエージェンシーの法務担当をしている友人の弁護士が松井に期待していることがある。

 「マツイを通して日本人の勤勉さとか正直さとか、自慢しないところとか、世界にはアメリカとは違うタイプの良き文化があるんだということを学びたいね。そうじゃないとこの国はどんどん傲慢になって世界中から嫌われる一方だ」と言う彼は、ブッシュ政権の対イラク攻撃を苦々しく見つめていた1人でもある。

 弱肉強食の世界を奢らず昂ぶらずのサムライが行く。おまけにそれがガンガン打つとなればアメリカはきっと学ぶ。そんな野球以外の「ゴジラ効果」を、おそらく世界中が、ひょっとしたらフランスあたりも、ひそかに期待している。

April 20, 2003

2003/04「キツネ効果という妖怪」

 アメリカと日本のTVニュースで最も違うのは原稿を伝える声の調子だ。

 ここでは興奮すれば頭が悪い証拠とばかりにどんな現場でも冷静沈着に低い声で話すのが常識。例の世界貿易センタービルへの旅客機突入の朝も、テレビを見ていた私はあまりに訥々たる男女キャスターたちの声の調子に、これは資料映像かと思ったほどだ。

 ところが今回、対イラク戦争でそんなニュースの常識が崩れ始めた。

 米国には24時間ニュース局として老舗のCNNのほかルパート・マードック率いるFoxニュースと、NBCがマイクロソフトと手を組んだMSNBCの3局がある。

 そのFoxで、イラクの従軍リポーターもスタジオのアナウンサーたちもそろって声を張り上げ叫ぶように話していたのだ。とにかく威勢がよかった。

 バグダッドに一気呵成に進攻する米軍リポートでは「イラク兵を皆殺し」という内容のジョークまで飛び出し、それを受けてスタジオも大笑いするという乗りのよさ。イラクの民間人被害などは触れられるはずもなく、映画もどきの効果音や音楽まで流れる。結果、明るくいけいけムードのこのFoxが、開戦後の視聴者数でCNNを大きく上回ったのである。

 声の高いFoxと低いままのCNN。両局の報道姿勢の違いは歴然だが、これを機にFox式の報道が増えるのではと一部から危惧の声もあがりはじめた。

 ニューヨーク・タイムズは最近、まるでFoxの番組かと見まがうばかりに「反戦を叫んでいる連中は国家反逆罪だ」とあおったMSNBCの出演陣を例に挙げ、これを報道と政府とが一体化した「Fox効果」と紹介。

 つまりは大政翼賛(第2次大戦中の日本社会)だが、商業的に成功しているFoxのそんな報道姿勢が他局へも波及していると指摘する。ちなみにNYタイムズも英国のBBCも現在は「わが軍」という表現はしない。「米軍」「英軍」と客観的に扱うと報道規定として決まっている。対してFoxはあくまで「わが軍」なのだ。

 そりゃあ残虐な場面は見たくない。面倒なことは考えたくない。「善玉」の「わが軍」が「悪玉」を駆逐するならそれがいちばんスカッとさわやか。おまけに自分の国に自信も持てる。自分もよいことをしている気分になる。それで何が悪い、ときたもんだ。Foxはまさにそんな米国民の心理に応えている。

 だがそれはジャーナリズムではない。それは娯楽番組だ。それを承知していながら米国のTV局はただいまどこも視聴率欲しさに政府の提灯持ちのようなコメンテイターをリクルート中なんだという。こうなると応援団や解説者までお抱えで地元チームの試合を中継するスポーツ番組と同じ。

 ただし、米国内のリベラル派から批判されているのはじつはFoxではない。CNNなのである。先日、パーティーに呼ばれて当地ニューヨーク大学の某教授宅に伺った際に話を振ってみたら周囲の教授、準教授連が待ってましたとばかりに身をのりだしてCNN批判をやり出した。

 いわく「開戦の理由に対する解説も分析もない」「従軍取材を受け入れたら軍の批判を出来るはずがない」「戦況の垂れ流し的報道で結局は戦争追従報道に堕した」。つまりFoxがこういう娯楽ニュースなのはわかっていた。Foxには端から期待していなかった。しかしCNNがこうとはなんたることだ、というわけである。

 ちなみに、大学内では不思議なことが起こっているらしい。教授連はみなほとんどが戦争反対、ブッシュ政権大バカ者、なのだが、学生たちがそろって「戦争、行け行けドンドン。ブッシュOK」なのだという。それはNY大学に限らず、ロサンゼルスの大学から来ていた先生もそう指摘して顔をしかめていた。そうしていわく「若い連中はいま、Foxしか見てないみたいなんだ」。

 なるほど、Fox効果の波及はかなり進んでいるようだ。かつて米誌「タイム」はマードックを評して「触るものすべてを下品にする」とまで言い切ったことがあるが、ある先生は「触るものすべてをバカにする」と言い換えてワインをあおっていた。

April 12, 2003

2003/04「よい戦争のよくない未来」

 はっきり言って、この戦争はわからない。どう終わるのかわからない。どこで終わるのかわからない。終わった後にどうなるのかもわからない。かろうじてわかっていることは、この戦争でアメリカは逆にもっと危険にさらされるだろうということぐらいだ。

 12年前、湾岸戦争で中東軍司令官だったノーマン・シュワルツコフ将軍はどうしてフセインを狙わないのかと質されて「この戦いは個人が相手ではない。万一フセインを追わなくてはならなくなったとしてもイラクは広大な国だ。そんなことは不可能だ」と断言した。なのに今回のブッシュの目的はただ一つ、フセインの首でしかないのがこの戦争だ。

 そのフセインが4月7日の1トン爆弾バンカーバスター4発の直撃を食らって爆死したという報道が米国では流れている。こんどばかりはそうかもしれない。しかし、国家元首の暗殺、いや、公然の殺害である。CIAで暗殺できないなら戦争で殺すぞという、なんともすごい論理だと、個人としての人間はひそかに口をつぐむしかないのだろうか。

 初めにフセイン打倒ありき……不況対策、父の仇討ち、石油利権、いろいろと理由はあろう。それもこれもネオ・コンサバティブ(新保守派)と呼ばれるブッシュ政権の米国覇権世界拡大政策。欧米型の自由と民主主義を絶対的な善とする善悪二元論。

 その「善」の普及と「悪」の根絶のためには予防的でもなんでも先制攻撃も辞さないというブッシュ・ドクトリン。ブッシュ政権というのは、恐怖支配による新たなパックスアメリカーナを志向しているのだろう。

 そうして圧倒的なハイテク軍事力を前面に押し出し、イラクに米国型の民主主義政権を樹立することで周辺の石油王国でも民主化が進み富の再配分が進み、米国もアラブもともに(しかも米国が世界の頂点に立って)繁栄することができるはずだという、なんともおめでたい妄信。それが今回の戦争の正体である。

 元来、保守主義とは厳粛な現実認識を基に慎重に行動していこうという思考の形態であったはずだ。それに幻想や妄想を付与して「ネオ・コン」と呼び慣わしたのは誰なのだろう。妄信と保守とは相容れない。妄信と相容れるのは保守ではなくて幼く愚かな右翼思想なのである。

 第一、フセイン政権が崩壊したとしてでは次に誰がイラクを統治するのか。亡命イラク人に人材はいない。優秀な官僚機構を持つとされる唯一の政党バース党をフセイン色を一掃した上で傀儡政権として利用するのか。

 しかしそんな政権で誇り高きイスラム教徒が、近隣イスラム諸国が黙っているはずもない。米英がいくら共同声明で殊勝なことを言っても国連にいまさらなにを頼めるのか。米英が安保理を見限った傷は簡単には癒えない。

 したがってそんな新政権を支えるためには米軍の長期占領が必要となる。散発的な対米進駐軍ゲリラの危険は消えるはずもない。そのうち内戦が勃発する危険さえある。そうなったら次に生まれるのは反米政権でしかないのである。

 フセインの首を取ったとする(それは当初から圧倒的な軍事力を背景に時間の問題でしかない)。ではその次にどうするのか? 戦争は、実はそこから始まるのである。だからこの戦争の行方がわからないのだ。

 ところでテロはどこに行ったのだ? 最初は対テロ戦争だったんじゃないか? テロもまた、さて、そこからまたぞろ生まれるのである。米国とアラブの共栄どころか反米の世紀が始まるのである。いや、それはすでに始まっているのかもしれない。

February 20, 2003

2003/02「オオカミ少年とオオカミと」

 米国に住む私たちは2月10日、政府から最低3日分の食料や水、医薬品を備蓄するよう勧告された。テロなどの攻撃があった際には自宅の一室に集まって安全を確保するようにという。

 窓を覆うシートやすき間テープ、ラジオも用意する。生物・化学兵器攻撃の際の「生き残り法」も学習しなさい、とのお達しだ。こういうのはまったく困る。いったい何回目の“警告”だろう。

 時を前後してテロ警戒レベルも「黄」から「高度の危険」を意味する「オレンジ」に引き上げられた。これも困る。どういう証拠があるのかの理由も開示されない。したがって「単なるオオカミ少年だ」との批判ものれんに腕押しの空しさがつきまとう。

 よく分からないのは、これらがアルカイダやオサマ・ビンラーデンの関連で出ているのか、それとも対イラク戦の開戦間近の気運から生じているのか、ブッシュ政権がそれを区別しない点だ。

 かくして米国民はビンラーデンとイラクの脅威を一緒くたに受け取るふうになる。対イラク戦やむなしの雰囲気のほとんどは米政府の持ち出したそういう環境から生まれている。

 だから対イラク攻撃が必要だという理由を訊いても、ほとんどの米国民は正確に答えられない。「対テロ戦の一環だ」と言うのが関の山。だが対イラク戦の大義名分は「大量破壊兵器を廃棄するという国連決議の不履行」容疑なのである。

 しかし、それは戦争をふっかけるほどの理由になるのか?。そうならば核兵器を事実上所有しているインドやパキスタンにも先制攻撃を行ってよいのか?。明らかにフランス、ドイツ、ロシア、中国はそう思っていない。大量破壊兵器なら彼らも持っている。

 だいたい、今回のイラク攻撃には前回のクウェート侵攻のような明確な理由が見えないのだ。このため独仏露は対イラク攻撃を回避するために国連査察の強化による武装解除の方法を探る共同提案を行って、開戦やむなしとの米国主導の環境作りに真っ向から違う風を当てはじめた。

 ブッシュもラムズフェルドもこれでかなり機嫌が悪い。そうして「3日間分の備蓄勧告」である。いつもこういうタイミングだ。仕組んでいるのだとしたら大した政府である。

 もちろんこうした批判は仮定の上にしか成り立たない。オオカミが来なければ警告を出したおかげで回避されたのだと言える。オオカミが来ればほら見たことかと相成る。どちらに転んでもオオカミ少年はやはり正しかったという仕組み。

 こういうのはまったく困る。困りながらも「古い欧州」たちが非戦に向けて行動している。はて、ところで日本政府はいったいどこにいるのだろう。

February 08, 2003

2003/02「やっつけないとわからない」

 正月で一時帰国した。予想はしていたが、日本のワイドショーめいたニュース番組では北朝鮮の国内向けテレビの内容を紹介して、コメンテイターのみならずキャスターまでもが「ひどい国ですねえ」といわんばかりのあきれ顔をしてみせる。ただし、だれもあれを自分たちの60年前の姿と同じだとは言わない。

 金正日体制とかつての日本の天皇制との絶対的な近似。そんな簡単なことに気づいていないはずはないと思うのだが、テレビや雑誌に溢れる「ああいう連中はやっつけないとわからないんだよ」という雰囲気はいったい何なのだろう。

 現在の日本国民は「ああいうのはやっつけないとわからないんだよ」という論理で行われた東京大空襲やヒロシマやナガサキの生き残りである。昭和20年までの日本に生きていた自分たちの親や祖父母たちの上に無差別に被された「やっつけないとわかんないんだよ」という論理を、その生き残りの末裔たちが、あるいはその生き残りたち自身が肯定する。それはどういうことなのだろうか。

 「やっつけないとわからない」と被爆国・日本の国民が発語するとき、それは非戦闘員の市民の上に爆弾を落とすことをその非戦闘員たる市民が望んでいる、ということを意味する。そのとき「やっつける」側は解放軍である。「やっつけられる」のは抑圧的な独裁政府とそれを支える蒙昧な国民で、解放軍によってその抑圧国家の国民は解放され、めでたしめでたしと相成る。そういう図式だ。

 それでいくと、いま北朝鮮に対して「やっつけないとわからないんだ」と言い放つことは、かつてのアメリカに対し「日本に原爆を落としてくれてありがとう」と感謝することにつながるのである。戦後復興から高度成長、経済大国の道を進んで「めでたしめでたし」と相成った(まあ現在の大不況は横に置いておいて)のも、アメリカの原爆があったからだ、ということになる。

 それはそれで一理ある。じっさい、アメリカの論理は今も昔もそれで変わっていない。しかし私たちの考え方として、それはほんとうにそれでよいのか。いつから私たちは、こうもあっさりと世界で唯一の被爆国の視点を忘れ去り、非戦闘員の市民のうえに原爆を落としたほうの国家の視線でものごとを考えるようになったのか。北朝鮮もすごいが、こういう節操のない横滑りを何事もなかったかのように済ましてしまう日本のありようのほうがじつは慄然とはしまいか。

 「やっつけないとわからないのだ」と言う輩はいつもあのときの広島でも長崎でもない安全な場所にいる。言葉は勇ましいが、卑怯と無責任の匂いがする。

December 05, 2002

2002/12「残酷な恐怖が支配する」

 米国に「銃規制に反対する女性の会」という団体がある。「女はみんな銃規制に賛成だという神話に風穴を開けよう」という勇ましい標語で「もし女たちが丸腰なら“やめないと撃つわよ”と言っても強姦魔たちは聞く耳を持たないでしょう」と怖がらせるのである。

 武器は通常の商品とは需要の仕組みが異なる。平和な時代の武器の需要は、本来は平和なのだから必要ないもののはずなのだが、そういう直接の必要性ではなく今後のために、あるいは何かのために必要になってくる、という漠然たる思いが素となる。これがしばしば妄想へと走る。妄想は際限がなく、よって需要もまた際限がなくなる。

 なぜこうも銃による殺人が多いのかを問うドキュメンタリー映画が米国でヒット中だ。監督兼インタビューアは突撃取材が身上の映像作家マイケル・ムーア。

 「ボウリング・フォー・コロンバイン」というこの怪作は、高校生2人が13人の生徒・教師を射殺した1999年のコロラド州コロンバイン高校事件を軸に進む。事件に銃は責任がないとする銃規制反対派に対して、この題名は、自殺した犯人2人が乱射直前に早朝ボウリングをしていた事実を挙げて「ではボウリングが事件の責任を負うべきか」と皮肉る反語だ。

 人口約2億6000万人に2億丁の銃器が個人所有されている米国では銃器殺人犠牲者は年約1万5000人。ならば銃の多さが原因か。しかし、隣国カナダは人口3000万人で800万丁もの銃が家庭に散らばるのに、同殺人は毎年100〜200人にとどまる。

 ムーアの突撃インタビューは銃規制反対の最右翼NRA(全米ライフル協会)会長チャールトン・ヘストンに及ぶ。この老俳優は「米国には多民族が暮らしているからだ」と推論する。

 ムーアはカナダでもアジア人や黒人など少数民族が30%もいる事実を反証として挙げる。ヘストンは答えに窮し、さらに6歳の少年による銃の誤射で死んだ6歳の少女のために陳謝の一つもないのか、と迫られて不機嫌に黙したきり席を立つのである。

 結局この映画で明らかになることは責任の所在ではなく責任の不在だ。銃規制反対派は何も考えていない、という事実である。銃がなければ襲われるという恐怖と脅威を撒き散らしながら、しかしその先のことを考えない無責任である。

 ブッシュ外交もこれに似る。テロの脅威を振りまきそのために圧倒的な武力を用意する。だが、ひいてはそれがどこに向かうのかを実はだれも考えていない。

 米国はいま、実はかつてなく恐怖にとらわれているのである。しかしこの国では臆病であることは最も恥ずべきこと。だから力に頼る。必要以上に力を使うことを志向する。

 しかし、弱虫であることを極端に嫌う者は、じつは自分の中の弱虫を最も恐れる臆病者なのだという逆説に、アメリカは気づいていない。そういう文化では、恐怖に駆られた者たちがその恐怖を抑え込むためにも必要以上に銃を撃つのだ。武器とは、恐怖を勇敢さに変えてくれる即席装置なのだから。

 人間は、生き物はもともと小心なもの。それを認めてもっと肩の力を抜けば楽に生きられるのに。それは他者にとっても生きやすい環境のはずだ。イラク攻撃が既成事実として動き出しているような年の瀬に、弱虫であることを恐れない国家を夢想している。

October 07, 2002

2002/10「ホイッスルブロウワー(笛を吹く人)」

 企業の不正を暴く内部告発がこのところ大活躍している。日本ハムの牛肉偽装もマダムなんとかの賞味期限破りも東京電力の原発トラブル隠しもそんな告発者が改善のきっかけだった。米国でもエンロンやワールドコムの不正会計疑惑が内部告発者の協力で解明されつつある。

 ところで、内部告発者は会社から何らかの形で報復を受けることがほとんどだという調査結果が明らかになった。日本の話ではない、アメリカの話だ。東電の不正では原子炉等規制法に内部告発者を守る制度があったが、日本では内部告発者の保護は一般には法律に明記がない。それは米国も似たり寄ったりなのだ。

 米国では航空業界や原発の安全基準をめぐる問題に関してなど、十数もの連邦法がパッチワークのように内部告発者を守るようにはなっている。だが、企業の不正会計の内部告発はこの7月、例のエンロンなどの不祥事が相次いで初めて連邦法で保護されることになったばかり。いまでも選挙違反や司法妨害などでの内部告発者は法的な自己防衛の手段を持たない。こうして告発者の半数は告発後に会社をクビになり、残り多くも職場で嫌がらせや不当な扱いを受けているのだという(全米内部告発者センター調べ)。

 「内部告発」は英語では「ホイッスルブロウイング」という。笛を吹く行為。警官や審判がピピピッと笛を吹いて違反を制止するイメージ。仲間に危険を知らせるために笛を吹く行為もある。襲撃者をひるませるために大きく笛を鳴らすこともある。つまり「笛が吹かれたところでは悪いことが起きている」のだ。

 そんな言葉も立場を変えれば「密告」というニュアンスに変わってしまう。事実、「ホイッスルブロウワー」には「タレ込み屋」という意味もある。笛さえ吹かれなければ何事もなく平穏だったのに、というわけだ。その心理が告発者への嫌がらせや解雇につながるのだろう。

 だがそれはじつにねじくれた発想だ。こう考えるとわかりやすい。タレ込みという軽蔑的なニュアンスで内部告発を嫌悪する。そこには裏切りとか卑怯とかいう怨念もあるだろう。だが、タレ込みとは元々司直への犯罪情報の提供だ。タレ込まれる方は犯罪者なのである。その犯罪者側が情報提供者をなじる。これはどこか間違ってはいないか。もっとはっきり言えば、盗っ人猛々しいとはこういうことを言う。内部告発者は会社の腐敗と社会の危険を大声で知らせる功労者だ。だからこそいま、日本でも米国でも内部告発者を法律で守れという運動が起きているのである。

 雪印食品はつぶれた。大量の真面目な社員たちが失業した。その責は内部告発者にあるのではない。やむにやまれぬ内部告発が行われるまでその不祥事を放置していた管理職にある。そのことを周知徹底しない限り、内部告発に至る不正はまた起こるのである。

September 05, 2002

2002/09「失われた土地を求めて」

 あれからもう1年だ。

 世界貿易センター(WTC)の跡地はざっと6万5000平方メートル、約2万坪。そこに何をどう作るかをめぐって6つの案が示され、結局そのいずれもが何のエスプリも感じられない代物だとして大不興を買ったのはすでに報道でご存じだろう。

 私の友人たちも一様に「何だ、あれは」とあきれていた。あんなのならだれでも考えられる。求められているのは前代未聞の衝撃に見合うだけの鎮魂と慰霊だ。私たちの時代にはこんなことがあった。しかし、せめて未来は違ってほしい、という希望も込めて。

 だが、あの6案の設計者も可哀そうなものだった。あの土地はニューヨーク・ニュージャージー港湾管理委員会のもので、同委の他の事業はWTC内の企業や商店の莫大な土地賃貸料が頼りだった。

 そこでその跡地の建設計画でも、この失われた金額を埋め合わせることが絶対条件だったのである。つまり、設計にはまず賃貸料の「上がり」額が枷(かせ)としてはめられたのだ。こうなるともうデザインの問題ではない。決められた分量をどこにどう配分するかという算数の問題だ。かくして何とも味気ない6案が提示され、案の定「何だ、あれは」と相成った。

 さすがにこれではまずいと、ブルームバーグNY市長が現在のJFKおよびラガーディア両空港敷地との交換案を出してきた。両地はNY市のもの。上に建つ空港は港湾委員会のものだから、同委はこちらでは市に土地の賃貸料を払っている。

 これをWTC跡地と交換する。すると同委は両空港の莫大な土地料が浮く。この浮いた分を他事業推進の資金にできるではないか。おまけにNY市はWTC跡地利用法をもっと自由に考えられる。

 なんだ、簡単なことじゃないか、とみんなこの案には期待している。だが、何かおかしい。あの、失われた土地の埋め合わせはどこに行ったのか?。旧WTCからの本来あったはずの「上がり」は消えたままなのだ。これは同じく算数の問題。NY市がそれでよいというほど太っ腹とは思えない。なにせ前回に書いたとおり、市は大変な赤字で煙草を1箱7ドルにしてまで大増税中なのである。

 さて肝心なのは、あそこに何を作るかだった。3000人近くが一瞬にして逝った場所の上にビルが建って、そこで働きたいかと聞けばさすがにアメリカ人だってそんなのはぞっとしないと言う。

 あの2塔の建っていた2つの巨大な正方形を正確に割り出し、そこを池として静かに水を湛える。それだけ。そして毎年9月11日にはその2つの池から天に向かって光を放射し、かつてのタワーを幻出させる。そんな採算の取れないことを夢想しているのは私だけだろうか。

April 11, 2002

2002/04「年を取るのが惨めでない社会」

 チャパクワという、NYグランドセントラル駅から列車で北に1時間ほど行ったところの友人宅でパーティーがあって、久しぶりに市内から郊外に出た。

 3月半ば、春まだ来ずの友人宅の裏庭はざっと千坪(約3300平米)ほどあって、いまだ裸の大木群の中には力強い枝先で早くも産毛にくるまれた大きな蕾たちが天を指す木蓮の木もあった。

 目を落とすと、枯れ草の地面そこここに豆粒大の動物の糞がある。聞けば鹿の糞らしい。夜になるとこの庭の藪の中で眠るのだとか。道理で人の背丈ほどの低木にはみなプラスチックのネットが張られていて新芽が食べられないようにしてあった。

 マンハッタンのビル群にはアメリカの威容を実感するが、こうして郊外に出るとこの国の豊かさについて考えさせられる。

 友人の旦那はIBMに勤めていて、その一方で数年前から油絵を始めた。半地下室には彼のアトリエがあって、初期の頃から現在までの絵が並んでいた。

 初めのころこそ出来損ないのクレーのような絵だが、いまの彼の絵はいやなかなかミニマリズムも堂に入ってとても穏やか、温かな見事な作品。あと数年で会社は引退して絵を描いて暮らすのだという。

 アメリカの会社に定年がないのはご存じだろうか。一定年齢になると用済み、というのは年齢差別だということで自分で辞めない限りいくつでも働ける。もっともそれ以外の理由でのレイオフはあるから終身雇用というのとは違うのだが。

 さて、同じような給料を稼いで同じように生きて、日本では早期引退で絵を描いて暮らせるだろうか。

 より楽しく充実した人生を送るためでなければ年を取る甲斐がない。千坪の裏庭、広いアトリエとまではいわないが、少なくとも年を重ねることが惨めでないような社会に生きたい。それが豊かさの基本だろう。

 アメリカ人の「年を取りたくない願望」には凄まじいものがあるが、一方でこの国の文化の中心概念は「大人であること」であることも確かだ。大人と子供の文化の棲み分けがはっきりしているし、子供向けのものは無産者であることを自覚してどこか遠慮がちに隅の方に控えている。

 「ナイーブ」といえば日本では「純粋で繊細」というほめ言葉だが、欧米では「子供みたいに何も分かっていない」という意味の批判の言葉。だから大人になることは、アメリカではいちばん正しいことなのである。

 いつまでも若くはいたいが、子供であることだけはまっぴら。その後段が、渋谷や原宿といったものの象徴する日本と大いに違うところだろう。

 このほど、「50歳以上の人々の夢と関心を描いた映画」に与えられる「黄金の椅子賞」という映画賞が米国で発表された。最優秀映画賞は豪州映画のサスペンス『ランタナ』、最優秀監督賞は『ゴスフォードパーク』のロバート・アルトマン、そして「年寄りになることを拒絶する大人のための映画賞」はアニメ映画の『シュレック』だった。

 日本のご年輩たちも、これを参考にせめて豊かな娯楽を我が手にお取り戻しくださいな。

June 20, 2001

2001/06「真紀子バッシングの正体」

 ミサイル防衛航想を批判したせいで米国が田中外相に怒っているというが、米国ではその件でどんな報道がなされているのかと東京の知人から質問された。そんなものニュースになどなっていない。すべては日本の外務省のリークによる自作自演。そしてそのすべてが、田中外相を更迭させようとの思惑にそっている。

 しかしこんなにあからさまなリーク攻勢は経験がない。官僚トップの柳井駐米大使までが出てきてワシントンで記者会見し、批判の件で「米国からも問い合わせがある」と話した。問い合わせは外交の基本。あるに決まっている。しかしそれは公表すべきことではない。発表すべきものなら向こうも公式にそうするからである。そうでないものはそれこそ外交機密。それを会見までして大使が公表する。なりふり構わぬとはこのことだ。

 政権が交代すれば官僚のトップもそっくり入れ換えられる米国と違って、日本では首相が替わっても官僚は同じだ。いつしか大臣よりも官僚が実権を握ってしまう。利権も握る。自分たちが政治を動かしているのだと思い違いをし始める。

 そこに彼らのリークをナマのまま垂れ流す政治記者たちがつらなる。ご丁寧に「外相会談で茶飲み話のような話をされては困る」と言った官僚の苦言まで新聞に載ったが、そういう口語体のレベルの話だと分かっていてやれ「次官に辞碧提出を要求」だのと大げさに見出しを取るのはあまりにさもしくないか。


 批判の噴出は豪外相が田中外相のミサイル批判を「米国に伝えないわけにはいかないと言った」とされた辺りから。だがそれはウソだった。しかもそのウソの責任問題は出てこない。誰がそのウソをついたのだったか。それが裏でうごめくものの正体。官僚が強気なのも橋本派を筆頭とするそんな魑魅魍魎のおかげだ。

 そして肝心なのは、ここに田中真紀子という女性へのオトコ社会のメンツが重なるということである。既製の男の論理や基準を無視して走る女の存在に男どもが苦々しさを募らせる。官僚及び自民党内の真紀子バッシングは、「だから女はダメなんだ」と言いたい世間のおじさんたちの女性観と深くつながるのである。それも、日本の政治をここまでダメにしたのがそもそもそんなおじさんたち自身であるという自覚を完璧に欠いたまま。

 なるほど種々のものが見えてくる内閣である。日本の現代政治史上、それだけでも小泉内閣の意義は大きい。そこまで見えて、さて内閣は支持するが自民党は支持しないという有権者は参院選でどうすればいいのか。民主党が反自民の一環で田中擁護を打ち出せば面白いが、そんなウルトラCは男の発想では無論ない。

May 20, 2001

2001/05「外交官はパーティーがお好き」

 外務省の外交官には流暢な英語使いも中国語使いもロシア語使いもいる。だが、外国語がうまいからといって外国の要人やカウンターパートの外交官仲間と信頼関係が築けるというものでもない。だから日本側も日本式のお茶会などを設定して外国勢を取りもとうとする。じつはそういうことが昨今問題の外務省の外交機密費に関わってくるのである。

 「大使なんてパーティーに招待したり招待されたりが仕事の大部分」と話す書記官がいる。「パーティーでの顔つなぎと情報ネットワークが大切なんですよ」と、よいふうに解説してもくれる人もいるが、とにかく「接待」が日本の外交のキーワードのような気がしてならない。

 なにせ在外公館には日本から訪れる国会議員や高級官僚を接待する費用まであるのである。これはどう見ても官官接待である。さらに問題はいくらパーティーを開いても日本の外務省の情報収集があまり上等とはいえないという点だ。
 
 ところがパーティーの直接の目的はそもそも懇談。開けばとりあえずそれだけで目的達成である。その後にどう情報を得られたかは判定できず、だから予算はつねに「正しく使われた」ことになる。だからごまかしてもどんぶり勘定でも問題にはならないなどとと思ったりするのだ。

 外交官には外交官特権というのがあって、その中には外国で買い物をしても税金を払わないでよいなんていうものまで含まれる。駐車禁止地帯にだって車を停めてへっちゃらだ。そういう特権のうえにやれパーティーだ接待だ、である。肩書きと個人の能力とを混同してしまうのはそういうときだ。田中外相が怒鳴りつけているのは、まさにそうした外務官僚の特権体質に対してなのだろうと思う。

 情報収集には機密費というものはぜったいに必要である。ごまかしを防ぐのはそれを公開したり削減したりするということではない。大げさなパーティーや接待に頼らないで情報ネットワークを構築することなのである。つまり、他国の要人と個人で付き合えるような立派な外交官を養成することなのである。

 と、書いてふと気づく。

 接待は外務官僚だけのうまい汁ではない。新聞記者もじつは大使館や大使公邸に招待されてずいぶんと豪勢な酒食を供されたりするのである。白状すると、私も何度か“お呼ばれ”しておいしいワインやら現地料理やらを口にした。なにせ出所は税金。肩書きで職を食い物にしたと言われたらうなだれるばかりだ。

 この新聞記者にしてこの官僚あり。かわいそうなのは人気の外相でも新首相でもなく、日本の誠実な一般庶民。まったく、深く恥じ入るばかりである。

April 20, 2001

2001/04「笑うも手、黙るも手」

 愛媛丸といい中国軍機との接触墜落事故といい、軍絡みの外交事件がブッシュ政権を悩まし続ける。そのたびに米国の報道番組には若き黒人女性のライス補佐官がさっそうと登場して舌鋒鋭く状況を解説し、パウエル国務長官が登場して重々しく今後の対応を説明し、さらにはチェイニー副大統領が現れてシニカルとも映る冷徹さで大局を語るのである。

 では肝心のブッシュ大統領はというと、これがなんだかパッとしない。苦手の外交問題だからか、テレビカメラの前で重要なことを述べたあとでやけにひんぱんにニヤニヤする。それを後ろからライスさんが厳しい顔で見つめている。彼女は46歳なのだが、なんだか息子の研究発表を背後で見守る教育ママの視線なのだ。

 アメリカでは話をするときに笑ってはいけない。対して日本ではどんなときでも微笑んでいる人が多い。交通事故で人が死んだというのにテレビの取材に答えてニコニコ状況を説明する「近所の人」というのもたくさんいる。

 私がこちらに住み始めて困ったのもこれだった。冗談混じりの日常会話ならいいが、議論やインタビューで相手が重要な意見を言っているときにもどうも私は笑っているようなのだ。自分ではそれが自然だから当時は笑顔だという意識すらなかった。だが不意に「おまえはなぜ笑っているのか」と質されたのだ。「私が何かおかしなことを言っているか!」というのである。いやいやそうではない。この笑顔は潤滑油みたいなもので……と言い訳しても笑いはおかしいときのもの。つまり「笑える」あるいは「変な」のどちらかだ。それが米国での笑顔の常識なのだった。

 だからブッシュの笑顔は何なんだろうとアメリカ人の友人に訊くと、「あれはごまかし笑いさ」と間髪入れず返ってきた。「間違ったことを言っていないか、自分でも分からないんだ」。

 そういえばブッシュ氏は選挙前は中国を「パートナーではなく戦略的な競争相手」と明言していた。先日、その同じ彼が報道陣の質問に答えて「中国は戦略的なパートナー、いや競争相手、いやつまり戦略的な……」とどっちだったか混乱してまたごまかし笑いになった。ホワイトハウスでの公式記者会見を少なくして雑談式の質疑応答を好むのも、雑談ならば言質を取られないというわけか。

 彼の就任当初、紹介を兼ねてその頭のレベルを「森さんと同じくらい」と言い放った元首相がいた。その森さんは、言質を取られるのにウンザリして番記者と一言も言葉を交わさぬようになって去ってゆく。笑うも手、黙るも手だが、それは、説明責任こそが命である政治家にとってはあまりに情けない勝手である。

March 20, 2001

2001/03「アイ・アム・ソーリーが言えなくて」

 「アメリカで事故を起こしてもぜったいに『アイ・アム・ソーリー(すみません)』と言ってはいけない。そう言えば落ち度は自分にあると認めたから謝ったのだと取られてしまう。すると損害賠償の責任まですべて自分にかかってくる」−−と、この話はNYにある日本人向けの自動車免許取得講習でも教えてくれるからこちらでは常識らしい。

 高校実習船えひめ丸を沈没させ、9人の行方不明者を出している米軍原潜事故で、一言も被害者家族に謝罪しない艦長の態度が日本社会の感情を逆撫でした。けっきょく後日、査問会で家族に向かって「謝罪します」と頭を下げたのだが、やはりこれもそれまで「謝ってはいけないと弁護士に言われていた」らしい。

 じつはこの「謝らない常識」が米国でもやっと「おかしい」ということになってきている。カリフォルニア州で今年1月から「謝罪した事実は民事訴訟においてはその人の過失の証明にはならない」という法律が発効した。この法律の成立の背景にあるのは「あいつはなんで一言も謝らないんだ。その気なら裁判に訴えてでも謝らせてやる」という“人情”。じっさい、フロリダ大学の医療事故訴訟調査では「医者が一言ソーリーと言ってくれていたら裁判にはしなかった」という原告が3割もいた。訴訟は多くの場合、怒りと不幸に支えられている。怒りだけでも和らげられれば、増加する一方の不幸な訴訟合戦も減るだろう。

 カリフォルニアでは出来たばかりだがマサチューセッツ州ではじつは1986年から同種の法律ができている。その提案者ウィリアム・ソルトンストール州上院議員(当時)も、じつは娘さんを交通事故で亡くし、その際に相手の運転者が一言も謝らなかったことに深い疑問を感じたのが動機だ。

 「謝ってもいいじゃないか。謝罪はじつに人間的な反応だ」と今回のカリフォルニア州法の提案者ルー・ペイパン州下院議員も言う。同種法はほかにバーモント州とジョージア州で1992年から、テキサス州でも99年からできている。そんな人間的な心の動きはアメリカ人にだってもちろんあるのだ。ワドル艦長だって謝罪を止められた心苦しさも重なって涙を流したのだろう。

 被害者の家族を世話するのは日本の外務省の役目だ。外務省は米軍に、あるいは艦長の弁護士に、こうした当事国内における法律上の変化の事実を突きつけ、被害者の怒りを和らげるためにも一刻も早く当事者である艦長に直接謝罪してほしいと口添えしただろうか。そういうことに気づくか否かが、外務省の2大任務の「邦人保護」と「外交」の、じつは本質的な力量の判じ部分なのだが。

February 20, 2001

2001/02「リアリティとは何か?」

 このところのアメリカのテレビ業界は「リアリティTV」なるもので大騒ぎである。「現実テレビ」とでも訳すのだろうか、昨年夏に三大ネットの1つCBSが「サバイバー(生存者)」という番組を放送したのがきっかけで生まれた。

 「サバイバー」は究極の生き残りゲーム。老若男女16人が39日間にわたって南シナ海の孤島に閉じ込められ、放送で毎回だれを不適格者として脱落させるかを決める。最後に残った1人への賞金は100万ドル(1億円強)。これが大当たりして、いまは舞台をオーストラリアの未開の荒野に変え2回目のサバイバルが進行中だ。虫や爬虫類を食べるだけではない、いかに他人を蹴落とし生き延びようとできるか、生き残りのためには手段も選ばぬ倫理性のなさ。おいおいそこまでやるか、というのが見せ物なのだ。

 その高視聴率に他局が手をこまねいているだけのはずはない。FOXの始めた「テンプテーション・アイランド(誘惑の島)」なる番組は、4組の未婚カップルをカリブ海の孤島で引き離し、彼らを誘惑しようと手ぐすね引くモデルばりの美男美女の中に12日間にわたって解き放つ。さて彼らは自分の恋人以外の異性になびくことはないのか、という人間の欲望の実験室だ。
 
一方、ABCは「モール(内通者)」。10人の参加者が2組に分けられ3週間さまざまな試練で競うのだが、1人だけ番組からのスパイがいて自分の組を失敗させようと暗躍する。そのスパイは誰か、毎回参加者に目星をつけさせ、そのテストで最も外れた者が脱落してゆく仕組み。ほかにも女性1人を男4人とともに鎖でつないで何が起こるかを見る番組など、視聴者の覗き趣味を刺激するようなものが続々登場している。まさに人間動物園を見るの感だ。

 ところで友人のニューヨーク大学のニホン通の先生が、これらはすべて日本のテレビのマネじゃないかと言うのだ。電波少年とか猿岩石とか、日本ではタレントや有名人を極限状態に置いて茶の間で笑い物にしたり美談に仕立て上げたりするが、「番組内の人物を通して疑似体験を楽しむのが同じ」というわけ。

 そしてその先生、この傾向を「じつに反民主主義的」と断罪するのである。「みんな実世界の刺激を得ながらも傍観者でいられる。代理人の思想、貴族の趣向。それは自分の責任において自らが行為する民主主義に、真っ向から反するものだ」と。

 さて米国にも先んじてそうした「リアリティ」を遊んできた国ではあるが、原潜実習船事故のゴルフ首相の現実感覚はさすがに楽しめない。「サバイバー」だったら不適格者として今度こそこれで脱落だ。さあどうなるか見ものである。

January 20, 2001

2001年1月「酒とバラの日々」

 日本で暮らす欧米人のほとんどが恋しがるのがワインとチーズだ。アメリカ人も80年代からずいぶんとワイン党が増えた。カリフォルニアでも極上のワインを作るようになった背景にはもちろん健康ブームがある。ウイスキーやバーボンなど強い蒸留酒の消費が落ち込み、食事とともに楽しめるワインが伸びた。

 日本のような「同僚と一緒にとことんハシゴ酒」といった酔っ払い文化がないのも一因だろう。年末年始もアメリカでは一般の路上で酩酊者に会うことはまずない。酔っ払っていたらそれは明確に社会の落伍者の徴しだ。酔って放歌高吟というのは日本や韓国に限らないが、少なくともアメリカでは御法度。ニューヨークでは屋外で裸の酒瓶から直飲みしていると軽犯罪法で摘発される。だから“社会の落伍者”でさえも路上で酒を飲むときは酒瓶を紙袋で隠して飲んでいる。

 ところでそのワイン、普及の背景には値段の安さもある。日本ではレストランでワインを頼むと元値の3倍も4倍もの値段になる。あれは何なんだろう。まるでスナックでのボトルキープの値段だ。さすがにバブル後はそうひどくなくなったが、それでもレストランは自分のところで作る料理とサービスでお金を取るべきで、ワインという「他人のふんどし」で売上げ勝負をすべきではない。

 一方アメリカではだいたい元値の2倍がカジュアルなレストランで出すワインの相場。したがって20ドル代でもけっこうなワインがゴロゴロしている。もっとも先日帰国したときにうちでよく飲む9ドルほどのカリフォルニアの赤が2500円で売られているのを見つけたから、まず市価で3倍、レストランでさらに3倍だとあのワインも日本では7000円にもなってしまうのか。あらら、そりゃ大変だ。

 日本を笑えない現象も起きている。カリフォルニアのナパ渓谷には途轍もない高級ワインを作る小さなワイナリーがいくつかある。コルギン・セラーというワイナリーが生産できるのは年間500ケース以下。市場にはほとんど出回らないのでウェイティングリストには現在4500人もが名を連ねている。そこでは最近、94年のヴィンテージワインを1箱、メルセデス・ベンツの新車と交換してくれと言ってきた人もいるのだとか。

 インターネットでのワインオークションが投機的な高値をあおる。飲むつもりもないのに友人との話題のためだけに高額なカルトワインを購入する人もいる。ワインが飾り物や戦利品のように扱われるのは今に始まったことではないが、20世紀的な贅沢を続けていれば21世紀は人間社会が保たないこともまた事実。なかなか気持ち良く酔えない時代ではある。