2007-10性愛の再定義
◎愛という名の下に貶められた性欲。美しさの神話で貶められている愛。それらの再定義を考えてみる。
*愛という虚構
「愛こそすべて」とか「愛は永遠だ」とか、そういう思いっていったいどこから来るんでしょうね。ひとを好きになることって、人生でいちばん初めのは何が何だかわからないまま進んでいくから、愛とはどうだとか恋とはこうだとかそんなエラそうなことも考えるヒマがないけれど、でもそのうち詩人になったか文豪になったかと(これも恋の副作用で)ひそかに勘違いしながら何か定義づけたくなるのでしょう。それも、とっておきの美しい思い出と熱い思いとを言葉に昇華させようとしながら。
そうやって愛の神話が出来上がります。
神話はみんなが信じることによってとても強固な共同の幻想となります。そして世の中には恋愛を美しい、素晴らしい、とするメッセージが溢れる。でもきっとそれは性ホルモンによる高揚感で、麻薬みたいなもんだって私はかつてサカッて目の色が変わっている自分のうちの猫を見ていて思いました。恋愛はほんとうはそんなにいいことばかりでもありません。つまり神話はいつかどこかで現実との食い違いをはっきりと見せつけたりもするのです。そのとき、愛と呼んだものの美しい虚構が剥がれ、やっぱりこれは単に性欲の別名のことだったんじゃないのかと気づくことになったりするのです。自分にとっても、相手にとっても。
*オカマの罰が当たる
でも、恋愛を至上のものだと言い張るひとたちもいます。そうして至上のものを際立てるために、あえてそれに対置するものを仕上げ、それを貶める。
カンザス州に本拠を置くウエストボロ・バプティスト教会は、イラク戦争は同性愛者に対する米国の寛容さに対する罰だとしてイラクで戦死した兵士たちの葬儀に押し掛けては「兵士の死を神に感謝」「神はオカマの国アメリカを嫌ってる」「あんたの息子はオカマの国のために戦ったから神の罰で死んだ」とプラカードを掲げるのです。嘘みたいな話でしょう。
神に兵士の死を感謝するウエストボロ教会の信者
そんなことをやられた遺族の1つが裁判を起こしました。10月31日に出た判決は、その教会に12億円もの損害賠償金を支払うように命じるものでした。バチが当たったのはこちらですね。
そう、神話の究極の形はそういう宗教から発せられています。彼らは愛とセックスを切り離し、前者を善、後者を悪として果てしなく断罪します。そうして「オカマ」はつねにセックスにくっついているもので、愛には関係のないヘンタイと見なされるのです。悪名高いこの教会の件はあまりに極端な例ですが、宗教原理主義というのはどこの宗派でも似たり寄ったりです。
*愛も性も同じもの
マンハッタンから北北東に70kmほど行ったウエストチェスター郡にベッドフォードという田舎町があります。そこを通る州間高速道路の男子公衆便所で10月、男性警官を使った痴漢や公然猥褻のおとり捜査が行われました。1か月間で検挙されたのは計20人の男性。みなゲイかと思いきや、カトリック司祭(44)と10年前に少年を性的に虐待して前科のある男(29)以外の18人はみな結婚していました。なかには近隣地区のロータリークラブの会長さん(47)までいて、彼は性器露出と徘徊容疑で逮捕されています。
彼らの恋愛と結婚生活はいったい何だったのでしょう。もちろんクローゼットであるひともいるのでしょうが、自分をストレートだと考えるひとは、愛とセックスとは別物だと考えているのかもしれません。そうすれば同性相手の性行為という齟齬も乗り切れる。愛や家庭は美しいままに取っておけるとでも思っているかのように。でも、愛もセックスもともに性欲から発した同じものです。
*愛とは人を殺せる力
性欲はべつに恥ずかしいものでもなんでもありません。人間活動の原エネルギーの大半は性衝動なのですし、もともと生物なんて、はるかのちに生殖欲と名付けるようになる、単なるタンパク質の泡と泡との物理的なくっつき合いみたいなところから始まってるんですから。
ちなみに、性欲が創り出した神話は「愛」だけではありません。「情」というのもあります。「好きだ」「愛してる」という熱い感情はいつか日常の生温さに取り込まれていきます。そこで登場するのは、室温でも生きられる「情」という関係です。しばしばそれは「愛はなくなったのに腐れ縁で続いてるんですわ」みたいなことにもなるけれど。
ところが、ひとはときに、愛だけではなく、その情にさえも裏切られることがあります。これは愛よりもっとつらいかもしれません。
愛とか情とかいうのにはいろんな定義があるけれど、そう考えるとほんと、愛とは簡単にひとを殺せる能力のことをいうんだなあと思ったりします。これは神話的な定義ではありません。
どうしてひとを簡単に殺せる能力なのか。愛と憎しみとか、愛したがゆえの復讐とか、そういう常套句に関連する連想ではなくて。
ひとを好きになる。愛していると思うようになる。身も世もないほどに思い焦がれるようになる。そんなとき、その愛するひとから一言でも冷酷な言葉を発せられると、こちらは簡単に死んでしまう……そんなことはふつうなら起きません。でも、ひとを愛しているときにはそのひとは簡単に死んでしまうのです。そのひとの中のなにかがかくじつに死ぬのです。不思議ですよね。
だから、愛しているひとにはやさしくしなくちゃならないんですよ。そうじゃないと簡単に死んじゃうからね。
*愛は負けるけど…
ヴォネガットさん、今年鬼籍に入ってしまった……
ことし4月に、カート・ヴォネガットというアメリカの作家が亡くなりました。いまでは世界的な人気を博している村上春樹が、その処女作『風の歌を聴け』で文体をそっくり拝借してきた、誰もが知るすごい作家です。
そのヴォネガットも神話ではない「愛」を定義しています。それは「愛は負けるが親切は勝つ」というものです。これも私の座右の銘です。
解釈はいろいろ考えられます。それがわかるようになったらしめたものです。そう、たしかに性欲は勝ち負けかもしれません。対して親切は性欲じゃないから、みんながみんないつも勝っていてよいのです。ってか、勝ち負けにこだわるから愛はダメなんだって言ってるみたいでもある。
ちょっとさみしいけれど、いい言葉じゃないですか。
(了)