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January 19, 2010

2007-07尾辻選挙の衝撃

◎38,229人──101,230,000人の0.000377%
 この数字の持つ意味の衝撃を考えてみようか


*先輩ジャーナリストからの問いかけ

 3万8229人。
 これが私たちの姿です、と書いて、いや、違うか、とも思います。
 日本には20歳以上の有権者がいまぜんぶで1億123万人います。3万8229人というのはその中の0・000377%。これが先の参院選比例区で「尾辻かな子」に投票した人の総数です。
 日本の同性愛者の総数というのはどのくらいいるのでしょうか。日本は総人口が1億2700万人くらいです。一般に、どの国でも同性愛者の割合は4~5%といわれているので、600万人程度でしょうかね。参院選を前に、報道各社はしかし、さらに少なく見積もって200万人と見ていたようです。日本の人口の2%弱。ふーん、そんなもんかねとも思いますが、ここではそれは問いません。
 で、3万8229票です。この数字は報道側にも意外でした。仮に200万人としてもその1・9%しか「尾辻かな子」と書かなかった。いえ、彼女に投票したのはべつに同性愛者だけではないでしょうから実数はさらに少なくなる。
 日本の同性愛者の100人に1人かそこらしか同じ同性愛者の候補に投票しない。これは予想外という以上に、きみにとってはむしろ愕然とする数字ではないか、と先輩ジャーナリストに言われました。いったいこの数字を、報道はどう捉えればよいのだろうか? 日本の同性愛者たちはいまのままで満足なのか? そんなはずはないだろうに、これは現代の被差別少数者の政治行動としては実に特異なものとして見える||と言うのですね。
 私のほうが恐縮してしまうような彼の意見なのですが、そうですね、3万8229票というのは確かに愕然ともする数字。その指摘はいちいちもっともです。
 でもね、こういうのは歴史が示してもいることなのです。いまでこそアメリカの大統領選挙や中間選挙では出口調査で4%とかの人たちが誇らしげに自分はゲイだと明かしたりもしますが、あのハーヴィー・ミルクが77年にサンフランシスコの市政執行委員(日本でいう市会議員と助役の中間みたいな役職です)に当選したのは、73年と75年の同選挙での2回の落選、さらには州議会議員選にも落選した後の、4回目の選挙戦でやっとだったのです。

*カムアウト!を叫ぶ耳障りな連呼の効用

 アメリカでもゲイたちが政治活動を活発化させるようになったのはそのハーヴィー・ミルク本人がみんなに「カムアウト! カムアウト!」と叫び上げた70年代末からなのです。暴言を承知で言えば、とにかくカミングアウトを徹底させなければ選挙になんか勝てっこない。
 なぜならカムアウトしなければゲイのことについてなんか考えられないからです。ゲイという存在が負わされている社会的な抑圧とか差別とかを、自分と結びつけて考えることなどもってのほかだからです。なぜならそうでないとクローゼットでいられないからです。考えたらクローゼットでいる自分が矛盾してしまって出口を求めてしまうからです。
 こうして「クローゼットだから考えない」「考えないからクローゼットでいられる」という、論理の入口と出口の両方でもってがっちりとカギがかけられてしまうのです。だからその呪縛を解こうとミルクは「カムアウト! カムアウト!」と逆の呪文で対抗したのです。クローゼットたちには、これはじつに耳障りな連呼だったでしょうね。
 日本で、そういうカミングアウトの呼び掛けがかつてあったか? カミングアウトは日本のゲイたちのあいだで運動になったか?
 なっていないと思います。
 運動になる前に、どうにか個人的なレベルでごまかすことができるようになった。それを補強したのは「日本のゲイにはカミングアウトという西洋的なやり方は合わない」といった相変わらずの「日本特殊論」でした。なににつけても片をつけずに曖昧にやり過ごしていくうちに時代が進みました。そうしてインターネット経由で性の欲望はある程度満たされるようにもなった。だとしたら、選挙で動く必要などとりあえずはそう切実ではありません。

*拒絶反応の抱えるバイアスの正体

 ところでその選挙というのは西洋的な政治制度です。議会制民主主義というのも西洋です。現代社会のシステムは西洋主義で動いています。西洋的な選挙は西洋的なカミングアウトによって支えられている。いえ、このカミングアウトは同性愛者たちのカミングアウトではなく、旗幟を鮮明にするという意味での広義のカミングアウトです。
 冒頭に「これが私たちの姿です」という命題を建てました。しかしそもそも「私たち」とはだれなのか? 同性愛者だからといって十把一絡げにしないでほしい、というのはもっともです。同性愛者だからといって「尾辻かな子」に投票しなければならない理由なんか1つもない、と。
 そんなことは知ってます。
 「尾辻かな子」は報道各社のあいだでも「タマは悪くはない」というのがだいたい一致した意見でした。大阪府議の経歴、政治主張のスジの通り方、礼儀作法や立ち振る舞い、そのいずれもが一定の評価を受けていました。懸念は「ホモたちってレズはどうなの?」(某紙デスク)とか「一部ゲイのエリートの運動になりすぎてはいないか?」(某紙論説委員)といったことぐらいでした。
 つまり、ごく常識的に考えるともっと票が出てきてもよいはずだった。それが出てこなかったのは「同性愛者だからといって十把一絡げにしないでほしい」「同性愛者だからといって尾辻に投票しなければならない理由なんか1つもない」という同性愛者の拒絶反応自体にこそ、なんらかのバイアスがかかっている、ということの証拠ではないのか、ということです。
 もちろん特定の他候補への強い思い入れがあって「尾辻」に投票しなかった人も多いでしょうが、それ以上に多くはまぎれもなくクローゼットの心理そのものです。そこには社会性も、見知らぬ者たちへの想像力も、未来への志もありません。
 全国で3万8229人という「愕然とする数字」は、カミングアウトをないがしろにしてきた、そのしっぺ返しでもあるでしょう。これは今後の政治やマーケティングの世界で誤った情報を与えてしまう恐れすらあります。悪影響はしばらく続くかもしれません。こうした外部からの見方には根気よく、むしろ残り99%の部分の潜在人口を示していくしかないのだと思います。
 そのとき、3万8229人は愕然とする数字じゃなくなります。むしろ残りの500万人という数字の衝撃性にこそ社会は愕然とする。3万8229人は、そのための素晴らしい起爆剤なのだと思います。
 それが、私たちの姿です。
(了)

2007-07尾辻選挙の衝撃

◎38,229人──101,230,000人の0.000377%
 この数字の持つ意味の衝撃を考えてみようか


*先輩ジャーナリストからの問いかけ

 3万8229人。
 これが私たちの姿です、と書いて、いや、違うか、とも思います。
 日本には20歳以上の有権者がいまぜんぶで1億123万人います。3万8229人というのはその中の0・000377%。これが先の参院選比例区で「尾辻かな子」に投票した人の総数です。
 日本の同性愛者の総数というのはどのくらいいるのでしょうか。日本は総人口が1億2700万人くらいです。一般に、どの国でも同性愛者の割合は4~5%といわれているので、600万人程度でしょうかね。参院選を前に、報道各社はしかし、さらに少なく見積もって200万人と見ていたようです。日本の人口の2%弱。ふーん、そんなもんかねとも思いますが、ここではそれは問いません。
 で、3万8229票です。この数字は報道側にも意外でした。仮に200万人としてもその1・9%しか「尾辻かな子」と書かなかった。いえ、彼女に投票したのはべつに同性愛者だけではないでしょうから実数はさらに少なくなる。
 日本の同性愛者の100人に1人かそこらしか同じ同性愛者の候補に投票しない。これは予想外という以上に、きみにとってはむしろ愕然とする数字ではないか、と先輩ジャーナリストに言われました。いったいこの数字を、報道はどう捉えればよいのだろうか? 日本の同性愛者たちはいまのままで満足なのか? そんなはずはないだろうに、これは現代の被差別少数者の政治行動としては実に特異なものとして見える||と言うのですね。
 私のほうが恐縮してしまうような彼の意見なのですが、そうですね、3万8229票というのは確かに愕然ともする数字。その指摘はいちいちもっともです。
 でもね、こういうのは歴史が示してもいることなのです。いまでこそアメリカの大統領選挙や中間選挙では出口調査で4%とかの人たちが誇らしげに自分はゲイだと明かしたりもしますが、あのハーヴィー・ミルクが77年にサンフランシスコの市政執行委員(日本でいう市会議員と助役の中間みたいな役職です)に当選したのは、73年と75年の同選挙での2回の落選、さらには州議会議員選にも落選した後の、4回目の選挙戦でやっとだったのです。

*カムアウト!を叫ぶ耳障りな連呼の効用

 アメリカでもゲイたちが政治活動を活発化させるようになったのはそのハーヴィー・ミルク本人がみんなに「カムアウト! カムアウト!」と叫び上げた70年代末からなのです。暴言を承知で言えば、とにかくカミングアウトを徹底させなければ選挙になんか勝てっこない。
 なぜならカムアウトしなければゲイのことについてなんか考えられないからです。ゲイという存在が負わされている社会的な抑圧とか差別とかを、自分と結びつけて考えることなどもってのほかだからです。なぜならそうでないとクローゼットでいられないからです。考えたらクローゼットでいる自分が矛盾してしまって出口を求めてしまうからです。
 こうして「クローゼットだから考えない」「考えないからクローゼットでいられる」という、論理の入口と出口の両方でもってがっちりとカギがかけられてしまうのです。だからその呪縛を解こうとミルクは「カムアウト! カムアウト!」と逆の呪文で対抗したのです。クローゼットたちには、これはじつに耳障りな連呼だったでしょうね。
 日本で、そういうカミングアウトの呼び掛けがかつてあったか? カミングアウトは日本のゲイたちのあいだで運動になったか?
 なっていないと思います。
 運動になる前に、どうにか個人的なレベルでごまかすことができるようになった。それを補強したのは「日本のゲイにはカミングアウトという西洋的なやり方は合わない」といった相変わらずの「日本特殊論」でした。なににつけても片をつけずに曖昧にやり過ごしていくうちに時代が進みました。そうしてインターネット経由で性の欲望はある程度満たされるようにもなった。だとしたら、選挙で動く必要などとりあえずはそう切実ではありません。

*拒絶反応の抱えるバイアスの正体

 ところでその選挙というのは西洋的な政治制度です。議会制民主主義というのも西洋です。現代社会のシステムは西洋主義で動いています。西洋的な選挙は西洋的なカミングアウトによって支えられている。いえ、このカミングアウトは同性愛者たちのカミングアウトではなく、旗幟を鮮明にするという意味での広義のカミングアウトです。
 冒頭に「これが私たちの姿です」という命題を建てました。しかしそもそも「私たち」とはだれなのか? 同性愛者だからといって十把一絡げにしないでほしい、というのはもっともです。同性愛者だからといって「尾辻かな子」に投票しなければならない理由なんか1つもない、と。
 そんなことは知ってます。
 「尾辻かな子」は報道各社のあいだでも「タマは悪くはない」というのがだいたい一致した意見でした。大阪府議の経歴、政治主張のスジの通り方、礼儀作法や立ち振る舞い、そのいずれもが一定の評価を受けていました。懸念は「ホモたちってレズはどうなの?」(某紙デスク)とか「一部ゲイのエリートの運動になりすぎてはいないか?」(某紙論説委員)といったことぐらいでした。
 つまり、ごく常識的に考えるともっと票が出てきてもよいはずだった。それが出てこなかったのは「同性愛者だからといって十把一絡げにしないでほしい」「同性愛者だからといって尾辻に投票しなければならない理由なんか1つもない」という同性愛者の拒絶反応自体にこそ、なんらかのバイアスがかかっている、ということの証拠ではないのか、ということです。
 もちろん特定の他候補への強い思い入れがあって「尾辻」に投票しなかった人も多いでしょうが、それ以上に多くはまぎれもなくクローゼットの心理そのものです。そこには社会性も、見知らぬ者たちへの想像力も、未来への志もありません。
 全国で3万8229人という「愕然とする数字」は、カミングアウトをないがしろにしてきた、そのしっぺ返しでもあるでしょう。これは今後の政治やマーケティングの世界で誤った情報を与えてしまう恐れすらあります。悪影響はしばらく続くかもしれません。こうした外部からの見方には根気よく、むしろ残り99%の部分の潜在人口を示していくしかないのだと思います。
 そのとき、3万8229人は愕然とする数字じゃなくなります。むしろ残りの500万人という数字の衝撃性にこそ社会は愕然とする。3万8229人は、そのための素晴らしい起爆剤なのだと思います。
 それが、私たちの姿です。
(了)

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