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May 11, 2018

『君の名前で僕を呼んで』試論──あるいは『敢えてその名前を呼ばぬ愛』について

これは男性間の恋愛感情に関する映画です。その恋愛感情に対する是非はあらかじめ決まっていて、そこに向かって進んでゆくストーリーになっています。この映画は、その答えを提示したかったがための映画かもしれません。その答えというのは、最後に近い、エリオが一夏の別れを経た部分で、父親が彼に向けて説く「友情」あるいは「友情以上のもの」と呼んだこの恋愛感情への是認、肯定です。この映画の影の主人公は、その答えを差し出してくれるエリオのこの父親と言ってもよいかもしれません。

まだ原作を読んでいないのでこれが原作者の意図なのか、あるいは脚本を書いたジェイムズ・アイヴォリーの企図なのかじつは判断しかねるのですが、しかしいずれにしてもこれを映画の中でこういう形で提示しようとアイヴォリーが決めたのですから、アイヴォリーの思いであるという前提の上で考えていきましょう。この父親は、アイヴォリーです。だからこの映画の影の主人公も、じつはアイヴォリーなのです。

映画の設定は1983年の夏、北イタリアのとある場所。ご存知のようにJ.アイヴォリーは1980年代に『モーリス』という映画の脚本を書き、自ら監督しました。こちらはE.M.フォスターが1914年に執筆した同性愛小説が原作です。

片や1900年代初頭を舞台に1987年に製作された『モーリス』。
片や1983年を舞台に2017年に製作された『君の名前で僕を呼んで』。

この2つの時代、いや、正確には4つの時代は、とても違います。違うのは、先ほど触れた「男性間の恋愛感情」への是非の判断です。20世紀初頭は言うまでもなく男性間の恋愛は性的倒錯であり精神疾患でした。オスカー・ワイルドがアルフレッド・ダグラス卿との恋愛関係で裁判にかけられ、有罪になったのはつい20年ほど前、1895年のことでした。20世紀初頭、E.M.フォスターはもちろんそれを深く胸に(秘めたトラウマとして)刻んでいたはずです。一方で『モーリス』が作られた1980年代半ばはエイズ禍の真っ最中です。『モーリス』には、その原作年、製作年のいずれにおいても、男性間の恋愛を肯定的に描く環境は微塵もなかった。

対する『君の名前で〜』の1983年は、かろうじて北イタリアの別荘地にまでエイズ禍がまだ届いていなかったギリギリの時代設定です。聞けば原作では時代設定が1987年だったのを、アイヴォリーが83年に前倒ししたのだとか。男性間の恋愛が、秘めている限りまだ牧歌的でいられた時代。まさにエイズ禍の影を挿し挟みたくなかったがゆえの時代変更かもしれません。そして2017年という製作年は、もちろん欧米では同性婚も認められた肯定感のプロモーションの時代です(おそらく企画段階ではトランプの登場も予測されていなかったはずです)。

アイヴォリーは、この『君の名前で〜』によって、『モーリス』(の時代)には描けなかった「男性観の恋愛感情」への肯定感を、(『モーリス』製作の後でいつの間にかゲイだとカミングアウトしていた身として)自分の映画製作史に上書きした(かった)のだろうと思うのです。

もっとも、この映画には『モーリス』の上書き以上のものがあります。アイヴォリーは同性愛映画の名作の手法をさりげなく総動員させています。いたるところに散りばめられている『ブロークバック・マウンテン』へのオマージュ、そして『ムーンライト』のタイムライン。

アイヴォリーの(あるいは監督のルカ・ グァダニーノの)描いた「肯定感」の醸造法は『ブロークバック』からの借用です。『ブロークバック』ではエニス(ヒース・レッジャー)とジャック(ジェイク・ジレンホール)の逢瀬にはいつも水が流れていました。大自然の水辺という清澄な瑞々しさが彼らの関係を保障していたのです。一方でエニスとその妻アルマ(ミシェル・ウィルアムズ)の情交は常に埃舞うアメリカの片田舎での、軋むベッドの上でした。

それは『君の名前で〜』に受け継がれています。エリオとオリヴァーはいつも別荘のプールで泳ぎ、その脇で本を読み、思索をして過ごします。その水辺でエリオのオリヴァーに対する思いはスポンジのように(!)膨らみ、やがて初めて辿り着くキスはエリオが「秘密の場所」と呼ぶ清冽な池のほとりです。一方でエリオとマルシアの、成功した2度目の性交は使われていない物置部屋の、やはり埃舞い上がるマットレスの上でした。

それにしても男性観の恋愛への肯定感を醸成するために『ブロークバック』でも『君の名前で〜』でもこうして女性との関係性をそれとなく汚すのはたとえ対比とは言えなんとも不公平というかズルい気がするのですが……。

ズルいのはもう1つ、エリオの17歳という年齢です。男性なら(あるいは女性でも)わかると思いますが、17歳の男の子というのは頭の中まで精液が詰まっているような、身体中がそんな混乱した性の海に浸かっています。意識するしないに関わらず何から何までもが性的なものと関係していて、時に友情と友情以上のものとの狭間もわからなくなったりします。自分の欲望の指向するものがなんだかわからなくなって、その人が好きなのか、その人とのセックスが好きなのか、それともセックスそのものが好きなのかもわからなくなって、自分は頭がおかしいのかと本当に気が狂いそうになったりもするのです。

だって、アプリコットですよ。桃ほどに大きなアプリコットを相手に自慰をして(そしてそれは日本で巷間言われるコンニャクとか木の股とかとは違ってとてもお尻=肛門性交に似ているのです)、その後で眠ってしまった自分のおちんちんをフェラしてきたオリヴァーに「何をしたんだ?」と冗談混じりに訊かれるわけです。エリオは真剣に打ち明けます。「I am sick(僕はビョーキだ/頭がおかしい)」と。

もうそういう年齢を過ぎているオリヴァーはその告白の深刻さを真に受けません。「もっと sick な(気持ち悪い、頭の変な)ことを見せてあげる」と言ってそのアプリコットを食べようとまでする。そこでエリオは本当に泣くのです。「Why are you doing this to me?(なんで僕にそんなことをするんだ)」。それはオリヴァーにとってはお遊びですが、17歳の真剣に悩むエリオにとっては自分の「ビョーキ」を当てこする「辱め」「ひどい仕打ち」なのです。彼はそれほど自分のことがわからなくなっている。そしてオリヴァーの胸に顔を埋めながら(でしたっけ?)「I don't want you to go....(行かないで)」と絞り出すように呟くのです。

この「17歳」の告白を、性的混乱として受け取るのか、性的決定として受け取るのか、その選択をアイヴォリーは表向き、観客に委ねているように見えます。というのも、この年齢的な局面は『ムーンライト』(2016年)にも描かれていましたから。

『ムーンライト』はシャイロンという1人のゲイ男性の少年期、思春期、そして成年期の3部構成で描かれ、ティーネイジャーの第2部で描かれるシャイロンは同級生のケヴィンとドラッグをやりながら(これも海辺で)キスをし、ケヴィンから手淫を受けます。シャイロンはその優しいケヴィンとの思い出を胸に、以後、第3部で筋骨隆々のドラッグディラーとなってケヴィンと再会したその時まで、誰とも触れ合わず、誰とも抱き合いもせずに生きていたのです。

私たちは過去の何かから変化して大人になっていくのではありません。過去の何かは大人になってもいつも自分の中にあります。まるでマトリョーシュカ人形のように、過去の何かの上に新たな何かを作り上げ、それが以前の自分に覆い被さって大きくなっていくのです。シャイロンはゲイですが、ケヴィンはゲイではありません。大人になった2人には本来ならあの青い月明かりの海辺での、思春期の関係性は戻ってこないはずです。けれど、いまのシャイロンの筋骨隆々のあの肉体の下に、おどおどした十代のティーネイジャーのシャイロンも生きていて、同時にマイアミでダイナーのシェフとして働く様変わりしたケヴィンの中にもその皮膚の何層か下にあの海辺のケヴィンが生きていて、そのケヴィンはまるでマトリョーシュカの一番上から何個かの人形を脱ぎ捨てるようにして、逞しい今のシャイロンの下にいるひ弱なシャイロンを抱きしめるのです。そう、私たちは私たちの中に、今も17歳の自分を飼っている。

十代のそれらは性的混乱なのでしょうか? あるいはそれは思春期に起こりがちな性的未決定なままの性の(そしてその同義としての愛の)横溢だったのでしょうか? アイヴォリーがその判断を観客に委ねるふうに提示しているのは、私はズルいと思います。ここから例えば、「これはゲイ映画ではない」という言説が生まれてきます。「これはLGBTの話ではなく、もっと普遍的な愛の物語だ」という、お馴染みのあの御託です。

実際、3月初めの東京での『君の名前で〜』の試写会では、試写後に登壇した映画評論家らが「僕はこの作品を見て、LGBTを全く意識しませんでした。普通の恋愛映画と感じました」「ブロークバックマウンテンは気持ち悪かったけど、この映画は綺麗だったから観易かった」「この作品はLGBTの映画ではなく、ごく普通の恋人たちの作品。人間の機微を描いたエモーショナルな作品。(LGBTを)特別視している状況がもう違います」云々と話していた、らしい(ネット上で拾った伝聞情報です)。

それはどうなんでしょう? どうしてそこまで「ゲイでない」と言挙げするのでしょう? まるでそれを強調することが、より普遍性を持った褒め言葉であるかのように。

私はむしろ、「17歳」は「ゲイでもあるのだ」と捉える方が自然だと思っています。精液が爪先から頭のてっぺんにまで充満しているような気分の、そして知らないうちにそれが鼻血になってのべつまくなし漏れ出てしまうようなあの時代は、混乱とか未決定とかそういうものではなくむしろ、すべての(変てこりんさをも含んだ)可能性を持ち合わせた年齢だと見据える。そこでは友情すらも性的な何かなのです。そう捉えることこそがありのままの理解なのではないか? 社会的規範とか倫理観とか制約とか、そういうものに構築された意味を剥ぎ取ってみれば、それも「ゲイ」と呼ぶことに、何の躊躇があるのでしょう?

いま90歳のアイヴォリー自身に、そこまでの肯定感があるのかはわかりません。アイヴォリーの分身であるエリオの父親のあの長ゼリフは、自らはその肯定感を得る前に身を退いてしまった後悔とともに語られます。この映画自体、「未決定」で「混乱」するエリオの自己探索の、一夏の出来事のように(表向き)作られてはいるのですから。

自己探索──それは冒頭の、エリオが目を止めるオリヴァーの胸元の、ダヴィデの星、六芒星のペンダントによって最初に暗示されます。それは自らのアイデンティティの証です。そしてそのペンダントの向こうには胸毛の生えた大人の厚い胸があります。オリヴァーは知的で、自分が何者かを知っていて、しかも胸毛のある大人です。それらは今のエリオにはないものです。オリヴァーは到着した最初の日に疲れて眠りたくて夕食をパスするような、礼儀知らずの不遜なアメリカ人として描かれます。それもエリオが持ち合わせていないものです。なんだか気に食わないけれどとても気になる存在として、エリオはオリヴァーに憧れてゆく。「自己」をすでにアイデンティファイしている(と見える)24歳のオリヴァーに惹かれるのです。

そう、これはエリオにとっては自己探索の映画でもあります。けれど視点を変えれば、これは実は、オリヴァーにとってはとても苦しい言い訳の映画であることもわかってくるのです。

それを象徴するのが「Later(後で)」という彼の口癖の言葉です。

なぜか?

オリヴァーがエリオに「Grow up. I'll see you at midnight(大人になれ。今夜12時に会おう)」と告げたあの初夜のベッドで、この映画のタイトルにもなる重要な言葉、「Call me by your name, and I call you by mine(君の名前で僕を呼んで。僕は僕の名前で君を呼ぶ)」と提案したのが、エリオかオリヴァーか、どちらだったのか憶えていますか?

これを「2人で愛を交わし、お互いの中に自分を差し出した関係において、君は僕で、僕は君なのだ」というロマンティックな意味だと捉えることは可能でしょう。そしてエリオにとってはもちろんそうだった。エリオはそういう意味だと受け取ったのだと思います。けれどオリヴァーにとって、この呼称の問題はそんなに単純にロマンティックなものではないのです。

この呼称はオリヴァーからの提案です。そしてそのオリヴァーは、すでに自己探索を終えたクローゼットのゲイ男性なのです。

この映画の早い段階で、オリヴァーはエリオの危うい感情に気づいています。初夜の後でいみじくも告白したように彼はあのバレーボールのとき、半裸のエリオの肩を揉んで「リラックス!」と言ったときに、すでに彼に狙いをつけていたのでした。さらに2人で自転車で街に行って、第一次世界大戦のピアーヴェ川の戦いの戦勝碑のところでエリオに告白されようとしたとき、それが何かを聞く前に「そういうことは話してはいけない」とエリオを制したのです。さらにさらに、その後のエリオの「秘密の場所」への寄り道でキスをしたとき、それ以上のことを拒んで自分の脇腹の傷の化膿のことに話を逸らしました。これらは自制心の表れではありません。これらは、自制心を失ったらどうなるかを知っているクローゼットのゲイ男性の恐怖心です。クローゼットのゲイ男性として、彼はその種の決定をいつも「Later」と言って先送りにしてきたのです。

それらの伏線となるのが、ピアーヴェの直前のシーンの、エリオの母親の朗読による16世紀フランスの恋愛譚『エプタメロン』のストーリーです。ドイツ語版しか見つからなかったその本は、ルネサンス期に王族のマルグリット・ド・ナヴァルによって執筆された72篇の短編から成る物語で、母親はその中から王女と若きハンサムな騎士の物語を英語に訳しながら読み聞かせます。騎士と王女の2人は恋に落ちるのですが、まさにその友情ゆえに騎士は王女にそのことを持ち出して良いのかわからない。そして騎士は王女に問うのです。「Is it better to speak or to die? (話した方がいいか、死んだ方がいいか?)」と。エリオは母親に自分にはそんな質問をする勇気はないと言います。けれど横でそれを聞いていた父親は(ええ、あの父親です)エリオに「そんなことはないだろう」と後押しするのです。

ちなみにエリオの父親はエリオのオリヴァーに対する友情以上の感情を「母さんは知らない」と言うのですが、母親はもちろん知っています。すべての母親は、もちろん息子のそのことを知っているのです(笑)。

この母親による『エプタメロン』の朗読の力(to speak or to die=まるでシェイクスピアのセリフのような「話すべきか、死ぬべきか」の命題)で、その直後のエリオはあのピアーヴェの戦勝碑のところでオリヴァーに告白しようと勇気を振るうわけです。告白の決心とともに、カメラは一瞬、頭上の胸懐の十字架を見上げるエリオの視線をなぞるように映します。そうしてからオリヴァーに向き合うエリオに対し、ところがすでにその素振りを察知しているオリヴァーは「そういうことは話していけない」と制止するのです。また Later と言うかのように。

これは自制心ではなく恐怖心だと書きました。なぜか?

ここに繰り返し現れる「話す/話さない」という命題は、ゲイへの迫害の歴史を知っている者には極めて重要かつ明白なセンテンスを想起させるのです。それは先でも触れたオスカー・ワイルドの有名なフレーズ、「The love that dare not speak its name」です。「敢えてその名を言わぬ愛」──ワイルドは、ダグラス卿との男色関係を問われた1895年の裁判で自分たちの恋愛をそう形容し、結果、2年間の重労働刑に処せられたのでした(このことは結局、オスカー・ワイルドの名声を破壊し、彼は悲惨な晩年を送ることになるのです)。知的なオリヴァーがワイルドの人生の恐ろしい顛末を知らないはずがありません。しかも1983年は、北イタリアの別荘地でこそエイズの影はありませんが、オリヴァーのアメリカではすでにレーガン政権の下、エイズ禍の表面化と拡大と、それに伴う大々的なホモフォビア(同性愛嫌悪)が進行していました。ゲイであることはまさに「話すか、死ぬか」の二者択一でしかないほどの恐怖でした。彼がクローゼットである事実は、誰もがクローゼットに隠れていた時代を示唆しているにすぎません。「敢えてその名を言う」者とは、つまりクローゼットからカムアウトするゲイたちのことです。そしてあの時代、彼らはほぼ、「エイズ禍と闘う」という社会的な大義名分を盾としなければ敢えてその愛の名前など口にできなかったのです。

そう、「君の名前で僕を呼んで」と提案したのはオリヴァーです。それは実は「敢えてその名前を呼ばぬ愛」の方法なのです。相手の名前を呼べば、それが「同性愛」という名前のものだと知られてしまうからです。だから彼は自分の名前で相手の名前を代用させた……その底に流れているのは恐怖心なのです。エリオが母親から『エプタメロン』の話を聞かされたと話したときに、オリヴァーが、騎士が王女にその思いを話したのか話さなかったのか、その結果を妙に気にしたのもそのせいです。

ピアーヴェの戦勝碑のシーンから、エリオの心はオリヴァーに決めています。その時のエリオはいつの間にかオリヴァーのダヴィデの星のペンダントを自分のものにしています。自分のアイデンティティを選び取り、身に着けたのです。けれど肝心のオリヴァーがそこからビビり始める。だから「Trator! (裏切り者!)」と罵りたくもなるのです。なにせ、オリヴァーはエリオとの性的な場面ではまるで日常を転換するように普段は吸わないタバコを吸うのですから。あたかも酔わなければ性交できない弱虫のように。

ラストシーンに向かってまた『ブロークバック・マウンテン』が出てきます。ジャックが隠し持っていたエニスのシャツのように、エリオはオリヴァーが到着した初日に着ていた青いシャツも手に入れています。そしてとうとう帰米することになる前に、2人で旅行したベルガモでいっしょに緑濃い山に登るのです。そこには滝が流れてもいます。一心不乱にこの「ブロークバック・マウンテン」を駆け上がるエリオの後ろで、ところがオリヴァーは一瞬その足を止め、山と反対方向に向き直って遠くを見つめるのです。それが何を意味しているのか、そのとき彼が何を見ていたのか。もう言わなくてもわかりますよね。その年の冬、電話の向こうからオリヴァーはエリオに結婚することを告げます。彼女とはもう2年前から付き合っていたのだと。

そして最後の3分半の長回しがスタートします。エリオの顔には、彼が見つめている暖炉の炎の色が反射しています。それは赤く燃える彼の性愛の象徴です。その向こう、エリオの背後の窓の外には雪が降っています。そしてその雪とエリオの間に、ハヌカの食卓の支度をする家庭が介在しています。

この三層構造も、実は『ブロークバック』のラストシーンと呼応しています。時が経ち、老いたエニスのトレイラーハウスの中、そこにはエニスの性愛の象徴のブロークバック・マウンテンを写した絵葉書が貼ってありました。それが貼られているのはトレイラーハウスに置いたクローゼットの四角い扉でした。そしてクローゼットの横には窓があり、その窓からはうら寒い外の世界が見えていたのです。その三層構造。

エリオの見つめる炎、温かい室内、そして外の雪世界──アイヴォリーが提示したのは、『モーリス』で描けなかった肯定感だと最初に書きました。そのためにこの最後の三層構造は、『ブロークバック』のラストシーンの三層構造と1つだけ違っています。それは『ブロークバック』での「クローゼットの四角い扉」が、「温かい家庭」に置き換わっていることです。エニスの性愛を守ったのがクローゼットだったのに対し、エリオの性愛を守るのは家庭なのです。

『ブロークバック』のラストシーンは1983年の設定です。スタートは1963年でした。1963年からの20年間を引きずるエニスの破れなかった「クローゼット」。それをアイヴォリーはその同じ年の冬に「温かい家庭」に置き換えて、2017年からエリオを鼓舞しているのです。


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註)まだ1回しかこの映画を観ていないので、記憶違いや細部に関して見逃している部分がいくつもあると思います。
例えば、半ばごろに登場するヘラクレイトスの『Cosmic Fragments』という本。これは福岡伸一さんも敷衍した「動的平衡」の考え方の土台である「万物は流転する」というテーゼの本です。「同じ川に2度と入ることはできない」という有名な譬え話に象徴されますが、これは私が持ち出した「マトリョーシュカ」の話と矛盾します。それはどう解決するのか、私にはまだわかりません。
もう1つ気になったのは、画面に何度か登場するハエです。あれは何なのでしょう? 確かエリオがオナニーをしようとするシーン、それと最後の長回しのシーンでもハエが映り込んでいました。あのハエに何か意味を持たせようとすると(いろんな可能性を考えて観ましたが、そのいずれも)変なことになります。その1つが迫り来るエイズ禍の影の象徴というものです。その読みは可能だけど、安易すぎるし表層的なホモフォビアにつながります。もしこのハエの映り込みが意図的ではないならば、あるいは意図的であったとしたらなおさらあれは無意味かつ有害ですので、事後の画像処理で消すべきじゃないかと強く思います。
あと、ヘーゲルの引用にどういう意味があるのかはまだ考えていません(笑)。

March 22, 2018

物見の塔の王子が見たもの ──プリンスと「エホヴァの証人」考

プリンスが「エホヴァの証人」に改宗したという報が一般に広まったのは2001年5月27日付のAP電による。同月号の「ゴッサム」誌のインタヴュー記事を基に、「エホバの証人」であるプリンスが次のように語ったと紹介する記事だった──「汚い言葉を使うとその言葉が過去に起こしたすべての怒りやネガティヴな経験を呼び起こすことになる。それは自分自身に向けられる。そんなこと、イヤだろう?」「暴力を目にすると親は一体どこにいるんだと思う。彼らの人生で神はどこにいるんだと思う。子供っていうのはどんなプログラムでも取り入れてしまうコンピュータみたいなもんで、おかしなことが起きるんだよ。子供なのにタバコを吸ったりセックスしたり」

見出しは「G-rated Prince?」というものだった。「X-rated」の歌詞やケツ出しパンツのヴィデオクリップを作ってきたプリンスが、「G–General Audiences(一般向け)」にレイティングされるアーティストになったのが信じられないというニュアンスだった。

       *

プリンスの訃報を受けて世界中で彼の音楽的な功績や革新性を讃えるテキストが溢れた。日本も例外ではない。ただ、彼と「エホヴァの証人」に関するもの、なぜ彼の音楽が変わっていったのかについて書かれたものはあまり目にしない。

音楽の起源が祭祀と労働にあるのだとすれば、それが宗教や政治という社会的なメッセージを自ずから纏うのは至極当然のことと思われる。ゴスペルに限らず、アメリカではキリスト教絡みのカントリーやポップスを専門に流す教会系のラジオ局がいくつも存在し、それらはテレビ伝道師のメガチャーチとも繋がって(80年代をピークに)小さからぬマーケットを築いてきた。(政治的なメッセージを含む楽曲およびアーティストに関しては説明するまでもないだろう)

あのボブ・ディランでさえ、1979年にキリスト教への入信を公にし、その新たな信仰を基としたとされるアルバムを3枚リリースした。ディランはそうして数年にわたってツアーのステージ上から説教をしていたのである。しかし彼がキリスト教音楽のサブカルチャーの一部になることはなかった。ディランのファンは常にそんな彼に懐疑的だったし、宗教を説く彼にカネを払うこともすぐに飽きてしまった(Encyclopedia of Contemporary Christian Music by Mark Allan Powell, 2002)。かくしてディランは1981年にはもう宗教を歌うことをやめてしまう。批評家もファンもそれを大いに歓迎した。

しかし、ことは『Jack U Off』や『Sexy MF』『Cream』という曲を書いてきたプリンスの話である。たとえ「ゴッサム」誌やAP電の記事でもにわかには信じられることがなかった。ちなみに『Jack U Off』は「おまえを手でイカせる」という意味だし、「MF」は最大の忌避語「マザーファッカー」の頭字語、『Cream』とは「精液」のことだ。

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「エホヴァの証人」とは、キリスト教主流派の「神とキリストと聖霊の三位一体」を否定し、唯一神エホヴァを崇拝の対象することからキリスト教の異端もしくは非キリスト教とされる宗教集団だ。近い将来に現在の世界を破壊するハルマゲドンが起きて地上は千年の時を経て創世記に描かれる楽園「神の王国」に回復されるとする。そしてそれこそが人間の直面する問題を解決する唯一の方法であると説くのである。

「血を避けるべき」とする聖書の記述により輸血を拒否するため、日本でも1985年6月6日、10歳の小学生男児が交通事故に遭い、両親が輸血拒否したことにより死亡したとされる「川崎学童輸血拒否事件」、また、「戦いを学ばない」「剣を取るものは剣によって滅びる」という聖書の記述を理由に格闘技への参加も禁止していて、これも日本では学校での必須科目の剣道を履修せずに退学や留年となったケースを最高裁(1996年3月8日)まで争った「神戸高専剣道実技拒否事件訴訟」で名を知られている。

伝道者数は世界で820万人、キリストの死に感謝する「主の記念式」には世界で2000万人の信者が出席するとしている。その教義はことごとくプリンスのそれまでの歌詞の示唆してきたもの──淫行、肉欲、乱行、強欲、マスターベーション──と相入れない。「エホヴァの証人」以外の信仰を持つ者や非信仰者とは付き合ってはいけないし軍隊に入ることも国旗を掲揚することも選挙で投票に行くことも禁じている。ヨガもスポーツも喫煙も薬物もダメだし、クリスマスもヴァレンタイン・デイも祝うことはない。

そこに2003年10月15日付の「エンターテインメント」誌が(これも地元ミネアポリスの「セントポール・スタートリビューン」紙の記事を基に)戸別訪問して勧誘するプリンスの伝道師ぶりを全米に報じて、改めてその改宗が確認されたのだった。

曰く──ミネソタ州エデンプレーリーのロシェルという女性が同紙に語ったところによると、前週の日曜の午後2時に家のドアがノックされ、彼女の夫が出てみるとそこに紫のポップスターが宗教勧誘に立っていた。彼は「プリンス・ロジャーズ・ネルソン」という本名を名乗って、一緒にいたファンクバンド、スライ&ザ・ファミリーストーンの元ベーシスト、ラリー・グラハムとともに家に入ってきた。彼女は最初「なんてクール(最高)なこと!」と思ったが、プリンス・ネルソンは「エホヴァの証人」の話を始めた。そこで彼女が「ここはユダヤ人の家よ。お門違いだと思う」と言うと、彼はそれでも最後まで話したいと言うのである。横にいたグラハムが聖書を取り出してユダヤ人とイスラエルの土地のところを読みだし、それから話は25分ほど続いた。やがて「ものみの塔」のパンフレットを取り出すと、彼らはそれを渡して家を出、外に停めてあって大きな黒いトラックに乗り込んだ。助手席には長い黒髪の女性が乗っていて(おそらくブリンスの2番目の妻マヌエラ・テストリーニ)、面白いことに他の家にはまったく立ち寄らずにそのまま走り去った。「すごく変な感じで笑うしかなかった」とロシェルは言う。「(ユダヤ教で最も重要な日とされる)『贖罪の日』の数時間前にユダヤ人の家に来て改宗を試みるなんて、きっとよく知らなかったんだわ」と。

       *

死の直後に「ビルボード」誌などが伝えたのは、プリンスの最初のバンド「ザ・レヴォルーション」の結成メンバーだったウェンディ・メルヴォインとリサ・コールマンのエピソードだ。

二人は幼なじみで恋人同士でもあった。プリンスの音楽上での家族がいたとしたら、彼女たちがそれだ。その二人が2000年にレヴォルーションのツアーをやろうとプリンスに持ちかけたとき、彼女たちは当然「イエス」という答えが返ってくると思っていた。しかし違った。「彼はやらないと言った。何故なら私が同性愛者だから。それに半分ユダヤ人の血が入っているからだと」。そしてもし一緒にやりたければ記者会見を開いて、そこで自分の同性愛を反省し、「エホヴァの証人」に改宗すると発表しろと言われたのだという。「もう二度と彼から連絡が来ることはないだろうと思った」とメルヴォインは言う。

しかし実際はその6年後、三人はロンドンの同じステージに立つことになる。メルヴォインとプリンスは互いに肩をぶつけ合いながらギターを弾き、コールマンはピアノを弾いていた。

バンドの最初期には二人が同性愛者であることを知った上でそれを受け入れ、次にはそれを理由に手ひどく拒絶し、次にはまた何もなかったかのように受け入れる。40年近くの彼の音楽人生で、享楽的な性の追求と敬虔な信仰をめぐるこの謎だらけの矛盾がプリンスを貫いている。言い方を換えれば性と快楽を歌うのと同じ分だけ、神と天罰の恐怖が彼の人生と音楽に漂っていたのかもしれない。

       *

彼の最初で最大の世界的ヒットとなった『When Doves Cry』(これを『ビートに抱かれて』という邦題にした1984年の日本のセンスはここでは問わない)は映画『パープルレイン』の中心的テーマとされる。この半自伝的物語は自分の内面と外部世界との葛藤・衝突を描くのだが、『Doves』の歌詞は自分と相手との、汗の重なる濃厚なキスを描いて始まる(Dig if you will the picture /Of you and I engaged in a kiss /The sweat of your body covers me)。

第二連でそれはさらに幻想的に飛躍し、紫スミレの満開の中庭でサカる姿の獣たちの夢想へと誘う(Dream if you can a courtyard /An ocean of violets in bloom /Animals strike curious poses /They feel the heat /The heat between me and you)のだが、そうした極めて性的な連想が第三連では不意に現実の人生へと引き戻されるのである。

「どうしてこんな冷酷な世界に僕をひとりぼっちに置き去りにするんだ?(How can you just leave me standing? /Alone in a world that's so cold? )」
「きっと自分のせいだ。父みたいに厚かましいからだ。そしてきみは母のように不満ばかりだ(Maybe I'm just too demanding /Maybe I'm just like my father too bold /Maybe you're just like my mother /She's never satisfied)」
と。

とはいえ、ここでも「bold」は性的な厚かましさや大胆さを、「satisfied」も性的な充足感を暗喩している。いや逆に、性的な意味が明示され、性格としての「図々しさや不満」の方が暗喩なのかもしれないが。

そして歌詞はリフレインされるサビに続くのである。

Why do we scream at each other
どうして僕らは怒鳴り合うのか?
This is what it sounds like
その声はまるで
When doves cry
鳩が泣くときのよう

「性」と「生」とがここでも軋み合う。鳩が「鳴く」ときの「クー、クー(Coo)」という性的な囁きや喘ぎ声を思わせながら、その実、彼は「泣く、叫ぶ(cry)」という動詞を置くのだ。そしてそれは誰もが気づくように「平和」がかき乱されていることを共示する。なぜなら、破壊的な父親から距離を置こうとすればするほど、その父親のように性的に「bold」で快楽的な自己に気づくから。この曲はそして最後に、「泣かないでくれ(Don't cry)」と何度も繰り返しながら終わるのである。

       *

あの時のプロモーションヴィデオは湯気立つバクタブから立ち上がる全裸の(と思われる)プリンスを映し出していた。彼は「heat(サカリ)」にある獣のように思わせぶりに四つん這いでフロアを移動した。長い睫毛に整形した細い鼻梁、小柄で華奢な体に華美な衣装、クネクネした走り方に化粧をした艶めかしい頬笑み、そして登場した暴力的な父親と虐げられる母親像──80年代半ばにあってそのすべてが「ゲイの匂い」を漂わせていた。あるいは異形の者としての「クイア(おかま)」感を。「精液」の意味だと紹介した『Cream』(1991)の「U got the horn so why don't U blow it? / U are filthy cute」の歌詞も、「勃起してるなら射精しちゃえよ。おまえはめちゃくちゃ可愛い」という意味だ。こんなに"ゲイ"な歌詞はそうはない。

当然のように、そしてあからさまに、当時のゲイ男性たちはそれらを"誤解"した(もっとも『Cream』は、鏡に映った自分を見ながら書いたとしている)。エイズ禍のさなかにあった彼らが、それでも露骨に性を謳歌する彼のファンになっていったのは言うまでもない。今でも「プリンスはゲイだ」と言う"プリンス信者"も数多い。

しかし80年代にあって、「黒人」であって「ゲイ的」であるというのは(たとえその意匠を纏うだけであっても)大変な”矛盾”だった。マッチョな黒人コミュニティにあって、精神的にも肉体的にも繊細に育ちあがった青年がその繊細さを逆手に取って露悪的な戦略を取ったのだとしても、次には白人社会からの好奇の目が襲ったろうことは想像に難くない。セクシュアリティはしばしば人種という権力構造に絡みついている。

友人でかつ音楽上の協力者だったシーラ・Eが「ビルボード」誌で回想しているのは神を信じていた最初期のプリンスと、その後に「何も信じていないようになった」中期のプリンスと、そして「エホヴァの証人」になってからのプリンスの3人だ。「彼のためには、何かを信じることは何も信じないよりはいいことだと思った」と彼女は言う。彼にはそんなにも屈強な何かが必要だったのだろうか。

プリンスの家庭は「カオスだった」と同誌に寄稿したジャーナリスト、クレア・ホフマンも指摘している。両親はキリスト教の別の保守的宗派、時に異端ともされる「セヴンスデイ・アドヴェンティスト(Seventh Day Adventist=安息日再臨派)」の信者で、ペンシルヴェニア大学の宗教学教授サリー・バリンジャー・ゴードンによれば「セヴンスデイとエホヴァの証人は核心部分で多くの信義を共有している」という。「両者とも終末の日に向けて準備しており、魂の救済こそが人類の目指すものであって、神に魂を届けることこそが最も重要な使命だと考えている」

       *

80年代初めにプリンスは立て続けに3枚のアルバムを出している。『Dirty Mind』(80)『Controversy』(81)『1999』(82)だ。メイクアップを施し、ヒールを履き、ボタンを外したブラウスを着て、彼の書いた歌詞はいずれもジェンダーとセクシュアリティの垣根を押し広げるような(あるいはただ単に卑猥なだけと映る)ものだった。前述の『Jack U Off』も『Controversy』からのシングルカットで、ただただどうやって性的なオルガスムを得るかという歌だ。

それでも『Controversy』では「天にまします我らの父よ。願わくは御名を崇めさせたまえ」で始まる「主の祈り」が唱えられ、曲の終わりに向けて「僕のことをみんなルード(無礼)と言うけど/みんなヌードだったらいいと思うし/黒人も白人もなければいいと思うし/ルールもなければいいと思うし(People call me rude / I wish we all were nude / I wish there was no black and white / I wish there were no rules)」といたって"真面目"なメッセージが繰り返される。

『1999』は「2000年でパーティーは終わる(Two thousand zero zero Party over)」という審判の日の暗喩がポップなメロディーで繰り返され「人生はパーティー、パーティーはいつかは終わる(But life is just a party / and parties weren't meant 2 last)」というシニカルな終末のイメージが明るい曲調と裏腹に散りばめられるのだ。

「エホヴァの証人」になる以前から、「セヴンスデイ」の終末の日のイメージは色濃く彼の歌に影を落としていた。そしてまたシーラEが証言したように、再び「何も信じていないようになった」プリンスは、その後に「ニッキーという女の子を知ってた。セックスの鬼だったね(I knew a girl named nikki / I guess u could say she was a sex fiend)」で始まる、歌詞通りのセックス狂いの歌『Darling Nikki』(1984)をも歌う支離滅裂さだった。

       *

白状すれば私は、89年の『バットマン』のサウンドトラック以降、90年代のプリンスをほとんど追っていない。ワーナー・ブラザーズとのゴタゴタや、「かつてプリンスとして知られたアーティスト(the Artist Formerly Known As Prince)」などの呼び名といった、音楽以外の話題ばかりがうるさくて辟易していたこともある。そのうちに冒頭で紹介した例の「エホヴァの証人」のニュースが耳に届くことになった。

「エホヴァの証人」の有名人であるマイケル・ジャクソンやテニスのヴィーナスとセリーナ・ウィリアムズ姉妹、ノトーリアスB.I.G.らがその信者(証人)の家で育ったのに対し、プリンスは「セヴンスデイ」から改宗した「証人」だ。母親からの強い勧めがあったともされるが、広く知られるように直接彼に2年がかりの入信勧誘を行ったのはスライ&ザ・ファミリー・ストーンのラリー・グラハムだ。

ワシントン・ポスト紙との2008年のインタビューでプリンスはそれを「改宗というよりはもっと、realization(気づいた、わかった、という感覚)だった」と話している。そしてグラハムとの関係を「(映画『マトリックス』の中の)モーフィアスとネオのようだった」と例えている。それはキリスト教で広く言われる「ボーン・アゲイン・クリスチャン」、つまり新たに生まれ変わったようにクリスチャンとして霊的に覚醒するパタンと同じだ。先に触れたボブ・ディランもそうだし、急に宗教的保守右翼に変身したテッド・ニュージェントやリトル・リチャード、クリフ・リチャードらもそうだ。政治家たちも、ジョージ・W・ブッシュを筆頭に、過去の不始末を一掃するかように突然「ボーン・アゲイン・クリスチャン」を名乗ることも少なくない。

過去の不始末やカオス、自己同一性に関する不安、自信のなさ、迷い──人間は様々な理由から宗教に救いを求め、すがりつく。「エホヴァの証人」もまた、真実の自分を見出し、自身との啓示的で平和的かつ安定的な関係をもたらしてくれる宗教なのだろうか?

       *

プリンスの死が報じられた2016年4月21日のわずか2日前、4月19日付で、ゲイニュースサイト「gaystarnews.com」に掲載されたエッセイがある。「Secrets of a gay Jehovah's Witness: how I escaped the religion and rebuilt my life(ゲイの「エホヴァの証人」の秘密:いかにして私はその宗教から逃れ自分の人生を築き直したか)」と題したその記事は、英国で「エホヴァの証人」の一家に生まれたゲイの青年ジョシュ・ガタリッジ(Josh Gutteridge)の手記だ。かいつまめば次のような物語である。

「17歳の時に男性と初めての経験をした。人生はまったく違うものになった。すぐに両親と「証人」コミュニティに告白した。三人の年配の「証人」たちの前に座らされ、包み隠さずに話すように言われた。しかしうまく行かなかった。言われたのは「同性愛行為をしない同性愛者であれ」ということだった。母は同性愛者でなくなるための本を渡してきた。苦しいと打ち明けると努力が足りないと言われた。

父は、僕が弟や妹とのセックスを夢想したりするのかと聞いてきた。彼にとって同性愛者は小児性愛者と同じものだった。父はHIVが感染すると言って僕の歯ブラシを別のところに置いた。

学校での成績は学年でトップだった。けれど16歳で学校は終わった。「エホヴァの証人」では大学などの高等教育を目指してはならないと言われるから。状況を変えようと19歳でフランスに渡ることに決めたが、そこのホストファミリーも「エホヴァの証人」で、英語を話す人々への伝道を行うのが条件だった。英国に戻ったのは23歳の時で、セラピーを始めた。初めてのボーイフレンドが出来た。彼と彼の家族が、本当に人に受け入れられるというのがどういうことかを教えてくれた。けれどそれは二重生活の始まりでもあった。常に両親が、僕がボーイフレンドと一緒にいるところを見るのではないかと怯えていた。

2014年11月、もう同性愛者でないふりを続けることはできないと両親に話した。これは「共同絶交」を意味した。家族も友人も知人も、「エホヴァの証人」仲間からは二度と口をきいてもらえなくなることだ。その日からそれが始まった。両親からはテキストメッセージさえも送られてこなかった。2015年には道で父親とすれ違ったが、彼は僕を存在しないものとして通り過ぎて行った。新しい人生を始めようと決心したきっかけはそれだった。ボーイフレンドと一緒にロンドンに移ることに決めた……」。

──彼はいま、新たなパートナーとともにウェブベースのブランディング・エージェンシーを経営する一方で、LGBTQIの人々が直接会って話せるサポート・ネットワーク「KRUSH」(krushnetwork.com)を5月に立ち上げた。やっと自分を否定する宗教コミュニティから自立できたという。

       *

「改宗」が伝えられた2001年の11月、プリンスは、9年ぶりに「プリンス」に戻って初の、24番目のアルバム『The Rainbow Children』をリリースした。ジャズィーなアレンジも多い中でのコンセプトは、やはり信仰とセクシュアリティ、そして愛とレイシズムだった。描かれるのはマーティン・ルーサー・キング牧師に着想したような(実際、師の演説音源も使われている)架空のユートピアへと向かう社会運動の物語。

アルバム最後の曲のタイトルは『Last December』。人生最後の12月が来たらどうするか、と問うこのスローナンバーは最後に、

In the name of the father
父なる神の名において
In the name of the son
その子キリストの名において
We need to come together
我らは共に手を携え
Come together as one
心を一つにして共に行こう

と繰り返されて終わる。

「USAトゥデイ」紙はこのアルバムを「これまでで最も果敢で魅惑的な作品の一つ。たとえこれを神への謎めいた求愛と受け取ろうとも」と評した。「ボストン・グローブ」紙も「傑作」とは言わないまでも「1987年の『Sign 'O' The Times』【編注:この「O」はピースマークです】以来の、最も一貫して満足できるアルバム」とした。

しかし「ローリング・ストーン」誌はやや違った。「神聖なる正義のシンセサイザーを振る説教壇の奇人に先導された、砂漠を渡る長いトボトボ歩き」と形容したのだ。「説教壇の奇人(Freak in the Pulpit)」とはもちろんプリンスのことである。「フリーク」を「奇人」と訳したが、実はそれよりももっと強いニュアンスがある。「バケモノ」とか「畸形」とか、とにかくゾッとする奇怪な生き物のことだ。

リベラルな若者文化を先導する「ローリング・ストーン」誌が、プリンスの「信仰」を快く思わなかったのはそこからも明らかだ。そして多くのゲイのファンたちもまた、裏切られたと感じていたに違いない。前出のクレア・ホフマンが行ったあるインタビューでは、プリンスは同性婚に反対してソドムとゴモラを連想させるような次のような発言をしている。「神が地上に降り立って人間があちこちでくだらないことをやったりしているのを見て、それでみんな全部いっぺんにきれいに片付けたんだ。『もう十分だ』って具合に」

同時に「エホヴァの証人」のコミュニティにとってもまた、たとえ彼が政治的には共和党を支持する保守派のスターだったとしても、「説教壇のフリーク」を迎え入れることは奇怪なことだったに違いない。

       *

トム・クルーズやジョン・トラボルタなどの有名人を広告塔のように利用する「サイエントロジー」とは違って、「エホヴァの証人」の本部組織である「ものみの塔(聖書冊子)協会」は建前上は有名人を特別扱いしない。プリンスの死後に掲載された英デイリーメイル紙の記事には、昨年夏の「エホヴァの証人」地区大会にラリー・グラハムと並んで座っているプリンスの姿が写真に収められている。濃い色のシャツに白いスーツらしき服を着た彼は、他の普通の「証人」たちとともに参加者席にいる。死の1カ月足らず前の3月23日のキリストの死の記念日にも、彼は普通に地元の集会に姿を見せていた。

もし特別扱いをしているとすれば、それはあれだけ卑猥な歌を歌ってきた彼を組織の中に招き入れたことだ。それまでの彼の「罪」をいっさい問うことなしに。

「それは彼の圧倒的な富のおかげだ」と、元「証人」で、そこからの脱退の経緯を『Cowboys, Armageddon, and The Truth(カウボーイ、アルマゲドン、そして真実)』という本に上梓したスコット・テリーは説明する。

「証人」たちには通常、決められた会費はないが、それぞれの「王国会館(Kingdom Hall)」(「神の王国」を崇める彼らの教会の呼び名だ)のドアには寄付金を入れる箱が置いてあり、さらには戸別訪問での寄付集めも行われるという。テリーは「証人」のフェイスブックのページで、プリンスが死の6カ月前に他の「証人」たちと同じようにその寄付集めを行っていたという投稿を読んだという。もっとも、4人のボディーガード付きでリムジンで乗り付けた、とはいうが。

やはり元「証人」で今は脱退信者たちの支援活動を行っているアレクサンドラ・ジェイムズは、プリンスの遺産がどれほど「ものみの塔協会」に寄付されるかに注目している。いまのところ遺産に関する遺書の存在は明らかになっていないが、プリンスの資産は死の影響もあって今後も急増するとされ、彼のミネソタ州のペイズリー・パークの自宅兼スタジオには今後200年間毎年アルバムを作れるほどの未発表曲も遺されているという。遺産総額は一説で3億ドル(300億円)以上だ。

ジェイムズによれば、「ものみの塔協会」は最近、「証人」たちに自分の遺産を「非信仰者」の家族にではなく教会に、つまり同じ「証人」たちにこそ寄付すべきだという説得の圧力を強めているのだという。「エホヴァの証人」自体も、プリンスがこれまでにすでに「相当な贈り物と支援」を行ってきたことを認めている。もっとも、巨額の寄付は、教義によって秘密裏に行わなければならないとされるが。

ほとんど声明というものを出さない「協会」が、プリンスの死を聞いて「悲嘆している」と異例の広報をした。プリンスの信仰と遺志とがいかなるものであったかに関わらず、宗教組織には常によくわからないままの莫大な金が動いている。

       *

興味深いことに、ボブ・ディランが「物見の塔 Watchtower」を歌にしている。のちにジミ・ヘンドリックスがカヴァーした傑作『All Along the Watchtower(見張り塔からずっと)』(1967)だ。聖書の「イザヤ書」にある、バビロンの崩壊を知る物見の塔からの眺めをテーマにしている。登場するのは冒頭からいきなり道化師と泥棒だ。

“There must be some kind of way out of here,”
Said the joker to the thief.
「出て行く道はあるはずだ」と道化師が泥棒に言う。

──なぜ出て行こうとするのか?

“There’s too much confusion,
I can’t get no relief.
Businessmen, they drink my wine,
Plowmen dig my earth.
None of them along the line
Know what any of it is worth.”
「混乱と不安。ビジネスマンは俺のワインを飲んじまう。農夫たちは俺の土地を耕してくれる。でも意味がわからない。価値もわからない」

“No reason to get excited,”
The thief he kindly spoke.
“There are many here among us
Who feel that life is but a joke.
But you and I, we’ve been through that,
And this is not our fate.
So let us not talk falsely now,
The hour is getting late.”
「そう騒ぎなさんな」と泥棒がやさしくも言う。「人生はただのジョークだという奴がたくさんいるが、俺らはそれを生き抜いてきた。ジョークじゃない。だから戯言はやめよう、時間も遅いし」


──ここで場面が転じる。不意に物見の塔が現れる。

All along the watchtower,
Princes kept the view,
While all the women came and went —
Barefoot servants too.
ウォッチタワーからずっと、王子たちは見張りを続ける。女たちは行き来し、裸足の召使いたちもまた─

Outside in the cold distance,
A wildcat did growl.
外の遠く寒い荒野から、山猫が吠える。

Two riders were approaching, and
The wind began to howl.
馬に乗った2つの人影がやってくる。そして風が鳴り始める。

──冒頭の2人がここにつながる。あの道化師と泥棒だ。何かが起きた。彼ら、別の生き方が近づいてくる。嵐が来る。

ここに登場するディランの「プリンス(王子)」たちもまた、物見の塔から道化師と泥棒、そして山猫──城の外側の世界を、一早く見つけている。それは「プリンス・ロジャーズ・ネルソン」の見たものと、同じものなのだろうか、違うものなのだろうか。
(了)

《現代思想2016年8月臨時増刊号・総特集プリンス》掲載

April 16, 2009

ミルクとあの時代、そしていま

【若者たちには希望が必要だ】

「この運動が続いていくことを願う。なぜならわたしの選挙は世の若者たちに希望を与えたからだ。若者たちには、希望を与え続けなければならないからだ」

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ミルク暗殺30年を追悼してサンフランシスコ市庁舎内に2008年、ハーヴィー・ミルクの胸像が設置された。公募で選ばれたその像の台座に、冒頭のこの、有名な彼の言葉が刻まれている。ミルクが恋人スコット・スミスと住み始めたサンフランシスコ、そのアパートと階下の「カストロ・カメラ」店のあった575 Castro Streetの前にもまた同じ言葉を刻んだ記念碑が建っている。

文字どおりカストロ地区の真ん中を貫くカストロ通り。マーケット通りから南へ折れてカストロに入ると、すぐに映画館であるカストロ・シネマの看板がひときわ目を引く。ミルクらの暮らした界隈はその2ブロック目、18番街と19番街の間だ。現在、マーケット通りとの角にはハーヴィー・ミルク広場があり、彼と彼のコミュニティに敬意を表して大きなレインボウ・フラッグがはためいている。6色の虹の旗は、性的少数者たちの統合の旗印だ。

当時、カストロ・カメラは商売のためというよりもむしろコミュニティ・センターのような役目を果たしていた。ミルクに惹かれた近隣住民たちが日がな立ち寄っては地区内のちょっとした問題を話し合ったり、評判を聞きつけて遠くからはるばるやってきた若い活動家、家や学校を追われたゲイの少年たちまでがたむろする場所になっていた。そこに集った若者らはやがて後の選挙本部の重要な参謀たちとなる。

学生時代にミルクと知り合い、やがてミルクの右腕となるクリーヴ・ジョーンズ(エミール・ハーシュ)、店で働きながらミルクらの活動を写真で記録し続けたダニー・ニコレッタ、最初の選挙本部長となったジム・リヴァルド、選挙戦略を担当し市政執行委員時代には補佐官として仕えた“Polish Princess(ポーランドのお姫さま)”ことディック・パビック、“Lotus Blossom(スイレンちゃん)”こと政治顧問のマイケル・ウォン、そして当選した4度目の選挙の立役者であり男たちの中でただ1人のレズビアンだったアン・クローネンバーグ。

彼らはいずれもミルクの遺志を引き継ぎ、さまざまな分野でミルクの蒔いた「希望」の種子を芽吹かせていった。それはミルクの願ったとおり、現在も続いている。

【希望をもらったサンアントニオの若者】

どんな社会運動にも英雄が必要だ。時が経ち、その英雄の目指した変革が成就したとき、往々にして人は1人の人間がいかに大きな違いを生み出したかなんてことは忘れてしまうけれど。

『ミルク』の脚本を書いたダスティン・ランス・ブラックが当のミルクの存在を知ったのは90年代初めだった。その数年後、彼はアカデミー賞受賞の1984年のドキュメンタリー映画『The Times of Harvey Milk(邦題=ハーヴェイ・ミルク)』を見る。ブラックはまだその時のことを憶えている。「映画の最後の部分でミルクが演説をしてるんだ。こう言っていた。『デモインとかサンアントニオとかのどこかで』、サンアントニオってまさにおれが育ったとこなんだけど、『だれか若いゲイがある日新聞を開いてその見出しを見つけるんだ。<ホモセクシュアルの男がサンフランシスコで当選>。そうしてその子は気づく。きっと、世界はこれからよくなる。きっと明日はもっとよくなる。ぼくには、希望があるんだ、と』」

「ぼくは号泣していた」とブラックは言う。「まさにぼくが、その子だったから。彼から希望をもらったのはぼくだったから。ミルクが言っていたのは、きみはそれでいいんだってことだけじゃなかった。きみはすごいことができるんだってことまで言ってた。そのころはゲイ・コミュニティにとっては最悪の時だったのに。エイズがあったから。で、ぼくは思った。この物語をもういちど世間に広めなくちゃって。彼のメッセージを語り継がなきゃって」

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ランス・ブラックの起動力となったドキュメンタリー版も日本で再公開。
詳細はこちらをクリック

「ミルクの遺してくれたものは、ゲイであってもクローゼットに隠れちゃダメだって言い続けることだった。ゲイであることはただ他人とちょっとばかり違ってるってことでしかない。そんなことより自分で自分の志をいかに持つかってことが大切なんだ。いまの若い子たちにはもう当たり前なんだろうけど、いまじゃ堂々と、ゲイだってことを隠さないで医者とか弁護士とか役者とかになりたいって、そう思ってる子がたくさんいる。それってじつはハーヴィーの遺産だし、彼のメッセージはそうしていまも若い子の命を救っているんだ」

数年後、ブラックは映画・テレビ界に足がかりを得て作家・演出家などとして働き始めた。それでもいつか「ゲイのマーティン・ルーサー・キング」と呼ばれた男ハーヴィー・ミルクの物語を書き上げたいと思っていた。しかしミルクに関する本を利用する権利がなかったのだ。つまり、自身で独自のリサーチを進める以外に方法はなかったのである。仕事仲間は、映画化のあてもないのにそんな危険なことはやめろと言っていた。だが、調べてみたら四半世紀も経っていたのにミルクの近くにいて彼の仕事の重要部分を担っていた人物たちがみなまだ生きていたのだ。本ではなく関係者本人たちにインタビューできる。作家としてそれ以上の条件はなかった。「オーケイ、書ける、と思ったんだ」とブラックは言う。

最初に会ったのが、ミルクがカストロの路上で出会った眼鏡の若者、やがて彼の右腕となったクリーヴ・ジョーンズだった。ミルクと共にいつも第一線で活動してきた彼は、ミルクの死後も彼の遺志を引き継ぎ多くの抗議集会や政治行進を率いてきた。エイズ禍ただ中の1987年、犠牲者を悼みその名を大きくキルトに縫い込むというネームズ・プロジェクト(エイズ・メモリアル・キルト)をスタートさせたのも彼だ。この企画はいまや世界的なエイズ啓発運動のシンボルになっている。

ブラックによるジョーンズへのインタビューは2日間、テープ8時間分に及んだ。その間、ジョーンズはダニー・ニコレッタ、アン・クローネンバーグ、トラック組合チームスターズのアラン・ベアード、トム・アミアーノ、ジム・リヴァルドら重要人物を次々と紹介してくれた。もっとも、ミルクの映画に関してはこれまでも多くのアプローチがあり、そのいずれの企画もが立ち消えになっていた経緯もあった。インタビューする相手にまずは「自分はそういうのとは違う、インタビューは時間の無駄ではない」と説得するのが彼の最初の仕事だった。「結局、彼らを信じさせることはできた。でも、実を言うと自分ではまだ、ほんとに映画にできるかどうか、半信半疑だったんだ」

当時の彼にはテレビ番組の台本の仕事もあって、週末ごとのサンフランシスコ通いが1年も続いた。あるとき、ミルクの政治顧問マイケル・ウォンが、ミルクとのやり取りを当時、すべて詳細に日記につけていたという話を耳にした。その日記を見せてほしいと何度もウォンに頼み込んだ。ある夜、市庁舎近くのレストランでの夕食後、そのウォンが分厚い膨大なコピーの束をどすんとテーブルに置いてよこした。「ああ、それが日記だ」とウォンは言った。

こうして『ミルク』は政治的な記録だけでなくミルクの人間としての個人的な物語にもなったのだ。けっきょく、ジョーンズはすべてにわたって協力してくれ、映画全体の時代考証顧問になってくれた。撮影時には毎日ロケの現場に足を運んでくれていたという。

映画はミルクがスコットに会ってから暗殺されるまでの8年間を描く。「映画が始まってすぐに、観客には暗殺のことが示唆されるように書いた。これは、ある大切な人物にとんでもないひどいことが起きる映画だ、ってすぐに示したかった。そうして時計の針が刻まれはじめる。その時計はミルクの頭の中でも刻まれていたはずだ。なぜなら、彼は遺言を録音していたから。自分はいつか暗殺されると彼は知っていた。事実、友人たちに『おれは50歳まで生きないだろうな』と話してたっていうんだ」。凶弾を受けたとき、ミルクは48歳だった。

「個人的なことが、政治的なことと、ときに美しく出遭う」とブラックは話す。「ミルクのやっていたことの理由は、とても個人的なところから発していたと思う。それは単に権利獲得とか選挙戦略とかいうものじゃない。それは彼がスコットと愛し合っていたこと、ジャック・リラと愛し合っていたことと関係してる。その事実が、オーケイなことであってほしかったんだ。そのことをだれかにどうのこうの言われたくなかったんだ。自分が自分であってよいのだという権利なんだよ。だって、彼がまだ若かったとき、彼が最初にサンフランシスコにやってきたとき、ゲイが恋愛するのは違法だったんだよ。男同士でダンスすることも、ゲイバーに入ることも違法だったんだよ。だから、これはものすごく個人的な話なんだ。それがたとえものすごく政治的なことであっても。彼にとってこれは、愛のための政治学だったんだよ」


【4年をかけて書いた脚本】

脚本はリサーチとインタビューで3年、執筆に1年、計4年近くかかった。テレビの仕事を続ける中で何度も諦めかけた。「ただね、何人もの人たちがこれまでだれにも話してこなかったつらい思い出までぼくに教えてくれてたんだよ。彼らをがっかりさせることはできなかった」とブラックは語る。だがやっと書き上げたとき、彼には映画を作る資金はなかった。

「ランスの脚本はすばらしかった」とジョーンズは話す。「とてもすっきりしていてエレガントな作りだった。しかもハーヴィーの声がしっかりと聞こえた。それでランスに言ったんだよ。『これでいいと思ったら、おれに言え。そしたら監督を紹介してやる』」。それが彼の友人のガス・ヴァン・サントだった。ジョーンズは最初の顔合わせをセッティングした。だが、そのときにはブラックは脚本をヴァン・サントに渡していない。もう一回書き直して、それからオレゴン州ポートランドの監督に送ったのだ。10日後、ブラックに電話がかかってきた。「よし、これで映画を作ろう」と監督は言った。

ヴァン・サントも振り返る。「ドキュメンタリー版の『ハーヴェイ・ミルク』があったからね、バーはかなり高かった。だがドラマ版はその重要な続編になると感じていた」「公務中に暗殺されたミルクはゲイの世界での聖人になったんだよ。この映画を制作する理由の1つは、彼の時代を知らないいまの若者たちのためだ。若い人たちに、彼を思い出し、彼について学んでほしいからだ」

ブラックの友人には『アメリカン・ビューティー』のプロデュースでオスカーを受賞したダン・ジンクスとブルース・コーエンもいた。2人とも子供のころからミルクのことは知っていた。ジンクスの父親は当時、サンノゼ・マーキュリー・ニューズ紙の編集者で、ミルクの選挙とその当選とを記事にしていたのだ。ジンクスは言う。「ランスが脚本を書き上げてガス・ヴァン・サントが監督するって新聞で読んで、それで思わずランスに電話をかけておめでとうって言ってやったんだ。そうしたら彼が『あのさ、プロデューサーがまだ決まってないんだ。脚本、読んでみる?』って言うんだよ。思わず『ウソだろ!』って叫んでた。『もちろんやるよ!』ってね」

コーエンも続けた。「脚本を読んでみて、これでやっと映画ができると思った。この英雄の物語を伝えるのにふさわしい力強い本と完璧な監督。それをぼくたちが手伝えるなんて、信じられない幸運だった。この映画はたおやかな叙情詩でもあり、あらぶる叙事詩でもある。ハーヴィーのことを知らなくても感動するしドキドキするし、第一、この男はぼくらの想像するような並みの政治家じゃないんだ。しかも、『変革』を合い言葉にする大統領がアメリカに誕生するこの年にこの映画が出来上がったんだよ」

ヴァン・サント、ブラック、ジンクス、コーエンの4人は映画制作の具体的なステップに入った。重要な史実の部分は過去の資料映像を使うことをためらわないと決めた。暗殺事件後のダイアン・ファインスタインの声明発表、あれは劇での再現は不可能だ。あの時の衝撃と戦慄は、あの時の衝撃と戦慄に語らせる以外にない。そのうち、映画『サイドウェイ』のマイケル・ロンドンがこの脚本に惚れ込んだ。「脚本を読んでいると自分の昔を思い出してきてね。ぼくの大学はサンフランシスコのベイエリアだったんだ。あのころのことはよく憶えている。ミルクが市とコミュニティにとっていかに重要な人物だったかを改めて思い出したよ」。彼のグラウンズウェル・プロダクションはそうして出資に参加した。

さて、ミルクをだれが演じるか?
参加スタッフだれもの心に浮かんだのがショーン・ペンだった。
ヴァン・サントがペンを知っていた。そこで彼に脚本を送った。ヴァン・サントがブラックに電話を返すまでには10日を要したが、ペンの場合はもっと早い1週間で反応があった。ブラックとヴァン・サントはさっそくペンと会い、プロジェクトへの参加を確認した。ペンからの条件が1つあった。ミルクの政治活動と同様、彼のプライベートな恋愛関係も真実のまま描くこと。ブラックが話す。「主役というのは危険な商売だ。そのリスクを冒してまで役を演じる覚悟があるかどうか。でも、ショーンは『そのまんまをやろうじゃないか。ありのままのミルクを伝えようよ』って言ってくれた。彼にとってこの映画はとにかく正確であることが大前提だった。結果、彼は完璧に、心も精神もハーヴィー・ミルクになりきった」

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ペンの演技の見事さはだれが見ても明らかだ。ジンクスが言った。「毎日、セットで、ショーンがだれかものすごくハーヴィーみたいな人物に変身していくんだ。それを目撃することがぼくらみんなの毎日のスリルになった。特に実人生でミルクを知っているスタッフにとっては、その変身過程は驚き以外のなにものでもなかったよ」。コーエンも言う。「ハーヴィーが実際に行った演説をそのまま一言一句正確にペンが再現しているシーンがいくつかあるんだけどね、セットでそれを見ていてぼくは鳥肌が立ったね」

ショーン・ペンは言う。「こうやって演技できたのは、素晴らしい脚本が導いてくれたのはもちろん、かなりの量の実写映像が残っていたからもある。それらを見ていておれはミルクに惚れ込んだ。この人物、この人間性、精神性に恋をした。それらは俳優としてのおれの想像を超えた何物かだった。それにね、ガス・ヴァン・サントはぜったいに詰まらない映画は作らない。だから俳優として、彼の作り方には全幅の信頼を寄せていたからね」

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【カストロ通りのタイムマシン】

この映画を作る上でのルールの1つ。「この企画に共感し参加を希望する人たちがいれば、それは拒まない」。映画の中でいかに多くの実在の人物が描かれるかを考えると、キャスティングは通常の映画よりもずっと重要になる。ブルース・コーエンが言う。「ハーヴィー・ミルクの話の待望の映画化だ。俳優たちはそれだけでもこの映画に出演したがる。まして監督がガスで主役がショーンとなりゃそりゃ飛びつくわね。配役では俳優たちの性的指向は無視したよ。ストレートの俳優にもゲイの役を振ったし、ゲイの俳優にストレートの役を振った場合もある。そうじゃなきゃできなかったね」

ミルクをよく知る実在の人物の多くも生きていた。そんなミルクの古き友人たちはちょくちょく撮影現場に訪れてくれた。俳優たちは彼ら自身から学べた。「リサーチの段階でもずいぶん彼らと付き合ったけれど、制作に入ってからもできるだけ関係者全員をこの映画に巻き込みたかったんだ」とブラックは言う。「なんでもいい、自分の役の衣装選びで相談に乗ってもらうとかでも、ただ撮影現場にいてくれるだけでもよかった」。実際にカメラの前に立った人物たちもいる。映画の中のトム・アミアーノ(ゲイの教師として住民投票提案6号で解雇されそうになった人物)をトム・アミアーノ自身が演じるように提案したのはヴァン・サントだった。ミルクのスピーチ・ライターだったフランク・ロビンソンに、カストロ・カメラ店にたむろしたりデモで行進する彼自身を演じさせたのも監督だ。トラック組合のアラン・ベアードまで監督に勧められて自身を演じている。あの昔にミルクを取り巻いていた彼らがいまふたたび戻ってきたのだった。

自分以外の役を演じた人たちもいた。エミール・ハーシュが演じたクリーヴ・ジョーンズ本人は、ミルクの支援者だったドン・アマドールを演じている。プロの俳優だけでなくアマチュアも使いこなすのはガス・ヴァン・サントの長年の手法だ。「相手がヴェテランのプロだろうと新人だろうと、監督として彼らには同じように話をする。演出、感情表現、他の登場人物、物語全体について話し合う。独学でやってきたからね、俳優でない人たちにも演じさせてきたのはそのせいもあるんだろう」

『ミルク』は、彼らにとってのタイムマシンだった。ミルクの支持者でレインボーフラッグの考案者ギルバート・ベイカーはいまはニューヨークに住んでいた。クリーヴ・ジョーンズはカリフォルニア東部のパームスプリングスだ。アン・クローネンバーグはサンフランシスコに住み続け、いまは市の公衆衛生局の管理計画副局長を務める。提案6号を契機にカムアウトして反対運動に加わった前述のトム・アミアーノは現在、かつてのミルク同様、サンフランシスコ市政執行委員を務めている。そんな彼らがみな再びサンフランシスコで合流した。アミアーノはショーン・ペンのセリフに混じるミルクのニューヨーク訛りの英語に感動したという。ベイカーも映画に自身としてちょっとだけ登場しているが、ペンを見ては何度もミルクではないかと錯覚し、しばし呆然としたらしい。「あのころハーヴィーが私にデモの横断幕が欲しいから作ってくれと言ってきて作ったことがある。おかしいね、それから30年経ってまたこの映画のために、私がサンフランシスコで旗を作ってるなんて。口の悪い友人たちが言うんだよ、78年より縫うのがずいぶんうまくなったなってね」

アン・クローネンバーグも打ち明けた。「実を言うと自分が撮影に臨めるのかどうか、不安だったの。ミルクの暗殺はとてもつらい経験だったからね。でも正反対だった。30年間、友人であり恩師であり父親でもあったミルクを失って殻に閉じこもっていたのよ。でもその痛みから逃れようとして、あの素晴らしい時代のすべてを封印してしまっていたのね。それをいま再び体験できた」「選挙に勝利したあの夜の再現シーンで、ガスが言ったの。『来いよ、アン、このシーンはきみがいてもらわないと』って。それで77年のあの選挙の夜の、2度目のパーティーを経験したのよ。いったいどれだけの人が30年後に人生を2度経験できる?」

ダン・ジンクスも彼らがいかにあの時のことを記憶しているかに驚く。「現在のキャストやスタッフと実在のかつての人物たちが一緒に同じ時を再現するんだよ。衣装部に行って『そうね、これが私があの夜に来ていた服に似てるね』とか、カメラの前で『あの日のカストロ・カメラではぼくはそこに立ってたんだ』とか教えてくれるんだよ。時には写真まで持ってきてくれて」

ヴァン・サントは、こうしたリアリティに自身の制作スタイルを合わせた。「シーンを現実的に見せる方法は、劇的になり過ぎないようにすること。そうすればその瞬間は現実に起こっていることのように見える。それが自然主義であり、私のスタイルだ」

ミルクの当選した年、レインボーフラッグも初お披露目となった1978年のゲイ・フリーダムデイ・パレードを再現するときには、ベイエリア周辺から3000人を越えるエキストラがボランティアで集まった。クローネンバーグはミルクを古いボルボに乗せ、マーケット・ストリートを運転した時の様子を思い出した。ミルクは助手席には座らず、サンルーフを開けてその屋根部分に乗っかっていた。万が一襲われたり銃撃されたりした時のことを考えて、病院への緊急の経路もあらかじめ調べ上げていたと教えてくれた。

映画ではミルクの派手な誕生パーティーも再現されている。結果的にミルクの最後の誕生日だった。当時の出席者たちは、パーティーの主賓がミルクに仕掛けたいたずらのことも覚えていた。パイを顔にぶつける遊びはミルク自身が好んでやったものだったが、その夜はミルクがパイを5つも顔にぶつけられていた。ダニー・ニコレッタも振り返る。「僕もパイを投げた1人だったけれどね、セットの隅で泣いたよ。音楽がかかり、みんな楽しげで、まるであの日のパーティーと同じだった。素晴らしかった。でも、胸が締め付けられてね」。ジョーンズも言う。「ぼくも最初の週は毎日泣いてたよ。ジョシュ・ブローリンがダン・ホワイトの格好をしてそばを通ったときにはゾッとしたけどね。そうしたら彼が言ったんだ。『いまのその顔、それが知りたかったんですよ』って」

ブローリンも言う。「台本を読んで、最後には泣いていた。これはラブストーリーであり、公民権に関する物語であり、青春の物語だった。それから娘といっしょにドキュメンタリー版を見たんだ。ほんとうに心震えたよ。それですぐにやるって決めたんだ。ミルクってのは、みんなの人生がよりよいものになるなら自分は危険な目に遭ってもぜんぜんかまわないという人だった。モスコーニ市長のことも忘れちゃいけない。彼が用意してくれたおかげでミルクができたこともたくさんあったから」

ミルクの最後の恋人であったジャック・リラを演じたディエゴ・ルナも言う。「ジャックは公正に描きたかった。実際には彼のことは知らないけど、よくわかるんだ。アメリカに来たメキシコ人はだれでもみんな大変だ。おまけにあの時代でゲイでメキシコ人だよ、それがどれほど大変だったか。彼はたぶん、どうしてよいかわからなくて自分の面倒を見てくれる人を探していたんだろうと思う。彼の家族に会って話を聞くのはやめにした。その代わりダニー・ニコレッタやクリーヴ・ジョーンズといろいろ話して、自分なりのジャックを作りあげたんだ」「ショーン・ペンはぼくにとてもやさしくて、何をどうすればいい映画になるのかも知っている。演技で大切なことはコミュニケーションなんだ。彼といっしょのシーンでは彼はいつもすぐそばにいてくれた」

ペンの最新の監督作品『イントゥ・ザ・ワイルド』の演技で絶賛されたエミール・ハーシュは、今度は共演者としてペンと関わることになった。「ペンといっしょに仕事をするのは最高だ。『イントゥ〜』でずいぶん濃い付き合いをしたから、次に急に共演するなんてことになったらどんな感じかなって想像してたんだ。だってその時点では僕にとって彼は監督でしかなかったからね。彼の才能とか洞察力とかいった監督としての素晴らしさは今回もそっくり、今度は演技者として、すべてのシーンの1秒1秒に表れてたよ」。そのハーシュについてジンクスが言う。「彼はカメラに写らないところでもクリーブになってたね。それで、カメラの前でちょっとしたアドリブをするんだが、それもほんとうに本人が言いそうなことを口にするんだよ」

ミルクの最も忠実な恋人だったスコット・スミスは『スパイダーマン』シリーズでも人気のジェームズ・フランコが演じた。ミルク暗殺後、一部に“ミルクの未亡人”とも呼ばれていたスコットの人生の大半はミルクの遺品を保管することに捧げられた。ドキュメンタリー『ハーヴェイ・ミルク』監督のロバート・エプスタインが、フランコに劇場版ではカットされていたスコットへのインタビュー映像を見せてくれた。「なんとなく彼っていう人間がわかった気がした。ミルクの当選前にすでに2人は別れていたんだけれど、その後もお互いを気遣っていたんだ。ミルクも選挙の夜のスピーチで彼に礼を述べていたしね」。ニコレッタも2人について思い出す。「ミルクとスコットは痛々しいほど深く愛し合っていたんだよ。だからこそ激しく感情をぶつけ合うこともあった。選挙運動のプレッシャーもあったんだろうね。よく、ものすごく感情的に言い合いしてたもんなあ」


【ガス・ヴァン・サントという視線】

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脚本家ダスティン・ランス・ブラックは「撮影初日はほっとして溜息が出た」としみじみ語る。「4年間やってきたことがやっと実を結んだって思った。やった、ついにここまで来た、ってね。その日、虹が出たときにはほんと涙が出た。ふと見たらクリーヴ・ジョーンズも泣いてたんだ」。そのジョーンズも言う。「これ以上ないってくらいひどい朝だったね。どしゃ降りでおまけにものすごく寒くてね。最初に撮影するシーンのためにエクセルシオール地区(ダン・ホワイトの地区)にいた。そうしたらカメラを回す2分前にふと雲が切れて太陽が現れた。次に、撮影現場の上に虹がかかったんだよ。こりゃあ吉兆だって思ったね」

ガス・ヴァン・サントと撮影監督ハリス・サヴィデスは悪天候にも動じず、迷信もそうは信じないタイプだ。共作5本目のこの映画について、ヴァン・サントは「これまでのどの映画もハリスとはどうやって撮るか模索しながらの旅みたいなもんだった。ただ、『ミルク』はいままでの小品とは違う映画になるだろうと感じていた」と話す。彼らは絵コンテに頼らなかった。互いに協力して未知の世界を切り開くという独自のスタイルを貫いた。「撮影を始めるとき、わたしたちにはいつも無限の可能性が待っている。その中からおもしろいと思うものだけに絞っていく。他の映画や写真を参考にすることもある。すべてを検討して、気に入ったものは数えるほどしか残らないけどね」

ブラックは現場のヴァン・サントから多くを学んだ。「彼のスタイルはいままでいっしょに仕事してきたどの監督とも違っていた。とてもオーガニックというか、自然なんだ。一歩下がって観てる。そうするとものごとが自然に動き始めるって知ってる。そうして、思いもよらなかったものをそこで見つけ出す、みたいな。役者たちの近くにいて、役者たちが自分たちで何かを発見するのを待ってる、みたいな」。ダン・ジンクスも言う。「やむを得ず言わねばならないことでも、ただ言うだけじゃない。いつどういうときにそれを言うかを知っている。だからみんなもその指示を聴くんだ。ほんの二言三言だったりもするが、彼が何を求めてるのかわかるんだな」

アン・クローネンバーグを演じたアリソン・ピルもうれしそうだ。「なんというか、すべてアドリブの感覚なの。おまけにかなりの部分、カメラが2台で追ってくれるのね。すごく刺激的なやり方だと思う。一日中、ずっとベストを保たないとダメ。信用してないとできないわ」

エミール・ハーシュの感想はこう。「役者として、ガスは自分の脚で歩くことを教えてくれるんだ。松葉杖なんか使ったら二度と自分の脚で歩けなくなる。だから彼と仕事をすると、役者は自分の直感をすごく信じられるようになるし勇気も出るようになる。彼といっしょに仕事してごらん、ものすごいから」


【もう1つの主役、サンフランシスコ】

『ミルク』は、トレジャー・アイランドを拠点として全編を現地サンフランシスコ市内で撮影された。ハリー・サヴィデスはその2年前、ジェイク・ジレンホールが主演した『ゾディアック』の撮影監督としてすでに市内の大部分を知っていた。

プロダクションはギャヴィン・ニューソム現市長とサンフランシスコ市映画委員会と密に連絡を取り、エグゼクティブ・プロデューサー兼ユニット・プロダクション・マネジャーのバーバラ・A・ホールが市内のどの場所でも撮影できるように手配した。その中にはもちろん市庁舎内部も含まれたが、市長執務室も撮影してだいじょうぶというニューソム市長からの提案は丁寧に辞退した。市長の仕事をいささかなりとも煩わすのはこの映画の趣旨から言ってもできないことだったから。市長はハーヴィー・ミルクの物語は「かならず語り継がれねばならない物語だ」と話す。この映画ではサンフランシスコ自体が1つの重要な登場人物なのだった。ミルクの物語はこの市を変え、街の歴史の中にすでに織り込まれているのだ。

「さて、カストロ・カメラ店をどこに作るか、だった」とコーエンが説明した。「結局、ほんとうに店があった場所、カストロ通りの575番に落ち着いた。そこはいまギフトショップになっててね、そこに入って言ったんだ。『すみませんが、映画の撮影で9週間ほどあなたたちを店から追い出して、ここを70年代当時のミルクのカメラ店に見えるように改造したいんだが、よいだろうか?』って。まるで歴史を作ってるような感じだったよ。もう1回、いま現在カストロ・カメラの歴史を始めるみたいな」

Givenという名のギフトショップのオーナーは喜んで店を明け渡してくれた。ジンクスによれば、アート・デザイナーとセット・デコレーターのチームは、現在の店を保護するため実際の壁から7センチほど内側に別の壁をつくって店内をすっぽりと覆うという作戦に出た。その壁に当時のポスターなどを飾り付けるのだ。こうして、30年前のカストロ・カメラ店がそっくり再現された。それは当時の関係者に大きな感慨をもたらした。マイケル・ウォンもその1人だ。ブラックに膨大な日記を託した彼は、そう感情的な男ではない。その彼がこの再現されたカメラ店に30年ぶりに入ってきたとき、彼は店内を歩き回り、眺め回し、奥の部屋に行って、そうして印刷機を目にすることになった。それがプロダクション・デザイナーのビル・グルームがどこからか見つけ出してきた、あの当選した選挙でミルクがレンタルしていたモデルと同じものだったのだ。マイケルは店の外に出た。そうして泣き始めた。ブラックをハグしながら「ありがとう」と言うのが精一杯だった。ブラックももらい泣きした。「やってよかったと思った」とブラックは言う。

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ミルクの仲間たちがあのときと同じようにまた「カストロ・カメラ」に集ってきた。ジェームズ・フランコが教えてくれた。「みんなふらっと店に入ってきて、たがいに顔を見合わせてるんだ。それで目だけで会話してるみたいだった。時間を巻き戻したみたいだった。この一軒の店が、世界中のゲイの人権運動にとって信じられないくらい重要な役割を果たしたってことがわかった」

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ビル・グルームは驚きを隠さない。「昔からずっとカストロ地区に住んでる人たちが、みんなそのカストロ・カメラに顔を出してくれた。それも、当時の店内にあったものを、写真だけじゃない、小物や飾りやポスターまで使ってくれと持ち寄ってくれた。窓に架かっていた看板、あれもそうだ。あれも本物なんだよ。そういうのをみんなずっと家で持っていたんだ」。そんな「店」には間違って本物の観光客がカメラの電池を買いに入ってきたりもしたという。

店には変わってしまったところもあれば、当時のままの店もあった。ミルクが近所の人々をまとめるためにゲイたちを連れて行くマッコネリー・ワイン&リカー店は、現在はスワール・ワイン・ショップに変わっていたが一時的に30年前に戻された。デザイナーたちはカストロ通りの2区画、17番街から19番街までの50軒ほどの店頭を再現した。サンフランシスコの6年間の歴史を描くため違う時代風景も必要だった。そのため、72年から73年の風景の場所と76年や77年時点の外観の部分を作り、そこをカメラワークで撮り分けたのだ。

衣装も膨大な写真資料を基に用意された。衣装担当はダニー・グリッカー。ミルク自身、自分の服装にはあまりかまわなかった。カストロに住んでいた人々はみな似たり寄ったり。服にかける金がなかったのだ。クリーヴ・ジョーンズによればミルクはいつも同じ服を着ていて、政治活動のためにもっと服が必要になると、古着屋で何着かスーツを買ってきてそれを着回していたらしい。靴にも穴が空いていて、暗殺後に彼が市庁舎から運び出された際もクリーヴは靴に空いた穴でそれがミルクだとわかったのだという。

サンフランシスコの街も、数週間にわたって過去の姿に戻った。時代設定はベイカーのデザインしたレインボー・フラッグが登場する78年より前だったため、現在いたるところで街を飾る虹色の旗は一時的に撤去されるか見えないように覆われた。アクエリアス・レコード、チャイナ・コート、トッド・ホールなど、復元された当時の人気スポットに市民たちは喜んだ。映画館カストロ・シネマも建物正面と看板が70年代当時のように化粧直しされた。ネオンの張り出し屋根は塗り替えられ修理されて、ここ20年でいちばんきれいになった。誰もが思い出話に花を咲かせ、変革と希望の時代のあの興奮がそこここで人々の心を満たした。ミルクがまた人々を一つにしたのだ。

2008年2月8日、最も重要なシーンが撮影された。何万人のサンフランシスコ市民が、押し黙ったまま追悼のキャンドルライトを携えて歩いたあのマーチが再現されたのだった。あの、30年前の78年11月27日の夜、衝撃と悲嘆と憤怒とに苦悩しながら、市民たちは年齢も人種も性的指向も越えて1つになった。数千人のエキストラがこれを再現した。そこにはクリーヴ・ジョーンズ、ギルバート・ベイカーのように、30年前のマーチを歩いた人たちも数多くいた。

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これが映画で再現された追悼のマーチ

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30年前の本物の追悼マーチ

ロンドンは言う。「30年ぶりに、サンフランシスコの街が静止したようだった。街は人で溢れた。ただ映画に出演したくて集まった人たちじゃない。歩き始め、カメラが回り始めたときから、なぜ自分たちがいまここで歩いているのかみんな知っていた。それは、あのときと同じ喪失感だった。俳優たちもきっとそれを感じてたと思う」

サンフランシスコではいまでも毎年11月27日にミルクとモスコーニの2人を追悼するキャンドルライト・マーチが行われている。クリーヴ・ジョーンズは言う。「30年前のこの街でぼくらは歴史を作った。そしていままたそれを再現した。歩いている中に30年前に見た顔も何人かいた。ほろ苦い思いも混じる。この30年の間に、ここにいるべき数知れぬ多くの仲間たちがエイズで死んでいったから。彼らはもうここにいない。でもぼくはこうやって生き延びて、この映画が完成するのを目の当たりにできるんだ。それはほんとうに幸せなことだ」

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30年後の2009年11月の追悼マーチ


【ミルクの遺したもの】

ハーヴィー・ミルクが打ち破った壁は、今日の文化・政治に大きな影響を与えている。同性愛者を初めとする性的少数者の人権運動は30年を経て大きな飛躍を遂げたが、その変革はいまも継続中だ。

現在の人権先進国における最大の政治課題は同性婚だ。
同性間の結婚を合法化した国(オランダ、ベルギー、ベルギー、スペイン、カナダ、南アフリカ、ノルウェー、ネパール)もある。マサチューセッツやカリフォルニア州、コネチカット州のような、アメリカのいくつかの州もこれに続いた。だが皮肉なことに、ミルクの時代に同性愛者の教師を解雇できるとした住民投票提案6号を否決したカリフォルニア州では08年、いったんは合法化した同性結婚を州憲法で違法と規定するという住民投票提案8号が可決されてしまった。この可決に関しては現在、同州の議会や裁判所で論議が続いている。米国はキリスト教プロテスタントという厳格な宗教で立国したという背景もあり、ヨーロッパよりも同性結婚に関する反発が大きいという傾向がある。そうした保守層を支持者に持つ米国の前大統領ジョージ・W・ブッシュも在任中、同性婚を法的に承認することを禁止する合衆国憲法修正案に支持を表明した。しかし同案は上院で否決され、同性婚をめぐる人権派と宗教保守派との攻防は一進一退を繰り返している。

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ダスティン・ブラックの胸にある「No on 8」は、提案8号にノーと言おう、という意思表示だ


スタッフのコメントを紹介する。

「両親にカミングアウトする高校生たちのことを耳にするようになった。すでにカムアウトした人が公職に立候補することもふつうになった。この30年でここまで来られたのは、ミルクのような勇気ある先人たちのおかげだ」=ダン・ジンクス(プロデューサー)

「ミルクの物語は、1人の人間が成し遂げられることの大きさと、いままだやるべきことの多さとを教えてくれる」=ブルース・コーエン(同)

「ぼくにとってのミルクの最大の功績は、彼の希望の物語がこれまで数多くの命を救い、これからも救い続けるだろうということだ。ぼくも救われた1人だった。これからカミングアウトする子供たちはまだ大勢いる。ゲイにもすごいヒーローやスーパースターがいるんだということをぼくは彼らに教えてあげたい。この映画が、そんな若い彼らの命を救うというハーヴィー・ミルクの影響力をもっと強大にしてくれることがぼくの希望だ」=ダスティン・ランス・ブラック(脚本家)。

「自分たちの歴史について知り、そこからできるだけいろんなことを学んでほしいと思う。ぼくらの闘いはまだ終わっていないが、今ある自由のためにどれだけの人がどれだけ長いこと苦闘してきたかを知らない若者が増えていることがときどき怖くなる。歴史は、いま自分は自由で裕福で安全だと思っていても、一夜にしてそれが幻想だったとわかるときがあることを教えてくれる。ぼくらの闘いはこれまでは少しずつ勝ってきた。でも、いまのこのすべてが一瞬のうちに奪われることだってあるんだ」=クリーヴ・ジョーンズ(当時のミルクの若き右腕)

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『ミルク』のストーリー

【ストーリー】

時代がミルクを必要としたのか、ハーヴィー・ミルクの周囲には社会変革の大波が次から次へと押し寄せた。彼の軸足は同性愛者の人権解放にあったが、それは同時に高齢者から労働者までさまざまな社会弱者への共感へとつながった。そんなすべてのか弱き声を代弁しようと奮闘したミルクに、時代のもう一つの顔はしかし、苛酷な運命を用意していた。映画『ミルク』は、そんな彼の最後の8年間を描いている。

金融や保険業界で働いていたハーヴィー・ミルク(ショーン・ペン)はニューヨークで20歳年下のスコット・スミス(ジェームズ・フランコ)と出逢う。恋に落ちた2人は72年、新しい天地を求めて自由の地サンフランシスコに移り住む。転居先はアイルランド系の移民労働者たちが数多く住んでいたユリーカ・ヴァレー地区。60年代後半からここにはまたゲイやヒッピーたちの流入も続いており、やがてすぐに「カストロ地区」と呼び変えられることになる。

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ミルクらは当初は職にも就かず自由気ままな暮らしをしていたが、貯金も尽きだすと残りの金で自分たちのアパート1階に小さなカメラ店「カストロ・カメラ」を開店。社交的でユーモアにあふれたミルクの人柄はたちまち周囲のゲイやヒッピーたちを惹き付け、店は周辺商店主や住民たちも含めた情報交換の場、コミュニティ・センターの様相を呈し始めた。だが、もちろん近隣にはアイルランド系の保守的なカトリック層も多く、ゲイたちのあけすけさを快く思わぬ者たちもいた。ミルクは、そうした差別的な既存商工会に対抗して、カストロ・ヴィレッジ協会という新しい商工会を結成、恋人スコットらの理解と協力の下、地元商店街や近隣住民の抱える問題に政治的により深く関わり始め、「カストロ・ストリートの市長」という異名を持つようになる。

ミルクが初めてサンフランシスコ市の市政執行委員(日本の市議の役割も担う行政監督官)に立候補したのは1973年11月の選挙だった。当時はサンフランシスコにあってすらゲイに対する偏見と暴力が公然と横行していた。彼が求めたのはすべての人のための権利と機会の平等だった。しかし落選。2度目は2年後の75年。しかしこれも落選。ただしこのときにはミルクも支援した州上院議員だったジョージ・モスコーニがSF市長に当選した。ミルクは同市長によって市の上訴認可委員に任命されるが、今度は76年の州議会下院選挙に打って出るために同委員も辞めることになった。

このころから恋人スコットともすれ違いが生じ始めていた。しかし、ミルクはすでに大きな政治の時代のうねりの中でスコットだけのミルクではなくなっていた。州議会選でも3度目の敗北をなめたミルクは、スコットとの約束に反して4度目の選挙である77年の市政執行委員選に立候補、ついに彼との別れを経験する。だが、その代償としてか、小選挙区制に変わった新制度のもとミルクはカストロを含む第5区でとうとう念願の当選を果たすのだった。ゲイ男性だと公言して米国史上初めて公選された公職者の誕生だった。当選を喜ぶ支援者の中には新しい恋人ジャック・リラ(ディエゴ・ルナ)や若きゲイ活動家に成長したクリーブ・ジョーンズ(エミール・ハーシュ)、今回の選挙参謀だったレズビアンのアン・クローネンバーグ(アリソン・ピル)のほか、スコットの姿もあった。

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ジャック・リラ(ディエゴ・ルナ)

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クリーブ・ジョーンズ(エミール・ハーシュ)


78年1月の委員就任後、公共・福祉政策の立案で地域住民の広い賛同を得たミルクが次に直面したのは、同性愛者の教師をその性的指向ゆえに解雇できるとする提案6号の住民投票だった。全米でゲイの権利剥奪の運動が成功を収めていた。カリフォルニア州でももし提案6号が通れば、ゲイ差別は教育分野だけに留まらず他の職業分野や居住環境など生活全般に拡大するだろう。その反動の波は異人種や障がい者など他のマイノリティにも及ぶだろう。時代を逆行させてはいけないという信念のもと、ミルクは精力的に提案6号反対運動を展開する。ミルクは言う。「若者たちを再びクローゼットに隠れさせてはならない、カムアウトだ、カムアウトだ!」

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対して、保守派たちは「子供たちを守れ!」という大号令のもと凄まじい賛成運動を繰り広げた。筆頭は元準ミス・アメリカで人気歌手だったアニタ・ブライアントだった。彼女はその知名度を利用して精力的にメディアに登場。「ゲイは子供を産めない。だからあなたの子供たちを新しくゲイにしようとリクルートしているのだ」という誤った偏見を流布し、ミルクたちの反対運動を追い込んでいった。だが、「運動は続けなければならない。なぜならわたしの選挙はそこここにいる若者たちに希望を与えたからだ。若者たちには、希望を与え続けなければならないからだ」というミルクの思いは、リベラル派の民主党元大統領ジミー・カーターや、保守派の共和党の現職大統領レーガンらの賛同も得るに至り、78年11月7日の開票の夜、住民投票提案6号は劇的な否決を勝ち取るのだった。

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一方、もう一つの運命がミルクを待ち受けていた。同じ選挙で当選した同僚市政執行委員ダン・ホワイト(ジョシュ・ブローリン)の影だった。敬虔なキリスト教徒の家に育ったホワイトは同性愛者であるミルクの華々しさと強引とも言える政治手腕に異和感とストレスを覚えながらも是々非々で彼に対していた。その彼が11月10日、突然の辞意を表明するのだ。それも、直後にその辞意を撤回して、モスコーニ市長にその辞意撤回をさらに拒絶されるという屈辱も経験して。

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ダン・ホワイト(ジョシュ・ブローリン)

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78年11月27日、ダン・ホワイトは拳銃を用意し、市庁舎の金属探知機を回避するために地下から庁舎内に侵入する。ホワイトは最初に市長執務室に入りそこでモスコーニを射殺、次にミルクのところに行って彼を射殺した。ミルクの任期はわずか11カ月余りで終わりを迎えた。衝撃と悲嘆がサンフランシスコを覆った。3万人以上の市民が、若者が、ゲイたちがロウソクを手にカストロから市庁舎までを行進し、ミルクとモスコーニ市長の死を悼んだ。

翌年、ダン・ホワイトは公判で、仕事と家庭での孤立感とストレスに加え、ジャンク・フードの過剰摂取から犯行に及んだとする「心神耗弱」の主張の弁論により、わずか7年の禁固刑を宣告されるにとどまった。明らかに軽すぎるその判決を受けて、怒った市民たちは「ホワイト・ナイト・ライオット」と呼ばれる暴動を起こし、街は激しい抗議と混乱に包まれた。

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1979年5月20日、サンフランシスコ・ホワイトナイト暴動で燃えるパトカー、市庁舎

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2009年4月日本公開映画『ミルク』〜Harvey Milkとこの時代

ハーヴィー・ミルクの名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。
でも、ないかもしれません。
むかし、というか、いまも、「ハーヴェイ・ミルク」という書き方の方がなじみがあるかもしれません。
知識の有無を含めて、その辺がきっと日本の「状況」だと思います。

ダスティン・ブラックという若い脚本家が、このハーヴィー・ミルクの人生に感動してこれを史実に忠実な映画として再現してみんなに見せたいと思いました。その脚本を読んでガス・ヴァン・サントという結構とんがった映画ばかりを作っている監督が動き、ショーン・ペンを主演にして映画制作が始まりました。

その舞台裏、完成にいたるまでを、アメリカのプロダクションが説明しています。それは英語ですけど、それを注釈とか補足とかを含めながら、日本語でここでご紹介します。


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【イントロダクション】

史実に忠実であることとドラマの醍醐味とは共存できるのか?
──監督ガス・ヴァン・サントと主演ショーン・ペンがその答えとして映画『ミルク』を用意した。


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70年代サンフランシスコのリベラルな空気の匂いとともに、映画『ミルク』は現代同性愛者解放運動の伝説の人物ハーヴィー・ミルクを生き生きと甦らせた。この映画は、時代の事実である。同時に、いかなる時代にあっても普遍的な、愛と勇気と希望の物語だ。

いまでは洒落たカフェやレストランが立ち並び、世界中のゲイ・コミュニティのメッカとして知られるサンフランシスコの一角──その地区の通りの名を冠して、あらんかぎりの尊敬と親愛を込めながら「カストロ通りの市長──Mayor of Castro Street」と呼ばれた男がいる。ハーヴィー・ミルク。ゲイに対する差別と偏見渦巻く70年代にいち早くゲイ・コミュニティの“声”となり、同性愛者のみならず高齢者から労働組合員まで、あらゆるマイノリティの権利のために立ち上がったミルクは確かにあの時代の1つの象徴だった。彼の政治家としての存在の系譜は時代と分野を超えて深く静かに根を張り、その1本は現在のバラク・オバマ大統領にもたどり着いているだろう。

地元コミュ二ティを代表して政治にかかわろうと3度の落選を経験するも、1977年末、ミルクは念願のサンフランシスコ市政執行委員に選出される。旺盛な行動力と若者たちをも引き込む話力で大衆政治家の道を進むミルクだったが、任期1年に届かぬうち志なかばで凶弾に倒れてしまう。殺害犯は元同僚委員のダン・ホワイト。突然の辞職表明と辞職撤回表明、そしてその拒絶を受けての混乱の中で、モスコーニ市長をも暗殺した直後の犯行だった。

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ハーヴィー・ミルクのそんな最後の波乱の8年間の映画化。ガス・ヴァン・サントはカンヌ国際映画祭でパルム・ドールと監督賞を同時受賞した『エレファント』(03年)だけでなく、『マイ・プライベート・アイダホ』(91年)やアカデミー監督賞候補の『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(97年)など、時代の中で揺れ動く若者たちの繊細な心を描いたら右に出る者のいない異才。15年以上前の90年代初めからすでにハーヴィー・ミルクの人生の映画化企画を練っていたという。そのためか映画はカリスマ政治家を取り巻く歴史的事実の圧倒的な迫力を背景に、1人の繊細かつ大胆なゲイ男性の人生そのものを見事にフィルムに焼きつけた。

主人公ミルクには、まるでミルク本人が乗り移ったかのような演技を見せつけるオスカー俳優ショーン・ペン。つねに新たな挑戦を続けるペンは、ここでも指先1つ1つまで、肘の曲げ方、声の震えの1つ1つまでがミルクだ。ミルクの恋人だったスコット役には、この映画で確実に演技派の仲間入りをしたジェームズ・フランコ。また、エミール・ハーシュ、ジェフ・ブローリン、ディエゴ・ルナなど気鋭の若手/個性派俳優が脇をかため、現代美術家のジェフ・クーンズも出演するなど、ガス・ヴァン・サントらしい配役となった。映画のエンドロールでは実在の主要登場人物たち本人が写真で紹介されるが、彼らを演じた俳優たちがペンだけでなくいずれも驚くほどソックリなのは一興だ。

脚本はミルク暗殺当時まだ4歳だった気鋭の若手ダスティン・ランス・ブラック。彼は保守的なクリスチャンであるモルモン教の家庭に育ち、自身もゲイであることで「自分はいつか地獄に堕ちる」と思いつづけてきた。そんな彼もやがて成長してからハーヴィー・ミルクという存在を知り、「希望」を語る彼の演説を聴いてやっと人生を救われたのだという。その“恩”を返すべく、彼はミルクに関して3年間のリサーチとインタビューの末にこの脚本を完成させ、それがガス・ヴァン・サントの目に留まって今回の映画化へと結びついたのだった。

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ガス・ヴァン・サント作品ではすでに常連の撮影監督ハリー・サヴィデスの指揮の下、ミルクのカメラ店=選挙事務所のあるカストロ地区などはすべて実際のサンフランシスコの現地でロケが行われた。当時の景観を再現すべく様々な時代考証が徹底され、撮影はミルクを知る多くの地元関係者の協力を得て、追悼マーチなどにもゲイやストレートを問わず数多の近隣住民たちがボランティアで参加したという。映画はニューヨーク映画批評家協会賞で作品賞、主演男優賞、助演男優賞の主要3賞を独占。ロサンゼルス映画批評家教会賞でも主演男優賞を獲得。そして09年アカデミー賞では「スラムドッグ・ミリオネア」が各賞ほぼ独占の席巻の中、しっかりと脚本賞、主演男優賞を確保した。

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December 01, 2006

NYC GAY PRIDE 準備委員会インタビュー【2004年度資料】

●ゲイプライド実行委員会に聞く─100人パレードのできるまで


ウエストビレッジのビルの地下にあるHOP事務局(360度合成写真)

 ストーンウォールから35周年のニューヨーク・ゲイプライドマーチ本番10日前、6月20日にその準備委員会「ヘリテージ・オブ・プライド(HOP=プライドの継承)」に話を聞きに行った。事務局はクリストファーストリートの大きなアパートメントビルの地下(というか、ここの7階に昔、私も住んでいた)。100万人のゲイパレードはどうやって形になるのか。財務担当のラッセル・マーフィー(46)=以下「R」=とマーチ担当のミッシェル・イリミア(28)=同「M」=が教えてくれた。
        *

東京でもゲイマーチをやるんだよ。でも、みんな疲れちゃって毎年はできないというのが現状らしい。

M わかるわー。わたしたちも終わるたびにへとへとだもの。

いったいいつから準備は始まるわけ?

R 正式にはプライドが終わって7月から翌年の準備というふうになっているけど、じっさいはもう始まっている。つまり、6月のプライドが終わる前からすでに翌年のことは考えているね。やっていながらここは来年はこうしようとか。でもまあ7月かな。ボランティアを集めてご苦労さんパーティーもしなくちゃね。

どのくらいの人間が関わっているわけ?

M 年間を通してきちんと役職を持って関わる人間は30人くらい。そのほかにも30〜40人くらいの出入りがあるわね。だからコアメンバーは70人くらいかな。みんなボランティア。その中で中心を成すボードメンバー(理事会)は13人。つまり13人のディレクターがいる。

M 4つのイベント委員会があるの。プライドマーチだけでなく、それに付随する政治ラリー、プライドフェスト(お祭り)、ダンス・オン・ザ・ピア(ディスコ大会)の計4イベント。ほかにも財政委員会、広報報道委員会、参加協力呼びかけ委員会などで構成してる。

13人の理事会、委員長というのはリクルートしてくるわけ?

R みんな最初は普通のボランティアで、だんだん関わりが大きくなって委員長にまでなっちゃうんだね。ぼくの場合は93年にある参加グループの代表になってHOPにもボランティアで手伝いに参加したのが最初だった。
M わたしも99年にボランティアになったの。それから毎年。休みはなし。

仕事はべつに持ってるわけでしょ。

R ああもちろん。ぼくは「バレー・テック」というダンスカンパニーおよびダンス学校の財務担当をやっている。
M わたしは中学校の教諭。ニュージャージーの。

準備は具体的にはどう始めるの?

M 7月にまず理事会を招集するわけ。理事会は毎月開くんだけど、13人の委員がそれとは別にそれぞれの下の委員会も招集するのね。そこでまずは反省会よ。ここはうまく行ったけど、ここがだめだった。だから次はこうしなくちゃ、ということを出し合うのね。それがずっと一年間、続くわけ。

R 各イベント委員長というのは選挙で決めるんだが、連続性を持たせるために2年任期になっている。補佐役の書記は1年任期だけど。その選挙は9月に行って、そこから翌年に向けての新体制が始まる。幸いなことに、HOPでこのゲイプライドを仕切ることになってから今年で19年目なわけで、それでいろいろな歴史も資料も前例も残ってるから、何にもないところから一から始めるというわけではない。

HOPの前はどこがやっていたの?

クリストファーストリート・リベレーションデイ・コミティー。クリストファーストリート開放の日委員会。それが1984年に解散して、いまのヘリテージ・オブ・プライドが生まれたわけ。

どうして前身の委員会は解散したの?

R 財政問題だね。だれかがお金を持ち逃げしたんだ(笑)。その委員会というのは寄せ集めでね、いろんなグループの代表者が集まって作っていたんだ。それで毎年ゲイプライドのイベントが終わるともう後片付けにはやってこない。毎回毎回そうやって委員会自体を作り直さなければならなかった。そういうのは非効率的だし、それに代表者はどうしても自分のグループのことを第一に考える。政治的にも他のグループと折り合いが悪かったりすると準備段階でもめてまとまらない。それでHOPが誕生したわけさ。

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ラッセル・マーフィー

いまのHOPの予算はどのくらい?

R だいたい今年で120万ドルかな。毎年増えていってるね。初めて100万ドルを越えたのは2000年だ。たしかHOPの最初期は5万ドルくらいから始まったんじゃなかったっけな。
M 120万ドルの中にはもちろん企業などからの現物支給品の寄付も含まれているわよ。パレードの最中に配る水とか、印刷物とかもそうね。
R 今年は企業からのスポンサーシップでいまのところ16万ドルある。最終的にはもっと増えると思うけど。最終決算は8月か9月にならないとわからないんだ。でも、この2年ほどは企業からの寄付もかなり増えているね。企業以外にも多くの寄付があるから、収入の40%がそういう寄付かな。

他にはどんな収入源が?

R 最大の集金能力はダンスパーティーだよ。ダンス・オン・ザ・ピアね。それが最大の現金収入。チケット販売でね。だいたい37万5千ドルの売上がある。ダンスパーティーは18年目だけど、今年は2回ダンスパーティーを開くんだ。プライドマーチ前日の土曜日にもやることになった。場所はハドソン川沿いのいつものピア54。13丁目の公園ね。こっちは前売り20ドル。当日25ドル。プライド当日のダンス・オン・ザ・ピアは前売りの40ドルからあって、当日が65ドル。それにVIPチケットで120ドル。このダンスパーティーも最初はゲイ&レズビアン・コミュニティーセンターでボランティアたちのお楽しみ会みたいにして始まったものなんだけど、それがだんだん大きくなって現在に至るわけ。

ダンス開催での難しい点は何?

M 難しいというより、手順が大変ね。公園の使用許可とか舞台のセッティングとか音声やライトの手配とかトイレや救急車の手配もしなくちゃならないから。お金も入るけど手間も大変ってことね。
R それに費用もかさむ。たしかに37万5千ドルのチケット収入はあっても、ネットでの収入は18万ドルくらい。チケット収入の半分以上が経費になるわけだよね。

M ダンスには7〜8000人が集まるわけだから、安全なのか、そのへんをピアの公園当局に納得させられないと使用許可もおりない。交渉は結構面倒ね。でも、毎年交渉していると向こうも顔を憶えてくれているし、友情も信頼関係も生まれるから、だんだん楽にはなるわ。

R でも、今年は向こうのトップが変わって、最初から教え込まなきゃならなかったけどね。

警察はどう?

R 警察はぼくらのイベントは、大好きだよ。こんなに警察の厄介にならないイベントはニューヨークでは珍しいんだと思う。トラブルなんかないものね。

じゃあ年間を通じて最大の問題点というのは何?

M 毎年問題は違うからね。
R 常に抱えている問題は、ボランティア不足ってことかな。
M そうね、準備段階で途中でやめちゃう人もいるし、でも、途中から入ってくる人もいるしでどうにかやっているけれど、最初から最後まで付き合ってくれるボランティアが必要なの。たとえばマーチで100人、ダンスで100人くらいボランティアで関わってくれているんだけど、それじゃ足りないのよ。プライドマーチはボランティアは当日500人いるのね。内訳は、参加グループの代表たちもボランティアとして手伝うことになっていて、いまのところ200グループが参加するからそこからそれぞれ代表の2人を数えると400人ね、それにプラス、参加グループの受付係だとか車両の運転係だとかマーチの進行係を加えれば500人でしょ。でもできれば600人ほしい。
P ダンスのほうはボランティアは当日はHOPからは300〜400人かな。それにプラス、コミュニティーグループからも手伝いが来るから、みんなで1000人くらいかな。
M ラリーには100人、それからプライドフェストには50人。このフェストというのがまた大変でね。一日仕事なの。朝早くから準備が始まって、終わるのが夜の10時でしょ。
R フェストは93年からHOPが始めた。その前はHOPではなくてべつのところが売店やなにやらを出していたんだ。
P ラリーというのはマーチの一週間前のイベントで、GLBTに関する政治的な演説とかコンサートもやるイベント。プライドイベントの公式スタートを告げるオープニングイベントでもある。
R 政治的といっても、あまり政治的になってもいけないんで、むしろ、教育的っていうべきかな。
M 今年はもちろん同性婚の問題、それと大統領や連邦議員選挙などの投票呼びかけとかね。肝心なことは、すべての人たちが疎外感を感じないようにするってこと。そのためにLGBTを取り巻くすべての問題について話題に載せることが重要よね。

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パレードを滞りなく進めるためには連絡用のトランシーバーも不可欠

参加者の政治姿勢というのは変わってきた?

R 80年代はレーガン政権で、エイズ問題に対する政治不信が渦巻いていた。参加者はもっと政治的だったと思う。90年代はそれがすこし薄れたかなあ。94年にはストーンウォール25周年だったけど、あのときはラリーはやらなくて、国際的なグループ参加も目立ったね。日本からも、アカーが来てたよ。

いまの参加者はどう?

R いま、そうね、またすこし政治的になってきたんじゃないかなあ。あの、なんとかいう大統領が選挙によってではなく選択されてから(笑)、政治的にならざるを得ないような状況が続いているからね。それはいいことだと思うよ。みんな、仲間のことを考えるようにもなってきたし。
M わたしたちの世代も気づいてきたのね。政治的なこと、人権とかについても。

どの世代?
M わたしはいま28。ジェネレーションXよ(笑)。で、いままで眠っていた人権意識とかを、真剣に考えるようになってきた。クリントン政権のときはアメリカはもっと自由だったけど、いまはわたしたちの権利が奪われていると感じるようになっている。今年のマーチは、その意味でも大きな意義のあるものになると思ってるわ。みんな参加して、これが自分だっていうんだと思う。たとえあなたがそれを嫌っても、わたしたちはわたしたちの権利を示さなければならないって思ってると思うの。それがいまの政府に対するわたしたちの反対表明。

ところで、給料を払っているスタッフはいるの?

R 昨年から初めて導入した。フルタイムの、企業からのスポンサーシップを募るための専従責任者のスタッフを設置した。ビジネスデベロップメントマネジャー(企業開拓部長)ね。それと、今年はパートタイムでもう1人雇っている。ミニストレイティブ・アシスタント(運営補佐)。HOPの運営上の必要事項のまとめ役みたいなものだよ。以前から、そうね10年前の94年ごろから、たとえば4月から6月の追い込みの時期に事務仕事で人が足りなくなるんでお金を払って補充してきたけど、これまでは専従ではなかったんだ。

どうして給与スタッフが必要だったわけ?

M 時期だったんだと思うわ。大企業のスポンサーシップが入るようになってきて、HOPの理事会に担当者は設置していたんだけど、さっきも言ったように2年ごとに変わってしまうでしょ。でもそれじゃ企業のほうはやりづらいというわけよ。持続性ね、連続性。最初からまた人間関係から築いていかなけりゃならないのは非効率だし。わたしたちはそういう協力的な企業にいつもいっしょにいてもらいたいと思ってるの。毎年マーチに戻ってきてほしい。ただたんに資金協力をしてくれるというだけでなく、そういう大企業の名前があることだけでもずいぶんと意味のあることだから。100万人以上の人が、プライドマーチ当日にそれを応援してくれているたくさんの有名企業の名前を見るというのは、社会変革のたしかな一助になってると思うわ。

ところで、ボランティアって、どんな人たち?

R クリストファーストリートを歩けば、そこに歩いているような人たちだよ。
M 後ろを見てよ。ああいう人たち。人種も、年齢も、職業も、ほとんどすべてを網羅してるわ。ここはニューヨークよ。世界中から来ているすべての人がボランティアになってるわ。すごいことよね。こんなの、他の場所では味わえないわよ。
R ぜんぶ合わせると、そうだなあ、年間を通して2000人のボランティアが準備に関わっているかな。

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ご近所からTシャツの仕分けのボランティアに参加のデイヴィー、ハリエット、マイケル(左から)

パレードが終わったあとはどんな感じ?

M へとへとよ(笑)。
R 高揚と消耗の二つ、われにありって感じだね。
M そうそう。もう最高の気分であることは間違いない。だって、ずっと自分でやってきたことが目の前で形になって成功してよ、すごい仕事よ、それって。でも、同時に疲れきってるわね(笑)。最高に幸せな気分、と同時に、疲れすぎていて2、3週間はよくその幸福感に対応できないの。そのうちに知り合いだとか友だちだとかに通りで出会ったりするじゃない。そうすると会う人会う人が「すごかったわ、よかったわ」って言ってくれるでしょ。それから新聞を読んでも大きく取り上げられているもんだから、ああ、これをやり遂げたんだって実感できてね。もう、一日中にやにやして過ごしてるわ。

途中でもう投げ出したいって思ったことなんかないの?

M ないわ。マーチの準備ってときどきものすごく大変だけど、スタッフが後ろから支えてくれているし、年間を通していっしょに作業をやっているからね、信頼もしてるし、お互いの気持ちもわかるようになる。心を読めるっていうの? そういう感じ。そりゃ細かいことがたくさん持ち上がってきてうんざりすることもあるけどね。

でも、言い合いとかするでしょ?

R そりゃもう、それも仕事のうちだよ。
M ラッセルとわたしってもういつも意見が合わないのよ(笑)。でも、同じゴールに向かっているって知ってるからね。6月27日の夜にぜんぶうまく行ってることを目指しているわけで。細かいことなんかやってるうちに忘れちゃうわよ。

準備していて最悪のことって何?

M うーん、あまりないわよ。そうね、強いていえば、マーチのグループごとの順番を決めなくちゃ行けないことかな。どのグループも満足行く位置取りってなかなか難しいし、頭が痛いの。ときどき、「こんなグループの後ろはいやだっていってたじゃないの!」とか怒鳴られてる夢を見て目が覚めることがあるわ。でも、HOPの中ではひどい経験ってないわ。

R お金のことだからね、みんな考えたくないけど、ぼくはプロだし、いろいろみんなに注文付けたりするわけさ。だから、ぼくはどっちかというとみんなを怒鳴るほうだね。で、みんなはぼくを無視するって感じかな(笑)。

企業への寄付の呼びかけって、難しい?

R 最近は、もう黙っていても向こうの方から寄付をするって言ってくるんだ。LGBT関連で協力的な企業というのはすでにたくさんあるし、そういうところに毎年プライドイベントの企業向け資料パッケージやレターを送ったりもするけど。ことしは、フォルクスワーゲンが初めてスポンサーに加わった。彼らもLGBTのコミュニティーがどういう反応をするか、知りたいんだろうね。最初の年だからそんなに予算は大きくないけど、まあ、ちゃんと反応を見せてやって、そうすれば来年はもっと大きな金額とともに戻ってくれるだろうと。そういうのって、1つ1つなんだよ。一歩一歩というプロセス、ほんと、信頼関係だね。ぼくが関わった10年前というのは、いまと違うから、ほんとうに種まきだったよ。企業の関心というものを掘り起こさなきゃならなかった。
 3年前には例の専従スタッフを雇う前のビジネスデベロップメント(企業開拓)をぼくが担当したんだけど、企業との交渉をもうちょっと改善することにしたんだ。その過程でいくつかの企業を失いもした。だってさ、大企業のくせに3000ドルしか払わないっていうわけ。3000ドルで100万人以上、200万人への露出があるなんて、大企業にとってはぼろ儲けだろ。そういううまい汁は吸わせない。われわれにもちゃんとそれに見合う対価を払ってもらわないとね。マーケットがぼくらの側にある。それを正当に評価してもらわないことには、なにも始まらないんだ。ぼくらは確かに草の根団体から出発した。それをマーケットを持つまでに育て上げた。ならば、ちゃんとそれに見合うものを請求しましょう、というわけだよ。

東京でもね、数年前、ゲイに人気だったあるデパートがゲイ関連雑誌に取材を申し込まれて、ところがうちにはゲイのお客さまは必要ないって取材を拒否されたという話があるんだ。

M そういうことはニューヨークでだっていまも起きてるわよ。メーシーズ、知ってるでしょ。あのデパートだって、今年初めて、やっとスポンサーになったのよ。これまではだめだったの。それが、今年は初めてマーチにも参加して、しかもCEOまで歩くっていうじゃないの。そうやってゆっくりとだけど確実に企業というのもわたしたちのことをわかってきた。数というのは強いものよ。もしわたしたちがエクソンをボイコットしたら、あの巨大企業エクソンでもひどい目にあうことになるわ。フォルクスワーゲンだってわたしたちのボイコットは怖いの。だって、わたしたちは力なのよ。わたしたちを見くびっちゃいけないわ。こういうのって、ガンジー効果っていうのよ。わたしの命名だけど、非暴力不服従の抵抗よ。そうやって社会は変えていけるんだと思う。
(了)

NYC GAY PRIDEの概要と仕組み【2004年度資料】

●ゲイプライドマーチの概要・仕組み

毎年6月最終日曜日に行われるニューヨークのプライドマーチではいつも百万人近い人が集まります。ストーンウォールから35周年。すっかり大きく成長したこのプライドマーチの仕組みの概要を紹介しましょう。これは主催者の発行する「参加の手引き」みたいな資料です。

 【マーチの企画運営者】
 主催者は「ヘリテージ・オブ・プライド(HOP=プライドの継承)」という名の非営利ボランティア組織。ここへの参加希望者は年齢、HIVステータス、人種、宗教、性的指向、ジェンダーなどの別に関係なく歓迎されます。

 HOPはプライドマーチだけでなく、それに付随する政治ラリー、プライドフェスト(お祭り)、ダンス・オン・ザ・ピア(ディスコ大会)の計4イベントを企画運営。準備は1年がかりです。

 HOPはその4イベントの専門担当委員会の他、資金調達委員会、広報報道委員会、参加協力呼びかけ委員会などで構成されます。

 非営利でありながらも音響機材、観客席、トイレ施設などにお金が必要。このため、参加団体ごとにマーチ参加者のだいたいの予想人数を届けてもらい、その1人につき2ドル50の寄付金をありがたく承る、ということになっています。

 【プライドマーチの手順】
 マーチに参加希望の団体は6月4日まで(消印有効)に使用車両やフロートの届け出とともに参加申請書と参加登録料を提出します。この受領を待って主催者は参加確認書を送付します。

 マーチ参加団体は6月10、12、16日の3回にわたって開かれる1時間の代表説明会の1つに必ず代表を1人以上出席させなくてはいけません。その席上でフロート車両および荷役動物の許可証が配布されます。

 昨年は14部門250団体がマーチに参加しました。

 【参加登録料】
 参加団体からは車両およびフロートの登録料として手数料を徴収。荷役動物を使う場合も車両として登録します。4月23日までを早期登録料として割引し、その後6月4日までの登録は割高です。以下、団体のジャンル別の登録料です。

 ▼4月23日までの割引登録料▲
 ●非営利団体=車両175ドル・フロート250ドル●企業スポンサー付き非営利団体=車両1175ドル・フロート3250ドル●年商100万ドル以下の小企業=車両400ドル・フロート600ドル●企業スポンサー付き小企業=車両1500ドル・フロート3500ドル

 ▼以後6月4日までの登録料▲
 ●非営利団体=車両250ドル・フロート400ドル●企業スポンサー付き非営利団体=車両1250ドル・フロート4900ドル●年商100万ドル以下の小企業=車両600ドル・フロート900ドル●企業スポンサー付き小企業=車両2000ドル・フロート5000ドル

 なお、年商100万ドル以上の企業はHOPのビジネス担当マネジャーが電話またはEメールで応談。

 支払いは小切手、クレジットカード、郵便為替で受け付け。なお、障害者・年配者団体の移動用車両は登録だけで手数料は徴収しません。

 【公式ガイドブック】
 「2004プライドガイド」と名付けられる公式ガイドブックも重要な広告収入源。全面広告は3000ドル。半ページは1700ドル。最小は8分の1のスペースで500ドル。裏表紙での広告掲載は25%増し。掲載希望ページを指定する場合も20%増し。今年は5月3日が出稿締め切りでした。

 広告の図版はすべて300dpiのフルカラー・デジタルファイルで完成品として提出。提出時に広告料金も同時に払い込むことが必須。なお、ガイドに付属する「バー&クラブ・マップ」に掲載されるのは広告出稿の店のみ。ガイドの頒布開始は6月初め。発行数は75000部です。

 【マーチ当日】
 参加団体のチェックインは当日の朝9時から昼1時までです。マーチのスタートは正午。参加者は30分前に集合が望ましい。また、集合場所の五番街50丁目以北は住宅ビルもあるので午前11時半まで音響スイッチを入れてはいけません。

 参加者はHOPが配置するセクションごとの行進指導者の指示に従って行進します。彼らもボランティアで無償で仕事をしているのだから、理不尽に当たったりしないでほしいとHOPは言っています。

 【故人を偲ぶピンクリボン】
 マーチ当日午後2時からエイズ犠牲者を偲ぶ黙祷「沈黙の瞬間」が行われます。HOPはこのシンボルであるピンクリボンを事前に1個2ドルで配布しています。売上は各種エイズ支援組織に寄付されます。「沈黙の瞬間」に音響をオフにしていなかった団体は翌年のフロート使用を許可されません。

 【参加団体のカテゴリー】
①エイズ関連および障害者・親族組織・年配者組織
②スポーツ団体
③バイセクシュアル・トランスジェンダー・政治団体・活動団体・政治家
④ニューヨーク大都市圏および近隣州
⑤その他州および海外団体
⑥レザー・ジーンズ・SM団体
⑦多文化・民族・社交団体
⑧有色人種
⑨専門家組織・労働団体
⑩宗教団体・神秘集団
⑪禁酒・反麻薬組織
⑫大学・演劇・芸術・報道
⑬女性のみの組織
⑭未成年・LGBTの親の団体

 なお、マーチの行進順は毎年入れ替えるものの、女性団体・有色人種団体・エイズ関連団体・障害者団体・年長者団体は常に変わらずマーチの先頭部分で歩きます。

 【表彰】
 今年のテーマ「STAND UP, STAND OUT, STAND PROUD(立ち上がれ、公然と、堂々と、誇りを持って)」にふさわしい趣向を凝らしたマーチの参加団体を表彰。審判席はマーチ中間点の24丁目に設置。

 【マーチで守るべき事柄】
・参加者による募金集めはニューヨーク市の条例で全面禁止。
・下半身のヌードは違法。
・マーチでの沿道への配布物(パンフレットや物品)は事前にHOPに見本を届け許可を得ること。また安全上、フロート車両からはいかなる物も投げてはいけません。
・参加団体の代表者は責任の所在を明示するために主催者配給の代表者Tシャツを着用します。
・車両は1団体につき2台まで。なお、長さ10m50以上の車両フロートはビレッジの狭い角を曲がれないので使用禁止。高さは最高4m20、車幅も4m80を越えないこと。
・フロートだけではなく車両にも各団体の負担と責任でプライドマーチにふさわしい装飾およびメッセージを施さなければなりません。
・フロートおよび車両上では飲酒や違法な薬物はとってはいけません。違反が明らかになった場合は即座にマーチから排除されます。登録料は返還されません。
・ペットを連れて歩くのはアスファルトも熱く、乗馬行進にしても馬がかわいそうなのでやめましょう、ということです。

August 01, 2006

第7回 Gay Games シカゴ・ルポ

 向こう岸など見えるはずもない海のように巨大なミシガン湖を横に、シカゴの街は例年にない猛暑に包まれていた。7月15日(土)の夕刻、第7回ゲイゲームズの開会式場であるNFLシカゴ・ベアーズの本拠地スタジアム「ソルジャーフィールド」(6万2千人収容)へと続く通りは、四方八方からやがてひとつにまとまる長く晴れやかな人びとの列で埋まっていた。

      *
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 「こんなに客がいるシカゴは初めてだよ」と、開会式へと向かうタクシーの中で、アフリカ・ナイジェリアから15年前にシカゴにやってきた運転手が言った。何かが行われることは知っていたが、具体的に何のイヴェントなのかはよくは知らなかったようだ。「はあ、国際競技大会なのか。道理で人がいるわけだ」。けれどナイジェリアといえば昨年、同性間性行為を認めた男性が石打ちの刑で死刑になったイスラム教とキリスト教の国だ。

 もういちど「ゲイの国際大会なんだよ」と意地悪にも念を押してみる。「そういうのには抵抗はないの?」。なんだかへらへら笑いながら、運転手は「おれはジャッジメンタルじゃないよ」と流す。「客は客さ」

 そう、ここはナイジェリアじゃない。アメリカ第2の経済・金融拠点で、市内人口は285万。周辺部まで含めると1千万人近い人が生きる大都市圏だ。中心部には世界1の高さを誇ったシアーズタワーがそびえていて、市内北部にはゲイエリアとして有名な「ボーイズタウン」がある。あのストーンウォールの暴動の翌年からゲイの人権デモがここでも行われ、いまそのゲイ・プライドマーチはサンフランシスコやニューヨークに次ぐ全米で3番目の規模を誇る。

       *

 開会式に先立ってプレスIDの申請にダウンタウンのシカゴ・ヒルトンに行った。1500室以上を持つこのホテルの建物はまるごとゲイゲームズに協賛して、ロビーから会議室から宴会場まですべてが貸し切り状態。ヒルトンはここだけでなく、近くの豪華パーマーハウス・ヒルトンも「ハブ・ホテル」として大会委員会に提供した。シカゴ観光局ももちろんゲイゲームズと提携。市内の20ホテル以上約4万部屋を最大50%引きの割引価格で選手や応援客に提供することに尽力した。

 シカゴ・ヒルトンは選手申請や宿泊手続きでごった返していた。あちこちにレインボウフラッグが飾られ、地下ホールでは健康用品や観光など各種ゲイ関連の商品展示会が催されていた。ゲイゲームズ関連ショップは初日だというのにすでにお土産を買い求める世界中の人で埋まっていた。そのみんながにこやかで、ID申請の長い列も苦にならない。係員はみんなシカゴの大学生や一般市民のボランティアなのだ。コンピュータ操作に手間取ったってそれは愛嬌。「あら、もっと時間をかけてもいいわよ!」だなんて、若い学生スタッフの前でキャンピーな会話が始まったりもする。
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 「ゲイゲームズをシカゴは誇りを持ってホストする」とシカゴ観光局の副局長ブラッド・ルイスは言う。「この街がとてもゲイフレンドリーな観光地だとだれもにわかってもらえるはず」。ゲイゲームズの開催が発表されて、宿泊問題でコンタクトをしてきたのはホテル側のほうだった。全面的なサポートを行う、と確約しながら。

 結果、この大会及び関連イベントの8日間で、シカゴにやってきた人は予想を40%も上回る14万人。大会のチケット販売も予想の5割増で、市全体に落ちたお金、つまり経済効果はなんと1億ドル以上(120億円)とも推計された。そういえば、モントリオールのアウトゲームズも、同じく1億ドルが街に落ちたと発表している。

       *

 「いまもゲイゲームズは将来の開催都市を探してるんだ。で、近い将来、いつかアジアでぜひやりたいんだよね」と、大会副会長のケヴィン・ボイヤー(43)が言った。「日本はどうかな?」

 虚をつかれた。「うーん……」と言いながら次の言葉が出てこなかった。いろんな考えが頭を出たり入ったりした。5秒ほどして、「ああ、できる日が来るかもしれない」と思っていた。

 東京で石原慎太郎が2度目のオリンピックに名乗りをあげたのはもちろんその経済効果を狙ってだ。ならば1週間強で1億ドル。これは美味しい話ではある。石原の構想や発想にはないだろうが、たとえばまた札幌はどうだろう? オリンピック招致で東京に負けた福岡は?

 街じゅうに世界中のLGBTたちがあふれる。みんなにこやかでたのしくて、「いちど日本に来てみたかったのよ。こんなことでもないと来れなかったわ」と、たとえば60歳のレズビアンのおばちゃんサイクリストがうれしそうに話す。そんな光景があちこちで展開する。なんだか夢のように遠い風景に見えるけれど、そこへの道はここからもかならず続いている。いや、ぼくらの後ろに道はできる。

 「うん、開催できるかもしれないね」と、ケヴィンとふたりでうなづいていた。

       *

 なかなか暮れない真夏の空の下で、やがて照明の灯りはじめたソルジャーフィールドの大観客席が銀色に染まってきた。

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 午後8時、開会式がスタート。ABC順に参加各国の選手たちが入場してきた。前回4年前にシドニーでゲイゲームズをホストしたオーストラリアがやはり千人規模の大選手団を送り込んできた。12年前まで戦争をしていたボスニアからは2選手が姿を現した。急な申請だったのかプラカードは間に合わなかったようで場内アナウンスだけ。なのに大きな拍手が起きる。モントリオールでアウトゲームズをホストするカナダからも千人単位の選手たち。中国からは5人が開会式に。イスラエル、イタリアと続いて、やがてJAPANと大書された縦書きのプラカードの向こうから水泳に出場する日本人4選手が甚平姿で現れた。

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 ゲイプライドでもそうだけれど、浴衣とか甚平とかいうのはじつに観客の受けがいい。たった4人でこんな大歓声を受けるのは珍しい。もっとも、ウガンダやジンバブエといった、やはりアフリカの同性愛を刑罰の対象とする国家からの参加選手は、たった1人での行進でも満場の喝采を浴びていた。それはしょうがない。「勇気」は、このソルジャーフィールドにカムアウトしてきたすべての人間が、かつてもいまも共有する大切な防具だ。

 アメリカの選手入場が州ごとに始まる。テキサスは全員がカウボーイハットで決めた。もちろんあの「ブロークバック」を意識して。カリフォルニア州、ニューヨーク州の大選手団に負けず、ホスト都市シカゴは2500選手を登場させた。観客席の声援はピークに達した。

       *

 全員が開会式に姿を見せたわけではないが、今大会の参加者は世界70カ国・地域から1万2千選手。ゲイゲームズはいまでは、本家オリンピックを抜いて世界で最大の競技参加者を誇る国際スポーツ大会。もっとも、ことしはアウトゲームズも111カ国から同規模の参加選手を集めて、ゲイ関連大会が世界のスポーツ界を睥睨した感もある。

 次回ゲイゲームズは4年後のドイツ・ケルン。アウトゲームズは1年前倒しの09年にコペンハーゲンへと向かう。
(了)

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世界の真ん中でJAPANを叫んだスイマーたち

 「こんなにたくさんいるんですねえ」と、ソルジャーフィールドを埋める3万人もの選手や観客を眺めながら、この日の夕方に東京からシカゴに着いたばかりの彼は感極まるようにつぶやいていた。本名は言えない。36歳、だれもが知る大手企業でだれもが知るコンピュータソフトの開発に関わっている。けれど彼がここに来ていることを、社内のだれもが知らない。

 つい先ほどまで眼下のフィールドで世界の数千人のLGBTアスリートたちに混じり、「JAPAN」のプラカードと日の丸のもとで開会式の入場行進に参加していた。日本からの参加は水泳チームリーダーの彼以下4人。そろいの甚平姿は「すごい人気で(他の国の選手に)いっぱい写真を撮られました」とうれしそうに話す。

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 頭ではわかっていた。けれど目に前にある「こんなにたくさん」の具体は口が開くほど圧倒的だった。性的「少数者」だなんてだれが言ったのだろう。それに、全米で1、2といわれる立派な競技場をわがもの顔に使っているだなんて。こんなにしっかりした大会だとは想像していなかった。

 水泳は体が鈍ってきた社会人になってから始めた。ゲイゲームズのことは前回シドニー大会にも出たチームメートから聞いた。東京では8年前からゲイの水泳チームにも所属している。このチームには名前がない。いや、決まった名前がない、というべきか。競技会ごとに名前を変える。アレがゲイのチームだと噂になったら困るから、そのとき限りの名前で泳ぐのだ。名指しの指をすり抜けるように。

 「でもね、東京にもこれだけオカマ・スイマーズがいるんだってことを、どうにかしてアピールしたかったんです」

 名前を持たない者たちの、存在の証。ぼくはここにいるというささやかな叫び。まじめで実直そうなエリート会社員の彼にとって、それはいきなりゲイゲームズだった。2年前から準備が始まった。

 さらに考えた。「JAPAN」をアピールするにはどうしてもリレー競技に出たかった。それには4人の泳者が必要だ。しかし7月中旬の開催というのは、日本では企業で取る夏休みにはまだ少し早すぎる。じっさい、今年はじめに集めた4人のリレーチームのうち、1人は急に夏の仕事ができて参加不能になった。ほかにシカゴまで行ける仲間は見つからなかった。しかしどうしても4人で行きたい。ならば、アメリカにはだれかいないか。日本人ゲイで、いっしょに泳いでくれるやつが。

 4月、ゲイ関連のアメリカの日本語の掲示板にスイマー募集と書き込んだ。「いっしょにシカゴに行こう。ゲイゲームズでリレーを泳ごう」と。

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 サトシは9年前に日本からアメリカに渡った。20歳だった。ホテルマンになりたくて大分から東京の米国系大学に進み、それから留学の道を選んだ。希望進路はいつしかアートやファッションに変わり、NYの有名デザイン大学FITでメンズウェアを学んだ。色々なところで働き履歴書を書き込み、いまはNYのアパレルのデザインハウスで働く。

 NYには、英語ではなく日本語でコミュニケートしようという「日本語で喋るゲイの会」というサークルがあって、サトシはそこの何代目かの代表も務めている。アメリカ人も日本語が話せる人だけ入会できる、ちょっと逆差別っぽい意趣返しというか、シャレというか、そんな変な親睦会だ。サトシはそこで仲間を募ってBBQをやったり誕生会を催したりクラブに行ったり、それだけでなく自分でNYマラソンを完走したりとじつに活動的だ。

 だが、それも彼なりのルサンチマンの昇華法だった。九州男児だった。自分がゲイだとはどうしても言えなかった。東京でも、NYに来てからも長いことカムアウトできなかった。FIT時代はルームメートがゲイだったのに自分もそうだとは言えなかった。そのうちにおかしくなった。情緒不安定。クラブ通いでドラッグをやるようになった。5、6年前のことだ。眠れなくなった。このままではいけないと思った。よく眠るためにまずは体を動かそうと思った。そうして、カムアウトも。
 この世の果てだと思ったカミングアウトは、この世の始まりだった。それはカムアウトしてみないとわからないことだ。薬もやめられた。ジムとジョギングが日課になった。ゲイやビアンの日本人の友人もNYでたくさんできた。

 そうしてことし4月、「日本語を喋るゲイの会」のリンク先の掲示板に、ゲイゲームズでスイマー求むの書き込みを見つけた。世界の中心で「日本」を示したい、と彼も思った。メールを出すのに躊躇はなかった。なにせ15年前、大分・滝尾中学では水泳部のキャプテンだったのだ。「おかまだったんですけどねえ。あはは」

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 こうして4人はつながった。そんな彼らの「日本」は、きっと歴史上のどのナショナリズムともちょっと違う。それはむしろ「名乗り」に近い。日本を世界にカムアウトさせる営みに近い。そうじゃなきゃ日本に誇りなど持てない。日本に誇りを持ちたいがための彼ら自身による身代わりの名乗り。

 入場行進で掲げられた「JAPAN」のプラカードは、1万人の選手の中で迷子にならないように懸命に手を振る、いたいけなアジアの子供のように健気だった。

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 で、結果報告。

 2年前のアテネ五輪の日本の水泳チームの水着を、当時4人分買い込むまでして臨んだ男子200mメドレーリレーは、不慣れな英語によるエントリーミスで出られず。これはとんだ笑い話。

 サトシは5月からの特訓むなしく自由形100、平泳ぎ50とも「書かなくていいですよ」と敗者の弁かつ一念奮起の形相。チームリーダーの彼はリレーのショックから1日目はコース間違いもおかして泳ぐことすらできず。しかし気を取り直して臨んだ2日目は200m平泳ぎで数年ぶりの自己ベストを更新して35〜39歳部門で20人中8位の成績。その他2人のチームメートは、シドニーにも出たAさん(36)は自由形800の35〜39歳部門で堂々の6位入賞、今回初出場のBさん(30)はメドレーと平泳ぎで健闘するも入賞ならず。

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 後日、チームリーダーの彼からメールが届いた。こうあった。

 「先週からチームの練習会に復帰し、東京のオカマスイマーズに今回のシカゴの体験談を聞かせています。意外にも20代後半くらいの人が興味を示してくれています。僕的には、こうやって少しでも多くの人に興味を持ってもらう事を続けていれば、いつかは日本でGayGamesが開催される日も来るんじゃないかな〜と途方もないことを考えております」

 いつも希望は未来にある。次回のケルンこそはリレーに出るぞ、と笑う彼の4年後の未来は、だれか社内からの応援もきっと得ることになるはずだ。4年とは、そのための時間でもある。

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(了)

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<<ちょっとギャラリー>>
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ミシガン湖を舞台にヨット競技

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アイスホッケーの観客席にはこんなかわいい応援団も


そうそうたるGayGamesのスポンサーたち(クリックすると大きくなります)

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アメリカン航空もゲイフレンドリー

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だれでも参加できるのが GayGames。本家よりもオリンピックの精神を体現する世界最大の祭典だ。

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何をか言わんや……