2007-12しらかば診療所、スタート
◎2007年、画期的なLGBTのクリニックが新宿に開設した。ぼくらにもやっとふだん使いのドクターができた。
*その名は「しらかば診療所」
井戸田一朗先生
イトちゃんと知り合った当初、彼はたしか都立駒込病院の内科医で、それから東京女子医大に移って自分のことを「女医さん」だなんて呼んだりするポップなお医者さんだった。でもそのころから彼はすでにAGPという医療関連のゲイの専門家団体の中心人物の1人で、いつかはゲイの患者さんたちが気兼ねなく訪れられるゲイ向けのクリニックを作りたいと話してくれていた。それを聞きながら、ぼくは彼をじつに頼もしい新時代のプロフェッショナルだなと思っていた。
そのイトちゃんこと井戸田一朗さん(37)が昨年秋、それを現実のものにした。「しらかば診療所」というのが東京・新宿の曙橋に新設のそのクリニックの名前である。感染症内科の専門家でWHO(世界保健機関)の仕事で南太平洋15カ国を担当したこともある院長の井戸田さんが常勤で内科全般を担当する。もちろんSTD(性感染症)やHIVの検査・相談もできる。感染が判明した場合でもここでスタッフ一丸の継続診療が可能だ。
気分が重かったり不安が消えなかったりといったメンタルな問題に対応する精神科や、日ごろ気になる皮膚のトラブルなどを解決する形成外科・皮膚科の先生もAGP経由で非常勤でやってきてくれる。アレルギーなど慢性病の対応もできる。
*ふだんづかいのお医者さん
お医者さんというのは病気になったときだけでなく、じつは日常的に付き合うのがいちばんいい。年に1度は歯が痛くなくても歯医者さんに行ってチェックがてら歯石を取ってもらうみたいに、ふだんから健康診断でちょいと顔を出すみたいなことがいま注目の「予防医療」の基本だ。インフルエンザやA・B型肝炎のワクチン接種、海外旅行前の健康相談だとか、「しらかば診療所」をそういうふだん使いのホームクリニックにしちゃえばいい。1人暮らしが多く、病院に縁のない人がほとんどだろうから、そんなときにも「しらかば」である。
ここは月・火は休診だが、代わりに働いている人が受診しやすいようにと土・日にオープンする。それも夕方5時までやっている。平日の水・木・金は夜9時という遅い時間まで開いている。地方の人も、出張や遊びで東京にやってきたときにこの診療所に来て「地元じゃちょっと」というSTDやHIVの検査を受けたりするのもありだと思う。
*手本となった医療センター
こういうクリニックは世界的にもまだめずらしい画期的なことだ。
じつは米国にはこの「しらかば診療所」にインスパイアした「フェンウェイ・コミュニティ・ヘルスセンター」という非営利の医療センターがボストンにある。1971年にノースイースタン大学の医学生たちが週に1度のボランティア診察所として開いた同センターは、当初から地区のゲイや低所得者、高齢者層への平等な医療機会を目指して活動していた。当時の診察料は「50セントもしくはあなたが払えるだけ」。その後、ここは米国のエイズ保健医療の最前線の1つとなった。いまもLGBTと地域住民に特化した保健医療サービスを提供している。
井戸田さんたちAGPのメンバーが身銭を切って日本からここを視察にきたのは2000年のことだった。ニューヨークでアジア系のエイズ支援団体APICHAなども視察した。このとき、彼らは日本でもLGBTのための診療所を作ろうと決心した。当時30歳前後だった彼らのその熱意と使命感は、いったいどこから来たものだったのだろう。
*逡巡、立ちはだかる問題
ところがその後、井戸田さんは03年から05年春まで前述のWHOの仕事を得て結核や感染症対策でフィジーやフィリピンなどを飛び回る生活に入った。ゲイのクリニック構想はいったん遠ざかる。不安もあった。経営は成り立つのか。そもそも、自分が貢献したいと思いを寄せる日本のゲイ・コミュニティはそんな診療所を必要としているのだろうか。関心すらないのではないか。
WHOの仕事は多忙を極めながらも日々新しく刺激的だった。「このままWHOにいちゃおうかなと思ったこともあった」と彼は言う。04年夏のベトナム出張のとき、AGPの代表である精神科医の平田俊明さんらに「すごく迷っている」とメールを打ったこともあった。そんなとき、平田代表は「やろうよ」と静かに背中を押してくれた。WHOでともに働くストレートのオーストラリア人の同僚も「その計画は素晴らしい」と賞賛してくれた。逡巡には「WHOにはいつでも帰ってこれるんだから」と言ってくれた。
帰国後、女子医大に復帰して2年、井戸田さんたちは構想を順々に具体化させていく。資金は自己出資も含め半分以上をAGPなどの身内で調達した。だが問題もまた次々と現れた。中野区に決まりかけた物件が大家の都合で直前でキャンセルになった。予定していた看護師が不意に失踪した。夜の9時まで診療することを売りにすると決めたがそんな時間までやっている調剤薬局がなかった……。
*救いの神は人との縁
中野区の物件はダメだったが、禍い転じてより便利な曙橋に空きスペースが見つかった。親しくなった横浜・かながわレインボーセンターSHIPのシンジさんが建築士でもあり、候補物件ごとに何枚もいとわず設計図面を描いてくれた。失踪看護師の代わりにすぐに経験ある男性看護師(40)が見つかった。経理もできる優秀なホテルフロントマン村上太吾さん(34)をAGPの仲間経由で事務長として雇い入れられることが決まり、医療事務学校での研修の後、これも同じAGPの仲間の人脈で、実地で1年間修行できる別の医院を紹介してもらえた。調剤薬局は偶然、3年前に構想を話したことのある医療関連企業の営業担当者から「その後どうですか」とお伺いメールが届き、じつは困っていると打ち明けると精力的に地域の薬局を当たってくれた。そこである一般薬局チェーンが新たに調剤分野にも業務を拡大し、しかも夜9時診療にも対応してくれることになった。問題は不思議なくらいトントン拍子で解決していった。ただしそのいずれもが開院まで3カ月間のギリギリの綱渡り。ストレートの人たちも含め、人間のネットワークというものがこれほど有り難かったことはない。
明るく居心地のよい「しらかば診療所」の受け付けホール
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日本のLGBTで30歳代後半、40歳前後の人たちの頑張りが目につく昨今だ。ゲイのオンラインビジネスの先駆者で昨年亡くなった春日亮二さんもイトちゃんと同じ年だった。生々流転。頑張りはやがて次の世代へとつながってゆく。
「しらかば診療所」とは同世代のライター・編集者である永易至文さん(41)がかつてAGPに発した言葉から命名された。「理想を語るだけでなにもできなかった文壇の白樺派みたいなもんかな」。ともに頑張っている仲間同士でのみ通用する挑発。だから、これはイトちゃんたちの意地の名前でもある。
(了)